大原孫三郎 - 吉備国際大学

本日の目標
産業と技術の歴史
第7回 産業とフィランソロピー
-大原孫三郎
• 倉敷の実業家・大原孫三郎の生涯と、その事
業・社会活動について学ぶ。
2011年6月3日
吉備国際大学国際環境経営学部
大谷卓史
問題:次の施設・機関の共通点は?
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岡山大学資源植物科学研究所
倉敷アイビースクエア
大原美術館
倉敷商業高校
倉敷中央病院
大原社会問題研究所(東京、法政大学)
石井記念愛染園(大阪)
労働科学研究所
目次
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大原孫三郎とは誰か?
放蕩の日々からの回心
紡績事業の成長と職工教育
事業の多角化と地方財閥の形成
幅広い社会活動
孫三郎の経営哲学とフィランソロピー、イノ
ベーション
問題:次の施設・機関の共通点は?
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岡山大学資源植物科学研究所
倉敷アイビースクエア
大原美術館
倉敷商業高校
倉敷中央病院
大原社会問題研究所(東京、法政大学)
石井記念愛染園(大阪)
労働科学研究所
大原孫三郎とは誰か?
• 大原孫三郎(18801943年)
• クラボウ、中国電力、中
国銀行、クラレなどの
企業を経営、実業家と
して高い評価を得る。
• 幅広い社会活動によっ
て、企業のフィランソロ
ピーを実践した。
大原孫三郎・年譜
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1880年、岡山県倉敷市生まれ。
1897年、東京専門学校(現、早稲田大学入学)。
1906年、二代目の倉敷紡績(現クラボウ)社長に就任。
1909年、倉敷電灯(現中国電力)設立。
1914年、大原奨農会農業研究所(現岡山大学資源植物科学研究
所)設立。
1919年、大原社会問題研究所設立。
1921年、倉敷労働科学研究所(現労働科学研究所)設立。
1923年、倉敷中央病院(現倉敷中央病院)設立。
1926年、倉敷絹職(現クラレ)設立。
1930年、大原美術館開館。
1939年、倉敷紡績・倉敷絹職社長退任。
1943年、死去。
放蕩の日々からの回心
• 明治13年(1880年)、岡山県倉敷市に孝四郎
の三男として生まれる。
– 大原家は、江戸時代に米穀・棉問屋として財をな
し、倉敷一の富豪・地主だった(現在も、大原家
は倉敷市内に広大な土地を所有)。
• 明治維新後、大原家やその他の主だった倉
敷の豪商・豪農は新時代に対応して、資金を
供出し、倉敷紡績を設立(1888年)。孝四郎
は、初代社長に就任。
放蕩の日々からの回心
放蕩の日々からの回心
• 兄二人が夭逝したため、三男の孫三郎が後継ぎに→
わがまま放題に育てられる。
• 少年の孫三郎は閑谷黌(現在の閑谷学校)に入学す
るが、勉強嫌いなうえ寄宿舎生活が合わず勝手に退
学。
• 明治30年(1897年)、困った孝四郎たちは、孫三郎を
東京へ。東京専門学校(現、早稲田大学)に入学。
• 孝四郎、娘婿の原邦三郎を送り、借金を清算、
孫三郎を倉敷へ連れ戻す。
– 取り巻きに誘われるまま、遊里に出入りする生活。高利
貸が大金持ちの子息と見抜かれた孫三郎に貸し込む→
元利含めて15000円の借金。
– 足尾鉱毒事件の現場の見学など、社会問題に対する目
も養う。
放蕩の日々からの回心
• 1899年、石井十次と出会う。
慶応元年(1865年)、宮崎県児湯郡上江村(高鍋町)生。
東京の攻玉社、小学校教師、宮崎警察署の初期を経て、
17歳で、医学勉強のため、岡山県甲種医学校入学。
19歳で、キリスト教に入信。
1886年、医学校卒業。
1887年、邑久郡の診療所で医術実習中、太子堂に寝泊
まりする巡礼母子から児童を預かる。
同年、岡山・門田屋敷に孤児救済会を設ける。
第三高等中学校医学部に進学。
1989年、医書を焼き、医学部を中退。
以後、岡山孤児院の経営、孤児救済事業に専念。
– 原邦三郎、借金清算の過程で過労・心労から急
死。
→孫三郎は謹慎生活を送る。
• 謹慎生活の中で、二宮尊徳『報徳記』を耽読
→「儲けの何割かは社会に還元すべきである」
との思想に感激。
放蕩の日々からの回心
• 1899年、孫三郎、孤児院幻灯隊による倉敷伝道
集会に参加。
– 石井のキリスト教信仰による孤児院の実践について
の講演を聞き、感動。石井の事業への資金的な応援
を開始する。
• 石井の勧めで日記を開始。
– 「余は余の天職のための財産を与えられたのである。
神のために遣い尽くすか、或いは財産を利用すべき
ものである」
– 1899年2月、邦三郎の発案による「大原貸資奨学金
制度」開始。18歳の孫三郎も参画。急死した義兄へ
の贖罪や尊敬の念も影響か。
紡績事業の成長と職工教育
• 明治34年(1901年)、石井スエと結婚。倉敷紡績
に入社。入社後、職工教育の充実に取り組む。
– 1901年、尋常小学校さえ卒業していない職工が多い
ことに驚き、職工教育部を設立。
– 1902年、工場内に尋常小学校を開設。
– 同年、私立倉敷商業補修学校設立、初代校長に。
• 明治35年(1902年)、倉敷教育懇話会を開始。
– 倉敷に新知識を呼び込むことを目的。
– 山路愛山、徳富蘇峰、新渡戸稲造、大隈重信などの
著名人・知識人を講師として招聘。
– 24年間、76回継続される。
紡績事業の成長と職工教育
• 設備・経営の近代化
– 設備近代化:動力を蒸気から電気へ、小型モー
ターの導入。
– 労務面の近代化:従業員の男子化、通勤化など。
– 経営近代化:高学歴者(大卒・高専卒)の採用、
前時代的経営を払しょくし、近代的経営の導入。
紡績事業の成長と職工教育
• 倉敷紡績の事業拡大と財政(大津寄、p.37)
紡績事業の成長と職工教育
• 明治39年(1906年)、倉敷紡績・倉敷銀行の
第二代社長に就任。
– 倉敷紡績の業績は好調だったが、積極的拡大を
決断。
• 同社を「日本の企業」となるよう発展させるための競争
力強化。
• 工場法制定の将来実施による深夜業廃止の見込み。
– 職工の福利厚生の充実を実施。
紡績事業の成長と職工教育
• 積極的拡張作の採用
– 明治41年(1908年)の吉備紡績所の買収を皮切
りに、近隣の紡績工場買収を積極的に展開。
• 買収金額46万円、倉敷紡績の資本金40万円→株主、
重役の反対
• 「わしの眼は、十年先が見える」→孫三郎、一部の重
役の支持もあって、反対を押し切り買収。
• 第一次世界大戦(1914-18)の好況により、紡績需要も
拡大、先行投資した倉敷紡績は事業を急成長させる。
紡績事業の成長と職工教育
• 労働環境の改善・人道主義的労務管理の導入
– 1906年、飯場制度の廃止
• 飯場:従業員募集、給食事業などを一手に引き受ける事業者。不当
な口銭、募集費流用などの問題あり。
• 従業員の直接募集、給食設備・大食堂設置、工員の相談相手を設
置。
– 1907年、1日11時間勤務体制。
– 1907年、新寄宿舎の建設開始。
• 集合型の寄宿舎から平屋建て分散式寄宿舎、定員5名。
– 1910年、倉紡工手学校開設。
• 働きながら職工教育を受けることができる文部大臣認可の学校。
– 1910年、会社直営の分配所設置。
• 生活物資の共同購入、安価販売。
– 1915年、倉敷共済組合設立・・・などなど。
事業の多角化と地方財閥の形成
• 大原孫三郎は、多くの会社を設立、経営。現
在も多くの事業が引き継がれている。
– 紡績・繊維事業:倉敷紡績→クラボウ
– 金融事業:倉敷銀行→中国銀行
– 電力事業:倉敷電灯→中国電力
– 新聞事業:中国民報→山陽新聞
– 化学・化繊事業:倉敷絹織→クラレ
事業の多角化と地方財閥の形成
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倉敷電灯(中国電力)と孫三郎
– 1909年、倉敷電灯設立→公害問題の発生。
• 新町発電所のガスエンジンの騒音と振動による苦情。
– 1912年、孫三郎、社長に就任。
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火力発電所を西茶円に移設。
本社所在地を岡山市上石神井(岡山駅前)に移転。
中国電気の買収。
資本金拡大。
周辺地域への伝統拡張工事推進など。
– 1915年、倉敷紡績倉敷発電所設立(自家発電設備、1921年まで継続)。
– 1916年、倉敷電灯と津山電気の合併、備作電気設立。孫三郎、取締役として
参加。
– 1920年、孫三郎、同社社長に就任。
– 1922年、備作電気、岡山水電と合併。中国水力電気設立。孫三郎常務に就
任。
– 1926年、中国水力電気と姫路水力電気合併。孫三郎、取締役就任。
– 1928年、倉敷紡績、第一合同銀行の立て直しのため、電力事業から引退。
大原孫三郎による地方財閥の形成
• 財閥とは何か?・・・「家族または同族によっ
て出資された親会社(持株会社)が中核とな
り、親会社が支配している諸企業(子会社)に
多種の産業を経営させている企業集団で
あって、大規模な子会社はそれぞれの産業
部門において寡占的な地位を占める」安岡重
明『財閥の経営史』1990年
事業の多角化と地方財閥の形成
• 倉敷銀行(現、中国銀行)と孫三郎
– 1891年、倉敷銀行設立。
• 倉敷紡績の資金調達、資金決済のための銀行として設立。
• 出資者は、倉敷紡績関係者が多数。
• 周辺農家から預金を集め、経営は安定。
– 1906年、孫三郎、倉敷銀行頭取に就任。
– 1919年、備前・備中・備後の銀行が合併、第一合同銀行設立。孫三
郎、頭取就任。
– 1927年、金融恐慌。倉敷紡績、第一合同銀行の業績悪化。
– 金解禁(1930年)による不況では、倉敷紡績の経営悪化を日本興業
銀行からの特別融資で倉敷銀行からの借入金を返済。難局を乗り切
る。
– 1930年、第一合同銀行、山陽銀行合併、中国銀行設立。孫三郎、頭
取に就任。
– 1939年、孫三郎、頭取を退任。
事業の多角化と地方財閥の形成
• 倉敷絹織(現クラレ)と孫三郎
– 1926年、倉敷絹織設立、社長に就任。
• 孫三郎、1920年の不況による倉敷紡績の業績悪化から新技術・新
事業の調査研究を指示。
• →人造絹糸による事業多角化決定、1924年、レーヨン事業化案を作
成。
• →1925年、京都大学福島郁三教授の顧問就任による人造絹糸開発
の開始。
– 1932-35年、「人絹黄金時代」。倉敷絹織の事業拡大。
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1932年、日本化学製糸設立。
1934年、日本化学製糸を合併。
1935年、中国レーヨン設立。
同年、中国レーヨン合併。
– 1936年、日本の人絹生産量、米国を抜き世界一に。
– 1939年、孫三郎、倉敷絹織社長を退任。
大原孫三郎による地方財閥の形成
• 孫三郎は地方財閥を形成したか?
– 当時、大原家は地方財閥の一つと認識されていた。
– その根拠は?・・・事業の多角化と実質的支配権の
入手。
• 株式による企業所有による支配権についてみれば、出資
比率は比較的低い(後述)。
• 持株会社による支配は行なわれていない。
• その一方で、孫三郎の各企業に対する実質的支配権は大
きく、企業間の連携は密であった。
– 孝四郎、孫三郎のカリスマ性と経営手腕による実質
的支配が、地方財閥としての大原家の基盤。
幅広い社会活動
大原孫三郎による地方財閥の形成
大原孫三郎の関連会社における持ち株比率(1937年度)。
『大原孫三郎の経営展開と社会貢献』p.239より。
倉敷紡績
公称資本金比率
12.2%
払込資本金比率
14.8%
倉敷絹織
17.3%
28.8%
中国銀行
5.2%
11.7%
岡山合同貯蓄銀行 11.8%
中国信託
5%
20%
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大原奨学会
大原奨農会農業研究所
大原社会問題研究所
倉敷労働科学研究所
倉紡中央病院
大原美術館
大原家が上記企業の実質的支配権を手にしていたが、
出資比率は10%台と比較的低い。
その結果家産に余裕ができ、フィランソロピー事業に投
資ができたとの評価がある。
大原奨学会
• 1899年、大原孝四郎、大原貸資奨学金制度
を開始。
– 犬養毅ら、岡山出身の名士を評議員に迎える。
– 児島虎次郎(大原美術館設立のきっかけをつく
る)ら、多くの大原家ゆかりの人脈形成に役立つ。
• 1902年、岡山市内の中学校に通学する生徒
向けに大原寮を設置。
• →大原寮は短期で廃止、大原奨学会も限界
を自覚⇒社会教育事業への視野の拡大
大原社会問題研究所
• 1919年、大原社会問題研究所設立。
– 孫三郎、労使問題や貧困などの社会問題の解決のため、
社会科学系の研究所設立を決意。
– マルクス学者として著名な東京大学法学部川上肇に所長
就任を要請。固辞され、東京大学教授高野岩三郎を所長
に招聘。
– 大阪で設立。
• ⇒「左翼学者の巣窟」などと陰口を叩かれても、孫三
郎は、運営に口を挟まなかった。
• 1949年、大原社会問題研究所、法政大学の附置研究
所へ。
– 大原家の財政悪化等により、法政大学へ移管。
大原奨農会農業研究所
• 1910年、大原家奨農会を設立、孫三郎会長就任。
– 大原家は倉敷の大地主。孫三郎も小作地の管理を行ない、小作農
の窮状を目撃。
– 農事改良、農民の幸福増進、小作人の生活改善等を目的。農業改
良資金の供出。
• 1914年、大原奨農会農業研究所を設立。
– 研究のため、200町歩の農地を提供(小作料を研究資金に)。
– 東京大学農学部卒業の大原奨学生・近藤万太郎が所長に就任。
– 白桃栽培、マスカットなどの研究を実施。岡山の特産品を産む。
• ⇒農業研究所の研究内容は学術的なものに変化。孫三郎は口出
しをしなかった。
• 1951年、岡山大学に移管。
– 農地改革などにより、資金源が枯渇。
– 第1次大戦後、研究所が収集した農業研究所・稀こう書も岡山大学史
料館に移管される。
倉敷労働科学研究所
• 1921年、倉敷労働科学研究所設立。
– 大原社会問題研究所の労働衛生部門が独立。
– 労働衛生部門の責任者輝峻義等を所長とする。
– 労働環境の改善のため、テーラー式管理法の批
判的研究、労働生理学、心理学、社会衛生学な
どの研究を実施。
• 1930年、倉敷労働科学研究所の経営を倉敷
紡績から孫三郎個人へ移管。
• 1936年、財団法人労働科学研究所設立。
倉紡中央病院
• 1923年、倉紡中央病院設立。
– 倉敷紡績従業員および地域住民の診療を目的に設立。
– 「治療本位」、「病院くさくない明るい病院」、「東洋一の理
想的な病院」の3つの設計理念。
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1927年、倉敷中央病院と改称。独立採算制に。
1934年、財団法人に改組。
1949年、総合病院として認定される。
1973年、全面改築(現在の病棟の整備開始)。
1993年、高度先進医療承認、特定承認保険医療機関
承認。
エル・グレコ「受胎告知」
大原美術館
•
1908年、児島虎次郎、渡欧。
– 1912年、ベルギー・ガン市立美術学校を卒業。
– 当時の印象派の巨匠アマン・ジャンを訪問、絵画を購入⇒絵画収集の開始。
•
1919年、虎次郎、個展開催後、再び渡欧、21年帰国。
– 滞在中、ヨーロッパと同様、若い学徒が美術を学べる本格的な美術館・博物
館の設立と教材となる絵画収集を提案。
– アマン・ジャンの指導のもと、モネ、コッテ、デヴァリエール、マティスなどの当
時の現代絵画を購入。
•
•
1921年、第1回現代仏蘭西名画家作品展を開催。
1922年、虎次郎、渡欧。
•
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1929年、虎次郎、脳卒中発作後の後遺症により死去。
1930年、大原美術館開館。
– エル・グレコ「受胎告知」、セガンティーニ「アルプスの真昼」などを購入。
セガンティーニ「アルプスの真昼」
http://www.ohara.or.jp/200707/jp/1_web/1/e
xh/012.html
http://www.ohara.or.jp/200707/jp/1_web/1/e
xh/003.html
おまけ
• 倉敷紡績創業工場⇒倉敷アイビースクエア
• 倉敷万寿工場⇒倉敷チボリ公園⇒アウトレッ
トモール??
大原孫三郎の思想と経営
• 孫三郎の経営理念:共同作業場
– 地域社会と企業工場の共同作業場・・・倉敷紡績は
資本の利潤だけでなく、「村のため、世のため」事業
を起こすという思想。
– 資本と労働の共同作業場・・・従業員の生活改善、衛
星娯楽設備の充実などに投資。「労力配当」
• 「今後も従業員の生活、衛星娯楽設備を充実いたしたいし、
労力配当も行なうので、株主配当は多少抑える」(1920年、
株主総会での孫三郎の発言)
– 間接部門所施設の社会化・・・工場の福利施設を社
会に開放する。例、倉紡中央病院、倉敷労働科学研
究所。
孫三郎の思想とフィランソロピー
孫三郎の思想とイノベーション
• 「余は余の天職のための財産を与えられたのである。
神のために遣い尽くすか、或いは財産を利用すべきも
のである」大原孫三郎(日記より)
• 財産を受け継いだ祖先への報恩の意識+二宮尊徳
の報徳思想+キリスト教的人道主義
⇒社会貢献事業に私財を投入。
• 45年間で総計136件、そのうち半数の判明分だけで
488万円を寄付・寄贈・助成に投入(大津寄、p.351)。
• 不況下で社会事業を維持するため、倉敷紡績所管の
労働研究所を私的経営とするなど、事業存続のため
の努力を継続。
• 「十人の人間のうち、五人が賛成するようなこ
とは大抵手遅れだ。七、八人がいいといった
らもうやめた方がいい。二、三人位がいいと
いうことをやるべきだ」大原孫三郎
• ロジャーズのイノベーションの普及過程
まとめ(1)
まとめ(2)
• 大原孫三郎の生涯
– わがままと放蕩の少年時代から回心を経て、経
営者に。
– 積極的経営展開と人道主義的労務管理、フィラ
ンソロピー。
• 積極的な買収・合併と事業多角化
• 企業内教育の重視、福利厚生施設の充実。
• 社会貢献事業への私財の投入。
本日の課題
• 次のうちのどちらかに回答し、配布した回答
用紙に記入してください。
– 大原孫三郎の生涯と事業について、あなたはど
のように考えるだろうか?
– 孫三郎が経験したような回心体験は、あなたに訪
れると思うか?
• 大原孫三郎の展開した事業
–
–
–
–
–
紡績・繊維事業:倉敷紡績→クラボウ
金融事業:倉敷銀行→中国銀行
電力事業:倉敷電灯→中国電力
新聞事業:中国民報→山陽新聞
化学・化繊事業:倉敷絹織→クラレ
• 地方財閥形成へ
– 持ち株比率は低いものの、実質的支配権を入手。
– 孝四郎、孫三郎のカリスマ性と経営手腕の重要性。
まとめ(3)
• 大原孫三郎の展開した社会貢献事業
– 大原奨学会
– 大原奨農会農業研究所→岡山大学資源植物科学研
究所(白桃、マスカットの振興)
– 大原社会問題研究所→法政大学大原社会問題研究
所(貧困問題、労働問題などの研究)
– 倉敷労働科学研究所→財団法人労働科学研究所
(労働環境の心理学、生理学、社会衛生学)
– 倉紡中央病院→倉敷中央病院(「治療本位」、「病院
くさくない明るい病院」、「東洋一の理想的な病院」)
– 大原美術館(エル・グレコ、印象派絵画、現代絵画)
参考文献(お勧めは☆)
参考文献(お勧めは☆)
• 「宮崎県郷土先覚者 石井十次」
<http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/kenmin
/kokusai/senkaku/pioneer/ishii/index.html>(最終アク
セス日:2011年6月2日)
• OISR.ORG(大原社会問題研究所)<
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/about/index.html>
(最終アクセス日:2011年6月2日)
• 財団法人労働科学研究所< http://www.isl.or.jp/>
(最終アクセス日:2011年6月2日)
• 倉敷中央病院< http://www.kchnet.or.jp/> (最終アク
セス日:2011年6月2日)
• ☆「先駆者たちの大地 大原孫三郎」
『man@bow』<
http://manabow.com/pioneer/ohara/index.html
> (最終アクセス日:2011年6月2日)
• ☆猪木武徳「大原孫三郎 稀代の社会事業家」
日本経済新聞社編『経営に大義あり 日本を
創った企業家たち』日本経済新聞社、2006年。
• 大津寄勝典『大原孫三郎の経営展開と社会貢
献』日本図書センター、2004年。
• ☆城山三郎『わしの眼は10年先が見える 大原
孫三郎の生涯』新潮社、1997年。