フルベッキ~明治の国造りに貢献した無国籍

(米欧亜回覧の会15周年文集原稿)
2012年3月31日
フルベッキ~明治の国造りに貢献した無国籍プロテスタント宣教師
岩崎洋三
1.
まえがき
1858年7月日米修好条約が調印され、翌年神奈川、長崎、新潟の各港が開港されるや
いなやアメリカのプロテスタント各派宣教師がこぞって来日するが、その中にオラン
ダ改革派から派遣されたフルベッキ(Guido Fridolin Verbeck)がいた。
フルベッキは1830年オランダのザイストで生まれ、鉄道技師を目指してユトレヒト
の工科学校で学んだが、22才の時にアメリカに移住して鋳物工場や建設工事のエンジ
ニアとして働いた。26才の時コレラで重態に陥いり、生還したら聖職者になる決意し
てオランダ改革派の神学校に入学した。
3年後の1859年に29才で卒業すると、オランダ改革派が日本に派遣予定の3人の宣
教師の一人としてフルベッキに白羽の矢立てた。3人目は「アメリカ化されたオランダ
人」であるべしとの条件に叶ったもので、急遽資格を取得し、結婚もした上で同年5
月には慌しくニューヨークから出帆した。フルベッキはアメリカ在住7年の間にオラ
ンダの国籍を失い、出発直前にアメリカ国籍を申請するも、取得できないまま無国籍
での訪日になった。
上海経由で他の二人は同年10月に横浜に、フルベッキは遅れて11月に長崎に着任し
た。到着時はまだ切支丹禁制の高札が掲げられており、本来の布教はままならなかっ
たところ、英語教師を求めていた幕府や佐賀藩に洋学校の英語教師として雇われた。
フルベッキがそこで英語にとどまらず、米国憲法等幅広く意欲的に教えるが、そ
の評判が全国に広まり、10年後の明治2年には明治政府から開成学校教師兼政府顧問と
して東京に招聘された。フルベッキは39歳で上京して政府の雇用契約が終了する47歳
までの8年間、大学南校教頭、留学斡旋、お雇い外国人の斡旋、岩倉使節団派遣に繋が
る大規模政府海外視察団派遣、明治政府新体制、ドイツ医学導入につながる提言・助
言や、フランス森林法翻訳出版等海外法律制度の諮問等広範囲に目覚しい貢献をした。
この結果、47歳で政府の仕事を引退するときには、外国人として破格の勳三等旭日
賞を受賞した他、その後日本への貢献度大として事実上の永住権を与えられ、68歳で
亡くなった時には、近衛兵が棺を担ぎ、東京都が用意した青山墓地に葬られ、副島種
臣、高橋是清等教え子39人が募金の上記念碑が建てられる等の名誉に浴した。
一介の若年新米宣教師が、幕府や有力藩の要人に広く信頼され、明治の国づくりに
直結する広範な貢献ができたのは大きな驚きである。
ついては、フルベッキの生い立ちや時代背景を辿りながらその秘密に迫りたい。
2. アメリカのプロテスタント宣教師来日の経緯
①日米修好通商条約
1858年7月29日日米修好通商条約が調印されたが、その第3条で神奈川・長崎・新潟
の3港が翌年7月4日までに開港されることになった。また第8条ではアメリカ人の居住
地内での信仰が自由とされ、礼拝堂の建設が許されるとともに、日本の踏絵の仕来り
が廃止された。
開港と同時に、米国プロテスタント各派がこぞって日本に宣教師を派遣する。米国
聖公会はC.W.ウィリアムズ(*1)とリギンス(*2)を、米国長老教会からヘップバ
ーン(医師、日本名ヘボン、平文)(*3)を、ニューヨークのオランダ改革派(*4)
からは中国伝道経験のあるブラウン(*5)、医師のシモンズ(*6)と共に、フルベ
ッキの3人を日本に派遣された。
②S. W.ウィリアムズ等3人の宣教師の勧告
アメリカのプロテスタント各派が揃って日本に宣教師を派遣したのは、同条約が9
日神奈川沖・小柴(今の八景島周辺)の米艦ポーハタン号上で調印された際に、同艦
に公式通訳として乗船していたアメリカ外国伝道協会中国派遣の宣教師S. W.ウィリ
アムズ(*7)と艦付牧師ウッド、そして聖公会から中国に派遣されていたサイルの三
人が集まって、日本宣教が急務であるとして宣教師早期派遣すべしとの書簡を米国聖
公会、長老教会、オランダ改革派教会の三つのミッション本部に送っていた(*8)か
らである。
③第二次大覚醒以降の外国伝道活動活発化
キリスト教世界では大覚醒(宗教再生運動、第一次は1734-50年、第二次は1790-1840)
の直後に布教活動が活発化するが、第2次大覚醒の直後各国で海外伝道の組織化が図ら
れた。
1795年設立のLondon Missionary Society(LMS)は1807年に会衆派牧師Robert
Morrisonを中国に派遣して先陣を切った。
1810年にはアメリカでWilliams Collegeの卒業生が提唱してAmerican Board of
Commissioners for Foreign Missions(アメリカンボード)が設立され、上記Morrison
の要請に基づき1829年にDavid AbeelとElijah Coleman Bridgeman(「連邦志略」
の著者)の二人を初のアメリカ人宣教師として中国に送った。ポーハタン号上から日
本への宣教師早期派遣を勧告したS. W.ウィリアムズはBridgemanの後任印刷宣教師と
してアメリカンボードから1833年に中国に派遣されていた。
1826にはLMSに倣って中国伝道を模索していたオランダの海外伝道組織
Netherland Mission Society(NMS)がドイツ人宣教師Karl GutzlaffをJavaに派遣し
た。このGutzlaffはJava着任早々LMS派遣のWalter Henry Medhurst (1796-1857)
と意気投合し、Javaには居つかずに、タイ、シンガポール、マカオ、香港、中国でダ
イナミックな活躍をする。主なものはMorrison、Bridgeman、Medhurstと4人で行なっ
た聖書中国語訳、マカオで保護していた日本人漂流者音吉等を使って行なった聖書の
日本語訳、S.R.Williamsと一緒にモリソン号に音吉等日本人漂流者7人を乗せて訪日失
敗。(モリソン号事件)等である。なお、1865年英国の特命全権公使として来日した
Harry Smith Parks(1828-85)はGutzlaff夫人の甥で、Gutzlaffが中国・中山の治安判
事をしていた時の部下だった。フルベッキは1849年にザイストのモラビア派教会で香
港政庁から休暇を取って一時帰国中のGutzlaffの中国伝道に関わる講演を聞いて感激
している。
3.
フルベッキ来日時の長崎の状況
安政5カ国条約により外人居留地内に礼拝堂の設置が認められると1864年(元治
元年)長崎にカトリック教会浦上天主堂が建てられるが、そこに隠れ切支丹が参集
したことが発覚して流罪の大弾圧を受けた「浦上4番崩れ」は、フルベッキ来日後8
年経った1867年(慶応3年)のことである。そして切支丹禁制の高札が撤去される
のは同14年後(1873年2月)のことであり、来日当初の布教活動は極めて困難だっ
た。
一方、フェートン号事件(*10)以来英語習得の必要を痛感していた幕府や諸藩
は宣教師を格好の英語教師として雇う。長崎奉行は1860年に洋学所(後の済美館)
の英語教師に、佐賀藩は、フルベッキの生徒だった大隈重信、副島種臣が中心にな
り1866年に設立した洋学校致遠館の校長にフルベッキを招聘する。
フルベッキはこれらの学校で、英語に留まらずアメリカ独立宣言や憲法等も含め
て幅広く教授するが、その博学振りと面倒見の良さが長崎に集まった英才を通じて
全国に評判になり、10年後には、太政大臣三条実美から、開成学校教師兼政府顧問
として東京に招聘される。
その後大学南校の教頭に就任し、東京大学の設立にも寄与した。また、大隈重信
の要請で作成した政府海外視察団の企画書(Brief Sketch)は、その後岩倉具視が
直々にフルベッキに再作成・説明を求め、岩倉使節団はそれに沿って実施された。
フルベッキは日本で赫々たる実績を上げ勲3等にも叙せられたが、オランダ国籍
を失ない、米国国籍もとれないまま来日した無国籍の悩みは未解決だった。これに
対し日本政府は彼の日本への貢献を評価し特別の滞在許可を与え、彼の永住を認め
た。1898年に逝去した際には、天皇が派遣した近衛兵が棺を担ぎ、東京都が提
供した青山墓地に葬られた。また、多数の教え子達の募金で記念碑も建てられた。
一介の新米宣教師が、各方面から頼りにされ、本来の活動ではない明治の国造り
に絶大な貢献ができたのはなぜか。その出生から人的交流を中心に活躍の秘密を探
ってみた。
2)オランダ時代のフルベッキ
(1830年 Zeistで誕生し、1852年22才で米国へ移民するまでの22年間)
①出生地
フルベッキは1830年オランダ ユトレヒト近郊のザイストで誕生した。オランダ
は宗教的に寛容な伝統があり、ルター派、カルヴィン派も含めてカトリックに圧迫され
たプロテスタントの逃げ場になっていたが、1568年から1648年の間、カトリックのスペ
イン帝国と「80年戦争」を戦って独立を勝ち得た(*12)プロテスタント国である。
メイフラワー号もオランダから出港している。
また、ザイストという町は、ボヘミヤから逃れてきたモラビア(又はボヘミア)兄弟
団をドイツの自分の敷地で保護し、その後自身が監督になったツィンツェンドルフ伯爵
が、同派のセツルメントを建設したモラビア派(*11)の町である。町にはフルベッキ
も教会員だったモラビア派の教会しかなく、ルター派の教会はなかった。ザイストは今
でもモラビア派のセンターになっている。(モラビア派はルターより100年も早く宗教改
革を唱えたプラハ大学学長ヤン・フスの流れを汲む。)
②家族
一族はツィンツェンドルフにザイストの用地を購入提供したファンラール家のコルネ
リュ-スや、オランダ東インド会社(*13)幹部社員、女学校の校長等が居る富裕な一
族だった。
父:Carl Heinrich Willihelm Verbeek,
ドイツ・オランダ系。ルター派。富裕な商人で資産家、ザイスト南東のRysenburg
村の村長だった。Carlの家系は、エンブデンの改革派系教会の聖職者を輩出したVan
der Vliet家と、ツィツェンドルフ伯爵のザイストにモラビアン施設を建設する計画に
ザイスト土地を購入提供したCornelius Renatus Van Laer(1731-1792)のVan Laer家の
結婚によって生まれた。フルベッキ家はドイツのファン・デル・フリート家とオラン
ダのファン・レール家の筋を引く。宗教的にはルター派及びモラビアン(モラビアン
兄弟団にザイストの土地を提供したアムステルダムの商人は父の友人)。
母:Anna Maria Jacomina Kellerman、
イタリア系、モラビア派。新教をを受容したためイタリアを追われ、信仰の自由の
あるオランダに来た。父Coenraad Willem Kellermanは著名な愛国者。フルベッキの伯
母Corneria Marie KellermanはMoravian Young Ladies’ School in Zeistの校長を3
0年以上勤めた敬虔なモラビアン。
兄弟:フルベッキは8人の子供の6人目。フルベッキと弟、妹の3人はモラビア派の教
会に通い、教会員としての所属を認められた。妹セルマの夫はモラビア派の牧師(*
14)で夫婦はその後渡米、後フルベッキをアメリカに招く。
③教育
ザイストのモラビア派の学校を出た後、鉄道エンジニアを目指してユトレヒト工科学
校で製図や機械工学を学んだ。この時代は欧州に鉄道が普及し始めた頃で、オランダで
も1839年9月にアムステルダム~ハーレム間が開通した。しかし、水運業者の反対、安全
性への懸念に加えて技術者不足が問題になっていた。家庭内はドイツ語、他にオランダ
語、フランス語、英語にも通じた。オランダの良家では珍しいことではなかった。
なお、ユトレヒトには1857年に長崎の医学伝習所で初めて体系的な西洋医学を講義し
たオランダ海軍軍医ポンペ(Ponpe van Meerdervoort)が学んだユトレヒト陸軍軍医学
校もあった。
④特記事項
1849年ないし50年(19~20歳)に一時帰任中の中国伝道士ギュツラフ(*15)の講演
を聞いて感動する。モラビア派は早い時期から海外伝道に熱心だったが、この出会い
は後日フルベッキが聖職者になる決意をするに大きな影響があったと思われる。
3)アメリカ時代のフルベッキ
(1852年に22才でアメリカ移住し、1859年29才で宣教師として日本に赴任するまでの7
年間)
①アメリカへの移民
ユトレヒトの工科学校を卒業後の1852年22才の時、フルベッキは妹セルマの夫でモ
ラヴィア派宣教師であるGeorge Van Deurs(1825-1906)の招きでアメリカに移住す
る。
②ウィスコンシン州グリーンベイの鋳物工場に就職
同地にはモラビア派宣教師Nils Otto Tank(1800-1864)が自費でモラビア派のモデル
タウン(タンクタウン)を開き船舶機器を作る鋳物工場を持っていた。フルベッキは
「良きヤンキー」なる覚悟で名前をアメリカ人に馴染むVerbeckに変えて励む
が、鋳物工場に飽き足らず転職を決意する。
③アーカンソー州へレナでエンジニア
1853(23才)ブルックリンのセルマ夫妻を頼って職探しをし、アーカンソー州へレ
ナで土木工事や機械工場の技師として就労。南部の農場で酷使される奴隷を見て落胆。
20マイル歩いてThomas Beecher牧師(1824-1900,アンクルトムズケビンの作者スト
ー夫人の弟、マーク・トウェインの友人)の奴隷解放説教を聞く。1854(24才)の時
同地でコレラに罹り、治癒した際は聖職者になることを決意する。
④オーバン神学校に入学
一旦妹セルマ夫妻もいたタンクタウンに戻り静養後、1856.9(26才)ニューヨーク
にあるオランダ改革派のオーバン神学校に入学する。(義弟のGeorge Van Deursが
先んじて入学していた。)在学中、改革派サンドビーチ教会でSamuel Robbins Brown
牧師(1810-1880,エール大学及びユニオン神学校を卒業後1838年中国に渡りモリソ
ン記念学校長になるなど8年間中語伝道に尽くした。1859年フルベッキと来日。)の
助手として、ドイツ系移民の説教も行なった。同教会には宣教師になる勉強をして
いた三人の女性が居た(妻となるMaria Manion、横浜にフェリス女学院を設立する
メアリー・キダー(*18)、中国福音伝道士になるキャロライン・アドリアンヌで
ある)
⑤米国オランダ改革派宣教師として日本に派遣される
1859(29才)神学校を卒業すると、ブラウン、シモンズと共に、米国オランダ改革
派外国伝道局(創設総主事Isaac Ferris(*19),2代目John Mason Ferris(*20))
の日本派遣宣教師に選ばれる。3月カユガの長老派教会で福音伝道者の資格獲得(按手
礼、カトリックの叙階式に相当)、翌日オランダ改革派教会に移籍。日本赴任に備え
て同月ニューヨーク州都オルバニーで市民権申請するも却下される。この結果、オラ
ンダ国籍を失い、アメリカ国籍も取れない無国籍のまま訪日することになった。
4)長崎時代のフルベッキ
(1859年来日長崎着任から1869年(明治2年)太政大臣三条実美の招聘で上京するまで
の10年間)
①上海寄港
1859.5.7 ニューヨークを出帆して東回り、喜望峰、ジャワ島、香港を経て
1859.10.21 上海に到着。ブリッジマン博士(*21)の家で,長崎から戻っていたS.W.
ウィリアムズ師、ヘンリー・ウッド師、E.W.サイル師に会う。この3人は1858年7
月日米修好通商条約が調印された米艦ポーハタン号の船上から、アメリカ・プロテス
タント各派の外国伝道本部に日本への宣教師早期派遣を勧告し、フルベッキ等来日の
きっかけを作った貴重な先輩宣教師達である。
特にブリッジマンはアメリカンボードの印刷宣教師として1829年以来中国で長く
活躍し、最初のシナ学の定期刊行物(Chinese Repository)を発刊しその後15年間編
集長を務めたほか、自身の「連邦志略」やMorrison,Gutzlaff,Medhurstと4人で翻訳
した聖書など多数の中国語出版物を刊行していたので、フルベッキが来日後長崎奉行
や佐賀藩の洋学校あるいは東京の開成学校や大学南校での教材、あるいは政府顧問と
しての外国文献の調達には有力なルートが事前に確保されたということが出来る。ブ
ラウン、シモンズは即横浜に赴任したが、フルベッキの長崎赴任はは約半月遅かった
ことはその意味で有益だった。
②長崎着任
1859年(安政6年)11月5日上海を出港し、7日夜長崎に着く。先着のアメリカ聖公会C.M.
ウィリアムズとJ.リギンスの出迎えを受け、宗福寺境内の広徳庵に同居する。ここ
にはかって、捕鯨船の遭難を装って密入し、本国送還までの間長崎で日本最初の英語
教師になったラナルド・マクドナルドが住んでいたところである。先着の二人の宣教
師はフルベッキと同世代だが、3年間の中国伝道を経ての来日だったので、フルベッキ
には学ぶことが多かった。ウィリアムズは後に立教大学を設立する。
③布教活動
安政5カ国条約により外人居留地内に礼拝堂の設置が認められると、1864年(元治元
年)長崎にカトリック教会浦上天主堂が建てられる。しかし、そこに隠れ切支丹が参集
したことが発覚して流罪の大弾圧に発展した「浦上4番崩れ」は、フルベッキ来日後8
年経った1867年(慶応3年)のことであり、1873年2月に切支丹禁制の高札が撤去さ
れるまで厳しい切支丹禁制が続いていた。従って布教活動はままならなかった。
しかし、秘かに聖書研究会を持ったり、時には信者を洗礼する布教活動も部分的に行
なっていた。1865年5月佐賀藩家老村田若狭が実弟村田恭とともにフルベッキから洗礼
を受けた。前年11月横浜で洗礼を受けたヘボンの日本語教師矢野元隆以来、日本で2,3
番目の受洗者であった。村田若狭は1854年の日米和親条約締結後、幕府の沿岸警備強化
方針に沿って藩主鍋島直正の命で長崎に派遣され長崎奉行の下で警備に従事した。その
後部下を通して聖書に接したのが機縁で、来日直後のフルベッキを通して漢訳聖書(新
約はモリソン訳、旧約はミルン訳)を入手し、部下や弟にも学ばせた。
④英語教師として活躍
1808年の英艦フェートン号事件で痛い目にあった長崎奉行や1640年代以来長崎警護
(長崎御番)の役割を担う福岡藩・佐賀藩等はオランダ語の限界・英語の必要を痛感し
ていたが、教師に恵まれず、1848年に密入国したラナ・マクドナルドを本国送還までの
間英語教師として雇いオランダ通詞14人を教えさせるほどで、来日した宣教師は格好の
教師候補になった。
フルベッキは1860年に幕府の洋学所(後の済美館)の英語教師に年俸1200ドルの高
給で採用され、1865年に佐賀藩が長崎にが開校した致遠館には校長として招聘された。
学校では英語に止まらず、アメリカ憲法や独立宣言等幅広く講義した。門下生や出入り
した中には大隈重信・副島種臣・江藤新平・大木喬任、伊藤博文・山口尚芳、高杉晋作、
小松帯刀、西郷隆盛、西郷従道等錚々たる名があり、フルベッキの活躍の場が広がった。
④漢訳書籍との輸入頒布
1860年前任のリギンス病気帰国のあと中国ミッション印刷所の書物頒布の責任を負
う。この印刷所の責任者は「連邦志略」の著者であり、シナ学のChinese Regisitory
編集長でもあるブリッジマンで、同所では連邦志略や万国公法を含む当時の貴重な書籍
を印刷刊行していた。フルベッキ自身幕府や佐賀藩の洋学校の教材として多くを輸入し
ていた。
⑤留学生斡旋
長崎・東京時代を通じてフルベッキはニューヨーク伝道本部のフェリス親子と連携し
てオランダ改革派のラトガース大学(*22)を中心に数多くの留学生を送り込んだ。こ
の中には、岩倉具視の子弟、横井小南の甥、勝海舟の子弟、松平春嶽の下僚やその後明
治政府の要人になる人材が多数含まれる。
4)東京時代のフルベッキ
(1869年(明治2年)新政府太政大臣三条実美の命で開成学校教師・政府顧問として上
京してから、1898赤坂の自宅で心臓発作のため急逝するまでの29年間)
① 開成学校教師・大学南校教頭
1869年5月開成学校教師
1870年7月大学南校の教頭に就任、東京大学の創設にも参画する。
なお、後に総理大臣となる高橋是清は、外国官権判事森有礼の書生時代に大学南
校に入学しフルベッキの教えを受けるが、森有礼がアメリカに代理公使赴任する時
に後事を託されたフルベッキは高橋是清を書生として自宅に引き取った。
② 政府顧問
1868年 明治初期の政治大綱・統治機構に関わる「政体書」(*23)の起草者副島
種臣と福岡孝弟とされるが、副島は致遠館で大隈と共にフルベッキからアメリカ憲法
などを学んだ他、政体書が主として参照したブリッジマンの「連邦志略」はフルベッ
キが輸入提供したものである。福岡は佐賀藩校弘道館で副島、大隈の同僚であり、フ
ルベッキの教えは身近なものだった。
1870 ドイツ医学の採用決定。
かって致遠館でフルベッキに学んだ佐賀藩の相良知安は、その後長崎でオラン
ダ人医師に学び佐賀藩の蘭医になった。しかし、明治政府の医学校取調掛になっ
たときには、ドイツ医学の採用を進言してウィリスの英国医学を押していた薩摩
藩と対立したため、当時太政官顧問であったフルベッキに諮問した結果ドイツ医
学の優位性をフルベッキが文書回答してドイツ医学の採用が決定した。
1871・9設置された文部省の事実上の最高顧問となり、「新学制」の諮問に応じる
1874年正院法制課の諮問に応じ「フランス森林法」の翻訳開始(明治15年刊行)
1875 左院の廃止により、新設の元老院顧問に転じる
1876.12 元老院議員の要請で「ゼルマン議院之法」を翻訳出版
③政府海外視察団企画書作成
1869・6・11 大隈重信の依頼で欧米視察に関する提言書(Brief Sketch)を、2
年半後(明治4年9月(1871・10)岩倉具視の要請に応じで再生の上岩倉邸で逐条説
明、岩倉使節団は多くの政府高官を含む団員編成、調査内容・訪問先、訪問ルート、
役割分担等ほぼその筋書きで実施された。
また、木戸家文書「一米人フルベッキより差出候書」によれば、帰国後の報告書作
成要領まで細かく指南しており、久米邦武の「米欧回覧実記」それを忠実に踏襲して
いることが分かる。
④ 聖書翻訳
1887年明治文語訳の旧約聖書刊行、フルベッキが訳した詩篇とイザヤ書は日本の文
学者が見習うほどの名訳だった。以下は詩篇第53編の一部である。
「おろそかなるものは、その心のうちに神なしといへり。かれらは邪にして憎むべ
きとがをなせり。善きを行なう人なし。」「神は、さとき者と神をとがむるものと、
あらやあらぬやを見んとて天より人の世を見下したまへり。」
⑤ 明治学院初代理事・教授
1886年明治学院創立のための初代理事に就任
1887神学部教授
1888理事会議長
1892.7 明治学院期季学校で「日本初代の基督教史」を講義したが、出席した島崎藤
村が白髪のフルベッキの印象を「桜の実の熟するとき」に書いている。
⑥人材斡旋
1871.3 福井藩松平春嶽の要請で、藩校明新館の教師にラトガース大学グリフィス教
授を斡旋、廃藩置県により藩校がなくなると、大学南校教師に招聘。
1871.9 熊本藩校にキャプテン・ジェーンズを斡旋。同校はフルベッキがラトガース
大学に留学を斡旋した横井小楠の甥横井大平が帰国後その設立に尽力した
⑥ 勲3等旭日章
1877.7 天皇の勅語と勲3等旭日章を受賞、9月政府との契約終了
⑦日本永住権取得
1890 アメリカに一時帰国して国籍取得と日本行きの旅券を申請するも拒否される
1891.2日本に戻り、アメリカ公使の口添えで青木外務大臣を訪問し善処要請、同年7
月後任の榎本武揚外務大臣から自由旅行の特許状が交付され、事実上の永住権を認
められた。
⑧逝去
1898東京赤坂の自宅で心臓発作のため急逝した。享年68歳。棺は政府派遣の近衛儀仗
兵に守られて、都が用意した青山霊園に葬られた。翌年フルベッキに学んだ有力者が
発起人となった募金により青山墓地に記念碑が建てられた。その紀念金募集趣意書に
は高橋是清、副島種臣、前島密、細川護成、津田仙等著名な人物39人が名を連ね、
文面には以下の通り最大級の賛辞、謝意が込められている。
「故勲3等神学博士フルベッキ先生は文久元年(安政6年の誤り)初めて長崎に渡来
し、日本語学習の傍ら、長崎洋学所済美館並肥前藩校の教師に聘せらる。当時天下の
有志者は、海外の事情に通ずるを以て急務と為して、概ね長崎に来遊し、先生に就い
て学ぶ所あり、問う所あり。語学、数学より、陸海軍工技法政の諸学に及ぶまで、講
述解説夜以て日に継ぎ、循々として倦色を見ず。僉な其博識に驚き、其懇篤に服せり。
其中、今日朝野地名の士多し。明治2年大学南校の教師に徴せられ、同5年太政官の顧
問と為り、更に元老院に転じて、法典の翻訳及調査に従事し、又学習院の教師と為る。
同10年政府雇を解き、特に勲三等に叙し、旭日章を賜りたり。(以下略)」
5)おわりに
若年無国籍宣教師が、一国の近代化にこれほど深くコミットできたことは驚異的であ
る。とりわけ、岩倉具視、松平春嶽、大隈重信、勝海舟、横井小楠、高橋是清といった
リーダーたちが、切支丹禁制の時代にわが子の留学を託すことも含めて宣教師に満幅の
信頼を置いていたのは想像を絶する。また、分野を問わずあらゆる要請に答えを出し続
けた該博な知識と誠意、問題解決能力にも驚かされる。
不可能を可能にしたと思われる要因としては以下のものが考えられる。
・ 誠実な人柄と秘密を保持する慎重さで、多くの味方を得られこと。
・ 好奇心が旺盛で、記憶力が抜群だったこと。
・オランダ人でオランダ、ドイツ、フランス、英国各国語に通じていたこと。
・親族にオランダ東インド会社の幹部がいるファミリーの出身で、海外事情に明るかった
だろうこと。
・海外伝道歴の長いモラビア派の教会員で、アメリカに移住していた義理の弟やタンク師
はじめモラビアン派の牧師の協力に恵まれたこと。
・プロテスタント宣教師仲間はエリート揃いで、宗派を越えた協力関係も維持できたこと。
・カトリックと異なり、プロテスタントが各国語での翻訳出版に熱心で、日本より早く進
進出していた中国やシンガポールの印刷局印刷された中国語や日本語の出版物が容易
多数入手できたこと。
・日本がまだ近代化の初期段階で「アマチャー」のフルベッキでも十分有効なアドバイス
が出来たこと(文部省に専門・家のモルレーが来る頃から出番が無くなった)
・長崎の幕府及び佐賀藩の洋学校に全国から集まった俊才を通じて人脈が広がった。特に
大隈重信、副島種臣、大木喬任等佐賀藩の教え子が明治政府で活躍するようになると、
政府顧問・教師として東京に招聘され、活躍の幅が広がった。
・太平洋の中国定期航路が開通していて、ニューヨークにあるオランダ改革派外国伝道局
と緊密な連絡が保つことが出来て、トップのフェリス親子の積極手名支援が得られた
こと。
以上
添付資料:注記一覧