露蔓肇雲芋蔓話 至蓋蓋芸至

露蔓肇雲芋蔓
≡そ聖空昼た
▲昭那7・18年ごろ、原町役場前の米の 宅■こ高苗“て
供出のようす。左から5人巨が山崎ハル 、し付は
さん。(写真・山崎さん提供) 左、近じ
七月九日の仙台空襲の三日前だった
そうで、それも大変幸運でした。も
しも八木山の部隊にいたら、焼け野
原になるほどの激しい空襲の仙台で、
大変だったと思います。
■終戦の年の春、Sさん宅に疎開
昭和二十年、終戦の年、原町も米
軍の空襲をうけるようになりました。
私は三人目の子がお腹にいる妊婦で
した。ところが以前からSさんは、
近くに親戚もなく一人娘の私を妹の
ように大変可愛がってくれていて、
﹁大事な体だから、私の家に疎開し
できたら﹂と声をかけてくれました。
本当に有り難いことでした。
早速、原町町内から西へ約五キロ
の山里、石神の深野︵ふこうの︶のS
さん宅に、長女一人を連れて疎開し
告した。本町の家には父母と小学生
■の長男がそのまま残りました。
四月ごろ、荷馬車を頼んで、
回りの家 道具を積み、
原街道
向かい
馬車の後
していま
車で行きまし
予蕪
せた 0ぶ 0線
ん 0私らつ)
で ̄0はなてたガ砂
’十一∴∴.・、
す自 白だは西の身
る転転り荷に大の
∴∴∴∴ ∴.
ときは気が張って
Sさん宅は大きな農家で
の中
は隅々まで心が行き
いて清潔
でした。慶一つなく、畑は雑草の一
本も生えていません。石造少の蔵に
荷物を置き、私と娘は離れの隠居屋
で生活しました。
︵裏面につづく︶
草には乗れ
たにた ̄汚
ま
しろレ芸甲
、届
て
し ヽ
十十.十十㍉∵
夫の再書集モ乳が止夢る
九十年間原町に住んで
夫は昭和十七年に無事日本に戻
私は大正五二九一六︶、年九月十
l目生まれなので、満九十三歳です。
ることができましたが、長女が生
新潟県の白鳥で有名な瓢湖︵ひょうこ︶ まれて六日目に、また召集されて
の水原町︵すいばらまち壷阿賀野市︶に生
しまいます。私はそのショックで
乳が止まってしまいました。商売
は私の父母がやっていたので、な
で、ずっと原町のことを見てきました。
んとかなりました。
もう目が悪くなり文字も書けないの
幸い再召集されても今度は内地
話してみます。
の、しかもゆるやかな県内の部隊
夫のこと
でしたので、本当に幸運でした。
はじめは会津若松の部隊でし
た。その部隊に原町の若いTさん
が初年兵として入隊してきまし
た。同郷ということもあり、夫は
優しくめんどうをみたらしく、戦
後ずっと感謝されていました。
大幡仙台空襲の直前、石巻の部隊へ
会津若松の部隊から湯本の部隊
へ移り、面会に行ったこともあり
ます。さらに別の地に移ることに
なりますが、どこの部隊かは軍の
機密で教えてもらえませんでし
た。でも﹁護仙部隊﹂という連絡
ったので、もしかしたら仙台を
る部隊で仙台付近に移ったので
はと考えていましたが、やはり仙
台の八木山の部隊でした。
しばらくして、石巻の渡波︵わた
のは︶の部隊に移りました。それが
大弾年支和
きが間(十
を当も中年 吾・ミ‥二・
月寸手にめ で
に稽ぎ四中昭
至蓋蓋芸至
守だ
書芸≡
九
▼/l 一ヽ
鍛怒纂応だ宗酢
、、、
てル
くち
原飛雪
家
空町大原現
一㌦∵、:−、
▲被弾した原町国民学校校舎。(写真・さ蒜
斎藤文雄氏提供『原町市史11』より)つに
野が
し
▲原町・本町の油量呉脛店さんの3
階屋上に、やぐらを組んで作られた
防空監視哨。(写真・国分政利氏
提供『原町市史11』より)
空襲の終わるのを祈っていました。
幸い何も被害はありませんでした
が、あとで家の押し入れの所に機銃
が貫通していて、みんなで﹁危なか
ったな﹂と胸をなでおろしました。
座敷に正座して玉音放送を聞く
八月十五日、正午にラジオで重大
放送があるというので、Sさんと二
人で着物に着替え、座敷で正座して
玉音放送を涙ながらに聞き、終戦を
知りました。すぐSさん宅から家に
帰りましたが、疎開できたお陰で、
妊婦でも何事もなく無事、なんとか
元の生活に戻ることが出来ました。
夫も終戦一カ月後に無事復員
夫は戦争が終わっても部隊の後始
末で残り、渡波の海岸で軍旗や書類
などを焼却したそうです。一ケ月後
の九月に無事復員できました。
Sさんの旦那様も終戦の翌年、南
の島から奇跡的に無事に復員でき、
に着いてまっすぐ私の家に
るしヽ
幸三人目の子の男
児
を
出
産
す
ました。すぐにSさん
と、息子さんが喜んで
きてお父さんに抱きついてい
。本当に嬉しかったんですね。
なんてもう絶対してはいけま
子供にも孫にも曾孫たち家族
あんな思いはさせたくありま
そして終戦の年の十二月一日、
る私せにせ ま飛宅来原
こはんもん単覧しんにてノ
と無ワ0、0争たで知休町
=示
らん駅
せで
評言
︵表のページより︶
の皆様には本当にお世話になり、恩
炊事は勿論自分で行い、お風呂は
人として心から感謝しています。
母屋のものをお借りしました。その
∧月十・十一8、原町が空襲去れる
頃珍しいタイル貼りだったような気
昭和二十年八月十日と十一日、原
がします。上がり湯の“おかゆ″も 町が空襲された時、たまたま私は本
付いていて二手拭いは湯櫓には入
町の家に帰っていました。家のすぐ
前の油屋呉服店さんは鉄筋コンクリ
ート造りの三階建で、当時の原町で
Sさんの旦那様は南方の島に出
一番高い建物でした。その屋上に監
いつも心配していまし 視所を作り、米軍の来襲を監視して
は﹁ハルちゃん、
﹁空襲警報﹂を発令していました。
でも私を可愛
でも原町国民学校小学校
なのにお米や 菜の心 第一小学校︶の校舎がやられ、
場の北にも爆弾が落とされ
穴ができました。同時に、原
工場︵国見団地︶も原ノ町駅も
れ、たくさんの人が亡くなりました。
その時私は七カ月の大きなお腹
で、二人の子供とともに、家主さん
の蔵の中に避難しました。夏
厚い蒲団を頭から被っ
」 Sて
戦とさい
時なんて
中ん
配なども全くしないで済みま
遠く東の原町上空に米軍機が
できて空襲があると、﹁ほら、
がやられてる。でもハルちゃんは妊
婦だから火は見ない方がいいね﹂と
心配してくれました。﹁ハルちゃん、
死ぬ時は一緒に死のうね﹂と言い、
私もその覚悟でいました。
Sさんはもう亡くなりました
何年たっても、Sさんはじめ、
れやた征
てん ⊂1し
て
た
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8 葺去書芸 濫
主J 誌 芸 − 7 雲 量 踪
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0 7 1 2 石 田 賢二 T E L 2 2 −4 0 3 7 合 溺
○ 山 崎 健 一 事 務 局 長 T E L 2 2 − 8 6 3 1 (〒9 75−00 14 南 相 馬 市 原 町 区 西 町 3−53 −2 )
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」夢 精 局 員 連 絡 先 (市 外 局 番 T E L O 2 4 4 )
○ 平 田慶 葦 会 長 T E L 2 4 − 1 2 1 1