イタリアニズム 若いシューベルト の

図書館展示6月●2004
Franz Schubert 1797-1828
若いシューベルト
の
イタリアニズム
企画●藤本一子(本学講師・音楽研究所所員) 期間●6月7日-7月2日
場所●図書館ブラウジングルーム
若いシューベルトのイタリアニズム
Franz Schubert
1797-1828
名 作 歌 曲 《 野 バ ラ》 や《 ます》の晴 れ や かな旋 律 は 、 シ ュ ーベ ルト の魅 力 を 支 える 柱 で しょう。 当 時 の ウィー
ンはイタリア音 楽 の伝 統 が強 く脈 打 っていました。20 歳 の《イタリア風 序 曲 》は、そうした伝 統 のうえで、
さらに新 しいイタリア音 楽 への反 応 が結 集 した作 品 です。若 いシューベルトの音 楽 に息 づく
なもの
イタリア的
に耳 を傾 け、その魅 力 を探 ってみましょう。
オーストリアの音 楽 はド イツとは違 っ て、やわらか な響 きにみ たされています。とりわ け
若 い 時 期 の シュー ベル トの 音 楽 は 、 美 し いカン ター ビレの 旋 律 が あふ れてい ます 。じ つ
はウィーンではバロック以 来 、イタリア音 楽 が重 要 な位 置 をしめていました。代 々の皇 帝
がイタリア音 楽 を好 んだことから、宮 廷 音 楽 の 主 要 なポストはほとんどイタリア人 作 曲 家
でした。なかでもオペラはイタリアものが愛 好 され、専 用 の劇 場 が設 定 されていたほどで
す(ケルントナートーア劇 場 )。宮 廷 礼 拝 堂 も宮 廷 楽 長 の管 理 下 にありましたから、すな
わち、教 会 音 楽 においてもイタリアの伝 統 的 な書 法 が重 んぜられていました。少 年 ∼青
年 時 代 のフランツ・シューベルトは宮 廷 楽 長 アントーニョ・サリエーリに少 なくとも5年 間 、
作 曲 を学 ぶのですが、その学 習 もこうした背 景 のもとで意 味 づけられるでしょう。サリエ
ーリは当 代 随 一 のイタリア・オペラの作 曲 家 だったからです。
とこ ろで 、 サ リエー リ 学 習 が 一 段 落 した ころ( こ れ につ いて は 後 述 し ま す) 、 ウィ ー ンに
新 しいイタリア音 楽 の波 がおこります。ジャコモ・ロッシーニ ( 1 792-186 8 ) のオペラがウィー
ンの ケルン ト ナー トーア 劇 場 で 上 演 されたので す。 その 軽 快 でエ ネル ギッシュな 音 楽 は 、
たちまち、ウィーン中 を興 奮 のるつぼに投 げ込 みました。時 代 はナポレオン戦 争 が終 わ
り、オーストリア(カトリック)・プロイセン(プロテスタント)・ロシア(ロシア正 教 ) が、教 派 を
こえた統 一 キリスト教 的 なヨーロッパを実 現 しようと動 き出 したころでした。秩 序 あるよき
市 民 社 会 を維 持 するた めに、新 聞 ・ 雑 誌 はもとより、講 演 や 音 楽 会 のプ ログラムにい た
るまでが、検 閲 局 の監 視 下 におかれ、社 会 にはどこか閉 塞 感 が漂 っていたといわれま
す。もともとイタリア音 楽 の伝 統 があったウィーンでしたが、なにか鬱 積 した空 気 が流 れ
ていたところに、モダンなロッシーニのオペラが新 しいイタリア音 楽 の火 をつけたのでした。
若 いシューベルトの明 るくしなやかで、しかもキレのよい音 楽 はこうして、伝 統 と新 しさと、
ふたつの意 味 においてイタリアの音 楽 から影 響 をうけて作 曲 されたのです。
Contents
若 い シ ュ ー ベ ル ト /2
の教師/7
ち/8
コ ン ヴ ィ ク ト /3
ウィーンの劇場/8
コ ン ヴ ィ ク ト の 友 人 /6
作曲
シューベルトの歌曲を広めた歌手た
シ ュ ー ベ ル ト の イ タ リ ア 音 楽 の 学 習 と こ の 時 期 の 作 品 / 10
国 立 音 楽 大 学 附 属 図 書 館 所 蔵 「 19 世 紀 に 出 版 さ れ た シ ュ ー ベ ル ト の 印
刷 楽 譜 」 / 13
参 考 文 献 / 13-14
シ ュ ー ベ ル ト 参 考 年 譜 / 15-17
1
若 いシューベルト
正 装 した17歳 のシューベルト
ヨーゼフ・アーベル作 (?)油 彩 1814 年 。1989 年 に初 公 開 された肖 像 画 。1814 年 (17
歳 ) にリヒテンタール教 会 とアウグス ティン教 会 で《 ミサ曲 第 1番 ヘ長 調 》 を指 揮 して大 成
功 をおさめ、父 からピアノをプレゼントされた頃 に描 かれたとみられる。アウグスティン教
会 での上 演 には、サリエーリも列 席 し、その演 奏 は新 聞 でも賞 賛 された。晴 れやかなデ
ビューである。この肖 像 画 は 1989 年 にリータ・シュテープリンによってはじめて公 開 され
た。その後 、この人 物 がシューベルトかどうか疑 問 であるとの声 も出 されたが、これに答 え
るべく、1997 年 に徹 底 的 に科 学 的 な検 証 が行 われ、現 在 では真 正 のシューベルト画 像
であると認 定 されている。
若 いシューベルト
友 人 で 画 家 のモ ーリ ツ ・ シュ ヴィ ン ト が 描 いた シ ュー ベル ト 。 シュ ー ベル ト とは 1821
年 頃 (シューベルト 24 歳 頃 )に知 り合 ったとされるが、この画 をみるところ、もう少 し前
から交 友 があったのだろう。
カール教 会 前 の遊 歩 道
ヤーコプ・アルト作 彩 色 版 画 1820 年 頃 。ナポレオン軍 によって破 壊 された街 は
修 復 され、ウィーンに平 穏 が訪 れた。音 楽 は市 民 階 層 の娯 楽 となり、散 歩 する子 供 た
ちも楽 器 に興 じている。しかし制 圧 のもとの平 穏 さゆえに、若 者 たちのエネルギーは内
向 し て い っ た 。シ ュ ー ベル ト を 囲 む「 シ ュ ーベ ルテ ィ ア ー デ」 は ひと つ の 燃 焼 の 方 法 だ
ったのかも知 れない。この絵 の正 面 にみえるカール教 会 左 の建 物 に、一 時 、シューベ
ルトと友 人 シュヴィントが住 んでいた。
ウィーン市 内 から郊 外 リヒテンタールとロスアウをのぞむ
シューベルトが生 まれ育 った土 地 は 、オーストリアのウィーン郊 外 北 西 部 のヒンメル
プフォルトグルント地 区 である。当 時 ウィーン市 内 は城 壁 で囲 まれており、12 の門 によ
って外 部 と通 じていた。門 をぬけると、緑 が一 帯 に広 がっており、フォアシュタット[郊
外 ]と呼 ばれていた。ヒンメルプフォルトグルントはそのひとつである。シューベルトの父 、
フランツ・テーオドールはこの地 区 で当 局 から許 可 をえて、私 塾 のような学 校 経 営 を
行 っていた。この貧 しい学 校 長 は、 息 子 たちも教 師 になることを望 ん だが、できるだけ
よい 教 育 機 関 で 学 ばせ 、よ り よい ポ ストに 就 職 させたいと 願 った ので あろ う。 こう して フ
ランツ・シューベルトは地 区 の教 会 のオルガニストであるミヒャエル・ホルツァーにオル
ガン を 、 父 と 兄 に ヴァ イ オリン やピ ア ノを 習 い な がら 、 エリ ー ト 教 育 機 関 で あるギ ム ナジ
ウムに入 るべく受 験 準 備 をする。
2
コンヴィクト
シューベルトはいつ、どのような音 楽 教 育 をうけたのでしょうか。「この少 年 は最 初 か
ら手 の中 に音 楽 をもっている」と教 師 を驚 嘆 させたシューベルトでしたが、彼 の音 楽 書
法 はどのような環 境 のもとで培 われたのでしょうか。
1808 年 5月 に「宮 廷 礼 拝 堂 少 年 ソプラノ歌 手 」の募 集 広 告 が「ウィーン新 聞 」 に出 さ
れました。シューベルトはこれに応 募 し、みごと合 格 して、奨 学 生 として「コンヴィクト」と
呼 ばれる全 寮 制 の教 育 機 関 に入 りました。「コンヴィクト」( 共 に生 活 する の意 味 )は、
ギムナジウム、あるいはウィーン大 学 に通 う学 生 たちが一 緒 に寄 宿 生 活 を行 う 寮 で
したが、学 校 での学 習 以 外 にもさまざまな教 育 が行 われていました。それにしても、声
がよくて音 楽 の才 能 があったとはいえ、郊 外 の貧 しい学 校 教 師 の息 子 がこのギムナジ
ウムに入 学 することは、難 しかったはずです。最 近 、発 見 された資 料 をもとに、このあ
た り の 事 情 を ご 紹 介 し ま し ょ う 。 ( 参 考 文 献 : E va Badura-Sk od a;Sc hube rts Kon viktszeit ,
seine Schu lfreunde und Sc hulbeka nntsc hafte n)
新 しく発 見 された資 料 は、1800/1801 ―1822/23 年 の 生 徒 名 ・年 齢 ・ 出 身 地 、 生
徒 の成 績 、1775−1821 年 の帝 室 王 室 諸 機 関 の資 料 、それに、ギムナジウムの教 育
プラン、校 則 などに関 するもので、現 在 は、ウィーンのベートーヴェン・プラッツのアカ
デミッシェ・ギムナジウム倉 庫 に保 管 されています。新 資 料 によれば、シューベルトは
1808 年 以 前 に、つまりはやくも 1806 年 (7 歳 )に、19 名 の少 年 とともに宮 廷 礼 拝 堂 歌
手 の試 験 をうけています。さらにこれより 2 年 前 にサリエーリに紹 介 されていたという研
究 もあるほどですが、いずれにしても 1806 年 の試 験 で、宮 廷 楽 長 サリエーリは9名 を
宮 廷 礼 拝 堂 の 少 年 歌 手 として 選 抜 し、シュー ベルトも入 っていました(展 示 パネル 参
照 : 表 の6 番 目 にメッ ゾソプ ラノ と してシュー ベルトの 名 前 がみら れ ます)。 とこ ろが 、 例
えばギースリーゲル Giesriegel という少 年 はすぐに宮 廷 礼 拝 堂 のミサに加 えられたの
ですが、シューベルトは採 用 されませんでした。報 告 者 エーヴァ・バドゥーラ=スコダに
よれば、シューベルトは能 力 と年 齢 の両 方 の点 で、コンヴィクトに入 るには若 すぎると
みなされたようです。つまり、「 コンヴィクト」は大 学 に進 学 するためのギムナジウムに属
するものであり、ギムナジウム入 学 の最 低 年 齢 は 10 歳 だったからです。翌 1807 年 に
は、宮 廷 礼 拝 堂 歌 手 の 募 集 はありませんでした。奨 学 生 になるためには、歌 手 として
採 用 されなくてはならず、結 局 、1808 年 5 月 に「ウィーン新 聞 」募 集 広 告 が出 された
のを待 って、シューベルトは応 募 したのでした。
「 ギムナジウム」 の試 験 は、「 読 み・ 書 き( ゴチック書 体 ・ ラテン語 書 体 で書 く)・ 計 算 」
以 外 に、ラテン語 文 法 の基 礎 知 識 が必 要 でした。シューベルトは最 初 の試 験 のあと、
1806 年 から 1808 年 まで、おそらくサリエーリにすすめられて、父 や兄 や、教 会 オルガ
ニストであるホルツァー に音 楽 を学 び、ラテン語 の 予 備 勉 強 も行 ったと考 えられ ま す。
ラテン語 の教 本 は、Comenius; Kurze Einleitung zur lateinischen Sprache et s.zum
Gebrauch der österreichischen Schulen というもので、シューベルトの父 もブリュンの
ギムナジウムで同 じ本 で授 業 をうけています。こうして 1808 年 にシューベルトは、「読
み・書 き・計 算 」を含 む採 用 試 験 に「最 上 」の成 績 で合 格 しました。
3
シューベルトが入 学 したこの教 育 機 関 は、1773 年 イエズス会 解 散 後 に「アカデミッシ
ェ ・ ギ ム ナ ジウ ム 」 と 呼 ば れ る よ う に な っ た 学 校 で す 。 啓 蒙 主 義 そ れ に 、 ピ ア リス ト 会 教
父 グラ テ ィ ア ン・ マル クス の 精 神 で 運 営 さ れ 、 未 来 の キ リス ト 者 、 よ き 市 民 を 育 て る こと
を旨 としていました。生 徒 は学 問 だけでなく、カトリックの精 神 においても磨 かれねばな
らず、このために数 多 くの宗 教 の授 業 が行 われました。毎 週 2度 ミサに参 加 するなど
の、宗 教 実 践 も取 り入 れられていました。
これまで私 たちに情 報 を与 えてくれていたのは、ドイチュ編 の「 シューベルト・ドクメン
テ記 録 集 」 でした。じつはこの本 にはコンヴィクトの一 年 目 の記 録 はほとんど記 載 があ
りませんが、新 資 料 によれば、のちにシューベルトと関 係 をもつようになる生 徒 につい
てさまざまな記 述 がみられます。たとえば、1807/1808 年 の下 級 クラスには後 に友 人 と
なるショーバ ーが 入 って きますが 、ま もなく彼 は 自 由 な 生 活 態 度 のゆ え に、ここを 去 っ
てクレムスミュンスターのベネディクト会 ギムナジウムに移 ったことがわかります。
さて、コンヴィクトには、公 式 には 100 名 、実 際 は 130 名 ほどの生 徒 ・学 生 が生 活 してお
り、最 下 級 生 は一 部 屋 に 12 名 が一 緒 に寝 起 きし、夜 は一 人 の召 使 が番 をしていました。
シューベルトがここに登 録 したのは 1808 年 11 月 3日 、最 後 の学 年 は 1813 年 でした。
入 学 年 の下 級 クラスは 98 名 、次 のゼメスタでは 75 名 に減 少 。しだいに課 題 要 求 が高 く
なっていくために、1810/11 年 次 には 53 または 54 名 、1812/13 年 のクラスでは 43 名 と
な り ま す 。 なお、礼 拝 堂 聖 歌 隊 の 少 年 歌 手 の 成 績 は、 宮 廷 楽 長 サリ エーリに報 告 され
ました。さまざまな 点 で 、 宮 廷 と つながって いたことがわかります。シ ューベルトは、「卓
抜 なる音 楽 の才 能 を有 するがゆえに」「特 に入 念 に」 教 育 を行 うようにとの通 達 が出 され
ていました(1810 年 校 長 ラング宛 の書 面 )。
ところで「コンヴィクト」は、音 楽 教 育 にも力 を注 いでいました。これは「よき市 民 」を育
成 するための一 般 教 養 にとどまりませんでした。1813 年 の状 況 でみると、生 徒 のうち 10
名 が宮 廷 礼 拝 堂 の聖 歌 隊 歌 手 として歌 い、さらに別 の 8 名 が「宮 廷 附 属 」の教 会 で歌 う
ことを義 務 づけられていましたから、かれらのためにも音 楽 実 践 の配 慮 が不 可 欠 だった
わけです。 (以 下 、エルンスト・ヒルマー著 「シューベルト」をも参 照 )
宮 廷 礼 拝 堂 でどのようなミサ曲 が歌 われていたかは、多 くの公 文 書 が 1929 年 の火 災
で焼 失 した現 在 、厳 密 に把 握 することはできません。それでもアルブレヒツベルガー
(1736-1809 )、ヨーフ・ アイブラー( 1765-1846) 、ヨーゼフ・ハイドン( 1732-1809 ) 、ミヒャ
エル・ハイドン(1737-1806)、モーツァルト(1756-1791)といったオーストリアの 作 曲 家 の
ほ か に 、 ヨ ー ハ ン ・ ア ド ル フ ・ ハ ッ セ (1699-1783) や 、 ヨ ー ハ ン ・ ゴ ッ ト リ ー プ ・ ナ ウ マ ン
(1741-1801)、アントーニョ・サリエーリ(1750-1825)など、イタリアのナポリ派 の伝 統 をくむ
作 曲 家 の作 品 が 演 奏 さ れていたことは明 らかで す。サリエーリは、厳 密 にいえば礼 拝 堂
付 属 作 曲 家 ではありませんでしたが、宮 廷 楽 長 でしたから、彼 のミサ曲 とくに初 期 のもの
が頻 繁 に演 奏 されました。その演 奏 譜 は現 在 も残 っています。
コンヴィクト では夜 にな ると必 ず 、 学 生 オー ケ ストラの 練 習 が 行 わ れ ました。ここ ではハ
イドンやモーツァルトの交 響 曲 がよく演 奏 され、シューベルトは実 践 を通 してこれらの音
楽 に接 していました。
し かし シュ ー ベル トに と っ て 最 大 の 幸 福 は、 宮 廷 楽 長 サリ エ ーリ が 音 楽 統 括 者 で あ っ
たことにつきるでしょう。コンヴィクト生 は、基 本 的 には外 出 禁 止 でしたが、シューベルトは
4
作 曲 レッスンをうけるために、許 されてサリエーリの自 宅 に通 っていました。おそらくこれま
で伝 えられている以 上 に、シューベルトはサリエーリから多 くのことを学 び、作 曲 の基 盤 と
して、ナポリ派 の書 法 を身 につけたことと思 われます。このことは今 後 、サリエーリとシュー
ベルトの様 式 研 究 を通 して、明 らかにされていくことでしょう。
さて、シューベルトがコンヴィクト時 代 に学 んだことのうちで、もうひとつ、重 要 なことを
紹 介 し て お き ます 。 そ れ はコ ン ヴ ィク トで は 、 ラテ ン 語 の 文 芸 書 で 修 辞 学 の 書 でも あ っ た
『雄 弁 術 綱 要 』が教 科 書 として用 いられており、シューベルトはここから多 くの刺 激 をえた
ということで す。クロプシ ュトック、マティッソン、クラウディウス、ヘルティ といった詩 人 に 出
会 ったのは、この書 物 においてでした。シューベルトが歌 曲 を作 曲 する際 に、文 学 的 に
高 い水 準 で詩 を選 択 していることが注 目 されるようになりましたが、その下 地 もまた、コン
ヴィクトで培 われたのでした。
帝 室 王 室 シュタット・コンヴィクト
「よき市 民 を育 成 する」との理 念 に基 づき、1802 年 に皇 帝 フランツにより設 置 された皇
帝 直 属 の全 寮 制 の学 校 。厳 しい試 験 に合 格 した 10 歳 以 上 の少 年 が、ここで生 活 しな
がら隣 接 のギムナジウムとウィーン大 学 に通 った。少 年 ソプラノ歌 手 は、ギムナジウムで
教 育 をうけ、日 曜 日 には宮 廷 礼 拝 堂 のミサで歌 った。
1806 年 (9 歳 )宮 廷 礼 拝 堂 歌 手 の入 学 試 験 成 績 表
シューベルトは 1808 年 (11 歳 )に「宮 廷 礼 拝 堂 ソプラノ歌 手 」の試 験 をうけて合 格 する
が、じつはその 2 年 前 の 1806 年 にも試 験 をうけていた。この表 はそのときの成 績 表 。評
価 は宮 廷 楽 長 サリエーリによる。表 6 番 目 にシューベルトの名 前 がみえるように音 楽 は
合 格 したが、ギムナジウムに不 適 切 とされたため、1808 年 に再 度 試 験 をうけて
採 用 された。
宮 廷 礼 拝 堂 少 年 合 唱 隊 員 の制 服 を着 たシューベルト(?)
レオ・ディエト作 水 彩 画 製 作 年 不 明 。おそらくシューベルトとされている水 彩 画 。宮
廷 礼 拝 堂 ではこの制 服 で歌 った。
宮廷礼拝堂
ヨーハン・ヒエローニュムス・レッシェンコール作 の版 画 1792 年 。皇 帝 レーポルト 2 世 の
ための「テ・デウム」を演 奏 しているところ。シューベルトは 1808 年 から 1813 年 まで毎 日
曜 日 、聖 歌 隊 の少 年 歌 手 として、この礼 拝 堂 でミサ曲 を歌 った。ここではミヒャエル・ハイ
ドンのミサ曲 のほか、ナポリ楽 派 の薫 陶 をうけた作 曲 家 フィリップ・ナウマンのミサ曲 もよく
演 奏 されていた。19 世 紀 の大 作 曲 家 で、教 会 音 楽 をこれほどの密 度 で実 践 していた人
物 は珍 しいのではないだろうか。
5
1808/09 年 (11 歳 )のときのラテン語 文 法 クラスの名 簿
1809/10 年 (12 歳 )のときのラテン語 文 法 クラスの名 簿
「姓 名 ・年 齢 ・出 身 地 」が記 された名 簿 。★がシューベルト。
コンヴィクトに入 学 した年 度 (1808/09 年 ) の宮 廷 礼 拝 堂 少 年 合 唱 団 員 の成 績 表
宮 廷 礼 拝 堂 で歌 っていた少 年 歌 手 の成 績 は、コンヴィクトの校 長 ラングによって記 録
され、宮 廷 楽 長 サリエーリに報 告 された。★がシューベルト。右 端 のコメント欄 に 特 別 の
音 楽 的 な才 能 あり とある。
コンヴィクトの友 人
一 生 の ほ と ん どを 家 族 か ら 離 れ て 生 活 し 、 結 婚 す る こ とも な か った シ ュー ベ ル ト に とっ
て、友 人 は愛 と慰 めの源 泉 でした。その意 味 で、友 人 は家 族 であったといってもよいでし
ょう。彼 らはさらに、シューベルトの音 楽 を理 解 し、生 活 の場 を提 供 してくれました。その
意 味 では、芸 術 の支 援 者 の役 割 も果 たしました。ベートーヴェンに対 して裕 福 な貴 族 が
行 ったこ とと 本 質 的 に 同 じことを 、シ ューベルト の 友 人 たち は行 ったと いうわけで す。シュ
ーベルトの人 生 と音 楽 は、友 人 の存 在 なくして語 ることはできません。
フランツ・フォン・ショーバー(1796-1882)
レオポルト・クーペルヴィーザー 作 の油 彩 画 。 彼 はコン ヴィ クトの 先 輩 で、ウィーン のギ
ムナジウムやウィーン大 学 でも学 んだ博 識 の詩 人 。シューベルトは 18 歳 の年 にシュパウ
ンに 紹 介 さ れて ショ ー バー と 知 り 合 う 。シ ュー ベル トの 音 楽 に 共 感 し 、 作 曲 家 と して 進 む
よう勧 めたのはショーバーだったといわれる。シューベルトは彼 の家 に寄 宿 し、23 歳 から
25 歳 の頃 には、ショーバーの叔 父 が所 有 するアッツェンブルックの城 に友 人 たちが集 ま
っていた。歌 曲 《音 楽 に寄 せて》はショーバーの詩 である。1828 年 にショーバーはウィー
ン のリ ト グラ フ 工 房 を 所 有 し 、 こ こ か らシ ュ ーベ ルト の 多 く の 歌 曲 を 出 版 させ た が、 シ ュー
ベルトの死 後 まもなくこれを閉 めている。
ヨーゼフ・フォン・シュパウン(1788-1865)
クーペルヴィーザーによる油 彩 画 ( 現 在 は消 失 )に基 づくライター作 の模 写 。シュパウ
ンは 1805 年 に「シュタット・コンヴィクト」に入 学 。3年 後 に入 ってきたシューベルトと親 しく
6
なり、シュ ー ベルトの 生 涯 に 不 可 欠 の存 在 とな った。コン ヴィクトのオー ケストラでは 第 二
ヴァイオリンを弾 いていた。シューベルトに五 線 紙 を調 達 したり、何 度 もオペラにつれてい
って、シューベルトに多 大 な 刺 激 を 与 えたことも 報 告 されて いる。歌 曲 《 若 者 と 死 》 D 545
はシュパウンの詩 による。
作 曲 の教 師
ウィーンの宮 廷 楽 長 アントーニョ・サリエーリ(1750-1825 )
イタリアのレニャーゴ出 身 。1767 年 にガスマンに見 出 されてウィーンに連 れてこられ、
薫 陶 を うけ て教 会 音 楽 家 、オペ ラ 作 曲 家 とし て活 躍 。40 以 上 のオ ペラを 作 曲 し、 当 代
随 一 のイタリア・オペラの作 曲 家 として名 をはせた。1788 年 から1824 年 まで 36 年 間 、ウ
ィーンの宮 廷 楽 長 の職 にあったが、宮 廷 劇 場 も監 督 下 におき、1813 年 からは「 楽 友 教
会 声 楽 学 校 」の 校 長 もつ とめ るな どウ ィー ン 音 楽 界 に 君 臨 した 。 ベ ー トー ヴェ ン 、シ ュー
ベルト、フンメル、リスト、アンナ・ミルダー=ハウプトマン、カロリーネ・ウンガー、ヨーゼフ・
ヴァイグルなどの作 曲 家 や歌 手 約 60 名 に、イタリア声 楽 曲 の作 曲 や歌 唱 法 を無 償 で教
え、歌 唱 教 本 もあらわしている。シューベルトは 1804 年 (7 歳 )の年 にサリエーリに紹 介 さ
れ、少 なくとも 1812 年 から 1816 年 まで隔 週 、自 宅 にレッスンに通 っていた。
サリエーリがイタリア語 しか理 解 せず、シューベルトがドイツ語 の詩 に作 曲 することを好
ましく思 っていなかったと伝 えられているが、そうではないだろう。シューベルトはイタリア
語 歌 曲 を学 習 する際 に、平 行 して、そのメリスマのつけかたをシラーの詩 で応 用 している。
この詩 を与 えたのはサリエーリだとみられるからである。それにサリエーリ自 身 、シラーの
詩 に作 曲 している。ゲーテの詩 に作 曲 した初 期 の名 作 はすべてサリエーリ学 習 時 代 に
生 まれていることも忘 れてはならない。
シューベルトはサリエーリを尊 敬 していたらしく、サリエーリのウィーン宮 廷 勤 続 50 年 を
祝 う会 では《サリエー氏 の 50 年 祝 賀 によせて》(重 唱 ・アリア・カノン)D407 を作 曲 し、ま
た 1821 年 には《Der Fischer》 D225、《Der König in Thule》D367、《Erster Ver lust》
D226、《Nähe des Geliebten》 D162、《 Rastlose Liebe》 D138 と、いずれもゲーテの
詩 に作 曲 した初 期 の名 作 歌 曲 を献 呈 している。
7
ウィーンの劇 場
ウィーンには音 楽 の劇 場 として、市 内 にケルントナートーア劇 場 とブルク劇 場 の二 つの
宮 廷 劇 場 が、そして郊 外 にアン・デア・ウィーン劇 場 があり、それぞれ特 徴 をそなえたオ
ペラ・レパートリ−が上 演 された。社 会 が落 ち着 いて、音 楽 が市 民 の娯 楽 として定 着 する
につれ、郊 外 のアウガルテン公 園 の音 楽 会 場 も社 交 場 になっていった。
イタリア・オペラの歌 劇 場 としての「ケルントナートーア劇 場 」
市 内 ケルンテン門 そばの劇 場 。1709 年 にイタリアの喜 劇 一 座 によりこけら落 としされた。
1794 年 以 後 、バレエとイタリア・オペラだけの上 演 時 期 があったが、やがてドイツ語 作 品
も 加 わ る よ う に な る 。 シ ュー ベ ル ト の オ ペ ラ の う ち《 双 子 の 兄 弟 》 が こ の 劇 場 で 5 回 上 演 さ
れ、好 評 を博 した。
伝 統 と格 式 の「宮 廷 ブルク劇 場 」
モロ作 彩 色 版 画 。1741 年 に開 設 したブルク劇 場 では、1783 年 からレーポルト2
世 の死 (1790 年 )までイタリア・オペラが上 演 され、イタリア音 楽 の拠 点 だった。一 時 、
ドイツ語 のジングシュピールが奨 励 されるが(1778-83 年 )、以 後 再 びオペラ劇 場 と
して重 要 な役 割 を担 った。1821 年 以 降 、宮 廷 ブルク劇 場 とよばれる。シューベルト
のオペラはここでは上 演 されていない。
郊 外 の劇 場 「アンデア・ウィーン劇 場 」
前 身 は《魔 笛 》が初 演 されたフライハウス劇 場 (免 税 劇 場 )。1802 年 にウィーン川 をはさ
んで 移 転 ・ 改 築 さ れ 、 私 設 では あるが 帝 国 劇 場 とな った 。 ドイ ツ 語 ジン グシュピ ー ルやイ
タリア語 のスペクタクル・オペラのほか演 奏 会 も さかんに 行 われた。シュ ーベルトの《 魔 法
の竪 琴 》《フィエラブラス》《ロザムンデ》が上 演 された。
1820 年 頃 「アウガルテン朝 のコンサート」
郊 外 のア ウ ガルテンで はモーツ ァ ルト 時 代 か ら 小 さなコ ン サート が 頻 繁 に 開 かれ てい
た。1820 年 頃 になる と朝 のコン サートをお目 当 てに、 ファッショナブルな服 装 の人 々 が
集 ったようだ。戦 争 が終 わった時 代 に、市 民 のエネルギーは日 常 の楽 しみで発 散 され
た。展 示 の絵 からは華 やいだざわめきがきこえるようだ。
シューベルトの歌 曲 を広 めた歌 手 たち
ミヒャエル・フォーグル(1768-1840)
クーペルヴィーザーの画 をもとにしたユリウス・ファルゲルの油 彩 画 。バリトン歌 手 。
1794 年 から 28 年 間 、宮 廷 歌 劇 場 で歌 い、イタリアものとドイツもの両 方 とも卓 抜 していた。
シューベルトの歌 曲 に共 感 し、おそらくイタリア・ベルカントの歌 唱 様 式 で歌 ったと思 われ
8
る。フォ ー グルは当 時 「 最 も 偉 大 な 朗 誦 歌 手 の 一 人 」 と 評 価 され てい たが( 総 合 音 楽 新
聞 1821 年 )、かなり装 飾 をつけて歌 ったことがわかっている。そうしたフォーグルの装 飾 ス
タイルは、シューベルトはもとより当 時 の人 々からうけいれられており、当 時 の歌 曲 の様 式
が 今 日 と は 違 っ てい た こ とを 認 識 さ せる 。 そ の 演 奏 は シ ュ ー ベル ト の 作 曲 に 影 響 を 及 ぼ
したと思 われるから、フォーグルの歌 唱 スタイルは今 後 、あらためて研 究 されなくてはなら
ないだろう。シューベルトは「コンヴィクト」時 代 にシュパウンに連 れられて観 たグルックの
オペラでフォーグルを聴 き、強 い印 象 をうけていたが、やがて卒 業 後 1817 年 にショーバ
ー家 で彼 と出 会 う。(ショーバーは妹 の夫 でイタリア人 歌 手 シボーニ Siboni を通 してフォ
ーグルを知 っていたようだ。)シューベルトは 1819 年 にフォークルの誕 生 日 にカンタータ
D666 を作 曲 。以 後 も数 々の歌 曲 を献 呈 している。
フォーグルとシューベルト
二 人 の共 通 の友 人 であるショーバーが描 いた鉛 筆 のスケッチ。宮 廷 歌 手 だったフォー
グルの誇 り高 い様 子 がよくあらわされている。
散 歩 するフォーグル、シューベルト、ショーバー
モーリツ・フォン・シュヴィントによる 版 画 。市 内 から郊 外 に ぬける門 の前 を散 歩 す るシ
ューベルトと仲 間 。フォ ーグルとは気 があったのか、フォーグルの故 郷 に一 緒 に旅 行 して
いる。
アンナ・ミルダー=ハウプトマン(1785-1838)
ベーガー作 水 彩 画 。楽 長 サリエーリのイタリア歌 唱 の薫 陶 をうけたソプラノ歌 手 。ベ ー
トーヴェンの《レオノーレ》(1805)、《フィデリオ》(1814 年 )で見 事 な歌 唱 技 巧 を披 露 した。
シューベルトはグルックの《タウリスのイフィゲニー》でフォ ーグルとミルダー=ハウプトマン
を聴 いて感 動 し、彼 女 に《ズライカⅡ》を献 呈 。ミルダー=ハウプトマンもシューベルトの
歌 曲 に共 鳴 し、ベルリンのコンサートで《ます》D550、《魔 王 》D328 などを歌 って、シュー
ベルトの歌 曲 を広 めた。
カール・シェーンシュタイン男 爵 (1797-1876)
クーペルヴィーザー作 のリトグラフ 1841 年 .アマチュアのテノール・バリトン歌 手 。
本 職 は宮 廷 官 吏 。 熱 烈 なイタリア 音 楽 ファン だ ったが、シューベルトと 出 会 ってか らド
イツ歌 曲 にも親 しむ。フォーグルを模 範 にしたその歌 唱 は気 品 があったと伝 えられ、シ
ューベルトは彼 の声 域 を念 頭 に多 くの歌 曲 を作 曲 したといわれる。《 美 しい水 車 小 屋
の娘 》D795 ほかを献 呈 。
ルートヴィヒ・ティツェ(1797-1850)
デッカー作 1825 年 頃 のリトグラフ。非 常 に美 しい声 のテノール歌 手 であったという 。
《憩 いなき愛 》D138 など数 多 くの歌 曲 を初 演 した。1825 年 頃 にシューベルトはオッフェ
ルトリウム D136を献 呈 したが、これは華 麗 で高 度 なイタリア・ベルカント歌 唱 を要 求 する
教会音 楽 で、ティツェもまたベルカント歌 唱 に通 じていたことがわかる。
9
シューベルトのイタリア音 楽 の学 習 とこの時 期 の作 品
サリエーリに習 っていた頃 の学 習
声 楽 曲 ◆アリア、二 重 唱 、三 重 唱 、四 重 唱 、合 唱 、テノールのアリア
シューベルトは少 なくとも 1812 年 から 1816 年 まで、市 内 にあるサリエーリの自 宅 に隔
週 、作 曲 レッスンに通 っていた(自 宅 は Göttweihergasse 1/Seilergasse)。ベートーヴェ
ントは、ハイドンらに対 位 法 をはじめ器 楽 の作 曲 法 を学 んでのちに、サリエーリのもとを訪
れ た か ら 、レ ッ ス ンは 、 も っ ぱ ら イ タ リ ア 語 の 声 楽 曲 の 作 曲 法 に 徹 し た も の だっ た 。 し か し
シューベルトの学 習 はこれとは異 なり、徹 底 して初 歩 から行 われ、伝 統 的 なフーガから始
まった。とはいえ、やはり主 力 はイタリア語 の声 楽 曲 だった。一 部 の楽 譜 には、サリエーリ
の添 削 のあとがそのまま残 されていて、レッスンのようすが明 らかである。
サリエーリの作 曲 レッスンは、どの生 徒 に対 しても同 じ方 法 だった。桂 冠 詩 人 メタスタ
ージョの詩 に基 づき、同 じ歌 詞 を用 いていくつもの声 部 で作 曲 させ、まず声 部 書 法 を学
ばせる。例 えば《無 邪 気 な息 子 ;Quell innocente figlio》D17(15 歳 )では2声 から4声
ま で 9 つ の 稿 を 作 曲 さ せ 、 ま た ソ プ ラ ノ 用 の ア リ ア 《 不 幸 せ な 子 よ Misero pargoletto 》
D42(16 歳 )でも3つの稿 を作 曲 させて、イタリア語 にふさわしい旋 律 を指 導 している。アリ
ア《捨 てられたディドーネ Didone abbandonata》D510 もこの延 長 線 にある。ところでこれ
らの作 曲 の要 点 は、メリスマをどのようにつけるかであった。伸 ばす音 符 の動 き方 を、サリ
エーリは丁 寧 に指 導 している。こうしてシューベルトは、カンタービレな旋 律 法 を学 ぶのだ
が、やがて同 様 のことを、シラーの詩 によるドイツ語 歌 曲 に応 用 していく。《無 邪 気 な息
子 》D17 の独 唱 稿 は面 白 い例 を示 している。この曲 にはサリエーリの添 削 も残 されてい
るのだが、じつは同 じ 1812 年 にドイツ歌 曲 《小 川 のそばの若 者 》D30(シラーの詩 )も作
曲 していて、これら2曲 を比 べてみると旋 律 も和 声 もそっくりなのだ。シューベルトはイタリ
ア語 で練 習 をしながら、同 じ音 楽 をドイツ歌 曲 にあてはめてみたのであろう。ともあれ、シ
ューベルトは熱 心 に学 習 し、いくつかの自 筆 譜 には「サリエーリの弟 子 」と記 すほどであ
った。この表 記 を、純 粋 に尊 敬 の表 現 とみるか、宮 廷 楽 長 の弟 子 であることを誇 らしく明
示 しようとしたのか、このあたりは見 方 が分 かれるところである。
ジョアッキーノ・ロッシーニ(1792-1868)
1816 年 、ウィーンではじめてロッシーニのオペラが上 演 されて以 来 、その軽 快 でエ ネ
ルギッシュな音 楽 は人 々を魅 了 した。やがて 1822 年 に、ロッシーニと懇 意 だった興 業 主
バルバイヤがケルントナートーア劇 場 で「ロッシーニ・フェスティヴァル」を開 催 するにおよ
んで、ウィーンにはロッシーニ旋 風 がふきあれる。シューベルトも 1816 年 以 来 、その音 楽
に刺 激 をうけてい た が 、 「 フ ェ ス テ ィ ヴ ァ ル 」 後 は 一 層 興 味 を 示 し 、 本 格 的 な オ ペ
ラ《アルフォンソとエストレッラ》では、ロッシーニ的 なイタリアオペラの影 響 を映 し
出 している。
10
●作 品
初 期 のオペラ《悪 魔 の快 楽 荘 》 D84
多 くの作 曲 家 同 様 、シューベルトもオペラに強 い意 欲 を示 していた。断 片 を含 めて 19
もの 作 品 を 残 し 、 そ のう ち4 つの 作 品 は、 宮 廷 劇 場 と ア ン デア・ ウ ィー ン 劇 場 で 上 演 さ れ
て好 評 を博 した。ただしすべてドイツ語 の作 品 である。《悪 魔 の快 楽 荘 》はコツェブーの
台 本 によるもので、第 1稿 が 1813―14 年 、第 2稿 が 1814 年 。すなわち、交 響 曲 第 1番 、
ミサ曲 第 1番 と同 じ時 期 に作 曲 されている。ジングシュピールだが、明 るくなめらかな旋
律 はイタリア語 の歌 唱 様 式 でかかれているといってよいだろう。
●シューベルト新 全 集 <A9−588>XXII ぺージ
《糸 をつむぐグレートヒェン》D118
1814 年 10 月 19 日 作 曲 。感 情 をあふれさせた劇 的 な歌 唱 声 部 と、糸 車 をあらわすピ
アノ伴 奏 の表 現 は、それまでのドイツ語 歌 曲 の 枠 組 みを大 きく超 えたものであった。この
歌 曲 をもって近 代 ドイツ歌 曲 が誕 生 したといわれる。これもサリエーリに師 事 している時
期 の作 品 である。
●シューベルト新 全 集 <A1−834>
《交 響 曲 第 3番 ニ長 調 》D200
1815 年 5 月 から 7 月 にかけて作 曲 。ロッシーニのオペラはまだウィーンでは上 演 され
ていないが、現 代 的 なイタリア音 楽 は広 まっていたのかもしれない。この作 品 の第 4楽 章
は、あたかもロッシーニのオペラ・ブッファを思 わせる生 きのよさと、キレとがあふれている。
その弾 力 は第 6交 響 曲 へ、そしてさらには第 8交 響 曲 《大 ハ長 調 》へと発 展 していく。
●シ ュ ー ベ ル ト 新 全 集 〈A1−841〉
宗 教 曲 《オッフェルトリウム》D136
1815 年 作 曲 。ソプラノ(またはテノール)独 唱 に、クラリネット独 奏 が協 奏 風 に加 わる。
シューベル トの 声 楽 曲 のうちでも 最 もイタリア 的 なものの うち のひと つで 、 華 麗 な メリ スマ
に彩 られている。サリエーリのミサ曲 においても、独 奏 と独 唱 のコンチェルタントな楽 章 が
みられるから、おそらくそうした書 法 を模 範 にしたものであろう。コロラトゥーラの旋 律 は、
若 いシューベルトならではの美 しさである。
● シ ュ ー ベ ル ト 旧 全 集 <A1−804>
《スターバト・マーテル》 D383
1816 年 作 曲 。第 4曲 <二 重 唱 >。宗 教 曲 はシューベルトにとって重 要 なジャンルだが、
とりわけ聖 母 マリアを歌 った作 品 は深 い叙 情 性 をたたえている。美 しいメリスマ装 飾 や 1
音 を長 く伸 ばす歌 唱 の旋 律 線 は、イタリア・ベルカントの伝 統 をふまえたもの。若 いシュ
ーベルトの音 楽 はそこから多 くの栄 養 をえている。
●シューベルト新 全 集 <A11−407>XXI ページ
11
《ます》 D550
5稿 のうち第 1稿 と第 2稿 は 1816−17 年 作 曲 。若 いシューベルトの歌 曲 の魅 力 は、何
と い っ て も ドラ マ テ ィ ックな 朗 誦 と な め ら か な メ リ ス マ 装 飾 に ある 。 各 旋 律 の 末 尾 を 飾 る な
めらかな動 きから、《ます》の晴 れやかさは生 まれている。
●シューベルト新 全 集 <A1−837>
《イタリア風 序 曲 》ニ長 調 D590
1817 年 作 曲 。ロッシーニのオペラが 1816 年 にケルントナートーア劇 場 で上 演 されるや、
ウィーン中 がその魅 力 にひきこまれた。シューベルトものちにロッシーニの《セビリヤの理
髪 師 》を賞 賛 している。この序 曲 はロッシーニの音 楽 に、率 直 に反 応 した結 果 、生 れたも
の で あ ろ う 。 別 の 序 曲 ハ 長 調 D.591 と ペ ア ー で 作 曲 さ れ た 。 イ タ リ ア 風 i m
italienischen Stile(正 確 にはイタリア様 式 で) というタイトルは、じつはシューベルト自 身
ではなく、友 人 たちの間 でこう呼 ば れていたもの。シューベルト没 後 、兄 フェルディナント
が弟 の作 品 目 録 に記 載 する際 に、この名 称 を書 き込 んだとされる。名 前 の由 来 はともか
く、音 楽 はロッシーニの様 式 を思 わ せる。シューベルトはカンタービレの旋 律 や、 強 弱 法
を 存 分 に 駆 使 した 力 動 感 など 、 ロ ッ シー ニ の 手 法 を 快 活 に と りこ みな が ら 、 イ タ リア 風
をや っ て の け てい る 。 モ ダ ン な イ タ リ ア 音 楽 を 好 ん だ 当 時 の 風 潮 に 合 致 した の で あろ う、
シューベルトの器 楽 曲 として、はじめて公 開 演 奏 された。この曲 はシューベルト自 身 も気
にいったとみえて、《魔 法 の竪 琴 》序 曲 D644(ロザムンデ序 曲 として有 名 )の 2 箇 に、少
し形 をかえて転 用 している。
● シ ュ ー ベ ル ト 旧 全 集 <A1−794>
《声 楽 練 習 曲 》 D619
シューベルトの声 楽 曲 はどんな歌 唱 法 で歌 われていたのだろうか。最 近 の研 究 によれ
ば、19 世 紀 はじめのウィーンでは、あらゆる声 楽 曲 のメソッドとしてイタリア・ベルカント歌
唱 が一 般 的 だった。つまり訓 練 をうけた歌 手 は楽 譜 にない装 飾 音 のつけ方 、〈メッサ・デ
ィ・ヴォーチェ〉〈ヴィブラート〉といった伝 統 的 な唱 法 に精 通 していた。シューベルト歌 手
といわれたM.フォーグルも、このメソッドにそって即 興 的 に装 飾 音 を付 加 して歌 ったの
である。こうした歌 唱 法 に関 して手 がかりを与 えてくれるのが、シューベルトが作 曲 した
《歌 唱 練 習 Singübungen》D619 である。この練 習 曲 は 1818 年 、家 庭 教 師 をしていたエ
ステルハージ家 のカロリーネとマリーのために書 かれたもので、歌 詞 なしの2声 部 と数 字
付 き低 音 で記 されている。実 際 には下 声 部 はシューベルト自 身 が歌 ったようだ。この曲
でシューベルトが模 範 にしたのは、伝 統 的 なフックスの教 本 、そしてそれ以 前 のイタリア
歌 唱 練 習 曲 だった。
●シューベルト新 全 集 <C52−899>
イタリア語 の歌 曲 《4つのカンツォネッタ》 D688
1820 年 作 曲 。最 初 の2曲 はヴィットレッリ、あとの 2 曲 はメタスタージョの詩 。シュパウン
の 後 ぞえ に なったフラ ン ツィス カ・ ロ ーナ ーのた めに 作 曲 し たとみ られ 、 イタ リア 語 の 歌 曲
が愛 好 されていたことがわかる。
● シ ュ ー ベ ル ト 新 全 集 <A11−413>
12
国立音楽大学附属図書館所蔵
19 世 紀 に出 版 されたシューベルトの印 刷 楽 譜
1814 年 作 曲 ●17歳 《エンマに》D113 1815 年 作 曲 ●18 歳 《ヘクトルの別 れ》D312
《乙 女 の嘆 き》 D191 ウィーン ディアベッリ社 [1832] <MF6535>
1815 年 作 曲 ●18歳
《人 質 》 D246
ウィーン ディアベッリ社 [1830] < MF4425>
1817 年 作 曲 ●20 歳
《ピアノ・ソナタ (第 7 番 ) 変 ホ長 調 》D568 ウィーン ディアベッリ社 [1835]< MF3569>
1819 年 作 曲 ●22 歳
《夕 べの情 景 》 D650 ウィーン ディアベッリ社 [1831] <MF4425>
1822 または 1823 年 作 曲 ●25 または 26 歳
《湖 畔 にて》 D746
ウィーン ディアベッリ社 [1831] <MF4425>
1823 年 作 曲 ●26 歳
《怒 れる吟 遊 詩 人 》 D785
ウィーン ディアベッリ社 [1831] <MF4425>
1826 年 作 曲 ●29 歳
《2 つの性 格 的 な行 進 曲 》D886 ウィーン ディアベッリ社 [1829] <MF652>
1826 年 ●作 曲 29 歳
《ピアノ・ソナタ (第 18 番 ) ト長 調 》D894 ウィーン ハスリンガー社 [1830] <MF652>
1826?年 作 曲 ●29 歳 ?
《獅 子 王 リチャードの物 語 》 D907 ウィーン ディアベッリ社 <MF4425>
1828 年 作 曲 ●31 歳
《幻 想 曲 ヘ短 調 》 D940 ウィーン ディアベッリ社 [1829] <MF3416>
参考文献
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13
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1998<J91-049>
シューベルト関 連 の図 版
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『ベートーヴェン全 集 』 第 5 巻 講 談 社 1998 <C63-339>
『サントリ ー音 楽 文 化 展 84 シューベル ト』 サントリー 1 984 <C 40-447>
日 本 語 によるシューベルト文 献 (主 に 1997 年 以 降 から抜 粋 )
エーリヒ ・ドイ ッチュ 編 『シ ューベル ト 友 人 たちの 回 想 』 石 井 不 二 雄 訳 白 水 社 19 78 <C2 7-874 >
喜 多 尾 道 冬 『シューベル ト』 朝 日 新 聞 社 19 97<C6 2 -203 >
石 井 誠 士 『シ ューベル ト. 痛 みと 愛 』 春 秋 社 19 97 <C 62-041>
エーリヒ・ドイッチュ編 『シューベルトの手 紙 』実 吉 晴 夫 訳 ・注 解 (国 際 シューベルト協 会 刊 行 シリー
ズ) メタモル出 版 1997 < C61-8 83>
エル ンスト・ヒ ルマー『シューベルト』 山 地 良 造 訳 音 楽 之 友 社 20 00 <C64-500>
村 田 千 尋 『シ ューベル ト』 音 楽 之 友 社 2004 <J101-477>
14
シューベルト●参考年譜 (藤本一子編)
1797
1月31日フランツ・シューベルト誕生(現ウィーン9区) 第12子
ハイドン《皇帝賛歌》
1798
1
1799
2
1801
4 生徒が増えたためゾイレンガッセに転居
(新)アン・デア・ウィーン劇場開場
1802
5
「コンヴィクト」新設
1803
6 父の学校に入学
1804
7 ホルツァーにヴィオラ,オルガン,通奏低音などを習い,聖歌隊で歌う
1805
8 父,兄からヴァイオリンとピアノを学ぶ
ナポレオン,オーストリアに侵攻
すでに宮廷楽長サリエーリに紹介されていたともいわれる
ナポレオン皇帝即位
オーストリア皇帝フランツ2世
《エロイカ》交響曲初演
ナポレオンがウィーンを占拠
1806
9 宮廷礼拝堂歌手の試験をうけてサリエーリから合格点をもらう
1807
10
1808
11
再度、宮廷楽団に応募し、ソプラノ歌手として採用され,同時に市立ギムナー
《運命》《田園》初演
ジウムに寄宿生となる
ツェルター「リーダーターフェル」創設
ウィーンに娯楽場(アポロザール)開設
1809
12
ハイドン没
ナポレオンがウィーンに再入城。
メッテルニヒ外相
1810
13 現存する最初の作品《幻想曲》(連弾)この時期に作曲。
1811
14
ショパン/シューマン生
ナポレオンがオーストリア皇女と再婚
リスト生
弦楽四重奏曲D18,最初の歌劇《鏡の騎士》
ゲーテ『詩と真実』Ⅰ
交響曲の最初の試み。歌曲《葬列の幻想》(断片)《ハガルの嘆き》《乙女の
嘆きⅠ》《父親殺し》
1812
1813
15 母死去
ウィーン楽友協会設立
サリエーリに対位法を学び始める(1816年まで)
ナポレオンのロシア遠征
変声により聖歌隊を退く
ゲーテ『詩と真実』Ⅱ
16 父が再婚(シューベルトの14歳上の女性)
ベートーヴェン《ウェリントンの勝利》
メーアフェルト財団奨学生に選ばれるがうけず。
ベートーヴェン《第7交響曲》
ギムナジウムを卒業。コンヴィクトを出てアンナ師範学校に通う
ヴァーグナー,ヴェルディ生
交響曲第1番,歌劇《悪魔の快楽荘》
対フランスの「解放戦争」始まる
《墓堀り人の歌》《管楽8重奏》シラーのバラード数多く作曲
1814
1815
17 師範学校の教職修了,父の学校の補助教師になる
《フィデリオ》第3稿上演
★ミサ曲第1番(リヒテンタール教会100年記念祭)
ナポレオン退位,エルバ島へ
数多くのゲーテ歌曲
ウィーン会議始まる(9月18日∼)
数多くのマティッソン歌曲,10月19日《糸を紡ぐグレートヒェン》
リュッケルト『ドイツ詩』
18 テレーゼ・グロープに恋を告白
メルツェルのメトロノーム特許
歌曲の年(145曲)
ウィーン楽友協会第1回定期演奏会
交響曲第2番,第3番,ミサ曲第2番,《魔王》などゲーテ歌曲
ナポレオンがエルバ島脱出
歌劇《クラウディーネ・フォン・ヴィラ・ベッラ》 《オッフェルトリウムハ長調》
100日天下ののちセントヘレナ島流刑
ウィーン会議終結(6月9日)
キリスト教ヨーロッパ統一のための「神聖同盟」締結
15
シューベルト●参考年譜
1816
19 父の家を出る。
ロッシーニ《タンクレーディ》ほかウィーンで上演
ライバッハ(リュブリヤーナ)の音楽教員に応募(不採用)
竪琴弾きの歌曲
ゲーテに歌曲を送るが応答なく,のちに返送される
ヴァイオリンソナタ,交響曲第4番,第5番,《さすらい人》
1817
20 フォーグルと知り合う
楽友協会歌唱学校(音楽院)
ピアノ・ソナタの年
メッテルニヒ検閲強化
《死と乙女》《ます》《音楽によせて》《2つのイタリア風序曲》
『ウィーン総合音楽新聞』創刊
「ナンセンス協会Unsinnsgesellschaft」に通う
1818
21 父の転任にともない一家は郊外のロスアウ地区に転居。父を補佐
ウィーン初の劇場舞踏会(アン・デア・ウィーン劇場)
夏と秋はジェリツに滞在:エステルハージ家の音楽教師
「ルートラムスヘーレLudlamshoele」(会員106名)活発
はじめて作品が印刷される《エルラフ湖》(雑誌付録)
蒸気汽船ドナウ川で試運航
イタリア風序曲がローマ皇帝館で初演。ウィーン音楽界に名が出る
バイロン『チャイルド・ハロルドの遍歴』
シェ−ンシュタイン男爵(ハイバリトン)と知り合う。
マイアーホーフェーと2年にわたる同居
交響曲第6番
1819
1820
22 シュヴィントと交友始まる
ザントがコツェブーを暗殺
マイアーホーファー歌曲,ゲーテ歌曲
すべての学生集会禁止
《羊飼いの嘆きの歌》公開演奏
王宮前バスタイに一流コーヒ店開店
フォーグルと上オーストリアに旅行
ゲーテ『西東詩集』
23 友人ゼン危険分子として投獄
ウィーン初の女性気球乗り
歌劇《双子の兄弟》《魔法の竪琴》上演
テレーゼ・グロープ結婚
歌曲作曲家として声望たかまる
《ラザロ》《シャクンタラ》《四重奏断章》(いずれも未完)
1821
1822
24 ケルントナートーアのコンサートで歌曲3扁がとりあげられる
ウィーン音楽院設立
《魔王》Op.1出版売れ行き上々
ナポレオン没
夏はアッツェンブルック,ザンクトペルテン,9月はオクセンブルク
メッテルニヒ,宰相に任命
記録上はじめての「シューベルティアーデ」
ギリシャ独立戦争始まる
楽友協会演奏会に登場
ミュラー『旅をするホルン吹きの遺稿Ⅰ』
25 ヴェーバーと会う(魔弾の射手上演に際して)
ヨーゼフシュタット劇場新装
(梅毒に感染・発病?)
ケルントナートーア劇場「ロッシーニ・フェスティヴァル」
アッツェンブルックで「シューベルティアーデ」
ベートーヴェン・ピアノソナタ第32番
ウィーン楽友協会会員
バイエルン,ルートヴィヒ1世即位
ミサ曲第5番(Ⅱ稿)
新任のウィーン大司教保守教会政策を促進
寓話『僕の夢』,《未完成交響曲》《さすらい人幻想曲》
歌曲《こびと》,歌劇《アルフォンソとエストレッラ》 1823
26 シュタイアーマルク音楽協会名誉会員
《オイリアンテ》ウィーン初演
★5ー7月ウィーン総合病院に入院
ヴェーバー没
シュタイヤー,リンツ旅行
フォルクスガルテンに演奏会場をもつ
ウェーバーと諍い《アルフォンソ・・・》ベルリン上演計画中止
カフェーハウスが建てられ,市民の憩いの場となる
《美しい水車小屋の娘》,劇音楽《ロザムンデ》,歌劇《フィエラブラス》
ピアノ五重奏曲《ます》
16
シューベルト●参考年譜
1824
1825
27 夏と秋はハンガリーのジェリツで。《グランデュオ》
ベートーヴェン《第9》《ミサソレムニス》初演
《さすらい人の夜の歌Ⅱ》,《アルペジョーネ・ソナタ》
ランナー楽団設立
弦楽四重奏《ロザムンデ》《死と乙女》
ブルックナー生
シュパンツィク四重奏団《ロザムンデ》演奏
ミュラー『旅をするホルン吹きの遺稿Ⅱ』
28 オーストリア中部旅行。グムンデン・ガスタイン交響曲作曲
「シューベルティアーデ」盛ん(宮廷書記官邸宅など)
サリエーリ没
ヨーハン・シュトラウス(父)楽団設立
人気が高まり肖像画が売りに出される。
ウィーン楽友協会補欠理事に推挙
ベルリンでアンナ・ミルダーが《魔王》《ズライカⅡ》演奏
ゲーテに献呈の歌曲を送るが返信なし。
《若き尼修道女》ピアノソナタイ長調,イ短調,ニ長調
1826
29 ピアノソナタイ短調D845出版。長文の批評により賞賛
「ルートラムスヘーレ」解散命令
シュパウン家で大規模な「シューベルティアーデ」
ヴェーバー没
父シューベルトがウィーン市民権を取得
ハイネ『旅の絵』,ザイトル『詩集Ⅰ』
宮廷副楽長に応募するが叶わず
ウィーン楽友協会に交響曲提出(グムンデン・ガスタイン=大ハ長調)
弦楽四重奏《死と乙女》演奏
《春に》《幻想ソナタ》
ヴィルヘルム・マイスターからミニョン歌曲
1827
30 2月から《冬の旅》Ⅰ部。病床のベートーヴェンを見舞う
ベートーヴェン没
高い水準で「シューベルティアーデ」開催
ディアベリ社,ハスリンガーから作品出版
秋にグラーツ滞在後,《冬の旅》。《幻想ソナタ》賞賛される ウィーン楽友協会理事推挙
シュパンツィクらが《8重奏曲》演奏
ベートーヴェンの葬列で松明持ち
《即興曲》《ドイツ・ミサ》
1828
31 《冬の旅》Ⅰ部出版。《大ハ長調》完成。
パガニーニ旋風
作品の出版依頼が相次ぐ
自作演奏会を催すが批評にとりあげられず。
ベーゼンドルファー製造開始
おそらくショーバーの朗読会でハイネの詩を知る
レルシュタープとハイネの詩による歌曲。ミサ曲第6番,弦楽五重奏曲
最後の三つのピアノソナタ,《岩の上の羊飼い》《鳩の使い》
腸チフスの病床で《冬の旅》Ⅱ部校正。友人たちがBeのOp.131を演奏
死去。ヴェーリング墓地に埋葬。1ヶ月後追悼式典
1829
《白鳥の歌》出版
1830
作品全集刊行予告
フランス7月革命
17
図書館展示6月●2004
Franz Schubert
若いシューベルトのイタリアニズム
編集:染谷周子・高田涼子 国立音楽大学附属図書館2004.6.