人生を決めた汽笛の音

解説
人生を決めた汽笛の音
岩 本 太 郎
Taro IWAMOTO
理工学部機械システム工学科
教授
Professor, Department of Mechanical and Systems Engineering
機関車の魅力にはまった.まさにその時,機械屋に
1.はじめに
なるという道が決まったのである.その後,蒸気機
幼いときに経験したあることがその人の一生の進
路を決めるきっかけとなることは良く聞かれること
関及び鉄道から私の専門である機構に関する多くの
知識を学んだ.
である.私にもそのようなことがあり,いまだに尾
を引い て い る . そ れ は 蒸 気 機 関 車 ( SL : Steam
Loco- motive)との出会いである.
蒸気機関車は一部の鉄道でマニヤや観光客めあて
に現在でも運転されているが,すでに主要な交通機
そのようなわけで,蒸気機関車について話をして
みたい.
2.蒸気機関車の特徴
2. 1
機関車の動態保存
関としての役割を終えている.その理由はエネルギ
京都駅の西側にある梅小路公園に,梅小路蒸気機
ー利用の効率が悪い点と,運転の難しさであろう.
関車館がある.ここには多くの蒸気機関車が動態保
しかし,無骨な機械であるにも関わらず,巨大な生
存され,いつでも見たい時に蒸気機関車の実物を間
物を感じさせるその姿と動作,魂を揺さぶるそのサ
ウンドには否定しがたい大きな魅力がある.
小学生の頃,父の会社の社宅が高槻市にあって,
その社宅に住んでいた.そこは市役所と警察署に挟
まれた一角にあり,旧国鉄の高槻駅に歩いて数分の
ところである.入れ替えをしている蒸気機関車や電
気機関車を駅のヤード脇の道路から柵越しによく眺
めていた.ある時ホームにいて,停車中の蒸気機関
車の横に立っていたら,突然出発の汽笛が鳴らされ
た.その音は朗々と響きわたり,また果てしなく長
く,腹の底に深々と浸みわたるサウンドであった.
今までに味わったことのない深い感覚を覚え,蒸気
― 42 ―
図1
梅小路蒸気機関車館の 8630
近に見ることができる稀有の場所である.また短い
特徴である.
区間だが蒸気機関車がけん引する列車に試乗するこ
とができる.図 1 は試乗運転の準備をしている 8630
2. 3 サウンド
である.実際の鉄道においても,季節によって,木
蒸気機関車の汽笛は絶品
ノ本駅から蒸気機関車による列車運行があり,乗車
である.電気機関車の甲高
することができる.一旦は廃車となった蒸気機関車
い音とは異なり,高低の音
だが,各地で列車運行がなされ,また公園などに展
が複合したなんともいえぬ
示されているのは,やはり蒸気機関車の捨てがたい
奥深さがある.汽笛は図 3
魅力のためであろう.
に示すように,らせん階段
のような形状をしており,
2. 2
リンクメカニズム
容積の異なる 5 つの共鳴室
蒸気機関車の構造上の特徴は,なんと言ってもリ
ンク機構の動きが良く見えることである.ピストン
図3
汽笛
を持つ笛を蒸気で吹くこと
で,独特の音を出している.
の往復運動がクランク機構により回転運動に変換さ
蒸気機関車の近くで聞いた音は,圧倒的な音量と
れるのは,自動車の内燃機関も同じである.しか
複雑な音質で魂を揺さぶり,これでもかこれでもか
し,自動車のエンジンはケースに囲まれて動きが全
と 10 秒も続くサウンドは説得力に満ち,心を打た
く見えない.
れた.それはこれから走るぞという雄たけびであ
蒸気機関車ではボイラからの加熱蒸気をシリンダ
の前または後ろから流入させ,反対側から排気する
り,これに続くシリンダからのリズミカルな排気音
(ドラフト)を予感させる.
が,それを制御する弁の開閉のタイミングと開閉量
蒸気機関車は煙と蒸気と音を撒き散らしながら走
が性能を支配する.弁の動作は動輪の回転と同期し
行するので,今なら沿線の住民から苦情が殺到する
ており,これは図 2 に示すワルシャート式バルブギ
であろう.しかし,ドラフトの音のリズムと強さが
ヤと呼ばれるリンク機構で達成される.弁の動きは
動輪の回転速度と牽引力を直接的に表していて,汽
ピストンよりほぼ 90 度ずれていて,ピストンが中
笛と共に機関車が生き物に思えるのである.発車時
央近くにあるとき弁が最も大きく開き,大きな蒸気
に負荷の大きさに負けて動輪が滑るとドラフトのリ
力を発生する.この複雑なリンク機構がまず大きな
ズムが一瞬早まり,すぐにけん引力を取り戻して元
のリズムに戻ったり,音の強さと遅いリズムから,
上り勾配で全力を振り絞っていることがありありと
感じられたり,蒸気の流れを切り,惰性で軽く流し
ていたり,ブレーキが鉄と鉄の鋭い摩擦音を出した
り,あちこちで鉄のぶつかる音を出したりするのが
生きものの動きを感じさせるのである.
こんな鉄の塊で,リンクやシリンダがむき出しの
メカメカしいものが,音とリンクの動きによって生
きていると実感するものになるのが驚きであり,機
械に強い興味を持つようになった理由である.
図2
ワルシャート式バルブギヤ
― 43 ―
は不可欠であった.また,シリンダの内径を正確に
3.蒸気機関車の歴史と技術の発展
3. 1
削りだす工作機械の発達も必要であった.
背景
1765 年,ジェームズ・ワットはシリンダの蒸気
蒸気機関車は 19 世紀初頭にイギリスで生まれ発
を水に戻す冷却工程の機能をシリンダの外に設置し
展した.18 世紀のイギリスでは製鉄を始め多くの
た復水器に移し,シリンダは高温を維持できるよう
産業が生まれてきて,物資の大量輸送のニーズがあ
にすることで熱効率を高める工夫をした.
った.また,炭鉱や製鉄事業所における敷地内の物
ニューコメンの蒸気機関は圧力がピストンの一方
資輸送の必要性もあり,構内の鉄道も生まれていた
だけに作用する単動機関で,人がバルブを切り替え
が,牽引力は人力や馬力に頼っており,輸送規模の
る手動機械だが,ワットは 1782 年に高い蒸気圧を
拡大は望めなかった.
ピストンの両面に交互に作用させる複動式蒸気機関
1712 年にニューコメンは,蒸気を満たしたシリ
を作ることに成功し,1785 年には 2 シリンダにし
ンダの中に水を噴射して真空を作り,真空力でピス
て連続して回転運動が得られる機関とすることで産
トンを駆動する図 4 の蒸気機関を開発した.これは
業界に大いに貢献した.ここにはじめて実用的な
炭鉱の地下水の排水ポンプに使われた.しかし,真
「原動機」が生まれたのである.しかし,機関車に
空の力は大気の力であり,理論的に 1 気圧以上は出
搭載するには大幅な小型化が必要であった.
せず出力は低かった.また動作が往復動で遅く(毎
ついでながら,ワットの蒸気機関は制御工学の発
分 12 サイクル程度),サイクルごとにシリンダを冷
展のきっかけを作った.ワットは蒸気機関に遠心調
やすため,1% 程度の低い熱効率であった.イギリ
速機(1789)を導入して回転速度を安定させる工夫
スには石炭が豊富にあるが,18 世紀に入り石炭を
をしたが,不安定になることがあり,その原因を追
蒸し焼きにして煙が少ないコークスを用いた製鉄法
究するところから制御工学が生まれてきたのであ
が開発された.ちなみに蒸気機関車の燃料は材木や
る.
石炭もあるが,主にコークスが使われる.また,鉄
は蒸気機関車の材料でもあり,レールの材料でもあ
る.豊富な石炭と良質の錬鉄が蒸気機関車の発展に
3. 2
はじめての蒸気機関車
1804 年 2 月 21 日リチャード・トレビシックが作
った図 5 の蒸気機関車 2 号機(Penydaran 号)は 10
トンの鉄をのせた 5 両の貨車を引き,鉄路の上を 8
km/h の速度で走った.これが最初の蒸気機関車で
ある.トレビシックが働いていたペナデランの製鉄
所の社長は友人との 500 ギニーの賭けに勝ち,製作
蒸気圧
蒸気を水に
戻す散水
バルブ
大気圧
排水
パルプ
コネクティング
ロッド
車輪駆動 クランク
U字型伝熱管 歯車
ボイラ
油井
焚き口
図4
ニューコメンの蒸気機関
図5
― 44 ―
初めて鉄路を走ったトレビシックの 2 号機
引き継がれていった.
費の元をとったという話もある.
馬で引く鉄道はそれ以前にもあったが,けん引力
クランクを利用して往復運動を回転運動に変換す
を生物によらない機械的動力で可能にしたことは,
るレシプロ機構には大きな問題点がある.それは,
まさに革新的な出来事と言えるであろう.しかし,
ピストンが押し切り,または引ききった後反転する
鉄道がすぐに認められたわけではない.それまでは
ときに,シリンダの力が回転力に転化できない死点
機関を地面に据え付けロープでけん引する定地式蒸
が存在することである.トレビシックの蒸気機関車
気機関があり,これとの競争になった.また,当時
が停車後に発進するのに苦労したのも,この死点の
は製鉄技術が未成熟で,蒸気機関車の重量が鋳鉄製
問題であった.内燃機関にも共通する問題である.
レールの強度を超えていた.また,この機関車は単
この問題は図 6 に示すように,ピストンクランク機
一シリンダであったため,クランクがたまたま死点
構を複数組み合わせ,クランク角の位相をたとえば
の位置で止まるとそこからは発進できず,投炭やレ
90 度ずらすことで解消できる.一方が死点にある
ールの補修のためたびたび停車が必要であった.
ときに,もう一方が回転力を効率よく生み出す位置
トレビシックの機関車が自走に成功したのは,シ
にあればいい.ブレキンソップはこの原理に基づ
リンダをボイラーのなかに入れて冷えないようにし
き,1812 年に 2 気筒でクランクの位相を 90 度ずら
たことと,シリンダの排気を煙突内で噴射し,煙を
すことでどこからでも発進できる機関車を製作し
吸いだす排気ブラストを付けたことにある.上限が
た.
1 気圧に限定される真空力でなく,理論上制約のな
しかし,このとき,鉄のレールと鉄の車輪との摩
い圧力が出せる蒸気圧を用いて大きな力が得られる
擦力に不安を感じたからであろうか,車輪とレール
ようにしたことも,成功の要因である.なお,通常
間が滑ることを恐れ,歯車を直線状に伸ばしたラッ
のボイラでは水管が火室内を通るのが一般的である
クレールを軌道に敷き,動輪に取り付けられた歯車
が,トレビシックの機関車のボイラは煙管がボイラ
で駆動する方式を選んだ.これは急勾配の鉄道では
の水中を通っていて逆になっている.この方式はそ
有効で,その後アブト式として使われたが,一般の
の後ずっと引き継がれている.
路面ではその必要がないことが実験で証明され,以
ちなみに,日本の鉄道が開通したのは 1872 年で
後は歯車駆動としないのが普通になった.ただし,
あるが,リチャードの息子の次男,つまり孫は 1876
必要な時には滑りを防ぐ砂を軌道上に撒けるよう,
年に来日し,歯付きレールを用いた機関車を導入す
ボイラー上に砂箱を備えている.蒸気機関車の上部
るなど 21 年間日本の鉄道で働いた.長男も 1888 年
に二つのドームがある場合,その一方には線路に撒
来日し,工作技術が未熟な日本で国産機を生み出す
く砂が入っているのである.図 7 に示すように,二
など,二人は日本の鉄道開発に忘れられない大きな
つのドームが一体になっているものもある.砂まき
功績を残したことを付記したい.
管の付いている前半分が砂箱である.
3. 3
蒸気機関車の発展
トレビシックの 4 号機は「Catch me who can」と
90°
いう名をつけ,高速走行に特化するため,縦シリン
ダーで歯車のいらない 1 軸駆動として人々の関心を
引こうとしたが,馬との競争は中止となり,その
後,転覆してしまった.その後英国では,構造がシ
ンプルな一軸駆動のシングルドライバーがしばらく
―4
5―
図6
死点の回避
図7
3. 4
図8
一体化したドーム(砂を撒く管がある)
公共鉄道の第一号機関車の出現
スティーブンソンのロコモーション号
ロコモーション号には死点を回避するために二つ
ジョージ・スティーブンソンは長男ロバートとと
の駆動用シリンダがあり,一つのシリンダで左右の
もに蒸気機関車の実用化と鉄道の発展に大きく貢献
車輪を直接駆動している.これ以降,ピストンの力
した.
をコネクティングロッドを介して直接駆動輪に伝え
ジョージ・スティーブンソンはキリングワース炭
る駆動方法が一般化する.
鉱のエンジン責任者であったが,独自に模型の機関
前後の駆動輪の間には初めて連結棒(カップリン
車を作り,売り込みのため国会の委員会に乗り込ん
グロッド)が取り付けられ,前後の車輪の回転角が
だ.誰にも相手にされなかったが,炭鉱オーナーの
一定の関係をもつようになったので,二つのピスト
サー・トーマス・リッドルに注目され機関車の開発
ン・クランク機構の間で 90 度の位相差を維持でき
を始めた.
るようになった.しかし,逆転装置はまだ不十分
蒸気機関車の発展に先立ち,鉄道の建設がある.
で,ブレーキも無かった.
1821 年にストックトンから西オークランドに至る
トラムウェイ(道路の上に軌道を敷いたもの)の敷
3. 5
レインヒル・トライアル
設が国会で承認された.動力は馬や人を想定してい
ジョージ・スティーブンソンはストックトン・ダ
た.スティーブンソンは機関車の採用を働きかけ,
ーリントン鉄道に続いてリバプール・マンチェスタ
機関車を駆動力とするストックトン・ダーリントン
ー鉄道の建設にかかわった.役員会はこの鉄道に使
鉄道の建設を訴え,1823 年ついに議会の承認を得
用する機関車を選ぶため,1829 年 10 月に賞金 500
た.同年,息子のロバートの名を冠した機関車製造
ポンドをかけたコンペがレインヒルで行われた.ロ
会社ロバート・スチーブンソン&カンパニーを設立
ケット,サン・パリール,ノベルティの 3 台が参加
し,勝ったのは図 9 に示すロケット号である.約 13
するのである.
ジョージ・スチーブンソンが開発した図 8 のロコ
トンの列車を牽いて停車時間を含め,112 km を 6
モーション号は,33 両の列車をけん引し,1825 年
時間 15 分で走り切った.最高速度は 39 km/h に達
9 月 27 日に公共鉄道を走った最 初 の 機 関 車 で あ
した.
る.速度は 10 km/h 程度であるが,蒸気機関車とそ
ロケット号は煙管の数を増やして伝熱面積を大き
れを用いた鉄道輸送が社会的に初めて認められたと
くする多管式ボイラを採用し,また火室をボイラの
いうことである.
中に埋め込むことで熱効率を向上させていた.また
― 46 ―
図9
ロケット号
図 10
シリンダの内側配置
煙室を設けて燃えカスを煙突から排出しないように
フィート 8 インチ半)の 3/4 である.スティーブン
し,排気ブラストによる負圧を均一にして燃焼を安
ソンが建設したストックトン・ダーリントン鉄道の
定化する効果を得た.シリンダは斜め 35 度に配置
ゲージは馬車鉄道のものを基にしており,この標準
していたが,シリンダの力の上下方向分力がサスペ
軌であった.
ンションのばねに影響して車体が振動を起こしたの
ブルネルは 1833 年グレートウエスタン鉄道を建
で,後に水平配置に改造された.これらの技術的改
設し,2,140 mm(7 フィート 1/4 インチ)という超
良はその後の蒸気機関車に引き継がれている.
広軌を採用した.日本の鉄道の実に 2 倍の幅であ
1830 年 9 月 15 日,リバプール・マンチェスター
る.ブルネルが超広軌を選択したのは,速く静かに
鉄道は開通式を迎え,8 両のロケット型機関車が 600
ゆれずに走れることを求めたからであるが,幅に余
人の招待客を乗せて走った.この時,不幸なこと
裕ができたことで,シリンダの内側配置が可能にな
に,地元出身の議員が制止を振り切って線路に降
った.図 10 に示すように,車軸の軸受けを外側に
り,後続の列車に轢かれて亡くなるという事故が起
配置し,2 本のシリンダを左右の車輪の間に入れ,
きてしまった.しかし,その後運転は順調に推移
かつ蒸気を制御するバルブギヤをもそこに配置し
し,1 日 7 往復の営業運転が継続された.
た.火室も広くなり,蒸気の供給量を増やせる利点
これをきっかけに,鉄道の有効性が認識され,蒸
がある.
気機関車は社会に受け入れられ,大きく発展してゆ
広軌であればシリンダを車体フレームの内側と外
くことになった.トレビシックが最初の機関車を走
側に配置する 4 気筒化ができ,さらに強力な推進力
らせてから蒸気機関車が社会に受け入れられるま
が得られる一方で,カーブを曲がることが難しくな
で,実に 1/4 世紀かかったことになる.その間,多
る.
ここで,カーブの曲がり方について説明する.鉄
くの改良がなされ,受け継がれていった.
道のカーブの曲率半径は道路に比べて大きいが,そ
3. 5
ゲージバトル
れでも内と外の車輪の走行距離の差が発生する.ゲ
日本の鉄道のゲージ,すなわち軌間(左右のレー
ージが広いほどこの差は大きくなる.鉄道の車輪は
ルの内側の間隔)は 1,067 mm(3 フィート 6 イン
自動車と異なり左右の車輪は車軸で固定されている
チ)であり,国際的な標準軌である 1,435 mm(4
ので,この差を回転数の差で吸収することができな
― 47 ―
図 11
テーパーによる接触円直径の変化
458
図 13
クルー工場の 1 フィート 6 インチゲージ
ムが背景にあったことも無視できない.
図 12
1850 年代までは標準軌が最低限の幅と考えられ
テーパーによるカーブ通過の原理
ていた.しかし,採算性から狭軌の優位性を評価す
い.このため,次のような方法で解決している.
る気運が生じた.1844 年,ベルギーでは 1100 mm
図 11 に示すように,車輪の踏面は 1/20 勾配のテ
ゲージの鉄道が開通している.1855 年オーストラ
ーパーをつけて円錐状にしてある.直線路では車輪
リアでは 1106 mm ゲージの馬車鉄道に蒸気機関車
がレールに対して右に寄れば右車輪の接地円直径が
が導入された.
左より大きくなり,車輪は左に向く.左に寄れば逆
3 フィート 6 インチゲージはカール・アダムス・
のことがおきる.したがって,自動的に線路の中央
ピールによってノルウェーで発祥し,世界的に広が
を走行するようになる.また,図 12 に示すよう
ったものである.氷河が削り出したフィヨルドが多
に,左カーブでは車輪が直進すると車輪がカーブの
いこの国では,小回りが利く狭軌の鉄道が適してい
外側に寄る.すると外側の車輪の接地円が大きく,
たのである.この狭軌鉄道の成功によって,ニュー
内側の車輪の接地円が小さくなって,カーブに沿っ
ジーランドにも導入され,その後植民地に広まって
て走ることができる.
いった.図 13 は工場内鉄道用蒸気機関車の例であ
ところで,同一国内でゲージが異なる鉄道が混在
る.軌間は 458 mm しかない.
することは好ましくなく,イギリス政府はゲージ委
日本では 1869 年鉄道建設の決定がなされ,翌年
員会を作り検討した結果,1845 年 12 月に標準軌と
エドモンド・モレルが技師長として来日し,建設を
広軌でコンペを行うことになった.その結果,広軌
推進したが,3 フィート 6 インチゲージは首相の大
の機関車は平均時速 95.6 km を出し勝ったが,標準
隈重信が決定した.イギリスに留学し鉄道を学んだ
軌の鉄道は当時広軌の 7 倍普及しており,その資産
井上勝からの情報が影響したと考えられる.1865
を生かすため,1846 年に「鉄道のゲージ規制に関
年にはノルウェーの 3 フィート 6 インチ軌道で時速
する法律」が作られ,1892 年には標準軌に統一さ
56 km の運転がなされており,狭軌軌道に対する評
れている.しかし,世界では各国が独自のゲージを
価が高かった時代背景がある.
選択しており,ゲージは統一されていない.
なぜ日本は 3 フィート 6 インチのゲージを選んだ
5.まとめ
のであろうか.ひとつは費用が安くて済むこと,も
最初に述べたように,私は鉄道から多くの機械に
う一つは山間部が多くてまっすぐな軌道がとれない
関する知識を得たが,本稿ではそれを書ききれない
地勢が原因であろう.それとともに,狭軌化のブー
ので,次の機会に述べたい.蒸気機関車は機械技術
― 48 ―
の発展に大いに貢献し,消えていきつつある.しか
参考文献
し,個々の技術は継承され生かされている.従来は
斎藤晃,蒸気機関車 200 年史,NTT 出版,2007
機構で解決していたことが,現在では電子・制御技
術で実現でき,機構ではできないことも可能となる
細川武志,蒸気機関車メカニズム図鑑,グランプリ出
版,1998
片野正巳,1 号機関車から C 63 まで,NEKO PUB. Co.
場合が多々ある.しかし,原点は積み上げられた機
構の技術にあることを忘れないようにしたい.
Ltd, 2005
蒸気機関車スタイルブック
蒸気機関車全史漓,滷
―4
9―
機芸出版社,1966
学習研究社,2006