震災・原発問題と日本の社会科学:政治経済学の視点から

震災・原発問題と日本の社会科学:政治経済学の視点から
八木紀一郎(経済理論学会・摂南大学)
1.福島シンポジウム開催にかけた希望
いまわたしたちは、いまなお収束しない原発事故と低線量放射能被曝に脅か
されている福島市でシンポジウムを開催しています。わたしたちがこの地でシ
ンポジウムを開いたのは、日本の社会科学が東日本大震災と福島原発事故から
学ぶためには、災害を経験し、それに対して行動し、思想と政策を形成してい
る人々に会い、そうした人々の前で討議することが必要だと考えたからです。
このセッションで討議するにあたり、私はなによりも先に、この地でのシンポ
ジウムの開催を受け入れてくださった福島のみなさま、そして、共催学会の会
員の方もおられますが、福島大学のみなさまに感謝の意を表明します。わたし
たちはあなたがたの厚意を無にしません。
私が代表幹事をつとめている経済理論学会は、経済学の理論を机上のモデル
に還元することに反対し、経済学の研究を批判的かつ社会的視野をもつ総合的
科学、すなわちポリティカル・エコノミーとして遂行することを標榜していま
す。この学会の幹事会は、昨年6月に大震災と原発事故の問題に学会としてと
りくむことを声明しました。この声明は英訳されて一定の国際的な反響を得ま
した。しかし、声明を発したのは地震が起きて3カ月後のことでしたから、決
して早い対応ではありません。私の次にお話しいただく、廣渡先生を会長に戴
いていた日本学術会議は、震災のおきた3月からすぐに活動を開始されていま
す。その枠組みのなかで多くの学会がワーキンググループを設置し、学術会議
の内外で多くの具体的な提言をおこないました。経済理論学会は包括的な学会
ですが、震災や原発に直接関連した専門学会ではありませんので、それに直ぐ
に加わることができませんでした。わたし自身、自分の研究がこうした災害や
事故に直ぐに対応できるものでなかったことを内心恥じながらこの1年間を過
ごしました。
経済理論学会幹事会の声明は、会員に対して年次大会で震災・原発問題を討
議する全会員参加のプレナリー・セッションを設けることを伝え、そのセッシ
ョンに向けて意見・提言を寄せるよう呼びかけました。その意見・提言集と昨
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年9月に行われた討議の記録はみなさまのお手もとにあります。
このプレナリー・セッションで、私は大震災が起きた1年後に、他の学会に
よびかけて福島市でシンポジウムを開催しようと提案し賛同を得ました。それ
にしたがって経済理論学会がおこなったよびかけに、経済地理学会、日本地域
経済学会、基礎経済科学研究所が共催団体としてお加わりいただき、シンポジ
ウムの実行委員会ができました。政治経済学・経済史学会にも、協賛団体とし
てお加わりいただいています。また、日本学術会議の前会長の廣渡清吾先生は、
極めてきついスケジュールのなかでご参加いただきました。このようにして、
この本日午前のセッションでは、単独学会では不可能な複眼的な視野での議論
ができることになりました。
さらに、共催4学会中3学会が加盟している日本経済学会連合の理事会から
は、共催集会の補助費をいただいています。福島大学からは、この午前のセッ
ションでは山川充夫先生、午後のセッションでは名誉教授の鈴木浩先生、副学
長の清水修二先生と次々にお話しいただくだけでなく、集会開催のための補助
もいただいています。
昨年、わたしたちが確認したことは、地震・津波・原発事故のすべてにおい
て崩れ去った「想定」なるものが、防災工事における「想定」にせよ、原発の
安全確保における「想定」にせよ、既存の日本の政治経済体制のもとで許容さ
れる基準の線引きでしかなかったことです。それは防災、国土開発が中央政府
によってコントロールされた土木事業としておこなわれる際の「想定」であり、
国策化した「原発」推進を独占企業体に行わせるための基準にすぎませんでし
た。それは、かつての政治経済学者が「国家独占資本主義」と呼び、最近の政
治学者たちが「開発主義」と呼んでいる政治経済体制のもとでの「想定」であ
り「基準」でした。したがって、昨年の震災・原発事故がもたらした大惨事か
らの復興は、「国家独占資本主義」というにせよ、「開発主義」というにせよ、
これまでのような、中央政府が統括する経済成長を中軸において日本の経済、
国土、地域を考えることに対して反省を迫るものです。惨事を引き起こした体
制の対極にあるものは、地域の住民の自治・主権にもとづく国土と経済、ネイ
ションの形成です。福島はローカルですが、いまや中央政府が代表するような
ネイションの下の一地方ではありません。むしろ、グローバルな市民社会と連
動しながら、ネイションを再形成していく場所であろうと思います。
2.市場の経済学・再生産の経済学・生活安全の経済学
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この冒頭の報告で私は、こうした災害・事故と復興問題が政治経済学の枠組
みにどのような問題を提起しているかを総論的に考えたいと思います。それは、
市場の経済学と安全の経済学の関連であり、また市場・社会・国家・世界を貫
通するガバナンスの問題です。自分は経済学者ではないと思われる方には多少
の我慢をお願いしますが、経済学 political economy 現代では簡略に economics
とは何かにかんしては二つの見方があります。一つは、
「富の科学」
「富の生産、
分配、消費の科学」としての見方であり、現代的にいえば「資源の効率的配分
の科学」です。もう一つは、富の生産・分配・消費という経済的な過程をうま
く制御するということで、現代風にいえば経済の各レベルにおけるガバナンス
の科学です。日本、あるいは中国で現在おこなわれている「経済」という語が、
中国古典の「経世済民」を約めた語であることは多くの大学の経済学部の学生
が耳にたこができるほど聞かされています。そのような伝統的な、上からの支
配ガバナンスである「経世済民」を下からのガバナンスの形成に転換したとき
に経済学が成立したのです。上からの支配は富の支配ですが、下からのガバナ
ンスの形成は富の生産です。そして、「共同の富」すなわちコモンウィール
common weal 共同の福祉は、commonwealth 共和国ですから、政治=ガバナ
ンスを含んでいます。
経済学には、富の科学という側面とガバナンスの科学という側面があり、そ
れらが各レベルで結びついているとして、以下では、次のような図式をおいて
考察していきたいと思います。
政治経済学
富のレベル
ガバナンス
市場の経済学
既存資源による富
市場:効率的市場/投機
再生産の経済学
再生産される富
生産・再生産システム:再生
産を保障する正常な価値
生活安全の経済学
基盤的な富
公共的ガバナンス(地域・国
家・グローバル市民社会)
「富の科学」というのは、既存の資源を利用して富を生産・分配・消費する
ことの研究で、経済学者はこれが「市場」というオープンな取引システムによ
って実現すると考えます。資源あるいはそれから派生した財がともかく存在し、
それが市場に出されるということが供給であり、これが消費者の側の財への欲
求という需要側の事情とあいまって市場価格が決定し、それによって経済が動
くというのが「市場経済学」です。これがレオン・ワルラス以来、現在にまで
いたるアカデミズムの主流になっている新古典派経済学の基本構造で、既存の
資源を前提として生産をおこなう市場経済学です。この「市場経済学」には明
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らかな限界があります。それは、市場は供給が続くかぎり成り立ちますから、
供給の維持可能性が問題になることはありません。資源が枯渇していけば価格
は上昇しますがただそれだけです。資源がなくなれば、市場が成立する他の地
域・他の分野に移るだけです。価格メカニズムはこうした資源消耗的な経済活
動という性格を変えることはできません。
経済学者のなかには市場は将来のあらゆる可能性を織り込んで価格を決定し
取引を成立させることができるとみなして「市場の動学的な効率性」を仮定す
る人もいますが、彼らもそれが現実ではないことを認めています。それでは、
効率的市場仮説が成立しないとすれば、市場には何が残るのでしょうか? そ
れは不確定な予想のもとで行われる「投機」です。この市場理論から派生した
のが、既存の富の存在を前提にした金融の市場経済学でこの領域における投機
の経済が世界金融恐慌を引き起こし、現在にいたるまでの世界経済危機を生み
だしています。
それに対して「再生産される富」のレベルというのは、
「富の生産」によって
消耗される財・資源を生産のなかに組み込むことによって、継続的な生産を可
能にすることです。そうした再生産のメカニズムにおいて経済を捉えるのが、
私が考えるポリティカル・エコノミー(政治経済学ないし社会経済学)です。
そこでは、とくに、生産において消尽される生産手段だけでなく労働力の再生
産が視野のなかに入ってきます。経済体制としての資本主義が単なる「市場経
済」と異なるのは、そのような再生産のメカニズムを自分自身のうちに確立し
ていることです。
「再生産される富」の条件のなかに、生産財の補填・持続的確
保と生産者の生活における福祉が含まれます。それが市場的な価値評価におい
て現れたものがスミス、リカード、マルクス、スラッファらの「価値」です。
再生産を保証する価値ということは、生産財の起源である自然的資源との関連、
労働力を生みだす生活の形態・水準・内容をめぐっての協働と対立の関係に開
かれているということです。そうした生産・分配のなかでの利害関係が何らか
の方法によって調整されて再生産可能な関係になることが政治経済学における
ガバナンスでしょう。
しかし、生産が持続的におこなわれるためには、生産手段と労働力の補填だ
けでなく、生産の基盤である自然(大地、つまりアース)と人間のなかにある
基盤、人間的自然と社会的・文化的富が必要です。その大部分は、市場経済の
なかに包摂されているものではありません。自然環境の微妙なバランス、人間
が生まれ育ち生活する活動とコミュニティのなかで共同の資産として存在して
いるものがほとんどです。それらによって、人々の生活の安全が確保されてい
ることが前提です。昨年3月の地震・津波、そして今にいたる放射能汚染が襲
ったのは、こうした自然基盤、またそれとむすびついた生活基盤における富で
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した。地震と津波によって、2万人近い生命が失われ、荒廃した土地が残され
ました。原発事故によって放射能汚染された土地は、
「警戒区域」として指定さ
れて立入禁止されているのは事故原発から半径20キロ、また風向きによって
それを超えて放射能汚染が拡がった約1000平方キロですが、その外部でも
商業的農業が実質的に不可能な地帯が生まれています。さらに、放射能線量の
高いホットスポット、危険度が未知の低線量被曝地域、生物濃縮をともなった
食品などによる内部被曝の危険が生まれました。私たちは基盤的富の維持の問
題は、生命と生活の安全確保の問題であることを気づかされたのです。
それは市場経済の範囲を超えていますから、それに対する対応は、地域コミ
ュニティのレベルから、国民国家、国際レベルでの公共的な意思決定を必要と
します。経常的な再生産を基準にした経済学も、そのような生活基盤の保障に
かかわる経済学による補完を必要とします。これが経済学の第3のレベルです。
私はこれを「生活安全の経済学」と呼びたいと思います。
「再生産される富」の経済学としての政治経済学も、市場で活動する資本(企
業)が再生産の主導的な主体であると考えるか、それとも非市場的な基盤と結
びついた多くの主体が再生産を可能にしていると見るかで、その構造が変わっ
てくるでしょう。私の印象では、1960年代半ば頃までは前者が主でしたが、
その後、公害問題や環境問題がクローズアップされるなかで、1970年代に
転換が生じました。日本では都留重人さんが体制の論理と素材の論理を統合し
た公害の政治経済学を提唱し、宮本憲一さんが社会資本の経済学を生みだしま
した。また、かねてから「広義の経済学」を提唱していた玉野井芳郎さんが「地
域主義」の運動をおこしました。経済理論学会も1974年には、
「現代資本主
義と資源問題」を年次大会の共通論題に設定しました。
「再生産の学」としての
政治経済学が基盤的富の次元にまで拡張・深化されたと言ってよいでしょう。
私は、現在の事態は、この1970年代前後の政治経済学の革新を一段と深
化させることを要求していると考えます。公害・環境・地域問題が政治経済学
に革新をうながしていた1960-70年代に焦点になったのは、とくに水俣
の水銀中毒問題です。これは、現在、わたしたち社会科学者に革新を促してい
る原発事故と放射能汚染と同様に大企業がかかわっています。水俣の場合には
長期にわたって企業が排出したメチル水銀が生物による濃縮をへて住民の生命
健康に被害をもたらしました。福島第1の場合には、地震・津波に対して真剣
な対策をとっていなかった電力会社が、発電用の原子炉内にためこんでいた放
射性物質を一挙大量に外部に放出し、広範かつきわめて長期にわたる損害を引
き起こしました。
水俣病の発見の背後には会社や行政の抑制に抵抗して病気の原因をつきとめ
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た医師・研究者の苦闘がありました。原発の危険に対しても警鐘を鳴らし続け
た研究者がいました。しかし、1960-70年代に高まった公害・環境問題
に対する意識は、原子力発電に対する警戒心にそのまま発展することはありま
せんでした。原子力発電がエネルギー安全保障の要と位置づけられて国策化す
るなかで、原子力発電の危険を指摘する研究者・活動家の孤立化が図られ、批
判的な人々を排除した「原子力ムラ」(政府・原子力産業・電力産業・政治家・
学界の暗黙の結合)が形成されました。他方で、電源三法などによる利益誘導
政策のもとで、原発を継続的に誘致する地域的利害構造が構築さました。その
ため原発に疑問をもつ人も原発問題について発言を避けるようになり、経済産
業省の官僚たちが地球温暖化対策の名のもとに原子力発電の拡大をはかっても、
それを阻止する動きはあらわれませんでした。このような成り行きを私たちは
痛苦をもってうけとめなければなりません。
3.政治経済学とガバナンス
「市場の経済学」が市場化されない「基盤的富」、確率計算が困難な将来の危
険を扱いえないことは明らかです。問題は、この第3の「基盤的富」にかかわ
る「安全の経済学」においては、どのような価値評価をおこない、どのような
ガバナンスを実現する必要があるか、そのために政治経済学は何を課題にしな
ければならないかです。
「基盤的富」の次元では費用は経常的な経済活動によって発生するのではな
く、
「安全」に対するリスクへの備えとして発生します。その算定は、それが市
場化されていないことと、リスクの規模も確率も未知に近いことできわめて困
難です。それを知り得る場合でも、リスクの規模と確率は、それぞれ多層にわ
たる構造をもって存在しているでしょう。リスクを分析すれば、個別の利用者
に配賦可能な費用もあるでしょうが、残余リスクの問題が残ります。リスクに
対する費用を電気料金のように応益的に配賦する場合でも、リスク防止の水準
をどこまでに設定するかは最終的には公共の決定に委ねられざるをえません。
日本全体にかかわる損害を生むリスクとローカルなリスク、高い頻度でおこ
るリスクと低い頻度のリスク。それらに対応してガバナンスと費用負担の構造
も重層化され、企業レベルでの対応、国家あるいは中央政府としての危機対応、
ローカル・レベルでの対応の体制が整備されなければならないでしょう。しか
し、全国レベルの災害であっても、全国の地域・個人に被害が平均的に起きる
ことはなく、災害はつねに地理的な属性を帯びています。それが、何よりも地
域の自己決定を尊重しながら「公正」が実現されなければならない理由です。
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したがってそれはガバナンスの理念、構造、実現の手続きに関連し、法学・政
治学・社会学との協働が必要になります。
1960-70年代における政治経済学の革新においては、社会資本・環境
についての認識が深まり、そのための公共的意思形成において住民の民主的自
治の重要性が認識されました。にもかかわらず、昨年の大震災とそれ以来の原
発事故の拡がりは、多くの経済学者にとって衝撃的なものになりました。そこ
にはわたしたちの政治経済学自体の立ち遅れがあったと認めざるを得ません。
絶対に必要なことは、この大震災・原発事故自体から学ぶことです。そこに
は、防災・避難施設の建設にかかわる費用・効果の計算・分析の領域から、原
子力発電を含む電力コストの評価、被災地の基礎自治体の財政、地域の農水産
業およびその加工業、地場産業と進出企業、地域復興のありかた、高齢化する
コミュニティのなかでの社会基盤維持のあり方について、等々の重畳する問題
群が存在します。そのなかで明らかなことは、住民と直接にかかわる基礎自治
体の枢要的な意義です。県にせよ、国にせよ、おしきせの基準と規格にあわせ
た防災対策は、
「想定外」の現実によって脆くも崩れ去りました。災害を減じた
のは、地域の実情に合わせた対応と日ごろの防災のこころがまえでした。これ
は三陸地域と違ってもはや大規模な津波災害は起こらないと油断していた仙台
湾地域の被害の甚大さに現れています。
原発事故における根本的な問題は、地震・津波による被害が起こりうる地域
に原子力発電所を立地させたこと自体にあります。東北電力の女川原発が無事
であったのは、詳細な研究によって過去の大津波の履歴を発見してそれに対し
て対策をとっていたためですが、東京電力はそれと対照的に過去の大地震・津
波をもとにした警告を無視していました。これは、首都圏地域に電力市場があ
る東京電力にとって、福島はそこで企業が生きる場所ではなく、電力を供給す
るだけの企業植民地にすぎなかったからだという見方がありますが、あたって
いるのではないでしょうか。東京電力については、原子力利用推進という「国
策」に協力しその実働部隊になることによって「民営」企業としての責任を免
除されるという「国策民営」によるガバナンスの欠如が指摘されます。
それでは、防災および原発事故のリスクに対する公共的なガバナンスはどう
だったでしょうか。それこそ、この大震災・原発事故ほど、政府と議会、中央
省庁と財界を含む国家のガバナンスのあり方に対して国民が疑問をもったこと
はありませんでした。新幹線が事故を起こさなかったこと、自衛隊の被災地配
備が迅速に行われたことは政府によって自画自賛されていますが、被災地救援
のバックアップ、その財政的保障は大幅に遅滞しました。原発事故にいたって
は、そもそも危機対処の体制が成り立たず、また専門能力の欠如が露呈しまし
た。どちらにおいても、現地でおきていることに対して、中央政府は即応的に
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対処する体制も能力も備えていませんでした。
被災地域では、少なからずの市町村がガバナンスの軸となる首長、職員、施
設を失いました。それでも被害を大なり小なり受けている住民自身の集団的な
結束を基礎に、海外のメディアに称賛されるほどの秩序で被災の試練に耐えま
した。被災地域で現実的な対処能力を発揮したのは、被害が比較的少なかった
近隣自治体による応援、自前のロジスティクスをもつコンビニなどの企業、保
健医療要員、警察官、行政要員をも含む遠隔自治体間の協力、そして当初は政
府によって足止めされていたボランティアでした。全世界からの救援活動もめ
ざましい活動を展開しました。<地方→中央→地方>という国家の再分配型の
制度的構造よりも、こうした水平の「連帯」的な構造の方が効果的であったと
思われます。
このような経過を考えると、「基盤的富」の保障、「生活の安全」の保障の領
域において、中央政府が主導する従来の開発型の政策体系と再分配をとおした
中央コントロールの方式にともなうガバナンスの欠陥が、甚大な被害、また福
島原発事故の重要な要因であり、また救援・復興における立ち遅れを結果した
と考えることができます。それに対して、地域に生きている住民の生命・生活
に責任をもっている、そして多くの場合その仲間である人々が構成している自
治体や近隣コミュニティが自律と創意をもつこと、それを支えることが重要な
ことが示されました。2009年に共同資産にかかわるガバナンスの研究でノ
ーベル経済学賞を得たエリノア・オストロムは住民参加型の多元的なガバナン
スの方が、画一的な中央ガバナンスよりも実効的であることが多いと論じてい
ます。住民自治・地域主権がまず原理として確認され、そのうえで、基礎的な
自治組織ができないこと上位団体がおこなうという原則が重要でしょう。もち
ろん、地方の基礎自治体の財政力は弱く、まして被災自治体にとって自己財源
は皆無に近い状況でしょう。そこでは、公共的な決定における「公正さ」の基
準が合意されるべきであり、その上にたって「連帯」の原理による国家的規模
での財政負担がおこなわれるべきです。
中央主導の開発政策、「国策民営」型の原発立地における最も大きな問題は、
国民レベルでの「公正基準」にもとづいた「連帯」の原理が、利益・利権によ
る誘導をともなう政府・大企業の結合した体制によって、その発展の可能性が
奪い去られることです。中央から地方への財政移転がなかったわけではありま
せん。しかし、それは地方の自立を保障するものではなく、
「国策」思想が骨の
髄までしみこんだ中央省庁による規制・誘導と結びついたものでした。政府は
協力する大企業とともに、過疎地、産業衰退地域、後進農業地域に、資源開発
や工場誘致、利権と結びついた建設工事の資金を投じますが、その利益は利権
を得た企業や立地自治体によって独占されました。原発立地自治体にとっての
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電源三法による交付金のように、買収に近い形で巨額の財政支出が行われ、他
地域、とくに大都市圏に住む人々は危険な原発立地地域の人々のことを忘れる
ことのできる構造が成立していました。これは多くの人が気づいているように、
沖縄県民の反対にもかかわらず危険な米軍基地を沖縄に置き続け、財政優遇で
その埋め合わせをしてすませようとする構造と同じです。電力・エネルギーに
せよ、安全保障にせよ、国家が設定した「国策」的枠組みのなかで、協力自治
体・協力企業と選別的に利益交換をはかろうという政策は、分断支配をねらっ
たものです。それには「公正さ」が欠けていますから、そこから「連帯」が生
まれることは困難です。
首都圏でも、私の住んでいる関西都市圏でも、震災の惨状に対する同情心は
高まりましたが、放射能汚染への対応は「連帯」的であったというより、放射
能のリスクを忌避することが第一の関心事であったように思います。首都圏な
どの大都市圏で放射能が検出される食品に対して安全を要求することも、原発
事故による放射能汚染のリスクに現実にさらされている人々に対しても、同様
な配慮が保証されることを要求しなければ「公正」とは言えないでしょう。前
者のリスクは可能性であるのに対して、後者のリスクは現実だからです。同レ
ベルの安全が保証されない場合には、現実のリスクにさらされている人々の「自
己決定」を支持しながら、それがどのような「決定」であれ、国民として同水
準の「安全」に近づけることに連帯的な負担をいとわないことが表明されるべ
きでしょう。
学術会議は震災後まもない昨年3月21日の緊急提言で、ペアリング支援(中
国四川省大地震の際に「対口支援」と称して実施された)という考えを示しま
した。被災した特定の自治体と支援する特定の自治体が持続的にペアを組んで
復興支援にあたるという構想です。もし、私の住んでいる滋賀県が福島県とペ
アを組んで、福島県の避難者の状況改善、放射能汚染の状況の改善に滋賀県が
福島県と責任を共有するということになったらどうでしょうか。こうした県ど
うしの協力が、応援に派遣される職員や警察官だけでなく県民の全体にまで拡
がり、滋賀県民が福島県民の毎日の状況について心配するようになれば、そこ
には連帯心が生まれます。しかし、放射能汚染とたたかっている福島県を支え
るのは国の役割だと考えるだけでは、せいぜい中央政府の対応への遅れに対す
る批判しか生まれないでしょう。国民的な連帯心は同一の国家・同一の政府の
下にあるから生まれるものではなく、対等の立場で国民となり国家を形成して
いるということから生まれるというのが「国民主権」の原理です。日本全体の
中での地域相互の連帯についても同様です。日本という国家の「主権」は、中
央政府・国家機構によって代行・誘導されるものではなく、
「公正さ」とむすび
ついた国民的な「連帯心」によって人々と地域が再結合されることによって実
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現されるものです。
4.ローカル・ナショナル・グローバルな連関
私は東日本大震災と引き続く福島原発事故は、政治経済学にとって1960
-70年代における公害問題と並んで、その第二の転換深化を促しているもの
であると考えます。それはすでに述べたように、
「基盤的富」の経済学の確立と
いうことで、
「生活の安全」にかかわる公共的な意思決定と政策実施過程におけ
るガバナンス問題を提起しているからです。
公共的な意思決定あるいはガバナンスといっても、衆議院や参議院の選挙の
ような国政レベルのものだけではありません。都道府県、市町村だけでなく、
影響を受ける地域の住民の自治や、広域にわたる住民・市民の運動によって形
成される公共的な判断や政策実施過程を含むものです。
東日本大震災によっておきた津波は 7時間後にハワイに達し、その数時間
後には南北アメリカ大陸の太平洋岸に達しました。福島第一が放出した放射性
物質は、その2週間後には世界を一周していました。福島第一の汚染水の海洋
への放出を日本政府が近隣諸国に事前通知せずに実施したことへの各国政府の
抗議はもっともです。日本は、1945年に米国による広島・長崎への原爆投
下による犠牲者を出し、1950年代には核大国の原水爆実験による放射能被
害に抗議する運動を開始しました。その国の政府が、自国が放射能汚染を起こ
した時には他国民のことを忘れていたのです。
放射能の拡散は世界的なものですし、また放出された放射性物質が人間にと
って無害になるには気の遠くなる時間がかかります。原子力発電所は、臨界に
達して暴走すれば核爆発をおこしますし、安全に運転していても、危険な廃棄
物を毎日積み上げています。福島第一が廃炉になることは実質上決定済みであ
ると考えても、それでもなお48基の原発が日本にあります。もんじゅ増殖炉
のプロジェクトや六ヶ所村の再処理施設の建設もまだ継続されています。日本
の原発をどうするか、日本のエネルギー政策において「生活の安全」をどのよ
うに組み入れていくかは、現実に私たちが答えなければならない課題です。
このシンポジウムでは、昨日、南相馬市の桜井市長をはじめとして、現場で
放射能による生活破壊と闘いながら地域社会を維持しようとしている方々のお
話を聴くことができました。今日の午後には、原子力発電とその事故による放
射能汚染問題をローカルであると同時に世界的な視野でとらえることで、わた
したちの直面している課題に迫りたいと思います。そのため、脱原発をかかげ
た福島県の復興ビジョンの策定に尽力された鈴木浩先生、1986年に起きた
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チェルノブイリ原発事故以後20年をへた放射能汚染地域の現在の状況をみて
こられた福島大学副学長の清水修二先生、そしてドイツのメルケル首相に20
22年末までの原発全廃を決心させた「安全なエネルギー供給に関する倫理委
員会」のメンバーであったベルリン自由大学のミランダ・シュラーズさんのお
話を聴きます。そのうえで、再度討論して、現在の事態のなかでの社会科学者
の責務について考えていこうと思います。
最後に、科学者の課題にかかわって、一言申し上げておきたいことがありま
す。それはドイツが脱原発の方針を固めたことに対して、ドイツは原発を多数
動かしているフランスなどから電力を購入しているので、独善的な決定ではな
いかという人がいるからです。そもそも環境政策とエネルギー政策が一国にと
どまりえず、とくに欧州ではその統合が進行していて、そのなかでドイツとフ
ランスで電力のやりとりがあることは議論をおこなう際の当然の前提です。そ
れを前提にして、欧州でどういうエネルギー体制を構築していくかが課題なの
です。
福島第一の事故の直前にドイツ政府の環境政策に対する諮問委員会(SRU)
は、2050年までに再生エネルギーによる電力システムへの完全移行が可能
であるという特別報告を出しました。この特別報告は、温室効果ガスの排出が
少ないことを理由に、原発を可能エネルギーとして強弁するようなことはせず、
柔軟性のない原発と変動的な再生エネルギーの組み合わせは不適切であるとし
て、原発の耐用年限の延長を否定していました。それは4月に設置されたエネ
ルギー供給にかんする倫理委員会の結論とともに、ドイツ政府の決定に大きく
影響したと思われます。実は、この特別報告は、欧州全体についての再生エネ
ルギーによる供給体制への移行も視野に入れたもので、欧州のエネルギー政策
の形成に向けて公表されたものでもありました。ドイツ人は、決して、一国脱
原発論者ではないのです。
私が最近ベルリンで面会したこの委員会の専門家は、エネルギーや電力をど
のように得るかは各国の主権事項なのでドイツ政府も EU も各国を縛ることは
できない、しかし、欧州各国の政治状況がどのようであれ、現実的なシナリオ
を多数用意して、各国の脱原発・再生エネルギー利用への移行を理性的に促進
することが重要なのだ、と語っていました。私もそのように考えます。それが
科学者の態度であろうと思います。そして科学者たちは公共的な意思決定に向
けて、グローバルな世界における市民社会・市民運動と結びつきうるのです。
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