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NHK交響楽団
ヨーロッパ公演 2013
2013 年 8 月 24 日∼ 29 日
2005 年以来 8 年ぶりとなるヨーロッパ公演は、名誉音楽監督シャルル・
デュトワの指揮により、4 都市で 4 公演が行われました。オーストリア、ド
イツ、イタリアと、行く先々で熱狂的な拍手を受けて、現地メディアにも大
きく紹介され、大成功の裡に幕を閉じました。
ザルツブルク音楽祭 の会場、フェルゼンライトシューレにて ©Wolfgang Lienbacher
ヨーロッパ公演 2013 プログラム
指揮:シャルル・デュトワ
ヴァイオリン:ヴァディム・レーピン * 尺八:柿堺 香 ** 琵琶:中村鶴城 ** ソプラノ:アンナ・プロハスカ ***
8/24(土)グラフェネッグ音楽祭 グラフェネッグ(オーストリア)
ウェーバー/歌劇「オイリアンテ」序曲
ラロ/スペイン交響曲 ニ短調 作品 21*
ベルリオーズ/幻想交響曲 作品 14
8/25(日)ザルツブルク音楽祭 ザルツブルク(オーストリア)
武満 徹/ノヴェンバー・ステップス**
細川俊夫/ソプラノとオーケストラのための「嘆き」
[ザルツブルク音楽祭委嘱作品/世界初演]
***
ベルリオーズ/幻想交響曲 作品 14
8/27(火)ラインガウ音楽祭 ウィースバーデン(ドイツ)
ウェーバー/歌劇「オイリアンテ」序曲
ラロ/スペイン交響曲 ニ短調 作品 21*
チャイコフスキー/交響曲 第 5 番 ホ短調 作品 64
8/29(木)メラーノ音楽祭 メラーノ(イタリア)
ウェーバー/歌劇「オイリアンテ」序曲
ラロ/スペイン交響曲 ニ短調 作品 21*
チャイコフスキー/交響曲 第 5 番 ホ短調 作品 64
〔助成〕 平成 25 年度文化庁国際芸術交流支援事業/公益財団法人放送文化基金/
公益財団法人ローム ミュージック ファンデーション
〔協賛〕 アイシン・エィ・ダブリュ株式会社/全日本空輸株式会社/株式会社インターネットイニシアティブ/
KDDI 株式会社/サミー株式会社/ Yoko Nagae Ceschina
グラフェネッグ音楽祭
ベルリオーズ《幻想交響曲》©Dimo Dimov
ラロ《 スペイン交響曲》のソロを務
めたレーピン ©Dimo Dimov
グラフェネッグ城
終演後、白ワインで乾杯
グラフェネッグ音楽祭(8/24)
序曲》の軽快な響きに、聴衆は一気に
最初のコンサートは、ウィーン郊外
引き込まれた様子でした。ラロ《スペ
の「グラフェネッグ音楽祭」への出演
イン交響曲》のヴァディム・レーピン
でした。ウィーン市街から車で 40 分
の華やかなソロには割れんばかりの大
ほど、19 世紀の城の優美な姿とは対
喝采が起きました。ベルリオーズ《幻
照的な、モダンな建築の野外ホールと
想交響曲》の鮮烈なフィナーレに「ブ
コンサートホールが「グラフェネッグ
ラヴォー!」の声がわきあがり、会場
音楽祭」の会場です。 この日は天候の
はスタンディング・オベーションでの
影響で当初予定されていた野外ホール
大きな拍手に包まれ、長く鳴りやみま
ではなく、コンサートホールでの演奏
せんでした。
会となりました。
終演後にはコンサートの主催者から
ウェーバー《歌劇「オイリアンテ」
白ワインが振る舞われ、緑の芝生の上
ザルツブルク音楽祭
武満徹《ノヴェンバー・ステップス》を指揮 するデュトワ、琵琶 の中村鶴城(左奥)
、尺八の柿堺香(左手前)©Wolfgang Lienbacher
細川俊夫 《ソプラノとオーケストラ
のための「嘆き」
》リハーサル
楽屋から舞台袖 へ。まるで迷路 のよう
で楽員達がほっとした表情で乾杯を繰
り返していました。
ザルツブルクでのひとコマ
尺八の音で緊迫した空気に一変。中村
鶴城の琵琶、そしてオーケストラによ
る武満徹《ノヴェンバー・ステップス》
ザルツブルク音楽祭(8/25)
の演奏は、音楽の聖地に捧げるプロロ
翌日、オーケストラはザルツブルク
ーグとして響いたようでした。
へ。会場のフェルゼンライトシューレ
ザルツブルク音楽祭から委嘱された
は舞台の周囲が岩壁に囲まれている独
細川俊夫《ソプラノとオーケストラの
特の構造。映画『サウンド・オブ・ミュ
ための「嘆き」
》の世界初演も大成功
ージック』でも知られる由緒ある劇場
に終わり、何度も喝采に応えるオーケ
です。洞窟のような楽屋からステージ
ストラの姿が誇らしげでした。N響の
までの迷路にも驚かされました。
歴史にまた輝かしい 1 ページが刻まれ
華やいだ会場の雰囲気が、柿堺香の
た、記念すべき一夜となりました。
ラインガウ音楽祭
チャイコフスキー《交響曲第 5 番》©Manfred Roth
ウィースバーデンのクアハウス外観 ©Manfred Roth
クアハウスの楽屋
ウィースバーデンの朝、
マエストロ・デュトワを囲 んで
ラインガウ音楽祭(8/27)
ラロ《スペイン交響曲》には、幾度
オーストリアのリンツからドイツ・
もレーピンをカーテンコールに呼び出
フランクフルトへと飛び、ヘッセン州
すほどの大喝采が続きました。チャイ
ウィースバーデンの地を訪れたN響の
コフスキー《交響曲第 5 番》の圧巻
面々、8 月 27 日は「ラインガウ音楽
のフィナーレが鳴り響くと「ブラヴォ
祭」に出演しました。会場のクアハウ
ー!」の声が次々とわき、会場は陶然
ス・ウィースバーデンは歴史的建造物
となって、スタンディング・オベーシ
で、ドーム型の高い天井と美しいステ
ョンでの大きな拍手に包まれました。
ンドグラスの窓、貝殻の装飾が施され
た円柱に優雅な風格を感じます。舞台
メラーノ音楽祭(8/29)
も金色に輝く浮き彫りで飾られ、目を
翌日は再びイタリア・ヴェローナ空
見張るほど壮麗です。
港へと飛び、ツアー最後の公演地メラ
Philharmony October 2013
メラーノ音楽祭
チャイコフスキー《交響曲第 5 番》©Florian Peer
クアハウス・メラーノ外観
拍手 に応 えるレーピンとデュトワ
メラーノの風景
©Florian Peer
ーノを目指しました。かつてはオース
曲》が颯爽と演奏されると、大きな称
トリアだった風光明媚な南チロル地方
賛の拍手が会場を包みました。終演後
のこの地は、イタリア語とドイツ語の
の聴衆は感動の面持ちで、口々にオー
両方が話され、文化も混じりあってい
ケストラの音楽性に賛辞を贈っていま
ます。街の中心にあるクアハウス・メ
した。
ラーノが 8 月 29 日の会場。建物の正
最終公演を終えた楽員達は、
「打ち
面 2 階バルコニーからファンファーレ
上げ」のワインを手に、
「楽しくやり
が開演を告げ、バカンスの社交場らし
がいのあるツアーだった」と満足気な
い華やかな装いの聴衆で会場は満席と
表情でした。
なりました。
こうしてヨーロッパ公演は幕を閉じ、
熱いアンコールに応えてグリンカ
またしても N 響の実力が実証される
《歌劇「ルスランとリュドミーラ」序
ことになりました。
*ヨーロッパ公演についての詳しいレポートは、N響ホームページ(http://www.nhkso.or.jp)でもご覧いただけます。
シャルル・デュトワ& N響
ザルツブルク音楽祭に鮮烈なデビュー!
世界最高峰の音楽祭として知られる「ザルツブルク音楽祭」。
名だたる音楽家・オーケストラが世界中から集まるなか、N 響は日本の常設オーケ
ストラとして初めての出演を果たした。華やかな会場に響く、緊迫感みなぎる演奏。
輝かしく記念すべき一夜となったその一部始終をレポートする。
文
中 東生
8月 25日、ザルツブルクのフェルゼ
通り、岩肌がむき出しになっている会
ンライトシューレでデュトワ& N響
場に入った。
は音楽祭デビューを飾った。現地での
ク新聞にも期待を込めた記事が大きく
人種を越えた
壮大な音楽を感じさせるプログラム
掲載されており、また、祝祭劇場の門
古代野外劇場のバルコニー席のよう
番に「NHKとは何の略ですか?」
「挨
な舞台奥を青いライトで強調した西洋
拶は日本語で何と言えばいいのです
的なその空間は、1曲目の武満徹作曲
関心は高いようで、前日のザルツブル
か?」などと尋ねられたりもした。
赤絨毯の上にタクシーから颯爽と降
《ノヴェンバー・ステップス》で完全に、
洋の東西や時代を越えた。舞台から会
り立つ着飾った聴衆が集まり始める中、 場全体に充満していく研ぎすまされた
音楽祭芸術総監督のペレイラ氏、新曲
集中力に心地よく包まれ、会場は一体
を委嘱された細川氏ご夫妻と挨拶を交
となっていく。デュトワ氏は日本人の
わすサイモン・ラトル、ベルリン・フィ
立場で舞台に立っているのだろうか?
ルハーモニー管弦楽団のコンサートマ
いや、人種を越え、N響をはじめ、日
スター樫本大進氏などの姿も見られた。 本人全体を見守っているような指揮姿
「ザルツブルクの鹿鳴館?」と思わせ
だった。
るような、木を基調にしたクラシカル
2曲目は、当音楽祭が細川俊夫氏に
なホワイエを抜け、フェルゼンライト
委嘱した
《嘆き》
で、東日本大震災によ
シューレ(岩窟乗馬学校)という名前
る津波で失った子供の遺体を、祈りな
がら探す母親の写真に心を打たれた細
てくれたが、その色を駆使してなおか
川氏が、その悲しみを浄化させたいと
つ、テンポを自由に操る棒さばきや強
いう祈りを込めて作った曲である。海
弱の急激な変化のつけ方は、全曲を通
を表現するというオーケストラの音を
して聴衆をゾクゾク、ワクワクさせる
背景に、ザルツブルク出身の詩人トラ
ことに成功した。優しさ、切なさ、懐
ークルの遺作の詩が、ソプラノ歌手
かしさ、荘厳さ、邪気、全てが鮮やか
「絵画のような」を通り
のアンナ・プロハスカによって語られ、 に表現され、
自然と歌に変わっていく。人間という
越し、立体的な人形劇や演劇を観てい
存在の寂寥感をも海は飲み込んで存在
るような気分にさせる演奏だった。
し続ける。自然は制覇できるようなも
「N 響の楽員とはよい友達なんだ。
のではなく、共存すらできない、側に
これからもこんな関係を続けていきた
そっと存在させて頂くという姿勢が人
い。
」とデュトワ氏は語り、ツアーの
間としての正しい生き方なのではない
合間に楽員と一緒にいられる時間を持
か、と知らしめるような壮大な音楽で
てる事が嬉しいという。素晴らしい音
あった。
楽家同士の関係に加え、そのような友
後半では《幻想交響曲》のタクトが
情があってこその素晴らしい共演だっ
降りるとすぐに、会場はフランスの匂
たと言えよう。
いに包み込まれた。
「デュトワ氏はき
(なか・しのぶ 音楽ジャーナリスト)
っとベルリオーズのような恋を経験し
たんだ」と確信を持たせる切ない恋心
が鮮やかに紡ぎ出されていく。淡い希
望はフレーズに乗って膨らんでいき、
しかし、期待が裏切られるようにフレ
ーズも儚く萎んでしまう。舞踏会では
優雅に踊り、牧歌的な魂の平穏を得ら
れたと思わせた後の現実。厳しく冷た
くギロチンの刃が落ち、邪悪な一種の
狂気的世界が訪れる。それでも彼女を
愛し続ける彼の、狂おしいほどの恋慕
を感じさせる熱い演奏であった。
信頼関係に基づく息の合った
デュトワとN響のコンビ
左 からデュトワ、細川、プロハスカ
N響との友情を語る
シャルル・デュトワ
デュトワ氏は翌日のインタビューで、
N 響の奏でた音を「優雅で色彩に富ん
だベルリオーズの音」と満足気に語っ
©Wolfgang Lienbacher(8、9 ページの全写真)
演奏会評
各地で喝采を浴び、さまざまな評も飛び交った「N 響ヨーロッパ公演2013」
現地メディアによる演奏会評の中からいくつかをご紹介します
グラフェネッグ音楽祭
結び付けた。素晴らしいソプラノ歌手アンナ・
◉『ニーダーエステライヒッシェ・
ナッハリヒテン』紙 (2013 年 8 月 26 日)
そして絶望の頂点の中で、オーケストラの豊か
ウェーバー《歌劇「オイリアンテ」序曲》の後、
交響楽団は洗練された演奏で作品に光彩を放ち、
シャルル・デュトワ指揮のオーケストラは、ラ
過度なコントラストや誇張は放棄した。それら
ロ《スペイン交響曲》で控えめな響きと堂々と
は処刑台への行進の悪夢や魔女のサバトに出て
した響きの間を完全な形で行き来した。この日
きたが……。よく言われるアジア的沈着さはフ
本のオーケストラは、世界最高のヴァイオリニ
ランス人作曲家の熱狂した感情の激昂を統制し
ストの一人であるヴァディム・レーピンの演奏
たが、それでもなお、そのクオリティーに夢中
に情熱的に伴われた。後半はさらに熱狂的に過
になることができた。
プロハスカがトラークルの陰鬱な詩を朗唱した。
で洗練された響きの波が満ち引きする。NHK
ぎた。ベルリオーズ《幻想交響曲》で、打楽器
奏者は優しさと猛り立った轟きで、聴衆を魅了
した。
◉『ディー・プレッセ』紙
ザルツブルク音楽祭
ベルリオーズ、日本風?
(2013 年 8 月 27 日)
ザルツブルクにおいては
◉『ザルツブルガー・ナッハリヒテン』紙
(2013 年 8 月 27 日)
あらゆる種類の情熱がある
東京からのNHK交響楽団は、
暗き声は海を嘆く
シャルル・デュトワのもと「幻想的」に
東京のNHK交響楽団は細川俊夫の
ザルツブルク音楽祭へ登場
委嘱作品と共に初めてザルツブルクへ
武満の《ノヴェンバー・ステップス》で、この
ザルツブルク・東京間の文化交流は日曜日に頂
オーケストラはザルツブルクでのその遅いデビ
点に達した。日本で最も有名なオーケストラ
ューを果たした。2つの日本の古典楽器、尺八
であるNHK交響楽団は、初めてザルツブル
と琵琶が従来のオーケストラに向かい合ってい
ク音楽祭で演奏した。さらに驚くのは、指揮者
る。オーケストラは前奏曲、短い間奏曲、フィ
もまた一度もザルツブルクで演奏したことがな
ナーレで2人のソリストのための枠を形成する
かったことだ。世界中を飛び回るスイス人シャ
─ ザルツブルクで中村鶴城と柿堺香は、長
ルル・デュトワである。プログラムはフェルゼ
いカデンツァを思いのまま演奏することができ
ンライトシューレでの晩をさらにわくわくする
た。ベルリオーズ《幻想交響曲》のディテー
ものにした。なぜなら細川俊夫の曲があったか
ルにこだわった正確無比な演奏で、日本の音楽
らだ。その委嘱作品が世界初演された。5部か
家たちは、彼らが他のメジャー・オーケストラ
ら成る作品は時間の高みの上でテクストを形象
にひけをとらないことを示した。かつての音楽
的な音楽と結び付ける。細川は世界を震撼とさ
監督シャルル・デュトワがここで特にオーケス
せた自然の出来事からこれを汲みだした。2011
トラに対し、さわやかな自発性や躍動感よりも、
年の津波は悲劇的な光景を生んだ。細川俊夫は
精確さと洗練されたダイナミック性を重視した
仏教と自然の近さを、海岸に立つ女性のシャー
としてもである。
マン性に移し替え、人を魅了するモノドラマと
は、見事に完璧な熱狂的な演奏により信服させ
(2013 年 8 月 27 日)
られた。それはアンコールで演奏されたグリン
美しい暗黒の夜
カのオペラ《ルスランとリュドミーラ》でも同
細川俊夫はザルツブルク音楽祭のために
様である。
トラークルの詩に作曲
1955 年広島生まれの日本で最も有名な存命の作
曲家、細川俊夫の音楽を聴いたり、彼の過去の
作品、オペラ《松風》や《斑女》の上演時の批
メラーノ音楽祭
◉『ドロミーテン:南チロル新聞』
評を読むと、すぐにある言葉に行きあたる:魔
(2013 年 8 月 31 日)
法。音楽祭のこの委嘱作品において細川はゲオ
メラーノ音楽祭:シャルル・デュトワは傑出し
ルク・トラークルの詩に曲を付けた。そして細
た東京のオーケストラを指揮する
川はこれらの言葉から、シェーンベルクの《月
(チャイコフスキー《交響曲第 5 番》で)最初
に憑かれたピエロ》に似たレチタティーヴォを
デュトワは作品のエレジー的基調をかちとるこ
形作り、これをクリスタルのようなオーケスト
とができないかに見えた。第 1 楽章のゆっくり
ラの噴出でもって細かく刻む。フェルゼンライ
としたアンダンテの導入部の主要テーマは少々
トシューレの中でオーケストラの波は氷のよう
おざなりで、表面的に聞こえた。しかし、アレ
な精確さでアンナ・プロハスカの演奏に押し入
グロ・コン・アニマに入ると、徐々にデュトワの
る。ソプラノの伝説的存在である彼女は夢、ト
演奏は熟慮の相を見せ始め、オーケストラはひ
ランス、エクスタシーの間の響きの世界を素晴
きしまった完全さとクオリティーを表した。デ
らしく自分のものにしている。細川は個々の言
ュトワの解釈はどちらかというとすらりとして、
葉のために繰り返し極度に誇張したアリオーソ
極端な表現を避けるものだが、それにもかかわ
を要求し、「嘆き」 の詩の音楽化への先手を打
らず適切に危険な痛みに満ちた針の一刺しを突
つ。この詩は寓話的で悲しく、はちきれんばか
き入れる。その中で東京からの交響楽団の楽員
りの表現にあふれる、喧騒に満ちた孤独で暗黒
たちは実に陶酔するような終結へと会した。こ
な夜と、しめつけるような静寂への想像力の大
のオーケストラがヨーロッパやアメリカの名オ
胆な飛躍である。
ーケストラに決してひけをとらないことがわか
る。チャイコフスキーはこのオーケストラに無
ラインガウ音楽祭
縁ではない、そうして極めて注目すべき演奏が
実現した。それはフィナーレのアンダンテ・カ
◉『ウィースバデナー・クリーア』紙
(2013 年 8 月 29 日)
ンタービレの息の詰まるような瞬間において高
いドラマ性を見せた。つまりチャイコフスキー
NHK交響楽団はウェーバーの《歌劇「オイリ
の魂のドラマの危機で見られたのは、まがい物
アンテ」序曲》を、規律を保ちながら颯爽とし
の軟弱な浄化などではなく、容赦のない、嘆き
た精密さをもって演奏した ─ ヨーロッパよ
休んでいる憩いのない運命との戦いである。グ
りもアメリカのオーケストラを思い起こさせる
リンカの《歌劇「ルスランとリュドミーラ」》
澄んだ見事な音色においてである。もちろんフ
の速い序曲と共に指揮者とオーケストラは夜の
ランス風の色合いを保ちつつではあるが。ラロ
中へ去った。
の5つの楽章は、シャルル・デュトワが好むよ
うな、高貴で軽やかな筆跡が明確に刻印づけ
られた。ラロ《スペイン交響曲》は、昨今まれ
にしか演奏されない作品で、これを我々はクア
ハウスで聴くことができた。しかしそれにもか
かわらず、かの作曲家に対するデュトワの色彩、
響き、音楽的感性への勘をどんなにか聴きたか
ったことだろう。ウィースバーデンのプログラ
ムの後半においてチャイコフスキー《第5番》
*誌面 の 都合 により一部抜粋して 掲載しましたが、全
文はN響 ホームページ(http://www.nhkso.or.jp)
でご 覧 いただけます。
Philharmony October 2013
◉『南ドイツ新聞』
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N
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Rog
©Manfred Esser
今月のマエストロ
ロジャー・ノリントン
快活に交わされる音の対比、
ノリントンのベートーヴェン演奏 文
加藤拓未
びN響を振りにやってくる。毎年の
ように日本で、彼の姿を目にできる
ことは、とても嬉しい。
ヨーロッパの大都市の音楽シーン
を見ても、ノリントンのようにアイ
ディアにあふれ、常に私たちに新た
な感動を与えてくれる音楽家は、実
はそうはいない。こうした名匠クラ
スの音楽家は、クラシック音楽の本
場ヨーロッパでも、やはり数えるほ
どしかいないし、いつも 1 か所で演
奏していて、そこへ行けば、必ず聴
くことができるというものでもない。
たいていは各地から招聘を受け、世
界中を飛び回っているからだ。だか
らこそ、日本で「定期的」にノリン
トンの生み出す音楽に接することが
できるのは、贅沢なことだと思えて
仕方がない。
3 年目を迎えるノリントンとN響の
「ベートーヴェン・シリーズ」
ノリントンの今シーズン(2013/
2014 年)の主なスケジュールを見
ると、まず 8 月 30 日、
9 月 1 日の両日、
エイジ・オブ・エンライトンメント管
弦楽団を指揮して、ベートーヴェ
ン《
「エグモント」序曲》
、ショパン
《ピアノ協奏曲第 1 番》
(ピアノ:ニ
コライ・デミジェンコ)
、ベルリオー
ズ《幻想交響曲》を演奏し、つづい
て 9 月 17 日にはパリ室内管弦楽団
と、リュリ《
「町人貴族」組曲》
、ヘ
ンデルのアリア集(独唱:アンドレ
アス・ショル)
、ラモー《
「レ・ボレア
ド」組曲》というバロック音楽のプ
ログラムを演奏。9 月 22 ∼ 24 日に
は、現在、首席指揮者をつとめてい
るチューリヒ室内管弦楽団を率いて、
ワーグナー《ジークフリートの牧歌》、
ベートーヴェン《ピアノ協奏曲第 2
番》
(ピアノ:ラルス・フォークト)、
ハイドン《交響曲第 86 番》を演奏
したあとに、日本へやってきてN響
との共演となっている。
その後、ふたたびチューリヒ室
内管弦楽団や、ライプチヒ・ゲヴァ
ントハウス管弦楽団、ベルリン・ド
イツ交響楽団、シュトゥットガルト
放送交響楽団などとの共演を控えて
いるが、発表されたプログラムを見
るかぎり、ベートーヴェンの交響曲
の演奏は予定されていない。つまり、
今シーズン、ノリントンによるベー
トーヴェンの交響曲演奏を聴くこと
ができるのは、どうやら日本だけと
いうことになる。
ベートーヴェンの交響曲は、ノリ
ントンのキャリアにおいて、重要な
転機をもたらす、いわば縁の深い作
品。ノリントンは、1980 年代後半
にロンドン・クラシカル・プレイヤー
ズと行ったベートーヴェンの交響曲
全集録音で高い評価を受け、国際的
な名声を獲得した。また、1998 ∼
2011 年の間、首席指揮者をつとめ
たシュトゥットガルト放送交響楽団
による同全集録音も、その素晴らし
さが大変な話題となり、ひいては
2012 年、ノリントンのドイツ連邦
共和国功労勲章授与につながったと
Philharmony October 2013
ロジャー・ノリントンが、ふたた
今
月
の
マ
エ
ス
ト
ロ
ロ
ジ
ャ
ー
・
ノ
リ
ン
ト
ン
言えるだろう。
と感じるかもしれないが、ノリント
そんなノリントンの思い入れ深い
ンは、むしろこの音を「美しい音」
作品を、我が国を代表するオーケス
だとする。つまり、これこそが、ヴ
トラ「N響」が、どう演奏し、昇華
ィブラートという化粧のとれた「純
させるのであろうか。2011 年以来、
粋な音(ピュア・トーン)」だと考え
ノリントンとN響の「ベートーヴェ
ている。
ン・シリーズ」も、いよいよ 3 年目。
ただし、単にヴィブラートの無い
お互いにかなり手の内がわかってき
音だけでは、音楽にはならない。そ
ているだけに、エキサイティングな
こで、ノリントンが重要と考えてい
演奏が期待される。
るのは「フレージング」である。つ
ノリントン流のベートーヴェン演奏
まり、様々な楽句や旋律を、こだわ
って描き分けることで、音楽が立体
いまやノリントンの代名詞ともな
的に構築されてゆくというわけだ。
った「ノン・ヴィブラート奏法」
、そ
ノリントンは、幼少のころからヴ
してそれから生れる「ピュア・トー
ァイオリンを習っており、若い頃は
ン」は、やはり彼のベートーヴェン
プロのテノール歌手として活動して
演奏を語るうえで避けて通ることは
いた。ヴァイオリンを弾くことや、
できない。
歌を歌うことによって、音楽におけ
ノリントンは、20 世紀初頭の古い
る線的構造や、フレーズの流れに対
録音を丹念に聴き進めた結果、1930
する感覚が鋭くなり、そのおかげで
年代に入るまで、オーケストラでは
精緻なフレージングや、その描き分
ヴィブラートをほとんど使っていな
けを重視するようになったという。
かったことを確認したという。それ
そこでハイドンやモーツァルトの
をヒントに、彼は自分の指揮するオ
交響曲で、ノン・ヴィブラート奏法
ーケストラが 1930 年以前の作品を
やフレージングにこだわった演奏に
演奏する際は、一貫してヴィブラー
取り組み始めていた頃、ふとベート
トを「かけない」ように指示してい
ーヴェンの交響曲も同じように演奏
る。
すべきではないのか、と思いついた
では、ヴィブラートをかけないと、
そうである。それが、彼流のベート
どんな音になるのか? 従来のオー
ーヴェン演奏のはじまりだった。
ケストラの音に慣れた感覚から言え
ば、まず、音程の「揺らぎ」がなく
なるので、1 つの音程が「むきだし」
になって、はっきりと響く。人によ
っては、音の「温かみ」がなくなっ
た、あるいは音の「余韻」が消えた
ベートーヴェンの交響曲は
ゲーム みたいなもの
今年のフィンランド放送交響楽団
の演奏会の前に行われたインタビュ
ーのなかで、ノリントンは「私はク
ァルトの交響曲を演奏するときのよ
ていたことがありますが、ああいう
うに、様々な楽句や旋律のフレージ
巨大さではなくて……もちろんクレ
ングを磨きぬき、それぞれを対話さ
ンペラーのベートーヴェンはワンダ
せるかのように関連づけてゆく方法
フルなんですが」と、クレンペラー
で、ベートーヴェンの交響曲の世界
の演奏スタイルを念頭においたう
を描こう、というわけである。当然、
えで、
「ベートーヴェンの交響曲は、
音楽の全体的なテンポは速くなり、
壮大で、こう、魂が揺り動かされる
快活に交わされる音の対話は、まる
ような崇高なもの……ではないんで
で「ゲーム」のように楽しい̶̶そ
す。違うんです。もっと ゲーム
れがノリントンの理想とするベート
みたいなもの、最高に面白い ゲー
ーヴェン演奏である。
ム みたいなもので、そんな風にや
ゲームのようなベートーヴェン。
りたいんです」と語っている。
ぜひ演奏会でワクワクしながら聴い
つまり、遅めのテンポによる重厚
てみたい。
な演奏ではなく、ハイドンやモーツ
プロフィール
1934 年、オックスフォード生ま
れのイギリスの指揮者。英国王立音
楽大学でエードリアン・ボールトに
指揮を師事。1962 年、シュッツ合
唱団創設を機に演奏活動を本格化さ
せ、同合唱団とピリオド楽器による
オーケストラを率いて活発な録音活
動を行うようになる。特に 1980 年
代後半にロンドン・クラシカル・プレ
(かとう・たくみ 音楽学)
法を活かしたノリントンの音楽作り
は、ベートーヴェン、ベルリオーズ、
シューマン、ブラームスなど、特に
19 世紀の管弦楽作品の演奏におい
て多くの聴衆を魅了しつづけている。
ノリントンは 1990 年に大英勲章
の第三位を受賞。1997 年 6 月には
ナイトの称号を与えられ、2012 年
にはシュトゥットガルト放送交響
イヤーズと行ったベートーヴェンの
楽団との活動が評価されてドイツ
国際的な名声を獲得した。
2011/2012 年のシーズンからは、チ
交響曲全集の録音で高い評価を受け、 連邦共和国功労勲章を授与された。
その後、活躍の場をモダン・オー
ケストラにも広げ、カメラータ・ザ
ルツブルク(1997 ∼ 2006 年)およ
びシュトゥットガルト放送交響楽
団(1998 ∼ 2011 年)の首席指揮者
を務めた。ピリオド楽器の経験と奏
ューリヒ室内管弦楽団の首席指揮者
に就任し、今後の展開が期待される。
今 回 は、2011 年 以 来、N 響 と 3 年
にわたって進めてきた「ベートーヴ
ェン・シリーズ」のために来日。
(加藤拓未)
Philharmony October 2013
レンペラーのもとで、合唱団で歌っ
Program
Program
A
A
第 1764 回 NHKホール
10/19[土]開演 6:00pm
10/20[日]開演 3:00pm
[指揮]
1764th Subscription Concert / NHK Hall
19th (Sat.) Oct, 6:00pm
20th(Sun.)Oct, 3:00pm
ロジャー・ノリントン
[conductor] Roger Norrington
[テノール]
*
ジェームズ・ギルクリスト
[ゲスト・コンサートマスター]
ヴェスコ・エシュケナージ
[tenor]
James Gilchrist *
[guest concertmaster]
◆
Vesko Eschkenazy
ベートーヴェン
「エグモント」序曲(9 )
Ludwig van Beethoven (1770-1827)
“Egmont”, incidental music op.84 - Overture
ブリテン
*
夜想曲 作品 60 (28 )
Benjamin Britten (1913-1976)
Nocturne op.60*
Ⅰ
Ⅱ
Ⅲ
Ⅳ
Ⅴ
Ⅵ
私は眠る、詩人の唇の上に
深き天の雷鳴の下に
ツタの葉を身に巻きつけて
真夜中のベルが鳴る、リンリンリン
しかしあの夜
彼女はおだやかな吐息とともに永遠の眠りに
つく
Ⅶ 夏の風より優しいものは何だろうか
Ⅷ 閉じられている時こそ、私の眼はもっともよ
く見える
ブリテン
歌劇「ピーター・グライムズ」から
「4 つの海の間奏曲」作品 33a(17 )
Ⅰ
Ⅱ
Ⅲ
Ⅳ
夜明け
日曜の朝
月の光
嵐
Ⅰ
Ⅱ
Ⅲ
Ⅳ
Ⅴ
Ⅵ
On a poet’s lips I slept
Below the thunders of the upper deep
Encinctured with a twine of leaves
Midnight’s bell goes ting, ting, ting
But that night when on my bed I lay
She sleeps on soft, last breaths
Ⅶ What is more gentle than a wind in summer?
Ⅷ When most I wink, then do mine eyes best see
Benjamin Britten
Four Sea Interludes from “Peter Grimes”, opera
op.33a
Ⅰ
Ⅱ
Ⅲ
Ⅳ
Dawn
Sunday Morning
Moonlight
Storm
休憩 Intermission
ベートーヴェン
交響曲 第 8 番 ヘ長調 作品 93(23 )
Ⅰ
Ⅱ
Ⅲ
Ⅳ
アレグロ・ヴィヴァーチェ・エ・コン・ブリオ
アレグレット・スケルツァンド
テンポ・ディ・メヌエット
アレグロ・ヴィヴァーチェ
◆ ヴェスコ・エシュケナージ
Ludwig van Beethoven
Symphony No.8 F major op.93
Ⅰ
Ⅱ
Ⅲ
Ⅳ
Allegro vivace e con brio
Allegretto scherzando
Tempo di menuetto
Allegro vivace
1970 年、ブルガリア生まれ。ロンドンのギルドホール音楽院を 1992 年に修了。1999
年よりロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のコンサートマスターに就任。コンセルト
ヘボウ室内管弦楽団ピアニスト、リュドミル・アンゲロフとのデュオでも活躍する。N
響では 2011 年 11 月に初めてゲスト・コンサートマスターを努め、今回が 3 度目の共演。
Soloist
Philharmony October 2013
©operaomnia.co.uk
テノール
ジェームズ・ギルクリスト
James Gilchrist
イギリスのテノール歌手。8 歳のとき、
音に参加し、バード、モンテヴェルディ、
地元の教会の聖歌隊に入る。その後、医
ラモー、バッハ、ヘンデル、モーツァル
学を志し、医師となるが、音楽活動は続
ト、シューベルト、フィンジ、ブリテ
け、
「ザ・シックスティーン」や「タリ
ン、ヴォーン・ウィリアムズらの宗教音
ス・スコラーズ」に加わり、独唱を務め
楽、声楽曲、オペラ、オラトリオなどを
ることもあった。結局、1996 年、医師
手掛ける。鈴木雅明指揮バッハ・コレギ
から声楽家に転身した。
ウム・ジャパンのバッハの教会カンター
古楽および現代音楽のレパートリーで
タ全曲シリーズの演奏会と録音にも参加。
の活躍が著しく、イギリス音楽に熱心
今回、披露されるブリテンの《夜想曲》
に取り組んでいる。オペラでは、
《ねじ
は、ギルクリストの最も得意とするレパ
の回転》のクィントや《コジ・ファン・
ートリーだけに、非常に楽しみだ。N 響
トゥッテ》のフェランドのほか、バロッ
とは初共演。
ク・オペラにも広く出演。夥 しい数の録
(山田治生)
Program
Ludwig van Beethoven
ベートーヴェン
1770-1827
「エグモント」序曲
A
「私はこの音楽を、詩人(ゲーテ)に
ベートーヴェンは〈序曲〉のほ
対する愛のみから書きました」―
か 9 つの曲を作曲したが、そのう
1810 年 8 月、ベートーヴェンは、
ち〈序曲〉だけは、早々と 1810 年
出版社ブライトコプフ・ウント・ヘル
にパート譜が、1811 年にはピアノ
テル社に宛ててこう綴った。また
編曲譜が出版され、批評家ゴットフ
1811 年 4 月には「たとえ叱責でも、
リート・ウェーバーの報告によれば、
私と私の芸術のためになります」と
1814 年にはすでに独立した「演奏
したため、ゲーテに自筆スコアを送
会用序曲」として演奏会の幕開けに
って批評を請うてもいる。
登場したという。
このようにゲーテに対して深い敬
構成:ソステヌート・マ・ノン・トロ
愛の念を抱いていたベートーヴェン
ッポ 3/2 拍子─アレグロ 3/4 拍子─
であるから、1809 年秋に宮廷劇場
アレグロ・コン・ブリオ 4/4 拍子。
の監督ヨーゼフ・ハルトルから、ゲ
ウェーバーが「劇全体の主な特徴
ーテが書いた戯曲『エグモント』の
を反映したみごとな音画」と評した
新しい舞台のために付随音楽を書く
ように、あらすじのダイジェスト版
よう依頼されたとき、さぞ喜んだに
たる近代型序曲である。エグモント
ちがいない。この戯曲は、16 世紀
の英雄性がテーマであるためか、ほ
初めのスペイン支配とオランダの
かの類似作品と同じく当初はハ短
独立戦争におけるエグモント伯爵の
調が予定されていたが、最終的には
奮闘、伯爵とクレールヒェンとの愛、
ヘ短調が選ばれた。劇の最後を「勝
彼女の死と幻影を通した救済と勝利
利のシンフォニー」で締めくくるよ
の予感を内容とする。したがって、
うにというゲーテの指示に沿って、
作曲者のみならず、ナポレオンに支
〈序曲〉の最後にはヘ長調に至る急
配され、劇場も閉鎖を余儀なくされ
激なクライマックスが用意されてい
た当時のオーストリアの人間ならば、
る。
身に迫るものがあっただろう。
作曲年代:1809 年 10 月∼ 1810 年 6 月
初演:1810 年 6 月 15 日(舞台初日は 5 月 24 日
であったが、音楽は間に合わなかった)
、ウィー
ン宮廷劇場(現ブルク劇場)にて、作曲者自身
の指揮
(西田紘子)
楽器編成:フルート 2(ピッコロ 1)
、オーボエ 2、
クラリネット 2、ファゴット 2、ホルン 4、トラ
ンペット 2、ティンパニ 1、弦楽
ブリテン
1913-1976
夜想曲 作品 60
今年生誕 100 年を迎える英国の作
曲家ベンジャミン・ブリテンは、独
唱と室内編成のオーケストラのため
の連作歌曲を好んで作曲した。主
要なものとして、《イリュミナシオ
ン》
(1939)
、
《セレナード》
(1943)
、
そして本日演奏される《夜想曲》
(1957 ∼ 1958)が挙げられる。
《イリュミナシオン》はソプラノ
独唱と弦楽オーケストラのために書
かれ、《セレナード》ではテノール
独唱と弦楽オーケストラにオブリガ
ート(助奏)楽器としてホルンが加
えられた。《夜想曲》ではさらにこ
の手法を推し進め、テノール独唱と
弦楽オーケストラに加え、曲ごとに
異なるオブリガート楽器を用いた。
《夜想曲》というタイトルのとお
り、ブリテンはこの歌曲集を構想す
る上で「夜」や「夢」にまつわる英
語の詩を 8 編選んだ。取り上げた詩
人はシェリー、テニソン、コールリ
ッジ、ワーズワース、キーツという
ロマン派の詩人たちを中心に、16、
17 世紀のシェークスピアとミドル
トン、そして 20 世紀の戦争詩人オ
ーウェンである。
ブリテンの多くのオペラや声楽
曲と同様に、《夜想曲》もテノール
歌手、ピーター・ピアーズ(1910 ∼
1986)のために作曲された。ブリ
テンとピアーズは 1936 年に出会っ
て以来、演奏上のパートナーとして
のみならず、同性愛が非合法な時代
に私生活でもパートナーであった。
ピアーズの声はけっして大きくな
く、またいわゆる美声でもなかった
が、表現力豊かで言葉のニュアンス
を伝える力に秀で、ブリテンにイン
スピレーションを与え続けた。
《夜想曲》の作曲は 1957 年末か
ら 1958 年にかけて、ブリテンのオ
ールドバラの新居で進められた。初
演は 1958 年秋のリーズ音楽祭。作
品はマーラーの未亡人、アルマ・マ
ーラーに献呈された(ブリテンとア
ルマは 1942 年にニューヨークで知
り合っている)
。オーケストラ付き
の連作歌曲のジャンルで名作を残し
たマーラーへのオマージュであろう
か。
作品は 8 曲の歌曲から成るが、こ
れらは切れ目なく演奏され、まるで
夢と現実の境界をさまようような幻
想的な世界が繰り広げられる。そこ
には甘美な夢もあれば悪夢もあり、
眠れぬ夜もあれば永遠の眠りもある。
ここでは詩ごとに説明しよう。
第 1 曲 序奏はなく、弱音器付きの
弦 楽 器 に よ る 12/16 拍 子 の 子 守 歌
ふうの音型の上で、シェリーの劇
詩『鎖を解かれたプロメテウス』か
Philharmony October 2013
Benjamin Britten
Program
らの一節〈私は眠る、詩人の唇の上
に〉が歌われる。このたゆたうよう
に揺れる音型は、それぞれの曲をつ
なぐリンクとして繰り返し現れる。
ワースの自伝的叙事詩『序曲』より、
詩人自身が体験したフランス革命中
の眠れぬ一夜を描いた一節である。
曲は行進曲で、オブリガート楽器の
A
第 2 曲 ファゴット・ソロに導かれ、
ティンパニが革命の悲劇的な足音を
が続く。クラーケンとは北欧神話に
第 6 曲 詩人ウィルフレッド・オーウ
テニソンのソネット『クラーケン』
でてくる海の底に眠る怪物で、ファ
ゴットの特徴的なオスティナート音
型がそれを鮮やかに描き出す。
刻む。
ェンは第一次世界大戦に従軍し、そ
の悲惨さを詩に詠んだ(ブリテンは
のちに《戦争レクイエム》でも彼の
第 3 曲 ロマン派詩人コールリッジ
詩を用いている)。ここでは、戦線
含まれる〈ツタの葉を身に巻きつけ
眠る女性を非難した異色の詩が選ば
の散文詩『カインの放浪』の序文に
て〉は、美しい少年をテーマにした
幻想的な詩で、少年愛の傾向があっ
たブリテンの創作力をかき立てたこ
とは想像に難くない。少年がまとう
ツタの葉のように、独奏ハープがテ
ノール独唱に優美にからんでいく。
で死んだ若者たちを顧みることなく
れている。イングリッシュ・ホルン
によるラメントが虚しく響く。
第 7 曲 キーツの『眠りと詩』の第
一節に基づく。詩の前半では昼の魅
力が、後半では眠りが賛美される。
風のように軽やかに舞うフルートと
第 4 曲〈真夜中のベルが鳴る、リン
クラリネットは昼を、弦楽器が夜を
軽妙な曲想をもつ。トマス・ミドル
第 8 曲 締めくくりは、愛する青年
リンリン〉は、8 曲の中でもっとも
トン(1580 ∼ 1627)はシェークス
ピアとほぼ同世代の英国の劇作家、
詩人。ブリテンはこの詩のオノマト
ペ(擬音語)に惹かれたようで、柱
時計の音や、ふくろうやねずみ、猫
の鳴き声を独唱とホルンがユーモラ
スに模倣する。
第 5 曲〈しかしあの夜〉は、ワーズ
作曲年代:1957 ∼ 1958 年
初演:1958 年 10 月 16 日、リーズ、リーズ・タウ
ン・ホール、ルドルフ・シュワルツ指揮BBC交
響楽団、独唱ピーター・ピアーズ
象徴し、昼と夜が対置される。
と夢の中でしか会えない思いを綴っ
たシェークスピアの『ソネット第
43 番』
。ここでは 7 つのオブリガー
ト楽器が初めて一堂に会し、大詩人
の言葉を厳粛に伴奏する。最後の
〈君を見るまでは、昼も夜と同じこ
と……〉は、ささやくように歌われ
る。 (後藤菜穂子)
楽器編成:フルート 1、イングリッシュ・ホル
ン 1、クラリネット 1、ファゴット 1、ホルン
1、ティンパニ 1、ハープ 1、弦楽、テノール・
ソロ
Britten
I
夜想曲 歌詞対訳
On a poet’s lips I slept
On a poet’s lips I slept
Dreaming like a love-adept
In the sound his breathing kept;
Nor seeks nor finds he mortal blisses,
But feeds on the aëreal kisses
Of shapes that haunt thought’s
wildernesses.
He will watch from dawn to gloom
The lake-reflected sun illume
The yellow bees in the ivy-bloom,
Nor heed nor see, what things they be;
But from these create he can
Forms more real than living man,
Nurslings of immortality!
—Percy Bysshe Shelley
“Prometheus Unbound”
II
対訳:後藤菜穂子
Nocturne
Below the thunders of the
upper deep
Below the thunders of the upper deep;
Far, far beneath in the abysmal sea,
His ancient, dreamless, uninvaded sleep
The Kraken sleepeth: faintest sunlights
flee
About his shadowy sides: above him
swell
Huge sponges of millennial growth
and height;
And far away into the sickly light,
From many a wondrous grot and secret
cell
Unnumber’d and enormous polypi
Winnow with giant arms the
Translation: Nahoko Gotoh
第 1 曲 私は眠る、詩人の唇の上に
私は眠る、詩人の唇の上に
恋の熟練者のように夢を見ながら
彼の吐息の中で、私は眠る。
詩人はこの世の至福を探さず、求めず、
幻のくちづけを糧にする
空想の荒野をつきまとうかたちの。
詩人は見つめる、夜明けから夜更けまで
太陽が湖面を明るく照らすのを
生い茂るツタの中を舞うミツバチ
そうしたものには心を留めず、目をくれず。
でも詩人はそこから創造することができるのだ
生身の人間よりもっとリアルな姿を、
不滅の生命を!
─パーシー・ビッシュ・シェリー
『鎖を解かれたプロメテウス』
第 2 曲 深き天の雷鳴の下に
深き天の雷鳴の下に
深海のはるか、はるか奥底に
いにしえより、夢も見ず、さえぎられない眠り
クラーケンが眠る。かすかな光さえ消え去る、
その体軀の影の周囲からは。その上には
千年の間に高く生い茂った巨大な海綿が
はるか彼方のほの暗い光へ向けて、
不思議な洞窟や秘密の穴倉から
幾多の巨大なポリプたちが
眠る緑の間に巨大な腕を羽ばたかせる。
Philharmony October 2013
ブリテン
Program
A
slumbering green.
There hath he lain for ages and will lie
Battening upon huge seaworms in his
sleep,
Until the latter fire shall heat the deep;
Then once by men and angels to be
seen,
In roaring he shall rise and on the
surface die.
—Lord Alfred Tennyson “The Kraken”
III
Encinctured with a twine of
leaves
Encinctured with a twine of leaves,
That leafy twine his only dress!
A lovely Boy was plucking fruits,
By moonlight, in a wilderness.
The moon was bright, the air was free,
And fruits and flowers together grew
On many a shrub and many a tree:
And all put on a gentle hue,
Hanging in the shadowy air
Like a picture rich and rare.
It was a climate where, they say,
The night is more beloved than day.
But who that beauteous Boy beguiled
That beauteous Boy to linger here?
Alone, by night, a little child,
In place so silent and so wild —
Has he no friend, no loving mother
near?
—Samuel Taylor Coleridge
“The Wanderings of Cain”
IV
Midnight’s bell goes ting,
ting, ting
Midnight’s bell goes ting, ting, ting,
ting, ting,
彼はそこに幾年月も横たわり、これからもそう
するのだ
眠りの中で巨大な海虫を貪りながら、
最後の炎が海底を熱くするまで
その時、人々と天使たちは一度だけ彼を目に
する、
大きな唸り声をあげながら浮上し、海面で息
絶えるのを。
─アルフレッド・テニソン『クラーケン』
第 3 曲 ツタの葉を身に巻きつけて
ツタの葉を身に巻きつけて
青々としたツタだけが彼の衣服!
可愛い少年が果実を摘んでいた、
月明かりの下で、荒野の中で。
月は明るく、空気は澄み、
果実と花々はともに育っていた
低い木々にも高い木々にも。
みんなやさしく色づいている
翳った空気の中で
立派で貴重な絵画のように。
人々は言う、そこの風土は
昼間より夜の方が愛される、と
しかし誰があの美しい少年を したのか?
あの美しい少年にここに残るようにと。
夜、小さな子どもたった一人で、
これほど静かで荒れた地に─
友達は、愛してくれる母はそばにいないのか?
─サミュエル・テーラー・コールリッジ
『カインの放浪』
第 4 曲 真夜中のベルが鳴る、
リンリンリン
真夜中のベルが鳴る、リンリンリン
犬は吠えるが、鳥はさえずりもしない
ただナイチンゲールだけが歌う、チッチッチッ
木の大枝にはフクロウが座っている
カラスは煙突の上でカァカァと
コオロギは部屋の中で跳ねる
ネズミは眠らずかじっている
そして鳴く、チューチューチュー
するとネコも鳴く、ニャーニャーニャー
さらに鳴く、ニャーニャーニャー
─トマス・ミドルトン
—Thomas Middleton
“Blurt, Master Constable”
V
But that night when on my
bed I lay
But that night
When on my bed I lay, I was most
mov’d
And felt most deeply in what world I
was;
With unextinguish’d taper I kept
watch,
Reading at intervals; the fear gone by
Press’d on me almost like a fear to
come;
I thought of those September
Massacres,
Divided from me by a little month,
And felt and touch’d them, a
substantial dread;
The rest was conjured up from tragic
fictions,
And mournful Calendars of true
history,
Remembrances and dim
admonishments.
‘The horse is taught his manage, and
the wind
『ブラート、マスター・コンスタブル』
第 5 曲 しかしあの夜
しかしあの夜
寝床に横たわっていた時、心を突き動かされ
た
そして自分の生きる世界について、深い感慨
を覚えた。
ろうそくを消さずに、寝ずの番をした
時折本を読みながら。過ぎ去った恐怖が
これから訪れる恐怖のようにのしかかった。
私はあの九月の虐殺に想いを馳せた
わずかひと月、私と時を隔てたあの虐殺を
感じ、触れた、重苦しい恐怖も。
その他は作り上げられた、悲劇の物語から、
真の歴史の悲しみの暦から、
そして追憶とあいまいな戒めから。
「馬は調教され、天の風は
Philharmony October 2013
Then dogs do howl, and not a bird
does sing
But the nightingale, and she cries twit,
twit, twit;
Owls then on every bough do sit;
Ravens croak on chimneys’ tops;
The cricket in the chamber hops;
The nibbling mouse is not asleep,
But he goes peep, peep, peep, peep,
peep;
And the cats cry mew, mew, mew,
And still the cats cry mew, mew, mew.
Program
A
Of heaven wheels round and treads in
his own steps,
Year follows year, the tide returns again,
Day follows day, all things have second
birth;
The earthquake is not satisfied at once.’
And in such way I wrought upon
myself,
Until I seem’d to hear a voice that cried
To the whole City, ‘Sleep no more’.
くるくると回り、自らの軌跡をたどる
VI
第 6 曲 彼女はおだやかな吐息とともに
永遠の眠りにつく
—William Wordsworth “The Prelude”
She sleeps on soft, last
breaths
年月を重ね、再び潮は満ち、
日々を重ね、すべてのものは生まれ変わる。
地震は一度では満足しない」
こうして私は仕事にいそしんだ
だれかの叫び声が聞こえてくるまで
街中に向けて、
「眠るな」と。
─ウィリアム・ワーズワース『序曲』
(1805 年稿)
She sleeps on soft, last breaths; but no
ghost looms
Out of the stillness of her palace wall,
Her wall of boys on boys and dooms on
dooms.
彼女はおだやかな吐息とともに永遠の眠りに
She dreams of golden gardens and sweet
glooms,
Not marvelling why her roses never fall
Nor what red mouths were torn to
make their blooms.
彼女は黄金の庭園や甘美な木陰を夢見る、
The shades keep down which well
might roam her hall.
Quiet their blood lies in her crimson
rooms
And she is not afraid of their footfall.
彼女の大広間を徘徊しそうな霊たちはひそん
They move not from her tapestries,
their pall,
Nor pace her terraces, their hecatombs,
彼らは彼女のタペストリー、棺にかける布から
Lest aught she be disturbed, or grieved
at all.
彼女を邪魔しないように、悲しませることのな
—Wilfred Owen “The Kind Ghosts”
つく、しかし幽霊が
彼女の宮殿の壁の静寂から現れることはない、
少年に続く少年、破滅に続く破滅の壁の中か
ら。
自分の薔薇がなぜ散らないのか
花を咲かすためにどんな赤い唇が裂かれたか
驚きもせず。
でいる
その血は彼女の深紅の部屋に静かに広がる
そして彼女は彼らの足音を恐れない。
動かない
彼女のテラス、彼らの大虐殺の場を歩き回る
こともない
いように。
─ウィルフレッド・オーウェン『優しい幽霊たち』
第 7 曲 夏の風より優しいものは
何だろうか
What is more gentle than a wind in
summer?
What is more soothing than the pretty
hummer
That stays one moment in an open
flower,
And buzzes cheerily from bower to
bower?
What is more tranquil than a musk-rose
blowing
In a green island, far from all men’s
knowing?
More healthful than the leafiness of
dales?
More secret than a nest of nightingales?
More serene than Cordelia’s
countenance?
More full of visions than a high
romance?
What, but thee, Sleep? Soft closer of
our eyes!
Low murmurer of tender lullabies!
Light hoverer around our happy
pillows!
Wreather of poppy buds, and weeping
willows!
Silent entangler of a beauty’s tresses!
Most happy listener! when the morning
blesses
Thee for enlivening all the cheerful eyes
That glance so brightly at the new
sun-rise.
夏の風より優しいものは何だろうか?
—John Keats “Sleep and Poetry”
かわいいミツバチより和むものは何だろうか?
咲いている花に一瞬止まったかと思うと、
木陰から木陰へと楽しくブンブン飛び回る
風に揺れるジャコウバラより穏やかなものは何
だろうか?
人々の知らない、はるかな緑の島で。
谷間の葉の繁みよりも健やかなものは?
ナイチンゲールの巣よりも密やかなものは?
コーディリアの顔立ちよりも柔和なものは?
いにしえのロマンスよりも幻想の豊かなもの
は?
それは汝、眠り以外、何者か? われわれの
眼をそっと閉じてくれる者よ!
優しい子守歌を低くささやく者よ!
幸せの枕のまわりを軽やかに舞う者よ!
ケシのつぼみやシダレヤナギに巻きつく者よ!
美しい人の髪を黙ってもつれさせる者よ!
ああ幸せな聴き手よ! 朝が汝を祝福する時
陽気な眼を元気づけてくれたことを
新しい日の出をまぶしく眺めるその眼を。
─ジョン・キーツ『眠りと詩』
Philharmony October 2013
VII What is more gentle than a
wind in summer?
Program
A
VIII When most I wink, then do
mine eyes best see
第 8 曲 閉じられている時こそ、
私の眼はもっともよく見える
When most I wink, then do mine eyes
best see,
For all the day they view things
unrespected;
But when I sleep, in dreams they look
on thee,
And darkly bright, are bright in dark
directed.
Then thou, whose shadow shadows
doth make bright,
How would thy shadow’s form form
happy show
To the clear days with thy much clearer
light,
When to unseeing eyes thy shade shines
so!
How would, I say, mine eyes be blessed
made
By looking on thee in the living day,
When in dead night thy fair imperfect
shade
Through heavy sleep on sightless eyes
doth stay!
All days are nights to see till I see
thee,
And nights bright days when dreams
do show thee me.
閉じられている時こそ、私の眼はもっともよく
—William Shakespeare “Sonnet 43”
見える
昼のあいだは、何を見ても注意を払わない
しかし眠りについた時、夢の中で君を見出す
黒々と明るく、暗闇に浮かぶ光に向けられる。
すると、君の幻影が暗闇を照らし出す
君の幻影のかたちが、そのいっそう明るい光
で
昼間も照らし出したらどんなに幸せだろう
君の影は見えぬ眼にもこんなにも輝くのに!
私の眼はどんなに祝福されるだろう
昼の光の中で君の姿を見ることは
真夜中に君の美しいおぼろげな影が
重い眠りの中で、見えぬ眼に現れるというの
に!
君を見るまでは、昼も夜と同じこと、
夢が君の姿を見せてくれる時、夜は明るい
昼となるのだ。
─ウィリアム・シェークスピア『ソネット第 43 番』
ブリテン
1913-1976
歌劇「ピーター・グライムズ」から
「4 つの海の間奏曲」作品 33a
ある土地の風景と切り離せない音
楽というのはあるように思う。ベン
ジャミン・ブリテンの《4 つの海の
間奏曲》はそうした作品の 1 つで、
彼の愛した英国東部サフォーク州の
海辺の風景と密接に結びついている。
彼の生まれ故郷のローストフトも、
作曲家として成功を収めてから移り
住んだオールドバラもサフォーク州
の北海沿いの町であった。
本曲は、ブリテンの初期の傑作
第 1 曲〈夜明け〉オペラではプロ
ローグと第 1 幕の間に演奏される第
1 間奏曲。ブリテンは自分の台本に
「日常の灰色の海の風景」と書き記
しており、カモメが舞う夜明けの海
の静寂を感じ取ることができよう。
第 2 曲〈日曜の朝〉第 2 幕に先立つ
間奏曲は、オペラにおけるつかの間
の希望を表しており、やわらかな陽
光の中で海も輝いている。ホルン 4
本による和音進行と木管楽器群によ
オペラ、《ピーター・グライムズ》
る鋭い音型が巧みに組み合わされる。
(1945 年初演)の中で奏される間奏
第 3 曲〈月の光〉夏の夜の海の風景。
曲を演奏会用に編曲したものであ
る。オペラは北海沿いのとある漁村
を舞台に、粗野で一匹狼の漁師ピー
ター・グライムズと狭量な村人たち
との軋轢を描いた悲劇で、プロロー
グと 3 幕(各幕 2 場ずつ)から成る。
各場面の間には北海のさまざまな表
情を色彩豊かに捉えたオーケストラ
の間奏曲が置かれているが、ブリテ
ンはそれら 6 曲のうち 4 曲を選び、
タイトルを付け、独立した管弦楽曲
として出版した。
作曲年代:1945 年
初演:1945 年 6 月 13 日、
チェルトナム、
作曲者自
身の指揮、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
楽器編成:フルート 2(ピッコロ 2)、オーボエ
2、クラリネット 2(Es クラリネット 1)、フ
波が静かに打ち寄せる様子は低弦の
ゆるやかなシンコペーション、月の
光はフルートとハープが象徴してい
る。
第 4 曲〈嵐〉激しく荒れ狂う北海を
鮮明に描くこの曲は、本来第 1 幕第
2 場の酒場での場面の前に奏される。
この嵐の主題はオペラの中で繰り返
し現れ、窮地に追い込まれるグライ
ムズの心のうちを暗示しているかの
ようだ。 (後藤菜穂子)
ァゴット 2、コントラファゴット 1、ホルン 4、
トランペット 3、トロンボーン 3、テューバ1、
ティンパニ 1、鐘、シロフォン、小太鼓、ゴン
グ、シンバル、タンブリン、大太鼓、ハープ 1、
弦楽
Philharmony October 2013
Benjamin Britten
Program
Ludwig van Beethoven
ベートーヴェン
1770-1827
交響曲 第 8 番 ヘ長調 作品 93
A
ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴ
トーヴェンはここでゲーテと会見し
ェンの交響曲のなかでも、中期様式
たほか、有名な「わが不滅の恋人」
の最後に位置する本作は、影が薄い
を書きとめてもいる)
。最初は協奏
と言われがちである。だが、チェル
曲として構想されていたようだが、
ニーの伝えるところでは、作曲者自
スケッチが思いのほか進展し、より
身は「小規模な交響曲」ではあるが、
ふさわしい表現の場として交響曲ジ
《第 7 番》に比べて「はるかに優れ
ている」と自負していたという。
影の薄さ、という評価が与えられ
たのは、まず何より楽器編成の縮小
や曲の短さのゆえであろう。さらに
は、本作ではバランスのとれた、偽
ャンルへと至ったようだ。
第 1 楽章 ア レ グ ロ・ヴ ィ ヴ ァ ー チ
ェ・エ・コン・ブリオ ヘ長調 3/4 拍子。
ソナタ形式。第 1 主題(へ長調)か
ら第 2 主題(ハ長調)に移るさい、
《第 7 交響曲》の主調(イ長調)を
古典主義的な様式が目(耳)につき、
経由するのが暗示的だ。
前時代への逆戻りと捉えられかねな
第 2 楽章 ア レ グ レ ッ ト・ス ケ ル ツ
いことも一因である。しかし、特定
の動機の執拗かつ滑稽とも思われる
ァンド 変ロ長調 2/4 拍子。長らく、
メトロノームの発案者メルツェルに
くり返し(これは本作と《第 7 番》
寄 せ た《 カ ノ ン 》(WoO162) に 基
の共通点である)、リズムの統一的
づく曲とされてきたが、このカノン
ないし対位法的な使い方、不協和音
は実はシンドラーの偽作であった。
の解決を遅らせることによる劇的緊
第 3 楽章 テンポ・ディ・メヌエット
張の創出、といった点には、細やか
に仕掛けを施す熟練した作曲者の姿
が見え隠れする。
スケッチは、1812 年夏に、文化
人や政治家たちが集うボヘミアの保
養地テープリッツで書かれた(ベー
作曲年代:1812 年
初演:1814 年 2 月 27 日、ウィーンの大レドゥー
テンザールにて、作曲者自身の指揮
ヘ長調 3/4 拍子。
第 4 楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ
ヘ長調 2/2 拍子。! による主題提
示の直後、へ長調にとって異質な音
が突然 ff で噴出するのがユーモラ
スだ。 (西田紘子)
楽器編成:フルート 2、オーボエ 2、クラリネ
ット 2、ファゴット 2、ホルン 2、トランペッ
ト 2、ティンパニ 1、弦楽
B
第 1763 回 サントリーホール
10/9 [水]開演 7:00pm
10/10[木]開演 7:00pm
[指揮]
1763rd Subscription Concert / Suntory Hall
9th (Wed.)Oct, 7:00pm
10th(Thu.)Oct, 7:00pm
ロジャー・ノリントン
[conductor] Roger Norrington
[ピアノ]
[piano]
[コンサートマスター]
[concertmaster]
ロバート・レヴィン
堀 正文
Robert Levin
Masafumi Hori
グルック(ワーグナー編)
Christoph W. Gluck (1714-1787)
歌劇「アウリスのイフィゲニア」序曲
/ R. Wagner (1813-1883)
(12 ) “Iphigénie en Aulide” , opera - Overture
ベートーヴェン
Ludwig van Beethoven (1770-1827)
ピアノ協奏曲 第 2 番 変ロ長調 作品 19 Piano Concerto No.2 B-flat major op.19
(26 )
Ⅰ アレグロ・コン・ブリオ
Ⅱ アダージョ
Ⅲ ロンド:モルト・アレグロ
Ⅰ Allegro con brio
Ⅱ Adagio
Ⅲ Rondo : Molto allegro
休憩 Intermission
ベートーヴェン
Ludwig van Beethoven
交響曲 第 6 番 ヘ長調 作品 68「田園」 Symphony No.6 F major op.68
(40 )
“Pastorale”
Ⅰ 田舎に着いたときに、人々の心に生ま Ⅰ Angenehme, heitere Empfindungen,
れる心地よく朗らかな気持ち:
welche bei der Ankunft auf dem Lande im
アレグロ・マ・ノン・トロッポ
Menschen erwachen : Allegro ma non troppo
Ⅱ 小川のほとり:アンダンテ・モルト・モート Ⅱ Szene am Bach : Andante molto moto
Ⅲ 田舎の人々の楽しいつどい:アレグロ
Ⅲ Lustiges Zusammensein der Landleute :
Allegro
Ⅳ Donner, Sturm : Allegro
Ⅳ 雷と嵐:アレグロ
Ⅴ 牧歌 嵐のあとの神への感謝に満ちた、 Ⅴ Hirtengesang, Wohltätige, mit Dank an
die Gottheit verbundene Gefühle nach dem
寛大な気持ち:アレグレット
Sturm
Philharmony October 2013
Program
Soloist
Program
B
ピアノ
ロバート・レヴィン
Robert Levin
鍵盤楽器奏者として活躍するだけでな
高く、時代様式に基づく即興演奏を取り
く、音楽学者としても高名であり、モー
入れたモーツァルト演奏が注目されてい
ツァルトの《レクイエム》の補筆・新校
る。エリオット・ガーディナー&オルケ
訂、
《協奏交響曲》(K.297b)の復元を手
ストル・レヴォリュショネル・エ・ロマン
掛けるなど、とりわけモーツァルト研究
ティックとは、フォルテピアノによるベ
家・校訂者として知られる。1947 年、ニ
ートーヴェンのピアノ協奏曲全集の録音
ューヨーク市ブルックリン生まれ。ルイ
も残している。今回は、ロジャー・ノリ
ス・マーティン、シュテファン・ウォルペ、
ントンのサポートを得て、初共演となる
ナディア・ブーランジェらに学ぶ。ハー
NHK交響楽団と、モダン・ピアノでど
ヴァード大学卒業。現在、母校の教授を
んなベートーヴェンの《ピアノ協奏曲第
務めている。
2 番》の演奏を繰り広げるのか、本当に
チェンバロやモダン・ピアノも弾くが、
興味津々である。
特にフォルテピアノ奏者としての評価が
(山田治生)
Christoph W. Gluck
1714-1787
/ R. Wagner
1813-1883
歌劇「アウリスのイフィゲニア」序曲
1842 年 10 月、歌劇《リエンチ》
の大成功によってドレスデン宮廷歌
劇場の指揮者(宮廷楽長)の地位を
手に入れたリヒャルト・ワーグナー
は、続けざまに革新的な 2 つの歌劇
《さまよえるオランダ人》
《タンホイ
ザー》を世に問うたが、前作ほどの
大成功を収めることはできなかった。
当時のワーグナーが自身のオペラに
対する考え方を熟成させていく上で、
クリストフ・ウィリバルト・グルック
が与えた影響は大きい。ドイツの作
家、E. T. A. ホフマンの小説『騎士
グルック』でその存在を知ったワー
グナーは、グルックが唱えたオペラ
改革の思想(少なく抑えられた登場
人物や神話的題材を用いた作劇法)
などに共鳴する。
1846/1847 年シーズンのドレスデ
ン宮廷歌劇場で予定されたグルッ
ク《アウリスのイフィゲニア》上演
に備えて、ワーグナーは《ローエン
グリン》の作曲を一時中断して、こ
の作品に大きな改訂を施し、1847
作曲年代:原曲:1772 年頃
ワーグナーによる編曲版:1846 年 12 月∼ 1847
年2月
初演:原曲:1774 年 4 月 19 日、パリ、王立音楽
アカデミー(オペラ座)
ワーグナーによる編曲版:1847 年 2 月 24 日、ド
レスデン宮廷歌劇場
年 2 月にみずからの指揮で上演した。
ワーグナーが因習的と見做していた
最後のアキレウスとイフィゲニアの
結婚場面はカットされ、さらには原
作のエウリピデスの精神を
むかた
ちで新たな登場人物アルテミスが加
えられている(もっともワーグナー
自身はエウリピデスを決して高く評
価していたわけではなかったが)。
その後、革命騒ぎに荷担した罪を
問われて亡命生活を余儀なくされた
ワーグナーは、1854 年 3 月にチュ
ーリヒで〈序曲〉だけを演奏するた
め、そのままオペラ本編へと休みな
く続く原曲を改編し、序奏の部分を
もとにした演奏会用の終結部を書き
足した。新たにクラリネットと補強
の管楽器が加えられているものの、
先述の終結部の追加を除けば、第 1
ヴァイオリンで奏でられる旋律をフ
ルートで補うなど、原曲をできる限
り尊重しつつ、響きに荘重さを加え
ようという姿勢に終始している。
(広瀬大介)
楽器編成:フルート 2、オーボエ 2、クラリネ
ット 2、ファゴット 3、ホルン 4、トランペッ
ト 3、ティンパニ 1、弦楽
Philharmony October 2013
グルック(ワーグナー編)
Program
Ludwig van Beethoven
ベートーヴェン
1770-1827
ピアノ協奏曲 第 2 番 変ロ長調 作品 19
B
本作は、《第 2 番》という番号が
付されているが、ルートヴィヒ・フ
ァン・ベートーヴェンにとって事実
上、最初のピアノ協奏曲にあたる。
つまり、現在《第 1 番》と呼ばれて
いる作品 15 よりも前に成立したの
である。当時の創作や演奏の状況に
不確定な部分が多く、混乱が生じた
ようだ。
本作と《第 1 番》の作曲時期は、
重なり合っている(
《第 3 番》作品
37 の最初期のスケッチも、この時
期にあたる)。しかし、のちにベー
トーヴェン自身が出版社に「私の最
良の作品ではない」と告げているよ
うに、《第 1 番》と違って本作では
クラリネットやトランペット、ティ
ンパニが用いられないという楽器編
成の点でも、また、
《第 1 番》の転
調法のほうがより斬新であるという
調構成の点でも、両作は区別される。
一方で本作でも、例えば第 1 楽
章で(嬰ハ音=変ニ音の)異名同音
の読み替えを用いている点などには、
後年のベートーヴェンが得意とする
曲の展開法がすでにみられる。ま
作曲年代:1786 頃∼ 1798 年
初演(最終稿)
:1798 年
た、本作に 4 つもの稿が存在するの
は、若き作曲者が当ジャンルを実験
中であった証であろう。そのうち第
2 稿の終楽章は、現在は《ロンド》
(WoO6)と名づけられ、独立して
扱われている。
ところで、冒頭で「事実上、最初
の協奏曲」と述べたのは、ベート
ーヴェンが 10 代前半のボン時代に、
《変ホ長調協奏曲》
(WoO4)という
鍵盤楽器のための協奏曲を書いてい
るからだ。この協奏曲を仕上げた直
後に、ベートーヴェンは本作に着手
し、作曲を進める過程でボンからウ
ィーンに移住している。
第 1 楽章 アレグロ・コン・ブリオ 変
ロ長調 4/4 拍子。作曲者自身による
独奏は即興であり、1801 年の楽譜
出版時にようやく独奏パートが書き
上げられたほか、カデンツァの楽譜
も遺されている。
第 2 楽章 アダージョ 変ホ長調 3/4
拍子。
第 3 楽章 ロンド:モルト・アレグロ
変ロ長調 6/8 拍子。
(西田紘子)
楽器編成:フルート 1、オーボエ 2、ファゴッ
ト 2、ホルン 2、弦楽、ピアノ・ソロ
ベートーヴェン
1770-1827
交響曲 第 6 番 ヘ長調 作品 68「田園」
本作は、「性格交響曲」と呼ばれ
る交響曲の一ジャンルに属する。そ
もそもこのジャンルは、田園詩など
で古代から長い伝統をもつもので
あったが、18 世紀後半以降、交響
曲にもとり入れられた。大雑把には、
さまざまな(主には自然の風景にお
ける)キャラクターを音楽で表現し
ようとするものだが、そのやり方、
描写性の強さは多岐にわたる。
自然をこよなく愛したベートーヴ
ェンが本作を着想するにあたって
は、先駆となる作品が存在したよう
だ。当時の数ある性格交響曲のなか
でも、J. H. クネヒトが 1798 年に発
表した《自然の音楽的描写》である。
これが本作と同じ 5 楽章制をとるこ
と、嵐の場面を含むこと、終楽章が
創造主への感謝を内容としているこ
と、さらにはベートーヴェンがクネ
ヒトの理論書を所有していたことか
ら、
《第 6 番》がこの作品に刺激を
受けたことは、ほぼ確実とみてよい。
とはいえ、ご存じのようにベート
ーヴェンは誰よりも独創性を重んじ
た芸術家である。クネヒトの作品を
模範としつつ、これへの批判的な距
離、これを克服せんとする新機軸な
しに、当ジャンルの伝統の継承はあ
りえなかった。性格交響曲に対する
ベートーヴェンの考え方は、次の 2
点において、19 世紀はじめ以降に
台頭した「純粋器楽」の美学と関連
させて捉えることもできるだろう。
1 点目は、描写語法の問題である。
ベートーヴェンは、先達の作品につ
いて「どんな音画でも、器楽におい
てそれが行き過ぎると、台無しにな
る」危険性を指摘している。また、
ライバル意識もあっただろうが、尊
敬するハイドンの《天地創造》や
《四季》にさえ、この点では難色を
示したという。音による自然の描写
が、自然をやや大げさに音に移し替
えるだけの効果音にとどまってはい
けない、と考えたベートーヴェンは、
楽譜に「田園交響曲、あるいは田舎
での生活の思い出。音画というより
も感情の表出」と書き、描写よりも
感情の表出に力点を置いている。
2 点目は、それ以後の音楽史にと
っても重要な争点となる、標題性の
問題である。性格交響曲の各楽章に
はたいてい特定の標題が付される
が、これについてベートーヴェンは、
「聴き手が自分で状況をみいだせる
よう」な標題をよしとした。つまり
標題は、内容を規定するのではなく、
聴き手の想像力を刺激するきっかけ
として作用しなければならないのだ。
ベートーヴェン自身、標題に関し
て熟慮を重ねた跡がみられるが、ブ
Philharmony October 2013
Ludwig van Beethoven
Program
ライトコプフ・ウント・ヘルテル社が
楽譜を出版するさい、作曲者に確認
することなく標題の一部を変えてし
まった。しかし今回は、ベートーヴ
B
ェン自身の標題を再現したベーレン
ライター版で演奏される。
さて、本作は前作の《第 5 交響
曲》とセットと捉えられるが、ここ
で両作の類似点をいくつか挙げてお
こう。まずは楽器編成で、神や自然
といった概念を暗示するトロンボー
ンの使用がその例だ(ほかに彼の交
響曲でこの楽器が用いられたのは
原(プラトー)」状態と名づけたよ
うに、和声の変化が緩慢であるため
に、無時間的な趣さえ感じられる。
第 2 楽章「小川のほとり」アンダン
テ・モルト・モート 変ロ長調 12/8 拍
子。フルートには「ナイチンゲー
ル」
、オーボエには「うずら」、クラ
リネットには「カッコウ」と、ベー
トーヴェンは楽譜中で入念に指定し
ている。スケッチに「小川が広がる
ほどに、音もより深みを増してゆ
く」と書かれており、視覚的にも水
の「広がっていく」さまが、弦楽器
《第 9》のみ)
。また、後半の楽章群
間の音域の広がりに対応している。
̶̶《第 5 番》では第 3 楽章と終楽
第 3 楽章「田舎の人々の楽しいつど
章、本作では最後の 3 楽章̶̶をア
タッカで一体化させている点、拍子
や冒頭のモットー動機の提示法の点
でも共通性がある。
とはいえ、類似性をいくら並べて
も、両作の性質はきわめて対照的で
ある。本作を特徴づけている「田園
的なるもの」の表出には多様な手法
い」アレグロ ヘ長調 3/4 拍子。3 拍
子と 2 拍子の対照的な舞曲が交替す
る。
第 4 楽章「雷と嵐」アレグロ ヘ短調
4/4 拍子。チェロの 5 度上行とコン
トラバスの 4 度上行を重ねた激しい
音群や、不協和音を軸にした一連の
転調ののちに、主への感謝と賛美の
が用いられているが、以下に数点の
意を告げる長調がようやく到来する。
みを挙げておきたい。
第 5 楽章「牧歌 嵐のあとの神への
第 1 楽章「田舎に着いたときに、
感謝に満ちた、寛大な気持ち」アレ
な気持ち」アレグロ・マ・ノン・トロ
クラリネットやホルンが奏でる主題
人々の心に生まれる心地よく朗らか
ッポ ヘ長調 2/4 拍子。不協和音が
ほとんど現れず、ベートーヴェン研
究者 L. ロックウッドが「和声的高
グレット ヘ長調 6/8 拍子。冒頭で
は、アルペンホルンの響きを模した
ものともいわれる。
(西田紘子)
作曲年代:1807 年暮れ∼ 1808 年初秋
ランペット 2、トロンボーン 2、ティンパニ 1、
初演:1808 年 12 月 22 日、アン・デア・ウィーン 弦楽
劇場にて、作曲者自身の指揮
(指揮者の意向によりフルート、オーボエ、
楽器編成:フルート 2、ピッコロ 1、オーボエ 2、 クラリネット、ファゴットは倍管とし、各楽
クラリネット 2、ファゴット 2、ホルン 2、ト 器 4 人ずつで演奏)
1765th Subscription Concert / NHK Hall
25th(Fri.)Oct, 7:00pm
26th(Sat.)Oct, 3:00pm
第 1765 回 NHKホール
10/25[金]開演 7:00pm
10/26[土]開演 3:00pm
[指揮]
ロジャー・ノリントン
[conductor] Roger Norrington
[ピアノ]
[piano]
ラルス・フォークト
Lars Vogt
[guest concertmaster]
[ゲスト・コンサートマスター]
ヴェスコ・エシュケナージ
Vesko Eschkenazy
◆
ベートーヴェン
Ludwig van Beethoven (1770-1827)
序曲「レオノーレ」第 3 番 作品 72
(14 ) “Leonore”, overture No.3 op.72
ベートーヴェン
Ludwig van Beethoven
ピアノ協奏曲 第 3 番 ハ短調 作品 37 Piano Concerto No.3 c minor op.37
(33 )
Ⅰ アレグロ・コン・ブリオ
Ⅱ ラルゴ
Ⅲ ロンド:アレグロ
Ⅰ Allegro con brio
Ⅱ Largo
Ⅲ Rondo : Allegro
休憩 Intermission
ベートーヴェン
Ludwig van Beethoven
交響曲 第 5 番 ハ短調 作品 67「運命」 Symphony No.5 c minor op.67
(34')
Ⅰ
Ⅱ
Ⅲ
Ⅳ
アレグロ・コン・ブリオ
アンダンテ・コン・モート
アレグロ
アレグロ
◆ ヴェスコ・エシュケナージ p.16
Ⅰ
Ⅱ
Ⅲ
Ⅳ
下参照
Allegro con brio
Andante con moto
Allegro
Allegro
Philharmony October 2013
C
Program
Soloist
Program
C
©Felix Broede
ピアノ
ラルス・フォークト
Lars Vogt
1970 年、 ド イ ツ の デ ュ ー レ ン 生 ま
公演(ホルスト・シュタイン指揮でグリ
れ。カール・ハインツ・ケマリングに師
ーグの《ピアノ協奏曲》)以来、共演を
事。1990 年、リーズ国際ピアノ・コンク
重ねる。2003 年の N 響ヨーロッパ公演
ールで第 2 位入賞。そのとき共演したサ
では急 遽、体調不良のマルタ・アルゲリ
イモン・ラトルに高く評価され、1992 年
ッチの代役を務めた。2006 年にはヘル
にシューマンとグリーグの《ピアノ協奏
ベルト・ブロムシュテット指揮でモーツ
曲》
、1995 年にはベートーヴェンの《ピ
ァルトの《ピアノ協奏曲第 23 番》を演
アノ協奏曲第 1 番》《第 2 番》をラトル
奏。品格のある美しい音色により、モー
&バーミンガム市交響楽団と録音してい
ツァルト、ベートーヴェンなどの古典派
る。2003/2004 年シーズンにはベルリン・
音楽の演奏に定評がある。今回のロジャ
フィルハーモニー管弦楽団のピアニス
ー・ノリントンとのコラボレーションも
ト・イン・レジデンスを務めた。
期待せずにはいられない。
NHK交響楽団とは、1998 年の定期
(山田治生)
ベートーヴェン
1770-1827
序曲「レオノーレ」第 3 番 作品 72
君主の暴政による民衆の苦境、妻
の序曲が、本作である。
の献身に救われる夫、最終的には勝
ただしこの改訂稿も、娯楽的な要
利を収める正義̶̶ルートヴィヒ・
素に乏しいストレートな啓蒙性のた
ファン・ベートーヴェンの唯一のオ
めか、満足のいく成功を得られず、
ペラ《フィデリオ》がもつこのよう
その後、プラハでの上演を企図して
な内容は、当時の市民にとってはけ
さらなる改訂が行われた。さらにそ
っして虚構のお話ではなく、現況に
の後しばらく経った 1814 年に、ヒ
対する自分たちの願いをまさに具現
ットの好機を捉えた関係者たちが発
したものであった。
表した再々改訂版が、いま我々が知
こうした体制批判的なオペラは
るオペラ《フィデリオ》である。
「救出オペラ」とも呼ばれ、救出場
本序曲の構成は、初稿と比べて規
面のドラマ性ゆえに人気を誇った。
模を拡大した、序奏つきのソナタ形
とりわけフランスの作家ブイイの台
式による。序奏では、夫フロレスタ
本に基づくケルビーニの救出オペラ
ンが地下ろうに降りていく様子を音
がウィーンを席巻していたことから、
同じブイイによる『レオノール、あ
るいは夫婦の愛』が作曲者初のオペ
ラとして好ましい原作となったよう
だ。
とはいえ、残念ながら 1805 年に
行われた初演は、折しもフランス軍
がウィーンに駐留した時期と重なっ
て望ましい聴衆に恵まれず、酷評を
こうむった。そのため、作曲者らは
改訂・縮小を余儀なくされ、第 2 稿
が 1806 年に発表される。このとき
作曲年代:1806 年 1 ∼ 3 月
初演:1806 年 3 月 29 日、アン・デア・ウィーン劇
場にて、イグナーツ・ザイフリート指揮
画化した半音階を筆頭に、虐げられ
た市民を定まらぬ調によって描く。
そのぶん、ハ長調が確立する主部の
晴れやかな効果が際立つ。夫の救出
を告げるトランペットのファンファ
ーレが 2 回鳴り響き、フルートのソ
ロとともに始まる再現部で希望の感
触が確かなものになると、コーダで
は弦が少しずつ投入されて厚みのあ
る大団円を形作る̶̶こうして序曲
は、筋書きを凝縮した器楽ダイジェ
スト版となっている。 (西田紘子)
楽器編成:フルート 2、オーボエ 2、クラリネ
ット 2、ファゴット 2、ホルン 4、トランペッ
ト 2、トロンボーン 3、ティンパニ 1、弦楽、
バンダ:トランペット 1
Philharmony October 2013
Ludwig van Beethoven
Program
Ludwig van Beethoven
ベートーヴェン
1770-1827
ピアノ協奏曲 第 3 番 ハ短調 作品 37
C
一般に本作は、作曲者が「英雄的
当初は 1800 年 4 月 2 日の初演を目
様式」を築いた記念碑的な作品とし
指していたが、冒頭楽章しか完成し
て位置づけられているが、その要因
ておらず、代わりにハ長調の協奏曲
のひとつに「ハ短調」という調選択
(
《第 1 番》)が演奏されている。よ
が挙げられるだろう。
うやく 3 年後に行われた初演ではベ
18 世紀後半以降の作曲家にとっ
ートーヴェン自身がピアノ独奏を務
て、ハ短調には独特の意味があった。
めたが、即興であったという。独奏
ピ ア ニ ス ト・音 楽 学 者 の チ ャ ー ル
パートの楽譜が完成したのは、翌年
ズ・ローゼンは、ハ短調作品に、主
7 月の再演で、作曲者の弟子フェル
題提示における「ドラマとパトス
ディナント・リースが独奏を務めた
(情念)
」の両立という特徴をみいだ
している。この特徴は、例えばハイ
ドンの《交響曲第 78 番》やモーツ
ァルトの《ピアノ協奏曲第 24 番》
を通して、ベートーヴェンにも受け
継がれた。具体的には、ピアノ独奏
が最初に提示する主題の、ユニゾン
のオクターヴを ff で、直後のフレ
ーズを # で対比するという手法だ。
さて、本作の成立史はやや長い。
スケッチは 1796 年にまで
り、そ
ときのことだ。その楽譜の終楽章に、
従来のピアノでは出せない 4 点ハ音
(c4)が現れるのは、その頃、エラ
ール社が、音域の拡張された最新型
ピアノをベートーヴェンに寄贈して
いたからである。
第 1 楽章 アレグロ・コン・ブリオ ハ
短調 4/4 拍子。ソナタ形式。
第 2 楽章 ラルゴ ホ長調 3/8 拍子。3
部形式。このホ長調は、主調である
ハ短調と共通音をまったくもたない。
こには「《ハ短調協奏曲》のカデン
この点に、中間楽章において別世界
ツァにティンパニを」という書き込
を拓こうとする意図がうかがえる。
みが見つかる。この事実から、ベー
第 3 楽章 ロンド:アレグロ ハ短調
トーヴェンが着想時は軍楽隊的な性
格も念頭に置いていたことが分かる。
作曲年代:1796 ∼ 1803 年、1804 年 7 月独奏パ
ートを完成
初演:1803 年 4 月 5 日、アン・デア・ウィーン劇
場にて、作曲者自身による独奏
2/4 拍子。ロンド形式。
(西田紘子)
楽器編成:フルート 2、オーボエ 2、クラリネ
ット 2、ファゴット 2、ホルン 2、トランペッ
ト 2、ティンパニ 1、弦楽、ピアノ・ソロ
ベートーヴェン
1770-1827
交響曲 第 5 番 ハ短調 作品 67「運命」
本作は、作曲上の影響力は言うま
でもないが、さらに思想的に見ても、
「ベートーヴェン」と「ロマン主義」
が初めて公的に結びついた作品とい
う点で、19 世紀のドイツ音楽美学
の幕開けを告げている。
ベートーヴェンにロマン主義の
概念を与えたのは、作家・批評家の
E. T. A. ホフマンである。ホフマン
は、1809 年 7 月に本作のスコアを
手に入れ、丹念に読解した。そして
翌 1810 年、ライプツィヒの『一般
音楽新聞』に、本作の特徴を紹介す
るのみならず、音楽の性質をも規定
する批評を発表する。
すなわち「音楽とは、全ての芸術
のなかでもっともロマン的」である
とし、なかでも声楽ではなく器楽に
この性質をあてはめた。なぜなら
「器楽は言語、感覚世界から切り離
され、感覚の外的世界と何の関係も
結んでいない」からである。
言語性を超え出た地位を音楽に授
けるこのような美学思想は、ホフマ
ンが初めて提唱したわけではなく、
19 世紀に入る以前から、ノヴァー
リスやシュレーゲル兄弟ら初期ロマ
ン主義者たちによって主張されてい
た。とはいえ、ベートーヴェンをロ
マン主義的音楽の代表者に仕立て上
げたのが、本作をいちども実際に聴
いたことのないだろうホフマンであ
ったというのは、いささか奇異に思
われもする。だが、ベートーヴェン
の音楽にそうした性質が備わってい
るという考えが、当時すでに広く認
識されていたようだ。
つまり、ホフマンの言葉を借りれ
ば、
「ベートーヴェンの器楽は、巨
大なもの、測りがたいものの世界を
我々に開き」、「戦慄、恐怖、驚愕、
苦悩の梃子を動かし、ロマン主義の
本質たる無限の憧憬を呼び覚ます」。
こうした特徴をホフマンは、作品全
体にわたる冒頭動機の反復といった
連関性から生まれてくると結論づけ
る。この連関性をいかに̶̶固定楽
想などの循環する主題や、作品全体
を枠づける標題などを用いて̶̶創
出するかが、ベートーヴェン以降の
19 世紀の作曲家にとって、絶対音
楽派であろうと標題音楽派であろう
と、等しく最大の課題となった。
さて、ベートーヴェンは、1796
年から《ピアノ協奏曲第 3 番》の
作曲に着手しているが、交響曲ジャ
ンルにおいてもハ短調という特別な
調をとり上げようとする発想自体
は、すでに 1780 年代にあったよう
だ。ただ、それが具体的になったの
は 1804 年前後で、パリへの旅行を
計画したときに新しい交響曲を披
Philharmony October 2013
Ludwig van Beethoven
Program
露しようともくろんでのことだった。
しかし、この旅の計画が中止となっ
たために、作曲も中断する。興味深
いことに、この時点では、終楽章は
C
̶̶《第 3 協奏曲》と同じく̶̶ハ
短調のままで構想され、拍子は 6/8
拍子であった。フィナーレが長調へ
と変わったのは、集中的な作曲が始
まる 1807 年以降のことである。こ
の長調での終結は、
「闇から光へ」
という理想主義的な物語の母型とな
るが、短調作品における長調での終
結は、ベートーヴェン自身の作品の
なかでは̶̶《第 9》における長調
フィナーレのインパクトが強いのだ
が̶̶じつは珍しいことであった。
上記のように、初演の 2 年後には
ロマン主義の旗手に祭り上げられた
本作であるが、初演はさんざんなも
のであった。初演プログラムは、2
部制のオール・ベートーヴェン・プロ
グラム。しかもすべて新作であり、
各部の最初に《第 6 交響曲》と本
作を、各部の最後には《協奏曲第 4
番》と《合唱幻想曲》という大作を
そろえ、中間には教会作品やアリア
が挟まれた。この演奏会は、作曲家
ライヒャルトが「6 時半から 10 時
半まで厳しい寒さに耐え、座り続け
作曲年代:1807 年夏から 1808 年初めにかけて本
格的に作曲
初演:1808 年 12 月 22 日、アン・デア・ウィーン
劇場にて、作曲者自身の指揮
た」と回想したように、あまりの長
さ、演奏の不首尾、極寒のウィーン
という諸要因によって、成功からは
程遠いものだったようだ。
なお、ベートーヴェンは、冒頭
の 4 音動機について「運命が扉を
たたく」さまであると語ったという。
「運命」という標題はこの逸話に由
来するが、今ではこれは秘書シンド
ラーによる作り話とみなされている。
第 1 楽章 アレグロ・コン・ブリオ ハ
短調 2/4 拍子。ソナタ形式。モット
ー動機だけでは、変ホ長調なのかハ
短調なのかが判別できない。この曖
昧さこそ、それ以降の部分におい
て「展開しがいのある」理想的な動
機の条件である。なおチェルニーは、
モットー動機はキアオジという鳥の
鳴き声に由来するとしている。
第 2 楽章 アンダンテ・コン・モート
変イ長調 3/8 拍子。変奏曲形式。
第 3 楽章 アレグロ ハ短調 3/4 拍子。
スケルツォ。アタッカで終楽章へ。
第 4 楽章 アレグロ ハ長調 4/4 拍子。
ソナタ形式。3 管トロンボーンとピ
ッコロ(これらの楽器は《第 6 交響
曲》でも用いられる)
、コントラフ
ァゴットが導入され、一気に音域が
拡大する。 (西田紘子)
楽器編成:フルート 2、ピッコロ 1、オーボエ 2、
クラリネット 2、ファゴット 2、コントラファ
ゴット 1、ホルン 2、トランペット 2、トロン
ボーン 3、ティンパニ 1、弦楽
(指揮者の意向によりフルート、オーボエ、
クラリネット、ファゴットは倍管とし、各楽
器 4 人ずつで演奏)
「生きる力」
《ピアノ協奏曲第 3 番》に託されたメッセージ
文
「宿命の調性」というものがあ
るそうだ。モーツァルトはト短調。
「疾走する悲しみ」という言葉が思
い出される。バッハならばロ短調。
ベートーヴェンとまったく同じ時期
に同じ土地ウィーンで活躍していた
シューベルトは、変ト長調にこだわ
りがあるように感じられる。ピア
ノ・リサイタルのアンコール・ピース
としてもよく弾かれる、淡い優しさ
を秘めた《即興曲第 3 番》
(D.899)
がその代表だ。
ベートーヴェンを象徴する調性
は、言うまでもなくハ短調。その筆
頭は《交響曲第 5 番「運命」
》であ
る。
《ピアノ・ソナタ「悲愴」
》もそ
うだし、
《32 の変奏曲》
、最後の《ピ
アノ・ソナタ第 32 番》
(作品 111)も
ハ短調だ。そして忘れてはならない
のが《ピアノ協奏曲第 3 番》
。この
たび演奏される作品である。
こ の 作 品 が 創 作 さ れ た 1800 ∼
1803 年、1770 年生まれのベートー
ヴェンは 30 代となり、
「足元の地固
めは完了し、これから大きく飛躍し
よう」という時期を迎えていた。し
かし対外的には順風満帆に見えてい
た人生と裏腹に、ベートーヴェンは
今井 顕
人には言えない苦悩の数々に翻弄さ
れていたのである。
その悲痛な心情は 1802 年 10 月に
したためられた「ハイリゲンシュタ
ットの遺書」から読み取れる。
「遺
書」と呼ばれているが、生前は誰も
(文書の受取人として指定されてい
る弟たちさえも)その存在を知らず、
ベートーヴェンの死後に初めて発見
されたものだ。文中には今までの人
生への訣別とともに「これからは自
分に課された使命を果たすために生
きていくのだ」という再生への決意
も並記されており、ベートーヴェン
が何のためにこれを書いたかに関し
ては、さまざまな見解が存在する。
ベートーヴェンが何よりも恐れて
いたのが聴力の不調であることは、
間違いない。彼は演奏家としての成
功を夢みてボンからウィーンに移住
してきたが、「もう少しで輝かしい
栄光をつかみ取れる」と実感してい
た矢先の聴力低下である。世間に悟
られたら最後、音楽家としてのキャ
リアが水の泡となりかねない悲痛な
現実を目前に、どれほどつらい思い
をしたことだろう。現代医療では考
えられないほど稚拙な治療はすべて
Philharmony October 2013
シリーズ 名曲の深層を探る 第 11 回
名
曲
の
深
層
を
探
る
ハイリゲンシュタットの遺書、
冒頭部
受取人として 想定 されていた 弟
たちの名前が最初の行に書かれ
ているが、 カールのみの名前が
書 か れ、 ニコラウス・ヨ ハ ンの
部分 が空欄になっている。これ
に関してもさまざまな 憶測 が 飛
び 交っているが、理由は不明 で
ある(原文:für meine Brüder
Carl und Beethoven)
無駄に終わり、ベートーヴェンは自
は彼女に無償でピアノのレッスンを
分の聴覚が「今後悪化することはあ
していたらしい。しかし男として結
っても元にはもどらない」という現
婚も意識したほどの恋の破局は、誇
実を受け入れざるを得ない岐路に立
り高きベートーヴェンのプライドを
たされていたのである
いたく傷つける形で訪れた。ベート
さらには失恋もベートーヴェンを
ーヴェンの禁断の恋心(身分の違い
落ち込ませたに違いない。ここに至
から、結婚の実現はあり得なかっ
る時期、ベートーヴェンはジュリエ
た)を知ったグイチャルディ家より、
ッタ・グイチャルディという女性に
「レッスン代」という名目で手切れ
恋をしていた。今風の表現を借りれ
金に等しい多額の現金がベートーヴ
ば「萌え∼タイプ」の、利発で明る
ェンの外出中に届けられたのだ。
いティーン世代だ。ベートーヴェン
故郷より呼びよせ、世話をしてい
ラブルも、ベートーヴェンを悩ませ
ていたに違いない。しかし、ベート
ーヴェンの辞書に「挫折」という言
葉はなかった。難聴だけにとどまら
ない逆境の中、ベートーヴェンは友
人たちに宛てた手紙に「新しい道
(neuer Weg)
」という表現を繰り返
し書いている。
《ピアノ協奏曲第 3
番》には、まさにこの「新しい道」
が示されているのではないだろうか。
それは「苦悩までをも音楽で表現
する」ということと思われる。ベー
全盛だった。そのチェンバロをフォ
ルテピアノという「指先のタッチで
音量をコントロールできる楽器」が
駆逐しはじめてから、まだそれほど
の年月はたっていない。
ではまだ
まだ多くのチェンバロが、成熟した、
華やかな現役楽器として活躍してい
た。もはやチェンバロからフォルテ
ピアノへの移行を堰き止めるすべは
なかったにせよ、この新楽器はまだ
まだ発展途上だった。当時の音楽家
たちが求めたのは「もっと広い音域、
もっと大きな音量、そしてもっと輝
トーヴェン以前の音楽の巨匠たち
かしい音色」の 3 つである。ベート
─ウィーン古典派であればモーツ
ーヴェンも新モデルの出現を心待ち
ァルトやハイドン─は別として、
にし、少しでも広い音域の楽器を入
当時「その他大勢の凡才たち」が創
手すれば即座にそれを使い切った作
作・演奏していたのは、毒にも薬に
品を創作した。
もならない「楽しく明るい音楽」だ
ところで、ベートーヴェンが《ピ
った。たとえばターフェルムジーク
アノ協奏曲第 3 番》の創作に使用し
というジャンルがあるが、これは
ていた楽器は、まだ古いタイプで音
BGM 以外の何ものでもなく、食事
域も狭いフォルテピアノだったこと
と会話の邪魔にならない、当たり障
が楽譜から見て取れる。ペダルに関
りのない音楽だった。当時一般的に
する指示をどう書いているかによっ
受け入れられていた音楽には「長調
てわかるのだ。
であること」「たとえ短調で開始さ
具体的には、モーツァルトが使用
れても長調で終わること」という不
していたのと同じ規格で、足のつま
文律があったのだ。
先で操作するペダルがまだ装備され
ベートーヴェンの革新性は「何を
ていない楽器だった。だからといっ
表現すべきか」だけではなかった。
て現代ピアノのダンパーペダル(右
自身が愛用し、演奏家として、また
ペダル)を踏んだ時のような、音を
創作の際にも、もはや必要不可欠と
自由に響かせる効果が作れなかった
なっていたピアノという楽器自体の
わけではなく、それは楽器本体の下
発展にも、つねに大きな期待を抱い
部に装着されたレバーを演奏者の膝
ていたのだ。
で押し上げることによって実行でき
モーツァルト以前はチェンバロが
た。
Philharmony October 2013
た弟たちが引きおこすさまざまなト
名
曲
の
深
層
を
探
る
《ピアノ協奏曲第 3 番》の初版譜(第 2 楽章 冒頭)
ベートーヴェンがその後使うよう
されている、最高品質の楽器だ。新
になったペダル記号 ped. の代わりに
しい可能性を即座に追求せずにいら
ノ(senza sordino)
」と「コン・ソルデ
譜に「作曲当時の旧式の楽器では不
ア語だった。前者は「ダンパーなし
ったさらに高音域を利用した演奏パ
書いたのは「センツァ・ソルディー
れないベートーヴェンは、初版の楽
ィーノ(con sordino)」というイタリ
可能だったが、今や使えるようにな
で」と訳し、音楽的な効果は「ペダ
ターン」を、当初のバージョンに並
ルを踏んで」に等しい。後者は「ダ
ンパーを使って」だからその逆であ
る。他楽器のソルディーノは「弱音
器」を意味するが、ベートーヴェン
は初期のピアノ作品の中、
「音を抑
制(抑止)するもの=ダンパー」と
いう意味合いでこの単語を使用して
いる。
こうして完成された作品が出版さ
れることになった 1804 年当時、ベ
ートーヴェンはさらに広い音域を誇
るエラール社(パリ)のピアノを所
有していた。もちろんペダルも装備
行して印刷させている。
ベートーヴェンは常に時代の最先
端を行く、どんな局面においても可
能性の限界まで迫らずにはいられな
い男だった。近未来を先取りしよう
と、てぐすねひいて待っていたに違
いない。一度は死の淵をのぞきなが
らも不死鳥のごとく蘇ったベートー
ヴェンが新しい道を邁進する一里塚
のひとつとして、この《ピアノ協奏
曲第 3 番》がある。
(いまい・あきら ピアニスト、
国立音楽大学大学院教授)
11 月の定期公演は、3 年ぶりの共
メッツなら、低音を響かせた心に迫
演となるイタリアの巨匠ネルロ・サ
る歌唱で聴かせてくれるだろう。シ
ンティと、ロシアの新鋭トゥガン・
モンと再会の二重唱を歌う娘のマリ
ソヒエフが登場する。サンティは、
ア/アメーリア役は、N 響と数々の
ヴェルディ《シモン・ボッカネグラ》
共演で名演を聴かせてきたアドリア
(演奏会形式)を指揮、新世代とし
ーナ・マルフィージ。華麗で力強い
て活躍の目覚ましいソヒエフは、2
歌唱に加え、弱音の美しさにも定評
種類のロシア・プログラムで N 響の
がある。対立する貴族派のフィエス
定期公演にデビューする。
コ役は、グレゴル・ルジツキ。シモ
ヴェルディ生誕 200 年に相応しい
豪華絢爛たるプログラム
2007 年の《ボエーム》
、2010 年の
《アイーダ》に続いて、A プロではサ
ンティがヴェルディ生誕 200 年を記
念して《シモン・ボッカネグラ》を
取り上げる。14 世紀に実在したジェ
ノヴァの統領を主人公にしたこのオ
ン親子を陰謀に巻き込んでいくパオ
ロ役は、イタリアで活躍する日本の
吉原輝。彼らをはじめ、サンティの
信頼の厚い歌手たちが
い、ヴェル
ディ・イヤーを締め括るに相 応しい
公演となるだろう。
新世代の指揮者ソヒエフによる
ロシア・プログラム
ペラは、ヴェルディらしい美しい旋
近年、30 代の有望な指揮者の台頭
律と、丹念に書き込まれたドラマで
が著しい。1977 年生まれのトゥガ
心理の奥深さを描き出した傑作。欧
ン・ソヒエフは、2005 年からフラン
米ではレパートリーとして定着して
スのトゥールーズ・キャピトル国立
いるが、日本では他のヴェルディ作
管弦楽団で首席指揮者を務め、2008
品に比べるとなぜか上演の機会が少
年に音楽監督に就任。すでに同団を
ない。それゆえにイタリア・オペラ
率いて来日公演を 2 回行い、2012 年
を知り尽くし、歌心を大切にするサ
にベルリン・ドイツ交響楽団の音楽
ンティの指揮による演奏は、貴重な
監督に就任するなど、若手指揮者の
機会となるだろう。
なかでもそのキャリアは群を抜く。
元は海賊で、平民派の支持を得て
B プロでは、得意のチャイコフス
ジェノヴァ統領となったシモン役は、
キー《交響曲第 5 番》を披露する。
パオロ・ルメッツ。シモンの波瀾万
これまで N 響が多くの指揮者と共演
丈な人生、父と娘のドラマ、フィエ
してきた名曲に、どのようにアプロ
スコとの確執など、表現力抜群のル
ーチしていくか注目したい。
Philharmony October 2013
*11 月定期公演の聴きどころ*
A
ショスタコーヴィチ《ヴァイオリ
Program
ン協奏曲第 2 番》では、ソリストに
諏訪内晶子を迎える。これまでもソ
ヒエフと共演を重ねている諏訪内は、
ここ数年、音楽に円熟味が増してき
た。N 響とも相性が良い彼女に名演
の期待が高まる。プログラム前半の
リャードフ《交響詩「魔の湖」
》は、
ロシアの民俗的な説話に題材を得た
作品。幻想的で穏やかな音楽で、師
匠であるリムスキー・コルサコフゆ
ずりのオーケストレーションの見事
勝した 1990 年のチャイコフスキー国
際コンクールのピアノ部門の覇者で
ある。抜群のテクニックと豊かな音
楽性を備えた存在感のあるピアニス
トで、N 響とは今回が初共演となる。
ラフマニノフ《ピアノ協奏曲第 2
番》では、圧倒的な迫力と強
な打
鍵とともに、音色の美しさや繊細な
ピアニズムも際立つことだろう。
そしてロシアの大地が目の前に広
がるボロディン《交響詩「中央アジ
アの草原で」
》
、プロコフィエフ《交
さも堪能できるだろう。
響曲第 5 番》は、作品番号が 100 と
ベレゾフスキーとの初共演による
豊かなラフマニノフの音楽にも期待
意識に根差した豊かな楽想と古典的
いう記念碑的意味をもつ、民族的な
な構成の大作で、ソヒエフが繰り広
C プロのソリストには、ボリス・ベ
げる雄大な音楽に大いに期待したい。
レゾフスキーを迎える。諏訪内が優
(柴辻純子)
*11 月の定期公演*
◉ 11/8(金)6:00pm*、11/10(日)3:00pm (Aプロ)NHKホール
指揮:ネルロ・サンティ
シモン:P. ルメッツ マリア/アメーリア:A. マルフィージ フィエスコ:G. ルジツキ ガブリエレ:S. パーク パオロ:吉原 輝 ピエトロ:F. ルーフィ 射手隊長:松村英行 侍女:中島郁子 合唱:二期会合唱団
∼ヴェルディ生誕 200 年∼
ヴェルディ/歌劇「シモン・ボッカネグラ」(演奏会形式・字幕つき)
* 1 日目の日時が通常とは異なりますので、ご了承ください。
◉ 11/20(水)7:00pm、11/21(木)7:00pm (Bプロ)サントリーホール
指揮:トゥガン・ソヒエフ ヴァイオリン:諏訪内晶子
リャードフ/交響詩「魔の湖」作品 62
ショスタコーヴィチ/ヴァイオリン協奏曲 第 2 番 嬰ハ短調 作品 129
チャイコフスキー/交響曲 第 5 番 ホ短調 作品 64
◉ 11/15(金)7:00pm、11/16(土)3:00pm (Cプロ)NHKホール
指揮:トゥガン・ソヒエフ ピアノ:ボリス・ベレゾフスキー
ボロディン/交響詩「中央アジアの草原で」
ラフマニノフ/ピアノ協奏曲 第 2 番 ハ短調 作品 18
プロコフィエフ/交響曲 第 5 番 変ロ長調 作品 100