ヴェルディ歌唱と演奏スタイルの変遷

ヴェルディ歌唱と演奏スタイルの変遷
── 続:ヴェルディ作品の演奏解釈とその歴史性 ──
水谷 彰良
初出は『ロッシニアーナ』
(日本ロッシーニ協会紀要)第 34 号(2014 年 2 月発行)
。
書式を変更して一部改訂し、HP に掲載します。
(2014 年 3 月)
はじめに
本論は、ヴェルディ没後 100 周年の 2001 年に発表した「ヴェルディ作品の演奏解釈とその歴史性」1の続編で
ある。前回は 20 世紀の演奏慣習と楽譜解釈を批判的に考察し、ヴェルディ自身の意図や真の原典に立ち戻るこ
との重要性を説いたが、本論ではヴェルディ歌唱の歩みを概観しつつ 19 世紀末~20 世紀の演奏スタイルを歴史
的録音に基づいて検証し、21 世紀に浮上した諸問題を明らかにしてそのまとめとする2。なお、
「ヴェルディ作品
の演奏解釈とその歴史性」は、その増補改訂版を日本ロッシーニ協会ホームページに掲載済みなので併せてお読
みいただければ幸いである。
I. 1830~80 年代のヴェルディ作品における声と歌唱、作品と初演歌手の関係
I-1. 女性歌手のドラマティックな発声歌唱と、中期作品までの初演歌手
ジュゼッペ・ヴェルディ(Giuseppe Verdi,1813-1901)がオペラ作曲家となるため
に学んだ 1830 年代は、ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティの作品が演目の中
心であった。けれどもヴェルディが装飾的で華麗な歌唱を聴かせる「歌手のための
オペラ」に与せず、ドラマに沿った演劇的な表現と力強い発声歌唱を早くから求め
たことは、出世作《ナブコドノゾル》
(1842 年。通称《ナブッコ》
)が証左となる。ナ
ブッコ役には後にヴェルディ・バリトンと総称される性格的バリトンの先駆者ジョ
ルジョ・ロンコーニ(Giorgio Ronconi,1810-90)の資質が反映され、若く才能に恵ま
れた歌手との出会いがこの声種に対するヴェルディの信頼を高めたことが判る3。
これに対し、アビガイッレ役に求めたドラマティックで力強い声の用法は、それ
ジョルジョ・ロンコーニ
以前のベルカント・オペラとは異質の強い声による激烈な歌唱が想定されていた。
そしてこれが初演歌手ジュゼッピーナ・ストレッポーニ (Giuseppina Strepponi,
1815-97)の喉を疲弊させ、後に 30 歳の若さで引退する原因になったとされる。ア
ビガイッレは 20 世紀にマリア・カラスが現れて真価を認められたソプラノ・ドラ
ンマーティコ・ダジリタ(soprano drammatico d’agilità)と呼ばれる特殊な声のタイ
プで、醜く邪悪な声を求めたレディ・マクベス役と共に、ヴェルディが初期の段階
から同時代の歌手の能力や常識を超える声と用法を求めたことが判る。
ヴェルディが当時の歌手の能力を超える声楽的要求を突き付けた理由の一つに、
演劇的表現を重んじたことが挙げられるが、初演歌手に恵まれなかったことも一因
であろう。1840~50 年代の卓越した歌手はみな活動の場を国外に移し、ミラーノ、
ヴェネツィア、ナポリでは一流でないイタリア人と外国人歌手が主役を務めたから
ジュゼッピーナ・ストレッポーニ
である4。1844 年にフェニーチェ劇場で《エルナーニ》を初演したヴェルディは、
「せめて音程の狂わない歌手たちが歌えば《ナブッコ》や《ロンバルディーア人》に匹敵する成功を収めたでし
ょう」と前置きし、エルナーニ役のカルロ・グアスコ(Carlo Guasco,1813-76)を「声が無く、驚くほどかすれ声
のテノール」、エルヴィーラ役のソフィア[ゾフィー]・レーヴェ(Sophie Löwe,1815-66)については、「これ以
上音を外すのは不可能なほどひどく歌った」と述べている(ジュゼッピーナ・アッピアーニ宛の書簡、1844 年 3 月 10
日付)5。だが 2 年後に同じフェニーチェ劇場で初演した《アッティラ》は、この二人が主役を務めたのである。
ドイツ人のソプラノ、レーヴェは 1842 年 12 月 26 日に《ナブコドノゾル》再演でフェニーチェ劇場にデビュー
1
し、《エルナーニ》初演ではわざと調子外れに歌って作曲者と作品への不満を表したとも言われるが(レーヴェは
フィナーレにロンドを求めてヴェルディに拒否された)、その後はドラマティックな歌唱法のため早期に声が衰え、
《ア
ッティラ》初演から 2 年後の 1848 年に 33 歳で貴族と結婚して舞台を退いた。
オペラの演劇性が重視されると、ドラマティックな感情表現による劇的歌唱への移行を不可避とした。こうし
た劇的歌唱はイタリア・オペラではロッシーニの改革的オペラ・セーリアのヒロインを務めたイザベッラ・コル
ブラン(Isabella Colbran,1784-1845)が先駆者であるが、コルブランはロッシーニ作品の強靱なアジリタの役柄を
歌った数年間に喉が疲弊し、引退を余儀なくされた。ベルカントから劇的歌唱への転換期に当たる 1830 年代に
は、多くの歌手が短期間の活動で歌手生命を終えており、1832 年に 18 歳でマイアベーア《悪魔のロベール》ア
リスを歌ってパリ・オペラ座にデビューし、1836 年の《ユグノー教徒》初演でヴァランティーヌを創唱してフラ
ンス初のドラマティック・ソプラノとなったコルネリ・ファルコン(Cornélie Falcon,1812-97)も、デビューから
僅か 6 年で声を失い、24 歳の若さで引退している。にもかかわらずファルコンは、ドラマティック・ソプラノの
代名詞として後世にその名を残したのだった。
ならばヴェルディ作品の初演ソプラノがみなドラマティックな歌唱でキャリアを縮めたかと言えば、そうでは
ない。例外の一人が《レニャーノの戦い》
(1849年)初演でリーダを創唱したテレーザ・デ・ジューリ=ボルシ(Teresa
De Giuli-Borsi,1817-77)である。デ・ジューリ=ボルシの最大の功績は《レニャーノの戦い》ではなく、ストレッ
ポーニに続くアビガイッレ歌手としてスカラ座の《ナブコドノゾル》再演(1843年8~
9月)で圧倒的成功を収め、合計57回の上演を達成したことにある。ストレッポーニは
初演の8回に出演し、他の劇場でもアビガイッレを歌ったが(1843年のパルマとボローニ
ャ、1844年ヴェローナ、1845年アレッサンドリア)、ヴェルディの理想としたソプラノ・ド
ランマーティコ・ダジリタを具えた歌手は間違いなくデ・ジューリ=ボルシであり、
合計57回の数字もスカラ座の歴史における金字塔となっている。
22歳でデビューしたデ・ジューリ=ボルシは25歳で歌ったアビガイッレで脚光を浴
《イル・
び、その後レディ・マクベスやエルヴィーラ(《エルナーニ》)を各地で演じた。
トロヴァトーレ》を作曲中のヴェルディは、ローマの劇場から提案されたデ・ジュー
リ=ボルシ、テノールのガエターノ・フラスキーニ(Gaetano Fraschini,1816-87)、バ
テレーザ・デ・ジューリ=
リトンのフィリッポ・コリーニ(Filippo Colini,1811-63)の3人を、ヴェネツィアの劇
ボルシ(1845年頃)
場から提案されたフレッツォリーニ(後出)、バリトンのフィリッポ・コレッティ(Filippo
「ローマの歌手団の方が《トロヴァトーレ》に適している」
Coletti,1811-94)と比較し、
と述べている(サルヴァトーレ・カンマラーノ宛、1851年9月9日付)6。だが、1853年1月
19日にローマのアポッロ劇場で行われた《イル・トロヴァトーレ》初演に前記3人は出
演せず、ヴェルディがそれ以前に一度も歌声を聴いたことのないロジーナ・ペンコ
(Rosina Penco,1823-94) がレオノーラを創唱した。そしてペンコを評価したヴェルデ
ィは、
《ラ・トラヴィアータ》ヴィオレッタに最適の歌手として彼女をフェニーチェ劇
場支配人カルロ・マルツァーリに推薦したが(1853年1月30日付)7、劇場側は歌手との
契約を楯に、同じ手紙に書かれた「絶対にサルヴィーニ夫人へ与えるわけにはいかな
い」との言葉を無視してファンニ・サルヴィーニ=ドナテッリ(Fanny Salvini-Donatelli,
ロジーナ・ペンコ
1815-91)を起用したのである。
それゆえヴェルディは初演の翌日、弟子ムツィオに、
「昨晩失敗。私のせいか、歌手たちのせいか?……時がそ
れを判断するだろう」と書いた(1853年3月7日付)8。ヴェルディは初日の観客の反応や評価と関係なく、自分の
望むレヴェルに達しない上演を失敗と位置づけ、
作品にふさわしい歌手が演じて成功することを願ったのである。
ちなみにヴェルディは、熱狂的成功を収めた《イル・トロヴァトーレ》初演についてもこれを成功と認めず、
「歌
手団がもっと良ければ、もっと良い出来だったでしょう」と述べている(クラリーナ・マッフェイ宛、1853年1月29
日付)9。
その後ペンコがパリのイタリア劇場プリマ・ドンナとなり、再興への期待が寄せられていると知ったヴェルデ
ィは、レオン・エスキュディエに対してこう述べた──「イタリア劇場を再興させるのは、絶対にペンコの成功で
はないでしょう。ラ・ペンコは素質があって美人ですが、彼女はもはや5年前の《トロヴァトーレ》の時の女で
はないのです。当時の彼女は感情豊かで情熱に身を委ねましたが、現在は30年前に歌われたように歌いたがって
います。私は彼女が今から30年後に歌われるように歌ってほしいのですが」
(1858年10月20日付)10。ペンコは《イ
ル・トロヴァトーレ》初演に続いて同年リヴォルノとナポリでレオノーラを歌い、ヴェルディが否定的見解を書
いた後も《仮面舞踏会》のフランス初演(1861年1月13日、イタリア劇場)、ロンドンのコヴェント・ガーデン王立
歌劇場における《仮面舞踏会》初上演(同年6月27日。イギリス初演はその12日前にロンドンのリセウム劇場で行われた)
2
のアメーリアを歌うなど、ヴェルディ作品で国際的に活躍した。
ロッシーニは時代最高の歌手と仕事をし、彼らの技巧を最大限に発揮させたことから個々の役が創唱歌手の声
と技巧の肖像になっているのに対し、中期までのヴェルディ作品と初演歌手の間には、埋めがたい溝や作曲者の
イメージした声と歌手との乖離が存在する。アビガイッレの創唱歌手がストレッポーニであってもその声と用法
は彼女に合致せず、最初の再演で歌ったデ・ジューリ=ボルシに適っていたのである。だが、これはデ・ジュー
リ=ボルシのスカラ座デビューであり、ヴェルディはそれ以前に彼女の歌を聴いていない。おそらくヴェルディ
にとってのソプラノ・ドランマーティコ・ダジリタのイメージは、若き日に聴いたマリア・マリブラン(Maria
Malibran, 1808-36)の声と歌唱──ヴェルディは 1832 年 6 月から 1834 年 6 月までミラーノでヴィンチェンツォ・
ラヴィーニャに師事したが、その間の 1834 年 5 月にスカラ座でマリブランがノルマとデズデーモナ(ロッシーニ
《オテッロ》
)を歌い、センセーションを巻き起こしていた11──と、実演を聴く機会を逸したものの語り草となっ
ていたジュディッタ・パスタ(Giuditta Pasta,1797-1865)とその演目──パスタは 1831 年 12 月 26 日スカラ座の
《ノルマ》初演で大成功を収め、続いてドニゼッティ《パリ伯爵ウーゴ》初演のビアンカを創唱、
《アンナ・ボレ
ーナ》と《オテッロ》も歌ったが、一連の上演はヴェルディがミラーノ入りする前の 1832 年 4 月に終わってい
た──の楽譜を通じて形成されたはずである12。
ヴェルディ作品と歌手の関係を考える上で興味深い事例を、もう一つ挙げておこう。それが《第一次十字軍の
ロンバルディーア人》
(1843 年)ジゼルダと《ジョヴァンナ・ダルコ》
(1845 年)タイトルロールを創唱したエル
ミーニア・フレッツォリーニ(Erminia Frezzolini,1818-84)である。高名なバス歌手で《愛の妙薬》ドゥルカマー
ラを創唱したジュゼッペ(Giuseppe Frezzolini,1789-1861)を父に持ち、同時代の優れた歌手に学んだ彼女は 19 歳
の若さでフィレンツェのペルゴラ劇場で《ベアトリーチェ・ディ・テンダ》を主演してセンセーショナルな成功
を収め、21 歳でミラーノのスカラ座プリマ・ドンナとして《ルクレツィア・ボルジア》に出演して大成功を収め
た(《第一次十字軍のロンバルディーア人》初演で熱狂的成功を収めたのは 24 歳の時)。現存するヴェルディ書簡にフレッ
ツォリーニに関する言及が乏しく、文献でも等閑視されているが、パリのイタリア劇場で行われた《イル・トロ
ヴァトーレ》フランス初演(1854 年)、《リゴレット》フランス初演(1857 年)、《第一次十字軍のロンバルディー
ア人》フランス初演(1863 年)のヒロインでも高い評価を得た(とりわけレオノーラと
ジルダにおいて)。フレッツォリーニはヴェルディ作品と関わる前にロンドンとヴィー
ンにデビューしており、スカラ座出演は《ジョヴァンナ・ダルコ》の初演が最後とな
り、その後の活動は他の一流歌手と同様、マドリード、サンクト・ペテルブルク、パ
リ、北アメリカなどイタリア以外の地で展開された。
「大胆さ、激しさ、哀感(パトス)に加えて声質の美しさでもマリブランに比肩した」
13フレッツォリーニが喉をつぶさず長くキャリアを保ったのは、マリブランの父ガル
シアを含むベルカントの声楽教師から入念な教育を受けて柔軟な発声と表現法を身に
つけ、ベッリーニとドニゼッティの後期作品を通じて習得したドラマティックな歌唱
法でヴェルディ中期の 3 役を歌ったことにあり、カンタービレの反復部にタイプの異
エルミーニア・フレッツォリーニ
なる装飾的変奏を加えたとの証言も残されている14。
19 世紀のヴェルディ歌唱に関しては現在もなお初演歌手を中心に語られるが、中期までの作品が必ずしも同時
代の最良の歌手により初演されなかった事実に留意する必要がある。歴史的なヴェルディ歌唱の実態や声楽的特
質の究明も、初演歌手でない時代最高の歌手たちが、どこで、何を、どのように歌って評価されたかが重要であ
り、現在ヴェルディ研究の眼はそこまで及んでいない(歌手がヴェルディの初期作品に与えた影響は研究されているが、
ここに述べた視点でのデ・ジューリ=ボルシ、ペンコ、フレッツォリーニに関する本格的研究は、筆者の知るかぎり行われてい
ない)。
I-2. テノーレ・ディ・フォルツァとヴェルディ時代の声楽的凋落
1830 年代のテノール過渡期の問題はさまざま書かれているので、本稿では必要最小限の記述にとどめ15、ベル
カントの凋落と後期ヴェルディ作品の歌唱について付言しておきたい(過渡期の詳細と論拠は拙稿「ヴェルディ作品
の演奏解釈とその歴史性」を参照されたい)。
ヴェルディがオペラを書き始めた 1830 年代は、ファルセットや頭声で高音を歌うテノーレ・ディ・グラーツ
ィア(tenore di grazia[優美なテノール])から高いイ音(a’’)以上の音域に胸声を適用するテノーレ・ディ・フォ
ルツァ (tenore di forza[力強いテノール] 16 ) への転換期に当たり、後者の先駆者ジルベール=ルイ・デュプレ
(Gilbert-Louis Duprez,1806-96)が胸声のハイ C(c’’’)で大成功した結果、前者を代表するアドルフ・ヌリ(Adolphe
Nourrit,1802-39) の自殺を招いた経緯は広く知られている。そして発声歌唱の転換が急激であったため、テノー
3
ル・ディ・フォルツァから柔らかな響きや陰影、滑らかなフレージング、高度なアジリタ技術などのベルカント
の美質が失われてしまった。中期までのヴェルディ作品の重要テノール役がエルナーニとマンリーコしかなく、
それ以外は主役であるソプラノとバリトンの相手役を務める半性格的役柄(メッゾ・カラッテレ)に留まったのも、
こうしたテノールの過渡的性質に起因すると思われる。
だが、ここにも作品と初演歌手の間に齟齬があった。エルナーニを創唱したカルロ・
グアスコは《第一次十字軍のロンバルディーア人》初演でオロンテを創唱し、続いてヴ
ェルディの求めで《エルナーニ》に起用されたが、1836 年に《グリエルモ・テル》漁師
役でスカラ座デビューしたことでも判るようにテノーレ・ディ・グラーツィアであり、
ヴェルディがエルナーニにイメージしたタイプではなかった。稽古段階から喉が不調だ
ったグアスコは《エルナーニ》初演の最初の数回はコンディションが最悪で、5 日目の
上演で持ち直した。それゆえヴェルディは初演に満足しなかったが、にもかかわらず新
聞批評はグアスコの声の甘美さを称賛し、同年秋のスカラ座上演でも「最高に優美
(soavissimo)」と絶賛された17。その後エルナーニはヴェルディがイメージしたであろ
カルロ・グアスコ
うテノーレ・ディ・フォルツァの持ち役となり、今日に引き継がれている。
《リゴレット》のマントヴァ公爵についても再考の余地がある。初演歌手ラッファエーレ・ミラーテ(Raffaele
Mirate,1815-95)はテノーレ・ディ・フォルツァであったが、その後継者たちは第 2 幕アリアのカバレッタをカッ
トするか、歌っても一度だけで反復をカットし、音楽を歪めてしまったのだ(20 世紀初頭~1930 年の実例について
は本論 II で明らかにする)。現代のテノールに困難なこのアリアがなぜミラーテに歌えたのかとの疑問は、彼がナ
ポリの音楽学校でカストラートのジローラモ・クレシェンティーニ(Girolamo Crescentini,1762-1846)に師事し、
パリのイタリア劇場でロッシーニの《オテッロ》ロドリーゴ、《湖の女》ジャコモ 5 世、《ラ・チェネレントラ》
ドン・ラミーロ役で活躍したことから推察しうる。クレシェンティーニはソルフェッジョを徹底的に学ばせる 18
世紀ナポリ派の声楽教育の継承者にしてコルブランの師であり18、イタリア劇場はロッシーニの尽力でベルカン
トの聖地となっていたのである。ミラーテはこの二つに学んで柔軟な発声歌唱を身につけ、ヴェルディの初期作
品や《ランメルモールのルチーア》エドガルドで大成功を収めた。その後マントヴァ公爵はベルカントの基礎を
欠くテノーレ・ディ・フォルツァの持ち役となって本質が損なわれ、20 世紀に攻撃的性格を付与されて役のイメ
ージも変質してしまったが、本来のタイプは《ラ・トラヴィアータ》アルフレードと
同様、半性格的であった。
現在もなお主流の、旋律の中で高音を強調し、歌い終わりの音を勝手に高く上げて
延ばす演奏スタイルも 1850 年代に始まったようだ。これに関して《イル・トロヴァ
ト ーレ 》初 演でマ ンリ ーコを 創唱 した カルロ ・バ ウカル デ [ ボ ー カ ル デ ]( Carlo
Baucardé,1825-83)がそれを行い、ヴェルディも容認したとの説があるが、事実無根で
ある19。テノールがハイ C を誇示することの擁護に、エンリーコ・タンベルリック
(Enrico Tamberlick, 1820-89)のために書かれた《運命の力》
(1862 年)のアリアにハイ
C の記譜された事実を挙げる者もいるが、これを初演時の特例と考えたヴェルディは
貸譜のすべてに 1 音低い移調譜を掲載するよう出版社に指示し(ティート・リコルディ
宛、1863 年 4
エンリーコ・タンベルリック
月)20
、後の改訂ではこのアリアを削除した。
ヴェルディがタンベルリックに対し、
「聴衆の欲するものを拒絶しないように。あなたに良い声で歌えるのなら
ハイ C を歌いなさい」と言ったとする書き手もいるが、作り話の域を出ない。なぜならヴェルディは演奏者が自
分勝手に音楽を変える行為を「芸術に対する侮辱」と考え、晩年に至るまでこれを批判し続けたからである──
「私は歌手たちが楽譜に書かれたとおりを、ただ単に正確に演奏してくれればそれで満足なのです。いけないの
[中略]私は創造するという権限を、歌手たちにも指揮者たちにも認めませ
は書いてあることを実行しないこと。
ん。それは奈落へと転落する始まりなのです」
(ジューリオ・リコルディ宛、1871 年 4 月 11 日付)21。
「私は最善を尽
くしてオペラを作曲しています。僅かな部分でさえ、聴衆の意見にけっして惑わされずにこれを作り、彼らのも
とに送り出してきました」
(ヴィンチェンツォ・フラウト宛、1848 年 11 月 23 日付)22。
「私は、私が欲するとおりにさ
まざまな役が歌われることを求めています」
(ジューリオ・リコルディ宛、1871 年 7 月 10 日付)23。
「芸術的侮辱とい
うべき演奏を、私はけっして容認できません」
(同前宛、1894 年 6 月 9 日付)24。
登場人物の性格と心理を徹底的に考え、それを確かに造形しようとしたヴェルディは、歌手に対して自分の役
を真に生きた人間として歌い演じることを求めた。そのために台本作者に厳しく書き直しを要求し、自宅に引き
籠もって作曲したが、稽古で直面したのは作曲者の意図を理解せず、楽譜を無視して声や技術を誇示したがる歌
手ばかりだった。レーヴェが《エルナーニ》にロンドを求めてヴェルディが拒否したことはすでに記したが、デ・
ジューリ=ボルシも夫を通じて《リゴレット》再演用にジルダの追加アリアを求めて拒否されている(カルロ・ア
4
ントーニオ・ボルシ宛、1852 年 9 月 8 日付)25。ヴェルディが断り切れずに差し替えアリアを書いても(例えば《エル
ナーニ》第 2 幕の差し替えアリア)、それは特例であってみずからの意志で改作を意図したわけではない。
その一方、19 世紀後半を通じてオペラ歌唱が荒々しくなった原因を作ったのも、ほかならぬヴェルディ自身で
あった。雄弁な管弦楽を用いたヴェルディが歌の旋律にユニゾンやオクターヴで楽器を重ねたため、歌手たちも
負けじと大声を張り上げるようになったのである。ヴェルディは「声のアッティラ(Attila delle voci 註:「声の虐
殺者」を意味)」とあだ名されたが26、それは彼が胸声の過度な高音を普及させ、歌手と歌唱を駄目にしたことへ
の批判であった。声楽教師として名高いハインリヒ・パノフカ(Heinrich Panofka,1807-87)が、「ヴェルディのド
ラマティックなオペラを歌うには美しく力強い声があればいいと信じる若者たちが、歌を半年学んだだけでデビ
ューしようとする」と嘆いたのは 1866 年である27。
ベルカントの喪失が意識され、声楽教育の改革が叫ばれ始めたのもこの頃からで、イタリア公教育大臣エミー
リオ・ブローリオは音楽院制度を改めてイタリア音楽の復興を目的とする音楽協会の設立を 1868 年に提案、ロ
ッシーニに総裁就任を要請したが、ロッシーニは健康上の理由でこれを固辞した。ヴェルディも 1871 年に公教
育大臣チェーザレ・コッレンティから音楽教育改革委員長に求められて固辞したが、上院議員ジュゼッペ・ピロ
ーリ宛の手紙に自分の意見をこう述べた──「私が歌手に望むこと:音楽の広範な知識、発声練習、過去と同様
の長期にわたる歌唱練習曲の学習、明瞭で完璧な発音による発声と言葉の練習」、「音楽的に優れ、訓練され柔軟
な喉を持つ若者が、自分自身の感情にのみ導かれて歌ってほしいものです」、
「こうした音楽の学習に多くの文学
(1871 年 2 月 20 日付)28。この言葉は当時の歌手に音楽や文学の教
的教養を伴うことは、言うまでもありません」
養がなく、柔軟な喉を持たぬ者が専門教育を受けずに舞台で歌ったことを示している。パノフカも嘆いたように、
歌手を志す者が長期の訓練なしに舞台に立ったのである29。
ヴェルディ後期作品のソプラノとテノールには、初演歌手の資質と無縁に同時代のフランスで発達した抒情的
な声、すなわち情熱と官能性を併せ持つリーリコが想定されていた。これには劇的局面で声を押し出す用法(ス
ピント)──後に「ヴェリズモ的」と呼ばれる激しい表出──も加味され、ヴェルディもそうしたデクラメーシ
ョンや声の用法を先駆的に用いた一人である。
《ドン・カルロ》イタリア初演(1867 年。初演版《ドン・カルロス》のイタリア語訳)の
エリザベッタ、《運命の力》改訂版初演(1869 年)のレオノーラ、《アイーダ》イタリ
ア初演(1872 年)のアイーダを務め、《レクイエムのためのミサ曲》(1874 年)初演と
そのパリ、ロンドン、ヴィーン再演で歌ったテレーザ・ストルツ[シュトルツ](Teresa
Stolz,1834-1902)は、ヴェルディにとって理想的な後期作品のプリマ・ドンナであった。
ボヘミアに生まれ、イタリアで声楽を修めたストルツは、20 世紀の東欧系ドラマティッ
ク・ソプラノと同じタイプの歌手だったと思われる。評者の一人はこう述べる──「ス
トルツ夫人の声は非常に清らかなソプラノで、とてつもなく音域が広く、その美質は誰
も聴いたことがないほど完璧で素晴らしいものである。[中略]音色には繊細さとダイ
ヤモンドの輝き、銀の鐘の甘さがある。けれども彼女のド[以上の音]の強さには、聴く
者を唖然とさせるものがある…」(1875 年 6 月『シカゴ・タイムス』)30。
テレーザ・ストルツ
だが、ストルツのようにヴェルディ作品にふさわしい歌手は稀だった。人気歌手の多
くは同時代の人気オペラを、自分の声質を考慮せずにレパートリーとしたからである。
歴史に名を残したアデリーナ・パッティ(Adelina Patti,1843-1919)がその典型で、1843
年生まれの彼女は 7 歳にして演奏会で歌い、18 歳でコヴェント・ガーデン王立歌劇場に
デビューして世界的名声を得た。パッティはストルツが引退した 1877 年の 11 月 3 日に
《ラ・トラヴィアータ》でスカラ座デビューし、同月中に《ファウスト》
《セビーリャの
理髪師》
《イル・トロヴァトーレ》を主演、翌 1878 年 3~4 月には再びスカラ座で《夢
遊病の女》《アイーダ》《ラ・トラヴィアータ》を歌った。一連の公演は熱狂的成功を収
めたが、今日の基準ではロジーナやアミーナに適した歌手がアイーダにふさわしいと思
われぬだろう。パッティは常に最高額の報酬を要求し、ポスターに自分の名前を大きく
掲げるよう契約に盛り込んだことでも知られるが、そこにはリハーサル免除の項目も含
アデリーナ・パッティ
まれていた。
ヴェルディは 1862 年にロンドンで初めてパッティを聴いて以後、一貫して彼女を歌手=女優としてきわめて高
く評価し、スカラ座デビューの大成功を報せるジューリオ・リコルディに対しても、パッティが 10 年前と同じ
完璧な存在であり、歌手と女優の完璧なバランスが取れ、
「言葉の持つあらゆる意味において芸術家に生まれつい
た人」「芸術における例外的存在」と断言している(1877 年 10 月[または 11 月]5 日付)31。だが、サンターガタ
に暮らすヴェルディがスカラ座の公演を聴かなかったのは幸いだった。プリマ・ドンナ気質の代名詞のようなパ
5
ッティは作品や楽曲を自分勝手に変え、アリアを装飾だらけにすることでも有名だったからだ(《セビーリャの理
髪師》第 2 幕レッスンの場でピアノを舞台に運ばせ、リサイタル形式で〈埴生の宿〉やマイアベーアのアリアを歌ったことで
も知られる)。パッティのための特別なチクルスとして行われたスカラ座の公演で、リハーサルをまともにしない
彼女が自分のショーのように演じても不思議はなく、ヴェルディ自身もそれを危惧していた形跡がある32。
後期作品のテノールについては、すでに述べた《運命の力》初演歌手タンベルリック以外にも、さまざまな問
題を生じていた。《オテッロ》(1887 年)の初演歌手フランチェスコ・タマーニョ(Francesco Tamagno,1850-1905)
もその一人で、
輝かしい高音と力強い中声域の歌唱で一世を風靡しながらもヴェルディは、
「彼は常に声を張り上げてしか歌えません。そうしないと響きが悪くなり、音程も不確か
なものになってしまうのです」と欠点を指摘している(ジューリオ・リコルディ宛、1886 年 1
月 22 日付)33。
声を張り上げていないと響きが損なわれて音程が外れ、ゆったりとしたレガートのフレ
ーズをメッザ・ヴォーチェ[弱声]で歌えなくなるといった欠点は、テノーレ・ディ・フ
ォルツァからテノーレ・ドランマーティコに移行する歌手の一つの帰結であるが、これが
豊かな響きと壮麗な声を求めたヴェリズモ時代により大きな問題を引き起こすことになる。
ヴェルディはヴェリズモがブームになり始めた 1892 年に、「我々の歌手たちは概して大
声で歌うことしか知りません。彼らは声の柔軟性を持ち合わせていないのです」と述べた
が(ジューリオ・リコルディ宛の手紙、1892 年 6 月 13 日付)34、そうした発声が後述する“歌
フランチェスコ・タマーニョ
手の黄金時代”のテノールの基盤となるのである。
ベルリナーが円盤式の記録再生機「グラモフォン」を開発したのは《オテッロ》初演の 1887 年。商業録音は
1900 年から活性化し、オテッロの創唱歌手タマーニョとイアーゴの創唱歌手ヴィクトル・モレル (Victor
Maurel,1848-1923)に加えて前記パッティの録音も残されているが35、資料としての扱いには注意が必要である。
次に、19 世紀末~20 世紀初頭の諸問題と初期録音に残されたヴェルディ歌唱の痕跡について考えてみよう。
II. 19 世紀末~20 世紀前半のヴェルディ歌唱と演奏スタイル
II-1. 19世紀末~20世紀初頭の劇場レパートリーと歌手、初期録音に聴く歌唱の痕跡
意外に思われるかもしれないが、ヴェルディのオペラは1860年代に人気が衰え、1871年11月1日にボローニャ
で行われた《ローエングリン》イタリア初演(イタリア語版。以下スカラ座上演の外国オペラは基本的にイタリア語版に
よるため個々の注記を省略し、題名も通常のそれを用いる)を境にヴァーグナー作品が取って代わり、世紀末にはこれ
にヴェリズモ・オペラとプッチーニ作品が加わった。ミラーノのスカラ座におけるヴァーグナー上演は1873年3
月20日の《ローエングリン》(7回公演)に始まり、1888~94年には毎年1作を上演した(この6年間では1888年と91
年にヴェルディ作品が上演されていない)。次に、1894年からヴェルディ没年(1901年)まで8年間のスカラ座の演目
を見てみよう(当時のスカラ座のシーズンは基本的に12月26日に始まる謝肉祭とこれに続く四旬節のみで、例外的に春季も
上演が行われる)36。
1894年のスカラ座におけるヴェルディ上演は《リゴレット》3回のみで、このシーズンは1893年12月26日にヴ
ァーグナー《ヴァルキューレ》で幕開けし(14回公演)、他の演目はプッチーニ《マノン・レスコー》19回、カ
タラーニ《ローレライ》9回、フランケッティの新作《アルプスの花》7回、フランケッティ《クリストーフォロ・
コロンボ》6回(全曲上演。これとは別に部分上演が5回)、《ランメルモールのルチーア》3回であった。
1895年と96年にはヴェルディ作品が上演されず、翌1897年には《ドン・カルロ》が大失敗を喫して初日のみ
で演目を外れた。このシーズンは《神々の黄昏》を幕開けに合計14回上演、他の演目は《ラ・ボエーム》16回、
《アンドレア・シェニエ》11回、《清教徒》10回などであった。37
1898 年はミラーノ市民の投票でスカラ座への市の助成金が打ち切られ、同劇場始まって以来の「オペラの上演
されない 1 年」となったが、ヴィスコンティ家の援助と主導で株式会社化がなされ、1898 年 12 月 26 日に《ニ
ュルンベルクのマイスタージンガー》で再開した(13 回上演)。これはトスカニーニがスカラ座指揮者を務める最
初のシーズンでもあるが、他の演目はマイアベーア《ユグノー教徒》14 回、マスカーニ《イリス》10 回などで、
ヴェルディ作品は《ファルスタッフ》が 10 回上演されただけである。
翌1900年には《オテッロ》を7回上演したが、数の上では《ローエングリン》15回、《ジークフリート》13回、
《トスカ》12回、28歳の新人チェーザレ・ガレオッティ作曲《アントン》初演の9回を下回った。そしてヴェル
ディは1901年1月27日にミラーノで死去したが、同年のシーズン(1900年12月26日~01年4月)にはヴェルディ作品
6
が含まれず、《トリスタンとイゾルデ》13回、《愛の妙薬》12回、《ラ・ボエーム》10回、《メフィストーフェ
レ》9回その他が上演された。
こうした事実からもヴェルディ作品の人気低下は明白で、19世紀末~20世紀初頭にはイタリア人のヴァーグナ
ー歌手やヴェリズモ・オペラ歌手は存在してもヴェルディ歌手と呼ぶべき者はいなかった。当時の歌手の多くは
ヴェルディの中・後期作品で頭角を現しながらも、力強い発声の歌手はすぐにヴァーグナーやヴェリズモに移行
したのである。例えばテノールのジョヴァンニ・バッティスタ・デ・ネーグリ(Giovanni Battista De Negri,1851-1924)
はドニゼッティやヴェルディの作品で認められたが、タンホイザーを初役したのは1883年、32歳の時だった。そ
して1890年1月に《シモン・ボッカネグラ》アドルノでスカラ座デビューすると、1891/92年シーズン開幕で《タ
ンホイザー》タイトルロール、1892/93年シーズン開幕で《ヴァルキューレ》イタリア初演のジークムントを歌
った(その間《オテッロ》にも出演)。続いて1895年2月にマスカーニ《グリエルモ・ラトクリフ》タイトルロール
を創唱し、同年末にはジェノヴァのカルロ・フェリーチェ劇場のトスカニーニ指揮《タンホイザー》に出演して
熱狂的成功を収めた。1897/98年謝肉祭トリエステのコムナーレ劇場における引退公演が《サムソンとダリラ》
と《タンホイザー》だったことでも判るように、デ・ネーグリはイタリア屈指のヴァーグナー歌手として名声を
得たのである。
次世代の著名なテノール、フェルナンド・デ・ルチーア(Fernando De Lucia,1860-1925)は、1885年にナポリの
サン・カルロ劇場《ファウスト》でデビューし、
《セビーリャの理髪師》から《カルメン》まで幅広いレパートリ
ーで活躍したが、1890年代にマスカーニの《友人フリッツ》《ランツァウ》《シルヴァーノ》《イリス》各初演で
主役を務め、
《道化師》カーニオでも高い評価を得た。デ・ルチーアは《リゴレット》マントヴァ公爵でも人気を
博したが、ヴェルディ作品が彼の広いレパートリーのほんの一部でしかないのは明白であろう。これは次世代の
エンリーコ・カルーゾ(Enrico Caruso,1873-1921)も同様である。
デ・ルチーアのヴェルディ歌唱の例として、《リゴレット》の3曲(第2幕マントヴァ公爵のアリア、第3幕〈女心の
歌〉、四重唱)の録音を聴いてみよう(参考ディスク:SYMP1231[ The Harold Wayne Collection,
Vol.33]1917~22年録音)。第2幕のアリアの特色に、付点音符や複付点音符の無視、旋
律の部分的変更(主に3度高く音を移す)、前打音や装飾音型の自由な付加、高い音や旋
律の要所での音価以上の引き延ばしとラレンダンド、カデンツァへのアクート適用が
挙げられる。〈女心の歌〉ではテンポの揺らぎ、高音の引き延ばしと強弱変化(とりわ
けピアニッシモへの運び)
、特殊なアクセントの置き方に特色があるが、意外にも最後は
楽譜どおり歌い終えている。四重唱は前記の特徴以外にデ・ルチーアが歌い出しに「ア
~」を追加し、異常に遅いテンポをとっている(ヴェルディの指示「♩=66」に対して「♩
=46」前後)。装飾音型の付加はベルカント的アプローチの名残で、デ・ルチーアの特
色の一つになっている。歌詞も一部変えているが、これは当時の歌手がしばしば行った フェルナンド・デ・ルチーア
行為で、
「泣き」に近い歌の用法にはヴェリズモの影響も感じられる。
興味深いのは、デ・ルチーアのアプローチにベルカントの伝統が残っている点である。旋律の部分的変更、前
打音や装飾音型の自由な付加がそれで、これはロッシーニ時代から歌手たちが普通に行った行為である。但し旋
律そのものの変奏(ヴァリアツィオーネ)は行われず、フレーズの繰り返しに装飾を加える用法にとどまっている。
こうした 20 世紀初頭の単独曲の録音には 19 世紀末の歌唱の痕跡がはっきりと聴き取れるが、舞台でも同じよ
うに歌ったものと思われる。但し、初期の録音は歌手が大きな集音ラッパに顔を近づけて歌い、その振動が蝋を
塗ったシリンダーや円盤に針で刻まれる方式で行われ、声の大きさが集音器との距離で調節されたため声量と響
きが一定でなく、伴奏も小編成のオーケストラが歌手のすぐ後ろで行った。それゆえ声そのものの確たる判断材
料とはなりえず、現在では表現法に関するドキュメントと理解すべきである。とはいえ可能な収録時間(4 分 30
秒くらいが限度)に合わせた楽曲の縮約も行われており、単独曲の録音を当時の上演実態と考えるのは間違いであ
る。録音時のピッチ(標準音高は 435 ヘルツ。今日の標準音高 440 ヘルツは 1939 年の国際会議で採択された)を無批判
に現代ピッチに合わせてリマスターしたディスクも多く、結果的に歌声が明るくなり、テンポが速く軽快になっ
たケースもあるので注意を要する。それゆえ上演時の演奏スタイルについては、次に述べる全曲録音から話を始
めなければならない。
II-2. オペラの全曲録音に聴く1910~30年代の演奏スタイル
ヴェルディのオペラの最も古い全曲録音は、1912年パリにおける《リゴレット》
《イル・トロヴァトーレ》
《ラ・
トラヴィアータ》である。これはフランス語版のフランス語歌唱によるもので、イタリア語の全曲録音は1916年
ミラーノの《リゴレット》が最初となり、本論ではこれを起点に話を進めたい。
7
この1916年ミラーノの録音は、コロムビアがグリエルモ・ソンマ(Guglielmo Somma)指揮ミラーノ・スカラ
座管弦楽団と合唱団を使ったスタジオ収録で、リゴレットをチェーザレ・フォルミキ(Cesare Formichi,1883-1949)、
マントヴァ公爵をジュゼッペ・タッカーニ(Guseppe Taccani,1885-1959)、ジルダをイネス・マリーア・フェッラ
ーリス(Ines Maria Ferraris,1883-1971)が歌っている(参考ディスク:Preiser 89234)。録音前にスカラ座デビュー
していたのは1911年3月1日に《ばらの騎士》ソフィア[ゾフィー]を歌ったフェッラーリスのみで、トスカニー
ニからも高い評価を受けていた。
この録音を聴くと、歌唱のあり方そのものはそれ以前の単独録音と大差ないことが判る(テンポ・ルバート、ポ
ルタメント、アクセントの置き方、アクートへの立ち上げなどの表現法において)。ジルダの〈慕わしき人の名は〉も末
尾でe’’’に立ち上げ、中間部のカデンツァにはすでに現在と同じ慣習的カデンツァが歌われている。第2幕末尾ジ
ルダとリゴレットの二重唱も最後にジルダがe♭’’’に、第3幕四重唱の最後もジルダだけがアクートに立ち上げて
いる。第2幕マントヴァ公爵のアリアは中間部の合唱で終わり、カバレッタをカットしているが、それ以外の目
立ったカットは三重唱と嵐の末尾の一部、ジルダの死の部分の9小節があるのみ。録音時間の合計は111分で、第
2幕公爵のアリアのカバレッタも含めて全曲演奏したシャイー盤(London Fool 20484/5)の約113分と同じである(カ
バレッタの演奏時間は3分間)。1916年録音のカットが当時のスカラ座上演の慣例であることは、後述する1927年
と1929年のスカラ座による全曲録音との比較でも明らかである。〈女心の歌〉のカデンツァは最初のa’’を長く延
ばす点を除いて基本的に楽譜どおりで、今日歌われる慣習的カデンツァは適用されない。
この1916年の録音がバンダ・パートを小編成の弦楽器で演奏するのはマイクロフォン発明以前の収録方式に起
因し、楽器編成に関しては1925年以降の電気録音を参照する必要がある。幸いコロムビアとグラモフォンがスカ
ラ座の管弦楽団と合唱団を使って1927~30年に系統的な電気録音を行っており、《リゴレット》はカルロ・サバ
イノ(Carlo Sabajno)指揮による1927年11~12月の録音(参考ディスク:Radiex RXC1113-14)と、ロレンツォ・モ
ラヨーリ(Lorenzo Molajori)指揮による1930年5月の録音(参考ディスク:Aura LRC 11099-2)の2種がある。収録
時間の合計はどちらも1916年とほぼ同じ110分でカットの箇所も同じである。それゆえ一連のカットはスカラ座
が用いる楽譜に明示されていたのであろう(通例、指揮者用総譜の演奏しない部分の頁は糸で綴じられ、部分的カットは
斜線で示される)。興味深いのは、バンダの音楽が1927年の録音でバンダ楽器を含めて演奏しているのに、1930
年の録音では1916年と同様、弦楽合奏に代置された点である。
1930年録音の特色は、前記2種の録音よりも歌唱のテンポ・ルバートが多く(ソリスト全員に顕著。1916年と1927
年の録音は有名歌手の単独録音よりも端正で歌い崩しも少ない)、マントヴァ公爵の〈あれか、これか〉に「笑い」の
付加があり、〈女心の歌〉に現在と同じ慣習的カデンツァを適用する点である38。公爵を歌うディーノ・ボルジ
ョーリ(Dino Borgioli,1891-1960)は1914年ミラーノの《清教徒》アルトゥーロでデビューし、1918年に《ドン・
パスクワーレ》エルネストでスカラ座デビューするなどベルカント・レパートリーで活躍し、海外活動は1924年
シドニーを皮切りに、ロンドン、パリ、シカゴ、ニューヨークで行っている。このコロムビアによる1930年録音
は15枚のSP盤セットとしてイタリア、イギリス、アメリカで発売されたことから、《リゴレット》全曲の模範的
演奏としてその後の上演に影響を与えたものと思われる。
アリアの第2節をカットする演奏慣習は、《ラ・トラヴィアータ》ヴィオレッタの二つのアリアが見本となる。
1928年11月スカラ座の全曲録音(参考ディスク:Naxos Historical 8.110110-11)はどちらも第1節のみの歌唱で、第1
幕アリアのカンタービレ部〈ああ、きっとあの方だわ〉の最後にc’’’のアクートを長く延ばし、カバレッタの末尾
もd♭’’’に立ち上げて締め括っている。第2幕アルフレードのアリア〈燃える心を〉はカンタービレ部のみで中間
部とカバレッタをカットし、ジェルモンのアリアは中間部冒頭からカバレッタ末尾に飛んでその間をカットして
いる。1930年10-11月スカラ座の全曲録音(サバイノ指揮。参考ディスク:Radiex RXC1063-64)もヴィオレッタの二
つのアリアの第2節が歌われず、アルフレードとジェルモンのアリアにおける措置も1928年録音と同じである。
《イル・トロヴァトーレ》第2幕マンリーコのアリアのカバレッタ〈見よ、恐ろしき炎を〉も同様で、1930年
にスカラ座の管弦楽団と合唱団を用いて行った2種の全曲録音(モラヨーリ指揮 Naxos Historical 8.110162-163 及び
サバイノ指揮 Membran 222182-444)は最初の一回だけで中間部と反復をカットし、途中のアクートへの立ち上げ
や末尾のアクートと引き伸ばしも今日一般に聴かれるのと同じである(末尾のアクートのスタイルは2種の録音に違い
がある)。ルーナ伯爵のアリア〈君の微笑みの輝きは〉では今日の慣習的カデンツァとはやや異なる形で歌われ
る(最初の半分が異なる)。
以上のカットや慣習的カデンツァは20世紀初頭の早い段階で定着したと思われ、最古の全曲録音に当たる1912
年パリのスタジオ録音(フランス語版。参考ディスク:Aura LRC 1902)でも〈見よ、恐ろしき炎を〉は最初の一回
だけで、中間部と反復のカットと二度のアクート立ち上げの用法は1930年スカラ座録音と一致するが、〈君の微
笑みの輝きは〉のカデンツァはヴェルディの楽譜どおりに歌われている(このアリアのカデンツァはフランス語版も
イタリア語版と同じ)。これに対し、イタリアでそれ以前からアレンジしたカデンツァが歌われたことは、マーリ
8
オ・アンコーナ(Mario Ancona, 1860-1931)による1907年の単独録音(参考ディスク:Romophone 82013-2)とジュ
ゼッペ・デ・ルーカ(Giuseppe De Luca,1876-1950)による1907年1月の単独録音(参考ディスク:IDIS 301-02)が、
それぞれヴェルディのオリジナルと慣習的なそれの中間的な形をとることでも確かめられる。そして10年後に
デ・ルーカが行った1917年3月の録音では、より現在に近い形に変化している(参考ディスク:IDIS 311-12)。
一連の歌唱では、1912年パリ録音も含めて〈君の微笑みの輝きは〉の音型の繰り返しに同じタイプの装飾付加
があり、他の歌手にも同じ用例が認められる。1930年スカラ座の全曲録音も同様だが、そこでは歌の装飾を楽器
で重奏する逸脱も行われている。歌い替えや装飾の付加は歌手だけが行うべきなのに、20世紀のある段階から管
弦楽パートに手を加え、歌手と同じ音型を演奏するようになっているのだ。〈見よ、恐ろしき炎を〉もその一例
で、歌手がアクートに立ち上げる際にヴァイオリンが重奏する変更は1912年のパリ録音でも行われ、そうした伴
奏パートの変更は20世紀後半の録音でも行われている(例、トゥッリオ・セラフィン指揮1962年スカラ座の全曲録音。
DG 453 118-2)。
1910~30年代の演奏スタイルに歌手の表情や演技も加えたいところであるが、この段階ではまだオペラのまと
まった舞台収録が行われず、音楽映画における部分的な挿入が中心である。けれども誕生したばかりの無声映画
の大げさな表情と演技は同時代のオペラ歌手の影響とも言われており、歌舞伎役者のように見えを切り、眼力で
睥睨する表情も男性歌手の写真に見て取れる。当時のオペラ歌手は歌役者であり、その強い個性が役柄を超えて
観客にアピールした時代でもあった。
古い映像は舞台前面に並んで重唱する姿をとどめているが、個々の歌手はしばしば棒立ちで歌い、身体表現の
役割は限定的である。トーティ・ダル・モンテ(Toti dal Monte,1893-1975)の後継者たるリーナ・パリウギ(Lina
Pagliughi,1907-80)がジルダを歌う1931年ベルリンの《リゴレット》ライヴ映像が残されているが、
〈慕わしき人
の名は〉を歌う際には基本的に両手を胸の下(横隔膜の辺り)に重ねて置き、所作の変化は僅かに片手を上げるこ
とだけでなされる(参考映像:Dreamlife DMLB-34 [LD])。ちなみにパリウギは前記1927年の《リゴレット》全曲
録音でジルダを歌っており、リリー・ポンス(Lily Pons,1898-1976)と並ぶ当時の代表的ジルダ歌手であった。
III. 20 世紀“黄金時代”のヴェルディ歌唱と価値の転換
III-1. “黄金時代”の歌手とその歌唱の本質
前項に挙げた1910~30年代のさまざまな演奏スタイルの特色を、カットや演奏上の誤謬をも含めてそっくり引
き継いだのが“歌手の黄金時代”と呼ばれる20世紀半ばのヴェルディ歌唱である(以下“黄金時代”と略記)。個々
の歌手の活動期間や最盛期は異なるものの、“黄金時代”の目安を1940~60年代に求めることができる。この時
代はライヴも含めて膨大な録音が残されているので、本論では重要歌手に関する簡単なコメントのみとしたい。
音楽解釈や演奏スタイルはカットのあり方も含めて基本的に1930年以前に定着したそれを踏襲しているが、ファ
シズム時代のイタリアでは英雄的役柄に新たな意味を付与され(古代ローマや英雄賛美はファシスト政権の文化政策で
もあった)
、演説調になった歌唱にも政治演説の影響が感じられる。ヴェリズモ的な発声歌唱も、そうした時代に
強化された。声による過剰な表出は喉を疲弊させ、歌手生命を短くする危険性をはらんでいたが、それを乗り越
える強靭な喉の持ち主が時代を生き抜くことができたのである。
“黄金時代”のソプラノは、カラスとテバルディが双璧である。マリア・カラス(Maria Callas,1923- 77)は23
歳で《ジョコンダ》を歌ってイタリア・デビューし、続く1年1カ月間に《トリスタンとイゾルデ》
《トゥーラン
ドット》
《運命の力》《アイーダ》に出演、これにベルカント物の《ノルマ》と《清教徒》が続いた。カラスがソ
プラノ・ドランマーティコの役柄でキャリアを始め、トゥーランドット歌手として活躍し、ヴェルディ作品をア
イーダ(1948年9月)、アビガイッレ(同年11月)、レオノーラ(1950年6月)、ヴィオレッタ(1951年1月)の順に手中
にしたことは、演奏史上に特別な意味を持つ。なぜなら彼女以前はベルカントの形質のコロラトゥーラ・ソプラ
ノが中期ヴェルディ3役を歌ったのに対し、カラスはソプラノ・ドランマーティコの声質でコロラトゥーラを駆
使してレオノーラとヴィオレッタを歌い、アビガイッレとレディ・マクベスの再評価にも貢献したからである(以
上すべてライヴ録音あり。個々のディスク情報は省略する)
。
カラスのヴィオレッタは、華麗なコロラトゥーラ、ドラマティックな声の用法、演劇性の三つを高次に統合し
た点でそれ以前の歌唱を凌駕しただけでなく、近代ソプラノ・レッジェーロ(19世紀末から1930年代までのコロラト
ゥーラ・ソプラノ)から中期ヴェルディの主役を奪った点でも歴史的な意味を持つ。ベルカント作品もカラスによ
って再評価されたが、これもまた近代ソプラノ・レッジェーロを消滅させるきっかけになったのである。
声の美しさでカラスを凌駕し、スカラ座の人気を二分したレナータ・テバルディ(Renata Tebaldi,1922-2004)
9
は、後期ヴェルディからプッチーニまでの作品とその解釈で重要な存在であり、次世代のレナータ・スコット
(Renata Scotto,1934-
)とミレッラ・フレーニ(Mirella Freni,1935-
)も歌唱の正統的スタイルではカラスより
もテバルディの後継者と言える。スコットは後述する“黄金時代”後の様式的転換にも寄与し、フレーニはソプ
ラノ・リーリコの典型としてプッチーニの抒情的役柄で最高の成果を挙げている。けれども1964年のカラヤン指
揮フレーニ主演《ラ・トラヴィアータ》が不興をかい、以後25年間スカラ座でこの演目が封印されたことでも判
るように、カラスのヴェルディ歌唱はそのインパクトにおいて他の追随を許さなかった。
“黄金時代”のテノールでは、初期のキャリアを第二次世界大戦で中断したマーリオ・デル・モナコ(Mario Del
Monaco,1915-82)がオテッロ歌手として高く評価された(輝かしい声で「黄金のトランペット」の異名をとる彼の《オテ
ッロ》は、2 種の全曲録音と 1959 年第 2 回 NHK イタリア歌劇団の映像がある。もう一つの当たり役ラダメスはカラスと共演
した 1951 年メキシコシティのライヴ録音に声の威力と白熱の歌唱が聴き取れる)39。中期ヴェルディを含む広い演目では、
声の力ではデル・モナコに負けるもののジュゼッペ・ディ・ステーファノ(Giuseppe Di Stefano,1921-2008)が明
るい声質と卓越した弱声のテクニックで人気を博した。その特色はカラスの相手役を務めた 1950 年代半ばの《リ
ゴレット》
《イル・トロヴァトーレ》
《椿姫》などの録音に聴き取れ、時にアペルト(開けっぴろげ)の発声に陥り、
ピアニッシモを単なる技術としてひけらかす点は、20 世紀前半のテノールにある程度共通した問題と言える。
奔放でむらの多い 50 年代の歌唱を脱し、レガートや柔らかなフレージングの様式感をもたらしたのがカルロ・
ベルゴンツィ(Carlo Bergonzi,1924- )とアルフレード・クラウス(Alfredo Kraus,1927-99)で、どちらもテノーレ・
リーリコの声質を備え、ヴェルディ作品に滑らかな歌唱と気品を取り戻した(ベルゴンツィの美質は 1962 年録音《イ
ル・トロヴァトーレ》と 2 種の《仮面舞踏会》に聴き取れる。クラウスは 1958 年と 1980 年の《ラ・トラヴィアータ》を通じ
て若き日と円熟期の歌唱を比較されたい)40。
バリトンはティート・ゴッビ(Tito Gobbi,1913-84)、エットレ・バスティアニーニ(Ettore Bastianini,1922-67)、
ジュゼッペ・タッデーイ(Giuseppe Taddei,1916-2010)、ピエーロ・カップッチッリ(Piero Cappuccilli,1929-2005)
が活躍したが、気品と憂愁に富むバスティアニーニは早世し、性格俳優として傑出したゴッビとカップッチッリ
が70年代までの理想的なヴェルディ・バリトンとされた。映画俳優でもあったゴッビは演技が巧みで、NHKイ
タリア歌劇団の来日で演じたイアーゴはその役者ぶりと眼力で衝撃を与えた。但しリゴレットのような役柄は常
に演技過剰で、「悪魔め、鬼め」に先立つ声の芝居を現代の歌手が真似たら笑われるに違いない(1955年の全曲録
音を参照されたい)
。
こうした歌役者から「歌手=演技者」に変わったのはカップッチッリからで、60年代半ばから20年間における
時代最高のバリトンであった(1976年クライバー指揮《オテッロ》、1977年アッバード指揮《シモン・ボッカネグラ》、バ
リトンの限界音を超えるb♭’’で観客を熱狂させた1980年ヴィーン《アッティラ》ライヴの名演名盤がある)41。バスは役の大
きさや存在感でフィエスコとフィリッポ2世が重要で、チェーザレ・シエピ(Cesare Siepi,1923-2010)とニコライ・
ギャウロフ(Nicolai Ghiaurov,1929-2004)が“黄金時代”の「旧」と「新」を代表する。
ヴェルディを歌う声やヴェルディ歌手を意味する「ヴォーチェ・ヴェルディアーナ(voce verdiana)」とは、こ
うした“黄金時代”の歌手たちの声と歌唱から音楽ジャーナリズムが造語した言葉である。重厚で暗めの声質、
衝動的なテンポのゆらぎ、アクセントを極端に強調するディクション、高音の強調と絶叫調の歌唱に加え、緊迫
した劇的局面で声を押し出す用法(スピント)も多用される。歴史様式に関する理解の欠如も致命的で、中期ヴェ
ルディのみならずモーツァルト以前の作品にもヴェリズモ歌唱を適用するなど、独善的解釈に陥ってしまった。
とりわけカルーゾの後継者となるテノールたちは、中音域に豊かな響きと官能的な声質を獲得し、ヴェリズモ時
代の激しい表出を歌唱の本質としたのである。
演奏解釈も1930年代以前のそれを伝統として踏襲したが、録音で流布した歌い方を模倣して同じカデンツァを
むやみに使い回したため、
〈君の微笑みの輝きは〉で流布したカデンツァが《愛の妙薬》や《エルナーニ》でも歌
われた。アリアの歌い終わりも常にアクートに立ち上げたため、20世紀半ばの観客は誰一人ヴェルディの書いた
アリアの締め括りを聴くことができなかった。演技も二の次で、歌手たちは役と無縁におのれをアピールし、ア
クートをどれだけ長く延ばせるかを競い合った。オペラ・ファンも人気歌手のバトルを歓迎し、ワンパターンの
カデンツァとアクートに喝采し、それを歌えない者はヴェルディ歌手失格と見なされた。
そんな“黄金時代”の解釈と歌唱スタイルが正統的なものとされ、ヴェルディ演奏の模範と信じられてきたが、
現在では作曲者の意図や作品の様式に反すると理解されている。“黄金時代”の記録はオペラの歴史が生んだ“世
界遺産”ではあってもヴェルディ歌唱の理想とはなりえず、『ヴェルディ事典』の著者レシーニョも「ヴォーチ
ェ・ヴェルディアーナ」を「声楽コンクールの主催者たちによってでっち上げられた伝説」と一蹴している42。
III-2. 演奏スタイルの様式的転換と価値基準の変化
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では何が“黄金時代”と現在とを隔てているのか。それが1970年代後半から顕著になる歴史様式の見直しと、
演奏をめぐる諸問題の再検討である。これはバロック音楽ブームに伴う歴史様式の見直しが発端であり、ロッシ
ーニ復興もその流れに沿って派生した。
“黄金時代”に理想を見出すヴェルディ作品はその潮流の外にあったが、
声のパワーで圧倒する時代にかげりを生じると、楽譜の正しい解釈やドラマに沿った役作り、演技と歌唱の正確
さが問われるようになった。それを問うたのが、クラウディオ・アッバード(Claudio Abbado,1933-2014)、リッ
カルド・ムーティ(Riccardo Muti,1941- )、ジュゼッペ・シノーポリ(Giuseppe Sinopoli,1946-2001)ら新世代の
指揮者たちである。演奏の伝統や慣習を拒否して楽譜を尊重したムーティは原典主義と批判されたが、スター指
揮者とスター歌手の力関係は、最良の演奏と録音を求めるレコード会社の後押しもあって徐々に変わり始めた。
そして完成品としてのレコードを通じて歌唱の正確さも美的基準の一つになり、乱暴な演奏が影をひそめるよう
になったのである。
“黄金時代”の演奏を振り返れば、音程がしばしば不安定で細かな音符を楽譜どおりに歌えず、ドラマティッ
クな発声に起因する声楽的な問題も露呈されていた。
それらは観客を楽しませる劇場では何の支障もなかったが、
完成度の高い商品を欲するレコード会社のプロデューサーや指揮者は、歌手に対して楽譜の正しい解釈、表現、
正確な音程とフレージングを要求した。そして過去の名演名盤の凌駕が至上命題とされたことから、実演以上に
高い質を備えると共に、過去の演奏との差別化を明確にしたレコード制作が行われ始めたのである。
1980年にスタジオ録音されたムーティ指揮《ラ・トラヴィアータ》
(EMI)に、こうした新たな取り組みの最良
の成果を見出すことができる。そこでは慣習的カットをすべて拒否しただけでなく、レナータ・スコットとアル
フレード・クラウスがヴェリズモ風の表現をしりぞけ、スタイリッシュな演奏を繰り広げている。アリアの歌い
終わりにアクートを適用しないのは言うまでもない。
こうした取り組みには学術的な基盤と共に信頼に足る楽譜が不可欠であり、ムーティやジュリーニは録音に先
立ってヴェルディの自筆楽譜を参照した43。だが、自筆楽譜の内容を演奏に反映させるだけでは不充分である。
なぜならまとまった自筆楽譜の書式は重層的で、これとは別に初演時に使用された演奏素材や印刷台本、二次的
史料も交えた包括的検討なしには答えの出せぬ問題が山ほどあるからである。その解決をはかったのが、シカゴ
大学が1983年に刊行開始したヴェルディ全集(批判校訂版)である44。
過去30年間に刊行されたヴェルディの批判校訂版は全オペラの半数に満たないが、出版された巻は個々の作品
に関する最新研究の集積であると同時に、時代を経て作曲者のコンセプトからどのように逸脱したのか、という
歴史的な問題にも目が向けられている。現実にはヴェルディの意図に反する演奏がなお主流であっても、批判校
訂版は一部の指揮者と歌手が確信をもって演奏スタイルを変え、慣習を拒否する発端となった。その意味でヴェ
ルディ作品は、「旧に復する」
(本来の楽譜とヴェルディ時代の用法に立ち返る)ことが、
「進歩」(新たな解釈と演奏の
刷新)に繋がるのである。
次に、21世紀のヴェルディ演奏に現れた顕著な変化をまとめておきたい。
IV. 21 世紀に顕著な新たなヴェルディ演奏とその課題
◎声と歌唱の美学の変化、自由なカデンツァとヴァリアツィオーネの適用
◎声と歌唱の美学の変化、自由なカデンツァとヴァリアツィオーネの適用
正確さが重視される現代では、発声の不備による音程の悪い歌唱や技術不足でアジリタのパッセージをごまか
す演奏が耐え難いものになっている。それゆえ“黄金時代”の声と歌唱を真似ても評価されない時代であり、声
楽的により高度な技術が求められた結果、現在のヴェルディ歌手の多くは“黄金時代”の歌手よりも声が明るく、
歌唱が柔軟になっている。
「ヴェルディには重厚で暗めの声質がふさわしい」とのイメージも過去のものとなり、
後期作品のテノールに1960年代生まれのマルセロ・アルバレス(Marcelo Álvarez,1962- )、ロベルト・アラーニ
ャ(Roberto Alagna,1963- )、ヨナス・カウフマン(Jonas Kaufmann,1969- )が活躍し、中期までの作品ではフラ
ンチェスコ・メーリ(Francesco Meli,1980- )が台頭している。1980年生まれのメーリはロッシーニ作品を通じ
て柔軟な声とアジリタを身につけ、ベルカントからヴェルディに移行した新世代テノールである。
ベルカント・テノールによる新たなヴェルディ歌唱を印象付けたのが、2008年6月にドレスデン国立歌劇場《リ
ゴレット》でマントヴァ公爵を演じたフアン・ディエゴ・フローレス(Juan Diego Flórez,1973- )である。そこ
では第2幕のアリアがノーカットで歌われただけでなく、カバレッタの反復にヴァリアツィオーネが適用されて
いる(上演DVDはVirgin Classics。その歌唱が完璧でないと判断したフローレスはその後公爵役を封印したが、2011年にチ
ューリヒ歌劇場で再び演じた)。
こうしたヴァリアツィオーネの適用も21世紀に顕著になった変化の一つであり、マリア・グレギーナ(Maria
Guleghina,1959-
)はアビガイッレのアリアに若干のカデンツァと変奏を採用している(例、2001年6月ヴィーン国
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立歌劇場上演。他上演も同様。但し末尾はアクートに立ち上げる)。自由なカデンツァとヴァリアツィオーネの適用は、
今後中期までのヴェルディ作品で広く行われるに違いない。
◎ピリオド楽器オーケストラとベルカント歌手の進出
ピリオド楽器のオーケストラを用いた 19 世紀オペラの演奏・上演では、バルトリによるベッリーニ《夢遊病
の女》《ノルマ》が高い評価を得ている(近年ではロッシーニ《オテッロ》も加わった)。19 世紀を通じてオーケス
トラの楽器がさまざま改良され、ヴァイオリンの最高弦がガットから金属弦に変わったのが 19 世紀末~20 世紀
初頭であるのを考えれば、すべてのヴェルディ作品がピリオド楽器演奏の対象となりうる。だが、そこには楽器
の置き換えだけでなく、管弦楽の編成、奏法、歌唱法、演奏解釈、ピッチなどの歴史的問題がなお未解決のまま
残されている。その意味で 19 世紀後半の作品への適用には注意が必要で、上演ピッチも時代や国ごとに大きな
違いを生じている45。
それでもピリオド楽器オーケストラとベルカント歌手によるヴェルディ演奏は試みられており、2009 年 8 月 2
日ルートヴィヒスブルク城音楽祭の演奏会形式《イル・トロヴァトーレ》もその一つである(ライヴ CD あり。Oehms)。
歌手はレオノーラを歌うジモーネ・ケルメス(Simone Kermes,?- )を筆頭にバロックの分野で活躍するメンバー
で構成され、ルートヴィヒスブルク城音楽祭管弦楽団もピリオド楽器を用いている。そこでは歌手が柔らかな声
を備え、高音を叫ばず、合唱団も丁寧かつ整然とした歌唱を繰り広げているものの、指揮者ミヒャエル・ホーフ
シュテッターがピリオド楽器の特質を活かし切れず、伝統的カットを踏襲して解釈に新味を欠くなどの問題も生
じている。ケルメスは 2013 年 2 月、ミュンヒェンで《二人のフォスカリ》演奏会形式のルクレツィアを歌って
いるが、伴奏は通常のオーケストラであった(マッシミリアーノ・ムッラーリ指揮ミュンヘン・オペラ管弦楽団)。
こうした動きとは別に、ベルカントもしくはロッシーニ歌手のヴェルディ進出はメーリ以外にもさまざまな事
例があり、潮流となっている。ソプラノのマリーナ・レベカ(Marina Rebeka,1980- )はロッシーニのヒロイン(《マ
オメット 2 世》アンナ、
《ギヨーム・テル》マティルデ)と共にヴィオレッタ歌手として活躍し、メッゾソプラノのダ
ニエラ・バルチェッローナ(Daniela Barcellona,1969- )も 2010 年以降はロッシーニ作品と並行してアムネリス、
エーボリ公女、フェデリーカ(《ルイーザ・ミラー》)、クイックリー夫人を演じ、ソニア・ガナッシ(Sonia Ganassi,
1966-
)はドニゼッティ作品と並行してエーボリ公女、アムネリス、フェネーナを演じている。ロッシーニ作品
で柔軟な声の用法を身につけた歌手たちが、それぞれの声に適合するヴェルディ作品に進出するのは自然な流れ
であり、演奏の質の向上にも繋がっている。
◎現代演出と上演映像の普及による
◎現代演出と上演映像の普及による変化
による変化
演出が重視される現代は、劇の時と場所を移す現代化や読み替え演出も主流となっている。ヴェ
ルディ作品も例外ではなく、歌手に求められる表現も緻密にして演劇的になった。ナタリー・デセイ(Natalie
Dessay,1965-
)主演の 2011 年エクサンプロヴァンス音楽祭《ラ・トラヴィアータ》(ジャン=フランソワ・シヴァ
ディエ演出。上演映像あり。Emi Virgin)がその証左で、ドキュメンタリー映画『椿姫ができるまで』(2012 年フラ
ンス映画。フィリップ・ベジア監督。原題「Traviata et nous(トラヴィアータと私たち)」)と併せて観れば、今日的な
オペラ制作のあり方が理解されるだろう。家庭で上演映像を視聴でき、比較も容易な現在は、総合芸術としての
オペラが綿密に鑑賞されることから、演技と歌唱の完璧さへの要求もかつてなく高くなっている、と言って良い
だろう。
V. 終わりに:ヴェルディ復興はなぜ遅れているのか
前項に述べた変化はヴェルディ演奏の全体からすればほんの些細な出来事に過ぎず、その意味や意義を真に理
解しているオペラ・ファンも少ない。ロッシーニと周辺作曲家の復興に比して、ヴェルディの復興がいちじるし
く遅れていることも否定しがたい事実であろう。そこにはさまざまな原因がある。この問題に言及し、本論の締
め括りとしたい。
ロッシーニ復興が生誕の地ペーザロを拠点に、「ロッシーニ財団」「ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル」
「アッカデーミア・ロッシニアーナ」による研究・上演・教育の連携で行われ、外国の研究団体やフェスティヴ
ァル(シカゴ大学のイタリア・オペラ研究所、ヴィルトバートのロッシーニ音楽祭、ドイツ・ロッシーニ協会、日本ロッシー
ニ協会)もさまざまな形で関与するのに対し、ヴェルディはこれに相当する復興基盤を持てずにいる。シカゴ大
学のヴェルディ全集と連動するフェスティヴァルや教育機関も存在しない。ヴェルディとゆかりのあるパルマや
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ブッセートも、批判校訂版の成果との結びつきが希薄である。
研究的視点のみならず、演奏の質においてもパルマとブッセートが聖地たり得ないことは、生誕 200 周年を記
念して 2012 年に発売された「Tutto Verdi」(26 のオペラと《レクイエム》のボックスセット。C major)が証明する。
そこには優れた演奏も含まれるが、キャスト面で万全の上演は乏しく、褒めるべき演出も僅かしかない46。
「ヴェ
ルディはいかに上演されるべきか、答えはここにある」との宣伝もされたが、
「このようなキャスト、演出、演奏
解釈でヴェルディを上演すべきでない」という反面教師に受けとめるべきであろう。演奏慣習を漫然と踏襲し、
歌唱も模範的とは言えず、学問的基盤と理想の欠如も明白だからである。
これにはヴェルディに特有な理由もあろう。ロッシーニ作品は楽譜が海賊版や改竄版で流布したため、その復
興には批判校訂版が不可欠であり、アルベルト・ゼッダが 1969 年に作成した《セビーリャの理髪師》がその出
発点となった。そしてベルカントの伝統が失われたがゆえに理論的研究と歌手の復興も課題になり、研究・上演・
教育の連携を不可避としたのである。これに対し、ヴェルディ作品は上演の伝統を引きずったまま“黄金時代”
に突入し、その演奏を理想とした結果、楽譜どおりに演奏する指揮者が原典主義と批判され、演奏慣習を批判す
る研究者がヴェルディ・ファンの怒りをかう倒錯を招いてしまったのである。より良いロッシーニ演奏のモデル
が 1990 年以降に厳然と現れたのに対し、より良いヴェルディ演奏のモデルは現在も明らかでなく、“黄金時代”
に理想を見出す往年のファンは「ヴェルディ歌手がいなくなった」と嘆き続けている。
研究者によるヴェルディ復興と、ヴェルディ・ファンの理想が正反対の方向を向いていることから、間に立つ
指揮者と歌手たちは方向性を見失っている。確かなのは、ヴェルディの意図に反する演奏解釈が半世紀前と同じ
レヴェルで存在し続けている、との厳然たる事実である。
《イル・トロヴァトーレ》の〈見よ、恐ろしき炎を〉や
レオノーラのアリアに慣習的カットを施さず、〈君の微笑みの輝きは〉に因習的カデンツァを適用しない上演は
今なお無きに等しいのだ。21 世紀のヴェルディ指揮者として頭角を現したアンドレア・バッティストーニも、演
奏慣習の踏襲と音楽解釈の点ではムーティ以前に戻っている。指揮者はもはや独裁者でも理想主義者でもなく、
歌手、演出家、劇場や公演母体からなるパワー・バランスの一端にすぎず、演出家の比重も高まる一方である。
こうした実用・実利主義の世界に「理想」を持ち込むのはたやすいことではなく、若い指揮者の中に高い理想を
掲げて闘っている者は、筆者の知るかぎり一人もいない。
ロッシーニが一貫して復興課題とされているのに対し、ヴェルディを復興対象と捉える者は現在も一部の研究
者にとどまっている。生誕 200 周年を迎えてなお、ヴェルディ演奏の理想と復興への糸口を見つけられずにいる
のは筆者だけではあるまい。
付記:本稿は日本ヴェルディ協会『VERDIANA 第 32 号紀要号』
(ヴェルディ生誕 200 年記念号)のために執筆し、2013 年
10 月に提出したが、予定枚数を大きく超えたため掲載を取りやめ、発表誌を『ロッシニアーナ』とさせていただく
(『VERDIANA』には「日本における明治・大正期のヴェルディ作品受容」を寄稿)。
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『VERDIANA 第 3 号』(日本ヴェルディ協会、2001 年 12 月 31 日発行)に掲載。
本論には、過去 4 年間に発表した次の文章と講演テキストの一部も取り入れた──「批判校訂版が教える作品と演奏の実像
──ヴェルディ研究の最前線」
(NHK 交響楽団『フィルハーモニー』第 82 巻第 7 号、2010 年 10 月号。17-23 頁)、「ヴェ
ルディ歌唱の変遷」
(2013 年新国立劇場『リゴレット』プログラム。34-37 頁)、講演テキストは「批判校訂版が変えた現代
のヴェルディ演奏」
(日本ヴェルディ協会例会、2011 年 1 月 22 日、東京文化会館中会議室)及び「ヴェルディ作品の演奏解
釈の過去・現在・未来」(第 82 期一橋フォーラム 21『ワーグナーとヴェルディ 生誕 200 年の年に』2013 年 4 月 2 日、如
水会館)。
ジョルジョ・ロンコーニとロマンティック・バリトンの成立については、2010 年 1 月 31 日に東京文化会館中会議室で行っ
た日本ヴェルディ協会講演のテキスト「ジョルジョ・ロンコーニとヴェルディ・バリトンの誕生」で明らかにした
(『VERDIANA 第 26 号』日本ヴェルディ協会、2010 年 11 月 9 日発行に掲載(PDF 版は日本ロッシーニ協会ホームページ
に掲載。 http://societarossiniana.jp/)。
ロンコーニは 1841/42 年謝肉祭のスカラ座出演を最後にイタリアを去り、ロンドン、ヴィーン、パリ、マドリード、バルセ
ロナを経てサンクト・ペテルブルク、北米、南米に活動の場を広げ、1878 年に 68 歳で引退するまで世界中の劇場で歌い続
けた。その間のイタリアでの活動は 1845 年に一時帰国した際のナポリのサン・カルロ劇場における《ベアトリーチェ・デ
ィ・テンダ》が唯一で、ヴェルディは彼のイタリア不在を惜しみ、1856 年にシェイクスピアの戯曲『リア王』のオペラ化を
再考した際に、「ロンコーニのような歌手がいてくれたら」と手紙に書いている(ヴィンチェンツォ・トレッリ宛、1856 年
5 月 16 日付[I copialettere di Giuseppe Verdi.,pp.192-193.]。詳細は前記講演テキストを参照されたい)。同時代の卓越
した女性歌手も同様であることは、後述するエルミーニア・フレッツォリーニの例で示す。これは国際的名声を得た歌手の
出演報酬が高額になり、イタリアの劇場に呼べなくなったことも一因である。
G.Cesari – A.Luzio.,I copialettere di Giuseppe Verdi.,Milano,1913.[rist.anast. Bologna,Forni,1987.],p.425.
Ibid.,p.125.(lettera CXXII)
Franco Abbiati.,Giuseppe Verdi,vol.II.,Milano,G.Ricordi,1959.,pp.214-215.
I copialettere di Giuseppe Verdi.,p.533.
13
Ibid.,p.532.
a cura di Aldo Oberdorfer.,Giuseppe Verdi, Autobiografia dalle lettere.,Milano,Biblioteca universal Rizzoli, 2001.,pp.
376-378. 「30 年前に歌われたように歌いたがっている」とのヴェルディの非難が具体的に何を指すかは不明だが、その 2
年前にも「私はペンコの才能をとても尊敬しています」と前置きした上で彼女との契約を拒否している(ヴィンチェンツォ・
トレッリ宛、1856 年 12 月 7 日付。同書 p.350.)。彼女との間になんらかのトラブルがあったようだ。
11 マリブランは 1835 年 9 月~翌 32 年 2 月にもスカラ座で《オテッロ》ほかを歌ったが、ブッセートの音楽監督を務めていた
ヴェルディが聴いた可能性は乏しい。
12 《ノルマ》
《アンナ・ボレーナ》
《オテッロ》の 3 作は初演からほどなく全曲のピアノ伴奏譜が出版され、ヴェルディの音楽
的形成に影響を与えたことも後世の研究で明らかにされている。
13 [Edited by Laura Macy] The Grove Book of Opera Singers.,Oxford University Press,New York,2008.(項目「Frezzolini,
Erminia」p.169.)
14 フレッツォリーニの歌唱芸術に関する同時代証言の一つにパノフカによるものがあり、ヴェルディ中期 3 役の歌唱について
も書かれている。Enrico [Heinrich] Panofka.,Voci e cantanti.,[Paris,1866.],Milano,1868. [ris.Firenze,1871][rist.anast.
Bologna,Forni,1984.],Capitolo XXVI.L’arte vera del canto o Erminia Frezzo- lini (pp.103-115.)
15 これに関して最も大きな影響力をもった近代の文献は、Rodolfo Celletti.,Voce di tenore, dal Rinascimento a oggi,storia e
tecnica, ruoli e protagonisti di un mito della lirica,Edizioni Idea Libri,1989.である。
16 Tenore di forza を直訳すれば「力づくのテノール」となるが、実質的には「高音を胸声の力強い発声を歌うテノール」と「高
音を無理やり大声で叫んで歌うテノール」の双方を意味し、前者は肯定的、後者は否定的な文脈で用いられる。
17 Celletti,Voce di tenore.,p.124. 《エルナーニ》初演の最初の数回に関する情報は批判校訂版の序文に基づく。
18 クレシェンティーニのメソッドと歌唱練習曲集については、
『ロッシニアーナ』第 18~20 号に連載した拙稿「歴史的ベル・
カントの声楽教則(1)~(3)」(日本ロッシーニ協会、2000 年 12 月、2001 年 5 月、8 月発行)で明らかにした。
19 この問題については拙稿「ヴェルディ作品の演奏解釈とその歴史性」で詳しく論じたので省略するが、続くタンベルリック
の挿話とヴェルディの書簡は論述の上で不可欠のため一部再録した。
20 Abbiati.,Giuseppe Verdi,vol.II.,p.732.Eduardo Rescigno.,Dizionario verdiano.,Milano,Biblioteca universale Rizzoli.,
2001.,p.513.
21 I copialettere di Giuseppe Verdi.,pp.255-257. (Lettera CCXXI)
22 Giuseppe Verdi, Autobiografia dalle lettere.,pp.368-369.
23 Ibid.,p.471.
24 Ibid.,pp.391-392.
25 I copialettere di Giuseppe Verdi.,p.497.
26 Rodolfo Celletti.,Storia del belcanto.,Milano,La Nuova Italia,1996.[Nuova edizione].,p.218.
27 Enrico [Heinrich] Panofka.,Voci e cantanti.,[Paris,1866.],Milano,1868.[ris.Firenze,1871.][rist.anast.Bologna,Forni,
1984.],p.110.
28 Giuseppe Verdi, Autobiografia dalle lettere.,pp.415-416.
29 音楽院の声楽教育において 19 世紀の前半と後半の間にメソッドや教育法が根本的に変わってしまったことは、歴史的な声
楽教本の研究によっても実証しうる。
30 Roger Blanchard et Roland de Candé.,Dieux et divas de l'Opéra,Tome II.,Plon,Paris,1987.,p.138.[フランス訳より重訳]
31 Giuseppe Verdi, Autobiografia dalle lettere.,pp.348-349.正しくは 11 月と思われるが確定しない。
32 筆者はパッティのヴェルディ歌唱に関する証言や資料をある程度集め、彼女がヴェルディの神経を逆なでする演奏を行った
と確信しているが、実証的解明にはより多くの資料を必要とするため言及を控える。
33 Franco Abbiati.,Giuseppe Verdi,vol.IV.,Milano,G.Ricordi,1959.,p.274.
34 Ibid.,pp.442-444.
35 タマーニョとモレルのそれは 1903~04 年、パッティは 1905~6 年の録音。
36 データは次の上演記録から抽出した。Giampiero Tintori.,Cronologia,opere-balletti-concerti 1778-1977.(Duecento anni di
Teatro alla Scala.,Grafica Gutenberg,Bergamo,1979.)
37 1894 年から 97 年までの 3 年間はソンゾーニョ社がスカラ座の興行元であったが、ライヴァルであるリコルディ社に権利の
ある作品も上演されている。
38 他にも細部に違いがある。嵐の中でジルダが戸を叩く部分で打楽器が「コン、コン」と打つのもその一つで、楽譜に特定の
楽器が指定されているわけではなく、最初の二つの録音にも使われない。
39 以下“黄金時代”の男声歌手に関する記述は、拙稿「ヴェルディ歌唱で名をなした 10 人の男たち」(『モーストリー・ク
ラシック』2013 年 4 月号、62-63 頁)から要約・改稿して取り入れた。
40 本論では次世代のテノール、ルチアーノ・パヴァロッティ(Luciano Pavarotti,1935-2007)とプラシド・ドミンゴ(Placido
Domingo,1941- )に関する言及を省略する。
41 本論では次世代のバリトン、レナート・ブルゾン(1934)とレーオ・ヌッチ(1942- )への言及を省略する。
42 Dizionario verdiano. 項目「Voce verdiana」pp.551-552.
43 カルロ・マリーア・ジュリーニは 1984 年録音の《イル・トロヴァトーレ》
(DG)に先立って自筆楽譜を検討し、ヴェルディの
メトロノーム速度指示をテンポに反映している。
44 正式名称は「ジュゼッペ・ヴェルディ作品集 The Works of Giuseppe Verdi」であるが、全集版として構想されている。
45 19 世紀のオペラ上演ピッチをめぐる諸問題については拙稿「ロッシーニ時代の上演ピッチについて」
(
『ロッシニアーナ』第
16 号、日本ロッシーニ協会、2000 年 4 月発行。64-66 頁)で明らかにし、要点を拙著『イタリア・オペラ史』
(音楽之友社、
2006 年)に掲載した(211-213 頁)
。なお、ムーティはスカラ座における 2001 年《オテッロ》上演でピッチを 436 ヘルツ
に下げる試みを行った。
46 その演出に関して『レコード芸術』2013 年 2 月号に長木誠司氏が、
「心底田舎くさいか、あるいは背伸びした読み替えにし
て墓穴を掘り、さらに田舎くささを増している」と記しているが、同感である。
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