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街道を歩く 2 電子版
─シニア世代の退屈しのぎと
健康のために─
中山道(二)
(日本橋~分去れ)
中山高安著
街道を歩く人へ
自宅から遠い街道を歩く場合は泊りがけになり、距離が長くなれ
ばなるほど長い休暇が必要になるが、何回かに分割してつないでい
けば他に仕事を持っている人でも歩けないことはない。
ただ回数を分ければ分けるほど、歩く出発点や終了点と自宅との
間を移動する時間や旅費が余分にかかる。だから早く完歩したい人
や経済的に歩きたい人は、長い休暇を取って一挙に歩く必要がある
だろう。
ただし、せっかく長い休暇が取れても雨ばかりではしょうがない
から、天候の長期予報は気にせざるを得ない。もちろん雨の中を歩
くのも季節が良いときは一興であるが、長く続く梅雨や台風や秋雨
の時期は事前に情報収集して、極力避ける方が賢明だろう。
さてシニア世代は若者と違ってテントや寝袋で野宿というわけに
もいかないし、峠が多い場合はあまり重たい物を背負いたくない。
-7-
最近の山歩きは山小屋が充実していて背負わなくても済む場合も
多いようだが、背負わざるを得ないような山へ行く場合と違って、
野宿をしない街道歩きは出来るだけ身軽で歩きたい。
そういう前提で歩いているから、如何に荷物を減らすか、逆に最
低限必要な物はなにか、宿はどうするか、ここでは記載しないが、
初めての人はこのシリーズ﹁北国街道﹂を参考にして欲しい。
ところで毎度のことながら、道筋の目印として栄枯盛衰の激しい
企業や商店がどれほど使えるのか考えてしまう。その点で川・橋や
神社・仏閣の他に、学校・役場・公民館や鉄道・駅・交差点など公
共的なものを利用している。
また神社・仏閣や地域・名称などの歴史や由来を出来るだけ記載
するが、それが現地に掲示してあるときは表現をそのまま使うよう
にしている。
更に、継続して長い距離を歩けない人や適当な宿が見つからない
ときのため、最寄りの鉄道の駅を記載したので、宿がある駅まで鉄
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道で移動するなり、工夫をして欲しい。即ち、その日歩き終えた駅
を次回のスタートにしたら良いから、宿が見つからないときは最寄
りの駅から宿がありそうな駅に出たら良いだろう。
ただしバスは路線変更があったり、バス停が移動したりする可能
性があるので、ここではバス路線をあまり取上げていない。
尚ここに記載した略図の丸印がほぼ旧道で、点線は旧道でも通行
できない道や歩けても相当に注意が必要な道である。
ここでは一日二十キロぐらい歩くことを目途にして区切っている
が、そのときの自分の体調で区切る場所は考えて欲しい。自分の体
調を考えながら、行き当りばったりの旅も刺激的である。
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中山道の里程
徳川家康が江戸に幕府を開いたのは慶長八年︵一六〇三︶で、そ
れより少し前に事実上の天下の権を握った家康は、江戸を起点に五
街道を整備し始めた。
その中の中山道は参勤交代や茶壺道中や姫君の移動に利用された
が、その前身は東山道と呼ばれ古代から西国と東国を結ぶ重要な官
道でもあった。
当時から河川の氾濫で渡河の難しい東海道よりも、峠越えが険し
くても中山道を利用する人が多く、また伊勢参宮と同様に善光寺参
りは旅人のあこがれで、そのためにもこの道が利用された。
それが時代の進展とともに河川に橋がかかり、東海道の利用者が
増えたことから、中山道は裏道的な存在として細々と生きてきた。
更に時代は進んで明治維新で参勤交代や関所が廃止され、庶民に
は旅の障害がなくなった。その代わりに鉄道の時代になると、積極
- 10 -
的に鉄道の開通に協力した町と、開通に反対した町とでは、その後
の町形成に大きな影響を与えた。
しかし鉄道から遠いために衰退した妻籠宿は、日本で最初に江戸
末期の宿場を復元・保存して、昭和四十三年から街並保存事業によ
り宿場の景観がよみがえった。そして昭和五十一年には国の重要伝
統建造物群保存地区に選定され、各地で見習う街並が現れて観光客
を呼び寄せるようになってきた。
こうした概略の歴史を持つ中山道だが、江戸から京都までの宿場
間の里程は次のようなもので、この旧道を歩く人は一つの参考にし
て欲しい。以下では一里を三・九三キロで換算した。
二里十町︵九・〇︶
二里半︵九・八︶
里程︵キロ数︶
尚、ここで取上げるのは追分から大井までである。
宿場名
*日本橋より板橋宿
*板橋宿より蕨宿
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*桶川宿より鴻巣宿
*上尾宿より桶川宿
*大宮宿より上尾宿
*浦和宿より大宮宿
四里七町︵十六・五︶
一里三十町︵七・二︶
三十四町︵三・七︶
二里︵七・九︶
一里十町︵五・〇︶
一里十四町︵五・五︶
*鴻巣宿より熊谷宿
二里半︵九・八︶
*蕨宿より浦和宿
*熊谷宿より深谷宿
二里半︵九・八︶
一里半︵五・九︶
*深谷宿より本庄宿
*新町宿より倉賀野宿
一里十九町︵六・〇︶
二里︵七・九︶
*倉賀野宿より高崎宿
一里三十町︵七・二︶
*本庄宿より新町宿
*高崎宿より板鼻宿
二里十六町︵九・六︶
三十町︵三・三︶
*安中宿より松井田宿
二里十五町︵九・五︶
*板鼻宿より安中宿
*松井田宿より坂本宿
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*沓掛宿より追分宿
*軽井沢宿より沓掛宿
*坂本宿より軽井沢宿
一里三町︵四・三︶
一里五町︵四・五︶
二里十六町︵九・八︶
*追分宿より小田井宿
一里七町︵四・七︶
一里十町︵五・〇︶
小計︵百五十二・二︶
*小田井宿より岩村田宿
一里十一町︵五・一︶
二十七町︵二・九︶
*岩村田宿より塩名田宿
*塩名田宿より八幡宿
三十二町︵三・五︶
一里十六町︵五・七︶
*八幡宿より望月宿
*芦田宿より長久保宿
二里︵七・九︶
一里八町︵四・八︶
*長久保宿より和田宿
五里十八町︵二十一・六︶
*望月宿より芦田宿
*和田宿より下諏訪宿
二里三十二町︵七・四︶
一里三十町︵七・二︶
*下諏訪宿より塩尻宿
*塩尻宿より洗馬宿
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三十町︵三・三︶
一里三十一町︵七・三︶
*洗馬宿より本山宿
*贄川宿より奈良井宿
一里十三町︵五・三︶
二里︵七・九︶
*奈良井宿より薮原宿
一里三十三町︵七・五︶
*本山宿より贄川宿
*薮原宿より宮の越宿
二里十五町︵九・五︶
一里二十九町︵七・一︶
*福島宿より上松宿
三里九町︵十二・八︶
*宮の越宿より福島宿
*上松宿より須原宿
一里三十町︵七・二︶
二里半︵九・八︶
*須原宿より野尻宿
*野尻宿より三留野宿
一里半︵五・九︶
二里︵七・九︶
*三留野宿より妻籠宿
*妻籠宿より馬籠宿
一里︵三・九︶
一里五町︵四・五︶
*落合宿より中津川宿
二里半︵九・八︶
*馬籠宿より落合宿
*中津川宿より大井宿
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*大井宿より大湫宿
小計︵百八十五・五︶
三里半︵十三・八︶
*御嵩宿より伏見宿
二里︵七・九︶
一里︵三・九︶
一里半︵五・九︶
*伏見宿より太田宿
二里︵七・九︶
*大湫宿より細久手宿
*太田宿より鵜沼宿
四里十町︵十六・八︶
三里︵十一・八︶
*鵜沼宿より加納宿
一里半︵五・九︶
*細久手宿より御嵩宿
*加納宿より河渡宿
一里十二町︵五・二︶
一里七町︵四・七︶
*赤坂宿より垂井宿
一里十四町︵五・五︶
*河渡宿より美江寺宿
*垂井宿より関ヶ原宿
一里︵三・九︶
二里八町︵八・七︶
*関ヶ原宿より今須宿
一里︵三・九︶
*美江寺宿より赤坂宿
*今須宿より柏原宿
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一里半︵五・九︶
一里一町︵四・〇︶
*柏原宿より醒井宿
*番場宿より鳥居本宿
一里半︵五・九︶
一里︵三・九︶
*鳥居本宿より高宮宿
二里︵七・九︶
*醒井宿より番場宿
*高宮宿より愛知川宿
二里半︵九・八︶
三里半︵十三・八︶
*愛知川宿より武佐宿
*武佐宿より守山宿
一里半︵五・九︶
三里︵十一・八︶
三里半︵十三・八︶
*守山宿より草津宿
ここから東海道
*草津宿より大津宿
*大津宿より京都
小計︵百八十八・五︶
合計︵五百二十六・二︶
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分去れから望月へ
初日から二十キロ以上の歩きになるから朝早く出て、大宮で七時
二十六分発の新幹線に乗ると軽井沢には八時十八分に着いて、待ち
時間を入れても九時頃にはしなの鉄道信濃追分駅に着く。
駅を出てしなの鉄道沿いの道を歩くと、右側の視界が開けた所か
ら赤い地肌の浅間山が見える。
その山の姿を写真に撮るため車や電線が入らないように工夫して
いると、同じ列車に乗っていた中年女性が後からきて、浅間山をバ
ックに写真を撮って欲しいと言う。
そこからは彼女と一緒に、お喋りしながら歩くことになる。この
道 は 舗 装 道 路 で 車 も 通 る か ら 、歩 く 者 に と っ て は 注 意 が 必 要 で あ る 。
お喋りをしながら歩いたせいか、駅から約一キロ先の旧中山道に
わ か さ
すぐ突き当る。そこは追分の一里塚より西側で浅間神社と昇進橋の
中間にあたり、追分宿の中を通り抜けると分去れである。
- 17 -
- 18 -
〇
分去れで右へ進む北国街道と分かれ、すぐ車止めがある所で左へ
折れるのが旧中山道である。
街道の両側に繁る木々の葉隠れに住宅が散見され、分譲地もある
のは最近開発されたものだろう。そして右側が急に開けて畑になる
と、その先に浅間山が姿を現す。
分去れからはずっと下り坂で、北国街道よりも勾配はきついよう
に感じる。後ろから子供が自転車で走ってくるが、下りは楽で上り
は辛いだろうなどと思う。左側に県営千ケ瀧農業水利改善事業竣工
記念碑①が立っていて、その少し先から左右が畑で視界が開ける。
右に少し曲った道が急角度で左へ進むと、その辺りが桜ヶ丘とあ
るから、もう一里塚があるはずだが見つからない。
向こうから二人連れの中学生らしい女の子がやってくるが、楽し
そうにお喋りしながら歩いているのでやり過ごす。その後から一人
で 歩 い て く る 同 じ よ う な 制 服 の 中 学 生 に 訊 い て み る が 、﹁ こ の 土 地
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の者でないから分からない﹂と言う。
その先で突然、激しい水音の用水路が現れるが、それは勾配がき
ついために急流となっているのだろう。そこから数十メートル行く
と右の角に一里塚入口の標識が立っているので、女学生がいくら地
元の人でなくても場所が近いだけに不思議に思う。
標識から右へ曲ると民家の横に大樹があり、枝を伸ばしているの
が大久保の一里塚②である。ただし民家の裏に回っても大樹の前に
出られず、他人の家だからどこから入ったら良いのか分からない。
民家の表に出て図々しくも庭らしい所を通ると、大樹の前に出て
一里塚だという説明が書いてあり、この一里塚は枝垂れ桜だという
から春は美しい花を咲かせるだろう。
み
よ
た
一里塚から街道に戻り道なりに進むと、しなの鉄道に突き当り、
右へ行くとすぐ御代田駅である。中山道はしなの鉄道を潜るように
な っ て い る が 、こ こ に も 環 境 庁 と 長 野 県 の 標 識﹁ 中 部 北 陸 自 然 歩 道 ﹂
が 立 っ て い る 。こ の 標 識 は 分 去 れ か ら こ こ ま で 何 本 も 立 っ て い る が 、
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﹁中山道﹂の標識は少なく、しかも目にするのは民間が立てたよう
な小さなものである。
しなの鉄道を潜ると車道に交差して、左側に龍神の杜公園が街道
に並行している。その先を歩いて行くと、馬頭観音や石仏が五ー六
お
た
い
基 ま と ま っ て い る 所 は あ る が 、そ れ ほ ど 旧 道 の 面 影 は 残 っ て い な い 。
〇
街道と新道と交差する向かいの右角に小田井宿の標識があり、そ
の先から昔の宿場らしい面影が始まる。
すぐ右に諏訪長倉神社と本陣跡があり、左の用水を渡った所に宝
珠院③があるが、この寺はなかなか手入れが行き届いている。
寺から出てくると用水の流れる道筋で、右側の本陣跡の先に上の
問屋跡があり、左側には脇本陣跡や下の問屋跡があり、その間に新
しい家や車が駐車している。ここは古い建物を大事にしている道筋
だが、同時に今生活している人達の姿が共存している。
その用水の流れる道が左へ折れると、またあまり趣を感じない道
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が始まる。途中には小さな社や数基の石仏があり、やがて走る車が
月ヶ原のはずで、その先には牧場がある。牧場の
晈
こうげつ
多い新道と合流する。
やがて左側が
う な ざ わ ば た
七ー八十メートル奥に白馬が一頭いるのを見て、 晈
月という官女が
現れた白馬に乗って空を駆け回ったという伝説を思い出す。
この先の左側には鵜縄沢端の一里塚跡④があるから、先ほどの御
代田の一里塚より四キロ歩いたことになる。新道に合流するとリン
ゴ の 直 売 店 が あ る か ら 、秋 は こ の 辺 り に 実 る リ ン ゴ を 売 る の だ ろ う 。
ただ街道に趣を感じるものは少ないのが残念である。
上信越自動車道の上を越えて一キロも行くと、少し緩く左へカー
ブした所に住吉神社があり、境内には雷でも落ちたのか大樹の半分
が焼け焦げている。
この先には建替えられて新しいのだが、由緒がありそうな大きな
家が並んでいて、そこで国道一四一号線と合流する。
〇
- 22 -
この辺りから岩村田宿で、この宿は高崎宿と同じように本陣も脇
本陣もない商人町で、それ故にか古いものはあまり残っていない。
そこから街道の両側に商店が並んでいて、合流点からすぐ左側奥
に龍雲寺⑤があるが、中山道は相生町の交差点まで直進する。
龍雲寺は正和元年︵一三一二︶大井美作守入道玄慶の開創で、大
井氏の滅亡後も武田氏の帰依が厚く、信玄は寺領を寄進し、堂宇を
再興した。信玄が伊那駒場で病死した際、遺命で喪を秘して、その
遺骨をこの寺に密かに埋葬した。
次の信号を右へ約五百メートル入ると小海線岩村田駅があり、次
の筋を右へ入ると西念寺⑥があるが、直進する街道には商店街が続
く。西念寺は弘治元年︵一五五五︶武田信玄の開基で、本堂は寛延
の頃︵一七四八ー一七五一︶の建立である。
その商店街が疎らになる相生町交差点を右に曲ると、すぐ小さな
神社があり、その先で小海線を渡った所に御嶽神社がある。
緩い下り坂を進むと右に岩村田高校や左に浅間総合病院があって、
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門
山
田
井
宿
の
街
並
岩
村
田
・
龍
雲
寺
の
小
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カ ー ブ し た 先 で 相 生 松 ⑦ の 前 に 出 る が 、思 い の ほ か 寂 し い 姿 で あ る 。
すぐ目の前で一四一号線と交差して旧道は直進するが、その交差
点の左角に新しいうどん屋があり、そこで小休止する。
〇
小休止してから旧道を歩き始めると、道は蛙がうるさい田んぼの
中で、その切れ目に水神大神の石碑が立っている。この先で左右の
視界が開けて、右手に見えるのが佐久平駅で、その更に向こうに浅
間山がそびえ、左手の遥か向こうに蓼科山が見える。
右追
・
中部北陸自然歩道﹂はあるが、中山道という字は
ここでも長野県と環境庁が立てた道標﹁左塩名田三 六キロ
分一一・七キロ
見当らなくて残念である。
この辺りの畑に大きな扇風機が立っているのはリンゴ畑で、土地
の人に訊ねると、やはり茶畑と同じように霜対策のためだという。
その先の砂田橋を渡ると右奥にあるのが荘山稲荷神社⑧で、木の
鳥居も小高い所にある社も真っ赤に塗られている。
- 25 -
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この辺り右側には土盛したような小高い所が点在し、そこに木々
が茂り墓地があるようだが、これらは古墳群らしい。かなり古くか
ら開けて豪族が住んでいた名残で、そのためか根々井・平塚・塚原
辺りは豪壮な塀や造りの家が多い。
少し蛇行する道の左上に墓所があり、更に二叉路を右へ進んだ所
にあるのは諏訪神社だろうか、境内の奥には御嶽山の鳥居とたくさ
んの石碑が立っている。
家並が切れて両側が田畑で囲まれると、左に大きななにかの記念
碑が立っていて、その向こうの背景には蓼科山が見える。また反対
の右側の浅間山を背景に新幹線が走り抜け、その手前に大きな仏像
らしきものが立っているから寺だろう。
その先左側に高齢者の施設があり、その手前に妙楽寺⑨の参道が
あるが、この寺は貞観八年︵八六六︶に定額寺という官寺として建
てられ、若い修行僧の学問寺だったとある。
左右に分岐する左の道を進むと、すぐまた合流して右側に駒形神
- 27 -
社⑩がある。この神社は昭和二十四年︵一九四九︶に国重要文化財
となったが、外見ではそのように立派なものに見えない。
駒形神社の本殿は鞘堂に覆われ、文明十八年︵一四八六︶建築と
伝えられ、たびたび修理され昭和四十四年に大修理された。本殿の
祭神は騎乗の男女二神体とあり、この辺りが信濃牧の地だから駒に
関連した神社だろう。
〇
駒 形 神 社 の 辺 り か ら 急 な 下 り 坂 で 、右 側 を 流 れ る 川 の 音 も 激 し く 、
その音を耳にしながら浅科村に入る。
その先に五叉路の交差点があるが、その手前で旧道より右へ入る
道は畑の中を貫いて、その奥に塩名田神社⑪の鳥居が見える。
五叉路を越えると塩名田宿で、ここは千曲川越えの宿場として繁
栄した。今も古い家が点在し宿場らしい面影が残っているが、表札
には佐藤という名字が多いようである。その先にある浅科村公民館
の向かい、切妻造りの豪壮な構えは本陣⑫だった丸山家である。
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旧道が千曲川に突き当る寸前、細い道を右へ曲った奥に正緑寺と
稲荷神社がある。
千曲川に沿って左へカーブすると中津橋を渡るが、橋がない時代
の旧道はカーブせずに河原に下りて川を渡ったはずである。
この千曲川を江戸時代に渡るのは大変なことで、橋をかけても洪
水で流されてしまったからである。明治六年︵一八七三︶に船橋が
かけられたが、これは大石の上部に穴をあけた船つなぎ石に船をつ
ないで、その上に板を渡した橋である。
中津橋の前後には川魚を食べさせる店があり、橋には歩行者専用
のものがあるのは嬉しいことである。
すぐ右奥にあるのは古刹だという大円寺だが、境内を駐車場代わ
りに使う人がいるようで、全くうらぶれた廃寺状態にある。
み ま よ せ
み ま き
旧道は急な上り坂になり、とても苦しく感じる。この辺りの地名
を御馬寄というのは、官牧である望月の御牧の周縁部にあたってい
て、馬を追い集めた場所だからである。
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新道から右へ小道を入って、また新道に合流する手前にある坐像
は、高さ一メートルほどの大日像である。その西側の佐久川西自動
車教習所の向かいに一里塚跡⑬があり、その奥には信守斎一宇先生
の碑があって、遥か向こうには浅間山が見える。
その先にも沿道には石仏があったり、名前の分からない神社があ
ったりするが、この神社は地図上の伊勢宮だろうか。
浅科村役場を過ぎて下り坂に入ると、左側の駐車場のような場所
に生井大神や馬頭観世音が立ち、奥には赤子を抱いた女の坐像もあ
るが説明はない。
浅科村に入ってから、こういうものに説明書きが少なかったり、
道標がなかったり、歩く旅人には冷たい感じがするのだが、どうだ
ろうか。
〇
八幡の地に入ると右奥に寺らしいものが見えるが、これは地図上
の常泉寺だろう。そのすぐ先右側にあるのが八幡神社⑭で、ここの
- 30 -
二階建ての随神門は彫も立派で堂々としていて、全体的にも時代の
古さを感じる。
八幡神社は貞観元年︵八五九︶に御牧の管理をしていた滋野貞秀
こ う ら
の創祀とある。平安末期以来、武将の崇敬が厚かった神社で、佐久
八 幡 宮 と も 呼 ば れ 、旧 本 殿 は 高 良 社 と も 呼 ば れ て 重 要 文 化 財 で あ る 。
や わ た
また随神門は天保十四年︵一八四三︶の建立である。
この辺りは八幡宿で沿道に古い家が残っていて面影があり、右側
には本陣の古い門もある。脇本陣は本陣の向かい辺りと、その少し
西側にもあったという。ただこの辺りは車が多いから、歩く人は注
意する必要がある。
間もなく右斜めに分かれる道を進み、すぐまた八幡西交差点で合
流するが、ここで左からくる道は国道一四二号線である。
布施川を渡った所で新道と分かれて右へ進むのが旧道のはずだが、
橋を渡る手前のガソリンスタンドで飲料を買いながら、念のため店
員に道筋を確認すると、その先の道筋まで親切に教えてくれる。
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今日は先ほどの塩名田神社への道筋でも、これから望月までの道
筋でも、二人の男性が夫々丁寧に的確に教えてくれて、ここまでの
街道自体に感じた冷たさとは全く逆である。
〇
布施川を渡ってから右へ分岐した道は、やはり趣を残している。
また新道に合流する右側に、寛政二年︵一七九〇︶に作られた二十
三夜や石尊大権現の石塔があり、バックに百沢公民館がある。
そこで新道に合流して三百メートルほどで右へ折れるのが旧道だ
が、先ほどガソリンスタンドで教えて貰っていなければ分からなか
っただろう。道は山を回りこむ形で進むと中山道の道標があって、
その先には瓜生坂の一里塚跡⑮がある。
ただこの道標で思うことは、道なりに進むので迷うことはなく一
里塚跡の標識もあるからダブルように道標があるが、これに対して
先ほどの新道と分岐するような所に道標がないことである。大体、
道標などというものは分岐点に必要なので、道なりに進む所や合流
- 32 -
点には特に必要ないから、道標の位置に疑問を感じるのである。
この瓜生坂は舗装してあるが、山の中の木々におうわれた道筋は
旧道らしさを感じる。この一里塚の先に元文元年︵一七三六︶の念
仏百万遍塔があり、その手前辺りで昔は山を下る道があったらしい
が、今は蛇行して緩い長い坂になっている。その緩い方の坂が終わ
る所に、先ほどの急な昔の坂だと思われる道と合流する。
その先は急な下り坂で長坂の石仏・石碑群があるが、ここが廃寺
かくまがわ
になったという大応院跡だろうか。
鹿曲川を渡ってすぐ四つ辻に出るが、右へ行くのが旧道である。
ただ左へ曲ると新道に出て、そこを鹿曲川の方へ曲ると弁天窟⑯が
あり、その入口には﹁駒曳の木曾や出るらん三日の月﹂なる去来の
句碑がある。
この弁天窟は鹿曲川の断崖絶壁を削って弁財天を祀っているが、
夜になると参道に提灯を照らして、遠くからでもきれいに見える。
〇
- 33 -
四辻を右へ曲る角には豪壮な古い家があり、坂をダラダラ下る左
側の立派な近代的な建物は望月町役場である。
沿道には古い建物が現れるが、この辺りが望月宿の中心である。
望月宿の北側の山手一帯は昔の官牧で、その御牧ヶ原の山麓に発達
したのが望月宿である。
すぐ右側の建物が今夜の宿として予約した山しろ屋で、向かいの
井出野屋旅館や洋品屋も古い建物を利用して素晴らしい。
右側の商工会議所の向かい側に民俗資料館があり、ここには縄文
時代にさかのぼる望月の歴史・風土を展示しているが、この敷地と
隣の大森医院辺りが本陣兼問屋跡だという。
その先にある軒に大きな下駄をぶら下げている店は春美屋で、昔
は下駄屋だったそうである。その向かい辺りには脇本陣兼問屋だっ
た鷹野家があり、その先の重要文化財になっている真山家は昔の旅
籠屋兼問屋の大和屋で、明和二年︵一七六五︶の望月宿大火の直後
に再建された街で最古の建物である。
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屋
和
幡
宿
・
八
幡
神
社
の
随
神
門
望
月
宿
・
元
旅
籠
屋
兼
問
屋
の
大
八
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その先で右へ曲ると鹿曲川を渡り、その奥に城光院⑰がある。
こ の 寺 は 文 明 七 年︵ 一 四 七 五 ︶望 月 城 主 望 月 遠 江 守 光 恒 の 開 基 で 、
南浦宗清和尚の開山と伝えられ、望月氏代々の菩提寺である。本堂
は江戸後期の建物で、本尊阿弥陀如来坐像は室町初期の作である。
尚、この寺の裏山一帯が望月城址である。
右へ曲らずに旧道を直進すると大伴神社⑱がある。この神社は平
安時代の延喜式に記載されている佐久式内社三社の一つで、景行天
皇四十年︵古墳時代︶の鎮座と伝えられ、現本殿は春日造り延宝五
年︵一六七七︶の建築である。毎年八月十五日の夜、天下の奇祭と
して名高い勇壮な火祭りの榊祭りをとり行う由緒ある神社である。
〇
今夜の宿は一泊二食付き八千円で料理も決して悪くない。この辺
りは鉄道から遠いので宿舎を事前に確保しておく必要はあるが、同
じような旅館はあるようだから問題ないだろう。
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望月から和田へ
朝、散歩に出たついでに今夜の宿を予約するために電話する。
約二十キロ先の和田宿に泊る予定で、二ヶ所の電話番号を控えて
きたが、一軒目に電話すると水道工事で水が使えないと言う。他に
旅 館 が な い か 訊 く と 、私 が 調 べ て き た も の と 同 じ 宿 を 教 え て く れ る 。
そこに電話すると料金は七千円と少し安いから儲けたように感じ
る。しかも同業者から推薦されるような所だから、多分良い旅館だ
ろうと思ったり、普段からの同業者との付き合いが大事だと思った
り、そんな余計なことも考える。
〇
朝八時に宿を出発して、昨夜も散歩した道を歩き始める。
大伴神社を過ぎると望月宿も終わりで、この辺りから上り坂にな
っ て 左 に カ ー ブ し 、直 進 し て 突 き 当 る 寸 前 で 中 学 生 の 女 子 二 人 か ら 、
﹁おはよう御座います﹂と声をかけられる。
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- 38 -
突き当って右へカーブすると老人のケアーセンターがあり、昨日
も見かけたように最近はこういう老人の施設が多く、高齢化社会を
実感する。その先にある大牧小学校の向かい、一四二号線を越えた
所に御巡見道標が立っている。
その少し先のバス停で高校生らしい女子がしゃがんでいるので、
今度は私から﹁おはよう﹂と声をかけると、彼女は前の言葉を省略
し て 、﹁ ご ざ い ま す ﹂ と 言 っ た の に は 笑 い を こ ら え て し ま う 。 よ く
もタイミングを合わせて後だけ言ったものである。
今日は朝から藤を小ぶりにした白い花を目にして、どちらを向い
ても満開である。これはアカシヤで、つい歌を口ずさんでしまう。
〇
あい
やがて道標﹁茂田井宿方面﹂①辺りから急な下り坂になるが、こ
の茂田井宿は望月宿と芦田宿の間にある間の宿である。
茂田井宿の入口で細い道を進むと、江戸時代の面影が残る民家が
現れ、道が上り始めると右側に白壁の塀が続いている。
- 39 -
さかばやし
門前に杉の葉をまり状にした酒 林が下がっているのは、御園竹と
いう銘柄を造る武重本家酒造②で、ここから牧水という銘柄の酒が
出しているのは、若山牧水がきて愛飲したためだろう。
酒はしづかに飲むベかりけり﹂とある。
門 前 の 向 か い に 若 山 牧 水 の 碑 が あ り 、﹁ 白 珠 の 歯 に し み と ほ る 秋
の夜の
その先右側にも白壁の塀が続いているが、ここは元禄二年︵一六
八九︶創業という大沢酒造で、江戸時代は茂田井の庄屋も勤めてい
た。今は酒造だけでなく、しなの山林美術館や大沢酒造民俗資料館
も開いて、地域社会にも貢献しているようである。
外に出ると茂田井村高札場跡とあり、ここには﹁大沢家は、元治
元年︵一八六四︶水戸浪士︵天狗党︶が中山道を通過した際、それ
を追ってきた小諸藩士五百人の本陣になった﹂とある。
その先に大きな馬頭観世音があり、この辺りも古い白壁の家が残
っていて、石原坂を上り切ると茂田井の一里塚跡がある。
この茂田井もなかなか素晴らしい街並である。
- 40 -
〇
立科芙蓉カントリー倶楽部という看板の前に出てきて右へ曲るが、
ここには﹁笠取峠まで四・四キロ﹂と標示してある。
その先で芦田川を渡ると芦田宿に入って下り坂になり、左側に見
えてくるのは立科町役場である。旧道右側の本陣③だった土屋家は
門が立派で、その斜め向かいには脇本陣だった山浦家がある。
芦田宿は慶長二年︵一五九七︶に設立され、江戸幕府の交通政策
施行︵慶長六年︶よりも四年前で、北佐久では一番早くできた。
本陣土屋家は問屋を兼ね芦田宿の開祖で、本陣御殿︵客室︶は寛
政十二年︵一八〇〇︶に再建され、往時をそのまま伝える建物は中
山道唯一といわれる。
その先左側に連格子を残す金丸土屋旅館は昔から旅籠だった家で、
もしも宿泊することになった場合に今回メモしてきた宿である。
その先左へ入った所にある正明寺④は飾り気のない質素なものだ
が、これが明暦二年︵一六五六︶開山の寺だろうか。
- 41 -
茂
田
井
宿
の
街
並
芦
田
宿
の
元
本
陣
- 42 -
旧道は道なりに少し坂を上り、宿場の出口に常夜灯⑤がある。常
夜灯は一四二号線と二五四号線と二つの国道が交差する所にあり、
ここから天然記念物の笠取峠の松並木が始まるが、並木は上り道で
石畳が整備されている。
笠取峠の松並木は、慶長七年︵一六〇二︶徳川幕府が小諸藩に赤
松 七 百 五 十 三 本 を 下 付 し 、芦 田 の 町 外 れ か ら 笠 取 峠 ま で 植 え さ せ た 。
現在は百十本に減った並木は八百メートル続いている。
松並木の途中右手に伊勢社があったり、歌碑があったりするが、
松の根方にときどき可愛らしい道祖神がおいてある。
並行して走る国道も上り坂だから、車もあえぎながら走って行く
が、排煙は松にとって辛いだろう。歩いている人がいないと思って
いると人影を見かけ、約百メートル先にも男女が視界をかすめる。
新道と交差する所にはトイレなど小休止できる場所があり、ここ
には金明水⑥という飲み水がある。金明水は江戸時代に笠取峠の小
松屋にあった二つの名水の一つで、もう一つは銀明水という。
- 43 -
そこは車も駐車できるようになっているから、ドライブの人も小
休止するようである。その目の前で国道と交差してまた松並木が続
くが、その先ですぐ国道と合流する。
国道と合流し上り坂を車のあえぎに急かされ、左側の歩道を歩い
ていると、やがて右に笠取峠の一里塚を見つけて、その先で笠取峠
の道標にたどり着く。
峠を上り終えると急に下りに入るが、そこには学者村などという
別荘が分譲されていて、右側には道標が立っている。その下り始め
た道が右へカーブする寸前で、旧道は新道と分かれて右へ進む。
この道は車には出会わないから歩きやすく、ちらちら見え始めた
二人の男女の姿をとらえると、やがて追いついて、そのシニア世代
の夫婦と会話しながら松尾神社⑦に着く。
松尾神社は酒とゆかりがあるらしく、日本第一酒造之祖神の碑が
あり、境内には幾つもの社が合祀されている。
〇
- 44 -
松尾神社からは緩い下り坂で、宿場らしい趣を感じながら長久保
宿に入る。間もなく右側に立派な家が現れ、ここが本陣⑧だった石
合家である。
ここの本陣は上段之間・二之間・三之間が現存する。書院様式で
寛永︵一六二四︶前後の風格がしのばれ、中山道旧本陣の中でも最
古の建築として貴重である。石合家には江戸初期よりの古文書・高
かまなりや
札など貴重な史料が残されている。
その先右側にあるのが釜成屋⑨の竹内家で、その手前の四辻を右
へ進むと川を渡った所に観音寺⑩があり、左へ進むと国道を渡った
所に長安寺⑪がある。
釜成屋は寛永時代より昭和初期まで酒造業を営み、この建物は江
戸時代前期といわれるが不詳である。屋根は当初板葺きだったが昭
和五十年に葺き替える。
また観音寺は宝徳元年︵一四四九︶覚信の開基で、ここの本尊の
木像地蔵菩薩立像は室町時代の作と推定されている。この仏像は寛
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永十六年︵一六三九︶京都智積院より贈られた興教大師示眼千体の
仏の一つといわれる地蔵尊である。
釜成屋の前を通り過ぎると突き当り、右へ行くと長門町役場があ
り、左へ行くのが旧道でそのまま進むと国道に合流する。
ここからは国道を歩くことになり歩道がない所もあると聞くと、
車が走り抜けるのが恐くて気分も悪く、排気ガスを吸いながら歩く
のはたまらない。しかも見るべきものは一里塚跡ぐらいである。
強いて言えばレストランなどがあるから、それらを利用する人は
国道を歩くのも良いだろう。ただ先ほど長久保役場の方へ曲ると食
堂があり、サービスの良い女将が気に入ってそばを食べてきた。
ちょうど国道との合流点に例の長野県や環境庁が推薦する自然歩
道という道標が立っているので、そちらを歩いてみることにした。
しかし、この自然歩道は全くなにも見るものがない。ただ一つだ
け町指定文化財の通夢道人遺跡はあったが、御堂の中は倉庫のよう
になっていて廃寺同様である。
- 46 -
〇
そこで途中から国道に戻ることにしたが、やがて国道から左へ斜
めに進む道が現れて、これを歩いていくと落合橋に出てくる。
国道は依田川を大和橋で渡るが、旧道はその南側の落合橋を渡っ
これより和田宿﹂という大きな石の道標が立ち、歩道
て い た か ら 、歩 い て き た 道 は ち ょ う ど 良 い 所 に 出 て き た こ と に な る 。
﹁中山道
が現れるから安心して歩ける。左側に発電所を見ながら進むと、右
側に水明の里と彫られた石を見て、依田川の青原橋になる。
この和田村辺りの中山道は、右側の美ヶ原高原のすそを東から南
へ 抜 け 、和 田 峠 辺 り か ら は 左 側 の 霧 ケ 峰 の す そ を 北 か ら 西 へ 抜 け て 、
諏訪湖の北側に出る道筋である。
川の右側の旧道を歩き始めると下和田中組・上組と進むが、中組
のバス停の裏には大きな馬頭観世音がある。
和田村消防団の前には立派な門構えの家があり、また羽田という
名字の家が多く、間もなく三千僧接待碑⑫があり、その先には供養
- 47 -
塔・石碑群がある。
・
三千僧接待碑は江戸中期、諸国遍歴僧侶に対する供養 接待を発願
して建立した碑で、当初は近くの慈眼寺境内に建立されたが、一千
僧接待達成後さらに三千接待を発願し、往還僧にあまねく知らせる
ため、寛政七年︵一七九五︶に現在の道沿いに移された。
左側の森は若宮八幡神社⑬だが少し寂しい姿で、この神社の脇に
和田城主だった大井信定と子正信の供養塔がある。父子は天文二十
二年︵一五五三︶武田信玄と戦って一族全てが戦死して、ここに葬
ら れ た が 、こ の 墓 碑 は 元 禄 六 年 ︵ 一 六 九 三 ︶信 定 寺 住 職 が 建 立 し た 。
その先の和田の一里塚は立派な石碑で江戸より三十九里とある。
〇
やっと左に大きな石標﹁是より和田宿﹂⑭が現れ、この辺りはガ
ードレールで守られているが、宿場へ歩いて行く人間には行き先が
ガードレールで阻まれる。
和田小学校の前を通り、八幡神社⑮の前を過ぎると宿場に近いこ
- 48 -
とを感じる。八幡神社は和田城主大井氏の居館の鬼門除けに作られ
た と い う 伝 承 が あ り 、本 殿 は 十 八 世 紀 前 期 の 建 築 と 推 定 さ れ て い る 。
八幡神社の西側奥にあるのが菩薩寺⑯で、なかなか立派な寺のよ
うだが、全面的に修理中である。
旧道を進み追川を渡ると和田宿で、この宿場は文久元年︵一八六
一 ︶失 火 の た め 脇 本 陣 辺 り か ら 八 幡 神 社 ま で 百 七 軒︵ 宿 の 三 分 の 二 ︶
を焼失した。しかし同年十一月に和宮一行を迎えるため、幕府から
で げ た
特別助成金を得て四ヶ月で完成させ、今も残る本陣・脇本陣・旅籠
などが再建された。
追川を渡った右側に古い出桁造りで格子戸のかわちやがあり、そ
の家と川との間にある細道を進むと黒曜石石器資料館がある。
更に旧道を進むと右奥に信定寺⑰があるが、この寺は武田信玄の
信濃攻めで討死した和田城主の大井信定の菩提を弔うために、天文
二十三年︵一五五四︶に建立した。
次の四辻の左角には立派な本陣⑱がある。
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笠
取
峠
の
松
並
木
和
田
宿
の
元
本
陣
- 50 -
本陣の先右側の奥まった所に脇本陣⑲があって、その手前の細道
を山の方へ三百メートルほど進むと新海神社⑳がある。
〇
今夜の宿舎の本亭も本陣や脇本陣と同じ頃の建物で、大広間の欄
間には江戸時代の大きな高札が二つかけられ、その大きさと厚みか
ら 重 量 を 想 像 し て 、昔 の 家 の 造 り が い か に 頑 丈 な の か を 再 認 識 す る 。
頼んだビールを持ってきた女将に、今朝ここを紹介された話をす
ると、ここには旅館が二軒しかないと言うので今朝の謎が解ける。
女将が﹁明日の和田峠を越えるとき、食べ物を売っている所がな
い か ら 、お に ぎ り で も 作 っ て 上 げ ま し ょ う か ? ﹂と 言 っ て く れ る が 、
この辺りの配慮も嬉しい限りである。
ただ難点を捜せば、屋敷が広いためにトイレの場所が遠く、しか
も和式であるという点だが、七千円だから文句は言えない。
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和田から下諏訪へ
朝の食事をしながら、女将に下諏訪の宿で良い所を教えて貰い、
電話すると諏訪大社下社秋宮の境内にあると言う。
〇
旧道を歩いていると屋号をつけた家が目につくのは、宿場街によ
く あ る 姿 で あ る 。し か し 、そ れ に し て も 昨 日 か ら 気 づ い た こ と だ が 、
バスの停留所が半坪から一坪ぐらいの木造の家である。
それは小屋というより建物という方が良いぐらいの造りで、とき
には茅葺屋根のものもある。和田村に入ってから製材や木工などの
工場や工房があるのは、江戸時代に木材の運送を担っていたための
こうさつば
伝統が、今も継承されバス停にまで現れているのだろう。
高札場や道祖神の前を過ぎる。高札場は幕府の高札を交通量の多
い所に掲示していた場所で、法度・次宿までの駄賃定書・犯罪人の
罪状などをしるし、人々に周知徹底させたものだが、旅人はここで
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- 53 -
笠などのかぶりものを取る習わしだった。
その先は緩い上りになって四つ辻に出るが、四つ辻というより数
メートル先の分岐する道を入れると五つ辻かもしれない。
右諏訪街道﹂という道標①がある。
こ の 辻 の 角 に ﹁ 中 山 道 の 一 里 塚 跡 ︵ 江 戸 よ り 五 十 里 ︶﹂ と ﹁ 左 松
澤歩道
ここで斜めに入る道が旧道で民家が並んでいて、やがて分かれた
右側の国道と合流する。
この後は国道を歩くことになり、歩道がないから注意が必要であ
る 。﹁ チ ェ ー ン 着 脱 場 ﹂ と 出 て い る 所 か ら 、 歩 道 の よ う な も の が 現
れるが、これは着脱場として利用しているらしい。この先は坂道に
なるので、積雪の時期にはチェーンが必要なのだろう。
依田川を渡り、カーブすると右に大きな常夜灯があり、左に馬頭
観世音がある所から、斜め左へ坂を上るのが旧道である。この道は
下草のハイキングコースのような道で、あえぎながら上ると、右下
から車が走る微かな音が聞こえる。
- 54 -
間もなく唐沢の一里塚②で樹木は残っていないが、塚は二基とも
原型のままだという。すぐ先で道は下って国道に出て、その先で左
へ入る道は進入禁止になっているから、そのまま国道を歩く。
和田川を二之橋で渡ると、右に観音分教場跡とあり、そのまま進
むとトンネルが近いという標示がある。
旧道がトンネルに入る訳がないから心配になり、二百メートルほ
ど戻って工事をしている男性二人に訊く。すると旧道はこの道で間
違いなく、そのまま進んで橋を渡らずに右へ曲ると、その先が和田
峠の入口で道標が立っていると教えてくれる。
事実、トンネルの手前で川を渡らずに右へ川沿いの道を進むと、
すぐ舗装道路は二叉に分かれるが、その真中にある下草のハイキン
グコースが旧道である。
〇
お め く ら
この男女倉入口③からは大体道標が立っているから分かりやすく、
間もなく三十三体観音④がある。
- 55 -
三十三体観音は、この山の中腹にあった熊野権現社の前に並んで
いた石像である。旧道の退廃とともに荒れるにまかせていたが、昭
和四十八年︵一九七三︶の調査発掘により、二十九体が確認され、
この旧道沿いに安置された。
ひいひい言いながら坂道を上ると国道と接し、左に休憩所が現れ
るが、今日は休みなのか、今は営業していないのか。
その向かいには古い建物の接待茶屋⑤があり、縁側には﹁御記帳
下さい﹂とあるが、その記帳ノートが見当らない。
この接待茶屋は江戸呉服町の豪商かせや与兵衛が、文政三年︵一
八二〇︶中山道の旅で峠のきびしさに驚き、難儀を幾分でも助けよ
うと金千両を幕府に寄付した。
その金の利子百両を二分して、碓氷峠の坂本宿とこの和田宿に五
十両づつ下付し、文政十一年︵一八二八︶に設置された施行所の一
つで、十一月から三月までは峠を越える旅人に粥と焚火を、牛馬に
は年中小桶一杯の煮麦を施行した。
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その脇で湧水を汲む人達二ー三人が順番を待っているので、美味
しい水かと訊くと、わざわざ下諏訪から汲みにくると言う。それな
ら余ほど美味しいのだろうと飲ませて貰う。
上り道ばかりの中に少し下りがあって、近藤谷一郎巡査殉職の地
の碑がある。その先の避難所を過ぎると石畳になるが、意外に歩き
にくいものである。
江戸から五十二番目の広原の一里塚⑥が現れ、ここには和田峠遺
跡群とあるが、旧石器時代の石器の材料になった黒曜石は、和田峠
周辺に多く産出されている。
その先に洗い場や釜場やトイレが用意されているのはキャンプ場
で、ここで宿が用意してくれたおにぎりの昼飯を食べる。更に少し
進むとオートキャンプ場もある。
その後は何度か国道を横切って、下草の上り坂を歩いて行くが、
道標が立っているので間違うことはない。途中の歩きは苦しい限り
で、昔は東餅屋⑦があった所も今使える売店はないようである。
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標高千五百三十一メートルの和田峠は急坂が多く、降雪の際はも
とより雨や霧の日も旅人は難渋した。この峠の唐沢、東・西餅屋、
樋橋、落合に茶店があり、人馬の休息所となり、東餅屋には五軒の
茶屋が名物の餅を売っていた。寛永年間︵一六二四ー一六四三︶よ
り、一軒に一人扶持︵一日玄米五合︶を幕府から与えられ、難渋す
る旅人の救助にもあたったが、鉄道が開通すると往来も途絶え、五
軒の茶屋も店をたたみ、石垣を残すのみとなった。
そして、やっと和田峠の頂上に達するが、そこには御嶽山坐王大
権現と本尊大日大聖不動明王の大きな二基が立っている。
和田峠の古峠は、江戸時代を通じて諸大名の参勤交代や一般旅人
ようはい
の通行、物資を運搬する牛馬の往来などでにぎわいをみせ、頂上に
は遠く御嶽山を遥拝する場所がある。明治九年︵一八七六︶東餅屋
から旧トンネル上を通り西餅屋へ下る紅葉橋新道が開通したため、
こ の 峠 は ほ と ん ど 通 る 人 が い な く な り 、古 峠 の 名 を 残 す の み で あ る 。
〇
- 58 -
ここから峠の下りで、上りよりは楽だと気軽に考えていたが、下
り始めると思った以上に大変である。
石ころの細い道は一人がやっと通れる道で、しかも断崖状で石が
コロコロ転がり落ちるような急坂である。数メートルおきに立って
いる白い道標がなければ、どれが道か間違えてしまうだろう。
ゴロゴロしている急坂が右に左に下るから、早足では下りられず
意外に時間もかかる。
やっと小石ではなくなっても細道は続き、先ほどよりは細くはな
いものの沢道のようである。また石が大きくなれば下る歩幅の一歩
が大きくて、ガクンガクンと腰や膝に負担がかかる。
ご
ず
途中で国道と交差しながら下る道は、予想とは全く反対の悪戦苦
闘の道で、こんなに下り道が苦しいのかと再認識する。
やっと少しはましな道になったと思ったときには、牛頭天王があ
り西餅屋茶屋跡⑧があって、国道一四二号線に出る。
そこから右へ進むと一里塚跡とあるから、この辺りから下へ向か
- 59 -
う道があったはずだが、今はその下る道は見当らない。
ここからは国道を歩くことになり、舗装された下り坂だから早く
歩けるが、車との共存だから注意が必要である。
たんたんと歩く国道には自動販売機も休息所もないから、手持ち
の飲み物の残量を気にしながら歩き続ける。
左側に水戸浪士の墓の掲示を見て歩いていると、やがて左斜めに
入 る 道 が 現 れ る 。国 道 と 分 か れ て 進 む と 行 き 当 り の よ う に 見 え る が 、
近づくと右にカーブして国道の下を通り史跡浪人塚⑨に出てきて、
これが水戸浪士の墓である。
元治元年︵一八六四︶十一月二十日水戸浪士の一行千余人が勤皇
の志をとげようと和田峠を越えてきた。それを高島・松本両藩が防
いだ激戦地で、塚には討死した浪士を葬り、桜を植え墓碑が立てら
れている。
それにしても彼ら水戸浪士が大砲まで運んだというから、和田峠
を越えるのは大変だっただろうと推測する。
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塚
人
田
峠
の
接
待
茶
屋
下
諏
訪
へ
の
途
中
・
浪
和
- 61 -
〇
川を渡って進むと、また国道に合流するが、ここからは歩道があ
るから歩きやすい。その先に樋橋宿本陣・延命地蔵大菩薩堂⑩があ
り、ここから国道と分かれて右へ下って行くのが昔の中山道だった
が、今は途中が通行不能だから国道を歩く。
おんばしら
この辺りからは自動販売機も多いから不思議である。やがて左側
に御 柱⑪が立っていて、切り出した御柱を上から落す地点が木おと
し坂である。
御柱は寅と申年の六年目ごとに諏訪大社の御宝殿の造営とともに
もみ
建替えられる御神木で、社殿の四隅に建立される。この春宮一之御
柱は長さが十七米直径一米の樅の大木で、霧ケ峰高原に続く東俣国
有林で伐採され、数千人の氏子奉仕によって曳行された。四月の山
出し祭、五月の里曳き祭は天下の奇祭で有名である。
その先の左側にある諏訪発電所⑫は諏訪地方の電気発祥の地で、
平 成 十 二 年 に 立 て た﹁ 諏 訪 地 方 に 電 気 を 送 っ て 百 年 ﹂の 掲 示 が あ る 。
- 62 -
その先で左の高台に見えるのも御柱のようである。
国道を南下してくると左側に抜川大社があり、更に進むと左側に
見えてくるのは慈雲寺である。
この寺の方へ進む寸前の右側に道標﹁諏訪大社下社春宮﹂⑬があ
り、そこを進むと右側に春宮が見えて脇からも入れる。
やさかとめのみこと
諏訪大社には上諏訪市の上社本宮と茅野市の上社前宮と下諏訪の
下 社 春 宮 ・ 秋 宮 の 四 社 が あ る 。下 社 の 祭 神 は 八 坂 刀 売 命 ︵ 女 神 ︶で 、
二 月 か ら 七 月 ま で 春 宮 に 鎮 座 し 、八 月 一 日 の 御 舟 祭 で 秋 宮 へ 遷 坐 し 、
へいはいでん
翌年二月に春宮へ帰座される。
春宮の幣拝殿は安永八年︵一七七九︶に完成したと考えられ、各
さゆうかたはいでん
所に彫られた建築彫刻の数の多さと躍動感にあふれた表現に特徴が
ある。また左右片拝殿は安永九年︵一七〇八︶に造営された。これ
らは国重要文化財である。
ただし坂を下る途中の右角に中山道と諏訪宮との分岐を示す道標
があって、そこを回り込めば表から春宮に入ることになるが、その
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西側にある太鼓橋は御遷宮の神輿だけが通る。
〇
春宮の方へ回り込まずに真っ直ぐ進むと、やがて下諏訪宿に近づ
いたことを実感する。左側には階段を上る参道が現れるが、これは
先ほど見えた慈雲寺⑭のもので、階段を上ると国道を渡った所に立
派な山門と境内がある。
慈 雲 寺 は 正 安 二 年︵ 一 三 〇 〇 ︶一 山 禅 師 の 開 山 に よ る 名 刹 で あ り 、
梵鐘は応安元年︵一三六八︶に作られたものであり、境内にある天
桂の松などは貴重な文化財である。
参道の上り口の街道沿いに龍の口があり、この龍の口は江戸時代
中期のもので、ここから出る水は参拝者のために作られたが旅人の
喉も潤した。
み さ く だ
その先右側に小さな一里塚碑があり、この辺りには旧家が多く、
左側には御作田社⑮がある。
諏訪大社下社の御作田祭︵御田植神事︶は、毎年六月三十日この
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御作田社の境内で行われる。植えられた稲は一ヶ月後の八月一日に
諏訪大神の神供として捧げられたと伝えられ、御作田の早稲として
諏訪七不思議の一つにあげられている。
た ん が
その先の四つ辻には常夜灯があり、その前に番屋跡とある。この
辺りは旦過湯などの温泉が多く、今井邦子文学館⑯などもある。
以ま飛とたび
その先で旧道は国道と合流するが、その国道の方の左角に来迎寺
⑰ が あ り 、﹁ あ ら さ ら 無 こ の 世 の ほ か 能 於 も 悲 て に
かなやき
の阿ふこともか那﹂という和泉式部の歌碑がある。
来迎寺の境内にある銕焼地蔵は、下諏訪に奉公していた娘を守っ
た地蔵で、その娘が後年の和泉式部だったという。
この合流点から道幅が狭いのに、トラックなどの車が多いから歩
く人はドキドキで、温泉巡りの道具を持った人は立ち往生する。
その街道沿いに和宮様のお泊り所で明治天皇御小休所⑱となった
本陣遺構があり、すぐ先には諏訪大社下社秋宮⑲がある。
秋宮の幣拝殿は安永六年︵一七七七︶に落成したもので、二重楼
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下
諏
訪
宿
の
元
本
陣
諏
訪
大
社
下
社
秋
宮
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門造りと呼ばれ全体に見事な彫刻を施して、素木の生地を生かした
清楚で独特のおおらかさがある。神楽殿は天保六年︵一八三五︶に
落成し、左右片拝殿は安政十年︵一七一八︶に造営されたが、これ
らは国重要文化財である。
〇
今日は宿に着くまで約二十五キロ、途中で和田峠の難所を越えて
きたが、終わってみればそう快な気分である。
秋宮の境内にあるホテル山王閣は一泊二食つきで六千八百円とい
うから、安かろう悪かろうではないかと思いながら予約した。
しかし泊ってみたら風呂や南側の部屋からは諏訪湖が見え、料理
も 満 足 で き て 素 晴 ら し い も の で あ る 。だ か ら か 土 曜 日 は 満 室 ら し く 、
トイレは共同でも洋式があるのは嬉しく、温泉だから何回も入って
足の養生ができる。
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下諏訪から洗馬へ
ホテルの食事が七時半からだったこともあって、いつもより出発
せ
ば
が一時間遅い九時になってしまう。
今夜の宿を予約するため、洗馬宿辺りに泊る所がないかをホテル
の従業員に訊くが知らないと言う。調べてきた宿舎についてのメモ
を見て二軒に電話するが、やっていないとのことである。
そこで塩尻にビジネスホテルはないか、再度ホテルの従業員に訊
くと、塩尻なら何軒かあると言って電話帳を調べてくれる。
その塩尻駅前のビジネスホテルに電話を入れると、夜も朝も食事
はないというが予約する。従って今日は洗馬まで歩いて、JRで一
駅だけ戻って塩尻で泊り、翌日は洗馬から歩き始める積りである。
〇
北からきた一四二号線と旧道とが合流する所から、狭い道にも拘
わ ら ず 大 型 車 な ど 車 が 多 く な り 、国 道 は 秋 宮 の 前 で 西 へ 曲 っ て 行 く 。
- 68 -
- 69 -
ただし旧道は秋宮まで行く少し手前を西へ進むが、すぐ秋宮の前
で西へ曲った一四二号線と合流する。ただ合流しても信号を二つぐ
らい越えると、旧道の方が左斜めに進んで行く。
国道と分かれた旧道には間もなく右角に大きな常夜灯があり、右
を向くと鳥居①が立っているから、その奥に下社春宮があるという
位置にあたる。
旧道を道なりに進むと突き当り、右へ曲ると一四二号線に出て、
国道と一緒に砥川を富士見橋で渡る。渡って左へ曲ると、渡る前に
突き当った道と同じぐらいの位置に道があり、それを直進すると小
川 を 渡 る 橋 が あ る 。本 来 の 旧 道 は 真 っ 直 ぐ 砥 川 を 渡 っ た は ず だ か ら 、
富士見橋ができてから変わったのだろう。
この小川の橋を渡ると少し広い道になり、やがて左へ曲ると渡辺
家②という旧家がある。この家は十八世紀中頃に建てられ、十九世
紀中頃に改築されて現在に至っているが、渡辺家からは三人の大臣
が出ているそうである。
- 70 -
街道の右側に平福寺③があり、寺を出て左へ曲ると、道を渡った
向かいに八幡宮社があり、ここに合祀されている神社の数が多い。
旧道に戻って進むと、新道との交差点の左角に道標﹁右中山道
左 い な み ち ﹂④ が あ る が 、こ れ は 寛 政 三 年 ︵ 一 七 九 一 ︶建 立 で あ る 。
そこで道標に従って右へ進むと、やがて国道二〇号線と交差する
が、この交差点の先には二つの道がある。左の道を進むと三十メー
さん
トルほど先に一里塚跡⑤と彫った丸石があり、その先左側には岡谷
自動車教習所がある。
横河川を大橋で渡ると左角の空き地に天満宮・蠶王神社・道祖神
の三基が立ち、そこからは家名や屋号を入れた蔵を持つ家が多い。
右側の火の見やぐら脇から細道を進むと、木造聖観音坐像の御堂
⑥があり、この敷地は今井小学校跡地とある。
塩尻峠に入る寸前の旧道沿いに、明治天皇今井御小休所の碑⑦が
立っている屋敷は、この地を開き茶屋本陣だった今井家である。
その立派な門構えの前を通り過ぎると、左側から車が通り抜ける
- 71 -
音に気づいて国道が近いことを知り、やがて左の視界が開けると岡
谷ICである。
〇
塩尻峠を上り始めて後方を振り返ると、ここからは景色が良いは
ずだが、広がっている諏訪湖が雲で少し霞んでいる。
雨が心配なのは何度も撮りにこれない写真の出来が気にかかるか
ら で 、 今 の と こ ろ は な ん と か も っ て い る 。︵ 表 紙 の 写 真 ︶
左へカーブする所に右へ進む道があり、その角の石船観音⑧は本
尊馬頭観音が舟の形をした台石の上に祀られていて、そこから石船
観 音 と 呼 ば れ て い る 。特 に 足 腰 の 弱 い 人 に 霊 験 あ ら た か だ と い わ れ 、
境内に豊富な清らかな水が流れ、参拝者の喉をうるおしている。
この石船観音の所で右へ進むと、左側の木立の中に中山道の大石
がある。木に覆われた上り坂は舗装道路で、車は少ないから歩きや
すいものの厳しい上り坂である。
一度だけ追い抜いて行った車もあえいでいたが、距離の短いこと
- 72 -
が救いである。この峠道は常に後ろの下方から車の音が沸き上がっ
てきて、その中に微かな鳥のさえずりが聞こえる。
頂上には明治天皇塩尻御野立所の碑が立っている。ただ頂上の浅
間神社に鳥居はなく、小さな石祠が木陰に立っているだけである。
明治天皇御巡幸の碑は街道を歩いていると方々で見かけるが、こ
れは昭和八年︵一九三三︶文部大臣指定の史跡名勝天然記念物保存
法により作ったとあるが、今日これの価値は計りしれない。
峠から下り始めると、すぐ明治天皇御膳水所の碑⑨が立っている
が、ここは茶屋本陣だった所である。
この下り坂も急勾配だが舗装してあるから歩きやすく、石組みの
階段だと足を下ろす度に膝や腰に負担がきついが、舗装だと流れる
よとうみち
ように足を運べるから負担が少ない。
右側に夜通道⑩という男女二体の地蔵があり、いつ頃か片丘辺の
ある美しい娘が岡谷の男と親しい仲になり、男に会うために毎夜こ
の道を通ったという。その先に東山の一里塚がある前を通るとき、
- 73 -
井
の
明
治
天
皇
御
小
休
塩
尻
峠
・
夜
通
道
の
地
蔵
所
今
- 74 -
十二時のサイレンが鳴ったから三時間歩いたことになる。
更に、その先二叉の角に馬頭観音があり、そこを左へ曲ると合流
する国道二〇号線に出るが、すぐ左には東明神社がある。
〇
しばらく国道沿いに歩くと右へカーブし、更に左へカーブした所
で 右 斜 め に 入 る 道 が 旧 道 で あ る 。木 々 が 生 い 茂 る 道 を 下 っ て 行 く と 、
馬頭観世音がある所で国道と合流し、また右へ分岐する。
その先はたんたんと下って、やがて国道と交差して突き抜ける。
真っ直ぐに下り坂を進んで行くと長野自動車道の上を通り、嘉永六
年︵一八五三︶の馬頭観世音の前を通る。
すると石垣の上に塀を建てた家が並んでいるが、宿場だったので
は な い か と 思 う ぐ ら い 立 派 な 家 並 で 、こ の 辺 り が 柿 沢 の 集 落 で あ る 。
左角に首塚・胴塚⑪の標識を見て回り込むと、それは個人の畑の
中にある。天文十七年︵一五四八︶武田信玄軍と松本林城主小笠原
長時軍とが永井坂にて交戦し、小笠原軍は破れ多くの戦死者を残し
- 75 -
て退却した。武田軍も首実検をした後、遺体を放置したまま引き上
げたので、柿沢の村人は哀れに思いここに埋葬した。
その先の下柿沢交差点で右の道へ進むと、永福寺と観音堂⑫があ
り、その先で仲町交差点に出る。永福寺は木曽義仲ゆかりの地で、
元禄十五年︵一七〇二︶現在地に伽藍と義仲信仰の馬頭観世音を本
尊とする朝日観音を建立したが、その後焼失した。
た く み
再建は安政二年︵一八五五︶当時の社寺建築界の第一人者である
二代目立川和四郎内匠富昌が請負い、工事中の翌年七十四歳で不慮
の事故で死去した。尚、この二代目立川和四郎は諏訪大社下社秋宮
の神楽殿などを作った人だろう。
〇
左塩尻峠﹂の道標がある。
仲町交差点の辺りから塩尻宿で、交差点から二十メートルぐらい
先 の 左 角 に 、﹁ 三 州 街 道 ﹂﹁ 右 中 山 道
塩尻町交差点辺りが江戸時代は最もにぎわっていたはずだが、今は
市役所をはじめとする町の中心部がJR塩尻駅のある大門に移り、
- 76 -
この辺りは寂しい姿になっている。
交差点の右角に重要文化財小野家住宅二棟⑬と出ているが、住人
がいるのか否か少しうらぶれている。その先に高札場跡があり、本
陣跡に明治天皇塩尻御膳水の碑⑭が立ち、脇本陣跡もある。
筋違いの交差点を右へ進むと、突き当りに塩尻東小学校があり、
﹁是より東中山道塩尻宿﹂の道標があるから、ここから今歩いてき
あ れ い
た道筋が旧道だということである。この小学校の右側に式内大宮
阿礼神社⑮がある。
ここから宿場の外へ向かうと、右に重要文化財堀内伸二氏宅⑯が
あり、この家は今も使っているのか素晴らしい状態で残っている。
この前の道を進んで大小屋交差点で国道と合流してから、進入禁
止にしているような左斜めに入る道が旧道のようだが、その道も川
に突き当って国道と合流した後、下大門交差点で左へ進む。
ききょうがはら
右側に柴宮八幡社と若宮八幡社とを合併した大門神社があり、耳
塚⑰の御堂の前を通るが、昔は耳の病が治るといわれ、桔梗ヶ原の
- 77 -
戦いとか安曇族王とかに関係ありといわれる。
JRと交差して進むと民家がなくなりブドウ畑が続くようになる。
やがて平出の一里塚⑱があり、この左奥にある平出遺跡は縄文から
奈良時代の住居跡だが、そのまま寄り道せずに進むことにする。
再びJRを越えると右側に長野県中信濃農業試験場があり、その
先で国道一九号線に合流する。八百メートルも進むとコスモ石油の
スタンドがあり、その裏へ国道から分かれて進む道が旧道である。
二百メートルも行くと踏切を越えてきた道と合流し、すぐ国道を
ひじかけ
渡って洗馬郵便局の前を通り道なりに進む。
右側に細川幽斎肱懸松とあるのは、幽斎が肱をかけて憩いながら
和歌を詠んだ松があったという。そこから坂を下ると右からの道と
合流する追分で、その角に右中山道という古い道標⑲が立っている
が、ここで合流する道は北国街道脇往還の善光寺西街道である。
ただ昭和七年の洗馬の大火以降、国道が建設されたとき追分は移
設 さ れ た が 、移 設 さ れ る 前 の 追 分 は 肱 掛 松 か ら 右 へ 細 い 道 を 下 っ て 、
- 78 -
今の追分より五十メートルぐらい手前の常夜灯の所だとある。
この辺りから洗馬宿で、追分から十数メートル進んだ右側に細い
道があり、奈良井川の方へ坂を下ると木曽義仲の馬を洗った太田の
清水⑳があるが、これが洗馬の地名の起こりである。
その先で左へ曲るとJR洗馬駅だが、街道は広いだけであまり見
るものはなさそうである。洗馬宿は昭和七年︵一九三二︶四月の火
災 で 宿 内 の 二 百 軒 余 を 焼 失 し て 、昔 の 面 影 は 失 わ れ て し ま っ て い る 。
〇
洗馬駅に停車するJRの本数は少ないが、折りよくも十分ぐらい
で 松 本 行 き が く る 。今 夜 の 予 約 を し た ホ テ ル が あ る 塩 尻 駅 で 降 り る 。
ホテルに着いてから、町に出て散策しながら今夜と明朝の食べ物
を買い出しに行く。しかし、この駅前辺りにはあまり見るべきもの
はなく、旅人には交通の要所だが面白い町ではない。
コンビニで食べ物と酒を買って二千円なら、素泊り代が四千五百
円だから文句は言えないだろう。
- 79 -
分
追
旧
の
尻
・
永
福
寺
の
山
門
洗
馬
・
善
光
寺
西
街
道
と
塩
- 80 -
思わぬ出来事︵閑話︶
小田井宿から岩村田宿へ向かう途中に 晈
月ヶ原がある。そこの牧
場の七ー八十メートル奥にピンクに近い白馬が一頭いる。
不思議な色の白馬を見ていると、
白馬も私をじっと見返してくる。
白っぽいピンクの衣を身につけ、
その下に柔肌の官女を想像する。
すると彼女は私の方へ歩き出し、
目を離さず真っ直ぐ向ってくる。
何か恐怖心が湧き上がってきて、
側まできたらどうしようと思う。
牧場の柵が低いのにも気づいて、
ついてきたらどうしようと思う。
迫られると逃げたくなってきて、
- 81 -
ジットしていられずに歩き出す。
十メートルも行って振り返ると、
彼女も柵側で立ちどまっている。
〇
笠取峠の松並木でチラッと見かけた男女二人は、その後いくら歩
いても見当らない。
右左また右左と曲る坂道を下っていると、
下の方に男女の歩く姿がチラッと見える。
松並木で百メートルほど先にいた男女は、
車できたのでなく歩いているのだろうか?
少し一生懸命歩いてみたが見あたらない。
追いつけないのは下り坂のためだろうか?
しかしなぜか二人に追いつこうとしても、
姿さえも見あたらないのは幻だったのか?
やっと直線になってハッキリ姿が見える。
- 82 -
それでも六十歳前後の夫婦らしい二人に、
なかなか追いつけず早足になってしまう。
やっと追いついて、シニアの夫婦と会話しながら歩く。
﹁早足ですね﹂
﹁いえ、女房は歩き慣れていないんですよ﹂
﹁でも、ご夫婦で歩くなんて、羨ましいですね﹂
﹁主人はときどき歩いているんですけど、私は都合がついたときだ
け、一緒にくるんですよ﹂
﹁ご主人は色々な街道を歩いているんですか?﹂
﹁東海道は歩いたんですけど、中山道は初めてです﹂
﹁お住まいは、どちらですか?﹂
﹁湘南なんですよ﹂
﹁それでは中山道は東海道より不便ですね﹂
﹁そうなんですよ﹂
﹁今晩は和田にお泊りですか?﹂
- 83 -
﹁ええ、そうです﹂
﹁じゃあ、私と同じですね﹂
﹁昨夜はどちらにお泊りだったんですか?﹂
﹁私は望月だったんですよ﹂
﹁じゃあ、長い距離を歩いているんですね﹂
﹁お二人は、昨夜どちらにお泊りだったんですか?﹂
﹁芦田に泊ったんですよ﹂
そ の 先 の 松 尾 神 社 で 二 人 と 別 れ 、こ れ だ け で 終 わ る と 思 っ て い た 。
〇
や っ と 和 田 小 学 校 の 前 ま で く る と 、和 田 宿 に 近 い こ と を 感 じ る が 、
どこに今夜の宿があるのかが分からない。
和田神社の鳥居を過ぎて、八幡神社の前で小学生に出会う。彼ら
に旅館の名前を告げて場所を訊くが分からないと言う。本陣の隣だ
と 言 う と 、﹁ 本 陣 な ら 分 か る か ら 連 れ て 行 っ て 上 げ る ﹂ と 言 っ て 、
一緒に歩き始める。
- 84 -
今まで街道歩きをしてきて、本陣はどこか訊いて大人でも答えて
貰ったことがほとんどないから、特に子供に対する質問に﹁本陣﹂
という言葉を出さないようにしてきた。ところが子供から﹁本陣な
ら分かる﹂と言われて不思議に思ったが、謎はすぐ解けた。
今まで見たこともないオープンで真新しい本陣が旧道沿いに建っ
ていて、これなら大人だけでなく子供も知っているはずである。
子供達に連れられて歩いてくると、立派な門構えの本陣も、その
隣の扉という名の旅館も、今夜の宿の本亭という名の古い建物も、
更に向かいにある脇本陣もすぐ分かる。
宿に着くといつものことながら洗濯をして、その最中に寝転んで
いると寝込んでしまう。やがて隣に男女の話し声が聞こえるのに気
づいて、新たに宿泊客が入ってきたのだと分かる。洗濯したものを
干しても食事まで一時間以上あるため、街の中を散歩に出かける。
〇
和田宿の大広間で夕飯のテーブルに着くと、もう二人分が隣のテ
- 85 -
ーブルに用意されているから、今晩の宿泊は三人のようである。
宿の女将に訊くと和田宿には二軒しか宿がないと言うし、今日は
もう一軒が水道工事中だと言っていたから、先ほど遅れて入ってき
た隣の男女は途中で出会った夫婦だろうか。
も し そ う な ら 先 ほ ど 隣 か ら 小 声 で チ ラ ッ と 聞 こ え た 、﹁ あ の 人 は
京 都 ま で 行 く 計 画 だ と 言 っ て た け ど ﹂と い う の は 私 の こ と だ ろ う か 。
先に大広間で食事をしていると、襖が開いて夫婦が入ってくる。
目が合うと二人はビックリして、お互いにビールを注ぎ合う。
翌朝、隣の夫婦は女将に頼んでいたように五時過ぎに出たようで
ある。その音を夢の中で聞きながらうとうとしていたが、六時にな
ると起きる気持ちになり、食事を終えて八時前に宿を出る。
和田峠の苦しい上りの中で休憩しながら昼食を済ませ、厳しい下
りを終えてやっと国道に出てくる。たんたんと国道を歩いて水戸浪
士の墓にくると、男女が休んでいる姿が遠くからでも見える。
近寄ると二時間半も前に同じ宿を出た隣の夫婦で、さすがに奥さ
- 86 -
んは疲れている。幾つか言葉を交わした後で訊く。
﹁ところで昼は食べたんですか?﹂
﹁自動販売機がないから、飲み物がなくて食事もできないのです﹂
ぼやいているが、こちらも飲み物が不足気味で分ける水がない。
﹁お先に﹂
と言って、二人を追い抜いて歩き始めると、国道を潜った所の工
場 の 門 前 に 自 動 販 売 機 が あ る 。そ こ で 冷 た い お 茶 の 缶 を 三 本 買 っ て 、
もう一度夫婦の所に戻って二本を届けると喜んでくれる。
〇
昨年、初めて泊りがけで長距離を歩いたときは、一日に二十キロ
ぐらいを歩き始めて三日目の深夜、足腰にひどい痛みを感じて四日
目は何度も止めようかと思った。
それまでの二日間は痛いことは痛いのだが、まだ我慢ができるぐ
らいの痛みで、痛みというより疲れといった方が良いものだった。
それが三日目になると、腹筋や足や膝が痛くなって、右足に痺れ
- 87 -
のようなものを感じた。そして、その日の歩きが終わり寝ている深
夜、腰に刺すような痛みが走って何度も目が覚めた。
しかし翌朝、目が覚めると不思議に痛みがなくなり、その代わり
足を引きずるような歩きになって、特に階段の上り下りに支障があ
るような状態になった。もうここで歩きを止めようかと何度も思っ
たが、なんとか続けたいという意思の方がうちかって、歩く距離を
少し短くすることで続けることができた。
そして一週間も経つと痛みが不思議に薄れて、一日に三十キロ歩
くには抵抗があっても、二十五キロは歩ける自信がついた。たった
十日間で大変な変わり方だと自分自身が驚き、六十代の肉体にも未
だ 柔 軟 性 や 順 応 性 が あ り 、鍛 え れ ば 可 能 性 を ひ め て い る と 実 感 し た 。
そんな昨年に対して今年はどうだろう。三泊目の深夜の睡眠中に
も走る痛みはなかったし、四泊目の深夜でさえなにも起こらず翌朝
も順調である。しかも、今回の方が難所の多い街道歩きをしている
のに、痛みがないのは全く不思議である。
- 88 -
歩いているとき疲れを感じても、また翌朝になって足がだるくて
も、昨年のような刺すような痛みはない。和田峠の上り下りではア
キレス腱に負担を感じて、明日は後遺症が出るのではないかと思っ
ていたが、それもなにもなく済んでいる。
さて毎日平均二十キロも歩いていれば、足腰に刺すような痛みが
なくても、足腰がだるいとか、疲れていない訳はない。だから宿に
着くとフクラハギを揉んだり、風呂に入って手入れをしたりする。
普段は風呂があまり好きではないから大体シャワーが主体で、湯
船に入っても烏の行水なのに、このときだけは風呂に入って出来る
だけ長く足腰を暖める。だから熱い湯はとてもダメで、今回もその
ために湯に入れなかった民宿もある。
ところが温泉ならば何度も入ることができるが、民宿となると何
度も入るわけにはいかない。そこで泊る宿に着くと歩いているとい
う事情を説明して、風呂には二回入れないか懇願する。二回程度は
許してくれても寝る前の遅い時間はダメである。
- 89 -
さて、この昨年と今年の違いはなにによるのだろうか、その違い
を考えてみると以下のようである。
昨年までは、普段のウォーキングで毎日せいぜい四ー五キロ歩く
ようにして、旅に出る寸前の二ー三週間だけ少し長い距離を歩く回
数を増やしてきた。
ところが今年は昨年と大きく違って、冬場の約三ー四ヶ月の間に
否、もっと大きな違いは、泊りがけで長い距離を歩くと
何度も一日十キロぐらいを歩いてきた。その訓練がやはり違うのだ
ろうか?
いう慣れや自信が身体か脳かにできているせいだろう。
いずれにしても昨年も驚いたように、今年も人間の柔軟性や順応
性や可能性を実感している。たとえ得意でもない身体を動かす分野
であっても、やれば出来るということを改めて感じる。
ただし、なにをやるにしても何時ものことながら、やるときは徹
底し集中することが大事だと、愚直に思い込んでやっているが、こ
れも好きなことだから出来るのだろう。
- 90 -
〇
実は逆に、今年は肉体面で昨年と違う不安があった。それは昨年
末に痛風となったことである。
その朝、目が覚めると右足の親指の付け根に激痛があり、赤くは
れてスリッパやサンダルが痛くて履けない。足をなにかにぶつけた
とか、靴の上から踏まれたとか、色々考えても記憶にない。すると
昨春の人間ドックで、また尿酸値が高いと出ていたのを思い出す。
四十代になって尿酸値が高くて食べ物に注意していたのに、五十
代後半になってからは油断して何でも食べていた。だから痛風に違
いないと推測して、すぐ野菜中心の食事に切り替えた。
この病気はプリン体を作る食べ物がいけないというのだが、それ
は大体好きな食べ物ばかりである。でも、こうなれば肉は完全に止
め 、大 好 き な 魚 も 半 減 し 、特 に レ バ ー や カ ニ や エ ビ な ど は 禁 止 す る 。
飲酒についても焼酎はなんともないのに、好きなビールを飲むと
途端に痛み出したから止めて、缶ビール一本分だけ飲酒も減った。
- 91 -
この野菜中心の食事療法に切り替えると、その後は全く痛みがな
くなっただけでなく、三ヶ月もすると体重にもウェストにも効果が
出 て き た 。八 十 二 キ ロ 以 上 あ っ た 体 重 が 七 十 七 キ ロ ぐ ら い に 落 ち て 、
ウェストも五センチぐらいバンドを切ったりした。
更にこの数年いつも肝臓の数値が悪かったのまで改善し、例えば
γーGPTなどは九十前後だったのが四十近くに半減した。
その痛風になってから間がないので、旅の途中でなにか起こらな
いかを懸念してきた。基本的に痛風の体質には歩くことが大変に良
いのだが、歩けないような痛みが出ないかを心配してきた。しかし
結局、幸いになにもなかった。
ただし体重のことで思わぬことがあった。スタートしたとき七十
七キロだった体重が、三日目の下諏訪のホテルで体重計に乗ってみ
ると六十五キロになっているのに驚いた。
若い二十代の頃の体重は常時六十キロだったから、それに近いこ
とになる。間違いではないかと、体重計から一度は下りて、針がゼ
- 92 -
ロを指しているかを確認し、再度乗り直してみるが、やはり六十五
キロである。
ついでにその後のことを書くと、翌日の宿はビジネスホテルで体
重計がなく、翌々日にも体重計に乗ってみると七十五キロである。
こ の ぐ ら い の 体 重 な ら 、厳 し い 歩 き を し て き た 後 だ か ら 納 得 で き る 。
その後も歩いているときは七十四キロ前後で、低いときでも七十
二キロぐらいである。一体あの六十五キロはなんだったのだろうか
と、結局は分からないで終っている。
〇
今回履いて行ったスニーカーは一年以上も履いているもので、新
しいスニーカーは未だ慣れていないために、少しくたびれているが
古いものを履いて出た。
古いと言っても未だ履けないものではないが、少しはがれている
所があったり、中に破れている所があったりするため、雨のときに
水が漏れなければ良いがと思っていた。しかし十日間で一度も雨に
- 93 -
あわないのは幸いだった。
ところが予想しなかったのは靴下である。割合に新しいものと全
く新しいものと履き替えように二足を持って行ったが、その綿の靴
下が三日目ぐらいから破れ出して、毎日次から次に片足か両足分が
破けていく。同じ靴下ばかりを持っているので片方が破れると、破
れた方は捨て、破れていない方は持って行くから、破れていないも
の同士を組み合わせて使う。
あまりにも消耗が激しくて靴下がなくなり、ついに破れてもはい
ていたが、靴下を売っている店が見つからない。地元の人も買うだ
ろうからどこかで売っているはずで、新道ならスーパーとかコンビ
ニがあるのだが、旧道にはそれらしい店が見つからない。
翌日の午後、酒屋のような、八百屋のような店があって、暑いの
でアイスクリームを買う気になる。店に入ってみると雑貨もおいて
あり、ちょうど底をついてきたものがあって訊いてみる。
﹁ポケットティッシュがありますか?﹂
- 94 -
﹁ありますよ﹂
家から五個ぐらい持ってきたティッシュがなくなってきたので、
これで補充できたが、ついでに靴下も訊いてみる。
﹁靴下はないですよね﹂
﹁ありますよ。こんなので良いですか?﹂
立派な綿靴下を持ってきた。これは道中で二ー三度履いたが、破
持参してきたものが安かろう
靴下
それとも靴の中が少し痛んできて厳
けなったのは物が違うのだろうか?
悪かろうだったのだろうか?
しい歩きで擦れて靴下を痛めたのだろうか?
大体、メーカーは靴下の耐久テストなどやるのだろうか?
の引っ張り強度などは測定されているのかもしれないが、何万回ま
そんな余計なことまで考える。
で履けますなどという擦り切れ強度などは測定されているのだろう
か?
- 95 -
洗馬から奈良井へ
奈良井での宿は三ヶ所の電話番号をメモしてきたが、駅に近い方
は 土 曜 日 で 混 ん で い る か も し れ ず 、少 し 遠 い 方 に 電 話 し て 予 約 す る 。
昨日調べておいたように、洗馬駅に出る電車は六時五十八分と八
時十分と十時三十八分で、そうなると八時十分に乗らざるを得ず、
六時前に目が覚めてから食事をしたりしても時間潰しに苦労する。
洗馬で電車を降りるとき、定期券で降りようとする老婦が話しか
け て く る 。﹁ 若 く な い か ら ﹂ と 言 っ た 後 半 が 聞 こ え な か っ た が 、 聞
き直す気にもならないので、こちらから話題を変える。
仕事に行くとか言うので、どんな仕事か訊くと製材所の仕事だと
言う。最近は若い人達がやりたがらないので、年寄がやっていると
言 う か ら 、﹁ 仕 事 が で き る う ち が 花 だ か ら 続 け て 下 さ い ﹂ と 励 ま す 。
﹁ 仕 事 が で き る う ち ﹂ と い う の は 、﹁ 身 体 が 元 気 な う ち ﹂ と い う
意 味 と 、﹁ で き る 仕 事 が あ る う ち ﹂ と い う 意 味 で 、 き っ と 老 婦 は 仕
- 96 -
- 97 -
事から元気を貰っているのだろう。
〇
ちゅうれんのところ
JR洗馬駅から旧道に出て歩き始めると、左側に洗馬宿①の本陣
だった百瀬家の垣内に明治天皇御駐 輦 之 處の碑が立っている。百瀬
家は明治四十二年︵一九〇九︶JR開通で庭の多くを洗馬駅に取ら
れ、更に昭和七年の宿場の火災で邸がほとんど焼けてしまった。
貫目改所もあったという洗馬宿も、焼失したせいか街には見るも
のがない。右側の満福寺を見て、左側の洗馬公園②で手前から覗く
と線路の向こうに鳥居と墓地が見えて、公園の角には道標が二つあ
る 。 そ の 新 し い 方 に は ﹁ 中 山 道 ﹂、 古 い 方 に は ﹁ 洗 馬 宿 ﹂ と あ る 。
坂を下り左へカーブしてJRの下を潜ると、道はS字カーブにな
って最後のカーブの左側に牧野の一里塚跡③があるが、その左側の
高みには牧野公民館がある。
一九号線と合流してから右側にJRが並行している。この辺りの
国道と合流している所は、歩道があるから安心して歩けるが、車は
- 98 -
相当なスピードで走っているので風圧は凄い。
〇
本山宿へ入る所は国道と分かれて右へ斜めに進む。大きな池の端
に水墾田記念碑と双体の道祖神④が立っていて、向かい側は中山道
いけおい
本山宿の道標と石仏・石碑がたくさん並んでいる。
そば切り発祥の地と池生神社社業入口と出ている所に入ると、そ
ば屋の中でシニアの女性達が伝統を守って働いている。週末には行
列ができるぐらい人気があるそうだが、二度目に訪れたときは新そ
ばの初日ということで、平日にも拘わらず昼の時間は満員だった。
この辺りも屋号の家が並んでいて、火の見やぐらの向かい辺りに
は古い家が軒を連ね、川口屋・池田屋・若松屋などは趣がある。た
だ全体的には家の前に車をおいているので写真を撮るのが難しい。
この辺りが本山宿⑤として江戸時代には栄えた場所だが、鉄道の
開通で駅が日出塩にできて衰退したという。
左側に立つ秋葉大権現の先で国道と合流して、二叉になる所まで
- 99 -
進んで国道と分かれる。ただこの間にあった昔の道は川に対面する
と 山 側 へ 曲 折 し て 川 を 渡 っ た ら し い が 、今 は 通 行 不 能 な よ う で あ る 。
国道と分かれると左側に一里塚跡があり、その先に長泉院があっ
て、日出塩公民館で左に曲るとJR日出塩駅である。
そのまま旧道を進むと、左側の民家の間に筆塚と大きな道祖神と
秋 葉 大 権 現 が 三 つ あ り 、そ の 先 の 国 道 を 潜 っ た 所 に 御 岳 公 園 と あ り 、
そこでJRを潜ると熊野神社⑥がある。そのまま進むと潜った国道
と合流するが、JRは左側を走り抜ける。
〇
境川を渡ると木曽路の北の玄関口で木曽十一宿の始まりだが、す
ぐ是より南木曽路の碑⑦があって桜沢の集落に入る。ただ旧道は国
道沿いの崖道を左へ上り、右へ曲って国道を見下ろしながら草道を
進 む 。間 も な く 下 り に な っ て 馬 頭 観 音 が あ る 所 で 国 道 に 合 流 す る が 、
その目の前には明治天皇御小休所の碑⑧がある。
この辺りは立派な家があり、どの家も表札に百瀬とあるのは同族
- 100 -
路
山
宿
の
入
口
こ
れ
よ
り
南
木
曽
本
- 101 -
だからだろうか。洗馬の本陣も百瀬だったのを思い出す。
こ こ は 左 側 に 山 が 迫 り 、右 の 崖 下 に 奈 良 井 川 が 流 れ 景 色 は 美 し い 。
下に片平ダムを見てから街道は川を越えるが、昔の中山道は橋で
なく右へ折れて崖下へ降りたらしい。この川を渡った右上に白山神
社があるが、鳥居は朽ちて参道も小石と草で歩きにくい。
おうちゃくじ
国道が左へ曲る所に民家が現れ、そこで旧道は国道と分かれて、
すぐまた国道に合流する。その合流点の右上にある鶯着寺⑨という
素敵な名の寺は、建物が民家のような姿だが見上げて通り過ぎる。
そこから国道沿いに三百メートルほど進むと、右側の高台に一里
塚跡はあるが、その掲示板が崩れているのは寂しい限りである。
その先で右へ斜めに進む道に道標が立っていて、その沿道に古い
家が建っているから旧道だろう。集落には二つの水場があり、その
先の右側に諏訪社と向かいに幾つかの道祖神がある。
やがて国道からくる道と一緒になり、坂を上って集落の中を通る
と、下り坂になって国道と合流する。
- 102 -
にえかわ
JR贄川駅まで行く手前で旧道は国道と分かれ奈良井川の方へ下
るそうだが、この道は途中から通行不能だというから国道を進む。
国道を贄川駅の前を通って贄川沢の橋を渡ると、左へ少し下った
所に口留番所だった贄川関所木曽考古館⑩があるから、本来の旧道
は川の方から上ってきたのだろう。
贄川関所辺りは、建武二年︵一三三五︶頃に木曽氏が既に関所を
設けていたから、昔は木曽路の押さえとして重要視していた。
〇
贄川宿を歩き始めると大きな立派な家が残っているものの、昭和
五年の火事で宿のほとんどを全焼したためか少し寂しい姿である。
ならかわ
あさぎぬの
元本陣の百メートルほど先に津島神社と秋葉神社の小さな社があ
り、楢川公民館の向かいにある酒屋の脇に麻衣廼神社と観音寺⑪の
大きな標識がある。その脇道から右を覗いてみると、国道の向こう
九 三 八 ー 九 四 七 ︶の 創 立 で 、天 正 十 年 ︵
辺りに観音様らしいものが立っている。
麻衣廼神社は天慶年間
- 103 -
五八二︶戦火により焼失し、文禄年間︵一五九二ー九六︶現在地に
再 建 し た と 伝 え ら れ る 。尚 、六 年 目 ご と の 寅 と 申 年 に 御 柱 祭 を 行 う 。
観音寺の本尊は十一面観音で、山門は寛政四年︵一七九二︶に再
建された楼門で、楢川村有形文化財である。
この辺りにも水場が見られるが、水が不自由だった木曽の宿では
湧き出す水を溜めて、利用できるようにしたものが多く見られる。
また津島神社と秋葉神社があって水場があり、素敵なひのきやと
いう漆器店がある。その脇の細い道を右へ曲るのが旧道で、左へ曲
るとJRに突き当って右へ曲り、高架でJRを越えて国道に出る。
た だ し J R が 敷 設 さ れ る 前 、旧 道 は 突 き 当 っ た 所 を 直 進 し た ら し い 。
国道を進むと右側に枝垂れ桜や石仏群があり、そこから国道の左
に見える土産物店が目印である。その店の前から国道沿いの細い道
を 進 む と 、す ぐ 左 へ 上 る 道 が あ り 、上 っ て 右 へ 曲 る と 民 家 が 現 れ る 。
歩いていると中山道の道標や押込の一里塚が現れ、その先で新道
と合流し、すぐ国道とも合流して橋を渡り左へ国道から分かれる。
- 104 -
やがて、また国道と合流して五百メートルぐらい歩くと、右側に
木曽くらしの工芸館⑫があり、ここは車できた人達の休憩所にもな
っている。
〇
ここから旧道は国道と分かれて工芸館の裏の舗装道路を進むが、
をくりつはては木曽の秋﹂という芭蕉句碑が立ってい
やがて左側に楢川村役場が現れる。ここには木曽漆器会館があり、
﹁送られつ
る。その横から木々が生い茂る道を上ると諏訪神社がある。
この神社は文武天皇大宝二年︵七〇二︶に創建し、天正十年︵一
たむろ
五八二︶木曽義昌は武田勝頼と鳥居峠に於いて戦ったとき、ここに
屯 していた武田軍が敗れるに及んで社殿に放火して退却した。寛永
十四年︵一六三七︶に再建され現在に至っている。
参拝して左へ坂道を下ると先ほどの舗装道路に出るが、合流点に
中山道の道標がある。間もなく漆器店が軒を並べる平沢の街並で古
そうな素敵な店があり、その途中左側にJR木曽平沢駅がある。
- 105 -
貧相な鳥居と小さな社が立つ角地まで商店が続き、その先で右へ
奈良井川を渡る漆橋と、左へJRを越える道に分かれる。旧道は左
へ進んでJRを渡るが、江戸初期には右の奈良井川を渡り、山際の
道を進んで今の奈良井駅の前に出てきたそうである。
漆橋を渡らずに左のJRを渡る前に、例の﹁中部北陸自然歩道﹂
という道標が、JR沿いの道を指しているので心配になる。JRを
渡った所に数軒並んでいる漆器店で訊いてみると、向こうは新しい
道で、こちらが旧道に間違いないという。
国道を進んで奈良井大橋を渡るが、昔の街道はもう少し先で川を
渡ったらしい。だからかJR奈良井駅まではなんの変哲もない道だ
が、駅を過ぎると突然その様相が変わる。
尚、駅前で右側から下ってきた道が江戸初期の中山道で、そこを
上って見ると左側に八幡宮があり、その左奥に二百地蔵⑬がある。
〇
奈良井駅のすぐ目の前には奈良井宿の碑があり、まず右側に枡形
- 106 -
の石積みで、そこの細道を入ると専念寺がある。
奈良井宿は戦国時代に武田氏の定める宿駅となったが、集落の成
立は更に古い。難所といわれた鳥居峠をひかえ、峠越えにそなえて
宿をとる旅人で奈良井千軒と呼ばれるほどにぎわった。今も古い建
物が軒を並べ、土産物屋や食べ物屋や宿屋などの商売をしている。
民宿や旅館も多くメモしてきた津ち川はすぐ見つかったが、予約
した民宿かとうがどこにあるのか見つからない。
その先の越後屋の脇から右へ入る細道には、なにも標識はないが
法然寺である。その左側には酒林をさげた杉の森酒造があり、今夜
の寝酒の銘柄は杉の森に決める。
その先右側に楢川村奈良井伝統的建造物保存地区の碑や水場があ
り、また大宝寺とマリア地蔵が右奥にある。その先の四辻を右へ入
ると奈良井公民館や神明宮があり、民家のような郵便局がある。
右側に御宿伊勢屋があり、明治天皇奈良井行在所⑭が立っている
のは上問屋資料館で、次を右へ進むと長泉寺に突き当る。
- 107 -
平
の
鶯
着
寺
奈
良
井
宿
の
街
並
片
- 108 -
その先に双体地蔵がある鍵の手⑮で、右側に水場と左側に荒沢不
動尊があり、カーブするとすぐ右へ曲る細道があって、その奥には
浄竜寺がある。右側の櫛問屋の中村家は代表的な民家で、左側には
奈良井宿民芸会館がある。この辺りの建物で気づくのは軒を上部か
ら支えているもので、これは雪の重みから軒を守るためらしい。
しづ
かねとお
その先右側に高札場⑯があり、その先の突き当りのように見える
所に鎮神社⑰がある。
鎮神社は寿永から文治︵一一八二ー八九︶の頃、中原兼遠が鳥居
峠に建立、天正年間︵一五七三ー九一︶に奈良井氏が現在地に移し
たと伝えられる。元和四年︵一六一八︶に疫病流行を鎮めるため、
下総国香取神社を勧請したことから鎮神社と呼ばれるという。本殿
は寛文四年︵一六六四︶の建築である。
青邨﹂と夏草会の碑にある。
隣 に あ る の は 楢 川 村 歴 史 民 族 資 料 館 で 、﹁ お 六 櫛 つ く る 夜 な べ や
月もよく
ここまで一キロぐらい宿場は続き、目の前に鳥居峠が見えるが予
- 109 -
約した民宿が見つからない。土地の人に訊いて戻ってくると先ほど
の酒屋の側で、工事中のため玄関が奥まって気づかなかったのだ。
〇
こ こ の 民 宿 で 驚 い た の は 、女 将 が 作 っ た 料 理 の 種 類 が 多 い こ と や 、
洗濯までしてくれる優しさだけでなく、その建物にある。
間口は七ー八メートルで外から見ると小さいものだと思ったが、
中に入ってみると廊下が真っ直ぐのびて五十メートル以上はありそ
うで、片側に部屋や洗面所やトイレや風呂や厨房が並んでいる。
女将の話では間口で税金を取られた時代のもので、JRができる
とき途中を通過することになり、その土地は売ったそうである。
食事を終え裏に回って歩測してみると、民宿の奥行きは七ー八十
メートルで、そこに道路とJRの線路があって、更に土地があると
いうから昔は百メートル以上の奥行きだったのだろう。
その先ふれあい広場を突き抜け奈良井川の川岸に出ると、山口県
の錦帯橋を一つ移したような木曽の大橋⑱が夕暮れの中に美しい。
- 110 -
奈良井から福島へ
朝、食事をしてから奈良井駅の方へ散歩して、江戸初期の中山道
に少し入り込んでみる。早朝の奈良井宿は静かなたたずまいで、駅
の前までくると斜め左へ上る道がある。
そこを上り始めるとすぐ八幡宮があり、その先へ上って行くと道
は二叉になり、右は平沢の方へ向かっているが、先は行き止まりだ
というから進むのを止める。
宿に戻り出発するため清算して、それから今夜の木曽福島の宿を
手配するために電話を借りる。しかしメモしてきた三軒は満員で断
られたり、電話が通じなかったり、今日は休みだったりである。
宿で訊くと福島には宿が多いと言うし、最悪の場合は塩尻へ戻れ
ば、昨日のビジネスホテルに予約なしで泊れるだろう。
〇
歴史民俗資料館①の前を通ると、もう鳥居峠への上り坂で木曽路
- 111 -
- 112 -
の楢川村と木祖村の境で、海抜千百九十七メートルは木曽川と信濃
川上流の奈良井川との分水嶺である。
既に峠を歩いている人達がいて、一組のシニアの夫婦と、もう一
組は若い人も混じる八人のグループである。シニアの夫婦に追いつ
く と 、 後 か ら 子 供 を 三 人 連 れ た 家 族 も 上 っ て く る 。﹁ 今 日 は 日 曜 日
だからハイカーが多いですよ﹂と宿の女将が言った通りである。
このシニアの夫婦とは、この後も離れたり、出会ったりする。そ
して住所と氏名を交換するが、北九州から何日か仕事を休んできた
と言う。ときどき足の遅い奥さんを気遣う夫の姿が微笑ましく、奥
さ ん の 方 が 長 崎 街 道 を 歩 い て い る と 言 う か ら 、そ れ が ま た 羨 ま し い 。
ほうむり
中の茶屋を過ぎると右に小さな石仏が並んでいて、この下に見え
るのが葬り沢である。天正十年︵一五八二︶木曽義昌が武田勝頼の
二千余兵を迎撃し、大勝利を収めた鳥居峠の古戦場である。このと
き武田方の戦死者五百余名で、この谷が埋もれたといわれる。
あえぎながら上る坂も和田峠ほどきつくなく、峯の茶屋②に到達
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してみると距離的にも知れている。ただ峯の茶屋の水場で滑って転
び、腰を打ったので明日以降に影響が出ないか心配になる。
少し下った所から遥かな山並を眺めると、更なる向こうに残雪で
こ う み の と ち
おおわれた白い御嶽山がそびている。
そこから下り始めると、子産の栃や木祖村天然記念物のトチノキ
群がある。子産の栃は幹に大きな穴があり、昔この穴に捨て子があ
って、子に恵まれない薮原の人が育て、子供が幸せになったという
伝説から、この栃の実を煎じて飲めば子に恵まれるという。
間もなく御嶽山遥拝所③の前に出るが、その小高い所へ上ると石
とうげ
碑 や 石 仏 が 多 い 。 そ こ か ら 下 っ た 所 に 丸 山 公 園 が あ り 、﹁ 木 曽 の 栃
うき世の人の土産かな﹂と﹁雲雀よりうへにやすらふ 嶺 かな﹂とい
う芭蕉句碑が二つある。
途 中 か ら 石 畳 の 道 に な り 、馬 頭 観 世 音 や 牛 馬 供 養 塔 な ど が あ っ て 、
里に出てくると天降社の大もみじや昔から旅人が飲んでいる原町の
清水がある。
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この後も急坂で意外に古い家は少なく、薮原宿に入る手前の坂の
途中右側に尾張藩鷹匠役所跡④があり、その先で旧道はJRの線路
で寸断されている。
尾張藩鷹匠役所は、尾張藩が木曽に御巣鷹山を定めて鷹の雛を求
めたもので、初めは妻籠にあった役所を享保十五年︵一七三〇︶こ
こに移した。巣から下ろした子鷹の飼育や山の監視などを行った。
下り切って坂を上れば薮原神社と極楽寺⑤で、坂を上らずに右へ
曲りJRを潜れば薮原宿である。極楽寺は元禄十一年︵一六九八︶
の 建 築 で 、本 堂 の 左 手 は お 六 の 廟 で 、お 六 と は お 六 櫛 の 元 祖 を い う 。
冥土での極楽浄土を願って寄り道をしてくると、鳥居峠から下り
てくる今朝から一緒の夫婦の姿が目に入り、手を振ると向こうも気
づいて応えてくれる。
〇
JRを潜って薮原の旧道に出ると突き当り、そこには木曽路を銘
柄に持つ湯川酒造があるが、創業して三百年以上だという。
- 115 -
そのT字路を右へ戻った所に本陣跡があるから、鳥居峠からの道
はここにつながり薮原宿⑥が始まったのだろう。
この宿場はかつて西からの鳥居峠の上り口として大変にぎわった
が、今その面影は全くない。
T字路から左へ進むと未だ趣を残す街道で、左側には宮川史料館
や 、お 六 櫛 を 販 売 す る 店 が あ り 、右 側 に は 浄 龍 寺 や 高 札 場 跡 が あ る 。
そこを過ぎて新道との合流点の手前に木祖村郷土館があり、機関
車が展示してある角に藪原の一里塚がある。
新道と合流してからJRの下を潜り、上って左へ進めばJR篠原
駅があり、右へ進めば国道一九号線に合流する。
中津川七十K﹂と出ているから、今日は残り
国道に合流してから右下に川が流れ、左側を走る車さえ無視すれ
ば美しい景色である。
﹁木曽福島十二K
が十二キロだし、三日で中津川に着けるということである。
右下にJRの鷲鳥トンネルが見える所で、国道から左斜めへ分か
- 116 -
れる道がある。元の旧道は国道から分かれて下降して、山腹を上り
下りして山吹山へ至るそうだが、現在この道は消滅したり、ふさが
ったりしている。そこで国道から分かれ少し遠回りして、静かな道
を歩くことにする。
右 江 戸 善 光 寺 へ ﹂ と あ る 。﹁ ざ い で ﹂ と は な に か と 考 え
木曽川を菅橋で渡り川沿いに進むと、左からの道の角に道標﹁左
ハざいで
ながら左の川沿いの道を歩いて行くと、この季節は川の中でアユ釣
の人を見かける素晴らしい道筋である。
やがて川から離れて農家が点在する田畑の中を進むと、木祖村林
業会館の前に出てくる。向こうに国道らしいのが見えるので、そこ
にいた草刈をしている老人に宮の越への道を訊くと、国道に出るよ
り橋の手前の道を進んだ方が静かだと言う。
老人と別れてから、やはり国道を歩こうかと思って後を振り返る
と、老人が見ているので好意を無視できず、手を振って教えてくれ
た道へ進む。確かに田園の中を歩いている感じで、車が走らないだ
- 117 -
けでも幸せである。でも、この道は旧道ではないはずだから、旧道
歩きに拘ってきた私があえておかす浮気の道である。
クネクネ曲る道を進むと、間違いなく国道に合流する。そこはも
う山吹トンネルが目の前で、川沿いの道が交差している。
旧道がトンネルを潜る訳がないから、手元の資料にもある川沿い
の道を進むと、やがてトンネルから出てきた国道と合流する。合流
点の看板に﹁山崩れの危険性があるので、この道を進まないで下さ
い﹂とあるが、入るときは書いていなかったのに、出るときだけ書
いてあるのが不思議である。
〇
そ の 先 の 国 道 を 歩 い て い る と 、前 面 に 大 き な 看 板 で﹁ 義 仲 館 は 右 ﹂
とあり、また小さな道標には﹁宮の越駅・巴が渕は右﹂と出ている
ので右へ進む。
巴橋を渡りながら巴が渕⑦を見て、義仲手洗の水の前を通って川
と山の間の道を進むと、民家が並ぶ集落に入る。
- 118 -
この巴が渕は巴状のうずまきで名づけられたが、伝説ではこの渕
に龍神が住み、化身して義仲の養父中原兼遠の娘として生まれ、巴
御前といって、ここで水浴し、泳いで武技を錬ったという。義仲の
愛妾となり、一緒に戦場で戦い、尊霊はここに帰住したという。
有栖川殿下夫妻御小休所の碑がある前を通り、木曽川との間にあ
義仲館、徳音寺﹂と出てくるが、この旧道だとい
る葵公園に出てくる。
そこには﹁右
う田んぼの中の道は先になにも見えないので、旗挙八幡宮と南宮神
社の方へ進むことにする。
葵橋を渡り、JRの下を潜り、戻るように歩き始めると、向こう
から鳥居峠で一緒になったシニアの夫婦がやってくる。
二 人 に 訊 く と 、﹁ 巴 が 淵 へ は 行 か な い で 、 南 宮 神 社 と 八 幡 宮 を 見
て、そこのそば屋で食事をしてきました﹂と言うから、旧道を歩か
ずショートカットしてきたのである。
義 仲 旗 挙 の 八 幡 宮 ⑧ は 義 仲 が 治 承 四 年︵ 一 一 八 〇 ︶千 余 騎 を 従 え 、
- 119 -
ここに平家打倒の旗挙をしたが、時に義仲二十七歳だった。社殿か
たわらの大ケヤキは当時からのもので落雷により傷ついた。
国道を越えた南宮神社⑨は義仲が美濃関ヶ原の南宮大社を分祠勧
進し現地に移し、義仲の戦勝祈願所となった。社殿・本殿は総桧造
りで、江戸元禄時代に再建され、その後も風水害で改築補修した。
〇
夫婦に奨められたそば屋で食事をすると元気になり、葵橋まで戻
って木曽川沿いの道を進む。
JR宮の越駅に近づいた所に木曽川を渡る義仲橋があり、その橋
を渡った所に義仲館があり、その先に徳音寺⑩がある。
徳音寺は正徳四年︵一七一四︶ここに移転したもので、義仲が平
家追討の祈願寺にしたといい、義仲・巴などの墓がある。
宮の越宿⑪も明治天皇御小休所の碑が立っているのが本陣で、脇
本陣・問屋場跡がある。宮の越宿は中山道のちょうど中間地に位置
し、脇街道の伊那へぬける権兵衛街道との追分になっている。
- 120 -
屋
お
六
の
南
宮
社
の
越
問
宿
の
神
原
宮
櫛
藪
- 121 -
ここの本陣は明治十六年︵一八八三︶に大火で全焼し、以後の建
物 だ が 、中 山 道 木 曽 街 道 に 於 い て 江 戸 時 代 の ま ま の 遺 構 が 現 存 す る 。
その先には明治天皇宮の越御膳水の碑が立つ井戸があるが、これ
は江戸末期︵一八八六頃︶町内の飲料水を得るために掘られ、近郷
随一の名水として永く人々の生活をささえ、その後水道の普及によ
り廃止された。明治十三年︵一八八〇︶明治天皇中山道ご巡幸のみ
ぎり、この水をもってお茶を献上された。
向かいと右側に石仏・石碑が並んでいる下町会館で、この辺りが
宿場の終わりだろうか。更に旧道を道なりに歩いて行くと、木製の
小さな宮の越の一里塚跡が立っている。
〇
JRと並行していた旧道がJRを越えると、左側の国道一九号線
の東側に林昌寺⑫があり、反対の右側にJR原野駅がある。この林
昌寺には木曽義仲を養育した中原兼遠の墓がある。
その先右側に消防署コミュニティーがあって、その向かいに中山
- 122 -
道中間点⑬が掲示されているが、その後方に見える残雪の山は中央
アルプスだろう。ここは江戸・京都双方から六十七里三十八町︵約
二百六十八キロ︶に位置している。
この道を真っ直ぐ進むとスーパーに突き当って、道なりに左へ進
んで国道に合流し正沢川を渡ってから左へ国道と分かれたが、これ
は旧道でないとのことである。
後日、旧道に詳しい地元の人から貰った地図には、スーパーまで
行く手前に斜め右へ進む道があり、草道などを通って正沢川を国道
より西側の橋で渡るのが旧道で、その後で国道から分かれた道と合
流する。
合流すると中原兼遠屋敷跡の標識があるが、五百メートル先まで
行っても、それらしいものは見えないので引き返す。
この辺りは古い大きな家が残っている。その先で天神川を渡った
左手に薬師堂や手習天神⑭があり、石仏・石碑が並んでいる。手習
天神は木曽義仲を養育した中原兼遠が義仲の学問の神として、京都
- 123 -
の北野天満宮を勧請したと伝えられる。
小高い所から左向こうに上田小学校が見えるが、ここからの旧道
は国道とJRに分断されて不明である。そこでJRをまたいでJR
沿いに進み、すぐ国道沿いに進んでから国道と合流する道を選ぶ。
木曽川にかかる矢崎橋の前を過ぎてから、左側に芭蕉句碑が金網
フェンスの中にあるというが、残念ながら見落す。
〇
かぶきもん
右に木曽大橋が見える辺りで、国道から分かれて斜め右へ進み、
やがてまた国道に合流すると、向こうに大きな福島関所の冠木門⑮
が現れる。
門を潜って左へ細い道を上った高台に中山道福島関所跡があるが、
ここは中山道の重要な守りとして碓氷・箱根・新居とともに天下の
四大関所で、入り鉄砲・出女に取締りが厳しかった。
関所跡の先に高瀬記念館があるが、ここは代々関所番を勤めた高
瀬家で島崎藤村の姉園の嫁ぎ先でもあって、作品﹁家﹂のモデルに
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山
道
の
中
間
福
島
の
冠
木
門
点
中
- 125 -
なった。昭和二年の大火で焼けたが、江戸時代の庭園や土蔵が残っ
て、高瀬家や藤村関係の資料が保管されている。
そこから細い道を下りて街道に出るが、今夜の宿を予約していな
いので、市内観光は後にして泊る所を確保しなくてはならない。と
ころが、ここまで旅館やホテルも見当らないし、観光案内所も見つ
からない。
有料駐車場の前まできて、ここの管理人なら顔が広いかもしれな
いと思う。暇そうな管理人に泊れそうな所を訊いてみると、値段が
あまり高くなくて旧道から遠くないという条件に、思案しながら親
切に電話帳で調べて電話までかけてくれる。
やっと見つかった旅館は﹁今日は料理人が休みで素泊りなら泊れ
ます﹂という。値段を訊くと一泊五千円で、近所にスーパーがある
ことまで教えてくれる。
そのまま進むと左側の木曽福島町役場がある所は本陣跡で、その
先右側の立派な建物は岩谷旅館で、昔の旅籠だったそうである。
- 126 -
今夜の寝酒を買おうと思って途中の酒屋に入ると、店の女性は近
所の客との会話に熱中して見向きもしてくれない。買おうと思って
七 笑 の 銘 柄 ま で 決 め た の に 、腹 が 立 っ て き て 店 を 飛 び 出 し て し ま う 。
ところが歩いていると、先ほど心に決めた七笑の銘柄を持つ七笑
酒造所があり、御主人がいて先ほどの店の話をしてしまう。この酒
造 所 の 脇 を 曲 る と 右 側 に 高 札 場 ⑯ が あ り 、上 之 段 へ 進 む こ と に な る 。
〇
酒造所の脇へ曲らずに行人橋の交差点を越えて、更に進むと今夜
の予約した宿である。宿に着くと例によって洗濯をするが、ここに
は乾燥機まであるから有り難い。洗濯を終えてから町に出る。
スーパーへ着いたのは閉店間際で値引き品がたくさんあって、夕
食から食前酒を含め朝食まで二千円で済む。旅館では頼んでおいた
翌日の須原の宿について、御主人は何軒か調べておいてくれる。
- 127 -
福島から須原へ
塩尻峠で転んだ後遺症もない上に、朝からそう快な気分である。
宿の御主人がリストアップしてくれた須原の宿に電話して、三軒
目でやっと話しが通じて予約する。一人だと食事を作るのが非効率
で、そのために断る所があると聞いてから、素泊まりでも良いと言
うことにしているが、須原の宿は夕飯を作っておくと言う。
今朝少し早く出る積りになったのは、昨日の駐車場で貰った観光
案内図に基づいて昨夕の散歩で旧道を歩いてみたが、地図が分かり
にくい上に道が正しいか疑問を感じたからである。
そこで宿の御主人に次の宿の予約できた礼を言い、清算してから
分かりにくい旧道について訊くと、JR沿いの細い道だと言う。
〇
左に行人橋があり右に西方寺がある交差点を越え、七笑酒造所の
脇 道 を 右 へ 曲 る と 高 札 場 が あ る 。こ の 高 札 場 は 天 保 九 年︵ 一 八 三 八 ︶
- 128 -
- 129 -
に次のような札を掲げている様子を再現したものである。
﹁福島より上松への駄賃銭、親子兄弟人の道、駄賃荷物の定め、
きりしたん禁制、徒党強訴の禁止、毒薬売買にせ金禁止、火付け盗
賊五ヶ条の定め﹂だが、なにか今にも通じるものがあって面白い。
そこから左へカーブして観光文化会館の前に出るが、ここに突き
当ってくる道が現れる。この古い家がある辺りが上之段で、観光文
化会館で左へ曲ると、左下に本陣跡の役場が見え、突き当りには高
瀬家の墓地がある久昌院である。
また観光文化会館の所で左へ曲らずに直進すると、ここには水場
などもあって、左奥に大通寺がある所で新道に突き当る。
大通寺は関ヶ原の合戦︵一六〇〇︶の後、柱山和尚を開山とし、
木曽代官の山村良勝により建立された。この山門は安永七年︵一七
七八︶の建立で、梵鐘は寛文四年︵一六六四︶に寄進された。
ここからJR沿いを見ると、宿の御主人が教えてくれた細い道と
広い道の二本がある。この細い道の方を上って行くと、意味ありげ
- 130 -
な道はJR木曽福島駅の脇に出る。
ちょうど駅の観光案内所を開く準備をしている女性に出会い、こ
の女性から色々教わったのが大変参考になる。この会話の詳細は後
で 書 く こ と に す る が 、宿 で 教 わ っ た 旧 道 の 道 筋 に も 間 違 い が あ っ た 。
江戸からきた場合は、関所跡の前を通って本陣跡の前の道を進ん
で、酒造所の脇で左へ曲って高札場を通り、道なりに進んでくる。
その後が問題で、宿の御主人から教わったJR沿いの細道には入ら
ず、広い方の道を進んで、この駅前に出てくるのが旧道だという。
〇
観光案内所の女性が教えてくれた駅からの旧道は、御嶽神社の前
を通る少し広い道でなく、裏を通る板壁沿いの細道である。
大同特殊鋳造という会社に突き当り、右へ会社の脇を歩いて行く
と、左側の塩渕公民館前に一里塚跡①がある。
この辺りの道は生活道路だから車も少ないし、車が入れない細道
もある。左側に変電所がある所で一瞬新道と接して、すぐ分かれる
- 131 -
と上りになるが、右下の木曽川にはダムが見える。
この先に中平立場茶屋跡②があり、新しい道と合流して国道一九
号線の下を通ると向こうにトンネルが見える。
観光案内所で﹁普通はこのトンネルの道を教えるのです﹂と言い
ながら、教えてくれた旧道はトンネルに入らずに手前で右へ曲る。
細い下草の道を上り始めると、すぐ倒木で遮断されて進めないよう
にしてあるが、そこを越えて進んで行くと途中で道が途切れる。
どこかに横道があったのだろうかと思って戻るが、そんな横道は
ないから途切れた道が崩れた場所だろう。落ちないように注意しな
がら強行突破してみると、突然パッと開けて正面に冠木門と左に大
きな時計がある。
こういう素晴らしい道が使われなくなると、すぐ道は荒れ果てて
しまうのだろう。だから歩けるように整備したら良いのにと思う。
その先で新道を越えた左側の旧道は消滅した所もあるというが、
多分これだろうと思う道を進んで、最終的には新道と合流し元橋で
- 132 -
国道一九号線とも合流する。
〇
国道と合流して、すぐ左へJRを潜ると、ここからは昔の面影を
感じる。右側の高台に御嶽山遥拝所③があり、昔は御嶽山が見えた
のだろうが今は見えない。
ここの御嶽山遥拝所は、木曽路のうちでも御嶽山を仰げた場所が
き そ ん
鳥居峠の外にはこの地だけだった。遥拝のために建設されたこの鳥
居は寛永九年︵一六三二︶に毀損という記録があるから、相当に古
くからあったものと思われる。
その先で薄暗い林の中の道を進み、開けた所で右後方を振り返る
と残雪の御嶽山が見える。
直角に曲ってJRを潜って国道に合流し、すぐまた斜め左へ国道
と 分 か れ て 進 む 。す る と 赤 い 消 火 栓 が あ る 二 叉 路 で 右 の 道 が 旧 道 で 、
左側にJRが走っている。
その先左側に立っている松の木二本はいつまで残るかと思いなが
- 133 -
ら、更になにか趣を感じながら草道を進むと道は左右に分かれ、左
へ 進 む 道 は J R の 線 路 へ 進 み 、今 は 右 の 下 り 道 を 進 ま ざ る を 得 な い 。
ただ、その真中の道らしくない下草を踏みしめて、真っ直ぐ進む
のが昔の旧道で沓掛馬頭観音④の前を通るが、その先へは進むこと
ができない。
この沓掛馬頭観音は木曽義仲が名馬の菩提を弔って金の観音像を
祀ったものである。この名馬は人の言葉が分かり、義仲が木曽の桟
の絶壁を目算して、七十三間とべと号令をかけると、その通りとん
だが、実際は七十四間あったので人馬ともに河中に転落し、義仲は
九死に一生を得て助かったが名馬はなくなった。
京へ六十六里﹂とあり、その先で国道に合流する。
元に戻って右へ進むと下り坂で、その先の一里塚跡に﹁江戸より
七十一里
〇
かけはし
国道と合流して間もなく右側に木曽川が流れ、谷が狭くなって名
所である木曽の 桟 ⑤が現れる。左側にあるはずの山頭火の歌碑は
- 134 -
並
街
の
島
宿
・
上
之
沓
掛
馬
頭
観
音
段
福
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見 落 し た が 、 そ の 他 の 歌 や 俳 句 が 岩 に 埋 め 込 ま れ 、﹁ 桟 や
をからむ蔦かづら﹂の芭蕉句もある。
いのち
木曽の桟は木曽川を渡る橋でなく、左の岩壁に沿って丸太を組ん
で桟のようにした道で難所だった。今は歩道もガードレールもない
から、歩行者にとって車が恐ろしい平成木曽の難所ともいわれる。
この桟がかけられたのは応永十四年︵一四〇七︶で、いたって簡
素なものだったので増水で流された。それから約二百年後の慶長五
たいまつ
年︵一六〇〇︶五街道の創設に応えて、桟の抜本的な大修築が行わ
れたが、正保四年︵一六四七︶旅人が落した松明の火で焼け落ちる
異変が起きた。そこで今度は木造を止めて石造りになり、築城方式
を採用して川床からほぼ垂直に近い状態で切り石を積み上げた。
その先も国道を歩いて行くが、やがて新茶屋橋⑥を渡って左へ入
る道はあるが、この旧道だった道も先へ進めないのは残念である。
止むを得ずに歩道のない国道を歩くと、車が向かってくるから恐ろ
しい。
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難 所 を 越 え て J R の 下 を 潜 る が 、こ の 辺 り も 車 に は 注 意 が 必 要 で 、
その先の信号で右へ分かれる。
〇
あげまつ
十 王 橋 交 差 点 を 越 え て 、向 か い に 二 本 あ る う ち の 左 の 道 へ 入 る と 、
古い家並が残っているのが上松宿である。
左側にある玉林院⑦は天正十年︵一五八二︶に創建と伝えられ、
山門鐘楼は明和三年︵一七六六︶に落成した。明治二十六年に火災
で 本 堂 ・ 庫 裏 は 焼 失 し た が 、土 蔵 と 山 門 は 幸 い に 火 災 を ま ぬ が れ た 。
玉林院の裏に小高い天神山があり、頂きに天満宮がある。ここは
木曽氏十九代木曽義昌の弟義豊が居館を構えていたと伝えられるが、
玉林和尚は木曽氏十七代義在の弟である。
寺を見学している女性に出会ったので、どこからきたのか訊くと
名古屋からだと言うが、名古屋からだと百三十ー四十キロぐらいだ
から一人で日帰りのドライブだろうか。
玉林寺から旧道に出ると立派な家があるが、右側に脇本陣・左側
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に本陣があったという。
更に進むと右へカーブして国道に合流するが、そのカーブする手
前に本町の一里塚があって江戸より七十二里である。合流して次の
信号を右へ曲ればJR上松駅で、駅前の食堂で昼食にする。
そのまま歩いて行き、歩道橋がある所で左へ寺坂を上る。
上り切ると新道に合流した左側に斉藤茂吉の句碑があり、そこの
水は動いて情をなぐさむ﹂とある。
上 松 小 学 校 ⑧ の 門 脇 に 藤 村 の 文 学 碑 が 立 っ て い て 、﹁ 山 は 静 か に し
て性を養い
その隣に上松材木役場跡があり、グランドの奥には諏訪神社があ
る 。こ の 上 松 材 木 役 場 は 寛 文 五 年 ︵ 一 六 六 五 ︶に 設 け ら れ た 役 場 で 、
木曽山林の管理・保護・経営や川並の取締りを行った。
道は突き当って左へ進み中沢橋を渡る。そこからはなにもなく、
たんたんと歩いているうちに古い家が出てくる。
せたやは昔の立場茶屋だが今も宿屋のようで、その向かいにはそ
ば屋として寛永元年︵一六二四︶創業した越前屋がある。この二軒
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ね ざ め
の間の道を西へ進むと、国道を越えた先に臨川寺があり、更にJR
かつら
を越えた先に木曽路名所寝覚の床⑨である。
旧道の先左側には上松町天然記念物の 桂 の大木で、幹周りが四・
一メートルあるが、昔上流から流れついた苗木が根づいたという。
次の二叉路に寝覚簡易郵便局があり、そこを左へ進むと上松中学
校⑩があって、そこを通り過ぎると石畳の下り坂で、下り切ると先
ほど二叉路で分かれた右の道と合流して滑川を渡る。
〇
そのまま道なりに歩いていると二叉に出る。ちょうど右に道標が
あ る の を 見 る と 、﹁ 中 山 道 ﹂ と い う 言 葉 が な く て 、 な ぜ か 木 曽 古 道
とある左の道へ進んでしまう。
五百メートルほど歩いてから間違いに気づいて、二叉まで戻って
右 の 道 へ 進 む と 、目 印 に な っ て い た 老 人 ホ ー ム が す ぐ 左 側 に 現 れ る 。
JRのガードを潜って、人様の庭先のような旧道を通り過ぎると
国道に合流する。この先左側に小野の滝⑪が見られるが、この上を
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川
曽
木
の
り
曽
の
桟
小
野
の
滝
辺
木
- 140 -
JRが走って景色を邪魔している。この滝は広重・英泉の合作であ
る中山道六十九次の浮世絵で上松に描かれ、細川幽斎や浅井洌が誉
めている。
ここからしばらく国道一九号線を歩く。萩原の一里塚跡がある所
で左へ分かれ、やがてまた一九号線と合流し萩原沢を渡る。
この一里塚は萩原集落の北の入口にあり、左右ともに榎が植えら
れていたが、南の入口には高札場があったといわれる。この先にも
木曽古道と出ているが、先ほどの失敗があるので無視をする。
萩原沢から百メートルぐらい先で左へ曲り、JRのガードを潜る
と上り坂で、突き当って右へ進む。畑の中を歩いていると、上から
バイクを押した老人が下りてきて、道を譲ったことから会話する。
この老人が子供の頃は、国道がもっと上を通って、川が流れてい
た位置も違うと言う。またこの先にある百年以上の歴史がある萩原
小学校も、今は統廃合が検討されて卒業生の老人も淋しがる。この
辺りから先は、長野県のまま残るか、岐阜県と合併するか、揺れて
- 141 -
いる所である。変化が見えないような土地だが、過去からも変化が
あり、将来へも変化が予測され、そんな会話を交わして別れる。
〇
萩 原 小 学 校 ⑫ が あ る 所 で 国 道 と 出 あ い 、ま た 分 か れ て 左 へ 進 む が 、
左側に神明神社が見える。
その先で今度は国道を横断して右へ入り込むが、ここは立場だっ
た 所 で 趣 が 残 る 街 並 で あ る 。右 側 に 木 曽 川 に か か る つ り 橋 が 見 え て 、
間もなく国道と合流する。
一九号線を歩いて行くと、やがてJRへのびている草道が旧道だ
が、今は線路を越えることができない。そこで更に国道を進むとJ
R倉本駅への道があり、その先を左へ曲るとJRを越えられる。
戻るように道なりに歩いて行くと突き当って右へ曲るが、この突
き当りに先ほど線路で遮られた旧道が左からつながっていた。
右へ曲り道を上ると、この辺りの倉本の集落には古い民家が残っ
ている。坂を下ると右側に竹林があり、その左側には常夜灯⑬や庚
- 142 -
申塔が現れる。
二叉にきたら右へ草道を進むが、昔の中山道らしい心地良い下り
坂である。新道に出たら急角度で川沿いに右へ曲り、JRを潜り国
道に合流して大沢川を大沢橋で渡る。ただし昔の道は、こんな不自
然 な 道 筋 で は な い は ず で 、し か も 今 の 橋 も 渡 ら な か っ た だ ろ う か ら 、
ほぼ川を直進して渡る道があったのだろう。
大沢橋を渡ると右側に、久しぶりに木曽ドライブイン⑭や商店が
あり、自動販売機で飲料水を補給する。その後も国道を進むが、ト
ラックなどの風圧におびえるものの、左側には歩道がついている。
国道の右側に運転手が休息する駐車場があり、その真中ぐらいに
一里塚跡がある。ただし、ガードレールを越え危険を冒して右側へ
行く気にはならず、遠くから見ながら通過する。
間もなく斜め右へ下る道が現れ、これが旧道で古そうな家や農家
が点在する。そこを通り過ぎると畑の中で、通り抜けできないよう
な標識が出ているが、今は営業していない食堂の裏側から表側に出
- 143 -
て国道に合流する。
この辺りから大桑村に入るが、この後は国道をたんたんと進む。
ただし昔の中山道は、今のJRを越えたり、国道を横切ったりして
いたようで、その道はハッキリしないらしい。
歩道に少し出っ張った形で、墓のような石碑が数基ある前を通り
過ぎる。すると今夜の予約をした民宿の大きな看板が出ていて、そ
こを右へ下りると宿がある。
〇
須原で予約した宿は須原駅より大分手前の旧道沿いで、電話で交
渉したとき食事は作って待っていると言ってくれた。それが有り難
いことだと分かったのは現地に着いてからで、周りにはコンビニも
商店も見当らない場所である。
- 144 -
び ろ う
尾篭な話︵閑話︶
旅行をしていてトイレで困った経験がある人もいるかもしれない
が、そういう話を記載して経験ない人に注意を喚起しておきたい。
〇
旅行会社が主催する団体旅行だと、どこでトイレタイムにするか
考えてくれているから、あまり心配しないでも済むだろう。
また団体でなくてもドライブで旅行する場合には、道の駅やレス
ト ラ ン や コ ン ビ ニ な ど が あ る か ら 、我 慢 す れ ば な ん と か な る だ ろ う 。
その点では困った経験のある人でも、新道や鉄道に近い所はなん
とかなったはずである。ところが新道や駅に近くない限り、そのな
んとかなるものがない場合が多い。
だから旧道歩きを自分で企画して実行する場合には、トイレ情報
まで詳しく書いたものがないし、旧道は新道や駅に近くないから注
意が必要である。そのために朝出発する前に大便をしっかりしない
- 145 -
と、歩いている途中でトイレがなくて困ることがある。
それこそ本当に困ったら最後は人が見ていない場所を捜さなけれ
ばならないが、山の中と違って人がいない所などめったに見つから
ないから、朝はしっかり出してから出発する必要がある。
しかも宿に洋式のトイレがないとか、見つけたトイレがきれいで
ないと、しっかり出せずに中途半端で終わることがある。全部出し
切ったと思っても、そんなトイレから早く飛び出したくて、後で中
途半端だったと後悔することがある。
そんなことから福島の旅館では嬉しいことがあった。その日は泊
り 客 が 私 一 人 だ け の た め ト イ レ の 入 口 に 、﹁ 本 日 は 他 に 客 が い ま せ
んので、女性トイレを使っても結構です﹂と書いてある。なにが違
うのか覗いてみると座式のウォッシャブル・トイレで、朝それを利
用したため一日中そう快な気分になれた。
〇
さて、その日の朝は宿舎のトイレが洋式でなく、和式で膝が痛く
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なって排便をゆっくりできなかったためか、歩いているうちに尻の
辺りがおかしくなった。
トイレに行きたい気分だが、トイレはないし人目がないような場
所は見つからない。その内に相当我慢してきたはずなのに、なんと
か我慢できているから、人目のない所を捜さなくても済むようにな
ってきた。ただ僅かになにかが出てきているのか、尻の辺りがこす
れ痛みを感じて少し歩きにくい。
だんだん大便の必要はなくなってきたが、どこかで尻の辺りがど
うなっているのか調べたい。ただどこまで行っても人目が気になる
場所ばかりで、調べることのできる場所が見つからない。
そんな状態で悩みながら我慢して、宿を出て約三ー四キロも歩く
とJRの駅に着く。すると駅のトイレは清掃が終わったところで、
田 舎 ト イ レ の ド ボ ン で は あ る が 、き れ い に な っ て い る の は 有 り 難 い 。
個室に入ってズボンを下ろしてみると、パンツに血がついて乾い
ている。めったにない切れ痔になって、乾いた血が柔肌をこすって
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いたらしい。
こんなときは持ってきたウェットティッシュと軟膏が役に立つ。
ウェットティッシュは乾いてしまっても水に濡らせば、局部を拭く
ぐらいの役に立つし、傷に塗る軟膏を持っていれば、こんなときに
も役に立つ。
〇
ところで話しは変わって、先日の朝も立ションでJR日出塩の無
人 駅 の ト イ レ を 借 り た が 、き れ い に 掃 除 し て い る と こ ろ に 出 あ っ た 。
そこで掃除をしているシニアの男性に声をかけた。
﹁トイレがきれいだと嬉しいですよ﹂
﹁でも外壁ぐらい塗り替えたいんですよ﹂
﹁外面より、内面ですよ。朝からきれなトイレを使えて、本当に感
謝しているんですよ﹂
男の場合の立ションでも汚れているトイレは敬遠したくなるが、
青空の下でするような場所が意外にないものである。
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須原から妻籠へ
須原で泊った宿はJR須原駅より大分手前だったため、今朝は一
九号線を歩くことから始まる。間もなく斜め左へ進む道が現れ、そ
の旧道をたんたんと進むと、また国道に合流する。
〇
二叉路が現れて左へ進めばJR須原駅の前に出てきて、幸田露伴
の﹁風流仏﹂で有名になったさくらの花漬の大和屋がある。
ただし旧道は国道を進んで、もう一本先の二叉路を左へ進み、武
家屋敷のような立派な家の前を通ると、先ほどの駅からの道と合流
するが、この辺りから須原宿①が始まる。
須原宿は西尾家が尾張藩の山林取締役などの重責を担い、中山道
の宿場ができるのに伴って本陣・問屋・庄屋を兼ねたが、宿場は正
徳 五 年︵ 一 七 一 五 ︶の 木 曽 川 大 洪 水 で 宿 場 の ほ と ん ど を 流 さ れ た り 、
慶応二年︵一八六六︶の大火で八十戸を焼失したりした。
- 149 -
- 150 -
間もなく右側に脇本陣跡があり、左側に常夜灯があって、その奥
の高みに鹿島神社仮宮がある。この辺りにも古い家が残っていて、
途中の左側にある水舟には趣を感じる。
道なりに右へカーブすると、沿道には古い建物で商売をする店が
あって趣があり、メモしてきた名前の民宿も旅籠だったらしい。
その先は四つ辻で真っ直ぐ行くのが旧道で、左へ曲ると大きな寺
号石に定勝寺②とあり、明治天皇須原行在所の碑が立っている。
この寺は嘉慶年間︵一三八七ー八八︶木曽家第十一代の源親豊公
が開創し、その後木曽川の洪水で流失した後、当地に慶長三年︵一
五九八︶に移築したもので、本堂・庫裏・山門いずれも桃山時代の
ものとして国重要文化財に指定されている。
ここの鶴亀蓬莱庭園は手入れが行き届いて美しく、観音様や十六
地蔵などもあり、須原ばねその里とある。ばねそは、はね踊り衆の
意味があり、盆踊りやお祝い事などでも歌われる。
〇
- 151 -
定勝寺を出て右からの旧道と合流し、更に新道とも合流して長い
坂を上ると、JRの踏み切りである。
ここはちょうど向こうからJRが走ってくる姿が美しく撮れるポ
イントらしく、カメラマン三人がカメラをセットして待っている。
向こうに橋が見える所までくると左にポストが見えて、ここを左
へ入ると岩出観音③である。ただし間違えて伊奈川の橋まで行った
としても、後ろを振り返れば高台にあるのが見える。
岩出観音は、馬産地木曽の三大馬頭観音として庶民の崇敬を受け
てきた。清水寺に似た現在の堂は文化十年︵一八一三︶の建築で、
堂内には数多くの美しい絵馬が奉納されている。
伊奈川を伊奈橋で渡ると、次の橋の手前で左へ曲って大屋城跡④
の周りを歩くのが旧道で、橋の手前で曲らずに渡って進む道が初期
の中山道だったらしい。こんなにグルッと回る道になったのはなぜ
だろうか、木曽川との関係だろうか、と不思議に思う。
グルッと回る途中に八幡神社の入口と出てくるが、道を間違えた
- 152 -
の で は な い か と 思 う ぐ ら い 歩 い て 、や っ と 左 側 に 天 長 院 ⑤ が 見 え る 。
天長院は室町時代に木曽家祈願所として伊奈川大野の地にあった
が 、天 文 年 間 ︵ 一 五 四 〇 頃 ︶武 田 軍 か 山 賊 か の 焼 き 討 ち で 廃 絶 し た 。
その後、文禄年間︵一五九四頃︶定勝寺七代天心和尚を開山とし
て 旧 地 に 天 長 院 は 開 か れ た 。街 道 の 変 遷 か ら 寛 文 年 間︵ 一 六 六 二 頃 ︶
地蔵堂があった現在地に移された。ここの子育て地蔵は、子供を抱
き紐が十文字になっているので、マリア地蔵ともいわれる。
この辺りは間の宿だったという集落で水場がある。そして右へカ
ーブして下って行くとJRの間際まできて突き当り、左へ曲ると右
側 奥 に J R 大 桑 駅 が あ り 、道 な り に 進 む と J R を 越 え て 国 道 に 出 る 。
そこから国道を歩いて行くと左側に道の駅大桑⑥があり、ここで水
分補給に自動販売機を利用するため一休みする。
その先で斜め右へ国道から分かれる道があり、右側のJRを中山
道十一号踏切で渡る。しばらく線路沿いの道を進むが、この後方の
山は中央アルプスだろう。
- 153 -
〇
またJRを渡ってから、少し右へカーブしながら坂を上る。する
と左へ曲る所があり、真っ直ぐ行っても後で合流するが、旧道は左
へ曲ってすぐ右へ曲る道で、そこには野尻宿の高札場跡⑦がある。
合流点の左側に本陣跡はあるが、本陣は明治二十七年︵一八九四︶
の火災で焼失して、右には脇本陣があった。
その先で右へカーブをして行くと、その右にJR野尻駅がある。
この辺りには古い家があるから野尻宿で、木曽十一宿の中でも旅籠
茶屋三十余軒をもって繁栄した場所である。街道がクネクネ曲るの
は七曲りで、外敵を防ぐためのものとして知られている。
そのまま旧道を進むと、阿寺渓谷へ向かう道と交差するが、それ
を無視して直進する。左側の国道は野尻トンネルを潜るが、旧道は
国道とJRとの間の道である。
またJRを中山道十三号踏切で右へ渡る。ただし古い中山道は踏
切の手前を直進したらしいが入口や標識は見当らない。十三号踏切
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須
原
の
定
勝
寺
野
尻
宿
の
街
並
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を渡ると左にJRが走り右にダムの水流を見ながら進み、右側に
読書ダムが見える所でまたJRを越える中山道十四号踏切がある。
踏切を渡って歩いて行くと民家が向かいに現れるが、そこに左の
山から下草の道らしいものが民家の畑を通り合流しているから、こ
れが古い中山道なのかもしれないなどと想像する。
そのまま歩いて行くと左からくる国道と合流し、この合流点で左
へ入るのが古い中山道だが、今は行き止まりだから次で左へ進む。
じゅうにかね
ただし左へ行くにはガードレールの切れ目から国道を渡らなければ
ならない。
〇
突き当って右へ曲ると十二兼の立場跡⑧で、常夜灯などもある。
二叉路の右の道は他人の敷地を通るようだが、そこを下って国道と
合流する角に熊野神社⑨がある。合流点で国道とJRをまたぎ、道
かどうか分からない草地を下りて、下の道に出るのが旧道である。
左側の高台にJR十二兼駅を見ながら、更に進むと木曽川にかか
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かきぞれ
る柿其橋⑩が現れ、この橋の上から木曽川を見る。
この川原と旧道の間に、明治天皇中川原御膳水の碑と明治天皇御
小休所記念の碑が立っている。
明治天皇の全国巡幸での木曽は明治十三年で、山梨県から木曽路
に入り、六月二十六日は福島泊、翌日は寝覚で御小休、須原定勝寺
で御昼食、中川原で御小休、その日の行在所は三留野本陣だった。
中川原には夕方に着き、羅天の難所を前に休息した。
柿其温泉へは向かわず橋の上から戻って、木曽川沿いの旧道を歩
き始めると、左からくる国道と合流する。ここからは右側を流れる
ら て ん
木曽川以外になにも見るものはない。
昔この辺りは木曽屈指の難所羅天の桟道といわれ、与川まで断崖
が垂直に落ち込んでいる場所で、道は深い木曽川沿いで、狭い所は
木を切り倒し、蔦や蔓を絡めて道幅を補い、馬にも乗りにくい所が
あったという。
今はたんたんと金知屋まで国道を歩くことになり、車がばんばん
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走っていて、ときどき異常な音が鳴り響くのは運転手に対する居眠
り防止のベルである。また、この辺りのJRは国道より山側で、羅
天トンネルの中を走っている。
この時期の木曽川は流れが緩やかで、大小の岩が流れを導いてい
るが、なぜこうも岩石が白くてまぶしいのだろう。左側の車さえ意
識しなければ、美しくて雄大な木曽川を実感できる場所である。
〇
み
ど
の
与川を渡り、金知屋を過ぎて、旧道は一九号線と分かれて左へ入
る。JRの下を潜り、道なりに進んで行くと三留野宿⑪で、未だ古
い家が残って屋号をかかげている。
左側に脇本陣跡があり、右側の明治天皇行在所記念碑がある所は
本陣跡で、ここには町天然記念物の枝垂れ梅がある。
三留野の本陣は明治十四年の三留野宿の大火災で焼失したが、こ
のときの被害は家屋七十四軒・土蔵八軒に達した。尚、この前年に
明治天皇は一泊されている。
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本陣から約七十メートル先で旧道は右へ分岐して階段を下り、そ
の先で分岐した道と合流して梨子沢を渡るが、途中には常夜灯が立
っている。
向かいに読書小学校⑫と刻んだ石が立っている所で、階段を上っ
て右二軒目の家の間を曲るのが旧道である。ただし他人の家の前な
ので階段を上らずに右へ進み次の角を左へ曲ると、他人の家の前を
通る道と合流する。
な
ぎ
そ
そこから道なりに右へカーブして下ると、右からきた道と合流し
て橋を渡る。そこには右へ曲って進む道にJR南木曽駅と出ている
が、旧道は直進して蛇ぬけ沢を渡る。
やがて園原先生の碑⑬の前を通ると二叉路だが、右へ進むと右下
にJR南木曽駅が見える。
園原旧富は三留野村和合にある東山神社の神官の家に元禄十六年
︵一七〇三︶に生まれ、京都に遊学し吉田兼敬︵神祇管領長︶に師
事して神学を学び、尾張・美濃・信濃に門人が多く、郷土研究に熱
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心 で ﹁ 木 曽 古 道 記 ﹂﹁ 木 曽 名 物 記 ﹂ な ど の 名 著 を 残 し て い る 。
〇
和合の集落に入ると、街道名物の枝垂れ梅は町天然記念物で、左
ご う ど
側に杉林や右側に竹林である。すると右からくる道と合流する所に
出るが、その右下にSLを置いた公園がある。
合流してから急坂を上ることになり、林の中を通り抜けると神戸
という集落で、ここは立場だったという。
左側に義仲・巴ふりそでの松と向かいに御堂があり、その裏側に
あるのが木曽義仲のかぶと観音⑭で、義仲のかぶと置き石と観音様
と御堂がある。ここにはトイレがあるから注記しておこう。
木曽義仲は平家打倒の呼びかけに、治承四年︵一一八〇︶挙兵し
て北陸道を京都に向かう際、木曽谷の南の押さえとして妻籠城を築
き 、そ の 鬼 門 に あ た る 神 戸 に 祠 を 建 て 観 音 様 を 祀 っ た と 伝 え ら れ る 。
巴御前が袖を振って倒した袖振り松や、義仲が腰かけた腰掛石が残
されて、観音様はその後も義仲ゆかりの武将達に保護された。
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その先に変形五叉路があり、ここの左右に分かれる道を無視して
真っ直ぐ進み、急な坂を下る。その先でせん沢を渡ると竹林で、石
畳の上り坂である。石畳が終わった所に上久保の一里塚があり、江
戸から七十八番目である。
ここから先は下りで茶屋があった所を抜けると、川を渡って赤っ
つ ま ご
ぽい舗装道を上る。土道に変わると、先へ進む道が三本現れるが、
道標があるから分かりやすい。右へ進む山道は妻籠城址⑮に至り、
旧道は真っ直ぐに進んで林の中を下る。
妻籠城址は典型的な山城で、天正十二年︵一五八四︶の小牧・長
久手の戦いで戦場になり、慶長五年︵一六〇〇︶の関ヶ原の戦いで
はここを固めたが、元和二年︵一六一六︶に廃城となった。
〇
途中の左折や右折する道を無視して道なりに進むと、江戸時代初
期から往来する人々を監視していた口留番所⑯で、そこから妻籠宿
が始まる。
- 161 -
妻籠宿は日本で最初に江戸時代末期の宿場を復元・保存した場所
で、それは昭和四十三年︵一九六八︶から町並保存事業により、宿
場の景観がよみがえり、昭和五十一年︵一九七六︶には国の重要伝
統建造物群保存地区に選定された。
地蔵沢橋を渡ると、右に高札場と左に水車があり、ここから土産
物屋や食堂や旅館・民宿などがあって、観光客でにぎわっている。
右側の脇本陣だった林家は奥谷郷土館で、向かいの本陣は復元さ
れたものだが、夫々が立派な建物である。本陣には明治天皇妻籠御
小休所の碑が立っていて、南木曽町博物館⑰になっている。
その向かいには歴史資料館があり、民家のような建物に妻籠郵便
局と郵便資料館とある。常夜灯がある枡形は真っ直ぐ進むと光徳寺
の 山 門 が あ り 、左 へ 上 る と 高 台 に 石 垣 を 築 き 白 壁 を め ぐ ら し て い る 。
光 徳 寺 は 伝 承 に よ れ ば 明 応 九 年︵ 一 五 〇 〇 ︶に 悟 渓 和 尚 の 開 山 で 、
慶長四年︵一五九九︶には設立が認められている。山門の隣にある
延命地蔵堂は文化十年︵一八一三︶光徳寺の中外和尚が、地蔵尊像
- 162 -
跡
留
野
宿
の
本
妻
籠
宿
の
街
並
陣
三
- 163 -
の浮かび上がった岩を運んできて安置した。この地蔵が汗かき地蔵
と呼ばれるのは、常に濡れているように見えるからだそうである。
ただ本筋は枡形を右へ下る道で、突き当りに十返舎一九が泊った
と い う 上 丁 子 屋 は 閉 ま っ て い て 、そ こ か ら 上 る と 元 の 道 に 合 流 す る 。
枡形を過ぎても古い家並が続いている。左側の町有形文化財の上
嵯峨屋は、解放して外から内部が見られるようになっている。その
斜め向かいの酒屋で今夜の寝酒を買う。
あららぎ
上嵯峨屋の建造物は江戸中期と推定され、建造当初の形式を良く
とどめ、庶民の旅籠︵木賃宿︶としての雰囲気がうかがえる。
〇
今 夜 の 宿 は 枡 形 を 下 る と 右 へ 行 く 細 道 が あ り 、そ こ を 曲 っ て
川沿いの下嵯峨屋である。
ここは一泊二食つき七千五百円だが、素泊り五千円で一人の場合
は五百円アップと書いてある。食事は悪くないし、風呂もトイレも
きれいだが、特にトイレが洋式なのは嬉しい。
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妻籠から中津川へ
宿を出ると、昨日の昼は観光客でにぎわった妻籠宿も、朝八時と
だしばり
たてしげ
いう時刻もあって全く静かなもので、歩いている人も見かけない。
上嵯峨屋①の前を通り、やがて出梁造り、竪繁格子の家並が疎ら
になると、わら馬の実演販売をしている店辺りから店はなくなり、
地蔵が立っている先で妻籠宿の出口になるのだろう。
〇
国道二五六号線と交差して、その向かい左に町営駐車場があり、
その脇道に旧中山道の標識があるから間違うことはない。
真っ直ぐ進み蘭川を大妻橋で渡ると大妻籠に入るが、金剛屋とい
う旅籠の前には南無弘法大師之記念碑が立っている。
この辺りの民家はなかなか立派なもので、特に右奥に上ると十七
世紀半ば建築という藤原家住宅②がある。
大妻籠から新道へ出る所に庚申塚があって、またすぐ新道と分か
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- 166 -
れるが、一里塚は新道を少し戻る所にあるらしい。
くらしなそれいしゃ
新道と分かれた旧道は石畳の上り坂で、石畳が切れると土道にな
り、その先左側に倉科祖霊社の碑③が立っている。
倉科祖霊社は松本城主小笠原貞慶の重臣倉科七郎左衛門の霊が祀
られている。天正十四年︵一五八六︶七郎左衛門は貞慶の命を受け
て大阪の豊臣秀吉のもとに使いに行き、その帰りに馬籠峠でこの土
お
め
地の土豪の襲撃にあい、従者三十余命とともに討死した。
新道と交差して道を下ると、左手に男滝・女滝④がある。この滝
は木曽に街道が開かれて以来、旅人に名所として親しまれる憩いの
場で、吉川英治著の宮本武蔵の舞台にもとりあげられたが、向かっ
て左の大きいのが男滝、右の小さいのが女滝である。
滝の周辺は険阻なため道はしばしばつけ替えられ、幕末頃までの
中山道は滝の下を通っていたが、現在は上を通っている。
滝 を 見 て か ら 道 を 上 る と 、交 差 す る 新 道 の 向 か い に 道 が あ る か ら 、
それが旧道かと思って歩いていると元に戻ってくる。なんと旧道は
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向かいの道でなく、交差した新道を左へ歩くのが正解である。
大体、妻籠に入る前から道標が立っているから間違えることは少
なく、ここにも道標は立ってはいるが、その方向が前へ行くのか、
左へ行くのか明確でないから間違うのだろう。
新道を進んで行くと右へ山道に入る道がある。歩いて行くと未だ
九時半なのに、顔にクモの糸が何度もかかるから、今朝は歩いた人
がいないのかもしれない。その気になって空中を見ると、太陽の光
ひのき
にクモの糸がキラキラしている。
しらきあらため
いちこくとち
峠へ向かう途中に、 桧 の細工物を無断で他国に持ち出さぬように
取り締まったという白 木 改番所跡⑤があり、一石栃の茶屋の裏手を
つ ま ご
ま ご め
上ると観音堂があるというが、あえいでいて上る気にならない。
一石栃の立場茶屋は妻籠宿と馬籠宿の中間に位置し、往時は七軒
あったが今は一軒だけで、これは江戸時代後期の建物である。
〇
馬籠峠は標高八百一メートルで、閉じてはいるが茶屋があり、や
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っと自動販売機が使えると思ったら、どれも全く使えない。
﹁使用済みのカンなどは持ち帰って下さい﹂という注意書きが何枚
も貼ってあるから、それが関係しているのかもしれない。飲み物が
とうげ
ないなどと思っているうちに、子規の句碑を見落してしまう。
峠 か ら 新 道 を 下 り 始 め る と 、熊 野 神 社 ⑥ を 見 て す ぐ 嶺 村 に 入 る が 、
江戸時代は民間の荷物を運搬する牛方が多く住んでいて、ここは島
崎藤村の﹁夜明け前﹂の峠の集落に登場している。
ここ
爰の名物﹂とある。
向けし女
その先に十返舎一九の碑があるのは、木曽路を旅した十返舎一九
栗のこはめし
が 峠 の 名 物 栗 こ わ め し に つ い て 詠 ん だ 狂 歌 で 、﹁ 渋 皮 の
は見えねども
水車小屋に休んでいたシニアの男女四人が峠の方に歩き始めるが、
ここには水車塚⑦がある。これは明治三十七年︵一九〇四︶に水害
で流された蜂谷の家族を供養して、請われて藤村が碑文を記したも
のである。
〇
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馬
籠
峠
の
男
滝
馬
籠
宿
の
街
並
- 170 -
やがて馬籠宿の高札場⑧に出てくるが、そこからは石畳が敷き詰
められた下り道で、坂道の両側には石を積んで家を建て、旅館や商
店が並び観光客が歩いている。
右 側 に は 脇 本 陣 だ っ た 史 料 館 が あ り 、一 軒 お い て 大 黒 屋 が あ っ て 、
本陣跡に建つ藤村記念館⑨が並んでいる。ここは藤村の生家である
馬籠本陣が建っていた場所である。
その先左側には清水屋資料館や枡形には常夜灯などがある。清水
屋は初代から馬籠宿の組頭その他の要職をつとめた家で、八代目原
一平氏は藤村と親交が深く、藤村の﹁嵐﹂にも登場している。
ただ今日は名古屋からの中学生が切れ間なしに上ってくるので、
思うように写真が撮れないのは残念である。高い所から美人の女将
が手を振っていて、それにつられて手を振ると﹁どうぞ寄って下さ
い﹂と言う。それも縁かと、そのそば屋で少し早い昼飯にする。
その先で新道と交差する所に大きな道標が立っていて、向かいに
駐車場と大きな休憩所がある。ここで馬籠宿が終わったのかと思っ
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ていると、この後も民宿は何軒かあり、途中に諏訪神社⑩がある。
更に進むと正岡子規の碑⑪があり、そこには﹁桑の実の木曽路出
づれば穂麦かな﹂の句が記してある。子規は明治二十四年︵一八九
一︶帝国大学の学生のとき、中山道を通って馬籠を経て松山に帰省
し た が 、こ の 辺 り の 景 色 は 子 規 も 惚 れ た よ う に 今 も 良 い 場 所 で あ る 。
あき
その先に新茶屋や芭蕉句碑などの説明が掲示してあり、ここの芭
蕉句も﹁送られつ送りつ果ては木曽の穐﹂である。更に是より北木
曽路の碑⑫があって、国境とあるから長野県と岐阜県の境で、一里
塚古跡の石碑がある。
その先に続く十石峠︵十曲峠︶の落合の石畳⑬は素晴らしいもの
である。この石畳は、馬籠宿と落合宿の間にある十曲峠の坂道を歩
きやすいように石を敷き並べた。
石畳が敷かれた時期は不明だが、和宮や明治天皇の通行のときは
修理し、砂をまいて馬が滑らないようにしたという。一時は荒れる
にまかせていたが、地元の人達が復元して今日の姿になった。
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かかと
石畳は石の硬さが足裏や膝に響いたり、石と石との間に 踵 や爪先
を引っ掛けたりする。馬が滑らないように砂をまいたというのも分
かるし、石畳にするのに苦労しても歩かなければ荒れ果てる。
石畳が終わると医王寺⑭の前を通るが、この境内には﹁梅が香に
のっと日の出る山路かな﹂の芭蕉句碑がある。
医王寺は元天台宗の名刹として栄えたが、戦国時代に兵乱にあい
ほうらいじ
法燈は一時中絶し、天文十三年︵一五四四︶正誉存徹が再興し浄土
かにやくし
宗に転じた。ここは山中薬師の名で知られ、三河の鳳来寺・御嵩の
蟹薬師とともに日本三薬師の一つで、寺内に薬師如来像は行基の作
といわれるほか多くの仏像がある。
ここから特に急な下り坂になり、落合川にかかる下桁橋を渡る。
下桁橋は落合川を渡る橋が洪水で流失したり、医王寺までの上り
坂が難所だったりで、何度か道がつけ替えられた。
〇
家並が続き始めて桝形を曲った右側に常夜灯を見ると、ここから
- 173 -
が落合宿で江戸から四十四番目の宿である。
左側に新しい建物の脇本陣跡があり、右側に立派な建物の本陣跡
があって、明治天皇落合御小休所の碑⑮が立っている。本陣には、
泊った大名が敵に襲われたとき善昌寺まで逃げる抜け穴があった。
文化元年︵一八〇四︶と文化十二年と二度の大火は落合宿に大き
な打撃を与えたが、本陣の堂々たる門は大火の後に加賀藩から火事
見舞に贈られたものである。
その先右側に善昌寺があり、そこの左へ曲る角に道標があるが、
道標に気づかないと国道に出るから注意が必要である。その道標が
ある所を左へ曲り、坂を上ると右に国道を越える橋があり、その先
かねゆき
に落合五郎城跡⑯があるが旧道は橋と反対へ進む。
落合五郎兼行は中原兼遠の子であり、木曽義仲の家臣で四天王の
一人といわれ、美濃の勢力に備えてこの地に舘を構えたとされる。
地元では﹁おがらん様﹂と呼ばれているが、縄文土器ほかが発見さ
れている。
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畳
石
峠
・
落
合
合
宿
の
元
本
陣
石
落
の
十
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反対に進むと突き当り、右へ曲ると古い建物がある。そのまま進
んで行くとガソリンスタンドの裏辺りに、左へ上る舗装道路がある
が、この後も所々に道標が立っている。
こ
の
古い建物の前に与野立場跡とあり、その先の一里塚跡は見落した
が、覚明神社や子野の地蔵堂石仏群⑰の前を通る。この石仏群には
元 禄 七 年︵ 一 六 九 四 ︶の 庚 申 塚 や 地 蔵 や 観 音 像 な ど が 祀 ら れ て い る 。
よ さ か
国道が分断しているので旧道は国道の下を潜るが、この地下道に
は﹁中山道﹂と出ている。
その先に秋葉の常夜灯や白木改番所跡があるが、この番所は与坂
ら
ゆ
にあったもので木曽谷の桧などの通過に目を光らす監視所だった。
す
れ
左 側 の 旭 ヶ 公 園 ⑱ に は 石 仏 群 が あ っ て 、﹁ 山 路 来 て な に や 羅 遊 か
し寿み連草﹂という芭蕉句碑がある。
〇
そこから下って新道を横切ると、そこには高札場⑲があるから中
津川宿の始まりで、すぐ左側には正善院がある。
- 176 -
この宿場の道を進むと広い道と交差して、右向こうにJR中津川
駅が見える。その交差点を越えた左に古い家があり、その向かいに
小さな前田青邨画伯生誕之地の碑があるが、前田青邨は明治十八年
︵一八八五︶中津川宿新町に生まれた。
はざまけ
この辺りは今風の商店が並んでいるが、左側の中津川郵便局の隣
は市指定文化財の間家大正の蔵がある。
この間家は中津川の豪商として知られ、鉄筋コンクリート構造の
倉庫は大正六年︵一九一七︶頃に当時の近代工法で建てられた。
その斜め向かいの狭い敷地に中津川宿の往来庭として古い建物を
模した庭がある。
その先の四ッ目川橋に常夜燈⑳があり、その先の本町には所々に
行灯を門前においた家がある。今夜この宿場に泊ることになってい
るので、夕食のとき街を探索しながら、常夜燈や行灯に火が入る美
しい光景を見ることができる。
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触れ合った人達①︵閑話︶
塩尻駅に近いビジネスホテルに着くと、いつものようにまず洗濯
しようと思って、そこの御主人に訊く。
﹁洗濯機はありませんか?﹂
﹁ こ の ホ テ ル に も な い し 、近 所 に コ イ ン ラ ン ド リ ー も な い ん で す よ ﹂
﹁困ったなあ。でも、しょうがないですね﹂
重たいものを担いで二十キロも歩きたくないので、できるだけ余
分な着替えを持たないようにしている。でも下着は二日分の着替え
を持っているから、一日ぐらい洗濯できなくても本当はそれほど困
っている訳ではない。それでも﹁困ったなあ﹂というのを聞いてい
たのか、柱の蔭に座っていた女性が言う。
﹁貴方が、洗ってあげなさいよ﹂
すると、あまり愛想の良くない御主人が言ってくれる。
﹁じゃあ、洗濯物を持ってらっしゃいよ。うちの洗濯機で洗って上
- 178 -
げるから﹂
﹁じゃあ、お言葉に甘えます﹂
と御主人に言ってから、柱の蔭の女性には
﹁有難う御座います﹂
お礼を言うが、その女性は本で顔を隠したままで、うなずく。
その言葉に甘えて、部屋から洗濯物を持ってきて頼む。
あの御主人が絶対服従するよ
﹁水洗いだけで結構ですから、脱水だけしておいて下さい﹂
そのときはもう女性はいない。
﹁一体、あの女性はなんだろうか?
顔を隠す理由はな
隠さなければならない
愛人だろうか?
見せられない顔だろうか?
うな女性だから、奥さんか?
んだろうか?
事情があるのだろうか?﹂
洗濯が終わるまで外で散歩しながら余分なことを考える。宿に戻
ってくると御主人が言う。
﹁脱水だけで良いのですか?﹂
- 179 -
﹁ええ、結構です﹂
そう言って脱水した洗濯物を受け取ったが、無理して頼んだら乾
燥もしてくれたのかもしれない。
〇
奈良井宿では食事のとき女将に訊いてみる。
﹁奈良井は観光客が多いですね﹂
﹁一昨日、テレビでやったんですよ﹂
﹁テレビの影響は大きいですね﹂
すると一緒のテーブルで食事をしていた若者が口をはさむ。
﹁僕も、あのテレビを見てきたんですよ﹂
﹁どこからきたんですか?﹂
﹁静岡です﹂
﹁車ですか?﹂
﹁オートバイです﹂
﹁そうだ。今日は土曜日なんだね。じゃあ、明日帰るんですね﹂
- 180 -
﹁ええ、今日・明日は仕事が休みですけど、月曜日から仕事です﹂
﹁一人できたということは独身ですか?﹂
﹁結婚してたら、こんな思いつきはできないですよね﹂
そこに女将が御飯を運んできたので、また訊いてみる。
﹁料理が美味しいですよ﹂
﹁お口に合いますか?﹂
﹁ええ、このカボチャとスイトンのような煮物は初めてですよ﹂
﹁これが意外に有名になって、取材されたこともあるんですよ﹂
ついでにその作り方を教えて貰う。
〇
街道を歩くときは出来るだけ旧道を歩くことを目的にしているか
ら、道を間違っていないか旅の途中で地元の人に何度も訊ねてきた
が、その中でもここに書く女性には感謝せずにいられない。
朝、JR木曽福島駅にある観光案内所の前を通ると、開店準備を
している女性に車できた中年男性が質問し始めたところで、私も質
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問するため待機する。
﹁奈良井へ行きたいんですけど、道を教えて下さい﹂
﹁電車ですか?﹂
﹁車です﹂
案内所の女性は奈良井への道筋だけでなく、駐車場まで懇切丁寧
に説明している。
﹁なにかパンフレットはありますか?﹂
﹁これと、これを上げます﹂
﹁四部欲しいのですけども﹂
パンフレットが四部欲しいということは四人できているのだろう。
その対応がやっと終わって私の番になる。
﹁ 旧 中 山 道 を 歩 い て 上 松 へ 向 か う の で す け ど 、こ の 二 つ の 道 の う ち 、
どちらへ行ったら良いのでしょうか?﹂
﹁歩かれるんですか?﹂
﹁ええ、歩いているんです﹂
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﹁どちらからこられたんですか?﹂
﹁東京の日本橋から続けているんですよ﹂
﹁それはすごいですね。では良い資料を上げましょう﹂
女性が持ち出してきたものは手作りの地図で、詳細を極めた本当
に素晴らしいものである。
﹁頂けませんか?﹂
﹁貴方のように歩かれる方には差し上げます﹂
すると未だ立ち去らずにいた奈良井へ行く男性が言う。
﹁私にもくれませんか?﹂
﹁︰︰︰﹂
何でも欲しがる中年者に半分腹立たしい気持ちと、こんな手間が
かかったものを渡すのがもったいない気持ちとで、私が代弁する。
﹁これは車で行けない道ですよ﹂
すると中年男性は諦めて立ち去る。
この資料は木曽十一宿を福島宿から南と北に分けてあり、中を見
- 183 -
ると現在は歩けない道まで詳しく書いてあるが、それを開いて指差
しながら教えてくれる。
﹁ここは普通の人にはトンネルを通るように教えるんですけど、貴
方のように歩いている人にはトンネルに入らず、この上の道をお奨
めします。道の入口が倒木で入れないようにしてあったり、途中は
少し崩れていますから、気をつけて下さいね﹂
﹁うわあ、すごい労作ですね。こんな立派なものをいただいて、有
難う御座います﹂
そ こ に 木 曽 駅 か ら 出 て き た の は 、昨 日 か ら の シ ニ ア の 夫 婦 で あ る 。
﹁あら、おはよう御座います﹂
﹁おはよう御座います﹂
観光案内所で会話しているのを見て、夫婦は挨拶だけで去って行
ったが、これから市内観光するのだろう。
﹁実は、昨夕も福島市内を歩き回ったんですけど旧道がよく分から
なくて、今朝の宿を出るとき宿屋の御主人から教わった道を歩いて
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きたんですよ﹂
﹁どの道ですか?﹂
昨日貰った観光案内図を開いて、中山道として色が塗られている
道を指差し、更に今朝教わったJR沿いの細道を歩いて、この駅の
脇に出てきたことを話す。すると彼女は言う。
﹁実は、このパンフレットは間違っているんです。本当に申し訳な
いと思っています。これが旧道だと本陣の裏側になるでしょう。そ
んな訳はないですよね﹂
﹁そう言えば、そうですね。それに、このパンフレットの道は分か
りにくいですね﹂
﹁それと、宿の主人が教えた細道も違います﹂
﹁違うんですか?﹂
﹁ええ、この道です﹂
﹁そうなんですか﹂
﹁どこの旅館に泊ったんですか?﹂
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﹁でも間違った道を教えたとなると、宿に迷惑がかかるからね﹂
﹁いえ、今後のことを思うと、お客さんには正しいことを教えて欲
しいから、旅館にも正しいことを教える必要があるのです﹂
それならばと旅館の名前を言うと、
﹁その旅館の奥さんとは知り合いですから﹂
﹁色々教わってしまったなあ。有難う御座いました﹂
観光案内所の女性で、質問して応えられないで失望するケースが
多いだけに、彼女は自分で歩いて地図まで作っているのに驚き、全
く素晴らしい女性だと感服する。だから、こんな話をした。
﹁昨年、北国街道を歩いたとき案内所の女性に、車でくる人のため
の地図ばかりで、歩く人のための地図がないですねえと言うと、彼
女もそうなんですけど予算がないんですと言うから、手書きでもい
いんですよと言ったんです。その点、貴女はそれを実践されて詳細
な地図を作られているから凄いですよ﹂
﹁そんなに言って貰うと嬉しいですよ。今日一日、楽しく仕事がで
- 186 -
きそうです﹂
﹁私も、今日は気持ち良く歩けそうです﹂
﹁縮尺には問題がある地図ですけど、なにか気づいたことがありま
したら教えて下さい﹂
﹁分かりました﹂
後 日 、 感 謝 の 手 紙 を 書 く 積 り で 彼 女 の 名 前 を 訊 く と 、﹁ 木 曽 路 を
ゆく﹂という本に書かれた地図を監修している人で、それだけ自分
の仕事に熱意を持ちプロ意識があるのだろう。
﹁ところで、先ほど挨拶されていたご夫婦も、間違って歩かれるか
もしれませんね﹂
﹁私ほど旧道には拘っていないようですけど、もし出会ったら教え
ておきます﹂
﹁では、これから上松への旧道の入口を教えますから﹂
﹁ここから教えて貰えればいいですよ﹂
それでも、彼女がわざわざ誘導してくれたのは、入口が分かりに
- 187 -
くい細道だからである。
その日は一日、持ってきた地図を一度も出さず、彼女に貰った地
図だけを頼りに歩いたが、大きさもB五だから片手で持つのに手頃
である。それでも二叉の所が明確でなくて、往復一キロぐらい余分
に歩いてしまったが、その辺りは私が悪いのだから止むを得ない。
後日、家に戻ってから感謝の気持ちを込めて、貰った地図につい
ての感想と、途中で感じたことなどを書くことにする。あの資料が
なければ正しい道が歩けたか分からないから本当に感謝する。
〇
須原の宿に電話で予約したとき女将の声に元気さがなかったが、
実際に受け入れてくれると色々気を使ってくれる。例えば水洗いで
洗 濯 し よ う と す る と 、﹁ 洗 剤 が な い な ら 使 っ て 下 さ い ﹂ と 洗 剤 を 出
してくれる。
料理は今回初めて馬刺しが出たり、山菜の天ぷらを山盛りで出し
てくれたり、ワラビと糸コンとニンジンの千切りを醤油味でごま油
- 188 -
炒めにした物が美味くて、酒の肴にも飯のおかずにも最適である。
特 に 疲 れ て い た せ い か ビ ー ル を 飲 ん で い る う ち に 、﹁ 飯 を 食 べ る
気がしない﹂と言うと、夜食用に握り飯を作ってくれたり、今夜も
作業しながら飲む日本酒も分けてくれる。
どう
ただ宿の設備は少し淋しいが、六千五百円だというから文句は言
えない。その辺りについて翌朝の清算のとき女将に訊く。
﹁大きな民宿ですけど、観光の人はあまりいないでしょう?
いう人達が利用しているんですか?﹂
﹁道路やダムや電力の関係者が多いんですよ。休みには小・中学校
の子供達が、近所の運動設備を利用するため合宿するんです﹂
﹁じゃあ、最近は国や地方自治体がダムや道路などの公共事業を見
直す機運があって、泊り客が減っているでしょう?﹂
﹁そうなんですよ。激減しているから大変なんです﹂
それで元気がない声をしていたのだろうか。
〇
- 189 -
予約した妻籠に荷物をおいて洗濯してから、再び妻籠の街並を歩
いてみる。すると中学生の団体に出会う。
﹁どこからきたの?﹂
﹁兵庫県の丹波からです﹂
﹁修学旅行かい?﹂
﹁ええ、そうです﹂
その先に若い女の先生が立っているので話しかける。
﹁大変ですね。何人ですか?﹂
﹁百二十人です。でも皆、良い子ですよ
」
﹁何人で引率されているんですか?﹂
こんな会話から、私がここまで歩いてきたことを話す。
﹁日本橋から、続けてですか?﹂
﹁仕事がある日や天気が悪い日は歩けないから、毎日は歩けないん
ですけど、今回みたいに遠い所は出来るだけ続けて歩くんですよ﹂
﹁すごいですね。よく続きますね﹂
- 190 -
﹁本に書く約束があるから、出来るんですよ﹂
﹁ぜひ出版したら、教えて下さい﹂
﹁住所を教えてくれたら、本ができたとき連絡しますよ﹂
﹁じゃあ、お願いします﹂
なかなか積極的な先生で気持ち良い。
〇
その妻籠の宿に戻ると、隣の部屋から中年男性二人の声が聞こえ
るが、急遽この宿に泊ることを決めたらしい。
夕飯でテーブルを並べたとき、こちらからは話しかけなかったの
だが、向こうから話しかけてきたから、歩いてきたことを話さざる
を得ない。一人は戦争経験者らしいから七十歳代で、もう一人はそ
れより少し若い感じである。
﹁歩いてきたなんて、すごいなあ。私らはもう歳だから出来ないで
すよ。歳は幾つですか?﹂
﹁歳をとりたくないから、六十歳でとめているんですよ﹂
- 191 -
﹁そういう言い方もあるんだ﹂
﹁でも、家族がよく納得するなあ﹂
﹁納得しなくても飛び出しますから
」
﹁文句を言いませんか?﹂
﹁うるさいのがいなくて、自分達も好きなことができるから、喜ん
でいるんじゃあないですか?﹂
そんな会話の中で、その一人が次のようなことを言う。
﹁最近の若い者は楠正成をしらないですね﹂
﹁それはそうでしょう。戦後は正成のことを教えませんからね﹂
﹁教育の問題ですね﹂
﹁教えて貰わないと、分からないものですよ﹂
こう言ったのは、街道を歩いていると地元のシニアでさえ、そこ
の旧道や本陣などについて知らない人が多いから、年寄だって同じ
ことだと思うためである。
この二人は富山県からきて、行き先を決めずにドライブしている
- 192 -
ようで、明日はどこへ行こうかなどと話している。
〇
馬籠峠を下って宿に近づくと、その先で三ー四人の女性グループ
がタクシーで観光していて、車を走らせながら運転手が説明してい
るのに出会う。知り合いの五十代の女性が母親と中山道を歩いてい
て、疲れるとタクシーを利用しているという話を聞いたことがある
から、同じような人達がいるのだと思う。
そのタクシーが通り過ぎて間もなく、向こうから中年女性三人が
坂を上ってくるので、どこまで行くのか気になって訊いてみる。
﹁どちらへ行かれるんですか?﹂
﹁妻籠まで歩くんです﹂
﹁じゃあ、昨夜は馬籠に泊って、今晩お帰りですか?﹂
﹁いえ、今晩は妻籠に泊ります﹂
﹁どちらからこられたんですか?﹂
﹁私は新潟県ですけど、この人は埼玉県です﹂
- 193 -
﹁埼玉県はどちらですか?﹂
﹁浦和です﹂
﹁なんだ近いですね。私は川越ですよ﹂
﹁どこからどこまで行くんですか?﹂
﹁日本橋から京都まで歩く計画なんです﹂
すごいですね﹂
﹁なにかの団体で歩いているんですか?﹂
﹁一人なんですよ﹂
﹁え、一人ですか?
そんなことから立ち話しが進んでしまい、本ができたら連絡して
欲しいというので、その中の一人から住所を教えて貰い、更には写
真まで一緒に撮ってしまう。
﹁もう少し歩くと峠で、そこからは下りが多いから楽ですよ﹂
﹁気をつけて下さいね﹂
﹁有難う御座います。皆さんも気をつけて下さい﹂
こんなちょっとした触れ合いが旅の途中では心をなごませる。
- 194 -
中津川から大井へ
中津川にはビジネスホテルが幾つかあり、泊ったのは素泊り五千
円以下だったが、ここでは予約しておいた朝食を食べて出発する。
〇
四ッ目川を渡ると中津川宿の中心である本町で、まず左側に秋葉
神 社 が あ る が 、秋 葉 神 社 は 火 伏 せ の 神 様 で 秋 葉 山 信 仰 が 盛 ん だ っ た 。
中津川宿は江戸から四十五番目の宿場で、本陣や脇本陣がある本
町を中心にして、京方には旅籠屋・馬宿・茶屋その他を商う店や職
人の家があり、江戸方には商家を主とする家並だった。
NTTの斜め向かいに本陣跡があり、火災や敵襲など本陣が非常
の折には、裏口から西側の大泉寺へ避難できるようになっていた。
NTTの辺りには脇本陣があって、道をはさんだ向かいの大きな
家は庄屋跡①である。ここの庄屋跡は江戸時代の享保三年︵一七一
八︶から明治五年︵一八七三︶まで庄屋を勤めた肥田家で、幕末期
- 195 -
- 196 -
の庄屋だった肥田九郎兵衛通光は島崎藤村の﹁夜明け前﹂に小野三
郎兵衛の名で登場する。
その先の桝形辺りから商店が増えてきて、突き当りを左へ曲ると
古い建物が並び、古くからの商家には夫々の説明書きがある。
その先でまた突き当る左に式内恵那山上道の道標があるが、この
道標は慶応元年︵一八六五︶に立てられたもので、この横にあるの
が恵那神社への道である。
その突き当りで旧道は右へ曲るが、この横町の辺りには卯建のあ
る家も残っていて、その先には常夜灯がある。京都からくると入口
にあたる下町にも、高札場があったと伝えられているが今はない。
中 山 道 ﹂が あ る 。
ここから中津川︵川上川︶までの中山道の道筋は跡形もなく、昔
の姿はほとんど留めていない。
津 島 神 社 参 道 の 碑 が あ る 所 に 、新 し い 道 標 ﹁ 左
その先には石屋坂の石仏があり、四つの石仏のうちで三つは馬頭観
音である。駒場村の高札場跡とある脇の民家には、その壁に小さな
- 197 -
高札場が新しくできている。
右大井街﹂がある。その向かいに石仏群があり、男
大きく二回曲ったこでの木坂を上りきると、石の道標﹁左中津宿
中山道駒場村
女が肩から足まで一体になった双頭一身道祖神がある。
そこから少し進むと右手に上宿の一里塚跡②があり、江戸から八
十五番目の一里塚で、ここには明治天皇の碑もある。
せんだんばやし
て が ね の
会所沢交差点の手前で旧道と新道と交差するが、そこには小石塚
の立場跡の碑が立っている。その先は昔の千 旦 林村と手金野村との
境になっていたが、今は道路改良のため旧道は途切れて消えた中山
道③になっている。そこの掲示に従いJR沿いに道を進むと、左へ
カーブした所に先ほど途切れた延長線上の道がのびている。
その先右側に六地蔵があり、更に進むと右側に坂本神社④の山道
入口がある。ここを右折すると明治六年︵一八七三︶に開校された
松風義校︵千旦林学校︶跡や木村角次郎先生の像があり、JRの線
路を越えて百メートルほど先に神社がある。
- 198 -
碑
皇
天
治
の
元
一
里
塚
明
宿
の
屋
川
宿
と
津
上
問
中
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〇
しょうげんづか
旧道に戻って歩き始めると右に札の辻があるが、ここは江戸時代
に千旦林村の高札場があった所である。
東巣川を渡って二叉路を左へ進むと、右側に将 監 塚や三津屋の一
里塚があったらしいが見当らず、大林寺⑤の裏辺りに坂本の立場跡
⑥がある。
な す び
そこから下り坂で左側に石仏群があり、坂本川を坂本橋で渡ると
右側に坂本観音様があり、茄子川村の高札場跡がある。
更に野田川の手前右側に尾州白木改番所跡⑦があり、ここは尾州
藩の直轄地である木曽山や中津川から、白木製品を隠して持ち出せ
ないように見張っていた。
その先の川を渡ってから、T字路を左へ進むと源長寺がある。
すぐ左に明治天皇茄子川御小休所の碑⑧が立っているのは庄屋篠
原家で、中津川宿と大井宿の中間であるため大名や姫君が昼飯を食
べたり休んだりした。
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その隣のT字路には常夜灯が立っていて、左へ進む道は遠州︵静
岡県︶秋葉山の日伏神社へ行く秋葉道である。
そこから上り下りの途中に茄子川焼とあるが、この焼物は天正六
年︵一五七八︶頃に始まり、土岐郡妻木村の加藤喜兵衛を師匠に迎
え、奥州相馬焼きの技術を取り入れたとある。
新道と合流する角には中山道岡瀬沢碑と常夜灯⑨があり、右向こ
うを見ると百メートルぐらい先に浅間神社がある。その交差点から
先へ旧道は進み、湯川を筋違橋で渡ると民家が並んでいる。
広重の絵の峠かな﹂という橋本鶏二とい
甚平坂を上ると甚平峠で、ここのポケットパークには広重の絵を
刻 ん だ 石 が あ り 、﹁ 初 蛙
う人の句碑がある。その向かいに根津神社⑩があり、その先の関戸
の一里塚は江戸より八十七番目である。
峠を下って行くと新道と交差する右の小高い所に鬼子母神社があ
り、明治天皇行在所の碑が立っている。そこから新道と合流して少
し下がると菅原神社があって、その脇の階段を下る。
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すると宿内に悪病や悪人の侵入を防ぐ上宿の石仏群⑪があり、明
知線のガードを潜ると南無阿弥陀仏と太く彫った大きな石柱がある。
〇
その先の高札場跡がある辺りから大井宿⑫が始まり、延寿院横薬
師の前で旧道は左へ曲り、左角の立派な門構えの家が本陣跡の林家
である。
そこを右へ曲って約百五十メートル行くと脇本陣跡があり、その
向かいの大矢来がある古い家は明治天皇行在所である。
その右向かい角にある旅館いち川は昔からの商売で、そこを右へ
曲ると左側にも古い豪邸が残っていて、突き当りには市神神社があ
る 。そ こ を 左 へ 曲 り 、ま た 左 へ 曲 る と 、い ち 川 の 前 の 道 と 合 流 す る 。
この道はすぐ阿木川を大井橋⑬で渡るが、この橋の欄干には広重
・英泉の中山道の浮世絵が何十枚か飾ってある。そのまま真っ直ぐ
進むのが旧道で、次の四辻を右へ曲るとJR恵那駅である。
もう数日で梅雨に入りそうなので、ここで中断する。
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群
仏
宿
入
口
の
井
宿
の
元
本
陣
井
大
石
大
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ひと時の中断
今回は仕事の関係などで、継続して歩くのは十日ぐらいを目途に
してきたので、JR恵那駅がある大井宿で中断することにした。
仕事以外にも中断する理由はある。五月末から十日もすると梅雨
に入るからで、もう一つの大きな理由は年と共に記憶力が落ちるこ
とである。
十日も歩くと最初の頃のことを忘れ始めるから、忘れないうちに
整理したいのである。いくら歩いている途中の宿で写真やメモを整
理していても、家に戻らないとできない整理もあるから、十日ぐら
いが適当なように思う。
もし、それ以上に継続して歩こうと思うと、もっと装備が必要に
なるだろう。写真は一日に百枚近く撮るから十日分で千枚だが、こ
れはディジタルカメラだから千枚が二千枚になっても、荷物として
はしれている。ただし記憶力を補う物として、地図や資料なども増
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えるだろうし、それ以外の持ち物も増やす必要があるだろう。
さて、この間の歩きでも街道の素晴らしさを感じてきたが、これ
ら に つ い て は シ リ ー ズ ﹁ 中 山 道 ︵ 三 ︶﹂ に ま と め て 書 き た い 。
︵平成十四年五月二十八日ー六月六日︶
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中山道独案内﹂今井金吾著
日本交通公社出版事業
日本交通公社出版事業
︵参考資料︶
︵ 一 ︶﹁ 今 昔
東海道独案内﹂今井金吾著
木耳社
実業之日本
︵ 二 ︶﹁ 今 昔
今井金吾著
中西慶爾著
山川出版社
文献出版
弘済出版社
高等学校歴史研究会
中山道﹂
︵ 三 ︶﹁ 信 州 の 街 道 歩 き ﹂
︵ 四 ︶﹁ 巡 歴
︵ 五 ︶﹁ 歴 史 散 歩 ﹂
荻原悌著
︵ 六 ︶﹁ 東 海 道 ・ 中 山 道 を 歩 く ﹂
︵ 七 ︶﹁ 中 山 道 を 行 く ﹂
学習研究社
木曽福島駅内観光案内所
児玉幸多監修
︵ 八 ︶﹁ 木 曽 街 道 十 一 宿 ﹂
︵ 九 ︶﹁ 木 曽 路 を ゆ く ﹂
学習研究社
学習研究社
児玉幸多監修
児玉幸多監修
︵ 十 ︶﹁ 美 濃 路 を ゆ く ﹂
︵ 十 一 ︶﹁ 近 江 路 を ゆ く ﹂
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(著者経歴)
中山高安
(なかやまたかやす)
1939年 東京都に生まれる
1964年 慶應義塾大学工学部卒業
鐘紡㈱に入社
コンピューター関係のSEから営業部長まで歴任
1987年 コンピューターネットワーク会社の取締役として出向
1990年 コンピューターソフトウェアー会社の代表取締役として出向
1995年 定年退職後、経営コンサルタント会社を設立
第二の人生を模索しながら文筆活動
随筆「第二の人生」、小説「マンマシン」、
随筆「人生いろいろだから楽しいだから生きてく」
紀行文「ウォーキング旧中山道(日本橋ー分去れ)」
「絵のない絵本ー私は猫です(1)(2)」
2002年 紀行文「街道を歩く」のシリーズを始める
「中山道(日本橋ー分去れ)」「中山道(分去れー大井)」
「中山道(大井ー京都)」「北国街道」「川越街道」「日光道中」
2003年 「日光御成道と日光西街道」「日光例幣使街道」「千人同心日光道」
2004年 「水戸道中」「奥州街道(宇都宮ー白河)」
2005年 「奥州街道(白河ー古川)」「奥州街道(古川ー龍飛崎)」
「陸前浜街道(水戸ー仙台)」
2006年 「出羽三山参詣道(仙台ー鶴岡ー新庄)」「山陽道(京都ー西宮)」
「山陽道(西宮ー三原)」「山陽道(三原ー下関)」
2007年 「長崎街道(門司ー長崎)」「薩摩街道(山家ー鹿児島)」
2008年 「北陸道(鳥居本ー金沢ー石動)」「北陸道(石動ー高田ー出雲崎)」
2009年 「全国の街道を歩く」
2010年 「関東の旧鎌倉街道(上道・山ノ道と中道・下道)の地図」
街道を歩く
中山道2(分去れー大井)
2011年5月25日 電子版 発行
著者・注文出版 中山 高安
〒350-1151:埼玉県川越市今福1472-20
TEL&FAX:049-248-2674