フィールディングの語りと広教派の教義

フィールディングの語りと広教派の教義
人間科学部研究年報 平成 27 年
フィールディングの語りと広教派の教義
Fielding’s narrating style and Latitudinarian teachings
河崎 良二
Ryoji Kawasaki
要約
イギリス小説は 18 世紀半ばのサミュエル・リチャードソンとヘンリー・フィールディングに
よって確立したと言われている。前者は小間使いの娘の手紙と日記の形式を取って現在時制に
よって館の若主人に付きまとわれる娘の内面を描いた。日記と手紙はピューリタンにとっての重
要な文学伝統であった。後者はその新しい方法の意味を知りながら、全知の語り手が過去時制に
よって主人公の恋と冒険を語る伝統的方法を取った。そこには、ピューリタンと対立していた国
教会内の広教派の信仰に共感していたフィールディングの態度が影響していると考えられる。本
論ではフィールディングの語りの特徴と広教派の教義の関わりを明らかにしたい。
Abstract
The purpose of this essay is to show that Henry Fielding’s narrating style is strongly influenced
by the teachings of Latitudinarians, the tolerant Anglicans.
It has been said that the English novel was established by Samuel Richardson and Henry
Fielding in the early 18th century.
In Pamela, by using the forms of a letter and a diary, that
is, the present tense and first-person narrative, Richardson described the workings of the mind
of a young maid followed by the son of her landlady. Richardson was a Puritan, and Puritans
at that time were encouraged to write a journal, because they believed they could find the acts
of Providence in their daily activities. On the other hand, Fielding, a member of the Church of
England, felt strong affinities with the Latitudinarians and wrote stories of love and adventures
by using the past tense and omniscient narrators. He knew the usefulness of the present
tense in describing the minds of the characters, but he never used it except in the satirical
work Shamela, a parody of Pamela. This leads to my hypothesis that his inclination towards
Latitudinarianism has a clear influence on his style of narration.
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人間科学部研究年報
平成 27 年
イギリス小説が二つの流れ、つまり 17 世紀に多く書かれた霊的自伝や道徳書からデフォー
(Daniel Defoe)
、リチャードソン(Samuel Richardson)の小説へという流れと、ラ・ファイエッ
ト夫人(Mme. De La Fayette)の『クレーヴの奥方』
(The Princesse de Clèves)からジェイン・
バーカー(Jane Barker)へというロマンスの流れが合流して始まったことを、筆者は拙著『語り
から見たイギリス小説の始まり―霊的自伝、道徳書、ロマンスそして小説へ―』で示した(1)。し
かし、そこにはウォルター・スコット(Walter Scott)が「イギリス小説の父」と呼んだフィー
ルディング(Henry Fielding)の小説が出てこなかった。なぜだろう。
拙著で取り上げた小説に近い描写がなされている4つの霊的自伝は、自分のことを「最も罪深
い者」と見る深い内省と、ひたすら信仰によって神の恩寵を希求するカルヴァン派の強い影響が
見られる霊的自伝である。イギリスにおいて個人の良心の問題を扱った決疑論と道徳書の下にあ
るのも、誰もが自分の魂の幸福に責任をもつべきであるという 17 世紀のピューリタンの考えで
ある。デフォーが『ロビンソン・クルーソー』(1719)の前に書いた『ファミリー・インストラ
クター』(The Family Instructor)も、リチャードソンが『パミラ』(1740)の前に書いた『模範
書簡集』
(Familiar Letters on Important Occasions)もまさにピューリタンの道徳書なのである。
孤島でそれまでの行いと日々の出来事を記録するクルーソーも、日々自分の身に起こる出来事を
両親に手紙で伝えるパミラもいわば架空の道徳書を書いているのである。そこでは小説の特徴で
ある、過去のある時、あるところでの出来事をまるで目の前で今起きている出来事であるかのよ
うに語る「転移された直接モード」の語りが使用されている。
フィールディングは『パミラ』出版の翌 1741 年に出版したそのパロディ『シャミラ』
(Shamela)
でも、その 5 か月後に出版した小説『ジョゼフ・アンドルーズ』
(Joseph Andrews)でも、その後の
『トム・ジョーンズ』(Tom Jones)
、
『アミーリア』(Amelia)でもほとんど「転位された直接モー
ド」による語りを使っていない。上述したように「転移された直接モード」はイギリスにおいて
は 17 世紀後半から 18 世紀前半のピューリタン信仰との関わりが強い。従来フィールディングは、
登場人物の内面に入り込んで描かない作家と言われてきたが、その理由は広教派(latitudinarian)
という彼の信仰と関わっているのではないだろうか。これまでのフィールディングの語りに関す
る研究は、語りがどのように個々のエピソードやプロットを構成しているのか、どのような効果
をもたらしているのかを論じたものがほとんどであった。もちろん彼の信仰に関する研究もなさ
れてきたが、それらはフィールディングの自伝的要素としての研究であって語りと関わらせたも
のではなかった。小論では、彼の信仰と語りがどのように関わっているのかを『ジョゼフ・アン
ドルーズ』を中心に考えてみたい。
『シャミラ』を書くまで、フィールディングは劇作家として 20 数編の戯曲を書いた。その中で
後の彼の小説を考えるのに重要と思われるのは腐敗した選挙の模様を描きながら、当時の演劇界
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の大物(Colley Cibber)を皮肉った『落首』
(Pasquin、1736)である。ここで採用した「劇中劇
を進行させつつ、そばから作者なり批評家なりがやり直しをさせたり批評を加え」(朱牟田 53)
たりするという手法は、その後の小説において、物語に介入したり、全く物語と無関係な話を展
開する語り手につながったと思われる。『落首』の翌 1737 年、フィールディングは明らかに当時
のウォルポール内閣を風刺したとわかる劇を上演した。激怒したウォルポールはすぐに議会で上
演する台本は全て検閲を受けなければならないという検閲令を成立させた。その結果、フィール
ディングが経営する劇場は閉鎖となった。コリー・シバーはそのことを 1740 年 4 月に出版した自
叙伝 An Apology for the Life of Colley Cibber の中でからかった。フィールディングはすぐに自分
が関わっていた新聞でシバー攻撃をしたが、怒りは完全に収まらなかった。その年の 11 月 6 日、
リチャードソンの Pamela: or, Virtue Rewarded(
『パミラ―報われた美徳―』)が匿名で出版さ
れ熱狂的な人気を博した。フィールディングはそれをシバーの作と取った。5 か月後の 1741 年 4
月 4 日、フィールディングは『パミラ』のパロディ『シャミラ』を匿名で出版した。その 5 か月
後の 9 月から執筆され、1742 年 2 月に出版された『ジョゼフ・アンドルーズ』とのつながりを考
えるとき、『シャミラ』の複雑な構成、「気取り」への風刺、現在形で書くことへの風刺、ティク
ルテクスト牧師への風刺の 4 つの問題が重要になってくる。
第 1 の複雑な構成とは、
『シャミラ』は『パミラ』を真似て書簡体で書かれているが、シャミラ
の書簡の前にコリー・シバーをもじったコニー・キバーという編者の弁、献辞、編者からの「編者
への書簡」、ジョン・パフからの「ジョン・パフ殿、すなわち編者へ」の書簡、「ティクルテクス
ト牧師からオリバー牧師へ」の書簡、
「オリバー牧師からティクルテクスト牧師への返信」といっ
た当時の出版の慣行をもじったものが置かれていることを指す。「シャミラ」(まがい物)、ブー
ビー(間抜け)、ティクルテクスト(聖書の言葉をくすぐる)など登場人物の名前からもわかるよ
うに、フィールディングは非常に意識的な作家である。
第 2 の「気取り」に対する風刺とは『パミラ―報われた美徳―』に見られる偽善に対する批判
である。パミラは館の若主人が執拗に言い寄ってくるのを拒み通した結果、若主人と結婚するの
ではなく、拒むふりをして若主人を誘ったのだ。パミラは本名シャミラ(まがい物)であると批
判し、彼女の気取りを暴露していく。その方法の一つとして次の第3の特徴、
『パミラ』で多用さ
れた現在形で書くという方法が取られる。次の引用は女中頭ジャーヴィスとシャミラの寝室のド
アを開け、若主人が入ってくるところだが、そこに「私が現在形で書いているのがわかるでしょ
う」という言葉を挿入して、『パミラ』の書き方を利用していることを意識させている。
Thursday Night, Twelve o’Clock.
Mrs. Jervis and I are just in Bed, and the Door unlocked; if my Master should come—
Odsbobs! I hear him just coming in at the Door. You see I write in the present Tense, as
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Parson Williams says. Well, he is in Bed between us, we both shamming a Sleep, he steals
his Hand into my Bosom, which I, as if in my Sleep, press close to me with mine, and then
pretend to awake.(Shamela 330, Italic mine)
『パミラ』においてこの部分に相当するのは「手紙 25」で、若主人B氏は女中頭ジャーヴィス
とパミラが寝るのをクロゼットに隠れて待っていたが、物音が気になったパミラが扉を開けにき
たので、飛び出してしまう場面である。
I don’t know why, but my heart sadly misgave me; indeed, Mr Jonathan’s note was
enough to make it do so, with what Mrs Jervis had said. I pulled off all my clothes to an
under petticoat; and then hearing a rustling again in the closet, I said, ‘Heaven protect us!
but I must look into this closet, before I come to bed.’ And so was going to it slip-shoed,
when, O dreadful! out rushed my master, in a rich silk morning gown.(Pamela 95)
この引用文でもわかるように、パミラは過去の出来事を思考動詞 know や知覚動詞 hear、また
直接話法を使って報告するだけでなく、手紙を書いている時点での思いを現在形で書いている。
これが「転移された直接モード」である。それは読者の意識を過去の主人公の、ある時、ある場
所に移行させ、そこにいるかのように読者に思わせる効果を持っている。
フィールディングはその効果を知っていたので、『シャミラ』で、「現在形で書いているのがわ
かるでしょう」と茶化してみせた。フィールディングにはこの語りの魅力がわかっていた。リ
チャードソンは『パミラ』を諷刺したフィールディングを許そうとせず、フィールディングの作
品を低俗で、劣ったものとして、正当な評価をしようとしなかった。しかしフィールディングは
Claude Rawson 編のアンソロジーにあるように、1748 年 10 月 13 日のリチャードソンへの手紙で、
リチャードソンの第2作『クラリッサ』
(Clarissa Harlowe)に魅了されたことを素直に書いてい
る(Rawson, Fielding 73)
。フィールディングはその時『トム・ジョーンズ』をほぼ書き終えてい
たが、この「転位された直接モード」という方法をそこでも、次作『アミーリア』でも使用しな
かった。それは単なる語りの技法という次元を超えた問題があったからだと考えた方がいいだろ
う。そして、それは信仰の問題であったと考えていいのではないだろうか。
『シャミラ』に関する第 4 の重要な点は信仰の問題である。ティクルテクスト牧師は『パミラ』
を称賛し、オリバー牧師に勧めるために一冊送る。その返事にオリバー牧師は、パミラ、本名シャ
ミラ、の母親から送られた手紙を写して送り、娘が手練手管を弄していたことを納得させ、ティ
クルテクスト牧師の迷いを解く。最後に置かれたティクルテクストの手紙の追伸には、館の主人
ブービー氏が、シャミラとウィリアム牧師とがベッドを共にしているところを見つけ、シャミラ
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を追い出し、ウィリアム牧師を宗教裁判所に訴えたことが書かれている。ティクルテクスト牧師
は世間の『パミラ』熱に感染して、間違ったものを信じていたことを知る。
『ジョゼフ・アンドルーズ』も『パミラ』のパロディとして構想された。パミラ・アンドルーズ
の弟ジョゼフが主人公であり、前半は館の女主人や女中頭から言い寄られるエピソードが中心で
ある。しかし物語は恋人ファニーの元に戻ろうとジョゼフが館を飛び出すところから一変する。
彼はその道中で出会った故郷の牧師エイブラハム・アダムズと共に様々な事件に巻き込まれなが
ら帰郷する。ここに風刺劇『落首』で採用した「劇中劇を進行させつつ、そばから作者なり批評
家なりがやり直しをさせたり批評を加え」たりする手法が使われる。その中心になるのはアダム
ズ牧師である。つまりこの小説でも『シャミラ』と同様に牧師のあり方、信仰という問題が重要
になっている。
『ジョゼフ・アンドルーズ』の編者 Martin C. Battestin はジョゼフが書くパミラへの手紙の中
に出てくる恩寵 “Grace” についての注で次のように述べている。
『シャミラ』では、「有益で、本当に宗教的な恩寵の教義」を熱心に説き聞かせて、愚かな
ティクルテクスト牧師は『パメラ』を賞賛するようにさせられている。そのことで明らかな
ように、フィールディングはリチャードソンの女主人公の宗教をジョージ・ホイットフィー
ルドのメソディズムと関係付けている。フィールディングは良い行いよりもむしろ信仰や恩
寵の効力に強調を置くホイットフィールドの律法不要論を嘆いているのだ(I, x. 46n1)。
国教会でも latitudinarian(信仰上の自由主義である広教派)の指導者たちの教えに共感してい
たフィールディングは、同じ国教会でも信仰と恩寵を強調するピューリタン、とりわけカルヴァ
ン派の影響の強いホイットフィールドのメソジスト派の教義に反対であった。先に、
『パミラ』は
ピューリタンの道徳書から生まれたと述べたが、フィールディングは『シャミラ』で風刺した気
取り、ティクルテクスト牧師、現在形を用いた『パミラ』の語りをピューリタンの特徴と捉えて
いたことがわかる。
ウェスリアン版フィールディング作品集に「序文」を書いたバテスティンはその『ジョゼフ・
アンドルーズ』論 The Moral Basis of Fielding’s Art: A Study of Joseph Andrews(1959)で、
フィールディングと広教派の説教との強い結びつきを強調しているが、確かに『ジョゼフ・アン
ドルーズ』は、二人の主人公の名前が旧約聖書に出てくるアブラハムとヨセフであることを考え
ても、フィールディングの宗教観を抜きにしては語れないことがわかる。例えば、『ジョゼフ・ア
ンドルーズ』冒頭に置かれた「教訓よりも実際の例の方が心に強く働き掛ける」
(17)という言葉
は、フィールディングのお気に入りの聖職者 Isaac Barrow の説教「キリストに倣う者であるこ
と」の影響を受けたものだと言う。
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善良な人々の例をまねる義務、それも、この目的を推進するのに歴史が特に有効であり、道
徳的なパターンとしては古典の英雄よりも旧約聖書の英雄の方が優れていることが強調され
ている(Battestin 32-33)
。
アイザック・バロウは真の信仰の例としてアブラハムを選び、高潔の例としてヨセフを選ん
でいる(34)。
アイザック・バロウはキリストのような完全な人物を例として示すのではなく、「善良だが、
過ちやすい」人物を例として示すべきであると述べている(37)。
非常におかしくて楽しいユーモアがあるけれど、『ジョゼフ・アンドルーズ』は、結局は道徳
書である(154)。
『ジョゼフ・アンドルーズ』が滑稽であると同時に道徳的な物語であることに反対する人はいな
いだろう。しかし、広教派の教えと直接結びつける解釈には賛成しがたいものがある。このバテ
スティンの論に反対して Maurice Johnson は論文 Fielding’s Art of Fiction で、広教派の説教集か
らの影響についていえば、『ジョゼフ・アンドルーズ』はフィールディングとは考えの違うホイッ
トフィールドの説教から生まれた可能性もあると述べている(76-77)。
モーリス・ジョンソンのバテスティン批判が最もはっきり表れているのは『ジョゼフ・アンド
ルーズ』の最終巻である第 4 巻第 8 章の有名なエピソードの解釈である。そのエピソードでフィー
ルディングはバテスティンが言うように、弱点をもった人物を描こうとしたのではなく、
『ジョゼ
フ・アンドルーズ』の「序」にある「真に滑稽なこと」とは、説教で教えられたことが「現実の
試練」に耐えられると思っている人のことだ、と言おうとしている、と言う(79)。
伊達男ダイダッパーがファニーに言い寄るのをみて不安になり、早く結婚したいというジョゼ
フに向かって、アダムズ牧師は創世記の、アブラハムが神の命じた通りイサクを犠牲にしようと
した話を持ち出して、この世のものに執着してはいけないと説いていた。アダムズが熱弁をふ
るっているとき、そこに彼の息子が溺死したという知らせが届き、アダムズは取り乱してしまう。
ジョゼフはアダムズ牧師に説教を思い出し、理性と恩寵によって感情に打ち克つように言う。し
かし、アダムズは激しく泣き続け、子どもを探しに外へ走って出る。すると、そこへ息子が走っ
て帰ってきた。アダムズはうれしさのあまり跳ね回る。その騒ぎが一段落したとき、アダムズは
ジョゼフに妻を愛しすぎるのは罪悪だ。分別と節度を忘れてはいけないと忠告する。するとアダ
ムズの妻が、「あなたは言うこととすることとが違っている。(中略)こんな人の言うことを聞か
なくていい」(IV. viii. 311)と言う。
このエピソードについて、モーリス・ジョンソンは、アダムズ牧師は教会と家とでは違うこと
をわきまえていない、つまり説教は理想的なことを述べているのであって、現実に通用するもの
ではないことが分かっていないのだと言う。
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このエピソードについては後に取り上げたい。ここでは、バテスティンの解釈は説教集からの
直接の影響に重きを置きすぎているところがあるとしても。モーリス・ジョンソンのように、小
説中の人物、ここではアダムズの妻、の言葉をそのまま受け入れるのも問題であることを指摘し
ておきたい。
フィールディングは『トム・ジョーンズ』第 3 巻第 3 章、第 4 章で道徳と宗教の対立をトムの
家庭教師スクエアとスワッカムの論争として描いている。注意すべきなのは、スクエアもスワッ
カムも偽善者であり、「間違った、偽りの主義の闘士」である。「裏切る友人ほど危険な敵はいな
い」(129)と書かれているように彼らの意見は信用できないものなのである。『ジョゼフ・アンド
ルーズ』でも同じで、小説の中での言葉をそのまま取ることはできないのだ。
確かにバテスティンの論には問題がある。しかしそれで、広教派の教えがフィールディングの
小説に影響を与えていないということにはならない。それどころか、広教派の考えに注目すると、
フィールディングが小説において内面描写を行わなかったこと、古典的作品への言及が多いこと
の理由が文学技法の問題だけでなく、もっと深い問題を含んでいることがわかってくる。
筆者は最初に霊的自伝に言及したとき、ピューリタンの自伝を多く読んだと言った。しかし、
霊的自伝にはピューリタンの自伝と異なるものがたくさん書かれていた。古い研究書だが、Dean
Ebner の Autobiography in Seventeenth-Century England: Theology and the Self’ を取り上げた
い。エブナーは、17 世紀の霊的自伝の四分の一は広教派を含む英国国教会派のものであると述べ
ている。しかも、バプティスト、国教徒、クエーカー、プレズリタリアンはそれぞれ神との関わ
りや外的なものとの関わりに関する認識が異なっており、霊的自伝の内容と表現にも大きな違い
がみられると述べている(11)。フィールディングと国教徒、その中でも広教派との関わりを述べ
た部分を引用する。
国教徒の自伝は心理的深さが際立って少ない。回心の心理と心の動きの込み入った探究が欠
如している(72)。
国教徒が自伝に書いたのは、家庭内の出来事、教育、旅行、宮廷での生活、軍務、イギリス
の歴史の流れであった。自伝の話題が大きく広がった(87)。
自伝を書いた国教徒は様々な話題を意味のある統一体に結び合わせる方法を見つけることが
できなかった。その結果、ほとんどすべての自伝が脱線的で挿話的構成に向かう傾向がある
(104)。
フィールディングが内面描写を採用しなかった理由の背後にはこのような国教会派の信仰と霊
的自伝の影響があったと考えていいのではないか。ただ、これらをフィールディングの小説に直
接結びつけることはバテスティンと同様の批判を浴びることになる。では、どのように扱えばい
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いのか。その手がかりは当時の宗派の特徴的な用語や説教の言葉を研究した Isabel Rivers の著
書にある。リヴァーズは Reason, Grace, and Sentiment: A Study of the language of religion and
ethics in England 1660-1780. の第 1 巻第 2 章 ‘The religion of reason: the latitude-men’ で次のよ
うに述べている。
人間は生まれながらに社交的で、善良な行いをする傾向がある。罪はこの性質からの不自然
な逸脱である(77)。
このように人間は善良な性質、率直さ、そして創意工夫の才を持ち、気質、心構え、好み、
素質、体質、そして
体格が人を自然に仲間への思いやり、慈悲心、善行、慈善、そして慈
愛へと導く(77)。
人間は社交的動物であり、交際と談話を楽しむ(79)。
広教派の人々は人の目的とは幸福であるということに同意している(81)。
フィールディングの語りについて考える時、広教派の教えについての、「人は社交的動物であ
り、交際と談話を楽しむ」、「人の目的とは幸福である」というリヴァーズの言葉は重要なヒント
になるだろう。ピューリタンのように個人の内面に沈潜するのではなく、広教派の人々は社会に
おける人との交わりを大切にする。その理想的な姿はアダムズとジョゼフが故郷に戻ったときの
人々の出迎えの描写に現れている。物語から独立した語り手もまた読者との交わりを求めている。
ジョゼフとアダムズの故郷までの放浪も、旅の途上で出会う人々との交わりと談話を通して描か
れている。重要なのは交わりと談話がどのように描かれているか、である。具体的に見ていこう。
社交を楽しむとき、回心の心理が排除されるのは自然なことである。『ジョセフ・アンドルー
ズ』ではほとんど内面描写はなされていない。思考動詞、知覚動詞が比較的多く使用されている
場面は 2 箇所だけである。どちらもブービー夫人と小間使いスリップスロップの内面を表現する
ときである。シャミラが現在時制を使って書くのを茶化したように、ここでも二人は風刺と笑い
の対象となっている。
She left not her Mistress so easy. The poor Lady could not reflect, without Agony, that her
dear Reputation was in the power of her Servants. All her Comfort, as to Joseph was, that she
hoped he did not understand her Meaning; at least, she could say for herself, she had not plainly
express’d any thing to him; and as to Mrs. Slipslop, she imagined she could bribe her to Secrecy.
(I. ix. 44-45, Italics mine)
(朱牟田訳)
たい
ふ ぜい
後に残った奥方のほうは心平らかとはまいらぬ。大切な世間の評判が召使風情の手中にあると
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フィールディングの語りと広教派の教義
たね
思えば、あわれ悩みの種である。ただせめてもの慰めは、ジョウゼフにはわが真意はわからなかっ
しっ ぽ
ただろうということ。少なくとも尻尾をつかまれそうなことだけは何ひとついった覚えがない。
スリップスロップのほうは買収で口は封じられる、と彼女は考えた(上 64-65)。
思考動詞を使っているが、それは二人が考えることはこの程度のことだということを示すため
である。フィールディングは喜劇的叙事詩を書こうとしていたので、茶化すのは当然であるとも
言えるが、それをどのように語るかは難しい問題である。『ジョゼフ・アンドルーズ』の場合、そ
れは物語の外にいる語り手による語りと、物語内の会話によって行われていると思われる。
旅の途上で出会う人々との交わりと談話を描く場面に、直接話法が多く使われるのは自然なこ
とである。しかし使われている直接話法には際立った特徴がある。最初に直接話法が使われるの
は第 1 巻第 3 章におけるジョゼフとアダムズ牧師との会話である。ジョゼフはトマス・ブービー
卿の屋敷で夫人付きの下僕となってから教会にもついて行くようになっていた。その真面目な態
度がアダムズ牧師の目に留まり、もっと高い教育を受けたいと思わないかと聞かれるところであ
る。
To which he answered, ‘he hoped he had profited somewhat better from the Books he had
read, than to lament his Condition in this World. That for his part, he was perfectly content
with the State to which he was called, that he should endeavour to improve his Talent,
which was all required of him, but not repine at his own Lot, nor envy those of his Betters.’
‘Well said, my Lad,’ reply’d the Curate,…(I. iii. 24-25, Italics mine)
(朱牟田訳)
「私は本を読んだおかげには、この世の自分の境涯を嘆いたりはせぬつもり
と少年は答えて、
です。私としては自分の与えられた身分に十分満足しています。自分の才能を磨いてはいき
うらや
たい、それは必要と思いますが、自分の運命を悔やんだり、上の人たちの身分を羨んだりは
いたしません」。「よくいった。。。。」(上 24-25)
この翻訳では原文で「彼」となっているところが、全て「私」と訳されている。
第 5 章で、ブービー夫人がベッドにジョゼフを呼んだところでも、原文では直接話法で 1 人称
となるところが 3 人称になっている。
The Lady being in Bed, called Joseph to her, bad him sit down, and having accidentally
laid her hand on his, she asked him, if he had never been in Love? Joseph answered, with
some Confusion, ‘it was time enough for one so young as himself to think on such things.’ …
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(I. v. 29, Italic mine)
朱牟田訳
奥方は寝床に寝たままジョウゼフを身近に呼んで腰をおろさせ、さて「偶然」わが手を彼の
手にのせて、
「そなたは恋をしたことがあるか」と尋ねた。ジョウゼフがどぎまぎして、私の
ような若い者がそんなことを考えるのはまだ早いと答えると、。。。(上 33-34)
気になると、意外にこういう使われ方が目につくようになる。第 1 巻第 9 章のスリップスロッ
プとブービー夫人の会話。第 2 巻第 4 章のレオノラについての話に退屈したアダムズ牧師の言葉。
第 2 巻第 5 章、宿から馬車で出発するとき、ジョゼフを馬車に乗せることを拒む娘の言葉。その
他あちこちに使われている。
なぜフィールディングは文法的には間違いであるのに、直接話法の中に三人称を使用している
のだろう。それは、一人称で語ることへの抵抗なのだろうか。ここで考えたいのは読者がそれを
どう読み取っているかである。
朱牟田氏による翻訳で明らかなように、読者は文法上の間違いを頭の中で訂正し、正しく読み
取っている。フィールディングはそのことがわかっていて、わざと「私」を「彼」にしているの
ではないだろうか。なぜそのように考えるかと言うと、これらとは少し異なる言葉の間違いが意
識的に使われているからである。第1巻第 6 章から登場する小間使いスリップスロップは副牧師
の娘である誇りから難しい言葉を使うが、難解な言葉が十分わかっていないためによく間違う。
登場人物は、そして読者も、彼女が次々に犯す間違いを、正しく置き直して理解しようとする。
しかし、時には間違った言葉が何を意味しているのか全くわからないときがある。第 1 巻第 6 章
のように、ジョゼフがスリップスロップに口説かれていることさえわからず、頓珍漢な答えをす
る場面では、読者は笑いをこらえることができなくなる。
‘Sure nothing can be a more simple Contract in a Woman, than to place her Affections
on a Boy. If I had ever thought it would have been my Fate, I should have wished to die
a thousand Deaths rather than live to see that Day. If we like a Man, the lightest Hint
sophisticates. Whereas a Boy proposes upon us to break through all the Regulations of
Modesty, before we can make any Oppression upon him.’ Joseph, who did not understand
a Word she said, answered, ‘Yes Madam;--’ ‘Yes Madam!’ reply’d Mrs. Slipslop with some
Warmth, ‘Do you intend to result my Passion?…’(I. vi. 33)
(朱牟田訳)
とし は
「年端もゆかぬ子供に思いをかけるくらい、女として割の合わない契約はないわ。そうなる
あ
のが私の運命だと知っていたら、そんな目に遭わぬ内にどうにでもして死んじまうほうがよ
― 10 ―
フィールディングの語りと広教派の教義
・・
かったと思うよ。これで相手が一人前の男なら、ほんのひと口いえば万事対決(解決)さ。
たしな
・・・・
ところが子供ときた日には、女の嗜みも何も忘れてかからないことには、いんぞう(印象)
一つ持ってくれもしないのだからね」ジョウゼフにはさっぱりわからないから「ごもっとも
け しき
・・・
です」と答える。――「ごもっとも?」とこっちは気色ばんで、
「おまえは私の情熱をりょう
・ りょうじょく
じ(凌辱)する気かい?。。。」(上 42)
明らかに作者は意図的に間違いを作り出している。作者は学問がある振りをしているスリップ
スロップを、シャミラの気取りと同様に、風刺しているのである。しかし、フィールディングが
使う風刺は相手を殺す鋭いものではなく、笑いを誘う温かいものである。これがフィールディン
グの語りの特徴ではないだろうか。
フィールディングはわざと文法的な誤りや間違った言葉を使用することで、読者の意識を覚醒
させ、能動的に文章を理解するように仕向ける。そう考える理由は、上の例で見たように、第 6
章から登場するスリップスロップの会話に言葉の誤用 “malapropism” が現れるからだ。読者はス
リップスロップが使う言葉が間違いであることを知り、それを正しく置き直して理解しようとす
る。正しい言葉がわかると同時に、読者はその間違いを笑う。しかも、笑うことで私たちはスリッ
プスロップに、そして物語に親密感を持つようになる。
この方法をフィールディングが意識的に使用していることは、彼が尊敬していた広教派の教え
や、その指導者ホードリーの扱いを見れば明らかである。第 1 巻第 17 章でアダムズは、バーナバ
ス牧師に勧められて本屋と説教集を出版する交渉をする。本屋は、説教集は売れないが、ホイッ
トフィールドのものなら印刷しますよと言う。するとバーナバスは、
「ああいう異端の説などを印
刷するやつらは絞罪にすべきだ」(81)と怒る。アダムズは、有徳な異教徒の方が、よこしまなキ
リスト教徒よりも神に歓迎されると、広教派の考えを述べる。
すると、本屋は「牧師たちが罵倒するにきまっている書物を出すのはいやだ」(83)と応える。
ここでアダムズは尊敬するホードリーの著書『聖式の特質ならびに目的解説』(A Plain Account
of the Nature and End of the Sacrament)に言及して、それは天使のペンで書かれた本だと褒め
称える。するとすぐに、バーナバス牧師が席を立って言う。「全くわからなかったが、悪魔と同席
していたのだ。数分でも長くここにいたら、そのうちに『コーラン』や『リヴァイアサン』やウ
ルストンの礼讃が始まるだろう(2)」(I. xvii. 83-84)
。
これにアダムズ牧師が答えようとしたときに、宿屋の女将が主人と召使との浮気の現場を押さ
えたという話が飛び込んで大騒ぎになる。ホードリーの教義は理神論だとバーナバス牧師が批判
するだけでなく、宿屋の主人タウワウズの濡れ場という卑猥な話によって議論が中断されてしま
う。ホードリーの本も教義もまともに扱われていないのだ。もしフィールディングがホードリー
を尊敬していることを知らなければ、読者はこれをどう判断すればいいかわからなくなる。ここ
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で読者に課されているのは文法の間違いや間違った言葉づかいを正すことよりずっと難しい解釈
の仕事なのである。しかし、読者にはヒントが与えられている。ここでは芝居の脚本も説教集も
同じで、売れるかどうかだけを考える本屋や、酒を飲むのは好きだが説教が嫌いで、ジョゼフに
盗人を許してやれと言いながら、許すとはどういう意味かと尋ねられると答えられないバーナバ
ス牧師が笑われているのだ(88)。このエピソードより 4 章前の第 1 巻第 13 章では、バーナバス
が奉じているのは「祈りと信仰あるのみ」で、恩寵を求めよと説くカルヴァン派の教えに近い
と書かれている(91)。それだけでなく、ホードリーの本については、アダムズ牧師がはっきり
と「立派な書物」で「天使のペンで書かれた本」であると述べている。読者は、それらを忘れず
に、バーナバスや本屋の言動だけでなく全体の場面を判断することを求められているのである。
フィールディングの小説を読むのは意外に難しいのである。
同じことは先に取り上げた第 4 巻第 8 章、溺れて死んだと思っていた息子が帰ってきて狂喜する
アダムズが、しばらくしてジョゼフに妻を愛しすぎるのは罪悪だと教える場面にも言える。モー
リス・ジョンソンはその著 Fielding’s Art of Fiction で、アダムズは教会と家とでは違うことをわ
きまえていないと言う。しかし、この章は早く結婚したいというジョゼフに結婚とは神聖な儀式
であって、単に欲望を満足させるためのものではないことを説くことが中心である。そう考える
と、同じような趣旨の言葉が先ほどの、子どもの姿を見て狂喜するアダムズを描いた後にも書か
れていることに気づく。
(拙訳)
違うのです、読者よ。アダムズ牧師は恩義を与えてくださった方に対して万感胸につまった、
偽りのない、率直な彼の心がほとばしり、あふれるのを感じたのです。もしそれがどういう
ものか見当がつかないのでしたら、説明しても無駄でしょう(IV. 8. 310)。
語り手はここで、あからさまにこのエピソードの意図を語っていると言える。その言葉のすぐ
後に、アダムズの妻の、「あなたは言うこととすることとが違っている。こんな人の言うことを
聞かなくていい」という言葉が置かれている。あなたは家庭で十分妻を愛しているのに、なぜ妻
を愛しすぎてはいけないと言うのかと、アダムズの妻は言う。妻はアダムズの言葉を文字通りに
取って、「愛しすぎてはいけない」というのはおかしいと言う。その妻の言葉をそのまま理解し、
アダムズの「言うことを聞かなくていい」という訳にはいかないことは明らかである。しかし、
もしも読者がそれをどう取っていいのかわからないと言われるのなら、筆者もフィールディング
の語り手と同様に、
「無用の説明はやめる」と言わざるをえない。このエピソードは慈悲深い神へ
の恩義を忘れてはならないという文脈で一貫しているのである。作者の意図がこれほど露わに表
れているエピソードはまれである。
ただ、このエピソードも、文法や言葉の間違いのように、話の腰を折られ、捻じ曲げられ、笑
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フィールディングの語りと広教派の教義
いの対象として提示されている。読者は正しい答えを探すことを求められているわけである。し
かしモーリス・ジョンソンの解釈を見ればわかるように、それは決して簡単なことではない。
この方法は修辞学で言うアイロニーに近い。フィールディングのアイロニーについては多くの
論文が書かれているが、次の Humphreys の論文が最も本質をついているように思える。
フィールディングのアイロニーは、スウィフトのアイロニーのように徹底的に人を不安にさ
せるようなものではなく、その意図は正常な状態に戻すことであり、保守的である。それは
健全で、実際的な社会道徳からの逸脱を抑え、曲がったものを社会から取り除く。ギボンや
サミュエル・バトラー 2 世のアイロニーと違って、伝統的倫理や正統的キリスト教を揺るが
すことはない―それは分解よりも統合のアイロニーである(378)。
第 4 巻第 8 章の語り手の言葉、アダムズ牧師は「恩義を与えてくださった方に対して万感胸に
つまった、偽りのない、率直な彼の心がほとばしり、あふれるのを感じたのです」。この言葉が
最終巻の終わり近くに置かれている意味は大きい。第4巻はここからジョゼフとファニーの素性
を明らかにし、二人の結婚へと向かって行く。これまで隠されていた過去の事実が明らかにされ
る。そのことと先ほどの語り手の言葉とをつなぎ合わせれば、作者の意図が見えてくるように思
う。
フィールディングは読者に、危機的状態に置かれた登場人物に共感しながら読み進めるのでは
なく、登場人物から距離をおいて、分断され、歪められ、中断される様々な挿話を楽しみながら、
挿話の間に隠されたつながりを見つけ出すことを求めているのではないか。現実の細々した事柄
は大きなプロット、慈悲深い神の摂理の一片なのだという考えである。現実の生活では、私たち
は本で見つけるように事物のつながりを見いだすことができない。フィールディングは『ジョゼ
フ・アンドルーズ』の冒頭で、「教訓よりも実際の例の方が心に強く働き掛ける」と書いた。読
書において細々とした、取るに足りない事柄が実は大きなプロットの一片として機能しているこ
とを知ることは、現実の生活において摂理が働いていることの例としての役割を果たしていると
言えるだろう。『ジョゼフ・アンドルーズ』は喜劇的小説であるが、その意図は非常に真面目な、
信仰深いものであると言える。
小論の冒頭で、フィールディングは霊的自伝、道徳書、そしてロマンスの中に見られた「転位
された直接モード」を使用したイギリス小説の流れの中には出てこなかったと言った。その理由
として、フィールディングはピューリタンと対立する国教徒の霊的自伝、あるいは広教派の思想
の影響を受けていたことを述べてきた。ただこれまで全く考慮してこなかったことがある。それ
は「転位されて直接モード」だけが、語り手が登場人物の視点へ移行して語る方法ではないとい
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うことである。「転位されて直接モード」はジェフリー・N・リーチ、マイケル・H・ショートが
著書『小説の文体―英米小説への言語学的アプローチ』で言う「思考の表出」に入る(255)。し
かし、登場人物の内省や思いを語る方法以外に、登場人物が話したことを語る「発話の表出」と
いう方法がある。その方法として直接話法、間接話法、自由間接話法、自由直接話法などがある
が、フィールディングが多く使用した「直接話法」は、語り手が報告していることを示す報告節と
引用符があり、引用符の中は登場人物が直接語ったものということになっている。つまり、フィ
―ルディングは登場人物の内面描写については客観的な描写に終始しているが、登場人物の発話
については、登場人物が直接読者に語る方法を取っているわけである。
もちろんデフォーもリチャードソンも、それ以前のアフラ・ベーンも会話を使用している。し
かしフィールディングにとって会話とは、
「人は社交的動物であり、交際と談話を楽しむ」という
広教派の思想を体現したものなのである。
『パミラ』のパロディから小説を書き始めたフィールディングは『ジョゼフ・アンドルーズ』に
おいて『パミラ』とは全く違う語りの方法を使って、偽善の匂いのするパミラの「美徳の報い」
とは違う善良な人間の生き方を表現したのである。それはデフォーやリチャードソンのように追
い詰められていく個人の内面に焦点を当てたものではなく、オースティン(Jane Austen)の小
説のような、家族や地域における人々の交流、歴史の一齣としての人々の生活に中心をおいた小
説につながって行ったと思われる。
本稿は日本英文学会第 85 回大会(於東北大学、2013 年 5 月 26 日)での招待発表、「語りから見
たイギリス小説の始まり―Fielding の語り―」に加筆したものである。
注
(1)特に第六章「語りから見たイギリス小説の起源―霊的自伝と小説の語り―」および第八章「最初のイギ
リス小説―ジェイン・バーカーの『愛の企み』―」参照。
(2)トマス・ウルストン(1670-1733)は最も悪名高い自由思想家、つまり理神論者、の一人で英国国教会の
教義に異議を唱えた。著書 Discourses on the Miracles of our Saviour(1727-29)で不敬罪に問われ、罰金刑
の上、1 年間投獄された。(Battestin. notes. Joseph Andrews. I. xvii. 81n3)
引用文献
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Ebner, Dean. Autobiography in Seventeenth-Century England: Theology and the Self. The Hague: Mouton,
1971.
Fielding, Henry. The History of Tom Jones, A Foundling. Ed. Martin C. Battestin. Connecticut: Wesleyan
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フィールディングの語りと広教派の教義
UP, 1975.
---. Joseph Andrews. Ed. Martin C. Battestin. Connecticut: Wesleyan UP, 1967. 以下『ジョウゼフ・アンド
ルーズ』の引用文のページ数は、翻訳書の場合を除き、この版による。邦訳
ゼフ・アンドルーズ』(上・下)全 2 冊
朱牟田夏雄訳『ジョウ
岩波書店、2009.
---. The History of the Adventures of Joseph Andrews and An Apology for the Life of Mrs. Shamela
Andrews. Ed. Douglas Brooks. London: Oxford UP, 1970.
Humphrey, A. R. “Fielding’s Irony: Its Method and Effects.” Review of English Studies 18(1942). Rep. in
Henry Fielding. A Critical Anthology. Ed. Claude Rawson. Middlesex: Penguin Education, 1973. 37784.
Johnson, Maurice. Fielding’s Art of Fiction: Eleven Essays on Shamela, Joseph Andrews, Tom Jones, and
Amelia. Philadelphia: U of Pennsylvania P, 1961.
Rawson, Claude, ed. Henry Fielding. Penguin critical anthologies. Penguin Education, 1973.
Rawson, Claude, ed. The Cambridge Companion to Henry Fielding. Cambridge: Cambridge UP, 2007.
Richardson, Samuel. Pamela; or, Virtue Rewarded. Ed. Peter Sabor. London: Penguin Books Ltd, 1985.
Rivers, Isabel. Reason, Grace, and Sentiment: A Study of the language of religion and ethics in England
1660-1780. Vol. 1. Cambridge: Cambridge UP, 1991.
河崎良二『語りから見たイギリス小説の始まり―霊的自伝、道徳書、ロマンスそして小説へ―』英宝社、
2009.
朱牟田夏雄『フィールディング』研究社、1956.
ジェフリ-・N・リ-チ、マイケル・H・ショ-ト著、筧壽雄監修『小説の文体―英米小説への言語学的ア
プロ-チ』研究社、2003.
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