患者の精神的な成熟を促すことが、治療者の最終的な目標

No.48 April 2015
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患者の精神的な成熟を促すことが、
治療者の最終的な目標
順天堂大学
名誉教授 井上令一 先生
いまや、精神科治療の主流は薬物療法になっているが、心理療法に重きを置く精神科医もい
る。順天堂大学名誉教授の井上令一先生もその一人だ。井上先生は、研修医時代に出会った井
村恒郎先生に傾倒し、その心理療法をベースにした治療を実践している。
「患者の精神の成熟
を促すことが、治療者の最終的な目標」だと言う井上先生。その考えは井村先生から受け継い
だものだが、井上先生の心理療法では、教育的な指導も行われる。それは、どうやら昨今の人
の精神の成熟度と関係がありそうだ。では、精神の成熟とはどういうことなのか。井上先生の
話を伺おう。
■井村先生の「心理療法」はごく自然
られていて、日大から順天堂の講師として着任してき
た牧原浩先生がおられるんですけれども、彼は井村先
――まず、井上先生が井村先生と出会われた経緯から
生の指導を受け、その後日本の家族療法の第一人者に
お話いただけますでしょうか。
なっていきます。その牧原先生も、井村先生に傾倒し
井上 私の恩師は、精神分析の黎明期に活躍された懸
ていたんです。
田克躬(かけた かつみ)先生なんですけれども、そ
――その井村先生の心理療法というのは、どのような
の懸田先生が日本大学医学部精神科教授をなさってい
ものなんでしょう。
た井村恒郎(いむら つねろう)先生と懇意にされて
井上 とにかく、井村先生は精神療法と言わず、あえ
いました。そんなことから、井村先生が順天堂大学の
て心理療法という言葉を使われた方ですが、精神病理
教室にもときどき来られて、紹介されたというのが最
学的な難しい言葉を使わずに、すごく平たい言葉を使
初です。
って治療を進めていくんですね。それがごく自然だと
井村先生は、京都大学の哲学科を出られてから、東
いうこと、そこに特徴があります。
大の医学部に入り直されたという異色の経歴をお持ち
たとえば、精神分析では、自由連想法という技法を
で、お話にも含蓄があるんですよ。ぼくなんか若造で
使いますね。患者さんをリラックスできるような状態
したから、懇意にさせていただいたということではな
にして、頭に浮かぶことをそのまま言葉にして出しな
いんですけれども、神田の古本屋で井村先生の書かれ
さい、と。治療者は、患者さんが話した言葉を記録し
た『心理療法』という本を見つけて読んでみたら、こ
ていって解釈し、抑圧されているものを拾い上げて、
れがとても素晴らしい内容でした。そんなわけで、そ
「こういうことじゃないですか」と直面化させる……。
の後も井村先生の本を読むようになり、いろいろと影
でも、井村先生の心理療法は、そういうことをしま
響を受けたというわけなんです。
せん。精神分析と対極にあるのが、森田療法ですけれ
井村先生の心理療法は、もしかしたら知らない人が
ども、森田療法とも違います。症状を理解し、支持す
多いかもしれません。ただ、井村先生は家族療法もや
るのです。
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正常という言葉がありますね。正常というのは、統
気がなければ、大多数の人は自然に生理的成熟に達し
計学的な言葉で、大抵の人がやっていることが正常で、
ますよね。
そこからちょっとずれているのが異常ということにな
でも、生理的に成熟していても精神的に成熟してい
ります。
ることにはなりません。本当の意味での精神的成熟に
本質的には誰もが納得できるような、誰でも同じよ
達する人は、それほど多くはないでしょう。一定の年
うに感じているというのが正常で、患者さんと話をし
齢になったら自然と精神的にも成熟するということで
ていて、正常な反応は、了解できます。でも、異常な
はなく、育児や教育方法、あるいは周囲の社会環境に
反応は、了解できることとできないことがあります。
よって、その人の精神の成熟度には差が出てきます。
冬になると目覚まし時計のベルが鳴るみたいにうつ
そして、精神が十分に成熟していないと、現実にう
状態になる方がいます。それは、一般的には了解でき
まく適応できない、ということが起こりますね。
ないことですね。一方、親族が亡くなってうつ状態に
実際、職場内で葛藤が起きることは、いろいろある
なる方がいます。こちらは了解できますね。
と思うんです。そのとき、その環境なら誰でも葛藤
ですから、了解可能かどうかということが、病気か
が起きるだろうということであれば、それは環境要
どうかということになります。了解できれば病気では
因(milieu factor)が大きいということになりますが、
ありませんし、了解できなければたとえば「内因性の
どうしてそんなことでくよくよ悩んだり落ち込んだり
うつ病」だと説明するんです。
するのか、ということになれば、個人要因(personal
これは、ヤスパースのいう了解と説明で、井村先生
factor)が大きいということになります。
の心理療法は、こうしたことを前提として、面接を重
個人要因が大きいということであれば、本人が自分
ねながら、まず正常なのか異常なのか、そして異常な
のパーソナルな弱点を洞察し、成熟を促して現実に適
らそれは病的なのか、それとも事情があってこうなっ
応できるように援助していく……それが心理療法にな
ているのかということを支持・洞察に向けて明らかに
ります。ただ、実際の面接でぼくは「未熟」とか「成
していく、というやり方です。
熟」という言葉は使わないですけれどもね。
(笑)
■精神的に未熟な人が増えている
でも、最近は成熟していない人が増えてきていると
いう印象はありますよ。
――「精神の成熟」というのは井村先生の言葉ですね。
現代社会は成果主義になってきていますし、ブラッ
井上 そうです。私がたまたま看護学校の講義を担当
ク企業なんていう言葉がマスコミで使われるようにな
していたとき、井村先生が書かれた看護師向けの教科
って、環境的な要因も少なからずあると思います。昔
書『高等看護学講座』(医学書院 1964 年)を使いま
なら定年までずっと働けたけれども、いまは不確定で
した。その第3章のタイトルは「精神の成熟」で、そ
すからね。そうしたストレスは小さくないでしょう。
の冒頭部分にはこう書かれています。
でもその一方で、やっぱりこらえ性のない、自分より
「精神の健康を維持し増進することは、ただ精神疾
も周りが悪いんだというような他罰的な考え方をす
患を予防するというだけでなく、だれもが成熟した人
る、精神的に未熟な人が増えていることは間違いない
格をもった人間になるように教育し指導することであ
でしょうね。
る」
は、大体 20 代には完成する。女性ならば生理的に成
■不安発作の背後には、
葛藤か欲求不満がある
熟すると健全な子どもを産めるようになり、その子ど
――そうした未熟な人の成熟を促すというのは、どう
もを授乳によって育てることができる、と。特別な病
いうことになるのでしょうか。
まさにこういうことなんです。人間の生理的な成長
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井上 基本的には、本人の自己洞察を促すことになり
ますけれども、私はそこで問題を指摘してしまうこと
があるんですね。限られた時間のなかでたくさんの患
者さんを診なければならない、という制約のなかでは
しょうがないかなとも思うんですが、本来の心理療法
からすると、指示的なことは言わずに、時間がかかっ
ても本人に洞察させる、というのが基本です。
たとえば、不安発作という症状があります。精神分
析をやっている人たちは、宙ぶらりんの状態に置かれ
たときに、不安発作が起こるということを言っていま
す。それは、私もそう思っていて、実際に私が診た患
者さんにこんな方がいました。
係長から課長に昇進した方なんですけれども、課長
としての職務に加えて部下が病欠するようになって仕
事量が非常に増えたんですね。で、その方の唯一のス
トレス解消法は、帰りに赤ちょうちんで一杯やること
だったんですが、健康診断で肝障害が疑われ、しばら
井上 令一 氏
順天堂大学名誉教授、一般財団法人順天堂精神医学研究所理
事長。昭和 31 年順天堂大学医学部卒業。昭和 62 年に同大
学医学部教授(精神医学)
。平成 5 年、財団法人順天堂精神
医学研究所所長を併任し、平成 8 年から同研究所理事長。平
成 9 年に順天堂大学名誉教授となる。
くお酒は止めなさいと言われてしまった。要は、飲み
好きになれない。幼児体験以降のヒストリーをたどっ
たいけれども飲めない、という宙ぶらりんの状態です
ていくことは、本人を理解するうえでは大事かもしれ
よね。
ませんけれど、常にそうした過去に問題の根っこを求
あるとき、ちょっと一杯くらいいいじゃないかって
めると、ときに作り話になってしまうこともあります
同僚からビアホールに誘われて、飲んじゃった。そし
からね。
たら、帰りの地下鉄の中で不安発作を起こして、救急
車で運ばれたんです。身体的には異常が見つからなか
■本人の治ろうとする意思が一番大事
ったけれども、以来、地下鉄に乗るのが怖くなり、外
――治るためには、自己洞察が必要なんですね。
出もできなくなって、受診したというケースですね。
井上 そうです。例えば、ニュースキャスターしてい
結局、宙ぶらりんの状態では、葛藤が生じたり、欲
た女の子ですけれど、ビニールの手袋をはめて外来に
求不満が生まれたりするんですよ。そして、その代償
きたんですよ。そして脈を取ろうとしたら、パッと手
で不安発作が起きてしまうので、葛藤とか、欲求不満
を引っ込めましてね。よく見たら、もう手の皮が擦り
を解決できるようにどう向き合ったらいいか導いてあ
むけているんです。洗いすぎて。話を聞くと、風呂は
げる必要があるということなんですね。
長時間だし、頻回の手洗いですから、父親は叱るし、
――そこで直面化のようなことはなさらないですか。
母親は泣くしでね、もう大変ですよ。
井上 直面化は、あなたの抑圧されている葛藤はこれ
そしてその子は、
たとえばホームレスと出会っても、
ですよって指摘することですから、そんなことは言わ
なんか汚れたような気がして手を洗うんだと言うんで
ないですね。むしろ、精神の未熟性みたいなものを言
す。それは誰が考えても不合理だし、無意味だと思う
葉を変えて指摘することはあります。
んですけれど、本人にしたら、だって汚いと思うから
私は、直面化させてもねぇ、と思うんです。物語が
洗うということになる。
多過ぎちゃって、それで了解するというのが、どうも
結局は、あなたは強迫性障害という病気だというこ
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とを説明して、まずは薬を飲ませて静穏化させ、
「よ
環境であろうとも、そこに馴染んでいくというか、折
く考えてごらんなさい、あなたのやっていることはお
り合いをつけていく必要があるわけです。それが精神
かしいでしょ」っていう話をした。そして手を洗う行
の成熟につながっていきますし、その折り合いをつけ
為は無意味、不合理であるという意識を本人に植え付
ることができないと、不安障害やうつ病性障害になっ
けていって、少しずつ我慢させ、適応できるようにし
たり、うつの反応を起こしたり、あるいは非社会的な
ていくというのが支持的精神療法ですね。
行動に走ったりするんですね。
そんなわけで、強迫性障害については教育的な指導
だから、自分がまず未熟であるということに気づか
になってしまうんですけども、本人の中にもその行為
ないとだめだと思うんです。私は、井村先生の「心理
はばかげているとか、無意味だという対立感情がある
療法」から少し外れて患者さんに教育的な話をするこ
んですよ。だから、その対立感情を引き出すというか、
とがあるわけですけれども、やっぱり指摘されるまで
いまは負けている側の感情を応援して、本人に戦わせ
気がつかない人が多いですよ。
る……この戦いが本人の中で行われないと、治らない
それと、大切なのは努力でしょうね。気づいただけ
ですからね。
で何もしなければ、何も変わりません。辛くてアルコ
精神科の治療方法はいろいろあると思いますけれど
ールに走った方なら、お酒を飲まずにできることをき
も、私はそう思います。で、私がいつも言っているこ
ちんとやるように努力する、と。そうして努力してい
とは、
病気は薬で治すものではないということですね。
るうちに、だんだんと自信もついてくるし、折り合い
本人の治ろうとする意思が一番大事だと。
もつけられるようになっていくわけですね。
――なるほど。確かに薬だけ処方されても、一時的に
そのとき、恐らくその人の寛容度も広がっていくん
落ち着くことはできても……と思います。
だろうと思うんです。
「心的外傷後成長
(Posttraumatic
井上 いまという時代は、当然ストレスになるような
Growth)
」ということが近年言われていますが、
「精
さまざまな環境要因があるわけですけれども、どんな
神の成熟」
も同様の意味合いをもっていると思います。
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