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越える人、越えない人
―『伊豆の踊子』に見られる境界線―
「さあお先にお飲みなさいまし。手を入れると濁るし、
女の後は汚いだろうと思って」(35)
川端康成の『伊豆の踊子』には様々の境界線が引かれている。境界線
は異質のものが行き来するところであり、同時に、異質のものを峻別する
ところでもある。光と影が混じり合って、微妙な薄暗がりが生まれるよ
うに、そこでは、異質な考え(倫理・道徳観、階層意識)が混じり合い、
アンビギュアスな空間を形成している。境界線はプロットの展開に機能
しているだけでなく、この作品に陰影の襞を作り出している。境界線が
作り出す陰影の襞の構成物を取り出しながら、境界線が見える人見えな
い人がいることと、境界線を越える人と越えない人がいることを指摘し、
どのような人がどのような境界線を見、それを越えたのか越えなかった
のかを検討しながら、
『伊豆の踊子』中に埋め込まれている境界線が作品
の解釈に重要な意味を持つことを論証したい。踊り子が今、女性が人生
で幾度か越える境界線上にいるということも明らかにしたい。
『伊豆の踊子』は、明らかな境界線として天城峠を提示して始まって
いる。「一つの期待に胸をときめかして」(8)天城峠に近づいている、語
り手である「私」にとって、峠は物理的な(目に見える)境界線でもあ
り、新たな出来事を期待させるに世界への入り口にもなっている。「峠を
越えてからは、山や空の色までが南国らしく感じられた」(15)のは、峠=
境界線の存在を「私」が認識していることを示している。
峠の茶屋の爺さんも同様である。古手紙や紙袋の山に埋もれて暮らす、
この爺さんには、紙の山と峠は重なって見えるだろう。簡単に捨てられ
そうで捨てられない、簡単に越えられそうで越えられない境界である。
その峠は、「私」にとっては越境不可能な境界とは見えないようだ。だか
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ら、「秋でもこんなに寒い、そして間もなく雪に染まる峠を、なぜこの爺
さんは下りないのだろうと考えていた」(11)。諸国から取り寄せた中風の
薬の袋の山を眺めながら暮らす爺さんには、峠は越えることのできない
境界線だった。自然の境界線は見ることができても、「私」は人の中にあ
る境界線や人と人を隔てる境界線を見ることができない人物として描か
れるが、これはその最初の場面である。
旅芸人の一行との交流は、「私」が実は人が内に持つ境界線を 認識しな
い 、彼自身の見方とは逆に好人物だということを示唆している。しかし、
人の中の境界線を見ることができない ために旅芸人との交流がうわべだ
けで終わってしまう。彼はほとんどの場面で傍観者であり、旅芸人から
話を聞かされる人である。「物乞い旅芸人村に入るべからず」という立札
(38)についての「私」の感情も感想も示されない。この立て札の意味は深
い。「私」が終に傍観者でしかなかったことを暗示するからである。峠の
茶屋の老爺に同情しながらも、なぜ峠を越えないのだろうと不思議に思
うだけだった「私」も、老爺の連れ合いの、旅芸人一行に対する心ない言
葉に怒っても、それが個人レベルで終わる「私」。どちらの私も、思考と
行動の間に越えることのできない境界線を持つ、傍観者である。
「私」は、
『伊豆の踊子』の登場人物であり、この作品の視点であり、語
り手でもあるが、他の登場人物の心理に分け入らないのは、そのような
人の心の中の境界線を理解する能力に欠けているからである。人の心の
中の境界線は彼には認識するのにアンビギュアスでありすぎた。踊り子
はもっともアンビギュアスな境界線の持ち主なので、彼の理解のらち外
の存在であった。
踊り子薫の年齢は 14 歳に設定してあるが、この設定は重要である。踊
り子は今まさに子供と大人の境界線上にいて、あるときは少女の、あると
きは女の顔を見せる。峠の茶屋の婆さんが旅芸人に向けた軽蔑の言葉に
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反発して、「それならば、踊り子を今夜は私の部屋に泊まらせるのだ、と
思った程私を煽り立てた」(12)と書かれる。
「私」は、このとき踊り子を少
女と認識していた。しかし、一緒の宿に落ち着いた「私」にお茶を出そ
うとしてひどくはにかむ様子を見た母親の「まあ!
厭らしい。この子
は色気づいたんだよ」(16)という言葉に、
「私」は踊り子が少女から女へ
と成熟しつつあることを思い知らされる―
「私」は、「この意外な言葉で、私はふと自分を省みた。峠の婆さん
に煽り立てられた空想がポキンと折れるのを感じた。」(16)
「峠の婆さんに煽り立てられた空想」というのは、もちろん「自分の部
屋に泊まらせる」という思いつきを指しているが、彼の正義感、あるい
は義侠心も、成熟した女としての踊り子には適用できない、ということを
母親の言葉で思い知る。これらの場面は、踊り子が少女と女の境界線上
に位置していることと、「私」がそれを理解できないことを示している。
その後も「私」の心の中で、踊り子は少女と女の間の境界線を行き来
する。そのたびに、彼は女を発見して悩み、少女であることを知って喜
ぶ。同じ日の夜、料理屋の座敷に呼ばれた旅芸人一行の太鼓をその向か
いの木賃宿で聞きながら、
「太鼓が止むとたまらなかった」と感じ、皆が
静まりかえると、「踊り子の今夜が汚れるのであろうかと悩ましかった」
のは、踊り子が、女が人生で何度か越える(最初の)境界線を越えていて、
女であると認識したからこその悩みであり、苦しみであった。
「私の部屋
に泊まらせる」ことのできる少女であったなら、このような悩みは生ま
れまい。
翌朝、朝風呂につかっているときに「私」を見つけて、裸で手を振る
踊り子を認めて、「私」は、今度は踊り子が少女だったのだと認識し直す
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―
子供なんだ。私たちを見つけた喜びで真裸のまま日の光の中に飛び
出し、爪先で背一ぱいに伸び上がる程に子供なんだ。私は朗らかな
喜びでことことと笑い続けた。(20-1)
彼の朗らかな喜びは、もちろん自分に手を振ってくれたことが原因では
ない。昨夜「汚れ」なかったらしいと確信したからでもない。踊り子が、
まだ境界を越えない少女であったことを再認識したからだろう。そのこ
とは、 「私はとんでもない思い違いをしていたのだ」
(21) という「私」
の言葉がその後に続くことから明らかである。
『伊豆の踊子』の言葉はあまりにも簡潔で、行間を読まない読者はしば
しば言葉の袋小路で立ち止まってしまうことになる。それは特に踊り子
を巡る言説で顕著である。湯ヶ野を発つ日の朝、旅芸人一行がふすまを
開け放った一つ部屋で寝ているところを目撃した「私」の感慨はその好
例である―「昨夜の濃い化粧が残っていた。唇と眦の紅が少しにじんでい
た。この情緒的な寝姿が私の胸を染めた」(25)。「情緒的な寝姿が私の胸
を染めた」という表現は安易な解釈を拒絶する。しかし、少女と女の境
界線上にある踊り子という文脈で読めば、今度は女を発見した「私」の感
慨を意味しているらしいと理解できるだろう。(「踊り子は階下で宿の子
供と遊んでい」[40]る場面は、子供の領域にいる踊り子を暗示している。)
「私」は踊り子が少女であると認識したときには率直に喜び、女であると
知ると、当惑し、悩む、女の境界線を読めない語り手である。
このように、「私」には踊り子は少女と女の境界線上にあって、アンビギ
ュアスな存在であるが、彼女の母親には、踊り子は既に女であるようだ。
いくつもの場面でそのことが示される。「私」と五目並べをしているとき
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に、踊り子の黒髪が「私」の胸に触れそうになって、「突然、ぱっと紅く
なって、
『御免なさい。叱られる』と石を投げ出したまま飛び出して行っ
た」(28)のは、母親から男との「接触」を禁じられているからだろうし、踊
り子の肩を軽く叩いた男に向かって、母親が恐ろしい顔をして、
「『こら。
この子に触っておくれでないよ。生娘なんだからね』」(29)と言ったり、
三味線に合わせて歌う踊り子が高い声を出すと注意して、「『今ちょうど
声変わりなんですから』」(30)と、「私」に向かって説明したり、母親は踊
り子の「位置」をよくわきまえていることが明らかである。このように、
母親には、少女と女の間には、明確な線引きがなされている、曰く色気、
曰く声変わりなどと。
(女は同性の成熟に敏いのかもしれない。峠の茶屋
の婆さんも、踊り子についてこう言っている―「『この前連れていた子が
もうこんなになったのかい。いい娘になって、お前さんも結構だよ。こ
んなに綺麗になったのかねえ。女の子は早いもんだよ。』」[11])
「私」は女が一生の間に越える境界線についてはついにはっきりと認識
できないまま、この物語は終わる。東京への帰還の前日に映画に踊り子を
誘った「私」は、踊り子の母親の反対の理由が理解できない―「おふくろが
承知しないらしかった。なぜ一人ではいけないのか、私は実に不思議だっ
た」(41)。一方、踊り子はその境界線を認識していた。湯ヶ野から下田へ
の街道を下るときに、踊り子は「私」の後をついてきながら、「一間程うし
ろを歩いて、その間隔を縮めようとも伸ばそうともしなかった」(33)。こ
の距離は、男と(少女でなく)女との間にあるべき境界線を踊り子が意
識しているためかもしれず、旅芸人とそれ以外の人々の間の境界線を意
識しているためかもしれない。これに続いて、木陰の泉の周りに女たち
が立って「私」を待っていて、「さあお先にお飲みなさいまし。手を入れる
と濁るし、女の後は汚いだろうと思って」(35)と母親が言う場面が用意さ
れていることを考えると、踊り子の逡巡も社会的な(性差が生む)境界
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線を意識したためとも考えられる。その妥当性は別にしても、踊り子は、
少女と女の境界線を行き来しながら、
「私」との間の境界線はついに越え
なかったと言えよう。
作品の最後の、「私」が息子夫婦を亡くした老女とその孫娘(5 歳ぐら
いと 3 歳ぐらい)を東京へ伴って船で帰るという設定は唐突に見えるが、
『伊豆の踊子』が女が一生に越える境界線というテーマを補強している
と考えると自然である。「私」は踊り子とは映画を一緒に見にいくことも
できなかったのに、老女と乳飲み子とは一緒に船旅ができるのは、それ
ぞれが人生のどのあたりを歩き、境界線を越えたかどうかを判断すれば
自ずと明らかである。
峠は、境界でありながら、その両側の特徴が入り乱れ、一定の基準や
論理や明確性を持たないアンビギュアスな空間である。「私」が心惹かれ
た薫という名の踊り子も、峠を行き交う旅人に似て、少女と女の境界線
を行き来する、アンビギュアスな人物であった。もし神秘性が女性の魅
力であるとすれば、踊り子の魅力は、14 歳という少女と女との境界線上
にあって、あるときは少女、別の時には女というアンビギュアスなアイ
デンティティにあるのではないか。そしてその不思議に惹かれながらも、
その不思議の因って立つところ(少女と女の境界線)を正しく認識でき
なかった「私」が踊り子に執着しなかったこと(傍観者であり続けたこと)
も、従ってこの作品が純愛小説とも言えず、悲恋小説でもありえないのは、
けだし当然と言えようか。
(4594 字)
テクスト
川端康成、
「伊豆の踊子」、
『伊豆の踊子』
(昭和 25 年。東京:
新潮社、平成 20 年)、7-45
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