これからの道 - Womenpriests.org

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第四部
再度の試み
第二十二章
これからの道
教皇ヨハネ・パウロ二世と教理省はカトリック教会における女
性叙階に対するいかなる支持も根絶すると決断した。彼らは自分
たちの正統性を守ることが彼らの任務だと理解しているようだ。
彼らは教会の口やかましい保守派から圧力をかけられている。
「万が一、女性司祭支持が教会の中でより広く受け入れられたら」
分裂と混乱が起きるのを怖れるのである。より厳しい手段で女性
司祭禁止を遂行して教会を護ろうと本気であることは疑う余地が
ない。しかし、彼らの真意がいくら立派であっても、彼らの行動
は本当に教会を益するのだろうか。
問題の真相は既に見たように彼らが根拠とする伝統的な議論は
理不尽だ。女性を叙階の奉仕職から締め出す正当な理由を聖書の
中に見つけることはできない。かえって、イエスが洗礼で男性と
等しく女性を完全に受け入れていることは、すべての人に奉仕的
1)
司祭職を開放することを要求するものである。伝統の中にも女性
叙階に対する明らかな根拠に裏づけられた反対を見つけることは
できない。女性を叙階しない慣習はキリスト教起源の霊感からで
はなく、異教の文化的偏見から引き出されたことを明確に示すこ
とができる。実際に女性たちは助祭として秘跡的叙階を受けてい
たので、彼女たちを司祭に叙階することは当然のことなのである。
さらに、花むこの比喩的描写の訴えは説得力がない。しかし、
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ローマは権力に訴えて強行に出た。
最高普遍的教導職なのか
「トドメをさしておく」ことを切望して、教皇と教理省は最近
この問題は「既に教皇の普遍的教導権によって不可謬的に決定さ
2)
れた」と宣言した。
「直轄権を持つ教会の最高普遍的教導権」という専門用語は教
皇とすべてのカトリック司教たちの一致した教えに適用されるが、
そのようなことは公会議に司教たちが出席する時など、極めて稀
な機会の他にはあり得ない。第一回バチカン公会議は次のように
述べている。
すべてそれらのことは書き留められ、または、伝えられた神
のみことばに含まれているカトリックの聖なる信仰として信
じられねばならない。そして教会が神聖な見解または教会の
最高普遍教導職により神から啓示され、そのように信ずべき
3)
である。
第二バチカン公会議は教会の最高普遍的教導職をより明確に定
義し、それがどのような条件で機能するかを表明した。
各々の司教が不謬の特権を持っているのではない。しかし彼
らが全世界に散在している時も、相互の間とペテロの後継者
との交わりの繋がりを保持しつつ、信仰と道徳に関する事柄
を真性の権威を用いて教え、一定の教説を決定的なものとし
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て認めるべきであると一致して述べる。
教理省は世界の司教団が女性叙階の論争点について意見を述べ
たと信じているようだ。なぜであろうか。ローマは説明していな
いが、推測するには、周知の事実であるが、過去 20 年間あるい
はそれ以上にわたって、教会の高位聖職者の候補者たちが受理さ
れる前に、ローマから女性叙階を支持するかどうかを尋ねられる。
したがって、今日大多数の司教たちは多分反対の意を表明したの
であろう。支持しないと答えた人たちのみが司教に任命されたの
5)
である。ローマはこれによって、『教会の最高普遍的教導職』が
彼らの見解を支持することを証明していると確信しているのであ
ろう。こうして不謬的に決定されたという主張が生まれたに違い
ない。彼らは正しいのだろうか。
第二バチカン公会議の文書や他の関連資料では司教の普遍的教
導職によって数えが不謬となるために 5 つの条件を要求している。
1.司教団体の行動:司教たちは教導権の団体としての行使に参
加しなければならない。
2.『裁判官』として:司教たちは自分の熟慮した意見を自由に表
現すべきである。
3.全教会の信仰への奉仕として:司教たちは神のみことばと
『信仰の感覚』とに耳を傾けなければならない。
4.信仰と道徳に関して:教義は信仰の事柄に結びついた内容に
関するはずである。
5.『決定的』なものとして意識的に決定される教説において:司
教たちは決定的なものとして教義を決定することを望まなけれ
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ばならない。
これらの条件は女性叙階の禁止の場合には適用されていない。
司教たちは彼らの支持を尋ねられた時、本当に自由だったのか。
彼らは根拠を注意深く考えたのか。彼らは信仰の感覚に耳を傾け
たのか。彼らは意識的に教導団として行動したのだろうか。彼ら
は自分たちの見解が普遍教会を拘束するものとして課せられるこ
とを欲したのだろうか。これらの条件の一つも満たされたとは思
えない。教会法 749 はいかなる教義もこの事実が明確に是認され
なければ、不謬と定義されたとは理解されないと言っている。
結果として世界中の著名な神学者たちは教理省の普遍的教導職
によってこれが決定されたとの主張を拒否したのである。ローマ
のグレゴリア大学での私の師であり教導権の専門家であるフラン
シス・サリバン神父(Francis Sallivan)は、はっきりと不賛成の声
を上げた。
次のことが本当に確証された事実なのかどうかに疑問が残り
ます。すなわち、カトリック教会の司教たちは、教皇ヨハ
ネ・パウロ二世が主張する『女性司祭反対』の理由を納得し
ているのでしょうか。彼らは、信仰の裁判官、教師として固
有の役割を行使する時、女性を祭司職叙階から排除すること
は神によって啓示された真理であり、すべてのカトリック信
者はこれに信仰の決定的同意を表明するよう義務づけられて
いると異口同音に教えてよいのかということです。もしこの
ような主張が確かなものでないなら、この教えが司教の普遍
的教導職により不可謬のものとして教えられてきたという主
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張がどうして確実であり得るのか、私には分かりません。
ケンブリッジ大学のニコラス・ラッシュ教授(Nicolas Lash)は
平易なことばで次のように語った。
教皇もラッツィンガー枢機卿も、そのように根拠づけられて
いると単に主張することによって、ある教えが「書かれた神
のことばに基づいている」とすることはできません。また、
彼らは宣言によって、それを「常に保管され、教会の伝統に
適用された」事柄とすることもできません。カトリック精神
の中で問題が熟すのを妨げるための無神経な手段として不可
謬の教義を利用し、公式の教義に対するカトリック的確信の
根拠と性格を示しているとされる教義を利用しようとする試
みは、スキャンダラスな権力濫用であり、教皇が維持しよう
としている未来の権威をさらに蝕むような最も深刻な結果を
8)
もたらすものでしょう。
米国のカトリック神学会はこの問題を研究するために特別専門
委員会を任命した。1997 年 6 月 6 日総会は報告書を受け、ローマ
の主張を拒否することにした。
女性を司祭に叙階する権限が教会にはないということが不可
謬であるとして教えられ、信者の決定的な同意と伝統の根拠
を要求するという教導権の性格に関して重大な疑問がある。
この問題については神学者たちの間のみならず、教会のより
大きな共同体においても深刻で、広範囲にわたる不賛成があ
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る……。もし教会が真の伝統に忠実にとどまって聖霊に導か
れなければならないなら、この問題に関して教会の全メン
バーによるさらなる研究と議論、賜物と召命に従って祈るこ
とが必要であることは明白なことであろう。
この決議案は秘密投票で採択された。216 人の神学者たちが
9)
『賛成』に、22 人が『不賛成』に票を投じ、10 人が棄権した。こ
の問題についての議論は厳しい圧力をかけなければ勝ち目がない
のである。
次に何がくるのか
責任を担う人たちが声を上げる時が到来したと思う。なぜなら、
正当化は失敗し、女性司祭禁止はいつか解かれるはずであり、教
会が長く待てば待つほどより大きな被害を与えるであろう。今で
さえ公の教会のリーダーシップはそのメンバーについて信頼を失
いつつある。女性たちは聖職からの排除にますます深く傷つけら
10)
れ、差別を体験していく 。教会のリーダーシップは、司牧的奉
仕職をはかりしれないほど豊かにする合法的な手段をとらずに、
貴重な時間と資源を無駄にしている。しかし、堅固に護ってきた
立場から身を引くことは困難なことであろう。
私は 6 歳の時に家族とともに日本軍の収容所に送られた(1942
。そこで怖い目に会ったので、未だに戦争には恐怖感を
〜 1945)
覚える。年を取れば取るほどその体験を考える。最近、1942 年
のスターリングラードの戦いに関する詳細な報告を読み返した。
インド時代の宣教師仲間のオスマー・ロイシュ神父がスターリン
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グラードで戦っていたのでとても興味深かった。彼は弾丸が背骨
のところでとまったおかげで生き残り、ドイツに送還された。そ
の他のほとんどのドイツ兵はそれほど幸運ではなかった。
1942 年 11 月 22 日にスターリングラードにいた 26 万人に上るド
イツ軍はロシア軍に包囲されたが、彼らにはもはや兵糧、武器、
武装が不足していた。唯一の救いは敵の包囲を逃れ、退却可能に
なったことであった。しかしヒトラーは退却を禁じ、「すべての
兵士は最後の独りになるまで戦うべし」とラジオ・メッセージを
送った。スターリングラード進駐のドイツ総指揮官であるパウル
ス陸軍元帥は負け戦であることを承知していた。彼の部下たちは
どうだったのだろうか。近くの陸軍を率いていたかの有名なエリ
ヒ・フォン・マンシュタインはヒトラーを無視して脱出すること
をパウルスに薦めたが、パウルスは受け入れなかった。彼は権威
に逆らうことができなかったのである。6 週間後の 1943 年 1 月 30
日、9 万人のドイツ人たちだけが虐殺から生き延びた。ヒトラー
は命令を繰り返したが、パウルスは降伏し、残ったドイツ兵はシ
ベリアに拘留され、そこから帰還した人は少なかった。
これは例外的なケースではない。その頃までにはドイツ軍の指
揮官たちは負け戦をしているのを知っていたので、これはドイツ
の戦争末期の普通の情景だったし、彼らは多分ヒトラーとは一致
していなかったであろう。しかし、例外的にわずかの指揮官は
300 万人の兵士を殺すまで戦うことをヒトラーに許したのである。
ドイツの町や市は空爆で完全に破壊され、80 万人もの市民を巻
き添えにし、国土の半分をソ連の残忍な占領下に置いた。しかも
私がここで語っているのは、ドイツ占領下の国々における侵略の
すべての犠牲者についてではないのである!
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私にはたくさんのドイツ人の友人がいて、彼らを深く尊敬して
いる。私はこれが典型的にドイツ的現象であるとは思わない。強
固な権力構造を持つ制度が強化されると何が起こるかを、実際に
よく見ることができる。日本人も同様の苦境にあったが、彼らは
昭和天皇が 1945 年 8 月 14 日に無条件降伏を受諾し、最終的には
救われた。日本本土は焦土化を免れ、私も命拾いをした。インド
ネシアの収容所で私はひどく病身で、もうあと 1 カ月戦争が長引
いたら確実に死んでいただろうと医者は後に語った。
今となってはこれらすべてが劇的なことに見え、ナチスの戦争
組織や日本の軍国主義にたとえることは全く不適切なことに思わ
れるかもしれない。私は教皇とその周辺の人たちを人間としてヒ
トラーやその信奉者たちに似ているなどと一瞬たりとも思ってい
11)
ない。私はただ、『この世の子ら 』を観察することから貴重な教
訓を引き出したイエス自身の模範にならっている。教皇が自分で
正しいと信じていることを本当に誠実に追求していることは疑う
余地がないだけに、彼は絶対的権力を行使したヒトラーに類似し
ているのである。ヒトラーはドイツ国民の生と死の権利を握った。
教皇は信者の上に霊的権威を握っていることでヒトラーより大き
な権力を持っている。「体は殺して魂を殺すことのできない者ど
12)
もを恐れるな」とイエスは言った 。権威のあるところでは、そ
れが霊的なものであっても、相談によるよりは命令によって支配
したり、単に恥をかかないために誤った決定を弁護したり、一言
で言えば「聖霊の息を止めてしまう」危険がある。そしてこのよ
13)
うな危険は現実にあるのだ 。
カトリック教会の改革の必要性は女性叙階問題だけではない。
他の重要な問題もある。例えば、人工的家族計画の禁止、ラテン
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教会での聖職者が義務として守らねばならない独身制、教会行政
と司牧的使徒職における信徒の役割、司教協議会の正当な権威、
エキュメニズム、他宗教との対話、同性愛者の認知などである。
これらすべての分野で、ローマのリーダーシップは教会の新鮮な
アプローチから身を引こうとしている。これは教皇権そのものに
関わる。またその行使の仕方やその正当化などに関する危機へと
14)
導いたのである 。
教会は不均衡を正す必要があり、やがてその時が到来するであ
ろう。私たちはこのますます世俗的になる世界にあって、霊的指
導者として強い教皇を必要としている。そして、教会がより民主
的な方法で統治され、普通の信者の中で働かれる霊に開かれる必
要がある。女性叙階をめぐる議論が他の改革を先導する媒介にな
ることを私は希望する。
過去において確かに教会は普通には女性に祭司職を認めなかっ
た。これはローマ法を受け入れた不幸な結果であった。他方、こ
れに関して教皇が公に宣言することはあまりなかった。そのよう
な宣言がなされるようになったのは 1976 年以来、二人の教皇か
らである。決定は簡単に撤回することが可能だ。ある文書に『不
謬』とあっても、それほど大きなことではない。
女性司祭の禁止はカトリック共同体に深刻な打撃を与えている。
なぜならすべての女性が神の娘として、キリストのメンバーとし
てその尊厳を傷つけられているからである。司祭としての奉仕職
への召命を持つ女性への神の呼びかけを撥ね退け、教会からその
大切な賜物を剥ぎ取っている。この禁止は神の民の半分の価値を
切り捨てることにより「神との交わりとすべての人々の一致」の
15)
秘跡としての教会を傷つける 。それはカトリック共同体とその
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リーダーたちの信憑性を著しく傷つける。教会の中で責任ある地
位にあるすべての人たちは、教会をさらなる荒廃から救うために
声を挙げるべきなのである。