ニュージーランドにおけるキリスト教宣教と捕鯨との互恵関係 The

奈良教育大学紀要 第61巻 第1号(人文・社会)平成24年
ニュージーランドにおけるキリスト教宣教と捕鯨との互恵関係
Bull. Nara Univ. Educ., Vol. 61, No. 1 (Cult. & Soc.), 2012
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ニュージーランドにおけるキリスト教宣教と捕鯨との互恵関係
安
田
寛
奈良教育大学音楽教育講座
(平成24年5月7日受理)
The Mutually Beneficial Relationship of Christian Missionaries and
Whaling in New Zealand
Hiroshi YASUDA
(Department of Music Education, Nara University of Education)
(Received May 7, 2012)
Abstract
This research is intended to review from the viewpoint of Missionization and Post-Missionization
fundamental changes of song culture in the entire Pacific Ocean, including East Asia as a result of the
encounter of indigenous music and Western music in the 19th century.
The Missionization of the song culture means that traditional song was replaced by Christian
hymns by the Christian Missionaries. The Post-Missionization of the song culture refers to the
performance of a Christina hymn according to the traditional singing style, thus producing a new song
that is distinct from Christian hymn and so on.
The major factor promoting the mission in the Pacific Ocean was British and American whaling.
Whaling and Christianity in the 19-century Pacific Ocean were closely related. The pioneers of
Christianity in the Pacific Ocean were the British and American whalers in the Pacific. Whalers
entered the Pacific deep-step without maps, and went to open the ports. The propagation of
Christianity followed the exploration of the whalers.
In this paper, we discuss the relationship between whaling and Christian missionaries in the case
of New Zealand. Whaling ship promoted the exchange of people of Polynesia and people exchanged
information with each other through it. Christian missionaries obtained a lot of information from the
captain of the whaling ship and from local people who was brought aboard the whaling ship. Whaling
ship was in need of safety in the port. Christian missions met this need. This was also the case of New
Zealand.
キーワード:キリスト教宣教、
Key Words : Christian Mission,
捕鯨、
Whaling,
ニュージーランド
New Zealand
1.はじめに
宣教化とは、それまでの伝統歌謡がキリスト教讃美歌に
置き換えられて行くことを意味し、脱宣教化とは、讃美
本研究は19世紀に東アジアを含めた太平洋全域で起
歌を伝統歌謡の様式にしたがって演奏したり、さらには
こった、西洋音楽に遭遇した土着音楽の壊滅的打撃とい
作り直したりすることや、讃美歌から新たな歌謡を作り
う歌謡文化の根本的変化を宣教化と脱宣教化という視点
出すことを意味している。
から見直し、各地域間の相互関係と相違をふまえた全体
日本の近代歌謡の根を形成し、台湾、韓国、中国の近
構造を見渡すことを究極の目標にしている。歌謡文化の
代歌謡に決定的影響を与えた唱歌が誕生した基盤は、近
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代化、西洋化にあると考えるのが普通であるが、唱歌と
リスト教布教が行われた。こうした事情を考慮すると、
は実は脱宣教化であったという見方によって、太平洋全
布教地域の区分、布教の順序が海流の違いとその流れる
域の宣教化と脱宣教化のコンテクストの中に唱歌を位置
方向と重なっているのは単なる偶然ではなく、必然であっ
づけたいと思っている。
たと考えられるのである。
21世紀のグローバリゼーションは伝統の再生とアイデ
本研究は「捕鯨」という経済的視点によって行った19
ンティティの回復という文化変容の問題を新たなレベル
世紀の太平洋歌謡文化変遷についての研究から、ニュー
に押し上げている。唱歌に始まる近代日本の歌の歴史も、
ジーランドのケーススタディについて述べるものである。
日本人である保証を絶えず危険に曝しながら歩んできた
つまり、ニュージーランドにおけるキリスト教伝統と捕
道であった。それは宣教化と脱宣教化による破壊と再生
鯨活動がどのように関係していたに焦点を絞って述べる
の道でもあった。日本の唱歌を19世紀の太平洋全域の音
ものである。
楽文化の歴史の中に位置づけ、相互に比較することによっ
2.捕鯨とキリスト教宣教
て、これまでの近代化という視点では見えなかった破壊
と再生の、過去と現在とそして未来の道筋が明瞭に見え
てくるであろう。
歌謡文化の変遷から見たとき、19世紀の太平洋全域の
これまでも捕鯨とキリスト教伝道との関係について次
のように言及されてきた。
共通性は、等しく賛美歌の影響を被ったこと、伝統歌謡
ハーマン・メルビルは『白鯨』の中で捕鯨船と伝道と
は廃絶されるか、禁止されるかしたこと、現在、伝統歌
の関係について「宣教師と商人のために道をひらき、初
謡の復活がさまざまな形で行われていること、この3点
期の宣教師たちをしばしばその最初の目的地に運びもし
にまとめることができる。
た捕鯨船」と指摘した(1)。
差異は、キリスト教が伝わった時期と伝えた伝道団の
また、次のようにも述べている。
違いにある。そこで、太平洋全域を、
1.伝道の開始時
「多年にわたって、捕鯨船は世界のもっとも僻遠の地、
期、2.アメリカの宣教会による伝道地域か、イギリス
未知の秘境を探り出す先駆者の役割を果たしてきた。
の宣教会の伝道地域かによって、次の3地域に区分する。
クックやヴァンクーヴァーなどの航海者も行ったことの
第1地域(ハワイを除くポリネシア、最も早く伝道が
ない、海図にも記されていない多くの海域や群島を探検
行われた地域、主にイギリスの宣教会による伝道地域)
してきた。かつては蛮地であった港に、いまアメリカや
第2地域(東アジアとミクロネシア及びハワイ、主に
ヨーロッパの軍艦が平穏に乗り入れるとすれば、最初に
アメリカの宣教会による伝道地域)
第3地域(メラネシア、伝道がもっとも遅れた地域、
諸宗派による伝道地域)
では、なぜこのような3つの地域の区分が生じたのか、
その航路をひらき、彼らと蛮族との交流の糸口をつけた
捕鯨船の名誉と栄光を讃えて祝砲を放つがいい。(中略)
何しろ彼らは、鮫の群がる異教の海域で、投げ槍の降る
未知の島の岸辺で、援軍の当てもなければ武器もないま
なぜ3つの地域及び地域内での伝道時期の違いが生じた
ま、海兵隊やマスケット銃に護られたクックでさえ尻込
のか、その原因について考えて見ると、それは捕鯨と太
みしたであろう、はじめて目にする驚異や恐怖と戦った
平洋の海流が関係していると見ることができる。
のだ(2)」
第1地域(南半球)と第2地域(北半球)との宣教地
また次のようにも指摘されている。
域の棲み分けは、北赤道海流と南赤道海流と重ねること
「太平洋の島々に寄港する捕鯨船には宣教師からボスト
が出来る。またそれぞれの地域での布教の順序も海流に
ンあるいはロンドンの宣教本部への書簡が託された。捕
関係している。北半球での讃美歌の普及は、ハワイ、ミ
鯨船は書簡の他にも宣教に必要な、雑誌、書籍、荷物、
クロネシア、その延長である日本の順序であった。この
その他あらゆる生活必需品を運んだ(3)」
順序は北赤道海流の流れに沿っている。南半球の順序も
捕鯨船が開拓した良港はすべてキリスト教伝道基地と
ほぼ南赤道海流の流れに沿っている。両海流の端にある
なった。マルケサスのヌクヒヴァ(Nuku Hiva)、タヒチ
メラネシアは讃美歌の普及が最も遅れた地域であった。
のパペーテ(Papeete)、ニュージーランドのベイ・オ
次に、なぜ、それぞれの地域での布教の順序は海流の
ヴ・アイランズ(the Bay of Islands)、サモアのアピア
流れる方向と重なっているのであろうか。これは単なる
(Apia)、フィジーのカダヴ(Kadavu)である。捕鯨船
偶然の一致であろうか。私は偶然の一致ではないと考え
がこれらの港をどのように開拓していったのか、そこに
る。実は、太平洋のキリスト教の先駆となったのは、太
キリスト教宣教師たちがどのようにして入り込んでいっ
平洋におけるイギリスとアメリカの捕鯨であった。地図
たかを見てゆけば、捕鯨と伝道との関係を具体的に知る
のない太平洋に鯨を追って深く進出し、港を開いていっ
ことができる。ここでは、ニュージーランドのベイ・オ
たのは捕鯨船であった。捕鯨船が開拓した後を追ってキ
ヴ・アイランズの場合を見てゆく。
ニュージーランドにおけるキリスト教宣教と捕鯨との互恵関係
3.ニュージーランド宣教の開拓
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が言うには、もしも誰かヨーロッパ人が彼と一緒に行く
なら、一緒に住むことができる」
ニュージーランドのキリスト教伝道を最初に行ったの
宣教開始に向けての宣教会議が1813年12月20日にシド
は、英国聖公会によって1799年に設立された英国教会伝
ニーで開かれた(12)。1814年9月22日付けの手紙でマース
道協会(Church Missionary Society)であった。ニュー
デンは捕鯨船のオーナーの言葉として次のように書いた。
ジーランド・ミッションを設立したのはオーストラリア
「南太平洋の捕鯨船のオーナーたちは、伝道団の企て
のニュー・サウス・ウエールズの副チャプレンのサミュ
に喜んで援助をし,貢献をしたいと思います。宣教師たち
エ ル・マ ー ス デ ン(Reverend Samuel Marsden 1765−
が定住するようになれば、乗員が殺害される心配は無く
(4)
1838)であった 。彼がシドニー・ミッションを立ち上
なり、ニュージーランドの漁場にいる捕鯨船はベイ・オ
げるためにオーストラリアにやってきたのは1794年3月
ヴ・アイランズに安全に寄港し、必要な補給を得ること
のことであった(5)。シドニーでマースデンは捕鯨船に乗っ
が出来るようになるからです。しかし現在はかなり危険
てやってきたニュージーランドのマオリ人と交流し、彼
な状況におかれています。(中略)捕鯨船の船長の乗組
らからの情報でマースデンはニュージーランドに興味を
員達らが直面している危険な状況が取り除かれることは
持ち、捕鯨船の寄港地であったベイ・オヴ・アイランズ
ほぼ確実です。それゆえに、ニュージーランドの宣教に
(Bay of Islands)に伝道地を開拓することを考えるよう
全面的に協力することは、とりわけ捕鯨に関心のある全
になった(6)。
ての人にとって極めて利益にかなったことである(13)」
そうしたマオリ人の中でニュージーランド・ミッショ
1814年12月19日にマースデンたちはベイ・オヴ・アイ
ンの開設に重要な働きをしたのがルアタラ(Ruatara)
ランズに上陸した(14)。1814年のクリスマスに、マースデ
であった。彼はランギホウア(Rangihoua)の若い主要
ンはベイ・オヴ・アイランズのランギホウア(Rangihoua)
な酋長であった。イギリスに行くことを目的に彼は1805
ではじめて聖書を読み上げてミッションを開始した。ラ
年に捕鯨船に乗って故郷を出て、その後、船長の酷い扱
ンギホウアの酋長であるルアタラが通訳した(15)。ニュー
(7)
いで散々の辛酸をなめて1809年にロンドンに着いた 。
ジーランドの大地で聞かれた最初の讃美歌は、ベイ・オ
マースデンは1807年のはじめ、英国教会伝道協会に
ヴ・アイランズの1814年のクリスマスの礼拝でマースデ
ニュージーランドにミッションを開設することは有望な
ンによって歌われた「旧百番」だったであろう。会衆の
(8)
企画であることを説得するためイギリスに帰国した 。
印象はマースデンの期待とはかなり違っていた。マース
1809年にニュージーランド宣教は決定され、オーストラ
デンは聴衆が見た最初に白人だったので、理解できない
リアのニュー・サウス・ウエールズに向けて3名が派遣
不思議な出来事だった。彼が立ち上がったとき、全員が
(9)
されることになった 。
しかし事態は悪化した。1809年の8月、英国に向けて
シドニーを出航したボイド(Boyd)号がニュージーラン
言った。「おい、彼が立ち上がった」。彼が讃美歌を歌い
始めると、彼らはお互いに叫んだ。「おい、口を開けた
ぞ(16)」
ドのワンガロア(Wangaroa)に立ち寄った時、船長と
70名の乗員のほとんどが殺害されるという事件が起こっ
5.結論
た。生き残ったのは、少女二人とキャビンボーイと一人
の婦人だけだった。婦人も事件のすぐ後に死亡した(10)。
以上によってニュージーランドのキリスト教宣教も捕
鯨という経済活動と密接に関係していたことが明らかに
4.ニュージーランド宣教計画の再開と捕鯨
なったと考える。メルヴィルの言う通り、ニュージーラ
ンドに最初に接岸した船は捕鯨船であり、捕鯨船はベイ・
ボイド号殺戮の事件によって、ニュージーランド宣教
オヴ・アイランズに補給基地を開拓した。その地に最初
は延期され、計画が再び持ち上がったのは1813年にこと
のキリスト教宣教基地が置かれた。捕鯨船からすれば、
であった(11)。
宣教師が捕鯨基地である港に定住し、原住民を教化すれ
マースデンは6月13日付けで本国に、「ルアタラと再び
ば安全が確保できるというメリットがあった。捕鯨船の
話しをして、ニュージーランド宣教を始める可能性につ
活動とその協力がなければ、宣教師は情報も宣教地の確
いて手応えを得ることができた」と書いた。追伸では、
保も輸送もままならなかった。19世紀初期のニュージー
「鯨油を満載して船長パーカーはニュージーランドから
ランドのキリスト教宣教開始時においては、キリスト教
戻ってきた。ルアタラは船長から親切に扱われていた」
宣教と捕鯨とは相互に利害が一致していた。
と書いた。マースデンは本国にまた次のように報告した。
さて、宣教師を最初の入植地となった故郷に導いたの
「昨日若いアメリカ人と話しをした。彼は1年以上原住
は、ベイ・オヴ・アイランズの酋長であったルアタラで
民と暮らした後、パーカー船長と一緒に島を出発した。彼
あった。彼と最初の宣教師マースデンとを結びつけたの
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安
は捕鯨船であった。幕末の日本と対比するなら、ルアタ
ラは、捕鯨船の薪炭補給の確保を目的の一つとしていた
ペリーの黒船に乗り込もうとして失敗した吉田松陰と重
ねることができる。函館から密航し、幸運にもボストン
にたどり着き、そこで宣教団の理事の保護を受けた新島
襄とはもっと重ねることができる。新島は準宣教師とし
て帰国し、宣教師の活動を助けることになる。その姿を
ルアタラと重ねることは容易である。過酷な労働と不払
いという不当な待遇に耐えてでもロンドンに行きたいと
いうルアタラの思いは、イギリスに渡った伊藤俊介や森
有礼の思いと重ねることは許されるであろう。ルアタラ
は幕末の日本と対比するなら、開国派であった。彼の不
幸は、伊藤俊介や高杉晋作が列強に対する正確な情報を
得た清国のような存在が近くになかったことであろう。
1815年にルアタラが亡くなった後、マオリの人々は苦難
の道を歩むことになる。
英国教会伝道協会によって出版された400部の著作に含
まれていた7曲のマオリ語による最初の讃美歌は、マオ
リの歌謡文化を変える発端となった(17)。その経緯について
は別稿にゆずる。
注
(1)
『集英社ギャラリー[世界の文学]16』集英社、1991年、p.123
(2)同上、pp.122-123
(3)Strauss, W. P. (1963). Americans in Polynesia, 1783-1842.
East Lansing: Michigan State University Press. p. 68
(4)Gray, J. A. C. (1980). Amerika Samoa. New York: Arno
Press. p. 34.
(5)Joseph Cayton(1845). Supplemmt to the Spectator
JANUARY 4 1845, RESULTS OF THE NEW ZEALAND
INQUIRY in the Spactator Vol. 18. London: P. 6
(6)Dodge, E. S. (1976). Islands and empires: Western impact
on the Pacific and east Asia. Minneapolis: University of
Minnesota Press. pp. 143-144.
田
寛
(7)Vogel, J. (1875). The official handbook of New Zealand:
A collection of papers by experienced colonists on the
colony as a whole and on the several provinces. London:
Printed for the Government of New Zealand by Wyman
& Sons. p. 260.
(8)Dodge, E. S. (1976). Islands and empires: Western impact
on the Pacific and east Asia. Minneapolis: University of
Minnesota Press. p. 144.
(9)Church Missionary Society. (1865). The Church Missionary
atlas: Maps of the various missions of the Church
Missionary Society, with illustrative letter-press. London:
Published for the Society by Seeley, Jackson, and
Halliday. p. 53.
(10)Wallace, J. H. (1886). Manual of New Zealand history.
Wellington, N.Z: Printed by Edwards & Green for J.H.
Wallace, Jun., publisher. p.10.
Sherrin, R. A. A., Wallace, J. H., & In Leys, T. W.
(1890).Early history of New Zealand: From earliest times
to 1840. Auckland: H. Brett. p.146.
(11)Sherrin, R. A. A., Wallace, J. H., & In Leys, T. W, ibid. p.
222.
(12)ibid.
(13)ibid. p. 223.
(14)ibid. p. 228; Ellis, W. (1829). Polynesian researches,
during a residence of nearly six years in the South Sea
Islands, including descriptions of the natural history and
scenery of the Islands, with remarks on the history,
mythology, traditions,
government, arts, manners, and customs of the
inhabitants. London: Fisher, Son, & Jackson. p. 36.
(15)Church Missionary Society (Great Britain). (1859). The
Church Missionary atlas: Containing maps of the various
spheres of the Church Missionary Society : with
illustrative letter-press. London: Church Missionary
House. p. 43.
(16)McLean, M. (1996). Maori music. Auckland: Auckland
University Press. p. 279.
(17)ibid.