放蕩とは自分の思うままに振る舞うことであり、やる

2015 年 4 月 25 日高校生会
ルカ 15:11~32「一緒にごはん食べよう。」
今日は聖書の中で有名な「放蕩息子」のたとえ話をみんなで一緒に考えてみたいと思います。
このお話は、ふたりの息子への父の愛のたとえ話です。
① 背景
15:1‐2 2タイプの人物

近寄ってきた徴税人や罪人

不平を言うパリサイ派と律法学者 「この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている」
「みな」=非常に大勢 or その町のすべての or いつでもどこでも
15:3 「そこでイエスは…」

100 匹の羊
いなくなった、見失った 1 匹の羊=徴税人や罪人→悔い改める 罪人
残った 99 匹=ファリサイ派や律法学者→悔い改める必要のない 自称義人

10 枚のドラクメ銀貨 1 ドラクメ=1 デナリ(貧しい労働者の日給)
パレスチナの地域の女性は結婚のお祝いにこの 10 枚の銀貨をもらう習慣があり、今の結婚指輪のような
ものでした。その一枚でもなくなることはとても残念なことだった。
無くした一枚=徴税人や罪人
持っている九枚=ファリサイ派や律法学者
そして三番目のたとえとして今日扱う放蕩息子のたとえがある。(11)
② 弟息子
財産=土地 1/3 弟へ 2/3 兄へ
父が死んでからもらうはずのもの
もしも生前贈与されたとしても長男の財産は父が管理することになった。
弟は、土地や家畜など全部金に換えて、遠い国に(父なき世界、父の支配の及ばない国)放蕩のかぎりをつく
し、財産を無駄遣い。18~20 歳くらい。独身。好きなことを好きなようにやった。
放蕩とは自分の思うままに振る舞うことであり、やるべきことをやらず自分のやりたい放題にして、家
の財産などをつかいつくしてゆくことである。 特に、酒にふけったり、女遊びにふけることを指すこと
が多い。
何もかも使い果たした時 ひどいききんにみまわれる。
すがりついて頼んだ先の人から頼まれた仕事は豚の世話だった。豚を飼う=違法の国。人間以下の最低な恥
みじめさを経験した。それでもイナゴマメさえ食べたかった。もしくは本当に食べて飢えをしのいでいた。
そのときはっと「我に返って」父の家にいたころのことを思い出す。そして自分はいかに好き勝手してきた
か反省した。そして 180 度方向転換。今来た道を戻る。雇い人のひとりにしてください。それでお金を返す
計画をたてた。ごめんなさいしよう、と決心して、立って帰る。それが悔い改め。
ゆるしてもらえないかもしれない、追い出されるかもしれない、せめて雇人にしてもらえないか。びくびく
帰ってきたことでしょう。練習する「雇人のひとりにしてください。
」でもまだ遠く離れていたのに、父の
声が聞こえる。父は最後まで言わせなかった。指輪=権威のしるし、履物=奴隷ではない、自由人の象徴
肥えた子牛で祝宴をする。
⇒まとめ 弟息子は父の大きな愛ゆえにゆるされた。父は、赦すも赦さないもなく、ずっと待っていた。自
分の息子だから。帰ってきたのが嬉しかった。
③ 兄息子
15:25 ところで、兄の方は畑にいたが…
畑にいた。疲れて帰ってきていた。今日も一生懸命頑張っていた。しかし帰ってみると家からは音楽や踊り
の音。しもべに聞いてみると祝宴中。あいつが帰ってきた。しかもあの「肥えた子牛」をあいつのために。
怒り爆発。家に入ろうとしなかった。そこで父が家から出てくる。
兄の主張

長年お父さんに仕えてきた。

戒めをやぶったことは一度もない。
⇒なのに子ヤギ一匹くれなかった。本心はぼくだって「楽しみたい」
兄は「正しい」人だった。父に仕え、戒めを守り、よく働き、この財産を増やしたのは俺だっておもってい
たかもしれない。兄は「正しい」人だった。でも、兄も本当は「父」から気持ちは離れていた。兄はここで自分
の財産が減ることに腹をたてた。父の財産を食いつぶした弟を批判しつつも自分も財産に固執していた。もう配
分は終わっているから「わたしのものは全部おまえのもの」は文字通り。
父へは不満と批判を。弟へは断罪と軽蔑をあらわにした。兄は父との絆を愛と信頼ではなく、仕えることと、
戒めを守ることのみにおいていた。
父に仕えていたのも、本当は自分のためだった。
父は言う「祝宴をひらいて楽しみ喜ぶのは当然ではないか」=べきである。家族として、この弟を愛し受け
入れること、それができないとしても、この父親の気持ちをくむこと。それすら「正しい」兄には難しいことだ
った。兄は正しすぎた。自分の思う正しさや自分の努力、それゆえに父に従えなかった。お父さんが嬉しいなら
僕も嬉しいとは到底思えなかった。実は正しさのうしろにも罪がある。すべての道徳的基準を満たすことで、救
い主であるイエスを避けられる。
神さまの恵みを受けるのに必要なのは、ただ一つ。自分がそれを必要だと知っていること。
この話の中では弟はすでに家に帰り、食卓の交わりに加えられている。でも兄は?まだ家の外。
聖書は結論を書いていない。そもそもこの話はだれに語られたのか。はじめにもどってみたいと思います。

近寄ってきた徴税人や罪人

不平を言うパリサイ派と律法学者 「この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている」
「罪人と一緒に食事をする」それは彼らの「正しさ」の中では信じられないことだった。
「99 匹野原に残す」ことも「1 ドラクメでそんなに喜ぶことも」
「放蕩息子をそのままで受け入れる」こと
も。ゆるされないことだった、考えられないことだった。でもイエス様はいう。私がそうしたいんだ。神さ
まに主権がある。そこに従うか、それとも自分の正しさをあくまで主張するのか。この話を聞いていたパリ
サイ人たちに語りかけている。
④ 結論
あなたは弟タイプ?兄タイプ?
「自分の好きに生きればいいと思う」
「できるだけ認められたい、人として正しく生きたい。
」
悪いことが起こったら?
「自分のせいだと思って自分を責める。
」
「どうして?自分はこんなに頑張ってきたのにと何かを責める」
弟タイプのあなたへ
自分の「好きなように」ていうのには落とし穴がある。みんな一人一人を作って、それぞれに計画をもって
おられる神様がいる。なのに弟は好きなように生きようとする。まずその「好きなように」っていう考え方
は甘いかもしれない。自分で責任とれないかもしれない。悪いことに悪いことが重なってしまったら。
でもこの弟の偉いところは、もどってこれたこと。失敗してしたことを受け入れて、悔い改めたこと。
悔い改め:180 度方向転換すること。家に向かって歩き出そう。父が迎えに来てくれる。
まだ帰りたくないよ、っていう人がいるかもしれない。今絶好調で毎日楽しい。だから好きなようにして何
が悪いって。でもこのたとえも現実も私たちに教えてくれてないかな。その行きつく先は?…
ひとりぼっち、お金にも友達にも裏切られた。もう食べるものはイナゴマメしかない。もう死ぬしかない。
そう思ってここに帰ってくる人はたくさんいる。
帰るところは神様のところ。あなたのために服も、靴も、指輪も用意されている。
兄タイプのあなたへ
自分の「正しさ」には落とし穴があるっていうことを知ってほしい。何のためにがんばっているの?その正
しさは何のため?意地を捨てて、主権は神さまにお返ししよう。パリサイ人たちは本当に信仰熱心な人たち
だった。祈り、断食し、ほどこし、ささげ、不自由な生活をがまんしてた。自分たちは頑張ってる、でもど
うしてがんばってもいないあんなやつがこんな良い目にあってるんだ。神様がいるならどうしてこんなこと
が起こるんだ。
「なぜ?」と思う時の答え。それは神さまがこの世界の、そしてあなたの主権者だから。わ
たしたちには到底理解できないことがある。
それでも僕が正しいと思う?それでもいいよ、でもあなたのその怒りはどうするの?そのまま抱え続ける
の?本当はもう疲れてるんじゃない?本当はもうおなかもすいているんじゃない?自分は自分なりに一生
懸命やってきた。それはわかった、でももうお父さんはあなたを迎えに出てきている。一緒に家に帰ろう。
もちろん兄の席だって用意されている。一緒にごはんを食べよう。
このイエス様の招きに、結局パリサイ人は答えられなかったんだと思います。結局自分の正しさを押し通
し、イエス様をねたみ、十字架につけました。イエス様が十字架にかかってくださった。それは罪深い弟の
罪のために、そして「正しい」兄の罪のために、私たちの罪のために。私たちはどうしますか?