律法から福音へ - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

律法から福音へ
新約単篇
ローマ書の福音
律法から福音へ
ローマ 3:28
今年のテーマ「ユダヤ教からキリスト教へ」によるシリーズの最後のスピ
ーチです。「律法から福音へ」
「律法」という熟語は、国語にも漢文にも元は無かったものです。「法律」
は辞書にありましたが、それをサカサマにした「律法」はありませんでした。
多分あれは中国人が聖書を中国語に訳したとき、どうしても「法」や「法律」
で表せない聖書の思想を表現するのに、ヒックリ返して、“lü4fa3”―律
法という新しい熟語をこしらえたのを、我々日本人は流用させて頂いている
のです。
いったい、何が表現できなかったのかと言いますと、第一に、生ける聖な
る神から聖書の民に対して、「あなたがたは聖であれ。この私が聖であるか
ら」(レビ 19:2)と言って与えられたような、そんな「法」は、それまで
の漢字の組み合わせでは表しようがなかったのと、それに、これは今からお
話しするテーマと関わりがあるのですが、「律法の道」と言いますか……、
この聖なる神から与えられた「法」を守り抜いて、神様から「宜しい。お前
は私の前に正しい者だ」と言って頂くような……また、それができるか、で
きないかで、生き死にが決まるようなチャレンジと、それに応える戦い……
そんな、使徒パウロがユダヤ人の宗教に見抜いたような道を、「神の法」を
表すと同じ単語で表すのが不可能だったからです。こうして、聖書の思想専
用の熟語「律法」が作られました。この点、自国語の「ノモス」を流
用して事を済ませたギリシャ人より、頭を使っております。
イスラエル人の発想とか、ユダヤ宗教の思想と言いますと、今では、ご存
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じのベンダサン氏やトケイヤー氏の本だけでなく、随分たくさんの人の著書
が日本語に訳されて、好奇心も手伝って広く読まれております。皆さんの中
にも、既に何冊かお読みになった方もいらっしゃるかも知れません。今日、
わたしはそういう本の紹介をしようとは思いません。今日は、もっと身近な
所で私自身の経験から、私がユダヤ人の生きた見本とぶつかった話―英国
航空 BOAC の機内で乗り合わせた話から、始めることにいたしましょう。こ
の方は「イスラエル人」でした……というと、シャミルさんと同じ国籍のこ
とになりますが、この方を育てた文化や宗教的背景や、それに彼の物の考え
方まで入れて定義しますと、彼は「ユダヤ人」でした、と言わねばなりませ
ん。
28 年も前の飛行機の中の出来事と言いますと、普通はそんなに記憶がはっ
きりしているものではありません。でも私には何故か、その日の機内での出
会いが、今も忘れられないで、心に引っ掛かっております。私はテルアビー
ブに向かう英国航空(その時は BEA でした)のジェット機の中で、一人の
ユダヤ人と隣合わせに座ったのです。1963 年 4 月 30 日のことでした。こん
な古い話を御紹介できますのは、家内に書き送った日記に記録が残っている
からで、確かな資料に基づいて話しております。
私の心に引っ掛かる理由の一つは、これはつまらないことですが、そのと
き乗ったジェットの機種のせいもあります。コメット 4C という、当時とし
ては大型のジェット機で、その頃の国際線では DC8 と競い合っておりまし
た。この機種は連続空中爆発の事故で有名になりました。確かしばらく運行
停止して、精密なテストを繰り返した結果、この飛行機は構造上の欠陥があ
って、圧力が急激に変わると機体が破裂することが分かったのです。すでに
根本的に改造されて使われていましたから、私が乗ったものはもちろん破裂
しないでテルアビーブに着きました。今から考えると、ちょっと変わったス
タイルの飛行機でして、よくアメリカ空軍の三角翼の爆撃機などにあります
ように、四つのエンジンが主翼の中にスッポリ入っていて、主翼がすごく厚
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みがあるんです。窓から覗くと、ダグラスやボーイングみたい薄く細くなっ
た翼端がユサユサ揺れるようなのじゃなく、巨大な軍艦の甲板のようにドッ
シリして見えました。これは話の本筋とはあまり関係はありません。(「時
間つぶすな。本筋に戻れ!」)
さて、コメットが離陸して“FASTEN YOUR SEATBELT”のライトが消
えると、隣の年配の紳士が、「イスラエルへは初めての旅行ですか?」と英
語で問い掛けてきました。「はい、そうです。」「どれくらい滞在するの…
…?」「三日間しかないんです。エルサレムとガリラヤ湖だけでも見て行き
たいのですが……。」僕はそのとき、弱冠 35 才。
「あなたはイスラエル人ですか?」「そう。私はテルアビーブ市内に住ん
でいますよ。」そこで、勇気を奮い起こして、「シャローム・アドン。アニ
ー・ロメード・イヴリート・メアト・メオード」.da{m.
j[;m. tyrib.[i dmewOl ynIa]
(ほんのちょっとですけれど、今ヘブライ語を学んでいます。)つっかかり、
つっかかり、知ってる限りの単語を並べてみました。「芸は身を助く。」こ
の御愛嬌で、そのプラスチック会社の社長さん、レーヴさんと心が通じまし
て……。そう言えば、ヘブライ語の「レーヴ」は「心臓、心」ですから、レ
ーヴさんの名前は英語で言うと Mr.“Heart”です。心が通じた筈ですね。
先方も喜んで下さいまして、私がガリラヤのツアーから帰り次第家に来るよ
うにという招待を頂きました。
三日目の夕刻、そのレーヴさんのお宅を訪ねました。アブラハムの妻サラ
もかくやと思わせる美しさと気品を持ち、背の高い大柄な奥様は、私が家族
持ちであることを知ると、「じゃ、これを Mrs.Oda に差し上げましょう」と
おっしゃって、身に着けておられた首飾り……というより、首から鎖で胸に
釣った胸飾りの円盤を鎖ごと外して、私に下さいました。オリンピックの銅
メダルより一回り大きいようなジャンボメダルをラッカーで仕上げたその胸
飾りには、豪快な鎖が付いていました。カリン糖くらいの大きさの真鋳の棒
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を連結した鎖です。私の目には、小型の銅鍋を起重機のチェンで吊ったよう
に見えました。家内が首に掛ければ、重さでつんのめりそうに思えましたが、
まずは礼儀ですから、「トダー・ラバー」(“Thank you very much.”)と
申し上げました。
話は主にレーヴさんと私の二人の間で交わされました。「日本人のあなた
が、どうして、ナザレのイエスなど信じたのです?」とレーヴさんは不思議
そうに尋ねました。「結局、私の罪と死の問題です。イエス・キリストの血
の力にだけ、私の罪の贖いと命の希望を見いだしたからです」と言うと、「信
じられない」とでも言うように首を振って、「神はトラー(律法)を私たち
にお与えになって、それを守る人を生かしてくださる道を、ちゃんと準備し
ていらっしゃるのですよ。各人なりに、真面目に務めを果たせば「正しい者」
(ツァディーク)として受け入れてくださるのに、どうしてそれほど、罪の
赦しということにこだわるのですか。」
私はそのとき、「同じイスラエルでも、タルソのパウロとは大分考え方が
違うな」と感じながら、「レーヴさんは、神に義人として認めて頂いている
と確信なさるのに、たとえばどんな務めを果たされるのですか?」と聞いて
みました。レーヴさんはちょっと困ったような顔をして、「私は決して模範
的なユダヤ人ではないが」と断ってから、「例えば安息日(シャバート)に
は、私たちの会堂(ベト・クネセト)へ行って、律法の朗読を聞きますし、
自分にできるかぎり正しく生きるように努めています。定められた祝祭日も、
家族と一緒に守りますよ。そう……プリムの祭りやペサハの祭り、それにス
コットの祭り、ハヌカの祭りなど、我々の神が命じておられるつとめを一つ
一つ真面目に果たしています。こういう真面目な努力を神の前に果たしてい
るかぎり、織田さんのように無理に自分を追い詰める必要は無いし、死んだ
ナザレのイエスをまるで神御自身のように崇める必要もないのじゃありませ
んか。」
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私は、それまで使徒パウロのローマ書やガラテヤ書で読んだものとあまり
違うのに驚きながら、「でも、本当にその『あなたも聖であれ』という神様
の御命令を額面どおりに受け止めて、心の奥底までその光を当てて、そこに
汚れと腐れは無いか……形だけではなく芯まで聖になっているか……という
所までつきつめて受け止めたら、『ああ、私という存在は罪以外の何もので
もない』というところへ行き着きはしませんか?」と尋ねてみました。レー
ヴさんは、不思議そうに私の顔を見詰めて、「織田さん、あなたの言うその
『罪』というのは何なんです?」と言われました。
私たちは、そこから話題を変えました。その先はもう、私たち二人の接点
が無いということに気づいたからです。私には非常にショックでした。銅メ
ダルの大きさもカリン糖の鎖も、たいした違いとは思わなくなりました。そ
れは単に、日本の婦人とユダヤ婦人の体格の相違です。しかしこれは、タル
ソのパウロとファリサイ派との違い位に食い違っていて、どうにも調整のし
ようは無いと思えました。「私の中には罪が巣を作っている」と言ったパウ
ロは病気だったのか……。「私は売り渡されて罪の奴隷にされてしまった。
私の体は死体と変わらない。キリストだけがここから救い出してくださる」
と言ったパウロは、異常だったのか……。レーヴさんの言葉を借りるなら、
そこまで自分を追い詰めて十字架へ行くことはないのか……。
私は本で読んだマルチン・ルターのことも考えました。彼は自分の罪を悲
しんで祈りながら、ついに気を失って倒れているところを仲間の修道士に発
見されたというのです。「私が聖である以上、あなたも聖であれ」という神
の律法は、レーヴさんの言われるように、「私は一応、私なりに律法の務め
を果たしているから、神も御不満は無いはず」という具合に割り切れるもの
か……。イエス様に激しく叱責されたファリサイ派でさえ、もう少し真剣に
悩んだのではないか……。
その時です……私がある一つの事に気づいたのは。―聖なる神の律法の
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前に己の罪を知らされて死ぬほど苦しむことと、自分は特定の手続きを踏ん
で一応の成績をおさめているから神もお認めになるはず……という安易さと
は、結局同じことではないのか! 人は、どうしてもキリストを仰ぎたくない
とき、キリストの清い血の贖いをタダで“受ける”のは自分の肉の自尊心が
許さないという時には、意地でも自分の点数で勝負をしたいのです。それは
どちらの場合も、「この私の清さの度合いはどこまでのものか」「神の前に
私は、外の人たちと違ってどれだけ真面目に点数を上げているか」を問題に
しているからです。そのとき人は、信仰でイエスを仰ぐことを絶対拒否して、
「律法」という土俵に上がるのです。
ローマ書の 9 章と 10 章の言葉が、私にはっきりと意味を持つようになった
のは、この時からでした。聖書をお持ちの方はどうぞローマ書の 9 章の終わ
りから 10 章にかけての所を開いて、御覧になってください。ではまず、9 章
の最後の 10 行ほどのところ―30 節からです。
30.では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しか
も信仰による義を得ました。 31.しかし、イスラエルは義の律法を追い求め
ていたのに、その律法に達しませんでした。 32.なぜですか。イスラエルは、
信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからで
す。彼らはつまずきの石につまずいたのです。
33.「見よ、わたしはシオンに、
つまずきの石、妨げの岩を置く。
これを信じる者は、失望することがない」
と書いてあるとおりです。
「つまずきの石、妨げの岩」は十字架のキリストです。復活して生きてい
るキリストのことです。神様はこのキリストの中に私の贖いの全部をこめて、
「お前はただイエス・キリストを信じて、キリストから受けるだけでよい。
自分を見て悲嘆にくれるな。わが子イエスが与えるものを受けて喜べ」と言
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ってくださるのですけれど、それが我慢ならない。それでイエスが憎かった
のです。次の 10 章も続けて御覧になってください。
1.兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神
に祈っています。2.わたしは彼らが熱心に神につかえていることを証ししま
すが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。3.なぜなら、
神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからで
す。 4.キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義をもたらすた
めに。
最後の「キリストは律法の目標」というところは、何を言おうとするのか
お分かりになりますか。パウロの言葉では、「キリストは律法の“テロス”」
だと言うのですが、“テロス”はここでは「終わり」end の意味に取
るのが正しいと思います。律法で自分の点数を上げて「及第だ」とか、「落
第、絶望だ」と言っていた時代をキリストが終わらせたのです。ここは今度
の新共同訳よりも前の口語訳や新改訳の方が、パウロの意図を汲んでよく訳
していると思います。「キリストは律法を終わらせました。だから、今度は
信じる者が、どんな人でも義とされる時代が来たのです」と、私なら訳した
いところです。「今度は信じる者が」と言いますのは、「律法の道で『掟を
守り切った』人とか、また、それで『死ぬほど悩んで苦闘した』人ではなく
て……」という意味が込めてあるのです。これはすぐ次の 5 節以下で、念を
押すように出てきますから、注意して御覧になってください。
5.モーセは、律法による義について、「掟を守る人が掟によって生きる(の
だ)」と記しています。 6.しかし、信仰による義については、こう述べられ
ています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、
(キリストがせっかく天に上ってくださったのに、「要らんことをしてくれ
るな。わしが自分で上らなんだら記録にならへん」と言って)キリストを引
き降ろすことにほかなりません。 7.また、「『だれが底なしの淵に下るか』
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と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることに
なります。(余分なことしなはった。わしが自分でせなんだら意味がない!)
パウロの痛烈な風刺が感じ取れますか。パウロは人を叩くためにこんなキ
ツイことを言っているのではありません。筆者は悲しいのです。キリストを
憎む人や、キリストに愛想づかしをして去る人を、あまりにもたくさん見た
からです。それがみんな、自分の成績に誇るエリートや、自分の点数にこだ
わって信仰の道に見切りをつける人だからです。では、本当の信仰の態度は、
どう言い表せるでしょうか。それが 8 節以下です。
8 では、何と言われているのだろうか。
「御言葉はあなたの近くにあり、
あなたの口、あなたの心にある。」
これは、わたしたちの宣べ伝えている信仰の言葉なのです。 9.口でイエスは
主であると公言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信
じるなら、あなたは救われるからです。 10.実に、人は心で信じて義とされ、
口で公に言い表して救われるからです。
最後の一句は、手続きや順序を言っているのではありません。ここはパウ
ロのユーモアを読み取れないと、少しも面白くないのです。ここは、趣旨を
汲んで訳すなら、「心を持っている人なら、それを働かせば信じて義を頂け
るし、口を持っている人なら、その口さえ使えば告白して救いに入れていた
だける」となります。パウロが悲しかったのは、その心もあるし口も持って
いる人が、福音を信じないで「自分の義」にこだわって、イエス・キリスト
を憎んだり、キリストに信頼できなかったりするのを見ることでした。それ
は耐えられぬ位にパウロの心を痛めたのです。「自分の資格と実績をいつま
で確かめるのか? 自分の情けなさをいつまで詠嘆しているのか? 心を無駄
に使うな。口を無意味にパクパクさせるな。心は十字架のキリストに全信頼
を置くためにある。口はそれを素直に告白するためにある。信じて、その信
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仰をそのまま言い表しなさい」と、パウロは叫んでいるのです。
最初に司会者が朗読してくださったテキストに戻って来ました。同じロー
マ書の 3 章 28 節です。
「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく信仰によるという、
はっきりした結論を私たちは出した」()
その結論はキリストが復活なさった日に出て、それ以来変わっていないの
です。神の子であるお方が御自分の血で、私やあなたの罪を清めてしまわれ
たから―死んだものを生かす力を、信じるものに注いでくださったからで
す。
《 結 び 》
「律法から福音へ」という主題……ひょっとして、あなたには難しく感じ
られたでしょうか。それは「神学的」な問題で、生きた信仰生活との接点が
無い……ように思えたでしょうか。本当は大有りなのです。その証拠をほん
の少しだけ紹介して終わりましょう。
教会の交わりはもともと喜ばしいものであります。昔十二人の弟子たちが
イエス様と御一緒に食卓についた時と同じように、主の食卓でキリストにお
会いする喜びがあります。それにまた、そこで会う兄弟同志、姉妹同志が、
「あなたもイエス様の復活の命を頂いたのですね。よかった! 私もそうなん
です。」と喜び合えるのが教会の交わりです。その主の日の喜びへの期待が、
どう間違ったのか、喜ばしくも楽しくもなくなって、ただただうっとうしく、
重荷で、苦痛に感じられて、それで去って行った人たちのことを時々思いま
す。何とかして引き留めて、助けて上げたかったのに、私の力ではおよばな
かった、その悲しみです。
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43 年前の 4 月に主を信じて、ここから 20 メートル程の所にあるコンクリ
ートの洗礼槽で、私はバプテスマして頂きました。皆さんと同じ「全身水没」
という形での信頼の服従です。「父と子と聖霊の名によって」と、私を水に
浸けてくださった高藤孝夫さんは、厳かに唱えてくださいました。ここで皆
様に告白をいたしますと(ちょっと恥ずかしいですけれど)、私はその時「思
い違い」をしていまして、あの宣言は高藤さんが「父と子と聖霊」の権威を
帯びてしてくださっているんだとばかり、思っていました。本当はそうじゃ
なくて、私自身が「父と子と聖霊」なる神に服して、その名の下へ入れて頂
いていたのです。ああいう時はむしろ、「織田昭は今、父と子と聖霊の名の
中へ入れていただくのだぞ」とでも言って頂く方が良いのに……と思うので
すが、これは勝手な願いでしょうかね。
ところで、私の心を傷めるのは、この 43 年間に仲間の多くが「律法から福
音へ」とは反対に、「福音から律法へ」くら替えして、苦しんで去って行っ
たことです。イエス様を信じて、福音を喜んでおられると思った友人の多く
がです。
「私は信仰生活を何年やっても落第生で失格だ」と、自分で決めて消えた
人もいます。イエス様が「待て。違う」とおっしゃっても、自分の判断と採
点の方が確かだと、意地を張ったのです。「祈っても病気が治らなかった。
私の信仰は無力だ」と言われた方もあります。「祈って治った」という証し
の弊害……と言ってはいけませんか……。証する人の心無さです。「祈って
聞かれないのは信仰が無いからだ」など、恐ろしいことを言う人もいます。
こういう時に、「律法から福音へ」確実に移っていない人は、たちまち「律
法」の餌食になります。
その上、悪いことに、教会には「熱心主義者」という善意の激励者がよく
いまして、「やればできるんだ」とか「祈ってできないことはない」などと、
平気で言ってくれます。みんな自分と同じ体質の人間だと思い込んで、一生
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懸命励ましてくれますから、勢い傷口は一層深くなります。
教会でのちょっとした失敗や、家庭人としてのカッコ悪さなどが気になっ
て、教会で人に会うのが苦痛になる場合もあります。イエスが御覧になった
ら、「もったいない! 何ということか」と嘆息なさるようなケースです。今
でも思いだしますが、亡くなったハロルド・コールさんが、よく言っておら
れました。「日本人のクリスチャンはもったいないことをする」と……。そ
んな小さな失点や減点(しかも自分で付けた)くらいのことで恵みを無駄に
する人たちを見て、先輩はやり切れぬ思いに駆られたのでしょう。
よくあることですが、すべての点で「完全試合」を達成している(つもり
の)間だけ、「パーフェクトゲーム」を御覧に入れている間だけは安心して
いるけれども、その記録が崩れ始めると俄然不安になるような時は必ず、
「福
音から律法へ」逆戻りしている時です。「自分の家族とさえ意志を通じ会う
ことができない自分」を悲しんだり、「自分の家族も信仰に導けないのは、
私の信仰が駄目だからだ」と、自分に愛想づかしをして、ついでにイエス様
にも愛想づかしをする人もいます。「私は皆さんのお仲間入りできる信者で
はない」と一応謙遜そうに言うのですけれど、本当は、「みんな、私のこと
をそう思っているんだろう。知っているんだから」と拗ねている場合が多い
のです。イエス様が御覧になったら、何とおっしゃるでしょうか。「いった
い、本気でこの私を信じたのか? それとも、『キリストを信じている自分』
を信じたのか?」
すべてこれらは「律法の罠」です。キリストに全面的信頼を寄せられない
ようにしてやろう。キリストよりも「キリストを信じて点数を上げている自
分」を信じさせてやろうと、サタンは躍起になっています。それに乗っては
いけません。私たちは「律法から福音へ」、何度も、何度も帰って来ないと、
平和と喜びを失うのです。使徒パウロがローマ書で教えたことは、決して多
くの人が考えるように“神学的な理論”などではなく、あなたの生き死にに
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拘わる大事なことなのです。
先日、私の母校北京中学の同窓会の雑誌に載せてもらった短い文章に、私
はこんなことを書きました。長い引用はいたしません。たった一行半の短い
言葉です。「イエスという方は、落第点でも優等生と同じ扱いをなさるとい
う、愉快な方である。」
もしあなたが、間違ってほんの少しでも「福音から律法へ」逆戻りして悲
しんでおられたら、いますぐ「律法から福音へ」、「自分からキリストへ」
復帰して、喜びを持って下さい。そしてイエス・キリストへの信頼をもう一
度新たにして、復活の主にお委ねて、神様の時間をたっぷりかけて頂いてく
ださい。主が御業をなさると、断言しておられるのです。(フィリ 1:6)
最後に、これは本当の「蛇足」です。ほんの 1 分足らずの短い蛇足です(お
測りになる必要はありません。自分で測ってきましたから)。“時間をかけ
ろ”などと悠長なことを言うが、もう結論は分かったんだ。私の信仰生涯は
失敗だった。最後まで惨めな落第生だった。あと残りの年数を考慮に入れて
も見込みは変わらない。(「当選確実」というのがありますが)私の場合は
「落選確実」、終わりは見えたと言われますか? 「それでも良い!」と主は
おっしゃるのです。召される間際になって「さすがに変わり映え」した奴と、
召される瞬間まで「変わり映え」しなかったのと両方ひっくるめて面倒を見
ようとおっしゃる。「私の国では、同じように栄光で輝かせよう」とおっし
ゃるのがキリストです。
「律法から福音へ」のお話でした。
(1991/11/04,大阪聖書学院“たねまき会”)
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