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パリ籠城期(1870年9 月18日〜1871年1月28日)におけるフランスとヨーロッパ-6[11/11〜11/20]
翻訳:横浜市立大学名誉教授 松井道昭
【238】
11月11日(金)
(戦況)
本日の『アンデパンダンス・ベルジュ』紙によれば、トゥールとオルレアンでロワール軍と、
オルレアンを占領したフォン・デア・タン von der Tann(将軍)軍団の間で一時中断されてい
た交戦の再開を示すと思われる幾つかの軍事行動がみられる。
イギリス紙でひろまる解釈によれば、同将軍は攻撃を仕かけるためシャトーダンとオルレアン
の間に軍を集中。逆にトゥール発の至急報によれば、同将軍はこの町の両方で 11 月 9 日に発生
した重要な交戦ののちオルレアンを撤退し北方に向かった。したがって、これはフランス軍が優
勢であること示している。メッスの包囲を解いたドイツ軍がフォン・デア・タン将軍とヴェルダ
ー将軍を支援するため南下した状況を考慮に入れると、【239】左手から包囲される気遣いのな
くなったフォン・デア・タン将軍は自ら望みさえすれば軍事作戦を再開できたであろうし、その
ことでロワール軍ともども派遣部をトゥールの町から引き揚げさせたと考えねばならないだろ
う。
ヴェルダー将軍とフォン・デア・タン将軍に対抗するためジュラ渓谷とソーヌ渓谷を守る任を
帯びたミシェル Michel とガリバルディ両将軍からは何のニュースも入らない。
バーデンの町のヴィユ=ブリザック発の電報はヌフ=ブリザックのフランスの町は国旗を掲
げ、戦闘を停止したという。しかし、ミュンヘンの至急報の述べるところによれば、このニュー
スの確認はまだとれていない。いずれにせよ、それは時間の問題であろう。11 月 8 日以降、包
囲された町の主要な要塞は降伏していたのだから。
(ヨーロッパにおける軍事再興計画)
プロイセンの軍事行動は各地で軍隊再建の問題を提起した。イタリアとベルギーは軍事的再組
織化の研究にすでに着手し、プロイセンの軍組織が全ヨーロッパ諸国に改革の必要性を認識させ
た。イタリアとベルギーにつづいてロシアも、自国軍のおける軍制に大刷新によって活性化させ
るための準備をおこなう。特別委員会の討議に付された現法案によると、兵役年を 12 年から 6
年に短縮することが懸案となっている。これは後に 3 年に短縮され、すべての市民の義務とさ
れる予定である。
あらゆる点でかくも嘆かわしい現実の諸事件は少なくともヨーロッパにおいては幸運な結果
をもたらすであろう。常備軍 ― すなわち、戦争施設や主権者による語るも恥ずかしい野心と悪
意の従順で盲目的な道具 ― の廃止がこれだ。
(イタリア)
イタリアでの幾つかの選挙集会は遷都先としてローマがふさわしいとの希望を表明。
1
(ローマ)
教皇はヴィットーレ=エマヌエーレが到着するやいなや、ローマを離れだろうと言われる。教
父がイタリアの新都でもはや独立と安全を見いだせないと主張し、代わりにそれらを求めたのは
ケルンである。共和派の示威行動がローマで増えつつある。【240】ラ・マルモラ将軍は前進基
地の黒猪 Bête noire であり、農村では新秩序が設定するにいたった税のために農民たちは叛旗
を翻した。農民たちの激怒を惹き起こしたのは挽賃税である。教皇政治はサン=ピエトロのドゥ
ニエおよび問題のものと同様、ローマ人が賦課を免れていた財源をもっていたことが知られてい
る。[注:意味不明瞭??]
(スペイン)
アオスタ公のスペイン王への就任はエスパルテロ Espartero の支持を得るであろう。そして、
その成功はほとんど確実なものと見られている。
諸新聞は全党派の属するマドリードの新聞 29 人の編集者によって著名された宣言文を発表し、
彼らがアオスタ公のスペイン王への就任に反対しつづけることを決めたという。
(オーストリア)
レタ河のこちら側の代議士会が 11 月 8 日に開かれ、勅語奉答文の起草の任を帯びた 15 人委
員会を任命し、その仕事に着手した。チェコの選挙問題に発する政府の危害を起させるのは奉答
文の論争であった。その危機の向こうに何があるかは知られていない。ウィーンの新聞のなかで
ゲルマンの憲政主義の伝統に回帰する傾向が示される。フランスでの諸事件はこの運動において
あながち無縁ではない。後継者としてポトッキ Potocki 伯を指名するのも同じく問題であろう。
このような選択はほとんどスラヴ人を喜ばせるものではないし、ハンガリー人には突きつけられ
た挑戦状に等しいものがあろう。ハンガリー人はこの大臣に対して彼らがおこなった闘いを忘れ
ていないからだ。
(メッス包囲)
メッス攻略の間、負傷者の看護に没頭していたラウル・アルゼ Raoul Harzé 医師はリエージ
ュの新聞でおもしろい詳細を口頭で伝えた。
【241】
…[中略]…
アルゼ医師はブリュッセルの委員会によって赤十字ベルギー派遣委員としてメッスに送られ
ていた。この町には同じ資格で他に2人の外国人医師がいた。ロンドンのウォード Ward、ジュ
ネーヴのロンバール Lombard 氏がそれである。
(ドイツにおけるフランス虜囚)
『ガゼット・ド・トレーヴ Gazette de Trève』が引用する側 ― 人間味溢れる歓待で名誉あ
る人物 ― によれば、フランス人捕虜がこの国に収容されているという。
(ブルジェ事件)
守備隊総司令官アウグスト・フォン・ヴュルテンベルク侯は 10 月 30 日のブルジェの戦闘に
際し、彼の軍隊に以下の命令を下した。…[中略]…
2
【242】
(ディジョン)
ディジョン市当局とプロイセン軍当局の間で調停された約定の本文を諸新聞が発表。この報告
は、それがディジョン市民とプロイセン軍の新たな友人との間で確立しようとする「好ましい関
係」の見地と同様、(フランス語におけるドイツ語、ドイツ語におけるフランス語の)文体の見
地から見ても奇妙である。
(鉄道とプロイセンの要求)
われわれは先に、プロイセン軍とディジョン市民の間で確立された「好ましい関係」について
ふれた。しかし、事態はどこでも良好であったわけではない。かくて、アルザス、ロレーヌおよ
びランスの付近ではプロイセン軍の通信の自由と安全を確保するためにプロイセン軍は主要都
市と市町村の名士に命じて近くの窯炊中の機関車に乗るよう強制した。この手段を予め知った住
民はプロイセン軍機関車の脱線を図る。このため、最も品位があり、最も名誉ある同胞のうち数
人が死んだ。
ランス市の市長、助役、市議会議員は代わりにプロイセンの機関車に乗るべく要請された。し
かし、彼らはまったく新しい性質の措置に対して激しく抗議したのちにようやく従った。
【243】
(ティエール氏の旅行と教皇の仮政権)
『タイムズ』紙によれば、彼の赴いたすべての宮廷の近くでティエールはフランスの利益と同
じく教皇の利害を擁護した。
ルイ=フィリップ治世の最初、ティエールはカトリック主義の最も断固とした、最も熱心な敵
手に数えられていた。1870 年の今、第三共和政治下でこの同じティエール氏は仮政府のもっと
強靭で最も熱心な擁護者に数えられる。もうしばらく時間が経てば、彼は臨時政府の支持者とし
てヴイヨー氏のレヴェルに到達するであろう。…時はこうも変わったのだ!
おそらく少々無遠慮であるかもしれないが、われわれはひとつの事柄を知りたい。ティエール
氏の信心深い信条 Credo が異なった態度に従って方針を変えたとするなら、宗教問題における
見解の変化は彼の本能と老練な保守主義的関心によって導かれたものではないことを。
(ボナパルト派の論争とモルガン借款)
ロンドンの『シテュエーション』紙は、クレマン・ローリエ氏がロンドンでトゥール派遣部の
名において交渉した 2 億5千万の借款について激怒する。まず共和政府がモルガン家から得た
利点より優れた申し出を拒絶したかどで告発された。次に塁を及ぼす軽率な行為のゆえに彼を非
難し、大きな訴訟を彼のせいにした。これらの攻撃はトゥールの保守系新聞や『コンスティテュ
ショネル』紙に反響した。
ローリエ氏は同紙に一文を寄せ、ロンドンのいかなる筋も、噂に上っている 96%の利子率で
トゥール政府の借款を引き受けないと訴える。ローリエ氏はレビュック Rœbuck という人物によ
って演じられるのがふさわしいという。【244】しかし、軍需品について彼を追及したレビュッ
クが議会議員ではなく、単なるこの政治家の肩書を僭称した同名異人にすぎないことが判明し、
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ローリエ氏は彼との会見を断った。したがって、前述のレビュックは損害と利子を彼に請求する
権利があると主張しているのだ。
【244】
11月12日(土)
(戦況)
ようやく勝利が来た! プロイセン王により「アウグスタ」宛ての電文のかたちでまさしく麗
しくすばらしい勝利が明らかにされた。オルレアンを占領し、さらに攻勢をかけようとしたフォ
ン・デア・タン将軍はロワール軍の前で占拠地点を放棄し退却せざるをえなくなったのだ。これ
に関しては単にかれらの地点を奪還するためにドイツ軍は近日中に移動するとだけ報じられた。
かくて彼らは要塞で待機する。フォン・デア・タン将軍は以後、トゥーリにおいてシャルトルか
ら来援したウィティッヒ Wittich 将軍とアルベルト Albert 侯の軍隊によって補強された。メク
レンブルク大公は昨日中に合流したものと推定される。
新たなショックは極大であった。数のうえで劣勢に立たされながらもフォン・デア・タン軍を
撃破したロワール軍は、かくも果敢な戦いによってパリとフランスの解放に関し同軍にかけられ
た期待を担う。
オルレアン市をロワール軍の手中に奪還した戦い、とりわけクールミエ Courmiers に集中さ
れた戦いは9日と 10 日の2日間に亘り敢行された。フランス軍の損失は 2 千を超えないとみら
れ、対するプロイセン軍はかなりの被害を出し、戦闘中とその後において 1 千を超える捕虜を
出したとみられる。
もうひとつの降伏、これは名誉あると同時に真摯なものである。ヌフ=ブリザックの町は一昨
日の夕方降伏し、5 千の捕虜と 100 門の大砲をドイツ軍に引き渡した。8 日以来、包囲された砲
台は奪取された。
やがてドイツ軍はシャスポー軍となろう。開戦時、ライン渡河の行軍命令時に顕著に確かめら
れたように、銃剣に対するシャスポーの優越は今ではふつうに認められている。【245】そのう
え、これらすべての銃はフランス全土にひろがり、新たな動員のための武器を見てソラ恐ろしく
なるほどに強力である。スダン、メッスで投降した軍隊で捕獲された銃 ― 25 万挺とみられて
いるが ― とは別にメッス要塞の降伏は勝利者に 8800 万フラン相当の軍需物資を引き渡すこと
になったが、そのなかにシャスポーの貯蔵があった。
ベルリン筋の観測によれば、トロシュ将軍はパリ大出撃戦を準備しているといわれる。
プロイセン軍はつねに南下をめざして進軍中。同軍はすでにニュイ Nuits にいるといわれる。
困難と放棄についてとやかくいわれるガリバルディはシャニーChagny およびサン=ジャン・
ド・ローヌ Saint-Jean-de-Losne でプロイセン軍を迎え撃つ準備をする。彼は一般に考えられ
ている以上の軍隊を擁しており、彼と義勇兵の関係は噂されるほどには緊迫していない。
ディジョンの防衛軍の司令官を突如辞任したラヴェルヌ Laverne 博士は不器用かつ不完全な
方法でこの町の防御を試みなかった。だが、ヴェルダー軍の最初の一撃に抵抗すべく運命づけら
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れたのはシャニーとサン=ジャン=ド=ローヌではなく、ディジョンであった。
(メッスの降伏)
メッスの降伏に対してと、それに先行する陰謀に対して抗議するのは何も共和派に限られた話
ではない。元ボナパルト派に属し旧立法院の多数派のひとりで、メッス市会の議員であるド・ブ
テイエ De Bouteiller 氏から告発された人物に関する証拠がここにある。
降伏までメッスに居残り、事態をつぶさに観察したこの政治家は特にコフィニエール将軍とバ
ゼーヌ元帥を攻撃し、彼らの手元におかれた莫大な人的・物的資源を利用しなかったと告発する。
ド・ブテイエ氏は降伏の報を聞いて、コフィニエール氏の居宅の前で爆発した絶望と激怒のシー
ンを物語る。彼に向けられる不平・不満や攻撃からこの将軍が自己弁護することの不可抗力さを
ブテイエ氏は明らかにし、調査委員会がいつの日かコフィニエール氏と各人の義務履行したやり
方を尋問すれば、メッス人の悲痛に満ちた声を耳にするであろうと付言する。
(ロシア、東方における黒点、1856 年条約破棄通告)
最も不明瞭で、最もまちまちな推測の声を聞く重大ニュース! ロシアは 1856 年条約の署名
諸国に通達を送り、ロシアにとって不利な当条約の幾つかの箇条の検討および修正を通告する。
一方、ロシア政府の高官は、プロイセンへの活発な同情の証拠としてプロイセン皇太子がロシ
ア軍の陸軍元帥に任命されたと言明。【246】皇帝従者の某将軍がこのニュースをヴェルサイユ
へ伝達する任を帯びた。
この黒点とは何か。どんな嵐がわれわれを襲うというのか?
(休戦協定のための交渉)
ビスマルク氏から諸外国駐在のドイツ連邦代理官に宛てたヴェルサイユ交渉の決裂問題に関
する通達についてかなり長文の分析を電報がもたらす。この資料はとりわけそれに伴う注釈によ
るのと同時に事実の暴露によって、戦争長期化の責任がもっぱらフランス政府に帰さねばならな
いことを言いたがっている。フランス政府は国民の意思を自由表明することも、休戦を締結する
という願いのどちらもっていないように思える。
(ローマ)
ローマ発の情報によれば、汎イタリア主義のクラブや協会は大臣マミアニ Mamiani に圧力を
かけてジェスイット教団の追放を熱心に求めている。新政府は国家の費用に拠らないかたちで公
教育をうちたてるであろう。
(スペイン)
アオスタ公がスペイン国民の人民投票に拠ることを条件としてスペイン王位への就任を受諾
すると希望しているという報道は否認される。ヴィットーレ=エマヌエーレの息子は、普通選挙
から生まれた議会が彼を国王として選んだとしても僥倖とみて、スペイン国民による真正の選出
と見なすだろう。
一方、エスパルテロ Espartero 氏はアオスタ公の対抗馬といわれる。このような同意は水曜
日にスペインが要請するように思われ、強く要請される国王をスペインに与えるであろう。それ
は時が経てばわかることだ。
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(未来のスペイン王妃ド・ラ・システルナ De la Cisterna 嬢)
近日中にイサベルの王座に就かんとするアオスタ公爵夫人の家族および家系図についての奇
妙な詳細。…[中略]…
(マルセーユの民兵の帽子)
【247】 前にわれわれがその解散と国民衛兵への編入について述べたマルセーユの民兵はすべ
ての保守派の恐怖の的であり、嫌われ者である。…[中略]…
(休戦協定に関する望み)
ヨーロッパと同じくフランスでも民衆がヴェルサイユで開かれている交渉において休戦協定
の締結とそれにつづく和平の約定に到達するのにどれほどか熱望していることか。パリの近隣か
ら『ガゼット・ド・コローニュ』紙に宛てられた以下の書簡は今述べたことを裏づける。…[中
略]…
【248】
(捕虜となったバイエルン人将校の忍従と哲学)
『西部同盟 Union de lOuest』 紙に掲載されたオルレアン撤退についてのエピソード。…[中
略]…
(鬘髪、伊達者の宣戦布告)
1か月前、不従順、酔っ払い、乞食の習癖をもつ者に宣戦布告をおこなった『ル・シエークル』
紙は「鬘、偽の巻き髪、だて者精神」と宣言する。同紙は、声高に宣言する『ゴーロワ』紙と『フ
ィガロ』紙がそれぞれ 500 部ほどに落ち込めばフランスの教化的名誉と使命に資するであろう
し、締結されうる講和は【249】「泥土の中での停止」にすぎないだろうと言う。
(メッス包囲の最中における義勇兵)
…[中略]…
【250】
11月13日(日)
(戦況)
あらゆる地点で地歩を固めつつあるロワール軍の勝利に加え、ブルゴーニュ側からもフランス
軍がもたらしたもうひとつの勝報が舞い込む。フランス軍はサン=ジャン=ド=ローヌ
Saint-Jean-de-Rosne において敵先鋒の攻撃からソーヌ川に通じる通路を死守したという。ニヴ
ェルネ Nivernais 鉄道の結節点シャニーは堅守されており、ドール Dôle から義勇兵と遊動隊を
従えてきたガリバルディはマコン Mâcon でめざましいはたらきをする。
したがって、ヴェルダー軍の前進に関する話はもはや聞かれない。にもかかわらず、リヨンで
敵兵の前進を遅延させうる軍勢に関して幻想は禁物である。ましてや、これら障碍を逸らすにせ
よ、正面から接近するにせよ、守り抜くことはできない。当局は包囲に備え精力的な措置をとり、
全住民は防御に余念がない。
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他の施策のなかに、バリケード委員会の編成を指令する県条例がある。国民衛兵は防備施設で
働く。住民に2か月間の食糧調達が求められる。劇場は命令で閉鎖された。
フランスとその政府は、ロワール軍の勝利がもたらした歓喜の渦中にある。
ガンベッタ氏は 11 月 9 日と 10 日、戦闘結果を祝福するためオルレアンに赴く。彼は軍隊に
次の宣言文を捧げた。…[中略]…
【251】
(プロイセンにおける休戦協定の拒絶)
…[中略]…
(東方の黒点、1856 年条約の廃棄通告)
ウィーン発の情報によれば、コンスタンティノープル、ウィーン、ロンドン駐在のロシア外交
官はロシアが 1856 年条約にもはや縛られないことを公式に伝えた。
(ローマ)
ラ・マルモラ将軍は新たにイタリアに併合された教会国家の部分からイエズス会教団の追放と
弾圧を布告。この措置はフィレンツェ政府の決定により承認された。
アルトネリ Artonelli 枢機卿は諸外国に対し、同教団追放が失敗に終わったとき、教皇がイタ
リアから自由に脱出できる保証を要求。プロイセン、バイエルン、オーストリア、フランスから
諾答が来る。したがって、ヴァチカンでは出発計画が熱心に追求されているようだ。だが、ピウ
ス九世はローマ以外のどこへ行くというのか? 現在、教皇至上権論や臨時政府の思想にとって
イタリア以外に条件の揃った国がどこにあるというのか? 【252】ローマでは現政府は教会と
国家の絶対的な分離の原則にもかかわらず、教会にあらゆる名誉と可能な独立性を保証している。
――われわれが前に述べた、教皇がケルンに赴くという説は否認された。
(抵抗精神)
オルレアンとブルゴーニュの城下でもたらされたばかりの部分的勝利がなおまだ知られてい
ないのに、2 日前のトゥールで人々はフランスの状況をどう評価しているのか。…[中略]…
ボルドーでは愛国的発揚が示される。学生たちは 18 才に達した者の総動員を要求する。一方、
国防委員会の委員 ― そのなかにラスクール Lascours とドカーズ Decaze 両将を含む ― は、
トゥール派遣部が発令したばかりの総動員令が遅滞なく速やかに実施されるべきことを要求す
る。すべての劇場やカフェ・コンセールは閉鎖された。
【253】
カオールではローLot の義勇兵とガリバルディ派の義勇兵が組織された。司教は義勇兵の兵籍
登録を支援する。
ブレスの農民はごく最近、リヨン市のための徴発という口実で家畜や穀物を徴発しようとする
武装集団を銃でもって撃退した。彼らはドイツ軍に対しても同じような対応をとるであろう。
(マルセーユにおける鎮圧)
マルセーユは完全に平静をとりもどす。新知事は市役所で、知事暗殺計画のなおまだわからな
い主犯の捜索の断念を宣言。勇猛果敢なガン氏が暗殺者の訴追を退けたのは驚くにあたらない。
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彼はこの寛大な態度を蜂起直前において彼に突進した過激派グループにさえ拡げた。
諸党派平定の公的証拠を示すために知事は、国民衛兵が前任者の息子と友人エスキロスの葬儀
に参列するよう希望した。じっさい、葬儀は非武装の 1 万人の衛兵と若い義勇兵すなわち 16~
20 才の民兵 ― ウィリアム・エスキロス Williams Esquiros の息子が司令官である ― の参列
下でおこなわれた。埋葬は純粋に非宗教形式で挙行された。父が墓場まで随行したが、彼は僧侶
の随伴を望まなかった。同様に火曜日に墓地では共和主義の熱心な演説がなされた。
(サヴォワにおける国防)
チラシによれば、サヴォワでは敵接近に対抗するための準備がはじまったようだ。オート・サ
ヴォワ県会の幾人かの議員は同僚の積極的な同意がないままに連盟兵によって中立地帯の選挙
を確保するためスイスに前進。ベルンは、フランス政府の同意がなければなにもしないと答えた
もよう。
オート・サヴォワではトノン Thonon、エヴィアン=レ=バン Evian-les-Bains、サン=ジュリ
アン Saint-Julien の各市会とボンヌヴィル Bonneville の共和主義委員会がバゼーヌの投降に
ついて熱狂的で精力的な共感でいっぱいの声明文と共和主義政府支持文を採択した。ボンヌヴィ
ル委員会は以下を表明。
【254】
…[中略]…
幾つかの失敗を犯したフランスを慰める言葉、さらに最後のオート・サヴォワの村落。
遊動隊と義勇兵の兵籍登録はサヴォワ全体にわたり、あらゆる階層の婦人による慇懃な協力を
得て最大の成果をおさめた。
アルベールヴィル Albertville で集められた遊動隊大隊 ― 兵営外でサヴォワに残された唯一
の大隊 ― は、その将校が選挙制にもとづいて選出されねばならないと主張する。
嘆願書で若い兵士のいうところでは、
「12 月 2 日の男、つまりスダンの男の命令によって任官
した司令官の指揮のもとで行進しなければならない。」
(トゥール派遣部の借款とパリ新聞の批判)
パリの幾つかの機関紙は、ロンドンでローリエ氏がおこなった借款を批判。『モニトゥール・
ユニヴェルセル』(トゥール)がこの批判を証拠づける。
【255】
(メッスにおけるプロイセンの自由主義)
プロイセンによる締めつけはメッス住民のうえに重くのしかかる。気に入らないジャーナリス
トを投獄するだけで満足せず、勝利者は検閲を始めた。少なくとも幾つかの新聞でそれを読むと
ることができる。
(ジェール Gers のパルティザン)
『シュターツ=アンツァイガーStaats-Anzeiger』などのプロイセンの新聞はジェールのパル
ティザンの行動と物腰を嘲弄。
(バゼーヌ元帥への返答)
軍隊をこのうえない凌辱に曝し、彼の野心のため利用する目的においてバゼーヌ元帥は部下の
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兵士に向かって、フランス北部とリールはなにがなんでも講和を欲していたと言明。【256】以
下の文章はリール市からの、虚偽に満ちた向こうみずの断言に対する、断固たる返答である。…
[中略]…
11月14日(月)
(戦況)
ティオンヴィルへの砲撃が始まり、その町は炎に包まれているらしい。
ベルリン発の電報によれば、プロイセン軍はオルレアン事件で 42 人の将校と 667 人の兵卒を
戦死または負傷で失ったにとどまった。
これらの数字は明らかに実数を下まわっている。なぜというに、勝利を収めたフランス軍は 2
千人を戦闘不能にしたからである。フォン・デア・タン軍は退却中も追撃を受けた。したがって、
同軍の損失がフランス軍のそれより小さいことはありえず、それゆえ、プロイセン軍がこの会戦
― 10 万のフランス軍が、戦闘に習熟し、優れた装備を擁する 6 万 5 千のプロイセン軍を撃退さ
せた ― における死傷者の実数を隠しているのは明瞭である。
(共和政の官報を読まねばならないこと、ガンベッタの通達)
ガンベッタ氏は知事と副知事に通達をだした。 …[中略]…
(プロイセン)
【258】 第二院の総入れ替えのため第一回選挙が 9 日におこなわれた。同選挙は状況を何ら変
えるものではなかった。深遠な共和主義者から挑戦を受けたヤコビーJacoby 氏はベルリンで当
選。国民党はハノーファに彼を派遣し、フランクフルトに護送されるといわれる。
(ドイツの統一)
ヴェルサイユでのドイツ問題交渉の進捗に関する最新情報はヴュテンベルク、バーデン、ヘッ
セン=ダルムシュタットは連邦への加盟という点でおおむね合意成る。しばしば、そして数日前
もまた、ミュンヘン政府の意向に沿った有利な規定が提起されたもよう。『モニトゥール・プロ
イセン』紙に宛てられたヴェルサイユからの一書簡はバイエルン王の大本営訪問の偶発事につい
て語る。これらすべてはバイエルンが最終的に加盟することを予想させる。しかし、最後の瞬間
までミュンヘン政府は軍事と連邦外交 ― これらの問題について妥協の余地はない ― の問題
に関し困難をつくったことだけは否定できない。プロイセンはバイエルンに譲歩するどころか、
その孤立策のほうを選ぶ。
(トゥールーズの暗点)
デュポルタル Duportal 氏と派遣部の間でもめ事が発生したもよう。メッス投降に続いてデュ
ポルタル氏はクルトワ・デュルバル Courtois d’Hurbal 将軍を逮捕させ、彼に代えて 1851 年に
流刑されたドメイ Demay 氏を任命。トゥールーズで南西同盟と国防委員会 ― その行動は共和
派から成る委員会の辞任を惹き起こす ― を構成するデュポルタル氏は中央権力側からの圧力
にもかかわらずドメイ氏の任命を維持する。
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それ以来、ガンベッタ氏は新知事としてトゥールーズ法学部教授ユック Huc 氏を任命。しか
し、ユック氏は現知事の友人であり、デュポルタル氏を大騒ぎで擁立した人民を非難するが、同
氏が自発的に辞任すれば許すと表明。
事件経緯は上述のとおりである。やがてあらゆるよき精神は、国防が今まさに全員一致を要求
し、あらゆるフランス人の献身を必須とするこの時においてのこのような分裂を嘆く。
他の何ものにも増してまずフランスへのプロイセン侵入を防ぐことが肝要だ! 国が勝利すれ
ば、各党派はその政治・社会プログラムを勝利させるため努力することができよう。
(抗議)
リヨンの『プログレ』紙はマインツから、この町で虜囚となりバゼーヌ軍(捕虜)と合流した
ウジェーヌ・クレール Eugene Ckerc 砲兵隊長から至急報を受け取った。その至急報は、
【258】
元帥が軍隊を貶めた「恥辱の罠」に抗議し次のように結ぶ。「まもなくわれわれを恥辱に貶めた
悲惨な行為に関する詳細がわかるであろう」、と。
【259】
(ヴィルヘルムシェーエからのニュース)
11 月 12 日、カッセル発の書簡は前皇帝とその取巻き連の行動について詳細を伝える。
(オーレル・ド・パラディーヌ将軍とロワール軍)
幾つかの新聞がオルレアンの勝利に関し解説を載せる。
【260】
(メッスの男)
アルフレッド・ラゲロニエール Alfred Laguéronnière の散文がブリュッセルで引っ張りだこ
の人気を呼んでいる。ベルギー人はそれをもてはやし、亡命者についてそれを必携の書とし慰め
としている。
前に記したことのある「スダンの男」は 10 か月間に 10 版以上も重ねた。ベルギーでフラン
ス市場の大部分を奪ったが、それはすばらしいことだ。したがって、ラゲロニエール氏 ― 今ま
で売れっ子になった経験がなく、またパリで売られたこともなかった ― はすべてのベルギーの
書店、特にルベク Lebéque 書店とブリュッセルのダンテ Denter 書店 ― その刊行物の大部分
が政治的な主題を扱っている ―で引っ張り凧の人気を博している。
「スダンの男」がおさめた成功はラゲロニエール氏を勇気づけ、そして彼はメッスの降伏につ
いて同様の小冊子を書き、見事に虜となったもう一人の男に擬え「メッスの男」と題した。
われわれはこの新冊子を読んでいない。したがって、なぜそれがベルギー人とブリュッセル人
において亡命者への熱狂をもたらしたのか謎につつまれている。
【261】
(勝利者のヴェルサイユでの生活ぶり)
パリ市民はビスマルクとその主君ヴィルヘルム氏のフランス滞在期間中の生活ぶりについて
知って憤慨することだろう。
10
【262】
11月15日(火)
(戦況)
軍事作戦について本日は不明。パリについてもロワール軍についても何もない。フォン・デア・
タン将軍は増援を受けたにもかかわらず、攻撃戦に移る決断をしなかった。一方、撤退を余儀な
くされたフランス軍に関していえば、当面の地歩を固めることに専心。ドイツ発の電報によれば、
アルザス州の境界に位置するこの最終拠点を包囲する軍隊とベルフォール籠城軍との間に、後者
から仕かけた小規模な戦闘がおこなわれた。
12 日のトゥール政府の政令はローヌ渓谷諸県の国防の上級委員会を設置するよう命じた。同
政令は防御工事を完成させ、武装を組織することを定める。
(状況)
1856 年条約のロシアにとって深刻な諸条項の破棄は本日、注視を受けている暗点である。仏
普の衝突事件と重なりあい、黒海における海軍力の発展を制限するパリ条約の諸条項から離脱す
る宣言を投げかけたロシア政府の目的は何であるのか?
に起こりつつある諸事件といかなる関係にあるのか?
か?
反響を呼ぶこの宣言は西ヨーロッパ
ロシアはその試みにおいて孤立するの
英仏軍がセバストポールで葬り去った膨張計画をコンスタンティノープル側が近い将来
に再着手する手段を容易にするため、フランスの疲弊につけ込んで利を図るというものなのか?
さては、その足取りのあらゆる結果を前もって予告することによって、イギリス、オーストリア
の反対を見越す一方で、プロイセンの支持を計算しつつ、通常の状況では得がたいと同時に、純
粋な外交的手段によっては到達しがたい目標を得ようと企んでいるのだろうか?
聖ペテルスブルク政府の奔走について論じられているのは以上である。ヨーロッパが放任すれ
ば、ロシアは東方支配の目的を実現できるであろう。さもなければ、われわれは深刻な紛糾とヨ
ーロッパ大戦の前夜にいることになろう。
ロシアの東方への膨張を閉ざすことに関心をもつイギリスはロシア政府の要求に対し、正当に
も憤激し、
【263】あらゆる外観および口実に関し 1856 年条約に対するこの重大な違反行動に関
しプロイセンがロシアと何らか共謀していないかどうか検討中である。したがって、外務省はヴ
ェルサイユのオド・ルッセル氏に書簡を宛て、ロシアの進出にどのように対処すべきか問う。
どちらにしても、イギリスがその意に反して、かつ最も不利な条件下でロシアと紛争に直面し
ていると悟れば、多くの者はロシアの利己的行動への懲罰が、そして、普仏戦争に臨んでの臆病
な行動への懲罰が下されるものと思うだろう。
英国が戦前あるいはスダン直後において欲していれば、この巨大な決闘を予知ないし停止させ
ることができたであろう。しかし、慎重さによってか、利己心によってか、あるいはおそらくは
競合関係にある2国家の弱体化および貧窮化に関与する秘めた喜びによってか、イギリスは干渉
を拒絶した。当時のイギリスはこうした態度が賢明であると考えていた。だから、事態を放任し
たことにより、今のイギリスは自国利害とロシアの野心のあいだに重大な相剋の芽が生じるのを
見る。
11
このとき西欧を悲しませる廃墟と殺戮のうえにこの紛争が付加しうる廃墟と殺戮がなかった
としたら、まるで何もかもうまく運んでいったかのようだ。
オルレアン解放のニュースはロンドンで真実の熱狂を惹き起こした。この熱狂はイギリスが現
在保持している少しばかりの利害 ― フランスが大国の地位から転げ落ち、1856 年のロシアと
同じ宿命に遭うのを見ること ― から生じたのではない。
宣戦布告以来ヨーロッパでくり拡げられた諸事件において予想外の事がらがついてまわる、と
われわれはこれこう述べてきた。毎日、驚愕と青天の霹靂に人が打たれる一方で、毎日、未曾有
の悲観的で予想外の新たな展望が生まれる。
ヨーロッパ人は平和を求めている。彼らは何百万というフランス人、ドイツ人の生命と財産の
尊重を要求する。そして、愚弄としか言いようのないマキャベリ的策略 ― 著名な政治家の名を
語り、幾つかの野心的行為の仮面、制限なき幾つかの利害にすぎない ― に続いて世界はヨーロ
ッパの列強間の大戦争の見通しを見るであろう。
したがって、いったいいつになったら和平・戦争の問題において諸国民の意志と利害が優先す
るのだろうか。そして、いったいいつになったら、異なった人種とヨーロッパの異なった国民の
間の平和とよき調和こそが文明と人類の発展を保証する唯一の淵源であることを理解するであ
ろうか。
人類は強大であること、その安寧はそのよき調和、その才能と天才に適合した諸制度下におけ
る彼らの自由な発展から生まれることを声高に宣言しよう。諸国民を戦争の気紛れの廃墟に投げ
込むのは、そして、後退とはいえないまでも、進歩と文明の方向に向かう人類の歩みを停止させ
るのは幾人かの野心であり、いくつかの王朝であることだ。
したがって、どこでもあらゆる手段とあらゆる可能な制度を用いて人民の意志と利害の勝利を
保証するようつとめよう。そして、善・正義・有益の実現に向けての漸進的・継続的発展におい
て人類の妨害をなす野心や計算をいっさいの仮借なく憐憫や慈悲もなく遠ざけよう。
(ドイツの統一)
切迫してきたドイツ問題は解決が間近である。しかし、ヴェルサイユでの会議結果について知
られるあらゆる情報によれば、この解決案は完全なものではないと言われる。バイエルンは連邦
憲法に修正を迫ったが、それはバイエルンに対してまったく例外的な地位を保証し、将来のドイ
ツ連邦の真直中に半独立国をつくるようなものである。今のところ、ヴェルサイユではバイエル
ン閣僚との交渉の継続を断念した。現下の北ドイツ連邦、南ドイツ 3 国の憲法下に直ちに連邦
に加入を決めるよう強制しているようだ。おそらく、兄弟であるオットー侯を参謀本部に派遣し
たルドヴィヒ国王は大急ぎで状況を検討し、助言者たちを入れ替えさせるべく彼に命じるであろ
う。流布している噂によれば、ミュンヘンではフォン・ホーエンローエ Hohenlohe 公の権力へ
の復帰が問題となっているそうだ。言われるところでは、彼の思想は統一政策のそれに近いとの
こと。
(休戦のための交渉、ティエール氏の解釈)
9 日付のティエール氏のコメントが列強のトゥール駐在のトルコ、スペインの大使に渡された。
12
ティエール氏は休戦を勝ち取るために彼の使命について語る。
ビスマルク氏は、交渉における中立国による干渉は承服しないが、彼の使命の目的は承知した。
その目的とは、流血を停止し、フランスに自由な選挙によって通常の政府を形成させることを許
し、そのことによって有効な条約の締結をなしうる休戦を結ぶことである。【265】
ビスマルク氏はカッセルで形成されようとしている前政府についてまだ幻想をもっており、テ
ィエール氏は直ちに、この政府は永久に終わったと返答。ビスマルク氏は(前政府による)フラ
ンスの内部諸事件への干渉という意向に抗議した。最初の会合で出された問題は、占領地域での
選挙の自由、両交戦国の行為、要塞特にパリの食糧補給問題など、休戦の原則とその期間に関わ
る問題である。
これらの問題についてビスマルク氏は乗り越えることのできないような妨害を唱えなかった
ように思われる。
ティエール氏はあらゆる点において合意の可能性を信じていた。会談は一日に 2 度ももたれ
た。最初の 2 点が容認され、休戦期間は 20 日と定められた。
アルザスとロレーヌに関する問題は休戦協定によっては何ら予断を許さないものとなること
が認められた。
ビスマルク氏はこれら2州における選挙活動を承認せず、しかし、ドイツが後で糸を引くこと
なく、指名された名士によって代表されることは否定しなかった。かくて合意は成った。
ティエール氏、ビスマルク氏、プロイセン諸将のあいだにおける4番目の点すなわち補給問題
は最初、ビスマルク氏の側からは何ら原則的な反対は出ず、それは軍事局に付託された。
3 日、ティエール氏は補給が細かい問題ではなく、事実の問題となっていることを見てとった。
プロイセン将軍の名で語るビスマルク氏は休戦協定がプロイセンの利益に反すると宣言し、われ
われがパリの周囲に軍事的等価を譲るかぎりにおいてのみ補給を許可するとした。
ティエール氏が述べているように、一つの、おそらくは一つ以上の要塞を頂戴したい、とビス
マルク氏は付言する。
ティエール氏はビスマルク氏を遮って直ちに宣言した。パリの補給を封殺すること、それは 1
か月の抵抗力を奪うことにほかならず、外部要塞を要求することは(パリ)城壁を要求すること
と同じだ、と。
ティエール氏はつづいてジュール・ファーブルとの対談について話題を転じた。交渉の決裂、
休戦協定なくして選挙をなすことの拒絶がそれである。そして、助言が考慮に入れられるとする
なら、それは中立国からだと言って、話を打ち切った。
諸外国がそれらの助言が聞き入れられなかったとして非難するのはわれわれに対してではな
い。【266】われわれはさらに、両交戦国の行為を諸外国の判断に任せようと思う。
「私は祖国に平和の安寧 ― それは政府の過ちによって失われた ― を取り戻すための努力
の限りを尽くした」
(プロイセン)
11 月 26 日に予定されたベルリンでの北ドイツ連邦議会の召集が本日の夕刻、『プロイセン官
13
報』によって確実に宣せられた。周知のように、きわめて懐疑的な評価を享受してきたヴェルサ
イユの計画はしたがって、決定的に放棄された。
(イタリア)
リカソリ氏はその選挙民に対し、自分は政界から引退すると宣した。
ヨーロッパのカトリック系新聞はヴィットーレ・エマヌエーレ王に激しい非難を浴びせ、破門
を言い渡した。同紙によれば、イタリア王のローマ入城は近く共和政にとって代わられるであろ
う彼の王朝の…終わりの始まりを意味するという。
(ヴィルフランシュにおける暴動と弾圧)
…[略]…
【267】
(気球、パリとの通信)
気球によってパリと連絡をとることは絶望的ではない。『フランス』紙によれば、問題を検討
中とのこと。
(再検討され修正され、かなり単純化されたジラルダン氏の古い構想)
新聞各紙は、著名な政論記者がガンベッタ氏に送った、とても興味深い書簡を公表。ジラルダ
ン氏は、状況の必要に適応した、日々、未公表の着想を思い描く思想家であることで知られてい
る。
ところで、9 月 1 日のスダン壊滅はジラルダン氏に以下のような「思想」を示唆した。
【268】
彼は当時トロシュ将軍に連絡をとった。
「1848 年 11 月 4 日の憲法を復活させ、この憲法のもとで普通選挙により選出された人民 900
人の代表により、速やかに共和国の大統領を投票で選び、次いでつづく日曜日に立法議会の指名
に取りかかること」、を要請する。
その適用がフランスに国民議会を通常の政府を与えることになるこの「思想」は無視された。
もし採用されていれば、これでもって敵は現下の諸事件に関連する、あらゆる問題について約定
することができたはずだ。
次いで、プロイセンはプロイセンが条約を結ぶことのできる何らの正規の委任者をもたない。
そして、このような状況は本来、講和締結を容易にするものではない。
今や休戦協定が拒絶され、憲法が制定されるための時至るや、ジラルダン氏はその最初の計画
を修正する。彼は、憲法制定や選挙案件についてあまりに時間を費やすことはフランスの幾つか
の地点を多大な困難の前に晒すとして退ける。したがって、彼は純粋かつ単純に共和国の大統領
を指名するということにとどめる。彼によれば、このためにプロイセン王に 4 日間の戦闘停止
を要請するだけで十分だというのだ。
「この 4 日間にフランスは 1848 年 11 月 4 日の憲法を復活させ、1849 年 3 月 15 日の選挙法
を復活させることによって選出され、しかも正常に機能、したがって、約定を結ぶのに習熟した
正規の執行権力をもつことになろう。同氏がおこなう選択は徹底抗戦の継続に関する世論の指示
か、あるいは復讐の延期のいずれかであるはずだ」という。
14
同様の意見は、もしそれがヴィルヘルム王とビスマルク伯に対し、九月四日政府の閣僚の多数
の承認を経て外交団の一人に託されれば、著名な政論記者にとって賛同されうるあらゆる機会を
もつように思われる。
このように再検討され修正され、そして、かなり単純化された 9 月 1 日の彼の「思想」こそ、
ジラルダン氏が書簡のかたちでガンベッタに伝えたものである。思慮深い政論記者はそれをトロ
シュ将軍に、次いでガンベッタに伝えることで義務を果たしたと言い、ガンベッタ氏にはそれを
採用し実現するよう説く。
後にみるように、遠大な愛国者、護 ― 精力的で勇気があり、フランスの安寧のために献身し
た ― 『プレス』紙のかつての主幹の思想に採り入れられるであろう。
【269】
(賢人はひと言いえばわかる)
ビスマルク氏に手を貸すボナパルト派の復興計画が知られている。また、この計画において軍
隊に保留された役割も知られている。
【269】
10月16日(水)
(戦況)
『アンデパンダンス・ベルジュ』紙が今日、報じるところでは、軍事ニュースは依然として稀
である。気球はパリからもはや飛び立たないか、または包囲軍によって途中で拿捕されるかのど
ちらかだ。少なくとも数日来、この手段によって何らの手紙も受け取っていない。しかし、ドイ
ツ参謀本部においてはパリが思いがけない方法で発展させた抵抗の要素を心配する向きあるこ
とをヴェルサイユからの手紙で知る。この町から『タイムズ』紙のラッセル氏 ― 開戦以来あら
ゆる戦闘に従軍 ― の書くところによると、彼は今日、モルトケ氏によって企画された包囲戦を
戦略上の失敗とみるドイツ軍の将校は事欠かないという。いずれにしても獲得されたことといえ
ば、9 月 19 日以来、その長官を信頼していた包囲軍はその地位を固めるために極めて多くの貢
献をなしたということであり、幾つかの点で最初、防御的であったこれらの作業は絶望的な脱出
戦を利すべく仕向けられた威嚇的性格から今や、包囲軍の通信や作戦を明瞭に妨げる性格に変わ
りはじめた。
地方ではロワール軍は進撃を停止し、バイエルン軍の退却ののち確保した地点を防御する。バ
イエルン軍はパリ方面への進撃を阻止するためロワール軍に遭遇したのである。しかし、同時に
フリードリヒ=カール侯はトロワおよびサンスに向け南下する。同軍の参謀本部は 11 月 8 日現
在、ドゥルヴァン Doulevant にある。かくて、同軍の右翼にフォン・デア・タン、左翼にヴェ
ルダー将軍を配置する。ヴェルダー将軍はシャルニーCharny を迂回する進軍を企図しているよ
うに思える。ここで、フランス軍はネヴェール、ヴィエルゾン、ブールジュに行くためリヨンへ
の道を阻んでいた。ロワール軍はこの転進により(会戦は)回避されうるであろう。【270】か
15
くて、孤立した都市においてトゥール派遣部の移転という新たな問題が生じた。しかし、ガンベ
ッタ氏は政府の現在地を脅している危険を払いのけることに拘っているようだ。
ニューヨーク発の至急報によれば、ドイツの蒸気船メテオール Météore とフランスの蒸気船
ブーヴェ Bouvet との間でハヴァナ海域で戦闘がおこなわれたという。後者は戦闘不能となり、
退却を余儀なくされた。にもかかわらず、敵方もスクリューに損傷を受けたので、追撃を受けな
かった。
(英露間の出来事)
聖ペテルブルク発の電報の伝えるところによれば、1856 年の条約に関するゴルチャコフ侯の
回状の要約を認める。この資料ははっきりと以下を述べる。皇帝はその主権を抑制する 1856 年
条約の条項に以後、拘束されないこと、また、黒海におけるその海軍に関する本条約の付加条約
を非難する。
ロシアは東方問題をふたたびもちだすという意向はないという。そして、トルコを欧州連合の
仲間として承認する条約の原理を全体的に尊重する。ロシアは他国が強制し、また、いかなる大
国といえども、時の経つにつれ承認することができなくなるような常軌を逸した諸条件から外れ
ることを希望する。そして、ロシアは合意のうえでより満足のいく、また平和を固めるのに連合
した協約にとって代えるべく 1856 年の条約の署名国との協議を提案する。
他の諸国は、たとえこの通告がまだなされていなくとも、これに対処する用意ができている。
各国は適切なやり方で、そして、集合して事を構える用意ができていないため、個別的にして当
面の利害にもとづき孤立的にしてかつ穏便なかたちで措置するのか。それともそれが失敗した場
合はロシアに対してとるべき態度において一致を見いだすだろうか。第二の仮定のほうが現実味
があるように思われる。
(ロ-マ)
月曜日に 60 人の市議会議員、12 人の州議員の選挙がおこなわれた。秩序は完ぺきである。開
票はまだ終わっていない。選挙民の半数が投票し、選択は一般に穏健である。市当局は国王の到
着のための歓迎式典を準備する。教皇の健康状態はきわめて良好であり、彼がローマを離れたが
っていることを予告させるものはなにもない。
(マルセーユ)
マルセーユでは一昨日、同地でおこなわれた市議会選挙にもかかわらず秩序が支配している。
【271】
カルカソンヌ党、すなわち革命的コミューン党は棄権を呼びかけていた。棄権の呼びかけにも
かかわらず、選挙民は非常に多かった。
すでに知られている結果によれば、共和派リストは 2 万1千票、革命派は 7 千票を得た。
新聞『エガリテ L’Egalité 』紙によれば、エスキロス氏は編集主幹の地位を得るだろうという。
フランスが大きな財産を失う脅威を受けているというのに、マルセーユで起きつつあることは
慰み事であることが判明する。敵がそこに来ている、とマルセーユ市民は言う。政治・社会紛争
はしばらく棚上げにしよう。混沌と荒廃という、嫌悪を呼ぶ非難の応酬と泣き言については口を
16
噤むことにしよう。
(トゥールーズの晴れ間)
ここでも天候は晴れ間を見せている。トゥールーズを覆っていた暗雲は消え失せ、トゥールー
ズではマルセーユやリヨン同様、中央権力との闘争をやめることを期待させる。デュポルタル
Duportal 氏は知事として留任し、ドゥメーDemay 氏はトゥール派遣部によって軍事的高官への
就任を要請された。
したがって、万事が好転に向かう。今や、ただひとつの影が落しているのみである。デュポル
タル氏の子息、コルシカ島の小技師は保守派新聞の洒落た言葉を借りれば、彼の父によって砲兵
工廠の指揮官に任命されていたが、辞職するであろうとのこと。幸いにして、息子はその地位を
失い、父はそれを守る!
(リヨンでの国防)
(ヴァランスの騒動と保守派の新聞)
フランスは万事を笑いごとにする。雨天、天気、暑気、冷気、小さなもの、大きなもの、平和、
騒動。【272】ヴァランスで起こった人民的沸騰事件が保守派の新聞に出る。
(オルレアン)
プロイセン軍によってオルレアンで実施された徴発と、敵兵からオルレアン市民が解放された
歓喜について記される。100 万フランの現金徴発と 50 万フラン以上にのぼる現物徴発でもプロ
イセン軍は満足しなかった。彼らは1万枚の毛布、トリコット、靴下等々を必要とした。要する
に、靴下、編み物業の店が空っぽになった。200 箱の徴発されたロウソクがドイツに送られた。
それらが今何処にあるかはわからない。
このうえに 15 日間の占領期間中に同市は毎日 9 万フランの食糧を敵軍に提供せざるをえず、
ホテルでの彼らの費用を支払うために将校は市に手形を与えた。これでやっと終わる。
(ロワール軍)
トゥールの『モニトゥール』紙。
(ルクセンブルク)
ロシア、イギリス、オーストリアはアンリ公が大公国に到着したおりに、ルクセンブルクの参
事会宛てに返答を送る。
【273】
(ギゾー=徹底抗戦派、バゼーヌ元帥とガンベッタ氏に関する彼の判断)
現下の諸事件に関するギゾー氏のおもしろい2通の手紙は保守派の旧党首とりわけボナパル
ト派の間で多くの者を驚かすことは確実である。それによると、ギゾーは「九月四日の面々」と
同じく底抗戦派であることだ。
これらの書簡の中で最も日付の古いもので、休戦協定の締結のための交渉より前のものがフラ
ンスに発表された。他の一つの熟練と理性、良き正義の権威をもって休戦協定の問題においてプ
ロイセンの処置を非難する。これは『タイムズ』紙に宛てられたものである。
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【276】
(フランス北部における旅行)
馬商人を装い、この変装のおかげで心配なくラ・フェール La Fère、ヴィレル=コトレ
Villers-Cotterets、ピエールフォン Pierrefonds 等々、プロイセン軍が溢れている地方を横切る
ことに成功したサン=カンタンからきた1住民はリールの『レコー・デュ・ノール』紙で公刊さ
れた手紙で彼の旅行は様々な出来事を語る。
11月17日(木)
【277】
(戦況)
フランス北部でマントイフェル将軍に責任あるいくつか動きの徴候はあるが、特に記す
べき軍事的作戦はおこなわれていない。ドイツ軍はロクロワ Rocroy、カンブレーCambrai、
およびラ・フェール La Fère の近郊に出没する。他の一隊が昨日、北部に沿ってテルニエ
Tergnier を占領。【278】このことはアミアンに向けての攻撃の動きの前兆である。
他方、1 万2千に及ぶプロイセン軍がディジョンを再制圧したとの報知あり。
ドゥルーDreux もフランス軍により再制圧される。
プロイセン軍はメジエールをほぼ完全に包囲した。
(状況)
だれがそのことを信じたか? 普仏の決闘が注視を集めたため、双方からはほとんど忘れ
去られたヨーロッパの傍観者の関心はもっぱら、ロシアによる 1856 年条約の廃棄通告が惹
き起こす政治的紛糾に注がれる。
ゴルチャコフ侯の回状は戦争を導き寄せるのか? ヨーロッパはロシアの東方での気ま
まな振る舞いを放置するだろうか? これは、何ぴとも解決する術をもたない重大な問題で
ある。
さほど人騒がせでない人は、ロシアの回状について決定的かつぶっきらぼうな調子で以
下のごとく解釈する。アレクサンドル皇帝は列強見解に耳を貸さないだろう。彼は喧嘩を
起さず、ロシアにとって有利な意味でそれを解き明かすだろう。黒海で主権を拘束された
とは見なさない、と彼は宣するであろう。彼はだれにも相談することなく自己の権利の完
全さをとり戻す。ひと言でいえば、東方問題は起きないというその願望にもとづいて 1856
年条約を破棄する。さらに公平な約定について署名国と協議する用意があると宣言する。
要するに、「私のやろうとすることは以下のとおり。諸君の忖度とは無関係に私はあらゆる
反対に抗してそれをなすであろう。その後において協議すべき手段がないかどうかを検討
するだろう。」
一つだけ協議すべき手段が残されている。つまり、イギリス、オーストリア、トルコが
ロシアの前に退かねばならないということだ。
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普仏戦争がもたらした数多の害悪につけ加わえ新たにヨーロッパを戦火に巻き込む紛争
の偶発性は非常に驚くべきことであり、平和的解決の可能性をなおまだ信じるべきである。
ロシアとプロイセンが一致しているかどうかはまだわからない。にもかかわらず、プロ
イセンの新聞論調は、二国のあいだに完全な合意があると脅かす。【279】イギリスの新聞
が火を放ち、何がなんでも東方におけるロシアの進出に反対しなければならないと主張す
るのに対し、プロイセンの新聞は軽い調子で 1856 年条約の廃棄通告とこの廃棄通告の可能
な結果を語る。
パリ講和会議がロシアに課した制限を除去しようとする不作法に対して抗議行動があち
こちで起こっているが、これらの抗議の力は弱いもので、単なる形式的にのみなされたか
のように見える。
これらに対してウィーンでは感情が日を追って膨れあがる。ボイスト伯は直ちに外交交
渉にうって出るべきことを決定する。ボイスト伯とアンドラセーAndrassey 氏によって要
望された英、墺、伊、土の同盟が表面化している。
『ケルン新聞』の伝える噂によれば、イギリスはパリ政府とトゥール派遣部の許可を得
て会議招集を惹き起こし、休戦交渉に着手するらしい。― オランダの新聞に宛てられたロ
ンドン発の電報によれば、イギリスは艦隊を準備し、陸軍を戦争態勢に入らせる命令を発
した。
(英露事件、グランヴィル卿の至急報)
ブキャナン Buchanan 氏宛てのグランヴィル卿の 16 日付の至急報は 1856 年条約の諸義
務から免れるロシアの権利を確証する。
あれこれの処置がすべての条約の本質的条件を破壊するであろう。
女王政府はゴルチャコフ侯の通告を深い憂慮をもって受け入れた。なぜというに、その
通告はイギリスがロシアの間に維持すべき合意を心底から崩す危険性をはらむからだ。
したがって、女王政府にとってゴルチャコフ公によって宣せられた歩みにいかなる承認
も与えるのは不可能である。
もしロシア政府の提言がイギリスおよび他の署名国に対し、本条約がすでに違反されて
いるかどうか、その条件がロシアにとって異常に苛酷なものかどうか、いくつかの約定が
トルコの保護にとってもはや必要ではなくなっているかどうかを確証するための条約の再
検討を提起するものであるならば、イギリスはその問題を検討したであろうことは確実だ。
ロシア政府がこの交渉から何かを得るとすれば、少なくとも将来的紛争と綱渡り外交の
危険を回避できたことであろう。
【280】
(イサベル死去する! アメデ一世万歳)
スペイン国民はついにその国王を獲得した。いくつかの門戸を無駄に叩いた後、スペイ
ン国民はうんざりした闘争から身を引き、ある生きもの…フアーブルのようにジュピター
にではなくイタリアに ― 国王の第二子アオスタ公― に的を絞った。
19
保守派と王党派の新聞は宣言する。イサベラの死去以降におけるスペイン情勢は混沌状
態に陥っている。国王の指名とその就任はその混沌の局面を変え、スペイン王国を天国に
するかどうかをわれわれはまもなく見るであろう。
昨日、スペイン議会はスペインの未来の改革者を選出した。多くの統一国家主義者のな
かで最も若く、最も野心的なエスパステロ派 espartéristes と提携した。アオスタ公が集め
た 193 票の出所はこの国王からである。マドリード発の電報によれば、この記念すべき状
況は以下の如し。
総議員数
345
有効過半数
173
投票総数
309
アオスタ公
191
連邦共和制
60
モンパンシエ公
3
エスパステロ Espartero
8
アルフォンス侯、イサベラ二世の息子
2
白票
17
スペイン人、少なくともスペイン議会は国王をもつことを希望したため、彼らが選出し
たばかりの人は彼らにとってその民間人リストほどに高価につかなかった。【281】あまり
に多く主権者がいたのだ。…[中略]…
(ドイツにおける議会)
11 月 4 日、連邦議会を召集した王令が公表される。議会は戦争に対する新たな借款の割
り当てをした後、『モニトゥール・プロイセン』紙によって提起されたドイツ問題に没頭す
るであろう。
「北ドイツ連邦の南ドイツ諸国への拡大はこの連邦に入ることを決定されてい
る」。
プロイセン議会と同じく連邦議会はベルリンで開かれるであろう。2つの議会すなわち
王国議会と連邦議会は併立するであろう。
プロイセン新議会がどうなるのか未だ不明。その結果についても完全に知られていない。
最初の評価によると、保守党が多数を占めたもよう。140 名の純保守党。40 名の自由主義
的保守党、自由主義政党は 20 名の旧自由派。110 名の国民自由派。10 名の分離派が中間派
を形成。統一ドイツ問題に関して保守派と国民主義自由派は多少のニュアンスこそあれ、
そして、政策の違いこそあれ、政府のドイツ政策を支持すべくおそらく一致しているであ
ろう。
(メッスからのブルバキの脱出、ボナパルトの復位計画、暴落)
前にわれわれが引用したように、ブルバキ将軍はメッスからの脱出に際して生起したす
べて諸事件のわれわれは就中、X…あるいはN氏によって演じられた不可思議にして説明
20
しがたい役割について語った。両名はヨーロッパの一般人にはまったく知られていない人
物で、バゼーヌ元帥に皇后の名大で出頭し、ブルバキ将軍のためにプロイセン軍を自由に
往来することを確保した。このX氏、あるいはN氏 ― その結果、その写真はとりわけか
くも活発に世論の気を惹いているのだが ― 風変りにしてかつ神秘的な方法でもつれあっ
たボナパルト派の陰謀を覆う帆布の端を上げるのだ。ロンドンで発刊したばかりの冊子に
おいて彼はナポレオン三世と息子のためにその希望、そのやり口の処方を与える。われわ
れがベルギーの某新聞から収集した、これら奇妙な関係を以下のように要約する。…[中
略]…
【282】
【283】
(シャンパーニュの状況)
ヴィトリ・ル・フランセからの情報。その恐るべき侵略の結果、敵に対する抵抗はほと
んどない。
(グルップ砲とナポレオン)
ロンドンのインターナショナルはクルップ砲についてかなり奇妙な小噺を伝える。
【285】
(フランスにおけるガリバルディ)
ガリバルディの義勇兵団の組織化は許可されず。ある者はそれを武器が貧弱でかつ訓練
も不足している人間の掻き集めと表現する。また、或る者は同軍団がレミントン6連発銃
で武装した優れた大隊から成っているとも言う。
にもかかわらず、オータンにおけるガリバルディの教会ならびに学校に対する恣意的政
策をひどく非難する。
リキオッティ Ricciotti はオータンに本営を有する彼の父を同伴する。
ガリバルディ軍団は多数のマルセーユ出身の義勇兵と美しいオリエント的兵服で知られ
るギリシャ人義勇兵の中隊を擁する。
(ローマ、5 万 2 千エキュの給金に対する教皇の拒否)
新政府が申し出た 5 万 2 千エキュの額を教皇が受諾したというのはあまりに性急な結論
である。今日の報道によれば、教皇は、現政府から発するものはなんであれ、給与を拒絶
したもよう。したがって、教皇庁とイタリア統一政府の和解はいつになるだろうか。今日
までラ・マルモラ将軍とヴィットーレ・エマヌエーレは前払い費用とあらゆる種の贈物を
ピウス九世に与える準備があるといわれる。教皇は一つのことしか要求しない。すなわち、
場所を空けること、ローマで平和でかつ排他的に統治するのを許可すること、これである。
教皇の出奔についての噂が流れる。ピウス九世はいかなることがあっても王に臨席する
ことに同意しないであろう、と。ローマにおいて大勢いて活発な共和派についていえば、
ピウス九世、ヴィットーレ=エマヌエーレのいずれについても噂されるのを嫌がる。ヴィッ
トーレ=エマヌエーレに降伏するためにピウス九世をこきおろす。これは大騒ぎするほどの
21
ことはなく、またイタリアの首都としてローマを宣言することではない、と彼らは言う。
彼らはまちがっているのだろうか。
【285】
11月18日(金)
(戦況)
プロイセン軍によるオルレアン方面への集中的投入の動きが強まる。これはロワール軍と、ヴ
ィトリヒ将軍とメクレンブルク大公の軍によって補強されたフォン・デア・タン軍団の間に再会
戦が始まることを予示する。ロワール軍はこのような攻撃に堪える力があり、この大軍と対抗す
る術を心得ていることを祈るのみである。
ラ・フェールの守備隊は出撃戦にうって出てヴェルニエ Vergnier の解放に成功した。プロイ
セン軍はラ・フェール近辺の農民に命じ、要塞防護の洪水を逸らすために塹壕を掘らせた。
モンメディ Montmédy とロンギュリーLongury の包囲が切迫する。プロイセン軍はロンギュ
リーとモンメディの間のすべての辺境を占拠。
プロイセン軍の北仏への緩慢ではあるが、切れ目のない移動についての報道。カンブレーは包
囲戦の準備をする。この町の新聞は、プロイセン軍の包囲機材はすべてパリにあることを指摘し、
包囲と砲撃の結果を懼れる必要はないと述べて住民を宥める。
(英露事件)
1856 年条約の破棄通告がヨーロッパに戦争を勃発させるのではないかとの危惧が生まれてい
る。この問題について最も穏健な意見によれば、ロシアは根本でまちがっているのではなく礼を
欠いているためにヨーロッパに背を向けただけだ、という。
黒海の自由航海とその中立化の停止を要求するロシアについては根拠がある。にもかかわらず、
ロシアは不作法な行為をしてはならない、また、とりわけ著名な国の同意を得ないで 1856 年条
約の諸義務から外れてはならない。
ヨーロッパ外交は黒海によってロシアを苦しめている諸拘束からおそらく解放するであろう。
しかし、ロシアの同意を前提とし、列強干渉により批准された諸条項についてのみ批准すること
ができる。
(1856 年条約の主条項)
ロシアが 1856 年 4 月 27 日条約の修正問題をもちだしたとき、その要求の対象となっている
諸規定を想起するのは無意味なことではない。
【287】
(パリ包囲の有効性と時宜に適っていることに関する『タイムズ』紙の意見)
ヴェルサイユの参謀本部から『タイムズ』紙に宛てられた通信によれば、プロイセンの参謀は
パリ包囲により大きな誤謬を犯したという。この首都の防御工事はかなり大規模なもので戦闘突
入時にプロイセン軍に大きな困難を与えるであろう。フランス全土を軍事進駐したほうがまだま
22
しであったであろう。プロイセン軍は進出先で住民の負担で補給できるだろうし、また、西部と
南部での軍隊の編成を妨げることもできたであろう。
(ドイツの統一)
ビスマルク氏はドイツ統一を確立するため日々忙殺されている。ヘッセン大公国の北ドイツ連
邦への加盟に関する条約は今月 15 日に署名されたはずである。大公国の北ドイツ連邦憲法への
加盟にもかかわらず、さして重要でない諸条項は修正されるであろう。
ビスマルク氏は最近のバイエルンの抵抗やヴュルテンベルクの曖昧な態度に対して悔しさを
つつみ隠さない。人々はこれら二国の政治家たちが現下の戦争の最もよき果実、つまりドイツ統
一、憲政下でのその自由の確立を政治的・利己的な狡知によって奪い取ろうとしていると非難す
る。
にもかかわらず、最新のニュースによれば、問題は多かれ少なかれ完全な解決に向けて最初の
第一歩を踏み出さねばならない、という。ヴュルテンベルク王は同国を代表し、ヴェルサイユで
開催され、つづいてシュトットガルトで再会された交渉のもように関する報告のために来訪した
2 人の大臣を迎え入れた。一方、ミュンヘン発の報道によれば、ドイツ問題は相互的な譲歩に基
づいて解決される、という。プロイセンは軍事問題で譲歩し、バイエルンは他の係争点で譲歩す
るだろうと見られている。
ゆえに、われわれはまもなく、ビスマルク氏とモルトケ氏とその大砲およびその賢明な戦略が
パリ市民の英雄主義や不屈精神を起こさせる前に、その人民の大偉業を達成させることができる
と知るであろう。プロイセン軍はパリに 9 月 14 日に入城すると断言しているはずだ! いつも
の取らぬ狸の皮算用だ! にもかかわらず、プロイセン軍はフランス人が世界中で最も高慢ちき
で最も生意気な人民であるといっている。ところで、かく言う彼らは何のつもりなのか?
(イタリア)
ヴィットーレ・エマヌエーレはその新国家の領有を焦ってはいないように思える。【288】そ
こからイタリア政府の真直中で果てしない議論が起こる。しかし、フィレンツェ発の一通信によ
れば、それが現下の唯一にして骨の折れる面倒事ではないとのこと。
【289】
(躓きの石、講和のための最終交渉におけるパリ補給の問題)
パリの補給の問題はティエール氏の交渉がぶつかった躓きの石であったといわれる。
『ケルン新聞』に宛てられた、ティエール氏が 25 日間の休戦により補給のためにパリに自由
に入れることを要求する食糧の一覧表が手元にある。すなわち、
3 万 4 千頭の牛肉、3 万頭の羊、頭、5 千頭の子牛、10 万キャントーの塩漬肉、前述の家畜の
ための飼料 80 万キャントーの藁と秣、20 万キャントーの小麦粉、3万キャントーの乾燥野菜、
最後に 10 万トンの石炭、50 万ステールの薪、これらの補給は交渉人の言うところによれば、
27 万の軍隊も含めてパリおよび郊外に閉じ込められている住民を起算の基礎としている。
(義勇兵の手柄)
ブルバキ将軍は以下のような軍令を出す。
23
【290】
(投機家と現下の戦争)
あらゆる国の金融家とユダヤ人はつねに資金を必要としている弱者を探す。人は彼らをひとつ
の神すなわち金の子牛をもっていると言って非難する。彼らにとっておカネは政治的な色でもな
ければ国の色でもない。彼はそれを見いだすところでそれを手に入れる。ローリエ Laurier 借
款に登録したフランクフルトの銀行家。しかし、プロイセン軍はこの耳をもたない。彼らは貨幣
が戦争の神経であること、そして、その国に敵対して武器を提供できることを評価する。
したがって、問題のフランクフルトの銀行家サン=ゴール Saint-Goal 兄弟は逮捕され、今の
ところドイツ人はフランス人に対してはいかに利子が高かろうと貸してはならないことを彼ら
は思い知るであろう。
(トゥールーズ)
『トゥールーズ解放』紙によれば、知事をめぐる紛争に関し、そして、オート=ガロンヌ県の
知事デュポルタルに対する最も精力的な同情を示す数多の手紙を掲載。地方当局とトゥール政府
の不和は落着する。2つの政治新聞『共和派の団結』紙と『新フランス』が発刊される。
(メッス籠城期における仏軍参謀の生活)
『タイムズ』紙は確かに重要な通信を発表する。それは以下のとおり。…[中略]…
(復讐されたタンベルリック)
モスクワ公演にでかけた Tamberlick に与えた 1 騎兵による侮辱についてわれわれは述べた。
聖ペテルブルクの市民はこの不当な暴行について偉大な芸術家に復讐することを願い、彼がこの
首都の舞台に立つたびに鳴り止まない拍手喝采を送った。―聖ペテルブルク新聞。
【291】
11月19日(土)
(戦況)
フランス軍にとってもうひとつの不幸。それについて単に上辺のことしか知られていな
い。ヴィルヘルムからアウグスタ妃に宛てられた朗報によれば、ロワール軍全体の完全な
敗走だという。
トゥールからの至急報によれば、プロイセン軍によりドルーDreux の奪回と、ドーレル
軍により占拠されたいくつかの地点の攻撃のみが問題となっているという。
ヴェルサイユ大本営は近くから攻められはじめる。フランスの情報は以下のごとし。或
る者の意見によれば、この部分的事件がドイツ軍によれば完全な敗北が生じたのは 18 日の
ことだった。17 日の攻撃は、脅威を受けたヴェルサイユを解放する目的をもっていた、と。
アウグスタへの電報。…[中略]…
【292】
この解放が確認されれば、トゥールは直接に脅威に曝されるであろう。
24
ソーヌ河畔のサン=ジャン・ド・ローヌ Saint-Jean de Losne がドイツ軍によって放棄さ
れた。その理由はこうだ。ジュラ山脈で同軍の左翼がシャニー~オータンを通ってドール
Dôle にひろがるガリバルディ軍と遭遇したにちがいない。これを除けば東部軍にさほどの
異常はない。
ベルギーの新聞によれば、ハヴァナでプロイセンの砲艦と開戦したフランスの砲艦ブー
ヴェ Bouvet は商船であった。ところが、逆に砲艦のほうが敗北する。
(英露事件、ゴルチャコフの回状に対する諸列強の回答、新聞の見解)
ゴルチャコフの回状に対してなされた関係諸国の回答はけっして同じでなかった。ウィ
ーンの『プレス』紙はそれらがいずれも根本的に類似しているが、にもかかわらず表現に
おいて異なるという。
イギリスの新聞はロシアに対して激しい苛立ちをもちつづける。『タイムズ』紙はロシア
を不倶戴天の敵ともまで言い、さらに開戦を叫ぶ。
聖ペテルスブルクの新聞はイギリスはもちろん、オーストリアのヨーロッパの感情を鎮
める言語をもっていない。
最後に、ベルリンからは全面戦争の場合はプロイセンとロシアが一致すると信じられて
いる。
そして、ウィーン発の『デーリー・テレグラフ』によれば、オーストリアは東部国境に 30
万を派遣する準備を始めたとのこと。
これらすべては穏やかならざるものである。しかし、驚く必要はない。時間的余裕のあ
ることでもない。全面戦争はヨーロッパを騒動と野蛮状態の真直中に引き込み、それら意
欲をとらせる前にあらゆる党派が二度にわたって熟考するであろう。かくて、ロンドンで
出されたゴルチャコフ公の第二報は『聖ぺテルブルク』紙の記事と較べると温容で対照的
である。ロシアの決定がヨーロッパの均衡になんらの変更ももたらさないと述べつつ、そ
れは聖ペテルスブルクとロンドン政庁の見解のあいだに根本的類似性をつとめて述べよう
とし、こうした説明があらゆる理解を遠ざけるであろうとの希望を表明する。
じっさい、なぜ国際関係の基礎としての友愛と連帯性を宣言せず、自由を享受する諸個
人と同様に、【293】諸国民をしてその活動、その富をおしひろげ、他国民の権利と意思を
尊重するかぎりで遠くい発展するのを放置しないのか。
古いヨーロッパ憲章はまちがった原理すなわち戦闘と争闘の汲みつくせない源泉すなわ
ち宿命的敵対関係、諸国民間の敵対関係のそれに基礎を置いていた。われわれは以下のよ
うに宣言しよう。諸国民は兄弟であり、一国民の平和的発展は必ずしも他国民に脅威を与
えるものではなく、異なった人種と異なった国籍とのあいだには交誼と通商を創設する関
係以外の他のいかなる関係も存するべきではない、と。
外交上の行為はあまりにもしばしばこれら原理を踏みにじる。いくつかの王朝の勝手な
振る舞い、利害、力の勧告、政治的姦計、これらのために友愛や諸国民間の連帯は空虚な
言葉でしかない。だからこそ、友愛や連隊は束の間の生命しかなく、ヨーロッパ憲章や平
25
和はしばしばざれ事でしかない。
(トルコ)
コンスタンティノープル発、16 日付の至急報。
一方、フィレンツェの新聞『イタリー』紙はトルコがロシアの廃棄通告を抗議し、アリ=
パシャの通牒は非常にエネルギッシュな意味で受け止められている。
(パリ)
しばらく前から多くの気球、多くの鳩が受難する。気球はプロイセン軍によって没収さ
れる。鳩は頻繁に往復するが、その旅行の目的を達成できない。この小鳥の好きな季節は
過ぎ去り、これらの愛嬌ある小動物は委託された使命をものともせず、途中で道草を食う
のだ。
しかし、鳩と気球が欠陥をもっているとしても、パリからのニュースは欠かない。ヴェ
ルサイユの新聞や通信を通してそのことを知ることができる。これらの報告が正確である
とするなら、パリ市民の動向は極端に緊張していることになる。肉の不足、飢饉の予測、
地方の援助がもはや期待できないことで打ちひしがれ、彼らは近い将来に降伏するであろ
うことのほかは何も語らない。それでもなお抗戦を訴える点で一致していた諸新聞は、も
し絶望的な抵抗がフランスの運命を変えることもありうるかどうか、【294】そして、砲撃
の恐怖を前にその暗闇に晒されるよりは降伏したほうがましではないかを問うているのだ。
多くの人々がヨーロッパ世論に流布している留保条件付きのみ歓迎しているこれら情報
はパリがもっと長くもち堪えるということを疑わせる。パリ軍の出撃をその努力を連携し
たロワール軍の強力な牽制攻撃がなければ一部の意見はパリ籠城の終焉を信じている。
すでにその大都市の開城について噂されている。ベルリン発の至急報の伝えるところに
よれば、多量の補給物資が差し迫ったこの大事件のためにフランスに向かっているという。
これらの忌まわしきニュースが歓迎され、パリが降伏するとなると、フランスはどうな
るのか。まさに重大な問題だ。つねにこの場合には無疵にフランスを講和のためのイギリ
スの干渉を人は当てにする。それこそが問題である。
(スペイン)
オーストリア議会は多数決によってポトッキ Potocki 大臣に対する敵意を含む上奏文案
を採択。この文書で表明された恥辱の重大性を無力化するために内閣の友人によって提案
されたすべての処罰はあらかじめ議会により遠ざけられた。
(ハンガリー)
フランスに対するで同情票を提案し、その提案がアンドラシーAndrassy 伯や国民党によ
って反対されたペスト議会の代議士シモニーSimonyi 氏は別のかたちで任に就いた。彼は
ハンガリー省に 3 点について質問を要求。そのうちの 2 つはフランスの戦争と中立国の調
停に関するものであり、残りの1つは 1856 年条約の廃棄通告を前にしての政府の態度に関
するものであった。疑いもなくアンドラシー伯は普仏紛争に関する問題について手短に返
答するであろう。しかし、オーストリア=ハンガリーと最も重大な利害を含む最後のものは
26
重要な内閣の宣言のかたちをとることであろう。ハンガリーはオーストリアに劣らず東方
問題に神経を尖らせている。アンドラシー伯の講義は精力的であり、的を射たものだと思
われる。
【295】
(ボナパルト派の再興)
ボナパルトの復権の最初の行動であろうか。ウィーン発の情報によれば、ナポレオン三
世が譲位しようとしている。…譲位…?
だれに?…おそらく息子ルイのためであろうが。
しかし、フランスにとって父は本当に高くついたものだ。人々は息子を要求するのか?
諺に曰く。「この父にしてこの子あり」。フランス人は彼から十分な廃墟と恥辱を受けたの
ではなかったか。
スペインのイサベラも譲位した。彼女はもはや母后をほっしない国民に息子を受け入れ
、、
させることを希望した。しかし、スペイン人は彼らに突きつけられたちびを受け入れるの
を希望しなかった。フランス人が南仏の友人同様に気の利いた判断をなすことに期待した
い。
(アメリカ人記者とバゼーヌ元帥の会談)
【296】【297】
(メッスにおけるシャンガルニエ将軍)
(ビスマルク氏の冗談)
ビスマルク氏はしばしば道化る。彼の許にあるフランス人将校が引っ張ってこられた。
彼はトゥールのカンブリエル将軍の封筒をもっていた。
プロイセン首相は戦争法の許した作法でその手紙を読む。その手紙によれば、われわれ
は 1 千人の救援隊を望むとある。
ビスマルクは彼の手に「それと一人の将軍とを」とつけ加えた。それから彼はその将校
を釈放し、彼はトゥールの許に有名な軍事用語を届けた。その助言は的を射ていた。数日
後、カンブリエル将軍は更迭された。
(プロイセンのリベラリズム)
ヴェルサイユの通信局長と同市の 2 人の代理人はプロイセンに囚人として護送された。
彼はパリと通信していたというのだ。
(ベルギーのわが芸術家)
ベルギー人はうんざりしている。彼らは我らが兵士に夢中になり、しかし、我らが芸術
家を軽蔑する。
(ベルギーのタルベ Tarbé 氏とベルギーの新聞のよからぬもてなし)
諸新聞はゴーロワ紙の編集長タルベのブリュッセル到着を告げる。ブリュッセルの新聞
は『フィガロ』や『ゴーロワ』を『シエークル』と同列においてこれらの新聞を「うすの
27
ろ」「あばずれ」ものとしてしか見ていないように思える。ブリュッセルの新聞記者たちが
タルベ氏に対してなした接待はわが軍の敗退したが、しかし、恥辱を受けていない兵士や
負傷者に対してかれらがベルギーにおいてなした接待とまったく同じものとは言えない。
【299】
ここにヴィルメッサン氏のライバルや同胞に対する「ベルギー人の友愛」の見本がある。
11月20日(日)
(戦況)
プロイセン軍当局はバカバカしい間違いを犯した。「アウグスタ」への電報は誇張をもっ
て受け止められている。彼らはその通常の真実性を膨らませた。
ロワール軍の大「潰走」は 7 千人の遊動隊をもつドルーDreux の単なる奪取に切り下げ
られた。ここかしこでプロイセン軍はロワール軍討伐に着手したが、どこでも不成功に終
わった。
ガリバルディのドール Dôle からオータン Autun への移動は、同軍の出現によって守ら
れると信じた同市およびディスリクの何らの抵抗もなしに進められた。ドールの公式発表
によれば、イタリア人の将軍がドイツ軍の先鋒を前にして退却したとの事実を否定し、オ
ワニョン Oignon 防衛戦線の放棄は後の精力的な維持のためのものだと言う。しかし、民
間人はとりわけ敵来襲の脅威が迫ったとき、同種の問題に関して戦術的必要の有能な判断
者であるとは限らなかった。兵士の仕事を十分に知悉していたガリバルディがその根拠地
をオータンに移したのは、明らかに古い拠点よりもそこほうが最適であることを知ってい
たからだ。
(英露事件)
つねに戦争に導く興奮、つねにパリ条約の廃棄に際しての怒りの叫び声、とりわけイギ
リスの新聞は武装を解かない。
にもかかわらず、この事件は流血事件には結びつかないと見られている。プロイセンは
どんなかたちにせよ普仏戦争をとり扱わないという条件でこの問題を会談に付託すること
を受け入れた。他方、イタリアはロシアに対する外交的牽制をなすのを拒絶した。
【300】
その結果、イギリスとオーストリアがどう出るかの問題が残る。ところで、事情に明る
いこの 2 国は全面戦争という恐るべき事態を前に引下がることが期待されている。
この間、イギリスの新聞はロシアの軍備に関する情報を万遍なく掲載する。この問題に
関し『タイムズ』紙は敢えて戦闘態勢を敷く。そして、1870 年末における最初の兆候で互
いにののしり会う用意のできた全ヨーロッパを見るのを予期する必要があるという。
(メッスの降伏、シャンガルニエ将軍の見解)
28
メッスの降伏とバゼーヌ元帥の振る舞いは多くの弁護者を…プロイセンで誘い出す。あ
らゆるランクのプロイセン紙は、第一級のフランスの要塞と 15 万という大軍 ― 世界が未
だかつて経験しなかったような軍隊 ― を武器とともども敵に引きわたしたフランスの将
軍のために弁護記事を載せる。
弁護の論調は同じシェーマを巡る。すなわち、バゼーヌがプロイセン戦線を突破するこ
とはつねに不可能であったこと、飢饉を回避するために降伏が必要であったこと、なお。
しかし、プロイセンのシェーマはいくつかの矛盾に、しかも抗弁を許さなない矛盾にぶ
ちあたる。われわれはすでにバゼーヌ元帥に対して差し向けられた幾つかの証拠を指摘し
てきた。今こそ、フランス軍の一将軍の告発状を集めねばならない。彼の愛国心と軍事科
学はシャンガルニエ将軍個人によって疑われている。前に見てきた一文においてメッス事
件を近くから見ることのできたこの勇ましい将軍はバゼーヌとその振る舞いに関する判断
を『デイリーニューズ』のレポーターとの会話であきらかにする。
【301】
(パリ)
パリの食糧供給と市民の士気に関する最も矛盾したニュースが出まわる。ある者によれ
ば、パリは飢餓に瀕し、降伏以外、人々の口にのぼらないと言う。こうした解釈は主にプ
ロイセンびいきの通信や新聞により流布されている。それは 11 日付の『フィガロ』紙のあ
る記事において証拠を求めうる。
また別のニュースによれば、確実な出処から発するあらゆる新聞はこれらの陰気な噂に
ついてほどんとまったくといっていいぐらい信用をおいていない。8 日にパリを発ったある
イギリス人は『ランデパンダンス・ベルジュ)』紙で 3 か月間の肉があると伝えた。生肉と
塩漬肉、馬肉、パンは少なくとも 4 月まではあるという。
勇ましくも最終的な勝利を信じて疑わない若い共和派の軍隊が地上に現われるのを目撃
したプロイセン人はパリを疑わせることによって地方を落胆させようとしているのではな
かろうか。また、パリ市民が今日まで示してきた頑強さと英雄主義の行動を正当づけるの
を懼れるあまり、プロイセンは、あらゆる抵抗が無駄であり、地方がパリ市民を卑怯にも
見捨てるのではないかを彼らに信じさせようとつとめているのではないか。
【302】
不幸な出来事といえば、それは鳩の不忠である。パリと地方が何らかの方法で朗報を分
かち合うことができるのを望むばかりだ。
(ドイツの統一)
『フランクフルト・ツァイトゥンク』紙に宛てられたミュンヘン発の電報によれば、内
務大臣がミュンヘンおよびニュルンベルクの市長に対しドイツ問題に関する合意は今や不
可能だと伝えた。
南ドイツ連合の決定的な署名はまもなくなされるであろう。バイエルンの大臣がヴェル
サイユからの帰還後、直ちにあらゆる詳細が発表されるであろう。
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(イギリスにおける戦争問題)
今、最大の関心事は諸国の軍事力に集まる。
ステュアート・ミル氏は『タイムズ』紙に対して以下の内容の文を書き送った。イギリ
スにとってこの期に及んでロシアの挑発により戦争に引きずり込まれるのは尋常ならざる
ことである。著名な法律学者は、もし今荒れ狂っている恐るべき戦争の最中に、最初に相
手の領土に侵入した国(プロイセン)がイギリスの敵となるならば、(対露)戦争は回避し
うるであろうという見解を述べた。
国史家のフロンド Fronde 氏の主張によれば、自国が受けた侮辱のゆえに世界を侵略し人
類を凄惨状態に導きうる戦いの合図をする前にあらゆることをなすよう懇請する。不幸に
してこのような思想と言語はすべての人の手を出すところではない。
「上流階級とトーリー党の政治家はその戦争目的にしがみつく。これらの人々は、戦争
は不可避であり、なにがどうあっても行われるべきことを希望する」。反対の意見をもつ者
は無知者と取るに足りない出自の者でしかない…したがって、その反対を心配する必要は
ないというのだ。
いうまでもなく、これらすべての准男爵たち ― その地位によっても年齢によっても ―
はあらゆる有為転変や全面戦争の危険を免れている。さもなければ、有名な次の言に依拠
して揶揄することで、彼らに言わねばならない。…[中略]…
彼らの意見が依然として好戦的であるかどうかわれわれはまもなく知るだろう。人民に
とって不幸なことに、戦争を常に求めるだけでその戦争をおこなわず、けっしてそれから
災厄を受けることのない人々によって戦争が宣せられるのだ!!…われわれはイギリスに
とってそれが再現されるかどうか間もなく知るであろう。
(英国への意見表明)
【303】イギリスはしだいに、プロイセンとロシアのあいだで結ばれたのではないかと疑わ
れる秘密条約に驚くのみならず、プロイセンの新聞がイギリス人 ― 彼らがヘリゴランド
Heligoland 島をすでに要求 ― に対して温めているしだいしだいに尊大な態度に怒りを覚
えている。『北ドイツ=ツァイトゥンク』紙。
(ガリバルディ軍)
ガリバルディがその本営をオータンに移す前にドールで書いたこと。
(リュリエ Lullier 大佐)
帝政下で高名なリュリエ氏は共和政下でもその高名を失っていない。海軍大尉を辞職し、
最近の諸事件が彼を大佐の地位に就けた。この等級の軍服を纏ってトゥールのカフェでい
く人かの将校に取り囲まれたリュリエ氏はテーブルから遠くない処にいた。リュリエ氏は、
メッスの守備隊将校は裏切り者だと声高に語った。カフェで大きな噂話がもちあがった。
将校らは立ち上がり、彼らの侮辱者を詰問した。一人の将軍がその部下に、リュリエの着
衣に少なくとも敬意をはらうよう命じた。一人のブルジョワがリュリエ氏を捕え引きずり
だし、カフェの戸めがけ投げとばし、満場の喝采を浴びた。
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翌朝、リュリエ氏はガンベッタの命令によりその場で逮捕された。
(ピエール・ボナパルト公)
ブリュッセルのオルレアン派の新聞『エトワール・ベルジュ』紙の記事。
(侵入期におけるパリの周辺と東部諸州)
パリ市民は 11 月 7 日におこなわれた外国人の出立に関する記憶をもっている。有力な推
挙のおかげでいくつかの国籍を有する人物はパリを離れ、プロイセン軍前線を横切るため
の通行券を得ることができた。150 リューの旅行計画のためにパリの諸門や鉄道とあらゆる
種類の通行手段の時代において 5 日間の日数を必要とし、あらゆる遅延や想像に絶するあ
らゆる鈍さを経験しなければならなかった。
彼らのうちの一人スイス人は敵地点を通過する際の出来事と冒険談を語る。彼の話はパ
リ周辺のプロイセン軍占領地の生き生きとした指導的な描写であるため、それが長いにも
かかわらずほとんどすべての情報をかき集めることができよう。どこにも発見できないよ
うな詳細と情報がそこに込められている。
パリ脱出とクレテイユ Créteil への横断を語ったあとで亡命者らは次のように語る。…[中
略]… 【305】
(次 http://linzamaori.sakura.ne.jp/watari/reference/maquest7.pdf)
(c)Michiaki Matsui 2014
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