第 17 回 - 東京女子医科大学

柴田教授夜話(第 17 回)「ベルギー紀行」2014 年 12 月 31 日
■私にとって本年最大のハイライトは、国際 ALS/MND シンポジウムで講演す
るためベルギーを訪れたことである。まず、ベルギーの歴史をお浚いしておく。
■ベルギー (正式名称はベルギー王国) は、ヨーロッパ諸国の戦争と離合集散の
歴史を象徴する国家である。ベルギーが現在の国の姿になるまでの道のりは長
く、正に波乱万丈という他ない。もともと、同地域には農耕と漁労を営む先住
民が暮らしていたが、最後の氷河期が終わった紀元前 1 万年から紀元前 1 千年
にかけて、中央ヨーロッパから移住してきた種族が、革新的な農耕・牧畜技術に
加え、金・銅・錫といった金属の抽出加工技術を導入し、地中海貿易にも乗り出
したという。紀元前 6 世紀になると、ゲルマン人により鉄器製造技術がもたら
され、ベルギー地方はゲルマン人国家ゲルマニアに組み込まれていった。紀元
前 1 世紀、ローマ帝国が勢力拡大の一環として北上し始め、ゲルマニアを征服
するとともにベルギー地方はローマ帝国の属州となった。その後、ゲルマン人
が反撃に転じると、国境を越えてローマ帝国北部へ侵入し、現在フランデレン
語 (オランダ語の方言) が使われるベルギー地方の北半分 (フランドル地方=
南ネーデルランド) を獲得した。一方、ワロン語 (フランス語の方言) が使われ
るベルギー地方の南半分 (ワロン地方) は、ローマ帝国側に由来する。9 世紀以
降は、地主や司教らによる封建小国家群 (フランドル公国・ブラバン公国・ルクセ
ンブルグ公国など) が林立していった。特に、著名な画家ピーテル・ブリューゲ
ルを輩出したフランドル公国は、南北ベルギーにまたがる広大な地域を掌握し
ていた。しかしこの間、ベルギー地域はイングランド、フランス、ハプスブル
グ家など他国の支配下に落ちてゆく。ハプスブルグ家がスペイン系とオースト
リア系に分かれると、両者の力関係を反映して、スペイン領に続きオーストリ
ア領となった。1797 年、フランス革命政府はオーストリア軍との戦闘の末、オ
ーストリア領南ネーデルランドをフランスに併合したが、ナポレオンが失脚し
た 1815 年、南ネーデルランドとオランダを含むベルギー・ネーデルランド連合
王国が誕生した。その後、欧州最古の港湾都市であるブリュージュやアントワ
ープは、泥の体積で運河が浅くなったのを契機に衰退し、オランダのアムステ
ルダムに覇権を奪われてゆく。その結果、ベルギー人は、貿易で繁栄するオラ
ンダに経済的差別を受けると同時に、プロテスタント化したオランダ人とは一
線を画し、カトリックである誇りを持ち続け、連合王国から離脱したい気持ち
を次第に募らせた。1830 年、ベルギーが独立革命を起こすと、プロテスタント
国家オランダは、カトリック国家フランスとの干渉地帯としてベルギーの存在
意義を重視する立場をとり、独立を許す代わりにベルギーに永世中立国となる
ことを強く要請し、ベルギー政府もこれに答えた。欧州の統合構想は、ベネル
クス三国 (ベルギー・ネーデルランド=オランダ・ルクセンブルグ) による 1944
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年の調印に始まると言われる。欧州連合 (EU) 本部がベネルクス三国の中心に
位置するベルギーの首都ブリュッセルにある理由の一つはここにある。現在の
ベルギー国家元首フィリップ国王は、王妃とともに国民的人気を博している。
■日本からベルギーへの直行便 (時差は 8 時間) がないため、ブリュッセルへは
パリのシャルル・ド・ゴール空港を経由して TGV で向かうことにした。旧式の車
両で新幹線より狭かったが、乗り心地は悪くなかった。外国人旅行者用の大型
トランク置き場がデッキ付近に設置されていて有難かった。終点のブリュッセ
ル南駅から地下鉄メトロに乗り換え、中心街のモネ劇場向いにある四つ星のド
ミニカン・ホテル (ドミニコ会系修道院を改装して 2007 年にオープンしたもの)
に到着したのは午後 6 時過ぎだった。エレベーターや室内には厳かなグレゴリ
オ聖歌が流れている。ホテルから歩いて 5 分位のところにある有名な広場グラ
ン・プラスは美しくライト・アップされ、実に見事であった。キリスト生誕を描
いた特設家畜小屋もあった。広場を取り囲む石造りの建造物のうち、一際目立
つ市庁舎、ブラバン公爵の館、王の家以外は、白鳥・仕立屋・英雄セルクラース
像のある星の家などの屋号を冠したギルドハウスで、当初は木造だったが、1695
年にルイ 14 世の命令で砲撃破壊された後、ギルドにより速やかに再建されて現
在に至ったものである。グラン・プラス近くのレストランでワーテル・ゾーイ (ベ
ルギー料理) とクリーク (ベルギービール) を堪能し、帰室後は爆睡した。
■ジェット・ラグを解消した翌日は、ブリュッセル市内を歩くことにした。ル・
パン・コティディアンで朝食を摂り、グラン・プラスから王宮へ向かうと、門の
前に騎馬隊が整列していた。何だろうと様子を窺がっていると、庭の向こうの
建物から出てきた国王夫妻が車に乗り込む様子が垣間みえた。その車が門を出
ると、二手に分かれた騎馬隊に前後を挟まれた格好で、ゆっくりと石畳の道路
を過ぎ去っていった。ベルギー滞在中に皇太后逝去の訃報が流れたのと関連し
た動きだったのかも知れない。王宮の近くにある楽器博物館 (略称 mim) は古今
東西の楽器を展示しており、ヘッドホンで音を聴くことができた。特に、リュ
ートを始めとする弦楽器群のコーナーは楽しくてたまらなかった。この日は、
若手ピアニストの演奏 (千夜一夜物語の語り手シェヘラザードをテーマとする
リムスキー・コルサコフの曲) を聴けるというおまけつきであった。コンサート
会場は、時間的余裕があり耳の肥えた元気なお年寄り達で埋め尽くされていた。
そこから程近いところにある王立美術館は、パリのルーブル美術館の分館とし
て 1799 年に開設された。閉館間近だったため、広い館内をゆっくりと見て回る
余裕はなかったが、よく推奨されるピーテル・ブリューゲル (父) の『ベツレヘ
ムの戸籍調査 (1556)』
『東方三博士の礼拝 (1562)』
『堕天使の堕落 (1562)』とペ
トロ・パウル・ルーベンスの『聖母マリアの戴冠 (1620)』『ゴルゴタの丘行き
(1634)』『聖リビニュスの殉教 (1635)』だけは、足を止めてよく眺めた。そこか
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らホテルに戻る途中には、1847 年に開設されたヨーロッパ最古のアーケード街
ギャルリー・サン・チュベールがある。この界隈には、ブティック、化粧品店、
土産物店などに混じって、ピエール・マルコリーニ、レオニダス、コルネ、ゴデ
ィヴァ、ノイハウス、メリーなどのチョコレート名店が点在している。
■国際 ALS/MND シンポジウムは、運動ニューロン系を選択的に侵す神経難病
『筋萎縮性側索硬化症 (ALS)』を基礎医学、臨床医学、看護学などあらゆる視
点から分析する年に一度の学会であり、今年で 25 回目を迎える。私はベルギー
に造詣が深い教室スタッフの影響もあって同国に憧れを抱いていたことから、
ポスター張り逃げ観光を目論んでいた。ところが、抄録演題登録して間もなく
ポスター希望は却下され、シンポジストとして 20 分間の講演を要請する通知を
受け取った。余程、プログラム委員会の興味をそそる内容だったのだろうか?
■神経変性疾患研究は数百年の歴史を有する。英仏独を中心とする古典的研究
学派は、患者が生前呈した神経症候と死後の神経病理学的観察で判明した病変
分布を対比しながら、神経変性疾患を分類していった。その後、米国を中心と
する新興学派は、死にゆくニューロンの内部に出現する蛋白凝集体に注目し、
蛋白化学の手法を駆使して蓄積蛋白の同定に取り組んできた。アルツハイマー
病の老人斑におけるアミロイド-β (Aβ)、パーキンソン病のレビー小体における
リン酸化 α-シヌクレイン (p-αS)、進行性核上性麻痺の神経原線維変化における
リン酸化タウ (p-Tau) およびハンチントン病の核内封入体におけるポリグルタ
ミンは代表的な蓄積物質である。現在、神経変性疾患の分類は蓄積蛋白の種類
をもとに再編されつつある。このような学問の趨勢を横目に見ながら、ALS 研
究者達は ALS 患者の脊髄運動ニューロンに蓄積する蛋白をなかなか同定できな
い現実に、焦りと忸怩たるものを感じていた。ところが、2006 年、日米の独立
した二つの研究グループが、RNA スプライシング調節因子である核内蛋白
transactivation-responsive DNA-binding protein of 43 kDa (TDP-43) のリン酸化物
(p-TDP-43) が細胞質封入体の主成分であることを突き止めた衝撃的な論文を相
次いで発表した。このニュースは多くの ALS 研究者を元気づけた。ああ、やっ
と ALS 研究も他の神経変性疾患研究と肩を並べることができた…と。ごく稀な
がら、TDP-43 遺伝子変異を有する遺伝性 ALS 家系がみつかったことも追い風に
なった。病態メカニズムを巡っても諸説が提唱された。本来、核内で作用する
TDP-43 蛋白が細胞質でリン酸化凝集体を形成すると、生存維持に必要な遺伝子
の発現が阻害されるのでは?とか、細胞質での p-TDP-43 蛋白蓄積がプロテアソ
ーム阻害やオートファジー破綻を介して細胞死を誘導するのでは?など、夢は
膨らむばかりである。しかし、ちょっと待てよ、と警鐘を鳴らす研究者もいる。
TDP-43 の凝集体は、ALS 以外にもタウオパチー、α-シヌクレイノパチー、ポリ
グルタミン病などの剖検脳でも観察されるとの報告が相次いだ。つまり、
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p-TDP-43 凝集体の出現は ALS に特異的な現象ではなかったのである。
■ここで、TDP-43 が注目される約 10 年前の 1990 年代にタイムスリップしてみ
よう。ときは ALS グルタミン酸興奮性神経毒性説全盛の時代。この仮説は、
Rothstein らが報告した患者脳脊髄液中のグルタミン酸濃度上昇に着想を得てい
る。その後、アストロサイトのグルタミン酸トランスポーター (GLT-1) による
グルタミン酸取り込み能低下がシナプス間隙のグルタミン酸上昇を招く結果、
運動ニューロンが過剰興奮し続けて細胞死に至るとの説明が付け加えられた。
1997 年、Blanc らは培養アストロサイト GLT-1 の機能が脂質過酸化産物ヒドロキ
シノネナールによって損なわれることを報告した。当教室の川口助教も、大学
院時代の 2005 年、培養アストロサイト GLT-1 の機能がブドウ糖の酸化反応産物
グリオキサールによって奪われることを報告した。これは、我々がかねがね世
界へ発信し続けてきた、ALS 脊髄における酸化ストレス増強を示唆する証拠 (核
酸・脂質・糖質・蛋白の酸化修飾産物の増加) とも無縁ではない。酸化ストレス亢
進の原因は今のところ不明であるが、酸化ストレスは GLT-1 の活性を抑制する
だけでなく、シスチン・グルタミン酸アンチポーター (xCT = 細胞外シスチン取
込と交換に細胞内グルタミン酸放出を行う膜蛋白) の発現レベルを上昇させる
ことが知られている。我々がヒト ALS 脊髄を用いて xCT の発現状態を調べてみ
ると、確かにニューロンやグリアで xCT 発現量が上昇していた。さらに、グル
タミナーゼ (GLS = グルタミンの脱アミノ反応を触媒してグルタミン酸を産生
する酵素) も ALS 脊髄ミクログリアで発現増強していた。GLS は炎症促進性サ
イトカイン TNFα によって誘導される (Takeuchi, 2006)。一般に、TNFα は酸化ス
トレスで誘導されるので、ALS 脊髄での GLS 増加は辻褄が合う。このように、
ALS 脊髄では細胞外グルタミン酸濃度が上昇する条件が揃っているのである。
■脊髄運動ニューロン表面に局在する代表的な脱分極性グルタミン酸受容体は、
NMDAR と AMPAR である。NMDAR は Ca チャンネルと共役しているため、グ
ルタミン酸と結合すると Ca イオンが細胞内へ流入する。その結果、Ca 依存性
フリーラジカル産生酵素群 (キサンチンオキシダーゼ・NADPH オキシダーゼ・ニ
ューロン型一酸化窒素合成酵素など) が一斉に活性化し、細胞はフリーラジカル
傷害に見舞われる。これが興奮性神経毒性の実態である。Ca イオンの流入はま
た、蛋白分解酵素カルパインを活性化することにより、一過性に adenosine
deaminase acting on RNA 2 (ADAR2) の分解を誘導する。ADAR2 は、AMPAR の
重要なサブユニット GluR2 の mRNA を一塩基置換することで蛋白の三次元構造
を変化させ、AMPAR と Ca チャンネルとの関係を疎遠にする作用を発揮する。
このため、ADAR2 の分解は AMPAR 刺激による Ca イオン流入を許してしまう。
従って、シナプス間隙のグルタミン酸濃度が慢性的に上昇している場合、
NMDAR のみならず AMPAR も Ca イオン流入を仲介することになる。
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■ALS 脊髄がシナプス間隙のグルタミン酸濃度上昇をきたす環境下にある証拠
を受けて、我々は培養運動ニューロンにグルタミン酸 1 ナトリウム塩 (MSG) を
添加し、TDP-43 の細胞内局在の変化を探ることにした。すると、本来、脱リン
酸化状態で核内に限局する筈の TDP-43 が、リン酸化状態で核内と細胞質に多数
のリン酸化凝集体を形成するという興味深い現象を発見した。この現象は、
NMDAR アンタゴニストで阻害されたが、AMPAR アンタゴニストでは阻害され
なかった。さらに、ERK-MAPK 経路の阻害薬でも p-TDP-43 凝集体形成は抑制
された。これらの結果を総合すると、グルタミン酸による NMDAR 刺激が Ca
流入を介して同経路を活性化し、TDP-43 のリン酸化を誘導したとの解釈が成り
立つ。どうやら、運動ニューロンがグルタミン酸曝露により p-TDP-43 凝集体を
形成することは間違いなさそうである。一方、AMPAR アンタゴニストが TDP-43
のリン酸化凝集を抑制しなかったのは、我々の実験に用いたグルタミン酸単発
刺激では、測定時に ADAR2 活性が復帰しまって AMPAR-GluR2 mRNA の編集
率が正常化し、AMPAR に共役する Ca 流入が起こらなくなったためと説明され
る。そこで、もし運動ニューロンにグルタミン酸を慢性持続的に曝露すれば、
AMPAR アンタゴニストも p-TDP-43 凝集を抑制しうる余地を残している。実際、
Aizawa らによれば、ALS 脊髄の残存運動ニューロンのうち、核内蛋白 ADAR2
が消失しているものに限って、細胞質に p-TDP-43 凝集体を保有しているという。
さらに、Kwak らが報告した『ALS で侵されやすい脊髄運動ニューロンでは
AMPAR GluR2 mRNA の編集率が低下している』事実は、運動ニューロンが慢性
的にグルタミン酸に曝露された結果、もともと Ca 緩衝蛋白 (Calbindin D-28k や
Parvalbumin) の発現が乏しい領域で起こる二次的現象に過ぎないと言えよう。
■12 月 5 日の昼過ぎのシンポジウム “Protein Misfolding and Toxicity” で、そん
な持論を展開し、自信満々にプレゼンテーションを終えると、会場からも座長
からも矢継早に質問を浴びる羽目になった。どうやら、多くの研究者が強い関
心を抱いたようである。おそらく、こんな風に議論が白熱することをプログラ
ム委員会は予想したのであろうとそのとき気づいた。会場には、東京女子医科
大学の人間関係教育看護学チーム (原・岡田・宮前・下平の諸先生方) も詰めかけ
ていて、コーヒー・ブレークでは労いのお言葉をかけて下さり、緊張の余韻がい
まだ消えぬ私の心を和ませてくれた。同日夕方のポスター会場では、ウェスト
マール・トリプル (ベルギービール) が振る舞われ、寛いだ雰囲気の中、質疑応
答が始まった。鳥取大学の渡辺先生、名古屋大学の坂戸先生、東京都立神経病
院の望月先生と林先生、医学研の中山先生といった日本の研究者達とお話しす
る場面もあった。私がプレゼンテーションの中で GLS に関するデータを売り込
んでおいた猪瀬助教のポスター・ブースには各国の研究者が訪れ、彼女はその対
応に追われた。そんなこんなで忙しいスケジュールが終わると、気分一転、学
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会場裏に隣接するパレ・デ・ボザールというコンサート会場へ向かい、ベルギー
国立オーケストラによるリヒャルト・シュトラウスの管弦楽曲 (4 Interludia, op.
28; Till Eulenspiegels lustige Streiche, op. 72) を楽しんだ。その華やかで品の良い
調べに酔いしれているうちに、今日一日の疲れが癒えてゆくのを感じた。
■発表日の前後、北部古都アントワープと西部古都ブルージュに足を伸ばした。
■アントワープ中央駅は広々とした空間を有し、内部はまるで聖堂のような雰
囲気を醸し出していた。アントワープ市観光の目玉は、ノートルダム大聖堂と
ルーベンス絵画である。この大聖堂は 1352 年から 170 年かけて建造された巨大
建築で、天を突き刺さすような高さ 130 m を超える尖塔は観る者に威圧感を与
えるが、ゆったりとした内部空間は安らぎをもたらす。ルーベンスの最高傑作
とされる祭壇画『キリストの昇架』『キリストの降架』『聖母被昇天』は、直下
にある礼拝用の長椅子に坐って、いつまでも眺めていたくなる気分にさせる。
「昇架」のキリストは腕に力を込め皮膚は肌色なのに対し、
「降架」のキリスト
は意識を失い皮膚は蒼白である。童話『フランダース』の犬のクライマックス
「ネロとパトラッシュが天国に召される場面」に出てくる半球天蓋には、天国
の絵画が描かれている。本書は英国人童話作家によるもので、英国と日本でし
か出版されなかったため、道行く現地の人々に尋ねても知る人はほとんどいな
い。大聖堂に隣接する市庁舎前広場には、ルーベンスの像とブラボーの像が置
かれている。ブラボーとは、ブラバンの語源となった古代ローマ兵士の名前で
ある。ブラボーの像は、すぐそばを流れるシュヘルド側で暴力を振るっていた
巨人を踏みつけ、手首 (ant) を切り落とし、投げ捨てた (werpen) 故事に因んだ
ものであり、アントワープという地名もこれに由来している。ここから駅へ戻
る途中に『ルーベンスの家』がある。ルーベンスは数十人の弟子達とともに生
涯二千点もの絵画を残したが、同時に 7 ヵ国語を操る外交官でもあった。件の
家は彼が 53 歳の時に再婚した 16 歳の妻と過ごした空間であり、63 歳で亡くな
るまでの間に 5 人の子をもうけたという。現在修復中のため、全ての絵画を拝
観することはできなかったものの、中庭の植木が端正に刈り込まれていた。駅
の近くには加工まで手掛ける宝石店が所狭しと並んでおり、アントワープが世
界に流通するダイアモンド研磨・取引の最大シェアを誇るという評判も頷けた。
■フランドル地方の水の都ブリュージュは “bridge” を意味する地名であり、そ
の名に相応しく、街中を縫うように走行する運河に沢山の橋が架かっている。
ガイドブック『地球の歩き方』には、まるで絵本のように美しい町と記されて
いる。お勧めの運河クルーズを体験してみると、ボートから見上げる光景はヨ
ーロッパ随一の港町として栄華を極めた 12~13 世紀の街並みをそのまま留めて
いた。自分も含め乗客の多くは口を開けているのがおかしかった。頸部を後屈
すると人間工学的にそうなってしまうのだから、仕方がないのだが…。古風で
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閑静な佇まいの石造りの商業建物、教会、鐘楼、美術館などが次々と目の前に
現れ、それに見とれていると、頭が擦れそうな低い石橋の下を通過する度に冷
っとする。街中で一際目立つ聖母教会は 14 世紀頃建造されたとされ、祭壇に安
置されたミケランジェロ作『聖母子像』はつとに有名である。その飾らない白
い彫刻が、長い年月に亘って数知れぬ貧しい人々の祈りを聞き、視線を浴びて
きたのかと思うと、何とも言いしれぬ気持ちにかられる。そうは言っても空腹
は訪れる。魚介料理とそれに合ったベルギービールを味わえると謳う『ブレイ
デル・デ・コーニンク』でブイヤベースやロブスターに舌鼓を打った。腹ごなし
に町の中心地マルクト広場まで歩き、市庁舎に隣接する建物に入って新設企画
『ヒストリウム』でブリュージュの歴史を体感した。上階のバルコニーから広
場を見下ろすと、日本の路地文化とは一味違うスケールの大きさに目を見張っ
た。そこから程近くにメムリンク美術館がある。ハンス・メムリンクはドイツ出
身の画家でブリュージュの画家組合に登録し、15 世紀のフランドル絵画を代表
する作品を多く残した。美術館は 12 世紀建造の聖ヨハネ施療院を改装したもの
である。ベルギー7 大秘宝の一つとされるメムリンク作『聖ウルスラの聖遺物箱』
を始め、『聖カトリーヌの神秘の結婚』や『東方三博士の礼拝』、それに医史的
にも興味深い施療院で使われた手術道具が展示されていた。美術館周辺には、
レース製品を売る土産物店がひしめいていて、そこを抜ける道はペギン会修道
院へと続いている。13 世紀建造の同施設には、当初ペギン会の修道女達が暮ら
していたが、15 世紀以降はベネディクト派の手に委ねられている。よく手入れ
された樹木と下草からなる中庭の周囲に、白壁と煉瓦色の三角屋根をもつ閑静
な修道院が建ち並んでいる。修道院の外堀から続く愛の湖公園に辿り着いたの
は夕闇迫る頃で、白鳥達が優雅に水面を漂う姿は今も忘れられない。
■今回のベルギー滞在では、学会と観光の他にもう一つ楽しい思い出がある。
それは、ベルギー人男性ジルさんとベトナム人女性の大学院生トュイさんのカ
ップルと過ごした時間である。ジルさんは、東京女子医科大学からブリュッセ
ル大学へ交換留学制度を利用して赴いた歴代の本学関係者 (同行の猪瀬助教や
救命救急医学の矢口教授を含む) がお世話になった同大学図書館の司書さんで
あると同時に、自称ミュージシャンである。彼は九州大分で知り合ったトュイ
さんともども大の日本通で、流暢な日本語を操るばかりか、独学とは思えない
ほど読み書きも上手である。予め日程調整しておき、四人で会う機会を二度設
けることができた。一度目は、グラン・プラスから程近い 1893 年創業の老舗ベ
ルギー料理店『シェ・レオン』で一緒にお食事をした。末尾に R のつく月は美味
いと言われる冬のムール貝のココットにフリッツ (本当はベルギー発祥なのに
フレンチフライと言われるようにフランスにお株を奪われた因縁ある料理) が
看板メニューの店で、ベルギービールを味わいながら積もる話に花を咲かせた。
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立ち飲みビヤホールやアブサン酒のお店にも連れて行って貰った。二度目は、
ジルさんとトュイさんが一緒に暮らすお住まいに呼ばれ、トュイさんお手製の
ベトナム料理 (オマールエビのスープ、本格的ベトナム風春巻きなど) とワイン
を美味しく戴いた。本棚には、デビッド・ボウイやキース・リチャードの自叙伝
に混じって林修先生の著書とベトナム語の教科書 (いずれも日本語版) が並ん
でいた。二人とも普通に読みこなしているのである。会話の最中『今でしょ!?』
と合いの手を入れられると、ここはベルギーだったっけ?と思わず吹き出して
しまった。話題は日本とベルギーの庶民文化の違いにも及んだ。ベルギーには
AKB48 やジャニーズのようなアイドルは存在するのかと彼に質問を投げかける
と、ベルギーの若者はそういう非日常的なものに関心を抱かないと答えた。彼
自身も日本の魅力は日常的なものにあると力説した。続いて、ディープ・パープ
ルの最新アルバムやジルさんがインディーズ・レーベルからリリースしたオリ
ジナル曲を聴いたり、メジャー・デビューした別のベルギー・ミュージシャンの
CD をトュイさんに紹介して貰った。奇しくもジルさんと私がともに熱狂的なフ
ァンであるプログレッシブ・ロック・バンド “Yes” の CD を聴きながら、マニア
ックな話をしたり、彼が引っ張り出してきたエレキやベースを担ぎ、皆が入れ
代わり立ち代わりアンプラグド・エアギタープレイに興じたりと、時が経つのも
忘れて開放感に浸った。帰りがけ、我々が帰国する明後日はベルギー全土で交
通ストライクが予定されているとの情報が彼らからもたらされた。これは大変
なことになったかと半信半疑だったが、その晩はホテルに戻って眠りに就いた。
■翌日、学会会場で昼食を御一緒した人間関係教育看護学チームの先生方と話
すうち、明日のストライキを甘くみてはいけないとの結論に至った。小便小僧
近辺の散策もそこそこにホテルへ戻り、booking.com でシャルル・ド・ゴール空港
近くのホテルにかろうじて二部屋を確保した。ストライキが始まる前にベルギ
ーを離れることに決め、ドミニカン・ホテルをチェック・アウトすると、ブリュ
ッセル南駅へ向かった。予約済みの明日 TGV チケットを解約して本日分に変更
しようと、フランス語が堪能な猪瀬悠理助教が交渉を試みたが、早めに行動し
た観光客達に先を越され、既に売り切れていた。仕方なく、在来線を何度も乗
り継いでパリへ向かうことにした。乗り継ぎ駅はどれも辺鄙な田舎にあり、エ
レベーターやエスカレーターのような気の利いた設備などあろう筈もなく、重
い荷物を引き摺りながらの乗換は想像を絶した。ヨーロッパの鉄道駅ホームの
高さは日本よりもかなり低く、列車に乗るにはデッキの階段をよじ昇る必要が
ある。重いトランクを車内へ担ぎ上げた時、反動で床に四つん這いになった自
分の姿に笑いを堪えられなかった。深夜に辿り着いたホテルで仮眠をとり、翌
日、少しだけパリ市街を歩いて回った後、JAL で日本への帰途に着いた。
■いろんな思い出が詰まった初めてのベルギー滞在は、こうして幕を閉じた。
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