テーマ特集 : 1400年のフランス > pdf - 919.79 KB

1400年のフランス | ルーヴル美術館
1 sur 1
http://160.92.103.98/llv/dossiers/page_theme_print.jsp?CONTENT<>c...
ホーム > アート図鑑 > テーマ特集
テーマ別特集 :
1400年のフランス
はじめに | シャルル5世 | アンジュー公ルイ1世 | ベリー公ジャン | ブル
ゴーニュ公 | シャルル6世 | 宮廷美術 | 歴史的背景 | 参考文献
美術愛好家の王侯貴族
シャルル6世治下(1380-1422年)、フランスの政治的、経済的な状況は
次第に悪化しつつあったが、王侯貴族の文芸保護を受けて、芸術活動は
あらゆる分野において空前絶後の興隆を見せた。
© R.M.N./J.G. Berizzi
「『百年戦争』という言葉ほど紛らわしい表現はない。この表現からはフラ
ンスが1世紀の間、悲惨で無秩序な状態にあったかのような印象を受け
る。確かに、1348年とその後も続いたペストで無数の死者が出た。1346年
のクレシーの敗北と1356年のポワティエの敗北で王国が屈辱を味わった
のも本当である。それに民衆反乱はヴァロワ家の支配を危機に陥れた。
しかし、1380年に没するシャルル5世の治世には復興が見え、シャルル6
世治下20年以上に渡って、フランスにまず平和と今までにない繁栄の時
期が訪れた。1404年の時点でも、クリスティーヌ・ド・ピザンをして、フラン
ス王国が『これほど豊かで……これほど平和』なことはかつてなかった、と
言わしめた
王国の繁栄を享受したのは、とくにパリである。王宮が巡回していた時代
は、もはや遠い昔のこととなった。パリは国の政治と行政の中心地とし
て、次第に頭角を現してきた。税金が流れ込み、王宮と、王を取り巻くある
程度有力な貴族の数々の館が、この税金によって維持されていた。
こうした王侯貴族たちは揃って浪費家だった。地位を保つためにも浪費せ
ざるをえなかった。彼らは信仰心から、神に、聖母に、聖人たちに出来る
かぎり贅を尽くした寄進を行った。」
ベルナール・ゲネ〔中世史家〕
作者
Elisabeth Taburet, responsable
scientifique.
Isabelle Balandre, Laurence Brosse,
Anne-Laure Ranoux, Marie-Claire Le
Bourdellès, rédacteurs.
© 2005-2011 Musée du Louvre. All rights reserved. | 2011-12-26
26/12/2011 18:48
シャルル5世 | ルーヴル美術館
1 sur 2
http://160.92.103.98/llv/dossiers/page_theme_print.jsp?CONTENT<>c...
ホーム > アート図鑑 > テーマ特集
テーマ別特集 :
1400年のフランス
はじめに | シャルル5世 | アンジュー公ルイ1世 | ベリー公ジャン | ブルゴーニュ公 |
シャルル6世 | 宮廷美術 | 歴史的背景 | 参考文献
シャルル5世
建築に熱心な王
© DR
シャルル5世は、善良で賢明な王という印象を歴史に残している。辣腕の君主であっ
たシャルル5世は、おそらく中世の国王の中でも、美術品に対して最も熱烈な関心を
よせ、最も確かな趣味を示した人物だった。王の文化と芸術分野への貢献のおか
げで、フランスは西欧世界に光を放っている。王は王室の蔵書を著しく充実させた。
思慮深い耽美主義者である王は、宝飾品と彩色写本を収集し、金庫の役割も果た
す宝物室を作り上げた。
先王たちと同様に、シャルル5世も数々の記念建造物を整備させ、建設させ、改修さ
せた。教会や礼拝堂、大小の修道院、城や宮殿、城壁、橋などである。城や宮殿は
権力を象徴的に示す場であり、中にはルーヴル宮やそのほかパリにある館、ライオ
ンの小屋があるサン・ポル館、ヴァンセンヌ城と礼拝堂などが含まれる。こうした大
事業は未完に終わることも多かったうえ、軍事施設や世俗の建築をはじめとしてほ
ぼすべてが失われてしまった。
象徴としての皇帝シャルルマーニュ
資料
年表
地図
ゲーム
1379-1380年の目録には王杖が記載されているが、これはシャルル5世が息子で
ある未来のシャルル6世のために用意し、1380年5月7日にサン・ドニ修道院長へ託
した品々のうちの1つである。
この王杖は1365年のシャルル5世自身の聖別式用に制作され、息子のために手直
しし装飾を加えた可能性もある。
王杖の頂点にある百合の花の上に載せようとシャルル5世が選んだのは、800年に
戴冠され1165年に列聖されたシャルルマーニュである。当時すでに聖シャルルマー
ニュ崇拝は典礼に組み込まれて盛んに行われていたが、そこに政治的な意図によ
る崇拝が加わった。ヴァロワ朝初期の王たちは、この皇帝に正統性を求めたのであ
る。シャルル5世とその息子シャルル6世は、自分たちの神話的な先祖にちなんでカ
ロルスという名を持っていた。カロルスはカロリング朝の名のもとになった王の名
で、2人は自分たちの家系をこの王朝に結びつけたかったのである。少し前にヴァロ
ワ家が王位についてから(1328年フィリップ4世即位)、権力に結びついた美術の新
時代が始まった。
肖像画
西欧では、肖像画は14世紀全体を通じて常に愛好されていた。それ以前は君主の
容貌を重視せず、むしろ権力の表現に重きが置かれていたが、この時代になってか
らは、それが誰なのかわかるよう人物固有の顔つきを写し取ろうとしているようであ
る。
シャルル5世は意思の伝達を重視したため、写本や彫刻など様々な媒体を通して自
分の姿が知れ渡るよう促した。王の伝記作者であるクリスティーヌ・ド・ピザンは次
のような描写を残している。「〔顔は〕やや長く」、「額は大きくて広く」、「鼻は十分高
く」そして「口は小さすぎない」。
王が没すると、3人の弟であるベリー公ジャン、アンジュー公ルイ、フィリップ豪胆公
が、王太子が未成年の間、王国を統治した。1380年、王太子はシャルル6世
(1380-1422年)という名でフランス国王として聖別された。
26/12/2011 18:49
アンジュー公ルイ1世 | ルーヴル美術館
1 sur 1
http://160.92.103.98/llv/dossiers/page_theme_print.jsp?CONTENT<>c...
ホーム > アート図鑑 > テーマ特集
テーマ別特集 :
1400年のフランス
はじめに | シャルル5世 | アンジュー公ルイ1世 | ベリー公ジャン | ブルゴーニュ公 |
シャルル6世 | 宮廷美術 | 歴史的背景 | 参考文献
アンジュー公ルイ1世
アンジュー公ルイ1世
© CNMHS/SPADEM / Caroline Rose
シャルル5世は、ジャン善良王の次男であるアンジュー公ルイ1世に王国の政治を委
ねた。シャルル6世の聖別式ではルイが王室金庫を自分の物にし、摂政団の首位に
ついた。1380年、後継ぎのなかったジャンヌ・ダンジューがナポリ王国をルイに残し
た。そこでルイは南イタリアに関心を移し、フランスを省みなくなった。ルイはフランス
の国庫からかなり浪費した挙句、シャルル5世に託されたようにフランスを治めるこ
ともせず、1384年にバーリで没した。
シャルル5世のほかの兄弟と同様にアンジュー公ルイも、「私的な」特徴をそなえた
美術品の注文主であり保護者だった。こうした作品は日常生活で用いられたり、ま
た構想の上でも実際に行う上でも、次第に私的な傾向を強めた礼拝で使われたりし
た。王家の注文する美術品に影響されて大貴族たちが創作の主導権を引き継いだ
が、政治的な意向が働くだけに彼らの競争心は煽られるのだった。アンジューは公
国に昇格し、会計法院と、歌と音楽を専門に教える教育機関をそなえ、大学の創立
が決まった。壮観なアンジェの黙示録の壁掛けを注文し、シャルル5世治下での物
語を主題とするタペストリーの発展に寄与したのはアンジュー公ルイである。
宝石と金銀細工作品の愛好家ルイ
資料
年表
地図
ゲーム
ジャン善良王の息子たちの中でも、おそらくアンジュー公ルイは、金銀細工作品と宝
飾品の一番熱狂的な愛好家である。そこには飾石の壺、金や銀の宝飾品と食器
類、エマイユをほどこした金銀細工の作品などが含まれる。
1373年に完成したソミュール城の礼拝堂のために、公は「3本の桟で仕切られた」ス
テンドグラスをパリから取り寄せた。実際、品質にこだわる注文主は最高の職人を
呼び寄せることなど厭わないのである。パリは1380年のはるか以前から、そしてス
テンドグラス職人に免税を認めたシャルル6世の治世を通して、ステンドグラスの一
大中心地だった。
公が愛書家だったという印象は薄いが、宝石と金銀細工の作品はおびただしい量
を収集し、いくつもの目録を次々に作成した。1379年頃に作成させた目録からは、
公が作らせた品々の豪華さが伝わってくる。残念ながら公はイタリア遠征のために
これらすべてを売り払ってしまい、難を逃れて残ったのは鏡入れの蓋2点だけであ
る。
© 2005-2011 Musée du Louvre. All rights reserved. | 2011-12-26
26/12/2011 18:49
ベリー公ジャン | ルーヴル美術館
1 sur 2
http://160.92.103.98/llv/dossiers/page_theme_print.jsp?CONTENT<>c...
ホーム > アート図鑑 > テーマ特集
テーマ別特集 :
1400年のフランス
はじめに | シャルル5世 | アンジュー公ルイ1世 | ベリー公ジャン | ブルゴーニュ公 |
シャルル6世 | 宮廷美術 | 歴史的背景 | 参考文献
ベリー公ジャン
美術を愛好し、才能ある職人を見出したベリー公
© Photo RMN / Les frères Chuzeville
ベリー公ジャンは、国王ジャン善良王の息子、シャルル5世の弟、そしてシャルル6世
の叔父として、常に政権の中枢近くにいた。公国は親王封として得たもので、自分
の息子たちにしか残せなかったが、息子たちは公より先に没した。そのため当時と
しては異例の長い生涯の間(1340-1416年)、国王に仕えるほか公が身を立てる術
はなかった。フランス国王にならないかわり、ベリー公ジャンは芸術愛好家となり、当
時随一の収集家となった。公は多種多様な品々を注文、あるいは購入した。コレク
ションには写本、タペストリー、金銀細工作品、宝石類などが含まれる。この驚異的
なコレクションの存在は目録を通して現在まで伝わっており、最も古い目録には1317
点が記載されている。公はパリで直接商人から購入したり、また当代随一の職人に
注文したりしていた。1380年以降、ベリー公ジャンは文芸を保護し才能を見出す役
割を引き受け、宝石類や宝飾品をはじめとして今までにない形の作品を作るよう職
人たちを促した。
カメオと沈み彫の収集家
資料
年表
地図
ゲーム
ベリー公ジャンはシャルル5世と同様カメオと沈み彫の愛好家だった。兄王のコレク
ションには及ばないものの、公も単品のあるいは指輪に仕立てた約30点のカメオの
ほか、聖遺物箱を飾った多数のカメオを所蔵していた。
1402年、ベリー公ジャンは聖ドニの聖遺物と交換に、聖人の腕と頭蓋骨の破片を収
めた銀製の大型聖遺物箱(約60kg)を同修道院へ贈った。ミトラ〔司教冠〕を被った
聖人の半身像が、ベリー公の紋章のついたカズラを着ているものである。全体はベ
リー公の紋章のついた基台に載り、約60点のカメオと沈み彫で飾られていたが、フ
ランス革命の際に解体されてしまった。
当時の例に漏れず、公も「カメオの十字架」をいくつか作らせたが、この種の作品と
しては神聖ローマ皇帝カルレ4世のものであった1点がプラハに現存するのみであ
る。公がブールジュのサント・シャペル用に金銀細工師エルマン・リュイッセルに制
作させた作品は、公の死後に完成している。銀に金鍍金をほどこしたもので、真珠、
宝石およびカメオで飾られていたが、フランス革命の際に解体され、十字架本体は
溶かされてしまった。
こうしたカメオの何点かは、弟公のコレクションに加わる以前はシャルル5世のコレク
ションに含まれていた可能性もある。いくつかは、国王の目録に記述されているもの
と同一だと思われる。
愛書家のベリー公ジャン
ベリー公の蔵書構成はシャルル5世のものに似ているが、知的なこだわりの点では
劣る。公は古典作家の訳書(原語の書物はほとんどなかった)と豪華に装飾された
写本を中心に所蔵していた。1370年代には、公は兄王とほとんど同じような書物に
好みを示していた。シャルル5世が没した際、国王の蔵書から公が選んだものには、
貴重な典礼書、とくにジャン・ピュセルが制作した写本への傾倒が見てとれる。当時
の職人たちを意のままに誘導する術を心得ていた公は、数年後、才能を見出し革
新的な作品の良し悪しを見抜くことにかけては第一人者となる。
彫刻家アンドレ・ボーヌヴーと同様、ヴァランシエンヌ出身のジャックマール・ド・エダ
ンは、生涯を通して公に仕え続けた。《十字架を担うキリスト》は、写本《ベリー公の
大時禱書》に含まれていた全ページ大絵画としては唯一の現存例で、写本から外さ
れて布地に貼り付けてある。大きさと奥行き表現の追求からみて、本作品は真のタ
ブローだと言ってよい。
ジャックマール・ド・エダンからランブール兄弟まで、最高の職人を貪欲に求める中
26/12/2011 18:49
ベリー公ジャン | ルーヴル美術館
2 sur 2
http://160.92.103.98/llv/dossiers/page_theme_print.jsp?CONTENT<>c...
で発揮されたこだわりを通して、ベリー公ジャンは当時の芸術刷新と、パリのノート
ル・ダム大聖堂をはじめとする様々な宗教施設の建設において、ある意味決定的な
貢献をした。
建築熱心なベリー公ジャン
王侯貴族が本当の意味で新しい建築様式を採用したのは、シャルル6世治下のこと
である。シャルル5世がレイモン・デュ・タンプルを招聘し、この人物の広めたゴシッ
ク・レヨナン様式が長い間定着していたとはいえ、ヨーロッパの宮廷がずっと以前か
らゴシック・フランボワイヤン様式を採用していたのに、フランスでこの種の建築が
徐々に現れるのは王の死後やっと、ヴァンセンヌのサント・シャペルからである。
しかしシャルル5世が没するや、ベリー公ジャンは断固として革新的な一派にリオン
にサント・シャペルを建設させ、ポワティエの宮殿を改築させた。
ベリー公ジャンは生涯を通じて建築に熱心だった。公によって注目すべき記念建造
物が建設されたが、現在まで手付かずのまま残るものはほとんどない。公はブール
ジュのサント・シャペルを建設させた。公は旅をすることが多かったため、領地では
「我が家」にいる実感を望んだ。そのためオーヴェルニュ地方のノネット、ポワトゥー
地方のリュジニャン、ベリー地方のジュヌイイ、加えてジアン、モンタルジ、エタンプ、
ドゥルダンにも館を建設した。パリにはネル館とビセットル城を所有し、そのうえブー
ルジュから15kmのメアン・シュル・イエーヴルに素晴らしい城を持っていた。
© 2005-2011 Musée du Louvre. All rights reserved. | 2011-12-26
26/12/2011 18:49
フィリップ豪胆公とジャン無畏公 | ルーヴル美術館
1 sur 2
http://160.92.103.98/llv/dossiers/page_theme_print.jsp?CONTENT<>c...
ホーム > アート図鑑 > テーマ特集
テーマ別特集 :
1400年のフランス
はじめに | シャルル5世 | アンジュー公ルイ1世 | ベリー公ジャン | ブルゴーニュ公 |
シャルル6世 | 宮廷美術 | 歴史的背景 | 参考文献
フィリップ豪胆公とジャン無畏公
フィリップ豪胆公とシャンモル修道院
© DR
フィリップ豪胆公(1342-1404年)は文芸を厚く保護し、公国の権力を強化してブル
ゴーニュを芸術の一大中心地に変貌させた。マルグリット・ド・フランドルとの結婚に
より、早くも1384年に公はフランドル伯領を継承した。建築家、彫刻家、画家、指物
師、鋳造工、ガラス細工職人、瓦職人が、ブルゴーニュ、フランス全国、フランドル、
はてはスペインからもやってきて、ブルゴーニュやフランドル、あるいはパリのブル
ゴーニュ公の館など数々の建設現場で作業に参加した。
ブルゴーニュ公家の墓所となる、ディジョン近郊のシャンモル修道院の建設は、公
の注文の中でも重要な位置を占める。ここでは当初ドルエ・ド・ダマルタンが監督を
務め、西欧美術の重要な一発信地となる。この人物はルーヴル宮を建設したレイモ
ン・ド・タンプルの助手で、ベリー公お抱えの建築家ギー・ド・ダマルタンの兄弟でも
ある。彫刻工房にはとくに北フランスとネーデルラントの職人たちが集合した。ジャ
ン・ド・マルヴィルが1372年から1389年に活躍した後、クラウス・スリューテルが建設
現場全体にその強烈な個性を刻印した。扉口の像とモーセの井戸はスリューテル
の作品である。作業班の中には彼と同じくネーデルラント出身の職人もおり、中でも
甥のクラウス・ド・ヴェルヴは1406年から1439年まで工房の監督を引き継ぐ。公は20
年以上に渡って修道院の建設と装飾、および所領の構成に相当額を注ぎこんだ
が、この所領はフランス革命まで同施設に繁栄をもたらすことになった。
ブルゴーニュ宮廷の写本装飾と絵画
資料
年表
地図
ゲーム
パリでは、ヨーロッパの様々な芸術の中心地との交流が容易だった。職人たちは宮
廷から宮廷へと呼ばれて移動し、またシャルル6世とバイエルン公女との結婚やオ
ルレアン公ルイとミラノ公女との結婚など、国際結婚が行われていたからである。ブ
ルゴーニュは商業の上でも芸術の上でもネーデルラントと結びついていた。アヴィ
ニョンの法王庁の建設はイタリアとの交流を再燃させた。
ブルゴーニュ公たちはパリの画家ばかりを当てにしており、フィリップ豪胆公が購入
した写本の大半はパリで制作されている。
ブルゴーニュ公お抱えとなり、シャンモル修道院で作業に携わった画家たちは、北フ
ランスとネーデルラントの出身である。メルキオール・ブルーデルラムはフランドル
で修道院の祭壇画を制作した。ジャン・ド・ボーメ、ジャン・マルエルおよびアンリ・ベ
ルショーズは現地で壁面などの彩色、祭壇画および彫刻の彩色に従事した。
ジャン・マルエルは最初シャルル6世の妃イザボー・ド・バヴィエールに仕えていた
が、1397年以降ブルゴーニュ公お抱えの画家となった。マルエルはフランドル出身
の大芸術家集団(マルエルの甥たち、ランブール三兄弟、アンドレ・ボーヌヴー、
ジャン・ド・ボーメ等)の一員だが、彼らはパリの美術に触れることで自身の様式を確
立した。マルエルが《円形大ピエタ》を描いたのは1400年頃のことで、ここで彼は人
体の立体感に見られるフランドルの写実主義と、パリの写本装飾に特徴的な優美な
線と洗練された色彩を結び付けている。
ジャン無畏公
父フィリップ豪胆公が没すると、ジャン無畏公がブルゴーニュ公の地位についた。彼
はブルゴーニュ公国を拡大し強固にしたいという野望を抱いていたが、同時にフラ
ンス王国の政治においても中心的な位置を占めようとしていた。収入の大部分を占
めるのは王室金庫だったのである。シャルル6世が病気の間、公は権力争いの中で
従兄弟オルレアン公ルイと対立し、1407年にはルイを暗殺させた。この殺害事件で
アルマニャック派とブルゴーニュ派の闘争がはっきりした形をとる。
フランス王国で権力を握ったことを象徴的に示すため、ジャンは早くも1409年に、ロ
26/12/2011 18:50
フィリップ豪胆公とジャン無畏公 | ルーヴル美術館
2 sur 2
http://160.92.103.98/llv/dossiers/page_theme_print.jsp?CONTENT<>c...
ベール・ド・エルビュテルヌをして自身と妻マルグリット・ド・バヴィエールの紋章で
飾った館の主屋をパリに建設させた。フィリップ・オーギュストの城壁に接して建つ
ジャン無畏公の塔(高さ27m)は、現在もなおパリに聳えるが、かつては螺旋階段で
建物の各階に通じていた。この大螺旋のヴォールト〔穹窿〕(ルーヴル宮のシャルル
5世の螺旋階段を手本とする)は、ブルゴーニュ独特の斬新な図像モチーフで飾られ
ている。彩色した石の彫刻に柏、西洋サンザシ、ホップが絡み合った植物モチーフ
がほどこされたもので、それぞれ父フィリップ豪胆公と母マルグリット・ド・フランドル
およびその息子ジャン無畏公を象徴している。
公の肖像のついた指輪が示すように、豪華で独創的な作品を求めるという芸術に
対するジャン無畏公の方針は、シャンモル修道院を代表とする父公の芸術方針に
連なる。
© 2005-2011 Musée du Louvre. All rights reserved. | 2011-12-26
26/12/2011 18:50
シャルル6世とイザボー・ド・バヴィエール | ルーヴル美術館
1 sur 1
http://160.92.103.98/llv/dossiers/page_theme_print.jsp?CONTENT<>c...
ホーム > アート図鑑 > テーマ特集
テーマ別特集 :
1400年のフランス
はじめに | シャルル5世 | アンジュー公ルイ1世 | ベリー公ジャン | ブルゴーニュ公 |
シャルル6世 | 宮廷美術 | 歴史的背景 | 参考文献
シャルル6世とイザボー・ド・バヴィエール
シャルル5世の後継者
Patrick Müller © CMN, Paris
1380年、シャルル6世は父王のコレクションを引き継いだ。この4000点近い品々に、
王妃、貴族、王国の各都市からの贈り物が加わったが、残念ながらこれらの財宝は
いずれ担保になったり溶かされたりする。
治世の間コレクションは分散していったにもかかわらず、シャルル6世は当時の美術
発展に大きな貢献をした。よき君主として、親族や周囲の人々に贅沢な贈り物をし
たのである。
ヴァンセンヌをはじめとして父王が着手した建設作業を継続し、数々の宗教施設に
十字架や聖杯を贈った。
シャルル6世のルーヴル宮
シャルル6世治下、ルーヴル宮の存在は目立たなかった。ここでイザボー・ド・バヴィ
エールが将来イングランド王リチャードの妃となる娘イザベルを産み(1389年)、何
度か会議を開き、コンスタンティノポリスから2人の皇帝を迎えたとはいえ、国王の住
まいはサン・ポル館とトゥルネル館に移されていた。
シャルル6世時代のルーヴル宮につながるものは、王の兜を除いて何も残っていな
い。この兜の一部はフィリップ・オーギュストの城砦の塔の井戸の底にあったもの
で、粉々に(155片)壊された後そこへ捨てられていたのを、1984年の発掘作業の際
に発見された。兜が1411年にルーヴル宮にあったこと、それが王室の厩目録に記
載されていたことから、国王シャルル6世のものと同定された。そのほかの例は知ら
れていない。
イザボー・ド・バヴィエールの役割
資料
年表
地図
ゲーム
バイエルン公シュテファン2世とタデア・ヴィスコンティの娘であるイザボーは、15歳
で王と結婚する。フランス語も喋れず、宮廷の作法にも慣れていなかった。後に彼
女は王との間に12人の子どもを生み、なによりも王の狂気の発作に耐えることにな
る。イザボーはあらゆる芸術に対して重要な役割を果たす。多数の職人を召して、
彼らに絵画、金銀食器、宝石類、とりわけ当時流行の贅沢な衣装を注文した。イザ
ボーはかなりの愛書家でもあり、写本の筆写、装飾、装丁、留め金や栞への出費が
それを物語っている。
彼女は《金の馬》と呼ばれる見事な「聖母像」を夫に贈っており、その洗練度と技術
的完成度の高さは、中世末期のパリで王侯貴族に雇われた金銀細工師の、芸術上
の偉業をよく示している。
© 2005-2011 Musée du Louvre. All rights reserved. | 2011-12-26
26/12/2011 18:51
宮廷美術と図像主題 | ルーヴル美術館
1 sur 2
http://160.92.103.98/llv/dossiers/page_theme_print.jsp?CONTENT<>c...
ホーム > アート図鑑 > テーマ特集
テーマ別特集 :
1400年のフランス
はじめに | シャルル5世 | アンジュー公ルイ1世 | ベリー公ジャン | ブルゴーニュ公 |
シャルル6世 | 宮廷美術 | 歴史的背景 | 参考文献
宮廷美術と図像主題
図像主題
愛の捧げ物
1400-1410年
© R.M.N.
資料
年表
地図
ゲーム
「9人の騎士」の主題は美術において大変な成功を収めた。ジャック・ロンギヨンが
1312年頃に作った詩『孔雀の誓い』には、騎士にふさわしい資質の化身(賢明、慎
重、勇気、敬虔、高潔、愛)として、ここに登場する人物たちが一堂に会している。人
物は3時代に分類されており、聖書の歴史には、イスラエルの民を約束の地へ導い
たモーセの後継者ヨシュア、ヘブライ人の族長ユダ・マカバイオス、およびキリストの
祖先でありイスラエルの王そして詩篇の作者であるダビデである。古代史には、トロ
イア戦争でトロイアを守ったヘクトル、アレクサンドロス大王、およびローマ帝国の創
立者ユリウス・カエサルである。中世史には、西ローマ帝国皇帝シャルルマーニュ
〔カール大帝〕、1099年に行われた第一次十字軍の英雄ゴッドフロワ・ド・ブイヨン、
および円卓の騎士とともに聖杯を探すアーサー王である。シャルル5世治下にイン
グランドと戦って名を上げたデュ・ゲクランも加わるかもしれない。このうち5人は現
代のトランプにキングとジャックとして残っている。
文学に着想を得た宮廷恋愛とともに、色事、庭園での散歩、愛の告白といった場面
が美術に現れる。イタリア絵画の影響を受けて、自然や庭園は装飾の一部をなして
いる。
ペストの流行は14世紀中王国を荒廃させ、人の死に触れる機会が頻繁にあった。
1396年以降、死体の解剖が認められた。そのため死者の表現が極めて写実的に
なった。裸体で肉の落ちた(トランジ)もの、あるいは半ば蛆虫に蝕まれた死体さえも
ある。
エンブレムと宝飾美術
銘句とエンブレムは装飾の一部をなしている。王侯貴族が選んだ個人の印であるエ
ンブレムと色は、簡潔な文章や警句である「言葉」と結びつけられた。シャルル6世
は複数のエンブレムをもっていた。翼のある雄鹿(兜の上)、孔雀、エニシダの鞘、ラ
イオン、緑色、それに警句としては「善意に」があった。イザボーはハコベの花であ
る。オルレアン公ルイはヤマアラシ、狼、イラクサの葉を選んだ。ベリー公は黒熊と
白鳥を自分のエンブレムとした。ジャン無畏公は鉋(指輪)とホップの葉(塔の階段
のヴォールト)を用いた。
ミニアチュール〔写本装飾〕に見られる、金で刺繍したり宝石で飾ったりした衣装は
贅を極めている。絹、サテンあるいはビロード、毛皮の裏地がついたウプランド〔袖
の広い長くてゆったりした外套〕、やや突飛な形に襞をよせた男性の頭巾、尖がった
り丸く膨れたりした上にヴェールをかけた女性の髪型などである。色彩は鮮やかで
洗練されており、ピンク、赤、緑、青が使われている。
宝飾品と宝石類を制作する技術はなかでも洗練されていた。植物や動物を象った
金の丸彫にエナメルをほどこしたものや、指輪を飾る肖像を彫ったカメオなどがあ
る。王侯貴族は自分の宝物室にかなりの金銀細工作品を集めており、大掛かりな
接待の機会にはそれを展示した。パリの一級金銀細工師たちに注文した食器、聖
遺物箱、典礼用具などである。
文学的生活と詩情
シャルル6世は900点の写本を父王から受け継いだ。すでにシャルル5世治下では、
古典ラテン語(オウィディウス)や中世ラテン語の翻訳が盛んに筆写され、そこにイ
タリア語の書物(ペトラルカ、ボッカッチョなど)も続いた。
14世期末、物語においては散文が勝利を収め、音楽と分離した「詩」という定義が
新たに現れた。ギョーム・ド・マショーは作詞と作曲両方を行った最後の人物となり、
フロワサールとデシャンは作詞しかしていない。多声音楽においては、作曲する能
26/12/2011 18:52
宮廷美術と図像主題 | ルーヴル美術館
2 sur 2
http://160.92.103.98/llv/dossiers/page_theme_print.jsp?CONTENT<>c...
力は求められたが、ほとんど聞き取れなくなった歌詞は重視されなかった。
文学的生活は宮廷生活に浸透しており、とくに貴族と文芸保護者は抒情詩をたしな
んでいた。詩をたしなむ貴族と詩人は詩を交換し、それを通じて会話を交わしていた
が、そこで社会階級の差は考慮されなかったようだ。フロワサールはブラバント公の
愛についての助言者となり、クリスティーヌ・ド・ピザンは注文主の名をその恋人に告
げるために詩を代筆した。バラードの主題を巡る討論(愛についての助言を巡って)
をきっかけに、1389年にはシャルル6世の御前で詩の競技会が開催された。
この動乱の時代にあって、作者たちは政治的な意見を著書の中でおおっぴらにする
のをためらわなかった。時事問題が扱われており、あるべき政治の提要、法律家や
道徳家の考察が盛んに行われた。フランス宮廷はこのとき初めて、王国の文学の
中心となった。
© 2005-2011 Musée du Louvre. All rights reserved. | 2011-12-26
26/12/2011 18:52
歴史的政治的背景 | ルーヴル美術館
1 sur 2
http://160.92.103.98/llv/dossiers/page_theme_print.jsp?CONTENT<>c...
ホーム > アート図鑑 > テーマ特集
テーマ別特集 :
1400年のフランス
はじめに | シャルル5世 | アンジュー公ルイ1世 | ベリー公ジャン | ブルゴーニュ公 |
シャルル6世 | 宮廷美術 | 歴史的背景 | 参考文献
歴史的政治的背景
百年戦争
Plaque de fourreau
1402 (?)
© R.M.N./J.G. Berizzi
資料
年表
地図
ゲーム
1322年、イングランドのエドワード3世がフィリップ端麗王の唯一の直系の孫だった
にもかかわらず、フィリップ端麗王の弟でヴァロワ家のフィリップがフランス国王に聖
別された。1337年、フィリップがイングランド領のアキテーヌ公国を占領した。そこで
エドワード3世は自分がフランス国王だと宣言し、戦争が始まる。ブレティニーの和
約(1360年)により、ポワティエで捕虜になったジャン善良王は、アキテーヌとカレー
およびいくつかの都市をイングランド王に譲渡した。その代わりイングランドはフラ
ンス王位を放棄したのである。1369年、国王シャルル5世は、デュ・ゲクラン元帥の
率いる軍隊とともに領土を取り戻した。
リチャード2世が1377年にイングランド王となり、次いで1380年にシャルル6世がフラ
ンス王となった。両王は、経済の好況に助けられて和平政策をとった。1396年、リ
チャード2世はシャルル6世の娘イザベルと結婚した。
1399年、イングランドとフランスは波乱の時期を迎える。イングランド王の従兄弟、
ランカスター家のヘンリーによってイングランド王位が簒奪される。フランス国王の
弟オルレアン公ルイと叔父ブルゴーニュ公との対立に続く内乱で、アルマニャック派
とブルゴーニュ派が順にイングランドへ働きかける。1412年、国王シャルル6世は
度々狂気の発作に襲われながらも、戦争を阻止しようとした。イングランド軍はフラ
ンスに上陸し、交渉が始まったものの決裂した。1415年にアザンクールでフランス軍
が敗北を喫すると、ブルゴーニュ派の援助を受けたイングランド軍はフランス王国を
占領した。
内乱:アルマニャック派とブルゴーニュ派
王弟オルレアン公ルイと叔父ブルゴーニュ公との内部対立は2つの陣営の内乱に
発展し、アルマニャック派とブルゴーニュ派は順にイングランドへ働きかける。1412
年、シャルル6世は度々狂気の発作に襲われながら、正気を取り戻したわずかな間
に戦争を阻止しようとしたが、かなわなかった。イングランド軍はフランス領へ進軍
し、両陣営の間で日和見主義的な態度をとっていた。パリではジャン無畏公率いる
ブルゴーニュ派が王妃と同盟を結んでおり、未来のシャルル7世である王太子を中
心としたアルマニャック派はブールジュを拠点としていた。1419年9月10日、王太子
派によるブルゴーニュ公ジャン無畏公の暗殺をきっかけに、イングランド王ヘンリー
5世と新たにブルゴーニュ公となったフィリップ善良公が同盟を結んだ。1420年5月29
日、トロワ条約により、カトリーヌ・ド・フランスとヘンリー5世の結婚が決まり、ヘン
リー5世はベッドフォード公の摂政のもと、未来のフランス王位継承者に定められ
た。シャルル6世の正当な嫡子である「王太子」シャルルは、王位継承権を剥奪され
た。1422年にシャルル6世が没すると、王太子シャルルはフランス国王を名乗った。
そしてアルマニャック派フランスとイングランド-ブルゴーニュ派フランスが対立す
る。
民衆反乱
1380年、シャルル6世の叔父たちの政権は、シャルル5世が廃止した直接税と間接
税を復活させようとする。民衆の怒りは富裕層の虐殺へ向かった。ルーアン、パリ、
ゲント、リヨン、それにアミヤンの各都市が次々に抗議した。パリの市庁舎で鉛製の
槌がいくつか見つかったことから、この運動はマイヨタンの反乱と呼ばれることに
なった。国王の政権は特赦を宣言し、オイル語圏の各都市政権を召集したところつ
いに徴税が受け入れられた。最も厳しく罰せられたのは、商業上の特権を失った
ルーアンの反乱者と、フランドルの反乱者(フランドルの「十字軍」)だった。パリでは
マイヨタンの指導者たちが絞首刑になった。
26/12/2011 18:52
歴史的政治的背景 | ルーヴル美術館
2 sur 2
http://160.92.103.98/llv/dossiers/page_theme_print.jsp?CONTENT<>c...
1413年、オイル語圏の都市政権全体がブルゴーニュ公の支配するパリに集まった。
ジャン無畏公は、交渉と改革の要請に対して、裕福な肉屋とカボシュを含め皮剥ぎ
職人にすぎない者たちからなる手下を焚きつけることで応えた。貴族、聖職者およ
び将校たちの中でもとくに王室周辺にいる者たちは脅かされた。激しい暴動と殺戮
が繰り返された。ジャン無畏公が自ら口火を切った運動は、公の手に負えなくなっ
た。けっきょく改革は続き、本当の意味での行政法典である259条の勅令が5月27日
に公布されると、秩序が回復された。市民は混乱にうんざりしており、民衆も肉屋の
横暴に疲れきっていたのである。
西欧の「教会大分裂」
キリスト教会の危機は1309年に始まる。教皇クレメンス5世がローマの民衆反乱を
避けてアヴィニョンに移住した。1367年ウルバヌス5世はローマに戻ることを決めた
が、行政府はフランスに残った。後継者のグレゴリウス11世はアヴィニョン教皇庁に
終止符を打った。
グレゴリウス11世が1378年に没すると、西欧の「教会大分裂」が始まる。枢機卿の
教皇選挙会はイタリア人のウルバヌス6世を選出したが、フランス国王シャルル5世
はこれに抗議し、フランス人枢機卿たちは対立教皇クレメンス7世を選出した。
ヨーロッパは「ウルバヌス派」と「クレメンス派」に二分された。教皇庁は異端や改革
への呼びかけ(ジョン・ウィクリフとヤン・フス)に立ち向かわねばならなかった。
ドイツ皇帝ジギスムントは1415年にコンスタンツ湖畔で公会議を開き、枢機卿たち
はオッドーネ・コロンナを選出した。新教皇はマルティヌス5世を名乗り、1417年に
ローマへ落ち着いた。1431年には教皇の主導のもと、教会改革に加え西方教会と
東方教会の統合を図って、新たにバーゼル公会議が召集された。マルティヌス5世
の後継者エウゲニウス4世は、改革に無関心だったため公会議を解散させる。公会
議に出席した神父たちは激しく抗議し、コンスタンツに移動してサヴォワ公アメデオ
8世を教皇に選出した。最後の対立教皇はフェリクス5世を名乗った。キリスト教会に
教会分裂の亡霊が再び現れた形だが、長続きはしなかった。ローマとアヴィニョンで
半世紀に渡って非難しあった教皇と対立教皇の争いは、これをもって終結した。
© 2005-2011 Musée du Louvre. All rights reserved. | 2011-12-26
26/12/2011 18:52
パリ1400年 | ルーヴル美術館
1 sur 3
http://160.92.103.98/llv/dossiers/detail_bibliographie_print.jsp?CON...
ホーム > アート図鑑 > テーマ特集
テーマ別特集 :
1400年のフランス
© DR
資料
年表
地図
ゲーム
はじめに | シャルル5世 | アンジュー公ルイ1世 | ベリー公ジャン | ブルゴーニュ公 | シャルル6世 | 宮廷美術 | 歴史的背景 |
参考文献
パリ1400年
この特集の執筆にあたって役に立った文献を解説とともに紹介する
展覧会カタログと書籍
- Paris 1400, les arts sous Charles VI , Catalogue de l'exposition, Musée du Louvre, RMN, Paris, 2004.
大人向け
- Les Fastes du Gothique : le siècle de Charles V, RMN, Paris 1981.
大人向け
- Les Princes des fleurs de lys : la France et les arts autour de 1400, RMN, 2004.
1400年頃に見られる芸術の開花、大人向け
- L'Art à la cour de Bourgogne, le mécénat de Philippe le Hardi et Jean sans Peur et l'art en Bourgogne, Dijon, 2004.
- Le Moyen âge, Louvre, Paris-musées, Chronologies du Louvre, 2004.
西欧、ビザンティン、イスラム美術の収蔵作品120点を背景に沿って年代順に並べたパンフレット
大人向け
- Vivre au Moyen Age : la France en 1400, Louvre, Hachette jeunesse, 2004.
中世末期の日常生活
子供向け
- L'Art de cour sous Charles VI, Guide de l'exposition Paris 1400, Faton, Le Petit Léonard n° 80, avril, 2004.
子供向け
26/12/2011 18:52
パリ1400年 | ルーヴル美術館
2 sur 3
http://160.92.103.98/llv/dossiers/detail_bibliographie_print.jsp?CON...
- L'Art de cour au Moyen âge, Faton, TDC n° 872, mars 2004.
第1、第2過程の教員向けの雑誌。シテ・ド・ラ・ミュージック〔音楽都市〕とルーヴル美術館の展覧会および国立中世美術館
〔クリュニー美術館〕の収蔵品に関連して、「授業用の作品と参考資料」の項で中世末期を特集した号
大人向け
- AUTRAND Fr., Charles VI, Fayard, Paris 1986.
シャルル6世の網羅的な伝記
大人向け
- CASSAGNES-BROUQUET S., Culture, artistes et société dans la France médiévale, Ophrys, 1998.
芸術家が修業した土地、文化と芸術、その伝達方法についてまとめたもの
大人向け
- CONTAMINE Ph., La Guerre de Cent Ans, PUF, Que sais-je, 1309, 8e éd, Paris, 2002.
フランスとイングランドの間で行われた百年戦争の原因、それぞれの局面、帰結をたどる書
大人向け
- FAVIER J., Paris, deux mille ans d'histoire, Paris 1997.
大人向け
- RECHT R. et CHATELET A., Le Monde gothique : automne et renouveau, 1380-1500, Gallimard, Paris 1988.
大人向け
- SCHNERB B., Armagnacs et Bourguignons, Perrin, 2001.
シャルル6世の治世のさなかに起こった内乱の動機と成り行きを詳述したもの
大人向け
- VILLELA-PETIT I., Le Gothique international : les arts en France en 1400, Louvre, Hazan, L'Atelier du monde, 2004.
中世末期を特徴づける様式の開花を分析したもの
大人向け
インターネット
1. シャルル5世とシャルル6世
http://www.bnf.fr/enluminures/themes/t_1/st_1_01/s101_002.htm
フランス国立図書館所蔵の写本装飾にみるシャルル5世とシャルル6世の戴冠
http://gallica.bnf.fr/Anthologie/notices/00213.htm
ジャン・フロワサールの『年代記』写本と1389-1400年の出来事(各ページにリンク)
http://www.thebritishmuseum.ac.uk/compass/ixbin/goto?id=OBJ595
ベリー公ジャンがシャルル6世に贈った《聖アグネスの杯》(大英博物館のサイト内)
2. アンジュー公ルイ1世
http://www.monum.fr/m_angers/indexa.dml?lang=fr
ヴァロワ朝初期の宮廷美術作品から、黙示録の壁掛けについて(メトロポリタン美術館のサイトの「年譜」)
3. ベリー公ジャン
http://www.bnf.fr/enluminures/texte/manuscrit/man9.htm
写本装飾:《ベリー公の小時禱書》(フランス国立図書館のサイト)
http://www.metmuseum.org/collections/view1.asp?dep=7&mark=4&full=0&item=47%2E101%2E4#a
タペストリー:《9人の騎士》(ニューヨーク、ザ・クロイスターズ所蔵)
http://www.bourgestourisme.com/page.php?ID=7
http://encyclopedie.bourges.net/saintechapelle.htm
建築:ブールジュの宮殿とサント・シャペル(シェール県議会のサイト内)
4. ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公とジャン無畏公
http://dijon.free.fr/retable.htm
《モーセの井戸》、《磔刑の祭壇彫刻》、《フィリップ豪胆公の墓》(ディジョン美術館のサイト内)
http://dijon.free.fr/tombeausanpeur.htm
《ジャン無畏公の墓》(ディジョン美術館のサイト内)
26/12/2011 18:52
パリ1400年 | ルーヴル美術館
3 sur 3
http://160.92.103.98/llv/dossiers/detail_bibliographie_print.jsp?CON...
http://perso.wanadoo.fr/tourjeansanspeur/
中世パリにおける世俗・要塞建築の唯一の名残である《ジャン無畏公の塔》
http://www.culture.gouv.fr/culture/medieval/francais/vqcost1.htm
中世の衣装、装身具、男女の髪形(フランス文化省のサイト内)
参考文献
© 2005-2011 Musée du Louvre. All rights reserved. | 2011-12-26
26/12/2011 18:52