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この赤トンボは練習機としては性能が良かったので陸軍飛行隊初期練習機として
広く採用さ れた。
敗色 濃くな った昭和 20 年 2 月、 陸軍特別 攻
撃隊編成のための訓練が始まり、磐城飛行場
特別攻撃隊教育隊として独立した陸軍飛行隊
となり、 95 型 1 式 機に 加え 95 型 3 式 機が 配備
されて総数 100 機 位が準備 され、特 攻隊要員 と
して国家総動員令により大学、高専に在学中
の学生が、特別幹部候補生飛行見習士官として
入隊、この磐城飛行特別攻撃隊訓練隊に送り込
まれ、隊舎が不足し近くの双葉中学(双高)の
校舎が臨時の兵舎として徴用され、大勢の特攻
隊操縦要員が送り込まれ、付近の小学校校舎を
米航空母艦 に見立 て、急降下 体当たり の訓練に 励んでい た。
こ の う ち 一 部 の 隊 員 は ‘ 桜 花 ’( 人 間 爆 弾 ) の 乗 員 に な る た め の 訓 練 に ま わ さ れ
たとのこと、神雷部隊出撃の時の隊員の中に加わっていたかは不明。
体当たり の特別 攻撃隊は昭 和 19 年 10 月 25 日 、フィ リッピン、 マバラカ ット東
飛行 場 を飛 び立っ た 神 風特 別 攻撃 隊 敷 島隊 が 最初 で 、編成 は爆装 ゼロ 戦 5 機 〔 250k
爆弾 1 個 〕直援機ゼロ 戦 1 機、編 隊長〔 1 番機 〕関行男 大尉〔 2 階級特進中佐〕 、 2
番中 野 磐雄 1 等飛 行兵 曹〔 2 階 級特 進少尉 〕原 ノ町 出身 〔旧 制相 馬中 学卒 )、 レイ
テ沖の米機動艦隊に突入、空母セントロ-炎上、後沈没、他にも戦果あり、これ
が神風特別攻撃隊による体当たり攻撃が最初であるが、全て海軍機が出撃した。
何故なら当時の陸軍のパイロットは天文航法の教育を受けておらず洋上を飛ぶこ
と が 出 来 な か った 。
これは不思議な話で、戦前対米戦争になれば 3 ヶ月でアメリカを屈服させるこ
とが出来ると豪語していた陸軍首脳は陸軍の飛行機は洋上を飛べない教育しかし
ていないのに気付いていなかったようで、主戦場になるであろう太平洋の存在を
考慮に入っていなかったのか、どの程度勝つべき秘策があったのか疑問だが、実
際は単に精神論だけで、対米戦争にたいする具体的な準備は全く出来ていなかっ
たことになる。
ち な み に アメ リ カ 陸 軍 の パ イ ロ ッ ト は 洋 上 飛 行 の 訓 練 は 十 分 に 受 けて お り 、海 軍
機のパイロットと同程度の技量があった。山本連合艦隊司令長官が戦線視察の途
上 で双 胴 の 悪魔 、 ロ ッ キ - ド P38 の 襲 撃 を 受 け 、 搭 乗 し て い た 1 式 陸 攻が 撃墜 さ
れ 戦 死 さ れ ま し た が 、 こ の P38 は 陸 軍 機 だ 。
フィリッピン戦では一部陸軍機も洋上攻撃に参加したが、四式重爆撃機と九九
式軽爆撃機に限られたのは洋上航行可能な航法士が乗組んでいたのと、浜松陸軍
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