中村 康生 「自校史教育への取り組みで求められる論議と共通理解

自校史教育への取り組みで求められる論議と共通理解
自校史教育への取り組みで求められる論議と共通理解
-「名城大学物語」連載から見えてきたもの-
中村 康生
名城大学は 1926(大正 15)年5月1日、名古屋高等理工科講習所として創立され、2016
年に創立 90 周年を、2026 年には 100 周年を迎える。記念募金や記念事業が活発に推進され
る一方で、学生たちが大学の歴史について理解を深める自校史教育の必要性については全
学的な論議となっていない。広報担当職員である筆者は 2013 年4月から、名城大学ウェブ
サイト(ホームページ)と季刊誌『名城大学通信』において、卒業生たちからの聞き取り
と発掘した資料をもとに、名城大学史をたどる「名城大学物語」を連載している。学生や
教職員、卒業生たちに自校史理解のための素材(コンテンツ)としての活用や、新たな大
学史編纂の際のデータとしての活用も見据えての連載開始であった。開学 90 周年を機に、
名城大学ウェブサイトでは名城大学史年表に「名城大学物語」をリンクした「90 年の歩み」
というコーナーも開設しているが、学生たちにより深く自校史への関心と理解を深めても
らうためには、自校史教育の推進という教育目標の設定も含めた論議を経た、全学的な共
通理解での取り組みが不可欠である。
はじめに
名城大学において刊行された大学史は、創立 50 周年にあたる 1976 年に発行された『名城大学小史』を
ベースに、2001 年の 75 周年記念事業として出された『名城大学 75 年史』のみである。当時の網中政機
学長を委員長として、各学部の教員、職員たちによって組織された「学校法人名城大学 75 年史編纂委員会」
によって編纂されたものであり、法人部局と依頼された教員らによって執筆された。
附属高校を含めた学校法人名城大学は、田中壽一(1886 ~ 1960)が 1926 年に創立した名古屋高等理工
科講習所から発展を遂げた。愛知県知事認可の各種学校である名古屋高等理工科学校、文部省認可の旧制
名古屋専門学校時代を経て、1949 年に新制大学としての名城大学が開設された。しかし、設置学校の規
模拡大と発展を巡り、学内意見の対立も生み出し、私立大学史上例のない国会での時限立法によって紛争
を収束したという苦難の歴史を持っている。『名城大学 75 年史』の編纂は、紛争時の大学資料の散逸、度
重なる火災による焼失もあり、限られた資料の中での作業であった。「名城大学物語」は、散逸した資料
を補うため、
卒業生たちからの聞き取りと、新制大学発足とともに発刊された学生編集の『名城大学新聞』、
卒業生たちが保存していた資料の発掘をもとに執筆されている。
1. 卒業後 55 年以上の卒業生たちからの聞き取り調査
名城大学は 2013 年3月 19 日、古い卒業生たちが集う「スペシャルホームカミングデイ」を名古屋市内
のホテルで開催した。参加対象となったのは、前身である名古屋高等理工科学校(1929 年開校)、名古屋
専門学校(1947 年開校)の全卒業生と、名城大学の 1949 年の開学時から 1958 年3月までの卒業生たち
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「大学・学校づくり研究」第7号(2015)
である。
呼びかけに応じて参加したのは 166 人の卒業生であった。この中には名古屋高等理工科学校の卒業生1
人、名古屋専門学校卒業生 24 人も含まれており、最年少者でも卒業後 55 年を経た 70 歳代後半であった。
また、
2014 年3月にも第2回スペシャルホームカミングデイが開催され、1959(昭和 34)年3月から 1963(昭
和 38)年3月までの卒業生約 200 人も参加した。
第1回、2回卒業生たちはともに、卒業以来半世紀を超す歳月を経ており、愛知県体育館での母校卒業
式に参列し、後輩学生たちの卒業式を見守った後、懇親を深めた。「名城大学物語」での聞き取り調査は、
この「スペシャルホームカミングデイ」参加者を対象者に始まり、次第に対象を広げていった。農学部
30 年史、薬学部 20 年史、商学部 30 年史、理工学部 80 年史、航空部 30 年の歩みなど、学部、学科、部
史に登場する卒業生たちも訪ねるなどして聞き取りの対象者が広げられていった。
2. 連載で紹介された事例
2 - 1 名古屋高等理工科学校時代と駒方校舎の取得
「名城大学物語」第 1 部は「遠い記憶を追って」として、名古屋高等理工科学校時代から駒方校舎の誕
生までを追った。知られていなかった勤労動員や、名古屋専門学校の開設が、学生たちにとっては、初め
て高等教育機関に昇格したことへの誇りであったことなどが卒業生たちによって語られた。
▼高理工生たちの勤労動員
名古屋高等理工科学校(略称は高理工)は 1928 年3月~ 1948 年3月、627 人の卒業生を送り出した。
1947 年卒の伊藤秀男氏は、勤労動員に明け暮れた在学時代を語った。名城大学史で学生の勤労動員につ
いて語られるのは初めてある。伊藤氏らは名古屋市熱田区にあった名古屋陸軍造兵廠で、南方に送る石油
缶の製造に携わり、「勉強より勤労奉仕ばかりの学生時代だった」と振り返った。
高理工には伊藤氏らが在学した高等科のほかに、1935 年からは中等科(附属高校の前身)も開設され
ており、やはり戦時中の生徒たちは勤労奉仕に明け暮れた。『愛知県教育史第4巻』によると、高理工は
愛知県内の各種学校 63 校の最初に紹介されており、名古屋市中村区新富町(現在の名城大学附属高校所
在地)にあった高理工に近い豊和工業(愛知県清須市)に勤労動員された 1004 人中、高理工生は 604 人
に及んだ。
▼名古屋専門学校卒業生であることの誇り
名古屋専門学校は 1947 年9月 22 日付で当時の森戸辰男文部大臣によって認可された。認可は、名城大
学が名古屋高等理工科講習所、名古屋高等理工科学校という 21 年間の各種学校時代を経て、悲願であっ
た高等教育機関への仲間入りを果たした証(あかし)でもあった。開学記念日の「9 月 22 日」はこの認
可日に由来する。第1回スペシャルホームカミングデイに参加した名古屋専門学校の第3回卒業生の藤田
實氏(1950 年応用物理学科電気分科卒)は「名城大学が新興の新制大学と違うのは、名古屋専門学校と
いう専門学校令に基づく旧制専門学校の時代を経ていることである。名古屋大学が旧制八高、名古屋工業
大学が旧制名古屋工業専門学校の時代を経ているのと同様、名城大学にも旧制の時代があったことを誇り
とすべきである」と語った。
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自校史教育への取り組みで求められる論議と共通理解
▼『文部省年報』により明らかになった女子大生の登場
名古屋専門学校(名専)の 1947 年開校時の募集は応用物理学科のみだったが 1948 年度から法政科、商
科の文系学科が開設されたことで第一部、第二部で計 58 人の女子志願者があった。文部省管轄の高等教
育機関である名専学生の在籍状況は『文部省年報』に記載されており、名城大学附属図書館にも保存され
ていた。入学した女子学生は4人で、唯一卒業生名簿に名前があった第一部商科を 1951 年3月に卒業し
た岸田陽子さん(津市)が学生時代を語った。岸田さんは卒業後、国会議員秘書を経て高校教員となった
が、名城大学の女子学生第1号であるとともに、国会議員秘書第1号である可能性が高い。
▼駒方校舎と中華交通学院
名城大学が学部増設のための拠点キャンパスとして白羽の矢を立てたのは、名古屋市昭和区駒方町にあ
り、名古屋陸軍造兵廠が少年工員たちのために「八事生徒舎」として使っていた土地、建物だった。73
人の地主が所有する駒方町1~2丁目の田畑など 1 万 3570 坪(4万 4781㎡)が陸軍に提供されたもので、
終戦後、米国陸軍の駐留を経て名古屋特別調達局が管理したが、日清食品創業者、世界初のカップヌード
ル発明者である安藤百福氏(1910 ~ 2007)によって中華交通学院が貸与を受け開校した。中華交通学院
は 1947 年4月1日には、中華民国政府の要人も迎え、開校式を行い、「日本において中国人が最初に設立
した専門学校」と宣言。新中国建設で必要とされる交通関係の技術者養成をめざした。
同学院1期生の志願状況は「朝日新聞」(1947 年1月 11 日、大阪本社版)に掲載されていた。入学者
60 人(日本人 50 人、中国人 10 人)に対し、志願者は全国から 1 万 5000 人に及んだ。しかし、百福氏の
事業の行き詰まりにより 1949 年3月に1期生を送り出したものの、中華交通学院の経営は行き詰まった。
一方、名城大学は田中壽一理事長が中華交通学院の吸収合併に動き、中華交通学院校舎を引き継ぎ、1949
年秋からは名城大学駒方校舎が誕生した。
駒方校舎誕生の経緯が、安藤百福氏、さらに中華交通学院学院長を務めた社会学者の呉主恵(1907 ~
1994)との関連で紹介されたのは初めてであった。
2 - 2 苦難の草創期と学生気質
連載第2部は「草創の門」として、新制大学として歩み出した名城大学の、法商学部、理工学部、農学
部、薬学部の草創期について学生生活を中心に追った
▼学生が大学を風刺した「バンカラ節」
名城大学は開学2年目の 1950 度からは法商学部、理工学部、農学部の3学部と短期大学部商経科を擁
する大学となり、早くも総合大学の陣容を整えた。学生数の増設に伴い、運動部の活動が盛んになっていっ
た。予備校「河合塾」の創始者で、名城大学教授であった河合逸治教授(1986 ~ 1964)の作詞になる学歌(校
歌)
、応援歌も誕生した。一方、1952 年当時、学生たちが大学祭前夜、たき火を囲みながら肩を組み歌っ
たのが「バンカラ節」である。初代応援団長の山田昭治氏(1期生)によると、NHKラジオで放送され
ていた「日曜娯楽版」という人気番組で流されていた「僕は特急の機関士で」の替え歌に、学生たちが即
興で詩をつけて歌った。当時の学生気質や学生たちの大学に対する風刺も垣間見られる。
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「名城大学七不思議 私立新制大学で 何故か一流の教授陣 学者も失業時代かな ソレ やる気 本気
が 名城気質」
「今日は休講でパチンコ屋 二十の扉で儲かって 溜めた月謝を払ったら ハゲの学長が
エビス顔 ソレ やる気 本気が 名城気質」
▼働きながら学ぶ「工作班」制度
一般家庭が子供を大学に送り出すことが大変だった戦後の時代、名城大学では、高岡潔教授(1898 ~
1982)が主導した「工作班」制度が誕生した。工作班のモデルは米国テネシー州のマジソン・カレッジと
いう大学で、学内に広い農場、30 近い各種工場、病院があり、学生たちは講義を聴きながら諸施設で働き、
技術を身に付けていた。高岡教授は校舎や教室など学内施設の補修作業や木工製品の製造という学内での
アルバイト収入で、学生たちの学業維持を目指した。制度は「朝日新聞」などで全国に紹介された。高岡
教授の実践記録は、鹿児島大学附属図書館に所蔵されていた。
▼薬学部の春日井校舎脱出
薬学部は 1954 年に春日井市の鷹来校舎に開設されたが、1期生たちは、スペシャルホームカミングデ
イで、入学後の「流浪体験」を語った。
「入学した鷹来校舎は農学部と一緒だったが、あまりにひどい教
育環境で、1年生の暮れに、専門科目の授業が始まる2年生になったら、交通が不便な春日井では先生も
来てくれないのではないかと心配になり、駒方校舎に“脱出”した。3年生からは、事実上親たちが建て
たと言ってもよい八事校舎に移った」。当時を思い出しながら、同期生たちは「私たちは流浪の民だった」
とうなずき合った。
▼働きながら学ぶ「角帽農民」の過酷な体験
1956 年6月3日の「朝日新聞」夕刊には「働きつつ学ぶ“角帽農民”」の見出しで、名城大学農学部の
農業研修生の活動を紹介する記事が掲載された。農業研修生制度は駒方校舎で、働きながら学ぶ「工作班」
が活動を始めた2年後の 1954 年に発足した。午前6時に起きて8時まで畑仕事。9時から学校へ。午後
は夕方暗くなるまで作業が続いたが、農耕道具の主なものは自動耕運機1台と活力用の耕運機が2台。こ
れに共同飼育の役牛が1頭で、朝日新聞の記事は「収穫した作物を市場に運ぶためのオート三輪があった
らというのが一番の願い」と、学業と農業を両立させている学生たちの奮闘ぶりを伝えた。この制度に惹
かれ、農学部には全国から多くの苦学生が集まったが、待ち受けていたのは、予想を超えた過酷な体験だっ
た。
2 - 3 10 年に及んだ紛争期
第3部では「風雪の 10 年」として、1953 年から 10 年に及んだ紛争の渦中での学生たちの動きと、創
設者の死、駒方校舎から天白キャンパスへの移行期を追った。
▼老朽化した校舎、経理の不透明
名城大学では 1953 年後半から、大学組織や学則の明確化を求める声が強まった。老朽化した校舎、経
理の不透明、学生や教授会の声が届かない田中壽一理事長のワンマン体制。学生たちは学生大会などで改
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善を訴え続けたが、田中理事長は逆に、学生2人を除籍処分に、学生の味方をしたとして教員3人を解職。
このため、学生側は 1954 年6月 15 日から「同盟休校」に入るとともに、ハンストや名古屋市内でのデモ、
ビラ配布を行い、田中理事長の横暴を訴えた。紛争は泥沼化し、10 年に及ぶことになった。
▼「名城節」が吠えた日
暗く、長い紛争のトンネルに入り込もうとしていた名城大学からは他大学に転校していく学生たちも出
ていた。
「紛争から手を引かなければ殺す」と深夜、刃物を持って下宿、アパートに押し入る理事長支持
派の学生も出没したという。教授時代から袴姿だった大串兎代夫総長。おんぼろ校舎。「母校のためなら
命まで」と殺気立つ学生。空手部に籍を置き、応援団副団長だった宮司正幸氏が仲間とともに、「名城節」
の歌詞を作りあげたのは 1954 年秋だった。「歩いて行きます紋付はかま、ぼろは俺等の旗印、母校のため
なら命まで」
。卒業生たちに長く歌いつがれていくことになる名城節の歌詞は、紛争が影を落とす当時の
学内情景と重なった。「名城節」誕生の背景が初めて明らかになった。
▼神宮初出場と早稲田色の名城カラー誕生
名城大学は 1953 年の愛知大学野球春のリーグで初優勝し、神宮球場での第2回全日本大学野球選手権
大会に出場した。神宮という全国舞台に向けて、監督に招かれたのは早稲田大学野球部出身の森武雄氏。
森氏は戦局が厳しさを増していた 1943 年 10 月 16 日、学徒出陣の壮行試合である「最後の早慶戦」の出
場メンバー。名城大学野球部監督に就任した森氏は名城大学野球部に早稲田スタイルを持ち込んだ。早稲
田大学と同じ白のユニフォーム、白帽子、早稲田のスクールカラーでもある臙脂(えんじ)のアンダーシャ
ツ。胸の「MEIJO」の字体も早稲田の書体に合わせられた。臙脂は名城大学カラーに定着していった。
▼葛藤する経営権と教学権
理工学部機械工学科3年生だった上田久さんは 1959 年8月 19 日、夏休みで帰省していた兵庫県の実家
で、理工学部長だった小澤久之亟教授からの電報を受け取った。「8月 23 日に登校せよ」という内容だっ
た。中村校舎の理工学部長室で小澤教授は、上田さんに、1時間近く、名城大学が置かれていた状況を遠
回しな表現ながら語り続けた。
「名城大学はもう何千人という学生数になっている。こういう大きな大学になってしまった以上、勝手
なことをしてはいけない。経営権と教学権とがいいバランスが取れた形で大学を運営していかなければな
らない。経営権が膨大な力を持ってしまった。力を持つことはいいいが、それが最終的に教学権たる教授
会をよくリードするものでなければならない。しかし、そうはなっていない」。当時の学生数は全学で約
6000 人。理工学部の学生数は半数近くを占めており、上田さんはその理工学の学生会長として、自分が
重要な位置に立たされていることをひしひしと痛感したという。
▼「学校法人紛争の調停等に関する法律」の成立
学生たちが伊勢湾台風被災者の救援活動に追われる中、紛争解決の糸口が見えない名城大学では教授会、
教職員組合、学生会を中心に、国会や文部省に窮状を訴えるための陳情を行う動きが活発化した。1959
年 10 月 10 日には名城大学協議会代表の矢野勝久教授(行政法)(1982 年4月から 1985 年3月まで学長)
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や組合、学生会、校友会代表が参院文教委員会を訪れ、陳情書を提出し、田中壽一理事長らから事情を聞
くとともに、場合によっては国会の国政調査権を発動して現地調査してほしいと要望した。
11 月 11 日の衆院文教委員会で宮沢喜一政務次官(後の首相)は、私学法の「解散命令」に関わる 62
条について言及。
「62 条で解散を命令するということは学校法人への死刑宣告に等しい」としながらも、
名城大学紛争の解決のためには、62 条を背景としながら、積極的な立場に立たざるを得ないとの方針を
明らかにした。長かった名城大学紛争に終止符を打つことになる「学校法人紛争の調停等に関する法律」
案は衆院、参院の文教委員会の可決を経て衆、参の各院本会議で可決され成立し、2年間の時限立法とし
て 1962 年5月1日、施行された。
▼創設者の死を超えて
名城大学紛争が全国的にも注目を集める事件に発展して行く中、渦中にあった創設者の田中壽一氏が亡
くなったのは 1960 年 11 月 11 日だった。各メディアがその訃報を伝える中、「毎日新聞」は創設者の寂し
い晩年の様子も伝えた。
「東海地方でただ一つの私立総合大学名城大学の創立者、田中寿一理事長は『加
藤善之助』と仮名の表札のかかった名古屋大学付属病院新病舎6階の病室で息を引き取った。7年間続い
た名城大学の学内紛争で、終始自説を強硬に主張し続け、ついにはコト夫人と3人の令息からも『父に従
えず』と背かれ、全く孤独になったが、その高姿勢は少しも崩さなかった」。
▼天白の地へ
1965 年 11 月 13 日から始まった第 16 回名城大学祭は、法商学部の学生たちにとっては最後の駒方校舎
での大学祭となった。1966 年法商学部卒の田中雅幸さん(元名城大学経営本部長)は当時、駒方学生会
副会長で、
「サヨナラ駒方祭」を実施。200 人近くが駒方から沿道の住民に別れの言葉を送りながら天白キャ
ンパスに向け行進した。塩釜口の坂を登りきると新たなキャンパスが広がっていた。田中さんら学生たち
は、各々の名前と思いを込めた一言を書き込んだ石を、新キャンパスの一角に埋めた。「我々こそが名城
大学の礎(いしずえ)になろう」という決意を込めて。
2 - 4 総合大学への再出発
天白キャンパスへの統合で名城大学はタコ足キャンパスを解消し、名実ともに総合大学としての発展期
を迎える。連載第4部は「時代を駆ける」として、総合大学としての飛躍と飛躍する姿を追う。
▼「快足飛燕」と呼ばれた学生部長
小澤久之亟教授(1905 ~ 1988)による「音速滑走体」が全国から注目された名城大学には、戦後初の
国産旅客機 YS-11 の開発に参加した土井武夫氏(1904 ~ 1996)も教授に就任した。小澤教授は重爆撃機
「飛龍」の設計者であるが、土井教授も戦闘機「飛燕」など多くの戦闘機を生み出している。「飛龍」
「飛燕」
の設計者たちにあこがれて名城大学に入学してくる学生も多く、小澤、土井教授は学生たちにも大きな影
響を与えた。全国に燃え上がった全共闘運動が、名城大学にも押し寄せていた時代、学生部長に就任した
土井教授は、学生たちの無秩序な車通学の規制に乗り出す一方、体育館建設などに迅速に対応した。未明
まで及んだ学生たちとの大衆団交に臨み、学生たちと真っ向から向き合った土井教授は、定年退職の際は
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学生たちから「名誉学生部長」と惜しまれ、職員たちは「快足飛燕」と懐かしがられた。
3.「名城大学前史」と創設者に関わる記載の検証
3 - 1『名城大学 75 年史』に記載された田中壽一像
『名城大学 75 年史』の「序章 名城大学前史」の「第1節 名古屋高等理工科学校」では、名城大学創
設者である田中壽一について、その「人脈」とともに紹介している。しかし、「部下」や「教え子」など
と紹介している人たちとは、実際には接点がないなど、真摯な検証が必要である。
『名城大学 75 年史』に記載されている田中壽一の経歴
明治19年(1886)10月5日、福岡県柳川市生まれ
同39年(1906)福岡伝習館中学校卒、東京高等工業学校(現東京工業大学)に入学
同42年(1909)東京高等工業学校電気科卒業。逓信省に入省
同45年(1912)私立明治専門学校(現九州工業大)助教授に就任
大正4年(1915)東北帝国大学理科大学物理学科入学
同7年(1918)同大卒。東京芝浦製作所に研究員として勤務
同8年(1919)東北帝国大学理科大学工学部の助教授に就任
同11年(1922)文部省在外研究員としてドイツに留学
同13年(1924)帰国し浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)教授に就任
同14年(1925)同校を休職
同15年(1926)名古屋高等理工科講習所を開設
3 - 2 東北大学史料館に保管されていた田中壽一の記載資料
田中壽一の東北帝国大学時代、ドイツ留学時代などの軌跡を探る手掛かりとなりうる史料の一部が、東
北大学学術資源研究センター史料館に残されていた。東北帝大時代の研究活動、留学時代などの詳細につ
いては触れられていないが、同センター史料館への特定歴史公文書等の利用請求により、その一部が明ら
かになった。
同センター史料館に所蔵されていたのは、明治末から大正期までの教務関係の書類が中心であった。閲
覧が可能な田中が在学当時の『東北帝国大学一覧』等と、利用請求が認められたのは「教務書類乙」(大
正 4 年度)
「在外研究員関係綴」(大正 15 年以降)、
、
「在外研究員関係綴」(大正9年以降)の公文書である。
3 - 3 旧制高校卒業者以外にも門戸を広げた東北大帝大
田中が入学した当時の東北帝大は、旧制高校出身者だけでなく、高等工業学校、専門学校、高等師範学
校等の卒業生たちも積極的に受け入れた。東京帝国大学、京都帝国大学の後発であり、広く人材を得よう
としたためである。1927(大正2)年には帝国大学にとって初の女子学生として3人が入学している。
『東北帝国大学一覧』の在学生名簿では物理学科第 1 学年に「田中壽一(福岡県山門郡柳河町大字新船
津町 44)の氏名があるが、同ページの化学科第3学年に「黒田チカ(佐賀県佐賀市大字松原町 22)」の氏
名もある。女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)を経て入学した黒田チカは日本最初の女性化学
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「大学・学校づくり研究」第7号(2015)
者。植物色素の構造決定を行ったことで知られ、お茶の水女子大学名誉教授でもあった。
3 - 4 門司港からマルセイユに旅立った田中
田中は入学後、ドイツ語とフランス語の両方を聴講することを届けて出ている。後の留学に備えての準
備であったのかもしれない。在外研究員としての留学出発準備から帰国までの文書が保存されているが、
田中自身が文部大臣中橋徳五郎あてに書いた「出発届」の下書きには「大正 11 年3月 23 日に仙台出発、
11 年3月 25 日門司港より仏国マルセイユに向かいますからお届けします」と書かれている。留守宅は「東
京府渋谷町青山南町」の自宅が記されている。
文部大臣から田中へ、
「瑞西(スイス)国を在留国に追加ス」という許可(大正 11 年4月5日)、大正
11 年 12 月 26 日付の文部省の田中への、
「電気工学研究の為、満2年間、仏蘭西国、独逸国、及び亜米利
加合衆国へ在留を命ス」という辞令も見られる。
田中は大正 11 年5月 10 日にマルセイユに着き、大正 13 年8月 20 日に帰国、浜松高等工業学校の教授
となった。その時点で東北帝国大学での田中の記録は消える。田中が留学中の滞在研究機関、研究実績な
ど、留学中の足跡を示す公文書は残されていない。
また、留学前、助教授時代の研究活動についての記録はなく、東北帝国大学での田中の学位取得もなかっ
た。田中は東北帝国大学時代、学内活動に積極的に関わることなく、「理学士」を取り、在外研究のため
旅立つまで慌ただしく駆け抜けた感がある。
3 - 5「国民新聞」に掲載された田中の「ドイツ報告」
『名城大学通信』
(2014 年春号)の「名城大学物語」で取り上げたのは、1924(大正 13)年3月3日から「国
民新聞」に 5 回にわたり掲載された田中執筆の「文部省在外研究員報告」である。神戸大学経済経営研究
所新聞文庫のウェブサイトで検索、閲覧することができた。田中のドイツ留学中の活動を示す唯一の記録
である。田中は、「金は独逸にうなってゐる」「贅沢ドイツ政策に悩むのみ」など、第1次世界大戦後の超
インフレ下のドイツについて報告している。
ドイツ留学中の田中については、名城大学紛争が大詰めを迎えた 1960 年 7 月 3 日「毎日新聞」で報道
された。田中が語った話では、田中がマルク暴落を巧みに利用して獲得した全財産 4500 円が名古屋高等
理工科講習所創設に投入されたという。
3 - 6 田中と松前重義、茅誠司との接点
田中が入学した東京高等工業学校(現在の東京工業大学)が発行した『東京高等工業学校一覧』(1908
~ 1909 年)の「生徒氏名」名簿には、電気科3年生 31 人の中に「田中壽一 福岡 平」の記載がある。
出身県ばかりではなく身分も記載されており、31 人中では士族 11 人、平民 20 人であった。
田中は東京高等工業学校を 1909 年 7 月に卒業し、逓信省に入省した。大蔵省発行の『明治 43(1910)
年職員録』に「田中壽一」の名前がある。田中の所属は電気局。電気の取り締まりに関する事項、電気測
定器の検定に関する事項、発電水力に関する事項などの業務の中で、田中の肩書は逓信管理局技手であっ
た。職員録には、「月四三」と月俸 43 円であることも記されている。
『名城大学 75 年史』には、逓信省時代の田中について、「その当時の部下が後に東海大学を創設した松
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前重義氏であった」の記述がある。しかし、1886(明治 19)年 10 月5日生まれの田中に対し、松前は
1901(明治 34)年 10 月 24 日生まれで 15 歳の年齢差がある。田中が逓信省に入省した 1909(明治 42)年、
松前はまだ尋常高等小学校2年生であり、
「その当時の部下」であることはありえない。松前が逓信省電
信電話局に入省するのは、東北帝大工学部電気学科を卒業した 1925(大正 14)年の4月である。
『名城大学 75 年史』では、田中が東北帝大助教授時代の部下に茅誠司(後の東京大学総長)がいたとの
記載がある。しかし、茅が 1923 年(大正 12 年)3月 に東北帝国大学理学部物理学科卒業の時点で、田
中は在外研究のためすでに出国している。茅は卒業と同時に本多光太郎(後の東北帝大総長)に師事して
おり田中との接点はない。
さらに、
『名城大学 75 年史』では、日本初のテレビジョンを開発した高柳健次郎との関係を、「浜松高
等工業学校初代電気工学科長時代の部下」としているが、それを裏付ける資料もない。『名城大学教職課
程部紀要』第3号(1970 年)に収録されている福山重一氏(芦屋大学初代学長、元名城大学教職課程部教授)
の「名城大学教職課程部 20 年の歩み」(記念講演)では、田中が浜松高等工業学校校長候補として帰国を
命じられたものの、校長には任命されなかったことに憤激して退官し、退職金を名古屋高等理工科講習所
の設立資金にあてたと田中自らが福山氏に語ったという話も紹介されている。
おわりに
開学 90 周年、さらに 10 年後には開学 100 周年を迎える名城大学であるが、学生たちが自校史に触れる
機会はほとんどない。名城大学の創設者がどんな志を抱いたのか、どのような建学の精神があったのか、
学園の発展のために先人たちがどのような苦難を歩んだか、学生たちだけでなく、教職員ですら多くを知
らないのが実情である。
筆者は 2008 年4月から名城大学に広報専門員として勤務してきた。ウェブサイト上で、教員たちの研究、
教育について紹介する「育て達人」
、学生生活や学内の話題を紹介する「名城点描」の連載も担当してき
たが、
「名城大学物語」に取り組んだのは、自分自身が名城大学史を知る機会がなかったからである。多
くの私大で創設者や歴史が語られるのに、名城大学では学生だけでなく職員すら『名城大学 75 年史』以
外の自校史に触れる機会はないに等しい状態であった。開学 90 周年、あるいは 100 周年は、学生たちに、
自校のアイデンティティを育んでもらうための好機と思われる。「名城大学物語」が、名城大学における
自校史教育の必要性につながる論議のきっかけとなればと思う。
参考文献
天野郁夫(1978)『旧制専門学校』日本経済新聞社
安藤百福(1983)『奇想天外の発想』講談社
石川悌次郎(1964)『本多光太郎傳』財団法人本多記念会
小沢久之亟(1979)『音速滑走体』小沢久之亟先生御定年退職記念事業会
茅誠司(1959)『私の履歴書』日本経済新聞社
呉主恵(1977)『教育と研究 教壇生活四十年回顧録』東出版寧楽社
高岡潔(1956)『名城大学における学生工作班 その活動と実績』民主教育協会
高柳健次郎(1986)『テレビ事始 イの字が映った日』有斐閣
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「大学・学校づくり研究」第7号(2015)
土井武夫(1989)『飛行機設計 50 年の回想』酣燈社
中田正一(1990)『国際協力の新しい風』岩波書店
福山重一(1970)「名城大学教職課程部 20 年の歩み」『名城大学教職課程部紀要』第3号
松前重義(1987)『わが昭和史』朝日新聞社
早稲田大学大学史資料センター・慶応義塾福澤研究センター(2008)『1943 年晩秋 最後の早慶戦』教育
評論社
名城大学ウェブサイト
「名城大学物語」http://www.meijo-u.ac.jp/sp/story/
「90 年の歩み」http://www.meijo-u.ac.jp/sp/90th/history/
「育て達人」http://www.meijo-u.ac.jp/sp/sodate/index.html
「名城点描」http://www.meijo-u.ac.jp/sp/tenbyo/
大学ウェブサイトの「名城大学物語」(2013 年 4 月~ 2015 年 1 月)
『名城大学通信』に連載された「名城大学物語」
(名城大学経営本部渉外部 )
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