敢えてタブーを冒して提起する - JIA 公益社団法人日本建築家協会

敢えてタブー
えてタブーを
タブーを冒して提起
して提起する
提起する
JIA NEWS / July / 1991
本稿の公開について: 社団法人日本建築家協会がその永い活動の歴史を通して主
張し続けて来たこと一つが設計と施工を欧米風に分離することであり、もう一つが施
工業設計部に勤務する建築設計者を建築家と認めないことであったのはよく知られ
ている。建築家と認めない以上、日本建築家協会の会員資格を認めて来なかったの
は当然のことであった。近年になって設計施工一貫方式(兼業)を建築生産の一つの
方法として認めるところまでは妥協していたが、会員資格については専業であること
を固守して来たのである。したがって日本建築家協会は専業と兼業を区別しない建
築士法を建築家法と認めない路線を歩いてきた。しかし同一の個人が職場を変える
ことによって建築家になったり建築家でなくなったりすることに疑問を抱き建築家の資
格は属人的なものであり職域によって変わるものではないという前提に立てば社団
法人日本建築家協会の会員資格制限はおかしいのではないかと感じて一石を投じた
のがこの一文である。今、読み返してみると論旨明確ならず説得力に欠けていること
は明らかで、当時賛同者もあったが否定的な意見が多く、中には恥を知れとまで罵倒
された曰く付きの論文である。この未熟な論文を改めて公開するのには既に JIA
NEWS で公開済みであることと、その後の建築家資格制度との関わりによって発表
することになる幾つかの論文の背景として必要な指標であると考えたからである。
本文
新日本建築家協会の一員として、「建築家とは何か、21 世紀に向けて JIA は如何に
あるべきか」を問うべく会員諸氏に問題提起をしたい。JIA は前身であった旧日本建
築家協会及び旧日本建築設計監理協会連合会の時代を通し、一貫して建築家の職
能確立を目指して闘ってきた誇り高い団体である その歴史は古く明治時代まで遡っ
て西欧風アーキテクトの日本での定着を模索してきた。闘いの頂点の幾つかは、か
の鹿島論争であり、国会請願であり、設監連の設立であった。私達はこれらの闘いを
誇りに思うと同時に今更のように一つの歴史の終蔦であったことを感じている。その
きっかけとなったのは設監連の解散と JIA の設立である。設監連が旧家協会以上に
先鋭な闘う集団であったことが、団体間の軋轢を助長しその命脈を縮めたと言えよう。
次いで建築審議会における専兼二つの方式による建築設計方式の公認である。これ
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は専業という業態が公認されたという意味では評価されるが、同時に兼業が同格で
あることをも公認するもので、専業こそが唯一の職能的建築家の在り方だとする従来
の建築家像を完全に否定するものでもあった。このような時代を背景にして誕生した
JIA だったのであるが、「建築家の職能確立」を目的としながら、実は「建築家とは何
か」を自ら確定することが出来ないまま 3 年有余を経過し今日に至っている。専業だ
けか建築家であると力強く宣言することも出来ず、かと言って建設業に所属する建築
家は偽物であると断言することも出来ず、いわんや彼等を JIA の会員として認めよう
などとは口が腐っても言えないというのが古くからの会員諸氏の心情であった。旧家
協会や設監連があのように闘争的で有り得たのは兼業との間に激しい対立感があり、
行政からも阻害されているとの認識があったからで、昨今のように専兼二つの方式に
はそれぞれ長所、短所があり選択は発注者側のものであると言われる時代において
は刃を振りかざすべき場所か無くなってしまったと言えるだろう。これが一つの時代の
終焉であるとすれば次はどのような時代なのであろうか。そして JIA は 21 世紀に向け
て如何にあるべき。20 世紀最後の 10 年間を次の世紀に生さる後輩達のために何を
残してやれるのかを死物狂いて考えなければならないのではないか。日本建築家協
会と日本建築設計監理協会連合会が解散して新たに JIA として再出発したのは、そ
れぞれの団体が目指した路線を放棄して新しい路線を選択することが最終目的であ
ったはずである。人によって思惑は異なり、ある人は旧家協会の会員勢力を拡大する
ための手段と理解したであろうし、ある人は設監連が姿を変えて延命するための方便
と解釈したであろう。またある人は新しい時代の到来を予感して期待に胸を高鳴らせ、
ある人は四方丸く収めるための唯-の方法と考えたてあろう。しかし誰一人として従
来の職能論を根底から洗い直し、専兼論争にピリオドを打つて、全く新しい路線を開
拓することを宿命づけられた団体として誕生したことに気づいていなかった。このこと
は設立以来、今日までの JIA の歩みを振り返ってみれば一目描然である。職能論に
しても、職能法制定に向けての取り組みにしても、他周体との折衝においても、旧家
協会、旧設監連の時代に較べて変化したものは皆無である。そこには一つの時代が
終わって新しい時代が始まったことを物語るものが何一つ見当らない。何のために大
騒ぎをして団体を再編成したのか、全く理解に苦しむのが設立以来今日に至るまで
の JIA の足取りではなかったろうか。私達が旧家協会、旧設監連を解敢して、JIA を設
立したことは、時代の変化を先取りしたという意味で評価すべきである。欠けていたの
は変化に対応する路線を明確にすることであった。JIA がなおざりにしてきた最大の
問題は新日本建築家協会という名前を呼称しなから「建築家とは何か」を定義できな
かったことである。さらに、このことに関連する専兼論議を凍結してきたことである。こ
れらの問題は JIA が設立される時点で解明に着手すべきであったし 4 年目の現在ま
でに答えが出ていてしかるべきであった。
現在の JIA が旧家協会、旧設監連の延長に過ぎす、時代の変化に対応していない
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ことの責任は一部の幹部に帰せられる問題ではなく、私を含めて会員一人一人が
JIA 誕生の必然性についての認識が甘かったことにあると思う。
このような考えのもとに私は敢えてタブーを冒し、JIA の会員規則を拡大して建設業
に所属する建築家に門戸を開放することについて真剣な討議をされるよう問題を提
起することとした。おりしも、「'91 千葉大会」における会長、副会長の発言が業界新聞
でいろいろと報じられている。発言の何れもが具体的な提案をされていないにも拘ら
す、門戸開放と受け取られる雰囲気が既に社会現象とし存在する理由も単なるムー
ド的なものだけではなく、社会力学の法則のしからしめるものが感じ取れるからであ
ろう。しかし JIA を再生させるための変革は生半かな思いつきやアイデアであつては
ならないことは当然で、7,000 人の会員全ての大衆討議を経たボトムアツフでなけれ
ばならない。そのような討議のための材料として以下に述へる問題点を提示したい。
何時の時代にあっても唯一無二の正義などというものはないし、そのような正義を求
めて模索することに、それほどの意義はない。それよりも到達できそうな目標を定め
て一所懸命になることの方か遥かに創造的であり、生きがいとも成り得るのである。
さて 21 世紀に向けて JIA が認識しなければならない一つの大きな課題は環境問題と
どう取り組むかということである。JIA はこれまで建築家の職能を追及してきたが、究
極において建築家に期待されるものは完成された構造物を通じて環境を良くすること
である。従来、建築家は周囲の環境に調和する建築を目指したり、環境を積極的に
美しく住みよいものに変えていくことが職能的使命であると信じてきた。しかし今日で
は、環境を人間に対してのみに限定するのではなく、人間以外の動植物を含めた生
態系にまで拡張しなければいけないという考え方が主流となり、地球温暖化や海洋
汚染が生物の生存そのものを危うくしようとしていることが明らかになってきた。今や
私達はこの美しい地球という天体を子孫に残してやれるか否かの瀬戸際に立たされ
ている。だが環境汚染から地球を守ることは個人の能力の及ぶところではない大変
な問題である。単にエネルギー消費を抑えるとか、機械文明への依存度を改めるとい
うような技術的な問題だけではなく、先進国が垂れ流してきた汚染物質の累積による
被害を発展途上国が弁済する義務はないという南北間題を含んでいるだけに更に複
雑である。人間が自ら招いた危機を回避できるか否か、個人の力では如何ともし難い
ものではあるが、同時に一人一人の自覚と努力が無ければ行政も空回りとなる。
そこで JIA の役割であるが環境を良くすることを職能としている以上、広い意味での
環境保全の問題に関して積極的に参加していく責務があるものと考える。専門家とし
て成し得ることは省工ネ設計の普及などに限定されようが、エネルギーの総量規制を
進めるため電力、ガスの使用区分を最も適正なものとする研究や、インフラストラクチ
ヤーの整備に関する提言などの都市計画の領域にまて及ぶ活動も必要なことである
し、外装材として電力を大量に消費するアルミニウム建材を使用するのと、運搬のた
めに石油が要る石材を使うのとどちらが大気汚染に影響か多いかというような具体
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的な資料を作成することも大事なことである。また直接、建築技術に関係のないこと
であっても、環境保全に関する意見や決議事項を発表したり、政府に提言することが
環境に責任を持つ団体としての役割であろう。急速に進んでいる汚染を考えると、建
築家はデザインや建築論を放棄して環境保全だけに全力を投入しなければならない
時期に来ていると極言しても良いのではないか。 環境保全は地球全体の問題であ
り、目的達成の手段も地球規模で実施されなければ効果は期待できない。そのため
には先ず国を単位とした専門家別の実行グループの存在が基本になる。そのような
グループが国連やユネスコを通して連帯して行動することになる。建築家の場合、例
えば UIA を通じて各国の建築家団体が共通の認識を基に環境保全に取り組むことに
なる。国内においては実体がそうでないにも拘らず、「日本を代表する唯-の建築家
の団体」を標模して UIA に加盟している JIA がその任に当ることとなるであろう。しかし
日本の建築を設計しているのは JIA のメンバーだけではない。JIA 会員以外は環境保
全に責任がないという論拠は何処にもないことは当然である。私達は環境に関わる
専門家として会員以外の建築家にも積極的な参加を呼びかけなければならない。こ
と環境に関することはマクロ的な地球汚染の問題から、ミクロ的な我が町の住環境に
至るまで、建築家が責任を持って取り組まなければならないのだという認識を持てな
い建築家を私達の団体の会員でないからと放置しておくことはできない。そのような
建築家とも議論を交わし、時には積極的に教育を計ることも「日本を代表する唯一の
建築家の団体」の責任であるが、会員以外の個人に対して JIA が厚かましく教育を施
すことができる訳がないのも自明の理であろう。そしてこのような建築家が JIA 会員以
外の多数を占めていれば、「日本を代表する唯一の建築家の団体」として機能してい
るとは言えないのである。これが第一の問題点である。 次に、この論文は一つの仮
定を条件としている。それは、湾岸戦争後アメリカの経済が更に衰退し、相対的に日
本経済が発展し続けるという前提である。仮にそうであるとすれば、日本の政治、経
済、文化の凡ゆる面で国際的な発言力が現在以上に強まるであろうが、同時に世界
各国の注視の的となり、かつ様々な要求や依頼が加速度的に増加するであろうこと
は、今回の湾岸協力金の例を見るまでもなく明らかであろう。しかも、それらに協力す
ることが繁栄を続けるための条件であることは誰の目にも明白なことである。建築の
世界においても状況は変らない。やがては GNP で米国を抜くとまで言われている市
場を目指して、外国からの参入は益々盛んになるであろうし、外国建築関係団体へ
の支援を要請きれることも起こり得るであろう。当協会においても、既に提携関係にあ
る AIA との交流、加盟団体である UIA の大会の誘致、ARCASIA への参加、きらに今
後、増え続けるであろう各国の建築家団体との交流が盛んになれば膨大な費用が必
要になってくることは火を見るよりも明らかである。現在既に赤字体質である JIA がそ
の負担に耐えられないにも拘らず、JIA の財政力の許容範囲の中に活動を限定する
ことが国際的に通用しなくなっていることに目を向けて頂きたい。私達がどれほど貧し
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きを訴えてみても、日本の建築家が貧しいはずはないと外国の建築家は考えるはず
である。もし彼等の期待を満たすことが出来なければ、真実の如何に関わらず、私達
は自らをエゴイストで世界に対して背を向ける者として位置づけることになるのである。
何故、そうならなければならないのか。私達は報われることが少なくても一所懸命に
建築を創ってきた。「専業の灯を消すな」と頑張ってきた。描けば描くほど赤字の増え
るような官庁指名にも耐えてきた。その私達が分不相応な財政負担に耐えてまで国
際的な活動に見栄を張らなければならないのは何故か、問題の焦点はここにある。
それは私達の JIA が「日本を代表する唯一の建築家の団体」であることを内外に表明
し、かつそのように振る舞ってきたからである。しかし実体は全く別で、日本建築界の
繁栄は JIA 会員のみによってもたらされたものではない。日本の建築工事責総額の
中で JIA の会員が関与しているものの比率が大半を占めることは有り得ない。ゼネコ
ンに所属する建築家によるもの、JIA 会員でない専業建築家によるものが数多くある
からである。本来、国際社会で日本の建築家として果たすべき責任は JIA の会員以
外の建築家にも平等に課せられるべきではないか。JIA は「日本を代表する唯一の建
築家の団体」ではない。実体がそうでないにも拘らず、「日本を代表する唯一の建築
家の団体」を標榜し、そのように行動していれば、外国の人が JIA を「日本を代表する
唯一の建築家の団体」と見做し、「日本を代表する唯一の建築家の団体」としての交
流を求めてくるのは至極当然であろう。 従って私達としてはこれからの国際交流を
支え、公益法人としての責任を果たしていけるだけの財政基盤を現在の会員以外の
分野に押し広げていくための抜本的な方策を見出さなければならない。現在のまま
JIA が建築家を代表して経済的負担を負い続けることは最早不可能であるし又その
責務もない。経済大国日本の中で活動し平和と繁栄を享受している全ての建築家に
等しく世界の羨望と期待が集められていると考えるべきであり、JIA 会員である私達と
共に責任を分かち合う義務があるはずである。どうすれば会員以外の建築家に応分
の負担を強制することができるだろうか。これが第二の問題点である。
以上の重要な二つの問題点は何れも JIA が「日本を代表する唯一の建築家の団
体」であることを表明しながら実体においては「日本の建築家の一部による団体」に
過ぎないことに起因している。このような矛盾を生じるのは、「建築家」を専業でなけれ
ばならないとし、ゼネコンに所属する建築家を会員資格から除外しているからに他な
らない。専業・兼業の論争の歴史は古く、JIA の提唱してきた職能理論は専業である
私達の旗印であった半面、兼業建築家側から見れば業務を独占し、兼業側から資格
を奪うための理論武装であるとして警戒されてきた。確かに専業側が西欧風建築家
の理想像として業務の独占を夢想していた時代はあったかもしれないが、今日では
巨大な資本力をバックにした営業力、豊かな研究責、層の厚い人材などに恵まれた
設計施工一貫方式を否定する者はいない。この論文では「ゼネコンに所属する建築
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家」とか「兼業建築家」という言葉を積極的に使用しているが、英語でいうアーキテクト
に当てはめた建築家という比較的新しい言葉に彼等を除外するだけの意味を期待す
ることは困難である。仕事の内容、仕事の進め方、仕事に対しての適性等、何処から
見ても建築を創る行為の中で専業、兼業を区別することは難しい。唯一つ、兼業では
第三者的な監理ができないという点か異なるのみである。それすらも発注者側からの
信頼に基づく契約であれば専業側の容喙すべき事柄ではない。分離方式、一貫方式
の何れを採るかは発注者側の選択次第というのが今日的解釈であり、お互いに相手
の立場を尊重して協力していくべき時代である。確かに両者は競合する立場にある
が、それは専業同士、兼業同士の間にも存在するものであり、体制の違いによって建
築家の責任や職能が全く異なるとする根拠は薄弱ではないか。建築家同士であれば、
体制の差に起因して共有することのできない問題で敵対するよりも、共通した悩みを
語り合う方が遥かに有意義である。専兼問題という不毛の議論を放棄し、専兼に共通
した新しい建築家像、新しい職能理念を確立することの可能性について真剣に討議
することが必要な時代に来ていることを声を大にして叫びたい。
もし専業という枠を外すことで JIA の会員資格がゼネコンに所属する建築家にまて
拡大されるならば、JIA は「日本を代表する唯一の建築家の団体」に一歩近づくことが
でき、提起された二つの問題を積極的に解決していく道が開けてくるてあろう。逆にこ
のことを従来の職能理念に矛盾するものとして否定するのであれば、JIA と BCS 設計
部会が協議会のような共通の問題を処理する機関を設けることが考えられるが、上
部機関でなければ事務処理能力においても執行権限においても弱体なものにしか成
り得ないことは現在各団体間の協議会が運営されている実態をみれば一目瞭然であ
る。では上部機関としての在り方が可能かと言えば、目的や理念の異なる専業建築
家の個人加盟の団体とゼネコン各社の法人加盟の団体が共通の上部組織で統合さ
れることは不自然であり、それこそユーザー側の不利益に直結する可能性があるの
で許きれないことであろう。JIA は個人加盟の団体であるが故に建築家職能という共
通項によって異なった理念、目的を持った業態の中から建築家を抽出することが出
来るのである。建築士会との違いは建築設計のプロフエッショナルに限定されること
である。
社団法人新日本建築家協会が設立された目的は建築家の職能の確立を目指すこ
とにあつた。今回の問題提起かそのことを否定するものであれば、設立の趣旨に反
することになり、どうしても専業、兼業を区別しない団体にしたければ現在の JIA を解
散して新しく出直すか、別に新団体をつくるべきであるとの意見があるかもしれない。
しかし、そのようなことはこの論文の趣旨から完全に逸脱した議論になる。「解散出直
し案」は目的であった職能の確立を目指して結集したことが誤りであったことになり、
「別につくる案」は建築家の定義を統-したいという目的から外れるからである。職能
確立のために専業建築家が団体をつくったのは建築家を専業のものだけと限定した
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ことにより自動的に引さ出きれた結果であって、建築家の定義を拡張すれば、建築家
の団体として専業の枠は撤廃せざるを得ないというのが著者の結論である。これを煎
じ詰めれば、「ゼネコンに所属する建築設計者」を建築家と呼ぶことの妥当性に対す
る賛否を問うことに帰するものと言える。
新しい職能理念については多くの議論を待たなければならないが、旧日本建築家
協会の時代から引き継いでいる職能理論の中に構造的な矛盾のあることを指摘して
おきたい。それは現在、職能理論の集大成として発表されている職能原則五項目の
中にも挙げられている「自由で独立した立場の堅持」という条項である。この条件を具
体的にしたものが兼業の禁止になるのであるが、これは建築家として備えなければな
らない他の必要条件を満たすための条件として課せられた、いわば二次的な条件で
ある。つまりそのこと自体が職能的条件ではないということである。言い方を変えれば、
この条件を満足していなくても他の条件が満たされるのであれば必要のない条件な
のである。コンフリクト・オプ・インタレスト(利害の衝突)が強調きれるあまり、兼業とい
う雇用形態だけで職能原理が成立しないと見なすことには論理的にも整合できない
部分がある。例えばゼネコン自身が発注者を兼ね所属する建築家が設計する場合、
或いは専業建築家とゼネコン設計部が対等の立場で共同設計チームを組む場合が
それである。反対に専業建築家がゼネコンから設計を委託されたり、ゼネコン、商社
と組んで大規模プロジ工クトに応募する場合は専業であることの必然性は何も無い。
近来の複雑化した発注形態においては、職能の定義や建築家の資格について右か
左か式の単純な割り切り方が通用しないケースが生じているので、より柔軟な対応が
望まれている面もある。
最後につけ加えておきたいことは JIA の有るべき姿への展望である。JIA はエリート
建築家の集団であってはならない。むしろ様々な職域で活動しながら真面目に良い
建築を創ろうと努力している建築家をできるだけ多く網羅して共通の目的を目指すも
のでありたい。老人クラブに堕することなく若いゼネレーションにとって魅力のある団
体にならなければならない。その上で、組織的に会員同士が専門能力の練磨とモラ
ルの向上を計リユーザーの信頼に応えることのできるような団体を目指すべきである。
兼業建築家に門戸を開くことが最初の一里塚となると考え、従来タブー視されてきた
問題を提起した次第である。会員諸氏の忌騨のないご意見を頂戴したい。
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