物語化された倫理:ホメロス、アイスキュロス、広島 マイケル・パレンシア

物語化された倫理:ホメロス、アイスキュロス、広島
マイケル・パレンシア−ロス
アルキノオス王に、自らの素性と体験を話すよう求められたオデュッセウスは、彼自身
がアルキノオス王と同じく「文明化された存在」であること、また彼自身が文明化されて
いない野蛮な文化や人々をどのように識別すればよいのかを理解しており、その理解ゆえ
に野蛮な人々への対処が正当化されることを示す物語を構築する。オデュッセイ第9巻は、
他者性の構築と、この種の価値論が何をもたらすかを示す思考の枠組み(パラダイム)の
例証と考えられる。
広島に原子爆弾がなぜ、またどのようにして投下されたのかはこれまで何度も述べられ
てきた。最も広く知られている正当化の理由としては、原子爆弾の投下が戦争を終わらせ
るための唯一の手段であり、その結果として、多くのアメリカ人や日本人の命さえも救う
ことになったのだ、また、原子爆弾の投下は、無条件降伏を受け入れることに消極的だっ
た日本自体が「原因」なのだ、
(戦争の早期終結が)戦後の日本にソビエト連邦が乗り込む
ことを防いだのだ、などが挙げられる。これらの正当化と比べるとあまり知られていない
が、西洋文明の核ともいうべき、古典的な物語に基づいた正当化が二つある。その一つは
聖書である。トルーマン大統領は、自らの日記の中で聖書を引き、彼が自らの責任でその
決断を下すに至った、と述べている。もう一つの物語はギリシャ神話であり、マンハッタ
ン計画に携わった科学者のうち数名は、プロメテウスの神話を引き合いに出し、原子爆弾
の開発だけでなく、その使用を正当化した。
これらの三つの物語化された正当性は、
(三段論法における)排中律、あるいは「失中律
(dropped middle)
」の論理を基盤としている。さらに、この三つは、程度の差こそあれ、
それぞれ正当化の議論を構築するのに普遍主義を拠りどころにしている。彼の訴える普遍
主義は、包括的ではなく排他的であり、寛容的ではなく非寛容的、平等的ではなく序列的、
謙虚ではなく横柄、他者について尊重ではなく無関心、そして更に攻撃が及ぼす長期的な
影響について意図的に無知を通している。私の分析は、基本的に修辞学的であり、歴史的
であり、道徳的である。物語や神話は文明の行動を形成しているのである。
物語化された倫理は必ずしもここで述べられたような普遍主義に利するためにのみある
のではない。以上に述べた一連の二択の内の後者を強調するような、これまでとは逆の物
語の方策が存在する、と私は思う。そうする時、包中律すなわち中間を取り戻した論理が
尊重されるべきである。我々が過去百年間の間に体験した様々な戦争や誤解、さまざまな
攻撃行為を今後避けたいのであれば、このような物語の使用やそれが倫理的に意味するこ
とにもっと注意を払わなくてはならないと思われる。