第二期豊森なりわい塾 第 8 回講座 概要 1、実施概要 2、プログラム概要

第二期豊森なりわい塾
第 8 回講座
概要
1、実施概要
開催日時
会場
テーマ
2011 年 11 月 5 日(土)9:45~17:00、6 日(日)10:00~17:00
1 日目:敷島農村環境改善センター(敷島会館) 多目的ホール、三玄寺
2 日目:板取の家
地域コミュニティーとは何か②~地域ガバナンスを考える~
・地域コミュニティーにおける「つとめ」に焦点を当て、都市における地域組織や
会社組織のような明文化されたガバナンス(統治機構)だけではない、日々の暮
目的/
ねらい
らしに根ざした農山村のガバナンス(自治、暗黙の掟?)について考える。
・受講生・関係者の中にいる、既に I・U ターンをした者および U ターン希望者の
話を聞くことで、農山村での暮らしを自分事としてイメージする。
2、プログラム概要(全体の流れ)
<5 日>
9:45
講座開始、
・10 月講座の振り返り(中川)
・三玄寺の説明(中川)
10:15
三玄寺訪問
・座禅体験
・住職のお話「地域社会におけるお寺の役割」
・質疑応答
12:00
昼食、敷島会館へ移動
13:00
お話「地域の『つとめ』について」
15:15
ゆんたく(縁側)
16:15
第一期プロジェクト紹介(一期生:梅原)
16:30
ふりかえりシート記入、事務連絡
17:00
終了
<6 日>
10:00
講座開始
10:10
トークセッション①~地元の若者をお招きして、おしゃべり~
12:00
昼食
13:00
トークセッション②~U・Iターン者、Uターン希望者、田舎暮らし体験者に聞く~
16:15
ふりかえりシート記入、事務連絡
17:30
終了
1
3、進行内容(記録)
■三玄寺 住職のお話
●この寺は妙心寺所属の寺。妙心寺派はこの辺は少ない。豊橋、瑞浪、名古屋のあたりは妙心寺一
派だが、この辺には 5 件しかない。あとは真宗が多い。一村一家寺、それだけお寺さんがある。周
りには 43 お寺があったが、勘定すると 20 くらいしかない。和尚さんがいないお寺が増えている。
地域の人達には大変心寂しい状況になっている。
池島に龍神の池というのがある。それが笹戸温泉のはじまり。三玄時の和尚さんが温泉だぞと言
って、毎日地元の人達が水桶を天秤棒でしょって担いでうちのお風呂につかったと言われる。今は
パイプで各家に行っているわけだが。三玄寺は温泉と教えてくれた寺。
●明治になり、武士社会が終わったときに、社会にどういう変化があったか。土地、土を活かした
生活が農。武士は紙の上の世界。土ではない。優雅な社会。あっという間の出来事でしかない。法
螺貝がぶわ~っと鳴ったらみんな棒の手、集まっていく。昔の道は幅が狭い。それを 100、200 人
がいっぺんに通るとどうなるか。お百姓さんが作った道をぶっつぶされる。百姓さんは愚痴も言わ
ずに黙々と土を眺めていた。一時の夢だなと。現在トヨタ自動車が、愛知県はおれが持っていると
いうような感じでいたんだけど、今日は従業員を解雇して、海外に工場を持ってゆく。昔の人達が
土はいまだに残っているが、会社は消える。士農工商どころじゃなく、我々は衣食住を中心にしな
いといけない。
今は少子化といえども家を建てる世の中。何処にそんなお金があるのか。昔我々が修行している
時、お前さんのいるところは、立って半畳、寝て一畳。それさえあれば生活ができるという。でも
皆さんは、まだ足りん、まだ足りんと言ってやっている。
20 年前に圃場整備をした。それまでは小さな田圃だった。機械が売れないから、大きい田圃にし
ろみたいなことで。みんなも田圃がすぐ終わるならそのほうがいいなということでやったが、国は
転作、休耕田と言ってきた。海外から食物を輸入しようという。日本の食生活は潤ったが、へんな
種があちこちでいっぱいついてきた。セイタカアワダチソウとかセイヨウタンポポとか。
衣。我々は衣の世界はありがたいと思う。肥えても痩せても関係ないが、洋服はそういうわけに
いかない。衣類の山になる。今の社会はどれも過ぎている。この社会情勢におけるお寺の役割はい
ったいなにか。
●ここのお寺では、檀家さんが中心におこなわれている。檀家というのは昔から和尚さん、お釈迦
さんの教えを聴いて、その教えに従って生活させて頂きたいというのがそもそもの始まり。昔は学
問が足りなかったから、
「和尚さん手紙が来たけど読んでくれる?」と言われれば「ああ、よしよし、
こういうことだ」と。
「ついでに、返事を書きたいので和尚さん書いてくれんかい」と言われれば「あ
あいいよ」と。みんなお寺の和尚さんが地域の人達に代筆してあげていた。
また、戸籍謄本。昔ここで生きていた人達、家族構成が全部お寺にあるわけ。それが明治維新に
おいて廃仏毀釈というのがあり、戸籍が役場に移り、近年まで来ている。しかし、個人個人として
代々ここのお寺についての人達はずっと続いてきている。これが過去帳というもの。地区ごとにお
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いてまとめられる。疎遠になった人がときどき来る。過去帳を見せると、あんたのおじいちゃん・
おばあちゃん、その前のおじいちゃん・おばあちゃんが全部出てくる。あぁ、そういう繋がりがあ
ったのかと納得がいく。役場には明治以前はない。ですから、絶対に自分は 1 人で生まれて 1 人で
死ぬなんてことはないわけ。これがお寺の役割として重視されている。
●東萩平にはいろんな伝説のものがある。この向かいにはお須原神社というのがある。13 の町村を
お参りする山がある。13 の仏というのがあり、お祭りのためにおっさん出ておいて、お経上げる。
そして馬頭観音。牛馬を農器具の代わりに働いていただいていた。みんな家畜を持っていたが、
耕運機の発達でなくなってしまった。穴を掘って埋めてその上に馬頭観音。亡くなったところに建
てる。
お薬師さん。昔、畑を田圃にしようと思って一生懸命鍬を振っていたら何かが当たった。石だろ
うと思ったらお薬師さんだと言われて、お堂を建てた。地域の病気を治していただく、みんな元気
になるように。
延命地蔵さん。とげぬきをする。
鯖大師。ここは山の中だから魚がこない。お正月の最高の御馳走の一つ。それを弘法さんに委託
してもってきてもらおうと、お祭りするようにした。
お須原さんの中に縁結びというのがある、それは石の表面に穴がいっぱいあいていて、その中に
松葉をうまく通せたら縁が結ばれると。
この辺は御嶽講というのも、昔流行っていた。昔は泣く子をあやす、虫封じ。
●昔は、神仏混合だったが、神社と仏は違うもの。仏(仏儀)と神(神儀)は相いれないからとい
うこと。
神社の階段の途中には見返り台がある。お宮さんに用があったかどうかを考える場所。拍手は神
さまを起こす合図。神社で、拍手の後、手を合わせてお辞儀をするというのは神仏混合したから。
お宮さんはお願するだけ。仏教は反対。仏さんに文句を言いに来る。そうすると、
「あなたの心に
入っているから磨きなさい」と返される。つまり、自ら動かなければならない。
お寺は、
「自分が悪かったな」と言って帰るところ。働きなさい、という教えを教えるところ。
●ここには婦人部というのがあって、2 年に一回障子を張り替える。それも勉強。紙にも裏表があ
って、どっちを表にするかということも教え。糊はどんなものを使うのかも教え。
紙自身は呼吸しているので、初めからきれいにピンとはるのは良くない。自然によくなるから、余
計なことをしないで、というのも教え。こういうのは土地柄。長年地域に住んだ人の体験からくる
もの。
檀家さんが一所懸命、仏さんの足元に近づくために、勉強していらっしゃる。仏壇の並べ方、お
参りの仕方など。
お手元に配った資料。開山さん。
(資料の解説)ここは貧しい地域だった。水のみ百姓。何とかし
ようと心掛けていた。京都へ行った時に、紙すきに気がついた。紙すきの技術を伝え、この地域の
3
生活を麗せようと、師匠を京都から 3 人つれてきた。その時、美濃和紙、ここの森下紙、山梨の紙
の 3 つにおいた。それぞれ技術をみがき、住民を救うように競争させた。森下紙が全国一位になっ
たが、一番早くに消えた。現在は、小原和紙として、残されている。なぜ一位になったのか。塩の
道が足助の巴川まで運ばれる。塩を降ろすと、空船に紙を載せて下におろす。森下というのは、紙
問屋の屋号。この足助の問屋が、船に乗せて下に出す。
紙すきは、山、水、のり(とろろあおりのねばり)を混ぜたもの。その元となるのが、番傘のあ
ぶらがみの土台として使われた。終戦後 60 年頃まですいていた。洋傘に変化し、トヨタ自動車がで
き、車の時代になり、やめてしまった。紙すきの場所を車庫にしてしまった。私はもったいないと
思い、雨受けをコウゾを打つうすを使った。コウゾの毛から、みつまたから、とろろあおいから、
うすから、紙すき道具一式を町内から集めた。どうしようと思っていたところ、町長が村おこしは
なにが無いかと聞かれた。私は紙すき道具の会館をつくることを提案した。いい村おこしだと言わ
れた。100%の予算を組もうとした時に町長が死んだ。続いた町長は小原があるから、時代遅れなの
でやってもしょうがないと言われた。だから、このお寺内に紙すき道具があちこちに置いてある。
●お寺と地域の働きというのを、地元としてのお寺は生きる目標をつけるところ。寺小屋から小学
校が生まれた。寺という地盤はそういう関係で存在している。国がお寺を保護している。国が皆さ
んを育てているから、国の機関として認められている。その代わり、皆さんは直さないといけない。
お寺を大事にし、勉強をさせてもらわないといけない。
■お話「地域の『つとめ』についてのお話」
●本田茂さん(旭支所主幹)
旭地区の人口は 3146。1100 世帯。豊田市では、302 の自治区がある。旭においては、自治区の
下に、町、組、その下に班。常会は組の単位でやっていることが多い。東萩平では、毎月集まる役
員会があり、皆が集まるのは年に 2 回の総会。合併した際に、37 の自治区から、5 つに統合され、
35 組になった。2 つの組がなくなったのは、人口減少のため。となりの組と一緒になって組織して
いる。
私の生まれは旭だが、旭に詳しくない。三好に近いところに住んでいる。帰ってきたら少しずつ
変わっていた。
地域の特長として。少子高齢化が進んでいる。たった 5 年間で 300 人減った。自然減が 200 人、
社会減が 100 人、1/3 が通学等、いろんな事情で旭を去った。その中でも子供人口が大幅に減って
きている。100 人程減った。そうなると高齢化率約 40%。世帯 2.9 人に減った。成人式出席者の 9
割が外から帰ってくる。
5 つの自治区それぞれに小学校があった。現在は 3 校。浅野自治区は小渡小に統合された。来年 4
4
月には築羽自治区が廃校し、来年から 2 校になる。現在築羽は十数人。割り切って考えれば、敷島
小学校で児童数が増えて、70 人以上となり、そちらで多くの友達と過ごした方が、ある意味良い。
来年の 4 月から放課後児童クラブ(学童保育)も始まる予定。両親が就労のために家にいないため、
そういった組織も必要になる。5 つの自治区の下に組がある。笹土自治区では町内会という。その
下に班、または伍長さんがある。これが自治区という組織の形態。
地区全体のコミュニティー。役員会と総務会その下に部会がある。5 つの自治区のうち、敷島は
いちばん元気。自ずと部会も増えている。今日行われているのが、旭のふれあい祭り。
敷島自治区の組織。2010 推進委員とは、各組毎で公表する「しきしまときめきプラン」を、遂行
されているかチェックする組織。敷島の部会、総務部から太鼓部まで…資料に書いておいた。安藤
さんからも説明がある。
5 ページに事業計画。里づくり部では、外の力(敷島のサポーター)豊田紡織、住友ゴムの社員
などを呼び込んで活性化をすすめている。産業部は、地域の特産をつくるということを目標にして
いる。山のマルシェを開設。笹土カントリーで野菜を売っている。
<質問>
Q:産業部の山のマルシェのようなものは、どのような方がされているのですか?個人の仕事と地
域の仕事の関係は?
A(安藤さん)
:私の場合は、仕事と地域活動が半々ぐらい。山のマルシェは、自治区の中の産業部
が企画した事業。産業部の目的は、じいさん・ばあさんが働く場所づくりのきっかけを作ろうと
いうこと。葉っぱビジネスのようなもので、なるべく自治区のお金を使わず、外部資金をうまく
つかって地域を発展させていこうとするもの。他に、家で作った野菜や M-easy の野菜などを一
緒にして、笹土カントリーで売っている。仕事として純粋にやっているわけではない。じいさん
ばあさんにとっては生きがい。
Q:わくわく事業の説明があるといいのでは。
A:わくわく事業とは、豊田市の補助金事業で、地域の自主活動に予算がつく。活動を選考して、
最高 100 万円をつける。活動に必要な消耗品などの経費に使う。ただし人件費は出せない。他の
地区は補助金を使いきれない地区もあるが、旭地区では取り合いになるぐらい活発。
●安藤征夫さん(東萩平町組長)
自治区は合併まではなかった。37 の区(今は組)があっただけ。合併で、37 分の 1 で豊田市に
もの申すのでは弱くて、意見が埋もれてしまう。そこで、20 世帯くらいだったのを 1100 世帯くら
いをバックに話せるように、区を大きくした。稲武と小原の組構成は変わってない。
盆踊りやろう、と毎年やっていてはだめ。何のために盆踊りやるのか。最初の 3 年ぐらいは、昔
の名残があって、事業をこなせばいいとして、やってきた。しかし、最近は自治をしていこうと全
ての行動に何らかの目的を持つようになってきた。単に米をつくるのではなく、無農薬で作ってじ
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いさん・ばあさんの話も聞いて、とするとお小遣いにはなる。
定住促進では、空き家空き農地があるのをどうするか。里づくり部ができた。まずどのくらいの
戸数・面積があるのかアンケート調査をした。2 年初めて数軒入ったところで、豊田市でも定住促
進が始まった。今は空き農地の方をやっている。
こういった田舎は、若い人が少ない。今年より来年、確実に 1 歳年をとる。毎年疲れてくる。よ
その力を借りないと、この地域は良くならない。
里づくり部の仕事。敷島サポーター登録制度。ボーイスカウト、ガールスカウトを公民館に泊め
て、地域の草刈りにも参加してもらう。お祭りに参加してもらえば、子供の声も聞こえる。
東萩平組は 25 戸、3 つの班に分かれている。お役は強制的ではない。例えば、草刈りはみんなが
受益を受ける。宗教関係は微妙。神社の草刈りは他宗教の人は出ない。日曜に参加できなければ、
平日に 2 時間ぐらいやってもらう、など外の人にも参加しやすい形にしている。
■一期生活動報告
●梅原 彰さん
豊森なりわい塾の二年目のプロジェクトとして、豊森メンバーと森音の会※が協働で「もりもりバ
ザー」を実施した。森音の会の拠点ともなっている、小池さんが所有する古民家をかりて、自然資
源を生かした手作り製品やリサイクル品等を販売。現在も継続して、バザーが開催されている。
※石野地区で自閉症の子を持つ親を中心に、障害者も豊かに生きられる地域づくりを目指し活動中。
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■トークセッション①地元の若者をお招きしておしゃべり
●戸田友介さん・育代さん
駒宮:戸田さんに、ここに入るまでの経緯、地域の組織、何に関わって活動しているか話していた
だく。朝もいのししの柵をつけていた、ような。もう少し大きくなるとお子さんに関係したものも
出てくる。今の関わり方について、どう思っているか話していただけたらと思う。
戸田(友)
:嫁さんの育代さんと生後 6 カ月半、4 月 22 日生まれの息子。彼は地元の子。
以前田植えに来ていただいたと思うが、M-easy という会社をやっている。2009 年 9 月、
「日本再発
信、若者よ田舎を目指そうプロジェクト」という事業を、M-easy と豊田市と東大で始めた。元々は
東大の牧野先生の過疎地域調査の流れの中で、この中山間地の課題、担い手がいないことだった。
1 年くらい前、旭に引っ越してきた。その時は妻と二人。当初からいろいろ関わらせていただくな
かで、すごく魅力的な地域だなと感じた。農業をするという切口では中山間地は適していない。日
当たりは悪いし、イノシシはよく出る。大量に生産したい人には向いていない。水がきれいで、安
心、安全なものをつくっていくなら、いい所。
そして、地域のコミュニティーがしっかり残っている。本当に助け合って生きている。僕らがこれ
から、21 世紀の前半に生きていく中で、与えられたものを、1 人でやるのでなく、自分達でつくっ
ていかなきゃいけない。僕らの親の世代も必死で生きてきたのだと思う。特に子どもが生まれてす
ごいなあと思っている。何もしないでいくと悪くなっていく事が多くなっていく時代。僕が M-easy
をはじめたころ、10 年後に安心、安全なものを食べられるのか思っていた。何もしなければ、農家
も消えていく。田舎も疲弊していく中で、僕らが何かをしないといけないと思い、M-easy を始めた。
多分解決するものの糸口が田舎にあるんだろうと思って、ここにいる。この旭という田舎での素晴
らしいものを紡いでいく中で、多分いろんなことが解決していくのだろうなということだけで、こ
こにいる。
築羽の余平に住んでいる。敷島自治区の産業部に所属。今後どうしたらいいか、地元のおじいち
ゃんたちと話している。
消防団にも加入している。消防団の活動頻度は大したことない。月 1 回くらい。夜警や正月の式
はあるけど。消防団の人は責任感の強い 30 代くらいの若者で構成されているが団員不足でどうなる
んだろうという話をしている。産業部会は月一くらいのミーティング。食のワークショップをやる、
視察、講演会等を企画したりしている。観光協会にも入っているので、その仕事もあったりする。
余平組の常会が毎月 1 回、月末の日曜日の夜 7 時。余平の衆は全員出てくる。12 戸しかないので
12 人。
あとはお祭りとかもあるので、寄合がとても多い。月の半分は寄合。奥さんは今のところ寄合に
は参加していない。保育園でお母さんたち同士の集まりに参加するくらい。
●鈴木啓佑さん
駒宮:現地で生まれ育ち、豊田に仕事に行っている。ご自分の地域をどう思っているか、同年代で
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何人くらい地域に残っているか。今の地域にこれからも住むのか、出てゆくのか。
鈴木:地域に対する思いということでは、長男なので家を継ぐのが当たり前として洗脳されて育て
られた。田舎なので百姓仕事の手伝いや山のことも、当然のように、
“長男なんだからやってこい”
とばあちゃんの命令を受けてずっとやってきた。どちらかというと鈴木家を継いでいくのが当たり
前だと思って育ってきた。祖母や祖父母、親父と同じ小中学校に通ってきたので、地元、地域に対
するつながりみたいなのが、すごく強い中で育ってきたのかなぁとは思っている。
合併前は、将来は役場に入って生きるのかなぁと思っていた。大学は県外で、卒業してから一時
期名古屋で暮らしていたこともある。なので、厳密に言うと一回は外に出ていたことがある。外に
出ていた時には、昔から自然豊かなところで育ったので、環境関係の仕事に将来つきたいという思
いもあり、大学もそういう分野を学んだのだが、卒業するときに将来に迷った。夜の仕事もやった
し、プータローのときもあった。工場でルーティンワークを朝から晩までやっていたこともある。
結局は地元に戻りたい気持ちがあったので今に至っている。
今の仕事は豊田市のコモスクエアのビル管理。
地域との関わり方。お役とか地域の寄り合いは親父が出るので関わりが無い。たまに代打で出席
するくらい。
消防団にも入っている。活動は月 1 くらい。地域によっては軍隊のようなところもあるそうだが、
それでは、ここだと誰もいなくなってしまう。定年は 40 歳くらい。和気あいあいとやっている。ち
ょっとした訓練、ポンプを動かす。負担にはなっていない。
お祭り。棒の手をやっている。夏の花火のときは花火を上げる担当をしていた。
押井自体は、じいさんおじさんが元気なので、どっちかというと 40 代、30 代はパワーに圧倒さ
れているのが現状。
同級生、半分くらいは残っている。結婚した人は出ていくけど、男は旭から岡崎とかに通ってい
る人もいる。週末に地元に帰ってくる人、旭で働いている人、田舎がいやで戻って来ない人もいる。
長男だから戻ってきて消防に入れというけどなかなか思うようには乗ってくれない。
<質問>
Q:我々の世代だとコミュニティーがいやで出ていく人はたくさんいたのだが、今はそうでもない
のではという感じもあるが、どうなのか。
A:それぞれ考えていることが違うと思う。消防団に入っている人からすれば、地元に残る覚悟を
もって入っている。敷島だけで 30 人くらいいる。
僕はコミュニティーはまったく嫌じゃない。いたずらっこで公会堂のものをしょっちゅう壊し
て怒られたのもいい思い出。練習はけっこう遅くまで集まり、じいさんたちと飲んだり、昔の話
を聞くのもけっこう楽しい。僕はもっと昔のことを知りたいし、僕らの世代の人は地元学のよう
なものはあまり分かっていない。そういう意味でも、自分の子供が自分と同じ小中学校に行くの
が当たり前だとおもっていたんだけど、現実不可能かもしれない局面にいるところで、自分達の
状況、いままでの状況をもう一度見直して、どうすべきかを考えないといけないだろうなと思っ
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ている。
■トークセッション②U・Iターン者、Uターン希望者、田舎暮らし体験者に聞く
○田舎暮らし体験者
<森 聡子>
●徳島県の佐那河内村に行っていた。人口は 2800 人だったが、この間 2600 人弱になっている。65
歳以上が 1000 人以上。中山間地域。柑橘系が特産品。きれいな棚田も残っているが、耕作放棄地
も沢山ある。元々米どころだった。その後、みかんとなったが、冷害を受けやすいことから、今
はすだちになってきている。
●風力発電があり、四国電力に売っている。村がやっているわけでなく、会社が入ってやっている。
●私が住んでいたところ。上流にある嵯峨峡。下流ではホタルが何千匹も見られる。夏休みにはこ
どもたちが遊びにくる。引っかけ漁であゆをとっていた。
●みかん畑。下にひいてあるのはマルチシート。雨が入らないようにして糖度を上げたり、照り返
しで下の方からも光を当てて全体を黄色にする。収穫したら、倉庫に入れて、出荷時期をずらし
て、値段を上げる。すだちも同じようにやっている。通常は 9 月くらいに取れるが、うまい人は
ゴールデンウィークまでもたせて、高い値で売っている。
●家の前。新しい家は川沿いに、昔の家は、山の中腹、峠に建っていて、峠を越えて、炭焼きをす
る際に、そこが交通となる道沿いにあったので、今はそこに家がある人は不便。1 人暮らしで、
人を呼ばないと降りられない方もいた。
●借りていた家の庭。冬用の野菜を植える為に耕している。私が飼っていたヤギ。オスなのでミル
クをとるためでなく、耕作放棄地対策で村が飼っていた。下草を食べてくれるので荒れない。茂
っているとサル、イノシシが降りてくるので、その対策に村が何匹か飼っていた。牛を飼ってい
た人もいた。そこから牛を借りて食べさせたりしていた。
●農村舞台。徳島県は人形浄瑠璃が盛ん。ここは一度舞台がなくなっており、助成金をもらって復
活させようとしている。舞台の背景も新しく作り直した。回転させる仕掛けなどがきれいな状態
で残っているところもたまにある。
●秋の大祭。前に乗っているのは化粧をしている 3 人の男の子の御神楽。おじいちゃんが多いので、
神輿の下に車輪がつけてある。昔中心だった青年団はなくなった。消防団はある。消防署がない
ので本当に火消しをやっている。消防団は村を守ると言う自負をもってやっている。救急車も来
ない。担当を回しながら、患者を運んでいる。119 にかけると、消防署につながり、そこから担
当に携帯連絡がいく。
●小さい祭りは人が来ないので、トラックで引っ張っていくこともある。もっと人が集まらないお
祭りになると、軽トラの荷台に乗る。6 社参りという、村にある 6 つの神社をまわらないといけ
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ないため、とても神輿をひいていけないため。
●ぼうぜの姿寿司。すだちでしめる寿司。
●村内一斉草刈が年に二回、村内一斉川掃除の日もある。お父さんたちは草刈りをし、お母さんは
集会所でご飯を作って、終わった後宴会をする。きれいに草刈り機を並べて刃を見比べたり、写
真を撮ったりしている。
●鳥獣害対策のイノシシおり。イノシシを取ると、いくらかもらえるので、取ったら記念撮影をす
る。提出するとお金がもらえる。カラスもお金が降りる。もらったお金で忘年会をする。サルは
捕りにくいため、5 万円もらえる。
Q:森さんは何をしていたのか。
A:農家の手伝いをすることが多かった。農家から役場に依頼があり、受け入れ先の自治体担当者
から連絡がくる。すだちの収穫、卵拾い、花の収穫、植え付け等。休みの日はお祭り、運動会の手
伝い。その他に地域の活動、常会に参加した。常会は行政の区分。住民票を移すと、所属する常会
を指定される。そこに参加すると、常会長を通して行政からの連絡が皆に伝えられる。それとは別
に、昔からの自治互助組織として講やみょうちゅうがある。講は、今は常会にとって替えられてい
るが、昔の互助組織なのでお葬式があった時に助け合ったりする。祭りはみょうちゅうという単位
で回している。常会は集会場で行われる。講は担当の家で行われ、担当がご飯を用意する。
Q:この村から森さんがいなくなったら大変では?1 人分の労働力がへるのでは。
A:自治体が手を上げ続ける限り、毎年緑のふるさと協力隊から 1 人派遣される。大川原高原の下
ったところの葉っぱビジネスでは、毎年 2 人ずついれている。
この村にはいって私は 3 人目。前の 2 人は、キュウイ農家。役場で就労。
応募して面接があり、自治体のリストから第 1~3 希望まで出し、マッチングされる。その前まで
食品会社、お菓子会社で勤めていた。工業的に作られたり、見た目が悪い、規格外製品等が焼却さ
れるのが解せなくて慣れなかった。生産者側をがっつり見たかった。
Q:1 年こういう経験をして一番大きく変わった部分があるとしたら何か。
A:地域についての考え方が変わった。新興住宅地で育ったので、地域のつながりはなく、お祭り
もない。学校でやる盆踊りだけだった。それがずーっと続いてあるのがすごいということと、何か
にかけて、気にかけてくれること。いいところもわるいところもすごく近くて常に見られている。
車があったら寄ってくれるし、自分のために買ってきてくれたであろうご飯やアイスをくれたりと
か、知らない車が泊まっていたらあれは彼氏か、いつ結婚するんだとか、わたしが自然栽培で育て
ていたハーブを雑草と思って除草剤をかけてくれたりとか(笑)。でも年代に関係なく優しくて、誰
にでも身近に接してくれるのはとても嬉しかったし、すごいなぁと思った。こういう付き合い方が
あるのだなという根本的なところが変わった。
Q:その村の根本的な課題はなんだったのか。高齢化が進んでいるようだったが
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A:中学校が 1 クラス 20 人。来年度から小中一貫になる。1 年に生まれる子供が 10 人いくかどう
か。10 人未満が 2 年続くと複式になってしまうらしい。どこに予算がかけるのか、小中一貫にする
のも耐震性の問題で建物をどうせ新しくするならという話にもなったが、人口の割合からすると高
齢者の方が圧倒的に多いのに予算のかけ方としてどうなのかとか…。
Q:12 月に人口問題を扱うが、2600 人で 10 人くらいの赤ちゃん。全体が 2600 人いるところで持
続可能な状態を作るには、子供が毎年 1%、26 人はいないといけない。その半分だから大変。なぜ
1%なのか。0 歳から 100 歳まで同じ人数いると 1%。それよりちょっと多い方が望ましいので、30
人くらいいないとやばいですね。
A:1 人っこの家はほとんどいない。育てやすい。徳島市の駅まで車で 30 分。ぜんぜん通えると思
うのに、徳島の人からするとすごく遠い。ここじゃなくてもいいし、徳島市でも安いし、ここに住
まなくてもという感じになっている。
Q:子供は大きくなるとどこへ出ていくのか。
A:大学、県外、就職で出る子が多い。大塚製薬とか。働き口に困っているようには見えなかった
のだけれど。I ターン、U ターン者もいるが、定年しておうちを建てて、という人が多い。
■U ターン
<志津 晴巳>
●先週、
「蛭森」をして案内した。
地形に関して。航空写真。木曽川、大井ダム、恵那峡橋を渡ると蛭川。笠置山、二つ森山等に囲
まれた縦長の盆地。
自治体は 14 地区。蛭川は一番奥の和田。こういう地形なので、恵那に出るにはいいが、外の人が
入りにくく閉ざされている。和田地区は 68 戸の集落。
●6 年前、合併する前に、補助金が出るから慌てて公民館を建てた。補助金半分、和田で持ってい
た山の貯金、積立てて出費した。和田の寄り合いはだいたいここでやる。
●お酒がある寄合は、いきつけの飲み屋。小さい頃はなかったが、こんな田舎にできたことは奇跡。
2000 円で十分飲んで食べられる。
●安弘見神社。杵ふり踊りという祭りがある。参加者 18~25 歳までの若者。当番を持ち回りでやる。
1 カ月くらい前になると、笠や杵の色を塗ったり、当日の世話をする。
●中津川市になってから、地区の運動会がどんどんなくなる中、蛭川は残っている。予算も競技も
減っているのでやめようと声もでている。運動会。強制的に出る競技を決められ、出場する時だ
け来る。78 回も続いている。
昔の運動会の慰労会は座れない人がいるくらいだが、今は少ない。一方で 30 代くらいの若い人も
来るようになった。I ターンや養子で入ってきている人がいる。養子の人はムコと呼ばれていたり
する。慰労会は年齢を越えたおつきあいができ、いいなあと感じている。
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●班で愛林作業。山の下草刈りをする。BBQ も実施している。
●甲子講。甲子の日に、和田地区の古い家の人が 2000 円くらい持ち寄る。江戸時代からやっている。
大黒様の掛け軸をかざり、飲む。
●務め。蛭川に 4~5 区ある。第一区にある 3 つの自治会の一つが和田。7 班の内の一つに稲舟班(10
戸)がある。
●年を取ると自治会長か営農組合長のどちらかをやらないといけない。役が回ってくる。
●神国教。蛭川には寺がない。神官、教祖とは別に、神国教信務委員を各自治体から 1 人ずつ出す。
総元締めは、蛭川の中心地にある。蛭川の人しかいないので信者は増えも減りもしない。
●和田地区の集まりがいくつかある。僕は、蛭子会に入っている。昔は PTA とかやっていたが、今
はただの飲み会。本来はこういったところが活性化の源にならないといけないと思うが。
●同級生無尽も月1の飲み会。班での無尽、甲子等、無尽が多く残っている。
●班長の仕事。葬式では司会を務める。
●地域の活動は、去年と同じ事をやるスタンス。夏祭りも子どもと言うよりは、大人の飲み会にな
っていて、活性化はしていない。神社関係は、白山神社、安弘見神社等の大祭当番が順番で回っ
てくる。各神社の総本社にお札をもらってくる当番もある。
<塚田 大輔>
●鈴木さんと同じで大学で 4 年県外に行って、仕事をやめたりやったりぼちぼちしている。五反田
という集落。30 戸程度。ほとんどじいちゃんばあちゃん。若い人は前後からまばらにぼそぼそと
いる程度。隣にお寺があるが、小さいころから打ち囃子の音を聞きながら育った人間で、お祭り
が大好き。太鼓が叩きたくてしょうがない感じの子供だったみたい。
●奥にあるのが薪小屋。まきストーブがあるので、薪をもらって割って。来年くらいから薪の販売
を始めようということで、親父が定年するのでちょっと考えて、住宅屋と話をして、入った注文
をおやじが受けて配達することを考えている。DLD という会社。豊橋に支社があるみたいで、そ
こに出入りしている建築家と飲み屋で会って、話が膨らんだ。ビジネスというより小遣い稼ぎ程
度だが。いちおう来年は田圃を土場にして薪置き場をつくってやろうかなと。水はけがよすぎて
田圃として不向きなので。田圃は 2、3 反くらいしかない。自給するには十分、売っている。
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4、当日の様子
三玄寺:住職のお話
お話「地域の『つとめ』について
ゆんたくタイム
第一期プロジェクト紹介
トークセッション①
トークセッション②
「地元の若者をお招きしてトーク」
「U・Iターン者、田舎暮らし経験者に聞こう!」
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