こちら - 東京大学大学院総合文化研究科・教養学部 駒場博物館

フランツ・エッケルト没後 100 周年記念特別展
近代アジアの音楽指導者エッケルト
プロイセンの山奥から東京・ソウルへ
1
̶目次̶
導入
2
入口
フランツ・エッケルトについて
軍楽隊
2
2
4
活躍地
5
ノイローデ
ナイセ
ヴィルヘルムスハーフェン
日本の軍楽隊指揮者の求人とエッケルトの赴任
東京の外国人
東京合唱協会
東京
バート・ゾーデン
ソウル
5
6
8
9
10
10
12
14
15
作品
18
君が代
哀の極
大韓帝国愛国歌
19
20
20
韓国の軍楽隊(『東明』)
終わりに
21
21
ーフェン、そして東京の 20 年間、その後一時帰国
したバート・ゾーデンと最後の 15 年間を過ごした
ソウルである。
外壁に囲まれた展示室は大きく2部屋に分かれて
いる。それぞれの部屋の中央には島のような展示ス
ペースがある。先に入る小展示室の島ではエッケル
トの家族を紹介する。後で入る大展示室の島(マル
セル・デュシャンの大ガラス作品があるところ)で
はエッケルトの作品が紹介されている。そこには電
子キーボードとピアノ用楽譜を用意したので、よけ
れば是非エッケルトの作品を弾いてみてほしい。
二つの展示室を分ける内壁には、さまざまなテー
マの資料を展示している。中でも東京合唱協会の会
誌に掲載された風刺画は見どころの一つである。協
会も会誌もこの展覧会で初めて紹介されるものであ
る。今まで知られることがなかった東京の愉快な音
楽活動をゆっくり味わっていただければ幸いである。
Panel 3
考察
音楽に関わる展覧会なので批判的な考察は必要が
ないと思われるかもしれないが、それは大きな誤解
である。各展示コーナーで特に強調しなくても明ら
かに浮かんでくるのは、軍国主義・帝国主義と西洋
音楽受容の関係である。明治政府が軍国主義・帝国
主義でなければ西洋音楽が日本に早く受容されるこ
とはなかったといっても過言ではない。そして軍楽
隊は本来、兵士の士気を鼓舞する手段であることは
忘れてはならない。実際には本来の役割よりも娯楽
を提供している場合が多かった。しかしそれもまた、
軍隊が社会の一部として受け入れられることを推進
するものであった。
軍楽隊のお雇い外国人教師が軍国主義を代表する
プロイセンから雇われたのも決して偶然ではない。
長年プロイセン軍に属していたエッケルトにとって、
忠君愛国は国民の当然の責務で、彼はきっと《君が
代》の創作にも《大韓帝国愛国歌》の創作にも、喜
んで関わったに違いない。しかし皮肉にも晩年には、
日本の植民地支配に苦しむ朝鮮で、日本の敵国であ
るドイツの市民として二重に困難な状態に落ち込む
のである。
導入
【入口】
Panel 1
ごあいさつ
この展覧会は日本学術振興会科学研究費補助金
(基盤研究(B))「近代日韓の洋楽受容史に関する基
礎研究―お雇い教師フランツ・エッケルトを中心に」
で進めている研究から、最新の成果および新発見資
料を紹介するものである。
この展覧会の特徴は、フランツ・エッケルト
(1852-1916)という人物を、直接関わる資料が極め
て少ないにもかかわらず、あえて中心にすえたこと
である。
エッケルトは1879年に来日し、
没年の1916
年まで主に日本と韓国(朝鮮)で活躍した。来日以
前にドイツで得た音楽経験を活かして、西洋音楽文
化を日本と韓国に伝えたのである。私たち研究者と
しては、一方ではエッケルトの生まれ育った環境、
その地域の当時の音楽文化、他方では彼が東アジア
で活躍した条件などを十分に理解すれば、本人につ
いての資料がほとんどなくても、彼が文化交流にど
のような役割をしたかが明らかになるのではないか
と考えている。
解説パネルの数とそれぞれの文字数が大変多くな
ったが、各コーナーを一つ一つのミクロコスモスと
してゆっくり鑑賞していただければ幸いである。
ヘルマン・ゴチェフスキ
(H.G.)
【フランツ・エッケルトについて】
(左の展示室中央部)
Panel Eck-1
フランツ・エッケルトとその家族 (1)
フランツ・エッケルトは 1852 年4月5日ノイロ
ーデ市に生まれた。父は裁判所の書記で、母は指物
師の娘であった。8 人兄弟の五男で末っ子であった
が、長男、次男、三男は幼児の時、三女は彼が生ま
れて間もなく亡くなったので、フランツは兄一人と
姉二人とともに育ったと思われる。エッケルトの両
親は二人とも終生ノイローデ市に暮らしていた。母
は彼が 15 歳の時に亡くなったが、父は息子が日本
で成功し始めてから 1885 年に 80 歳で亡くなった。
フランツはナイセ市の軍楽隊に奉職中、1875 年
23 歳で農家の娘で同年輩のマティルデ・フーフと
彼女の実家、ナイセ市付近のファルケナウで結婚し
Panel 2
展示案内
この展示室の外壁に沿ってエッケルトが暮らして
いた場所を順番に訪れることができる。出生の地ノ
イローデ(入り口)からナイセ、ヴィルヘルムスハ
2
た。彼女は結婚以前ナイセ市で小間使いの仕事をし
ていた。二人は彼女の兄アウグスト・フーフ(1845
∼1905)を通して知り合ったと考えられる。アウグ
ストはフランツと同様にナイセの軍楽隊に勤めてい
た。アウグストと、フランツの軍楽隊長ダネンベル
クはフランツとマティルデの結婚立会人となった。
Panel Eck-4
フランツ・エッケルトとその家族 (2)
エッケルト夫妻には7人の子供が居て、その内3
人の息子と3人の娘が成人するまで育った。
長女アマーリエは結婚の1年後に生まれたが、そ
の時にはエッケルトはすでにヴィルヘルムスハーフ
ェンに転職していた。次女ヨハナ・ツェツィリエも
ヴィルヘルムスハーフェンで生まれているが、後の
文献には一切出てこないので幼児の時に亡くなった
と思われる。
1879 年にエッケルトはまず一人で日本に渡った。
妊娠していた妻は夫の出身地ノイローデに戻り、そ
こで長男フランツを生んだ。彼女が子供達と一緒に
日本に来た正確な日付は分かっていないが、三女ア
ナ=イレーネが 1883 年5月に日本で生まれたので
1882 年以前だったことになる。次男カール、三男ゲ
ーオルク、四女エリーザベトも皆日本で生まれてい
る。末っ子が生まれた 1887 年から長男と次男が教
育のためにドイツに帰った 1894 年まで、エッケル
ト一家は8人家族として東京で暮らしていた。
(H.G.)
Panel Eck-2
ノイローデのエッケルト家と音楽
エッケルト家の音楽についてはあまり知られてい
ないが、フランツ・エッケルトの父が都市の音楽界
で積極的な役割を果たしていたことはいくつかの資
1
料で確認できる 。彼はもともと織物職人で、後に裁
判所の書記となった。彼自身も息子と同様に若い時
に軍楽隊員だったかどうかは不明だが、彼が一時元
軍楽隊員で構成された楽隊を指揮しダンス会や葬儀
で演奏していたことからその可能性が高い。彼は長
年ツェツィリエン協会のメンバーでもあり、そこに
音楽教師の役割を果たしていた。息子フランツには
管楽器を教えていたと伝わっている。
エッケルト家で音楽が盛んに行われたことは、成
人に達した二人の息子が両方とも職業音楽家になっ
たという事実からも推測できる。弟フランツが生涯
親しくしていた兄ヴェンツェル(1846∼1901)が
どのような音楽活動を行っていたかは知られていな
いが、彼は 1875 年にクリスティアーニア(今日の
オスロ)、その後ベルリン(確実には 1882 年と
1900‒1901 年)で音楽家として暮らしていたことは
証明されている。彼はピアノ曲も作曲し、クリステ
ィアーニアで出版された。
1
(H.G.)
(ケース内)
この展示板裏のケース内およびヴィルヘルム
スハーフェン・コーナーの海軍軍楽隊写真下
のケース内参照。
(H.G.)
Panel Eck-3
エッケルトの師匠たち
エッケルトは最初の音楽指導を父から受けたが、
その後、軍隊に入隊する前と在役中に受けた音楽教
育については何も知られていない。エッケルトの音
楽経験に大きな影響を与えたと確認できる人物とし
ては、彼が勤めていた二つの軍楽隊のそれぞれの隊
長であったナイセ市のフリードリヒ・ダネンベルク
(Friedrich Dannenberg)とヴィルヘルムスハーフ
ェン市のカール・ラタン(Carl Latann, 1840∼1888)
だけである。前者の経歴について情報は少ないが、
ラタンは比較的に有名で、作曲家としても多作であ
った。彼の行進曲には今日まで演奏されているもの
もあり、エッケルトは彼の《祝典序曲》を日本でも
指揮した。ラタンは 1871 年に「第二皇帝水兵隊ヴ
ィルヘルムスハーフェン市音楽隊」を創立し、1884
年までその楽隊長を勤めた。彼自身は主に軽音楽に
属す作品を残し、ヴィルヘルムスハーフェン市の聴
衆も古典派の音楽には関心がなかったにもかかわら
ず、ラタンは指揮者および室内楽奏者としてウィー
ン古典派作品の普及に絶えず努力した。
(H.G.)
3
エッケルトの父̶̶フランツ・エッケルト(1804
∼1885)
ノイローデで読まれた新聞記事と数日後の補足で
あるが、エッケルトの父の音楽活動について私たち
が知ることができる少数の情報の一つである。補足
においては再びエッケルトの給料の高さに注目して
いる。
エッケルトの父は織物職人の息子で、元来彼自身
も織物職人であったが、エッケルトが生まれる前に
ノイローデの裁判所の書記として採用され、この記
事の当時には 77 歳で恩給で生活していた。しかし
この記事から読み取れるように、彼は若い時からカ
トリック教会の音楽協会で活躍し、そこで音楽教師
の役割も果たしていた。
別の記事(ヴィルヘルムスハーフェンのコーナー
で「日本の軍楽隊指揮者の求人とエッケルトの赴任」
のケースを参照)から、彼が音楽隊を指揮し、管楽
器を教えていたことも知られている。
(H.G.)
『山の便り』1882 年 11 月 24・28 日号
11 月 22 日、ノイローデ。(チェチリア祭と記念
式典。)聖チェチリアの祝日である今日、当地の
音楽協会は創立 167 年を記念してこの日を盛大
に祝った。同協会の極めて功績ある会員で、退職
した書記のエッケルト氏、及び織物工場主のベネ
ディクト・グリュースナー氏は、この日、会員歴
半世紀を迎えた。特にエッケルト氏には、当地の
教会合唱団の団員のほとんど全員そしてそれ以
外の多くの方々も音楽的訓練において多くを負
っている。教会音楽に関する二人の大いなる功績
のゆえに、協会はその前日、この機会のために特
別に作詞作曲された歌曲によってささやかな感
謝の意を表した。当日には 8 時から荘厳なミサが
執り行われ、その中で B. ハーンによる第 5〔?〕
ミサが演奏された。二人は代表団によって迎えら
れ、教区教会横の校舎へと案内された。その後、
頼を得ており、同僚にも少なからぬ好意を持たれ
ていた。フーフ氏はナイセで、王室音楽監督シュ
トゥッケンシュミート氏に師事し、彼にしっかり
とした理論的訓練も受けながら、軍楽隊員として
実践的経験を積んだ。軍楽隊員として彼はカペル
マイスターの試験に合格したものの、実際にその
職に就く機会はなかった。しかし彼はナイセにお
いて多年にわたりオペレッタの上演を指揮した。
ポーゼンでは彼は何年間も国土防衛軍合唱団、民
謡の会、リーダークランツなどで指揮者として活
躍し、また男声合唱の組織の普及に大変尽力した。
イェルジッツ合唱クラブは、とりわけこのフーフ
氏をその創設者の一人に数える。彼が作曲した作
品には、彼が指揮した男声合唱団のために書かれ
た合唱曲の他にいくつかの器楽曲およびオペラ
《ツリニー》、《鉱員たち》、及びより小規模な
歌芝居がある。ストレートで実直、また好感の持
てる親切な人柄により、広く市民たちの間で愛さ
れ、尊敬されていたフーフ氏の死によって、一人
の正真正銘のドイツ人男性が世を去った。彼の思
い出はいつまでも忘れられることがないだろ
う!
そこから協会は行進曲の祝祭的な響きの下、二つ
の立派な、非常に古い協会杯を先に立てつつ、店
主 J. ベーム氏のレストランへと移動した。事務
的な事柄の処理が済んだ後、正餐が始まったが、
それには市長と、市議会長ジンダーマン氏も列席
した。二人の老練な音楽家に向けて作詞された食
卓歌は一同の喝采を得た。夕べにはより大きめの
演奏会が催され、すでにおなじみで人気の高い
「ロンベルク[作曲]の鐘の歌」が演奏された。く
つろいだ雰囲気の舞踏が一日の祝典を締めくく
った。願わくば、まだかくしゃくとしているこの
お二人が末長く協会員にとどまり続け、在籍 60
年をも祝われますように。
(11 月 28 日、ノイローデ)
[...]当地の教会合唱団の団員たちのほとんどそ
してそれ以外の多くの方々も音楽的訓練につい
て多くを負っているエッケルト氏については、前
号の『山の便り』に記事が載ったが、それに加え、
次の間違いなく興味深い情報についてもぜひお
知らせしておきたい。彼の二人の息子のうち一人
は目下日本の帝国海軍の軍楽隊長であり、その収
入はドイツのどんな音楽監督も及ばないほどで
あるということだ。[...]
[訳](K.O.)
アウグスト・フーフの韓国勲章の謎
大韓帝国の『高宗実録』には 1905 年 8 月 17 日
にフーフ(후흐)というドイツ人の「郵遞參書官」
が「幇助軍樂節奏著效」、つまり韓国の軍楽隊に協
力したという理由で叙勲されたという記録がある。
フーフはドイツでは珍しい名前であり、エッケルト
が大韓帝国で活躍中の時代に軍楽隊に関わったこと、
さらに職名を考慮すれば、このフーフはエッケルト
の義理の兄アウグスト・フーフであった可能性が高
い。そうだと、エッケルトとフーフは、二人がナイ
セから去った後も音楽で助け合っていたということ
が分かる。ただしフーフは韓国の軍楽隊にどのよう
に貢献したかは今まで知られていない。
[訳](K.O.)
(ケース内)
エッケルトの兄̶̶ヴェンツェル・エッケルト
(1846∼1901)
エッケルトの兄ヴェンツェルがどのような音楽活
動を行っていたかは知られていないが、彼が 1875
年にクリスティアーニア(現在のオスロ)、その後
ベルリン(確実には 1882 年および 1900‒1901 年)
で、音楽家として暮らしていたことは証明されてい
る。ヴェンツェルは生涯を通じて弟フランツと親し
くしており、フランツの長男は学生時代、ベルリン
のヴェンツェル宅に下宿している。またフランツの
最も重要な弟子である吉本光蔵も、ベルリン留学中、
ヴェンツェル宅に下宿していた。
ヴェンツェルはピアノ曲《ドーリス・ポルカ》Op.
5(デンマーク王立図書館所蔵)も作曲しており、そ
の作品はクリスティアーニアで出版されている。
(H.G.)
【軍楽隊】
Panel Mm-1
(H.G.)
(ケース内)
エッケルトの義理の兄̶̶アウグスト・フーフ
(1845∼1905)
エッケルトの妻マティルデは 9 人兄弟の家族の出
身であったが、おそらく長男であったアウグスト・
フーフは軍楽隊員としてエッケルトの先輩でもあり、
結婚立会人でもあった。この死亡記事は彼の音楽的
活躍も紹介している。
(H.G.)
『ポーゼン日報』1905 年 11 月 24 日号
訃報 我々の間で最も有名な市民の一人、郵便局
書記官のアウグスト・フーフ氏が、本日未明 3 時
45 分に脳卒中のため突然亡くなった。故人の享
年は 60 と半年であった。彼は 1874 年以来、電
報管理部門に所属しており、20 年以上、当地の
上級郵政監督局資材課(現在の電報機材課)の長
を務めた。彼はすべての上司から重んじられ、信
プロイセンの軍楽隊
軍事国家プロイセンでは軍隊が全国各地に駐屯し
ており、どの連隊(2000 人程度)も 40 人程度の音
楽隊を備えていた。1881 年に出版された『軍楽隊員
年鑑』にはドイツ帝国全体で 347 隊の軍楽隊が収録
されている。大都市にも多くの軍楽隊が配置されて
いたが、職業音楽家のほとんど存在しない地方では
その文化的役割がそれよりも遥かに大きかった。多
くの場合、軍楽隊は大編成の演奏を初めて可能にし、
娯楽的な演奏会を提供するとともに重要な音楽作品
を地方の国民に紹介した。軍楽隊は吹奏楽、管弦楽、
弦楽など、楽隊全員でも小編成でも各種の民間音楽
活動に雇われた。軍楽隊主催の「軍事演奏会」もプ
ロイセンの音楽文化においてはどこでも見られる現
象であり、一部の軍楽隊は軍事以外でも絶えず演奏
活動で村から村へ移動していた。例えば軍が駐屯し
ていないために軍楽隊も配置されていなかったノイ
ローデでも周辺の軍楽隊がよく演奏会を開いていた。
(H.G.)
4
Panel Mm-2
プロイセンにおける軍楽隊員としてのキャリア
軍楽隊員の多くは志願兵として入隊していたが、
その最少年齢は 17 歳であった。軍楽隊に入隊する
のには隊長との面接があり、楽隊の要請の他に志願
者の音楽能力が認定基準であった。軍楽隊員に在職
年数の期限はなかったが、12 年以上勤めれば 1000
マルク(普通の隊員の数年の給料に当たる金額)の
退職金を受ける権利があった。それに加えて退職し
た軍楽隊員には優先的に公務員(郵便局、鉄道など)
のポストが与えられた。そのために多くの軍楽隊員
が 12 年間勤めた後民間の仕事に転職した。
この恵まれた条件により軍楽隊員のポストは貧し
い家庭に生まれ音楽才能のある若者に人気があった。
これによって小学卒の少年を受け入れ軍楽隊の入試
合格を約束する、「ムジークマイスター」と呼ばれ
る元軍楽隊員によって運営される音楽塾が田舎の市
町村にまで数多くできた。このような音楽塾は学費
をほとんど取れなかったので、全ての楽器に及ぶ音
楽指導は一人の教師と既習の生徒が担当し、運営資
金は村の舞踊会などにおける生徒たちの出張演奏に
よって獲得する場合が多かった。
(H.G.)
Panel Mm-3
プロイセンの軍楽隊長
プロイセン王国の軍楽隊の指揮者は「シュタープ
スオーボイスト」、「カペルマイスター」、「ムズ
ィークマイスター」、「音楽指揮者」、「音楽監督」
などの肩書きを持っていたが、ここでは簡単に「軍
楽隊長」と呼ぶことにする。軍楽隊員の選定と入隊
後の音楽教育に責任を持っていたので、軍楽隊の水
準は軍楽隊長の人間的・専門的能力に大いに関係し
ていた。優秀な軍楽隊長は作曲と自作演奏も期待さ
れていた。
軍楽隊長の多くは庶民出身で、体系的な教育とい
うよりも才能と経験によって出世していたから、市
民文化であるクラシック音楽には縁が薄かった。し
かし 1874 年以来プロイセン政府は軍楽隊の芸術的
水準を高めるべく、ベルリン国立高等音楽院に2年
間の軍人コースを設け、軍楽隊長となる見込みのあ
る優秀な軍楽隊員から毎年 10 人を選定し音大に派
遣することにした。徐々にこのコースを卒業するこ
とが軍楽隊長になるための必要条件となり、軍楽隊
のレパートリーも次第に市民音楽文化に近づけられ
た。
世紀後半にはいずれの職名も慣習的なものであり、
軍楽隊の構成や各楽隊員の担当楽器とは何の関係も
なくなっていた。
軍楽隊員には下士官と一般兵士、常勤と非常勤(補
助員)の違いによって位付けされていた。海軍軍楽
隊の特徴として「上級音楽隊員」
(Ober-Hautboist)
の職名があった。エッケルトが3年間勤めていたヴ
ィルヘルムスハーフェンの「第二皇帝水兵隊」の音
楽隊では、46 人の楽隊員中 18 人が上級音楽隊員の
地位に付いていた(パネル Wil-5 参照)。
(H.G.)
活躍地
【ノイローデ】
Panel Neu-1
エッケルトの故郷ノイローデとその周辺
̶̶政治行政̶̶
後にフランツ・エッケルト生誕の地となったノイ
ローデ市(Neurode)とエッケルトが結婚するまで
縁のあった場所はボヘミア(独ベーメン)とシレジ
ア(独シュレージエン)の国境近くにあった。中世
以降、シレジアはボヘミアとともにボヘミア王冠領
に属していた。1526 年、オーストリアのハプスブル
ク家がボヘミアの王位を継承し、それ以来「ドイツ
国民の神聖ローマ帝国」南東の全てはハプスブルク
の支配下にあった(パネル Neu-5、地図2の黄土色
の部分、通称「オーストリア」)。ノイローデ市は
伯爵領グラッツ(Glatz)に属し、この伯爵領は 18
世紀までボヘミアに属していたが、18 世紀半ばには
シレジアの大部分とともにプロイセンの支配下に入
り、国境によって切り離されたボヘミアから自立し
た。
1818 年にはプロイセンの行政上の理由によりシ
レジア州に属するようになった(パネル Neu-5、地
図1と地図3参照)。第二次世界大戦後この地域は
南ポーランドに属し、チェコの国境に隣接している
(パネル Neu-5、地図 4 参照)。
(H.G.)
Panel Neu-2
(H.G.)
Panel Mm-4
軍楽隊員の職名
プロイセンの軍隊には兵種により軍楽隊員の職名
が異なっていた。歩兵や水兵の軍楽隊員は
「 Hautboist 」 ( オ ー ボ エ 奏 者 ) 、 砲 兵 で は
「 (Wald-)Hornist 」 ( ホ ル ン 奏 者 ) 、 騎 兵 で は
「Trompeter」(トランペット奏者)と呼ばれてい
た。それは元来そういう楽器を中心とする楽隊があ
ったからである。また一部の軍楽隊には「Janitschar」
(ヤニチャール)という職名の楽師グループもいた。
これは 18 世紀プロイセンの軍楽隊にトルコの音楽
が導入された史実に基づく名称である。しかし 19
5
エッケルトの出身地̶̶宗教
ボヘミアとシレジアでは 16 世紀に宗教改革のも
とほとんど全てがプロテスタントになっていたが、
1620 年以来オーストリアが対抗宗教改革を強制的
に断行し、ボヘミアのほとんど全てとシレジアの一
部がカトリックに戻された。ただしシレジアではさ
まざまな事情によりこの政策が部分的にしか成功せ
ず、多くの地域はプロテスタントのまま残った。結
果的にシレジア地方は宗教的に分裂した国となり、
その影響は 20 世紀まで及んだ。
エッケルトが育った時代もシレジアの住民間には
多大な宗教的緊張があった。エッケルトが生まれた
ノイローデと彼が長年勤めていたナイセはシレジア
のカトリック地域であったが、エッケルトが一時教
育を受けたと思われるシレジア州の首都ブレスラウ
は主にプロテスタントの信者が住んでいた地域であ
った。従って古くからノイローデに住んでいた家庭
に生まれたエッケルトはカトリックであったが、プ
ロテスタントを主流とするプロイセンにおけるカト
リックの周縁地帯出身者として祖国において文化的
なマイノリティーに属していたと言える。
Panel Neu-5
中央ヨーロッパの歴史の中に見るフランツ・エッケ
ルトの出身地
地図1
(H.G.)
Panel Neu-3
フランツ・エッケルトの生誕地における市民文化
ノイローデは山間の辺境の街で、エッケルトが住
んでいた当時は辿り着くにも困難な地であった。周
りのボヘミアやシレジアの地域と同様に、すでにハ
プスブルク帝国時代から織物業が主要な産業となっ
ていた。また、小さな鉱山も古くからあった。1800
年前後は織物業がブームになり、ノイローデの人口
が移住民によって 40 年間で 2400 人から 4500 人ま
で二倍近くに増えた。エッケルトの祖先もどこから
か分からないが、この時代にノイローデに移住して
きたと思われる。経済ブームの時代にあたる 1799
年にはオペラハウスまでも出来ていた。それはすぐ
潰れてしまったが、潰れたオペラハウスから劇場が
発展し、エッケルトの時代でも引き続き興行が行わ
れていた。しかし 19 世紀には織物業が次々と危機
に直面し、ノイローデはその地域のもっとも貧しい
都市のひとつとなった。19 世紀後半、特に鉄道がノ
イローデまで開通した1879 年以降、
鉱山が発展し、
ノイローデの主要な産業となった。それが街の文化
(「鉱山管弦楽団」など)にも多大な影響を及ぼし
たが、エッケルトはこの発展が本格化する以前の
1860 年代にノイローデを去った。
ボヘミア王冠領諸国の歴史的な国境(白い線、14 世
紀のカール 4 世時代)と今日のヨーロッパ諸国の国
境(灰色の線)。ボヘミアBöhmen とシレジア
Schlesien の間で白い線と灰色の線に囲まれた地域
は伯爵領グラッツ Glatz である。この地区は18世紀
半ばまでボヘミアに属し、その後プロイセンの支配
下に入り自立した地域となり、1818年にプロイセン
のシレジア州に吸収された。ボヘミアとシレジアの
間にある灰色の国境の位置自体は 18 世紀半ばか
ら現在まで変わっていないが、その南北にある国名
は数回変わった。つまりその線は1918年までプロイ
セン王国(1871 以来ドイツ帝国の一部)とオースト
リアの国境であったが、第一次世界大戦後はドイツ
とチェコスロバキアの国境、第二次世界大戦後はポ
ーランドとチェコスロバキア(1992 年よりチェコ)
の国境となり現在に至る。エッケルトの出身地では
1945年まで(チェコスロバキア建国後でも)国境の両
側にドイツ語を話す国民が大半を占めていたが、第
二次世界大戦後にはドイツ国民の大多数が追放され、
今日では国境の北側にポーランド語、南側にはチェ
コ語を話す国民が住んでいる。
エッケルト時代(1864 年)の統計:ノイローデ市の人口:6121
人(カトリック 5616 人[92%]、プロテスタント 481 人、ユダ
ヤ教 21 人、バプテスト 3 人)
(H.G.)
Panel Neu-4
19 世紀におけるノイローデ市の音楽界
ノイローデのようなプロイセンの辺境の小都市に
は基本的に職業音楽家は存在しなかった。従って音
楽界は学校の先生たちやアマチュアによって支えら
れていた。しばしば彼らは器楽を教えたり音楽協会
を作っていた。こういうアマチュア協会によってノ
イローデの劇場にはときおり本格的なオペラ、例え
ばロルツィングの《ロシア皇帝と船大工》やボイエ
ルデューの《白衣の婦人》も上演された。
ノイローデには古い音楽協会(1716 年結成、エッ
ケルトの時代では「ツェツィリェン協会」と呼ばれ
た)があり、主にカトリック教会の器楽と声楽を担
当していた。1858 年には、この時代でシレジアの他
の都市にも多く見られるように、男性合唱協会も作
られた。
ノイローデにはときどき演奏ツアーでやってくる
音楽家の演奏会も開かれ、それらは常に多くの観客
を呼んだ。ノイローデの市民たちは古典派の音楽を
好んでいたが、保守的な趣味を持っていた人が多か
った。従って 1880 年ごろになってもベートーヴェ
ンが難解だとされ、ハイドンの方が好まれた。
(H.G.)
【ナイセ】
Panel Nei-1
軍事都市ナイセ
中世以来司教座でありシレジアの重要な都市であ
ったナイセ市はすでに 30 年戦争から城郭都市であ
ったが、
1741 年プロイセンに占領された後フリード
リヒ二世によってさらに堅固に防備され「強大な要
塞」を持ちオーストリアに対してプロイセンを防衛
するための重要な軍事都市の一つとなった。これは
19 世紀でも変わらなかった。1860 年にプロイセン
の(ポツダムとエアフルトの後)第三の「戦争学校」
(Kriegsschule)がナイセ市に設立された。エッケルト
時代にはナイセ市の約 4 分の1の人口が軍人であっ
た。
(H.G.)
6
早1848 年にナイセからブリークの鉄道が開通し、
ブレスラウやベルリンへも直接行けるようになって
いた。ナイセ市はその都市にふさわしい文化もあり、
その中でも 1852 年に建てられた劇場が抜きん出た
役割を果たしていた。
従ってナイセ市はノイローデ市と比べればより大
きな都市であるだけではなく、鉄道や軍隊によって
プロイセンの近代化がより目立つ地域でもあった。
Panel Nei-4
ナイセ市でのヨハン・ハインリヒ・シトゥッケンシ
ミット
有名な音楽評論家ハンス・ハインツ・シトゥッケ
ンシミットの祖父であったヨハン・ハインリヒ・シ
トゥッケンシミット(1819∼1870)は 1845 年から
1865 年までナイセ市で活躍した。
ブレーメン市に生
まれ、同市の W・F・リーム音楽監督と、男性合唱
運動とドイツ国民運動の巨匠でありブラウンシュヴ
ァイク市のオペラハウスで宮廷音楽監督として勤め
ていた A・メトフェッセルのもとで学び、数年作曲
家ならびに指揮者として国際的な経験(パッサウ市、
インスブルック市、トリエステ市)を積んだ上、1845
年に声楽や音楽の教師としてナイセ市に居をかまえ
た。
ナイセ市でシトゥッケンシミットは 1846 年にジ
ングアカデミー(混声合唱団)と 1852 年に器楽協
会を創立した。アマチュア協会ではあったが、それ
らをもって古典派やロマン派の大作を地方の聴衆に
紹介した。また彼が 1847 年に創立した民族的・愛
国的合唱曲を中心とする男性合唱協会は活発に活躍
し、間も無くシレジアの男性合唱運動を牽引した。
1862 年にシトゥッケンシミットはシレジア各地の
男性合唱協会をまとめる「シレジア合唱連盟」(同
年に作られた「ドイツ合唱連盟」の地方版)を創立
し、その会長ともなった。
エッケルト時代(1875 年)の統計:ナイセ市の人口:19811
人(カトリック 82%、プロテスタント 15%、ユダヤ教 2.5%)
(H.G.)
Panel Nei-2
19 世紀におけるナイセ市の音楽界
ナイセ市のような軍事都市では劇場の他、軍楽隊
が当然ながら音楽界で中心的な役割を果たしていた
(パネル Nei-1 と Nei-3 参照)。エッケルトのナイ
セ時代には少なくとも四つの軍楽隊がナイセ市を所
在地とし、それぞれ 25 人から 40 人の編成で吹奏楽
と管弦楽の両方を演奏していた。19 世紀前半の文献
によるとナイセ市の音楽的水準は大いに軍楽隊に依
存していた。しかし 1845 年から 1865 年までナイ
セで活躍したヨハン・ハインリヒ・シトゥッケンシ
ミット(パネル Nei-4 参照)の影響で民間の音楽活
動もその後再び見られない程の隆盛期に達した。こ
の時代にはナイセのオラトリオや交響曲の上演が地
域を越えて注目を得、ナイセ市は一時的にシレジア
の男性合唱運動の中心地ともなった。シトゥッケン
シミットはエッケルトの義理の兄で結婚の証人でも
あったアウグスト・フーフの音楽師匠でもあった(こ
の展示スペースの中央に置いてあるケース内参照)。
(H.G.)
Panel Nei-5
ナイセ市立劇場
ナイセ市立劇場の演劇と音楽はどのようなもので
あったのかは 1872∼73 年の冬シーズンのプログラ
ムチラシ(上)からある程度読み取れる。1873 年の
『ドイツ舞台年鑑』(下)によればシヴァイドニッ
ツ市やヴァルムブルン市の芝居も担当していた一座
は、ナイセ市立劇場では 1872 年 10 月 31 日から
1873 年 1 月 16 日までの間に少なくとも 53 回の上
演に際してほとんど毎回別々のプログラムを演じて
いた。多くのプログラムからは音楽・歌・舞踊が上
演されたことが分かるが、ここでは特に音楽が重要
な役割を果たした公演のプログラムを展示している。
11 月 21 日には 3 番目の作品としてオッフェンバッ
クのオペレッタ《チュリパタン島》が上演され、11
月 29 日には幕間音楽としてロッシーニやスッペの
序曲が弾かれ、12 月3日には女流歌手ヘードヴィッ
ヒ・リヒターが出演し、12 月 17 日にはゲーテのエ
グモント上演を機会にベートーヴェンの《エグモン
ト》劇音楽も演奏された。すべての公演では「第二
上部シレジア歩兵第 23 連隊」と「第四上部シレジ
ア歩兵第 63 連隊」の両軍楽隊が音楽の伴奏を担当
していたので、後者の楽隊員であった、当時二十歳
のエッケルトもこれらの公演に参加したと思われる。
(H.G.)
Panel Nei-3
ナイセ市の劇場音楽における軍楽隊
19 世紀後半プロイセンの多くの地方都市と同様
に、ナイセ市の劇場音楽は軍楽隊によって行われた。
プロイセンのほとんど全ての軍楽隊には楽隊員たち
が二つの楽器(主要楽器:狭義の軍事音楽のための
管楽器、補助楽器:民間の演奏会のための楽器、多
くの場合は弦楽器)を担当していた。それによって
軍楽隊は交響楽をオリジナル編成で演奏することが
できた。必要に応じて二つの軍楽隊を合併させて演
奏していた。軍楽隊には一部の楽隊員のみが常勤の
ポストを持っていたので、民間の演奏会は運営資金
の獲得にも必要であった。従ってプロイセンの軍楽
隊は半官半民の組織だったといえる。
ナイセ市には主に長い歴史を持つ「第二上部シレ
ジア歩兵第 23 連隊」の音楽隊が劇場音楽を担当し
ていた。しかし 1860 年新しく形成された「第四上
部シレジア歩兵第 63 連隊」の音楽隊も定期的に劇
場音楽の担当となっていた。エッケルトはヴィルヘ
ルムスハーフェンに移るまで後者の楽隊に補助音楽
家として勤めていた。
(H.G.)
(H.G.)
Panel Nei-地図
ナイセ市の略図
ナイセ川の南側には星形要塞に囲まれた旧市街が
あり、北側には後でプロイセン軍の訓練のために足
された様々な巨大な建築物が見られる。当時の鉄道
7
はナイセ川の北東にある軍事施設の横に終着駅があ
った。
市音楽隊」はまもなく同市の(それ以外にほとんど
存在していなかった)音楽生活の中心となった。と
くに演奏会シーズンに毎週行われていた人気の「シ
ュトラウス風演奏会」ではヨーハン・シュトラウス
などの舞曲や軽音楽が演奏された。楽隊は国内演奏
旅行もしたが、エッケルトが楽隊員だった当時にも
そうした旅行活動があったかどうかは不明である。
他に分かっていることは、ヴィルヘルムスハーフェ
ンにはナイセのような立派な劇場文化がなかったに
もかかわらず、ラタンの軍楽隊が 1876 年に一時的
に劇場音楽も担当したことである。
(H.G.)
【ヴィルヘルムスハーフェン】
Panel Wil-1
海軍都市ヴィルヘルムスハーフェン
長く海軍を持たなかったプロイセンは 19 世紀半
ばから近代的な海軍の創設に着手したが、元来全て
の軍港はバルト海にあった。北海にも基地を設置す
るためにプロイセン王国は 1853 年にオルデンブル
ク大公国からそれに適した沿海区域を買い取った。
工事は1858年に始まり、
1869年には港が開港され、
プロイセン王(後の初代ドイツ皇帝)の名前を受け
て「ヴィルヘルムスハーフェン」と呼ばれるように
なった。普仏戦争後の 1871 年に「帝国造船所ヴィ
ルヘルムスハーフェン」も開業した。労働者のため
の仮設住宅から始まった都市は 1875 年になっても
人口一万人の3分の2が男性で、見る者を圧倒する
建造物が立ち並ぶ反面、乱暴者が多い、治安が悪い
など、同時代の記事には批判的な表現が目立つ。軍
人のほかに流れ者や一攫千金を目指す人々によって
急速に増えていった市民はドイツ各地からの寄せ集
めであり、エッケルト時代には文化活動の土台がま
だ出来ていなかったと考えられる。
(H.G.)
Panel Wil-4
(H.G.)
Panel Wil-2
エッケルトが住んでいたヴィルヘルムスハーフェン
の兵舎
エッケルトの長女と(早く亡くなったと思われ、
後の文献に言及されていない)次女の誕生届には彼
のヴィルヘルムスハーフェンの住所も書かれている。
長女の場合は「600 人兵舎」で、次女の場合は「造
船所兵舎」である。これはおそらく同一の建物の別
名である。造船所の近くには順番に三つの大きな兵
舎が建てられ、その最初の二つは同じ設計で 600 人
用で(当時はこれらと同じ設計でプロイセン各地に
多くの兵舎があった)、最後に建てられたのは 1000
人用の巨大なものであった。エッケルトが引っ越し
てきた当時は 600 人用の兵舎が一つしか存在しなか
ったので、それが単に「600 人兵舎」と呼ばれたが、
その左に二つ目が出来た時に前者が「造船所兵舎」、
後者が「港兵舎」と呼ばれるようになった。エッケ
ルトが居なくなってからの話だが、最後に出来た兵
舎がその後数十年間単に「1000 人兵舎」という名称
で知られていた。今日ではいずれの兵舎も残ってい
ない。
(H.G.)
Panel Wil-3
ヴィルヘルムスハーフェンのカール・ラタン(その1)
以前に船の楽隊を指揮していたカール・ラタン
(1840∼1888 年)は普仏戦争終了後ヴィルヘルム
スハーフェンに海軍軍楽隊を創立する依頼を受けた。
彼の元で演奏していた船上楽隊員に加えて、ラタン
は 1872 年1月の『総合音楽新聞』に「優秀な金管・
木管楽器奏者を好条件で」募集した。こうして構成
された「第二皇帝水兵隊ヴィルヘルムスハーフェン
8
ヴィルヘルムスハーフェンのカール・ラタン(その2)
1881 年の『軍楽隊員年鑑』に載っている「第二皇
帝水兵隊ヴィルヘルムスハーフェン市音楽隊」の楽
器編成が示すように、この楽隊は、当時のプロイセ
ンの軍楽隊の一般的な傾向と同じく(パネル Mm-1
参照)、吹奏楽でも管弦楽でも演奏することが出来
た。ラタンは毎年現地のホテルに行われた複数の「交
響楽演奏会」で古典派の交響曲の演奏にも努めたが、
聴衆の反響はあまり思わしくなかった。
1878 年には
楽隊が危機に陥り、15 人編成に縮小すると警告され、
ラタン自身も辞任を申し出た。しかし結局縮小も辞
任も避けられ、ラタンが 1884 年まで残った。なぜ
その年にフリードリヒ・ヴェールビーアに代わった
のかは不明である。
軍楽隊の写真は 1900 年前後から徐々に増え、絵
葉書としても販売されるようになる。「第二皇帝水
兵隊ヴィルヘルムスハーフェン市音楽隊」の写真も
複数現存する。知られている写真はすべてラタンの
退任以後のものではあるが、エッケルトが 1876 年
から 1879 年まで第一オーボエを吹いていた楽隊が
どのような雰囲気であったかをある程度想像させる
ものにはなるだろう。
(H.G.)
Panel Wil-5
第二皇帝水兵隊ヴィルヘルムスハーフェン市音楽隊
の楽器編成(1881)
1881 年の『軍楽隊員年鑑』による「第二皇帝水兵
隊ヴィルヘルムスハーフェン市音楽隊」の楽器編成。
演奏者の軍人としての階級、演奏者としての地位、
名字と吹奏楽時の担当楽器が書かれている。カッコ
内は管弦楽時の担当楽器を示す。
(H.G.)
【日本の軍楽隊指揮者の求人とエッケルトの
赴任】
家である彼は、自分に委ねられた地位の名望を高
めることだろう。
[訳](K.O.)
(ケース内)
(ケース内)
『軍隊週報』1878 年末∼1879 年初
『山の便り』1888 年 2 月 24 日号
「?ノイローデ、2 月 22 日。元プロイセン軍楽
隊長で、現在日本の東京で日本帝国政府に奉職し
ている楽長エッケルトは、ドイツ皇帝陛下より音
楽監督の称号を賜ることとなった。同氏は当地の
出身で、先般亡くなった元地方裁判所書記だった
父親より音楽、特に吹奏楽器の手ほどきを受けた。
エッケルトは長らくナイセの軍楽隊に隊員とし
て奉職し、 その後ヴィルヘルムスハーフェンに
移った。同地で上述した日本の宮廷楽長の地位の
オファーがあり、彼はそれを引き受け、すでに赴
任して約8年にもなる。ドイツの音楽監督たちの
うち、エッケルト氏のそれに匹敵する収入を得て
いる者はごく僅かであろう。というのも彼の年収
は 10,000 から 12,000 マルクにも上るからであ
る。[...]」
楽隊指揮者求む。ある海外の政府が、主に吹奏楽
器から成る海軍軍楽隊のために卓越した人材、で
きれば軍楽隊長を探している。契約期間は2年。
英語ができることが望ましいが必須ではない。た
だしピアノの教授能力は必須。詳しくは J. R.
1478〔の符丁〕の下、ベルリン南西ルドルフ・
モッセに問い合わせられたし。
[訳](K.O.)
(ケース内)
『インディアナ・トリビューン』1904 年3月 24 日号
グラッツからの報にもあるように、日本の帝室宮
廷楽団の楽長はエッケルトという名のドイツ人
である。彼はシュレージエンのノイローデの出身
で、裁判所書記だった彼の父は、平民としてあり
とあらゆる職に就いている退役軍楽隊員を集め
て臨時楽隊を作り、舞踏会やら葬式やらで演奏し
ていた。こうして若い頃より音楽を習い覚えた息
子は、およそ 25 年前にキールの海軍軍楽隊に入
隊した。その頃、そこの軍楽隊長は日本からの招
きを受け取ったが、彼はこれを断った。エッケル
トは彼の代わりに東京へ行き、ごくごく未熟な段
階にあった同地の楽団を立派なものへと育て上
げた。後にミカドは彼に宮廷楽長の称号を授けた。
日本に 20 年間滞在した後、エッケルトは 2 年ほ
ど前、故郷で長めの休暇を楽しんだ。東京に戻っ
た彼は、韓国皇帝の要請に応じ、韓国「軍隊」の
極めてお粗末な状態にあった音楽組織を立て直
すためソウルに赴いた。
[訳](K.O.)
1878年末から1879年初にかけての複数号に出さ
れた広告。エッケルトはこの広告か、あるいは他紙
(誌)に出た同様の広告を見て、日本海軍の職に応
募したのであろう。
(H.G.)
(ケース内)
『ヴィルヘルムスハーフェン日報』1879 年1月 23 日
ヴィルヘルムスハーフェン、1 月 22 日。伝えら
れるところでは、第 2 海兵隊軍楽隊のオーバー・
オーボイスト、エッケルト氏は、ブレーメンの帝
国議会議員モスレ氏の仲介により、2 年間の予定
で日本の軍楽隊長に就任することとなった。エッ
ケルト氏はすでに帝国海軍本部より休職もしく
は解職の許可を得ており、新たな職務に赴任する
ため、今月 30 日にはハンブルクより蒸気船でド
イツを後にする予定とのこと。
[訳](K.O.)
アメリカで発行されたドイツ語新聞に掲載された
記事である。「グラッツからの報」という表現から
推測するに、その内容はノイローデ地方の新聞に基
づくと思われる。エッケルトの両親の死去後の記事
であり、エッケルト家と親しかった人物からの情報
提供があった可能性がある。
シレジア以外の地域についての情報はかなり怪し
い(例えば、ヴィルヘルムスハーフェンが同じく海
軍が駐屯していたキールと間違われ、プロイセン王
から音楽監督という称号を授与されたのが、日本の
天皇から宮廷楽長の称号を受けたことに変わり、日
本の解傭が一時帰国とされている)。しかし、エッ
ケルトのシレジア時代については他のどこにも書か
れていない情報もあり、ある程度の信頼性があるの
ではないだろうか。
[訳](K.O.)
(ケース内)
『ヴィルヘルムスハーフェン日報』1879 年1月 26 日
ヴィルヘルムスハーフェン、1 月 25 日。第 2 海
兵隊のオーバー・オーボイスト、エッケルト氏(第
1 オーボエ奏者)は日本の帝国政府より同国精鋭
部隊の音楽監督に任命され、すでに蒸気船でハン
ブルクから旅立った。エッケルト氏の退任により
決して軽視できない空 が生じてしまったとは
いえ、自らのうちにこのような卓越した地位を授
けられた団員を持ったことについて、楽団とその
司令部は誇りに思ってよいだろう。エッケルト氏
は、世界の遥か遠くの地にドイツ音楽を移入し、
育てるために招聘された。有能で洗練された音楽
9
この記事で興味深いのは、エッケルト来日の経緯
が書かれていることである。日本政府はエッケルト
が所属していた軍楽隊の楽長カール・ラタンを招き
たかったが、ラタンが断ったので代わりにエッケル
トを雇用したというのである。求人広告に「できれ
ば軍楽隊長を探している」と書かれていることから、
こうした経緯があったとしても不思議ではない。
(H.G.)
【東京の外国人】
Panel Tgj-1
明治時代の東京の外国人
1899 年(明治 32 年)以前に来日した外国人は、
内地雑居が認められておらず、基本的に外国人居留
地で暮らすことになっていた。しかし日本政府に雇
われた御雇外国人や各国公使館に勤務する者は、居
留地外に住むことを特別に許されていた。
外国人居留地は安政の五カ国条約にもとづき開
港・開市が定められた都市に設けられたのだが、横
浜などでは幕末から居留地が形成された一方で、築
地などの居留地は維新後にようやく開かれた。築地
居留地は首都に設けられた外国人居留地だったが、
比較的近くの横浜居留地がいち早く発展していたこ
ともあり、築地に入居した者は少なかった。
居留地などで生活する外国人は、外国人同士でコ
ミュニティを形成した。たとえばドイツ出身者は
1873 年に日本やアジアの研究を目的とした OAG
(ドイツ東洋文化研究協会)を東京に創設した。
OAG は定期的に集会を開いており、メンバー同士の
交流の場を提供する機能も果たしていたことが分か
る。ちなみに、1881 年頃には OAG 会員の 3 割以上
が東京合唱協会(パネル TGV-2 参照)にも入ってお
り、東京合唱協会のほとんどのメンバーは OAG 会
員だった。
(Ka.S.)
Panel Tgj-1a
Panel Tgj-2
東京のドイツ人
来日したエッケルトは、御雇外国人や商人などと
して東京に暮らすドイツ人のコミュニティに参加す
ることとなった。彼らが日本での生活や日本人との
交流の中で感じたことは、E・ベルツの日記などから
想像することができる。しかし、彼らは東京に暮ら
す他の西洋諸国出身者とも交流しなければならなか
った。
当時の東京に暮らしていた西洋人の多くは英米の
出身だった。そのため東京の西洋人同士の 共通語
は英語であり、西洋人が経営する店で買い物するの
にも大抵は英語が必要だった。ドイツ出身者が不自
由なく生活するためには、英語を学ぶことが不可欠
だったのである。東京のドイツ人コミュニティの中
では、英語をうまく話せないことの自虐が、ある種
の典型的な笑い話になっていたようだ。
(Ka.S.)
Panel Tgj-3
保養地・伊香保温泉
1882 年の夏、
エッケルトは来日後初めての家族旅
行を楽しんだ。その際の旅券申請に関連する文書か
らは、彼が「健康保全」を名目として伊香保温泉を
旅行先に選んだことが分かる。
伊香保は日本国内では古くから名の知られた温泉
地で、明治時代に入ってからの案内書や錦絵も残さ
れている。エッケルトが旅行した頃、東京から伊香
保へ向かうルートは、中山道で高崎まで行き(1884
年には上野・高崎間の鉄道開通)
、渋川あるいは柏木
を経由して伊香保へ、というのが一般的だったよう
だ。
御雇外国人のベルツは風光明媚な温泉地だった伊
香保を保養地として高く評価した。イギリスの E・
M ・サトウらの編著にかかるガイドブック A
Handbook for Travellers in Central and Northern Japan
(初版 1881 年)でも伊香保は取り上げられ、1884
年の第 2 版以降は温泉に関する情報がベルツの協力
のもと増補されている。
(Ka.S.)
【東京合唱協会】
Panel TGV-1
ドイツの男性合唱協会
19 世紀や 20 世紀のドイツ語圏における音楽生活
には男性合唱協会が特記すべき役割を果たし、社会
的・政治的・教育的に重要な使命を帯びていた。男
性合唱協会は2種類に分類され、その両方が 19 世
紀前半に現れた。一方は 1809 年 C・F・ツェルター
によってベルリンで創立された「リーダーターフェ
ル」(歌の食卓)に遡る。このような協会は少人数
の教養人で構成され、各メンバーは作詞、作曲、演
説などをする義務があった。他方は H・G・ネーゲ
リーや F・ズィルヒャーの活動に基づき、より大衆
的な性格を持っていた。この種の協会は主に歌い手
の一体感、愛国心と道徳の振興を目的とし、合唱祭
の際には数千人が一緒に歌う活動が典型的である。
東京合唱協会の活動は二種類の要素を備えていたと
いえる。ちなみに外国においてドイツ人の男性合唱
築地外国人居留地の夏の夜
『東京合唱協会の珍談さまざま』1881 年 7・8 月号
(ゴチェフスキ研究室所蔵)
10
協会が作られることは、東京以外にも多くの例があ
る。
男性合唱協会は基本的に会員と定款によって支え
られていた。指揮者はメンバーに雇われ、報酬が会
費から支払われていたので、総会の投票権はなかっ
た。
【画像 2】
開いているのはオレンドルフという英語の教科書。
【画像 3】
ゼン(左)とランゲ(右)。
【画像 4】
葉巻をくわえてヴァイオリンを弾くエッケルト。
【画像 5】
トレースター(左)と R・スコット(右)。
(H.G.)
Panel TGV-2
東京合唱協会の成立
本国で男性合唱協会という音楽文化に親しんでい
た(パネル TGV-1 参照)東京に暮らすドイツ人たち
は、東京合唱協会を設立した。1880 年 3 月 19 日付
の定款が残されていることから、協会の活動が始ま
った時期を推測できる。定款の末尾に記載された協
会の名簿からは、エッケルトが指揮者だったこと、
協会長の御雇外国人ベルツをはじめ 17 名が会員と
して参加していたことが分かる。
協会は毎週金曜日の晩に活動する傍ら、時おりコ
ンサートに出たりしていたようである。日々の活動
の雰囲気は、ユーモラスな会誌 Allerhand Lustiges aus
dem Tokio Gesang Verein(『東京合唱協会の珍談さま
ざま』)から窺い知ることができる。会誌は会員の
R・スコット(「小さいスコット」)が個人的に作
成したものと思われ、1881 年 1 月号から 7・8 月合
併号まで毎月発行され、
一度の中断をはさんで 1884
年 1 月号・2 月号、1885 年 1 月号が現在確認され
ている。
Panel TGV-4
東京合唱協会とエッケルト
エッケルトは指揮者として協会に雇われている立
場であって正式な会員ではなかったが(パネル
TGV-1 参照)、少なからず会誌に登場している。そ
こに描かれたエッケルトの姿から、協会とエッケル
トとの関係を垣間見ることができる。
1881 年 1 月号からは、前年 4 月に会員から誕生
日プレゼントとして時計を贈られていたことが分か
る。同 2 月号(パネル TGV-3b 参照)には、葉巻を
吸いながらヴァイオリンを弾くエッケルトが描かれ
ている。他の号でも、葉巻をくわえてヴァイオリン
を持つのがエッケルトのスタイルである。
1884 年 2 月号では、エッケルトが会員の C・ヤ
ウス、F・エーレルトとともに前年 12 月に日本政府
から叙勲されたことが祝われている。ヤウスが勲五
等で、勲六等のエッケルトとエーレルトよりも階級
は高かったのだが、指揮者のエッケルトに敬意を表
してか、会誌ではエッケルトが三人の中央に描かれ
ている。
(Ka.S.)
(Ka.S.)
TGV-3
東京合唱協会の活動風景
̶̶西洋料理店・萬代軒にて̶̶
東京合唱協会が普段の活動場所として選んだのは、
西洋料理店の萬代軒であった。萬代軒は神田区淡路
町(現在の千代田区神田淡路町)に店舗を構え、東
京の有名な西洋料理店として、精養軒と並び明治期
の多くの東京案内で紹介されている。会合の会場と
しても多く使われたようであり、初期の学士会も会
合場所に萬代軒を選んでいる。
萬代軒で東京合唱協会のメンバーはどのように過
ごしていたのだろうか。スコットが会誌に残した戯
画の端々から、ある金曜日の晩の様子を再現してみ
よう。
夜 8 時ちょうどに、萬代軒の三階に会員が集まる
と、まずはエッケルトに報酬が支払われる。会計が
済んでからが歌の時間だった。エッケルトはヴァイ
オリンを弾きながら指揮し、会員は愛唱曲集
Regensburger Liederkranz のパート譜を見ながら
歌う。一しきり歌った後は、酒を飲み、葉巻を燻ら
せ、歓談して時を過ごす。というのが建前だったが、
実際は少なからぬメンバーが、歌の時間にも葉巻を
吸い、盃を空けていたようだ。
(Ka.S.)
Panel TGV-3b
『東京合唱協会の珍談さまざま』1881 年 2 月号
【画像 1】
1881 年2月5日には海軍軍楽隊員 25 名は萬代軒に
おける東京合唱協会の催し物に雇われた。
11
(ケース内)
東京合唱協会が出演した演奏会の批評
『日本週刊便り』1880 年 6 月 19 日
先週土曜の午後、流行に敏感な多くの聴衆が上野
につめかけた。生憎の曇り空だったが、幸運にも
張り出した雲から雨粒が落ちてくることはなく、
横浜から駆けつけた人も来たことを後悔せずに
済んだ。この日は海軍軍楽隊による器楽曲と、そ
の合間にはさまれた東京合唱協会による無伴奏
合唱曲 part-songs のコンサートが開かれた。
指揮
はすべてエッケルト氏であった。
軍楽隊の演奏は非の打ち所のないものだった。
メンツェルの「演奏会ポルカ」には前楽長フェン
トン氏と現楽長エッケルト氏の優れた指導の成
果があらわれていた(前任者の尽力が現任者にお
いて実ったと言えよう)。曲中の 2 人の軍楽隊員
によるソロはとても良く、彼らがヨーロッパやア
メリカの最上の奏者に匹敵することを証明する
ものだった。プログラム中でこの曲の演奏が最高
の出来だったことは疑いない。
ツィコフの「幻想曲」はテンポが少し遅すぎた
し、作曲者の意図通りであれば別働隊が演奏すべ
きエコーを、バンドの中の奏者が演奏したために、
魅力が損なわれてしまった。シュピントラーの
「軽騎兵の進撃」も情熱と気迫を欠いたものであ
った。何にもまして悪かったのは例の「青きドナ
ウ」のワルツで、この演奏会の他の演奏が優れて
いたことに比べて、はるかにだらしない演奏だった。
【東京】
Panel Tok-1
明治期の音楽関係外国人教師
明治期には、音楽分野でも異なる音楽経歴をもつ
各国の外国人教師が活躍した。薩摩藩軍楽伝習生と
海軍軍楽隊を指導したイギリス人ジョン・ウィリア
ム・フェントン(1831∼1890)、その後任で海軍
軍楽隊を教育したドイツ人エッケルトとグスタフ・
アルペ、陸軍軍楽隊を教育したフランス人ギュスタ
ーブ・シャルル・ダグロン(1845∼1898)とシャ
ルル・ルルー(1851∼1926)、文部省音楽取調掛
と東京音楽学校に勤務したアメリカ人ルーサー・ホ
ワイティング・メーソン(1818∼1896)、オラン
ダ人ギヨーム・ソーヴレー(1843∼1902)、オー
ストリア人ルドルフ・ディットリヒ(1861∼1919)
などである。
このうち、初代の《君が代》および現行の《君が
代》の成立に関与したフェントンとエッケルトは、
宮中での音楽を掌る式部寮雅楽課(のちの宮内省式
部職楽部)にも勤務した。なかでもエッケルトは、
短期間ながら音楽取調掛・陸軍軍楽隊にも兼務し、
結果的に、明治期の日本で西洋音楽を行っていたす
べての国家機関に関わったという稀有な人物であっ
た。
(Y.T.)
(ケース内)
ドイツ人のアマチュア・サークルである東京合
唱協会は、シュペール〔シュポーアの誤り〕、メ
ンデルスゾーンなどによる、素敵な無伴奏合唱曲
を披露した。会場の音響が悪く、彼らは大変に不
利であった。声楽にとって野外は必ずしも好都合
ではない。ブドウのツタが絡まっているような格
子細工の、わずかばかりの反響板しかないときは、
特にそうである。もっと好条件の催しで彼らの歌
を聴いてみたいものだ。後で彼らはヴェランダに
移動したが、そこもコンサート・ホールには及ば
なかった。
「退屈な日常」に楽しい息抜きを提供してくれ
た関係諸氏に深く感謝する。なお東京の慈善団体
は、今回のコンサートで 700 円もの収益をあげた
のこと、何よりうれしく思う。委員の皆さん、横
浜でもやってみませんか?
[訳](Ke.S.)
(ケース内)
東京合唱協会の総会、1885 年 1 月 31 日
会員クルト・ネットに宛てた葉書には「東京合唱
協会。一八八五年一月三一日土曜日。定例総会兼臨
時総会。定款変更を提案。理事会。
」と書かれている。
この「提案変更」は果たしてどの内容だったのだろ
うか。雑誌『東京合唱協会の珍談さまざま』の現存
する最終号が一八八五年一月であり、すでに一八八
四年から合唱協会の調子が決して良くなかったので、
この機会に解散になった可能性も考えられる。
(H.G.)
12
鹿鳴館時代
鹿鳴館は、迎賓館として1883年に開館した。設計
者はお雇い外国人ジョサイア・コンドルJosiah
Conder(1852∼1902、イギリス)で、現在の帝国
ホテルの隣接地にあった。
鹿鳴館では、国賓の接待のほか、欧米人を招いた
舞踏会が連夜のように開かれ、明治政府が推し進め
る欧化政策の舞台となった。鹿鳴館を中心に展開さ
れた外交は、「鹿鳴館外交」と呼ばれる。その推進
者であった井上馨が 1887 年に外務大臣を辞任する
と、それを期に鹿鳴館時代は終わりを迎えた(建物
自体は 1940 年に取り壊された)。
(Ke.S.)
Panel Tok-2
薩摩藩による軍楽伝習
1869(明治 2)年 10 月、横浜の妙香寺で薩摩藩
の伝習生 32 名による日本最初の軍楽伝習が始まっ
た。薩摩藩は薩英戦争後にイギリス式軍制を採用し、
太鼓・笛・ラッパからなる鼓隊(鼓笛隊)を有して
いたが、より本格的な軍楽隊をもつべく、横浜に駐
屯中の英国陸軍第 10 連隊軍楽長フェントンに指導
を依頼した。彼らは、写真入り隔週刊英字新聞『ザ・
ファー・イースト』1870 年 7 月 16 日号に「サツマ・
バンド」として紹介され、ロンドンに発注した楽器
一式の到着まで五線譜の読み書きと鼓隊の訓練を受
けていると報じられた。
サツマ・バンドの時代に、天皇および皇室に対す
る礼式曲《君が代》(初代)がフェントンによって
作られた。また、サツマ・バンドを母体に、1871(明
治 4)年 8 月兵部省軍楽隊が発足し、10 月には陸・
海軍軍楽隊が分立発足する。
1870 年に陸軍はフラン
ス式、海軍はイギリス式と決定されていたために、
サツマ・バンド出身者の大半は海軍軍楽隊に所属し、
フェントンも海軍省の雇教師となった。
(Y.T.)
Panel Tok-3
海軍軍楽隊の初代教師フェントン
J.W.フェントン(1831∼1890)は、英国陸軍兵
士の父の勤務地であったアイルランドのキンセイル
に生まれ、1842 年陸軍第 25 連隊に入隊して鼓手と
なり、1854 年軍曹に昇任、1863 年には 1857 年創
設の英国陸軍軍楽学校で学び、1864 年第 10 連隊の
軍楽長となる。
1868 年、
所属連隊とともにケープ植民地から来日
し、横浜に駐屯した。『ザ・ファー・イースト』1871
年 7 月 1 日号には、横浜山手公園のバンドスタンド
に集う英国陸軍第 10 連隊軍楽隊の写真が掲載され
ている。
1869 年から薩摩藩の軍楽伝習を指導したこ
とが機縁となり、
1871 年英国陸軍を退役して日本の
兵部省軍楽隊(陸・海軍部分立後は海軍軍楽隊)の
雇教師となった。フェントンが作った吹奏楽用の天
皇礼式《君が代》は、1880 年に現行曲に改定される
まで使用された。1876 年 4 月より海軍省と式部寮
の共雇となり、宮中での西洋音楽演奏にも貢献した
が、1877 年 3 月満期解雇となり、夫人の故郷であ
るアメリカに渡った。
指導も依頼され、1882 年まで 6 回の雇継を経て約
10 年間その任にあたった。
ダグロン自身は指物職人の出身で、正規の音楽教
育は受けていなかった。そのため、クラリネットや
サクソフォーンなどの木管楽器は来日中のオースト
リア人アンジェルから(1873 年から 1 年間)、ト
ロンボーンやバスなどの金管楽器は追加派遣された
フランス人一等楽手ブリュナッシュから
(1874 年か
ら 1 年間)補佐を受けながら指導にあたり、陸軍軍
楽隊を着実に成長させた。1879 年には勲 6 等単光
旭日章を贈られた。
(Y.T.)
Panel Tok-5
(Y.T.)
(ケース内)
Panel Tok-3b
エッケルトの演奏会評
当時の新聞に掲載された、エッケルト指揮による
演奏会評を年代順に追って読んでいくと、彼への評
価の推移が見て取れる。
1880 年の評では、
前任者フェントンの成果しか評
しない節もあり、エッケルトの指揮は勇壮な曲にも
かかわらずテンポが遅い、腕を大きく振り過ぎるな
ど、かなりの不評を買っていた。しかし 2 年後、1882
年のモースの評では、4 年間の進歩に感銘をうけた
とあり、エッケルト来日前の「4 年前の陸軍軍楽隊
の演奏があまりにひどかった」とある。これらの評
から、恐らくエッケルトは来日前に指揮を経験する
機会がなかったため、来日直後はなかなかうまく振
れず、その後 2 年の間に、かなりのレヴェルまで指
揮を習得したのではないかということが推測できる。
82 年以降は、いずれの演奏会評でも比較的好評を
得ており、
それは韓国時代まで続く。
1908 年には
「長
短緩急の妙趣」とまで評され、来日初期に不評を買
っていたテンポ感が見事な進歩を遂げた様子も窺える。
(R.M.)
文部省音楽取調掛の初代外国人教師メーソン
1879(明治 12)年 10 月、文部省に音楽取調掛が
設置され、伊澤修二が長となり、①東西二洋の音楽
を折衷すること、②将来国楽を興すべき人物を養成
すること、③諸学校に唱歌を実施すること、を方針
に掲げた。伊澤は米国留学時代に指導を受けたボス
トンの高名な音楽教育家 L.W.メーソン(1818∼
1896)を雇教師として招聘し、メーソンは 1880 年
3 月に来日して、1882 年まで最初の唱歌教材『小学
唱歌集』の編纂や、東京師範学校附属小学校、東京
女子師範学校および同校附属小学校などでの唱歌教
授にあたった。また、音楽取調掛に勤務する山田流
箏曲家の山勢松韻や式部寮の雅楽家たちとも交流し
た。
しかし、『小学唱歌集』初編刊行後、休暇帰国中
の 1882 年にメーソンは契約満期をもって解雇とな
る。この背景に、メーソンの専門と音楽取調掛の仕
事内容との齟齬の他、メーソンがキリスト教の布教
活動にも関与していた点もあったのではないかと指
摘されている。
(Y.T.)
Panel Tok-6
文部省音楽取調掛でのエッケルト
エッケルトが音楽取調掛に勤務したのは、1883
年 2 月∼1886 年 3 月までの約 3 年間である。エッ
ケルトに托されたのは管弦楽教授と楽曲の調和(和
声付け、編曲)であった。エッケルトは毎週火木の
午後、週 4 時間勤務し、楽曲の調和に関係したもの
では、複音唱歌を含む『小学唱歌集』第三編の編纂
に協力した他、当時は唱歌の伴奏楽器の一つに想定
されていた箏の伴奏譜の作成、西洋曲の二面ないし
三面の筝合奏への編曲などを行ったが、それらの原
稿が東京藝術大学附属図書館に残されている。
エッケルトの兼務終了後、音楽取調掛は後任にオ
ランダ人のギヨーム・ソーヴレー(1843∼1902)
を雇い入れた。エッケルトは 1887 年 4 月から海軍
軍楽隊と宮内省式部職を兼務する。
(Y.T.)
Panel Tok-4
陸軍軍楽隊の初代教師ダグロン
G.Ch.ダグロン(1845∼1898)は、1872 年 5 月、
明治政府が招いた第二次フランス軍事顧問団のラッ
パ教官として来日した(本国では 4 等楽手)。フラ
ンス式のラッパ伝習は、徳川幕府の招聘で幕末の
1867 年に来日した第一次フランス軍事顧問団でも
行われており、早々に軌道に乗ったため、ダグロン
はまだ指導者のいなかった陸軍軍楽隊(吹奏楽)の
Panel Tok-7
海軍軍楽隊でのエッケルト
エッケルトは 1879 年 3 月横浜に到着し、海軍省
と 2 年間の契約を結び、フェントン解雇から丸 2 年
教師不在で技術低下に陥っていた海軍軍楽隊を厳し
く鍛え直した。ドイツ人教師アンナ・レールが雇わ
れ、選抜した隊員 10 名へのピアノ伝習も開始され
た。また、1880∼1889 年には、軍楽隊員の技芸加
13
俸制度(年 2 回の実技試験により加俸を決定)が採
用された。こうした措置が実り、海軍軍楽隊の演奏
水準は向上し、公務のほか依頼奏楽も数多くこなし
た。1890 年、海軍軍楽隊は拠点を東京から横須賀へ
と移転する。
エッケルトは 1889 年 3 月海軍軍楽隊を満期解雇
となり、後任には 1889 年 4 月から 1892 年まで G.
アルペが就任した。エッケルトは 1895 年から再び
海軍軍楽隊(横須賀海兵団軍楽隊)を兼務し、吉本
光蔵らによる『海軍軍楽学理的教科書』編纂の顧問
も務めた。1899 年 3 月、宮内省と海軍軍楽隊とも
に満期解雇となり、20 年ぶりにドイツに帰国する。
(Y.T.)
Panel Tok-8
宮内省式部職でのエッケルト
エッケルトは、1887 年 4 月から海軍軍楽隊と宮
内省式部職を兼務し、1889 年 4 月からは式部職の
専任教師となり、西洋音楽を兼修する雅楽家たちを
1899 年 3 月まで 10 年間指導した。ただし、エッケ
ルトと式部職の雅楽家との接触は、1880 年、管弦楽
をめざして彼らが結成した洋楽協会の依頼でヴァイ
オリンを教え始め、さらに現行の《君が代》と将官
礼式(General Salute)《海ゆかば》の編曲を担当
した時から始まっていた。また 1882 年以後は、宮
中で西洋音楽が演奏される重要な機会であった天長
節宴会(11 月 3 日)のために、毎年臨時に指導を依
頼されていた。
しかし、式部職の雅楽家たちとエッケルトとの良
好な関係は、
1897 年に起きた雅楽と西洋音楽の分離
/兼修をめぐる紛擾により悪化し、
1899 年の満期解
雇、離日に至ったと推測される。式部職では、その
後もドブラヴィッチ、コメッリ、ハーリッヒ=シュ
ナイダーら外国人教師を雇い続けた。
Panel Tok-10
エッケルトと吉本光蔵
吉本光蔵(1863∼1907)は、第 1 回軍楽通学生
に採用され、1878 年 12 月に 15 歳で海軍軍楽隊に
入隊した。エッケルト着任はその 3 か月後である。
瀬戸口藤吉(1868∼1941)によると、吉本はエッ
ケルトから嘱望されて早くから和声学や作曲編曲な
どを教育されたといい、エッケルトの家族とも親し
かった。吉本は、1890 年に《越後獅子》や《鞠唄》
などの三味線音楽の五線譜を海軍省蔵版として出版
した。
エッケルト一家が帰国した直後の 1899 年 5 月、
吉本は海軍軍楽隊初のドイツ留学を命じられ、1900
年 10 月にベルリン高等音楽院に軍楽学生として入
学した。ベルリンでは、エッケルトの兄ヴェンツェ
ルや息子フランツとも交わり、1900 年 12 月にソウ
ルに向けて出発するエッケルトをベルリンで見送っ
た。1902 年 6 月帰国、1904∼1905 年日露戦争に
従軍し、1905 年 8 月に始まった日比谷公園奏楽の
指揮も行った。
(Y.T.)
【バート・ゾーデン】
Panel Soo-1
(Y.T.)
Panel Tok-9
陸軍軍楽隊のレベルを向上させたルルー
Ch.E.G.ルルー(1851∼1926)は、パリに生まれ、
1869 年 12 月パリ音楽院に入学し、マルモンテルに
ついてピアノを学んだ。1872 年 12 月召集を受け、
フランス陸軍歩兵第 62 連隊に配属され音楽兵とな
る。1875 年歩兵第 78 連隊に転任、副軍楽隊長を経
て、1879 年軍楽隊長となる。1884 年第三次フラン
ス軍事顧問団の一員として来日、
陸軍軍楽隊を 1889
年の帰国まで 5 年間指導した。この間、ルルーは教
育軍楽隊を編成して教育改革を行い、
そこから 1886
年に近衛軍楽隊を、
1888 年には大阪軍楽隊と軍楽基
本隊を編成した。ソルフェージュ教育や、教則本を
用いた教育を導入し、陸軍軍楽隊のレベルを格段に
向上させた。
ルルーの滞日は鹿鳴館時代(パネル Tok-1 下のケ
ース参照)に重なり、陸軍軍楽隊は海軍軍楽隊とと
もに舞踏会の伴奏も務めた。ルルーの作品には軍歌
《抜刀隊》《扶桑歌》やその旋律を用いた《陸軍分
列行進曲》、日本や中国の歌によるピアノ作品等が
ある。1910 年、雅楽研究書『日本古典音楽』を出版、
勲 4 等瑞宝章を受章。
(Y.T.)
14
バート・ゾーデンにおけるフランツ・エッケルト
エッケルトは日本から帰国し、しばらく療養のた
めシレジアの故郷近くの保養地で休養後、ドイツで
新しい職を探した。そこで何を目指していたのか分
からないが、ともかく彼はバート・ゾーデンという
ゲッティンゲンの近くにある保養地専属楽隊長のポ
ストに応募した。バート・ゾーデンの市議会は 1899
年 12 月8日に複数の応募者の中からエッケルトを
選任した。エッケルトの契約条件、着任日、期間な
どについては現在のところ確認できていないが、前
任と後任の指揮者の在職期間を見れば、保養地楽隊
が主に保養季節(5月∼9月)に演奏していたにも
拘らず一シーズンだけの採用ではなかったと考えら
れる。ともかくエッケルトは 1900 年5月下旬から
9月半ばまで毎朝8時から賛美歌を指揮し、それに
加えて毎週 11∼13 回の演奏会を開いていたと「ゾ
ーデン保養地情報紙」から読み取れる。水曜日のみ
は演奏の義務がなかった。
(H.G.)
Panel Soo-2
塩産地・保養地バート・ゾーデン
ヴァラ川の左右にある今日のバート・ゾーデン=
アレンドルフは(現)ドイツのほとんど中央にあり、
旧東西両独国境のすぐ西側に位置する。街は二つの
地区に分かれる。ヴァラ川の西側には、遅くとも8
世紀から塩産業に利用されてきた泉を中心とする
(バート)ゾーデンがある。ゾーデンは 1900 年に
は 712 人の人口(その内 22 人カトリック)が住ん
でおり、同年に 2211 人の入湯客を迎えていた。東
側には当時2807 人の人口
(その内76 人カトリック)
を持つアレンドルフがある。ゾーデンは元来主に塩
産業を中心とし民家が少なく、裕福な家族はアレン
ドルフに住んでいた。アレンドルフは 1218 年以来
都市権を持ち、今日まで残っている市壁によって守
られていた。1808 年から 1929 年までゾーデンとア
レンドルフはそれぞれ自立した都市であった。古く
から私設の入浴施設があったゾーデンは 1881 年か
ら温泉療法や吸入治療のための公立保養地となった。
最後に、展示室の出口にはエッケルトの死と墓碑
に関する資料を展示する。
Panel Kor-1
エッケルトが着任した頃の大韓帝国
19 世紀半ばの朝鮮は、開国を迫る欧米諸国や日本、
清からの外圧に苛まれた。国内的には、外交をめぐ
る王朝内部での対立や、封建的な支配体制に抵抗す
る民族運動が続発していた。
1894 年の甲午農民戦争
をめぐり、鎮圧に出兵した日本と清の対立が強まり、
同年、日清戦争に至る。日清戦争を制した日本は、
1895 年 4 月の日清講和条約(下関条約)で、清と
朝鮮の宗属関係を廃止させ、日本の支配を強化した。
日清講和条約に対し、ロシア、フランス、ドイツ
は、いわゆる三国干渉で日本を牽制した。特に日本
とロシアとの対立は深まり、親露的な朝鮮王朝の閔
妃が暗殺される事件が起きるなど、内憂外患は募る
ばかりであった。
朝鮮王朝は、自主独立を示そうと、1897 年に国号
を「大韓」と改め年号を「光武」とし、国王高宗は
皇帝に即位した。
エッケルトは大韓帝国に 1901 年 2 月に到着し、5
月から宮廷軍楽隊の指導を始める。その後、高宗皇
帝の御前演奏を度々行った。
(H.G.)
Panel Soo-2a
バート・ゾーデンとソウルの八角亭
バート・ゾーデンの公園にあった奏楽用八角亭で
エッケルトは 1900 年には毎日演奏していた。1901
年にソウルに来て後、
1902 年にパゴダ公園に彼の軍
楽隊の演奏のために同様の八角亭が建てられた。
(H.G.)
Panel Soo-3
バート・ゾーデンの音楽
ゾーデンが 1881 年に公立保養地になって以来、
市は裕福な入湯客のために入浴場やクアハウスのよ
うな施設のみならず娯楽の整備にも力を入れた。そ
の中では演奏会が最優先の課題であった。他にはハ
イキング・ツアー、遊覧、周辺の演奏会への参観な
どが提供された。
初期には主に隣村オルフェローデの音楽家たちが
演奏会を担当していた。そこには長年の音楽伝統が
あったが、ゾーデンの需要によってさらに盛んにな
ったようで、音楽隊は 1880 年には6∼8人、1886
年 10 人、1891 年 12 人編成でゾーデンに出張して
いた。しかし彼らは「非常に頻繁に」来てもやがて
それでも十分ではなくなり、
1890 年には毎日演奏す
る専属の楽隊が創立された。エッケルトが 1900 年
に指揮したのはこの楽隊である。文献によってこの
楽隊は「20 人程度」、または「最大で 16 人」の編
成であったとされている。
1901 年以後の絵葉書には
指揮者を含めて 16 人の楽隊員が写っている。
(K.F.)
Panel Kor-2
(H.G.)
【ソウル】
Panel Kor-0
エッケルトの韓国時代に関わる展示について
エッケルトの韓国時代は彼の人生のほぼ四分の一
を占め、彼のもっとも成熟した時代でもあったし、
それと同時に政治的な状況と彼自身の健康状態は
徐々に下降する時代でもあった。しかし日本では韓
国の洋楽史一般について、そしてその中でエッケル
トが果たした役割について、まだ紹介されていない
部分も多くある。したがってこの展覧会ではエッケ
ルトの韓国時代に十分なスペースを取り、韓国に関
わる展示物を四つの部分に分けて展示することにし
た。
ここから二つのコーナーと 13 枚のパネルを含む
第一部ではエッケルト時代の韓国と韓国時代のエッ
ケルトの一般的な紹介をする。
次に 90 度右に曲がったところの壁では第二部と
して、エッケルトの韓国時代の代表作である《大韓
帝国愛国歌》とその成立過程と受容とについて語る。
さらに 90 度右に曲がったところの長い壁では第
三部として、1922 年(大正 11 年)に韓国の時事週
報『東明』に発表された、韓国の軍楽隊の歴史につ
いて書かれた詳しい記事を注釈付の全訳で紹介する。
15
エッケルトの契約と雇用条件
1901 年 4 月、契約書「訂立合同書」が締結され
た。漢文(ハングルを含む)とドイツ語でそれぞれ
作成され、大韓帝国軍部、外部、ドイツ公館、エッ
ケルトが 1 部ずつ保管した。
大韓帝国の軍部官房長・韓鎮昌と外部交渉局長・
李應翼の署名付きで、エッケルトの雇用に関する詳
細が記されている。光武 6 年(1902)4 月 5 日の日
付がある。
第 1 条では、エッケルトの聘用期間が光武 5 年
(1901)2 月 1 日から 3 年間とされている。第 2 条
から第 6 条にかけては、毎月の給与が 300 元、住居
費等が 30 元、ドイツから漢城までの渡航費として
月給 2 ヶ月分と 600 元が支給されることなどが書か
れている。
ドイツ語版では、日本の硬貨または紙幣による「円」
で支払うと記され、月給は 300 円となっている。参
考までに、この頃の東京では、公立小学校教員の初
任給が月額 10∼13 円ほどであった。米 10kg の平
均価格が 1 円 10 銭 6 厘であった。エッケルトの報
酬が高額であったことがわかる。
(K.F.)
Panel Kor-2a
エッケルトと軍楽隊員(1902 年 5 月以前)
この写真は韓国のドイツ金鉱監督ルイ・バウアー
が弟カールに送ったものである。1903 年3月 27 日
堂峴から送った手紙にはエッケルトについて以下の
ように書かれている。
ソウルにはドイツ人の音楽教師も活躍している。
彼はプロイセンのコンサートマスターまたはカペル
マイスター、軍人であり、こちらでは多分 30 人ぐ
らいの兵士を持っている。彼らにはまずは国歌、そ
して行進曲などを教えなければならない。楽器は全
てドイツ製だ。エッカルト(ママ)氏は勿論韓国語
を一言も分からないけど、すでにかなり進歩を遂げ
ている。韓国の皇帝のために国歌を作曲し、それに
よって勲章を貰った。ちなみにその音楽は韓国人に
親しまれ、宮廷にも彼は楽隊とともによく歓迎され
ている。
ケルト指揮による帝室音楽隊(1907 年 9 月に宮廷
軍楽隊から改称)の演奏について高く評価した。エ
ッケルトはこのとき 56 歳であった。
記者は去る十日午後五時入園し見たるが樂員は
韓人五十名の吹奏隊にして樂長獨逸人エツケルト
氏指揮杖を執れり、
氏は曾て日本の海軍軍樂隊の教
師なりしが解傭の後韓國に聘せられ今尚樂長たり、
年齢六十歳以上ならん、
寄る年波に鬢毛白く腰は稍
屈みたれど元氣頗る旺盛にして二十年前我か海軍
に在りしときの面影は尚存せり、
奏樂曲目は歌劇の
抜萃曲にして長短緩急の妙趣洋人ならで斯く指揮
し得べしとは思はれず、
演奏數番の後指揮を樂長に
譲りて氏は立去れり、
是より代理の樂長の指揮にて
方舞曲數番を演し最後に韓國の國歌を奏せり、
概し
て演奏は記者の耳には上等の出來と聞へた
り・・・・・・韓人樂隊萬歳と云ふべし
(H.G.)
Panel Kor-3
大韓帝国をめぐる日露の対立と外交の場で
1897 年の大韓帝国の成立にはロシアの支援があ
った。朝鮮での利権に関わって日露の対立は深まっ
ていた。日本はイギリスと日英同盟を結んでロシア
の勢力拡大を阻止しようとした。大韓帝国は、自国
をめぐる列強の勢力の拮抗によって逆に独立を保と
うとし、1900 年以降は中立を標榜した。
満州・朝鮮での日露の覇権争いは、ついに 1904
年∼05 年の日露戦争に至る。日本は即座に漢城(現
在のソウル)を占拠すると、次々に韓国の保護国化
にむけ支配を強め、1904 年 8 月には第一次日韓協
約を締結した。
開戦後まもない 1904 年 3 月 24 日には、日本大
使館で大使の伊藤博文を囲む夜会が開かれている。
韓国宮廷や政府要人、韓国駐在の各国外交官ら 150
たけなわ
人が招かれた。同 27 日付の『東京朝日新聞』では
いず
つく
「宴會中は始終朝鮮音樂隊の奏樂もあり宴 酣 にし
て舞踏數番孰れも十分な歡を盡し・・・・・・」と記され
ている。エッケルトと宮廷軍楽隊は外交の最前線で
存在感を示していたのである。
(K.F.)
Panel Kor-6
パゴダ公園での韓日音楽隊の比較
パゴダ公園では、
1906 年に創設され朝鮮に駐留し
た日本の朝鮮駐剳軍楽隊も野外演奏を行っていた。
藤野奏風は『音楽界』1908 年 10 月号の記事「韓國
の洋樂」で、その演奏についてもふれている。
(K.F.)
Panel Kor-4
パコダ公園での演奏
1902 年 6 月、宮廷軍楽隊は漢城(現在のソウル)
中心部パゴダ公園の西側に新築された洋館に移転し
た。同公園内にある八角亭では、毎週木曜午前 10
時に一般市民向けに野外での公開演奏が行われるよ
うになった。
パゴダ公園は、もとは李氏朝鮮の護寺である大円
覚寺の跡地で、国宝級の仏塔や碑石が並び、当時か
ら人々の憩いの場であった。1919 年 3 月の「三・一
独立運動」発祥の地としても知られ、歴史的にも特
別な場所である。
『音楽界』1908 年 10 月号に掲載された記事「韓
國の洋樂」で、日本人記者の藤野奏風は、野外演奏
の聴衆について、次の様に記している。「當日の聽
衆は韓人七分歐米人二分日本人一分の割合なるが京
城には歐米人の數に三十倍なる日本人が居住しなが
ら斯く聽者の少きは如何なる理由なるか、盖し日本
人の音樂趣味低くしてワザワザ聴きに來る程の熱心
家に乏しき故ならん」と記した。韓国人や欧米人の
聴衆に比べて、日本人の関心の低さを指摘している。
(K.F.)
Panel Kor-5
パゴダ公園でのエッケルト指揮の様子
パゴダ公園での野外演奏を指揮したエッケルトの
様子を、藤野奏風が『音楽界』1908 年 10 月号の「韓
國の洋樂」という記事で紹介している。藤野はエッ
16
樂隊は半隊にて樂長工藤氏は出塲せず、曲目は
五番にして越後獅子とか軍用鞄とか何れも卑近の
ものなりき、
顧みて聽衆を一瞥すれば韓人六分日本
人四分の割合にて日本人には紳士らしきもの一人
も見へず、
按するに日本の紳士なるもの音樂と云ふ
ものを蔑視し樂隊を聽く愚物なしと云ふ如き態度
の人多ければ鼻下に八字髭を有する手合は斯かる
塲所に停立せざるものと見ゆ尤も奏樂曲目も野卑
にして堂々たる紳士をチヤームする程の力も無く
朝鮮駐剳軍楽隊楽長の工藤貞次は、陸軍戸山学校
軍楽隊の初代隊長を務めたこともある軍楽界の重鎮
であった。藤野の記事では、工藤が指揮をしなかっ
たこと、楽隊の規模、演奏曲目、演奏、日本人聴衆
の様子など、いずれも評価は手厳しい。
(K.F.)
Panel Kor-7
宮廷軍楽隊から帝室音楽隊、そして李王職洋楽隊へ
―縮小・再編―
1905 年 11 月、日本は韓国に第二次日韓協約(乙
巳保護条約)への調印を強いて、韓国の外交権を掌
握するなど、さらなる支配を強化した。1906 年 2
月には統監府が置かれ、伊藤博文が統監となった。
皇帝高宗はオランダのハーグで開かれた第二回万国
平和会議に密使を送り、第二次日韓協約の無効を訴
えようとしたが失敗した。高宗は退位を迫られ、皇
太子の純宗が皇帝に即位した。1907 年 7 月には、
第三次日韓協約が締結され、完全な保護国化により、
わずかに残存していた韓国の軍隊も解散させられた。
これにより 1907 年 9 月に宮廷軍楽隊は帝室音楽
隊と改称され、続いて一部の軍楽隊員のみ 1907 年
12 月に掌礼院掌楽課に吸収され縮小を余儀なくさ
れた。
さらに、1910 年 8 月の韓国併合によって、音楽
隊は李王職(李王家の家務を司る)の管轄となり、
李王職洋楽隊と改編された。規模も 45 人編成へと
縮小された。パゴダ公園での演奏は継続したが、急
激に衰退していった。この過程については向かい側
の壁に展示されている『東明』の記事を参照されたい。
都市から高く南山に上がったところの森の中に
ドイツ人の音楽監督エッケルトが住んでいる。
エッ
ケルトはノイローデの田舎出身で、
田舎っぽい面が
ある。
家族が居ない寂しさで何か生き物が恋しいと
思い、彼は小規模の養豚を始めた。その豚のうち 3
頭は、
ある程度肥え始めた段階で次々と盗まれてし
まった。そして皆と相談した結果、4 頭目が盗まれ
る前に屠殺され、
少なくともエッケルトとドイツ人
教師ボリャーンと私はそれぞれ腹の肉とハムをあ
る程度いただけた。
残念ながらソーセージもやはり
最後の一瞬で盗まれてしまった。
腹の肉パーティに、
私は美しくふさわしい歌を作詞した。
(K.F.)
Panel Kor-8
朝鮮の音楽の状況を日本に伝えたエッケルト
エッケルトは、朝鮮の音楽の状況について、日本
に情報をもたらす窓口でもあった。
1911 年 1 月の『音樂界』に、東京高等師範学校
教諭で、音楽教育界の中心的人物のひとりであった
田村虎蔵が「韓國併合と音樂教育問題」と題して寄
稿している。田村は、李王職洋楽隊についてエッケ
ルトが高く評価していたことにふれている。
その翌年6月にヴンシはエッケルトの長女と仲良
くなって、婚約するか迷っていた。アマーリエは
由来朝鮮國民は、其頭脳は數理に適せずと傳ふ
るも、技藝殊に音樂に勘能なる國民なりとは、吾人
々之を耳にせる所なり。
一例を擧げて之を證せば、
我國西洋音樂の開拓に功勞ありしエツケルト氏は、
最早十數年来朝鮮宮廷音樂の指揮者(コンダクト
ル)として雇聘せられたるが其宮廷音樂の如き、樂
士は勿論朝鮮人にして、
其技術は我日本國に於てす
ら、
容易に之を見ることを得ずと賞揚せらるゝ程な
り。
日本では朝鮮人の音楽性を評価する言説は、植民
地時代にも多くみられるが、エッケルトによる高い
評価はかなり早い時期に示されたものである。
(K.F.)
Panel Kor-11
ソウルのドイツ人と西洋人
東京に比べて西洋人が甚だ少ないソウルでは、エ
ッケルトが友好な関係を持つことができる人々は非
常に限られていた。ドイツ人としては主に韓国に長
年滞在した官立独語学校長ヨハン・ボリャーン
(Johann Bolljahn)、エッケルトと同じくシレジ
ア出身の医師リヒャルト・ヴンシ(Richard Wunsch、
1905 年まで)とベネディクト修道会士アンドレア
ス・エッカルト(Andreas Eckardt、1909 年から)
が挙げられる。その他に 1910 年の併合まではドイ
ツ帝国の外交官たちがいた。エッケルトの家族は彼
らと親密な交際をしていたことが知られている。
エッケルトはフランス人聖職者の指導下にあった
明洞大聖堂に通い、娘たちは三人ともそこで結婚し
た。しかしフランス人の聖職者たちとも、ソウルに
多く滞在していた英語系の外国人たちとも、エッケ
ルトは原則として通訳を通してしか交際できなかっ
た。そんな彼の日常生活を支えることができたのは、
さまざまな言語に通じていた娘たちである。
頭が良く倹約家であり、日本語、韓国語、英語、フ
ランス語、ドイツ語がぺらぺらだ。ピアノも上手だ
し、ともかくいいところはたくさんある。しかし彼
女は私の想像するような私の家を代表できる貴婦
人には絶対にならないのだ。
このようにエッケルトの「田舎っぽさ」は最終的に
娘が医師と結婚する妨げになった。
(H.G.)
(ケース内)
Panel Kor-13
韓国でのエッケルト家
1901 年韓国に着任した際、22 年以前の日本着任
と同様に、エッケルトはまず一人で極東に渡った。
妻は 1 年後、22・17・16 歳の息子三人をドイツに
残し、25・18・14 歳の娘三人を連れて来韓した。
以後韓国に滞在したエッケルト家5人のもっとも重
要な課題の一つは娘たちの結婚であった。
次女アナ=イレーネは 1904 年 12 月 29 日にベル
ギーの外交官アデマール・デルコアニュと結婚した。
彼は2年間韓国皇帝顧問としてソウルに滞在してい
た。結婚式は明洞大聖堂で行われ、父エッケルトの
軍楽隊が演奏した。
直後、1905 年2月7日に、長女アマーリエがエミ
ル・マルテルと同じ場所で結婚した。フランス人の
税関使と日本人女性の息子として横浜に生まれた彼
は、仏語学校長としてボリャーンと同様に韓国に長
期滞在していた。この両結婚からは、ソウル在住フ
ランス語系外国人とエッケルト家が密接に交際して
いたことが推測されるが、これは明洞大聖堂を介し
たものだろう。
三女エリーザベトは 1907 年 12 月 28 日にドイツ
の船長オットー・メンズィングと結婚した。
(H.G.)
(ケース内)
エッケルトの娘たちの写真
381 頁(右)は 1907 年に行われた三女エリーザ
ベトとオットー・メンズィングの結婚式の写真。一
列目で花嫁の横に立っているのは結婚立会人であっ
たボリャーン、花婿の横には(右から)もう一人の
結婚立会人であったエミル・マルテルとその妻アマ
ーリエとその長女マリー=ルイーゼを抱いている乳
母(日本人)。2列目にはエッケルト夫妻。
(H.G.)
Panel Kor-12
山奥から来たエッケルトの私生活
エッケルトの韓国着任から 1 年後、家族がソウル
に到着する直前の話であるが、リヒャルト・ヴンシ
は 1902 年3月3日に両親に当てた手紙で次のよう
に述べている。
17
380 頁下は右の写真から切り取られたもので、エ
ッケルトの長女アマーリエとその長女マリー=ルイ
ーゼである。
作品
(H.G.)
Panel Kom-1
Panel Kor-9
エッケルトの最晩年と死
1915 年 12 月、
エッケルトは健康上の理由により、
ぺく・ウヨン
李王職洋楽隊の指揮を、弟子で洋楽師長を務めてい
た白禹鏞に譲った。
朝鮮総督府の機関紙『京城日報』は、エッケルト
が亡くなる直前に晩年の様子を記事にしている。
「『君が代』の作曲者 フランツ、エツケルト氏京城
に病む」と題した 1916 年 8 月 7 日夕刊の記事で、
京城在住の弁護士・工藤忠輔の談によるものである。
工藤はドイツ語が堪能で音楽にも詳しかった。
ここでは、エッケルトの「淋しい余生」が強調さ
れている。その理由に病気で重体となっていること
と、第一次世界大戦でドイツが日本の敵国となった
ことが挙げられている。
エッケルトは 8 月 6 日午後 9 時半に自宅で亡くな
った。『京城日報』の翌 8 月 8 日夕刊では「『君が
代』作曲者逝く」と題した記事で、死去をいちはや
く伝えた。
いずれの記事でも「君が代」の作曲者としてエッ
ケルトを称え、日本との関わりを強調する内容とな
っている。
(K.F.)
エッケルトの作曲
̶̶日本時代̶̶
日本では《君が代》編曲、《哀の極》の作曲など
で印象づけられているエッケルトだが、実は彼自身
が作曲したものはさほど多くない。
日本時代における作曲は初期が比較的多く、吹奏
楽伴奏ではあるが《君が代》と《ウミユカバ》
(1880
年)を筆頭に、《日本の歌による幻想曲》(1882
年以前)、《東京記念行進曲》(1882 年)、《歩兵
分列行進曲》
(1888 年以前)、
《英國々風歌集》
(1890
年以前)等がある。また後期では《旅順行進之曲》
(1895 年)、《哀の極》(1897 年)、《膠州湾行
進曲》(1898 年推定)等が挙げられる。作曲・演奏
年月日不詳のものも多いが、例えば《奇人音楽劇》
は 1893 年 2 月 10 日、軍楽学舎第 2 回新築記念祭
の出し物として上演されており、少なくともそれ以
前に作曲されたことがわかる。残念ながら譜面は残
っていないが、エッケルトの音楽劇とは珍しい。
一方、軍楽隊に演奏させる必要があったため、吹
奏楽用編曲は数多く、演奏記録が残っているものも
多い。原曲のジャンルもヴァーグナーやロッシーニ
のオペラから、J. シュトラウスのワルツに至るまで
幅広く、親しみやすい作品ばかりであった。また日
本の伝統音楽の編曲にも携わっている。
(R.M.)
Panel Kor-10
エッケルトの墓碑
1916 年 8 月 6 日に亡くなったエッケルトの葬儀
は 8 月 8 日午前 8 時から明治町(現在の明洞)の仏
蘭西教会堂(現在の明洞聖堂)で行われた。エッケ
ルトの娘アマーリエの回想によれば、「宛も世界大
戦の最中に入り、日本は連合国の側に立つて独逸の
敵であつたにも不拘、政府は公式の代表者を 8 月 8
日明治町カトリツク教本山で挙行された父の葬儀に
派遣し嘗ての伺候者であり『君が代』の作曲家であ
る父に敬意を表された」という。
亡骸は漢江河畔の揚花津にある外国人墓地に埋葬
され、現在も整然とした区画のなかに墓碑が立って
いる。ちなみにエッケルトの墓碑から数歩しか離れ
ていない場所には、『大韓帝国愛国歌』の原曲とな
った歌「パラミプンダ」を最初に採譜したホーマー・
ハルバートの墓碑がある。
エッケルトの妻マティルデは 1920 年まで朝鮮に
残り、その後自身の故郷にも近く、次男が小学校の
先生を務めていたシレジア州のスドル(Sudoll)に
帰って、1934 年にそこで亡くなった。
Panel Kom-2
エッケルトの作曲
̶̶韓国時代̶̶
韓国時代におけるエッケルトの代表的な作品は
《大韓帝国愛国歌》であるが、恐らくそれ以外には
ほとんど作曲をしなかったと考えられる。当時のド
イツ領事ヴァイペルトの報告によると、1901 年 9
月 7 日に行われた軍楽隊の最初の公式の演奏会で、
エッケルト作曲《Koreanischer Präsentiermarsch
(韓国風パレード行進曲)》が演奏されているが、
ただしこの曲については、それ以上の情報は得られ
ていない。韓国ではエッケルトの作品もしばしば演
奏されたが、《大韓帝国愛国歌》以外は日本で書か
れた作品ばかりであった。
とくに掌礼院音楽隊(韓国軍が解散した 1907 年
以後エッケルトが指揮していた楽隊の名称)が行っ
ていたパゴダ公園での演奏会記録を辿ってみると、
例えばエッケルトの作品では《ポプリ》歌曲集が
1908 年 9 月 30 日に、また《英國々風歌集》も 1908
年 11 月 5 日に、それぞれ演奏記録がある。加えて
エッケルト編曲作品の演奏記録も多い。ヴァーグナ
ー、J. シュトラウス、ハイドン、シューベルト等の
ほか、グングルやコンツキといった同時代の東欧出
身作曲家の作品の編曲も取り上げている。
(K.F.)
(R.M.)
(ケース内)
警視庁所蔵楽譜について
警視庁にはエッケルトの多くの作品の筆写譜(一
部自筆譜)が所蔵されているが、そのほとんどが陸
18
軍軍楽隊から受け継いだもので、エッケルトが陸軍
戸山学校で教えていた時代に作成されたものである。
楽器編成は陸軍軍楽隊の編成、つまりフランス式(サ
クソフォン含む)となっており、エッケルトは楽譜
を書く際もフランス語の楽語、楽器名等を使用して
いる。
(H.G.)
東京記念行進曲
東京芸術大学所蔵出版譜。ピアノ独奏曲。1882
年作曲。
まり文部省編の『小学唱歌集』がまだ出版されてい
なかった。
(H.G.)
ふゆのまどい
保育唱歌《冬燕居》の原譜
東京芸術大学所蔵の『唱歌譜』より。この『唱歌
譜』は 1880 年に、東京女子師範学校で「保育唱歌」
の編集がまだ終わっていない段階で、音楽取調掛の
依頼によって作成された写本である。
(H.G.)
【君が代】
歩兵分列行進曲
警視庁所蔵自筆譜。マイクロフィルムは近代音楽
館所蔵。最後のページに、エッケルトのサインおよ
び 1889 年 8 月 13 日と記載がある。
Panel Kim-1
博覧会マーチ
警視庁所蔵自筆譜。マイクロフィルムは近代音楽
館所蔵。作曲年不詳。1 ページ目に、タイトルおよ
びエッケルトのサインがある。
ランシヱー
警視庁所蔵。マイクロフィルムは近代音楽館所蔵。
吹奏楽曲。作曲・演奏年月日不詳。Lanciers v. F.
Eckert のサインがある。
カドリーユ
警視庁所蔵。マイクロフィルムは近代音楽館所蔵。
吹奏楽曲。曲の末尾にエッケルトのサインおよび
1890 年 10 月 10 日の記載がある。ちなみに警視庁
所蔵の《Fest-quadrille》は作曲・演奏年月日不詳と
なっているが、この作品と同一作品と考えられる。
旅順行進之曲
警視庁所蔵。マイクロフィルムは近代音楽館所蔵。
ピアノ曲譜面。1895 年 3 月出版。なお吹奏楽曲用
譜面も警視庁に所蔵がある。
日本の歌
エッケルトは日本固有の音楽の研究結果を
「JAPANISCHE LIEDER(日本の歌)」として発表
している。彼が採譜した 2 曲の歌には題名が付いて
いないが、一曲目は「いかばかり」という歌い出し
で、2 曲目は「はるさめに」と始まる。OAG の雑誌
(第 2 巻(第 20 冊)、1881 年出版)に収録。エッ
ケルトの説明によると「後述の歌2曲のうち、前者
は日本の国民学校の唱歌教育に使われ、後者は最も
よく知られている民謡の一つである。」後者は確か
に今日も《春雨》というタイトルでよく知られてい
るが、前者は《冬燕居(ふゆのまどい)
》という原題
で、1877 年 11 月に宮内省式部寮雅楽課の伶人によ
って東京女子師範学校附属幼稚園の開園式のために
雅楽風に作られた二曲の歌のなかの一つである。
《冬
燕居》の歌詞は英語の幼稚園歌から訳されたもので、
撰譜者(作曲家)は一等伶人東儀季熈である。後に
この歌の様式に倣って 100 曲ほどの唱歌が作られ、
「保育唱歌」と呼ばれるようになった。エッケルト
がこの歌を採譜し編曲した時には洋楽風の唱歌、つ
19
エッケルトと日本の国歌《君が代》
1888 年に出版された「大日本礼式」(その内容は
現行の日本の国歌《君が代》の吹奏楽スコア)はさ
まざまな混乱を引き起こした。表紙には Japanische
Hymne von F. Eckert「F.エッケルトによる日本の
賛歌」とあるので、エッケルトが日本の国歌を作曲
したという誤った情報さえ多くの文献に見られる。
ただエッケルトがすでに 1881 年の OAG(パネル
Tgj-1 参照)
学会誌の短い記事で明らかにしたように、
国家的に制定された国歌が存在しないため海軍省か
らその作曲を依頼された。そこで幾つか候補となる
旋律を要求して出してもらい、その中から一つを選
定して、和声を付けて西洋楽器のためにアレンジし
たと説明している。つまりこの曲の旋律は日本人の
作で、エッケルトの役割は選曲、和声とオーケスト
レーションの三つであった。
(H.G.)
Panel Kim-2
《君が代》のさまざまな楽譜
作曲から 119 年後の 1999 年、《君が代》が国旗
国歌法によって日本の国歌として法律上定められた
が、定められたのは旋律のみで、和声や楽器編成な
どについては規定されていない。旋律を選んだだけ
で作曲していないエッケルトの名前も、同法では言
及されなかった。しかしエッケルトの最初の和声付
けが今日まで影響を及ぼし、多くの楽隊はその楽譜
またはそれに近い楽譜に従っている。
明治時代から《君が代》には多くの楽譜が存在し
ていた。Scribner s Magazine の 1891 年 6 月号に
掲載された楽譜は、そこで説明されているように、
当時雅楽部長であった岩倉具綱が所蔵していたスコ
アに基づくものである。ピアノ譜の作成者は明らか
にされていないが、特に詳細な強弱記号が興味深い。
また、東京藝術大学が所蔵している混声合唱団と
管弦楽のスコアもエッケルトの時代にできたもので、
エッケルトがその作成に関わった可能性がある。
(H.G.)
(ケース内)
《君が代》の手書きのスコア
(管弦楽と混声合唱用)
東京芸術大学所蔵。東京音楽学校(東京芸術大学
音楽学部の前身、文部省音楽取調掛の後身)で使わ
れたと思われるが、もとのスコアにインクで書かれ
【大韓帝国愛国歌】
た強弱記号に加えて、それと異なる強弱記号が鉛筆
で記入されている。
(H.G.)
Panel DTA-1
大韓帝国愛国歌の作曲がエッケルトに依頼された経
緯
1901 年になぜ「エッケルト」が大韓帝国愛国歌
の作曲者に選ばれたのだろうか。それはもちろん彼
が軍楽隊の唯一の指導者として韓国に滞在していた
からである。だが、そもそも彼が韓国に招かれたの
は、大韓帝国愛国歌作曲のためであったという可能
性も考慮しなければなるまい。
当時の在韓国ドイツ領事ヴァイペルトは以前に日
本の大使館に勤めていた。エッケルトの長女アマー
リエの回想によると、ヴァイペルトは日本時代から
エッケルトの友人であった。従ってドイツから軍楽
隊の教師を招くという話になったときに、ヴァイペ
ルトがエッケルトの日本の業績、つまり軍楽隊を育
てたことと国歌を編曲したことを思い出し、エッケ
ルトを韓国政府に推薦したと考えられるのである。
世界の国家との対等な関係を目指し、華やかな国
家行事を好んだ韓国皇帝には、国歌が必要であった
だろう。だからエッケルトの採用の直後に国歌作製
の話が出たのは不思議なことではない。
【哀の極】
Panel AnK-1
《哀の極》
《哀の極》(陸軍では「かなしみのきわみ」、海
軍では「あいのきわみ」と読んでいたようである)
はエッケルトの代表作の一つであるが、1897 年 1
月 11 日の英照皇太后崩御に際し、宮内省式部職が
エッケルトに作曲を依頼したとされる。エッケルト
は二曲で構成される吹奏楽用葬送行進曲を作曲し、
曲名は有栖川宮により命名された。宮内庁書陵部所
蔵の、エッケルトの勲五等進級および恩給について
はかられた際の履歴書の一つ(1899 年、右)による
と、エッケルトは作曲後その演奏を五つの軍楽隊に
指導していたことがわかる。そのためにそれぞれの
楽隊の編成に合わせた楽譜を作っていた。
1897 年 2 月 2 日発柩の際に初演、続く 2 月 7 日
の大喪の礼で再演された。その後も明治天皇、昭憲
皇太后、大正天皇、昭和天皇各々大喪の礼にて演奏
されているが、決して大喪の礼に限って使われたの
ではない。例えば 1910 年のイギリス国王エドワー
ド 7 世崩御の際、日本での演奏会でも追悼としてこ
の葬送行進曲が演奏されている。
(H.G.)
Panel DTA-2
(H.G.)
Panel AnK-2
「ショパンの曲に似て」?
̶《哀の極》第 1 番、第 2 番̶
「(第 1 番の) 前半はショパンの《葬送行進曲》に
似て荘厳な旋律ですが、後半は穏やかで優雅。
」とは、
『東京新聞』1989 年 2 月 18 日付に掲載された牟田
隊長(当時)の感想だが(展示ケース内参照)、実
際はどうか、より詳しく見てみよう。
前半だけでなく、全体的にショパンの《葬送行進
曲》を参考にしたと思われる箇所が散見される。第
1、2 番ともに前半の付点リズムは、葬送行進曲には
一般的なものでもあるが、後半(Trio)の旋律は、
ともにショパンの《葬送行進曲》中間部にさらに酷
似している。
第 1 番に用いられた調構成は興味深い。冒頭はヘ
短調で開始されるが、その後転調を繰り返し、前半
は不安定ながら変ヘ長調で終止。二度とヘ短調に戻
ることなくハ長調の後半(Trio)へ突入し、そのま
ま終結する。この「開かれた調構成」は、ショパン
の《葬送行進曲》にはないものの彼の数々の作品に
見られ、彼を象徴する手法でもあった。エッケルト
のショパンへの憧憬は、むしろここから想像できる
かもしれない。
(R.M.)
20
大韓帝国愛国歌はいつ完成したのか
長女アマーリエによると大韓帝国愛国歌の初演は
高宗皇帝の 50 歳の誕生日
(1901 年)
に行われたが、
それは他の資料の情報と矛盾するため、間違いだろ
う。エッケルトの友人であった在韓のドイツ人医師
リヒャルト・ヴンシュは、1901 年末に両親に宛てた
手紙で、彼が宮廷の新年パーティー(西暦)に呼ば
れたことと、そこでエッケルトの「新しい韓国国歌」
が皇帝に「聞かされる」予定だと書いている。この
情報も他の資料で裏付けることができないが、同時
代の手紙なので信頼性がより高い。またこの情報は、
『大韓帝国愛国歌』が 1901 年の冬に作曲されたと
いう、『東明』の記事とも矛盾しない。
この国歌の存在に関する最も古い確実な情報は、
フランス音楽雑誌『Le Ménestrel』の 1902 年3月
30 日号に載っている(ケース参照)。ここに展示し
ているスコアは、H. アレンの年代記によれば 1902
年 7 月1日に印刷されたものである。この歌は、そ
の年の 8 月 15 日に皇帝の命令により、韓国の最初
の公式な国歌として制定された。
(H.G.)
Panel Nat-1
エッケルトが関わった二つの国歌の異なる運命
1910 年の日韓併合によって禁止にされてしまっ
た《大韓帝国愛国歌》は、植民地支配からの解放後、
二度と日の目を見ることができなかった。上海臨時
政府によって採択されていた安益泰(1906∼1965)
作曲の《愛国歌》が 1948 年大韓民国の国歌として
歌われるようになり、北朝鮮は金元均(1917∼2002)
作曲の《愛国歌》を国歌として選択した。従ってエ
ッケルトの《大韓帝国愛国歌》は韓民族の歴史の中
でほとんど忘れられた存在になった。
それに対して《君が代》は日本の帝国主義の象徴
として戦後の GHQ 時代に一時歌唱禁止になった時
もあるが、その後戦前と戦後を結ぶ国歌として歌わ
れるようになり、さらに 1999 年には、国民の批判
や抵抗にもかかわらず、国旗国歌法の制定で法的拘
束力をもつものとして存続している。
終わりに
Panel 4
あとがき
「エッケルト」という名前はまず二、三の「有名
な曲」と結びついているが、その知名度は音楽史上
の重要性というよりも政治・社会的な機能に基づい
ている。従って音楽史に関しては、エッケルトの作
品よりも重要なのは、彼が独日韓の文化交流に果た
した役割が重要である。それは主に教育と演奏活動
である。
ここで展示した資料から何を学ぶことができるだ
ろうか。ご覧になった皆さんがこの疑問に対して自
分なりの答えを見出せれば、この企画はその目的を
十分に果たしたと言える。ただ、西洋音楽受容が愛
国主義・軍国主義・帝国主義と深く結びついていた
ことはまず認識していただきたい。そして音楽研究
者である私たちが今回の展示で特に強調したいのは、
日本や韓国の西洋音楽文化受容においては、中央の
いわゆる高級文化よりも庶民的な地方文化の方が早
かったということである。エッケルトは音楽院で教
育を受けた音楽家でもなく、大学で教育を受けた知
識人でもなかった。その代わりに彼は実技において
音楽文化のほとんどすべての分野に及ぶ多面的な経
験を積んでいた。
それこそ彼の成功の秘密であろう。つまり、それ
により彼は日本と韓国で次々と新しい活動領域を見
つけることができ、人生の半分以上を東アジアに過
ごすことになったのである。
展覧会企画者一同
(K.L.)
韓国の軍楽隊(『東明』)
Panel Dom-1
崔南善の主宰による時事週報『東明』
『東明』は 1922 年9月3日京城(ソウル)で創
刊された一冊 20 頁の時事週報である。この雑誌は
印刷部数2万ほどで比較的人気があったが、違った
やり方で「新朝鮮の誕生」を模索しようということ
になり、1923 年6月3日の通巻第 40 号(第 2 巻第
23 号)で終刊となった。
朝鮮総督府の強圧的な植民地政策は朝鮮人の3・
1独立運動以後 1920 年代の文化政治に変わり、
『東
亜日報』、『朝鮮日報』、『開闢』、『別乾坤』な
どのような韓国語新聞と雑誌が多く発行されるよう
になった。当時朝鮮の言論で一番左翼的だとして検
閲の弾圧を受けていた『開闢』が 1926 年に廃刊と
なったのとは違って、『東明』は事前検閲を通さな
いまま発行され、比較的に自由な意志表現が可能で
あった。
崔南善の主宰による『東明』の創刊意図は朝鮮学
の樹立であった。『東明』では社会主義思想が紹介
されるものの、民族主義的な立場からの批判的な見
地が見られる。
(K.L.)
Panel Dom-2
『東明』に掲載された〈朝鮮洋楽の夢幻的来歴〉に
ついて
『東明』第 1 巻第 13 号から第 16 号まで4回に渡
って掲載された〈朝鮮洋楽の夢幻的来歴〉には、ど
のように朝鮮唯一の西洋式軍楽隊が作られ、後で京
城楽隊に縮小されたのか、二十余年の歴史が詳細に
著述されている。
この記事は匿名の一記者によるものであるが、軍
楽隊の成立過程とエッケルトに関する詳細な情報と
説明の正確さを勘案すると、エッケルトのドイツ語
通訳を経て彼の弟子となった白禹鏞が原著者である
可能性が非常に高い。
この記事が提供している情報は、日本経由で知ら
れるエッケルトに関する情報とかなり異なっている。
エッケルトの出身、略歴、人柄に関する情報は、所々
に見られる誤りや勘違いにもかかわらず現実的で、
真実に近いようにも見える。
この記事の意図は解体の危機にあった京城楽隊を
救うため読者に訴えかけることであった。こうして
少数のメンバーでやっと活動を継続してきた京城楽
隊は 1930 年に白禹鏞の没後完全に解体したのであ
る。
(K.L.)
21
【研究分担者・協力者】
ヘルマン・ゴチェフスキ(代表・東京大学)
藤井浩基(島根大学)
李京粉(ソウル大学)
閔庚燦(韓国芸術総合学校)
大角欣矢(東京藝術大学)
酒井健太郎(昭和音楽大学)
都賀城太郎(藤村女子高等学校)
塚原康子(東京藝術大学)
安田寛(元奈良教育大学)
【展覧会パネル執筆担当者】
藤井浩基(K.F.)
ヘルマン・ゴチェフスキ(H.G.)
李京紛(K.L.)
松尾梨沙(R.M.)
大角欣矢(K.O.)
酒井健太郎(Ke.S.)
佐藤嘉惟(Ka.S.)
塚原康子(Y.T.)
協力:
金奎道(『東明』記事原文日本語訳)
申 正(パネル【ソウル】韓国語訳)