柑橘(カンキツ) - syamashita.net

柑橘栽培の歴史
柑橘の品種群と分類、栽培の年代史
山下重良編
2017 年 1 月 31 日 編集中
項目・年紀
・(注)本文の出典は[
]内に示し、幾つかの出典・史料を併記しているのは、人名や地名・文意を考証したものである。また、古文書の原典は殆
・時代
ど漢文や万葉仮名であるが文意を意訳している。引用文献・参考資料は別ページに一括して示した[編者]。
柑橘類の属・種・ ・柑橘類は芸香科(Rutaceae)の柑橘亜科に属す植物群で、柑橘亜科に属すものを 8 群に類別す。その中の 1 つに柑橘群があり、柑橘群を分類
品種
すると、①ヘスペリチューザ属・②シトロプセス属・③枳穀属・④柑橘属、⑤金柑属の 4 種 5 属となる。園芸學上、柑橘類と称すのは枳穀属
枳穀属
(Poncirus)・柑橘属(Citrus)・金柑属(Fortunella)の 3 属である[果樹園芸學上巻 33]。
柑橘属
(A)枳穀属、葉は三出の羽状複葉、樹は落葉性、花は白色単生、子房は多毛にして果汁は有脂[果樹園芸學上巻 33]。枳穀の落葉性は遺伝子
金柑属
による先天性で、亜熱帯以南の地でも必ず落葉し一定期間休眠するを常とする。この性質は枳穀と他の常緑柑橘の雑種である Citrange(シトレン
ジ)・柚殻等でも同じでである。然し Citrangequat(シトレンジカット)は通常は常緑性であり、寒気厳しい場合に限り落葉する[果樹園芸学下巻
104]。
(B)柑橘属、田中長三郎は、 2 亜属・ 8 区・ 2 亜区に分類した。【第 1 亜属(初生柑橘)】第 1 区(バベダ区)=最も熱帯性。スワンギ(印度の馬来)・カ
ブヤオ(印度の馬来)。第 2 区(ライム区)=熱帯性。ライム。第 3 区(シトロン区)=果実に乳頭あり肉は黄色、酸又は淡味、砂じょう頗る長し。葉翼なき
は特長なるも稀に有り。シトロン(印度)・レモン(印度)・広東レモン(印度)・甘果レモン(印度)・ルミー(欧州栽培)・ベルガモット(欧州栽培)。第 4 区
(文旦区)=果実に乳頭なく肉は黄白色、時に紫紅色。葉翼一般に大。亜熱帯性。文旦(台湾栽)・山蜜柑(日本栽)・虎頭柑(台湾栽)・絹皮蜜柑(日
本栽)・グレープフルーツ(西印度栽)。第 5 区(代々区)=果実に乳頭なく肉は橙色、多酸のものあるも、多甘微酸のもの多し。葉翼大小の差あり亜
熱帯性。代々(印度)・甘代々(印度)・桶柑(台湾栽)・南庄橙(台湾)・夏橙(日本栽)・鳴門蜜柑(日本栽)。【第 2 亜属(後生柑橘)】第 1 区(柚区)=葉翼
発達し、時には葉面と略同大。温帯性にして耐寒性強し。ユズ(華中)・宣昌橘(華中)・宣昌レモン(華中)。第 2 区(蜜柑区)=果実一般に扁円形に
して濃色、外皮緩く剥皮容易。温帯性又は亜熱帯性。これを 3 亜区に類別す。[第 1 亜区:眞正蜜柑亜区]=果実概して大、両端部凹入、外皮に
放射状溝なし。果肉多甘微酸。九年母(印度支那)・温州蜜柑(日本栽)・八代蜜柑(日本栽)。[第 2 亜区:紀州蜜柑亜区]=果実圓形乃至扁円形、
ゲ ンシヨウ
放射條溝有るを普通。橙色、時には淡色、甘味強きは風通性。(a)大果品:椪柑(印度栽(栽培、以下同)・地中海マンダリン(欧州栽)・元霄柑(台湾
栽)・赤蜜柑(印度)・小紅蜜柑(華中栽)・天臺山橘(中国栽)・槾橘(中国栽)。(b)小果品:紀州蜜柑(中国・日本栽)・椪橘(中国栽)・酸橘(中国栽)・シ
ークワーシャ(琉球・台湾)。[第 3 亜区:唐金柑亜属]=花は小、新梢の頂部に生じること多し。小果圓形、両端部凹入、放射條溝なし。外皮に甘味
あり、肉は強酸、金柑類似の風味あり。葉は小、葉翼狭小。唐金柑一名四季橘、又は月桔(中国栽)。(C)金柑属、スイングル氏は金柑属を 2 亜属
に分類した。【第 1 亜属(眞正金柑亜属)】果樹園芸上、金柑と称するものを一括したもので、中国原産に属す。花は小、白色、単生または叢生、
果実は圓、楕円、又は卵形。果皮に甘味あり、肉に酸味あり。葉は小で厚く先端尖り、葉翼狭小。丸金柑・長金柑・寧波金柑、又は明和金柑・長
寿金柑・一名福州金柑・長葉金柑(中国栽)。【第 2 亜属(金豆亜属)】花は小、単生又は叢生、果実は柑橘中の最小、葉に翼あり矮性灌木、我が
国では盆栽にして鑑賞す。金豆、一名金豆柑とも[果樹園芸學上巻,33]。
と う しよ
原生及び原生分 ・柑橘類の原産、または原生的分布は、殆どアジア大陸の南東部に集中し、僅かに太平洋東南部の島嶼にみられ、アフリカ・欧州・西部アジア・
布
南北米大陸には原生地を認めぬ(中略)。我が国の原生種として橘(タチバナ)があり、台湾にも原生がある。中井猛之進博士は最近、我が国に於
けるユズの原生地を発見された[天然記念物調査報告/植物之部第十九輯(昭和 17 年)]。山口県阿武郡川上村字遠谷金山の森林地帯、及び同
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柑橘栽培の歴史
村字大谷の絶壁上に群生していると云う。昭和十六(1941)年十二月、天然記念物に指定された。南欧一帯の地中海沿岸地方は柑橘の古い歴
史を有するが、柑橘の原生品が全然ない。柑橘栽培の沿革は、渡来伝搬に始まっている。アレキサンダー大王の東征によって始めて欧州人に
知られた栽培植物は少なく、柑橘もその一つである。 THEOPHRASTUS(?-BC278)がこの方面の記録を残している。ペルシャ國(イランの旧称)の
Media 地方で栽培されている柑橘に Malus media 即ちメディアのリンゴと命名している。紀元前にはギリシャでは柑橘栽培はみられない。 A.DE
CANDOLLE によれば、伊太利(イタリア)にシトロンが栽培されたのは 4-5 世紀の頃と云う。印度原産で温帯南部より亜熱帯及び熱帯に亙って栽
ぶつし ゆ かん
培される。我が国、及び中国にて古くから栽培されている佛手柑はシトロンの一変種で挿木によって容易に発根する。シトロンに次いで欧州に渡
来した柑橘はレモンで、 G.Gallesio によれば、アラビア人によってパレスチナ及びエジプトにレモンが渡来したのは 10 世紀頃と云う。印度原産で
シトロン同様、耐寒性の最も弱き柑橘である。欧州にては伊太利(イタリア)のシシリー島・コルシカ島は有名産地である。レモンの代表的品種にユ
ーレカ・リスボン・ジェノア・ビラフランカがあり、ビラフランカは最も耐寒性強く、かつ豊産である。従来、レモンと混同されていた広東レモンも印度
原産で、広東・海南地方にて栽培されている。乳頭なく尖端微尖で米国のオタハイトオレンジも該種に属す。ライムは、印度原産で専ら熱帯及び
亜熱帯地方に栽培され、耐寒性最も弱い品種で明治時代に小笠原島に栽培され、相当長い間、疑問の柑橘とされていた。ベルガモットは、南
欧地方で栽培され、果実は圓形、尖端微尖、油の原料として果実が利用される。レモン・代々・甘代々の順に欧州に渡来した。文旦は一般に文
ラン
旦類又は欒類と呼ばれ、中国で古来、柚と称するものは該種である。我が国には徳川時代初期に既に栽培され、四国・九州南部、特に長崎・熊
ラン
本・鹿児島の3県に多く栽培される。大正六(1917)年、黒上泰治博士は長崎県に於ける欒類を調査し、卵円形品種 11 、円形品種 15 、扁円形品
種 8 、合計 34 品種を記載する[果樹園芸學上巻 33]。
さ ん しよう
・ミカン科サンショウ属の山椒(学名: Zanthoxylum
piperitum )は落葉低木。別名はハジカミ。日本列島の北海道から屋久島までと、朝鮮半島の
南部に分布する[佐竹義輔/原寛ら編 『日本の野生植物:木本 I 』 平凡社.1989 年]。・ヘンルーダ(オランダ語: wijnruit [ˈʋɛ inrœyt])はミカン科の
常緑小低木。日本語の「ヘンルーダ」はオランダ語に由来する。「ルー」(rue)あるいは「コモンルー」(common rue)とも呼ばれる。学名は Ruta
graveolens 。地中海沿岸地方の原産。樹高は 50cm から 1m 位。葉は、青灰色を帯びたものと黄色みの強いもの、斑入り葉のものなどがあるが、
対生し、二回羽状複葉でサンショウを少し甘くしたような香りがある。丸みを帯びたなめらかな葉がレース状に茂り「優雅なハーブ」と呼ばれる
[Wikipedia/ヘンルーダ]。
重要種類と品種 【シトロン】印度原産。温帯南部より亜熱帯、及び熱帯に亙って栽培される。欧州ではギリシャ・ローマ時代から栽培され、最も古い沿革を有する。
我が国及び中国で古くより栽培している佛手柑は、シトロンの一変種である。【レモン】印度原産で、シトロン同様に耐寒性の最も弱い柑橘であ
る。【ライム】印度原産で、熱帯・亜熱帯途方で栽培され、耐寒性最も弱い種類である。明治時代に小笠原島にて栽培されていた。【ベルガモット】
らん
南欧地方で栽培され、果実は圓形、先端微尖、ベルガモッット油の原料として利用されている。【文旦】一般に文旦類、又は欒類と呼ばれ、中国
にては古来柚と称したものは該種である。我が国ではザボン・ボンタン・ブンタン・ウチムラサキ等の呼び名がある。印度、馬来地方の原産で、樹
性喬木、葉も大にして葉翼の発育著しく、果実は柑橘中最大の部類に属す。渡来品種もあるが、大部分は在来品で、優良品種に白肉の平戸文
旦(長崎)・紅肉系の江上文旦・八代文旦(熊本)等である。我が国では徳川時代初期に既に栽培され、四国・九州の南方温帯地方、特に長崎・熊
本・鹿児島に多く栽培された[果樹園芸學上巻,33]。田中諭一郎は、その著作「日本柑橘図譜」で、文旦類 27 品種を記載し優良品種として、白
肉系では麻荳文旦(台湾)・麻荳白柚(台湾)・晩白柚(台湾)・カオパン文旦(シャム)、紅肉系では斗柚・石頭柚(台湾)・麻荳紅柚(台湾)・蜜柚(台
湾)、等とし、カオパンは、盤谷文旦・盤谷無核文旦の異名があり、品質は文旦類の首位を占めるとしている[111]。【グレープフルーツ】西印度諸
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柑橘栽培の歴史
どん よ う
島で栽培されていたもので、起原は不明である。樹は発育旺盛で半喬木性、新梢及び嫩葉(若葉)は無毛である点は文旦と異なる。【代々類(酸
橙類)】印度原産で東亜諸国、及び欧州で古くから栽培され、柑橘類ではユズに次いで耐寒性がある。日本では代々の果実は新年の飾りにする
程度であるが、従来はカナダに大量輸出があり、彼の地では専らマーマレードの原料として利用されていた。中国や欧州では古来薬用として重
要視されていた。【甘代々類(甜橙類)】印度原産で華南地方に古くから栽培され、優良品種は少なくない。欧米諸国では現在柑橘産業の主体を
なす。欧州に導入されたのは 15 世紀以降であるが、南欧地方に急激に広まり、米国には 17 世紀になって初めて導入され、加州・フロリダ州で
一大産業を形成している。ヒュームは、甘代々の品種を便宜上次の 4 群に分類している。[スペイン系]肉質稍粗硬なるも大果で品質一般に優良
で中熟性のものが多い。[地中海系]果実は圓、扁圓、又は卵形で果肉緻密で品質優良。成熟期は晩生又は中生、大果豊産で、 Jaffa ・ Paper ・
け つじよう
Rind ・ Valencia 等がある。[血瓤系 Blood Oranges]南欧原産の品種群で、果実は概して小または中である。完熟したものは、果肉に濃紅色の色
じゆう の う
素を斑出、果皮に於いても同様、比較的早熟で品質優良。枳穀砧の樹は特に色素の出現が完全と云う。[重嚢系(ネーブル系)]重嚢とは、心皮
へそ
形成が二重又は三重になるものを云い、外見上ネーブル(臍)オレンジと云う。主な品種は、 Australian ・ Bahia(Washinton
Navel ・ Riverside
Navele)・ Double(Imperial)・ Egyptian ・ Melitensis ・ Parson ・ Surprise ・ Sustain 。この中でワシントンネーブルは品質、経済的価値においても代
表的品種である。欧州にはフランスのニース産のオレンジ Double ・その実生品種として Navel Algerine が代表的で、ワシントンネーブルは普及
していない。ワシントンネーブルは、南米ブラジルのバイア原産で、バイア地方のポルトガル移民によって甜橙類が本国から輸入され、その中の
じゆう の う
Laranja Selecta が在った。 1820(文政 3 年)年、この品種の枝変わりとして現れた重嚢品種を芽接ぎで繁殖し Laranja Selecta de Umbigo(navel)と
命名して増殖、 1835(天保 6)年、米国に輸入されたが普及せず。 1870(明治 3)年に米国農務省によって輸入され、 1874(明治 7)年、加州リバー
サイドに栽植、 1879(明治 12)年、リバーサイド(カリフォルニア州)柑橘品評会に出品して価値を認められて以来、急激に増殖され加州柑橘業の
ワシントンネーブ 主要品種となった。ワシントンネーブルが日本に輸入された沿革は、明治 23-24 年頃、玉利喜造博士によって米国から輸入され[福羽逸人著,果
ル
樹栽培全書/33]。明治 21(1888)年、静岡県小笠郡大池村の高島甚三郎氏は、義弟/安田七郎氏の斡旋で苗木 10 本を取り寄せたが到着の際に
既に枯死していた。翌年更に 5 本を輸入し、明治 24-25 年に静岡・和歌山・兵庫・愛知の諸県に配布したと云う。
・また、明治 24(1891)年 3 月、和歌山県那賀郡「開進組」の千田三次郎氏は、在米の和歌山県人/堂本譽之進より苗木 2 本を譲り受けて持ち帰
り、 1 本を同郡の堀内仙右衛門氏に、他の 1 本を同郡の堂本秀之進氏に分かちたり。堀内氏は翌年 20 本を嫁接ぎして 11 本活着。明治 26
(1893)年には堂本氏の苗木が枯死したので、堀内氏は 2 本を分譲、追年繁殖して増殖を計れり[北神貢著/最新柑橘栽培書,明治 36 年刊/33]。・
なつだいだい
【夏橙及び類縁種】[夏 橙 ]別名/夏蜜柑(夏代)は山口県原産であるが北神貢氏によると、寛政 4(1792)年に山口県青海島の三輪吉五郎氏が初
めて栽培したと云う。三輪吉五郎氏が青海島の海岸で一種の蜜柑を拾い、種子を蒔いたと云い、もう一つは文化年(1804-1817)間の初め頃、山
口県萩江村の樽崎十郎兵衛氏が大津郡大日比郷の知人より一種の蜜柑を得て種を播いたのが夏橙になったと云う。大日比郷には夏橙の親と
云うものは古くから在ったとされ、何れにしても 19 世紀初頭に山口県に現れたとみられる[果樹園芸学上巻 33]。
年代・年紀
BC67 年(甲寅)
柑橘品種と栽培を巡る我が国内外の記録・伝承
さ
ぬ
・神武天皇(狭野命)、大分県(当時は豊国)の皇登山(水晶山)に登らせたまひ、土民がみかんを献上する[大分みかんの歴史/日本果物史年表
123]。・(注)この年、磐余彦尊(幼名/狭野命/後の初代/神武天皇)、冬十月丁巳の朔辛酉(5 日)に親ら諸皇子を率いて西の宮(筑紫日向)より発ち
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柑橘栽培の歴史
て船師東を征たまふ。是年、太歳甲寅。十一月五日、筑紫國の岡水門(遠賀川下流、現/北九州の八幡~遠賀郡の周辺)に至りたまふ。十二月二
さ
ぬ
に ぎ は や ひ おお と し
い
す
け
よ
十七日に安藝國に至り埃宮に居ます[旧事本紀・神武即位前紀]。・神武天皇(狭野命)は、大和朝廷の開祖/饒速日(大歳)尊の末子/伊須氣余
り
ひ
め
理比賣命に聟入のため、筑紫(現/九州)の日向から遠路、大和に向かった[古代日本原記 121]。
み やけのむらじ
崇神-垂仁天皇
や
ま たい こ く
た
じ
ま
も
り
ときじくのかぐのこのみ
・垂仁天皇九十年の春二月、三 宅 連 等の祖、名は多遅摩毛理を以て常世国に遣わして非 時 香 菓を求めしたまひき。・天皇崩りまして明年
た
ひ
じ
ま
も
り
かげ や かげ
ほこ や ほこ
邪馬台国女王卑 (251 年)春三月十二日、多遅摩毛理、遂にその国に到りて、その木の実を採り縵八縵・矛八矛を以て将ち来たりし間に、天皇すでに崩りましき。こ
み
かげ よ かげ
こ
ほこ よ ほこ
とこ よ
ときじくのかぐのこのみ
弥呼の時代
こに多遅摩毛理、縵四縵・矛四矛を天皇の御陵の戸に献り置きて、その木の実を捧げて叫び哭びて曰さく、「常世の国の非 時 香 菓を持ちて参
(2-3 世紀)
上りて 侍 ふ」とまおして、遂に叫び哭び(泣い)て死にき。その非時香菓は、これ今の橘なり[垂仁天皇記 1]。・(注)三宅連は、新 羅 国王子/ 天 日
さぶら
し らぎの く に
あめの ぴ
ぼこ
杵命の後也[新選姓氏録 50]。
はじかみ
たちばな
さんしよう
みようが
じ
み
・倭国(古代/中国は和国を見下げて呼んだ国名。当時の日本はヤマトと訓じた)には 薑 (ショウガ)・ 橘 ・山椒・茗荷があるが(住民は)滋味を知ら
さる
くろきじ
ず。猿・黒雉がある[三国志/魏志/倭人条 28 ・ 68]・[国語大事典 21]・[古代日本原記 121]。
AD250 年(庚午) ・七月一日、垂仁天皇、崩。 71 歳。墓誌「伊久米入日子命
庚午七月一日
年七十一」[宝来山古墳陵前,柳本/伊佐知命宮,61,67]。
ま き むくのみや
垂仁天皇 39 年
・(垂仁天皇)九十九年秋七月一日、天皇、纏 向 宮に崩りましぬ。時に年百四十歳。冬十二月十日、菅原伏見陵に葬りまつる[垂仁紀,2]。
(纏向時代)
・【田道間守伝説】明くる(251)年、春三月十二日、田道間守、常世國より 至 れり。即ち、 齎 る物は非 時香菓、八竿八縵なり。田道間守、是
田道間守伝説
に泣ち悲嘆きて曰さく、「 命 を天朝に 受 りて絶 域に往る。萬里浪を蹈みて遙に 弱 水を渡る。是の常世國は神仙の秘 區、俗の臻らむ所に
あ
いさ
な
げ
まう
かえりいた
おほみこと
み か ど
うけたまは
はるかなるくに
まか
と ほ く なみ
ほ
もてまうでいた
と き じくの か く の み
よはのみず
や ほ こ や かげ
ひ じり
かくれたるくに
いた
あに お も
非ず。是を以て往来ふ間に、自ずからに十年に経りぬ。豈期ひきや、独峻き瀾を凌ぎて更本土に向むといふことを。然るに聖帝の神霊に頼りて
まう
みささぎ
まゐ
僅かに還り来たること得たり。今天皇、既に崩りましぬ。復命すること得ず。臣、生けりと雖も、亦何の益あらむ」と曰す。乃ち天皇の 陵 に向りて叫
まか
な
し らぎの く に
これ
あめの ひ ぼ こ
び哭きて自ら死れり。群臣聞きて皆涙を流す。田道間守は、是三宅連の始祖なり[垂仁紀 2]。・三宅連は新 羅 国王子/ 天 日杵命の後也[新撰姓
と き じくの か く の み
氏録,50]。・(注)田道間守の持ち帰った非時香菓は、田中長三郎氏の考証によれば、これを「ダイダイ」(橙)とする[柑橘の研究 87,1933/田中長三
たちばな
郎著]。・ 橘 は、今の茨城県以南の太平洋沿岸から紀伊半島南部・四国・九州に亘る南岸地帯に自生する。今の三重県御浜町尾呂志・熊野市
大泊地帯に原生しているのを筆者(本多舜二氏)は発見している[和歌山のかんきつ 122]。
・(紀伊国海部郡の柑橘起原は更に古く)殆ど縣下に於ける柑橘の始祖にして、垂仁天皇九十年(39 年[古墳墓碑 61/67])、田道間守が常世の國
と き じくの か く の み
に渡り、齎し帰りし非時香菓、植えたるものにして、賀茂村の橘本の名は之に因せしものなりと称せり[前山虎之助著/蜜柑帳/和歌山縣誌第二巻
42]。其の真偽、俄に判すへからされと、徳川時代に於いて盛んに栽植せられたるは、[蜜柑傳来記]始め、諸書に見ゆる處なり。・持ち帰った橘の
きつ も と
苗木八本のうち六本を、紀州海草(当時は紀伊国海部)郡加茂村橘本に植えられ六本木の地名あり。ここに橘本神社がある[同社伝/和歌山縣の
果樹 27]。・(注)田道間守が持ち帰ったのは非時香菓の着いた枝八本とあり苗木ではない[編者]。
・熊本県八代市にも「田道間守伝説」がある。経緯は和歌山と同じであるが、「田道間守は垂仁天皇の崩御を聞き、その皇子/景行天皇に、苦労し
て手に入れた橘を献上しようと、当時、都から御征西中の天皇を、はるばる肥後国(現/熊本県)まで訪ね、高田(八代市こうだ)付近でようやく巡り会
って、橘を献上後自決した。景行天皇はこれを哀れに思い、高田の地に田道間守が苦労の末に手に入れた橘を植えられた。この橘が後年、紀
伊国在田郡糸我荘(現/有田市糸我町)の伊藤孫右衛門が手にする「八代高田みかん」(小ミカン)である」[熊本県八代蜜柑伝来伝説/熊本県庁]/
かのえ
[紀州有田柑橘発達史/大正十五年十二月刊/有田郡田殿村/中西英雄著]と云う。・(注)垂仁天皇の崩御は、墓誌によれば「伊久米入日子命 庚
うま
かのえ う ま
午七月一日 年七十一」とある。 庚 午年は AD250 年と比定されている[古墳墓碑 61/宝来山古墳陵前、柳本/伊佐知命宮]。[書紀]によれば、景
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柑橘栽培の歴史
行天皇の筑紫征討は、同天皇十二(262)年とする。田道間守が帰国して 12 年後には橘の木が生きて居たとすれば成木になっている。この説話
は怪しい[編者]。・果物と菓子の神として田道間守を祀る神社は全国に十余ヵ所あるといわれ、代表的な神社は兵庫県豊岡市の中島神社、紀伊
きつもと
こ う きつ
国屋文左衛船出の伝説の地でもある和歌山県下津町の橘本神社、佐賀県の伊萬里神社など。佐賀県伊万里市立花町の伊萬里神社(もと香橘
神社)には、田道間守がタチバナを携えて伊万里浦に上陸し、これを植えたという伝説があり、タチバナの古木があったが既に枯死した。橘嶋田
たちばなの も ろ え
麿がこの地に 橘 諸兄の霊を祀り香橘宮と称し、古来から蜜柑・菓子の神として崇敬されている[社伝/日本の果物受容史 110]。
神功皇后摂政元 ・神功皇后が三韓(朝鮮三韓の国)征伐の帰途、朝鮮より橘を持ち帰り、これを肥後八代に植えたのが「高田みかん」の始めである。その後、繁茂
し、三韓より来たので「みかん」と名付け、肥後国司より年々朝廷に献上したとの説もある[和歌山県柑橘業の概要、昭和 14 年 5 月、紀州柑橘同
(321)年(辛巳)
業組合連合会発行]。日本の柑橘は自生説あり、伝来説あり、諸説紛々である[御前明良:紀州有田みかんの起源と発達史 124]。・(注)朝鮮の[三
国史記]新羅本紀/百済本紀/高句麗本紀には何の記載もなく、[日本書紀]の神功皇后三韓征伐の記述は造作説話である[編者]。
せいみん よ う じゆつ
386~439 年 ( 中 ・「斉民要 術 」に、「果樹の実生繁殖は品種の特性維持の可能性なために接木を用いること。梨の砧木にマメナシ類を、柿の砧木にマメガキを使
いつぎ
あげつぎ
国 の 後 魏 時 代 / うこと。接木には居接及び高接を主体とするが、揚接が活着不確実なること」と説明している。この如き点から考えると、中国では 5 世紀の頃には
日本は神功皇后 果樹の接木繁殖は十分に普及していたことが分かるのみならず、相当古い時代から果樹の繁殖法が研究されていたことが想像できる[果樹園芸
いん
摂 政 66 年 ~允 学上巻 33]。・(注)「斉民要術」は中国の農書。後魏の賈思售/撰。現存する農書中最古の完本。粟を中心にした穀物類の栽培法から野菜・果樹・
ぎよう
恭天皇 28 年)
桑・麻の栽培、さらに家畜の飼育法、酒・味噌の醸造法、中国物産論などを体系的に述べた書[国語大事典 21]。
神亀 3(726)年
・十一月十日、中務省丞従六位上/佐味朝臣虫麻呂、典鋳(大蔵省典鋳司の長官)正六位上/播磨直弟兄に従五位下を授く。弟兄は初めて甘子
てん じ ゆ
おと え
(聖武天皇 3 年) (柑子)をもちて唐国より来れり。虫麻呂、先ずその種を殖えて子(實)を結べり。故にこの綬あり[續日本紀 70]。・(注)佐味朝臣は、崇神天皇の皇子/
おおたらし ひ こ を し ろ わ け
(奈良時代)
豊城入彦命の後裔、上毛野朝臣同祖なり[新選姓氏録 50]。・大 足 彦忍代別(景行)天皇、五十河媛を妃として神櫛皇子・稲背入彦皇子を生め
り。弟/稲背入彦皇子は是播磨別の始祖なり[景行紀,2]。・[先代旧事本紀 4]に、「妃/五十河媛、神櫛皇子、次に稲背入彦皇子を生めり」とみえ、
お み も ろ わ け
あ
そ たける
「播磨直は景行天皇皇子/稲背入彦命の後裔。兄弟に男御諸別命・阿曽 武 命(針間国造の祖)。是、佐伯直・播磨直の祖也」[新選姓氏録 50]。・
おと え
弘法大師空海も同祖。播磨直/弟兄は柑子導入の祖。佐味朝臣虫麻呂は柑子栽培の開祖。・(注)甘子は今の九年母とする[貝原益軒著/大和本
草]。
天平 8(736)年
・この年、「冬十一月、左大辨/葛城王等賜姓、橘氏之時、(聖武天皇)御製歌一首」[万葉集巻第六 1009]に、「橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝
橘
に霜降れど いや常葉の樹」と詠まれている。・(注)天平 8(736)年当時、「橘」が在ったことを裏付けている[編者]。
天平 12(740)年
・大分県(当時は 豊 國)における蜜柑栽培発祥の地は、北海部郡津久見大字上青江字尾崎(現/津久見市)である[大分県流通園芸課]。[津久見
小蜜柑
柑橘史]によると、「神武天皇(在世 BC107 ~ 45 年)が津久見にて泊されしおりに、ミカンを献上したと伝えられ、天平十二(720)年に青江の松川
とこ は
とよの く に
にて柑橘の研究栽培を行う。その後、又四郎なる者が保元二(1157)年に松川より青江の尾崎にミカンを移植する。このミカンは「小ミカン」であり、
ここのミカンはその後 800 年余り生育、年々大量に実を付け、後世、「小蜜柑の元祖木」とされた。昭和十二年六月十五日に文部大臣/安井英二
より、史跡名勝天然記念物保存法による「天然記念物」に指定された。「温州みかん」の創始については、享保十(1725)年に青江の大庄屋/西郷
六左衛門が村人に栽培を奨励したのが始まりとされる。その温州みかんは肥後八代よりの移入であり、津久見では温州みかんを「八代みかん」と
呼んだ。文化元(1804)年には津久見村の蜜柑畑十四町歩との記録あり[津久見柑橘史]。・(注)明治十三(1880)年には大阪に販売、明治十八年
に津久見青江に蜜柑問屋が開業されており、明治初期には小蜜柑に加えて温州みかんが広く栽培されだしたようである。なお、明治二十五年
-5-
柑橘栽培の歴史
頃、青江地区において、従来木の枝変わりの早生品種が発見された。これは普通温州より1ヶ月早熟で、「我が国初の早生品種の発生」である。
これは「青江早生」として全国に広まっていく[同史/有田みかんデータベース 106]。
と う せん
みぎり きのえ と ら
・神武東征(史実は東遷)の 砌 ( 甲 寅 BC67 年)、津久見浜(現/大分県津久見市の浜)に於いて蜜柑を献上したと伝えられる。天平十二(740)年、仁
藤仁左エ門が青江の松川(現/津久見市上青江松川)にて柑橘の栽培を研究し、その後保元二(1157)年、又四郎が当地に松川より移植したのが
現在の(小蜜柑)元祖木で樹齢八百年、面積百三十五坪 (約 45 ㎡)に伸び、平年作で七百五十貫(約 2.8 ㌧)を生産す。昭和十二(1937)年六月、
文部大臣から天然記念樹に指定せられ、現在(昭和 41(1966)年)、川野覚氏が管理している[東京青果株式会社所蔵文書/和歌山の柑橘/古代日
本原記 121]。・(注)元祖木の樹齢 800 年は、ほぼ整合しているが、小蜜柑は 800 年も生存するかは疑問である[編者]。
うるう
いむ べ
天 平 感 宝 元 ・閏五月二十三日、大伴家持の詠「橘は 花にも実にも見つれども いや時じくに なほし見が欲し」[万葉集巻第十八]。・また日付がないが、忌部
おびとえい
(749)年
ぼ う しつ
首 詠(詠む)數種物歌一首 [名忘失也]。「枳 蕀原苅除曽氣 倉将立 屎遠麻礼 櫛造刀自」、現在仮名に直すと「からたち うばらかりのそけ くら
うばら
くら
くそ とほ
く し つくる
と
じ
と
じ
たてむ くそとほくまれ くしつくるとじ」となる。これを現在文に直すと、「からたちと 茨 を刈り除け倉建てむ屎遠くまれ 櫛 造 る刀自」。刀自は主婦と
からたち
みられる。・(注)枳殻は万葉時代からあったことが知れる[編者]。
うるう
いつ と う
し しよう
天平宝字 6(762) ・「閏十二月十一日、収納小樀子 壹蚪(蚪は豆篇に斗)肆升(4 升)、干柿子拾弐貫 各長四尺」[正倉院文書/大日本古文書]とみえる。・(注)「樀」
み
年(奈良時代)
は「橘」と同字であり、「小」は小さい意、「子」は実を指す。つまり小さい樀(橘)の実を一斗四升収納したと読める。どこから送られ何に用いたかは
不明である[編者]。
宝亀 3(772)年
十九日
し き り に けい し
ふ
いん せき
ゆの み
・六月戊辰、往々京師(みやこ)に隕る石(隕石)あり。其の大きさ柚子の如し。数日にして止む[続日本紀/宝亀三年条]。・(注)「柚子」と「柚」は同一
とすれば、この時代には「柚」があったとみられる[編者]。
弘仁 2(811)年
く う かい
おと く に でら
・この年十一月九日、僧/空海、乙訓寺(現/京都府長岡京市)の別当となる[同寺縁起]。その後、同寺境内から採った柑子を嵯峨天皇に献上す
へう
やましろの お と く に で ら
き
空海 、柑 子を天 る。「柑子を献ずる表、沙門/空海、言上する。小住の山 城 乙訓寺に数株の柑橘の樹がある。献上の恒例に従い、よい実をいろいろ撰び取って
み
皇に献上
来させた。数を申し上げれば千以上となる。その色を看ると黄金のようである。黄金は変わることのないものである。千と千年に一人現れる聖天子
きよう し ゆ
つたな
ことば
のことである。また、この果物は、もともと西域から出たものである。ちらと見ただけでも興趣がある。そこで、私の 拙 い 詞 をそえて、あえて奉献す
じん じ
けが
る次第である。伏して願うところは、陛下の仁慈をもって、まげてご一覧あらんことを。軽々しく奉献して陛下の御眼を黷すことを、ひれ伏して深く
おそ
しや もん
おそ
悚れお詫び申し上げるところである。沙門/空海、心から惶れ、心から恐れて謹んで申し上げる」。 詩 「桃李は珍しいけれども寒さに弱く 蜜柑が
霜にあっていよいよ美しいのに及ばない。星や玉に似て、そのもちまえは黄金である。そのかぐわしい味は供え物の籠一ぱいに充ちてる。このよ
せい お う ぼ
もと
うな例えようもない珍味は、いずこよりもたらされたのか。きっと天女・西王母の故(故郷)であろう。千年に一度、聖人が世に出ること表わし、この木
のぼ
と
に攀って実を摘り、わが聖上陛下に献上する。小さな蜜柑を小箱六つ、大きな蜜柑を小箱四つ。以上、乙訓寺から採れたものを恒例にしたがっ
がんえん
て献上し奉る。謹んで乙訓寺の寺主である願演を遣わして、この状とともに奉納いたさせる。謹んで進上する」[弘法大師空海全集第六巻・遍照
発揮性霊集/巻第四]/[たしまもり研究所森本純平訓読]。
しよう たい
から なし
しい
くぬぎ
か
む
し
昌 泰 ( 898- 901) 昌泰年間に成立の「新撰字鏡」の木部五十七に、榛・李・唐梨(カリンの古名)・梨・椎(ナラノキ)・枇杷・ 櫟 ・科木(シナノキ)・加牟志(柑橘)が記載あ
年間
か
む
し
加牟志
り[日本果物史年表 123]。・(注)新撰字鏡は、漢字約二万一千三百を偏・旁などによって分類・配列し、字音・意義・和訓を記したもの。現存する
日本最古の漢和辞書[国語大事典]。
-6-
柑橘栽培の歴史
あ け び
延喜 5 年-延長 5 ・延喜式三十二巻・大膳下、諸国献進菓子(果物)「山城國:郁子(ムベ)、通草(アケビ)、覆盆子(イチゴ)、楊梅(ヤマモモ)、平栗」。「大和國:通草
年(905-927 年)
(アケビ)、、楊梅、榛(ハシバミ)」。「河内國:通草、覆盆子(イチゴ)、椎、花橘子、木蓮子(イタビカズラの古名)」。「攝津國:通草(アケビ)、覆盆子(木
(平安時代)
イチゴ)、楊梅(ヤマモモ)、花橘子(マンリョウの実か)」。「河内國:通草(アケビ)、覆盆子(木イチゴ)、楊梅、椎、花橘子、柑子、木蓮子(イタビ)」。「遠
よ う ばい
む
べ
花橘子 橘 柑子 江國:甘蔓、柑子」。「駿河國:甘蔓、柑子」、「相模國:橘、柑子」、「近江國:郁子」「遠江國:甘蔓、柑子」。「越前國:甘蔓、薯蕷(ヤマノイモ)、零
しい
ひし
余子(ムカゴ)、椎」。「丹波國:甘蔓、甘栗、搗栗(カチグリ)、椎、菱」。「但馬國:搗栗、甘蔓」。「美作國:搗栗、甘蔓」。「因幡國:甘蔓、平栗、椎、
梨子、柑子、干棗」。「播磨國:椎、搗栗」。「美作國:搗栗、甘蔓」。「阿波國:柑子、甘蔓」、「太宰府:甘蔓、木蓮子」。「相模國:橘子、甘子」。延
と う にん
き がわ
からた
喜式/巻三十三大膳下諸国貢進菓子「甲斐國:青梨子」。同式巻三十七、典薬寮の諸国貢進年料雑薬:「桃仁/十一カ国。橘皮(橘の実の皮)・ 枳
ちの み
きようにん
ゆ
ず
殻実・杏仁/四十カ国」。同式巻三十九「正親・内膳供奉雑菜「栗子三升・桃子四升・柚子十顆・柿子二升・枇杷十房・覆盆子二升。園地三十九
むべ
接木
町五反二百歩、雑菓樹四百六十株、続梨百株、柑四十株、柿百株、橘二十株、大棗三十株、郁三十株、覆盆子(木イチゴ)園二反」、また「接
木」。当時接木が行われていたとみられる[大野史朗著/農業事物起原集成/日本果物史年表 123]。(注)続梨とは接木した梨樹[編者]。
いしんぼう
ほ し なつめ
な ま なつめ
永観 2(984)年
・この年、我が国最古の医書「医心方」が撰上され、巻第十三/五菓部に、「橘・柑子・柚・乾 棗 ・生 棗 ・李・杏実・桃実・梅実・栗子・ない(赤林檎
(平安時代)
の古名)・石榴・枇杷・こくわ(猿梨の古名)・郁子・通草・山桜桃(ヤマモモ=楊梅に同じ)・木蓮子(イタビ蔓の古名)・椎子・櫟実(クヌギの実)・榧実・覆
ざ く ろ
む
ぐ
べ
あ け び
かや
み
盆子(木いちご)・茱萸・海老蔓(エビヅル)・桑実」が記載されている[菊池秋雄著:明治前日本農業技術史/日本果物史年表 123]。・(注)医心方
は、丹波康頼撰述。永観二年完成。「外台秘要」「病源候論」など、隋、唐の医書八十余種から引用、編纂したもの。長らく朝廷の秘書となってい
たが、万延元(1860)年、江戸幕府の手で刊行された[国語大事典 21]。
永久 4(1116)年
こ う らい
えい そ う
・(朝鮮半島)高麗国王/睿宗十一(1116)年二月二日、日本国、柑子を進む[武田幸男編訳/高麗史日本伝]。・(注)日本から高麗国王に柑子を贈っ
たか。日本の朝廷は、幼少の鳥羽天皇(14 歳)十年(摂政/藤原忠実)、白河法皇の院政時代[古代日本原記]。
元永元(1118)年 ・九月七日、白河法皇、(紀伊国牟婁郡)熊野に詣る。供奉の人八百十四人、伝馬百八十五匹、一日の粮料十六石二斗八升。熊野三山領は紀
もと
伊・阿波・讃岐・伊予・土佐五カ国に各十烟(世帯)の封戸五十烟ある[中右記・百錬抄・紀伊續風土記三]。白河法皇、詠「橘の本に/一夜の旅寝
して/入佐の山の/月を見るかな」と。・(注)熊野詣で途上には当時に橘が自生していたとみられる[編者]。
こう
じ
たいらの さ ね つ な
康 治元 (1142)年 ・十二月十二日、「藤原摂関家(京都法成寺)領/紀伊国那賀郡吉仲荘の下司/ 平 實綱が藤原氏の熊野参詣にあたり菓子(果物)等を送り届ける」
(平安時代)
[兵範記/平安遺文 2490 号]。・(注)この季節からみて菓子はミカン類や柿とみられ、ミカン類は柑子だった可能性が高い。平實綱は平安末期に京
菓子
都から吉仲荘の荘官として派遣され、吉仲荘調月村(現/桃山町調月字山人平の一角に)に豪邸を構え、「土居の殿様」と呼ばれてていた。今も土
ど
い
ど
い やぶ
居薮と呼ばれる大きな薮が著者宅の上にある[桃山町史 8 ・伝承・伝聞]。
かやの み
ざ く ろ
ほ し なつめ
承安 2(1172)年
・一月、摂政家臨時客献立「干菓子:松の実を煎りて皮を剥きて盛る。 柏 実:煎りて盛る。石榴:皮剥きて盛る。干 棗 :熟したる棗を皮剥きて蒸し
(平安時代)
て乾かす(中略)。棗無き時は串柿を盛る。五つ目に勝栗(搗栗)を加える時あり。或いは時菓子(季節の菓子)を用ゐる。木蓮子(イタビカズラの古
名)、栗、橘、杏、李、椎子、桃、せんこう桃(不明)、柿」[櫻井秀/足立勇著:日本食物史(上)/日本果物史年表 123]。・(注)平安時代末期には、菓
子(果物)の種類が豊富になってきたようにみえる[編者]。
12 ~ 13 世紀
・熊本県のみかんの起源/「八代小ミカン」の発祥の地。我が国のみかん栽培史では、一つの地域で”ある規模で栽培”され始めたのは熊本県八
八代小ミカン
代郡高田村(現/八代市高田)であり、その品種は中国漸江省から伝来した「小ミカン」である。起源は 12 ~ 13 世紀頃と推測されているが、ある程
度の量産体制にあった様子にもかかわらず、「小ミカン」を特産品として(江戸時代に)藩外まで販売した形跡は見当たらない。「温州みかん」の栽
-7-
柑橘栽培の歴史
培は、発祥地の鹿児島県東町が近いため、速やかな伝来があったと思うが、やはり小ミカンと違う「種無し」が敬遠され、商業的栽培は明治二
(1869)年に高田・宮地区で始まっている[果物百年史/「果樹王国熊本」・有田みかんデータベース 106]。
てい き ん お う ら い
よ う ばい
り ん ごの み
なしの み
しい
はしばみのみ
ざく ろ
応 永 8( 1401) 年 ・室町前期成立という僧/玄恵法印の作「庭訓往来」に主な菓樹・菓子「梅・桃・李・楊梅(ヤマモモ)・林檎子・枇杷・杏・栗・ 梨 子・椎・ 榛 子・石榴・
なつめ
頃
き ざわし
こ ねり
ゆ こ う
こう じ
たちばな
う じゆきつ
が しよくき ん
棗 ・木 淡 (甘柿)・木練(甘柿)・柚柑・柑子・ 橘 ・雲州橘・金柑・柚」。また、合食禁(食い合わせ)の菓子として、「緬と枇杷、酒と柿、雀と銀杏、李と
き
じ
菓子と食合わせ 雀肉・雉子・蜜・白求(不明)・牛肝(牛の肝臓)」[菊池秋雄:明治前日本農業技術史第三果樹園芸・樋口清之:日本食物史/日本果物史年表
ゆ こ う
123]。・(注)林檎子は初出という[小林章:文化と果物/日本果物史年表 123]。・(注)柚柑はミカン科の常緑小高木。本州中国地方と四国で栽植さ
れ、果実はユズに似て大きく香りが高い。クエン酸製造の材料。「ゆかん」ともいう[国語大事典]。
れんちゆうしよう
さ
も
も
・この頃の「簾 中 抄」に、多く食ふまじきもの「棗・柑子・李・柚・生梅・杏など」、月々食わぬもの「五月桃・李など核ならぬ菓子」[櫻井秀/足立勇著
:日本食物史上/日本果物史年表 123]。・(注)核ならぬ菓子とは未熟なものを云うか[編者]。
永享年中
・永享年中、(紀州)有田郡糸我荘中番村(現/有田市糸我町中番)楯岩の麓、神田の峰に柑一樹自然に生じ、年々實を結ぶ。天正年中(1466 年)
(1429-1440 年)
に此の種を山田に植え、大永年中(1521-1527 年)に接木して近郷に植え、天正年中(1573-1591 年)に糸我・宮原の二庄(現/有田市糸我町・宮原
(室町時代)
町)に分かち植えしより、漸々諸荘に栽植すると云う(後略)[紀伊続風土記第三輯六]。・(注)紀伊続風土記及び紀州蜜柑傳来記の記録から、紀州
の柑橘栽培は安土桃山時代(1576-1600 年)の終わり頃、僅かに産業の端緒を現したことが分かる。然し(この頃は)肥後八代・山城・駿河・遠江・相
模地方が先進地であったことが以上の記録で分かる。紀州に於ける蜜柑は、[紀伊続風土記]には乳柑、一名眞柑となっているが、これは本草学
やつ し ろ
の品物名に捉はれた名称(呼び方)である。最初は単に蜜柑と呼び、紀州は有名産地になってから「紀州蜜柑」の名を得たもので、八代地方から
移入したのは小蜜柑(C.kinokuni)である。それ以前に栽培されたものは、九年母(香橙)・柑子蜜柑が主なものであったと云う[果樹園芸學上巻
33]。
せき そ お う ら い
文明 13(1481)年 ・文明十三年以前の成立とみられる「尺素往来」に、「庭に植えるべき花木花草として、庭梅・海棠・蜜柑」とあり、これらは、この頃までに渡来して
なす
以前
い ち ご
いわ な し
なつめ
りん ご
から な し
いたとみられる。・菓子に「青梅・黄梅・枇杷・楊梅・瓜・茄・木苺・岩梨・桃・杏・ 棗 ・李・林檎・石榴・梨・唐梨・柿・干柿・栗・椎・金柑・蜜柑・橙橘・
ら い ち
く る み
はしばみ
ご どう
かちぐり
鬼橘(柚の異名)・柑子・鬼柑子・雲州橘」、茶子の料(茶請け)に、「茘枝・竜眼・胡桃・椎実・ 榛 ・栗・梧桐(青桐の実)・串柿・搗栗」[上野益三:日
せき そ お う ら い
本博物学史・菊池秋雄:明治前日本農業技術史/日本果物史年表 123]。・(注)尺素往来は、一条兼良の著。文明十三年以前の成立。往復書簡
の形式の中に、年中行事・各種事物の話題を盛り、消息文の書き方や百科的教養を習得するのに便利にしたもの[国語大事典]。
あしかがよしたね
文 明 ( 1 4 6 9- ・美濃國の瑞林寺(現/岐阜県美濃加茂市蜂屋町)の住職が「蜂屋」の枝柿を足利義稙公(室町幕府第 10 代将軍)に献じ、後に太閤秀吉にも献じ
そ まい
1487)年間
課役を免じられた。柿百個を以て租米(年貢米)一石二斗に代する[長野県果樹発達史/日本果物史年表 123]。
天文 6(1537)年
・広島県みかんの発祥は、天文年間(1532 年)に安芸国の住人/木村道禎が讃州(現/香川県)から小ミカンの苗木を求め、安芸郡蒲刈島の向村
(戦国時代)
に殖栽。その後、永禄年間(1558~1569 年)に安芸郡下蒲刈村(現/下蒲刈町)へ増殖したのが始まりとされる。香川県から小ミカンを入手となって
広島県みかん
いるが、香川県では小ミカン伝来の歴史に関する記録なく、入手の検証は出来ない。また、安芸と(紀州)有田を比較すると、小ミカンの安芸への
あ きの く に
伝来が事実とすれば、八代から有田への伊藤孫右衛門による小ミカン伝来は天正二(1574)年とされ、広島県への小ミカン伝来は有田より 37 年
げん な
あ さ の お さあきら
ばかり早いといえる。しかし、安芸の国にては、天文年間以降の小ミカン栽培の広がりはなく、元和五(1619)年に紀州藩から移封された浅野長 晟
が紀州から「紀州みかん」を取り寄せ増殖を勧めている。このことは、紀州有田への小ミカン導入が安芸より遅かったにしろ、元/紀州藩主の浅野
公が安芸藩の農家の活性化のために、紀州みかんを導入したことは、その時代には「紀州蜜柑」が大変優れていたことの証明となろう。つまり、
-8-
柑橘栽培の歴史
伊藤孫右衛門や有田の人たちの品種改良が九州や四国より進んでいたことの証でもある。広島県における温州みかんの本格的栽培は、明治二
十七(1894)年頃からである。導入の最初は文政元(1818)年、豊田郡大長村の秋光彦左衛門が栽培したとなっている。広島においては、小ミカン
の伝来が有田とあまり時間ズレがなく、また、九州に近い地の利から、温州みかんも江戸時代末期には伝来があったと思われるが、江戸時代に
は産地的生産にまで至らず、自家用としての栽培に留まっている。広島でのみかん栽培が盛んになるのは、明治三十六年の「青江早生」(大分
県北海部郡青江で発見された普通温州の枝変わりで、わが国最初の早熟みかん)の導入からである[広島県農業発達史第二巻/有田みかんデ
ータベース 106]。
天文 15(1546)年 ・十二月付け高野山検校納分支出雑記「(紀伊国)高野寺領那賀郡神野荘(美里町)から季節の納め物として蜜柑[高野山文書六]が記されてい
なが と こ しゆう
(戦国時代)
さい じき
る。江戸時代初期の元和二(1616)年三月付け天野丹生明神社/山王院長床 衆 州雑記「十月の斉食(仏家で午前中にとる食事。午後は食事しな
ときじき
いと戒律で定めている=斉食)の蜜柑を高野寺領那賀郡細野荘から上納があった[高野山勧学院文書・金剛峯寺文書一]。また、明暦二(1656)年
の高野寺領那賀郡杉原村に於ける蜜柑の価格は、「上々蜜柑百個で大豆三升四才余(銭)一匁一分[粉河町杉原/山本家文書]で、明暦元(1655)
年の米価は、米一升0・三八匁~0・四匁であった[山川日本史小事典]。
天文 21(1552)年 ・天文二十一年、紀伊国有田郡で柑橘の初穂(初収穫の産物)を、(糸我荘の)糸鹿社(糸我社)に供えた記録がある。橘か柑子かは定かでない。
こ
(戦国時代)
こ
えいきよう
たて いわ
糸我社由緒書に云う、「糸我社御供え蜜柑出所の地、今此処(が)池となり、俗に神田池、また宮田池とも申し候。永享(1429-1441)年中、楯岩の
みつ
麓、神田の峯に橘一本、自然に生じ年々実を結ぶ。其の味蜜の如し。依りて蜜柑と号す。文正(1466-1467 年)の頃、山田に植え、近郷へも移す
蜜柑接木
と申し候。大永(1351-1528)年中に接木始まり、天文二十一(1552)年、糸我社に供う」と。・(注)この頃、自然の橘が数多く存在したことが立証され
ているので特に美味しい橘を見付け、蜜柑と称し、他へも移し行ったと解すべきか[和歌山縣の果樹 27]。・糸我社由緒書は文化七(1810)年)、当
時の神官/林周防が、寺社奉行に報告したものと云う[有田市産業振興課史料]。
弘治元(1555)年 ・弘治元年、紀伊国有田郡で柑橘の初穂(初収穫した産物を感謝の意をこめて、まず神に供える習わしがあった)を伊勢神宮に供えた記録があ
る。橘か柑子かは定かでない[和歌山縣の果樹,27]。
天正 2(1574)年
きのえいぬ
ひ ごの く に やつ し ろ
い と がの しよう
・「天正二年 甲 戌年中、有田郡宮原組糸我庄中番村(現/有田市糸我町中番)の伊藤孫右衛門と申す者、肥後國八代(現/熊本県八代市)と申す
こ
ぎ
う え つぎ
(安土/桃山時代) 所より蜜柑小木(苗木)を求め来たり。初めて宮原/糸我の庄内(現/有田郡有田市宮原町/糸我町)に植継候所、蜜柑土地に応じ(適応)、風味
ひるいなく
う え ひろ
もうしそうろう
紀州蜜柑傳来記 無比類、色香、菓の形、他国に勝れ候に付、次第に村々へ植廣げ申 候 。百三十年以前、慶長の始め(1596 年)には保田の庄(現/有田市保田)・
いの く ち
おいたち
それ
かご す う
その こ ろ
田殿の庄(現/有田川町井口)へも、一か村に五十本、七十本程つつと生立候由、夫より年々相増え、籠数も出候に付、其比、大阪・堺・伏見等へ
つみ お く
そうら え ど も
か く べつ
たか ね
小船にて積送り申候。右の所へも山城の國より蜜柑出 候 得共、有田の蜜柑格別勝れ申候に付、値段高値に売れ申し候由。其後百年以前、寛
たき
はら
かご す う
あ い したため
永十一戌(1634)年、初めて瀧が原村(現/有田市宮原町滝ヶ原)藤兵衛と申す者、蜜柑籠數四百籠ばかり荷物に相 認 、江戸廻しの船を頼み、
ほかの に も つ
う け あい
お みず が
し
や
外 荷物と積合いに致し、始めて江戸廻し(送り)致し、右、藤兵衛、江戸表へ到着致し、所々承合、京橋(の)新山屋仁左衛門と申す御水菓子屋を
きつ る い
なか がい ど も
うり
い
ず
する が
み かわ
か ず さ
そうら え ど も
問屋に頼み、橘類取扱致し候仲買共を集め、蜜柑賣候所、江戸表へは伊豆・駿河・三河・上総の国々より蜜柑出 候 得共、有田の蜜柑にくらべ
に より もうさず
る
ふ
す
かね
候ては、中々似寄不申候に付、江戸にて流布致候はば、紀州蜜柑の風味は甘露(甘く美味しい味)に酸き味(酸味)を兼、黄金の色に紅を交へ、
くぁ
あ る べか ら ず
き せん
しようが ん
きん す
菓の形は地方圓の圖を備へ、異国に越したる和國の珍菓不可有、此上と貴賤挙げて(身分に別なく)賞翫(褒め称え)致し、金子一両を以て蜜柑
もち
う り はらい
とも
いたし
一籠半の値段に賣 拂 、帰国致候由。右の様子、蜜柑持(作り)の百姓共承り、其翌年は右の藤兵衛を(に)頼み、一所(一緒)に江戸廻し(送り) 致
く れ そうろう
もうす
およそ
かご
うりはらいまかりのぼ
それ
呉 候 様にと 申 に付、自他の蜜柑 凡 二千籠ばかり集め積送り、前年通りの場所にて一籠に付金子二分程づつに賣拂罷登り候由、夫より次第に
-9-
柑橘栽培の歴史
き
う え ひろ
あ
かご す う
ま
で もう
蜜柑の木多く植廣け、有田郡川筋の村々、海士郡(現/海草郡)へも行渡り、慶長の末(1614 年)には籠数も餘程出申し候由(後略)」[紀州蜜柑傳来
じ きつ
記/中井甚兵衛著/享保 19(1734)年刊/果樹園芸学上巻 33]。・(注)紀州蜜柑(小蜜柑)は、中国浙江省黄巌縣の蒔橘、一名/金銭橘と同物なりと云
う。古い時代に華中・華南地方より、渡来したとみられている。学名は Citrus Kinokuni HORT.。英名は Kinokuni Orange である[果樹園芸学上巻
33]。・(注)紀州蜜柑に付けられた英名/Kinokuni Orange は間違いで、 Orange ではなく Mandarin だから「 Kinokuni mandarin 」とすべきだった。
やつし ろ
なお、[和歌山の柑橘 120]は、「天正二(1574)年、伊藤孫右衛門が紀州公(徳川頼宣)の命を受けて八代に使いし、蜜柑小木を持ち還り云々」とし
げん な
ているが、紀州公/徳川頼宣の紀州入国は、元和五(1619)年[和歌山県誌上・同県史近世史料一]。生誕は天正七(1579)年、天正二(1574)年には
じゆんしよく
まだ生まれて居ないから後世の 潤 色である[編者]。
かみかた
串 柿・ 紀 州蜜 柑 ・豊臣(安土桃山)時代に(紀州)伊都郡の串柿・有田のみかんが、上方(大坂・堺・伏見)に積み出され、県(国)外出荷の始まりとみられる[和歌山の
の国外出荷
柑橘 120]。
天正 3(1575)年
・伊藤孫右衛門は、(紀州)有田郡糸我村(荘)字番村の人、家世々農を業とす。天正三年、肥後國八代より蜜柑樹を郷里に移植し、苦心惨憺其
はか
もと
り せい
(安土/桃山時代) の繁殖を謀り、遂に國中第一の産物たらしむるの本を開けり。當時、孫右衛門は其の村の里正(里の長)を勤め、役務に依りて時々若山(和歌山)
たま たま
の上司に勤任せるが、偶々肥後國八代に使いするの命を受けしかは、予て同地に蜜柑といへる果樹ありて、其の収益甚だ多きに彼の國制、他
その き
う り わた
まさ
なにがし
その き
ほ う べん
國人に該樹を賣渡すを禁じ、以て他の地に繁殖するを防ぐと聞き、将に途に上らんとし、上司 某 に懇請して該樹を求め来るべき方便を得たり。
かくて盆栽の料なりと称して僅か二株を得て帰国し、一株は和歌山の上司某の庭園に植ゑ、他の一株は自ら其の村地に植ゑしに、遠路を持ち
すい い
あい ご
ぶ いく
そ せい
来たりし事とて樹勢衰萎(衰弱)して殆ど枯死しかと、寝食を忘れて愛護撫育したる結果、漸く蘇生するに至れり。上司に贈りし一株は遂に枯死せ
はか
蜜柑接木
ま ん えん
りと云ふ。依って之れが繁殖を謀り、先ず接木を試みしに好成績を得しかは、是より次第に蔓延するに至れり。幸いに此の地は蜜柑の培養に適
たちま
お おぎ ま ち
ぼつ
せし爲、 忽 ちにして有数の國産となるに至れり。移植の年代は、或いは単に正親町天皇の御代(1557-1585 年)ともあり。寛永五(1628)年歿す、
年八十六(過去帳)。天正二年は其の(孫右衛門)三十二歳の時に當る[和歌山縣誌第三巻/人物誌 42]。
永禄 7(1564)年
・伊予国宇和島の松浦宗案、我が国最古の農書「親民鑑月集」を出し、菓樹栽培法を記載、「種子採り物:栗・柿・梨・椎・榧・棗・櫟・柚。蔓類:茘
あ け び
(安土/桃山時代) 枝・葡萄・通草。木類の栽培:胡桃・栗・柿・栃・榧。種採り時期:杏・梅・桃・楊梅・李・枇杷・青梨・秋梨。柑橘類:柑子・九年母・蜜柑・柚子・橙・か
ぶす・花柚・実柚。此の外種類多し」と。・(注)これらより、梅・桃・梨・柑橘等は実生繁殖し接木も行われていたとみられる。柑橘は多数あり、実生
によって地方品種が増えている[菊池秋雄:明治前日本農業技術史第三編果樹園芸/日本果物史年表 123]。・(注)親民鑑月集は、永禄七年とし
て書かれるには記載内容に矛盾があると指摘され、江戸時代に入ってから書かれた物と推測されている[Wikipedia/親民鑑月集]。
天 正時 代 (1573) ・西洋(?)から九年母が来伝する[日本園芸中央会編:日本園芸発達史/日本果物史年表 123]。・(注)九年母はインドシナ原産で、古く中国を経て
-(1592 年)
渡来し、日本でも栽培される[国語大事典]。・九年母はインドシナ半島原産で中国南部、沖縄を経て日本本土に伝わり広まったものと考えられて
九年母
いる。現在は、ほとんど消失しているが九州南部から沖縄にかけては今なお点在する[宮崎安貞著:農業全書/1697 年]。[大和本草]はこれを柑と
記し、『和漢三才図絵』は乳柑として記している。・「クネンボ」という名称は、ヒンドスタット語の柑橘を示す「ニブ」が、沖縄(琉球)で「クニブ」・「フ
ニブ」となり、薩摩(鹿児島)で「クネブ」となり、転じて「クネンボ」となったものという。ウンシュウミカンとよく似た 180 g内外の橙色の果実で、果皮
にテルピン油に似た独特の香りがあり、成熟期は1月以降、自家不和合性である[田中長三郎氏考証/日本果物史年表 123]。
「紀州蜜柑」
・「紀州蜜柑」はわが国には約 700 年前に中国から伝来したとも云われ、熊本県(肥後国)には古くから有ったが天正年間(1574 年)に紀州有田に
伝えられて(その後)一大産業となり、寛永年間(1634 年)に江戸に出荷され、その名が広まった。紀伊国屋文左衛門が荒天を冒して海路江戸に
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柑橘栽培の歴史
運び、「沖の暗いのに白帆が見える
あれは紀伊国蜜柑船」と歌われた江戸時代が全盛期で、明治時代の中頃まで、わが国を代表するみかん
であった。しかし現在では鹿児島県の「桜島小みかん」として地域特産品が出荷されている。みかん主産地では、葉をつけて出荷するので「葉付
きみかん」ともいわれ、鏡餅に添える橙の代わりに出荷されるにすぎない。紀州では熊本(肥後国)八代から伊藤孫右衛門による導入が紀州みか
んの栽培の初めではなく、それ以前に「紀州みかん」の栽培が既にあり、改良種を導入したとするのが定説となっている。紀州みかんは単胚であ
り、中国伝来説は当たらないと云う[岩政正男氏]。田道間守公が本種を持ち帰ったとも、中国に同一種があるとの説もあり、その起源は明らかで
はない。果実は小さく扁球形で果皮は薄く、橙黄色で光沢があり、香りがあるが浮皮になりやすい。果肉は柔軟多汁で酸は少なく、甘みが強い
[農林水産食品産業技術振興協会/読み物コーナ,森本純平:みかんとその仲間たち/紀州みかん]。
こ
の わた
な ま こ
天正 19(1591)年 ・冬、徳川家康が会津の大名/蒲生氏郷(会津若松城主)に特産品の海鼠腸(海鼠のはらわたの塩辛)と蜜柑を贈り物とする。・特産物の贈答品利
用[荒井魏:英雄たちの自由時間/日本果物史年表 123]。
やすだのしよう
た どののしよう
いつ か そん
よし
慶 長 の 初 め ・紀州蜜柑伝来記に、「慶長の初め、(紀州有田郡)保田荘・田 殿 荘内へも(蜜柑)一箇村五十本、七十本づつ生い立ちの由、夫れより年々相増
かごすう
(1596 年)
ところ
やま し ろ
し籠數も出候に付き、其の頃、大坂・堺・伏見へ小船にて積み送り申し候。右の 處 へも山城の國(現/京都府中南部)より蜜柑出て候え供、(紀州)
(安土桃山時代) 有田の蜜柑、格別勝れ申すに付き値段高値に売れ申し候由」とあり、之によれば上方(京阪地方)への出荷の創始は慶長年間である[和歌山縣
の果樹 27]・(注)この頃の有田蜜柑の品種は「紀州蜜柑」とみられる[編者]。
慶長 8(1603)年
・慶長八年、徳川家康が江戸幕府を開幕、江戸時代となる。慶応三(1867)年、徳川慶喜の大政奉還(慶応 3 年 10 月)までの約 260 年間をいう。
(江戸時代)
徳川時代とも[国語大事典 21]。
ひ ぜんの く に
ひ
ご
佐賀県のみかん ・佐賀県(肥 前 国の東半部)のみかんの起源は江戸初期に肥後(国)天草郡西仲島(現/鹿児島県出水郡東町)から「ナカシマ蜜柑」が伝わり、旧
玉島村(現/東松浦郡浜玉町)で最初に栽培したという。その後、同地から近隣に広まった模様である。しかし、江戸時代においては商業化され
ず、本格的に栽培されだしたのは明治の中頃からであり、その後急速に広まってゆく[佐賀の園芸]。
慶長年間(1596- ・紀州蜜柑、(紀州有田郡)糸我・宮原・保田・藤並(各)荘から、大坂(摂州)・堺(泉州)・伏見(京都の城下町)へ小船にて初めて積み出す[和歌山縣
1615 年)
の果樹 27]。
元和 2(1616)年
・十月、高野山学侶方領(紀州那賀郡高野山領)細野荘(現/紀の川市桃山町細野)から伊都郡天野村丹生神社へ蜜柑、芋、栗、柿を納める[勧学
院文書/金剛峯寺文書一]。
かん えい
かご
寛永 11(1634)年 ・徳川時代における紀州(有田)蜜柑の江戸出荷の(年当り)数量「寛永十一(1634)年四百籠(籠は三ツ籠、或いは四4ツ籠と称し三貫から四貫入
めい れき
(江戸時代)
じようきよう
げん ろ く
じ らい
り)。同十二(1635)年二千籠。明暦二(1656)年五万籠。貞 享四(1687)年約十万籠。元禄十一(1698)年約二十五万籠。爾来十年間、年々約二十
しよう と く
じ
ご
きよう ほ う
紀州蜜柑江戸出 五万、乃至三十二、三万籠。正徳二(1712)年約三十五万籠。爾後数年間約三十四、五万、乃至五十万籠。享保十九(1734)年約十六、七万、乃
これ
荷
かん ほ う
てん ぽ う
至二十七、八万籠(之は他方への出荷が増加したため減少の由)。寛保二(1742)年十三万籠(この年は大凶作のための由)。天保三(1832)年約三
十四、五万籠(後略)」[和歌山縣の果樹 27]。
たけ かご
竹籠
たけ か ご
ふた
・江戸時代から明治の初期までミカン容器に使われた竹籠は、江戸向けは四貫(15 ㎏)、関西(上方)向けは二貫(7.5 ㎏)で、荷造りは蓋の部分は
たけ く ぎ
木箱/竹釘
せ きしよう
石菖という草で覆い荒縄で括った。石菖はミカンを冷やして腐敗を防ぐ役をしたと言われている[有田郡誌}。・江戸末期から明治にかけて木箱が
ぬき に
輸送に使われるようになる。木箱は竹籠に比べて輸送に便利、かつミカンを傷つけない、腐敗を防ぐ、抜荷(盗難)を防ぐという長所をもち、加えて
たけ く ぎ
製材業の発達によって、急速に木箱に切り替わっていった。木箱は明治 20 年頃まで竹釘が使用されていた。それ以降は鉄釘が使われるように
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柑橘栽培の歴史
なる。木箱の大きさは地域によって多少の違いはあったが、大きく分けると、石油箱七貫(約 26 ㎏)、半石(半石油箱四貫(約 14.3 ㎏)、中化粧箱
二貫(7.5 ㎏)、平化粧箱一貫三百匁(約 4.9 ㎏)、小箱一貫三百匁(約 4.9 ㎏)となる[紀州有田みかんの起源と発達史 124]。
み かんかた
寛永 12(1635)年 ・(紀州に於ける蜜柑共同出荷組織)「蜜柑方」組織の起原については諸説あって定かでないが、彼の「蜜柑藤」(滝ヶ原村の藤兵衛を云う)が江
蜜柑方組織
戸送りを寛永十一年に創始して翌年(寛永十二年)、「一所(一緒)に江戸廻し致し呉れ候様申すによって二千籠をまとめた」のが蜜柑方とは云え
めい れき
ないまでも、共同出荷の創始と断ずべきで(ある)、また江戸出荷の創始から短日月の間に組織化されたであろうことは、(中略)「明暦二(1656)申
く み かぶ
あい たち
かご す う おおよそ
(丙申)年、組株、十組相立、蜜柑籠數 凡 五万籠ほど年内、云々」とあるよころからみて、(江戸送り)創始から二十二年目には明らかに十組合を
みている(後略)[和歌山縣の果樹 27]。・(注)蜜柑方は今で云うミカン出荷組合である[編者]。
正保 4(1647)年
か き おき
ひとつ
そうら え ど も
・三月二日付け「書置の事。(前略)、 一 、山林半分(と)蜜柑畑は与兵衛へ渡し申すべく旨に 候 得共、其の方、家を継ぎ候間、少しも残らず永代
そ なた
なり
麻生津村に蜜柑 共に其方へ譲り申し候事、実正也。(中略)。正保四年三月二日。西 宗西。西庄左衛門へ」[(和歌山県)那賀郡麻生津村/西家文書/和歌山の柑
畑
橘」。・(注)紀州那賀郡麻生津村では、すでに江戸時代初頭から蜜柑が作られていたことを証す史料であるが栽培品種は不詳[編者]。
正保 5(1648)年
・現/長崎県西彼杵郡大原村(元/釜本村)の萬助園に、今(1948 年)より約 300 年前(正保 5(1648)年)に温州蜜柑が在ったと云う。また、現/鹿児島
(江戸時代)
県出水郡東長島村鷹巣の山崎司氏の園に約 300 年と推定される老木ありと云う。この他、福岡県・大分県にも樹齢 200 年以上の温州蜜柑ありと
温州蜜柑原生地 云う[田中長三郎氏記/果樹園芸学上巻 33]。したがって、温州蜜柑は少なくとも 300 年以前に九州地方にて栽培されたものである[果樹園芸学
上巻 33]。・(注)後出のように、昭和十一(1936)年に鹿児島県果樹試験場技師/岡田康雄氏が、(鹿児島県)出水郡東長島村鷹巣(現/長島町)の山
崎司氏の畑地で、樹齢 300 年以上と推定される温州みかんの古木を発見した[果樹農業発達史 14]。・この発見で、「温州みかん」は今(平成 28
年)を去ること 368 年前にすでに実在したことがわかる[編者]。
・柑橘栽培の創始について「紀州那賀郡にては麻生津/龍門村最も古くして、正保五(四)年の奮記に、蜜柑畑云々の文字(文書)あり。其の他郡
てん じ く
内至る所に古木多し。伊都郡も徳川時代より盛んに栽培せり、其の傳来明らかならず、一つに弘法大師の天竺(唐国)より傳ふる處と、或いはい
ふ大師以前にありと。郡内最も古くより栽培せる見好村大字三谷の森岡甚右衛門の栽培しつつある柑子は、元禄年間、同家の祖先の栽培せし
ものなりと、樹幹の太さ五尺三寸(約 1.6 ㍍)、高さ一丈七尺(5.15 ㍍)餘、(一本の樹で)年々百五十貫(563 ㎏)餘の収穫あり」[和歌山縣誌第二巻
42]。
明 暦 年 間
・静岡(駿州)のみかん産地は引佐郡三ヶ日町(元/西浜名村)である。みかん栽培の歴史は、明暦年間(1655-1657 年)から万治年間(1658-1660
(1655~1657)
年)にかけて庵原郡(現/富士川町)岩淵の常盤小左衛門が、紀州よりみかん(紀州小ミカン)の苗木を持ち帰ったのが静岡における蜜柑栽培の発
静岡のみかん
祥とされている。このことは明治四十五年四月、和歌山県農曾発行の[蜜柑の紀州]にも紹介されている。また、寛政年間(1789-1800 年)以前に
引佐郡三ヶ日町の鈴木忠八が「紀州みかん」の苗木を持ち帰るとも言われているが、これは口伝で確証はない[静岡県柑橘史、三ヶ日町史]によ
ると、三ヶ日町平山の人、山田弥右衛門(通称/弥太夫)が享保(1716-1735 年)の頃に、紀州那智(山)に参詣の折り、「紀州みかん」の苗木を持ち
帰ったのが三ヶ日みかんの最初とある。また、弥太夫については、大正十(1921)年刊行の[引佐郡誌]にも、産業の振興に力を入れた人であり、
蜜柑栽培による収益拡大を進め、「紀州みかん」の苗木を広く頒布した、とある。同氏によって永い年月にわたって穂木が分与され、三ヶ日みか
んの礎が築かれた。文政・天保(1818-1843 年)の頃には三ヶ日平山村を中心に大福寺村まで栽培が広まる。・(注)平山町には三ヶ日蜜柑の祖/
山田弥太夫の墓が残っている。三ヶ日町の「温州みかん」伝来は、寛政(1789-1800)年間に紀州から藤枝市に導入された[和歌山のかんきつ]と
ある。[静岡県引佐郡誌]には、「山田弥右衛門(通称/弥太夫)が西浜名村(現/三ヶ日町)における「紀州みかん」栽培の始祖であり、加藤権兵衛
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柑橘栽培の歴史
が「温州みかん」の元祖である」と記している。加藤は、天保(1830-1843)年間に三河国吉良地方(現/愛知県幡豆郡吉良町、三河湾に面している)
より苗木を購入し栽培する。これが「温州みかん」の最初とされている。三ヶ日町平山の加藤家には「温州みかん発祥地」としての標示板があり、
三ヶ日稲葉山には「紀州みかん」導入の山田弥右衛門、「温州みかん」導入の加藤権兵衛、また、大正時代に現/三ヶ日みかんの栽培技術を普
及した中川宗太郎ら三人の「謝恩柑橘頒徳碑」が建立されている。・藤枝市(江戸時代は東海道五十三次の宿場町)へのみかん伝来は、藤枝市
役所農林課によれば、「寛政(1789-1800)年間に「温州みかん」苗木が紀州から伝来、導入したのは、現/藤枝市東北部に領地を持つ旗本/石川
又四郎であり、また続いて、同地方の田中城主/本多氏が紀州から苗木を取り寄せ、領民に奨励した模様であるが栽培技術が伴わず、同地方に
おいては江戸時代には販売体制には至らず、農作物は米・茶が主産品であった。藤枝市のみかん栽培が本格化するのは、明治十五(1882)年
前後からで、先進地の紀州から「温州みかん」の改良種を適宜購入しながら増殖している。この時期、熱心だったのは子持坂村の杉山力蔵氏で
あった。同氏はみかん増殖につとめるとともに「夏みかん」を取り寄せる。また明治二十五(1892)年には、和歌山県那賀郡から「ネーブルオレン
ジ」を導入し、藤枝市のネーブル栽培の端緒を開いた[静岡県柑橘史]。・明治二十(1887)年代に入ると、「温州みかん」の栽培が全市に広がり、
焼津港から東京方面に出荷され、明治中期には同地方は「静岡みかん」の先進地となる[有田みかんデータベース 106]。
明暦 2(1656)年
・明暦二年、(紀州那賀郡安楽川荘)杉原村に於ける上々蜜柑百個で大豆三升四才余一匁一分[粉河町杉原/山本家文書/金剛峯寺文書]。・(注)
当時の安楽川荘杉原村で栽培した蜜柑の品種は、「紀州蜜柑」とみられる[著者]。
よ う しゆう
天和 4(1684)年
・この年、発刊の雍州府志(黒川道祐著)に、「京都に柚及び橘を古い時代から栽培した」とあり、橘については「倭俗総て柑類と称す。蜜柑・柑子
(江戸時代)
・白柑子・雲州橘・九年母・橙、等の雑品、 悉 く京師に在り」と述べている。この頃には俗間で、柑は柑橘類の代表語、学問上では橘は柑橘類の
ことごと
よ う しゆう
代表名であったと思われる[果樹園芸學上巻,33]。・(注)雍州府志は、山城国(現/京都府南部)に関する初の総合的・体系的な地誌。全 10 巻。
歴史家の黒川道祐によって天和 2(1682)年から貞享 3(1686)に記されたもの[Wikipedia/雍州府志]。
貞享 2(1685)年
・貞享2年( 1685 年) 11 月に有田生まれの快男児、紀伊国屋文左衛門が嵐の中の熊野灘/遠州灘を不眠不休で乗り切って江戸に行き、ミカン
紀伊国屋文左衛 で万両の大金を儲けたと伝承されている。当時の廻船は精々 200 から 300 石であり、江戸ではミカン不足で高値に売れ、当時の相場ミカン2籠
門
(30 ㎏)約1両にプレミアがついた云うから 1500 から 2000 両の売り上げが妥当である。そこから、船賃、乗組員、仕入れ代を差し引いても、一般
庶民には縁遠い大金が紀文の手元に残ったことは間違いない。紀文はそれを元手に、江戸深川で材木商を開業し、「紀文大尽」と称せられる一
大豪商になった。その活躍ぶりは講談、芝居、書本で語り継がれている[紀州有田みかんの起源と発達史 124]。
元禄 8(1695)年
・この年発刊の「本朝食鑑(人見元徳/著)」に、「橘を蜜柑、宇樹橘は臭橙なり。柑子はカムシと訓じ、現在のコウジ蜜柑である。その大果品として
(江戸時代)
遠州白和村の「白和柑子」をあげ、京師にて橘と称すものは柑子に似て金柑大の果実なり」と。これは現在の「タチバナ」を指したものである。九
年母は現在品と同じ、柚はユズ、橙はダイダイ、或いはカムスと訓じている。この頃から「橙」に「代々」を充てることが一般に普及し、正月の装飾
用に使用するようになった」としている[果樹園芸學上巻 33]。
ホウ キツ
く えん
元禄 10(1697)年 ・元禄 10 年、宮崎安貞が「農業全書」を著わし[国語大事典 21]、柑類として柑(クネンボ=九年母)・柚(ユ)・包橘(コウジ=柑子)・枸櫞(ブッシュカン)
(江戸時代)
・金橘(キンカン=金柑)・ジャガタラ・ジャンボ・スイ柑子(スイコウジ)・夏橘(ナツミカン)・蜜橘(ミカン)の名をあげているが、夏橘は現在の夏橙(ナツミ
カン)ではない。また、橘にミカンと仮名付し、柑橘にもミカンと仮名を付している。砧木には枳穀を使用すべしとしている。また、「果樹を修理する
果樹のせん定
げん ろ く
元禄年間
こと」について記述あり、当時すでに果樹のせん定が行われていたことがみられる[果樹園芸學上巻,33/園芸学全編 128]。
・和歌山特産の三宝柑は、徳川時代の元禄年間から和歌山城内に只 1 本あり、門外不出とされていた。例年、三方に載せて城主に献上した慣
- 13 -
柑橘栽培の歴史
(1688-1704)年
例があって、三方が三宝となったと云う[和歌山の果樹 27]。
宝永 3(1706)年
・この年、本草学者/井田昌胖、「柑橘伝」を著わし、初めて柑と橘を結合した「柑橘」という言葉を使用し、ミカン類 20 種について名称・味・産地な
柑橘
どを記す[国立国会図書館白井文庫所蔵/写本]。
宝永 5(1708)年
・この年、貝原益軒(寛永 7(1630)-正徳 4(1714)年)、「大和本草」を著わし、和・漢・蛮産 1,362 種の形状・効用などを記述した。巻之十「木之上」
(江戸時代)
の「菓木類」に、橘・金橘・柑・柚・橙・佛手柑・柿・梨・榲桲・桃など、 44 種をあげる。林檎については記述なし。また、巻之八,「艸之四」の「?類」
まるめろ
くさ
に、覆盆子(くさいちご)・苺・甜瓜など 9 種をあげる。橘について、「タチハナト訓ス、ミカンナリ。甘花ヲ花タチハナト古歌ニヨメリ、…」と。御所柿に
こ ねり
ついて、「大和ノ御所ノ邑ヨリ多出ツ、故ニ御処柿ト云ウ。是亦木練ノ佳品也」と記す。「橘はタチバナと訓ず。ミカンなり。その花を花タチバナと古
いうところ
歌に読めり。タチバナと云う物、カウシに似て小也、金橘より微か大也、是本草所謂油橘か未詳、皮薄く味ス(酸)し、上少くくぼめり。橘類の最下
品なり。タチバナは橘の本名なるを、此の果に名付けるは、あやまりなり。橘は本邦原産のタチバナにあらず。又、田道間守の橘はミカンなり。・
は りまのあたひお と え
さ みの むし ま
ろ
柑、俗に九年母と云う。播 磨 直 弟兄が唐より持ち還り、佐味虫麻呂の栽培した(続日本紀/神亀 3(726)年 11 月 10 日条)ものは九年母なり。橙を
シユ ラ ン
ク エン
コ ウ エン
や ま と ほん ざ う
代々、柚をユズ、朱欒はザボン、佛手柑は枸櫞、又は香櫞」としている[果樹園芸學上巻,33]。・(注)「大和本草」は、江戸中期の本草書。一六巻、
付録二巻、諸品図一巻。貝原益軒著。宝永五年成立。「本草綱目」所載のものを基礎に、中国・日本・西洋産を加え、計千三百六十二種の本草
を集成、分類し各品種の名称・特質などを解説する[国語大事典 21]。
宝永 7(1710)年
・大和絵師/土佐光成(1647-1710 年)が描いたと伝えられる紙本著色「和歌の橘図巻」。二巻(紀伊国屋文左衛門の一代記を描いたと思われる絵
(江戸時代)
巻〈上巻:縦 28.5 ㎝×横 718.5 ㎝,下巻: 23.5 ㎝× 722.5 ㎝〉)あり(制作年不明)。ミカンの収穫風景・荷積み・輸送・店頭風景などが緑青、金
泥、金砂子を多用し、あざやかに描かれており、当時の紀州ミカン事情を知る上で貴重な文化財[サントリー美術館所蔵]。平成 5(1993)年 8 月 31
日-10 月 3 日、「三百年祭記念西鶴展」に部分展示された[塚本学:日本の果物受容史 110]。
正徳 2(1712)年
・紀州有田郡内の蜜柑組、新たに3組の結成が認められる。有田ミカンの江戸送りの籠数はおよそ 35 万籠から 50 万籠に及ぶ。
(江戸時代)
・寺島良安、わが国最初の図説百科事典[和漢三才図会」百五巻(全文漢文)を著わし、八十六-九十一巻で果物を六つに分類して紹介。「五果
なつめ
類:李・杏・桃・栗・ 棗 を五果という」。桃の産地として「山城伏見・備前岡山・備後・紀州」を紹介。「山果類:梨・まるめろ・林檎・柿・石榴・橘・橙・
にたり か き
柚・仏柑・枇杷・桜桃・くるみ等。「夷果類:(茘枝・竜眼肉)」。「味果類:山椒。?(ら)果類:甜瓜・西瓜・葡萄」。「水果類:柿の項では五所柿・ 似 柿・
す き とおり
き ねり
つるし が き
こ
ろ がき
あわせ が き
伽羅柿一名透徹柿・円座柿・樹練柿・田舎柿・つつみ柿・ 白 柿・胡盧柿一名豆柿・串柿, 醂 柿・柿の蒂(しゃっくりを治す)・柿の皮等」を取り上げ
みん
おう き
る。・(注)「和漢三才図会」は図入り事典。全一〇五部。江戸中期の漢方医/寺島良安著。正徳二年成立。明(中国)の王圻撰「三才図会」にならう
図鑑で、和漢古今の万物を、天・地・人の三才に分け、絵図を付し漢文で解説したもの[国語大事典 21]。
も り かわ き よ り く
ほととぎす
正徳 5(1715)年
・この年亡くなった俳人/森川許六(1656-1715 年)が紀陽柑園の景勝を憧憬して詠んだ句に、「紀の国の/蜜柑に鳴くや/時 鳥」とある。・紀州ミカン
(江戸時代)
は正徳年間に領内から江戸へ三十五-五十万篭が移出されるまでに成長、ミカン畑の開墾進み、畑の石垣積みに尾張(現/愛知県西部)から工人
紀州の階段畑
(石垣職人)が來藩し、彼らは「オワリ」と呼ばれた[塚本学:日本の果物受容史 110]。
正徳 6(1716)年
・八月十三日、紀州藩主/徳川吉宗(1684-1751 年)が、江戸幕府八代将軍に就任[国語大事典]。・この頃、将軍や大奥の貴人が口にする果物
(江戸時代)
は、ナシ・カキ・ミカンの類で、スイカ・ウリ・モモ・リンゴ・スモモの類は見るだけとされ、食べることはタブー(忌事)となっていたという。しかし、吉宗
の生母/浄円寺は、これを無視し自分の好きなものを食し、特に熟した真桑瓜を好んだという[塚本学:日本の果物受容史 110]。
享保 4(1719)年
・徳川吉宗の将軍職襲位を賀す朝鮮通信使の製述官として随行した申維翰の「海游録」に、日本のミカンを称賛しており、この頃、相模(現/神奈
- 14 -
柑橘栽培の歴史
(江戸時代)
川県)・尾張(愛知県の西半分)・備後(広島県の東部)にミカンが栽培され、一般庶民の果物としてかなり出回っていたことが伺える。・十月十七日、
朝鮮通信使
藤沢から小田原への道、「村里の左右に見る橘・柚・柑の諸樹は、江戸に向けて行った時は実が枝いっぱいに累々として青く、食うに堪えなかっ
るいるい
い きよう い く い く
さわ
わ
み かん
た。今は色が黄色い真っ盛りで、異香郁々として人の裾を侵す。その味の爽やかにして甘い物は、倭では蜜柑と号す。樹陰を過ぎるごとに倭人
か
きようちゆう
かつ
か
のど
が数十顆がつらなる枝を折って轎 中 に投じてくれた。ただちに皮を披いて嚼むと、香ぐわしい果汁が、渇した喉をうるおし、とみに五官がやわら
ぎ、安期生(昔、長生した仙人)の火棗もまた羨ましくないほどである」。・十月二十四日「赤坂(現/愛知県東部、音羽町の地名。東海道五十三次の
や はぎ
し
し
宿駅)で昼食をとり、夕刻に岡崎(現/愛知県中央部、矢作川に沿う地名。旧城下町。東海道の宿駅)に着いた。路傍や市肆(まちの店)で蜜柑を売
かん
たけ か ご
たす
ぐ
る者、山丘の如し。文人や詩僧も来たりて歓を接する者は、必ず蜜柑を貯えた(入れた)竹籠をもって坐上に置く。そして飲を佐(助)ける具となす。
こうさく
いつきよう
青葉を交錯(蜜柑の青葉を入り交え)したのは、愛すべきである。余はこれを食べると、あるときは一 筐を尽くしてしまう。いわば詩が蜜柑を多く食
かわ
べさせるのかも知れない」。・十月二十五日、名護屋(名古屋)にて「余もまた、ときに渇きを覚え、蜜柑をむいては酒盃を佐けた」。・十一月十八日
ら んじゆく
「鞆浦(現/広島県福山市鞆の浦)にいたる。過ぐるところの風物は以前と変らぬが、橘・柚・柑がところどころに爛 熟 (よく熟れ)し、香気はなはだ美し
き
む
い。蜜柑は季節が遅れているとのことで、やや稀である。大柑で九年母と名づくるもの、またもっとも奇(珍しい)、皮を剥いで口に入れると芳鮮なる
につ く
はこ
こと、歯に溢れる。日供(毎日神前に捧げるそなえ物)として給せられるほかに、倭人が余が柑をはなはだ嗜むのを知って、しばしば筐を携えてき
せん
てこれを饋して(贈って)くれるものものがある」[海游録:姜在彦訳/塚本学:日本の果物受容史 110]。
い が ら し
享保 19(1734)年 ・四月二十四日、(元禄期の商人)/紀国屋文左衛門死す[和歌山縣の果樹 27 ・和歌山縣誌第三巻]。・(注)文左衛門は、元姓は五十嵐氏。名は
き ぶん
(江戸時代)
文吉。俳号は千山。略して「紀文」と呼ばれ「紀文大尽」とも言われ、紀州蜜柑を江戸送りした紀州湯浅(現/和歌山県有田郡湯浅町)の出身。文
し お ざけ
紀国屋文左衛門 左衛門二十代の頃、紀州みかんや塩鮭で富を築いた話が伝えられる。元禄年間には江戸八丁堀に住み、幕府の側用人/柳沢吉保や勘定奉行
没
の荻原重秀、老中の阿部正武らに賄賂を贈り接近したと言われる。上野寛永寺根本中堂の造営で巨利を得て、幕府御用達の材木商人となる
も、深川木場を火災で焼失、材木屋は廃業したとされる。晩年は浅草寺内で過ごしたのちに深川八幡に移り、宝井其角らの文化人とも交友。「千
山」の俳号を名乗った。享保十九年に死去したとされ、享年六十六。紀伊國屋は二代目/文左衛門が継いだが、凡庸であったために衰退してし
まった。和歌山県有田郡湯浅町には、松下幸之助が建てた「紀伊國屋文左衛門生誕の碑」がある[Wikipedia 紀国屋文左衛門]。・和歌山県海南
市下津町の国道の傍に、みかんを積んだ船出の港として「紀伊国屋文左衛門船出の碑」が建っている[編者]。
紀州蜜柑伝来記 ・十月、紀州有田郡中井原村(現/和歌山県有田郡有田川町中井原)の中井甚兵衛、「紀州蜜柑伝来記」を著わし、「紀州蜜柑は天正年間に肥後
に おくり
国八代(現/熊本県八代市)から導入した」と記す。紀州蜜柑の由記・蜜柑組株と問屋株・蜜柑税の税率・蜜柑組株と問屋株の増減・蜜柑の荷送な
どについて。蜜柑問屋の変遷については、天明八(1788)年、西村屋小市が書き足したものとされる。本書は江戸紀州藩御会所への報告書となっ
ている[原文及び解説/現代語訳原田政美校注/執筆:日本農書全集 46 巻所収,底本/和歌山県立図書館所蔵,写本]/[紀州蜜柑組由記/天理大
学付属天理図書館所蔵文書]。
・この年、幕令をうけて丹羽正伯を中心に諸国物産調査が開始される。安田健氏の調査によると、諸国産物帳(四十二ヵ所)のうち、柑橘類の記載
みちのく
がないのは陸奥南部藩/出羽庄内領・出羽米沢領・信州高遠領・飛騨など十例。残り三十二例のうち二十六ヵ所で蜜柑・みかん・みつかん、の産
ひ た ち
が報じられている。この中には常陸水戸藩(茨城県)・越中(富山県)・能登・加賀・越前福井領も含まれ、加賀では「たねなしみつかん」をはじめ、
お
き
五品種が記録されている。以下、伊豆・遠江懸河領(静岡県掛川市)・美濃・尾張・和泉岸和田・紀伊・隠岐・出雲・備前・備中・周防・長門・伊予越
い
き
も ろ あがた
智島・対馬・壱岐・筑前福岡領・肥前基□養父両郡・豊後と肥後の熊本領・肥後米良山領・日向諸 県 郡である[塚本学,日本の果物受容史 110]。
- 15 -
柑橘栽培の歴史
ぶ ん じ
元文 3(1738)年
・この年、「文字金銀」に改鋳されて通用することになったので、有田蜜柑について下記の通り、毎年上納することとなる。「江戸送り一籠につき七
(江戸時代)
厘五毛ずつ。近国送り一籠につき六厘ずつ」[日本の果物受容史 110]。
寛保 2(1742)年
・幕府は、魚・鳥・野菜・果物の初物の売出時期を制限。ビワ五月から、リンゴ七月から、ナシ八月から、ミカン九月からとなる[日本の果物受容史
110]。
宝暦 4(1754)年
・この年刊行の平瀬徹齋作「日本山海名物図会」に、大和御所柿・京木練柿・大和?・渋柿・美濃釣柿・紀伊国蜜柑・江戸四日市(現/東京都中央
(江戸時代)
区日本橋に近い旧魚河岸卸売市場の一部)の蜜柑市を挿絵(長谷川光信画)で紹介。本書は大坂で版行され、近畿周辺にくわしく、江戸での販
売の情景を得がたいので江戸四日市の蜜柑市の挿絵のみ。・大和御所柿「和州御所村より出す柿の極品なり。余国にも此種ひろまりて多し。御
所より出る物名物なる故に御所柿という」。・京木練柿「山城の国より出、これ柿の上品なり。其外諸国にも木練・近江・美濃・甲斐・信濃等におお
かきしぶ
し。九州の地柿の熟すること上方よりも早し。澁柿に上品あり。さわし柿となして甚だよき風味なり」。・大和?渋柿「小柿なり。臼にてつきて柿澁を
取て紙ざいくに用ゆ」。・美濃釣柿「しぶ柿のいまだ熟せぬうちに取って、皮をむき糸を附て竿にかけ、日にほす也(中略)。ほし上げて三寸ばかり
でる
こしら
の長さなる柿あり。其生(なま)の時の大さ思いやるべし。くし柿・ころ柿も皆しぶ柿を以て拵ゆる也。串柿は丹波よりおおく出。ころ柿は山城宇治
(現/京都府宇治市)名物也」。・紀伊国蜜柑「紀州・駿河・肥後八代よりでるみかん皆名物なり。中にも紀州はすぐれたり。皮あつくして其味よし。京
かご
/大坂の市中に売るもの多くは紀州(産)なり。山より出すに籠に入て風のあたらぬように認(したた)めて来る也。一籠百入・二百・三百あり。籠の大
ある
きさは何れも同じこと也。みかんの大きなるは数すくなし。其外、余国にも少々は有。加賀・越前等の雪国にはみかんの木なし」。・江戸四日市の
うる
でる
かご い り
蜜柑市「江戸の市中に売はおおく駿河より出。紀州みかんも大坂より舟廻しにて下る也。江戸四日市の広小路に籠入のみかん山のごとくに高く
う り かい
あきん ど
つみて毎日毎日売買の 商 人群集す。江戸は日本第一の都会にて繁昌の津なれば、京(京都)大坂にまさりて賑わえり」[日本山海名産名物図会/
国会図書館デジタルコレクション/日本の果物受容史 110]。
なます
宝暦 14(1764)年 ・博望子著「料理珍味集」に、蜜柑 鱠 (蜜柑の袋を裏返しにして 15 , 6 個を皿に盛り砂糖をふりかける)、源氏柿(こねり柿を2つに切り、うどん粉の
(江戸時代)
衣をつけ油で揚げた柿のてんぷら)、琉球蜜柑(ゆでたサツマイモを摺りつぶしミカンの形に丸め、青ノリをまぶし軸にはミカンの葉をつける)を集
録[日本の果物受容史 110]。
明和 2(1765)年
・七月三日、畿内及び諸国に大風雨、本国(紀州)の被害多。七月三日、畿内・近江・伊勢・紀伊・播磨・其余諸国に大風雨[続年代皇略記/和歌
諸国に大風雨
山河川国道事務所資料]。
宝暦-明和の頃
・鳴門蜜柑は、宝暦-明和の頃、淡路島洲本に、陶山興一右衛門長之と云う人で蜂須賀家の家臣として現/洲本町に住み、唐柑(九年母と云う)の
(1751-1771 年)
種子を蒔いて得た実生が起原である。陶山長之の母は備中の士/水谷太郞左衛門の娘で、水谷氏は陶山氏の実生の一枝を得て自己の庭前に
鳴門蜜柑
在った回青橙に高接ぎしたのは第 2 世原木と云う。鳴門蜜柑は、備中より渡来せりとの誤解は、この事に起因する。鳴門蜜柑の名称は、文政
(1818-1829 年)の末頃、蜂須賀家 14 代/齋昌侯によって命名された[淡路,鳴門蜜柑栽培録/果樹園芸学上巻 33]。
しや
明和 9(1772)年
・中国福建の人/謝文旦、鹿児島の阿久根に「文旦」をもたらす。この年の晩秋、1隻の清国の船が暴風雨を避けて薩摩藩の阿久津港に入港し
(江戸時代)
た。この時、番所の通詞(通訳)が親切に対応した。これに感謝して船長の謝文旦が南国の果物を贈った。贈られた果物の名前が分からなかった
ザボン
ので船長の名をとって「ぶんたん」と名付けた。実はこれは「ザボン」であった[日本の果物受容史 110]。・ 11 月 16 日、「安永」に改元[国語大事
典 21]。
安永初(1772)年 ・安永の初年(1772 年頃)、現/山口県長門市仙崎大日比において西本チョウが、海岸に漂着した果実の種を蒔き、これが「夏ミカン」の発祥であ
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柑橘栽培の歴史
夏ミカンの発祥
る[山口県の柑橘,中柴 憲/果樹農業発達史 14]。
・安永元年、中国の朱印船が難破し、(現/鹿児島県北西部、東シナ海に面する)阿久根倉津港に(寄港)において、手厚いもてなしに報いるため、
阿久根市の文旦 番所(の)通嗣(通訳)/原田喜左エ衛門に、朱楽白楽の珍果を贈った。その種を蒔いた中から品質の良い枝変わり(実生変異)が出来て、市内のあ
本田文旦
ちこちに植えられた。昭和 28 年、阿久根市が観光特産品として文旦を取上げ増殖 5 ヶ年計画をたて、県かんきつ育苗組合に育苗を依頼し、優
(江戸時代)
良苗木 17,000 本を市内一円に植栽させ、今日の生産量 1,000 ㌧の阿久根文旦の基礎をつくった[鹿児島県阿久根市明治百年史(昭和 43 年
こ
つ
た ぶんたん
刊),阿久根市/果樹農業発達史 14]。(阿久根市の文旦。品種名/本田文旦)。(注)別名、「阿久根文旦」「小藤太文旦」とも呼ばれる。「本田文旦」の
来歴: 1772 年(安永元年) 3 月、春一番の強風が吹く日、広東と長崎の間を往復する貿易船が、帆柱等を損傷して倉津に標着しようとした。番
所の役人は入港を拒否しようとしたが、中国船の懇願により、番所頭の田中右門は一時の避難として黙認した。 10 日足らずの内に、船の修理、
食料等の調達も行われ、再び長崎に向け出港した。出港に際し、船長の謝文旦は、台湾南部に立寄った際に買い求めていた珍果 2 個を唐通
詞(通訳)の原田喜右衛門に渡した。番所でその果実を試食し、各人が種子を持ち帰り播種した。番所頭の波留の田中右門の庭先にも 1 本が残
り結実した。波留の百姓、迫門の名頭助八の庭先にも田中右門から伝えられたと思われる 1 本の文旦があり、一人息子の次郎八の自慢であっ
た。この次郎八の友達に、近所の郷士、本田孫之丞がいた。孫之丞は自分の家にも文旦が欲しいと思い、次郎八のところで食べた文旦の種子を
持ち帰ろうとした。それを見た次郎八が、父の育てた苗の方がよいといって、父に相談し苗木を譲った(これも実生と思われる)。 10 年余り後(明
治初年)、開花・結実し、付近の評判になった。これが「本田文旦」の原木である。西南の役後、接ぎ木繁植されるようになり、「本田文旦」は栄養
系で増えていった[(公財)中央果実協会ホームページ/文旦]。
すみし げ
に し その ぎ
安永 10(1781)年 ・大村藩主/大村純鎮が、西彼杵郡伊木力村(現/長崎県諌早市、旧多良見町)の田中右衛門・田中村右衛門・中道継右衛門に温州ミカンの苗木
(江戸時代)
を与え、自家用として栽培させる。伊木力ミカンの始まりと伝えられる。その後、安政年間(1854-1860 年)から本格的に栽培される[日本の果物受
容史 110]。
天明 2(1782)年
お あま
・この頃、小天ミカン産地/現熊本県玉名市(旧/天水町小天)に、温州ミカンが植えられたと伝えられる[日本の果物受容史 110]。
(江戸時代)
天明 6(1786)年
・林香寺(東光寺)の住職/厳城(紀州出身)が、駿河國庵原郡由比(現/静岡県庵原郡由比町)に紀州ミカンの苗木 500 本を導入。当産地の始まりと
(江戸時代)
伝えられる。厳城は、徳川家康にサンショウを献上したことでも知られる。慶長 14(1609)年、駿府に隠居していた家康公が、由比山での鷹狩の帰
途、この林香寺に立ち寄り冷水を所望したところ、当時の住職/天倫和尚が湯呑の冷水に山椒を浮かべて出したという。その香りに喜んだ家康公
は、和尚に山椒の献上を命じ、十三石余の知行と寺中山林・竹林の諸役御免の朱印状を与えたといわれている。それ以降、明治 三(1870)年ま
で山椒の実は駿府と江戸に献上され続け、林香寺は大いに栄えて近隣の名刹となったという[同寺伝]。
天明 9(1789)年
・この年、三百諸候がその采地の名品を選んで将軍に献上した物に、カキ・ミカン・ナシなどがみられる。【名古屋藩】甘干柿・美濃柿(9.10 月 3
(江戸時代)
度)・水菓子(10 月)、枝柿(12 月)。【和歌山藩】大和柿・水菓子・蜜柑(10 月)。【水戸藩】水菓子(10 月)。【松江藩】眞梨子,大庭梨子(8 月)。【川越
文 字 不 明
藩】熟瓜(マクワウリ,7 月)・梨子(8 月)・栗(9 月)・枝柿(12 月)。【会津藩】□□□・松尾梨子・胡桃(10 月)。【鹿児島藩】櫻島蜜柑(寒中)。【熊本藩】
銀杏(2 月)・八代蜜柑(11 月)。【広島藩】串柿(12 月)。【久留米藩】筑後蜜柑・九年母(寒中)。【豊後臼杵藩】蜜柑(寒中)。【浜松藩】枝柿(2 月)・白
輪柑子(11 月)[寛政元年版、大成武鑑]。・(注)水菓子が柿・蜜柑と並んで出ているのは梨をさしているのかもしれない[日本の果物受容史 110]。
・徳島県のみかんの起源は、[徳島の園芸/昭和 41 年 11 月発行]によると、現/徳島県勝浦郡勝浦町坂本字岩本の宮田辰次が寛政年間(1789 年
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柑橘栽培の歴史
~ 1800 年)に柑子の苗木を植え付けたのに始まり、その後同氏は、文政十一(1828)年、紀州より温州みかんの接ぎ穂を取得し、自家の柑子に
接木して繁殖す。村人これを倣って漸次普及したのが徳島県のみかん栽培のはじまりとなる。徳島産温州みかんが、市場流通目指して本格的に
栽培されるようになったのは明治二十八年頃から大正十年頃にかけてである。勝浦・園瀬・阿南・徳島・小松島・那賀・諸川沿岸地域が産地であ
る[徳島の果樹]。・天明 9 年 1 月 25 日、寛政元(1789)年に改元[国語大事典 21]。
・長崎県のみかん起源、伊木力温州の発祥地。「八代小ミカン」の商業的栽培記録は見当たらない。「温州ミカン」については、天明年間(1780 年
かの ぎ ぐ ん
頃)に大村藩主/大村純鎮が、薩摩の長島ミカン(東町の温州みかん)を彼杵郡伊木力村(現/彼杵郡多良見町)の田中唯右衛門、田中林衛門、
中道継衛門の三氏に栽培させたのが始まりとなっている。この伊木力地方から良質の温州みかんが育成されたことにより、苗木が全国に出荷さ
伊木力系温州
れるようになり、これが「伊木力系温州」と言われている。明治九(1876)年には城下町ではミカンが売られていた。また、明治二十(1887)年頃には
伊木力村ではミカンを植えていない農家はないと言う程に産地が拡大し、現在も同地方は長崎県における主産地である[長崎県農林部農産園
芸課,長崎の柑橘]。
なつだいだい
寛政 4(1792)年
・現/山口県青海島の三輪吉五郎氏が海岸で一種の蜜柑を拾い、その種子を蒔いて栽植したのが夏 橙 (夏蜜柑・夏代)と云われる[北神貢著,最
(江戸時代)
新柑橘栽培書,明治 36 年刊]。もう一つは文化年(1804-1817)間の初め頃、山口県萩江村の樽崎十郎兵衛氏が大津郡大日比郷の知人より一種
なつだいだい
の蜜柑を得て種を播いたのが夏 橙 になったと云う。大日比郷には夏橙の親と云うものは古くから在ったとされ、何れにしても 19 世紀初頭に山
口県に現れたとみられる[果樹園芸学上巻 33]。
寛政 5(1793)年
・温州ミカンが土佐(高知)から伊予国宇和郡立間村(現/宇和島市,旧吉田町)に導入される。愛媛ミカン栽培の発祥地[愛媛県果樹園芸史]。・
(江戸時代)
(注)吉田町の(平成 5 年の)ミカン生産量は 3 万 3,800 トン(全国の 3.3 %)で、同県八幡浜市・静岡県三ヶ日町に次いで全国第 3 位を誇る。平成
六(1994)年の愛媛県の生産量は 19 万トン(全国の 15.2 %)で、府県では日本一[農林統計]。
き た ま え ぶね
寛政 8(1796)年
・(前略)寛政八年、北前船(江戸時代後期に大阪と北海道を結ぶ商船・紀州ミカンの江戸送りにも使われた)として、高田屋嘉兵衛(現/兵庫県津
(江戸時代)
名郡五色町出身)が千五百石船(225 屯)を建造している。その建造費は、当時で二千両(現在で 2 億~ 2 億 5 千万円?)と(推定)されている[和
べん ざいぶね
ひ が き かいせん
歌山のかんきつ 122]。・(注)現在、弁財船と呼ばれる形式の「菱垣廻船」は一隻も残っていないことから、大阪市港湾局と(社)大阪振興協会が当
時の材料、工法により、実物大の千石船の復元を全国から部材と船大工を集めて(平成 11 年 3 月に)約 10 億円をかけて復元し、(中略)現在は
大阪市住之江区南港北二丁目の「なにわの海の時空間」に展示されている。この千石船(全長約 30 m、幅 7.4 m、積載 150 屯)は、国立国会図
書館所蔵の文化(1804-1817)年間の千石船の図面を忠実に復元したもの(という)[紀州有田みかんの起源と発達史 124]・[有田市みかん資料館
所蔵]。
寛政 9(1797)年
・寛政九年、木村桂庵が「橘品種考」を著わす。同年夏、「橘品」、冬「素封論」、寛政十年正月には「橘品類考後論」と相次いで京大坂で出版さ
(江戸時代)
れるに至ってその極に達し、当時の事情をよく今日に伝えている。「橘品類考」の駿河黄實橘の説明に、「スルガハ葉至テウスク、葉色モウスクシ
する が
ち り めん は
べに み ち り めん きつ
き
み きつ
み
テウス茶色ナリ。又紅實アリ、縮緬葉アリ」と、「紅實縮緬橘」は、實ハ紅ニシテ葉チヂミタリ、又数品アリ、白生入テリ」と記す[同品種考/110]。
寛政 10(1798)年 ・この年完成した本居宣長の著作「古事記伝」二十五に、昔の橘は今の蜜柑説と、昔の橘、即今の橘で、蜜柑は後来説との二説について考察を
(江戸時代)
加え、いずれとも決めがたいとしている[同古事記伝]。・(注)古事記伝は、古事記の注釈書。四八巻。本居宣長著。寛政 10 年完成。寛政 2-文政
なおびのみたま
5 年刊。巻一に古道を述べた「直 毘 霊」などの総論、巻二に序文の注釈と系図、巻三~四十四に本文の注釈、巻四十五以下に索引を収める[国
語大事典 21]。
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柑橘栽培の歴史
寛政 13(1801)年 ・紀州藩伊勢松坂の国学者/本居宣長(1730-1801 年=享保 15-享和 1)が寛政 5(1793)年に起稿し、享和元(1801)年に没するまで書き続けた『玉
(江戸時代)
勝間』(知的な随筆)に、「古よりも後世のまされること、万の物にも事にもおほ(多)し。其一つをいはむに、いにしへは橘をならびなき物にしてめで
つるを、近き世には、「みかん」といふ物ありて此の「みかん」にくらぶれば橘は数にもあらずけおされた。その外、かうじ(柑子)・ゆ(柚)・くねんぼ(九
年母)・だいだい(橙)などのたぐひおほき中に、蜜柑ぞ味ことにすぐれて、中にも橘よく似てことなくまされる物なり。此一つにておしはかるべし」。
徳島の特産スダチについて、阿波国(徳島)大麻比古神社社家の古文書に、「大麻山の見える処でないと生育しない」と。「一、すだち、柚に似て
た た ず
柚よりちいさき者にて御座候,大麻山の見ゆる処ならでハ生ヒ立不申趣古老申伝御座候」[本居宣長著/玉勝間 14 巻 59]。
・(紀州より)寛政年間に温州みかん苗木を静岡(駿河)藤枝に移出する[和歌山縣の果樹 27]。
享和 3(1803)年
・本草学者/小野蘭山(1729-1810)は、日本本草学の集大成たる「本草綱目啓蒙」四十八巻を著わし[享和 3 年刊]、二十五-三十巻で果物をとりあ
(江戸時代)
げる。当時、最も多く食べられていたカキについて、「品類多シ。和産二百余種アリ」と記し、大和ガキ・蜂谷ガキ・祇園坊など主要な品種につい
本草綱目啓蒙
て解説。また、ナシの項で、越後新潟産の牛面ナシ(形が大きいため名付ける)・丹後田辺の一升ナシ(一顆に水一升あり)・斤九ナシ(顆の重さ一
はち や
ぎ おん ぼ う
か
ご めん
斤九両)など、珍しいナシも紹介。橘に、「カクハ(書紀)・ムカシグサ(和名抄)にカウジの和名を付し、今タチバナと呼て庭際に栽え、或いは春盤に
用いるものは、別に一種にして、古呼ぶ所のタチバナに非ず」。当時、「タチバナと呼んで観賞用に栽培したのは金柑より少し大果なり」、としてい
るから原生品のタチバナである[果樹園芸学上巻 33]。
・「柑 ミカン一名/洞庭長者・平蔕・穣侯・金嚢・瑞金奴・瑞聖奴・金輪藏・洞庭霜・甘心氏・木密・水晶毬・金苞青華・朱実・楚梅。柑ハミカン類ノ総
名ナリ。品類多シ。ミナ暖地ノ産ニシテ寒国ニハ育シガタシ。紀州ノ産ヲ上品トス。ソノ献上ノ柑ハ有田ノ産ナリ。京師ニテハ好柑ヲ何レニテモ皆
いつはり
まこと
あ じ あまく
たね
紀伊国ミカント 偽 ヨベドモ、真ノ紀伊国ミカンハ有田ノ産ノミニシテ、即、集解ノ乳柑ナリ(中略)。味 甘 シテ酸味少シ。核少ク全ク核ナキモノモア
リ。凡ソ上品ノ柑橘ハ核ナシ。核多キモノハ下品ナリ」。紀州ミカンの評価は定着していたようである。本書は約1万語にのぼる方言を収集しており
方言研究の上でも貴重な資料となっている[日本の果物受容史 110]。
・橙にはクネンボの和名と香橙の漢名を付し、「橙に香橙、臭橙、回青橙の分あり、本條は香橙をさす」とし、現在の臭橙・回青橙を一括してダイ
ダイとする。柚には、ユ(和名抄)・ユ、ユズ(筑前=福岡・雲州=出雲)、イズ(雲州=出雲)、ホンユ(阿州=徳島)、モイユ(阿州=徳島)、カウトウ(清=中
国)と、それぞれの地方での呼び名をあげている[塚本学:日本の果物受容史 110]。
文化年間
・長州(現/山口県)萩江村の樽崎十郎兵衛氏が、大津郡大日比郷(現/長門市仙崎町大日比)の知人から一種の蜜柑を得て、その種を蒔いたのが
(1804-1817 年)
夏 橙 になったと云う。大日比郷には夏橙の親とも云われる木が古くから在ったと云う[北神貢著,最新柑橘栽培書,明治 36 年刊/果樹園芸学上
(江戸時代)
巻 33]。
なつだいだい
はじかみ
・和歌山県に於ける「金柑」は、文化年間に海部郡 椒 村(現/有田市初島町)の仲国某が、攝津國池田(荘)(現/大阪府池田市)から苗木を導入し
たのが最初で、これから森本金蔵によって日高郡印南町に苗木四十本伝えられ、この地方の金柑は明治十(1877)年頃一万三千本、栽培者三
百余名に達したという[和歌山の柑橘 120]。
文化 15(1818)年 ・紀州の人/小原桃洞の門下生らが、紀州産の柑橘類五十餘種を集めて、その名称を和漢対照して門人に示したものを、村瀬敬之が、これを圖
カ
(江戸時代)
ム
シ
あ
ま
づ
み
いまの な
説して「南海包譜(文化 15 年編)」として 3 巻に纏めた。上巻に、[柑]和名/加牟之・阿萬豆実・ 今 名/蜜柑。[乳柑]一名/眞柑・御柑・俗称/左田蜜
柑・又/紀州蜜柑。[無核柑]俗称/無核蜜柑。[朱柑]一名/支柑・猪柑・俗称/紅蜜柑。[木柑]一名/乾柑・俗称/量蜜柑(ハカリミカン)。[饅頭柑]俗称/
ゴ ダイカン
朝鮮蜜柑・又は徳利蜜柑。[金柑]一名/金橘。[山橘]俗称/亦云う金柑。[牛奶柑]一名/牛奶金柑・金棗・俗称/長金柑・又は棗金柑・又は唐金柑。
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柑橘栽培の歴史
[山金柑]一名/山金橘・金豆・羊矢橘・俗称/金豆柑・又は粒金柑。[生枝柑]俗称/唐柚。[海紅柑]俗称/
獅頭柚]俗称/唐
九年甫。[佛手柑]一名/佛指香櫞・佛爪香圓・佛手香櫞。[枸櫞]一名/香櫞・鉤櫞子・香圓・香圓橘・圓佛手柑。[柚柑](ユコウ)漢名不詳。[交跡蜜
柑](カウチミカン)・疑是臺湾府志所載番柑・直云う此の説非ず。中巻に、[橘]和名/太知波奈(タチハナ)・俗称/加宇之。[黄橘]俗称/白輸柑子・又
は白柑子。[早黄橘]一名/早紅橘・俗称/早生柑子・又は金柑子。[凍橘]俗称/晩柑子。[穿心橘]一名/歓條穿橘・女児橘・穿橘・匾橘・俗称/太平柑
子。[沙橘]一名/塗橘・俗称/闋。[饅頭橘]本無比名用饅頭橘之例、仮名。[朱橘]一名染血・鱔血塘南・俗称/紅柑子・又は赤柑子。[大柑子]朱橘
の一種、漢名未考。[廬橘]一名/櫨橘・壺橘・夏橘・給客橘・俗称/夏蜜柑・又は春蜜柑・雲州橘。[包橘]今春盤所備之柑子(コウジ)。[茘枝橘]俗称
/痂柑子(カサコウジ)。[猴橘]一名/橘花・和名/太知波奈・多知孛。[枸橘]一名/臭橘・和名/加良多知(カラタチ)・加良立花。[唐蜜柑]一名/高麗橘・
漢名未考・王世懋果疏朱橘の一種、紅有りて大者恐是也。[李夫人橘]一名/雲州蜜柑・實不恵蜜柑・金九年母・漢名未考。[温州橘]漢名未考。
[宇樹橘]漢名未考。下巻[香橙]一名/金橙・橙子・和名/阿部多知波奈・俗称/九年母。[回青橙]俗称/代々。[臭橙]一名/蠏橙・和名/加布知・俗称/
加布須。[水橙]俗称/長九年甫。[柚]一名/香柑・和名/柚。[雷柚]一名/鐳柚・俗称/
邏柚]俗称/花柚。[饅頭柚]此亦用饅
頭柑之例仮名・俗称/巾着柚。[朝鮮柚]漢名未考。本草圖経書所謂襄唐問柚、色青黄而小實者恐是也。[大福]一名/大福柚、漢名未考。[朱欒]
一名/櫰椵・臭柚・和名/柚橘・俗称/左無須(サムス)・又は赤座凡無(アカザボン)。[紅欒]俗称/座孛無(ザボン)・又は座無孛(ザンボ)・座無孛宇(ザ
ンボウ)。[文旦]一名/文弾・文蚤・京橘・俗称/唐九年甫・内紫。[蜜禫]一名/蜜禫・俗称/琉球九年甫・又は阿蘭陀九年母。[宣母子]一名/黎檬子・
宣檬子・里木子・宣母果・薬果・宣濛子・俗称/里萬牟(リマン)・須陀知(スダチ)。[黄淡子]俗称/唐枳穀。[枳實]和漢通名。[直云]。以上の外、南海
包譜の後に本州より出るもの。[緣橘]俗称/青蜜柑。[福橘]一名/貢橘・漢蜜柑・福州蜜柑。[無核橘]俗称/核無柑子。[小懼橘]一名/黄塘南・俗称/
この よ
鈴生(スズナリ)。[匾柑]俗称/大平蜜柑。[琉球琳]漢名未考。[菊蜜柑]漢名未考。無核香橙等あり、詳に予が南海包譜補遺に辨す。此餘暖地の
なお
諸州を探索せば猶多かるべし[南海包譜,果樹園芸学上巻 33]。・(注)紀州にはこの時代に、これだけの柑橘が在ったことを物語る[編者]。
ひろ し げ
文化 8(1811)年
・この年発刊の「紀伊国名所図絵」に、「蜜柑山畑之図」あり。この絵をもとに、三代目広重が(明治 101877)発刊の「大日本物産図会」に、「蜜柑山
(江戸時代)
畑之図」を描いている[日本の果物受容史 110]。
文化 13(1816)年 ・文化十三-明治五年成立の地誌[阿淡産志]に、スダチのことが「宜母子」の名で紹介される[日本の果物受容史 110]。
(江戸時代)
つね ま さ
そ う も く そだて ぐ さ
文化 15(1818)年 ・岩崎灌園(本名/常正)(1786-1842 ,天明 6 ~天保 13 )、この年発刊の「草木 育 種」に、現在の接ぎ木法とほとんど変わらない技術が挿絵つきで
文政元(1818)年 紹介。また、ナシについて「甲斐・相模・下総等」にて多作、砂まぢりたる真土よし」と、記述するなど産地状況を紹介[日本の果物受容史 110]。
温州蜜柑
・文政元年、村瀬敬之、「南海包譜」撰述、この頃、温州蜜柑(の名称)が初めてあらわれる[南海包譜/和歌山のかんきつ]。
文政 3(1820)年
・「日向夏」は文政三(1820)年に現/宮崎市の真方安太郎の邸内で偶発実生として自生しているのが発見された。発見時には酸味が強く、食べら
日向夏
れることはなかったが、その後に広く栽培され始めた[Wikipedia]。・日向夏蜜柑は、文政年間に現/宮崎県宮崎郡赤江町字曾井の眞方安太郎氏
の宅地で偶発実生として発見された。この原木は枯死したが、同村の高妻仙平氏が原木の枝を接木したものが九十年以上の樹齢を保ち、第二
世原木として昭和十一(1936)年に天然記念物に指定された。現在普及している日向夏蜜柑は、第二世原木から分かれたものである[果樹園芸学
上巻 33]。
文政 5(1822)年
ねい は
・この年、中国の商船が、駿府(現/静岡県)海岸に漂着し、「寧波金柑」を伝える[日本の果物受容史 110]。
(江戸時代)
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柑橘栽培の歴史
いえ も ち
文政 6(1823)年
・一月十三日付け幕府(将軍徳川家茂)蝕達「神奈川・長崎・箱館の三港を近々に開港するに付き、この場所へ出稼ぎ、または移住して勝手に商
(江戸時代)
売致してよいから、希望する者はその港の役人へ引き合わすように致すこと」[幕府法令下]。
・シーボルト再度来日、安政 6(1859)年にはオランダ商事会社の顧問として再度来日。鳴滝塾を開いて診療と医学の教授にあたり、伊東玄朴・高
良斎・高野長英らを育てた。また、日本の動植物を研究。著に「日本」「日本動物志」「日本植物志」がある(1796-1866 年)[国語大事典 21 。
と おとうみのくに
しん こ く
文政 9(1826)年
・遠 江 国 (静岡県西部=遠州)三保村の名主/柴田権左衛門が、漂着した清国寧波の船/得泰号の船長/楊嗣元から、数粒の珍しいキンカンの実を
(江戸時代)
もらう。この種をまいて育成したのがネイハキンカン(寧波金柑)と云う。現在、日本で主に栽培されているのは、このネイハキンカンとナガキンカン
(長金柑)の 2 品種である[日本の果物受容史 110]。
文政 10(1827)年 ・この年亡くなった小林一茶(1763-1827 年)の、ミカンの句に「上々の/みかん一山/五文かな」[日本の果物受容史 110]。・(注)一文は一貫の千分
の一[国語大事典]。一山 5 文は今の何円かは知らず[編者]。
天保 5(1834)年
・武蔵国埼玉郡千疋の郷(現/埼玉県越谷市千疋)で、槍術の指南をしていたという侍が江戸日本橋近くの葺屋町(現/中央区日本橋人形町3丁
(江戸時代)
目)に「水菓子安うり処」の看板を掲げ、果物と蔬菜類を商う店舗を構える。出身地の名前をとって千疋屋弁蔵と名乗る。高級果物専門店「千疋
屋」の始まり。元治元(1864)年、 2 代目/文三が店を継ぐ[日本の果物受容史 110]。
あ わの く に けんぶん き
この く に
天保 6(1835)年
・国学者で神官の永井精古による「阿波国見聞記」に、「此国に、酢だちという果あり、他の国にあるなし。吾大麻神の山見ゆる所ならではおいざ
(江戸時代)
るよしいひ伝えたり。されど讃岐などにも希にあるなり」と。(注)永井精古は、代々大麻比古神社(現/徳島県鳴門市大麻町)に奉仕する神官の家に
生まれ、京都・伊勢内宮等で学び、長じて家業を継ぐ[日本の果物受容史 110]。
み かん ぎん ね ひかえ
ね
くに もと
天保 8(1837)年
・十月、蜜柑銀直 扣 (控)「書き付けを以てお願い申し上げ候。一、当年、上方表(京阪地方)の金相場、下げ直にて御迷惑なされ候趣き、御国許
(江戸時代)
より申し来たり候に付き、当地蜜柑代、定銀相直候よう、度々御談これあり、依りて私共仲間一同が寄り合い、談合仕り候ところ、去年中より諸国
銭相場下落
の米価が高値、殊に新銭が出来候故哉、銭相場は追々下落仕り、売り先は棒手振(行商)に至るまで必至と難渋仕り居候間、何分、行き届き兼ね
じようぎん そ う ね
かな
お と り なし
ぼう て ぶり
きもいり
なお ま た
候に付き、この段貴殿方の御執成を以て荷主代/御肝煎中様え再応(再度)お願い下され候ところ、お聞き済み無く御座候に付き、尚亦、私共ま
く たつ
お きも いり
かり出で、その段、口達(口頭)を以てお願い申し上げ候得ば、御肝煎中様方、聞き仰せなされば、先だってより申す談通り、当年、上方表の金相
ね さが
さ げ ふだ
場は只今までに思わぬ値下りにて、国元より申し来たり候下札、当時六十匁乃至に罷り在り候。差候ては国元の難渋は如何ばかりに候哉の旨、
しよう ふ く つかまつ
種々ご理解の趣き御尤もと承知候えども、兎に角、昨年より疲労故、一同承伏 仕 らず候。尤も、当地の銭相場は当時の安値にても御座無く、
とて
すえ お
と り なし
上方の金相場迚も御同様の義に御座候間、各別の思し召しを以て当年のところ、これまで通り居置き下され候よう御執成願い上げ奉り候。尚亦、
来たる年秋に至り、引き続き金相場下げ値に御座候はば、その節、違背無く定銀相値に申し候べく。何分この段、お聞き済みなさり下され候よう
ひとえ
とり な
偏 にお執成し願い上げ候、以上。天保八年酉十月、(上方)蜜柑仲買年番/鈴屋組」[金屋町吉原/高垣八三氏所蔵文書/県史近世史料三]。
おお す も う
天保 11(1840)年 ・天保十一年の「諸国産物大数望」の果物と産地に、駿河のミカン・飛騨の搗栗・安芸の西条柿・紀伊のミカン・美濃つるし柿・丹波のクリ・山城宇
(江戸時代)
治のころ柿・豊後のウメ、など全国に銘産品として知られる[同書/110]。
・早生温州の青江早生は、大分県北海郡青江村に在った。同村の川野氏の所有で、明治二十六-二十七年頃から枝を分譲して繁殖を計った。
田中長三郎博士の調査発表(1932 年)によれば、同村にはこの他に 90 年以上の樹齢(天保 11 年以前)の早生温州がありと云う。青江早生の原
木は、大分県北海郡青江町倉冨にあり、俗称/導師早生と云う。即ち青江早生なり[果樹園芸学上巻 33]。
はつ も の
天保 12(1841)年 ・この年出た幕府通達「初物その他無益の売物、相仕込みの儀、相ならず」と禁令出す[幕府法令集]。
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柑橘栽培の歴史
(江戸時代)
てらす
天保 13(1842)年 ・平戸藩主/松浦 曜 が、長崎に赴いた折、ブンタンを献上される。この種子から生じた偶発実生が「平戸文旦」といわれる[日本の果物受容史
(江戸時代)
110]。
と う けい
・天保十三年に発行された[南海包譜]は、紀州の本草学者/小原桃泂の門生/山中謙斉等が紀州に関する柑橘五十余種を集めて南龍公(初代
紀州藩主/徳川頼宣)に仕えた医師/板坂十斉の堂に陳列、観覧に供したものを村背敬三が図解して説明を加えたものである。原書は和中金助
氏が所蔵している[和歌山の柑橘]。・(注)その中に、「温州蜜柑」の名が記され、弘化五(1848)年の岡村尚兼氏の「桂園橘譜」に紹介されている
[弘化五年/桂園橘譜参照]。
て い じようざ つ き
天保 14(1843)年 ・この年刊行された伊勢貞丈(1717-84)著「貞丈雑記」に、「菓子の事は、いにしへ菓子といふは、今のむし菓子・干菓子の類をいふにあらず。多く
コ ネ リ ガキ
(江戸時代)
は、くだ物を菓子と云也。栗・柿・梨子・橘・柑子・じゆくし(熟柿)・木練柿などの類」と記す。・(注)本書は、貞丈が子孫のために、宝暦十三(1763)
年から死に至る天明四(1784)年まで書き続けた雑記を編集したもので、没後 60 年を経て刊行された[日本の果物受容史 110]。
天保 15(1844)年 ・この年初春、大蔵永常、「広益国産論」を著わし、国の特産品になりうる品々として果物ではミカン・ブドウ・カキ・ナシをあげ、台木や接木方法を
あきな
(江戸時代)
図解して解説。「みかんハ紀州ニて多く作りて三都(江戸・京都・大坂)に出して 商 ふ事一ヶ年ニ百五十万籠といへり。是は暖国の産物也」。「ぶど
うハ甲州より作りて多く江戸へ出して商ふ事おびたゞし。わづかの屋敷内ニつくりても相応に益となるものなり」。「かきハよく作り出せバ其所の名
産ともなる也。烏柿(ひかき=渋柿の皮をむいて干したもの=干し柿)にあらざれバ利を得るには至らず」。「ナシは美濃の国にて作り出して諸国に
し も うさの く に
ひさぐ事おびたゞし。多く作れバ所の名産ともなる也。近来江戸在にて作りいだし利を得る事少なからず」。「いつの頃よりか此苗を下 総 国(千葉
しようがん
県と一部茨城県南部)古河(現/茨城県古河市)に植広め、作りて江戸へ出せしより古河梨とて賞翫(珍重)せしを、寛政前後に品川河崎の在に植
ミズクァ シ
広め、所の益となる事又夥し。かやうなる水菓子ハ、都会に近き所にあらざれハ売口すくなくして、大益とハなるべからず」と[日本の果物受容史
110]。
弘化 3(1846)年
・九月二十二日、紀州家は紀州藩産のミカン荷揚場として、江戸神田川稲荷河岸に八十四坪の地所を拝借[東京都中央区年表/110]。
(江戸時代)
・現/愛知県知多郡南知多町内海の大岩金十郎、紀州から温州ミカンの苗木を導入、内海ミカンの基礎を築く。庄屋を務める金十郎は、貧しい農
み かんくるい
村を救うべくミカン栽培に取り組むが、村人からは蜜柑 狂 庄屋と嘲笑され、迫害を受けながら栽培に専念。金十郎の苦闘の取り組みは澤田ふじ
子によって小説化された[蜜柑庄屋・金十郎/日本の果物受容史 110]。
弘化 5(1848)年
・この年、岡村尚兼の著作[挂園橘譜]は二巻で着色圖譜。上巻に、[橘]カウシ(早黄橘・一名/早紅橘)・白輸柑子(黄橘)一種カウシ(包橘)・紅カウ
嘉永元年
シ一名/アカカウシ・テルコウ(紅蜜柑)・唐蜜柑(朱橘の一種、和名/ベニミカン)・夏蜜柑(廬橙、一名/夏橘)・茘枝橘・青蜜柑(青橘、一名/緑橘)・温
(江戸時代)
州橘・紀伊国蜜柑(大柑子、乳柑の一種)・八代蜜柑(沙橘)・一種蜜柑(饅頭橘)・一種蜜柑(木柑の類)・アヘタチバナ(橙、九年母)・ダイダイ(一種
の橙子)・ユ(柚、柚子)、ユの中に花ユ及びトコユ。冒頭の橘は圖及び説明からみると、我が国原生のタチバナで、雲州橘は今の温州蜜柑であ
り
ふ じん
る。筑後柳川(現/福岡市柳川)に温州橘のあること、土地の人は之を李夫人と呼ぶとしている。下巻に、
の別種)・唐九年母
(一名/ザボン・ザンボ、即ち柚
カフチ(枸櫞、圓佛手柑)・佛手柑(一名/佛指香櫞、佛爪香櫞)・柚柑・金柑(ヒメタチバナ)・カラタチ(枳實)
・一種カラタチ。とある。唐九年母は文旦の一種で、当時九州地方には文旦の実生多く、果肉に紫・白の別あることを記している。 4 種の金柑を
図説しているが、単に金柑とするものは、丸金柑で、金橘は金豆、牛奶金柑は長金柑、大實金柑としているのは金柑とは異なる雑柑で、黄色の
夏橙大の大果品である[岡村尚兼著/挂園橘譜/果樹園芸学上巻 33]。
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柑橘栽培の歴史
り
けい えん きつ ふ
ふ じ ん きつ
・この年刊行の岡本尚謙(遜桂園)著「桂園橘譜」に、温州ミカンが温州橘(一名/李夫人橘)の名で図解される。これまでは正確な記録がなかった。
ちようせんのじ ん
温州蜜柑の条に「筑後柳川に橘あり、即ち温州橘。伝えて往昔/豊太閤(秀吉)、 朝 鮮 陣の時、持帰りし種の由云えり、実に然るか否かを知らずと
いえど
り
はん え ん
ふ じんきつ
けいえん きつ
雖 も今処々に繁衍(繁殖)して実を結ぶ。大さ九年母の如し、其味美なること蜜柑よりも優れり。土人或は之を李夫人橘とも云へり」とある[桂園橘
ふ
譜写本/国会図書館蔵]。
嘉永 3(1850)年
・香川県のみかんの起源は、嘉永三(1850)年に現/香川県大野原町五郷の佐伯国冶助が和泉国池田(現/大阪府池田市)より小ミカン(紀州みか
ん)の苗を持ち帰り植えたのが最初である。その後、安政四(1857)年には同地の藤川寅吉が伊勢参りのおり、「種なしみかん」(温州みかん)の苗木
二本を持ち帰り、自畑に植え付ける。万延元(1860)年、同地の篠原秀作が藤川氏より穂木を譲り受けて大量に栽培したのが果樹園としての始ま
りである。香川県での他の郡部のみかん栽培は温州みかんが農家の収益に良いという評判が広まった明治十六(1883)年頃からである[大野原町
五郷みかん史]。
も り さだ まん こ う
嘉永 6(1853)年
・この年、喜多川守貞(1810-?年)が「守貞漫稿」を著わす。「後集巻一
(江戸時代)
子ト云コト勿論也。今世ハ右ノ菓實ノ類ヲ京坂(京都・大坂)ニテ和訓ヲ以テクダモノト云。江戸ニテハ水グワシト云也。是干菓子・蒸菓子等ノ製アリ
食類」の菓子の項に、「古ハ桃・柿・梨・栗・柑子・橘ノ類ノ、凡テ菓實ヲ菓
び
わ
テ、此類ヲ唯ニ菓子トノミ云コトニナリシヨリ、對之テ菓實ノ類ハミヅ菓子ト云也」。京坂では果物、江戸では水菓子と呼んでいると記す。また枇杷
び
よう とう う り
わ
葉湯売の挿絵が解説付きで掲載されている。枇杷の葉を煎じて作った飲料は薬用として重宝がられたとみられる[日本の果物受容史 110]。
も り さだ まん こ う
・「守貞漫稿」は江戸後期の風俗誌で喜田川守貞の著、嘉永六年成る。全三十三編。江戸時代の風俗に関する考証随筆であると同時に、近世
風俗の百科事典的意味を持つ大著。喜田川守貞は、江戸後期の風俗史家。本姓/石原。別姓/尾張部。通称/季荘。大坂の人。江戸に移り北川
家を継ぐ。その著「守貞漫稿」は当時の風俗習慣を記録したもので明治になって「類聚近世風俗志」と題して刊行された[国語大辞典 21]。
嘉永 7(1854)年
・十月十五日、和歌山(紀州)藩の御仕入方が、江戸でのミカン販売を直接支配しようとしたが、有田郡下の生産者の反対にあい失敗に終わる[日
(江戸時代)
本の果物受容史 110]。
安政 5(1858)年
・二月二十日、幕府(将軍徳川家定)が、交易のため、手余りの荒地・原野に、櫨・漆・コウド・三椏・茶を植えて国産物を増産せよと指示[幕府法令
はぜ
うるし
みつ ま た
下]。
いんの し ま
安政年間
・安政年間に、広島の 因 島(現/因島市)で、ブンタンとカボスの交雑したものとみられる「安政柑」が、偶発実生として発見される。果実は球形で1
(1854-1859 年)
果重 600 g内外と大型。果面・果肉ともに黄色で食味良好。 2 ~ 3 月に因島・隣の生口島(現/尾道市,旧瀬戸田町)で収穫期の安政柑をみること
(江戸時代)
ができる。平成 5 年 2 月下旬、1個 200 ~ 500 円[日本の果物受容史 110]。(注)安政柑は、文旦の珠心胚実生か[編者]。
い くち
・安政年間に、大村藩西彼杵郡伊木力村(現/長崎県諌早市、旧/多良見町)で、温州ミカンの栽培が本格化する。後に「伊木力ミカン」と呼ばれる
ようになる[日本の果物受容史 110]。昭和時代では「伊木力系」と呼ばれた[編者]。
万延元(1860)年 ・広島の因島(現因島市田熊町)の恵日山淨土寺の住職/恵徳上人が、境内に古くからあった実生樹の偶然実生としてハッサクを発見。淨土寺の
(江戸時代)
境内に「八朔発祥の地」の石碑がある。旧暦の八朔(8 月 1 日頃)から食べられるということから、発見者の上人によって「八朔」の名が与えられた。
八朔
上人はこの珍しい果物を八朔の日に檀家に配って賞味したという。ところが、実際の食べ頃は 2 月から 4 月までであるので、なぜこのような名前
がつけられたかわかっていない。因島では平成 3 年現在 230 ㌶栽培されており、 3,100 ㌧生産されている。因島市ではハッサクを市の木として
わ こう
街路樹に用いている。ハッサクは、かつて瀬戸内海を根城としていた倭寇が、南海から持ち帰った珍果の種から生まれたのではないかとも云わ
れている[日本の果物受容史 110]。・八朔は、広島県御調郡能村の浄土寺に在ったものを、万延(1860)年間に価値を認められ、八朔(旧暦八月
- 23 -
柑橘栽培の歴史
一日)の頃に食し得るを以て、この名を得たり。文旦の雑種と推定される[果樹園芸学上巻 33]。
文久元(1861)年 ・「愛媛県の温州ミカンは、文久初(1861)年、(伊豫国)北宇和郡立間村で加賀山平治郎が植え付けたのが始めである。(中略)、立間村の加賀山
かい こ く じゆんれい
あしゆう
愛媛県の温州ミ 平治郎と云う人、四国廻国( 巡 礼)をなし、阿州の撫養(現/徳島県鳴門市撫養町)から四国往来の要津、紀州の加太浦に渡りて高野山参拝の道
みず た
カン
ここ
で有田を過ぎ、蜜柑栽培の盛んなるを見て収益の多い事を聞き、郷国(伊豫国)立間の山畑多く水田に乏しき事を思い合わせ、茲に蜜柑の栽培
う ん しゆう み かん
を企て、帰国の後、温 州 蜜柑の苗八本を得て白井谷に植付けさせ、又三年後、五十本を得て、その子/作治、及び薬師寺三九郎・同庄七と云う
人などに植付けさせ、明治六年の頃には一般に広がり、その数五百本に及び、同八、九年の頃よりは年々八、九百本ずつ植付け(後略)」[安倍
熊之輔著/日本の蜜柑/愛媛県果樹園芸史 118]。
元治元(1864)年 ・四月八日付け幕府(将軍徳川家茂)蝕達「田地へ桑を植えてはならぬ。五穀を廃し蚕を専らに致してはならぬ」[幕府法令下]。
つかまつ
有田郡蜜柑方
きん す
に せんりよう
・十一月付け「(有田郡蜜柑方)拝借 仕 る金子(金の貨幣)の事、一、金弐千両也。右は当小江戸送り蜜柑売り代金ご勝手方お役所御下し金の
内、御替えに成し下され、即本行の通り当月十五日、金子受け取り、返納の義は来たる十二月九日限り江戸詰め荷主代/西沢佐右衞門より、赤
ご きんぞ う
きつ と
より
な
くだんのごとし
坂御金蔵(江戸幕府の御用金を納める蔵)へ急度、返納仕るべく候、仍て後日拝借証文と為す如 件(前記の如し)。元治元年子十一月。(有田郡
蜜柑方)元締三人(印)。有田御代官所(宛)」[有田市糸我/生馬駿氏所蔵文書/県史近世史料三]。
きのと う し
ひとつ
かいせん どん や
き
く に や きゆう べ
え
たん がん
慶応元(1865)年 ・丑( 乙 丑=慶応元年)二月付け「御答え申し上げ奉り候口上。 一 、江戸表廻船問屋/紀ノ国屋 久 兵衛より歎願に付き、左に御返答申し上げ候。
ひとつ
(江戸時代)
かいせん や
これ
一 、御国(紀伊国)産蜜柑の積船は、江戸表の廻船屋が従古来、長嶋屋亀十郎・日高屋幸蔵・紀ノ国屋久兵衛、右、三軒、蜜柑向け船宿にて之
あり
ならび
有、先年は日高屋にて船持ち多く、右三軒のうち紀久(紀ノ国屋久兵衛)、 并 に幸蔵、右両人方へ多分に廻船宿をいたし御座候。近頃、日高郡
あい
蜜柑船不足す
たんしゆう
きん す
に船持ち数無く相なり、蜜柑船大いに不自由に相なり候に付き、淡 州 (淡路)并びに若山(和歌山)の大川等へ蜜柑加入金と申し、船々え金子貸
渡し、右に付いては年々蜜柑旬合に至り候はば、故無く障り夫れぞれ積方に廻り候ところ、近年残らず紀久(紀ノ国屋久兵衛)方へ船宿致し有
しよがか
る。近頃、船宿の諸懸り多分に仕出し船手(船頭)の者どもより甚だ迷惑の趣きを申し出候者もこれあり、以前は前件申し上げ候通り三軒にて宿致
いつけん
しめくくり
し候ところ、近年は紀久(紀ノ国屋久兵衛)壱軒にて括締、ほかの船宿へ付け候こと出来まじく哉、蜜柑方差し障りに相成り申さず儀に候へば、外
もつと
いちばん し たて
の船宿へ着け仕りたく段、願い出候者もあり、至極 尤 もにも存じられ、中出に任せ昨冬の蜜柑壱番仕立より日高幸蔵方へ差し向け候よう指図取
つみふね
つみふね
り計らい候儀にて御座候。右は前段申しあげ候通り、日高郡に積船は数無き付いては蜜柑積船に大いに迷惑仕り、右三カ所小船持ちにて江戸
廻船は出来難く、夫れに付き、ミかん方より加入金を貸渡し、則江戸廻船に造り換えさせ候に付いては蜜柑方の手船同様の事に御座候。然る処
なんじゆう
か き つけ
この度、紀久方より船宿を差替えに相なり候ては難 渋 の趣き、書付を以て御願い申し上げ候段、(中略)。右の段、厚く御照察下され、紀久(紀ノ
さとし
よろ し く
きのと う し
国屋久兵衛)へ御申し諭の程、宜敷御取計らいなされ下さるよう仕りたく、依ってこの段御受け奉り申し上げ候、以上。( 乙 )丑(慶応元年)二月、蜜
きの く に や
柑方元締め/碕山幸右衞門・同/榎本嘉十郎・同/松原惣兵衛。神保直之助殿」[有田市糸我/生馬駿氏所蔵文書/県史近世史料三]。・(注)紀国屋
ぶん ざ
え もん
文左衛門と云われたのは江戸前期の商人。姓/五十嵐。幼名は文吉。俳号/千山。紀伊(紀州湯浅)の人。紀州みかんを海路江戸へ運んで巨富を
ぜい た く
き ぶん だい じ ん
築き、のち材木問屋を開いて幕府の御用商人となる。贅沢な生活にふけり、紀文大尽と称されたのは二代目とも云われ、そのために零落(~
き
く に や きゆう べ
え
1734 年)[国語大事典]。・(注)この文書に登場する紀ノ国屋 久 兵衛は、その三代めかとみられる[編者]。
・この年、「海南包譜,山中信古著/慶応元年刊」が増訂され、以下の柑橘 77 品種が掲載される。「乳柑・黄柑・尻輸蜜柑・コガネ葉蜜柑・無核蜜
柑・木柑・大平蜜柑・圓蜜柑・直カウ蜜柑・饅頭蜜柑・菊蜜柑・保春柑・黄塘南・駿河蜜柑・黄橘(シラワカウジ)・筑前柑子・包橘(カウジ)・ワセカウジ
・凍橘(オクテカウジ)・無核橘・小柑子・八代蜜柑・朱柑・唐蜜柑・男蜜柑・交趾蜜柑・獅頭柑・海紅柑・金柑・山蜜柑・牛奶柑・唐金柑・・佛手柑・枸
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柑橘栽培の歴史
櫞・猴橘(タチバナ)・朱橘・福橘・穿心橘・紅橘(大柑子)・乳橘・茘枝橘・塌橘(大福カウジ)・廬橘(ナツミカン)・大福蜜柑・李夫人橘・宇樹橘・香橙・
無核香橙・長九年母・大名橘・回青橙・臭橙・欝金橘・唐代々・甘代々・菊代々・柚・邏柚・朝鮮柑・巾着柚・鐳柑・唐柑・大福・朱欒・香欒・ウチムラ
サキ・蜜筩(コザボン)・宣母子(スタチ)・マルコ・蜜禫(木編に覃)・枳・黄淡子・無名・枸橘[海南包譜/山中信古著]・[日本柑橘圖譜 116]。乳柑から
う ん しゆう み かん
駿河蜜柑まで 14 品種は、いずれも小蜜柑の品種、黄橘から小柑子まで 7 品種は柑子で、乳橘は温州 蜜柑である。甘代々は甜橙、鐳柑はシシ
ユズである」[日本柑橘圖譜 116]。・(注)李夫人橘も温州蜜柑の別名である[編者]。
・伊予国宇和郡立間村(現/愛媛県吉田町立間)に、兵庫(播磨國)?から温州ミカンが導入される[日本の果物受容史 110]。
慶応 2(1866)年
・七月十三日付け高野山惣分役人/妙観坊回文「高野山寺領村々の地士・庄屋宛て:時節柄、村々に於いては男女が集まり、踊り興業などは決
して致してはならぬ。各人が慎み、酒宴・会合などを致してはならぬ」[橋本市清水萱野家文書/和歌山県史近世史料四]。
慶応 4(1868)年
・慶応四年九月八日、「明治」に改元[国語大事典 21]。
明治 2(1869)年
・明治初期、「温州みかん」という名称は、岡村尚謙の著「桂園橘譜」に用いられたのが元祖で、明治の碩学/田中芳男・池田定之の諸氏が採用
桂園橘譜
し、その後、農商務省を中心に用いられるようになった。それ以前は、「李夫人橘」、または「唐みかん」の名で知られていた[鹿児島の柑橘,果樹
温州みかん
農業発達史 14]。・(注)「桂園橘譜」は、白井光太郎によって明治 44(1911)年に(再)出版され、同書には「温州蜜柑」の表記はない。ただ上巻に、
り
ふ じ ん きつ
さ ま すこぶ
種なし蜜柑/温州 「温州橘」があり、その説明に「俗に種なし蜜柑といふ、状 頗 る蜜柑に似て色黄、大さ九年母の如くにして其の頭稍平なり、土地によりて周囲圓な
橘
らず、又数ふべからず頗る楞河負か如きもあ里、また大さ蜜柑に同しく其色蜜柑より赤きも、その葉橘葉に似て長大なりといへども、土地によりて
あ
り
はだ そ
やわ
しん く
ふくろ
は却て小なるも阿里(在り)、皮ハ□へて蜜柑に似て膚粗なり、其皮諸橘より柔にして味乃辛苦また諸橘よりゆるやかなり。 嚢 ハ味俗甘まくして種
絶てなし。又ま連(稀)に一二種を存するも阿り、種の形、楕円にして蜜柑の種の尖れる物とは殊なり。案するに(中国)温州は原より、柑橘名産の
れ
その
れ
地なり、故に橘録□の□里所其類□二十七種、さ連と其うち温州橘に擬すへきもの絶てなし。こ連によれは、今の温州橘を全く乳柑の属にして
あ
李夫人橘
つたえ
橘類には阿らさるべし。又、筑後柳川に橘あり、即ち温州橘、 傳 云(う)昔、豊臣太閤、朝鮮陣の時、持来里し種のよしいへり。實(史実)に志かる
はんぎよう
み
れ
や否を知らんといへども今、所々に繁桁 して實を結ぶ。大さ九年母の如く、其味、美なること蜜柑よりも勝り、土人或ハこ連を李夫人橘といへりと、
こ の たね
その き
とげ
あまり
あら
今、此種、本山正義か園中に二株あり、其樹高さ各一丈ばかりにして絶えて刺なし。葉長さ四寸 餘 、廣さ一寸五六分、頗る蜜柑の葉に似て、粗
き鋸歯あり。此の樹、年々に實を結ぶ事、□三百顆に及ふといふ。「東醫宝鑑」に橘皮、青橘皮、柚子の種あり、橘皮條に我国惟済州其青橘/柚
子/乳柑子。皆産焉とな見えたれと、別に温州橘といへるものは絶てなし。柳川産の物、実に朝鮮より持来里しものならは、温州橘を即、宝鑑の□
□所の乳柑子なると明らけし。大和本草云う温州橘ハ、其の葉蜜柑に似て薄小なり、其實ノ肌蜜柑ニ似タリ、大サ亦同ミカンヨリ厚シ。味モ亦似
蜜橘。皮ノ裏九年母ノ如ク蜜柑ヨリ薄シ、皮ノ味ハミカンニヲトレリ。其色ミカンヨリ赤し。二,三月に至り味弥ヨシ。土佐州ヨリ出ツ、コレヲ日本ニテ温
およそ
州橘ト称ス。本草ニ橘譜を引テ、柑橘温州ノ者□上事ヲイヘリ。 凡 中華ノ書ニ□記ノ品類ト本邦所在ト同キアリ、不同アリ。橘類ナド各有無、異同
アリ。「橘録」云、眞柑在り、品類中、最貴可珍其柯本與、花實皆(後略)」[国立国会図書館蔵/デジタルコレクション/桂園橘譜/編者書写]。(注)崩
温州橘は温州蜜 し書きで判読不能文字は□で書いた[編者]。・温州橘は温州蜜柑の異名[国語大事典 21]。
柑の異名
・一月、金札と銭札の交換「金 1 朱を銭 600 文と交換し、金 1 歩を銭 2 貫 400 文と交換、金 1 両を銭 9 貫 600 文と交換する[那賀郡誌 12-上/桃
貨幣改革
山町史年表 34]。(貨幣改革)。
整枝せん定盛ん ・明治に入り、落葉果樹の整枝せん定が盛んに行われるようになった。柑橘のせん定も、それによって次第に関心が高まったようで、明治 22 年、
静岡県で鈴木泰助が「柑橘栽培録」を出し、(同録に)せん定について記述している[同栽培録/静岡県柑橘史,昭和 64 年刊/園芸学全編 128]。
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柑橘栽培の歴史
明治 3(1870)年
・この年、ドイツの医学者/博物学者のシーボルト(Siebold, Philipp Franz Balthazar von, 1796-1866)が、「日本植物志」を完成させて発刊[国語大
事典 21]。その中で、「長島蜜柑とあるのは「温州蜜柑」のことである」[田中諭一郎著「日本柑橘圖譜」 116]。
・この年、伊予国宇和島藩野村の三角勘六、兵庫県川辺郡東野村よりミカン苗木を持ち帰る[愛媛県果樹園芸史 118]。
・明治 2~3 年頃、現/田辺市上秋津に「長きんかん」(長実金柑)が導入され経済栽培が行われた。その後、「長きんかん」中心に栽培されていた
が、明治末期から大正にかけて「温州」・「バレンシア」(明治 30 年)等が導入され、現在(昭和 46 年)に至っている[上秋津/中山義七より聞き取り,
岩本文夫/果樹農業発達史 14]。
明治 4(1871)年
・七月十四日、明治政府が藩を廃止して地方の統治を中央集権下の府と県に一元化(廃藩置県)[国語大事典 21]。
え
た
ひ にん
・八月二十八日付け太政官布告「穢多」・「非人の呼称は廃止とするから、今後は身分職業とも平民同様とすること」[法令全書 448 号/(和歌山縣)
田畑勝手作許可 那賀郡誌 12-上]。
令
・九月七日、政府から「田畑勝手作許可令」が出され、(水田で)米穀以外の作物を自由に作れるようになる[法令全書,大蔵省 47 号]。
明治 5(1872)年
・十一月九日、政府は太陽暦の採用を布告。しかし農村では旧暦の正月が近づくと、村々では歳の市で賑わい、新旧 2 回の正月がきた[那賀郡
太陽暦
誌 12-下]。
・十月三日、宗旨人別帳が廃止される[法令全書・ 34]。
・神奈川県足柄下郡小竹(現/小田原市小竹)の小沢富右衛門が、武州安行(現/埼玉県川口市)よりミカン苗木を購入し、栽培始める[神奈川県柑
橘史/果樹農業発達史 14]。
明治 6(1873)年
・七月二十八日、政府は地租改正条例を公布。地租改正の概要、「(1)地券を交付し、農民保有地に対する私的所有権を承認。(2)課税基準を収
穫量から地価に改め、税率は地価の 3 %(改正反対の農民一揆が各地に頻発し、明治 10 年に 2.5 %に低減)。(3)物納を廃止し金納とし、納税
者は耕作者から地主に改める」。地租は、地租の賦課徴収に関する事項を定めた法律。明治 17(1884)年の地租条例に代わる。昭和 22(1947)年
地租が地方税となり廃止される[国語大事典]。
・岡山県小田郡今井村(現/笠岡市広浜)の渡辺淳一郎(1858-94)は、徒歩上京し、三田勧業寮から配布された樽屋桃の苗木 6-9 本を持ち帰り、モ
モの栽培をはじめる。岡山県モモ栽培の始祖。その後、カキ・ナシ・リンゴ・ブドウ・夏カン・オリーブなどを栽培。・(注)渡辺淳一郎は、岡山県で傾
斜地を利用した大規模果樹経営(明治 16 年 17 町歩)の最初の成功者といわれる[塚本学:日本の果物受容史 110]。
三寶柑
・三寶柑は、柚の遠縁に当たる黄色粗面の雑柑なり。(中略)、その起原、詳かならざるも、徳川時代より存せしものにして、傳ふる所に依れば昔紀
州徳川家/和歌山城内にあり、その後、その家臣の邸内に移り、更に(有田郡)田殿村字田口の大江城平なるものこれを接木繁殖し、漸次田栖川
村方面に伝播せりと云う。又一説には和歌山縣海草郡今福村(現/和歌山市今福)の野中英方にあり、これが後に和歌山市新堀の林角右衞門方
に移り、更にその後、東山東村字木枕の上野寬一方に栽植せられたりとも謂う。現存するものの中、樹齢最も古きは上記上野氏方のものなり。本
種の記録としては、岡村尚謙氏著「桂園橘譜」に掲載せる所最も古し[日本柑橘図譜(下巻)112]。・三寶柑は明治 6 年頃、和歌山市東徒町の林
角左衛門氏の邸内にあったものが親木で、その由来は不明である[果樹園芸学上巻 33]。
・米国のワシントンネーブルは、 19 世紀初めにブラジルのバイア州でセレクタオレンジの枝変わりとして発生し、これをワシントンのアメリカ農務省
に送り「ワシントンネーブル」と命名され、 1873(明治 6)年カリフォルニア州に送られ、オレンジ産業隆盛の基礎となったとされる「果樹園芸学上巻
33 」。・この年、愛媛県北宇和郡立間村の加賀山金平、ミカン栽培に着手す[愛媛県果樹園芸史 118]。
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柑橘栽培の歴史
明治 7(1874)年
・一月九日、内務省に勧業寮を設置。五-六月、内務卿大久保利通は、殖産興業に対する考え方をこの頃、起草された「殖産興業に関する建白
書」で明らかにする。海外からの果樹品種の導入もこの政策の一環として強力に推進されたと思われる。これによれば、「大凡国ノ強弱ハ人民ノ
貧富ニ由リ、人民ノ貧富ハ物産ノ多寡ニ依ル。而シテ物産ノ多寡ハ勉励スルト否サルトニ胚胎スト雖モ、其源頭ヲ尋ルニ未嘗テ政府ノ誘導奨励ノ
力ニ依ラサルナシ」と主張し、殖産興業の必要性を強調した[日本の果物受容史 110]。
・五月、ウィーンの万国博覧会から帰朝した津田仙〈 36 〉(1837.8.6~1908)は、オランダの園芸家ホイブレンクの口述した「 Method
Cultivation , Explained by Three Different
of
Processes 」を訳述し、「農業三事」(上下 2 巻)と名づけて刊行。木版刷、和装幀,上巻 23 頁,下巻
23 頁[[塚本 学,日本の果物受容史 110]。
・六月二十三日、北海道に屯田兵制度を設ける。屯田兵は北海道の警備・開拓のために設けられた農業経営の兵士[国語大事典]。
・七月、岡山県は、岡山区門田屋敷(現/岡山市)の丹波、石津、一森三氏の屋敷二反歩を借入れ、蔬菜果樹の試験場として順致園を設け、勧業
寮から払下げのモモ・ブドウ・イチジクなどを試植[塚本学,日本の果物受容史 110]。
・八月十八日、医制(医療・医学)が公布され、食品衛生の事項も定められる[塚本学,日本の果物受容史 110]。
・八月、内務省勧業寮は、東京三田四国町の元島津氏邸跡地約4万坪を買収し、内藤新宿勧業寮出張所付属試験地(後の三田育種場〈明治
10 年 9 月 30 日開業〉)とする[塚本学,日本の果物受容史 110]。
・十月、内務省勧業寮が、果樹苗木 11 種を試作依頼する旨、各府県に通達する。・十一月二十七日付け岩手県令(県の長官)/島惟精、内務省
勧業寮にモモ・ナシ・ブドウ・桜桃、など 11 種の苗木配布を申請する[塚本学,日本の果物受容史 110]。
・青森県弘前の東奥義塾の教師アメリカ人ジョン・イング(1840 ~ 1920.6.4)、リンゴの苗木をアメリカより移植。・(注)リンゴ品種「印度」は、ジョン・イ
ングの名前がなまったとも、あるいはアメリカのインジアナ州から送られてきた種子にちなんで命名されたともいわれる[塚本学,日本の果物受容史
110]。・勧業寮は、旧長野県へモモ・リンゴなど 11 種 30 本。筑摩県(明治四年、信濃国に置かれた伊奈・松本・飯田・高遠・高島の五県と飛騨国
に置かれた高山県とを合わせて設置された県)へモモ・リンゴなど 11 種 33 本を配布。・長野県更級郡真島村(現/長野市)で、洋種リンゴを試作。
・開拓使は、札幌本庁構内の 5 万 8,500 余坪を果樹園とし、東京から内外国種の梅・桜桃・スモモ・アンズ・リンゴなどを移植させる。・開拓使の土
すい ば ら
木請負人/札幌の水原寅蔵(1818.2.5-99)は、後の中島遊園地付近に北海道における民間第一号の果樹園を造成し、米国から輸入したリンゴ・ナ
シ・その他の果樹を栽植。特にリンゴは美味で「水原リンゴ」として好評を博した。明治 20 年刊行の『札幌繁栄図録』に、「水原林檎園」の図が掲
載されている[塚本 学,日本の果物受容史 110]。
明治 8(1875)年
・四月、サンフランシスコ駐在領事/高木三郎(1841-1909 ,わが国生糸直輸出の先覚者, 1872.2-80.5 駐米)は、オレンジ・レモン・イチゴ・ホップ等
の種苗を勧業寮に送付する[果樹農業発達史 14 ・田中諭一郎著,日本柑橘圖譜 116]。
柑橘潰瘍病抵抗 ・明治 7 年から同 8 年にかけて田中諭一郎氏は、元台北帝国大学果樹園に栽培された柑橘の潰瘍病の被害を調査したところ、(1)被害大なるも
性の強弱
の(枝・葉・果実を侵す): Swangi ・ Lime ・ Kao pan ・ Marsh(レモン)・ Duncan(レモン)・枳穀・ Rusk Citrange 。(2)被害中庸のもの(枝・葉を侵し、時
には果実にも被害): Villa Franca(レモン)・アマミマルブッシュカン・紅皮文旦・アマザボン・麻豆白柚・唐久文旦・宇和ポメロ・ Pink Marsh(グレー
プフルーツ)・ Standard Sour ・南庄橙・ Eustis Limequat ・ Sampson Tangelo 。(3)被害少ないもの(葉を侵し枝條・果実を侵すこと稀なもの):田中ベ
ルガモット・ Eureka(レモン)・ Everblooming ・ Genoa(レモン)・ Lisbon(レモン)・ Sicily(レモン)・佛手柑・ Limettier
ordinaire ・ EI
Kantara ・ Rough
Lemon(レモン)・晩柚・潮州文旦・江上文旦・平戸文旦・喜界島文旦・晩白柚・鳥葉柚・麻豆紅文旦・蜜柚・白柚・砂田柚・早柚・虎頭柑・ Imperial ・
- 27 -
柑橘栽培の歴史
Bouquet des
Fleurs ・夏橙・金柑子・広東オレンジ・金九年母・ Maltese
Blood ・ Surprise ・ Navalencia ・小笠原オレンジ・ Pineapple ・ Thomson
Navel ・ Valencia ・八朔蜜柑・土佐旭柑。(4)被害稀なもの(稀に葉を侵し枝條・果実侵すこと殆どなし): Orenge fleshed ・ lemn ・ Sweet lime ・
Tahiti limon ・ Kusaie limon ・ Otaheite orange ・ヒメレモン・ Ponderosa ・本田文旦・ Cuban shaddock ・石頭柚・田中文旦・谷川文旦・スヰザモン・
絹皮蜜柑・山蜜柑・海紅柑・菊代々・臭橙・座代々・鳴門蜜柑・瓢柑・ Ovate
Blood ・福原オレンジ・ Lue Gong Nugget ・ Joffa ・ Mediterranean
Sweet ・田中ネーブル・ Parson Brown ・ Ruby Blood ・ Washington Navel ・三寶柑・宇樹橘・大唐蜜柑・大身甘橙・旭柑・シレンボー・光春蜜柑・
弓削瓢柑・山吹蜜柑・伊豫蜜柑・木酢・獅子柚・九年母・八代蜜柑・温州蜜柑・元霄柑・柑子・酸桔・大紅蜜柑・大柑子・椪柑・小紅蜜柑・柚皮桔
姫橘・四季桔・長實金柑・ homasvill Citrangquat 。(5)被害なきもの(全然侵されたるを見ず):柚・二度成蜜柑・紀州蜜柑・シークワーシャー・四會
け
ら
じ
き ん づ かん
ちようじ ゆ
ねい は
柑・タチバナ・花良治・金豆柑・長壽金柑・寧波金柑・丸金柑。以上によれば、 Swangi ・ Lime ・グレープフルーツ等は本病に弱く、柚・タチバナ・
金柑等は甚だ抵抗力強い。総括的に云えば、ザボン・レモンは弱く、寛皮柑橘の大部分は通常抵抗力強し[田中諭一郎著/日本柑橘圖譜上巻
116]。
石油乳剤
・明治八年、石油乳剤が米国で創製される[和歌山縣の果樹 27]。・(注)石油乳剤は灯油、または軽油を石けんなどの乳化剤で水中に分散させ
た殺虫剤の一種。他の殺虫剤を加えて用いられた[国語大事典 21]。
菓樹穀菜試験場 ・明治八年、和歌山小区長/松山管吾等が、植物試験場を設け、内外各種の菓樹・穀菜の類を栽培し、土地の適否、種類の良否を試み、官民に
実例を示し、勧農の一端となさんことを請ふ。縣、之を許し和歌山区一番丁の士族邸地二千七百余坪を買入れ試験地となし、博(広)く内外植物
を蒐集し、栽培試作して従来の植物と其の優劣を判せしむ。次て、栽培所月報を発行し、試験上著しき成績を得たるものを発表し、管内に普及
を計らしむ。即ち(明治)十年にクルシャプラント綿・菊芋・青黛草・亜麻仁(亜麻の種子)・ソソラ小麦・オベゴン小麦・赤小麦等を良種なりとして、其
の植付を勧めたる如きこれなり。(後略)[和歌山縣誌第二巻 42]。
みかん一貫三十 この年、和歌山県のみかん一箱(二貫と推定)七十八銭。本県柑橘生産量二百五万四千六百五十六貫(7,724 ㌧)、この価格八万九十二円五十
九銭
五銭。米一石の値段七円二十八銭[和歌山の柑橘 120]。
明治 9(1876)年
・(和歌山県では)、明治九年、百事殆ど一新せさるへからさるもの機に際しけれは、其の方法を改正し、頭取・世話役等は縣より嘱任となれり。即
ひや く じ
と うどり
たいせん
なお
せき じ つ
ち頭取は蜜柑方元締、世話役は荷親なるものなり。其の他、艜船・荷主代等に関する方法は猶、昔日(以前通り)の如し。然れども問屋・仲買等は
ようや
組株の制廃れ、職業の自由なりしより、 漸 く蜜柑方を分離して輸送販売せんとするもの出て、新蜜柑問屋を東京に起こし之に輸送する荷主ある
に至り、或は改良組/電信組と称え、蜜柑方に依頼せずして輸送する荷主(が)逐年輩出したりしも、其の方法(は)完全ならざりしより、往往損失を
蒙るものあり。郡の有志者、之を歎き、数派の組を統一し、従来の弊を矯正せんとし、明治十四年九月、荷主総代會議を開き、改正の手続きを議
蜜柑方會議
し、新會則を編制して其の筋の認可を得て、同年十月、議員を選挙し會議を開きたり。之を「蜜柑方會議」と称せり。此の會議により、販売・輸送
の方法を定むることとなせり[和歌山縣誌第二巻 42]。
さつ ま
温 州 ミ カ ン 苗 木 ・この年から以降、温州ミカンの苗木がアメリカへ輸出される。・(注)薩摩(鹿児島)から輸出されたため、「サツマ」と呼ばれるようになる。その後、愛
輸出
知県から輸出されるようになり、「オワリ」、または「オワリサツマ」の名を得たと云う[日本柑橘圖譜 116]。
・この年、愛媛県庁に勧業課を新設[愛媛県果樹園芸史 14]。
なつだいだい
・和歌山県有田郡鳥屋城村(現/有田川町旧金屋)の片畑源左衛門が、明治九年、県勧業係の林英吉の斡旋により、山口県萩より「夏 橙 」の苗
木を購入し、上山宗十郎外、同志に配布、試作したところ成績良好であった。次いで明治二十(1887)年、有田郡田殿村の矢船傳が、兵庫県川
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柑橘栽培の歴史
邊郡の久保武兵衛より、(夏橙の)苗木 1,000 本を購入して以来、(夏橙の栽培が)急に増加した。(中略)次第に日高郡に栽培が増加し、有田郡を
りよう が
凌駕した[和歌山縣の果樹 27]。
明治 10(1877)年 ・三月一日付け「朝野新聞」に、静岡県下「駿州庵原郡あたりはミカンの産地として有名だが、山原村(現/静岡市清水区山原)の一村は古来より氷
川神社の大禁物なれば、ミカンの木を1本でも植えれば熱病を発すると伝えられていた。しかし近頃、ある人が思い切って植えたところ、何の祟り
もなく良くできるので、村民が我も我もと植えはじめ、この頃では村中に大利益をもたらしている」と報じた[日本の果物受容史 110]。
・三月、内務省勧業寮御用掛の前田正名(1850-1921)が、フランスから果樹・蔬菜類・草木・良材などの種子・苗木をたずさえて 7 年ぶりに帰国。・
九月三十日、東京三田四国町の旧薩摩藩邸跡(5 万 4 千余坪)に、三田育種場(場長/前田正名)を開場し、前田正名がフランスから持ち帰った果
樹・蔬菜類などの種子・苗木を植え付ける[明治前期 勸農事蹟輯録/塚本 学,日本の果物受容史 110]。
・十一月、勧業寮は、洋種果樹苗木の有償払下げを開始[塚本 学,日本の果物受容史 110]。
・神奈川県小田原の杉本正左衛門が十字町(現/小田原市十字)の御鐘台付近に数反歩の温州ミカン栽培を始める[神奈川柑橘史/果樹農業発
達史 14]。
・この頃から、愛媛県北宇和郡立間村(現/宇和島市,旧吉田町立間)を中心に温州ミカンの栽培が増加する[愛媛県果樹園芸連史]。
・(和歌山県那賀郡)麻生津村の坂上氏・川原村の藤田氏・田中村の堂本氏・段村の堀内仙右衛門氏らが主唱しこの年、紀之川沿岸の伊都/那
なん よ う しや
賀郡内の温州蜜柑の販売同業者団体「南陽社」を結成、船舶運賃契約のため販売総代として千田三次郎氏を東京に派遣[那賀郡誌 12-上]。
明治 11(1878)年 ・一月二十四日、東京駒場に内務省勧業局の農学校/駒場農学校(東大農学部の前身)が開校する[東大農学部の歴史/駒場農学校]。
おやとい
・御雇外人で札幌農学校教師の米人 W . P .ブルックス(Brooks,1851-1938 )、北海道開拓使の諮問に対して(印刷されたものではないが)答申
した文書(邦文)で、初めて「剪定」という用語を用いる[青森県りんご発達史第二巻]。
・千葉県の房州ビワは、東京湾内汽船の発達により栽培面積がふえ、明治四十二(1909)年から毎年、天皇/皇后両陛下に献上されている。房州
ビワは、甲州ブドウ・紀州ミカンとともに「日本三州の名果」といわれた[日本の果物受容史 110]。
明治 12(1879)年 ・三月、(愛媛県)温泉郡持田村に勧業試験場を設置する[愛媛県果樹園芸史]。
・この年、春ごろからコレラが全国的に大流行し、年末までの患者総数は 17 万人、死者 10 万人を超える惨状きわめる。六月二十七日、「虎列刺
病予防仮規則」、七月十四日「海港虎列刺病伝染予防規則」が定められる。この年、各府県に衛生課が設置され、食品衛生担当を明示、町村の
衛生事務取扱いの組織が定められる[日本の果物受容史 110]。
・六月、園芸学者/田中芳男(40 歳 1838 年 9 月 27 日-1916 年 6 月 22 日)が、長崎からビワの種子を持ち帰り、東京本郷の自宅の庭に播種。八
年後の明治二十(1887)年に結実、この中から「田中ビワ」生まれる。その後、田中ビワは千葉県の特産となる[日本の果物受容史 110]。
尾張系温州
・「尾張温州みかん」の苗木栽培は古く、今から 600 余年前(応安 5(1372 年頃)であるが、明治 12 年中頃、(愛知県)中島郡千代田村の八木恋三
郎氏が優秀な枝変わりを発見し、母樹として接木繁殖を行い、紀州・駿州方面に宣伝、販路を広め、明治 41 年には米国までも輸出するに至っ
た。その後、日本の温州みかんの主要系統として全国に栽培され、品種改良の母樹としても重要な地位を定めた[愛知県中島郡千代田村(現/稲
沢市福島町)「愛知の果樹苗木」(昭和 41 年 10 月発行),中条昭孝/果樹農業発達史 14]。
夏ミカン
・安永の初年(1772 年頃)、現/山口県長門市仙崎大日比において西本チョウが、海岸に漂着した果実の種を蒔き、これが「夏ミカン」の発祥であ
る。明治 12 年、小幡高政らが武家の救済策として奨励し、同 18 年に仲買商が生まれ京阪神に販売、栽植も同 20 年頃から市内、屋敷内に始ま
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柑橘栽培の歴史
り、県外にも苗木が出はじめる。明治 39 年に長州夏蜜柑組織が創立され、満鮮輸出はじまる(後略)[山口県の柑橘,中柴 憲/果樹農業発達史
14]。
愛媛県宇和島に ・明治十二年、愛媛県宇和島に「夏ミカン」が愛媛で初めて導入される。その後、明治十六(1883)年に西宇和郡三崎町、松山地方に導入され、
夏ミカン導入
特に南予を中心に産地化される[愛媛県果樹園芸史 118]。
紀州柑橘録
・十二月、福羽逸人氏が紀州有田郡下に出張して踏査し、「紀州柑橘録」を著す。本書には、圓蜜柑以下、三十三品種を載せる。うち大政橘・大
ま る み かん
名橘を除けば、何れも江戸時代から知られた品種である[日本柑橘圖譜 116]。
明治 13(1880)年 ・七月、東京銀座三丁目の中川幸吉が、リンゴ水を売り出す。 1 瓶 25 銭。この他、レモン水・ミカン水・イチゴ水なども販売。・(注)果物ジュース販
ジュース販売
売の先駆[塚本学:日本の果物受容史 110]。
農業試作人の制 ・九月、和歌山縣會は、農業試作人の制を決議、此の制を定め各郡区に試作人を置き、米麦其の他緊要植物の実験種子の精選法及び土壌と
の適否等を試み、其の成績を報告せしむ。試作人費五百六十円を支出し農事に老熟熱心なる農業者五十八名を選び、試作人となし費用を給
し、其の所持地に試験場を設け試作に従事せしめ、同時に種子交換会を開き互に良種を交換せしむ[和歌山縣誌第二巻 42]。
た
三宝柑
す かわ
・和歌山県特産の「三宝柑」が、有田郡田栖川村(現/湯浅町栖原)に導入される。三宝柑の名は江戸時代、和歌山城内に1本の原木があり、毎
だるまかん
つぼかん
年、三宝(三方)に果物をのせて紀州候に献上したことに由来するといわれる。果物の形状から達磨柑・壺柑とも呼ばれる。当時、サンポウカンは
(紀州)藩から持出禁止のおふれが出されていたことから、通称「お止めミカン」とも呼ばれていたという。和歌山県におけるサンポウカン栽培は、
有田郡田殿村(現/有田川町田殿)の大江城平が接穂を得て栽培し、明治十三年、有田郡田栖川村の千川安松に分譲したのが「田栖川三宝」の
起原である[和歌山縣の果樹 27]。一説には、徳川時代に海草郡(海部郡)今福村(現/和歌山市今福)の野中英方にあり、後に和歌山市新堀の林
角右衞門に移り、その後、(名草郡)東山東村木枕(現/和歌山市木枕)の上野寬一方に栽植されたという。大正時代には、海草郡は三宝の有名産
地であったが次第に減反し、現在(昭和 41 年)は有田郡湯浅町田栖川地区が集団産地を形成している。他に田辺市周辺にも産地がある。他県
に競合産地がなく有利な面もあるが、栽培には適地範囲がせまく、今後、特定地域以外は増植されないであろう[和歌山の柑橘 120]。
明治 14(1881)年 ・和歌山縣有田郡で「蜜柑方」會議が設立[和歌山縣の果樹 27]。・(注)蜜柑方は、当時の蜜柑出荷組合であった[著者]。
かん だ
た ちよう
温 州 ミ カ ン 神 田 ・この年、種なしミカン(温州ミカン)が、東京神田多 町市場(秋葉原の青果市場の前身)に初入荷し、業者たちは種がないことに驚く。タネがないの
市場に初入荷
で縁起が悪いという人と、食べやすという人の二派に分かれたという。それまでは、発祥の地/九州を中心に消費されていた。神田多町市場は、
慶長年間頃に名主の河津五郎大夫が野菜市を始めたのが起源で、昭和三(1870)年まで続き、以後秋葉原駅西側に移った。・(注)現在も千代田
区に町名が残り、神田多町二丁目の東北端に、「神田青果市場開場」の地碑が建っている[塚本学:日本の果物受容史 110]。
は く らい か じゆ も く ろ く
明治 15(1882)年 ・五月、農商務省農務局育種場編「舶来果樹目録」(52 頁)、「舶来果樹.穀菜目録及繁殖・略表」(4 頁)、「舶来果樹目録付録」が有隣堂から発
刊される[塚本学,日本の果物受容史 110]。
きぬがさ ご う こ く
・十一月、福羽逸人著,衣笠豪谷訂「紀州柑橘録」(127 頁,図版 40 枚)、有隣堂発刊。(注)衣笠豪谷(1850-97)は、岡山県倉敷出身の勧農局技
師。清国視察の際、天津・上海からモモの穂木を持ち帰り、岡山などの勧業試験場で栽培されたという[塚本学/日本の果物受容史 110]。
・福羽逸人/著[紀州柑橘録明治 15 年刊]は、本邦在来の柑橘を詳細に調査・写生画にした。明治十二年、和歌山県に出張して実地踏査、明治
マル ミ カ ン
センシユウ ミ カ ン
オホ ヒ ラ ミ カン
ナツミカン
十五年に「紀州柑橘録」として出版されたもの。圓蜜柑(10 匁)・大平蜜柑(16 匁 3 分)・泉 州 蜜柑(16 匁)・廬橘(果重なし、現在の夏蜜柑に非ず)・
ユ カウ
八代蜜柑(25 匁)・福州蜜柑(17 匁)・温州蜜柑(42 匁 5 分)・紅蜜柑(22 匁)・柚柑(なし)・海紅柑(ジャガタラミカン、大果品なり)・佛手柑(115 匁)・金
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柑橘栽培の歴史
橘(マルキンカン 1 匁 5 分)・牛奶柑(ナガキンカン 2 匁 8 分)・唐金柑(21 匁、金柑類に非ず)・香橙(クネンボ)・回青橙(ダイダイ 60 匁)・臭橙(カブ
ス)・甘橙(アマダイダイ)・唐橙(タウダイダイ)・菊橙(キクダイダイ)・文旦(ウチムラサキ果径 5 寸 5 分)・柚(ユウ・ユズ)・邏柚(ハナユウ)・包橘(マルカウ
ジ)・平柑子(ヒラカウジ)・大柑子(ダイカウジ)・宇樹橘(ウジュキツ)・大政橘(ダイジョウキツ 125 匁)・大嚢蜜柑(オホフクロミカン 20 匁)・枸櫞(マルブッ
シュカン 48 匁)・蔕高蜜柑(ホゾダカミカン 16 匁 8 分)・千年壽柑(70 匁)・大名橘(50 匁)。以上 33 種。温州蜜柑(42 匁 5 分=159.4 ㌘)。・(注)色は
濃黄とあるので現在の温州蜜柑と一致せぬ[果樹園芸学上巻 33]。不作年の遅い収穫果実か[編者]。
ずいむ し
い も むし
み の む し
すすびよう
・「紀州柑橘録」にみる柑橘病害虫には、「髄虫」(天牛=カミキリ)・「烏虫」(アゲハ幼虫)・「避債虫」・「煤 病 」の四つが記されてあるのみである[同
書/和歌山縣の果樹 27]。
・明治十五年版「舶来果樹目録,農務局育種場編」にみられる輸入柑橘は、[甜橙](オレンジ=Orange,Sweet
Orange(米国)・[黎檬](レモン)Lemon,
Comon Lemon(米国)・[シトロン](Citron, Bengal Citron)である[果樹園芸学上巻 33]。
丹生系温州
・東京市場で日本一味の良いみかんと云われている「丹生系温州みかん」は、来歴は不詳とされているが、「丹生系みかん」の原産地(和歌山県)
金屋町丹生(現/有田川町丹生)で、長老の話されている説では、明治 15 年頃、当地の有名な画家/井瓦丹函翁が名古屋市場のみかん問屋/美
濃屋文四郎氏の照会で、「尾張系温州みかん」の苗木を購入したが、苗木の中に 1 本だけ変わった木があり、甘味強く味の良いみかんであるこ
とを明治 20 年頃、発見し、丹生の部落の農家に穂木を分譲し増殖したが、本系統は栽培が難しく収量が低いので経済性に乏しいのであまり増
殖されていない。而し最近(昭和中期)の栽培技術の進歩により、近年収量が増加し毎年、当地区より 40 ㌧程出荷されている。東京市場で昭和
44 年では 1 ㎏当り 300~400 円で取引され、普通温州みかんの 3 倍の価格でした[和歌山県有田郡金屋町丹生(旧/生石村丹生)篤農家/山本貞
一(81 才)より聞き取り,平松房二/果樹農業発達史 14]。
明治 16(1883)年 ・愛媛県に栽培の多い「伊豫柑」、一名穴門蜜柑は、明治十六年に山口県から移入されたと云う[果樹園芸学上巻 33]。
不明
明治 17(1884)年 ・二月、武内久□稿「温州蜜柑解説 第五回農産品評会出品解説〈論説〉」[大日本農会報告/日本の果物受容史 110]。
・八月、竹中卓郎著『舶来果樹要覧』(144 頁),大日本農会三田育種場出版、定価 50 銭。欧米より輸入せるコモンレモン・スヰートオレンジ・シトロ
しようか
ぶ どう
い ち じ く
ン等が結実したことを報ず[三田育種場刊/果樹農業発達史 14 ・日本柑橘圖譜 116]。・掲載果樹は【漿果類】・葡萄 100 種、無花果 4 種、ラスプ
じ ん か
ベルリー(懸鈎子〈きいちご〉の類)1 種、くろいちご 1 種、すぐり 2 種、ふさすぐり 2 種、おらんだいちご 7 種。・【仁果類】苹果(をほりんご)108 種、
まるめろ
梨 126 種、榲
ゆ とう
ざ く ろ
レ モン
かつか
3 種、メドラー 1 種、甜橙(オレンジ)1 種、黎檬 1 種、シトロン(黎檬の類)2 種、石榴 1 種。・【核果類】櫻桃(みざくら)31 種、桃 17
か んか
はしばみ
く る み
へん と う
種、油桃 6 種、杏(あんず)19 種、プラム(洋李)、阿利襪(オリーブ)1 種。・【乾果類】 榛 2 種、胡桃 1 種、扁桃(アーモンド゙)[塚本学:日本の果物受
容史 110]。
・柑橘害虫「ルビロームシ」が明治十七、八(1884,1885)年頃に長崎縣に既に発生していた模様である[和歌山縣の果樹 27]。
明治 18(1885)年 ・蜜柑の北米輸出創始には三つの説がある。①明治十八年十一月、静岡県の業者(保田七兵衛氏)が(温州)ミカン五百箱[静岡県柑橘史では三
たけ か ご
温州みかん北米 百箱]を(北米)サンフランシスコに送ったが腐敗した。しかし容器の竹篭が珍重されて高値に売れたと云う。②和歌山県有田郡の上山英一郎氏が
やなぎ ご う り
輸出
明治二十年、除虫菊種子の交換として蜜柑の輸出を試みた。容器は 柳 行李で、容器のほうが蜜柑より高く売れたという。③明治二十二年、(和
歌山県)那賀郡の堂本秀之進・藤井孫八・藤田愛之助・堀内仙右衛門の諸氏で二千箱を輸出し、十一月、藤井孫八・千田三次郎両氏が渡米、
翌年一月帰国した。明治二十三年以来、毎年数量を増しつつ輸出したとの記録や口碑がある[和歌山縣の果樹 27 ・和歌山の柑橘 120 ・日本の
果物受容史 110]。
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柑橘栽培の歴史
・明治十八年、合衆国向け蜜柑輸出、全国合計 2,070 箱[北米輸出蜜柑数量表/和歌山縣の果樹 27]。・(注)みかん輸出の始まりである。
・明治二十三年、(和歌山県)伊都郡の木村錠之助・那賀郡の堂本秀之進ら三十余人を以て、伊都/那賀両郡の柑橘同業者団体[南陽社:明治
10(1877)年設立、段村の堀内爲左衛門社長]が温州みかんの北米輸出を始め、日本最初の輸出となる[桃山町史 8]。明治二十二(1889)年二千
箱、同二十三年一万六千箱を輸出した[桃山町誌 7/桃山町史 8/和歌山縣の果樹 27]。
・十二月二十二日、政府は太政官制を廃止して内閣制を採用、第一次伊藤博文内閣成立。初代農商務大臣は土佐(現/高知県)出身の谷干城
(1837-1911 年)であった[日本の果物受容史 110]。
・この頃、ミカンの液(果汁)に酒石酸の酸味を加えた「ミカン水」が新聞広告にみえる。ミカン水は洋酒と同じ扱いをうけ、値段も高価で一般に普及
するのは日清戦争後の明治 27-8 年頃であった[日本の果物受容史 110]。
・この年、柴田承桂訳『百科全書果園篇』が、東京有隣堂から発刊。・またこの頃、凶作のため各地で野草・木の芽・松葉のだんごを食用し、囚人
の食糧であった麦の搗殻を食べる者がふえ、麦の搗殻一升八厘に高騰した[前同]。
石灰ボルドー液 ・この年、フランスのボルドー大学教授/ピエール・ミラルデによって、石灰乳に硫酸銅液を加えた乳剤が葡萄の病害駆除薬として発見され、以
発見
来、農業用殺菌剤「石灰ボルドー液」として世界各地で使用されるようになる[国語大事典 21]。
除虫菊栽培
・除虫菊は明治十八年、和歌山県(有田郡)で初めて栽培され、その後全国に広まった。除虫菊の頭花を採り、乾燥したものを「除虫菊花」とい
い、粉末のまま殺虫剤としても用いられた[国語大事典 21]。有機合成農薬が普及するまで虫除けの「蚊取り線香」やスプレー式の「フマキラー」・
「キンチョール」の原料でもあった[薬用植物資源研究センターの歴史]。
明治 19(1886)年 ・「伊豫カン」は明治十九年に山口県阿武郡東分村の中村正路方に発見されたが起原は不明であり偶発実生らしい[日本柑橘圖譜下巻]。・大正
伊豫カン
十(1921)年に伊予果物同業組合が道後動物園の東隅に「伊予カン」の導入者/三好保徳翁の頌徳碑を建てた。その碑文に「夏蜜柑は萩(現/山
口県萩市)から明治十六年に携えて帰り、(中略)さらに同二十二年再び、萩の「穴門蜜柑」の穂木を求め、嫁接して苗木を育成して之を領布す。
今の伊予柑これなり」とある[愛媛県果樹園芸史 118]。
イセリヤ介殻虫
・この年、米国南加州で「イセリヤ介殻虫」の駆除に「松脂合剤」(松脂苛性曹達合剤)が初めて用いられ、また明治四十一(1908)年、台湾でイセリ
松脂合剤
ヤ介殻虫の駆除に試みられて以来、各地で応用された[和歌山縣の果樹 27]。
・明治 19 年、西郷(従道)海軍大臣より、イタリア産レモン 2 本、清国産金九年母 16 本、イタリヤ産金九年母 9 本、産地不明のブッシュミカン 1 本
西 郷 海 軍 大 将 / を寄贈され、鹿児島県苗木場、及び大島支庁種子島出張所にて栽植した[鹿児島県史 4 巻,小薗謙次/果樹農業発達史 14]。・(注)西郷隆興は、
外国産果樹寄贈 明治維新後、太政官に名前を登録する際、「隆興」をリュウコウと口頭で登録しようとして、訛っていたため役人に「ジュウドウ」と聞き取られ、「従
道」と記録された。しかし本人も特に気にせず、結局「従道」のままで通した。兄の西郷隆盛も本名は「隆永」で、「隆盛」とは彼らの父親/西郷吉兵
衛の諱であるが、兄の同志であった吉井友実が勘違いして父の名前を登録してしまった。隆盛、従道というのは諱であり、日常使用するのは通
称(隆盛は吉之助、従道は信吾)であった[Wikipedia/西郷従道]。
やなぎ ご う り
やなぎ
明治 20(1887)年 ・この年、(和歌山縣)有田郡の上山榮一郎氏が、除虫菊種子の交換として米国サンフランシスコへ蜜柑の輸出を試みた。容器は 柳 行李( 柳 の
こう り
若枝の皮を剥ぎ乾燥させて麻糸で編んで作った行李:バスケット)で、容器のほうが蜜柑より高く売れたという[和歌山縣の果樹 27]。
熊本県重要品種 ・熊本県における明治 20 年~昭和 41 年のかんきつ重要品種の定着年【温州みかん】「明治 20 年,在来系温州/県全域。明治 45 年,尾張系温州/
定着年
県全域。昭和 4 年,宮川(早生)/同。昭和 28 年,杉山/同。昭和 33 年,長橋,南柑 20 号,田上,平井/同,磯野/天草地域全域。昭和 41 年,興津早生,
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柑橘栽培の歴史
興津 3 号/県全域。【オレンジ】明治 40 年,ワシントン(ネーブル)県全域。【夏橙】明治 20 年,普通夏橙,/県全域。昭和 30 年,川野夏橙/宇土・八代・
芦北・天草地域・上養城郡養城町。【文旦】昭和 35 年,晩白柚/八代地域。昭和 25 年,八朔/県全域。明治 30 年,ポンカン/天草地域。[戦後果樹
農業技術発達史果樹編,昭和 44 年刊/熊本県果樹振興実績,昭和 45 年,三島恭一/果樹農業発達史 14]。
山口県奨励系統 ・山口県の奨励系統/「山本系」は、明治 20 年頃、大島郡西方村長崎(現/東和町)の山本万之丞が発見し、接木をして普及につとめ、度々品評
の山本系温州
会に入賞した。明治 37 年頃よりみかん栽培が奨励され、同系統が広められた。園芸試験場の恩田鉄彌氏に認められ、これを「山本系」と命名し
た。昭和 27 年、山口県の奨励系統として、本系統の母樹園を設置し現在に至っている[東和町,厚母満好/果樹農業発達史 14]。
大八車を笑った ・明治 20 年になって(愛媛県)北宇和郡喜佐方村(現/吉田町)の大下幸次郎は、大分県より大八車を導入した。この当時は、農家が非常に小規
模であったため、大八車さえ無益に思われたらしく、村人たちは笑った[愛媛県果樹園芸史,愛媛県/果樹農業発達史 14]。
し
な
明治 21(1888)年 ・ヤノネ介殻虫は支那(中国)原産で、長崎縣伊木力村(現/諫早市多良見町)で初めて本虫に気付いたのが明治二十一,二年頃と云われ、明治四
やの ね かい が ら む し
ヤノネ介殻虫
ま ん えん
十年、桑名博士によって「矢根介殻虫」と命名された。その後、苗木・穂木などによって各地に伝播蔓延した。和歌山縣に於いては、大正十二
(1923)年二月、海草郡仁義村(現/海南市下津町の東部)で発見された。その伝播経路は詳でないが、穂木によって香川県から入ったとする説と、
愛知県から購入した苗木によって伝播したという説がある(後略)[和歌山縣の果樹 27]。
明治 22(1889)年 ・静岡県小笠郡大池村(現/掛川市大池)の高島甚三郎氏は、明治二十一(1888)年に、義弟/安田七郎氏の斡旋で、ネーブル苗木十本を(カリフォ
ネ ー ブ ル オ レ ン ルニアから)取り寄せたが到着の際に既に枯死していた。翌(明治 22)年、更に五本を輸入し、明治 24-25 年に静岡・和歌山・兵庫・愛知の諸県に
ジ苗木輸入
配布したと云う[北神貢著/最新柑橘栽培書(明治 36 年刊)/果樹園芸学上巻 33/静岡県柑橘史(昭和 35 年 2 月刊)鈴木寛治/果樹農業発達史
14]。
・明治 18 年、(和歌山県那賀郡)安楽川村段の堀内仙衛門は、みかんを(米国に)輸出、同 22 年、開進社の特派員/千田三次郎に照会、ネーブ
ル苗木二本を輸入。(それを)母樹として苗木を育成、同 29 年、一万本を作る。同 27 年に高接ぎし、同 29 年、九果成る。味良く、試食会、産業
博覧会にて結果(成績)良く全国より苗木注文(あり)、盛況。同 35 年、米国に輸出し好評を博した[「土に生きる人々」(ポプラ社発行),山崎實夫/果
樹農業発達史 14 」。
明治 23(1890)年 ・明治 23 年、和歌山県那賀郡(安楽川村壇)の堀内仙右衛門(1844-1933 ,現/紀の川市桃山町段)、堂本秀之進(1864-1940)、藤井孫八、藤田繁
之助ら温州ミカンを米国カルフォルニア州に輸出するも、彼地産のネーブルオレンジに圧倒される。このためネーブル苗 2 本を導入。彼等が中
心になってミカン直輸出会社/南陽社を設立、ミカン輸出は順調に伸びなかったが有田地方より品質劣る紀北地方のミカン農家にとって海外市
場はきわめて重要であったといわれる[村上節太郎著/柑橘栽培地域の研究(1967 年)経済理論 292 号,和歌山大学発行]。
ワシントンネーブ ・この年(明治 23 年)、和歌山県那賀郡安楽川村段の堀内仙右衛門(爲左衛門)氏らが米国からワシントンネーブルの苗木二本を輸入、繁殖して
ル苗木輸入
百合山で栽培始める。日本のネーブル栽培の先駆けとなる[和歌山縣の果樹 27]。・(注)米国のワシントンネーブルは 19 世紀初めにブラジルの
バイア州で「セレクタオレンジ」の枝変わりとして発生し、これをワシントンのアメリカ農務省に送り、「ワシントンネーブル」と命名され、 1873(明治 6)
年カリフォルニア州に送られ、オレンジ産業の隆盛の基礎となった[園芸植物大辞典 103]と云うから、その 17 年後にして、ワシントンネーブルが
和歌山縣那賀郡安楽川村に入ったことになる[編者]。
たま り
き ぞう
明治 24(1891)年 ・明治 23-24 年頃、農科大学(後の東大)教授/玉利喜造(1856-1931 年)がワシントンネーブルオレンジ(ブラジルのバイア地方原産)を日本に初め
て導入される[福羽逸人著,果樹栽培全書]。・また、明治 24 年 3 月、和歌山県那賀郡開進組の千田三次郎氏は、在米の和歌山県人/堂本譽之
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柑橘栽培の歴史
進氏よりワシントンネーブル苗木 2 本を譲り受けて持ち帰り、 1 本を同郡の堀内仙右衛門氏に、他の 1 本を同郡の堂本秀之進氏に分かちたり。
堀内氏は、翌年 20 本を嫁接ぎして 11 本活着。明治 26(1893)年には堂本氏の苗木が枯死したので、堀内氏は 2 本を分譲、追年繁殖して増殖
を計れり[北神貢著,最新柑橘栽培書,明治 36 年刊]と云う。従って、我が国のワシントンネーブルは、明治 22-24 年の間に数人の手によって輸入
されたことが分かる[果樹園芸学上巻 33]。
石油乳剤
・本邦で明治二十四年示(紹介)された石油乳剤が、以来、柑橘のイセリヤ介殻虫の駆除の駆除に用いられた[和歌山縣の果樹 27]。
明治 25(1892)年 ・明治 25 年、大分県津久見市青江(当時は青江村)の川野仲次氏園の普通温州の一枝が変異(枝変わり)を起こした。それが早生温州(青江早
頃
生)の始まりである。明治三十年十月には、宮崎勝蔵氏園で初めてキコク台木に接いだミカンが結果。宮崎氏は、この品種の有望性を村内の人
青江早生発見
に説いたが、ミカンの研究に耳を傾ける者はおらず、下村衛十郎氏だけが賛成し「早生」と命名した(青江早生)[果樹農業発達史 14]。
・明治 25 年、(静岡県)志太郡岡部町子持坂の杉山力蔵が、和歌山県那賀郡安楽川村の堀内仙衛門からネーブル苗を購入して植え付ける[静
岡県柑橘史(昭和 35 年 2 月刊),鈴木寛治/果樹農業発達史 14]。
明治 27(1894)年 ・朝鮮進出を図る日本(軍)は、朝鮮の宗主権を主張する清国(中国)と対立、東学党の乱で清国が出兵したとき、天津条約に基づいて対抗出兵、
明治二七年七月、豊島沖海戦で戦争が開始された。日本軍は平壌・大連・旅順などで勝利を続け、翌(28)年三月までに日本陸軍は遼東半島を
日清戦争
完全に制圧し休戦成立。四月に講和条約(下関条約)が締結された(日清戦争)[国語大事典 21]。
ネーブル結実
・明治二十七年、(和歌山県那賀郡)安楽川村段の堀内爲左衛門氏、庭先の(ミカン)老樹にネーブルを高接し、同二十九年、初めて九果の結実
すこぶ
をみる。美果で味 頗 る佳なり[安楽川尋常高等小學校編:安楽川村誌(昭和 8 年 12 月発行)47]。
明治 28(1895)年 ・徳島県で明治 28 年、池田伴親博士を迎え、徳島市において果樹栽培講習会を開催し初めて、みかんの「そうか病」の予防のため、石灰ボルド
石灰ボルドー液 ー液の散布が行われた[「徳島の果樹」(1961 年),山本弥栄/果樹農業発達史 14]。
ひ かた
明治 29(1896)年 ・四月一日、郡制の施行のため、和歌山縣名草郡・海部郡の区域をもって海草郡が発足。郡役所を宮村(現/和歌山市秋月)に設置。日方村が町
海草郡発足
制施行して日方町となる(1 町 41 村)[日本地名大辞典 30(和歌山県),角川書店 17]。
蜜柑水
・和歌山県有田郡広村の名古屋伝八が、日清戦争(明治 27-28 年)後、温州みかんを搾汁して、「蜜柑水」と称して瓶詰工場を設立したが、殺菌
/和歌山の柑橘 120]。
椪柑/ポンカン
・「椪柑/ポンカン」は、インドアッサム地方原産で中国に伝わり、台湾に 18 世紀末に伝わった。わが国には明治 29 年に台湾から鹿児島県に苗
木を導入して栽培が始まった。腰高で大果、 200~250 gの高しょう系と、味は濃厚だが扁平で小さい低しょう系がある。首の部分が凸で果頂部が
凹になっている。中国では凸柑、壺柑、乳柑と書かれるが形をよくあらわしている。果肉は柔軟、多汁で美味しいかんきつナンバー・ワン[農林水
産食品産業技術振興協会/読み物コーナ,森本純平:みかんとその仲間たち/ポンカン]。
明治 30(1897)年 ・石灰ボルドー液の最初の実用は明治三十年、茨城県牛久の葡萄園で、明治三十九年頃より静岡県の温州みかんに応用され、明治四十一年
前後
より一般に広く使用されるようになった。青酸ガス燻蒸に関する日本最初の文献は、松村松年著「害虫駆除全書」(明治 30 年版)である。農商務
石灰ボルドー液 省農事試験場の桑名伊之吉氏の研究により、各県に奨励された。静岡県には、明治 41 年に県下の「イセリヤカイガラムシ」・「ルビロームシ」の駆
青酸ガス燻蒸
除に試みられ、その後、野口徳三氏によって多くの研究が行われ、静岡県に広く普及した[小島銀吉著,農用薬剤学/内田邦太・野口徳三共著(大
正 14 年 1 月刊),西野 操/果樹農業発達史 14]。
・この年以降、(和歌山縣那賀郡)安楽川村段の堀内爲左衛門氏ら、ネーブル苗木を年々三十万本、果実二万五千箱を収穫して各地に輸出、世
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柑橘栽培の歴史
に爲左衛門氏をネーブル王と呼ぶ[昭和 8 年刊,安楽川村誌 47]。
・本邦で初めて石灰ボルドー液が用いられ、明治四十年、初めて用いられた石灰硫黄合剤は、今日(昭和 29 年現在)、なお柑橘栽培に欠くこと
の出来ないものであり、明治末期に相当量使用されたことは、[本場の柑橘/明治 45 年刊]でも窺われる[和歌山縣の果樹 27]。
広島県のかんき ・紀州人は、(温州みかんの輸出を)大陸に求め、明治 30 年頃から朝鮮・(中国)広東州に向けて輸出したと伝えられる。その数量は明らかでない
そ しやく ち
つ類病害虫防除 が、朝倉金彦著「蜜柑の紀州」によれば、「満州方面の輸出は、明治 38 年、大連が我が国租 借 地(相手国の合意におって他国の領土の一部
を、一定の期間を限って借りること)とななりし時、紀州那賀郡・伊都郡の輸出業者により開始せられ、現今に及び、多き年は 270 万箱以上に達
し、少なくとも 100 万(箱)を下らず。朝鮮方面は満州より尚早く、満州輸出開始の時は、既に盛ん輸出されて居り、(中略)その数量は 100 万箱に
達せんとする盛況なり」と。(後略)[和歌山の柑橘 120]。
あげはちよう
・(広島県における)明治 30 年頃のかんきつ類の病害虫(防除)は、天牛・カイガラムシ・ 鳳 蝶幼虫・煤病・ジカキムシ(エカキムシ?)などで種類も少
く さ ぼうき
なく、防除法もいたって幼稚であった。天牛については、針金で幼虫を突刺し、カイガラムシは石油の石鹸,生石灰加用液を草 箒 又は蚕室用の
撒(散)水器で潅注するありさまであった。なかには、石灰・硫黄・食塩の混合液などを局処(所)に潅注するものもあった。また煤病については、ま
せんじゆう
ずカイガラムシを駆除した後、小麦粉を水でうすめ晴天に葉上に散布するとか、地方によっては麺類の煎 汁を注ぐありさまであった[広島県農業
あなぐら
発達史 2 巻(昭和 37 年 10 月 1 日発行),谷本七五三丙,池上勇三/果樹農業発達史 14]。
あなぐら
温州みかん 窖 ・明治 30 年、神奈川県(中郡)中部国府村(現/大磯町)寺坂の杉崎住吉氏により、温州みかんの 窖 貯蔵が始められ、 4 月まで完全な貯蔵に成
貯蔵始め
功した。明治 37 年には足柄下郡前羽村(現/小田原市東部)に初めて土蔵式専用貯蔵庫が建設された。なお、農業試験場園芸部が貯蔵庫を建
設して試験を開始したのは、大正 2 年からである。一般に優良な貯蔵庫が建てられ長期貯蔵が増加したのは昭和初期からである[「神奈川のみ
かん」(昭和 35 年),大垣智昭/果樹農業発達史 14]。
明治 31(1898)年 ・ 2 月、静岡県熱海町の小松清一が、アメリカより「ジョッパオレンジ」の苗木六本を輸入した[静岡県柑橘史(昭和 35 年 2 月刊),鈴木寛治/果樹農
ジョッパオレンジ 業発達史 14]。
明治 32(1899)年 ・明治初年から欧米文化の輸入と共に果樹園芸も次第に発達したが、(柑橘の病害虫も)古くから存在したものもあるが、苗木・種子に附着して、
かい よ う びよう
病害虫の輸入
明治中世(中期)に「ヤノネカイガラムシ」・「ルビロームシ」・「イセリヤカイガラムシ」・「潰瘍 病 」などの悪性病害虫が輸入せられ、各地に伝播して
かい よ う びよう
しようけつ
潰瘍 病 発生
猖獗(勢い盛んで荒れ狂う)を見た。即ち、(柑橘)潰瘍病は、明治三十二年、外国より輸入したネーブルオレンジ・グレープフルーツに発見せら
き
れ、ネーブルオレンジ栽培に大恐慌を来した。本(和歌山)県には、明治三十四年、(和歌山縣)那賀郡安楽川村でネーブルオレンジの苗木や枳
こく
穀に発生をみたのが最初で、明治三十五年には有田郡に於いてもネーブルオレンジの果実に病斑をみている(後略)[和歌山縣の果樹 27]。
・明治 32 年、(静岡県)引佐郡三ヶ日町の大谷豊太郎が、兵庫県稲野村の坂上平右衛門より 100 本のネーブル苗を購入し、 60 本を自身で栽植
し、 20 本を夏目巳之助、 15 本を夏目駒治、 5 本を佐藤伊平に、それぞれ領布する[静岡県柑橘史(昭和 35 年 2 月刊),鈴木寛治/果樹農業発
達史 14]。
明治 33(1900)年 ・ 9 月1日、産業組合法が施行され各町村に産業組合が設立される[和歌山県,「那賀郡誌」 12-上]。
き こ く
かい よ う びよう
明治 34(1901)年 ・明治。三十四年、和歌山縣那賀郡安楽川村に於いてネーブルオレンジの苗木や枳穀に「柑橘潰瘍 病 」の発生を認めたのが最初で、同三十五
かい よ う びよう
潰瘍 病
じ らい
年には有田郡にも果実に病斑をみている。爾来、ネーブルオレンジの栽培が盛んになるに伴い、縣下各所でネーブルオレンジや夏橙に(潰瘍病
じ よ ちゆう ぎ く
和歌山縣安楽川 の)発生が認められるようになった。また、明治三十四年、初めて「除 虫 菊乳剤」(六液)が作られた[和歌山縣の果樹 27]。
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柑橘栽培の歴史
村で潰瘍病発生
除虫菊乳剤
明治 35(1902)年 ・六月、静岡県庵原郡興津町(現/静岡市清水区)に農商務省農事試験場園芸部(園芸試験場の前身)が創られた[NARO 農研機構果樹試験場
カイガラムシ
イセリア介殻虫
沿革]。
早 生 温 州 /青 江 ・十一月、「(青江)早生温州」は、広島県豊町大長の秋光八郎、木下慶造の二人が九州地方のかんきつ視察の際に、大分県北海部郡青江村(今
早生
は津久見市青江)の川野伸治の園で普通温州より 1 ヶ月も早く熟する早生種を発見したのに始まる[愛媛県果樹園芸史]。・(注)「青江早生」は、
明治 25 年に発見されている[果樹農業発達史 14]。
カイガラムシ
・イセリア介殻虫は豪州(オーストラリア)原産で明治三十五年頃、豪州から台湾へ入り、明治四十四(1911)年、九州へ、また明治四十一(1908)年、
静岡県(庵原郡)興津町(農商務省園芸試験場)へ北米より、オレンジ・レモンの苗木に附着して輸入され、明治四十四(1911)年頃に被害が大とな
った。和歌山縣では大正三(1914)年四月、有田郡田殿村船坂(現/有田川町船坂)に初めて発生をみた。また海草郡下津町小原(現/海南市下津
町小原)の柑橘園にも発生がみられた[和歌山縣の果樹 27]。
伊木力みかん
・十二月、長崎県西被杵郡農会総会が開かれた折、郡下で生産されるみかんの呼称を「伊木力みかん」と統一した[「長崎県果樹農業の沿革」,
月川雅夫/果樹農業発達史 14]。
和歌山縣農會農 ・(和歌山)縣農會設置せらるるに及び、其の施設事業の一つとして(明治)三十五年より農事試験場を設置し、米麦菓樹蔬菜等に関する各種の試
事試験場
験を施行して一般当事者の参考に供することとなせり。又海草・那賀・有田の三郡に柑橘肥料に関する試験地を置き、熱心なる当業者に試験を
委託し、柑橘肥料の改良を促すこととせり。然るに(明治)四十一年度より、縣事業としてこれが試験をなすに至りしを以て各種試験の全部を廃し
て縣に移せり[和歌山縣誌第二巻 42]。
ずいむ し
う
ん
か
めいれい
は ま き むし
つばき ぞ う
明治 37(1904)年 ・一月、(和歌山縣は)害虫駆除予防施行細則を定めて、(中略)害虫の種類を、一、螟虫、二、浮塵子、三、螟蛉(青ムシ)、四、葉巻虫、五、 椿 象
むし
てんぎゆう
かい が ら む し
せんせ き
虫、六、天 牛 (カミキリムシ)、七、介殻虫、八、蛅蜥(イラムシ?)の八種となし、其の駆除予防法を示し、四十四年七月、病虫駆除予防督励員を設
置し、縣/郡の官吏及び農事試験場技術員を以て之に任じ、又警察官吏の応援は病虫駆除予防上、効果の大なるを認め、警部補を監督員とな
し、協力して作物病虫害駆除予防及び、海外輸出蜜柑検査の指導督励をなさしめたり[和歌山縣誌第二巻 42]。
日露戦争
・日本とロシアが、満州・朝鮮の支配権をめぐって戦争起こり、明治三十七年二月、宣戦布告。日本は旅順攻撃、奉天会戦、日本海海戦などで
勝利を収めたが戦争遂行能力が限界に達し、ロシアも相続く敗退や国内の革命勃発などによって戦争終結を望むようになり、同三八年九月、ア
メリカ大統領ルーズベルトの斡旋によりポーツマスで講和条約を締結[国語大事典]。(日露戦争)
米国よりトムソン ・ 4 月 22 日、(静岡県)田方郡西浦村の海瀬伊右衞門が、アメリカ合衆国カリフォルニア州リバーサイドに居住する同郷出身の天城太郞に依頼し
ネーブルオレン て「トムソン ネーブルオレンジ」、「バレンシャ レート」などの穂木を輸入した[静岡県柑橘史(昭和 35 年 2 月刊),鈴木寛治/果樹農業発達史 14]。
ジ/バレンシャ レ ・明治 37 年、(和歌山県海草郡加茂村の)楠瀬義太郎氏が渡米、レモンの価値高きを知り、砂糖大根に穂木を挿して送ってきた。之を(現/有田
ート穂木輸入
市)初島の人が接木して苗木を作った。しかし多く栽培した形跡はない。レモンは当地に不適のためか、又当時我が国での需要が少なかった爲
レモン穂木輸入 か[和歌山県海草郡加茂村大字中(現/海南市下津町中),「恩田鉄也/内田郁太共著/実験柑橘栽培法」(大正 3 年 8 月発行),楠瀬義太郎氏孫/彰
一氏より聞き取り,山本忠一/果樹農業発達史 14]。
紀州有田柑橘同 ・(和歌山県有田郡では)、郡長・有志相計り、(明治)三十七年以来、重要物産同業組合法に依り、「柑橘同業組合」を組織せんとせしが、議容易
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柑橘栽培の歴史
業組合
に成らず、(同)三十八年七月に至り、栽培者四千餘人の一致を得て、初めて「紀州有田柑橘同業組合」を組織するに至たれり[和歌山縣誌第二
巻 42]。
・神奈川県におけるみかんの貯蔵は、明治 30 年頃、むしろ貯蔵として行われていたが、明治 37 年、足柄下郡前羽村の石塚八郎氏が土蔵式の
土蔵式専用貯蔵 専用貯蔵庫を建てたのが本県では初めてである。その後、先進地の大阪、静岡などの建築様式を取り入れ、大正末期から蚕棚式のものが作ら
庫
れ、断熱とともに吸気と排気の工夫がこらされ、(昭和 45 年)現在では(コンクリート)ブロック、鉄筋、新建材利用のものや、恒温恒湿貯蔵庫まで飛
躍的に増築されている[「神奈川県の園芸(1956 年)」,「神奈川のみかん(1960 年)」小田原市久野,櫛田敬蔵氏より聞き取り,二見重男/果樹農業発
達史 14]。
明治 38(1905)年 ・「紀州有田柑橘発達史」(中西英雄著/大正 15 年刊)には、「日露戦争(明治 37 年 2 月-同 38 年 9 月)以前に、(現/和歌山県)有田郡の上山英
ご けん だい
朝鮮・中国・ロシ 一氏が、安東県(朝鮮半島南部)・大連(中国遼東半島の南端の港湾都市 )・ウラジオストック(ロシヤの極東都市)に広大な支店を建築して、五間大
にち ろ
ヤに蜜柑売込み (11 ㍍)の看板を掲げて異国人の眼をひき、露国人(ロシヤ人)・支那人(清国人)は、「上山みかん」と呼んだ」とある。更に、「上山氏は、日露戦争
(明治 37~8 年)中、戒厳令下のシベリヤを(蜜柑売り込みの)旅行して捕らわれの身となるなどの危険を冒して販路開拓に腐心した」と記されている
[和歌山の柑橘 120]。
大陸輸出蜜柑
ウ ラ ジオ
・明治三十八年大陸輸出蜜柑数量表「(全国)「浦塩(ロシヤ)向 29 万 5 千 902 貫、中華民国向 42 万 3 百 9 貫、朝鮮向 50 万 5 千 40 貫」[和歌山
縣の果樹 27]。
そ しやく ち
・明治三十八年、大連(現/中国/遼東半島の南端に近い港湾都市)が我が国の祖 借 地(他国の領土の一部を一定期間を限って借りた土地)となっ
たのを契機として、(和歌山県)那賀・伊都の輸出業者によって大陸各地への輸出が始められ、(中略)大陸進出に伴い漸次増加した。その数量は
全国生産量の 20-25 %に及び、本(和歌山)県はその 70 %以上を占めた。それは本県生産量の 50 %に当たるものであった。この大きな市場を
大戦(太平洋戦争)末期に失い、今日(昭和 41 年)なお再開の見込みがない[和歌山の柑橘 120]。
柑橘のせん定整 ・明治 38 年、農商務省農事試験場(興津)に石原助熊が技師として着任、フランス留学で得た落葉果樹のせん定(法)を柑橘に応用し、柑橘独特
枝技術
のせん定・整枝技術が次第に確立されるに至った[薬師寺清司/園芸学全編 128]。
明治 39(1906)年 ・明治 39 年、神奈川県でミカンの剪定技術が初めて主要産地の足柄下郡土肥村(現/湯河原町)に普及講演された。一般栽培者に広く指導され
ミカン剪定技術
るようになったのは、昭和 8 年に足柄上郡において、昭和 9 年に足柄下郡で開かれた剪定講習会からである[「神奈川県のミカン(昭和 35 年発
行)」,大垣智昭/果樹農業発達史 14]。
剪定技術の導入 ・静岡県におけるみかん剪定技術の導入は、明治 39 年、志太郡長に前任地/愛知県より赴任した寺田栄実氏が、愛知県ではみかんに剪定を施
して理想的な柑橘園経営を行っている例をあげ、志太郡下にも奨励する。そこで志太郡柑橘同業組合は愛知県挙母町の剪定師/若林高久氏を
招いて、この年より 3 ヶ年にわたり郡下の主要町村でみかん剪定の実地指導を行った。これが静岡縣下に剪定技術の伝えられた初めである[静
岡県柑橘史(昭和 35 年 2 月),鈴木寛治/果樹農業発達史 14]。
噴霧機
・この年、和歌山縣有田郡保田村山田原の上山英之助氏が(蜜柑園の防除に)、日本で初めて米国製サクセス型噴霧器を使用して農薬散布し
輸 出 蜜 柑 /硫 酸 た。・(また)東兄弟商会は、輸出蜜柑(包装)に硫酸紙を使用した[和歌山縣の果樹 27]。・(注)輸出蜜柑はその後、硫酸紙で個装して箱詰めした。
紙個装
これは、何日もかかった海上輸送の途上での腐敗の伝播を防ぐためであった[著者]。
・「機械油乳剤」が明治三十九年、北米フロリダの介殻虫駆除に使用したのが始めで、本邦では大正五(1916)年に試みられた後、大正十四年、
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柑橘栽培の歴史
機械油乳剤
石井博士によって奨められて以来、重要な介殻虫駆除剤として、石油乳剤に代わって廣く用いられてきた。機械油乳剤が和歌山縣で一般的に
柑橘園に用いられ始めたのは昭和に入ってからである[和歌山縣の果樹 27]。
静岡県のみかん ・(ボルドー液の使用に関する)本邦最初の文献は、明治 25 年、小島銀吉著「作物病害編」で、農商務省農事試験場技師/堀正太郎が試験研究
園で石灰ボ ルド し、本邦に広く奨励した。本邦における最初の使用例は、明治 30 年、茨城県牛久のぶどう園である。明治 39 年頃より静岡県の温州みかん園に
ー液使用
応用され、明治 41 年より一般的に広く使用されるようになった[内田郁太/野口徳三共著「農用薬剤学」(名文堂発行)大正 14 年 1 月 2 日,西野操
/果樹農業発達史 14]。
明治 40(1907)年 ・明治 40 年、長崎県でヤノネカイガラムシ駆除のためのガス燻蒸室を縣立農業試験場に設けて実施した。同 41 年、現地試験を県下 21 カ所で
ガス燻蒸現地試 実施した[長崎市中川郷(農事試験場)業務功程,月川雅夫/果樹農業発達史 14]。
たね な し
り
ふ じん
験
・この年発刊の「 The Fruit Culture in Japan/池田伴親著」に掲載されたかンきつ品種「温州(サツマ/核無/李夫人/中島蜜柑)・平蜜柑・九年母・小
かンきつ品種
蜜柑・唐蜜柑・柑子蜜柑(ドロ柑子/金柑子)・紀州蜜柑(紀ノ国蜜柑)・シラワ・柚柑・八代蜜柑・エタミカン・ウスカワミカン・紅蜜柑・絹皮蜜柑・ダイト
ウ蜜柑・山蜜柑・フクレ蜜柑・桜島蜜柑・椪柑・桶柑・スイ柑・橘・ビターオレンジ(旭柑/鳴門柑/夏橙/天狗蜜柑(シゲトシ/金九年母)/伊豫蜜柑)・文
旦[山吹蜜柑(宇樹橘),文旦(ボンタン),ザボン(ジャボン,ザンポ),ジャガタラ,内紫]・金柑[丸実金柑,長実金柑]・スイートオレンジ[金九年母(朝鮮橙),
サツマオレンジ)]・その他[スダチ・柚・日向夏蜜柑][同書/果樹農業発達史 14]。
柑橘奨励保護
・(和歌山縣は)近時、農事試験場・縣農會・同業組合を監督保護して、柑橘の奨励保護をなせり。即ち縣農會に於いては技術員を派して、柑橘
病害虫實地講習 に関する講習講話を開設し、栽培法の改善・病虫害の防除等を指導し、殊に(明治)四十年度より、病害虫駆除予防實地講習會を各郡に開きて
/噴 霧 器 購 入 助 駆除予防を督励し、四十一年度より噴霧器を購入したる者に対し奨励金を交付し、以て益々病虫害の防除を奨励しつつあり。縣立農事試験場
成
にては、農商務省の委託を受けて、瘡痂病予防試験、介殻虫駆除試験、苗木害虫燻殺試験、定植樹害虫燻殺試験及び蜜柑輸出荷造試験を
施行し、(中略)品種試験及び肥料試験を行ひ、又苗木養成者若しは販売者、又は移植せんとする者の希望に応じ、薬品の実費及び運賃を負
石灰ボルドー液 担せしめて青酸瓦斯の燻蒸を行ひ、害虫の撲滅を図り、其の他技術員を各地に派して斯業の改良発展に努めつあり[和歌山縣誌第二巻 42]。
そ う か びよう
瘡痂 病
・明治四十年に和歌山縣有田郡の柑橘園で「石灰ボルドー液」が使用され、明治四十三年、海草郡下津町鰈川の高石憲治氏の柑橘園に有田
石灰硫黄合剤
郡宮原村から石灰ボルドー液の調整・散布指導を受けて「瘡痂 病 」防除を実施したという。(また)・明治八年、米国で創製された石灰硫黄合剤
半自動噴霧機
が、本邦では明治四十年、初めて用いられた[和歌山縣の果樹 27]。
そ う か びよう
肩掛け式/ハンド ・明治 40 年、大分県国東郡国見町でボルドー液散布のため、当時(の)農会の世話により半自動噴霧機が 2 台導入されたのが始まりである。そ
ブラザー/低圧方 の後、肩掛け式が入り、昭和になってハンドブラザーも導入されてきた。昭和 28 年より低圧方式が始まった[大分県国東郡国見町櫛海,上野茂氏
式
より聞き取り,植田善理/果樹農業発達史 14]。
温州みかんの大 ・明治 40 年代に和歌山県伊都郡九度山町慈尊院の阪中由太郎は、神奈川県国府津の井上仙蔵の経営を参考に温州みかんの大規模経営を
規 模経 営 農 地 し、昭和年代に入って 20ha を同町椎出で経営すると同時(とも)に、静岡方面より満鮮出し(輸出)のみかん輸出業者として活躍した。しかし戦後、
解放で廃園
(昭和 22~25 年)農地解放で滅畑(廃園)した[伊都郡九度山町椎出,「九度山町慈尊院,阪中 守氏より聞き取り,辻本啓治/果樹農業発達史 14]。
しよう し ご う ざい
く ん じよう
ひようちゆう
明治 41(1908)年 ・(和歌山縣では)明治四十一年、イセリヤア介殻虫が発見されるや、松脂合剤・青酸ガス燻蒸が実施され、また、天敵ベタリヤ 瓢 虫 (テントウムシ)
の利用が始まったのもこの時代である[和歌山縣の果樹]。
噴霧器購入補助 ・明治四十一年、(和歌山)縣農会は、柑橘病害虫予防奨励の法を設け、柑橘を害する介殻虫及び瘡痂病等を防除するか爲に、噴霧器を購入し
- 38 -
柑橘栽培の歴史
金
たる者に対し、補助金を交付しつつあり、柑橘病虫の駆除予防は著しく進歩せり。明治四十一年、縣立農事試験場を開設することとなし、海草郡
か く りゆう と う
和歌山縣立農事 和歌浦町鶴立島に面積四町二反七畝歩の地を相して本場を設置し、三町五反歩を以て試験地となし、専ら果樹及び園芸植物の試験を施行せ
試験場
り。別に種藝部を海草郡宮村太田(現/和歌山市太田)に置き、縣農會の試験地たりし水田九反歩を以て之に充つ。同四十四年十月、種藝部を
日高郡御坊町に移し、面積二町三畝歩を以て、普通農事に関する試験を施行せり(後略)[和歌山縣誌第二巻 42]。
ナ ベ レ ン シ ャ 穂 ・明治 41 年、内田郁太が(静岡県庵原郡)庵原村の西ヶ谷司吉の依頼を受け、米国(苗木商)フレスノのファンサー・クリークナーセリー会社より「ナ
木輸入高接ぎ
ベレンシャ」(穂木)を輸入し、西ヶ谷司吉の園に高接ぎする[静岡県柑橘史(昭和 35 年 2 月刊),鈴木寛治/果樹農業発達史 14]。
青酸ガス燻蒸現 ・昭和 41 年、長崎県農試では、ヤノネカイガラムシ駆除のため、青酸ガス燻蒸の現地試験を県下 21 カ所で実施した。現地での青酸ガス燻蒸と
地試験
しては県下で最初の試みであった[長崎県果樹農業の沿革,月川雅夫/果樹農業発達史 14]。
明治 42(1909)年 ・明治 42 年頃、(千葉県)安房郡岩井町宮谷の福原鼎司が、柚に「ジョッパ」を高接ぎしたが活着発芽せず、 3 年目に穂(木)と台(木)の境目から
福原オレンジ
発芽したのが本種(福原オレンジ)である。ジョッパの枝変わりとする説と、接木変異とする説があるが判然としない。昭和 5 年に野呂癸己次郎氏
により広く紹介された[浅見与七他,原色果物図説,富山町宮谷,福原周平氏(故人)談,平野 暁/果樹農業発達史 14]。
せん定指導書
・明治後期になると、恩田鉄弥著「園芸講義」(明治 42 年刊)、草野計紀著「果樹選定整枝法」(明治 43 年刊)など多数のせん定指導記事がそれ
ぞれ出版書にみられ、次第にせん定の輪郭がはっきりとしてきた[薬師寺清司/園芸学全編 128]。
みかん貯蔵庫
・愛媛県で最も早く貯蔵庫を造ったのは、松山市東野町の村丸寿平で、明治 42 年に建てている。その後、各地の熱心家が、ボツボツその必要
にせまられて貯蔵庫を建てたが、当初のものは地下室を造ったり、半地下式にしたものが多かったようである[「愛媛県果樹園芸史」,愛媛県/果樹
農業発達史 14]。
明治 43(1910)年 ・明治四十三年、重要農物産同業組合法の公布によって(和歌山縣は)全国にさきがけ、伊都・那賀・海草・有田の紀北四郡に(柑橘同業)組合が
郡柑橘同業組合 結成され、各郡自主的に運営してきたが資金もなく、事務所をもつなどは夢であって間借りするもの、組合長の自宅を事務所に充てる等で会合
等は主産地の寺院等を臨時に借りて開く有様であった。縣連合会の必要を痛感、四郡相寄り(和歌山縣柑橘同業組合)連合会を結成し、和歌山
柑橘技術員
市に事務所を設けた。大正中期から益々生産量も多くなり、その品質も向上するに従い、(和歌山縣)連合会並びに各郡同業組合は技術員を設
ひ えき
ま ん せん
置する様になり、生産者に裨益するところ大であった。此の時期迄は伊都郡・那賀郡のみが北米や満鮮(満州・朝鮮)へ輸出していたが、海草・有
いよ いよ
田(郡)も加わり輸出するようしなったので、愈々事業も活発になり、その基礎をかためた。一方、縣農会との協定も出来、各郡組合には、縣費支
弁技手(設置の)恩恵を受け、愈々活発な生産指導に乗り出した。(中略)新しい病害虫も漸次増してきたが、縣立試験場の指導と相俟って優品を
きも い
柑橘満鮮輸出
多量に産する様になった。(中略)全国的なつながりの必要を感じ、興津(農商務省)園芸試験場長/恩田鉄世(彌)博士の膽入りで日本柑橘中央会
連合会(組織化を)静岡・神奈川・愛媛・広島の柑橘同業組合と相謀り結成。初代会長に恩田博士を推し政治的活躍を始め、現在の日本園芸農
だいれん
和歌山県有田郡 業協同組合連合会・日本果樹園芸研究青年同志会(設立)の基礎的役割をなした。同業組合(和歌山)縣連合会は大連(中国、遼東半島の南端
農会園芸試験場 に近い港湾都市)に販売斡旋所を設け駐在員を常駐し、その利便を組合員から感謝されたことは特筆すべきである(後略)。昭和初期まで(温州
設立
みかんの)満鮮輸出は殆ど本縣の獨占であったが、年々生産量増加に伴ひ、日本柑橘満州國輸出組合の組織を中央大会に提出決議して全国
的統制連絡をとることに成功した(後略)。・この年、(和歌山県)有田郡農会は園芸試験場設立を決議、同四十三年、有田郡田殿村井ノ口一三〇
に、(有田郡農会)園芸試験場事務所を建設、同四十五年、(試験)圃場が開墾された[和歌山縣の果樹 27]。・(注)有田郡農会園芸試験場は和歌
山県果樹園芸試験場の前身[編者]。
- 39 -
柑橘栽培の歴史
・この年、(和歌山県の)みかん一箱(二貫五百匁、荷造り費含む)荷主手取りが東京・横浜送り三十五銭から四十銭。同/名古屋送り二十四銭から
みか ん手取 り貫 二十八銭。東京への汽船(定期航海)運賃一箱当り二銭五厘~三銭。東京へ百五十万箱、名古屋へ十五万箱送る。有田郡の柑橘(生産量)五百
当 り 一 四 銭 ~二 五十七万八千四百四十四貫。この価格六十一万八千二百八十円。米の生産額九十四万四千百六十八円。米一石の値段十三円二十七銭[和
十銭
歌山の柑橘 120]。
・和歌山県に於ける「日向夏」は、明治四十三年、(有田郡農会)園芸試験場設置当時、朝倉金彦場長により高知県(長岡郡)新改村利親(現/土佐
山田町新改)より苗木二百本を導入したのが始まりである[和歌山の柑橘 120]。
和歌山縣柑橘同 ・和歌山縣は大いに同業組合設立の奨励に努めたる結果、海草・那賀・伊都の各郡にも、(柑橘同業)組合の設立を見たるを以て、更に之を結合
つと
業組合連合会設 して聯合會を組織せしむるの必要にして、(中略)勧奨斡旋に力め、明治四十三年十二月二十六日を以て(和歌山縣柑橘同業組合聯合会)設立
立
せしむ(に至った)[和歌山縣誌第二巻 42]。
ネーブル青酸ガ ・明治 43 年、熊本県飽託郡河内村(現/河内芳野村)雄跡で、ネーブルに青酸ガス燻蒸が行われた[熊本県「年表農林漁業 100 年の歩み」,平方
ス燻蒸
康夫/果樹農業発達史 14]。
長崎県柑橘標準 ・(明治 43 年、長崎県農事試験場は)、これまでの試験研究をもとに「柑橘病害虫駆除予防標準」を作成して示した[明治 43 年「長崎県農事試験
防除暦
場業務功程」,月川雅夫/果樹農業発達史 14]。(注)長崎県で初めての「柑橘標準防除暦」であり、今も各地農協等で標準防除暦が作られ、柑橘
農家はそれを指針として自園の防除計画をたてる[編者]。
玉島村で噴霧機 ・明治 43 年、佐賀県東松浦郡玉島村古瀬区、草場区の両区に 1 台ずつ噴霧機を導入している。これで、どのような薬剤を用いたかは、今日判
2 台導入
然としないが、村で薬剤消毒を行った初めである[佐賀県東松浦郡浜玉町(旧/玉島村)「玉島蜜柑発達史」,北川行俊/果樹農業発達史 14]。
明治 44(1911)年 ・(和歌山縣柑橘同業組合聯合会は)、爾来、著著(着々)事業の進捗を企て各同業組合の事業を統一し、肥料・栽培の改良・剪定法の普及・販路
輸出柑橘検査
の拡張・販売法の改善・其の他各般の事業を執行し、明治四十四年度よりは本縣指定の条件に基づき、海外輸出柑橘の検査を励行するに至れ
り。其の方法は、米国輸出品に在りては、山(園地)検査・選果(場)検査・及び荷造り検査の三種に分かち施行し、之に合格せざるもの輸出を禁
う ら じお
じ、満鮮・浦鹽(浦塩斯徳=ウラジオストック、ロシア連邦シベリア南東部の日本海に面した港湾都市)方面の輸出品は當方荷造り検査のみを施行
し、爾来之が検査を続行し、益々品質の改良と販路拡張を図りつつあり。縣は(明治)四十五年度より、金一千円を支給して本検査、及び病虫害
の防除を励行せしめつつあり[和歌山縣誌第二巻 42]。
・この年、田中長三郎氏の「日本柑橘圖譜」、稿成るも未出版。その中に記載された品種名を列挙すると、「カブス・ザグイダイ・キクカブス・キクダ
イダイ・イマカブス・シマダイダイ・ Bouquet des Flcurs ・カントウ・スイカム・ Jaffa ・ Homosassa ・ Mediterranetan Sweet ・ St. Michael ・ Valencia Late
・ Washington Navel ・ Thompson Navele ・ Maltese Blood ・ Ruby Blood ・金柑子・穴門・鳴門・唐橙・三寶・夏橙・絹皮・虎頭柑・瓢柑・天狗・山蜜
柑・夏朱欒・ジャガタラ・生葉印文旦・文旦一品・早生柚子・晩生柚子・ユズ・ハナユ・日向夏蜜柑・宇樹橘・川端・オホユ・小蜜柑(大平・肥後・蔕
高)・温州蜜柑(早生・尾張・池田・菊)・八代・地蜜柑・九年母・大紅(赤蜜柑・赤ツラ・長崎)・小紅・大柑子(澤野紅蜜柑・立花伯朱橘)・桶柑・柑子
(平柑子・丸柑子)・川筋・喜界蜜柑・椪柑・夏蜜柑・寧波金柑・唐金柑・手佛手柑・レモン一品」[田中長三郎稿/日本柑橘圖譜/田中諭一郎所有
じ ゆ し びよう
樹脂 病
「日本柑橘圖譜」 116]。
じ ゆ し びよう
ご
む びよう
・柑橘の樹脂 病 は、柑橘(樹)の一部から樹脂を分泌する病害を護謨 病 と呼んでいたが、これが発生は明治四十四年大分県で、また大正十五年
愛媛県(で発生した)という。和歌山縣に於ける発見は不詳であるが、大正末期から昭和初期には各地で被害がみられ、昭和六(1931)年、縣下百
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柑橘栽培の歴史
余町歩に(発生)、殊に伊都・那賀郡に多く、海草・有田郡にも稀にみる激甚な被害を蒙った[和歌山縣の果樹 27]。
ほ う ぎよ
明治 45(1912)年 ・七月三十日、明治天皇崩御。「大正」に改元[国語大事典]。・昭和 45 年、和歌山県に於いて全国柑橘中央會第一回大會が開催された[和歌
全国柑橘大会
山縣の果樹 27]。
そ う か びよう
すすびよう
と ら ふ びよう
すそぐされびよう
・この年刊行された「本場の柑橘」には、(柑橘の)「病害として「瘡痂 病 」・「煤 病 」・「虎斑 病 」・「落葉病」(仮名)・「裾 腐 病」(仮名)を挙げ、「虎斑
すす びよう
と ら ふ びよう
あぶらむし
そ う か びよう
煤 病 ・ 虎 斑 病 ・ 病」・「落葉病」の両病原因(は)不明、「煤病」は介殻虫及び蚜 虫の駆除によって救い、「瘡痂 病 」には三-四斗式ボルドー液を開花十日前一回、
すそぐされびよう
落葉病・裾 腐 病 落花後、果の小豆粒の大きさの時、一回散布すること、又その他石灰硫黄合剤十五倍液を使用するものあり」と記し、「害虫としては介殻虫(イセ
みの むし
みの むし
あぶらむし
あか だ
に
かいがらむし
天 牛 ・ 蓑 虫 ・ 柑 リヤは幸いにして未だ発見せられず)、「天牛」・「蓑虫」・「柑穿葉虫」(エカキムシのことならん、筆者注)・「蚜 虫」・「赤壁蝨」を挙げ、「介殻虫」には
あぶらむし
く ん じよう ほ う
あか だ
に
そ ー だ い お う ご う ざい
さい らん
ほ さつ
穿 葉 虫 ・ 蚜 虫 ・ 青酸ガス燻蒸法・石油乳剤(冬五-七倍、春夏秋十-十五倍)・赤壁蝨には石油乳剤・曹達硫黄合剤(六十-七十倍)・天牛は採卵及び成虫捕殺・
あか だ
に
赤壁蝨
げい ゆ
鯨油乳剤(三十倍液を虫孔に灌注するものあり)」など、駆除予防法を示している「同書/和歌山縣の果樹 27]。
・明治時代の肥料「明治 20 年頃までの肥料は、厩肥・堆肥・人糞尿・草肥などの他、販売肥料として魚肥・油粕・米糠、などが使用された。明治
30 年頃から大豆粕・硫安・燐鉱石等の輸入が激増するとともに、国内でも人造肥料の製造が盛んになり、明治末には魚粕などの使用が減少した
[明治園芸史第 8 編/果樹農業発達史 14]。
・(愛媛県における)明治時代の(果樹園)開設について松山栄耕は、事情の許すかぎり圃場の反画(区画)を広くするように奨めている。特に傾斜
階段畑
地では降雨のときに土砂の流亡が甚だしく、上部は根が洗われて露出し下部は埋没するので、急傾斜地の開園にあたっては、なるべく階段を設
けることを奨励している[愛媛県果樹園芸史,愛媛県青果農業協同組合連合会.昭和 43 年 9 月 20 日刊 118/果樹農業発達史 14]。
栽植本数の変遷 ・(福岡県における果樹の栽植本数は)明治末期から大正初期には、梨・桃は 10 ㌃当り約 300 本、柿 60~70 本、葡萄約 110 本であった。その
後、次第に疎植となり、戦後は梨・桃は 12~24 本、柿 12~16 本、葡萄 15~16 本程度であった。その後、早期成園化を図るため、 2~4 倍の計画密
植が行われるようになった[「福岡の園芸」,恒藤正彦/果樹農業発達史 14]。
明治末期頃の病 ・(広島県における果樹の防除は)明治 30 年頃の防除に比べ防除技術は、はるかに進み(進歩)、防除活動も積極化してきた。防除薬剤として病
害虫防除
害に対しては石灰ボルドー液、カイガラムシ・アブラムシ・ダニ類については石油乳剤・松脂合剤・除虫菊加用石けん液・ソーダー硫黄合剤など
の使用が始まった。しかし松脂合剤は調整方法が悪く薬害をしばしば起こした[豊田郡果樹病害虫防除(大正元年)「芸備の園芸」]。『病害』 1.柑
そ う か びよう
橘の瘡痂 病 :発芽 1 週間前と果実豆(粒)大の 2 回、 2 斗 5 升式ボルドー液散布。 2.桃の縮葉病:開花数日前と落花後果実豆(粒)大の 2 回、 2
すすびよう
のり
斗 5 升式ボルドー液散布。 3.梨の腫葉病(不明):同上。 4.煤 病 :希薄な糊を頂上より散布すれば乾燥(煤が)剥離する。根本的にはカイガラムシ・
は たん
アブラムシの駆除を行うこと。 5.梨の黒星病・梨/苹果の赤星病:花蕾破綻前より果実小指大に達するまで、 10 日~2 週間毎に満開時を除き 2 斗
と まつ
5 升式ボルドー液を灌注する。被害物を焼葉すること。『害虫』 1.カイガラムシ:石灰乳剤の 3~5 倍液を冬季(に枝幹に)塗抹するか、松脂合剤の
散布。 2.アブラムシ:石灰乳剤 5~15 倍,又は松脂合剤・除虫菊加用石けん水を数回散布。 3.柑橘の赤ダニ・銹ダニ:松脂合剤ソーダ硫黄合剤の
く え さつ
60~80 倍液使用、希釈した果樹専用石けんを灌注する。 4.天牛:印(目印して置きか?)、 7 月頃、鉄筋または竹筋で潰殺する。幼虫は針金で刺
しよう き
殺する。 5.ゾウビムシ:成虫の発現前に袋掛する。落果を焼棄(焼却)または埋没する。樹幹を振動し(落とし)捕殺する。 6.グンバイムシ:初期に石
灰乳剤 5 倍液または松脂合剤散布。冬季(に)落葉を焼却する。 7.ワタムシ:松脂合剤または石油乳剤の 10~15 倍液散布。 8.アオバハゴロモ:捕
コガネムシ
ほ さつ
く え さつ
殺・採卵。その他いらむし・金亀子などあるが多くは捕殺・潰殺などにより駆除[広島県農業発達史第 2 巻(昭和 37 年 10 月 1 日発行),谷本七五
三丙,池上勇三/果樹農業発達史 14]。(注)2 斗 5 升式ボルドー液は、硫酸銅 120 匁(450 ㌘)・生石灰 120 匁(450 ㌘)を 2 斗 5 升(45 ℓ)の水に溶
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柑橘栽培の歴史
かす。ただし両者を別々に溶かしたものを、石灰液に硫酸銅液を混合・攪拌してつくる。 2 斗 5 升式はかなり濃いので薬害を起こす恐れある[編
者]。
大正元(1912)年 ・大正元年、和歌山縣(有田郡田殿村井口)の園芸試験場で青酸ガス燻蒸試験を実施した。・この年、和歌山縣有田郡農会園芸試験場は縣に移
管され、和歌山縣農事試験場園芸部となり、朝倉金彦技師が部長となる[和歌山縣の果樹 27]。
・大正元年生産/種別(柑橘抜粋)「普通蜜柑三百三十万九十八貫、温州蜜柑八百二十三万二千八百七十九貫、夏橙百六十九万五千二百五十
二貫、八ツ代柑百七十一万八千九百三貫、柑子四十八万一千六十五貫、金柑三十二万八千四百五十三貫、ネーブルオレンジ二十九万九千
七百六十四貫、其他ノ柑橘十六万六千七百十六貫」[和歌山縣誌第二巻 42]。・(注)普通蜜柑は、紀州蜜柑のことか。
県令で一斉駆除 ・ 12 月 3 日、長崎県西被杵郡伊木力村を中心として広がったヤノネカイガラムシ・ルビロームシの一斉駆除を行うため県令第 31 号で、伊切木
村と大草村元釜を区域として告示した。れによって翌 2 年 1 月 4 日から 3 月 13 日までの間に 58,030 本の青酸ガス燻蒸を終わった。以降、県下
各産地で行い、大正 8 年まで続けられた[「長崎県果樹農業の沿革」,月川雅夫/果樹農業発達史 14]。
青酸ガス燻蒸共 ・大正元年、佐賀県は県内のみかん産地に明治末期に大発生したヤノネカイガラムシの被害に対処し、青酸ガス燻蒸に乗り出し、玉島村では全
同実施
村部落単位で共同実施した。防除用の資財(布製天幕、青酸加里、硫酸、機具等)は、県が貸与し、もしくは購入を斡旋した[佐賀県東松浦郡浜
玉町(旧/玉島村)「玉島蜜柑発達史」,北川行俊/果樹農業発達史 14]。
噴霧機販売代理 ・大正に入ると、愛媛県下に噴霧機の販売代理店ができた。山田喞筒部(松山市病院下)、植物病院(松山市千舟町)などで、小川式・牛田式・自
店で各種噴霧機 動式・鈴木式・進木式・中塚式・文代キリフキ・ハイカラ噴霧機などの多くの銘柄が販売され、かんきつ産地にも噴霧機を備える生産者があいつい
販売
だ[「愛媛県果樹園芸史」,果樹農業発達史 14]。・(注)愛媛県下のみかん産地に噴霧機が普及。
大正 2(1913)年
・大正二年、米国フロリダで潰瘍病が研究された結果、日本より(病菌が)輸入されたものであるとして、大正六(1917)年、米国では(日本から)果実
日 本 よ り 潰 瘍 病 の輸入を禁止し、現在(昭和 29 年)に及んでいる。昭和二十八(1953)年十二月、(米国の)フルトン博士が輸入再開の下準備のため日本の温州み
米国に輸入
かんの潰瘍病調査に来朝した[和歌山縣の果樹 27]。
大正 3(1914)年
・大正三(1914)年、(和歌山縣有田郡)田殿村船坂でイセリヤ介殻虫が発生、柑橘(樹)の伐採・焼却、青酸ガス燻蒸が行われた。イセリヤ介殻虫は
青酸ガス燻蒸
米国加洲で発生したとき駆除研究に力を尽くし、明治三十一年頃、昆虫学者/ケーベル氏を豪州に派遣し天敵/ベタリヤ瓢 虫(テントウムシ)を発
イセリヤ介殻虫
見、この利用によってイセリヤ介殻虫の駆除に著しい効果をあげた。本邦でも、台湾でイセリヤが発生したとき、素木博士によってベタリヤ瓢虫を
か いが ら むし
ひようちゆう
天敵/ベタリヤ瓢 輸入して成功した。静岡・和歌山でもこれが応用され、田殿(有田郡田殿村)の園芸試験場では、大正四(1915)年、ベタリヤ瓢虫の飼育・配布を開
虫利用
始した[和歌山縣の果樹 27]。
アメリカからレモ ・大正 3 年 4 月、新宮市佐野の土井留六氏がアメリカ/カリフォルニアの種苗店から、レモン(ユーレカ)苗 15 本を持ち帰り、弟/種吉氏が開墾中の
ン苗
現在地に植え付けたのが栽培の始まりである。その後、種吉氏の接木により 200 本以上を栽培した時期もあったが、戦争等により販売が思わしく
なかったこともあって、(昭和 47 年)現在は約 100 本が残っている。戦後、輸入品の出回りで一時、(売行き)不振なときもあったが、 6~7 年前(昭和
40 年頃)から需要の伸びに支えられ(売行きが)好況を続けている[和歌山県]。
索道架設 16km
・大正 3 年、(和歌山県那賀郡)奥安楽川村善田(現/紀の川市桃山町善田)の増田長三郎氏らが奥安楽川索道株式会社を設立、黒川-善田-竹房-打
田の約 16 ㎞に索道を架設、みかん等農産物・肥料・食糧の輸送始める[和歌山県那賀郡,「桃山町誌 7 」]。
大正 4(1915)年
・愛媛県北宇和郡立間村の薬師寺長吾は、「大雪の年、みかんを運び出すことが出来ず、殆ど腐らせてしまった。何とか運び出す工夫はないも
- 42 -
柑橘栽培の歴史
軽便索道の実用 のか」と、考えていた。そこで、(四国巡礼の)遍路さんより聞き、別子銅山の鉱山用索道や、広島県の大長へも見学にいき、みかんを運ぶ軽便索
化を試みた
道の実用化を世評を受けながら試みた[現/北宇和郡吉田町,「愛媛県果樹園芸史」大正 4 年,愛媛県/果樹農業発達史 14]。
ぜい し
・この年刊行の恩田鉄弥/内田郁太共著「実験柑橘栽培法」に枝について述べ、「柑橘の枝は、結果枝、種枝(結果母枝)、贅枝(役立たない枝)、
剪定法
及び徒長枝の区別がある」とし、剪定法には、「第一懐枝の剪去、第二枯れ枝の剪去、第三裾枝の剪去、第四徒長枝の剪去など」があると説明し
ている[同書/園芸学全編 128]。
大正 5(1916)年
・大正 5 年、大阪市の河崎産業株式会社々長/河崎助太郞が、柑橘栽培の目的で台湾からポンカン苗木を、兵庫県より早生温州(青江早生)、尾
大規模柑橘経営 張温州、ネーブルオレンジ、その他を移入、(宮崎県串間市大字崎田 360 番地の日向農場に)植え付け、昭和初期までに 18ha 、 18,000 本とな
る。昭和 2~3 年頃、農水省園芸試験場の恩田鉄弥氏を顧問とし、元宮崎県農林技手/木村 宏が主任となり拡充に努め、昭和 10 年には 27ha と
なる。昭和 12 年には生産量 863 ㌧に達したが、大東亜戦争末期から資財及び労力不足にかかわらず経営を持続し、新田原・赤江・鹿屋の航
空隊にも大量納入した。戦後、防風林が松喰虫で枯死したところへ、(昭和 24 年 6 月 20 日鹿児島市に上陸した)デラ台風により塩害を受け、甚
だしく荒廃したが、その後、復旧につとめ、(昭和 45 年)現在、温州蜜柑を主体にポンカンその他柑橘園面積約 10ha である[宮崎県串間市大字
崎田 360 番地「現/日向農場主任/木村師将氏より聞き取り」,山下 淳/果樹農業発達史 14]。
半円形整枝
・「静岡県志太郡誌」(大正 5 年編)によると、「柑橘の樹姿は落葉果樹と異なり、幾何学的整枝を施すべきものに非ず。樹形は半円形とし、良美な
ばんきん
る果実を生産するために輓近(最近=大正初め頃)愈々重要視されるに至った」とし、せん定の要旨を、「日光の投射、空気の流通、病害虫の予
しよう し ご う ざい
防、樹姿の整理などで、柑橘栽培上特に注意を要するものである」と述べている。また、(愛媛県の)「立間柑橘」(立間村農会編:大正 2(1913)年
ふところえだ
松脂合剤
発行)にも、「樹は可成り(なるべく)半円形に仕立て、下垂枝、 懐 枝、枯枝、又は樹姿を乱すべき枝は二,三月の候、適当に剪去する」とある[薬師
自家調合品
寺清司/園芸学全編 128]。
しよう し ご う ざい しよう し
か せいそー だ
・静岡県の井上侯爵の柑橘園でルビロームシの駆除に、松脂合剤(松脂苛性曹達合剤)が試みられて以来、各地で応用せられ、和歌山縣では
ろ う むし
機械油乳剤
大正十(1921)年から使用され始めたと考えられ、今日(昭和 29 年)、なお介殻虫、殊にルビー蠟虫の駆除に必要欠くべからざるものとなっている。
大正時代は自家調合品であったが、今日のような市販品は昭和八(1933)年頃からである[和歌山縣の果樹 27]。
・本邦で(柑橘害虫の防除に)機械油乳剤が大正五年に試みられた後、大正十四年、石井博士によって奨められて以来、重要な介殻虫駆除剤と
して石油乳剤に代わって廣く用いられてきた。機械油乳剤が本(和歌山)縣で一般的に柑橘園に用いられ始めたのは昭和に入ってからである。・
機械油乳剤は明治三十九(1906)年、北米フロリダの介殻虫駆除に使用したのが始めである[和歌山縣の果樹 27]。
宮崎県南那珂郡 ・大正 5 年 6 月、西宮市の芝川又四郎がネーブルオレンジ主体とした農場経営をめざし、宮崎県南那珂郡南郷町夫婦浦に 17.6 町を開園した。
南郷町夫婦浦に 防風林については特に考慮して開園したが、暴風雨の多い地帯のため被害が多く、特にネーブルオレンジは弱く、経営は順調でなかった。特に
17.6 町開園
戦時中労力が不足して管理維持が困難となって、やや荒廃していたところ、戦後、農地解放の問題が起こり、丁度その時期に創設されることにな
った県立南郷園芸高校の実習地として昭和 26 年 3 月、(宮崎)県へ譲渡することになった[旧芝川農場技術主任/長田実氏より文書により聞き取
り,山下 淳/果樹農業発達史 14]。
大正 6(1917)年
・愛媛県北宇和郡立間村のみかん園は急傾斜地で、みかんの搬出と肥料等の搬入が非常に重労働であった。こうした実情を何とか改善しよう
みかん軽便索道 と、大河内部落の薬師寺長吾(慶応 2 年~昭和 18 年)は、大正 6 年に軽便索道を考案した[現/北宇和郡吉田町,「愛媛県果樹園芸史」,愛媛県/果
考案
樹農業発達史 14]。
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柑橘栽培の歴史
・この年、静岡県清水市の多喜六次郎氏によって石灰硫黄合剤を高圧釜で処理する新製法が発明される[果樹農業発達史 14]。
・大正 6 年、現在の(和歌山県那賀郡川原村)農協の前身/西川原柑橘生産販売組合ができ、主な事業をかんきつ輸出におき、名手川水流を利
かんきつ輸出用 用して電気事業を起こし、昼間の電力で(かんきつ輸出用)索道を運転し、夜間は地区内に電燈を供給するという大規模な事業をし一応完成し
索道完成、休業 (た)。その施設は西川原村より粉河町中ノ才まで索道を引き運転を始めたが、当時、十数万円にのぼる負債のため、組合員は経済的に非常な
苦痛のため休業状態を続けた[「現/那賀郡粉河町西川原,戸口為蔵氏より聞き取り」,西岡恒憲/果樹農業発達史 14]。
大 正 7- 8( 1918- ・開南組は三井家の出資により(中略)、大正 7 年に(静岡県)引佐郡三ヶ日町釣の官有地 10ha を借用して阿利好太郎が柑橘園として開墾を始め
1919)年頃
た。大正 9 年、中川宗太郎を技術者に迎えるに及び、西遠地方のみかん栽培者は、初めて近代的栽培技術の恩恵に浴する。戦後、農地改革
官有地 10ha 借 により農場は一般に開放された[[静岡県柑橘史],立川忠夫/果樹農業発達史 14]。
用柑橘園に開墾 ・大正 7 年、(愛媛県北宇和郡立間村の)薬師寺長吾は余暇をみつけて造りあげたシュロウ(棕櫚?)の索道を架設(約 750 ㍍)し、実施したが不成
索道架設
功に終わり 11 ㌧余りのみかんを山小屋で腐敗させた。その後、工夫改良され、地区内はもとより他府県にまで普及されていった[「愛媛県果樹園
手押噴霧器
芸史」,愛媛県/果樹農業発達史 14]。
よの う
づ
・大分県南海郡米水津村(現/佐伯市米水津)の小林春夫氏が、栽培者三人共同で牛田式の手押噴霧器を購入し、松脂合剤・硫黄合剤をみかん
園に散布し始めた。ホースが短く能率は低かったが病害虫被害が少なくなり、付近の栽培者に急速に普及した[水津村柑橘研究会長/小林一八
氏談/果樹農業発達史 14]。
竹 べ ら 収 穫 か ら ・大正 7 年頃から、佐賀県東松浦郡玉島村草場(現/玉島町草場)で、みかんの収穫はこれで竹べらを使用して採取いたが、鋏による採収方法に
鋏収穫に変わる 変わり、その作業工程、ならびに能率を高め、(みかんの)貯蔵力を増すことができた。なお、この収穫鋏は昭和の初めには殆どのみかん産地に
導入された[「佐賀県東松浦郡東部農協参事/井山民夫氏より聞き取り」,山崎 儀/果樹農業発達史 14]。
大正 8(1919)年
・大正 8 年より同 12 年の五ヶ年を費やし、(温州みかん)「大岩 1 号」・「同 5 号」を選抜・育成、(愛知県)中島郡苗木生産組合の協賛により広く普
大岩 1 号・同 5 及された。昭和 23 年に優良品種として大日本種苗協会に「大岩 1 号」の品種保存指定を受ける。(中略)特性は共に樹勢が良く、品質良好で貯
号
蔵性に富む[愛知県知多郡南知多町大字内海,みかん栽培に関する記録」大岩義昌/果樹農業発達史 14]。
・大正 8 年、「早生温州」が神奈川県に初めて田中長三郎博士により持ち込まれ、足柄下郡田島村(現/小田原市田島)に栽培された。翌 9 年に
高橋早生
は早生温州の変異枝が足柄上郡山北町の高橋良之助氏の園から発見された(高橋早生)。(後略)[神奈川のミカン(昭和 35 年)/大垣智昭/果樹農
業発達史 14]。
柑橘剪定整枝法 ・富樫常治著/大正 8 年刊の「実験果樹園芸中巻」に、柑橘の剪定整枝法について「営利的に果樹園を経営せんと欲せば、其の種類の如何を問
半円形整枝
わず、必ず整枝法が必要で、整枝法如何が収量品質に多大の影響がある」と指摘し、「柑橘は半円形にするのが最も適当である」と述べている
[薬師寺清司/園芸学全編 128]。・(注)柑橘の整枝法(樹形)は、半円形が基本となってきたようにみえる[編者]。
大正 9(1920)年
・大正 9 年 7 月 16 日から長崎県は県令による(かんきつ)青酸ガス燻蒸を止めて、果樹害虫防除組合の設置が奨励され、これら組合を中心とし
果樹害虫防除組 た青酸ガス燻蒸や松脂合剤による駆除を行うようになった[「長崎県果樹農業の沿革」,月川雅夫/果樹農業発達史 14]。
合
・和歌山県那賀郡内でこの年の「温州蜜柑作付け面積:川原村 248 町 8 反、麻生津村 244 町 8 反、奥安楽川村 229 町、上名手村 192 町、龍
門村 125 町 2 反、粉河町 99 町 5 反、田中村 69 町、安楽川村 23 町など」[和歌山県那賀郡役所編,「那賀郡誌上」 12]。
かんきつ病害虫 ・大正 9 年、愛媛県北宇和郡立間村(現/吉田町立間)の荒牧部落にかんきつ病害虫防除組合が組織され、組合規約を作り運営された[愛媛県農
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柑橘栽培の歴史
防除組合
業発達史,愛媛県/果樹農業発達史 14]。
大正 10(1921)年 ・四月、農商務省農事試験場園芸部が農林省園芸試験場として独立[NARO 農研機構果樹試験場沿革]。
硫酸ニコチン
・「硫酸ニコチン」が本邦に大正十年頃に輸入され、静岡県で梨に使用したのが最初といい、今(昭和 29 年)、なお「ブラックリーフ 40 」は、エカキ
松脂合剤
ムシ駆除剤として柑橘苗木養成に欠くことのできない薬剤となっている。「松脂合剤」は、和歌山縣では大正十(1921)年頃から使用され始めたと
考えられ、今日(昭和 29 年)尚、介殻虫、殊に「ルビー蠟虫」の駆除に必要欠くべからざるものとなっている。大正時代は自家調整品であったが、
市販品は昭和八(1933)年頃からである[和歌山縣の果樹 27]。
8 番線/人力車の ・大正 10 年、和歌山県海草郡加茂村大字小南(現/海南市下津町小南)の前山繁太郎氏は、傾斜地のみかん山よりのみかん運搬を楽にするた
リムで簡易索道
め、簡易索道を思いつき、 8 番線(軟鉄)、人力車のリムを使って索道を造った。動力なし、施工は徳島県の人が(施工)したと云われている[現/下
津町小南,前山繁太郎氏の長女/つや子さんより聞き取り,山本忠一/果樹農業発達史 14]。
・大正 10 年刊/拓殖六郎著「果樹園芸新書」では、整枝について「主枝を二尺五,六寸で剪定し、主枝三,四本を発生させ、此を四方に導きて半
整枝剪定の具体 月形にして、各部均一の発育にさせるよう剪定する」として、整枝剪定(方法)が次第に具体化してきたことが分かる[同書/薬師寺清司/園芸学全編
的方法
128]。
大正 11(1922)年 ・鹿児島県垂水田神(現/垂水市)の宮迫泰男氏は、「尾張系温州」を大正 2 年に導入し、種々の品評会に入賞した。ことに大正 11 年の平和博覧
宮 迫 303 号 /鹿 会では一等、昭和 4 年の九州・沖縄地区共進会においても一等、二等に大量入賞した。(中略)なお、平和博覧会で一等になったのは「宮迫 303
児島県奨励品種 号」で、大正 10 年に(鹿児島)県の奨励品種に指定されていた[鹿児島県垂水田神(現/垂水市),「郷土人系上巻」,小薗謙次/果樹農業発達史
14]。
大正 12(1923)年 ・本(広島県豊田郡豊)町の地形は急峻で農道の開設は甚だ困難な状態に鑑み、作業能率化と労力の軽減によって経営の合理化が最も緊急を
要するので、宇津森百太郞、初本藤四郎は、相前後して南予のかんきつ生産地帯における簡易索道の架設状況を視察し、直ちにこれが計画を
簡易索道架設
建て布設許可を申請し、大正 12 年 1 月 23 日に至り、使用許可を得、初めて(簡易索道)架設せるに極めて能率的で、その後各所に増設を見る
に至った[広島県現/豊田郡豊町大長「新町建設計画書」,昭和 34 年 3 月豊町発行,越智友治/果樹農業発達史 14]。
じん ぎ
ヤノネ介殻虫
・三月、柑橘の「ヤノネ介殻虫」が(和歌山縣)海草郡仁義村(現/海南市下津町の東部)で発見された。その伝播経路は詳らかでないが、穂木によ
って香川県から入ったとする説と、愛知県から購入した苗木によって伝播したという説があるという。・(注)ヤノネ介殻虫は支那の原産で長崎縣伊
木力村で初めて本虫に気付いたのが明治二十一、二年頃といわれる[和歌山縣の果樹 27]。
大正 13(1924)年 ・福岡県山門郡城内村(現/柳川市)の故宮川謙吉氏の宅地内に在った普通温州の枝変わりで、大正 13 年 11 月に田中長三郎博士によって芽
宮川早生
条変異による早生と確認され(宮川早生と)命名された。その後、鎌田五郎氏らによって広く紹介された。本種は樹勢が強く豊産性で、隔年結果が
少ない。果実は糖・酸共に高く、味が濃厚で着色と食味が一致しており、熟期は 10 月下旬である。福岡県では(昭和 47 年現在)早生温州の 80
%が「宮川早生」である。「興津早生」・「三保早生」は本種を親として育成されたものである[「福岡県の園芸」栗山隆明/果樹農業発達史 14]。
落葉性病害
・この頃から(和歌山縣)有田郡箕島町の一部柑橘園に原因不明の落葉性病害が発生した。原因不明のまま、ヴァイラス(ウイルス)の名が付せら
過肥障害
れた。小林源次氏(キング除虫菊株式会社研究室主任)が、種々の原因対策を講じられた。病徴は老幼木を問わず発生し、九、十月頃、葉の表
面に褐色の小点を生じ、遂には全葉が褐色に変じて落葉する。当時、縣下に被害が多かったようであるが、堆厩肥の施用・石灰施用・燐酸加里
の補給などによって、被害も漸次回復した。今からすれば、加里欠乏に近いものであったかも知れない[和歌山縣の果樹 27]。・この年、日本柑橘
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柑橘栽培の歴史
輸出商組合、日本柑橘北米輸出同業組合設立[和歌山縣の果樹 27]。・(和歌山)みかん一箱売価一円五十銭。和歌山県柑橘栽培面積五千五
百五十二 ha 。みかん生産量千二百九十八万六千四百九十五貫(48,699 ㌧)。全柑橘千六二七万貫。有田郡箕島(駅)-東京汐留(貨物駅)貨車
運賃 10 ㌧ 76 円。米一石の値段 38 円 33 銭。静岡みかん生産量千八十七万一千二百八十六貫。愛媛みかん生産量二百八十四万六千二百
四十三貫(生産量いずれも大正 12 年)[和歌山の柑橘 120]。
・この年(和歌山県)那賀郡果物組合設立、那賀郡安楽川村段新田の薬師寺境内に事務所を置く[安楽川の桃 22]。
大正 14(1925)年 ・この年、(和歌山縣)有田郡箕島町・(同郡)宮原村の柑橘園で、「ルビロームシ」が発生した。石井博士によって機械油乳剤の散布が奨められた。
ルビロームシ
・(注)「ルビロームシ」は、明治十七、八(1884-1885)年頃に長崎縣に既に発生していた模様で、本(和歌山)縣では大正十三年、海草郡初島町字
はじかみむら
里(当時は 椒 村)の國中太一氏の金柑園に発生して「アヅキムシ」と称され、立入禁止の札が掲げられ注目された。ルビロームシは大正十一年、
カイガラムシ
兵庫県から伝播発生し、この後カンキツ介殻虫の重要害虫として産地に万延する[和歌山縣の果樹 27]。・(注)ルビー蝋虫は、インド・中国・フィリ
ピンなどに分布。日本には明治初期に長崎県に侵入し各地に伝播した。ルビーロウカイガラムシ(学名: Ceroplastes rubens 、別名:ルビーロウム
シ)は、カメムシ目ヨコバイ亜目カタカイガラムシ科に属するカイガラムシの 1 種。昭和 20(1945)年、九州大学の安松京三は、同大学農学部植物
園でゲッケイジュの枝に寄生したルビーロウカイガラムシを採集してガラス管に入れておいたところ、トビコバチ科の新種の寄生バチが出てきたの
天敵/ルビーアカ を発見した。このハチは 1954 年に石井悌と連名の論文で新種記載され、ルビーアカヤドリコバチ(Anicetus beneficus Ishii & Yasumatsu)と命名さ
ヤドリコバチ
れた。くわしく調べて見ると、福岡市では既にこのハチによって、このカイガラムシの数が減少を始めていた。そこで、このハチを防除に使えるかと
実験し良好な結果が得られたことから、九州各地で放飼され防除効果は大きかった。次第にその名が知られるようになり、九州ではこのカイガラ
ムシの被害がほとんどなくなった。うわさを聞いた本州・四国の関係者が九州からハチを持ち帰り、各地で放飼したため、このハチは全国に広が
り、昭和 30 年代にはルビーロウカイガラムシの被害は非常に少なくなった。放飼された場所では、たいていは約 3 年でカイガラムシの被害はほ
とんど収まっている[安松京三/「天敵/生物防御へのアプローチ」(1970)NHK ブックス(日本放送出版協会刊)/国語大事典]/[Wikipedia/ルビーロウ
カイガラムシ]。
・大正 14 年刊/桜会発行の「園芸家必携」によれば、「柑橘の整枝はなるべく自然に任せ、ただこれを修正していくものである」として、剪定方法も
「①剪定の強弱、②下枝の除去、③側枝及び緑枝の剪定、④夏秋梢及び徒長枝の剪定、⑤樹形を乱す枝の剪定、⑥懐枝の剪定、⑦樹の大き
さ」などを詳しく記述し、ようやく大系的に確立されたようである[同必携/薬師寺清司/園芸学全編 128]。
ヤノネカイガラム ・機械油乳剤の本邦で使用の最も古い文献は、「大正 5 年度,新潟農試業務功程」で、その後、石井 悌氏により、大正 14 年、「ヤノネカイガラム
シ/機械油乳剤
シ」の防除に有効なことが発表された。本(静岡)県においては、野口徳三氏によって、大正 15 年以来、研究が続けられ、「ヤノネカイガラムシ」の
松脂合剤/ルビロ 防除に広く使用された。松脂合剤は、松村松年氏により、明治 30 年に同氏著の「害虫駆除全書」で紹介されているのが最初である。静岡県では
ームシに効果
明治 35 年 9 月に片岡氏によって「静岡農公報」に紹介されている。大正 5 年、井上家のかんきつ園にて、柿沼昇氏が「ルビロームシ」駆除に効
石 灰 硫 黄 合 剤 / 果があることを発表し、全県的に使用された。石灰硫黄合剤の使用は、松村松年著の「害虫駆除全書」明治 30 年版に「ユキレット氏合剤」として
サビダニ防除
紹介されている。静岡県には、明治 42 年に江尻町(現/清水市)の柑橘輸出商/望月正次郎氏が米国より持参し、静岡農試の岡田,内田両氏にて
小島村のかんきつ園の「サビダニ」の防除に採用したのが最初である[農用薬剤学,内田郁太/野口徳三共著,明文堂発行(大正 14 年 1 月 2 日),
西野 操/果樹農業発達史 14]。
長崎県で機械油 ・大正 14 年、長崎県税関植物検査課長/石井悌氏により、機械油乳剤の処方が発表(され)、長崎農試との共同研究によって、北高来郡小栗村
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柑橘栽培の歴史
乳剤実用化
で現地試験を実施、このヤノネカイガラムシへの適用(効果)が確認され、実施(実用)されるようになった[長崎県農業試験場研究報告集,月川雅
夫/果樹農業発達史 14]。
・(硫酸ニコチン)が日本において最初の輸入は明らかででない。大正 10 年、矢後正俊氏が、ブラックリーフ 40 を米国より横浜植木会社を経て輸
入し、静岡農試にて「ナシヒメシンクイムシ」の防除に使用したのが最初である。害虫に優れた効果が認められ広く使用されるようになった。日本
硫酸ニコチン剤/ において大正 12 年、浜野商事 KK が国産品として「千成印硫酸ニコチン」、「オカ硫酸ニコチン」などが製造販売されたが、国産タバコはニコチ
ブラックリーフ 40 ン含量が少ないため良品の生産が出来なかった。米国より浜野商事が輸入した「ブラックリーフ 40 」が広く普及し、硫酸ニコチンとして(昭和 46
普及
年)現在も(静岡県で)みかん害虫などに広く使用されている[農用薬剤学,内田郁太/野口徳三共著,明文堂発行(大正 14 年 1 月 2 日),西野 操/果
樹農業発達史 14]。
大正 15(1926)年 ・大正十五年年頃、愛媛県北宇和郡高光村高串の今城辰雄氏所有の園で、村松春太郎が早生温州を選抜、「南柑早生 20 号」・「愛媛 20 号」と
南柑 20 号
呼ばれていたが、その後は、「南柑 20 号」の名に統一された[愛媛県果樹園芸史 118]。・(注)・村松春太郎氏(後に愛媛県南予柑橘分場の初代
分場長)が大正十三(1924)年以来、数度にわたり愛媛県南部において温州みかんの優良系統探索を行ったところ、大正十五(1926)年に現/宇和
島市の今城辰男氏の園地で発見された系統を優秀であるとして、南予柑橘分場にちなみ、「南柑 20 号」と命名した[愛媛県庁 HP]。
ニコチン剤
・大正後期には、ミカン害虫防除に、「ニコチン剤」・「デリス剤」・「砒酸鉛」などが市販されるようになり、昭和初期までには「アブラムシ類」・「ミカン
デリス剤 砒酸鉛 ハムグリガ」にニコチン剤が、「ハマキガ類」に砒酸鉛、さらに、「ミカンハダニ」には機械油乳剤やデリス剤散布が行われるようになり、主要害虫の
機械油乳剤
防除対策は概ね樹立された[奥代重敬/園芸学全編 128]。
デリス石鹸
・(神奈川県では)大正末期には病害虫防除に「デリス石鹸」を 7~8 月に、「松脂合剤」を 3 月に使用していたが、昭和に入ると「 3 斗式ボルドー
3 斗式 ボ ル ドー 液」、「機械油乳剤」の 25 倍を 6 月、 4 月に使用するようになっていた[三浦半島農業のあゆみ(現在編集中),椙山倉吉翁覚書による,高橋幸仁/
液/機械油乳剤
果樹農業発達史 14]。
昭和初期
・昭和初年頃、和歌山県那賀郡粉河町荒見(旧龍門村荒見)の井関助三郎氏は、自園の尾張系より 20 日も早く熟する枝を見付けた。育成し新
井関早生
品種「井関早生」を作った。「井関早生」は、品質良好、着色早く果実も大きい。当時、広島県高根島より向井氏が来県して持ち帰り植えてみると
生育良好で地に合ったものと考え、増殖して(昭和 47 年)現在、広島県高根島の主力品種になっている[和歌山県那賀郡粉河町荒見,「故井関助
三郎経歴書」/山内 勧/果樹農業発達史 14]。
・広島県豊田郡瀬戸田町高根島(現/広島市瀬戸田町)に、かんきつが栽培され始めたのが大正以降である。早生うんしゅうは昭和年代に入って
から栽培され、品種は「井関早生」が主体となっている。「井関早生」は枝の伸長が短く樹冠の拡大が鈍いため、早くから樹冠占有率大きくする手
反当 75 本
段として最初、反当 300 本の密植栽培とした。 10 年目頃から 1 本おきに間引き、これを他に移植して新園を作り、 2 間× 2 間、反当 75 本の園
にして行くやり方をとっている[戦後農業技術発達史,果樹編、(月間雑誌)「柑橘」(昭和 32 年 1 月 1 日発行 9 巻 1 月号付録,全国柑橘産地の視
察,静岡県柑橘販売農業協同組合連合会出版),岡崎哲二/果樹農業発達史 14]。
・温州みかんの「林系」は(和歌山県有田郡吉備町小島)現/林庄吉氏の園で発見されたもので昭和の初め、農産物品評会に出品のものを、興津
試験場の先生が(優秀性を)認めることとなって、興津で試作された結果、現在の「林系」(林温州)の普及をみることとなった[松原盛夫/果樹農業発
林温州
達史 14]。(注)(注)「林系温州」は和歌山県有田郡吉備町の林文吾氏園で明治 43 年に高接ぎされ植栽されていた樹から選抜された。大正末期
に当時の園芸試験場(清水市興津)が全国の優良系統探索試験の結果注目された。昭和 30 年後半からのみかんブームに乗って新興産地で
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柑橘栽培の歴史
最も多く増植された品種である。樹勢は強く旺盛で、葉の大きさは中位、果実はM級主体で玉揃いは良い。果形はやや扁平、果面は平滑、糖酸
共に多く食味は濃厚、 熟期はやや遅く 12 月上旬収穫、 1~3 月出荷される[農林水産食品産業技術振興協会/読み物コーナ,森本純平:みかん
とその仲間たち/温州みかん/林温州]。
・「土佐文旦」は、出荷の統制上、昭和 34 年に統一された名称であり、従来は「法元文旦」とか、「改良文旦」とも呼ばれていたものである。(昭和
土佐文旦
4 年頃、果樹試験場)中津川俊吉技師が在任中、苗木を配布したようであるが、本種の母樹は県果樹試験場にあって、これから県下に広がって
いった。推定樹齢約 40 年位とみられていたが、昭和 37 年秋、庁舎改築に伴う移植により枯死した。本種の来歴は、一説によると鹿児島県から
導入したとも云われているが、場内には記録はなく、鹿児島県にもない。(中略)筆者の調査によると、鹿児島果試にある「大橘」と同じか類似のも
のと見られるので、(昭和 46,7 年)現在、高接により検討中である。(後略)[高知の果樹通巻 27 号 14 号(昭和 41 年 10 月),橋本博好/果樹農業発
達史 14]。
動力噴霧機
・昭和二-三年頃、静岡県興津中町の農林省園芸試験場に海外から輸入されたビーン動力噴霧機とドイツのカールプラッツ動力噴霧機二台が導
入された[愛媛県果樹園芸史 118/果樹農業発達史 14]。
・大正末期から昭和初期にかけ局部的に分布していた柑橘の病害虫は、その万延激しく今日(昭和 29 年)の悪性病害虫が和歌山縣下至る所に
じ ゆ し びよう
ご
む びよう
見られるようになった。(樹の)一部から樹脂を分泌する「樹脂 病 」は、「護謨 病 」と呼んでいたが、これが発生は明治四十四(1911)年、大分県で、
また大正十五年には愛媛県で発生という。和歌山縣での発見は不詳であるが、大正末期から昭和初期には各地で被害がみられ、昭和六年縣
下、殊に伊都・那賀郡に多く、海草・有田郡にも広がり、稀に見る激甚被害を蒙った[和歌山縣の果樹 27]。
じ ゆ し びよう
すそぐされびよう
・愛媛県に於ける柑橘の「裾 腐 病」(樹脂病)の発生は、[伊予の園芸/大正 4(1915)年]によれば、温泉郡・西宇和郡にみられている[愛媛県果樹
樹脂 病
園芸史 118]。
・明治末期から大正時代の(果樹園)開墾の多くは、山地を手開墾し、 2~3 年間一年生作物を栽培した後、(果樹を)植え付けていた。大正末期か
手開墾
ら昭和初期には深さ 30~50 ㎝の植え穴を掘って(植付けて)いた。戦後、昭和 24~25 年頃から土地改良として深耕、有機物の埋没が指導され、
ザンゴウ(塹壕)式深耕は、昭和 26 年に福岡市蓆田の白水氏のぶどう園において行ったのが初めである[福岡の果樹園芸,恒遠正彦/果樹農業発
達史 14]。
昭和 2(1927)年
・昭和 2 年 5 月 25 日、和歌山県那賀郡粉川町荒見(旧龍門村荒見)の柑橘栽培者/井関助三郎氏は、(米国)ワシントン農務省温室より柑橘適応
センチヤン
柑 橘 台 木 用 「 イ 台木用植物「イチャン」を、当時米国の殖産局長スイングル博士より導入した。今の台木は中国湖北省宣昜(宣 昌 か)付近に野生する柑橘である
チャン」導入
ため、最耐寒(性)台木として優秀で、また深根性のため傾斜地及び荒れ地に適する[粉川町荒見,故井関助三郎氏の経歴書より,山内 勧/果樹農
やの ね かい が ら むし
矢 根 介 殻 虫 /ル 業発達史 14]。
ろう
むし
わた
ビ ー 蠟 虫 /綿 ・昭和二年、和歌山市日前宮(日前國懸神宮)境内(現/和歌山市秋月)に兵庫県から移入した庭園樹に「ルビロームシ」が寄生がみられたという。
か い が ら む し
やの ね かい が ら むし
ろ う むし
わた
か いが ら む し
こなかいがらむし
介 殻 虫 /
昭和時代に入り、和歌山縣内に矢根介殻虫・ルビー蠟虫・綿(イセリヤ)介殻虫・粉介殻虫といったものが蔓延し、之が駆除効果の高い青酸ガス
粉介殻虫蔓延
燻蒸が広く普及した[和歌山縣の果樹 27]。
ガス燻蒸普及
・柑橘の大害虫「ミカントゲコナジラミ」に対して、大正 14 年、天敵「シルベストリコバチ」の放飼試験が顕著な効果を示し、天敵放飼が実用段階に
こなかいがらむし
とげこなじらみ
てんとうむ し
ミカントゲコナジ 入った[桑名伊之吉/石井 悌:1927 年.支那広東より輸入したる柑橘の大害虫/刺粉蝨の寄生蜂並びに 瓢 虫に就いて「,園芸之研究 22 号」,奥代
ラミ 天敵/シルベ 重敬/園芸学全編 128]。
- 48 -
柑橘栽培の歴史
ストリコバチ実用 ・昭和 2 年、長野県農事試験場の村田寿太郞と関谷一郎は、石灰硫黄合剤に砒酸鉛を混用すると液が黒変し黒色の沈殿を生ずるのは、石灰
砒酸鉛加用石灰 硫黄合剤と鉛が結合し硫化鉛となり、一方に砒酸石灰が生じ効果が減じ薬害が生じ易くなる。混用する際に桶に水を入れ、所定の粉状砒酸鉛と
硫黄合剤調整法 カゼイン石灰を混じ先に入れ、乳白色となった液に石灰硫黄合剤原液を注加したものは液の黒変、黒色沈殿少なく、効果減退や薬害なく、混用
開発
可能なことを明らかにした[長野県立農事試験場報告第 3 輯(昭和 4 年 4 月),関谷一郎/果樹農業発達史 14]。
昭和 3(1928)年
・昭和三年、国産の動憤第 1 号機(宿谷式)が作られた[現在農業/佐藤清稿/果樹農業発達史 14]。・この年、和歌山縣農事試験場園芸部を園芸
国産動力噴霧機 分場と改称す[和歌山縣の果樹 27]。
青酸ガス燻蒸
・(和歌山縣)海草郡下津町の小川房一氏らは、昭和三,四年から青酸ガス燻蒸を励行して大いに実績を挙げられたが、全国柑橘園の介殻虫類
介殻虫類被害
被害は年々激しさを増すばかりとなった[和歌山縣の果樹 27]。
小林みかん/キメ ・「小林みかん」は昭和 3 年、福岡県粕屋郡宇美町仲之原の小林鹿吉の園で発生したキメラ性かんきつである。カラタチ台の「夏橙」に「温州み
ラ性
かん」を高接し、その穂木が枯死した部分から発生した不定芽の一枝が原木である。その性状は、樹勢は「夏橙」より劣り、葉はよき似て、果実は
「夏橙」より小型で 250 ㌘、果皮色は黄橙色で、肉質・肉色は温州みかんに似て味は淡泊[晩生柑橘の調査(福岡県園芸試験場報告),「福岡県の
園芸」,白石真一/果樹農業発達史 14]。
昭和 4(1929)年
・「紀州蜜柑」の古木天然記念物「この古木は和歌山縣海草郡加茂村大字橘本(現/海南市下津町橘本)の鉢伏山の中腹にあり、幹が分裂五枝に
紀州蜜柑古木天 分かれ、幹の周り一丈一尺三寸、枝張り三丈九尺、高さ一丈六尺、樹齢五百年、委員/小川由一氏(談)。昭和四年二月一日、内務省指定、昭和
然記念物
九年、室戸台風のため損傷甚だしく間もなく枯死す」[和歌山縣海草郡加茂村大字橘本,橘本神社宮司/前山孫太郎氏宅の古き新聞切り抜き,山
本忠一/果樹農業発達史 14]。
・この年刊行の永野孝平著「蜜柑の剪定整枝法](中央園芸発行)、高橋郁郎著/昭和 6 年「柑橘」(養賢堂発行)によると、「蜜柑の樹形は自然形を
自然形 半円形
尊重し、半円形または扁円形が良い」とし、「樹冠周辺(周縁)を鋸状に凹凸をつくる」、「樹高は横径の六割内外を良しとする」としている[薬師寺
扁円形
清司/園芸学全編 128]。
昭和 4~5(1929- ・昭和 4~5 年頃、大分県速見郡日出町上仁王の、みかん栽培者/帯刀 茂が自園の温州みかん園の「金柑子みかん」の台木に「温州みかん」を
1)年
接木したところ、外観は「金柑子」の様であるが、果肉は「温州みかん」の如きものが結果し始め、付近の評判になった。たまたまその頃、日出柑
金柑子温州
橘振興の講演に来町した当時の大分県立農事試験場津久見柑橘分場長の岡本慶夫氏が、これを見て「金柑子温州」と命名し、関係者に通知し
た。(その後)高橋郁郎氏の(著作)「柑橘」により、全国に発表された。しかし、味・外観などの経済的価値に乏しく、旧日出町内のみかん農家など
に 1~2 本自家用程度にしか栽培されていない[高橋郁郎著「柑橘」(昭和 14 年刊)・大分県速見郡日出町上仁王/阿部 務氏より聞取り,宮本義人/
果樹農業発達史 14]。
昭和 5(1930)年
・昭和初期に至り、三好保徳翁の命名した「伊予みかん」の名称では、愛媛県産の「温州みかん」と混同するので、昭和 5 年 2 月、河野角太郞が
砒酸石灰
「伊予柑」を提案したところ、一同それがよいと云う結果になり、今日(昭和 43 年)に及んでいる[愛媛県果樹園芸史 118/果樹農業発達史 14]。
ひ さ んせつかい
ひ さ ん せつかい
ど う おう
・昭和五年、本邦で砒酸石灰が製造され、銅製剤/クボイドが製造されたのは昭和八年、銅製剤/銅王が昭和九年である。柑橘栽培で病害虫防
除技術が最も普及し、且つ病菌/害虫の研究も最も進歩した時代である[和歌山縣の果樹 27]。
和歌山縣購買販 ・昭和五年、和歌山縣購買販賣組合聯合会が組織され、農業生産資材並びに農村生活必需品の購買事業を主に、農林産物の販売事業を兼
賣組合聯合会
ねて経営していたが、昭和初期に中央で全購連会長を中心に産青連と呼応して猛烈な産組イデオロギーに依る産組拡充運動起こり、本縣にお
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柑橘栽培の歴史
いても、(中略)昭和十一年果実の販売を試みる事となり、(海草郡)賀茂村出身の岡持貞輔氏が専務理事となり、(那賀郡)上名手村出身/平山静
馬氏が其の販売主任となって内地は勿論、北海道、満鮮に手を延ばし外地に駐在員を派遣する等、同組合や縣農会と同種の事業をするように
そう こ く
なった。この爲、両者の事業面の相剋(争い)は、当時産組で此の率下に入り多量販売したのは伊都郡見好村・那賀郡麻生津村・上名手村・龍門
村、海草郡(では)賀茂村・東野上町等であった。(後略)[和歌山縣の果樹 27]。
・昭和 5 年頃、静岡市麻機の杉山甚作氏園のみかん樹から玉揃いよく大玉で、扁平な果実を着ける二樹が見出され、野呂癸己次郎氏の調査で
杉山温州
新系統と確認され、県の母樹 1 号とした。昭和 15 年、静岡県柑橘試験場の創設で、「杉山温州」と改められた。戦後、その優秀性が再び確認さ
れ県内はもちろん、全国的に栽培が広がった[野呂癸己次郎「杉山温州の来歴と現状」野呂徳男/果樹農業発達史 14]。
温州みかん満州 ・(和歌山縣における温州みかん)満州輸出は、昭和五年頃から(同)十六年頃までは、(和歌山縣柑橘)同業組合の全盛期と云うべく、会長/吉益
ただ ま さ
輸出
や
匡賢(那賀郡)・副会長/成川善太郎(箕島町)・木村寬一郎氏(笠田町)等の業界指導も亦目覚ましきものであった。中でも昭和十二(1937)年、矢の
が
す く ん じよう
一斉瓦斯燻蒸
ね かい が ら むし
が
す く ん じよう
し
根介殻虫の発生著しくなるや(和歌山縣柑橘同業組合から)縣に陳情、当時七十万円の補助を得て、県令に依る(柑橘園の)一斉瓦斯燻蒸を施
こう
行したのは大事業であった[和歌山縣の果樹 27 。
晩白柚導入
・昭和 5 年 6 月、池田基氏によって台湾から「晩白柚」が鹿児島県農事試験場垂水柑橘分場に導入された。樹勢強健で豊産性、果実は球形で
通常 2 ㎏位であるが 3 ㎏を越すものもある。果肉は袋離れよく、柔軟多汁、甘酸相和し独特の食味を有する。鹿児島県では平均気温 17 ℃以南
の地域に奨励している。(昭和 47 年)現在、県下に約 3 万本くらい栽培されている[農業及び園芸 37 巻 8 号(昭和 37 年),坂元三好/果樹農業発
達史 14]。
昭和 6(1931)年
・昭和 6 年、静岡県庵原郡由比町の栽培家/石川宏一の園に大果で、果汁の糖、酸分高く、貯蔵性に富む系統を花沢政雄(静岡県柑橘農協連
石川温州
合会)が見出し、その後、静岡県柑橘試験場での系統比較試験の結果、その優秀性が確認され、昭和 25 年 3 月、(石川温州として)種苗名称登
録第 14 号を受けた[田中諭一郎「柑橘 2 巻 2 月号」/野呂徳男:果樹農業発達史 14]。
・日本柑橘中華民国輸出組合設立、和歌山市に事務所置く[和歌山縣の果樹 27]。・(注)温州みかんの中国輸出が盛んになってきた[編者]。
・(佐賀県西松浦郡大川村立川(現/伊万里市大川町立川)では、以前は手押二重ビン式噴霧器であったが、昭和 6 年、県費補助によってアメリカ
高圧舟こぎ式噴 製プラメット高圧舟こぎ式ポンプが、立川の田代禮造氏宅に購入された。重量が 50~60 ㎏程度で移動するのは甚だ困難で、しかもホースが太
霧器
く、そのホースが販売されていなかったので、これが他の栽培者まで普及するに至らなかった[佐賀県伊万里市大川町立川,田代禮造氏より聞き
取り,松尾重利/果樹農業発達史 14]。
200 ㍍の索道新 ・昭和 6 年、和歌山県伊都郡かつらぎ町山崎の向山勝三は、全国で初めてみかん運搬の省力化をはかり、 200 ㍍の索道を作る。当時、農道と
設
云えば舗装のない細い牛馬車道に過ぎなかった。氏は、山林に施設されている索道にヒントを得て。種々改良を加え、安全で能率的なものにし
た。その後、面積の拡大と共に、運搬の省力化が進み農道の改善、動力運搬機械の発展に努めた[伊都郡かつらぎ町山崎,向山博一氏より聞き
取り,林 正久/果樹農業発達史 14]。
昭和 7(1932)年
・昭和 7 年、(和歌山県那賀郡粉河町荒見(現/紀の川市荒見)の)上林 勤の通称/箱ヤ谷(みかん)畑で輸出みかんを吟味、自ら採果中、偶然に一
枝だけ着色の早い枝を発見した。「早生みかん」か、と(苗木を)作り、毎年注意して見た。二.三年調査して枝変わりと判明した。昭和 11 年に、「尾
上林系温州発見 張系」(の枝)と同一樹に高接して比較検討した。大玉、扁円で、やや着色が早い(早生温州と尾張系温州の中間に成熟)ことが幾度かの調査で判
明し、昭和 25 年に「上林系温州」として、和歌山県の(奨励品種)指定となった[和歌山県那賀郡粉河町農協組合長/上林 勤より聞き取り,鈴木益
- 50 -
柑橘栽培の歴史
雄/果樹農業発達史 14]。・(注)上林温州は、果形よく大玉で中生温州として、昭和 30 年代にはアメリカ輸出に好適品種として広く普及していた
[編者]。
動力噴霧機普及 ・昭和七年末の青森県下の動力噴霧機台数は三十九台で、米国式よりも島式等の国産の方が多く、昭和十二年末では九千九百四十六台とな
った[京都園芸二十輯/果樹農業発達史 14]。
・(和歌山県那賀郡龍門村荒見では)昭和 7 年、人肩運搬であった能率を高めるために幅員 2 ㍍のルヤカー道を 850 ㍍を完成した。昭和 17
みかん園自動車 年、出征と徴用による労力不足を来たし、みかんの採果運搬のため、やむを得ず耕地整理組合(68 名)をつくって幅員 2.7 ㍍の農道を 3,300 ㍍
農道整備
完成したのが当地区における自動車農道の始まりである[和歌山県粉河町荒見,植田正一氏より聞き取り,山内 勧/果樹農業発達史 14]。
動力噴霧機導入 ・昭和 7 年、松山市道後湯之町の河野房五郎が、初めて動力噴霧機を使用する。温泉郡内の久米共撰(現/松山市北久米町)で電動力式選果
電動力式選果機 始まる[「愛媛県果樹園芸史」,県/果樹農業発達史 14]。
昭和 8(1933)年
・昭和八年(和歌山縣)果實生産者手取(貫当り?)「那賀/温州 251 円・日高/温州 290 円・日高/夏柑 170 円・那賀/ネーブル 431 円・日高/ネーブル
果實生産者手取 610 円・日高/三寶 260 円・日高/紀州蜜柑 210 円・日高/レモン 650 円・日高/バレンシヤ 900 円・那賀/富有柿 565 円。註)那賀は一組合の總平
均、日高は一組合の大体最上のものを以て調査、いずれも農家の正味手取である」[和歌山縣の果樹 27]。
繁田温州発見
・昭和 8 年頃より、静岡市賎機区牛妻(現/葵区牛妻)の繁田龍平氏園の「普通温州」から 10 月中旬頃に色づく変異枝を発見し、昭和 15 年に静
岡県柑橘農協連合会の斎藤三次技師が調査し優秀性を認め、(繁田温州として)集団的に増殖されるようになった[小野 昇:「柑橘 6 巻 1 号」/野
呂徳男,果樹農業発達史 14]。
南柑 4 号
・「南柑 4 号」は昭和 8 年に、(愛媛県北宇和郡)立間村(現/吉田町立間)の薬師寺惣一の所有園で村松春太郎が選抜したもので、昭和 12 年頃
南柑 20 号
より篤志家が接木し栽培を始めている。「南柑 20 号」は高光村の今城辰雄の園で、村松春太郎が大正 15 年頃選抜した普通温州の早熟で、熟
期は早生と普通の中間で品質が良く、これも同じ頃より篤志家に穂木を分譲し試作させた[愛媛県果樹園芸史/果樹農業発達史 14]。
昭和 9(1934)年
・鹿児島県垂水町田神(現/垂水市田神)の宮迫泰男氏の「尾張系温州」の中に有望系統を発見、大正 10 年に「宮迫 303 号」が(鹿児島)県母樹
温州みかん奨励 に指定されていることから、(鹿児島県農事試験場)垂水柑橘分場で大正 14 年から 6 ヶ年に亘り、(中略)調査した結果、「(宮迫)6 号」と「(宮迫)23
品種「宮迫 6 号」 号」を選抜、昭和 9 年に発表し、その優秀性から県内一円に広く(栽培)確認され、(昭和 47 年)現在まで奨励品種になっている[垂水柑橘分場報
「宮迫 23 号」
告第 1 号,昭和 11 年,児島道弘/果樹農業発達史 14]。「宮迫 6 号」・「宮迫 23 号」。
・昭和 9 年、(和歌山県)伊都郡かつらぎ町(旧見好村)山崎の向山勝蔵氏が(蜜柑)園において、温州みかんの優秀な一枝を発見し、 2 代目を養
向山温州
成し、育苗して栽植した。その後、和歌山県果樹園芸試験場で特性調査を行った後、昭和 26 年 4 月に県奨励品種(向山温州)として採択され
た。果皮は橙紅色、玉揃い良好で 10 月末で 7 分着色を呈する[昭和 32 年農業改良普及資料第 68 号/和歌山の柑橘(19661 年刊)/田中 守:果
樹農業発達史 14]。
やすり
河内晩柑の発見 ・昭和 9 年頃、当時の(熊本県飽託郡)河内村(現/河内芳野村)の村会議員であった 鑢 和馬氏により、同村の石村徳三郎氏の宅地に「夏橙」と同
時期熟する柑果の偶発実生木を発見、県果樹試験場でも調査や苗木養成等がなされた。熟期は 5~6 月で、その特有の芳香と美味さから、県下
各地で点在的に養培(栽培)されることとなった[熊本県果試資料、及び田島十良氏談,河内道人/果樹農業発達史 14]。(河内晩柑の発見)。
・昭和 9 年、全国柑橘栽培面積(反/比率)「温州蜜柑 31,629.2(73.09%)・早生温州 1,239.9(2.87%)・ネーブルオレンジ 2,80.9(4.81%)・夏橙 4,534.8
(10.47%)・協定外種類品種 999.6(2.31%)・その他 2,791.3(6.45%)・總計 43,275.7(100%)。協定外種類品種は、紀州蜜柑・八代・日向夏蜜柑・文旦
- 51 -
柑橘栽培の歴史
・金柑・鳴門・伊豫・柚等であった」[農林統計/果樹園芸学上巻 33]。
山口県大島郡で ・昭和 8 年、山口県大島郡久賀町に「ヤノネカイガラムシ」が発見され、昭和 9 年春期に大島郡農会が主体となってガス燻蒸を実施したのが山
ガス燻蒸
口県のガス燻蒸の始まりである。その後、戦後の資材難と労力不足のため、「ヤノネカイガラムシ」の被害が酷くなり、昭和 26 年、大島郡悪性害
虫駆除対策本部を設置、 3 ヶ年計画でガス燻蒸の一斉防除を行った。昭和 35 年頃から薬剤散布による防除に変わり、ガス燻蒸は行われなくな
った[「山口県の柑橘」昭和 31 年,前田道義,果樹農業発達史 14]。
昭和 10(1935)年 ・この年、静岡県より、ソビエト(連邦)/ロシヤへ温州みかん四万箱輸出する[和歌山縣の果樹 27]。
温州みかんロシ ・「川野夏橙」は大分県津久見市の高台,青江の川野 豊氏の園で昭和 10 年頃に発見されたものであって、昭和 25 年に名称登録された。別名
ア輸出
甘夏とも云われる。樹勢はやや旺盛であり、果実の外観などは普通の夏みかんと異なるところはないが、やや小形で 300~400 ㌘位であり、酸が
川野夏橙
早期に消失するので甘味強く、早生系の夏みかんである[岩崎藤助著「柑橘栽培法」,安井昭一/果樹農業発達史 14]。
昭和 11(1936)年 ・七月二十八、九日、愛媛県では県農会主催の技術員研究会が開かれ、(中略)、本県の主要農作物の種類・品種について提案され、果樹の種
温州みかん協定 類・品種について、(中略)、本県の気候・風土からみて、これらは良いというものに協定する必要があるとなった。その後、研究討議を重ね、次の
品種
ような品種を選抜・協定した。◇早生温州:系統により各種の事情を異にするも、宮川、最も認められ、井関これに次ぎ、松本、鈴木等、着眼さる。
しようえ き
◇温州:尾張系中で更に良系を選ぶを要す。◇夏橙:豊産・栽培容易・生産費少なし。◇伊予柑:耐寒性弱きも豊産なり。色沢良好且つ奬液(果
汁)多きものの生産に勉むべし。◇レモン:リスボン・ビラフランカ両種の成績あがりつつあり。耐寒性極めて弱きものなれば、冬季温暖地を選び栽
培すべし[愛媛県果樹園芸史 118]。
温州みかん古木 ・昭和十一年に鹿児島県果樹試験場技師/岡田康雄氏が鹿児島出水郡東長島村鷹巣(現/長島町)の山崎司氏の畑地で、樹齢 300 年以上と推
発 見 /樹 齢 300 定される温州みかんの古木を発見した。その樹は接木しているので岡田氏は、先代があったと思われるとの記録を残している[果樹農業発達史
年以上
14]。・(注)樹齢 300 年以上とみると、少なくとも寛永 13(1636)年以前の植付けとみられる[編者]。・また、岡田氏は出水郡下で樹齢 100 年、 120
年、 150 年の古木も同時に発見し、それらと対比して樹齢 300 年と推定している。その木は幹周 180 ㌢、樹高 7 ㍍の巨木であったが、原木は惜
しくも太平洋戦争で枯死した。しかし、その側に原木から接木した 3 代目(岡田氏発見の古木は 2 代目)が育っている[和歌山のミカン/昭和 43 年
3 月,毎日新聞社発行]。・(注)3 代目の樹は最近、農林水産省果樹試験場カンキツ部で DNA 鑑定の結果、遺伝子が「九年母」に似ているという
[同試験場研究成果情報]。
あ
亜鉛硫黄合剤
ぜ
たま たま
あ えん い お う ご う ざい
やの ね か い が ら むし
・昭和十一年、(和歌山縣)有田郡田栖川村の阿瀬亀太郎氏は、偶々石灰硫黄合剤に硫酸亜鉛を加用した「亜鉛硫黄合剤」が矢根介殻虫に効
やの ね か いが ら むし
果のあることを発見し、昭和四十年頃から一般に広く用いられた。矢根介殻虫のふ化幼虫の殺滅と寄生防止の効果顕著で、樹勢を強化する作
やの ね か いが ら むし
用もあって、今日(昭和 29 年)は重宝な矢根介殻虫駆除剤として使用が続けられている[和歌山縣の果樹 27]。
・昭和十一(1936)年より(和歌山県の)産業組合は資金にものをいはせ、「購買と販売は一体なり」として果実の販売を企て、産組(産業組合)に依
産 業 組 合 /柑 橘 る共撰共販の旗印のもと、内地は勿論、満鮮(輸出)にも手を広げ、縣農会の指導する出荷組合(と)、(柑橘)同業組合の満鮮輸出と正面衝突する
たま たま
同業組合競合
に至り、偶々(柑橘)同業組合で起こった北米輸出権の生産者獲得運動起こるや、揉みに揉んで産組(柑橘同業組合)の割り込みとなり、産組法に
依る日本柑橘販売組合連合会を組織、ここで手を握り、会長に千石興太郎、専務理事に成川善太郎(本縣出身)が当選して支障なく運営される
に至った。斯くして三十五年間に幾多の功績を残し、昭和十九(1944)年、農業会に吸収された[和歌山縣の果樹 27]。
昭和 12(1937)年 ・ 6 月、樹齢 800 年の「コミカン」の古木が大分県津久見市青江にて現認され、支部大臣から天然記念物に指定されている。また、鹿児島県肝
- 52 -
柑橘栽培の歴史
小 ミ カ ン の 古 木 属郡にも同様の古木があったという[和歌山県有田郡誌/御前明良:紀州有田みかんの起源と発達史 124]。
う
発見
く もり
・この年、愛媛県松山市太山寺町の鵜久森丑太郎氏が普通温州(尾張温州)の枝変わりを発見、園内で高接ぎして青江早生・井関早生・宮川早
生と比較検討していた。(愛媛県)果樹試験場で特性を調査した結果、優秀性が認められたので園主にすすめて、昭和 26(1951)年農林省に(品
松山早生
種登録を)申請し、昭和 28 年 6 月 4 日付けで種苗登録された。登録番号第 57 号。種類名:かんきつ。登録品種名:松山早生[農林省告示 370
号/愛媛県果樹園芸史]。
昭和 13(1938)年 ・二月、本会(和歌山縣産業組合連合会)は和歌山市中之島に醤油醸造工場と
を併設(新設)、本縣果実加工の草分けとなり、幾多
の功績を残して昭和十九(1944)年四月、農業会に合併して終幕した[和歌山縣の果樹 27]。
・昭和十三年、県令を以て三年計画によるヤノネ介殻虫防除の青酸ガス燻蒸が一斉に行われた。百一市町村(延べ)五千七百五十町歩にわたっ
て一万二千七百九十張の天幕を使用して(大部分ポット法、一部ホドジャン法(青酸石灰)一斉(ガス)燻蒸を施行した[和歌山縣の果樹 27]。
・三月、青森県南津軽郡藤崎町に農林省園芸試験場東北支場設置。昭和 36(1961)年 12 月、盛岡市へ移転、盛岡支場と改称[NARO 農研機
構果樹試験場沿革]。
柑橘生産量
・この年の柑橘生産量「【蜜柑類】全国 93,238,840 貫,32,891,318 円。うち静岡県 18,204,216 貫・和歌山県 15,910,961 貫・神奈川県 9,791,976 貫
柑橘輸出量
・愛媛県 8,493,011 貫・広島県 5,917,696 貫・大阪府 5,245,849 貫・大分県 3,836,636 貫・熊本県 3,720,107 貫・鹿児島県 2,887,097 貫・山口県
2,363,726 貫。【ネーブルオレンジ】全国 5,532,580 貫・和歌山県 1,974,693 貫・広島県 853,023 貫・愛媛県 579,154 貫・静岡県 42,201 貫・福岡県
228,745 貫。【夏橙】全国 22,797,985 貫・愛媛県 5,769,963 貫・和歌山県 4,538,491 貫・山口県 3,525,077 貫・静岡県 1,837,611 貫・三重県
797,750 貫・福岡県 699,496 貫・大分県 640,108 貫・鹿児島県 637,066 貫。【柑橘類總計】 128,021,505 貫,40,591,865 円。【全国柑橘輸出】生果
(単位 100 斤=60 ㎏)668,827 、 4,390,890 円・缶詰 386,720 、 7,163,832 円。生果の輸出先は 70%が中国、 30%は米国及びカナダ。缶詰は温州
蜜柑で 60%以上は英国、その他は米国及びカナダ。他に代々類はマーマレード原料としてカナダ地方に輸出されている」[昭和 13 年農林統計/
果樹園芸学上巻 33]。
きん
蜜 柑 輸 出 4 万 昭和 13 年度における柑橘類の生果及び缶詰製品の輸出量(単位 100 斤(60 ㎏)、及び価額(円):生果数量 668,827(約 4 万 130 ㌧)、価額
130 ㌧ 70 %は 4,390,890 。缶詰数量 386,720 、価額 71,163,832 。生果の約 70 %は中国、残り 30 %は米国及びカナダへ輸出されている。缶詰は温州蜜柑を
中 国 向 け /蜜 柑 材料としたもので、約 60 %以上は英国に、その他は米国及びカナダ等に向けられている。蜜柑の缶詰は欧米人社会では、朝食の果実として重
缶詰は 60 %英 視されている。この他に代々類はマーマレードの原料としてカナダ地方に輸出される量は少なくない。(代々は)本邦では正月飾りに過ぎぬが、輸
国向け
出用としての将来性に閑却すべからざるものがある[果樹園芸学上巻 33]。
昭和 14(1939)年 ・ 7 月 8 日、国民徴兵令が公布され[44]、 20 歳になり体格検査に合格した男子は軍隊に徴兵されるようになる。各村の小学校は校外に学校農園
タ ン ゴ
を設け、野菜作りを実習した。肥料は学校の便所から汲んだ糞尿を担桶で担いで施す[編者 58]。
かんづめ
も ほう
かにかんづめ
・我が国の
み かんかんづめ
どく とく
かつ ぽ
一つとしてなかった。(しかし)
へい そ く
み かんかんづめ
につ し ん せん そ う
和歌山縣に於いては、日清戦争(明治 27-8 年)後、有田郡廣村
さ く じゆう
(現/有田郡広川町広)の名古尾傳八氏が蜜柑を搾 汁 して蜜柑水と称し、びん詰となす工場を設立した(之は大坂に出荷したが殺菌不十分で夏
季にびんの破裂が生じ遂に事業を中止したと言われる)。昭和十四(1939
- 53 -
柑橘栽培の歴史
かん よ ん ダース
1945 年)後は、(有田郡)湯浅(町)の有田食品株式会社・(伊都郡)笠田町の紀州食品株式
会社・和歌山縣経済農業協同組合聯合会中之島工場
輸出によって支えられているのを特色とする。
しよう ゆ
じよう ぞ う
(中略)、縣下随一(規模)の中之島工場は、和経連の前身たる縣産業組合連合会の当時、(中略)昭和十二(1937)年八月、(醤油)醸造工場建設に
1938)年一月七日竣工、同十五日より操業開始した。年
引続き、
はこ
たけのこ
はく と う
/
/京阪神市場)[和歌山縣の果樹 27]。・(注)和歌山縣経済農業協
同組合加工場は、昭和 49(1974)年 11 月、那賀郡桃山町の農村地域工業導入計画の一環として桃山町調月に桃山食品工場を誘致に呼応し、
薬用植物栽培試 同連合会は「 JOIN ジュース」工場を竣工、(温州ミカンのジュース工場)操業を開始した[桃山町誌 7/桃山 50 年の歩み 46]。
験場設置
・昭和十四(1939)年十月、大阪衛生試験所の薬用植物栽培試験場を和歌山県日高郡矢田村に設置した[薬用植物資源研究センターの歴史]。
よ な い みつ ま さ
昭和 15(1940)年 ・四月十日、米内光政内閣が米穀強制出荷令を発動、農家に米穀増産を要求する。よって、果樹園は稲作/麦作に転換させられ、蜜柑・桑・柿・
米穀強制出荷令 桃等の樹園地も可能な限り麦作に転換させられる[日本史年表 103]。
昭和 16(1941)年 ・(佐賀県)東松浦郡玉島村平原(現/浜玉町平原)で、佐賀県内で初めて動力噴霧機を導入し、みかんの病害虫防除を楽にした[玉島蜜柑発達史
動力噴霧機導入 /果樹農業発達史 14]。
昭和 17(1942)年 ・農林省園芸試験場の岩崎藤助氏は、柑橘の砧木に専ら使用されている枳穀(カラタチ)の大葉系・小葉系、及び普通系について、花や葉の大き
枳殻砧木
さ、染色体などを調べ、大葉系には 4 倍体のあることを見出した[園芸学雑誌 14 巻 4 号]。
和歌山県柑橘試 ・この年、和歌山縣農事試験場園芸分場(有田郡田殿村)は和歌山縣柑橘試験場として独立する。同試験場長に安藤千代蔵技師着任[和歌山
験場独立
縣の果樹 27]。
か く う ね ばつかぶ
昭和 18(1943)年 ・農林省で果樹園整理計画がたてられ、予備費を以て追加予算計上。果樹園整理は 4,000 町歩(反当補助金 190 円)、隔畦抜株 7,000 町歩(反
果樹園転作令
当 95 円)、合計補助金 14,250,000 千円となり、これにより府県は町村を通じて果樹農家に食糧増産のため「果樹園転作令」が出された[農林省特
産課 25 周年誌/果樹農業発達史 14]。
柑 橘 害 虫 天 敵 / ・昭和 18 年 11 月(発刊)、「日本産柑橘害虫天敵目録」(は)、静岡県農試臨時報告 N035,昭和 10 年 3 月(刊)の姉妹巻ととも云うべきもの(で)、各
ベタ リアテン トウ 害虫名をあげ、これに寄生する天敵の種類、及び寄主の発育諸態について示した。掲載した天敵の種類は、糸状菌 24 種、昆虫およびダニ類
ムシ/シルベストリ 282 種である。これらのうち、天敵による害虫防除の顕著な(効果)例として、「イセリアカイガラムシ」に対する「ベタリアテントウムシ」、「ミカントゲコ
コ バ チ /メ ン チ ュ ナジラミ」に対する「シルベストリコバチ」、リンゴの「メンチュウ(綿虫)」に対する「メンチュウクロヒメコバチ」及び「コガネムシ類」に対する「イザリアコ
ウクロヒメコバチ/ ガネ菌」をあげ、天敵の増殖配布の重要性を強調している[野口徳三,「静岡柑試業績第 9 号」,西野 操/果樹農業発達史 14]。
ザリアコガネ菌
昭和 19(1944)年 ・昭和十九年、農業会法施行に伴い、(和歌山)縣農会・産業組合聯合会・全中央会支部・畜産聯合会・養蚕組合聯合会・柑橘同業組合聯合会
農業会法
は、法の定める所に依って解体して、(和歌山)縣農業会を設立、各郡に散在する各種農業団体は縣農業会の支部として発足した。町村の団体
も、これに同調して町村農業会を組織し、出資並びに負担を受け、事務系統を一つに戦時体制を確立、貯金、米麦・甘藷、青果物の統制の各
こ ん せい
法に従い協力した。この時、東隆一氏(那賀郡麻生津村)は、会長/二澤永信氏の懇請を受け青果部長に就任、全青果物の集荷統制販売に当た
もんめ
公定価格
ると共に、和歌山・海南・田邊・新宮の四市の青果物市場を縣農業会に吸収し、青果物の公定価格(当時は温州(蜜柑)百 匁 十二銭五厘~十四
- 54 -
柑橘栽培の歴史
銭)に依る配給販売を円滑に遂行して四市の台所をまかなふと共に、生産者の利便をはかって昭和二十三(1948)年、農協の設立するまで事業を
かつ
いつぽん や り
いつかんめ
いちもんめ
続けた。曾て日本一を誇った(和歌山縣の)果樹栽培面積も戦前の約七割に減少し、米麦作一本槍の農政は、果樹に一 〆の肥料、一 匁 の農
こ う はい
果樹園荒廃
こ う はい
薬すら配給なく、労力は殆ど米麦作に集中され、果樹(園)は荒廃するのみであった[和歌山縣の果樹 27]。
かつ
昭和 20(1945)年 ・(和歌山縣)農業会青果部長/東隆一氏は静岡・青森の曾て同志と會し、三縣の代表が発起となり、全国果樹産地に呼びかけ、十五府県の賛同
日本果実協會発 を得て、「日本果実協會」を創り、昭和二十一年、本縣に於いても主産地町村農業会長等が発起となって、縣農業会の反対を押し切り、(和歌山)
ふつきゆう
足
縣果實協会を創立した。各郡も亦同様組織し、戦争中の荒廃を復 奮 する事となった。事務所を和歌山市一番町三に置き、役員に会長/東隆一
さん か
(那賀郡麻生津村)。(副会長以下、略)氏等就任し、本縣にも蜜柑とその外の果樹と始(初)めて一体となり、全国団体の傘下に入り果樹業界の一
翼を担うこととなった。・この年和歌山縣柑橘試験場は、(再び)和歌山縣農事試験場園芸分場おなる[和歌山縣の果樹 27]。
昭和 22(1947)年 ・八月、農薬取締法が制定される[和歌山県の果樹 27]。
・十一月十九日、農業協同組合法を施行[21]。・農産種苗法が成立、種苗名称登録制度が発足した[昭和農業技術発達史 15]。
動力噴霧機
・熊本県宇土郡浦村の枝森一新氏が、羽田式2サイクルエンジン付き動力噴霧機を導入し、みかん園四十㌃で使用した。またみかん園四十㌃
果樹振興策
に約百二十㍍の真鍮管による定置配管施設を取り付けた[枝森一新氏談/果樹農業発達史 14]。
天牛の捕殺
・この年、和歌山縣の果樹振興策として実施された病害虫関係では、「抽籤付き買上げによる天牛の捕殺」・「介殻虫類駆除奨励のための(青酸
天幕購入
ガス燻蒸)天幕購入助成」・「防除施設の改善整備補助」・「(輸出ミカン)無病地帯の設定(助成)」などである。天牛は昭和二十三年~二十五年で
無病地帯設定
二百七十八万余匹を捕殺し、天幕は昭和二十四年~二十六年で八千余張に対し三百五十万円の助成をなし、防除施設の改善整備として海草
電化施設
郡下津町・同大崎町、有田郡糸我村、那賀郡麻生津村・龍門村・上名手村・川原村、伊都郡見好村、など一千二百町歩の電化施設の完成をみ
よ はり
た。昭和二十六~二十七年、無病地帯の設定では柑橘潰瘍病撲滅地帯を縣下六カ所(大崎・粉河・仁義・上名手・見好・田殿)に七十五町歩、柿
たん そ びよう
炭疸 病 六カ所(岩田・稲原・西山東・西貴志・橋本・津木)に八十町歩、梅黒星病五カ所(上南部・南部・上芳養・中芳養・新庄)に四十町歩で、防
除薬剤・動力噴霧機の購入補助に三百六十八万円を助成した。昭和二十九年度には青酸ガス燻蒸用カルチット散粉機購入に対し三十万円を
助成している。亦昭和二十二年、(日本果實協会は)待望の(温州蜜柑)カナダ輸出を再開して、外貨獲得、食糧補給の面から政府並びに国民か
らの応援のもとに目的を達成した。昭和二十三年、(果樹)生産者の悩み続けた青果物統制規則並びに価格統制規則の撤廃運動をして成功した
のも、日本果實協会の大事業である(後略)[和歌山縣の果樹 27]。
農林省農業技術 ・十二月、農林省園芸試験場本場は(静岡県)興津町から神奈川県中郡大野町(現/平塚市中原)へ移転、興津は東海支場と改称[NARO 果樹試
研究所園芸部発 験場沿革]。・(注)農林省園芸試験場は機構改革により農林省農業技術研究所園芸部(部長/梶浦實博士)となる[園芸試験場会場 100 周年記念
足
誌]。
・和歌山縣の果樹栽培面積は、戦前一万千四百四十町歩を占めていたが、食糧不足と共に遂年主食への転換を余儀なくせられ、終戦直後の
昭和二十二年に於いては約五千六百三十町歩に減反した。中でも柑橘は昭和十九年には九千五百七十五町歩であったものが、終戦後漸増し
羽田式 2 サイク たとは云え、昭和二十七年で約五千七百町歩に過ぎない面積である。・この年、和歌山縣農事試験場園芸分場(有田郡田殿村井ノ口)は、和歌
ル エ ン ジ ン 付 き 山縣果樹園芸試験場として独立する。・米国マンダリンオレンジ会社よりベネット来朝、北米(温州みかん)輸出再開す[和歌山縣の果樹 27]。
動力噴霧機導入 ・昭和 22 年、熊本県宇土郡浦村(現/三角町郡浦字新地)の枝森一新氏が、羽田式 2 サイクルエンジン付き動力噴霧機をみかん園約 40 a に導
真鍮管定置配管 入した。また、枝森一新氏がみかん園 40a に約 120~130 ㍍の真鍮管による定置配管施設を取り付けた[熊本市春日町,早川義雄氏(早川商会)、
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柑橘栽培の歴史
施設
宇土郡三角町郡浦字新地,江森一新氏より聞き取り,早上三男,県/果樹農業発達史 14]。
・昭和 22 年、佐賀県では戦争によるみかん園の荒廃はその極に達した。これが復興は間伐・深耕を合い言葉に、主産地での啓蒙を図った。一
10a33 本植え講 方、これからみかんを植え付ける場合は 10a 当り 33 本植えを標準に、疎植大木整枝法の耕種基準を策定し、末端浸透を図るため、県主催で初
習会
めて地帯別の講習会を開催した[佐賀県,山崎 儀/果樹農業発達史 14]。
昭和 23(1948)年 ・昭和二十三年、農業協同組合法の公布によって農業会は解散し農業協同組合が設立され、連合して縣販売農業協同組合聯合会(販連)を結
農業協同組合
成、農林産物の販売を一手に扱ふ事になった。(果樹産地は)早速、果樹農業協同組合を設立すべく準備万端を整えたが、本縣の農業協同組
じ ん ぜん
合聯合会の設立方針は、指導連・信連・購連・販連の四農協連を原則とし、他の農協を認めないとの行政的圧力があって、荏苒,(物事がのびの
びになるさま)時を過ごし事業に沈滞を来たした。(中略)、果樹産地農村はこれにては治まらず、縣(行政)と折衝を重ね、主産地町村農協によっ
せつぱん
かつ
て和歌山縣果樹農業協同組合聯合会を組織し、(中略)、本縣の果樹生産・販売事業を折半し販売連としのぎを削り、曾てなく紛糾の歴史をつく
ったが、縣の斡旋により機熟して発展的解消、昭和二十六年八月(和歌山縣)果実連に事業を引継ぎ(販連は)解散した。・(和歌山縣では)DDT ・
BHC が使用されるようになり国産製造され、ドイツのシュラーダー氏合成になる有機燐剤/TEPP 剤(ニッカリン T)は、昭和二十六年に国産化さ
れ、当時柑橘園に異常発生したアブラムシ駆除に用いられた[和歌山縣の果樹 27]。
農薬取締法
・昭和 23 年、農薬取締法が制定され、殺虫剤として砒酸鉛・砒酸石灰・砒酸鉄・除虫菊・デリス・硫酸ニコチン・マシン油・ソーダ合剤・松脂合剤・
DDT ・ BHC ・ うんか駆除油剤・青酸クロルピクリン・ DDT ・珪酸化ナトリウム。殺菌剤として硫黄亜鉛・無機銅・有機水銀・石灰硫黄合剤・硫黄・過酸化水素・ホ
TEPP 剤等
ルムアデヒドが登録される。これらは戦前からの農薬であった[「農薬に関する資料,農林省農政局植物防疫課」,池上勇三/果樹農業発達史 14]。
・静岡県沼津市西浦久連では、薬剤散布はこれまで手押し式ポンプよっていたため、労力を多く要し充分な薬剤散布が出来なかった。(昭和 23
年)、興農学園は東京電力と交渉し、(当時、電力事情が悪かったので許可を受けるのが困難だったが)特別の許可を受け、付近の農家とともに、
かんきつ園集団 かんきつ園を集団電化した。これにより、薬剤散布は能率があがり完全に行われるようになり、各地に電化が普及した[(財団法人興農学園農業
電化
科学研究所),「果実日本第 3 巻第 4 号,昭和 23 年」,及び記載者」古里和夫/果樹農業発達史 14]。
昭和 24(1949)年 ・全国販売農業協同組合連合会設立。和歌山縣果樹農業協同組合連合会設立。 EPN が柑橘ダニ防除薬として輸入され広く用いられる。ルビ
ルビーアカヤドリ ーアカヤドリコバチの飼育・配布が、那賀郡龍門村荒見の井関助三郎氏によって始められる[和歌山縣の果樹 27]。
コバチ配布
・激発を続けていたヤノネカイガラムシ防除に、硫酸亜鉛加用石灰硫黄合剤が有効であることが実証され、幼虫発生期の防除薬剤として昭和
硫酸亜鉛石灰硫 23,4 年頃から(各地で)実用され、冬季の機械油乳剤と組み合わせ、本種の薬剤防除大系が確率された[福田仁郎,吉田 泉,1948 年、矢ノ根介殻
黄合剤普及
虫に対する硫酸亜鉛加用石灰硫黄合剤の効果(第一報),園芸学会雑誌 17 号/同 1948 年,同(第二報),同誌 17 号/奥代重敬:園芸学全編 128]。・
あ
ぜ
(注)阿瀬亀太郎氏(和歌山縣有田郡田栖川村の蜜柑農家)が硫酸亜鉛加用石灰硫黄合剤の効果を発見したのは昭和 11 年、既に 13 年経って
いる。この間、研究者も第二次世界大戦・日中戦争の戦役に駆り出され、研究どころではなかったのであろうか[編者]。
新規農薬登録
・昭和 24 年、農薬取締法で、『殺虫剤』 BHC 。『殺菌剤』無機水銀・硫酸第一鉄・ファーバム・ジラム。『殺鼠剤』黄燐亜ヒ酸が登録される[「農薬
に関する資料,農林省農政局植物防疫課」,池上勇三/果樹農業発達史 14]。
ルビーアカヤドリ ・戦後、(静岡県沼津市)かんきつ園にルビロームシの繁殖が激しく駆除が困難であったので、(昭和 24 年)、安松京三教授(九大)から、ルビーア
コバチ効果出る
カヤドリコバチを譲り受け、飼育繁殖し、柑橘園に放飼を試みた。数年後には、この(静岡県沼津市西浦久蓮)地方ではルビロームシの被害は殆
ど見られなくなった。同時に、ルビーアカヤドリコバチの放飼希望者には成虫、卵などを分譲した[財団法人興農学園農業科学研究所,「柑橘」昭
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柑橘栽培の歴史
和 24 年 7 月号,及び記載者,古利和夫/果樹農業発達史 14]。
自動三輪車導入 ・昭和 24 年、愛媛県北宇和郡立間村の薬師寺和三郎が、県下の果樹栽培者としては初めて自動三輪車(オート三輪)を導入した。この当時、オ
ート三輪ですから品不足で高価なものであった。戦時中から配給制が続いていたので、輸送会社が使用した中古品を購入した。メーカはダイハ
ツ工業の 1t 車であった[現/北宇和郡吉田町,「愛媛県果樹園芸発達史」,愛媛県/果樹農業発達史 14]。
昭和 25(1950)年 ・三月十六日、愛媛県松山市太山寺町の鵜久森恵氏の園で発見された「鵜久森ネーブル」が品種登録される。「ワシントンネーブル」の枝変わり
鵜久森ネーブル である[農林省告示第 60 号/愛媛県果樹園芸史 118]。・本県に「川野夏橙」(甘夏)を最初に導入したのは菅野寿章で、昭和 25 年に福岡県浮羽
/川野夏橙
郡田主丸の福島正助より苗木 5 本を求め、自宅に 1 本、果樹試験場に 2 本、久保正勝に 2 本分譲している[愛媛県果樹園芸史 118]。
TEP/24-D 等 登 ・昭和 25 年、農薬取締法で『殺虫剤』に、クロールデン・メトキシクロール・ TEP ・ PDD-D ・臭化メチル、『除草剤』に 24-PA(24-D)、『殺鼠剤』炭酸
録
ベリウムが登録される[「農薬に関する資料,農林省農政局植物防疫課」,池上勇三/果樹農業発達史 14]。
動力噴霧機普及 ・愛媛県における動力噴霧機の急速な普及は、昭和二十五年頃からで、メーカが互いに競い合って性能の向上、クレームの少ない機種に力を
入れ、国営検査制度とともに、農家のミカン園機械化の熱意に負うところも少なくなかった[愛媛県果樹園芸史 118/果樹農業発達史 14]。
全国果樹園芸研 ・和歌山縣果樹園芸研究会創立。同時に、機関誌「和歌山の園芸誌」創刊。この年、柑橘園の電化施設が千二百町歩に完成した。また、第十二
究大会
回全国果樹園芸研究大会が和歌山縣海草郡下津町に於いて開催される[和歌山縣の果樹 27]。
・この年、日本果実販売農業協同組合連合会が日本農産物株式会社の柑橘輸出事業一切を移譲され、貿易部を設立する[和歌山の柑橘
120]。
天敵アカヤドリコ 昭和 25 年 5 月以来、和歌山県那賀郡粉河町荒見(旧/龍門村荒見)の果樹栽培者/井関助三郎氏は、九州大学農学部昆虫学安松教授の 7 年
バチ
間にわたる指導の下に、かんきつ、及び柿の害虫ルビロームシの天敵アカヤドリコバチを飼育し、県下に無償配布した。以後、和歌山県下にお
いてルビロームシの減少をみるに至った[和歌山県那賀郡粉河町荒見,故/井関助三郎氏の経歴書,山内 勧/果樹農業発達史 14]。
ルビーアカヤドリ ・本害虫(ルビロームシ)は(広島県では)大正 2 年初発見以来、懸命の防除にもかかわらず熱抑な(根強く)抵抗を続け、甚大な打撃を続けてきた
コバチ導入成果 が、昭和 25 年から 4 ヶ年間、九州からの天敵ルビーアカヤドリコバチの移入・放飼事業が成功し、柑橘害虫防除暦から除外するという好成績を
あげた[「広島県農業発達史」,昭和 37 年 10 月 1 日発行,/果樹農業発達史 14]。
鵜久森ネーブル ・昭和二十五年、ワシントンネーブルの結果不良に対応して、愛媛県松山市の「鵜久森ネーブル」が種苗登録され、各地に導入されている。ま
福本ネーブル
た、和歌山県粉河町(荒見)の「福本ネーブル」も美果優品を産する点で注目されたが、増植はあまり進んでいない[和歌山の柑橘 120]。
川野夏橙
・昭和二十五年、大分県津久見市で選抜された「川野夏橙」が農林省で種苗登録され、酸が少なく早熟系であることから甘夏と呼ばれた。川野
夏橙はその後、熊本県田浦町を中心に集団栽培され、昭和三十五(1960)年頃には一般消費地の好評により、その増加が急速に進んだ[和歌山
の柑橘 120]。
栽植間隔
・昭和 25 年当時、愛媛県で奨励されていたカンキツ反当栽植本数は、普通温州で肥沃地または平坦地 3 × 3 間(33 本)、痩せ地または傾斜地
2.5 × 2.5 間(48 本)。ネーブルオレンジで肥沃地 3 × 3 間(33 本)。早生温州で肥沃地または平坦地 2.5 × 2.5 間(48 本)、痩せ地または傾斜地
2 × 2 間(75 本)。夏ミカン平坦地 4 × 4 間(20 本)、傾斜地 3 × 3 間(33 本)。伊予カン 2.5 × 2.5 間(48 本)。ハッサク平坦地 4 × 4 間(20 本)。カ
有 機燐 剤 ・有 機 ラタチ台木を標準としたものである[愛媛県果樹園芸史 118]。
塩 素剤 ・ 有機 無 ・熊本県では、かんきつ農薬は従来、石灰硫黄合剤・松脂合剤・青化ソーダなどが使用されていたが、昭和 25 年頃から有機燐剤・有機塩素剤・
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柑橘栽培の歴史
機硫黄剤
有機無機の硫黄剤などが使用され始めた[熊本県「農業改良普及事業 20 年の歩み」,平方康夫/果樹農業発達史 14]。
・昭和 25 年 9 月、佐賀県東松浦郡玉島村戸房の鬼木信雄氏の(は)急傾斜みかん園に農道の新設が困難なため佐賀県で初めて、みかん専用
みかん専用のケ のケーブル(索道)を架設し、生産物運搬の省力化をはかることが出来、その後、みかん園の空を架線が縦横したが、自動車の利用効率と比較さ
ーブル架設
れ、その後の普及はなかった[佐賀県専技/山崎氏より聞き取り,山崎 儀/果樹農業発達史 14]。
昭和 26(1951)年 ・昭和 26 年 3 月、三重県南牟婁郡阿田和町(現/御浜町阿波田)の奥地峰三が、水田転作で早生温州(宮川早生)1 年生苗木を 10 a 当り 300 本
計画密植
(1.8 ㍍間隔)を定植し栽培を始めたのが本県で(計画密植の)初めてであった。同氏の尽力で 4 年目に 10 a 当り 2,000 ㎏の収量をあげ、品質も良
好であったことから、以降、阿波田町を中心に普及、全県的に本植栽方式が広がった[NHK ラジオ学校(応用編,東海三県,昭和 38 年)西場静雄/
果樹農業発達史 14]。
ルビーアカヤドリ ・昭和 26 年 5 月、及び 9 月の 2 回にわたり、九州地方産のルビーアカヤドリコバチを山口県大島郡に 3 カ所、熊毛・玖珂郡に 3 カ所、合計 6 カ
コバチ増殖
所に放飼した。その後の調査により、各地とも本天敵の増殖が認められた[山口県「柑橘研究月報 4 巻 7 号」(昭和 27 年),「同誌 6 巻 10 号」(昭
和 29 年),加藤 勉/果樹農業発達史 14]。
定置配管式防除 ・五月、長野県更級郡共和村麻久保(現/長野市)の果樹園に、配管式協同防除(組織/施設)が完成し散布を始めた。これは、協同防除の全国最
共同防除
初のものである。次いで昭和 27 年に 2 カ所が開設され、協同防除に関する各種の調査研究が開始されるようになった[農業及び園芸 2 巻 9 号,
飯森三男著果樹園に於ける病害虫協同防除の事例/果樹農業発達史 14]。
ルビーアカヤドリ ・昭和 26 年に(神奈川県で)ルビロームシの天敵/ルビーアカヤドリコバチを福岡県から導入、繁殖放飼した。昭和 36 年、トゲコナジラミが神奈川
コバチ導入
県に初めて小田原市早川に発見され、長崎・高知県からシルベストリーコバチを緊急導入して防除を行い成功した。昭和 41 年に 4 種の天敵の
シルベストリーコ 飼育、配布事業が始まった[「神奈川のミカン」昭和 35 年,大垣智昭/果樹農業発達史 14]。
バチ導入
・ルビーアカヤドリコバチは、寄主/ルビロームシが侵入害虫でありながら、我が国で突然変異的に現れた有力天敵で、九州大学/安松京三博士
ル ビ ロ ー ム シ 防 によって(初めて)紹介された。岡山県は昭和 25 年、九州からこの天敵を移入し、翌(26)年から国庫補助、及び県費により、(岡山県)農事試験場
除に成果
内に増殖センターを設置し天敵増殖を開始して、県内はもとより 22 都府県に無償配布した。ルビロームシの防除に多大の成果を納めた[岡山
県,「植物防疫この 20 年」,大塚 明/果樹農業発達史 14]。
みかん輸出検査 ・六月二十六日、みかんの輸出検疫は大正 6 年から開始され、以来諸外国の要求の推移と我が国のかんきつ病害虫の発生状況に応じて検疫
方針も逐次改善された。昭和二十六年時点で植物防疫上の理由から、我が国のみかん輸入を禁止しているのは米国ほか七カ国で、輸入が解
和歌山果実連発 禁されているのはカナダはじめ 18 カ国である。みかん輸出の検疫を整一円滑に実施するため、輸出みかん検疫要綱[26 農政局第 1051 号,昭
足
和 26 年 6 月 26 日付け「農政局長通達」が出され、諸国への輸出みかんについては栽培地検査及び輸出検査を受けなければならないこととな
かんきつ潰瘍病 る[植物防疫関係法規/果樹農業発達史 14]。
無病地帯
・昭和二十六年九月二十六日、和歌山県果実農業協同組合連合会の設立総会、同年十月一日、発足した。県下の果樹界は戦後の混乱・荒廃
から未だ立ち直らず、旧果樹連・経済連の対立抗争の直後のこと、新生果実連の前途は容易ならざるものがあった(後略)[和歌山の柑橘 120]。
EPN 登場
・昭和二十六年から 3 ヶ年継続事業として、柑橘生産主要 6 県(神奈川・静岡・和歌山・広島・徳島・愛媛)を対象に「かんきつ潰瘍病無病地帯設
置事業」を実施し、それを条件として輸入解禁の対米交渉を開始し、同 42 年の輸入解禁の実現まで絶えず(交渉を)続けた[「植物防疫年鑑」昭
和 30 年版/果樹農業発達史 14]。
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柑橘栽培の歴史
さつだ にざい
・昭和 26 年、 DN 乳剤が国産化され、殺蜱剤(ダニ剤)として広く用いられ、銅水銀剤(殺菌剤)が製造市販される[和歌山縣の果樹 27]。
・熊本県飽託郡河内村(現/河内芳野村)、玉名郡小天村(現/天水町)で、定置配管式防除が行われるようになった[熊本県資料/果樹農業発達史
青果物容器規格 14]。
条例
・昭和二十六年、和歌山縣は青果物容器規格条例を制定、温州みかん用木箱・夏みかん用木箱・柿(富有柿)用木箱の容器規格を制定した。(詳
夏みか んのジュ 細略)[和歌山縣の果樹 27]。・(注)この頃は木箱出荷が通常で、まだ段ボール箱は普及していなかった[著者]。
ース・ストレート
こう し
・昭和 26 年夏、高砂香料株式会社日高工場で、夏みかんのジュース・ストレートの製造に成功、夏みかんジュースの嚆矢(最初)とされている。更
に同工場は、コンセントレート(濃縮物)の製造研究をすすめ、昭和 27 年 1 月にほぼ完成、同 29 年、日高郡川辺町(現/日高川町)に和歌山県加
工農業協同組合連合会(のちに南海果工農協連と改称)、同時に、高砂香料株式会社との合併により、夏みかん・温州みかんの濃縮ジュース加
工を行うため、南海果工株式会社を設立し今日(昭和 41 年)に至っている[和歌山の柑橘 120]。
カンキツ施肥量
・カンキツの施肥量は、従来、施肥標準量(反当たり㎏)として示されていたが、施肥量の一指針、その後一例に変わり、 N(チッ素)、 P2O5(リン酸)、
K2O(カリ)の比率も、各種試験成績を検討した結果、 10 : 6 : 8 に改訂された[園芸家必携: 1951 年版/同 1955 年版/園芸学全編 128]。・(注)果
樹の適正な施肥量は、栽培地の多様な土壌や収量等によって大きく変わる。一概に反(10 ㌃)当り Kg で示すことは出来ない。しかも、地質、結
果量等によって、チッ素・リン酸・加里の比率も一概に規定することに問題があることから、昭和 24(1949)年から農林省園芸試験場にて、樹に吸
葉分析
収された肥料成分の過不足を葉分析によって診断しようとする研究が開始された。その後、府県の果樹関係試験場は研究者を同試験場栄養生
理研究室に留学派遣し、葉分析研究の手法や実技を研修させた[園芸学全編 128 ・編者]。
有機合成殺虫剤 ・佐賀県でかんきつ害虫防除に、昭和 26 年頃から有機合成殺虫剤が使用され始めた[佐賀県果樹試験場病害虫室長より聞き取り,北川行俊/果
定置式配管防除 樹農業発達史 14]。佐賀県東松浦郡巌木町浦川内は古いみかん産地であるが、昭和 32 年、自力で 30ha の定置式配管防除施設(620 万円)を
施設設置
設置した。運営は同部落のみかん作農家 63 戸が共同防除組合(委員長/嶺川実)を組織して行っている[「佐賀県農業史」,北川行俊/果樹農業発
達史 14]
新規登録農薬
・昭和 26 年、農薬取締法で『殺虫剤』に END ・ルビーアカヤドリコバチ(天敵)、『除草剤』に塩素酸鉛、『殺鼠剤』クマリン系が登録される[「農薬
に関する資料,農林省農政局植物防疫課」,池上勇三/果樹農業発達史 14]。
定置配管方式防 ・昭和 26 年、熊本県飽託郡河内村(現/河内芳野村)、玉名郡小天村(現/天水町)で、定置配管方式防除が行われるようになった[熊本県資料,三
除始め
島恭一/果樹農業発達史 14]。
昭和 27(1952)年 ・(静岡県柑橘試験場は)、大分県・鹿児島県から導入したルビーアカヤドリコバチを昭和 26 年春、秋、及び 27 年春の 3 期にわたって県下のみ
ルビーアカヤドリ かん園に放飼した。成虫の羽化時期は導入先によって若干異なったが、一般には 6 月中旬に最も多く、不羽化率は平均 13.6 %であった。放飼
コバチ羽化 6 月 場所から虫の分散距離は、昭和 27 年 9 月の調査で、 26 年春放飼のものは 10 ㍍、 27 年春(放飼)では 20 ㍍、 3 期連続(放飼)では 50~60 ㍍で
中旬
あった[蔵納久男,「柑橘」 5-(5),西野 操/果樹農業発達史 14]。
果実税制度
・六月、和歌山縣は果樹振興の予算原資として縣独自の果実税制度を創設、果樹振興五ヶ年計画を策定し各種奨励事業を開始した。果実税
は(出荷団体の)出荷数量に一定額を割当て、昭和二十七年:二千百十六万六千円、同二十八年:九百五十四万六千円、同二十九年:一千七
温州みかん母樹 百三万三千百円を徴収、一般財源と合わせて各種事業を推進した。新産地育成には(中略)優良母樹の選抜・再生母樹園の設置等をはかり、温
むかいやま
園
う え ばやし
おき た
州みかんの 向 山系・上 林 系・林系・奥太系の四系統を始め、母樹園を設置して穂木の供給を行う。現在縣下に四町歩の母樹園を設置、うち二
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柑橘栽培の歴史
町歩は縣果樹苗木組合、二町歩は縣果実農業協同組合聯合会の管理下に経営せしめ、(中略)昭和二十七年三十万円、昭和二十九年十五万
合成有機農薬時 円の助成をしている。・昭和二十七年、農薬取締法で『殺虫剤』にパラチオン・メチルパラチオン・ DN 、『殺菌剤』にジネブ・果実防腐剤が農薬登
代 パ ラ チ オ ン 録される[「農薬に関する資料,農林省農政局植物防疫課」,池上勇三/果樹農業発達史 14]。・昭和 27 年、パラチオン剤(ホリゾール)の使用(始ま
剤
り)、新殺虫剤/DN 剤・ EPN ・ K-六四五一(サッピラン・オボトラン・ダニラン・カーマイト)・有機硫黄殺菌剤・銅水銀剤等々有機合成剤の輸入製造
化となり、病害虫防除に一紀元を画すに至った。(中略)、正に合成有機農薬の時代と云えよう[和歌山縣の果樹 27]。・(注)これら新農薬は画期的
夏秋季ガス燻蒸 な効果を示した反面、この後、散布者の農薬中毒や農薬事故も多く発生するようになる[編者]。
・ 8 月 24 日、静岡県の柑橘町村農協技術員・栽培家 40 人が熊本県における夏秋季ガス燻蒸の実情を視察、これより静岡県の柑橘産地に夏秋
濃縮ジュース
季燻蒸が盛んとなる[「静岡県柑橘史」昭和 35 年 2 月刊,鈴木寛治/果樹農業発達史 14]。
東南アジア向け ・和歌山縣果実連合会は香港・シンガポール・マニラ・沖縄向けに梅・柑橘・梨の輸出を始める。・十一月一日、我が国最初の(柑橘)濃縮ジュース
柑橘・梨輸出
製造会社/南海果工工業株式会社が、日高郡矢田村の高砂香料工業株式会社日高工場を買収して設立された[和歌山縣の果樹 27]。
ポ ン カ ン の 台 木 ・この年、和歌山県果実農業協同組合聯合会、東南アジア向け柑橘・梨の輸出を開始[和歌山の柑橘 120]。
試験
・(鹿児島県果樹試験場は)昭和 27 年より、ポンカンの台木試験を始め、 7 種類(ユズ・サンキツ・シークワシャ・タチバナ・サツマキコク・大紅みか
ん・クレオパトラ)、そのうち有望な台木(ユズなど)は、(昭和 47 年現在)普及に移している[鹿児島県垂水市,「鹿児島県史五巻],小薗謙次/果樹農
業発達史 14]。
ブルドーザ農地 ・昭和 27 年、近畿大学農芸化学研究所を(和歌山県有田郡)湯浅町に開設、学問と実際との教育の場として、昭和 30 年 1 月、湯浅町から土地
造成
の提供を受けた。複雑な地形と全くの不良な土地を、生産力と土地利用率を高めるためブルドーザにより、 7.7ha の農地造成を行い、近代的な
果樹園を開発し、機械化農業技術普及の基となる[近畿大学農場報告(昭和 44 年 4 月),(同所長)吉田保治/果樹農業発達史 14]。
・昭和 27 年に(広島県)加茂郡志和町で 5ha の山林を開墾、整地のためブルドーザーが(初めて)利用された。開墾・整地は山成り開墾で、植栽
ブルドーザ開墾 位置に溝を作り有機物を埋没した。溝の幅はブルドーザーの排土板の幅、深さは 60 ㎝であった。昭和 32 年、沼隈郡沼隈町山南で 30ha のブド
ウ園を造成するのにブルドーザを利用し、階段工とした[広島県川島正巳,果樹農業発達史 14]。
ヤノネカイガラム ・昭和 27 年頃、和歌山県那賀郡粉河町荒見の柑橘栽培者/井関助三郎氏は、自力で国産ヤノネカイガラムシ天敵 6 種類を、友人より導入した
シ天敵無償配布 約 200 本の八朔大苗に寄生させ、県下(柑橘)主産郡へ無償配布した[和歌山県那賀郡粉河町荒見,故/井関助三郎氏の経歴書,山内 勧/果樹農
業発達史 14]。・(注)昭和 34 年 6 月、粉河町龍門地区のヤノネカイガラムシの農薬一斉散布の啓発放送を流したところ、井関助三郎氏から呼び
出され、「ルビーアカヤドリコバチ等の天敵がが死ぬ」と云って、お叱りを受けた[編者]。
新規登録農薬
・昭和 27 年、農薬取締法で『殺虫剤』にパラチオン・メチルパラチオン・ DN 、『殺菌剤』にジネブ・果実防腐剤が登録される[「農薬に関する資料,
農林省農政局植物防疫課」,池上勇三/果樹農業発達史 14]。
シルベストリーコ ・「シルベストリーコバチ」はかんきつの大害虫「ミカントゲコナジラミ」の天敵で、大正 14 年にシルベストリー博士が(中国)広東から持参され、当時
バチ保存増殖
猛威をふるっていた「ミカントゲコナジラミ」に利用した。爾来、この天敵が非常に減少したため、昭和 27 年以降、この天敵の保存増殖事業を福
岡県に補助金を交付して実施させた[「植物防疫年鑑」昭和 30 年版,大塚 明/果樹農業発達史 14]。
みかんの年間防 ・昭和 27 年、佐賀県でみかんの年間防除暦を作成し、防除の徹底を期すとともに、新しい農薬の導入を積極的に取り入れた[佐賀県,山崎 儀/
除暦
果樹農業発達史 14]。
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柑橘栽培の歴史
塩化ビール管使 ・熊本県で病害虫防除用配管資材として、昭和 27 年頃から塩化ビール管が利用され始めた[熊本県「農業改良普及事業 20 年の歩み」,平方康
用始まる
夫/果樹農業発達史 14]。
昭和 28(1953)年 ・三月、熊本県宇土郡網田村(現/宇土市網田)の益谷信爾氏が、ネーブル園 70-80a に 10 ㎜(φ 10 ミリ,ビニール)パイプのみ(定置配管)約 250 ミ
ビニール定置配 リ(㍍)設置した[「熊本市春日町/早川義雄(早川商店),熊本県果実連/林田達明氏より聞き取り」,早上三男/果樹農業発達史 14]。
管
・ 7 月、和歌山縣は、果樹園芸試験場紀北分場を那賀郡粉河町粉河中ノ才に新設、本多舜二技師が初代分場長となる[同試験場沿革/和歌山
バイラス(virus)性 縣の果樹]。・この年、和歌山縣下各所の早生温州・及び普通温州園に「バイラス性萎縮病」の発生が確認される。・米国より、フルトン博士が本
し んちゆう
萎縮病
(和歌山)縣の温州みかんの潰瘍病調査に来朝した。・柑橘園(の防除用配管)に従来の真 鍮 パイプの他に、エボナイト製、ビニール製のパイプが
布設されるようになる。・(和歌山縣で)七月十八日の水害による果樹園の流失が一〇〇町歩に達した。・十月、第一回(和歌山県下果樹生産者)
果樹振興大会が和歌山市で開催された[和歌山縣の果樹 27]。
新規農薬登録
・昭和 28 年、農薬取締法で『殺虫剤』にマラソン、『殺菌剤』にジクロン・キャプタン、『除草剤』に NCP が登録される[「農薬に関する資料,農林省
農政局植物防疫課」,池上勇三/果樹農業発達史 14]。
殺ダニ剤の登場 ・カンキツ園のミカンハダニの防除薬剤として、昭和 28 年に有機ジニトロ化合物「 DN 剤」が登場し、翌年には有機塩素剤「 CPCBS 剤」が出現
し、殺ダニ剤の歴史はこの頃から始まったと云える。その後、 30 年代には、「新 CPCBS 剤」をはじめ、「シュラーダン」・「ケルセン」等、数多くの殺
ダニ剤が実用され、また、ミカンサビダニに対しても 31 年、特効を示す「クロロベンジレート」、続いて「ケルセン」・「ジネブ剤」などが現れ、ダニ類
の薬剤防除は徹底されるようになった[奥代重敬/園芸学全編 128]。
長崎県品種系統 ・長崎県におけるみかん品種/系統の変遷は、戦前からは「伊木力系」で代表されていたが、昭和 28 年頃から早生は宮川、農林省園芸試験場が
の変遷
系統試験の結果、「杉山」・「伴野」・「林」などの系統が紹介され、県の奨励系統として主として「林系温州」が導入された。早生では昭和 40 年
「興津早生」を新しく追加し、(昭和 47 年)現在、早生の主体は「興津早生」になった[「長崎県農業時報第 2 巻」田中力雄/果樹農業発達史 14]。
オレンジ日向
・昭和 28 年頃、(静岡県賀茂郡)河津町見高人谷の土屋吉蔵氏が、自家育苗して栽培した1樹に黄橙色の果実を着ける変異枝を発見した。昭和
35 年から静岡県柑試伊豆分場の調査により、在来の日向夏より果皮の色沢、ならびに果実の特性が優れ、「土屋ニューサンマ」と名付け(申請)、
昭和 40 年 10 月、登録品種第 178 号で認可され、「オレンジ日向」と命名された[植田義一「果実日本 21 巻 6 月号」,野呂徳男/果樹農業発達史
14]。
ブルドーザー開 ・昭和 28 年、福岡市長住で 5~6ha のモモ園をブルドーザーによって開墾したのが、福岡県で初めてである[福岡市役所指導課,春日技師,聞き
墾
取り,恒藤正彦/果樹農業発達史 14]。
土 壌 流 亡 防 止 / ・昭和 28 年頃から(熊本県で傾斜地)樹園地土壌の流亡防止と有機物源確保をねらいとして、(ウイピング)ラブグラスが普及した[熊本県農業改良
有機物確保
普及事業 20 年の歩み,平方康夫/果樹農業発達史 14]。
BHC3 %粉剤散 ・昭和 28 年、愛媛県西宇和郡保内町のかんきつ園で BHC3 %粉剤が散布されたのが、粉剤使用の初めである。 BHC 粉剤散布で「アオバハゴ
布
ロモ」や「アブラムシ」、その他の移動性害虫が見事に駆除でき、能率的で簡単な防除法方法として、一般の関心を呼んだ[愛媛県果樹園芸史,
果樹農業発達史 14]。
自動三輪車導入 ・昭和 28 年、佐賀県佐賀郡旧/川上村大願寺の野田朝夫氏が、みかん栽培農家で初めて自動車(三輪車)を導入し、生産資材・肥料・生産物の
運搬に画期的な改革を行った[佐賀県果樹専技/山崎氏より聞き取り,山崎 儀/果樹農業発達史 14]。
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柑橘栽培の歴史
昭和 29(1954)年 ・三月、農林省農業技術研究所園芸部果樹科(平塚)は、同研究所気象研究室と桃園にて初めてスプリンクラ散水による凍霜害防止試験を実施
散水 による凍 霜 し、編者も調査に参加。昇温効果は認められたが施設経費が隘路となり、その後普及しなかった[園芸学全編 128]。・(注)果樹園でのスプリンクラ
害防止試験
利用は、これが初めてであった[編者]。
塩化ビニル管
・熊本県で、みかん病害虫防除の配管資材に塩化ビニル管が利用され始めた[熊本県農業改良普及事業 20 年の歩み/果樹農業発達史 14]。
共同防除施設
・青森県南津軽郡浅瀬石村の農協区域内で、りんご園に定置配管防除施設を設置し、共同防除体制を確立した[青森県りんご発達史 9 巻・果
樹農業発達史 14]。
ビニール配管共 ・佐賀県小城郡小城町古田の 10ha みかん園に、県内で初めてビニールパイプ埋設による共同防除施設が完成、品質向上・防除省力化に大き
同防除施設
な役割を果たした[小城町古田/本人,山崎 儀/果樹農業発達史 14]。
新規登録農薬エ ・昭和 29 年、農薬取締法で『殺虫剤』にアルドリン・ディルドリン・エンドリン・ CPCBS 、『殺菌剤』としてチウラム・対抗菌剤、『除草剤』にクロル IPC
ンドリン等登場
・スルファミン酸塩、『殺鼠剤』にりん化亜鉛が登録される[「農薬に関する資料,農林省農政局植物防疫課」,池上勇三/果樹農業発達史 14]。
・和歌山県の果樹園、特にかんきつ園は急傾斜のところが多く、生産資材、果実の運搬などに道路を三輪、または軽自動車を使用するのに難点
があったので、昭和 29 年、伊都郡笠田町農協の山崎(祐夫)技師(現/県果実連生産部長)が「改良車」なるものを考案開発して利用された。広く
農道車普及
普及して好評を博し、(昭和 45 年)現在も使用されている[[和歌山の果樹」 14 巻 10 号(昭和 38 年),,21 巻 11 号(昭和 45 年),西岡英次/果樹農業
発達史 14]。・(注)当時、この改良車は狭い農道でも小回りができ、便利に使えて「農道車」と呼んで人気があり、みか農家は運転免許が要らず広
く利用し、町の鉄工所が専ら製作して安く買えた[編者]。
昭和 30(1955)年 ・(三重県)鳥羽市の答志島やその付近の無人島に、所々野生状の「ヤマトタチバナ」がある。今日までに知られた 20 本余りのうちから、生育の良
天然記念物ヤマ い樹形の代表的な 3 本を選び、昭和 30 年 4 月 7 日、天然記念物に指定している。このタチバナは、三重県では北牟婁郡から南の海岸に近い
トタチバナ
山林中にも点々と野生することが知られており、北牟婁郡長島町三浦の鈴島(無人島)および豊浦神社境内に、それぞれ暖地性植物の中に自生
のタチバナがあり、他の珍しい植物とともに天然記念物に指定されている[「三重県の文化財」(昭和 42 年),西場静雄/果樹農業発達史 14 」。(注)
橘(学名 Citrus tachibana)は、別名「ヤマトタチバナ」で、古くから野生していた日本固有のカンキツである。本州の和歌山県、三重県、山口県、四
国、九州の海岸に近い山地にまれに自生する。その実や葉、花は文様や家紋のデザインに用いられ、近代では勲章のデザインに採用されてい
る。三重県鳥羽市では「ヤマトタチバナ」が「市の木」に選定されている[Wikipedia/タチバナ]。
定置配管防除施 ・昭和 30 年、熊本県天草郡五和町志田ノ原(手野)の坂本政光氏ほか 3 名が、温州みかん主体のかんきつ園約 4ha に定置配管防除施設を設
設設置
置した。なお、この配管はみかん潅水にも使用した[「熊本県農政部高原開発室/川内正氏より聞き取り」,早上三男/果樹農業発達史 14]。
・昭和三十年以降、(愛媛県では)成長作目としての温州ミカン園の開墾造成は実に顕著となった。(中略)、その原因の一つは、従前の手開墾か
ブルドーザ開墾 ら高能率のブルドーザの出現である。愛媛県では昭和三十五年、県農林水産開発機械公社を創設して以来、各地各方面の要請に応じて山林
原野の開墾、畑地・水田の耕起に、道路布設にと、(中略)果樹園としての開墾面積は、昭和 35 年から同 40 年までに 665.22 ㌶、うち 40 年分は
116.23 ㌶に達している[愛媛県果樹園芸史 118]。
ダンボール容器 ・昭和 30 年頃、ダンボール容器によるミカンの出荷が、九州、愛媛で始まった。木箱はミカンを一個一個丁寧に詰め、釘打ち、縄かけと手間がか
かった。ミカンの生産量増加とともに、共同選果場では目方分だけダンボール(箱)に入れて、上蓋をホッチキスで止めて出荷する方が能率が上
がった。また、労務費の大きな削減でもあった。有田ミカンは高級イメージがあり、ダンボールは高級感を損なうとして、和歌山での利用は昭和 33
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柑橘栽培の歴史
年頃からで、一般農家にも普及したのは昭和 36~40 年ぐらいである。(平成 11 年)現在、主流は 10 ㎏であるが、他に 15 ㎏、 7.5 ㎏、 5 ㎏、 2.5
㎏の箱も使われている[御前明良:「経済理論 292 号」(和歌山大学発行)「紀州有田みかんの起源と発達史」 124]。
ダイアジノン/スト ・昭和 30 年、農薬取締法で『殺虫剤』にダイアジノン・シュラーダン・クロルベンジレート・ CPCBS + DCPM 、『殺菌剤』に DCP ・ NBT ・ PCP ・ス
レフトマイシン等 トレフトマイシン、 2,4-DS ・ CMU 、『殺鼠剤』にシリロシドが登録となる[「農薬に関する資料,農林省農政局植物防疫課」,池上勇三/果樹農業発達
登録
お う きよう
史 14]。
お う きよう
黄 疆 病 菌で ミカ ・高知大学・高知県農試朝倉分場による「黄 疆病菌」による「ミカンネコナカイガラムシ(蜜柑根粉介殻虫/Rhizaecns
Kondnis)」駆除試験(昭和
ンネコナカイガラ 30~35 年)、ミカンネコナカイガラムシを駆除する一方法として、硬化病菌による駆除効果を高知大学/森本徳右エ門教授の指導のもとに実施し
お う きよう
ムシ駆除試験
た。(1)硬化病菌を大量に培養するには家蚕蛹が最も適している。(2)ミカンネコナカイガラムシに対しては、硬化病菌中黄疆病菌(イネヨトウより分
お う きよう
おう
離系)の病原性が最も強い。(3)黄疆病菌培養蛹処理は年間を通じて可能であるが、最も駆除効果の高いのは 5 月 6 月の梅雨期である。(4)黄
きよう
疆病菌培養蛹を風乾貯蔵した場合、 8 ヶ月以上の生活力を保持する[「高知大学学術研究報告」第 8 巻第 4 ・ 5 号、及び第 9 巻、「自然科学Ⅱ
お う きよう
第 2 号,第 3 号」,竹下正二/果樹農業発達史 14]。・(注)この文面ではミカンネコナカイガラムシに対してどの程度駆除できたか不明。黄疆病菌に
よるネカイガラムシ駆除の普及はなかった[編者]。
天 牛 一 匹 2~3 ・大分県北海部郡佐賀関町では、みかん害虫の天牛防除は(これまで)早朝の成虫捕殺をしていた。捕殺を奨励するため、昭和 30~35 年まで各
円で買上げ
市町村とも農協が、一匹 2 円~3 円で買い上げ、成虫捕殺に大いに成果をあげていたが、(その後)BHC 剤利用による塗布剤の出現により、この
定置配管式防除 (捕殺)防除は廃れてきた[佐賀関町農協/管本重幸氏より聞き取り,庄司徳一郎/果樹農業発達史 14]。
普及
・熊本県で昭和 30 年に定置配管式防除が全県下に普及した[「熊本県資料」,三島恭一/果樹農業発達史 14]。
ミ カ ン 共 同 防 除 ・静岡県庵原郡庵原村に全国で初めてミカン共同防除施設が着手され、これ以降、各地に共同防除施設の建設が起こる[「静岡県柑橘史(昭和
施設
35 年 2 月刊)」,鈴木寛治/果樹農業発達史 14]。
昭和 31(1956)年 ・昭和 31 年 5 月、熊本県玉名市築山の築山開墾組合(中尾平八郎組合長他 56 名)が「小松 D-50 型」ブルドーザー 1 台を 300 万円で購入して
ブルドーザ 1 台 築地地区のみかん園、ブドウ園等、 24ha を開墾した。なお、このブルドーザーは 32 年 9 月、玉名市に 250 万円で売却した[熊本県資料,早上三
を 300 万円
男/果樹農業発達史 14]。
・温州ミカンの花芽分化期は、神奈川で 3 月中旬~下旬~4 月上旬であった[藤田克治/八木利幸,1956 年:温州蜜柑の花芽分化並びに発育過程
について,神奈川農試園芸分場研究報告 3 号]。静岡では 12 月下旬~3 月中旬~下旬となっている[伊東秀夫/藤田克治:,1956 年:ミカンの枝の
温 州 ミ カ ン 花 芽 果芽形成能力,農業及び園芸 31 巻 8 号]。また、温州ミカンに対して 7~8 月頃の(土壌)乾燥、または移植処理(断根)によって 8 月中旬、あるいは
分化期
それ以前にも花芽分化を起こさせ得るとした[岩崎藤助/大和田 厚: 1958 年,夏期の乾燥処理による柑橘の花芽分化について,園芸学会昭和 33
年秋季発表要旨]/大野正夫,園芸学全編 128]。
熊本県奨励系統 ・熊本県における温州みかん奨励系統の選定:昭和 24 年から果樹試験場にて、県内既成園を対象に温州みかん優良系統の選抜を行ってき
た。昭和 31 年、「田上」・「平井」・「磯野」・「有江」の 4 系統を県奨励系統に決定発表した「熊本県果樹試験場業務報告(昭和 24~30 年),三島恭
一/果樹農業発達史 14 」。
計画密植栽培法 ・昭和 31 年、(愛媛県果樹試験場)薬師寺清司氏は、(みかんの)若木で樹容積の小さい間は、なるべく反当栽植本数を多くし、樹齢がすすみ混
み合うようになれば、計画的に間引き間伐をして初期収量を高めていく方法を提案した。それが「計画密植栽培法」である[愛媛県果樹園芸史
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柑橘栽培の歴史
118 ・果樹農業発達史 14]。
ダイセン/ササネ ・昭和 31 年、農薬取締法で『殺虫剤』としてメチルジメトン・モノフルオル酢酸アミドサルセン・ EDB 、『殺菌剤』にマンネブ(製剤名ダイセン水和
カラシ等登録
剤等)・ PCNB 、『除草剤』にシアン酸塩(通称ササネ枯し)が登録される[「農薬に関する資料,農林省農政局植物防疫課」,池上勇三/果樹農業発
達史 14]。
・昭和 31 年、静岡県庵原郡庵原村吉原地区に 30ha 他、 4 カ所にみかんの共同防除施設が完成[「静岡県柑橘史(昭和 35 年 2 月刊)」,鈴木寛
治/果樹農業発達史 14]。
・昭和 31 年、山口県大島郡橘町土居地区(現/周防大島町)の全かんきつ園を対象に、土居柑橘組合がつくられた。同時に新農村建設事業によ
大型共同防除施 り、規模としては当時西日本では最大の大型共同防除施設がつくたれた。関係農家 75 戸、面積 23ha 、貯水槽 180 ㌧、 3 段 5 槽の調合槽、 15
設
馬力のジーゼルエンジン 1 基、 35 石/毎時吸水ポンプ 1 基、パイプ(配管)総延長は 1 万 8 千㍍、総事業費 550 万円となっている。その後、かん
きつ新植が進み、(昭和 45 年)現在では関係面積も 75ha となり、施設も農業構造改善事業等で増設、ポンプ 4 基、エンジン 4 基、揚水機 1 基、
パイプの総延長 3 万㍍に及び、県下最大の共同防除施設となっている[農協,杉山藤雄/果樹農業発達史 14]。
索道約 300 ㍍架 ・昭和 31 年、熊本県飽託郡河内芳野村小森の大森玉樹氏が、みかん園 60a に静岡県の荒尾索道工場(製)の索道約 300 ㍍(工費約 24 万円)を
設
架設した。以降、同村内には各社の索道が相次いで架設された[熊本県飽託郡河内芳野村役場/宇佐和夫氏の調査,早上三男/果樹農業発達史
共同防除施設建 14]。・同年、八代郡宮原町立神地区において宮原柑橘組合は、新農山漁村事業で共同防除施設を建設し共同防除を始めた[「新農山漁村事
設,共同防除
業実績書」,熊本県,上田 実/果樹農業発達史 14]。
昭和 32(1957)年 ・昭和 32 年 1 月、静岡県引佐郡三ヶ日町(現/浜松市)・浜松市都田において、ブルドーザーによる柑橘園の開畑を試みる。同時に静岡県柑試
ブルドーザ開畑 西遠分場が中心となって研究を開始。この結果、西遠地区をはじめ全国的に集団的な柑橘開発を促進することとなり、西遠地区においては、年
間 200~300ha の開畑実績をあげるもととなった[静岡県西遠地区事業担当者記載,岩田文夫/果樹農業発達史 14]。
ゴマダラカミキリ
・ 1 月、これまで的確な防除法のなかった「ゴマダラカミキリ(天牛)」の防除に、消石灰にポリビニルアルコールとポリビニルアセテートを配合した塗
ガットサイド
布剤により、新しい防除法が開発され、的確な防除が可能になった[小林 尚:新白塗剤による柑橘ゴマダラカミキリの産卵防止「応用動物昆虫学
雑誌 1957 年 1 号,奥代重敬/園芸学全編 128]。・(注)その後、一部の農薬会社から塗布剤に「 BHC 」を混用した製品「ガットサイド」等が売り出さ
れ、これが一層効果を高めた[編者]。
共同防除施設
・ 6 月、(和歌山県)那賀郡那賀町北涌地区に 23.7ha 、農家数 52 戸の定置配管共同防除施設が建設され、現在(昭和 41 年)30ha に達した。防
除効果は、(中略)いうまでもなく、集団防除の効果、防除経費が節減された[和歌山の柑橘 120]。・(注)北涌共同防除の推進/運営には、当時の
那賀町麻生津農協指導部の中川営農指導員(徳島県出身)が中心となって活躍した。その後、彼は惜しくも若くして交通事故で亡くなられた[編
者]。
みかん消費宣伝 ・(和歌山県)有田柑橘農業協同組合(通称/有柑)は(みかん消費宣伝に)初めて、「みかん娘」を(出荷先市場の主要都市に派遣)実施。翌(33)年か
/みかん娘
けん
ら本会(和歌山県果実農業協同組合連合会)事業として拡充実施した。京浜・阪神地方にも派遣、静岡・愛媛などの「みかん娘」・「いちご娘」と妍
(優美)を競い、(童謡)「まりと殿様」・(民謡)「串本節」などの踊りが好評を博した[和歌山の柑橘 120]。
和歌山県夏橙試 11 月、和歌山県は、夏橙及び晩柑類の振興を図る目的で、(日高郡)川辺町和佐に夏橙試験地を開設した。(試験)圃場は 1ha で、(昭和 41 年)
験地設置
現在、実施されている調査研究は、夏みかん 5 系統の現地適応性と甘夏柑の 6 系統についての選抜試験・肥培管理による果実品質改善試験・
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柑橘栽培の歴史
台木試験・凍害果防止・水腐病防止試験である。また、和歌山県の夏みかん「サニー」についての 2.4.5-TE 、あるいは RP7846 などの散布による
グレ ー プ フ ル ー 減酸処理法試験も実施している[和歌山の柑橘 120]。
ツ導入
・昭和 32 年頃、当時、三重県南牟婁郡の柑橘試験場長だった本多(舜二)技師の紹介で「グレープフルーツ(ピンクマーシュ)」苗を 17 本導入し、
栽培を始めた[和歌山の果樹,和歌山県]。
ヘ リ コ プ タ ー 防 ・我が国における、かんきつ園に対する農薬の空中散布は、昭和 32 年 6 月 14 日、静岡市南(麻機)の傾斜地かんきつ園にヘリコプター(日ペリ
除試験と実用散 航空所属 JA7007 号、ベル 47D 型機)で液剤散布の試験が行われた。静岡県柑橘試験場では、昭和 40 年、ミカンハダニ・ヤノネカイガラムシに
布
対する効果試験が行われ、 42 年・ 43 年には、訪花害虫に対する効果試験が行われた。実用的な防除は、ミカンハダニの防除に昭和 40 年、三
ヶ日町 244ha 、浜松市 69ha 、昭和 41 年には三ヶ日町 552ha 、浜松市 77ha 、 42 年には三ヶ日町 406ha 、浜松市 69ha 、 43 年には訪花害虫防
除に三ヶ日町 184ha 、藤枝市 15ha が実施された[「果実日本 12 巻 9 号」(1957)・「静岡柑試報告」昭和 40~43 年度,西野 操/果樹農業発達史
ブルドーザ/レー 14]。
キトーザ整地
・昭和 32 年、(佐賀県)果樹試験場において、これまで土木工事に使用されていたブルドーザーを初めてみかん園の造成に導入した。また整地
にレーキトーザーを試み、好成績をあげた[佐賀県小城郡小城町,山崎 儀/果樹農業発達史 14]。
配管式共同防除 ・新農山漁村事業(昭和 31 年)が始まり、 32 年、長崎県で果樹園の開園や近代化施設に対して補助および融資の道が講ぜられてから、定置配
施設
管式共同防除施設が各地に設置され、農業構造改善事業でさらに飛躍し、次々と施設が増加した。(昭和 45 年)現在では 280 余カ所にのぼっ
新規登録農薬
ている[長崎県一円,「果樹の共同防除施設運営結果」,田中力雄/果樹農業発達史 14]。
・昭和 32 年、農薬取締法で『殺虫剤』としてヘプタクロル・ DDVP ・ EPN ・ジフェニルスルホン・ DNBP ・カーバム、『殺菌剤』にトリアジン・ TUZ テ
トラオキシサイクリン、『除草剤』に PCP が登録される[「農薬に関する資料,農林省農政局植物防疫課」,池上勇三/果樹農業発達史 14]。
たち ま
わ
せ
昭和 33(1958)年 ・六月三十一日付けで愛媛県北宇和郡吉田町大字立間の松本喜作氏の育成した「立間早生」が品種登録される。立間早生は、当時樹齢 45.6
立間早生
年生の尾張温州の一枝から発生した変異種(枝変り)である。宮川早生・松山早生より果実大きく果形扁平で玉揃い良く糖分高く濃厚な風味をも
ち、着色は宮川(早生)より一週間以上早く、松山早生と同程度である。ただ、本種は若干「先祖戻り」の傾向がある[農水省告示 380 号/愛媛県果
樹園芸史 118]。
潮風害防止対策 ・ 7 月、和歌山県有田市千田東で 44ha 、 55 戸を対象に、工事費 2 千 9 百 47 万円投じ、(柑橘園で初めて)潮風害の防止対策に、スプリンクラ
スプリンクラ利用 方式による共同灌水施設(全額融資事業)が設置され、同 39 年、 2ha を追加して 47ha となる(後略)[和歌山縣の果樹 27/和歌山の柑橘 120]。・
(注)当該地区は海岸に近く、台風襲来時には度々、柑橘園に潮風被害を受けてきた[編者]。
・昭和 33 年、(佐賀県からミカンの主要害虫)「ミカンハダニ」の農薬「シュラーダン」に対する抵抗性が報告[関 道生:ミカンハダニの防除,応用昆
ミ カ ン ハ ダ ニ の 虫動物学会第 2 回シンポジウム講演/討論要旨]され、 37 年に「テトラジホン」抵抗性が、また 38 年頃から全国的に「ジメテート剤」や「有機りん
農薬抵抗性
剤」抵抗性がみられるようになり問題化した[関 道生/松尾喜行/小林和幸: 1962 年,ミカンハダニの薬剤抵抗性に関する研究(第 1 報)ジフェニー
ルスルフォン剤に対する抵抗性について,佐賀県果試研究報告 3 号]/奥代重敬:園芸学全編 128]。・(注)その後、ミカンハダニの防除には同一
農薬の連用を避け、ローテーション利用が指導された[編者]。
・昭和 33 年、静岡市福田ケ谷の青島平十氏が薗内の「尾張系温州」から大果で扁平な枝変わりを発見し、自家育成(接木育苗)した樹について
青島温州
静岡柑橘試験場が調査を行い、特に貯蔵性に富み、加工性も良い事がわかり、昭和 40 年に正式に県の奨励系統「青島温州」として指定され、
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柑橘栽培の歴史
普及しつつある[「ミカン系統ピックアップ」,野呂徳男/果樹農業発達史 14]。
宮内伊予かん
・昭和 33 年から(愛媛県)温泉青果農協では「伊予かん」の系統選抜を始め、数十点の調査の結果、「宮内伊予かん」がクローズアップされた。
(愛媛県)果樹試験場でも、同種を長年継続調査した結果、数々の特性があり、連年豊作であるところから、園主に奨めて昭和 38 年に登録申請
をした[愛媛県果樹園芸史/果樹農業発達史 14]。
新規登録農薬
・昭和 33 年、農薬取締法で『殺虫剤』として CMP ・ DBCP 、『殺菌剤』にサリチルアニリド・硫酸オキシキノリン、『除草剤』に DNOC ・ CAT(製剤
名/シマジン水和剤)が農薬登録される[「農薬に関する資料,農林省農政局植物防疫課」,池上勇三/果樹農業発達史 14]。
昭和 34(1959)年 ・ 1 月 1 日、尺貫法が廃止され、土地・建物の表記を除き、メートル法が完全実施された[Wikipedia/日本のメートル法化/歴史データベース 44]。
メートル法実施
・和歌山県は全国にさきがけ、「みかん専用列車」を設定、東京に向けて「紀文号」、北海道に向けて「紀州号」を走らせる。十二月最盛期に毎年
みかん専用列車 連続して「みかん列車」が走る。その後、四国・九州にも専用列車が、みかん輸送の大動脈となっている。昭和 34 年ころから(県下の柑橘園で)早
異常落葉
春に異常落葉が集団的、あるいは散在的に発生、収穫皆無に近いものが年々増加し(中略)、昭和 35 年、果樹振興対策の一環として、(中略)柑
橘栽培改善試作園を有田市(旧保田村と旧宮原村の 2 カ所)に設置し、(中略)土壌改良・地力増進対策を実施したところ成果は極めて顕著にみ
化学肥料多用
られた[和歌山の柑橘 120]。・(注)この異常落葉はウイルス原因説を称える研究者も居たが、肥料研究者により化学肥料多用による過肥障害と判
明、少肥栽培で回復することが実証された。昭和三十年代はミカンの売れ行き良く、化学肥料が安く出回り 10a 当り施肥量がチッ素成分で
20~40 ㎏にも達しているミカン園が多かった[編者]。
夏 柑 に ヤ ノ ネ カ ・(山口県で)夏柑にはヤノネカイガラムシが発生しないとされてきたが、昭和 27 年頃より被害園が散見されるようになった。(萩市大井鵜山)鵜山
イガラムシ発生, 台地は防除用水が不足して薬剤散布不可能であるため、森重清一氏代表となり、(昭和 34 年 5 月)、組合員 110 名、面積 42ha の防除施設を設
共同防除
置して、年 4 回の共同防除を行っている[萩市大井鵜山,阿武富雄氏から聞き取り,田原敏之/果樹農業発達史 14]。
構造改善事業
・和歌山県那賀郡粉河町龍門地区が農林省の構造改善事業パイロット地区として昭和三十三年に指定を受け、三十四年から同三十八年度か
けて傾斜地ミカン園約 2 百㌶の畑地潅漑施設・農道の新設整備 3 万 6 千 6 百 70 ㍍・柑橘総合選果場の整備・ハッサク低温貯蔵庫新設六棟
朝日農業賞
(貯蔵量 798 ㌧)・ 153 ㌶の水田カンキツ園転換等の整備事業を実施した。その成果が評価され昭和三十九年、朝日農業賞を受けた[和歌山の
柑橘 120]。・(注)この事業計画は、粉河町産業課と那賀東部農業普及所が当り、連日連夜、龍門農協に事務所を構え事業原案を策定した。大
型低温貯蔵庫の建設は初めてのことで他府県の事例等を視察に出かけて参考にした。低温貯蔵庫は道路事情と選果場に近い所に一カ所に纏
めて建設する計画をたてたものの各部落から異論が出て、結局 6 カ所に各 1 棟を分散設置することとなった。事業が概ね完成すると、新聞やテ
レビで報道されたことから、全国各地のミカン農家や関係機関・報道機関等の見学視察者が押しかけ、その案内に追われる毎日となった[編者]。
花芽分化期は台 ・温州ミカンの花芽分化は、台木の種類はユズ台でもカラタチ台でも花芽分化期はあまり違わないとした[岩崎藤助: 1959 年,柑橘の花芽分化と
木の影響はない 発達に関する研究「東海近畿農試研究報告(園芸)55 号」。
そうか病にジクロ ・熊本県で昭和 34 年頃から、みかんの「そうか病」に有機合成の「ジクロンチュウラム剤」が使用され始めた[熊本県「農業改良普及事業 20 年の
ンチュウラム剤
歩み」,平方康夫/果樹農業発達史 14]。
新規登録農薬
・昭和 34 年、農薬取締法で『殺虫剤』として NAC ・ジオキサリン系有機燐剤・アラマイト・りん化アルミニウム、『殺菌剤』に有機砒素・グアニジン・
シクロヘキシミド・グリセオフルビン、『除草剤』に MCPB ・ TCBA 、『殺鼠剤』にタリウムが農薬登録される[「農薬に関する資料,農林省農政局植物
防疫課」,池上勇三/果樹農業発達史 14]。
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柑橘栽培の歴史
索道 3 基 薗内 ・昭和 34 年 9 月、和歌山県有田郡広川町で初めて、労働力節減のため索道 3 基が導入され、現在では約 60 基を設置、急傾斜地みかん園の
軌道導入
生産物、あるいは肥料、その他生産資材の搬出入に利用している。また、索道とタイアップして薗内軌道(モノラック)を、昭和 43 年より設置し、現
在では約 30 基、延長 6,000 ㍍で、これにより生産管理向上と農業経営を図っている[和歌山県有田郡広川町,南広農協参事/西岡昭次氏より聞
き取り,中谷孝治/果樹農業発達史 14]。
しとみ
有 機 酸 の 組 成 / ・ 蔀 花雄らは昭和 34 年~43 年にかけて、りんご・洋なし・もも・うめ・みかん・ぶどう・おうとう等の果実中に含有する有機酸の組成と割合を明らか
割合と追熟/貯蔵 にした他、りんご/国光の貯蔵中の変化、洋なし/バートレットの追熟中の変化、白肉ももの貯蔵、および追熟による変化を追究した「食糧研究所新
中の変化
庄支所,新庄市石川町,「食品工業誌 1906 年」,「同誌 1967 年」,「食糧研 1968 年」,「食品工業誌 1968 年」,小曾戸和夫/果樹農業発達史 14 」。
昭和 35(1960)年 ・昭和 35 年 5 月 3 日、(山口県で)ミカントゲコナジラミの天敵/スルベストリコバチの寄生したミカンの葉 30 枚を長崎県から導入し、大島郡久賀町
スルベストリコバ 椋野の夏橙の一枚(枝か)に寒冷紗の袋をかけて放飼した。昭和 38 年の調査でその後、放飼地点で(ミカントゲコナジラミが)激減している。なお、
チ放飼
昭和 38 年 4 月にも長崎県から同天敵を導入し、大島郡東和町伊崎・地家室・佐連に放飼した。その結果は不明である。また、昭和 39 年 9 月に
も県の事業として大島郡 4 町と下松市・熊毛郡平生町に、同天敵の放飼が実施された[「山口のみかん 15 巻 3 号」(昭和 38 年)・大島郡東和町/
東和農協指導部技師/中村松一氏から聞き取り,加藤 勉/果樹農業発達史 14]。
ハッサク萎縮病
・広島県原産のはっさくは、戦後、萎縮病によって生産の減退がられるようになった。昭和 35 年 8 月から農林省東海近畿農試園芸部の指導に
無病母樹選抜
基づき、広島県農試柑橘支場と広島県果実連は無病母樹の選抜に着手した。その結果、因島市中庄町の松田繁治氏所有の樹齢約 70 年のは
っさくを母樹として指定した。以降、 37 年には採穂園を設置し、本県産はっさく苗の育苗は、これから穂木をとっている[「広島県立農業試験場業
務年報」坂井 堅/果樹農業発達史 14]。・(注)萎縮病は、その後、トリステザウイルスの感染によって発病し、幹にステムピッテングが現れ、樹が衰
弱し、根が枯死することによって果実が小玉化することが判明した[編者]。
・この年、和歌山県果樹園芸研究会の機関誌「和歌山の園芸」を、「和歌山の果樹」と改称、読者も増え、現在(昭和 41 年)、発行部数 6,000 部、
読者は県内のみならず、三重・兵庫・大阪・岐阜県をはじめとして 20 府県に及んでいる[和歌山の柑橘 120]。
奨励系統の変遷 ・広島県における昭和 35 年~45 年の「温州みかん」奨励系統の変遷「昭和 35 年~37 年:宮川・南柑 4 号・杉山・林・望月。昭和 38 年~39 年:宮
川・南柑 4 号・杉山・林・石川。昭和 40 年~41 年:宮川・南柑 4 号・杉山・林。昭和 42 年~45 年:宮川・興津早生・南柑 4 号・杉山・林」[「広島県
果樹園近代化指標」広島県園芸特産課,岡崎哲二/果樹農業発達史 14]。
新規登録農薬
・昭和 35 年、農薬取締法で『殺虫剤』としてベンゾエピン・ MPD ・チオメトン・メカルバム・ REE 、『殺菌剤』に有機錫・アンバル・カルバジン酸系、
『除草剤』に DCMU ・ DPA が農薬登録される[「農薬に関する資料,農林省農政局植物防疫課」,池上勇三/果樹農業発達史 14]。
昭和 36(1961)年 ・六月十二日、「農業基本法」が制定公布され、農業生産・農産物などの価格および流通、農業構造の改善、農業行政機関および農業団体、農
畜 産 三 倍 /果 樹 政審議会などについて規定する[Wikipedia/農業基本法]。・(注)農林省は農業構造改善事業の推進にあたり、農家に対して「選択的拡大」を要
二倍
請、「畜産三倍・果樹二倍」の目標を提示した。これ以降、みかん産地では柑橘園の造成・水田のみかん園転換による温州ミカンの増反が急速
に進んだ[編者]。
・九月十六日日、台風 18 号が室戸岬に上陸、大阪湾岸に大きな被害を出した。第二室戸台風と呼ばれ[Wikipedia]、紀伊半島一円に大きな被
害をもたらした。和歌山県の柑橘・柿等、果樹園にも落果・枝折れ等、被害が甚大となった[編者]。第二室戸台風と昭和三十八年の極東寒波に
夏みかん減酸処 よって壊滅的な被害を受けた夏みかんは、ブームから一転して悲観ムードの中に突き落とされた。その矢先、(夏みかん果実の)減酸処理問題が
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柑橘栽培の歴史
理
議論の中心となり、昭和 38 年以来、慎重な討議を重ねた。(和歌山県における温州みかんの)水田転換による増植は、昭和三十三年は僅か
70ha(中略)、昭和 36 年を境に一躍上位に、昭和 38 年には全増植面積中 56 %に当たる 652ha を示し、(中略)、昭和 39 年、 40 年にはやや落
ち着きをみせているものの、相変わらず高い水準にある[和歌山の柑橘 120]。
・福岡県久留米市草野町吉木の今村芳太が、昭和 7 年に浮羽郡田主丸町の苗木業者から購入した「尾張温州」から、昭和 20 年頃に発見した
今村温州
もので、昭和 36 年に「今村温州」として品種登録を申請し、昭和 43 年に新品種として登録された。樹勢は極めて旺盛、極晩生で浮皮にならず、
丹下系ネーブル 果汁濃厚、貯蔵性が高い[福岡の園芸「今村温州のしおり」,栗山隆明/果樹農業発達史 14]。
鈴木系ネーブル ・昭和三十六年、ネーブルの新系統として、広島県向島町の「丹下系」、昭和三十七年、静岡県三ヶ日町から「鈴木系ネーブル」が相次いで種苗
登録された[和歌山の柑橘 120]。
新規登録農薬
・昭和 36 年、農薬取締法で『殺虫剤』として BRP ・ジメトエート・ MEP ・ ESD ジフェニルスルフィド・キノキサリン系アゾキンベンゼン、『殺菌剤』に
プラストサイジン S +有機水銀・有機硫黄、『除草剤』に DCPA ・プロパジンが農薬登録される[「農薬に関する資料,農林省農政局植物防疫課」,
池上勇三/果樹農業発達史 14]。
乗用ホイール型 ・昭和 36 年 12 月より、(静岡県)浜松市都田町川山の栽培者/川端国司が、共立農機株式会社より、乗用ホイール型トラクター(32PS)とスピードス
トラクターかんき プレヤー共立 R200 型を導入して防除作業を周年行うとともに、自動三輪車の車台を改造してトレーラーとなし使用したのが、トラクター大系によ
つ管理一貫作業 るかんきつ園管理の始めである。後に各種作業機を購入し、トラクターによる一貫作業を行っている[農林中金静岡支所資料写(昭和 37 年),静岡
県農業試験場機械営農部普及課普及資料 No2(昭和 45 年),竹田康治/果樹農業発達史 14]。
昭和 37(1962)年 ・和歌山県有田郡の平坦地区で、水田のみかん園転換 50.4ha の集団事業が昭和三十七年度に着工、農道整備 1,503 ㍍・排水路 380 ㍍の工
水田のみかん園 事を合わせ実施しした。全園に深さ 15 ㎝の客土、植栽品種は向山系温州である。有田全郡にわたる水田転換は、有田みかんの様相を一変さ
転換
せしめるものとなった。また、伊都郡かつらぎ町御所で、温州みかんを基幹とした 19 戸(農家)の完全協業形態が昭和 37 年着手された。温州み
かん園 12ha ・かき 8.4ha ・うめ 2.3ha ・水田 3.0ha を出資し、新たに 27.5ha の温州みかんを新植、(中略)参加農家は月 23 日の日給月給制とし、
男は 18,000~20,000 円、女は 13,000~15,000 円支給される(後略)[和歌山の柑橘]。
新甘夏発見
・熊本県田浦町(現/芦北町)の山崎寅次氏の甘夏の園地で、「新甘夏」が発見される。「甘夏」の枝変わりによって生まれた品種で、「新甘夏」ま
たは「田の浦オレンジ」・「サンフルーツ」とも呼ばれ、由来は、「太陽」の SUN と「燦々(さんさん)と降り注ぐ太陽」から付けられている。収穫時期
は 3 月初旬から 4 月初旬位までで、出回る旬の時期は 3 月下旬~5 月下旬である。新甘夏は、甘夏ミカン(川野夏橙)と比べ果皮が滑らかで、果
肉の味は甘夏ミカンと同じようにしっかりとした酸味があり、糖度は甘夏より高い傾向にある[旬の食材百科]。
背負い式草刈機 ・佐賀県で初めて「背負い式草刈機」(共立製,1 馬力程度)が導入される。ヤノネカイガラムシムシの(青酸)ガス燻蒸が姿消す。ヤノネカイガラムシ
青酸ガス燻蒸姿 に対する発生予察技術の適用と有効な殺虫剤の出現により、これまで長年月行われきたガス燻蒸が昭和 37 年頃には殆ど行われなくなった[佐
消す
賀県果樹試験場/関室長から聞き取り,北川行俊・佐賀県果樹専技,山崎氏から聞き取り,山崎 儀/果樹農業発達史 14]。
・昭和 37 年、農薬取締法で『殺虫剤』として ECP ・ TCP ・ CPAS 、『殺菌剤』にアンスキラン系、『除草剤』に DNBP ・ ATA 、『殺鼠剤』にエンドリ
新規登録農薬
ンが農薬登録される[「農薬に関する資料,農林省農政局植物防疫課」,池上勇三/果樹農業発達史 14]。
ケルセン粉剤/マ ・ 7 月 10 日、広島県豊田郡豊町並びに瀬戸田町で急傾斜地かんきつ園で共同防除にヘリコプターによる空中散布が行われ、ダニ類に対して
ラソン粉剤のヘリ ケルセン粉剤の防除効果が高いことが実証された。翌 38 年 7 月には更にマラソン粉剤がアブラムシ類に有効なことも実証され、昭和 40 年は延
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柑橘栽培の歴史
コプター散布
べ 3,100ha の事業散布が実施された[「広島県における柑橘病害虫のヘリコプターによる防除成績」広島県,昭和 39 年 3 月,貞井慶三/果樹農業
発達史 14]。
フェンカプトン粉 ・愛媛県でヘリコプターによる農薬空中散布の最初の記録は、かんきつ園では昭和 37 年から農林水産航空協会の委託(愛媛県青果農業協同
剤 ヘ リ コ プ タ ー 組合連合会受託)による実用化試験として、松山市鷹の子と北宇和郡吉田町立間でミカンハダニを対象にフェンカプトン 3 %粉剤の試験散布の
散布試験
行われたのが初めてである[「愛媛県果樹園芸史」 p387,県/果樹農業発達史 14]。
航空防除
・昭和 37 年、熊本県飽託郡河内芳野村のかんきつ園で初めて航空防除が行われた[「熊本県資料」,三島恭一/果樹農業発達史 14]。
・(熊本県果樹試験場における昭和 37 年~44 年の空中散布によるかんきつ病害虫の防除に関する研究により)、 10 a 当り散布量は、液剤で 8 ℓ、
粉剤では 6 ㎏が必要である。樹冠部位別の薬剤付着状況は、液・粉剤とも、樹冠頂部と外側部への附着が最も良好で、下部はやや劣り、内部
空中散布の防除 葉に対する附着は極めて少ない。樹形別に検討すると、中腹の附着は安定しているが、散布時の気象によって稜線の附着が劣ることがあった。
効果
薬液の平均粒径は 320~270ha で、風下 250 ㍍まで区域外への遷散(飛散)を認めた。ミカンハダニに対する防除効果は、液・粉剤とも地上散布
に比べて効果が劣り、実用性は期待できない。このことは、デラン水和剤を使用した黒点病についても云える(実用性は期待できない)。ヤノネカ
イガラムシは第一世代にジメテート水和剤 15 倍、第 2 世代同 50 倍で地上散布とほぼ同等の効果が得られた。アブラムシ類に対しては、ジメテ
ート、エストックス、スミチオン乳剤各 30 倍液で実用可能である。そうか病に対しては伝染源密度の高い園でダイホルタン水和剤 15 倍、低い園
では 30 倍散布でよい。経費は地上散布で(の)68~90 %程度と推定される[「九州病害虫研究会報第 11 巻,第 13 巻,第 15 巻,第 16 巻」,山本 滋/
果樹農業発達史 14]。
広島県で初めて ・昭和 37 年、(広島県)加茂郡大和町大草の大草果樹生産組合、(及び)御調郡久井町中野の中野果樹畜産組合法人にて、(広島県下で)初めて
スピードスプレヤ スピードスプレヤが導入、使用された[広島県「小林英郎」,小林英郎/果樹農業発達史 14]。
導入使用
昭和 38(1963)年 ・昭和 38 年 1 月の極東寒波で(山口県萩市の)夏みかんは全滅に近い状態となったが、土についた果実は無被害だったことにヒントを得て、(そ
の後)、寒波前に収穫し、日陰で排水の良い土地に巾 1 ㍍、深さ 50 ㎝の穴を掘り、ポリ袋に入れて並べ、屋根型の雨覆いをする簡易貯蔵を行っ
甘 夏 /八 朔 の 土 たところ、新鮮な果実を 4 月まで保つことが出来た。貯蔵経費が安く、その後の凍害が回避出来たので、萩市一帯で、八朔・甘夏にも普及してい
中貯蔵
る[山口県阿武郡田万川町江崎上田万,山本實/果樹農業発達史 14]。
珠心胚実生
・ 7 月 1 日、農林省園芸試験場(興津)は、「宮川早生」に「カラタチ」(花粉)を交雑した珠心胚実生(昭和 15(1940)年交雑)から選抜育成した「カン
興 津 早 生 /三 保 キツ興津 2 号」を「興津早生」、同じく「カンキツ興津 1 号」を「三保早生」と命名して農林認定品種として登録される。「興津早生」は「宮川早生」に
早生登録
比べ樹勢が強く、結実性は良好で豊産性。果実の着色は「宮川早生」より若干早く、果形は扁平。成熟期は 10 月下旬~11 月上旬。果汁中の糖・
酸は「宮早生」より高く濃厚な食味。完全着色後も「味ボケ」しにくく風味が増すので完熟栽培が可能。「三保早生」は「宮川早生」に比べて樹勢が
強く、樹の発育も良好で収量も多い。果実の着色は「宮川早生」に比べて若干早い。果汁中の糖は「宮川早生」より高く、酸含量は低い。したがっ
て、「三保早生」は甘味比が高く、早期より食味が良い。ただし、酸含量の減少が早いため、貯蔵すると味が淡泊になる[岩崎藤助/西浦昌男/奥代
直己:カンキツ新品種「興津早生」と「三保早生」について,園芸試験場報告.
B1 号(昭 37.3)-12 号(1972.12)][農研機構/果樹研究所,かんきつ属
(Citrus L.)の品種一覧]。・(注)珠心胚実生は、実生カンキツ類には珠心細胞が無性的に胚に発達する特異な現象があり、種子は多胚になる。多
胚性は交雑育種にとって雑種獲得の障害(邪摩)になる。しかし珠心胚実生の中には幾らかの遺伝的変異が認められ、(それを利用して)品種の
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柑橘栽培の歴史
改良が計られる[松本亮司/新園芸学全編 129]。
立間方式農業法 ・八月二十五日、愛媛県宇和郡吉田町立間地区で、村ぐるみで 41 社の農業法人が一斉に発足する。立間方式と呼ばれたこの法人の特長は、
人
①農地法上も合法的な法人であること。②(農家の)共同化法人であり農協が中心となって村ぐるみの法人であること。③農業経営合理化を主た
る目標としていることであった。これまで一戸一法人で税金対策としてきた法人問題は、共同化法人による構造対策として発展し、ここに農業法
人問題の一時期を画すに至った。(後略)[愛媛県果樹園芸史 118]。
低温貯蔵八朔の ・この年から和歌山県果樹園芸試験場紀北分場で低温貯蔵八朔の「こはん症」発生環境と防止研究を実施。こはん症は果実出庫時の急激な品
こはん症
温上昇と環境湿度の低下により、発生が増え、出庫前の果実温度予措や果実のワックス処理によって軽減されることを明らかにした[山下重良:
園芸学会雑誌 36 巻 2 号]。
・この頃、愛媛県果樹試験場の薬師寺清司氏らが温州みかんの「計画的密植栽培」を提唱し、従来の栽植本数の数倍、つまり 10 ㌃当り 200しゆくばつ
かんばつ
300 本を当初に植え付け、収穫をあげながら樹の生長に応じて順次 縮 伐・間伐していくのが経済的とする考えが広く普及してきた[愛媛県果樹園
計画密植栽培
芸史 118/編者]。
・和歌山県における昭和 38 年度果樹園経営規模別農家数割合「温州みかん農家数 18,554 戸、 50 ㌃未満 18.5 %、 50 ㌃~1ha45.1 %、
1~2ha4.3 %、 2ha 以上 2.0 %。夏みかん農家数 12,141 戸、 50 ㌃未満 17.6 %、 50 ㌃~1ha46.7 %、 1~2ha34.8 %、 2ha 以上 0.9 %。果樹全体
32,785 戸、 50 ㌃未満 63.0 %、 50 ㌃~1ha28.0 %、 1~2ha9.0 %。主要県別/温州みかん品種別/栽培面積割合、全国平均:早生種 18 %、普通
種 82 %。和歌山県:早生種 21 %、普通種 79 %。静岡県:早生種 10 %、普通種 90 %。愛媛県:早生種 15 %、普通種 85 %。広島県:早生種
26 %、普通種 74 %。熊本県:早生種 22 %、普通種 78 %。佐賀県:早生種 27 %、普通種 73 %。長崎県:早生種 13 %、普通種 87 %」[果樹
基本統計調査/和歌山の柑橘 120]。
・温州ミカンの隔年結果は結果枝と花芽をもつ結果母枝の着生数の不均衡である。生理的には着果過多によって養分の消費を多くし、翌年の
花芽を生成するに必要な養分を枝体内に蓄積する量が不足し、翌年の着花結実を少なくする現象である[大垣智昭/藤田克治/伊東秀夫: 1963
温 州 ミ カ ン の 隔 年,温州ミカンの隔年結果に関する研究(第 3 報)園芸学会雑誌 32 巻 1 号]。・(注)隔年結果は、要するに樹の能力に対して成らせ過ぎが原因で
年結果
ある。モモやリンゴのように十分に摘果すれば隔年結果は全くない。この頃からミカン産地では、各地で「摘果のぼり」をたてた車を走らせて摘果
推進運動をしたものである[編者]。
摘果推進運動
・昭和 38 年度から始めた(三重県)熊野地区県営開拓パイロット事業は、熊野市金山地区を軸に近接の久生産、山崎地区を含めて土地改良事
業 161.1ha みかん植栽面積 113ha の計画で、昭和 45 年を最後に事業を完成する。本地帯の開園法を称して「段丘式」、または「金山式」と呼ん
開拓パイロット事 でいる。「段丘式」を称した意義は、山を切り崩し谷を埋めて平地形の園地に修正する式で、大型(作業)機械の導入を前提とした開園法である。
業
本県紀州地域の開園は大半この方式が採用され機械化と結びつけている[果実日本 25 巻第 5 号(昭和 45 年),西場静雄/果樹農業発達史 14]。
新規農薬登録
・昭和 38 年、農薬取締法で『殺虫剤』としてバミドチオン・ PMP ・ PAP 、『殺菌剤』に酢酸ニッケル・プラストサイジン S ・ PCP-Ba 、『除草剤』に
DNBPA ・ NIDDBN ・ MCPCA キサント酸塩・プロメトリン・ジクワット・有機錫、『殺鼠剤』にチオセミカルバジトが農薬登録される[「農薬に関する資
料,農林省農政局植物防疫課」,池上勇三/果樹農業発達史 14]。
スワーススプレヤ ・昭和 38 年、(熊本県)牛深市浅海の池林農場(農業構造改善事業パイロット地区)に共立式スワーススプレヤ 2 台が補助事業として取り入れられ
導入
た[熊本県牛深市浅海,「熊本県資料」,早上三男/果樹農業発達史 14]。
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柑橘栽培の歴史
昭和 39(1964)年 ・ 4 月、ナツミカンに代わる品質優良な晩生カンキツ育種推進のため、農林省園芸試験場久留米支場口之津試験地を長崎県南高来郡口之津
晩 生 /中 生 /早 生 町に開設。その後、昭和 43(1968)年には園芸試験場安芸津支場(現/東広島市安芸津町)が開設され、 1~2 月に成熟するカンキツの中生種の育
カン キ ツ 育 種 拠 種を分担することとなる。口之津試験地は昭和 48(1973)年 1 月、果樹試験場口之津支場として格上げ発足。果樹試験場興津支場は、年内に収
点
穫できる早生種のカンキツ育種を分担することとなった[NARO 果樹試験場沿革]・[新園芸学全編 129]。
害虫駆除予防規 ・(長崎県では)、これまで稲を中心とした普通作物だけが(害虫駆除予防規則)の適応を受けていたが、(明治 39 年 9 月 8 日)規則改正によって、
則改正
この時から果樹害虫もとりあげられるようになる。果樹が重視されてきたと云える[「長崎県果樹農業の沿革」,月川雅夫/果樹農業発達史 14]。(注)
明治政府や府県の行政もこれまでは主食の米麦を確保すればよしとし、果物は贅沢品とみて保護する施策をとらなかったのであろうとみられる
[編者]。
温 州 み か ん 10 ・昭和 39 年度主産県の温州みかん生産量・生産費・労働時間・ 1 日当り家族労働報酬[39 年度農林統計/和歌山の柑橘 120]。
㌃ 生産 量 ・生 産 県
別
第 2 次生産費(円/10 ㌃) 労働時間(10 ㌃)
家族労働報酬(円/1 日)
備考
3,425
175,107
101,697
310.7
3,096
生産費に占める肥料
静
岡
3,336
164,184
98,282
364.6
2,707
費・防除費・成園費・
愛
媛
3,419
158,066
86,390
349.3
3,168
農具費は産地間に大
広
島
3,106
183,418
112,632
429.9
2,776
差ない。
費 ・ 労 働 時 間 ・ 和歌山
家族労働報酬
新規登録農薬
生産量(㎏/10 ㌃) 粗収益(円/10 ㌃)
・昭和 39 年、農薬取締法で『殺虫剤』としてテロドリン・エチルチオメトフ・ IPSP メナゾン・エチオン・ EPBP ・ PHC ・ FABA ・クロルプロピレート・ジ
フェニルスルフォン+ DDDS ・ DDDS + PPPSCPBE 、『殺菌剤』に NBA ・有機銅・ CDX ・マチラム・チアジアジン・ダイホルタン・キノキサリン・
BINPACRYL ・ DAPA ・ CNA ・セロサイジンクロラムフェニコール、『除草剤』に 2,4,5-T ・リニュロン・ DCBN ・ TCA ・ CBN ・トリエタジン、『植物生
長調節剤』にメーナフタリン酢酸ベレリン・ 2,4,5-TP ・ 2,4,5-ナインプロピルが農薬登録される[「農薬に関する資料,農林省農政局植物防疫課」,池
上勇三/果樹農業発達史 14]。
とどろき
たいめい ま ち
スピードスプレヤ ・昭和 39 年、熊本県宇土市市 轟 の県果樹試験場宇土母樹園、(及び)玉名郡袋明町(岱明町)にみかん園防除用スピードスプレヤ(共立式)1 台
初導入
が、熊本県で初めて導入された[熊本県資料,早上三男,三島恭一/果樹農業発達史 14]。
ミカン狩り農園
・ 10 月、和歌山県有田市宮原町・同糸我町付近の農家が、ミカン狩り経営を目指す農家が現れ、国道 24 号線沿いにミカン狩り農園を設置して
店舗を構えた。 10 月~12 月中旬に 1 日平均数百人、休日には 2 ~ 3 千人のミカン狩り客が訪れるようになった[有田農業改良普及所島久男/果
樹農業発達史 14]。
イ マキユウレ イ
スピードスプレヤ ・昭和 36 年 11 月 19 日、(鹿児島県枕崎市)の農事組合法人/立神果樹生産組合が設立され、代表者/今 給 黎嘉市氏が選ばれた。ポンカン栽培
導入
が順調に進み、昭和 39 年、 230 万円でスピードスプレヤを導入し、省力栽培による病害虫防除を行った[鹿児島県枕崎市「立神果樹生産組合
資料」,鹿児島県/果樹農業発達史 14]。
・(宮崎県)児湯郡川南町竹浜地区第一次農業構造改善パイロット事業で完成した平坦地みかん園 90ha の防除機として、昭和 39 年 9 月、川南
スピードスプレヤ 町農業協同組合が事業主体となり、牽引式タイプの共立スピードスプレヤを導入し、県・町・関係技術者が研究調査の結果、開園(法)、栽植法、
導入定着
運営法などを定着したものである[宮崎県児湯郡竹浜,小松鎭夫/果樹農業発達史 14]。
昭和 40(1965)年 ・ 7 月 13~15 日、静岡県浜松市都田(60ha)と引佐郡三ヶ日町(250ha)でミカンハダニを対象にヘリコプターによる航空防除が行われた。(静岡県
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柑橘栽培の歴史
航空防除試験散 最初の実用化試験散布)[「静岡県柑橘史」昭和 35 年 2 月刊,鈴木寛治/果樹農業発達史 14]。
布 /台 風 23 号 / ・ 9 月 10 日、台風 23 号が来襲、(和歌山県)有田地方では最大瞬間風速 45 ㍍を記録。海岸線に近い柑橘園は未曾有の潮風害を蒙った。海岸
潮風害
線から 1 ㎞程度の幼木では枯死するものが多かった。三宝柑の集団産地(有田郡湯浅町)栖原では栽培面積 110ha のうち、落葉率 3 割以上の
被害園は 30 %、幼木園で枯死するもの多く、日高地方の夏みかんでも落果・落葉被害著しく、幼木園で枯死に至るものが続出。被害が甚大で
あった原因は雨を伴わない台風であったため(中略)潮風害が強くでた。潮風害に比較的強いのは、普通温州と早生温州、ポンカン、柚などであ
った。潮風に最も弱い品種は夏みかん・文旦類・八朔であった[和歌山の柑橘 120]。
共同防除施設
・和歌山県における果樹園共同防除施設(主に定置配管)は温州みかん・かき・夏みかんで 16 地区、合計 323.5ha 、対象農家数 725 戸、事業額
66,785 千円となる。一部スピードスプレヤ(橋本市市脇/かき)・スワース防除移動機(吉備町長田/温州みかん・那智勝浦町狗子ノ川/温州みかん)
[昭和 40 年現在県みかん課調べ/和歌山の柑橘 120]。
みかん課新設
・昭和四十年、和歌山県は果樹行政を一元的に推進するため、農林部に「みかん課」を新設した。(中略)新し(夏みかんの)減酸処理方針を定
め、酸度検定を経た出荷品の愛称を、和歌山の夏みかん「サニー」と決定、昭和四十一年新春早々サニー旋風を巻き起こした。愛称の「サニー」
愛媛県ネオ夏
は、作家/曽野綾子先生の命名であった[和歌山の柑橘 120]。・(注)当時、愛媛県では砒酸鉛散布によって夏みかんの減酸処理したものを「ネオ
和歌山県サニー 夏」と称して出荷していた。和歌山では砒素の人体毒性や樹の影響を考え、これに代わる減酸剤を県果樹園芸試験場が探索試験し、植物ホル
モン剤 2.4.5-TE の減酸効果を確認し、酸度検定の合格品を、和歌山の夏みかん「サニー」とし、消費市場から賞賛を浴びた[和歌山の柑橘
120]。・新任のみかん課長は、夏みかんの販売戦略として、作家/曽野綾子氏に命名を依頼し自ら田園調布の自宅を尋ね、提示された四つのう
ち、「サニー」を商標に決め、またサニーの出荷段ボール箱も、曽野さん紹介のデザイナーに新しく設計してもらった[島本淺夫著/紀州みかんス
新規農薬登録
ターへの道]。・(注)2.4.5-TE は、 2.4.5 トリクロルフェノキシ酢酸イソプロピルエステルを 3.6 %含有する製剤の略称[編者]。
・昭和 40 年、農薬取締法で『殺虫剤』としてアナバシン・ホルモチオン・ DAED ・ホサロン・ CPMC トキサメート・ MNFABCPE ・ CPCBS + BCPE
・アミドチオエート DCIP ・酸化エチレン、『殺菌剤』にジメチルアンバム・有機ニッケル・ ETM ・ポリカーバメート・スルフォン酸系・スチロサイドガス
マイシン・ PCBA ・ TPN ・ EBP ・酸化鉄、『除草剤』に MCPP ・ CNP ・ NPA ・ジフェナミド・ MOBA ・アトラジン・アメトリンパラコートプロマシル・石
油・ CHCHDSMAB 、『植物生長調節剤』に B-ナインが農薬登録される[「農薬に関する資料,農林省農政局植物防疫課」,池上勇三/果樹農業発
ダ イ ホル タ ン /抗 達史 14]。
生物質剤使用始 ・熊本県において、みかん「そうか病」に昭和 38 年頃から「ダイホルタン」が使用され、昭和 40 年頃から殺菌剤として「抗生物質剤」が使用され始
め
めた[熊本県「農業改良普及事業 20 年の歩み」,平方康夫/果樹農業発達史 14]。・(注)「ダイホルタン」は、防除効果は高かったが散布者や収穫
ヘ リ コ プ タ ー 散 時に皮膚カブレが強く出て敬遠された[編者]。
布/農薬公害
・昭和 40 年に佐賀県内で初めて佐賀郡大和町大願寺部落で殺ダニ剤のヘリコプター散布を行った。その後年で(散布が)増加したが、農薬公
最初の航空防除 害が論じられ、今後の散布面積の増加は期待できない。昭和 46 年 4 月,2,000ha[本人/山崎 儀/果樹農業発達史 14]。
・昭和 40 年、熊本県飽託郡河内芳野村、玉名郡天水町、葦北郡田浦町において、かんきつ栽培では県下で最初の航空防除が実施された[「熊
本県資料」,三島恭一/果樹農業発達史 14]。
土壌改良灌注機 ・昭和 40 年 10 、熊本県宇土郡不知火町の草野氏園などに、勝本式果樹園土壌改良灌注機が導入された[熊本県上益城郡嘉島町北甘木/勝
本勇氏より聞き取り,早上三男/果樹農業発達史 14]。
- 72 -
柑橘栽培の歴史
昭和 41(1966)年 ・昭和 41 年 2 月、和歌山県では、(中略)、県内の関係諸機関に勤務する技術者を以て、情報及び資料交換・研究・研修会の実施・リクレーショ
みや う ち い
よ かん
宮内伊予柑
ンの実施等を目的に、「和歌山県果樹技術者協会」を設立。初代会長/石谷敏夫(果樹園芸試験場場長)・副会長/本多舜二(県果実連顧問)、同/
和歌山県果樹技 宇田 擴(県みかん課長)。会員数 165 名[和歌山の柑橘 120]。・(注)果樹技術者協会は果樹の試験研究成果や産地における技術的諸問題につ
術者協会
いて協議し、桜の花咲く頃は紀三井寺(和歌山市)の花見で懇親会を開いた[編者]。
宮内伊予柑
・ 11 月 17 日、愛媛県松山市平田町の宮内義正氏が発見、育成した「宮内伊予柑」が農林省に品種登録される。本品種は「伊予柑」の枝変わり
みや う ち い
よ かん
である。枝変わりの時期は昭和 25(1950)年頃と推定される。果実の大きさは「伊予柑」に比べ、 10 ~ 40 ㌫大きく 270 ㌘内外、果皮が薄く果肉歩
合が高い。果形はやや扁平で着色は 2 週間以上早い。また紅が濃い[農林省告示第 1447 号/愛媛県果樹園芸史 118]。
・昭和 41 年、和歌山県那賀郡桃山町農協は総合選果場を建設[桃山町町誌 7]、各地区の小選果場を廃して一元的に集荷、選果を始める[同農
機械式重量選別 協資料/「あら川の桃」 130]。・(注)同選果場の桃別機は、初めて機械式重量方式を採用した[編者]。
機
・昭和 41 年、農薬取締法で『殺虫剤』として CYAP ・ CYP ・ CVP ・カルバノレート APC ・ PPPS ・クロルフェナミジン・ DSP ・ MIPC ・テレピン油
新規登録農薬
(誘可)EDB + EDC 、『殺菌剤』に CNPSE ・フェナジンオキシド・ NET ・ CPA ・ PCMN ・ MHCP ・ PCNB+DAP 、『除草剤』に CMMP ・ MCC ・デ
スメトリン COMU+BIPC レナシル・トリフルラリン・ SAP+プロメトリンが農薬登録される[「農薬に関する資料,農林省農政局植物防疫課」,池上勇三/
果樹農業発達史 14]。
大型機械導入省 ・昭和 41 年、長崎県大村市荒瀬(関面積 9.8ha 、受益戸数 9 戸)の(みかん)幼木若木園に、トラクターとスピードスプレヤが初めて導入された。以
力化
降、構造改善事業、省力化促進事業によって次々と導入されて、(昭和 45 年)現在までに 14 集団、 14 セットの大型機械が導入され、防除を中
心とした省力化が推進されている[長崎県一円,「長崎県特産課年報」,田中力雄/果樹農業発達史 14]。
モ ノ レ ー ル カ ー ・昭和 41 年、熊本県芦北郡田浦町小田浦の元山丑松氏他 2 戸が約 200 ㍍のモノレールカーをみかん園に架設した[「熊本県芦北農業改良普
架設
及所,元山健技師より聞き取り」,早上三男/果樹農業発達史 14]。
早生温州出荷時 ・昭和 41 年 10 月、全国的に早生温州の生産が増加し、その出荷時期の幅を拡げる必要がある。そのため、 12 月~1 月出荷を図る為、収穫時
期の幅を拡げる 期、および仮貯蔵方式の探索を行い、次の結果を得て実用化されている。①従来の 10 月収穫を 11 月上中旬にし糖度を高める。②果実貯蔵中
仮貯蔵方式採用 の萎凋防止のため青切り禁止。③貯蔵湿度を若干高める[静岡県東伊豆町,沼津市西浦,清水市宮加三,三ヶ日町,「静岡県かんきつ試験場資料
第 97 号(昭和 42 年 3 月)」,野呂徳男/果樹農業発達史 14]。
昭和 42(1967)年 ・徳島県果樹試験場の森岡節夫,山本弥栄氏によって、温州みかんの貯蔵中における果実減量の個体変異と貯蔵性の関係について解明された
[「徳島県果樹試験場研究報告第 1 号(1967 年)」,中川正視/果樹農業発達史 14]。
宮本早生発見
・昭和 42(1967)年、和歌山県下津町(現/海南市下津町)の宮本喜次氏によって温州みかんの枝変わりとして「宮本早生」が発見され、昭和 56
(1981)年 2 月 4 日に品種登録される[昭和 56 年 2 月 4 日付け官報]。「宮本早生」は果実扁平で樹勢は強くないが、収量性に優れ、宮川早生よ
早生温州日焼障 りも 2~3 週間程早く成熟する極早生品種[編者]。
害
・早生温州果実の日焼け障害は、西向き斜面の園地に多く、 8,9 月の少照/低温/多湿によって果皮組織が軟弱になり、その後、 9 月下旬に一時
的に高温多照となると発生が多い。また、直射光を受け果実温が急激に高まり、蒸散が異常に促進され乾燥状態になって油胞の破壊が起こる。
さらに青色袋を掛けると発生が少なくなることから、日焼け原因となる波長は長波長域(光線)であるとした[大垣智昭他:神奈川県農試園芸研究
報告 8 号,1960 年/10 号,1962 年/15 号,1967 年]小中原 実:果実日焼け障害/園芸学全編 128]。
- 73 -
柑橘栽培の歴史
新規農薬登録
・昭和 42 年、農薬取締法で『殺虫剤』として MPMC ・ TOE ・ MTMC ・ BPPS カルタップ・ジメテート+BCHCFABB ・サリチオン・ DMPD ・酸化プ
ロピレン、『殺菌剤』に EDDP ・ ESBDDADT ファーバム+硫黄・ IBP ・フェンチアゾン・ BDC ・ポリオキシン・ CECA 、『除草剤』にクロロスクロン・
DCNP ・ PAC+BIPC ・アイオキシル PCP+MCP ・ NIP+MCP ・塩素酸化ナトリウムトリフルラン+MCPFA が農薬登録される[「農薬に関する資料,農
林省農政局植物防疫課」,池上勇三/果樹農業発達史 14]。
大 型 ス ピ ー ド ス ・昭和 38 年度より着手した(三重県)熊野地区県営開拓パイロット事業で開園したみかん園(113ha)に、昭和 42 年度構造改善事業の近代化施設
プレヤ 3 台導入 として大型スピードスプレヤを導入、本機はタンク容量 1,000 ℓ、有効散布距離 20 ㍍を有し補助散布用具を取り付けたもので、 20ha を 3 日間で
散布を終了する。この共同防除施設は(の)事業主体が熊野市農業協同組合で、管理は金山かんきつ経営管理センターの防除組合により運用さ
れている。現在、大型スピードスプレヤ 3 台が導入されている[「果実日本第 25 巻第 6 号(昭和 45 年)」,西場静雄/果樹農業発達史 14]。
昭和 43(1968)年 ・昭和 43 年 3 月、和歌山県有田市野のみかん園において、農林漁業融資を借り入れて畑地かんがい事業により、参加農家 13 戸で宮山地区
かん きつ 園 5ha かんきつ園 5ha(の工事に)に着手し(完成)、当初、果実の着色向上を目的として安価な石灰硫黄合剤の散布を行ったところ、従来の防除作業に
のスプリンクラ年 比較して省力化できることを知るとともに、県果樹園芸試験場の試験成績等を検討し、一部散液の残留処理問題、農薬の種類、及び病害虫の
間防除
寄生部位による防除効果の問題点等、考えられるが、省力防除と(スプリンクラ)施設の多目的利用、共同防除の推進と農薬の危害防止等の利点
により、スプリンクラ利用による年間防除が可能であることが分かり、近代化事業として波及効果は大きい[和歌山県有田市野,宮山潅水防除組合
長/富山哲次氏より聞き取り,岩橋悦男/果樹農業発達史 14]。
・ 4 月、農林省園芸試験場は、広島県豊田郡安芸津町に安芸津支場設置[NARO 果樹試験場沿革]。・(注)安芸津支場はカキ・ブドウ等の研究
拠点となる[編者]。
温州ミカン浮皮
・温州ミカンの浮皮は、①樹勢の強い若木、②天成り果、③柚台の樹、④チッ素肥料のやり過ぎ、遅効き、⑤葉の量に比べて着果の少ない樹、
⑦晩秋の高温多湿が原因である[鳥潟博高: 1968 年,ミカン浮皮症,果樹の生理障害と対策,誠文堂新光社]。また、品種系統により発生率に差が
あり、松田・山田・南柑 20 号・松山・米沢・今村などは発生が少ない[三好実成/石田善一,1964 年「温州ミカンの浮皮防止に関する研究」昭和
35/36 年「愛媛県果樹試験場研究年報」]。
新規農薬登録
・昭和 43 年、農薬取締法で『殺虫剤』として ETHO ・ ETHNBPMC ・ XMC ・フタルスリン+DDTT ・・・・ DMCD ・ MBCP ファニソプロモレート・クロ
ルプロピレート+BDS 、『殺菌剤』に NNN ・ノボピオシン・塩化ペルザルコニウム・ CBA ・ DDPP ・ ESTD ・ジクロゾリン、『除草剤』に PCP+MCPE ・
MCP ・ EPTC ・ 2,45-T+ルファミン酸塩+硫酸アンモニウム複塩・ ACN ・デジュロン・シメトリン・ベスロジン・ジメトリン+BEDC ・クレダジンが農薬登
録される[「農薬に関する資料,農林省農政局植物防疫課」,池上勇三/果樹農業発達史 14]。
運 搬 機 コ ー ス タ ・昭和 42 年に(静岡県)急傾斜地かんきつ機械化実験園に導入した運搬機「コースター」の好成績から、昭和 43 年から静岡県かんきつ園にコー
ー設置 3 万㍍
スターが急速な普及をみた。昭和 43 年度約 3 万㍍、昭和 44 年度約 15 万㍍の設置が行われた。従来の天秤棒、背負子、もしくわ索道との組み
合わせによっていた急傾斜地の運搬方式に比し、労働強度の軽減の面で画期的な改革であった[静岡県「事業担当者記載」,渡辺康夫/果樹農
業発達史 14]。
貯蔵用青島温州 ・静岡県の貯蔵奨励品種である「青島温州」は着色が遅く、通常採収時には完全着色しない。しかし、貯蔵中に着色が進み、 5 分着色果は 2 月
収穫時期
下旬には殆ど 10 分着色する。 3 分着色果でも 3 月 20 日には 8~10 分着色することを調査で確認。品質も貯蔵中に追いつき、未着色果の採収
が可能なことを見ている[土屋輝雄,立川忠夫,井口 功,「静岡柑試研究報告 7 号」,西野 操/果樹農業発達史 14]。
- 74 -
柑橘栽培の歴史
昭和 44(1969)年 ・(和歌山県有田郡)吉備町のみかん栽培の中心地である有田川北岸の千波山は、古くから樹園地化がすすみ、標高 350 米(㍍)まで開園されて
畑地総合開発
いるが、急傾斜地で道がなく主に索道にたよってきた。昭和 44 年度より潅水事業に関連して、畑地総合開発を実施し、 80ha を対象とした農道
農道整備 5,156 が延長 5,156 米(㍍)にわたって完全(コンクリート)舗装として 1 億 9 千円を投じ完成した[和歌山県,松原盛夫/果樹農業発達史 14]。
㍍
・昭和 44 年、農薬取締法で『殺虫剤』としてジオキサカルプメチルオイゲノール(誘引)、『殺菌剤』に DBEDC ・プロピケル・プロピネブ・ COCNQ ・
CONQ ・ ZM ・チオファネート・次亜塩素酸ナトリウム・フォルペット・ヒドロキンインキケゾール、『除草剤』に TOPE ・チトラピオン・フェンデメディフ
新規農薬登録
ァム・ベンチオカーブ+ジメトリン・バーナレート・ MBPMC+MCP が農薬登録される[「農薬に関する資料,農林省農政局植物防疫課」,池上勇三/果
樹農業発達史 14]。
昭和 45(1970)年 ・和歌山県有田市宮原町で昭和 38 年より農業構造改善事業により、参加農家 176 戸で 70ha のみかん園に(スプリンクラ潅水施設設置工事に)
着手し、昭和 42 年に完成した。樹勢の安定と品質向上を目指し大型スプリンクラによる潅水を開始し成果を得た。さらに、 43 年より投資効果向
周年スプリンクラ 上と省力化、および生産費低減を図るため、スプリンクラ利用による液肥散布を研究し、昭和 45 年 1 月より液肥周年栽培に踏み切り、県下初の
液肥散布
農業近代化の実現に成功し、その波及効果は大きい[有田市宮原町/上野山信夫氏より聞き取り,島 久男/果樹農業発達史 14]。
・ 3 月、和歌山県那賀郡桃山町に県営桃山開拓パイロット事業完成[桃山 50 年の歩み 46]。・桃山町調月里子谷に完成した調月パイロット団地
25 ㌶の入植農家は、主にミカン類を植栽した[編者/58]。
スプリンクラー防 ・和歌山県において潅水目的に設置されいるスプリンクラーによって、(農薬)散布し、病害虫防除の可能性の可否を、(農薬の)附着程度、および
除
防除効果について検討し、かんきつ病害虫防除は可能の結果が得られた。省力効果はもとより、農薬危害予防など利点が多く、昭和 45 年 3
月、「和歌山県病害虫防除基準」に散布要領を示した[「和歌山県果樹園芸試験場臨時報告第 1 号」(昭和 45 年),八田茂嘉/果樹農業発達史
14]。
スプリンクラ防除 ・和歌山県有田郡吉備町(現/有田川町)小島地区の傾斜地みかん園でスプリンクラ防除が昭和 45 年 4 月から実験的に行われ、第一次工事の
液肥散布
8ha を約 300 万円で、既設の潅水設備を一部手直しした。 8ha を防除で 1 日、液肥散布が 2 日間で 4~5 人の管理者で済ませるようになった。
組合員 35 戸は兼業農家が大半であるので、大きな助けとなっている[「有田郡吉備町小島」,有田普及所/果樹農業発達史 14]。
スプリンクラ利用 ・和歌山県那賀郡那賀町切畑(現/紀の川市切畑)の溝上一夫氏が、昭和 45 年 6 月中旬から初めて、スプリンクラを利用して薬剤散布に成功し
薬剤散布
た。これより先、和歌山県有田地方でスプリンクラによる病害虫防除に成功しているが、那賀郡那賀町内では溝上氏が初めてある。これにより、み
かん栽培省力化が一歩前進したと云える[和歌山県那賀郡那賀町切畑(大城),岩本岩男/果樹農業発達史 14]。
畑地かんがい施 ・和歌山県有田郡吉備町(現/有田川町)小島地の県営畑地かんがい施設を多目的に利用するため、すでに設置されている潅水施設を如何に利
設 で 液 肥 /農 薬 用していくかを検討した。工事を追加して最少経費をもって最大効果を高めるため、昭和 45 年 4 月に工事を始め、 6 月完了した。(昭和 45 年)
散布
現在、液肥散布と農薬の散布を実施、面積 10ha を 15(散布)ブロックに分け、 1 ブロック当り 1,000 ℓを散布し、 1 ブロック平均 6~6.5 ㌧の散布で
約 5 分程度である[「有田土地改良区資料」及び「有田農業改良普及所資料」,中村 力/果樹農業発達史 14]。
・ 8 月 29 日、和歌山県果樹園芸試験場に全国で初めて果樹公害研究室が新設され、みかん地帯に設置したモニタートラップ「デポジットゲー
大気汚染公害
ジ」による大気の硫酸化合物濃度と、ミカン葉の SO2 含有濃度・温州ミカン落葉率は、高い相関関係にあることを指摘した[山下重良他:昭和 45
年度和歌山県果樹園芸試験場試験研究成績]。・(注)当時、海南市の丸善製油所や有田市初島の東亜燃料工場に近い海草郡下津町・有田市
初島の蜜柑園で落葉や、葉に褐色斑点を生じる障害が発生、大気汚染公害として問題化していた。これより先、和歌山県みかん課は大気汚染
- 75 -
柑橘栽培の歴史
の作物公害に詳しい名古屋大学・三重大学の研究者に依託して原因究明をすすめていた[編者]。
・昭和 45 年、和歌山県果樹園芸試験場は、傾斜地カンキツ園の省力化手段として、「スプリンクラ営農の確立研究」を開始。昭和 51 年にかけ
スプリンクラ営農 て、スプリンクラの散液特性・農薬散布のための器種の改良・スプリンクラ配置法と配管方式等について実証的に研究、スプリンクラ営農システム
を確立した[山下重良:和歌山県果樹園芸試験場特別研究報告第 2 号/農業土木学会論文集.Ⅰ,Ⅱ,150 号.Ⅲ, 151 号]。・多目的スプリンクラ
営農は、画期的な超省力営農手段として(中略)、昭和 54 年現在、 1,687ha の共同施設が設置され営農効果を発揮している。また、カンキツ園の
寒害防止に、中部電力総合技術研究所で開発された有圧換気扇による送風攪拌方式を、昭和 44 年から粉河町遠方地区(八朔園)で検討の結
果、実用可能と認められたので、昭和 45 年度から、「ディスターブマシン」と命名し、以来、助成事業及び融資事業等で導入されるようになった。
寒害防止/ディス 昭和 45 年度:粉河町遠方地区(八朔)4.5ha 。 46 年度:粉河町遠方・風市地区(八朔)62ha 。 47 年度:粉河町杉原地区(八朔)1.5ha 。粉河町荒見
ターブマシン
地区(八朔)10ha 。粉河町薬師谷地区(八朔)3ha 。那賀町麻生津地区(八朔)5.0ha 。かつらぎ町妙寺地区(みかん・八朔)1.5ha 。九度山町金屋島
地区(みかん・八朔)1.0ha 。昭和 50 年度:田辺市三栖地区(梅・李)6.6ha 。田辺市上秋津地区(梅)0.5ha が導入された[和歌山のかんきつ 122]。
新規農薬登録
・昭和 45 年、農薬取締法で『殺虫剤』としてクワコナカイガラヤドリコバチ(天敵)・メソミル、『殺菌剤』にエゾノマイシン・フラサイド、『除草剤』にプロ
ロシフェン・トリフルラリン+MCAN ・ターバシルフェノチオール・アラクロール DMNP ・ CFNP+CNP+MCPCDAA+MCPCA 、『植物生長調整剤』に
サビノック・ニカゾールが農薬登録される[「農薬に関する資料,農林省農政局植物防疫課」,池上勇三/果樹農業発達史 14]。
昭和 48(1973)年 ・ 1 月、農林省園芸試験場から、そ菜・花き部門を分離し、果樹試験場として発足[NARO 果樹試験場沿革]。果樹試験場興津支場が早生カンキ
ツ、安芸津支場は中生カンキツ、口之津支場が晩生カンキツの各々の育種を担当することとなった[新園芸学全編 129]。
昭和 49(1974)年 ・ 2 月 6 日、「川野夏ダイダイ」から枝変わりの果皮が平滑で油胞の少ない外観良好な変異種「立花オレンジ」が、和歌山県日高郡日高町立花
立花オレンジ
氏の園から選抜され、登録された[昭和 49 年 2 月 6 日付け官報/新園芸学全編 129]。
・ 11 月、和歌山県那賀郡桃山町は農村地域工業導入計画の一環として桃山町調月後島に和歌山県経済農協連合会桃山食品工場を誘致、竣
JOIN ジュース
工、操業開始する[桃山町誌 7/桃山 50 年の歩み 46]。・(注)同食品工場は、温州みかんのジュース加工で「 JOIN ジュース」を製造し、県下の温
州みかん産地から、格外果実を原料として集荷、みかん農家の収益向上に寄与。同工場従業員を町内からも採用し町民の就労機会を提供[同
食品工場資料/桃山町誌 7]。
ミ カ ン 園 の 節 水 ・和歌山県果樹園芸試験場で、 1974 年からウンシュウミカン園の水消費ピーク時期に当る 7~8 月に、 1/10 干ばつ年を想定した 31 日間の干天
潅漑
処理のもと、 4 年間にわたって各種の節水潅漑試験を行い、樹の生育・果実収量、ならびに品質への影響について調査研究。総合的にみて、
主根域土層の水分が pF3.0 まで乾燥したとき、全容易有効水分量(TRAM)の 70 %相当量を一回潅水量とする方法がが経済的とした
[山下重良:農業土木学会論文集 151 号(Trans JSIDRE Feb.1991)]。
昭和 51(1976)年 ・ 3 月 10 日、福岡県で「ワシントンネーブル」の枝変わりとして、着色が早く、高糖度/高酸で貯蔵性の高い「吉田ネーブル」が、また「吉田ネーブ
吉 田 ネ ー ブ ル / ル」より 2 週間早熟で品質良好、豊産性の「森田ネーブル」が静岡県より、さらに、愛媛県から「ワシントンネーブル」より矮性で早生の「清家ネー
森 田 ネ ー ブ ル / ブル」の 3 品種が品種登録される[昭和 51 年 3 月 10 日付け官報][松本亮司/園芸学全編 128]。
清家ネーブル
・ 3 月 19 日、熊本から「川野夏ダイダイ」の枝変わりとして、着色系の「紅甘夏」が、また昭和 53 年、大分から果皮が平滑で早熟、豊産性の甘夏
紅 甘 夏 /甘 夏 つ 「甘夏つるみ」が登録された[昭和 51 年 3 月 19 日付け官報/昭和 53 年 7 月 12 日付け官報][山本亮司/新園芸学全編 129]。
るみ
・ 12 月 18 日、愛媛から[宮川早生]の変異として、手もぎ可能な高糖系普通温州「橘うんしゅう」が、また、昭和 26 年に現/尾道市向島町の農間
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柑橘栽培の歴史
橘うんしゅう
氏の園地で、「八朔」の枝変わりとして発見された果皮色が紅の濃い「農間紅八朔」が種苗登録される「昭和 51 年 12 月 18 日付け官報」/[新園芸
農間紅八朔
学全編 129]。。
昭和 52(1977)年 ・ 3 月 18 日、「湯川」[昭和 3 月 18 日付け官報]。
湯川/大津四号
・ 9 月 7 日、「十万温州」の珠心胚実生から育成の普通温州の高糖系で早熟な「大津四号」、愛媛県吉田町、橋本正雄氏の園で昭和40年頃発
橋本早生
見された松山早生の枝変わりの「橋本早生」、また、種なしでユズに比べ実が小ぶり多汁なユズの品種「多田錦」が登録される[昭和 52 年 9 月 7
ユズ/多田錦
日付け官報]。
・ 12 月、農林省果樹試験場本場を茨城県筑波郡谷田部町(現/つくば市)筑波研究学園都市へ移転[NARO 果樹試験場沿革]。
昭和 53(1978)年 ・7月 12 日、「甘夏つるみ」が品種登録される[昭和 53 年 7 月 12 日付け官報]。
甘夏つるみ
昭和 54(1979)年 ・温州ミカンの選果場が大型機械化し、集荷・選果荷造りによる果実の変質・輸送途上における腐敗の増加等が問題化したことから、和歌山県果
選 果 場 で ミ カ ン 樹園芸試験場はミカン選果場における果実の損傷実態と対策について過去 4 年間にわたって調査研究。大型選果場で調査の結果、選果場工
損傷 腐敗
程は 400 ㍍にも及び、みかんの転がり・落下・重圧等、果実に多くの機械的荷重や衝撃が繰り返され、選果荷造り工程を経たみかんが数日を経
落下衝撃
ずして腐敗が増え味変わりする実態を明らかにした。工程に於ける果実の落下衝撃や堆積による重圧で果皮が損傷するのみでなく、果実内部
落下高許容限界 で砂じょうが破壊され、じょうのう内に果汁が滲出、変質することが原因と判明。異味・異臭の原因物質も特定した。固い材質上に果実を落下させ
は 30cm
た場合、砂じょうの破壊は落下高 40cm のとき 1 回で起こり、落下高 30cm では 3 回まで、落下高 20cm の場合は 10 回までは起こらなかった。落
下高 30cm での衝撃値は、ほぼ 10kg/cm2 。また、果実上に落下させた果実の砂じょう破壊は比較的少ないが、打撲を受けた下側の果実の砂じ
ょう破壊は大きく、落下高 30cm 以上で有意に増大した。 M 級果実の落下高の許容限界は 30cm とした。落下衝撃を避けるべく、各種緩衝材を
実験して緩衝効果を確認し、光電システムによる選別実験機を試作、その効果を実証した[温州ミカンの選果荷造工程における損傷要因と損傷
防止に関する研究として園芸学会及び国際柑橘学会に発表[山下重良/北野欣信他:園芸学会雑誌 48 巻 2 号,3 号(1979 年)/S.YAMASHITA and
Y.KITANO : Proc.Int.Citric.1981.Vol.2,No.2/山下重良他:和歌山県果樹園芸試験場研究報告第 6 号]。・(注)その後、選果機メーカで光線式選果
機が製品化され、各地の選果場に導入され、従来の「ドラム式」選果機に比べ果実の損傷が減った[編者]。
・ 6 月 29 日、農林省果樹試験場奥津支場が、昭和 24(1949)年に「宮川早生」に「トロビタオレンジ」を交雑して得られた個体の中から「カンキツ興
タンゴール 1 号
津 21 号」を選抜、「タンゴール農林 1 号」として登録。その後、国内の主要柑橘関係試験場にて系統適応試験の結果、優れた成績を得たので
清見
「清見」と命名された[果樹試験場報告 B 第 10 号]。・(注)その後、「清見」を育種親等とする品種が多数出育成される(以下の通り)。
きよ み
きよ み
・長崎県南高来郡口之津町(現/南島原市)の農林水産省果樹試験場口之津支場で昭和 47(1972)年、「清見タンゴール」と「中野 3 号ポンカン」
せい ほ う
なん ぷ う
つ
の
か
を交配して誕生した「シラヌヒ」(熊本の商標デコポン)=(清見×ポンカン)・「清峰」=(清見×ミネオラ)・「南風」=(清見×フェアチャイルド)・「津之香」
しゆん ぽ う
あま く さ
きよ
か
=(清見×興津早生)・「 春 峰」=(清見×水晶文旦)・「キヨマー」=(清見×マーコット)・「天草」=(清見×興津早生×ページ)・「清の香」=(清見×キノ
ようこう
ー)・「陽香」=(清見×中野 3 号ポンカン)(シラヌヒと比較して果実の形が扁平であること、果皮が濃橙色であること,果面が滑らかであること等で区
あけ み
別性が認められる)。・「佐藤の香」=(清見×マーコット)・「朱見」=(清見×セミノール)・「はるみ」=(清見×ポンカン F-2432)・「あまか」=(清見×(アン
にし の
か
コール)・「西之香」=(清見×トロビタオレンジ)・「師恩の恵」=(清見×ミネオラ)(清見と比較すると翼葉の形が楔形であること、成熟期が早いことで
区別性が認められ、「清峰」と比較して翼葉の形が楔形であること、皮がむき易いこと等で区別性が認められる)。・「せとか」=(清見×アンコール)
- 77 -
柑橘栽培の歴史
×マーコット)・「せとみ」=(清見×吉浦ポンカン)(シラヌヒと比較すると、果梗部が切平面であることや果皮が濃橙色であること等で区別性が認めら
れい こ う
れる)。・「はれひめ」=(清見×オセオラ)×宮川早生・「広島果研 11 号」=(清見×サザンレッド)・「麗紅」=(清見×アンコール×マーコット)(せとかや
「マーコット」と比較すると、果心が大きいこと、成熟期が早いこと等で区別性が認められる)。・「たまみ」=(清見×ウイルキング)・「かんきつ中間母
本農 8 号」=(清見× H ・ FD-1)・「あまぽん」=(清見×早香)・「媛小春」=(清見×黄金柑)・「果のしずく」=(清見×早香)・「みえ紀南 4 号」=(清見×
春光柑)[吉田俊雄/高品質・単胚性カンキツ品種「清見」の育成,育種学研究 5 巻 3 号]・[金沢市中央卸売市場公式ウェブサイト「清見オレン
ジ」]。・(注)タンゴール(tangor) は、柑橘類の雑種の呼称。主に「ミカン(マンダリン、タンジェリン)」と「オレンジ」の交雑種を指す。語源はタンジェ
リンの英名 tangerine とオレンジ orange の「 tang 」と「 or 」を組み合わせた合成語。日本では「清見」、「せとか」などが代表的なタンゴールである。
また、「ミカン」と「ブンタン(pummelo)」 との交雑種は「タンゼロ(tangelo)」 と呼ぶ[Wikipedia/タンゴール]。
・ 11 月 1 日、農産種苗法(現今の種苗法)で和歌山県東牟婁郡北山村産の「じゃばら」が品種登録される[昭和 54 年 11 月 1 日付け官報/農林
じゃばら
水産省登録品種データベース]。・(注)本種は 1971 年、田中諭一郎が、現地調査しユズ系の柑橘類と認定、江戸時代から北山村の庭先に植え
られてきたもので、北山村竹原や三重県熊野市神川町花知にも植えられていたと云う。ジャバラは、ミカン科、カンキツ属に分類される。田中諭
一郎はユズの血を引くカンキツであるとし、 Citrus jabara hort.ex Y.Tanaka の学名を与えている。ジャバラは現地で古くから呼んでいる名で、紀州
では古くからカラタチを「ジャケチ」と称する地域があり、これと区別するため「ジャケツイバラ」と呼んでいたが、これが訛って「ジャバラ」になったと
推測されている。また、「邪を払う」に由来するともいわれる。北山村では昔から正月料理(さんま寿司、昆布巻、海苔巻き)の調理の際、搾り汁を
食酢として利用していた。生果や果汁は、寿司酢や鍋物・湯豆腐用として出荷される[中央果実協会 homepage]。
昭和 55(1980)年 ・この年、「宮川早生」の枝変わりによる極早生品種として、「尾鈴早生」、「徳森早生」、「井上早生」、「楠本早生」が、また、「興津早生」の枝変わ
極早生温州各種 りで極早生化した品種「石塚早生」が、「松山早生」の枝変わりで極早生化した「力武早生」、「山崎早生」から「大浦早生」が、また「伊予柑」の枝
変わりとして「大谷伊予柑」が品種登録される[昭和 55 年 8 月 13 日付け官報:力武早生・大浦早生・盛田早生・尾鈴早生・石塚早生・徳森早生・
大谷伊予柑
井上早生・楠本早生・大谷伊予柑][松本亮司/新園芸学全編 129]。
昭和 56(1981)年 ・ 2 月 4 日、和歌山県海草郡下津町の宮本喜次氏育成、申請の「宮川早生」の枝変わり極早生温州「宮本早生」、 5 月 27 日、同じく鹿児島県
宮本早生
出水市下鯖渕 4493 番地の堂脇義信氏育成の[堂脇早生]、愛媛県北宇和郡吉田町大字立間 4493 番耕地の金沢義雄氏育成、同県宇和青果
堂脇早生
農協申請の「金沢早生」が、また高知県室戸市吉良川町丙 694 番地下司長生氏育成のビワ品種「長生早生」が品種登録される[昭和 56 年 2 月
金沢早生
4 日付け官報/新園芸学全編 129]「農林水産省品種登録データベース」。
森田ポンカン
・ 10 月 8 日、低しょう系(扁平)のポンカン「森田ポンカン」が高知県園芸農業協同組合連合会(森田可笑氏育成)から登録された。「森田ポンカン」
古田温州
は、「ポンカン(椪柑)」の枝変わりとして、 12 月下旬に収穫できる早熟系ポンカンで豊産性。また、徳島県勝浦郡勝浦町大字三渓字立棒 59 番地
なが お
なが お
ビワ品種/長生早 の古田源一氏育成の「杉山温州」の枝変わりとして熟期の遅い貯蔵用品種「古田温州」が、高知県安芸郡安田町大字正弘 61 番地の清岡慎一
生 清岡橙
育成の「清岡橙」が登録される[昭和 56 年 10 月 8 日付け官報/古田温州・森田ポンカン・清岡橙][新園芸学全編 129]。
昭和 57(1982)年 ・ 2 月 3 日、千葉縣暖地園芸試験場が、ビワの品種「楠」の自然交雑実生から、熟期が「田中」より 2 週間早い中生品種「里見」を、また同試験場
ビワ里見/房光
はビワ「瑞穂」と「田中」の交雑実生から、「房光」を育成、品種登録した[昭和 57 年 2 月 3 日付け官報][新園芸学全編 129]。
・ 6 月 7 日、大分県臼杵市大字藤河内字田中 4108 番地足立道雄氏育成の「ワシントンネーブル」より大果で甘味比高く、結実が安定している
足立ネーブル
「足立ネーブル」が登録された[昭和 57 年 6 月 7 日付け官報][松本亮司/新園芸学全編 129][品種登録データベース]。
- 78 -
柑橘栽培の歴史
スイ ートスプ リン ・ 10 月 21 日、農林省果樹試験場は、「上田温州」と「ハッサク」の交雑実生から「スイートスプリング」を育成、また、「ハッサク」と「夏ミカン」を交雑
グ /サ マ ー フ レッ した「サマーフレッシュ」をそれぞれ種苗登録。また長崎県果樹試験場は、ビワの食味良好な晩生種「白茂木」を種苗登録[昭和 57 年 10 月 21
シュ/白茂木
日付け官報][新園芸学全編 129]。
昭和 58(1983)年 ・ 5 月 30 日、「ワシントンネーブル」系の中では果皮色が濃厚で最も早熟の「山見坂ネーブル」(福岡県粕屋郡古賀町大字青柳 2224 番地山見
山見坂ネーブル 阪龍馬氏育成)が、また、静岡から「庵原ポンカン」の枝変わりとして、「低しょう系ポンカン」の中で最も早熟な(12 月中旬収穫)「太田ポンカン」(静
太田ポンカン
岡県清水市の太田敏雄育成/清水市農協申請)が登録。さらに、福岡県山門郡山川町大字甲田 1960 番地山下順一朗氏が自園の「宮川早生」
の一樹の一枝に結実する果実が濃紅色であるのを昭和 49 年に発見し、この穂木高接し原木と同じであることを確認、 55 年以降、福岡県農業
山下紅早生
総合試験場園芸研究所に依頼して特性の調査、確認を行ない「山下紅早生」と命名し品種登録される。この品種は、「宮川早生」の枝変りで諸
特性は概ね「宮川早生」と同様であるが、果皮が紅橙色の早生温州である。果実の大きさは中、果皮は紅橙色で着色が濃く、果皮は薄く、はく皮
容易で、じょうのう膜は軟、甘味・酸味は中程度。育成地での成熟期は 10 月下旬、「宮川早生」と同時期である。「宮川早生」と比較して、果皮の
着色が異なり 3~4 分着色から紅色が濃くなり、 5~6 分着色では明確に判別できる。「土橋紅温州」と比較して、成熟期が早い等で区別性が認め
サマーレッド
られる。また、宮石住男氏育成の熊本県果実農業協同組合連合会が申請した「サマーレッド」が品種登録される。この品種は、「川野なつだいだ
い」の枝変りで、果面が粗く果皮が鮮やかな紅橙色となるナツミカンである。同日付けで小堀喜悦氏育成で熊本県果実農業協同組合連合会申
小堀新甘夏
請の「小堀新甘夏」が品種登録される。この品種は、「新甘夏」の枝変りで、果面が滑らか、果皮が橙黄~橙色になるナツミカンである。果実は扁
円形、果頂部は平坦で、凹部は浅く、果梗部は平坦、放射条溝が多い。果実の大きさは平均果重約 330 グラムで中、果皮は 11 月下旬から着色
し始め、「新甘夏」よりフラベド層のカロチノイド色素が多く、 1 月上中旬には「紅甘夏」と同様の橙黄~橙色となる。また、果皮着色に伴い、アルベ
ド層も淡紅色を帯びる。果面はやや滑らかで、果皮はやや薄い。じょうのう膜は硬く、砂じょうは橙黄色である。果汁及び甘味は中、酸味は多い。
成熟期は育成地(熊本県田浦町)において 1~3 月。結果の早晩は中で、隔年結果性は低い。耐寒性は、果実は弱いが、樹体は強い。「新甘夏」
及び「立花オレンジ」と比較して、果皮色が濃いこと等で、「紅甘夏」及び「サマーレッド」と比較して果皮が滑らかなこと等で区別性が認められる
[昭和 58 年 5 月 30 日付け官報」[松本亮司/新園芸学全編 129][農林水産省登録品種データベース]。
・ 10 月 29 日、佐賀県東松浦郡七山村大字木浦 1733 番地市丸文吉氏育成の「市文早生」が登録される。この品種は、「宮川早生」の枝変りで、
育成地において 9 月下旬~10 月上旬から収穫できる果形扁平な極早生温州みかん。果形は扁平(果形指数平均 144 )で幼果期から扁平であ
市文早生
る。果実は中、果面はやや平滑で、果皮は薄く、剥皮は容易である。果皮の着色は、育成地で概ね 9 月上旬に始まり、 10 月中旬に完全着色と
なる。果汁の甘味は中程度で、酸味は 9 月下旬にクエン酸含量 1.0 %前後となり、 10 月中旬以降には味が淡白となる。 10 月中旬以降には浮
皮果の発生がある。「橋本早生」と比較して、果汁の減酸が遅く、果皮が薄いこと等で、「堂脇早生」と比較して、果形が扁平であること等で、「宮
本早生」と比較して、果皮の油胞の分布が粗く、凹点が多く、果面がやや粗いこと、果汁の減酸が早い傾向があること等で、その他の極早生品種
「力武早生」、「尾鈴早生」、「井上早生」、「金沢早生」等の極早生種と比較して、果汁の減酸が早いこと等により区別性が認められる[昭和 58 年
10 月 29 日付け官報/市文早生][松本亮司/新園芸学全編 129][農林水産省登録品種データベース]。
・[昭和 59 年度果樹生産/流通等基本調査/農林水産省蚕糸園芸局果樹花き課調/山下重良:果実類の航空輸送の現状,1986 年,園芸学会シン
ポジウム講演要旨]。
品 目 別
出荷量(t)
動車
鉄 道
航空/船舶 ・(注)出荷対象市場は京浜・中京・京阪神・北九州・北海道各市場の合計。
- 79 -
柑橘栽培の歴史
1,022,332
853,579
140,082
28,671
・昭和 60 年における国内航空貨物の総輸送実績は約 43 万 5 千 t で、輸
その他カンキツ
351,669
320,241
20,386
11,042
送貨物総量(567,300t)からみれば僅かな量であるが、近年における伸びは
リ ン ゴ
532,513
468,530
68,892
91
著しい[古田勝也:国内航空貨物の現状と課題,1981 年,農産物流通技術年
日本ナシ
212,483
212,297
171
15
ブ ド ウ
95,958
98,310
ミ カ ン
2,648
-
モ
モ
135,173
131,577
3
3,593
カ
キ
119,384
111,071
8,204
109
2,469,512
2,190,605
232,738
46,169
計
報]。
かおり
昭和 59(1984)年 ・ 3 月 19 日、大分県大野市郡緒方町大字下宛 536 番地の後藤正彦氏育成の「祖母の 香 」が品種登録される[昭和 59 年 3 月 19 日付け官報]。
かおり
祖母の 香
「祖母の香」は、普通系カボスの枝変りで種子数の極めて少ないカボスである。果実は球形で、果頂部は乳頭状に突起し。凹環の大きさは中。果
梗部は小ジワが多く、深い条溝がみられる。果実の大きさは平均果重 70 g程度で普通系カボスより小さい。果皮の厚さは 4 ㎜程度で、普通系カ
ボスより薄い。果汁は極めて多く(果汁割合 50 %程度)、甘味・酸味とも中で香気は強い。無核果率は約 40 %で、シイナ数は平均 3.9 個。成熟
期は育成地(大分県緒方町)において 10 月下旬であるが、 8 月から収穫できる。単為結果性は高く、隔年結果性、果実着色の難易、生理落果
は中である。浮皮はなく、貯蔵性は中。普通系カボスと比較して、果実が小さいこと、種子数が極めて少ないこと、果梗部条溝が深いこと等で区
別性が認められる[農林水産省登録品種データベース]。
高林早生/イセ温 ・ 9 月 5 日、「高林早生」、「イセ温州」、「駿河紅温州」、「寿太郞」、「富士見温州」、「サガマンダリン」、「ビューテイメイプル」が品種登録された[昭
州/駿河紅温州
和 59 年 3 月 19 日付け官報]。・「高林早生」は、高林鉄平氏育成の(静岡県浜北市四大地 9 番地の 585 高林敏郎申請)「興津早生」の一樹変異
寿 太 郞 /富 士 見 で果皮着色が早く、 8~9 月における減酸が速く進む極早生種。果形はやや扁円(果形指数 131)、果実は約 120 gで中である。果皮は 9 月中旬
温州/サガマンダ から着色し始め、 10 月上旬 3 分、下旬に完全着色となる。「興津早生」より 2 週間以上早くかつ濃い。果面は滑、果皮は薄、じょうのう膜は軟ら
リン/ビューテ イ メ かく、果汁は多い。甘味は糖度 11 度で中、酸味は少、 8~9 月の減酸が速く、 10 月上旬には 1.1 %程度となり「石塚早生」より 0.1 ~ 0.2 %、「興
イプル
津早生」より 0.2 ~ 0.3 %低く推移する。浮皮、裂果は少である。成熟期は育成地(静岡県浜松市)において 10 月上旬とみられる。「興津早生」と
比較して、成熟期が早いこと、酸味が少なく減酸が速いこと等で、「石塚早生」と比較して、酸味が少なく減酸が速いこと等で区別性が認められる
[農林水産省登録品種データベース]。・「イセ温州」は愛媛県温泉郡中島町大字神浦 964 番地 山本保氏の育成・申請による尾張系温州の枝
変りであり、果形が扁平で、果皮が濃橙色に着色する、早熟系の普通温州である。果実は大きく、果皮は濃橙色に着色し、果皮は普通温州とし
ては薄く、油胞は小さく、油胞分布は密。じようのう膜の硬さは中、果汁の甘味は中、酸味は少ない。果皮の着色は育成地(愛媛県温泉郡中島
町)で 10 月初旬から始り、 11 月上旬に完全着色となる。浮皮果発生は小、貯蔵性はやや少ない。「南柑20号」と比較して、果皮の橙色が濃い
こと、果面が滑らかであること等で、「久能温州」と比較して、樹勢が弱いこと、果皮の橙色が濃いこと等で、また「山下紅早生」と比較して、成熟期
が晩いこと等で区別性が認められる[農林水産省登録品種データベース]。・「駿河紅温州」は、静岡県柑橘試験場の育成で、「土橋紅温州」に
駿 河 紅 温 州 /珠 「テンプル」を昭和 25 年に交配して得た種子を播種して 37 年に初結実したが、「テンプル」の特性はみられず、「土橋紅温州」の珠心胚実生と
心胚実生
確認し、 53 年に第一次選抜を行い、その後、特性の調査、確認を行ってきた。諸特性は「土橋紅温州」に類似するが、成熟期が「土橋紅温州」
より早い果皮が紅色の普通温州である。果実の大きさは中、果形は扁円(果形指数平均 137 )、果皮の着色は、育成地(静岡県清水市)で 11 月
- 80 -
柑橘栽培の歴史
上旬から始まり、下旬には紅色にほぼ完全着色し、「土橋紅温州」より 1 週間程度早い。また、果汁のクエン酸含量は 12 月中旬に 1 %内外とな
り「土橋紅温州」より低い。浮皮果の発生はやや多、隔年結果性は中、果皮は 12 月上旬を過ぎると陽光面が退色してくる傾向がある。貯蔵性は
「土橋紅温州」に比べ低い。「土橋紅温州」と比較して、成熟期が早いこと等で、「イセ温州」と比較して成熟期が晩いこと、果皮色の紅が濃いこと
等で区別性が認められる[農林水産省登録品種データベース]。・「寿太郞」は、静岡県沼津市西浦久連の山田寿太郞氏育成の「青島温州」の枝
変わり変異。果実は小ぶり(M~S サイズ)で貯蔵性が高く、 2 月中旬から 3 月下旬まで出荷さる[JA なんすん/西浦みかん/寿太郞温州]。・「富士見
温州」は静岡県柑橘試験場の育成者のひとり田中諭一郎が旧台北帝国大学で、「新谷温州」の種子を播種した珠心胚実生である。昭和 16
(1941)年、同試験場に赴任と同時に当場圃場に定植。その後 4 年間にわたり果実特性を調査した結果、平均果樹は 120 グラム、果形は扁円
形、果面は平滑で油胞は稍大きい。果皮の着色は 11 月上旬から始まり 11 月下旬にはほぼ完全着色となる。果汁の糖度は 11.0~12.0 で「土橋
紅温州」よりやや高い。クエン酸は 12 月中旬に 1.0 %内外で「土橋紅温州」より明らかに低い。本種は 12 月中下旬から 1 月出荷に適し、長期貯
蔵には向かない(後略)[原 節生他:カンキツ新品種"富士見温州"と"駿河紅温州"の育成経過と特性/静岡県柑橘試験場研究報告 18 号]。・「サ
ガマンダリン」は佐賀県果樹試験場が「興津早生」の枝変わり品種「小西早生」と「フェアチャイルド」の交雑実生から選抜育成した果皮が濃紅で
剥き易く、香りの良い品種である[中牟田拓史他:カンキツ新品種「サガマンダリン]の育成経過とその品種特性について:佐賀県果樹試研究年報
10 号]。・「ビューテイメイプル」は静岡県柑橘試験場で、「杉山温州」に「テンプル」を交雑育成したタンゴールである[鹿野英士他:カンキツ新品種
「ビューテイメイプルタンゴール」の育成経過と特性,静岡県柑試研究報告 18 号]。
・この年、和歌山県は、柑橘・桃・李・枇杷の出荷規格を策定、施行[和歌山県青果物標準出荷規格実施要領/和歌山のかんきつ]。
昭和 60(1985)年 ・ 1 月 23 日、山口県大島郡橘町(現周防大島町)河井登一氏が尾張系温州の枝変わりから極早生化した「河井温州」が品種登録される[昭和
河井温州
60 年 1 月 23 日付け官報]。「河井温州」は果形は扁平、果皮が濃橙色に着色する。果面は滑らか。果汁の甘味は中、浮皮果の発生が少ない。
収穫期は 11 月上旬~中旬。可食期は 11 月下旬~ 12 月中旬[山口県農林水産情報システム]。
白浜 1 号
・ 7 月 6 日、熊本県の田中信利氏育成/熊本県果実農業協同組合連合会申請の「白浜 1 号」が品種登録[昭和 60 年 7 月 6 日付け官報]。「白
浜 1 号」は
メイポメロ
・ 7 月 18 日、「上野早生」農水省果樹試験場は「ハッサク」に「平戸文旦」を交雑した実生から「メイポメロ」、[イエローポメロ]を育成、種苗登録[昭
イエローポメロ
和 60 年 7 月 18 日付け官報][新園芸学全編 129]。「メイポメロ」は黄色の大果で 4 月下旬から食用期となる耐寒性の強いかんきつ品種である。
果皮は厚く硬く、果肉は「はっさく」に似て硬く締まっており、果汁はやや少ない。 5 月頃から酸味が減少する。豊産性で、そうか病、かいよう病に
強い。果実の大きさは 500~600g 、で球形に近く、果面は滑らかである。果色は“黄”、「平戸ぶんたん」より濃色であるが「イエローポメロ」より淡
い。 12 月中下旬に完全着色する。しかし、 5 月以降になるとやや退色する。果皮は厚く、硬く、果実のしまりは良好で、剥皮はやや困難である。
果肉歩合は 60 %程度で、じょうのう膜は厚いが、砂じょうとの分離は容易である。果肉は“黄色”で肉質は「はっさく」に似て硬くしまり、果汁はや
や少ない。果汁の可溶性固形物含量は 2 月中旬~4 月中旬が最も高く 12 %に達するが、クエン酸含量が 1.3 %に減少するのは 5 月に入ってか
らで、この頃が食味良好であるが、 4 月下旬から食用期となる。凍害を受けると苦味が発生する。含核数は多く 30~50 粒で、胚は単胚で“白色”
である。[イエローポメロ]は、濃い黄色の大果で、 5~6 月に適熟期となる耐寒性の強いかんきつ品種である。果皮は厚く良く締まり、肉質は多汁
で上品である。そうか病には強いが、かいよう病に弱い。カンキツトリステザウイルスには罹病性である。樹勢は親の「はっさく」より強く、樹姿は“直
立性”である。枝梢の太さは両親の中間で、緑枝の屈曲は「はっさく」に比べ少なく「平戸ぶんたん」に似る。果実は 500g 程度で、種子数により果
- 81 -
柑橘栽培の歴史
実重に多少の変動があり、玉揃いがやや悪い。果形は“球状”に近く、へた部は“球面状”を呈する。果皮は“黄色”で「はっさく」より淡いが、「メイ
ポメロ」より濃い。果面は滑らかだが、「メイポメロ」に比べるとやや粗い。果皮は厚く 10mm 程度で、よく締まり、剥皮は困難である。果肉は“黄色
”、肉質は「平戸ぶんたん」に似るが多汁で上品である。じょうのう膜は厚く、果心は詰まる。果汁の可溶性固形物含量は 12
%程度で、酸含量は 1.5 %とやや高いが、適熟期の 5~6 月の食味は良好である。じょうのう膜、アルベドに少し苦味があるが、食味上は問題な
い。含核数は 30~40 粒で、胚は単胚で“白色”である[農林認定品種データベース]。
青果物空輸出荷 ・青果物の主な国内空輸品目と産地「サクランボ(山形・山梨)、ユズ(福島・埼玉)、ブドウ(山梨・長野・岡山・福岡・宮崎)、姫リンゴ(長野)、モモ(和
歌山・岡山)、カキ(和歌山)、青ウメ(和歌山)、ブドウ(山梨・長野・大阪・岡山)、ミカン(香川・徳島・沖縄)、ナシ(高知)、甘夏(福岡)、ビワ(福岡・鹿児
島)、メロン(千葉・埼玉・熊本・鹿児島)、クリ(熊本)、パイナップル(沖縄)」[全日空 JET CARGO 青果物編/山下重良:青果物の航空輸送の現状
127]。
昭和 61(1986)年 ・昭和 61 年、我が国における果樹の樹種別品種保存数「リンゴ 1,615 、オウトウ 142 、小果樹 96 、クルミ 42 、セイヨウナシ 125 、ニホンナシ
384 、クリ 243 、モモ 634 、スモモ 230 、アンズ 158 、ウメ 120 、カンキツ 1,673 、オリーブ 34 、ビワ 39 、ブドウ 738 、カキ 359 、キュウイフルーツ
柑橘 1,673 品種 61 、イチジク 40 、ザクロ 15 、その他 117 、合計 6,900 」[1986 年農林省果樹試験場調べ/垣内典男]。
・二度の寒害で甚大な被害を蒙った農林省果樹試験場安芸津支場(東広島市安芸津町三津)の中生カンキツ育種はこの年、口之津支場(長崎
県南高来郡口之津町)に移管される[新園芸学全編 129]。(注)安芸津支場は、農研機構果樹研究所ブドウ・カキ研究拠点となる[現況]。
昭和 63(1988)年 ・和歌山県果樹園芸試験場は、ミカン・柿・桃の非破壊品質選別法の研究開発に着手、近赤外線電磁波利用で検査・選別の見通し得る[昭和
非破壊品質選別 63 年度県果樹園芸試験場研究成果]。
平成元(1989)年 ・ 9 月 14 日、「興津早生」の枝変わりで極早生化した「日南 1 号」が品種登録される[平成元年 9 月 14 日付け官報]。・「日南 1 号」は昭和 54
(1979)年に宮崎県日南市の野田明夫氏が、「興津早生」に着色が早く、酸が抜けるのも早い実がある枝を発見。 1989 年に品種登録された
日南 1 号
[みかん辞典]。
平成 2(1990)年
・ 3 月、イスラエル産の「スウィーティー」の輸入が解禁される[日園連 50 年の歩み/日本果物史年表 123]。・(注)「スイーテイ」は、「グレープフル
スウィーティー
ーツ」と「ブンタン」の交配種。正式な品種名は「オロブランコ」(oroblanco)。「スウィーティー」と「オロブランコ」は同種で、イスラエル産のものを「ス
ウィーティー」、アメリカ産のものは「オロブランコ」と呼ぶ。果色がグリーンで珍しく、国産「ハッサク」より酸味少なく消費者に人気を呼んだ「著者」。
果汁輸入自由化 ・ 4 月、「パイナップル」・「リンゴ」・「ブドウ」・「ベルガモット」等の果汁が輸入自由化される「北川博敏編:園芸の時代/日本果物史年表 123 」。
平成 3(1991)年
・ 6 月 19 日、熊本県天草郡新和町小宮地の荒木 勝氏育成の「新和ジューシー」[平成 3 年 6 月 19 日付け官報]。・ 8 月 26 日、福岡県粕屋郡
新和ジューシー/ 古賀町大字青柳の森 朝雄氏育成の「絹平」[平成 3 年 8 月 26 日付け官報]。 11 月 19 日、独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構果
こ う しゆん
つ
の
か
絹平/興春ポンカ 樹研究所育成の「興 春 ポンカン」、同所育成の「津之香」[平成 3 年 11 月 19 日付け官報]が品種登録される[新園芸学全編 129]。(注)「絹平」は
ン/津之香
「興津早生」の枝変わりで、樹勢がやや弱い。果実は偏平形で隔年結果による果形の乱れがなく、食味が優れた早生温州である。樹姿は開張性
で、樹勢はやや弱く、枝の節間はやや短い。葉は長く、幅は中で、葉色がやや薄い。果実は偏平形で、果形指数が 150 程度で大きい。結果量
の多少による果形の乱れは小さい。果面は滑かで、果皮は薄く、果肉歩合は 82 %程度で高い。果皮の着色は 9 月下旬に始まり 11 月上旬にほ
ぼ完全着色となる。浮皮は 11 月に入って始まるがその程度は軽い。果皮色は濃授色である。果汁中の糖度は 11 月上旬で 11~12 度、クエン酸
は 1.0~1.1g/100cc 程度であるが、その後も糖度は上昇し食味が良くなる[平成 3 年度「福岡県農業総合試験場果樹部成績書」]。
- 82 -
柑橘栽培の歴史
平成 4(1992)年
・和歌山県果樹園芸試験場はミカン・桃・柿の非破壊で糖酸選別手法を確立、雜賀技術研究所(和歌山市)が、ミカンの光センサー選菓機を製品
光センサ選菓機
化、 1 号機を長崎県西海農協選果場に納入設置。以来、農林省(果樹花き課)は補助事業に採択、全国主要ミカン産地選果場に普及[編者]。
平成 5(1993)年
・ 4 月 1 日付けで山下重良(前和歌山果樹園芸試験場長)、推されて研究法人青果物選別包装技術研究組合理事長に就任。理事/株式会社マ
青果物選別包装 キ製作所堀居哲士社長・理事/白柳式撰果機株式会社鈴木栄一社長・理事/富士通株式会社社長、幹事/元和歌山県果樹園芸試験場長石崎政
技術研究組合
彦氏。青果物の選別包装機器・施設の改良開発を研究機関と連携して推進[同研究組合議事録]。
名護紅早生
・ 7 月 27 日、「桶柑」の珠心胚実生から育成の「名護紅早生」が登録される[平成 5 年 7 月 27 日付け官報・名護紅早生]。
原温州
・ 8 月 3 日、「原温州」、「紅まどか」[平成 5 年 8 月 3 日付け官報]。
紅まどか
・「清見」と「中野 3 号ポンカン」を交雑育成した農林省果樹試験場は、「果梗部にデコがでて果形が悪い」として系統適応試験を中止し廃棄する
デコポン
方針となったが、熊本県果実農業協同組合連合会が、皮が剥けやすく味の良さと食べやすさに着目、品質基準を設け、平成 5 年、「デコポン」
たん かん
の名称で商標登録。・(注)その後、静岡では「フジポン」、愛媛では「ヒメポン」、広島は「キヨポン」、徳島は「ポンダリン」などと呼ばれる。同じもの
が韓国の済州島へ渡って特産品となり、漢拏峰(ハルラボン)という名前で生産販売されているという[報道]。
平成 6(1994)年
・ 9 月 4 日、泉州沖の人工島に関西国際空港が開港[報道・桃山 50 年の歩み 46][Wikipedia/関西国際空港]。・(注)国交省は関空を当初、和歌山
関西国際空港
市の加太沖に計画する方針を提示した。しかし、和歌山市周辺の人々は騒音を懸念して反対し、開港してから「扇風機の裏になった」として口々
にボヤいた[風評]。果樹県和歌山にとって、関空が地元に開港すれば青果物の空輸出荷にも利便性を確保でき、軟弱野菜や果実類の販路拡
大、新産品の開発に大きく寄与したのにと惜しまれる[編者]。
平成 7(1995)年
・昭和 58 年に熊本県農業研究センター果樹研究所(下益城郡松橋町)において「楠本早生」に「川野なつだいだい」を交配し得られた種子から
珠心胚を分離,培養した実生を養成し、(中略)特性の調査・確認を行い最終選抜して育成を完了したものである。なお,出願時の名称は「豊福
肥のあけぼの
紅早生」であった。 1995 年 3 月 23 日「肥のあけぼの」として「登録第 4424 号」で品種登録された。この品種は果実が扁円,中果,果皮色が橙
色で,育成地(熊本県下益城郡松橋町)において 10 月上旬から収穫できる極早生品種である。(中略)樹勢は強、果実の外観は扁円,果形指数
は 136~141 、じょうのう膜の硬さは軟、砂じょうの色は濃橙、果汁の多少及び甘味は多、酸味は中。成熟期は極早、育成地においては 10 月中旬
である。隔年結果性は低、浮皮果の発生及び裂果の多少はでにくい、貯蔵性は小である。「上野早生」及び「徳森早生」と比較して樹勢が強いこ
と、花柱痕の大きさが大きいこと、中心柱の大きさが大きいこと、甘味が多いこと等で、「楠本早生」と比較して樹勢が強いこと、葉柄比率が大きい
こと、花柱痕の大きさが大きいこと等で区別性が認められる[農林水産省品種登録データベース]。
平成 8(1996)年
・ 8 月 21 日、農林水産省果樹試験場は、「清見」に「ポンカン F-2432 」を交配して得た「カンキツ興津 44 号」を、「はるみ」と命名して品種登録。
はるみ登録
本品種は、昭和 54 年(1979)に果樹試験場興津支場において、「清見」にポンカン「 F-2432 」を交雑して育成した系統で「カンキツ興津 44 号」で
ある。平成 3 年(1991)から第 7 回系統適応性・特性検定試験において検討を続けた結果、新品種候補にふさわしいとの結論を得、平成 8 年 8
月 21 日に「はるみ」と命名され、みかん農林 12 号として登録・公表された。果実は 180~200g 程度で、果形は扁球形。果皮色は橙色で果面は滑
らかである。果皮は薄く軟らかく剥皮が容易である。果肉は橙色でポンカンに似て比較的柔らかい。じょうのうが薄く柔らかく、種子が少ないので
食べやすい。成熟期は 1 月で食味は良好である。.樹勢は中庸で樹姿はやや直立性である。隔年結果性は強い。そうか病には抵抗性であるが、
かいよう病は軽~中程度の発生がみられることがある。カンキツトリステザウイルスによるステムピッティングの発生程度は軽度である[農研機構果
樹研究所成果情報]。
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柑橘栽培の歴史
・ 10 月、農林省果樹試験場興津・口之津両支場を統合し、カンキツ部として発足。興津総務分室及び口之津総務分室を置く。盛岡支場をリンゴ
支場、安芸津支場をカキ・ブドウ支場に改称[NARO 果樹試験場沿革]。カンキツの育種は、農林省果樹試験場カンキツ部(口之津)へ一本化され
た[新園芸学全編 129]。
平成 11(1999)年 ・各種果樹の諸形質の遺伝様式についてこれまでの研究成果が整理され、柑橘の遺伝特性は以下の通り[果樹園芸大事典 117]。
柑橘遺伝特性
遺伝形質
葉
形
遺
伝
の
様
式
カラタチの 3 葉は普通葉に対し優性。
常緑性
カンキツの常緑性はカラタチの落葉性に対し優性。
多胚性
珠心胚の形成は無形成に対し優性。
果肉色
普通の黄色は、赤みを帯びた果肉色に対し優性。
酸
酸含量の特に低いものを親にすると、子に早くから酸の少ないものが多い。
味
新品種「せとか」 ・ 3 月 18 日、農林省果樹試験場は、カンキツ新品種「せとか」を育成したと公表。「せとか」は、清見×アンコール No.2 に「マーコット」を交雑し、
育成したタンゴール。大果で肉質は柔軟・多汁、芳香があり、高糖度で食味良好な少核品種で 2 月に成熟する中生のカンキツ。果実は
200~280g の大果で、果面は平滑、果形は腰高の扁円形で整っている。果皮は橙~濃橙色で、厚さは薄く、皮は剥きやすい。「アンコール」あるい
は「マーコット」類似の中位の芳香があり、熟期は 2 月、糖度は 12~13%で食味良好。果肉は濃橙色で、じょうのう膜は薄く、肉質は柔軟多汁で、
種子数は 0 ~ 5 個程度で少ない。単為結果性が強いのも特徴。樹勢は中~やや弱、樹姿は中~開張。結実性は良好で連年結果する。「そうか
病」、「かいよう病」に強く、カンキツトリステザウイルス(CTV)に対しては罹病性あり、ステムピッティングの発生度は高い[果樹研究所研究報告 2
号(2003-03): カンキツ新品種'せとか'][農研機構/品種詳細]。
平成 13(2001)年 ・四月、農業技術研究 12 の国立研究機関(農業研究センター・果樹試験場・野菜茶業試験場・家畜衛生試験場・畜産試験場・草地試験場・北
海道農業試験場・東北農業試験場・北陸農業試験場・中国農業試験場・四国農業試験場・九州農業試験場)を統合・再編した「農業技術研究機
農業技術研究機 構」が設立される[NARO 農研機構沿革]。・四月、独立行政法人化に伴い、(農林水産省果樹試験場は)農業技術研究機構果樹研究所として再
構果樹研究所に 編、企画連絡室を企画調整部に、育種部を遺伝育種部に、栽培部を生理機能部に、保護部を生産環境部に、カンキツ部をカンキツ研究部に、
再編
リンゴ支場をリンゴ研究部に、カキ・ブドウ支場をブドウ・カキ研究部にそれぞれ改称、盛岡総務分室及び安芸津総務分室を置く[NARO 果樹試
験場沿革]。
平成 15(2003)年 ・十月、独立行政法人農業技術研究機構と生物系特定産業技術研究推進機構が統合され、新たに独立行政法人農業・生物系特定産業技術
研究機構果樹研究所として発足[NARO 果樹試験場沿革]。
平成 19(2007)年 ・ 12 月 21 日、農研機構果樹研究所は、(清見×興津早生)-No.14 ×アンコールの交雑で育成した「カンキツ口之津 34 号」を、新品種「津之輝」
と命名、公表した。無加温・少加温施設栽培に適し、糖度高く食味良好なみかん。露地栽培では 1 月中旬から 2 月上旬に成熟する中生品種で
果実の大きさは平均 180g 、無加温および少加温での施設栽培では 12 月上中旬に成熟し、平均 250g の大果。果皮は赤みがあり剥皮良好で、
新品種「津之輝」 じょうのう膜も軟らかく食べやすい。糖度は約 13%と高く、減酸は比較的早く食味良好で、β-クリプトキサンチンを高濃度に含有する[今井篤ら:
2008 年.カンキツ新品種「津之輝」.園芸学研究第 7 巻別冊][農研機構:品種詳細]。
平成 23(2011)年 ・奄美大島の東側に位置する喜界島特産の「ケラジミカン」(Citrus keraji ex Tanaka)の来歴について、 Inter Simple Sequence Repeat(ISSR)分析
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柑橘栽培の歴史
ケラジミカンの来 において、多型が認められたバンドを用いて共有バンド率を算出した。「ケラジミカン」は「クネンボ」(C.
歴
nobilis Lour.)と最も共有バンド率が高く
(0.823)、次いで「キカイミカン」(C. keraji hort. ex Tanaka)との共有バンド率が高かった(0.688)。「ケラジミカン」に認められた 16 本のバンドはすべ
て「キカイミカン」または「クネンボ」にも出現した。この 3 者間で「ケラジミカン」のみに出現する独自のバンドは無かった。この結果から、「ケラジミ
カン」が「クネンボ」と「キカイミカン」との交雑種である可能性は否定できなかった。葉緑体 DNA 分析においては「ケラジミカン」、「クネンボ」およ
び「キカイミカン」は常に同一のバンドパターンを示し、識別できなかった。いずれも自家不和合性である「ケラジミカン」、「キカイミカン」および「ク
ネンボ」間の交雑では、「ケラジミカン」と「キカイミカン」の正逆交雑において不和合関係が認められ、両者の不和合性に関する遺伝子型が一致
することが確認できた。この両者は「クネンボ」とは交雑和合性であった。「クネンボ」と「キカイミカン」が「ケラジミカン」の親であると仮定した場合、
「キカイミカン」が花粉親の場合に、「ケラジミカン」は「キカイミカン」と不和合性になる。以上から、「ケラジミカン」は「クネンボ」を種子親、「キカイミ
カン」を花粉親として発生した可能性がある[山本雅史ら:園芸学研究 9 巻 1 号/園芸学会刊 2010 年 1 月]。
平成 24(2012)年 3 月 16 日、農研機構果樹研究所は、カンキツ新品種「みはや」を育成したと公表。「みはや」は、津之望(アンコール×興津早生)× No.1408(清
見×イヨカン)の交雑実生から選抜育成(旧系統名:カンキツ口之津 50 号)。 11 月下旬に成熟期する早生品種で、果皮が赤橙色で外観美しく、
新品種「みはや」 糖度高くて酸味が少なく、芳香があり、食味が優れている。多くが種なし果となり、じょうのう膜がやや軟らかく食べやすい。果実は 190g 程度と大
きく、果皮赤く、浮皮が発生しにくい。芳香があるなどの特長があり、商品性の高い果実生産が可能。また、機能性成分のβ-クリプトキサンチン含
量はウンシュウミカンと同程度に多く含まれる[園芸学研究 11 別号 2 (2012 年) : カンキツ新品種‘みはや’]/[農研機構:品種詳細]。
平成 25(2013)年 ・[平成 25 年産特産果樹生産動態等調査/果樹品種別生産動向調査/温州みかん全国計(単位 ha)/農林省統計]【極早生】○大浦早生 140.9 、
○徳森早生 59.4 、○楠本早生 30.3 、○宮本早生 396.6 、○堂脇早生 62.8 、○市文早生 26.0 、○高林早生 144.2 、○白浜1号(田中早生)
4.1 、○上野早生 1,242.9 、○山川早生 70 、○日南 1 号 1976.4 、○扇早生 20.9 、○豊福早生 410.3 、○ゆら早生 342.4 、○おおいた早生
温 州 ミ カ ン 品 種 81.8 、○かごしま早生 93.8 、○肥のあかり 211.7 、○肥のさやか 82.5 、○いさお早生 61.5 、○はつひめ 12.8 、○日南早生 96.9 、○みえ紀南 1
別 栽 培 面 積 ( 全 号 39.4 、○久早生 2.3 、○早味かん 1.1 、○ YN26 6.5 、○岩崎早生 444.9 、○香和早生 12.0 、○今田早生 56.0 、○崎久保早生 245.5 、○山
国)
本早生 38.7 、○秋光早生 1.5 、○谷本早生 57.4 、○橋本早生 5.1 、○日南1号N 85.4 、○日南の姫 31.2 、○西宇和 3 号 1.1 。【早生】○山下
紅早生 20.0 、○小原紅早生 70.6 、○肥のあけぼの 235.3 、○田口早生 356.9 、○太幸早生 36.0 、○肥のあすか 113.8 、○曽根早生 4.1 、○
あいさん 28.9 、○北原早生 77.8 、○青江早生 3.4 、○興津早生 4,676.7 、○井関早生 3.9 、○英(ハナブサ) 1.8 、○宮川早生 7665.8 、○興津 3
号 113.4 、○原口早生 593.8 、○三保早生 25.7 、○山崎早生 42.8 、○持丸早生 45.6 、○松山早生 84.1 、○茶原早生 56.2 、○肥後早生
89.4 、○木村早生 30.1 、○福岡 3 号 15 、○福岡 4 号 24.1 。【中生】○ニュー則村 12.3 、○愛媛中生 77.8 、○はじめ 4.0 、○瀬戸温州 7.3 、○
宮迫温州 30.2 、○菊間中生 121.8 、○久能温州 183.1 、○橋川温州 2.1 、○興津 5 号 1.0 、○向山温州 1169.2 、○三豊 1 号 8.0 、○藤中温
州 72.1 、○大岩 5 号 21.1 、○竹内温州 27.2 、○南柑 20 号 1,469.8 、○繁田温州 41.8 、○米沢温州 15.7 、○させぼ温州 501.1 、○多以良中
生 4.1 、○塚本温州 2.1 、○藤原 19.4 、○鹿島温州 28.2 。【普通】○古田温州 92.0 、○紀州葵 46.8 、○石地 615 、○ひめのか 4.1 、○肥のみ
らい 7.5 、○白川 308.7 、○伊木力温州 205.7 、○山本温州 59.3 、○俊成温州 12.2 、○松山温州 3.9 、○松田温州 2.6 、○杉山温州 591.5 、
○清水 4 号(青島 4 号) 232.3 、○大津 4 号 1,205.7 、○田上温州 42.2 、○縄手温州 41.1 、○南柑 4 号 578.4 、○南柑 11 号 6.3 、○林温州
1009.7 、○伴野温州 2.0 、○尾張系温州 746.7 、○片山温州 60.4 、○阪和系温州 4.0 、○川田温州 8.1 、○寿太郎温州 300.5 、○紀の国温州
19.1 、○川原 2.2 、○青島温州 5,119.1 、○石川温州 84.3 、○今村温州 46.7 、○十万温州 117.3 、○大岩温州 16.5 、○丹生系温州 40.6 、○
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柑橘栽培の歴史
合計 36,523.1ha 。(注)栽培の多い品種は、極早生では上野早生(1,242.9ha)が最も多く、岩崎早生(444.9ha)、宮本早生(396.6ha)がこれに次ぐ。早
生では古くからの品種宮川早生(7,665.8ha)、興津早生(4,676.7ha)が多い。中生でも古い品種南柑 20 号(1,469.8ha)、向山温州(1,169.2ha)が今も
多く栽培されている。普通では大津 4 号(1,205.7ha)、林温州(1,009.7ha)の順となっており、これらも可成り長寿の品種である[編者]。
り
か
平成 26(2014)年 ・ 5 月 15 日、農業技術研究機構果樹研究所は、カンキツ新品種「璃の香」を育成したと公表。「璃の香」は、「かいよう病」に強く、豊産性のレモ
り
レモン新品種/璃 ン。「リスボン」×「日向夏」から育成した系統で、果実は従来のレモン品種に比べ、 200g 程度と大きく、約 1 ヶ月早い 11 月下旬頃から成熟果実
か
の香/かいよ う病 が収穫できる。また、果皮が薄く、まろやかな酸味が特徴。果肉の割合や搾汁率が高く、加工適性に優れ、まろやかな酸味を生かした多様な加
抵抗性
工製品の開発と、国産レモンの生産拡大が期待される。「璃」は「宝」あるいは「ガラス」「水晶」という意味で、「璃の香」はこの品種のもつ透明感や
すっきり感のある香りを表している。、一般のレモンに比べ「かいよう病」の発生程度は明らかに低く、強い抵抗性を示す。樹勢は強く、枝は直立
性でトゲの発生は少ない。「そうか病」の発生もほとんど見られない。着花数は多く、隔年結果性が低く、豊産性で安定した生産が期待できる。成
熟果実の収穫期は 11 月下旬で、既存品種の「リスボン」や「マイヤー」より 1 ヶ月程度早く熟す。果皮色は緑黄~橙黄で、果面は滑らか。剥皮の
しやすさは、「リスボン」より優れ、手で剥くことができる。果皮の厚さは 3mm と「リスボン」や「マイヤー」より薄く、香りはやや少ない。果実の大きさ
は 200g 程度と既存の品種より一回り大果。また、果肉歩合は 79%、搾汁率は 50%とともに高く、既存の品種より歩留まりが高く、加工適性に優れ
ると考えられる。果汁の糖度は 9.2%で、酸含量は 5.6%程度と、「リスボン」と比べてまろやかな酸味が特徴。種子は、「リスボン」や「マイヤー」に
比べ少なく、種なし果も結実する[農研機構:品種詳細]。
平成 28(2016)年
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