パネル発表要旨集 - 東南アジア学会

東南アジア学会第 95 回研究大会 大阪大学・豊中キャンパス
6 月 5 日(日)パネル発表要旨集
08:30 受付開始
パネル1
[2階ロビー]
高校世界史における東南アジア関係用語の厳選 その3
9:00-11:30
[第1番講義室]
司会
八尾隆生(広島大学)
趣旨説明
中村薫(大阪大学・招へい教員)
報告①
世界史用語厳選の必要性
中村薫
報告②
東南アジア用語リスト改訂版の作成過程と課題
青山亨(東京外国語大学)
報告③
用語解説の例示
深見純生(世界史 B 執筆者)
報告④
用語リストにもとづく教科書記述の例示
桃木至朗(大阪大学)
討論者
パネル2
後藤誠司(京都市立日吉ケ丘高等学校)
、川島啓一(同志社高校)
宗教実践における声と文字―東南アジア大陸部から考える―
9:00-11:30
[第2番講義室]
司会・趣旨説明 村上忠良(大阪大学)
報告①
タイにおける漢文経典朗誦
片岡樹(京都大学)
報告②
現代ミャンマーにおける在家仏教徒の朗誦専門家たち
小島敬裕(津田塾大学)
報告③
タイ系民族の仏教文書文化からみたシャンの在家朗誦
村上忠良
報告④
仏教ポー・カレン文字の成立過程とプータマイッ伝説の再検討
池田一人(大阪大学)
討論者
山根聡(大阪大学)
11:30-12:30 昼食休憩
1
パネル3
Beyond Boundaries ―〈比較〉で考える、
〈比較〉を考える―
12:30-15:00
[第1番講義室]
司会・趣旨説明 加藤剛(東洋大学・客員研究員)
報告①
〈ヤシガラ椀〉の外をフィールドで学ぶ―東南アジア大陸山地民研究再考―
片岡樹(京都大学)
報告②
東南アジア海民論と二つの比較―地域研究的越境の試みとして―
長津一史(東洋大学)
報告③
東南アジア多元共生社会のさらなる展開―LGBT という〈想像の共同体〉の
誕生?―
岡本正明(京都大学)
討論者
パネル4
清水展(京都大学)
朝日新聞秘蔵写真が語る「大東亜共栄圏」
12:30-15:00
[第2番講義室]
司会・趣旨説明 早瀬晋三(早稲田大学)
報告①
朝日新聞秘蔵写真の仏印関連写真
菊池陽子(東京外国語大学)
報告②
日本占領下インドネシアをめぐる「報道」と「宣伝」の狭間で―朝日新聞秘蔵
写真は誰が撮影し、どのように利用されたのか―
姫本由美子(トヨタ財団)
討論者
パネル5
根本敬(上智大学)
、加納寛(愛知大学)
直接選挙時代のインドネシア地方政治
12:30-15:00
[第3番講義室]
司会・趣旨説明 見市建(岩手県立大学)
報告①
インドネシアにおける改革派リーダーの台頭―「創造都市」バンドンを事例に―
金悠進(京都大学・院生)
報告②
「ローカル・ポピュリスト」の台頭―2015 年東ジャワ州統一地方選挙の分析
から―
見市建
報告③
インドネシアの地方自治体による保健医療無料化政策―非エリート層と手を
組む地方指導者の台頭―
長谷川拓也(筑波大学)
討論者
永井史男(大阪市立大学)、増原綾子(亜細亜大学)
15:00-15:15 休憩
2
パネル6
メディアを通した文化表現の地域性を考える
15:15-17:45
[第1番講義室]
司会・趣旨説明 福岡まどか(大阪大学)
報告①
ビルマの近現代歌謡―メディアを通して生まれる歌謡―
井上さゆり(大阪大学)
報告②
フィリピンのゲイ・コメディ映画に投影された家族のかたち
山本博之(京都大学)
報告③
インドネシア映画における地方性の表象―1980 年代から現代への変化―
小池誠(桃山学院大学)
報告④
農村のポピュラー文化―グローバル化と伝統文化保存・復興運動のはざま―
馬場雄司(京都文教大学)
報告⑤
ルークテープ人形の流行―人形向け航空券の販売報道をめぐって―
津村文彦(名城大学)
討論者
パネル7
福岡まどか
都市誌の可能性―都市を地域研究するとは?―
15:15-17:45
[第2番講義室]
司会
日向伸介(静岡大学)
趣旨説明
長田紀之(アジア経済研究所)
報告①
20 世紀初頭のバンコクにおける都市農地と下肥
岩城考信(呉工業高等専門学校)
報告②
ヤンゴンの脱植民地化過程の解明に向けて
長田紀之
報告③
近代仏教建築のつくる都市景観から見るコロンボとアジアの都市間ネットワーク
山田協太(京都大学)
討論者
パネル8
遠藤環(埼玉大学)、藏本龍介(南山大学)
インドネシア「国家英雄」認定に見る国民統合、地方と民族の現在
15:15-17:45
[第3番講義室]
司会・趣旨説明 金子正徳(東洋大学・客員研究員)
報告①
国家英雄制度の誕生と展開
山口裕子(北九州市立大学)
報告②
反転像として立ち上がる「真の英雄」―認定取り消しを求められたバリ人国家
英雄をめぐって―
中野麻衣子(東洋英和女学院大学・非常勤講師)
3
報告③
新たな英雄が生まれるとき―国家英雄の認定と西ティモールの現在―
森田良成(大阪大学・特任研究員)
報告④
「地域英雄」の誕生と「地域」社会統合―インドネシア共和国・ランプン州の事例―
金子正徳
報告⑤
「創られた英雄」とそのゆくえ―スハルトと「3 月 1 日の総攻撃」―
横山豪志(筑紫女学園大)
討論者
津田浩司(東京大学)、信田敏宏(国立民族学博物館)
17:45 閉会の辞
東南アジア学会会長
[第5番講義室]
青山亨(東京外国語大学)
4
東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル1
第 1 番講義室 9:00-11:30
高校世界史における東南アジア関係用語の厳選 その3
司会
八尾隆生(広島大学)
趣旨説明
中村薫(大阪大学・招へい教員)
報告①
世界史用語厳選の必要性
中村薫
報告②
東南アジア用語リスト改訂版の作成過程と課題
青山亨(東京外国語大学)
報告③
用語解説の例示
深見純生(世界史 B 執筆者)
報告④
用語リストにもとづく教科書記述の例示
桃木至朗(大阪大学)
討論者
後藤誠司(京都市立日吉ケ丘高等学校)
討論者
川島啓一(同志社高校)
5
東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル1
第 1 番講義室 9:00-11:30
趣旨説明
中村薫(大阪大学招へい教員)
1949 年、それまでの東洋史と西洋史が統合されて世界史という科目は登場したが、当時
発行された世界史教科書では、ヨーロッパと中国の記述がほとんどであった。その後、学習
指導要領の改訂に伴い、西アジアや南アジア、さらに「従来周辺と考えられていた地域」で
ある東南アジアも扱われることになり、世界史教科書に記述されている東南アジアに関す
る歴史用語は下の表に示したように飛躍的に増えた。しかし、実際に増えたのは、古代の諸
国家(王朝)の名称などであり、このことが東南アジアは「複雑で覚えにくい」地域として
高校教員が教えることを敬遠する要因の一つになったと思われる。
本パネルでは、世界史における東南アジア関係の用語を厳選かつ階層化することにより、
東南アジアを理解するためにはどのような用語が記述されることが望ましいかを示し、あ
わせて現在 4000 近い用語が記述されている世界史教科書の用語厳選の基準作りにも貢献し
たいと考えている。
表 『詳説世界史』における東南アジア関係の用語数
東南アジア
1951 年
1959 年
1964 年
1973 年
1983 年
1994 年
2003 年
2013 年
63
89
93
108
143
186
176
183
6
東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル1
第 1 番講義室 9:00-11:30
報告①
世界史用語厳選の必要性
中村薫(大阪大学招へい教員)
2014 年 11 月、文部科学大臣は中央教育審議会に 2022 年 4 月から実施される次期学習指
導要領について諮問し、15 年 8 月には地理歴史科の必修科目として「地理総合」
(仮称)と
「歴史総合」
(仮称)という新科目が設定されることになった。その後新科目の内容の議論
が深められており、
「歴史総合」では、現代的な諸課題の背景にある歴史について、近現代
史の歴史の転換の視点として近代化・大衆化・グローバル化に着目するとされている。
現行の「世界史 B」は新選択科目(案)「歴史に関わる探究科目」として、新必修科目で
習得した「歴史の学び方」を活用して追究、探究を深める科目とされ、諸資料を活用して歴
史を考察して表現することが重視され、歴史用語についても、研究者と教員との対話を通じ
て、歴史を考察する手立てに着目するなどして構造化を図るとされている。
資料を活用して歴史を考察するという方針のもとでは、従来のような歴史用語が充満す
る教科書のもとで、高校教員が用語の暗記中心の講義型授業を行うという形態は当然なが
ら変わらざるを得ない。それでは、どのように用語を選択した教科書を作成するか、このこ
とが今後高校の世界史教育で問われることになると思われる。
我々東南アジア用語集検討会では、本パネルにおいて、高校世界史で高校生が学ぶ東南ア
ジア関係の用語を、基礎・標準・発展用語に構造化し、さらに現場の高校教員が使えるよう
に用語解説のサンプル、さらにその用語を使った「教科書」のサンプルを提示したいと考え
る。
7
東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル1
第 1 番講義室 9:00-11:30
報告②
東南アジア用語リスト改訂版の作成過程と課題
青山亨(東京外国語大学)
本報告では、世界史用語の厳選の必要性を示した第 1 報告を踏まえて、高校世界史教育
における東南アジア関連用語の厳選リスト改訂版の作成過程と課題について説明を行う。
本パネルで提示する用語リスト案は、昨年の第 93 回研究大会のパネル「高校世界史におけ
る東南アジア関係用語の厳選 その 2」で公表したものに、いただいた意見を検討のうえ反
映させた改訂版である。したがって、用語リスト作成にあたっての基本方針は前回と大きく
変わるところはない。改めてその要点を示すと以下のとおりである。
1)
高等学校歴史教育研究会(2014 年)が公表した世界史用語の厳選リスト 2000 語に
含まれる東南アジア関係用語および桃木会員による基礎リストをもとに検討をおこ
ない、総計 327 語を厳選した。
2)
検討のプロセスにあたって、従来のヨーロッパ中心史観に捉われない用語の採用、
東南アジアの事象としてより正確あるいは的確な用語の採用、時代の特徴を集約す
る用語の採用を目指すとともに、慣行的に使われてきた不正確な表記あるいは統一
性のない表記の是正をおこなった。
3)
高校生の学習ニーズにあわせて、①市民的教養として最低限知ってもらいたい基礎
レベルの用語(75 語)
、②大学進学予定者には必ず知ってもらいたい標準レベルの
用語(100 語)
、③標準レベルを超えて知っておくことが望ましい発展レベルの用語
(151 語)の 3 レベルに区分した(数値は暫定値であり、5 月開催予定の研究会の検
討を経て確定の予定)
。
4)
検討作業の効率性を考え、暫定的な時代区分として、①自然と社会、②1500 年以前、
③1500 年以降、④1800 年以降、⑤1945 年以降の 5 区分を設けた。
前回公表した用語リストに対してはおおむね肯定的な評価をいただいた。報告のなかで
は、その要点および個別的な意見への対応ならびに残された課題について明らかにしたい。
当然のことながら、世界史用語の厳選はそれ自体が目的なのではなく、日本学術会議の提
言(2011 年、2014 年)が述べているように、世界史教育のあり方を知識詰め込み型の教育
から思考力育成型の教育へと転換することを目的として、そのための環境を整備すること
が狙いである。ここに厳選された世界史用語はあくまでもガイドラインであり、さらに、ガ
イドラインをもとに、思考力育成につながる形での、大学入試問題の作成、世界史教科書の
執筆、高校での世界史教育が実現して初めて本来の目的が実現したことになる。これらに向
けての試みについては本パネルの第 3 報告および第 4 報告で取り上げる。
8
東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル1
第 1 番講義室 9:00-11:30
報告③
用語解説の例示
深見純生(世界史 B 執筆者)
本報告では、きたるべき用語集の原稿となることを意識して、いくつかの用語解説の例を
提示する。
用語やその内容において既存の用語集(山川、実教)とのずれが目立つものからとくに選
んでみた。
「大交易時代」
(大航海時代ではなく)
、
「香薬(香料・香辛料)」
(香料・香辛料で
はなく)
、
「ジャーヴァカ」
(三仏斉に代えて)など、いくつか前回のパネル 2 で説明してい
るものもあるが、今回は用語集としての体裁を意識してまとめてみた。
場合によっては、通常の(簡潔な)解説に、やや詳しい説明を加える。それは、実際の授業
のなかでは取りあげる必要のないような、類似用語との関係(類似用語を見出し語として採
用しない理由)などであり、また、その用語の周辺地域との関係や東南アジアの現在におけ
る意味に触れることもある。
この用語集はなにより教育現場の先生方の役に立つものをめざしている。そのためにと
くに現場の先生方から意見をお寄せねがいたい。
9
東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル1
第 1 番講義室 9:00-11:30
報告④
用語リストにもとづく教科書記述の例示
桃木至朗(大阪大学)
報告者は帝国書院の世界史 B 教科書を4期にわたって執筆し、東南アジア史や海域アジ
ア史、世界の一体化におけるアジアの位置などの記述を担当してきた。東南アジア史の記述
は、大学教養課程で 20 年以上続けている東南アジア通史の授業プリントや、『世界史リブ
レット』その他でおこなってきた一般向け・高校教員向けの解説と、相互に影響を与えあっ
ている。
本報告では、歴史の構図や歴史認識のパラダイムにかかわる説明と表記・表示法の工夫な
ど、当初からの課題に配慮するだけでなく、2014 年に「高等学校歴史教育研究会」報告書
の中で公表された史料や問いかけを含む世界史 B 教科書の記述例(鳥越泰彦・小川幸司両
氏の作)も参考にしながら、用語リストを踏まえた教科書記述の実例を提示したい。それは、
文科省で検討されている新型入試や新指導要領施行後の世界史教育に使えるものでなけれ
ばならない。
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル2
第2番講義室 9:00-11:30
パネル 宗教実践における声と文字―東南アジア大陸部から考える―
司会
村上忠良(大阪大学)
趣旨説明 村上忠良
報告①
タイにおける漢文経典朗誦
片岡樹(京都大学)
報告②
現代ミャンマーにおける在家仏教徒の朗誦専門家たち
小島敬裕(京都大学)
報告③
タイ系民族の仏教文書文化からみたシャンの在家朗誦
村上忠良
報告④
仏教ポー・カレン文字の成立過程とプータマイッ伝説の再検討
池田一人(大阪大学)
討論者
山根聡(大阪大学)
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル2
第2番講義室 9:00-11:30
趣旨説明
村上忠良(大阪大学)
長い歴史のなかで「書かれた聖典」を有する諸宗教を受容してきた東南アジア地域では、
聖典(経典)とともにもたらされた文字が、単に音声言語を表記する技術にとどまらず、口
承を中心とした土着の宗教世界を変容させ、また人々の歴史意識や民族意識にも大きな影
響を与えてきた。しかし、それにもかかわらずこの地域においては口承を中心とした「声」
の宗教実践が根強く息づいている。このような現状を考えると、
「声」
(口承)に対する「文
字」
(書承)の優越性や、
「声」から「文字」への一方的な変化という構図では、東南アジア
地の宗教の様態を分析するには不十分である。「声」か「文字」かの二項対立的な思考では
なく、この地域における「声」と「文字」をめぐる宗教実践の様態を再検討する必要がある。
このような観点から、東南アジアと隣接地域(南アジア・東アジア)との比較を視野に入れ
た「声と文字をめぐる宗教実践の研究―東南アジアと隣接地域の比較」(科学研究費補助金
15H03282)の研究会を行ってきた。本パネルは、この科研研究会の中で、東南アジア大陸
部の諸仏教徒の宗教実践を研究するメンバーによって構成されている。比較的近接した地
域・民族・宗教伝統間での聖典(経典)をめぐる「声」と「文字」の宗教実践の比較から、
その共通性と差異を明らかにすることを目的としている。その一方で南アジアのイスラー
ムを専門とするメンバーを討論者としてパネルに加え、地域間・宗教間の比較の視点も取り
入れる。
第 1 報告(片岡)では、タイ国の漢文経典の誦経実践を文字知識だけではなく、朗誦方法
(
「声」
)に加え、朗誦儀礼での身体作法などを含みこんだ総合的な宗教的行為であると論じ、
経典リテラシーの概念を批判的に検討する。第 2 報告(小島)では、ミャンマーの仏教徒諸
民族にみられる在家仏教徒の「仏典」朗誦に焦点を当て、出家者(僧侶)中心とみなされて
きた経典の実践を再検討し、また在家者の朗誦実践がどこまでテキストに依拠するかとい
う点から朗誦文化の民族間比較を行っている。第 3 報告(村上)では、シャンの仏教徒の仏
教書朗誦の特徴について、タイ国を中心としたタイ系仏教徒との比較から検討し、朗誦形態
や仏教を取り巻く社会的状況が差異を生み出していることを論じる。第 4 報告(池田)で
は、ミャンマーの仏教徒ポー・カレンが仏教聖典を記述するポー・カレン文字の普及過程の
考察から、民族形成の基礎となったとされるカレン文字ネットワークがもつ歴史的意味の
再検討を行っている。
本パネルの着目点は、1.声と文字の輻輳状況、2.特定の社会状況の中での経典・聖典・
仏教文書の運用形態である。そして、声と文字の実践の中で変化する経典・聖典・仏教文書
の様態が歴史的・社会的状況の中で聖なるものを生み出している点を通して、従来自明とさ
れていた宗教リテラシー(あるいは宗教オーラリティ)観、仏教的知識の伝承形態、民族形
成のプロセスの見直しの可能性が提示される。
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル2
第2番講義室 9:00-11:30
報告①
タイにおける漢文経典朗誦
片岡 樹(京都大学)
タイ国においては、中国廟や大乗仏教寺院を中心に漢文の経典が用いられている。これら
の誦経に際し用いられる言語は、ベトナム語、潮州語、福建語、五音(中国語の各方言を混
ぜ合わせた人工言語)
、北京官話などさまざまである。本報告ではそのうち、バンコクを中
心に通用している五音を主に事例にとりあげ、誦経知識の獲得・継承という点から声と文字
の問題を考えてみたい。
五音とは、広東地方で用いられていた南部訛りの北京音をベースとし、それを用いる僧侶
の母語に応じて広東語、潮州語、客家語などの読み方が混入したものである。さまざまな方
言を無差別に混合した結果、この言語は意思疎通の手段としてはまったく機能しておらず、
タイ語で「パーサー・プラ(僧侶の言語)」と呼ばれるように、五音は経典を読みあげる場
合に限って用いられる言語である。五音知識は当初は僧院内での秘儀的な師弟間継承によ
って維持されてきたが、1980 年代にバンコクの経典印刷所がタイ文字ルビ版の印刷を開始
し、それ以降は五音知識が急速に普及・大衆化している。
では、
「五音を知っている」とはどのような事実をさすのか?そもそも五音というのは母
語話者をもたない言語であり、しかも複数の中国語方言を恣意的に混用するため、ルビの助
けがないと読めないテキストとなっている。これはようするに、現在の五音知識が、タイ語
識字力を前提とし、それに寄生して維持されていることを意味する。極論すれば、タイ文字
ルビが読めれば漢文テキストは必須ではない。そのため、普及用の経典パンフレット類には
タイ文字のみで表記された五音テキストが多く存在する。特にポピュラーなのは真言のみ
によって構成される「大悲咒」であるが、ここでは五音テキストは、梵語のタイ文字表記と
いう形態をとるに至る。
ただし、五音知識=タイ語識字力というわけではない。五音は経典言語であるがゆえに、
単に文字が読めるだけでは歯が立たないからである。五音に限らず漢文経典の朗誦は、特有
の旋律や楽器の併用など音楽性が強い。そこではメロディーを整えるためにテキストにな
い語句を挿入したり、一部の語句を反復したりするため、そうしたテキストに書かれざる因
子に習熟しないかぎり、
「五音を読める」ことにはならない。
これらを端的に示す例が、施餓鬼会(中元普度)などで用いられる、高度に複雑化した儀
礼テキストである。施餓鬼のテキストは、タイ国の大乗経典において最も難度の高いものと
されている。そこでは読経以外に合唱、独唱、起立、着席、さらには一連の印を結ぶ所作な
ども求められる。つまりここで争点になっているのは、もはや声か文字かという二者択一で
はない。身振りを含めて体全体で覚える総合的パフォーマンスこそが、タイ国において「五
音を読める」知識の頂点に位置しているのである。
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル2
第2番講義室 9:00-11:30
報告②
現代ミャンマーにおける在家仏教徒の朗誦専門家たち
小島敬裕(津田塾大学)
本発表では、現代ミャンマーの仏教徒諸民族に見られる在家の朗誦専門家に注目し、その
実践における声と文字の関係の動態を、世俗社会との関わりから考察する。
発表者は今まで、中国雲南省のミャンマー国境に面した徳宏州瑞麗市で定着調査を行っ
てきた。瑞麗市の人口の多数を占める徳宏タイ族は、大部分が上座仏教徒であるが、他地域
と比較して出家者数がきわめて少なく、出家者が止住しない寺院も多いという特徴が見ら
れる。そうした状況において、在家の仏典朗誦専門家ホールーが、仏教儀礼に不可欠な役割
を果たしている。こうした実践のあり方は、出家者が説法するのが一般的な上座仏教徒社会
の他地域と比較すると例外的に見える。ではホールーのような在家の朗唱専門家は、徳宏に
仏教をもたらしたミャンマーには存在しないのだろうか。また徳宏では、仏典に書かれた文
字をホールーが声で朗誦するスタイルをとるが、他地域ではどうなのか。本発表では、これ
らの問題の解明によって、仏教実践における声と文字の関係を考察する。
上座仏教徒社会における朗唱の実践を扱った研究では、北タイやラオスにおいて、仏典に
書かれたジャータカを在家者に語り聞かせる事例が報告されているが、その担い手は出家
者である。ミャンマーに関する先行研究は、僧侶の説法を記録した書籍や DVD が消費され
る現象について報告しているが、少数民族地域での調査はほとんど行われてこなかった。
そこで発表者は、2012 年から 2015 年にかけて、ミャンマー各地の仏教徒のうち主要 10
民族(シャン、パラウン、モン、ビルマ、パオー、カレン、ダヌ、タウンヨー、インダー、
ヤカイン)の調査を実施してきた。本発表では、その調査結果の一部を報告する。
まず調査によってわかったのは、10 の仏教徒諸民族のうち、ダヌを除く 9 民族に在家の
朗唱専門家が存在することである。こうした在家専門家による朗誦は、近年では衰退に向か
いつつあるものの、ミャンマーでは普遍的な実践形態だったことがわかった。
しかし、朗唱専門家による声と文字の実践の関係は、民族や地域によって異なり、また時
代によっても変容する。ブッダの時代、専ら声によって行われていた説法は、時代を経て文
字に記録されるようになる。特に近代以降は、書物の文字を目で読み、仏法を学ぶ傾向さえ
生じた。一方、少数民族仏教徒の実践に目を向けると、声から文字への一方向的な変化では
とらえきれないことがわかる。パオー族のモーのように、以前は仏典に記された文字を朗誦
していたが、聴衆の好みに応じ、声のみの実践へと変化させたケースも見られる。その結果、
モーは臨機応変な対応が可能となり、聴衆の支持を得て成功を収めている。ただしモーも内
容を記憶する際には文字に記し、節回しを師から口伝で習う。パラウン族の場合、文字に記
したほうが「完全」だという理念が存在するため、仏典が用いられている。しかし各戸の仏
壇に置く仏典は目で読む訳ではなく、老人が聴きたい時に在家のタージャレーが朗誦し、寺
院で聴く。このように、文字と声の実践は相補的であることを示す。
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル2
第2番講義室 9:00-11:30
報告③
タイ系民族の仏教文書文化からみたシャンの在家朗誦
村上忠良(大阪大学)
本発表の目的は、東南アジア大陸部のシャン州を中心に居住する民族であるシャンの仏
教徒の仏教書朗誦の特徴について、タイ国を中心としたタイ系仏教徒との比較から検討を
行うものである。
東南アジアの上座仏教徒社会では、パーリ語の三蔵経典や注釈書に加えて、東南アジア地
域内で著作されたパーリ語文書、ローカルな民族語・地域語によって書かれた仏教説話など
の仏教に関わる文書を継承してきた。これらの仏教文書は仏教的功徳の源泉と見なされて、
宗教儀礼やその他の特別な機会に行われる文書の朗誦を拝聴することや、文書を供物とし
て寺院に供えることが積徳となるとされる。このような仏教文書に関わる実践は、書かれた
テキストの内容とともに、文書の存在意義を構成している。ベルクウィッツらは、仏教文書
の崇拝、奉納、朗誦、書写、保存、文字知識の継承と口頭での上演といった宗教実践を「仏
教文書文化」
(Buddhist manuscript culture)と呼び、新しい仏教文書研究の方向性を提示し
ている[Berkwitz et. al. 2009]。
本発表では、このような仏教文書文化研究の一つとして、シャン語・シャン文字で書かれ
た仏教文書の朗誦を研究対象として取り上げ、その特徴をタイ系仏教徒の仏教文書文化と
の比較より考察する。ローカルな民族語や地域語で書かれた仏教文書は、しばしば在地の
「仏教文学」というカテゴリーのもとで、文学(史)研究の分析対象とされてきた。しかし、
伝統的に朗誦と拝聴によって人々に享受されてきた仏教文書は、記述された内容を読者個
人が黙読を通して受容し、鑑賞するという近代文学の作品とは性格を大きく異にしている。
本発表では、シャンの仏教文書の諸特徴の中で朗誦という声を媒介としたテキストの享
受(共有)の形態に注目し、読み手(朗誦者)や聴き手(拝聴者)の関係について検討して
みたい。シャンの仏教実践の一つの特徴として、出家者(僧侶)だけではなく、在家信者が
仏教儀礼などの機会にシャン語・シャン文字で書かれた仏教文書の朗誦を行い、それを拝聴
することは僧侶の誦経や説法を聴くことと同様に功徳を積む行為であるという点が挙げら
れる。
シャンと同じく、タイ国内のタイ系仏教徒の間においても僧侶以外の仏教文書朗誦の実
践があり、文書朗誦の知識は在家信徒もそれを担っており、シャンの仏教文書の朗誦との共
通性を見ることができる。一方で、タイ国内のタイ系仏教徒の在家朗誦は現在ほとんど見ら
れなくなったが、シャンの在家朗誦は依然としてシャン州を中心として行われている。この
違いについては、同じ朗誦文化であっても実践形態の違いが大きく影響していることを指
摘する。また、タイ国内の仏教とシャンの仏教をめぐる社会的状況の違いを反映していると
考えられる。
15
東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル2
第2番講義室 9:00-11:30
報告④
仏教ポー・カレン文字の成立過程とプータマイッ伝説の再検討
池田一人(大阪大学)
現代ビルマの少数民族カレンの一サブグループであるポー・カレンの仏教徒にとって、
声と文字が結びつく宗教実践の基礎を提供してきた「聖典」
、そしてその聖典が書かれる
「ポー・カレン文字」自体も、それが展開してきたビルマ南東部パアン平野の 2 世紀ばか
りの歴史空間の中に再定置してみると、決して自明な存在ではない。
本発表は、ポー・カレンを名乗る人々、東部ポー・カレン語を話す人々にとって、仏教ポ
ー・カレン文字がどのような意味を持ち得てきたのか、従来の理解を批判的に再検討する
ことを目的とする。
現代ビルマの少数民族カレンという一見強固に見えるコミュニティの形成過程を論じる
際、W. Womack はその下位サブグループに多様な範囲と密度・質で流通する計 10 種以上
の文字の歴史的ネットワークがあったことに注目し、このネットワークの集合体としての
カレンの民族形成を論じた。このうち最大の使用人口を誇るキリスト教スゴー文字は 1832
年に米人宣教師 Wade によって考案され、キリスト教ポー文字も同じく Wade によって創
始され Brayton が完成させた。また、この地にはカレンの宗教運動が諸種見られ、レーケ
ーは「鶏の足掻き文字(ライサンホエ)
」を 1 世紀以上保持している。
仏教ポー・カレン文字はキリスト教系の文字よりも古い起源があるらしい。その文字の
創始は伝説的な仏僧プータマイッと結びつけられ語られる。パアン平野出身で若くして僧
を志したがカレンであるために許されず、王都アヴァでビルマ王の格別の許可を得て仏門
に入りやがて羅漢に叙せられる。コンバウン前期あるいは中期、平野に戻って開山し、ポ
ー文字を考案して周囲の僧院に広めたという。この文字の仏典で現存最古は 1851 年と目
される。Womack はプータマイッを「ポー・カレン・サンガ」の原点として論じ、その文
字の使用を声の実践とともに位置付けることを求める。むろん、20 世紀カレン民族主義か
らは源流とみなされる。
しかしこの文字体系は、創始の当時からかくも「ポー・カレン」というこだわりを込め
て創られ、使用されたのか。
報告者の現地調査から、ポー・カレン文字が実際にポー・カレン語話者一般に広がった
のは 1970 年代以降であったことがわかる。平野東部の山地国境域はカレン叛徒とビルマ
国軍とが対峙する最前線であったが、ポー文字講習会の拡大・定着は戦闘激化・膠着化、
カレン民族主義感情の高まりと軌を一にする。それ以前、ポー文字は僧院の中の経典文字
として、ごく限られた僧侶の所有物に過ぎなかった。とすれば、当初この文字に込められ
ていたのは、
「カレン」というセンチメンツではなく、タータナー(仏の教え)世界にポ
ー語話者を結びつけるという意図ではなかったか。この仮説の立証には、文字成立を証言
する諸史料の再検証・再解釈という地道な作業が必要となる。
16
東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル3
第1番講義室 12:30-15:00
Beyond Boundaries ―〈比較〉で考える、
〈比較〉を考える―
司会
加藤剛(東洋大学・客員研究員)
趣旨説明 加藤剛
報告①
〈ヤシガラ椀〉の外をフィールドで学ぶ―東南アジア大陸山地民研究再考―
片岡樹(京都大学)
報告②
東南アジア海民論と二つの比較―地域研究的越境の試みとして―
長津一史(東洋大学)
報告③
東南アジア多元共生社会のさらなる展開―LGBT という〈想像の共同体〉の
誕生?―
岡本正明(京都大学)
討論者
清水展(京都大学)
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル3
第1番講義室 12:30-15:00
趣旨説明
加藤剛(東洋大学アジア文化研究所・客員研究員)
東南アジア研究、ナショナリズム研究において世界的に著名なベネディクト=アンダー
ソン・コーネル大学名誉教授が、昨年 12 月、旅行中の東ジャワで急逝した。亨年 79。彼の
知的遍歴を記した本は『ヤシガラ椀の外へ』
(NTT 出版、2009)と題して日本で出版され、
その改定版ともいえる A Life Beyond Boundaries: A Memoir がイギリスの Verso から 5 月
に出版予定である。ここでいう「ヤシガラ椀」とは、インドネシア語・タイ語の諺「ヤシガ
ラ椀の下のカエル」に由来する。伏せたヤシガラ椀の中に閉じ込められたカエルは、やがて
この状態に慣れてしまい、椀の狭い空間が全世界だと思い込むようになるとの寓意だ。
『ヤシガラ椀の外へ』は、日本の若い研究者ならびに研究者の卵に向けて書かれた。学部
といった大学の制度やディシプリン、自分が専門とする地域/国、あるいは偏狭なナショナ
リズムがともすれば押し付ける知の境界や好奇心の境界、思考やディスコースの定型から
跳び出し、若者よ、椀という港から出帆し自由な発想の風を求めて知的冒険の旅に出よう、
との意が、Beyond Boundaries、
「ヤシガラ椀の外へ」には込められている。旅で助けとなる
ス
ト
レ
ン
ジ
ネ
ス
のが〈比較〉だ。それは、フィールドワークを通して「何かが違う、何かが妙だ」と感じ、
ア
ブ
セ
ン
ス
「あるべきものがない」との経験に意識的になることから始まる(「第4章
比較の枠組
み」
)
。考えてみれば、自分の母語とは異なる言葉を以って「他者」について研究する地域研
究には、本来的に〈比較〉の芽が備わっている。それを育てるかどうか、どう育てるかは、
われわれ自身に掛かる。
本パネルでは、アンダーソン教授追悼の意味を込めて、
〈比較〉という研究の枠組みに焦
点を当てる。いわいる「比較研究」
、例えば一人の研究者によるインドネシア政治とタイ政
治の比較や同一テーマをめぐる異なる地域/国に関する個別発表に基づくパネル内比較は、
ここでの考察の外におく。取り上げるのは、個々人の研究者による特定研究対象に関わる
〈比較〉の枠組みであり、
〈比較〉の試みである。具体的には片岡樹(京都大学)
、長津一史
(東洋大学)
、岡本正明(京都大学)の中堅・若手研究者 3 名が、現在それぞれ関心を抱い
ている東南アジア大陸部ゾミアのラフ、東南アジア海域世界のバジャウ、インドネシアの
LGBT(
「性的マイノリティ」
)について、比較の視点を意識しつつ話す。いずれもが国家の
周縁に位置しながら、同時に、
「想像の共同体」ともいえる LGBT を含めて、国家の「境界」
(boundaries)を跨いで/超えて存在する。これらの社会の研究において、どのような比較が
試みられたのかあるいは試みられなかったのか、それによってなにが見え、なにが見えなか
ったのか、今後どのような比較が考えられるのか等について検討する。総合討論では、〈比
較〉が持つ可能性や〈比較〉の比較に繋がる議論も展開できたらと考えている。
特定の研究テーマや歴史時代、あるいは地域/国を軸に設定したパネルではないため、寄集
めともみえるパネルだが、このパネルの設定自体が、ある意味、われわれにとって知的冒険
への旅立ちだと捉えたい。地域研究における〈比較〉の重要性をあらためて認識し、なによ
りも「
〈比較〉は面白い!」とのメッセージを発信することができればと思う。
18
東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル3
第1番講義室 12:30-15:00
報告①
〈ヤシガラ椀〉の外をフィールドで学ぶ―東南アジア大陸山地民研究再考―
片岡樹(京都大学)
『ゾミア―脱国家の世界史』の著者スコットに対するアンダーソンの共感は、少なくとも
部分的には両者が共有するアナーキズムへの傾倒によって説明できるだろう。「ゾミア」と
いう言葉が急速に市民権を得たという事実は、東南アジア大陸部山地研究が一個の研究分
野として確立していること、言い換えればそれ自体が一種のヤシガラ椀と化し始めている
ことを意味している。本報告では、アナーキズム史観とは別の視点から大陸部山地社会を
(主に報告者がこれまでフィールドとしてきたラフの事例にもとづき)とらえることで、か
えって今述べたヤシガラ椀を越えた比較の視点を提示しうることを論じたい。
東南アジア大陸部を島嶼部と比較したときの最大の特徴の一つは、山地が国家の最前線に
なるという点である。山が自然の国境となることで、そこの住人はおのずと複数の国家に分
かれて帰属することになる。また山が国境になるということは、隣国との人の往来の経路が
山地民の居住圏と重なるということをも意味する。
大陸部山地民は常に国際関係の最前線に位置してきたのであれば、山地を単に国家を忌
避するアナーキーな空間と考えるだけでは不十分である。国際関係を操作し、国家の論理を
熟知し、複数の国家を天秤にかけ、場合によっては国家の足もとを見ながら交渉を行ってき
た人たちの世界として、山地をとらえ直す必要が生ずる。ここで再認識する必要があるのは、
内陸部世界において盆地国家というのは大海上の小島に等しく、ロジスティックスの生命
線を、盆地と盆地を隔てる広大な森の住人たちに依存していたという事実である。本報告で
は清朝期雲南山地でのラフと既存国家との関係や、冷戦期における移住といった事例をと
りあげながら、従来固定的にとらえられてきた山地民と国家との関係を再考する。
ラフと国家との関係を論ずるときにあわせて考察する必要があるのは、その民族帰属認
知における柔軟性である。これは特に隣接する漢民族との関係において著しい。ラフが自ら
の「王」をかついで盆地国家と対抗した、という事例において、そうした「王」は往々にし
て漢人出自である。また現在タイ国に陸路流入している雲南漢人は政府統計に際してラフ
を名乗っている。我々はどうしてもネーション・ステートの固定観念で国家や民族を見がち
であるが、そうした固定観念の修正が必要なことを、これらの事例は示している。
以上の考察は、我々をさらなる比較へと導く。それはすなわち、国家の周縁部における、
国家と無法者との関係をめぐる比較の視座である。18 世紀の鉱山開発以来雲南辺疆で生じ
てきた一連の混乱、18-19 世紀のシャム湾岸やメコンデルタで展開された華僑と土着民の
連合によるダイナミックな体制転換、あるいは旧海峡植民地における中国系秘密結社の活
動とそれへの対症療法として確立された領域支配、などといった事例も視野に入ってくる
だろう。このように、大陸部山地民の経験に徹底してこだわることで、東南アジア大陸部と
島嶼部、あるいは中国世界との、当初は自明に見えたはずの境界線がぼやけていくのである。
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル3
第1番講義室 12:30-15:00
報告②
東南アジア海民論と二つの比較―地域研究的越境の試みとして―
長津一史(東洋大学)
わたしは近年、東南アジア海民論の試論として二つの論文[長津 2012, 2016]を書いた。
そこでは、東南アジアの海民がしばしばクレオール集団を構成してきたことに着目し、そう
した民族生成が生じる場の政治過程やその社会空間について考えた。政治過程については
周縁性・違法性・自立性を、社会空間については持続的な混淆と在地の共生を、それぞれの
特徴として挙げた。本報告では、わたしがそうした海民論を考えるなかで、どのような比較
を設定していたのか、また東南アジア海民論のさらなる展開をみすえたとき、どのような比
較が地域研究として意味を持ちうるのかを検討してみたい。
取りあげるのは、わたしが調査を続けてきたバジャウ人である。報告ではまず、バジャウ
人の民族生成に焦点をおいた上記の海民論を紹介する。そのうえで、そこでの議論が、第一
に地域内比較を手法として展開されたこと、第二に地域間比較を念頭において構想された
ことを示す。
第一の地域内比較とは、フィールドワークに基づく約 60 の海民集落間、あるいはそれら
が位置する海域圏間の比較を指す。この空間軸での比較と変化を手がかりとする時間軸で
の比較こそが、上記の海民論の基点、つまりバジャウ人をクレオール海民という視点で動態
的に理解することを可能にした。また地域内比較では、東南アジア海域世界内の小海域――
ここでは大きく西海域(ムラカ海域・ジャワ海域)と東海域(ウォーレシア海域)に分ける
――それぞれの海民の位相にみる異同も射程におかれるだろう。
第二の地域間比較は、東南アジアあるいはアジアの異なる「地域」
、具体的にはジャワや
東アジアの「陸域世界」との比較を指す。この比較では、1980 年代以降の東南アジア海域
世界論における陸地中心史観に対する批判をわたしの海民論に接合している。その内容は、
アカデミズムにおける地域認識の相違を批判的に提示することを企図している。この容易
ならざる比較をここで無謀にも取りあげるのは、それを射程におくことなしに、地域研究に
おける東南アジア海民論の意義を示すことができないからである。
地域間比較には、もうひとつ別のかたちも想定される。つまり、海民や海域世界を一般概
念・類型として措定し、その内容や歴史過程を地域ごとに比較考察するかたちの比較である。
それは、海民や海域世界の地域性/通地域性(普遍性)
、時代性/通時代性(プロトタイプ
性)を明らかにすることになろう。この地域間比較については、東アジア海域世界を対比事
例として簡潔に展望を述べる。
【文献】1. 長津一史 2012「異種混淆性のジェネオロジー」『民族大国インドネシア』木犀
社/2. 長津一史 2016「海民の社会空間」『小さな民のアジア学』上智大学出版
20
東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル3
第1番講義室 12:30-15:00
報告③
東南アジア多元共生社会のさらなる展開―LGBT という〈想像の共同体〉の誕生?―
岡本正明(京都大学)
言うまでもなく、東南アジアには多様な宗教・宗派集団、エスニック集団が存在しており、
フォーマル、インフォーマルにせよ、また、必ずしも平等ではないにせよ、その関係を制御
して多元社会を維持する仕組みが存在している。それは、宗教・宗派的、エスニック的マイ
ノリティ集団についても当てはまる。しかし、グローバル化に伴い、こうした仕組みの再編
が徐々に、混乱をはらみながら確実に起きつつある。その一つの典型例が、欧米に始まる
LGBT 運動の東南アジアでの政治的拡大を通じたセクシュアリティの再編である。共産主
義国家ベトナムが 2015 年に同性婚禁止を撤廃したのはこうした再編の一つの現われであ
る。
ICT 社会の到来とともに、
これまでは連帯関係を作りうるとも想像していなかったゲイ、
レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダーたちが、LGBT(さらには LGBTIQ)
という性的マイノリティとしてネットワークを作り上げて一緒に行動する動きが顕著であ
る。2011 年には、ASEAN Sexual Orientation, Gender Identity and Expression Caucus(The
ASEAN SOGIE Caucus)というネットワークも誕生した。互いに知らないものまで含めて
ICT 空間を通じて新たな「想像の共同体」が東南アジアでも誕生しつつある。彼らは、国家
の制約を受けながらも、
「プライド」という LGBT フェスティバルや映画祭などを開催し始
めた。国内社会でのマイノリティゆえの差別を克服して、社会的認知を高めて権利擁護を図
るために、グローバル、リージョナルな連帯関係を構築する社会運動の様相を呈している。
しかし、タイのように LGBT の存在に寛容である社会であっても国家が積極的に同性婚
を認めるには程遠いし、イスラーム国家のマレーシアやブルネイ、イスラーム法が適用され
るインドネシアのアチェでは LGBT の存在そのものを認めようとしていない。イスラーム
にせよ、キリスト教にせよ、穏健派でさえ公的に LGBT の存在を認めることには消極的で
あり、国家にしても同様である。社会的病理と看做して、克服されるべきだと判断する声も
まだ多い。宗教的、エスニック的マイノリティと異なり、LGBT の存在を公的に認めること
は、社会の再生産にも絡むため、中長期的に国家のありよう、社会関係のありようを大きく
再編する可能性があるとの立場もあり、国家がすぐに認めるとは思えない。その点が、同じ
くグローバルな想像の共同体を作り上げたフェミニズム運動や先住民運動と異なっている。
それでは、こうしたなかで東南アジアの LGBT 運動はどのような展開を遂げてきたので
あろうか。インドネシアのトランスジェンダーの運動を中心にして、他国の LGBT 運動や
他の性的マイノリティの運動と比較しながら考えたい。これは、インドネシアの LGBT 活
動家だけでなく、LGBT を研究する者にとっても、分厚いヤシガラ椀の外に抜け出る試み
である。
21
東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル4
第2番講義室 12:30-15:00
朝日新聞秘蔵写真が語る「大東亜共栄圏」
司会
早瀬晋三(早稲田大学)
趣旨説明 早瀬晋三
報告①
朝日新聞秘蔵写真の仏印関連写真
菊池陽子(東京外国語大学)
報告②
日本占領下インドネシアをめぐる「報道」と「宣伝」の狭間で-朝日新聞秘蔵
写真は誰が撮影し、どのように利用されたのか―
姫本由美子(トヨタ財団)
討論者
根本敬(上智大学)
討論者
加納寛(愛知大学)
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル4
第2番講義室 12:30-15:00
趣旨説明
早瀬晋三(早稲田大学)
日本の敗戦後 61 年目の 2006 年に、朝日新聞大阪本社で大量の写真が「発見」された。
その多くは、戦場、占領地で朝日新聞社特派員などによって撮られた写真で、インドシナや
インドネシア関係のものが千数百葉含まれていた。ところが、2015 年 2 月に新たに数千葉
の東南アジア全域をカバーする写真があることがわかった。写真の多くには裏書きがあり、
貴重な資料となる。現在約 5000 葉のすべての文字情報を入力し、分析をすすめている。日
本軍占領・勢力下で発行された新聞などの出版物は、駐留する日本兵への情報と占領地住民
への文化工作のためと理解されてきたが、それぞれの占領地で状況がかなり異なり、また出
版物の多くが現存していないため、充分な考察をおこなうことができなかった。今回「発見」
された写真を手がかりに、東南アジア全域および個々の占領地の実情の両面から、これまで
にわかった日本が描いていた「大東亜共栄圏」について報告し、今後の課題について議論する。
海外で大規模な軍隊が動くとき、情報の集中管理が重要で、戦略上の機密事項が多くなる
ため、流言飛語が生まれやすくなる。そのため、一般兵士に基本的情報と娯楽を提供する新
聞の発行が必要となった。軍隊には、通信社や新聞社の従軍記者が加わり、本国に戦況を伝
えた。1941 年 12 月 8 日に「大東亜戦争」が勃発したとき、すでに戦場に移動中の軍の宣伝
班は陣中新聞、同盟通信社は「通信」を発行した。
占領が一段落すると、占領地に駐留する日本兵向けの日本語新聞と占領地住民向けの宣
撫工作としての新聞などの出版物を発行した。これらの出版は、大手 3 新聞社と同盟通信
社が中心となって占領地を分担しておこなわれた。インドシナではフランスとの共同統治
が 1945 年 3 月までつづき、
『陣中西貢新聞』が発行された。占領地住民向けには、日本語
が普及するまでの「必要悪」として英語新聞も発行され、現地語、中国語、インド系言語で
の新聞発行が検閲制度の下で許可された。英語や現地語などには、日本語の学習欄が設けら
れたが、普及までに時間がかかるため、宣撫活動として写真誌が重要になった。
『ジャワ・
バルー』
『新世紀』
『昭南画報』がそれぞれの占領地で発行され、朝日新聞大阪本社に残る写
真は『ジャワ・バルー』にも使われた。
日本国内では、すでに『アサヒグラフ』
(1923 年~)
『同盟グラフ』
(1936 年~)
『画報躍
進之日本』
(東洋文化協会、1936 年~)に加えて、内閣情報部が国策グラフ誌として 1938
年から『写真週報』を発行して、日米開戦前から写真で一足先に「南方進出」が既定の事実
かのように伝えられた。また、対外宣伝用として『FRONT』
(東方社)が 1942-45 年に 10
冊出版された。これらの写真誌にも、占領地で撮影された写真が使われ、あたかも「大東亜
共栄圏」が建設されつつあるかのように国内の日本人に伝えた。
戦況が悪化して新聞の発行が困難になったときも、「使命」を果たすべくひたすら発行を
つづけている。それは日本人向けだけでなく、占領地住民にたいしてもであった。「転進」
中、
「転進」先でも発行をつづけ、さらに捕虜収容所、帰国船でもラジオを聴きつづけ、紙
がなければ口頭でニュースを伝えた。
「真相」を知りながら、ひたすら軍に従って報道をつづけたことにたいして、新聞社は戦
後自ら厳しく問うことをしなかった。ようやく読売新聞社は 2005 年、朝日新聞社は 2007
~08 年に、新聞の戦争責任を自ら検証した。戦争責任だけでなく、戦後責任についても厳
しく問われなければならない。
23
東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル4
第2番講義室 12:30-15:00
報告①
朝日新聞秘蔵写真の仏印関連写真
菊池陽子(東京外国語大学)
朝日新聞秘蔵写真のなかで、仏領インドシナ(以下、仏印)に分類されている写真類は 980
枚あるが、そこには、写真の他に、新聞や雑誌の切抜き、本の表紙、絵葉書等が含まれてい
る。また、タイやマラヤ・シンガポールの写真も混入している。本報告では、それらを除い
た約 800 枚の仏印関連写真について、撮影時期、撮影場所、撮影主題等について報告する。
その上で、現時点での考察を述べる。
仏印関連写真の大部分は、1940 年、1941 年に撮影されている。撮影主題と関係するが、
仏印では、1940 年 9 月に北部仏印進駐、1940 年 11 月以降にタイ・仏印国境紛争が勃発、
1941 年 7 月に南部仏印進駐と続けて日本が主体となる出来事が起こった。これらに関する
写真と同時期に撮影された写真が大部分を占めている。1941 年 12 月 8 日、日本が英米に
宣戦布告する以前に撮影された写真がほとんどで、他の東南アジア地域が日本占領下に置
かれた時期の写真はほとんどない。
撮影場所は、仏印の広範な地域に及んでいる。ベトナムの写真が最も多く、ハノイやサイ
ゴンといった大都市だけではなく、ラオカイ、カオバン、ハイフォン、フエ等などが撮影さ
れている。また、カンボジア、ラオスの写真も約 100 枚含まれている。カンボジア、ラオス
の写真はタイ・仏印国境紛争後、停戦監視団の視察に同行した特派員が撮影したと考えられ
る写真があり、タイとの国境地帯も撮影されている。
撮影主題としては、北部仏印進駐、南部仏印進駐、タイ・仏印国境紛争、同紛争の停戦会
談、東京条約調印時の日本軍の行動や日本側代表団の活動を伝えるもの、現地の景色、風俗・
風習、少数民族、建物、軍事拠点、産業施設等である。仏印進駐は「勇士」による「堂々と
した」
「平和進駐」とされ、日本兵と現地住民の親善風景が撮影されているのが特徴として
挙げられる。現地を撮影した写真には、
「仏印・松島
アロン湾」
「かまどは日本とそっくり
だった」等、仏印の風物に日本との類似点を見出そうとしていることが特徴として挙げられ
る。
ここから、仏印においては、
「平和進駐」した日本兵は「現地に歓迎」され、地域間の紛
争を日本は「平和裡」に「調停」したのであるという、日本が思い描く「大東亜共栄圏の盟
主」としてあるべき理想の姿が、他の地域に先駆けて、メディアを通じて表現されていたと
言えるのではないだろうか。
24
東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル4
第2番講義室 12:30-15:00
報告②
日本占領下インドネシアをめぐる「報道」と「宣伝」の狭間で
-朝日新聞秘蔵写真は誰が撮影し、どのように利用されたのか-
姫本由美子(トヨタ財団)
本報告では、朝日新聞社が秘蔵していた日本占領下インドネシアに関連した 1100 点以上
の写真の中から主だったものを対象に、それらが誰によって、いつ、どこで、何を目的に撮
影されたのか、その特徴を示す。さらに、同写真群が掲載された朝日(ジャワ)新聞社によ
って当時日本とジャワで発行されていた新聞や雑誌にどのように提示されたかについて、
その特徴や相違点を明らかにしたい。また両地域にみられた相違点が生じた背景について
も考察したい。最後に、それらの写真に描かれた日本占領下ジャワの人々の姿をジャワの
人々がどのように受け取ったかについても簡単に触れたい。以上を通して、日本占領下イン
ドネシアについての日本とジャワでの朝日新聞社の「報道」
、特に「写真報道」の実態とそ
の背景を明らかにし、
「報道」と「宣伝」の狭間で揺れ動きながらも、日本の「大東亜共栄
圏」の「宣伝」メディアへと進んでいった軌跡を明らかにしたい。
シン ジャワ
戦時に刊行されたグラフとしては、
「アサヒグラフ」やジャワで刊行された「Jawa B aroe」
を「Front」などの他の戦時グラフと比較した既存研究がある。しかしそれらは、1942 年 9 月
に朝日新聞が陸軍の委託を受けて日本占領下のジャワで設立したジャワ新聞社(1943 年 10
月に朝日新聞社ジャカルタ支局と一本化)の位置づけ、写真の出所や検閲の実態などについ
ての分析を行っていない。本報告では、秘蔵写真が朝日新聞社の新聞やグラフでどのように
利用されたのかを分析することによって、それらの点についても考察を試みたい。
以上の問題意識に基づいて分析を試み、現時点では次のような点が指摘できると考える。
●「朝日新聞」や「アサヒグラフ」では、秘蔵写真が、時局の推移に沿って書かれた「大東
亜共栄圏」構想を肯定する記事とともに掲載された(「皇軍を迎えて歓呼するバタビア市民」
「南の油田蘇る」
「富士山型のスメル山」
「チハヤ塾の子供たち」
「新生ジャバ」
「総力建設の
ジャワ」「現地自活」「ジャワ人の手でジャワを守る」「“緑の町”の日本色」「南を拓く科学」
「ジャワの秘境」
「ジャワに独人小学校」等)。そこには、特派員(撮影者と記者)名が明記
され、彼らの主観を記す余地があった。また新聞社の軍部からの一定の独立性を示す「陸・
海軍省検閲済」も表示された。しかし、それらの表記のないものが増加していく。
シン ジャワ
●秘蔵写真は、ジャワ新聞社が刊行した「ジャワ新聞」や「Jawa B aroe」にも多く用いら
れた。それらの刊行費は陸軍が負担をし、無記名、検閲非表示で写真が掲載された。特に後
者は、インドネシア人向け宣伝紙と位置づけられ、日本人撮影者名の表示はなかった。一方、
多数掲載されたインドネシア語短編小説の作家のプロフィールが紹介された。
●戦局についての報道写真は、撮影者氏名入りのものも一部掲載されたが、
「大東亜海を制
するわが海軍航空部隊」などと題した陸・海軍省提供の写真が多く、その信憑性の検証が行
われず、あるいは行うことができずに掲載された。
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル5
第 3 番講義室 12:30-15:00
直接選挙時代のインドネシア地方政治
司会
見市建(岩手県立大学)
趣旨説明 見市建
報告①
インドネシアにおける改革派リーダーの台頭―「創造都市」バンドンを事例に―
金悠進(京都大学・院生)
報告②
「ローカル・ポピュリスト」の台頭―2015 年東ジャワ州統一地方選挙の分析
から-
見市建
報告③
インドネシアの地方自治体による保健医療無料化政策―非エリート層と手を
組む地方指導者の台頭―
長谷川拓也(筑波大学)
討論者
永井史男(大阪市立大学)
討論者
増原綾子(亜細亜大学)
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル5
第 3 番講義室 12:30-15:00
趣旨説明
見市建(岩手県立大学)
民主化後のインドネシア政治研究は、エリートによる支配の継続や再強化を強調する寡
頭制支配論やカルテル政治論が先行した。他方で近年エリート間の競争や新しいプレーヤ
ーの台頭からエリート支配論を批判する研究も増えている。とくに 2014 年の大統領選挙で
「庶民」出身のジョコ・ウィドド(ジョコウィ)が当選したことで、非エリートで有権者か
ら直接支持を調達する新しいタイプの政治家への注目が集まっている。ジョコウィの例が
典型的に示しているように、2005 年に導入された地方首長直接選挙は次々と新しいタイプ
の政治家を生み出している。では、新しいタイプの政治家とはどのような人々であり、どの
ような背景で登場しているのだろうか。本パネルでは、3 つの異なる角度から地方政治の変
化を説明し、インドネシアのみならず東南アジアの地方政治研究への貢献を目指す。金はバ
ンドン市における社会・文化的な特徴から人気市長誕生の背景を、見市は東ジャワ州を例に
首長選挙における候補者の戦略から「ローカル・ポピュリスト」の台頭を説明する。長谷川
は各地で導入された保険医療無料化政策の拡大過程を通じて、新しいタイプの地方指導者
の台頭を論じる。
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル5
第 3 番講義室 12:30-15:00
報告①
インドネシアにおける改革派リーダーの台頭
-「創造都市」バンドンを事例に-
金悠進(京都大学大学院)
本発表は、近年インドネシアで顕著にみられる改革派リーダーの政治的台頭の背景を、当
該地域の中長期的な社会・文化的特徴の形成に求める。舞台となるのは西ジャワ州バンドン
市である。2013 年バンドン市長選挙で大勝したリドワン・カミルは行政経験を持たないア
ウトサイダーであった。人気市長誕生の背景には、スハルト権威主義体制期における非政治
的な「ふつうの若者たち」の趣味的な文化実践があった。1990 年代以降開花したインディ
ーズ音楽、インディーズ・ファッションの先駆者となったのはバンドンの若者たちであった。
リドワン・カミル率いる BCCF(バンドン創造都市フォーラム)は音楽やファッションなど
の「クリエイティブ産業」を支援することで「創造都市バンドン」を実現しようとした。若
者たちの文化実践はリドワン周辺の様々なアクターによって「創造的」
(インドネシア語で
クレアティフ kreatif)という「空虚な」言説によって表象されていった。このような若者の
文化実践と創造的意識改革との相互作用過程のなかでリドワン・カミルが政治的に台頭し
たのである。
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル5
第 3 番講義室 12:30-15:00
報告②
「ローカル・ポピュリスト」の台頭
-2015 年東ジャワ州統一地方選挙の分析から-
見市建(岩手県立大学)
中ジャワ州の中規模都市ソロの零細家具商から市長、ジャカルタ州知事そして大統領に
まで上り詰めたジョコウィ、同じく地方の首長からジャカルタ州知事になったバスキ・プル
ナマ(アホック)
、建築家出身のバンドン市長リドワン・カミルなど、インドネシアでは改
革派の地方首長が次々と現れている。彼らの多くは既存のエリートからは一線を画し、政党
の活動歴が浅いか皆無であり、既存組織に頼らず大衆からの直接的な支持を調達している。
本論ではこうした地方首長を「ローカル・ポピュリスト」と呼び、その台頭の理由を明らか
にする。大都市のポピュリストは、その政策もさることながら、マスメディアに話題を振り
まき知名度を上げている。しかしこうした指導者は比較的辺鄙な郡部にも現れ、その数や影
響は無視できないものになりつつある。では、彼らは、どのような手段を使って、いかなる
条件において台頭し、それはインドネシアの政治と社会のいかなる変化を示しているのだ
ろうか。本論は 18 自治体で行われた 2015 年東ジャワ州統一地方選挙の、とくに新規参入
者が既存エリートを破って当選したジュンブル県とトレンガレック県の知事選における候
補者の戦略の分析を通して、以上の問いに答える。
本論の主張は次のとおりである。まず、政治的戦略としてのポピュリズムが流行しており、
その背景には、ジョコウィやアホックの選挙運動や政策の地方における新規参入者による
模倣、世論調査機関や選挙コンサルタントのビジネス拡大、がある。他方、各地のポピュリ
ストはそれぞれの業績やセールスポイントを持ち、彼らが売るイメージは一様ではない。次
に、ローカル・ポピュリスト台頭の条件である。ジュンブル県とトレンガレック県では、前
職が 2 期を務めて再立候補できず、新規参入者はポピュリズム戦略だけではなく、政党や
宗教組織などの既存ネットワークの一部との連携によって選挙に勝利した。しかし、ローカ
ル・ポピュリストは必ずしも既存エリートが望んだ候補ではなく、連携は戦略的なものであ
り、またポピュリストには自立性があり寡頭制支配論が想定するような既得権層の「操り人
形」ではない。他方、再選を目指す現職首長が敗退するのは、既存エリート間の競争が激し
いところであり、こうしたケースでは新規参入の余地はむしろ少ない。最後に、これらの分
析を踏まえて、インドネシアおよび東南アジアの地方政治研究への貢献を述べたい。
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル5
第 3 番講義室 12:30-15:00
報告③
インドネシアの地方自治体による保健医療無料化政策
-非エリート層と手を組む地方指導者の台頭-
長谷川拓也(筑波大学)
インドネシア政治研究において、民主化、地方分権化といった制度変化は起こったものの、
それは表層的なものに過ぎないと評価するものが多い。中央でも地方においても、スハルト
時代に台頭した政治経済支配勢力が民主化後の政治機構をも引き続き支配しており、パト
ロン・ネットワークを新たに再編成していると主張する。オリガーキーや政党カルテルとい
った分析枠組みを使いながら、エリート層の連帯が強調されている。しかしながら、そこで
明らかに見落とされているのは、そうした政治経済支配勢力の間でも競争は激しくなって
いるという点である。特に地方レベルにおいては、より多くの様々な背景を持つものが政治
ポジションの獲得競争に参加し始めている。そうした激しい競争の中で、非エリート層向け
の政策を実行し、彼らと手を組むことで成功しようとする新しいタイプの地方指導者が現
れ始めている。
本発表は、そうした非エリート層向けの政策の代表例と考えられる保健医療無料化政策
を取り上げ、地方自治体が導入するユニバーサル・カバレッジ・スキームがどのように生ま
れ、広がっていったのかを検証する。分権化後のインドネシアでは、中央政府が貧困者層向
けに無料の医療保険を提供している一方で、それを補完するかたちで、その対象外となる全
住民に対して無料の医療保険を提供する地方自治体が増えてきている。そうした冒険的な
試みは、バリ州のジュンブラナ県で始まり、全国の県・市に広がっていった。そして、第二
の革新として、州レベルでのユニバーサル・カバレッジを実現したのが南スマトラ州である。
そして、それはアチェ州、バリ州、南スラウェシ州へと広がっていった。本発表が指摘する
のは、そうした革新を進めていったのは、先行研究が期待するような従来の政治経済支配層
から距離を置いた政治家ではなく、むしろ汚職の疑惑も多い名声と悪名を併せ持つ政治家
によるものであるということである。そして、政策の導入は、明確に選挙での当選・再選に
動機づけされたものであった。
こうした自治体による医療保険制度の導入競争は、中央政府が 2014 年に新たな医療保険
制度の運用を開始すると、次のステージに突入する。保健省は、2017 年度を目途にして中
央と地方の医療保険システムの統一化を促している。自治体が独自に設定している一人当
たりの保険料は、国が設定するものよりもかなり安い場合が多く、これにより自治体のイニ
シアティブによるユニバーサル・カバレッジの達成のハードルは高くなったと言える。地方
指導者の強い政治的動機によって推進されてきた保健医療の無料化の動きは、今後弱くな
っていくと考えられる。
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル6
第1番講義室 15:15-17:45
メディアを通した文化表現の地域性を考える
司会
福岡まどか(大阪大学)
趣旨説明 福岡まどか
報告①
ビルマの近現代歌謡―メディアを通して生まれる歌謡―
井上さゆり(大阪大学)
報告②
フィリピンのゲイ・コメディ映画に投影された家族のかたち
山本博之(京都大学)
報告③
インドネシア映画における地方性の表象―1980 年代から現代への変化―
小池誠(桃山学院大学)
報告④
農村のポピュラー文化―グローバル化と伝統文化保存・復興運動のはざま―
馬場雄司(京都文教大学)
報告⑤
ルークテープ人形の流行―人形向け航空券の販売報道をめぐって―
津村文彦(名城大学)
討論者
福岡まどか
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル6
第1番講義室 15:15-17:45
趣旨説明
福岡まどか(大阪大学)
このパネル・ディスカッションでは東南アジアにおけるポピュラーカルチャーを対象と
してメディアを通した文化表現と地域性との関わりを変化の側面に着目して考察する。
マス・メディアの発展は文化表現の流通や消費にさまざまな変化をもたらし、現在「ポピュ
ラーカルチャー」として括られる枠組みの発展にも多大な影響力を持っていた。音声や画像
による文化表現の複製が大量生産・大量消費されていくことによって、文化表現の広範にわ
たる普及が実現し、新たなジャンルの形成や、メディアが作りだす新たなコミュニティーも
見られるようになる。
東南アジアの各地域において国民国家の統一が希求されていた時代には、ナショナル・メ
ディアとしてのマスメディアが文化表現に発展をもたらすと同時に表現活動を規制してき
た側面も見られる。マスメディアによって規定される「国民」というまとまりは、そこに含
まれない人々の存在を顕在化してきた側面もある。検閲などに見られる文化の規制は、表現
活動、身体表象、メディア表象を抑圧したと同時に対抗文化としての表現活動が現れる強い
原動力にもなってきた。民主化の進みつつある現在、文化の規制力のあり方にも多様な価値
観の交錯している状況が見られる。
メディアの発展により従来の地理的な枠組みとしての「地域」と文化との関係も変化を遂
げている。地域的枠組みを越えて文化事象が拡散し、その「商品化」が進んでいることは今
日、世界的に見られる現象であるだろう。情報のグローバル化と文化の「商品化」は文化の
価値をめぐる闘争的な場をつくり出してきた。
近年では文字テクスト、音声、画像などがインターネットなどの情報通信ネットワークを
介して広まり新たな表現活動の場や情報発信や議論の場を創出している現状も見られる。
携帯電話やコンピューターなどのパーソナル・メディアの普及と発展によって人々は多様
な情報に自らアクセスし、時には情報を発信することも見られる。情報通信ネットワークを
通した新たな共同体が形成されることもあり、メディアの発展を通して文化表現の地域性
は様々な側面で変化を遂げてきたと言えるだろう。
このパネル・ディスカッションでは事例としてビルマ音楽、フィリピン映画、インドネシ
ア映画、タイにおける芸能実践と呪術的人形の流行現象を取り上げる。ラジオ、映画、カセ
ットテープ産業の発展による近現代歌謡の普及と変化、演劇から映画へのメディアの変遷
の中で変化しつつ継承され受け入れられていく物語の特性、映画の舞台設定に見られる地
方性の表象の変遷、地方の芸能実践におけるグローバル化とメディアの影響、メディア報道
を媒介とした呪術的な人形の流行現象、の事例を考察する。
多様な価値観の揺らぎが見られる現代の東南アジアにおいて人々が希求するアイデンテ
ィティに着目しつつ、メディアと地域性との関連について考察してみたい。
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル6
第1番講義室 15:15-17:45
報告①
ビルマの近現代歌謡―メディアを通して生まれる歌謡―
井上さゆり(大阪大学)
本報告の目的は、ビルマにおいて 20 世紀以降、歌謡がメディアを通して生まれ普及する
ようになり、歌謡の形式や歌謡のあり方にも変化が起こったことを指摘することである。
ビルマで 19 世紀末頃までに作られた歌謡をタチンジー(大歌謡)と称し、20 世紀以降登
場した歌謡をカーラボー(流行歌謡)と称する。本報告では、カーラボー及びポップスやロ
ックを近現代歌謡と総称する。
タチンジーと近現代歌謡の大きな違いとして、作られ方と流通の仕方が異なることが指
摘できる。タチンジーは、パゴダなどで録音テープが大音量で流されることもあるが、演奏
を聴く機会は祭事や伝承の場における生演奏が主である。
一方、20 世紀初頭に登場したカーラボーはメディアに合わせる形で作られ、メディアを
通して人々の耳に届いた。1920 年にビルマ映画が登場し、歌を伴う映画音楽が作られた。
当初はタチンジーの形式を部分的に用いて作られていたが、徐々に西洋音階を用いた作品
が作られるようになる。映画の人気と共に映画音楽はカーラボーとして流行した。
1907 年にはビルマでレコードが使用されるようになる。タチンジーの録音が中心だった
が、映画音楽が流行するとそれらの作品がレコード化されるようになる。録音された音楽を
個人が所有し、自由に聴くことができるようになったといえよう。
1925 年からはラジオを通して生演奏の放送が始まり、その後、レコードに録音された演
奏の放送が行われるようになる。ラジオを通して人々に届いた歌謡はラジオ歌謡と言われ
る作品群を形成し、広く人気を博した。
1970 年代になると、アンプなどの機材で音量・音質を変化させたステレオ歌謡と呼ばれ
る音楽が登場する。これらの作品は主にカセットテープで普及し、人気が出た後にステージ
ショーで演奏された。まず録音で作品を聴き、その後生演奏を聴きに出かけるというこのよ
うな聴衆の在り方は、現在まで続いている。
1990 年代以降、カセットテープの他に CD、VCD、DVD などが徐々に普及し、2000 年
以降はこれらデジタルメディアによる音楽流通が主となる。現在はスマートフォンの普及
により、この傾向はいっそう強まっている。スマートフォンに何百曲もの音楽を入れ、手軽
にコピーし合う。デジタルメディアは個人の作品所有数を一気に増大させた。
録音された演奏をメディアを通して繰り返し耳にすることで、即座に流行が生まれる。タ
チンジーにおいては作品と歌手は結びついていないが、近現代歌謡では作品そのものより
も歌手やバンドに注目が集まるようになる。旋律や音階には古典的な形式を残した作品も
未だ作られてはいるが、音楽の在り方という視点からはビルマの近現代歌謡はメディアの
登場・普及という世界的な動きにリンクして作られ、普及してきたといえる。
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル6
第1番講義室 15:15-17:45
報告②
フィリピンのゲイ・コメディ映画に投影された家族のかたち
山本博之(京都大学)
本報告では、フィリピンの商業映画でゲイを主役に据えたコメディ作品によって 2011 年
の『無敵のプライベート・ベンジャミン』から興行収入の首位を毎年更新し続けてきたウェ
ン・デラマス監督(1966-2016)およびその作品で主役を務めてきたバイス・ガンダ(1976-)
を主な題材として、今日のフィリピンの商業映画に現れる社会的な関心や課題について考
えたい。
映画は 1897 年にフィリピンで最初に上映され、1919 年にフィリピン人監督による初の
劇映画『田舎娘』が撮られた。それ以降、フィリピン映画はセナクロ(宗教劇)
、コメディ
ア(喜劇)
、サルスエラ(音楽劇)などの先行する大衆芸能の形式を受け継ぎつつ普及して
いった。キリストの受難詩『パション』の劇化であるセナクロは、孤児やメイドが苛められ
て大粒の涙を流す作品に継承された。中世のキリスト教王国とイスラム教王国の戦争を題
材とし、
『フロランテとラウラ』や『アダルナの鳥』などの古典作品を劇化したコメディア
では、敵対関係にある王子と王女が恋に落ち、キリスト教王国が勝利することで恋人どうし
が結ばれるという形式がアクション映画に継承され、善玉の主人公が敵方の娘と恋に落ち、
悪玉である父親が打倒され改悛することで恋人どうしが結ばれるという作品が作られた。
『田舎娘』や革命劇『無傷』などの作品を生んだサルスエラは、高慢な金持ちやスタイリッ
シュな外国帰り/混血者や恋愛に積極的な美女たちが優しくハンサムなヒロインと慎み深
く美しいヒロインの恋路を邪魔するという恋愛ドラマに継承されている。
1990 年代以降、教会と映画館を備えたショッピングモールがフィリピン各地に開設され
ていくにつれて、映画製作会社は単館で上映されるアクション映画からモール内のシネコ
ンで上映される恋愛ドラマ映画へと重点を移していった。これらの恋愛ドラマでは、主人公
の男性が母親と恋人または母親と仕事の間で引き裂かれるが、母親を裏切ることができず
に涙を流すだけで、そこに数々の邪魔が入るというサルスエラの形式を踏まえた作品が多
く作られてきた。
これに対し、ウェン・デラマス監督、バイス・ガンダ主演の『美女と親友』
(2015 年)は、
コメディアの形式をとるが、善玉の主役は悪玉を打倒しないし、その娘と結ばれることもな
く、その点で伝統的なコメディアの形式を逸脱している。この逸脱には、夫婦になって子を
育てることで世代を継承させる家族のあり方とは異なり、人々が活躍する場を守り発展さ
せるという共通の目的のために力を合わせるという同志としての家族のあり方への積極的
な肯定を見ることができる。このことを踏まえた上で、この作品が多くの観客を動員したこ
との意味を考えたい。自分が愛する人と夫婦になって子を得て家庭を築く道が断たれてい
る主人公が何の見返りも得られないまま相手のために奮闘している姿が、家族を養うため
に家族と離れて都会や外国で苦労を重ねていることが当の家族に十分に受け止められてい
ないという思いと重なっている可能性を検討したい。
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル6
第1番講義室 15:15-17:45
報告③
インドネシア映画における地方性の表象―1980 年代から現代への変化―
小池誠(桃山学院大学)
本報告では、1980 年代から現在に至るまでのインドネシア映画に描かれた「地方」を取
り上げる。ここでは、ジャワ島以外の外島部を描いたインドネシア映画に焦点を当てて、地
方性の表象の変化を明らかにしたい。スハルト時代においては、国内オリエンタリズムと呼
べるように、おもに中央から見た地方の後進性と神秘性が強調され、一方、1998 年の「改
革の時代」以降は、同様の傾向は続くものの、地方に生きる人々の声が聞こえてくるような
映画も製作されるように変わってきた。
インドネシア映画は、その初期からインドネシアという国家の国民文化(Kebudayaan
Nasional)の一翼を担うものとして製作されてきた。地方文化の多様性に目を向けるのでは
なく、新たに国民文化を創出するという方向性は、インドネシア映画界のパイオニアである
ウスマル・イスマイル監督が、インドネシア国民映画社(Perfini=Perusahaan Film Nasional
Indonesia)という名称の映画会社を設立したことから明らかである。スハルト体制下では、
首都ジャカルタに代表される都市部との対比という形でジャワの農村社会が取り上げられ
ることはあっても、ジャワ以外の島々は、映画製作者の眼中にほぼなかった。スマトラのア
チェにおいてオランダ植民地支配に抵抗した「英雄」を取り上げた、エロス・ジャロット監
督の歴史ドラマ『チュッ・ニャ・ディン』(1988 年)は、1980 年代のインドネシア映画の
なかでは、
「地方」に目を向けた稀有な映画である。
娯楽映画としては、
『ジャングルの処女(Perawan Rimba)』
(1983 年)という、「孤島」
を舞台とした筋立て(インドネシアのターザン・シリーズとストーリーが似ている)の映画
がある。アメリカ映画『バリ島珍道中』
(1954 年)がバリ島を描いているのと同様のオリエ
ンタリストの視線が、この映画にも認めることができる。このようなタイプの映画は、現代
になっても製作され続け、その典型が『Lost in Papua』
(2011 年)である。この映画におけ
るパプアのコロワイ人の描き方は、ジャーナリストの間でも非難の対象となっている。
中央の眼差しで「遅れた地方」を描くという映画と正反対に、地方に寄り添った映画を目
指しているのが、現代のインドネシア映画界を代表するプロデューサー/映画監督である
ミラ・レスマナとリリ・リザである。
「地方」を前面に出した最初の映画が、2008 年に封切
られた『虹の兵士たち(Laskar Pelangi)』である。スマトラ島の東に位置するブリトゥン島
を舞台に、1970 年代のイスラーム(ムハマディア)系小学校に入った、経済的に恵まれて
いない子どもたちの成長を描いている。ブリトゥン出身のアンドレア・ヒラタが書いた自伝
的な性格の強い、大ベストセラー小説(2005 年創刊)の映画化である。さらに 2013 年に封
切られた『ジャングル・スクール(Sokola Rimba)
』は、スマトラ島ジャンビ州のジャング
ルを舞台に少数民族オラン・リンバ(森の民)に読み書き計算を教えようとした NGO の女
性活動家の実話をもとにした映画である。不法伐採者によって生活圏を侵食されるオラン・
リンバの姿を描き、また環境 NGO の独善性を問う映画にもなっている。
インドネシア映画における「地方再発見」の動きは、インドネシアの経済成長と軌を一に
して、各地方で文化の均質化が急速に進んでいることと関係していると考えられる。
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2016 年 6 月 5 日(日)
パネル6
第1番講義室 15:15-17:45
報告④
農村のポピュラー文化―グローバル化と伝統文化保存・復興運動のはざま―
馬場雄司(京都文教大学)
都市との連続の上で成り立つ今日のタイ農村は、都市と切り離されて「伝統的な民俗文化」
を育む場ではない。儀礼・祭礼の場で村人の手で紡ぎだされる芸能実践には、メディアの影
響や労働や進学など都会での経験が反映されており、今日のポピュラー文化が都市と農村
の連続性の上で考えるべきであることを示唆している。
19 世紀中国雲南省シプソーンパンナーから移住したタイ系民族タイ・ルーの建てたナー
ン県 N 村では、故地ムアンラーの守護霊を祀ってきた。90 年代以降、地域開発の進展によ
り、観光化、伝統文化の見直し、家族及び高齢者などの問題を経験し、儀礼における農民の
芸能にも反映されてきたが、そこには、村人自身のアイデアによる独自の世界がみられる。
その演目には、若者たちのポップスのみならず、婦人会・高齢者のエアロビクス、その BGM
としてのポップス、テレビ番組を模した村人の創作劇などもあり、ラジオ、テレビ、カセッ
ト、CD,VCD などのメディアの影響がみられる。都市との連続でなりたつ今日の農村の生
活に対するメディアの影響は、若者に対してだけではない。また、90 年代からの地方の伝
統文化見直し(再編)の動きもこの流れの中にある。伝統文化を受け継ぐ若者たちを紹介す
るテレビ番組の存在など、伝統文化の再編にもマスメディアがかかわっている。
地方大学の音楽研究者には、こうした状況を容認しつ「伝統文化」の意義を伝えようとい
う動きもある。チェンマイ大学芸術学部のティティポン氏は、北タイ音楽(ランナー音楽)
の研究者で演奏家であるが、伝統的音楽に関する見識のみならず、西洋楽器やアジアの他地
域の楽器を加えた新たな演奏などを試みている。近年の伝統文化復興の動き(ランナールネ
サンス)は、過去に戻ることを意味しない。ティティポン氏は、
「現在、農村の生活と都会
の生活には乖離があり、音楽も都会の生活にあわせたような変化も必要であるが、田舎のス
タイルに関する知識はもっている必要がある」と述べる。マハーサラカム大学音楽学科のチ
ャルーンチャイ氏は、モーラムやケーン音楽の専門家であり、農村の伝統文化や伝統的知識
の教育の必要性を強調する。マハーサラカム大学音楽学科では、東北タイ音楽(イサーン音
楽)を必修とし、チャルーンチャイ氏の自宅にはモーラム博物館を含む東洋の叡智研究セン
ターが整いつつある。ここでは、地域の若者に伝統芸能や伝統的知識を教える活動や研究者
のセミナーなどの他、アセアン共同体を意識した東洋の知も重視される。しかしながら、チ
ャルーンチャイ氏は、西洋文化を否定するわけではなく、ジャズとケーン音楽の融合をテー
マにする大学院生の指導も行っている。
二人の研究者の活動は、グローバルな動きの中に身をおきつつ、それぞれの地域の特性に
あわせた形で「伝統文化」の意義を伝えようとするものである。そこでは、ネットサイトや
You Tube などのメディアも利用されている。都市的生活と連続した生活の中で、メディア
の影響をうけつつ伝統文化を模索する農村の人々、グローバルな動きの中に身をおき、教
育・研究の中で伝統文化に根を求める研究者、タイの地方における芸能実践には、グローバ
ル化と伝統の見直しのはざまにおける様々な模索が示されている。
36
東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル6
第1番講義室 15:15-17:45
報告⑤
ルークテープ人形の流行—人形向け航空券の販売報道をめぐって—
津村文彦(名城大学)
90 年代以降のタイの宗教現象については、消費文化への適応、宗教の個人化、呪術主義
の復興などが論じられている(Peter Jackson)
。また護符など物質文化への着目から「宗教
のハイブリッド化」
(Pattana Kitiarsa)をキーワードに、宗教の商品化、断片化、メディア
との関わりなどが指摘されてきた。
本発表で取り扱うルークテープ人形(tukta luk thep)は、まさにハイブリッド化された宗
教の典型例であるが、これまでの議論で抜け落ちてきたのは、そうした宗教現象の流行がい
かに起こり、いかに消えていったかについてのミクロな記述である。ルークテープ人形の流
行は、まさに現在進行中の現象であり、メディアとの関わりのなかどのようにして流行が構
成されるかを検討するのに最適な事例といえる。
ルークテープ人形は、小さいものでは 10cm 程度、大きいものでは1メートルを超えるよ
うな大きさで、西洋風の人形をもとに制作される。顔や身体に呪図や呪文が描かれ、呪薬が
塗布されたのち、僧侶や呪術師が呪文を吹き込んで聖化する。それを信奉者がお金と引き替
えに受け取り、人形の世話をすればするほど、その人形が持ち主を助けてくれると信じられ、
多くの場合は経済的な富が与えられるという。クマーントーン(kumanthong)やルークコ
ック(luk kok)などの伝統的信仰が背景にあり、ポピュラーカルチャーとして姿を変えたの
がルークテープ人形と考えられる。しかしルークテープ人形は以前のものと違って、人形へ
の世話が消費文化と密接に関わっている。持ち主は外出するときに一緒に連れて行き、レス
トランや映画館、バスなどの交通機関でも、人形の席を確保して、一緒に食事をすることが
話題となった。
さらにタイスマイル航空がルークテープ用の座席販売を検討していることが 2016 年1月
に報じられると、その賛否をめぐって新聞各紙で議論が爆発的に巻き起こった。それととも
に、人形に関心をもつ人が増え、ある呪術師のもとでは在庫がなくなるほどであった。しか
し、1ヶ月も経つと、メディア露出は格段に減り、多くの人びとはもはやその存在を忘れた
かのようである。
そこで、本発表では主にルークテープをめぐる新聞記事をめぐる議論を取り上げ、いかに
してこの人形が人びとの注目を集めるにいたったのかを分析するとともに、この人形をめ
ぐる信仰を支えるものは何かについて、人形制作を行う呪術師の宗教実践を検討する。
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル7
第2番講義室 15:15-17:45
都市誌の可能性―都市を地域研究するとは?―
司会
日向伸介(静岡大学)
趣旨説明
長田紀之(アジア経済研究所)
報告①
20 世紀初頭のバンコクにおける都市農地と下肥
岩城考信(呉工業高等専門学校)
報告②
ヤンゴンの脱植民地化過程の解明に向けて
長田紀之
報告③
近代仏教建築のつくる都市景観から見るコロンボとアジアの都市間ネットワーク
山田協太(京都大学)
討論者
遠藤環(埼玉大学)
討論者
藏本龍介(南山大学)
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル7
第2番講義室 15:15-17:45
趣旨説明
長田紀之(日本貿易振興機構アジア経済研究所)
東南アジアで都市の重要性が高まっている。地域研究の立場からは,地域としての都市,
あるいは地域における都市を総合的に理解するアプローチが必要とされる。しかし,多様な
人口・建造物・機能が集積し,複雑なネットワークの結節点をなしている都市の全体像を捉
えることは至難の業である。
かつて友杉孝氏は,都市研究の 1 つのあり方として,
「都市誌」という方法を提唱された。
都市誌は相互に連関する 3 つの研究上の態度や手法に特徴づけられる。第一に,学際性で
ある。その趣旨は,複数の研究者による研究を寄せ集めることにではなく、一人の研究者の
視点が複眼的であることにある。第二に,記述という方法である。様々な学問の成果を自分
の中に内面化した知識と感性による人文地理学的意味での記述が重視される。第三に,全体
像の追求である。それは都市を隅々までくまなく記述し尽くすということではなく,たとえ
都市の一部分に関する研究であっても,そこから都市の全体像を見通そうとするところ,
人々の生活し経験する空間としての都市を学問的に活写しようとするところに重点が置か
れる(
『スリランカ・ゴールの肖像』1990 年)。こうした研究の提唱は,四半世紀を経た今
もなお示唆に富んでいる。
総合的地域理解を謳ってきた日本の東南アジア研究の伝統的姿勢は,これからの都市の
地域研究にどのように引き継がれうるのだろうか。本パネルでは,都市誌の概念を出発点に,
3 人の若手研究者による現在進行形の研究を素材として提示し,学会に議論を開きたい。
なお,本パネルは平成 26-27 年度の京都大学東南アジア研究所公募共同研究の研究会「都
市誌の可能性を探る」のメンバーが中心となって組織する。
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル7
第2番講義室 15:15-17:45
報告①
20 世紀初頭のバンコクにおける都市農地と下肥
岩城考信(呉工業高等専門学校)
本発表の目的は、20 世紀初頭のバンコクにおける都市農地について、同時代の地籍図に
記載された作物名と、公文書館の史料をもとに、果樹園と菜園に分け、それらの空間的、社
会的な差異を明らかにするものである。
20 世紀初頭のバンコクは、タイ人や華人、西洋人が混在する多民族都市として発展し、
人々に新鮮な果物や青果を供給するために、都市農地が多く形成されていた。そこでは、水
溝を掘り、残土を積み上げ畝としそれを交互に並べたローンスワンが開発された。ローンス
ワンは、雨季の水没を避け、乾季の乾燥時には水を蓄えることのできるものであり、果樹園
と菜園の両方に利用された。
果樹園は、一般的にタイ人に営まれ、王都プラナコーン及びその周辺に多く立地した。そ
こでは、収穫期の異なるマンゴーやランブータンといった果樹を複数栽培し、ローンスワン
の水溝に溜まったシルトを天然の肥料とした。
一方、菜園は、華人によって営まれ、華人街サムペンと隣接した、西洋人街バーンラック
などに立地した。そこでは、熱帯モンスーン気候のもとキュウリやニンニクといった葉菜類
の野菜が年に何度も収穫された。それゆえローンスワン内の天然の肥料では、養分が不十分
であり、サムペンなどから運ばれた人糞が下肥として施肥された。
このようにローンスワンは、タイ人が営むものは果樹園としてプラナコーン周辺に立地
し、華人が営むものは菜園としてサムペン周辺に立地し、民族ごとに作物や肥料、立地に差
異があった。
19 世紀末のバーンラックにおける、華人が営む下肥を用いた菜園では、悪臭が発生した。
その菜園周辺に居住する西洋人は、その臭いを忌み嫌った。しかし、当時、悪臭肥料を規制
する法律はなかった。そこで、西洋人は、シャム政府に、下肥といった悪臭肥料の使用禁止
を訴えた。こうして、1900 年 10 月 1 日に首都省衛生局から、下肥の使用禁止地区、警察に
よる取締り、違反者へ罰金を規定した「バンコクの畑及び菜園の肥料使用規制」が布告され
た。その後、バーンラックは西洋人のみならず、タイ人官僚や有力華人も流入し、高級住宅
地として開発され、下肥を用いた菜園は、より郊外へと移動していくこととなる。
以上のような流れのもと、本発表では、都市農地とそこで利用された肥料の多様なあり方
を通して、多民族都市バンコクにおける、民族間の文化衝突の過程を空間的に明示する。
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル7
第2番講義室 15:15-17:45
報告②
ヤンゴンの脱植民地化過程の解明に向けて
長田紀之(日本貿易振興機構アジア経済研究所)
本報告は,ヤンゴンの脱植民地化過程の解明に向けた研究の現況を紹介する。対象とする
時期は 1930 年代から 1960 年代であり,本報告ではこの期間を広義の脱植民地化の時期と
捉える。一般的に研究蓄積の少ない同都市について,特に当該時期に関する研究は,戦争の
混乱による資料の散逸や,度重なる体制変換のために一貫した性質の資料を得難いことも
あって,ほとんどなされていない。報告者は,この時期のヤンゴンの社会的変化を明らかに
することによって,比較的資料が豊富で研究もなされるようになってきた植民地期と現代
とを架橋し,通時的な都市像を描くことを目指している。
19 世紀半ばから 20 世半ばまでのイギリス植民地期に,ヤンゴンは英領インド・ビルマ州
の行政中心として,また後背地デルタで算出する米の輸出基地として発展を遂げ,20 世紀
初頭までに,インド亜大陸や中国大陸をはじめ世界各地からの移民やその子孫が多数派を
なすコスモポリタンな人口を形成した。日本による占領期を経て,1948 年にヤンゴンは新
生国民国家の首都となった。しかし,第二次世界大戦と独立後の内戦という混乱のなかで,
ヤンゴンの人口は量的にも質的にも大きな変容を遂げた。移民コミュニティでは,人々が戦
争を逃れて一族の故地へと流出し,またその一部がしばらく後にヤンゴンに戻ってきたこ
とで従来の都市人口の再編が生じた。さらに,内戦からの避難場所をヤンゴンに見出した後
背地ビルマ人の大量流入もあって,都市人口の急速な膨張が始まった。こうした変化の大き
さやそれが都市とそこに住む人々にもった重要性にもかかわらず,その意義やインパクト
はこれまでほとんど研究対象とされてこなかった。
本報告では,ダイレクトリーや商業会議所の名簿など,企業の住所情報がわかるいくつか
の資料の通時的比較という方法によって,当該期間のヤンゴン社会の連続と非連続の両局
面について,いくつかの示唆を提示したい。なお,検討の空間的対象は,利用可能な資料の
多い華人街に限定する。
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル7
第2番講義室 15:15-17:45
報告③
近代仏教建築のつくる都市景観から見るコロンボとアジアの都市間ネットワーク
山田協太(京都大学地域研究統合情報センター)
19 世紀中ごろから 20 世紀前半の多くの地域において、宗教と信仰は、在地の文化を基礎
として社会を近代化する運動の拠り所となってきた。運動の拠点となったのは、とりわけ都
市だった。スリランカの中心都市コロンボにおいては、19 世紀後半からあらわれる近代仏
教と、その建築である近代仏教建築が重要な役割を果たしてきた。
近代仏教建築は、ヨーロッパの建築理論を背景として建設されており、「様式」と呼ばれる
いくつかの定型的な外観が与えられた。特定の外観は、特定の文化を象徴するものとして形
成されることから、どの様式を与えるか、あるいはどのような様式を新たに創出するかの選
択は、明確な意図とメッセージを持ってなされたと考えられる。
本発表でははじめに、コロンボでおこなった悉皆調査を基に、個々の様式の成立とそれが
象徴する文化を考察するとともに、都市の中に建てられて視覚的メッセージを放つ近代仏
教建築群の空間的分布を分析することで、都市景観の歴史的変遷を考察する。南西海岸部の
都市ゴール、内陸部の都市キャンディという、同時代のスリランカの 2 つの仏教中心地に
おける近代仏教建築からの影響をあわせて考察することで、コロンボにおける近代仏教建
築の様式の成立と都市景観の変遷は、同時代のスリランカの政治的動向と連動しながら展
開してきたことが読み取れる。
さらに、信仰対象である、ブッダや神の像、精霊に着目することで、近代仏教と近代仏教
建築をつうじた社会の近代化による、コロンボの日常生活の変容を考察する。コロンボにお
いては、近代仏教建築の建設は、ブッダとその教え以外の信仰対象に対して非寛容な宗教集
団を形成し、それまで共有されてきた信仰対象とそれをつうじた人びとの日々の関わりを
解体するものだった。
最後に、当時の建築の実践において、グローバルに共有された理論だった様式に着目して
近代仏教建築を考察することは、コロンボと、コルカタ、ヤンゴン、バンコク、などの環イ
ンド洋の都市、京都を含むアジア大の範囲における都市との間での、同時代的連動に光をあ
てるとともに、都市ごとの近代化の方向を比較することを可能とするとも期待される。本発
表では、近代仏教建築を介したコロンボとの比較をつうじて、京都の近代化の捉え直しも試
みる。
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル8
第3番講義室 15:15-17:45
インドネシア「国家英雄」認定に見る国民統合、地方と民族の現在
司会
金子正徳(東洋大学・客員研究員)
趣旨説明 金子正徳
報告①
国家英雄制度の誕生と展開
山口裕子(北九州市立大学)
報告②
反転像として立ち上がる「真の英雄」―認定取り消しを求められたバリ人国家
英雄をめぐって―
中野麻衣子(東洋英和女学院大学・非常勤講師)
報告③
新たな英雄が生まれるとき―国家英雄の認定と西ティモールの現在―
森田良成(大阪大学・特任研究員)
報告④
「地域英雄」の誕生と「地域」社会統合―インドネシア共和国・ランプン州の事例―
金子正徳
報告⑤
「創られた英雄」とそのゆくえ―スハルトと「3 月 1 日の総攻撃」―
横山豪志(筑紫女学園大)
討論者
津田浩司(東京大学)
討論者
信田敏宏(国立民族学博物館)
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル8
第3番講義室 15:15-17:45
趣旨説明
金子正徳(東洋大学アジア文化研究所・客員研究員)
インドネシア共和国の国家英雄(pahlawan nasional)認定制度は、初代大統領スカルノが
独立の功績者を顕彰する目的で 1950 年代に創設した。続くスハルト大統領期には国民統合
政策と足並みをそろえながらほぼ全州から英雄がトップダウンで認定されたように、本制
度は、国民形成と統合という独立以来の同国最大の課題を推進するための象徴的手段であ
った。ポスト・スハルト期の今日においては、民主化や地方分権化を背景として、個別の地
域社会や民族の事情を反映した推戴運動が活発化し、年々英雄が「増殖」している(制度創
設以来、2016 年現在で総勢 169 名)
。国家英雄は国家の称号体系の最高位にあたり、認定さ
れると遺族に年金が支払われ、国葬を行い、ジャカルタの英雄墓地に埋葬する権利等が与え
られる。時代によって意義を変えながら存続してきた国家英雄制度は、この新興多民族国家
の独立と国民形成の手段、それと植民地主義との連続性、中央集権的な国民統合から民主化、
地方分権化への移行とそれへの国民の応答/非応答といったインドネシアの歴史的歩みを
貫き、それを再考するための有効な参照軸を提供するものである。
今日の英雄推戴運動興隆の背景には、ポスト・スハルト期の民主化、地方分権化の動きと、
それに呼応した地域・民族アイデンティティの高揚がある。さらにその背後には国家の枠組
みを超えた経済のグローバル化や新自由主義による経済成長が指摘できる。だが、個々の地
方、民族社会の英雄推戴の具体的な動態を、グローバルな民主化動向や地域振興の一つの表
れ、あるいはその変種というだけでは不十分である。
本パネル報告で取り上げるのは、国家英雄推戴を契機として引き起こされる地域社会・民
族社会内部のざわめきや異議申し立ての中で、国家と民族・地域社会の関係を再定義/再確
認していく諸事例である。それぞれの事例からは、対象社会が国家との関係を模索しながら
文化的自己呈示を行い、そこから、
「地方」や特定地域への帰属によらない「民族」などの
人間集合が生成・再生する動態と、そこに作用する民族アイデンティティと国民アイデンテ
ィティの競合やすりあわせ、政策と地元の慣習・宗教、グローバル資本へのアクセシビリテ
ィと地域資源の状況など諸条件が具体的に見えてくる。
国家と地方が絡み合う歴史過程、民族構成、宗教、地方資源と開発などの諸変数を視野に、
英雄認定の際に働くいわば真理化のプロセス、すなわち推戴運動そのものをとおしてある
人物が当該の地方や民族において英雄らしさを帯び、国家からその認証を得ることによっ
て制度そのものが形と意義を変えながら存続していくようなダイナミズムを通じて、国家
による認証制度への地方や民族集団の応答/非応答の動態と、成熟期を迎え国民であるこ
とが生得の権利となった多民族国家における「国民」の現在に迫る。
本パネル報告は、国立民族学博物館若手共同研究「『国家英雄』から見るインドネシアの
地方と民族の生成と再生」
(平成 24 年~26 年度、代表:津田浩司)の成果の一部である。
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル8
第3番講義室 15:15-17:45
報告①
「国家英雄」制度の誕生と展開
山口裕子(北九州市立大学)
国家英雄制度は、インドネシア共和国成立後まもない 1950 年代に、独立運動の功績者を
顕彰する目的で創設された。ナショナリズムの萌芽がしばしば植民地状況に見出されると
おり、制度の起源の一端は、独立以前の日本軍政期に、皇軍勇士を祀る忠霊堂の建設やそれ
に関わる記念日を祝賀する形で表出された「英霊崇拝」まで辿ることができる。元来「勇士、
英雄」を意味するペルシャ語起源の pahlawan の語は、日本軍政期以降、国のために命を賭
した勇者たちを意味するインドネシア・ナショナリズムの語彙として明確に概念化される
端緒を得たのだ[加藤 1999]
。
独立後、この形式化された英雄信仰は、スカルノ初代大統領の「指導される民主主義」の
成立と同時進行で始動した。独立戦争の直接的功績者に続いて、時の「ナサコム(ナショナ
リズム、宗教、共産主義)体制」の支持者らが英雄(当時は「国家独立英雄」)へと認定さ
れていった。1965 年の「9 月 30 日事件(陸軍左派によるクーデター未遂事件)」の直後に
は、スカルノは「革命英雄」なる特別の称号を設けて犠牲者を認定している。
第二代大統領スハルトは自らをスカルノの正統な後継者とすべくこの制度を継承した。さ
らに「英雄」の解釈を拡大し、時代、地域、民族的にも多様な人物を英雄に認定して、スカ
ルノ時代のジャワ人優位を相殺する姿勢を表した。認定は州ごとに地方文化を定式化、目録
化する国民統合政策と軌を一つにして進められ、国民統合が一定の達成を見る 1980 年代に
は、殆ど全ての州から英雄が誕生した。同時期の 1986 年には、経済開発の進展と体制の安
定を背景に、スカルノ・ハッタ前正副大統領に「独立宣言英雄」という独自の称号を与えて
慎重に殿堂入りさせた。ここには、翌年に控えていた総選挙で前正副大統領の支持者を懐柔
する意図も看取される。このように、スカルノ、スハルト両期を通じて国家英雄制度はトッ
プダウン的かつ国民の形成と統合の重要な象徴的手段で在り続けた。
1998 年のスハルト体制崩壊後の脱中央集権化が進む今日では、地方社会や民族集団の主
導による英雄推戴運動が活発化している。このボトムアップ型の運動を推し進め可能にし
たのは、一つにはこの称号が国家の栄典制度の最高位の栄誉であるという事実であり、もう
一つには分権化に伴う地方や民族アイデンティティの高揚と、民主化による言論や社会活
動の自由化がある。さらにその背景には、それぞれの集団間の競合や周辺化の歴史があり、
個々の運動は本来の制度の意図を超えた多様な特徴を発露する。例えばある地方や民族集
団の総意ないし代表として英雄候補を推戴する過程で、しばしばその「地方」や「民族」の
一体性のほころびが露呈したり、認定で求められる候補者の英雄的事績や肖像、銅像が、し
ばしば既存の英雄達のそれを参照した複製であったりする。その結果、相互に良く似た英雄
が誕生している。そして英雄とその物語の創造性と構築性は、インドネシアが独立以来自ら
の「歴史」を創出する際に用いてきた作法と連続するものなのだ。
より近年では、行政的な再集権化の兆候が指摘されるのと時を同じくして、スカルノとハ
ッタが「国家英雄」の称号でトップダウン的に再認定をうけた。国家英雄の目録化、あるい
は「家族アルバム」に仲間入りして他の英雄たちと横並びになることは、中央と地方や民族
集団にとって、今なお未完のそして一定の意義ある企図であり、国家と諸集団間のダイナミ
ックで多元的な歴史的関係に迫るための参照枠組みを提示する。
参照文献:加藤 剛 1999 「政治的意味空間の変容過程:植民地首都からナショナル・キャ
ピタルへ」坪内良博(編著)『〈総合的地域研究〉を求めて:東南アジア像を手がかりに』、
pp.163-260、京都大学出版協会。
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル8
第3番講義室 15:15-17:45
報告②
反転像として立ち上がる「真の英雄」
―認定取り消しを求められたバリ人国家英雄をめぐって―
中野麻衣子(東洋英和女学院大学・非常勤講師)
インドネシア随一の世界的観光地として今日、経済的繁栄を享受しているバリ(州)では、
基本的に「国家英雄」がメディアなどで話題を呼ぶことは稀である。バリ人とされる国家英
雄は複数いるが、空港名として有名なングラ・ライ(I Gusti Ngurah Rai)ただ一人を除い
て、地元の人にほとんど知られていない。開発の優等生にして、特に近年のインドネシア消
費社会の発展の中で、国家の中心的存在という自意識を強めてきたバリ社会は、国家の枠内
での自己主張や地位向上にもはや国家英雄制度という回路を必要としていない。
その中で、2007 年に、ほとんどのバリ人にとって予期せぬ形で新たにバリ出身のグデ・
アグン(Anak Agung Gde Agung)が国家英雄に認定された出来事は、短期間であれ、バリ
社会に少なからず衝撃を与えた。グデ・アグンは、ナショナルなレベルでは、オランダの傀
儡国家東インドネシア国首相としてハーグ円卓会議で演説し、オランダからインドネシア
への主権移譲に貢献したとされる人物であり、この点が英雄認定において評価された。だが、
バリ社会はこの決定を素直に歓迎できなかった。彼はバリではギアニャールの王(ラジャ)
として知られるが、とりわけ独立期をめぐる民衆の記憶の中では、彼は独立派の虐殺にも関
わった親オランダのラジャである。同認定は、発表直後からバリ人の側からの強い反発を呼
び起こし、まもなく州知事を介して中央政府に認定取り消しを求める異例の事態となった。
グデ・アグンはバリからではなく、なぜかジョグジャカルタ特別州から推戴されていた。そ
の経緯については多くが不明であるが、グデ・アグン推戴の背景にはギアニャール県内のロ
ーカルな政治、つまり旧貴族間の歴史的な抗争が関わっていたと推測される。
結局、認定取り消し請求は 2010 年に却下されたが、この結果を正しく知るバリ人はほと
んどいない。つまり、この問題は結局、高学歴層を中心とする一部の人々の一時的な関心で
しかなかった。しかしながら、一時的にせよ、外部から突如押し付けられた国家英雄をめぐ
って新聞やネット上で議論が活性化したことは、期せずして純粋なナショナリズムを生み
出すという効果をもったと言える。グデ・アグンの国家英雄認定に対する違和感から引き起
こされた議論は、独立期の社会分裂からオランダ占領時のププタン(集団自決)までの過去
の記憶を喚起しつつ、英雄とは何かという議論に収斂していった。その過程では、グデ・ア
グンによって代表されない諸特徴が「真」なる英雄の属性として見出され、結果として、独
立戦争でププタンに散った(玉砕した)古き英雄ングラ・ライが、グデ・アグンを反転像と
して、バリを代表する「真の英雄」として再発見されることになった。グデ・アグンをあた
かもングラ・ライの直接の「敵」として両者を二項対立に置く言説は極めてオーソドックス
な国史観に基づくものであり、またププタンという伝統的価値がナショナリズムを解釈し
自らを組み込むバリ的な枠組みであることが改めて確認される。再評価されたングラ・ライ
はその後、新たな銅像の建設や墓地の整備、記念行事の定式化によって強調されつつある。
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2016 年 6 月 5 日(日)
パネル8
第3番講義室 15:15-17:45
報告③
新たな英雄が生まれるとき
―国家英雄の認定と西ティモールの現在―
森田良成(大阪大学大学院・特任研究員)
東ヌサ・トゥンガラ(NTT)州は、資源や産業が乏しく、多くの地域では基本的な生活イ
ンフラの未整備が指摘されており、インドネシア国内でもとりわけ貧しい「周辺」地域と位
置づけられている。NTT 州出身の国家英雄は 3 名いるが、彼らは科学者や政治活動家であ
る。NTT 州とヨーロッパとの出会いは 16 世紀中頃であったが、オランダ支配が本格化し
拡大するのは 19 世紀終わりから 20 世紀初頭以降とされ、その経験はジャワやスマトラに
比べると限定的で短いものだった。NTT 州からは、植民地支配に抵抗し、国家の独立のた
め直接戦ったという、国家英雄制度のもともとのコンセプトに適合するわかりやすい英雄
が出にくかったといえる。
だが現在、西ティモールにある州都クパン市で、国家英雄の新しい候補が挙がっている。
「オランダの支配者たちに恐れられた、ティモール島最大の王国ソンバイの最後の王」であ
り、
「島における植民地支配への抵抗の象徴」としてのソベ・ソンバイ 3 世(没年 1922 年)
である。クパンのターミナルには、1976 年に建てられた王の騎馬像がある。本来は前方を
指差しているはずの右腕が破損したまま何年も放置されてはいるが、像は町のランドマー
クになっており、町の住民であれば詳しい事績は知らずともその名はまず知っている。すで
に出尽くした感のある、植民地権力に武力をもって直接抵抗した国家英雄たちの並びに、彼
を遅ればせながら加えることで、NTT 州は地域が帯びてきた周辺性を払拭したいのかもし
れない。地方開発企画庁や現地の研究者、ジャーナリストたちは、王の尊い犠牲と精神と闘
争が全国区の他の英雄たちに比肩しうるものであり、NTT 州の少年少女に長く伝えられる
べきだと主張している。
しかし、ソンバイ 3 世が国家英雄となるのはまだ先であろう。認定手続きに不可欠な肖
像画が存在せず、唯一の造形物である騎馬像は、他地域の国家英雄像を安易に模倣したもの
だと批判されており、顔の造形も拙い。それでも王を英雄にという声のもと、認定のために
必要な情報と証拠が、しばしば想像力を駆使しながら収集され積み上げられていく。地域の
歴史が再評価されることへの欲求、英雄にふさわしい人物がありながら擁立を怠ってきた
地方政府への批判、そうした主張を発信できるだけの言論の自由、王が代表することになる
集団と後から島にやってきた集団という地域内での関係性、特定の目的をもった歴史家や
芸術家たちが駆使する想像力といった、様々な事情や駆け引き、矛盾と妥協が集中し、英雄
を生み出そうとする運動を駆動させる。この発表では、遅れてきた新しい英雄の像が遡及的
に結ばれていく過程を追いながら、周辺化された地方において、国家の中央との理想的な関
係性がどのようなものとして描かれ、同時にその関係にふさわしいものとしての地方がど
のように描かれようとしているのかを記述する。
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2016 年 6 月 5 日(日)
パネル8
第3番講義室 15:15-17:45
報告④
「地域英雄」の誕生と地域社会統合
―インドネシア共和国・ランプン州の事例―
金子正徳(東洋大学アジア文化研究所・客員研究員)
ランプン州において新たに出現した地域英雄制度は、国家英雄の制度を基に、2012 年に
知事令に基づいて創設された新たな制度であるが、その成り立ちや、候補選定の様相は、多
民族状況にある現在のランプン州における地域社会統合の課題を反映している。本発表が
取り扱う事例においては、むしろランプンという地域の建設に貢献した人々がこの新たな
制度のもとで、民族出自を問わず「英雄」として認定されている。ここには、1960 年代か
ら 2000 年ごろまで見られたような、ランプン州におけるランプン人の文化を前面に押し出
した地域社会統合とは異なる様相が見られる。例えば、およそ 30 年にわたって行われてい
る地方語・地方文化教育の教科書の内容は、先住者であるランプン人の文化を中心として、
ランプン語、ランプンの慣習や昔話、そして、反植民地闘争・独立闘争をしたさまざまなラ
ンプン人の逸話など、移民に関する内容はほとんど取り上げられず、国史の基調である闘争
に連動する内容となっていた。
ランプンの地域英雄制度は、中央の語りを直接的に補完するものではなく、むしろ、国家
英雄認定の動向が地方、民族、団体からの推戴によるボトムアップになっている状況とも相
関して、地域社会内部の事情がまず反映されるものである。地域英雄制度を主導したのは前
州知事シャフルディンであった。2008 年に地元新聞社ランプンポスト発行の書籍がランプ
ン建設に貢献した人物 100 名を民族に限らず選定した冊子がランプン州内で大きな政治問
題となったことが契機となり発案されたという背景もあるが、彼の意図としては、地域英雄
制度をベースとして、現在は一人しかいないランプン州出身の国家英雄の、新たな候補を生
み出していくこともあったという。選考に際しては、実践者 2 名、研究者 2 名、歴史家 1 名
の他、地方政府機関や諸団体からなる委員会が 2012 年に設置されている。
初年度の 2012 年には、シャフルディン前知事の父であった第 2 代州知事を含む、ランプ
ン州再設に尽力した人々が認定された。2013 年には、保健衛生、インフラストラクチャー、
ランプン文化保護、宗教、教育の分野から計 6 名が選ばれ、8 月の独立記念日に認証式が行
われた。6 人の認証を定めた知事令(No. G/647/III.04/HK 2013)のなかでは英雄(pahlawan)
という語ではなく、地域の要人(tokoh daerah)を顕彰すると書かれているが、知事やメデ
ィアを含めて一般には「地域英雄(pahlawan daerah)」として知られる。認証式で知事は「本
当のランプンの英雄は誰なのかを知ってもらいたい」と述べ、これらの人々は「地域の建設
に尽力し、国家英雄にもひけを取らない人々」なのだと述べた。また、11 月の英雄の日に
は 6 名の兵士に対して「地域英雄(pahlawan daerah)」の称号が与えられたが、特定の民族
集団に限定されない人選と、地域社会の建設に貢献した文民の顕彰が行われている点が、こ
の制度を見る際に重要な点である。植民地主義への武力抵抗と独立国家建設への貢献を特
徴とする国家英雄像や国家史観等と対照することで、ランプン州における多民族状況を投
影した地域社会統合の動態を、行為者の特性や、セミナー/ワークショップが地域社会にお
ける合意形成のツールとして用いられる状況に注目しながら事例分析する。
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東南アジア学会第 95 回研究大会
2016 年 6 月 5 日(日)
パネル8
第3番講義室 15:15-17:45
報告⑤
「創られた英雄」とそのゆくえ
―スハルトと「3 月 1 日の総攻撃」―
横山豪志(筑紫女学園大学)
本報告は、国家英雄が「上から」認定されていたスハルト期において、スハルト自身の英
雄的行為(ヒロイズム)として称賛されてきた「3 月 1 日の総攻撃」(Serangan Oemoem 1
Maret 1949、以下、SO)に着目し、その公的言説の変遷を、それに対する異議申し立ても
併せて、スハルト期にとどまらず考察することで、今日「下から」盛んに行われている国家
英雄推戴運動に対し批判的視座を提供する。
国家英雄ならずとも、スハルト期に国家への貢献が最も称賛されたのは他ならぬスハル
ト自身である。同時期、政権の正統化を目的として露骨な形で国軍中心史観とでも呼ぶべき
「国史」が創造され[cf. McGregor: 2007]、スハルトは英雄扱いされた。スハルト退陣後に、
こうした公的言説に対する批判が公然化し、9 月 30 日事件、3 月 11 日命令書と共に SO は
「歴史の見直し」の対象になった。SO は、1949 年にオランダ占領下のジョグジャカルタ市
に対してなされた総攻撃であり、国際社会にインドネシア共和国が未だ消滅していないこ
とを示した重要な戦闘として、今日では評価されている。
本報告は、スハルト退陣後の異議申し立ての核となった SO の発案者を巡る論争のみなら
ず、スハルト発案説が主流になるに伴い、公的言説の中で SO 自体の歴史的価値が高められ
ていった経緯を、政府刊行物などに基づき、4 つの時期に区分し検証する。
第 1 期の 1949 年当時から 1950 年代にかけて、SO は既に広く知られていたが、多くの戦
いの中の一つにすぎなかった。第 2 期の 1960 年代から 1980 年代半ば、国軍中心史観が創
られる中で、SO およびスハルト自身の役割も次第に強調されるようになった。スハルト自
ら SO 発案者だと公言した 1985 年から 1998 年までの第 3 期には、スハルト発案説が前面
に出ると同時に、
SO 自体の価値もより強調されていった。スハルト退陣以降の第 4 期には、
SO の発案者はスハルトではなくハムンクブウォノ 9 世であるという異議申立てがジョグジ
ャカルタを中心に起こり、広く受容されることになるが、SO 自体の価値に関する議論は生
じていない。もっともハムンクブウォノ発案説が強く主張されたのも、10 世の州知事就任
やジョグジャカルタ特別州法制定運動といった地方政治の動向とは無関係ではなく、2013
年にスハルト発案説に基づくスハルト博物館が開館したのも、彼の娘の国会議員立候補表
明と同時期であったなど、依然として SO は政治利用の対象になっている。
いずれにせよ本報告が提示する SO の事例は、今日各地方で行われている国家英雄推戴運
動は、その手法において、かつて国家レベルで行われていた「歴史の掘り起し」の名の下の
「歴史の捏造」にも陥りかねない危険性を孕むことを示唆している。
参考資料:McGregor, Katharine E, 2007, History in Uniform: Military Ideology and the
Construction of Indonesia's Past, Singapore ; NUS Press
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