社会的・歴史的・文化的な状況の文脈における 子どもの心(精神)と発達

社会的・歴史的・文化的な状況の文脈における
子どもの心(精神)と発達
糸 田 尚
史
名寄市立大学・市立名寄短期大学道北地域研究所
「地 域 と 住 民」 第26号 抜 刷
2008年 3 月
社会的・歴史的・文化的な状況の文脈における子どもの心(精神)と発達
名寄市立大学・市立名寄短期大学
道北地域研究所 年報 第26号(2008)
社会的・歴史的・文化的な状況の文脈における子どもの心(精神)と発達
糸田 尚史
1.はじめに
バーバラ・ロゴフ(2003)の“The Cultural Nature of Human Development”が、日本では2006年に
當眞千賀子によって『文化的営みとしての発達:個人・世代・コミュニティ』(新曜社)として翻訳さ
れました。「第1章 この本がめざす方向を照らす概念、そして人の発達が文化的であるということはど
ういうことか」「第2章 文化活動への参加の変容として発達」「第3章 個人、世代、そしてダイナミック
な文化コミュニティ」「第4章 家族やコミュニティでの子育て」
「第5章 コミュニティにおける個人の役
割の発達的移行」「第6章 相互依存性と自律性」
「第7章 道具で考えること、そして、文化のインスティ
テューションズ(施設・制度)」
「第8章 文化の営みの中で“導かれた参加”を通して学ぶこと」「第9章
文化の変容とコミュニティ間の関係」という8章からなる大著(邦訳は559頁)で、なるほど訳本の帯
に記されたとおり「かくもダイナミックで変化に富む発達のすがた! 人間が育つ多様な文化コミュニ
ティへの深い理解から西欧中心の普遍的発達観を一新する画期作」でした。この中でB.ロゴフは「この
...................
本が主な目標としているのは、人々は文化的コミュニティの一員として発達する(傍点は筆者。以下同
.....
様)という立場を展開することです。人々の発達は、文化的実践と彼らのコミュニティのおかれている
..
状況―これもまた変化するものですが―に照らして、はじめて理解できるものなのです」と述べていま
す1)。
こうした考えは、児童相談所や児童家庭支援センター等での子どもの心理発達相談や、わが子の子育
てを経験した筆者にとっても、たいへん納得のできるものでした。本稿では、B.ロゴフまでの文化心理
学的な研究の系譜とも対照させながら、社会的・歴史的・文化的な状況の文脈における子どもの心(精
神)と発達について、みていきたいと思います。
2.社会的・歴史的・文化的な状況の文脈
「社会的」「歴史的」「文化的」「状況性」
「文脈」という用語は、これまでも、心(精神)を扱う科学
.
で用いられてきました。例えば、安倍淳吉(1969)による「社会心理学研究法」という論文の中には「社
. .. ...
..
..
..
..
会・文化・歴史的」「地域中心性の把握」「時期(Epoche)的状況」「時代(Zeit)的変化」2)などの用
語の使用を見出すことができます。
.........
A.クラインマン(1980)の邦訳『臨床人類学』の原題は「文化の文脈における病者と治療者」であ
.....
... ... ...
............
り、「文化の文脈」「社会的、文化的、歴史的」「地域の社会文化的な状況下」3)などの用語が使用され
ています。
J.V.ワーチ(1991)は、問題に接近していくときに現実世界の表現に複数の方法があると考え、声
..
(voice)よりも多声(voices)という用語を選び、より広い範囲の心理的現象を統合したいという願
. ..
いから、心理学で流行している認知(cognition)でなく、心:精神(mind)という用語を用い、『心の
.....
.
声(voices of the mind)
:媒介された行為への社会文化的アプローチ』を著しました。
「ここでは、社
....
... ...
...
会文化的(sociocultural)という用語を、心的行為がいかに文化的、歴史的、そして制度的なものに
..
...
状況づけられているかということを理解していくために用いている。(中略)ある意味では、社会的・
... ...
歴史的・文化的(socio-historical-cultural)といった用語の方がより正確なのかもしれないが、そ
... .. ..... ..... ..
れでは用語も長くていささか格好が悪い」と述べ、「歴史的な時代」「制度的状況」「文化的文脈」「状況
. ........
性」
「社会文化的状況性」4)といった用語を使用しています。
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年報 第26号(2008)
G.バターワースとM.ハリス(1994)は『発達心理学の基本を学ぶ:人間発達の生物学的・文化的基盤』
において、
「発達心理学は2つの系譜(strand)
〔訳注:strandとは、つながり、綱といった意味であり、
さまざまな要素(糸)が絡んで1本の綱のようになっていくという意味である〕から説明できる。1つ
..
は、生物学的な発生と成長から何らかの着想の源を得ているものである。もう1つは、異なる文化が、
... .
発達の経路をどのように方向づけるのか、といったことにかかわるものである」と言い、「歴史的、社
..
...
...
..................... ...........
会的」「文化的」「地域的」「よく馴染みのある生態学的に妥当性のある文脈」「具体的で熟知した馴染み
.....
.............
....... ..... .... ... .
のある文脈」「日常の経験から引き出された」
「学校教育の影響」
「文化と文脈」「生物学的、社会的、文
..
5)
化的」などの用語を用いています 。
M.コール(1996)は『文化心理学:発達・認知・活動への文化-歴史的アプローチ』という著書の中
..
..
........
で、「文脈(context)と状況(situation)という用語も精神における文化についての議論に引き続き
..
..
用いられているが、最近はそれらに代わって、活動(activity)6)と実践(practice)という用語が多
..... ....... .. ........ .
く使われるようになってきた」と述べ、
「社会文化的」
「社会歴史的文脈」
「文化・歴史的アプローチ」
「文
....
........
.. ..
........
化的文脈」「社会における精神(mind)」
「状況と文脈」などの用語を使用し、
「文脈的アプローチに、織
...
物、撚り糸、ロープなどのメタファーが出てくるのは驚くほどである」と論じました7)。
........... .........
そして、上述のB.ロゴフ(2003)です。そこでは、「人の発達は文化的な過程」「コミュニティにおけ
......
.....
.. ...
......
.....
る社会的状況」「文化的発達」「心理-文化的」「生態学的適所(エコロジカル・ニッチ)」
「社会文化的...
.. ...
.......
.. .....
............
..
歴史的」「文化-制度的」「文化活動を構成」「文化-歴史的発達」「文化コミュニティへの参加」
「世代を
.....
超えて持続しつつも変化するパターン 」「コミュニティにおける子育て 」「日常的認知(everyday
..
.......
.
cognition):ロゴフとレイヴが1984年に創った用語」「柔軟に状況に合わせる」
「社会文化的発達」
「文
.... ..
..
.. .... ... ....
化 的 道 具や 実 践 」「 認 知発 達 に は協 働 的 性質 があ る 」「文化 の活動 への導か れた参 加(guided
participation)」「状況の定義や活動の方向を能動的に解釈して参加」
「参加を相互に構造化」
「ナラテ
.
ィヴ(お話)を聞き、語る」「遊びで演じたり練習したり」「徒弟制の中での学びや熟達への支援」
「文
.........
......
化接触を通した変容」「学びの共同体」「人々が生活をオーガナイズすることを可能にしている文化のあ
り方」
「いつになっても学ぶことが尽きることはありません…」などの概念や主張が示されるに至ります。
3.知能とは、いったい、なんであろうか
子どもの心(精神)の発達について考えてみましょう。まずは知的な発達についてです〔図1〕。有
名なSF作家のI.アシモフは、『図説・現代の心理学1:パーソナリティ』(講談社)で、次のように書
いています。
知能とは、いったい、なんであろうか。陸軍にいたとき、私は他の兵隊と同様に、一種の知能検査を受け、標準の100点に対
して、160点を記録した。このような点数は、その基地が始まって以来のもので、担当者たちは、私のことで、2時間ものあい
だ、大騒ぎした。(それは結局大したことではなかった。検査の次の日、私はただの炊事勤務の一等兵でしかなかった。
) 生れ
てこのかた、私はそういった高い得点をとりつづけてきているので、自分は非常に頭がよいという自己満足感をもっている。
それに、他人も自分をそういう目で見てくれることを期待している。しかし、実際には、そういう高い点をとるということは、
知能テストを作成した人たち―私たちと同様、知的な方面に好みをもった人たち―は意味があるとしているが、実際的でない
質問に、たかだかとてもうまく答えられるということでしかないのではなかろうか。たとえば、私がかつて、こういった種類
の知能テストで80点以上はとてもとれないと思われるような自動車整備士の世話になっていた。私はいつも、自分が彼よりは
るかに頭がよいということを当然のように考えていた。しかし、ひとたび車の調子が悪くなると、私は急いで車を彼のところ
へもっていき、彼が要所を点検するのを不安そうにながめ、まるで神託を聞くかのように、彼のいうことに耳を傾けた。そし
て、彼はいつも私の車を修理してくれた。そこで、もしこの自動車整備士が知能テストの問題を考案したとしたらどうだろう。
学者を除いて、大工や農夫や、ありとあらゆる人がおのおのの問題を考案したとしたら。そうすれば、私は、どのテストにお
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社会的・歴史的・文化的な状況の文脈における子どもの心(精神)と発達
〔図1〕あなたは小屋を建てることもできないし、食用になる根の見つけ方も知らないし、天気の予測もできない。言い換えるとあなた
は私たちのIQテストではひどい点数になりますね(Ó1999 by Sidney Harris)8) [バトラーとマクマナス,2003](左 )
、IQテスト
は特に学校において選別の手段として用いられやすい9)[ベンソン,2001](右)
いても、精神遅滞という結果を得るであろう。また、実際そうであるにちがいない。私が受けた知能訓練の成果や言語能力が
使用できず、手仕事でなにかむずかしい仕事をしなければならない世界では、私は、できが悪いということになるであろう。
そうなると、私の知能は絶対的なものではなく、私が住んでいる社会との関数であり、また、その社会の小部分(small
subsection)が知的な問題についての審判者として、残りの部分に対して自分を押しつけているという事実との関数でもある10)。
子どもの知能も、絶対的なものではなく、子どもが住んでいる社会・文化との関数です。これは、子
どもの心(精神)の発達をみるときの大切な視点でしょう。
4.論理的な思考とはなんであろうか
かつて、「発達の最近接領域」11)などの概念で有名なL.S.ヴィゴツキーがまだ健在であったときに、
彼の発意によって実験が企図され、ウズベキスタンの村落や、夏期放牧場(山岳牧場)といった辺境の
地で、長期間大都市に住んだことがないとか、教育を受けたことがないとかいう僻村の農民を被験者と
して、A.R.ルリヤによって「三段論法の実験」という調査が行われました。使われた素材は「雪の降る
極北では熊はすべて白い。ノーバヤ・ゼムリヤーは極北にある。そこの熊は何色をしているか?」とい
うものでしたが、多くの被験者達は大前提を受け入れるのを拒み、「北の方へ行ったこともなければ熊
を見たこともない。その問に答えるためには、北の方に居たことがあって熊を見たことのある人にきい
てみなくちゃわからない」と言い張ったり、前提を完全に無視してしまい、三段論法から結論を出す代
わりに、「熊はさまざまで、もし生まれた時が赤色ならそれはずっと赤色のままだ」とか「世界は大き
いから私は熊がどんなものか知らない」というふうに、自分勝手な考えで置き換えてしまったそうです。
被験者の何人かは、その種類の三段論法からいかなる結論をも下す可能性を完全に拒んでしまい、「見
たことだけが判断可能だ」
「嘘をつきたくない」
「その問に答えることができるのはそれを見たことがあ
るか知っている人だけだ」などと答えたといいます12)。
M.コールとS.スクリブナーも、リベリアのクペレ族に関する研究で、中央アジアの農夫の反応とよく
似た反応が得られたことを記述しています。そこでの実験者は地元のクペレ人で、被験者となった相手
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はその村の尊敬を集めている長老でした。実験者:
「ある時、クモが宴会に招かれて行きました。クモ
はどれか料理を食べる前に次の質問に答えるよういわれました。質問はこんなものです。クモと黒鹿は
いつもいっしょに食事をします。今、クモが食事をしています。では、黒鹿は食事をしていますか」、
長老:
「2匹は森にいたのか」
、実験者:「そうです」
、長老:「2匹は一緒に食事をしていたのか」、実験
者:「クモと黒鹿はいつもいっしょに食事をします。今、クモは食事をしています。では、黒鹿は食事
をしていますか」、長老:
「しかし、わしはそこにいなかったのだから、そんな問題にどう答えられると
いうのかね」、実験者:
「答えられませんか。もし、あなたがそこにいなかったとしても答えられるんじ
ゃないですか」、長老:
「ああ、そうじゃ。黒鹿は食事をしておる」
、実験者:
「黒鹿が食事をしていると
いう理由は何ですか」、長老:「理由は、黒鹿はいつもそこいらを一日中歩き回っては繁みの葉を食べて
いるからだ。それから黒鹿はすこし休んでから、立ちあがりまた食べ始めるんじゃ」13)
ユカタン半島のマヤ族とメスティーソを対象に、リベリアでの研究を追試したM.コールはいいます。
「もしフアンとホセがビールをしこたま飲めば、町長が腹を立てる。フアンとホセは、今ビールをしこ
たま飲んでいる。町長は、彼らに腹を立てると思うか」では、学校で教育を受けていない被験者たちは、
明らかに単純な論理的答えをせず、しばしば特定の人々についての知識を基礎に「いや、ビールを飲ん
でるのはごまんといるのになんで町長が腹を立てなければならないのかね」と、ことばの論理的な含意
を無視して、自分の経験的知識に頼ることが明らかとなりました14)。
こうした例もまた、子どもの心(精神)と発達をみていくときの大切な視点を提供しています。学校
で教育をうける現代の社会・文化では、いわゆる「論理的な」「フォーマルな」答ができるようになっ
ていく過程を心(精神)の発達と見なす傾向があるようです。
5.うずらはなぜ算数が苦手なのか
〔図2〕うずらはなぜ算数が苦手なのか[市川みさこ,1977]
市川みさこの漫画『しあわせさん(オヨネコぶ∼にゃん)②』には、横暴な姉(たまご)からいつも
一方的に搾取されている弟(うずら)のところに友人の家庭教師(モンブランくん)がやってくる話が
あります(図2)15)。教師は弟に即興で「君がお姉ちゃんに100円借りたとして、そのうち50円だけを返
したら、君はあといくら借りてる?」という問題を出題しますが、それを聞いた弟は酷く怯え、うろた
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社会的・歴史的・文化的な状況の文脈における子どもの心(精神)と発達
えた様子で「ぼくがお姉ちゃんに100円借りるの?」と確認した後で、一言「100円」と答えてしまいま
す。家庭教師は「バカだな、100円から50円引いてどうして100円なんだ」と怒るのですが弟は「だって
100円だもん」と譲りません。家庭教師が呆れていると弟が言います。「先生はお姉ちゃんを知らないん
だよ。お姉ちゃんにおカネ借りてごらんよ!」
滝沢武久は、アメリカのケンタッキー州の山岳地帯の辺地の子どもたちに数の引き算の問題をさせて
みた次のような研究を紹介しています。
「きみが10セント持っているとき、お菓子屋であめ玉を6セント買ったら、いくら残るでしょうか?」→「ぼくは10セント
持ってないけれど、もし持っていたとしても、あめ玉を買うのには使わないよ。あめ玉はママが作ってくれるんだもの」、そこ
で質問を次のように変えてみた。「お父さんの飼っている10頭の牛をきみが牧場につれていったら、6頭の牛がまいごになって
しまいました。そうすると、きみは何頭の牛を家に連れて帰ったでしょうか?」→「ぼくの家は牛を飼ってないけど、もし飼
っていて6頭いなくなったら、ぼくはもう家へ帰れないよ」、さらに第3の質問でつっ込んでみた。「学校に10人の生徒がいま
すが、そのうち6人がはしかで欠席しました。何人学校に出席しましたか?」→「だれも出席しません。ほかの子もはしかに
なるのがこわいからです」。この子たちはふざけて答えているのではなく、このように答えることが、この文化環境内では、い
っそう自然なのである。実際、文化が異なれば、知能テストそのものが無効になってしまうことがよくある。たとえば、ある
部族のインディアンは、速さに重要性を認めていない。そのため、速度と競争心を必要とする作業テストをやらせても、決し
ていそがず、ゆっくりと作業する。また別の部族のインディアンにとっては、解答を知らない人がいるときに答えたり、解答
を検討しないうちに答えてしまったりすることは、無作法だと考えられている。そのため、少しでもそういう疑いを持つと、
沈黙してしまうのだった16)。
筆者の授業を受けてヤマヤケイコ(当時学生)は次のような体験を書いてくれました。
先生がおっしゃっていたように、文化が影響するというのはまさにその通りだと思います。私も、小学生の頃「うちには10
個みかんがあります。ケイコ(私)が、そのうち6個を食べてしまいました。残りは何個でしょう?」と母親にきかれ、「ケイ
コは6個も食べれません」と答えて「ふざけるんじゃありません」と怒られました。→それからは内心「そんなに食べたらおな
かこわすよ。そんなに食べる人、いるわけない」と思い、ほくそ笑んでから、
「4」と答えるようになりました。
これらの事例も、子どもの心(精神)の発達と文化との関係を示唆しています。子どもの心(精神)
の発達をみるときに、配意しておきたい側面です。
6.認識人類学と認知意味論
文化人類学者(認識人類学者)の福井勝義は、エチオピア西南部という東アフリカの一角にあるボデ
ィの人々の社会を調査し、ボディの人々は子どもの頃から色彩認識が非常に発達しており(図3)、色彩
の分類体系は科学的であること、任意に描いた幾何模様カードの殆どに命名ができ、その精緻な認識の
〔図3〕石ころ遊びをする(石片をウシにみたてて分類する)ボディの子どもたち(左)と300色もの色彩カードを丹念に分類していく
ボディの女性(右)[福井,1991]
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〔図4〕ボディの人々が命名・分類できた幾何模様(左)と「わからない」「こんなアエギ(色彩・模様)のウシはいないよ」と答えた
幾何模様(右)[福井,1984]
背景には家畜、とくにウシの個体識別のもとになる毛色による分類体系があること(図3∼4)、ウシの
親子関係が毛色を通じて認識され、16世代にもおよぶ系譜のみならず人間の親族関係のような図式が
ボディの人々の脳裏にきざまれており、メンデルの法則に匹敵する民族遺伝観(図5)と、それを基盤
にして特定の毛色の子ウシをうみだすために特定の毛色の種ウシを選択していることなどを明らかに
し、次のように述べています。
たとえば日本の社会では、「太陽はアカである」というもののとらえ方は常識で、かりに「キ」や「シロ」とみなしたら、そ
のひとは異常とみなされてしまう。そうしたものの見方は、幼児のころから親たちに教えられ、継承してきたにすぎないのだ
が、私たちをとりまくよその社会にまでおしつけてしまおうとするきらいがある。しかし、じっさい身近な資料をしらべてみ
ると、地球上で太陽をアカとみなしている社会は、じつにかぎられているのである。私たちの想像をこえた「ものの見方」が
この地球上に多様に存在する(図3∼5)17)。
岩波新書の『ことばと文化』『日日語と外国語』『教養としての言語学』などの著作で知られる鈴木孝
夫は、機会あるごとに、ヨーロッパの諸言語で、太陽は何色と考えられているかを調べてみたといいま
す。その結果、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語といった西ヨーロッパの言語圏
では、太陽は黄色いものとされており、ロシア語は赤、恐らくポーランド語も赤らしいから、東欧スラ
ヴ語地域は日本語と同じく赤である可能性が高いとのことでした18)。
「サピア=ウォーフ仮説(言語相対論)
」19)として有名になったウォーフは、次のように述べています。
ホーピ語には、すべて飛ぶところのものを指す一つの名詞がある。ただ、鳥だけは例外で、これにはまた別な名詞がある。
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社会的・歴史的・文化的な状況の文脈における子どもの心(精神)と発達
ホーピ語は現に、昆虫や飛行機や飛行士をすべて同質の語
で指し、別に不便だとも感じない。もちろん、このような
広い言語的範疇の中の異なる要素間で混同が生じる可能性
はあるが、それは、場面によって解決してくれる。このよ
うな範疇はわれわれの目からは余りにも大きく、包括的す
ぎるように見えるが、逆にイヌイット(エスキモー)の人
たちなどから見れば、われわれの「snow(雪)」という範
疇は広すぎるのである。われわれの場合、降ってくる雪、
積った雪、氷のように固められた雪、どろどろになった雪、
風に吹かれて舞う雪、どれをとっても同じくsnow(雪)と
言い、場面に関係ない。イヌイット(エスキモー)の人た
ちにとっては、このような包括的な意味の語は考えも及ば
ない。エスキモーに言わせれば、降る雪、どろどろの雪、
その他さまざまの雪は、感覚的に言っても、対処する仕方
から言っても別なもので、別の扱い方をしなければならな
いものなのである。イヌイット(エスキモー)の人たちは
それら一つ一つに違った単語を使うし、それ以外のさまざ
まな雪についても同様である。一方、その逆の方向にいっ
ているのがアズテク族で、われわれの場合よりももっと極
端である。彼らは、「寒い」、「氷」、「雪」を同一の基本形
に異なる語尾をつけることによって表す。
「氷」は名詞、「寒
い」は形容詞、
「雪」は「氷の霧」というわけである(図6)20)。
もっとも、『認知意味論』を著したG.レイコ
フは次のように言っています21)。
言語学の教授が熱心な大学生のせいで経験せねばならな
〔図5〕ボディにおける牛の毛色の民族遺伝観(ボディの遺伝知識はメ
い恐らく最も退屈な事柄は、エスキモー語における雪をあ
ンデルの法則と殆ど矛盾しないという)[福井,1984]
らわす22個(あるいはそれがどんなに多数であろうと)の
語について際限のない議論である。…英語を話すスキーヤ
ーが私に報告してくれたことであるが、彼らの語彙の中に
は、雪を表す言葉(例:powder「粉雪」)が少なくとも1ダ
ースあり、それにもかかわらず彼らの概念体系は概ね私の
概念体系と同じだということである。ある経験の領域につ
いて専門的な知識を持っている人はだれでも、その領域に
おける種々の事柄に関して膨大な語彙を持っているはずで
ある。船乗りも、大工も、裁縫婦も、そして言語家である
場合には、人々はそれにふさわしく膨大な語彙をもってい
る。このことは驚くべきことではないし、たいしたことで
もない。このことは、船を操縦する人が「風下」や「港」
や「船首三角帆」のような、船の操縦に関する数多くの用
語を知っているという事実や、アメリカ人が車の名前をた
くさん知っているという事実と同様全く驚くべきことでは
〔図6〕数々の論争を巻き起こした言語相対性仮説(サピア=
ウォーフ仮説)[ウォーフ,1956]
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ないのである。
しかしながら、自閉症の子どもたちの中には、車の名前やポケモン等の名前に関して驚くほど膨大
な語彙をもっているという子も時々います。その際に、記憶される対象は文化によって異なるようで、
酪農地帯で農協から配布された、たくさんの牛の種類の写真の載ったカレンダーから牛の名前を全部記
憶してしまったという自閉症の子どもの心(精神)は、その酪農地域における文化の文脈から影響を受
けていたと考えられます。
また、子どもの心(精神)の発達を促す役割を担う大人は、サピア=ウォーフ仮説を意識しておき
たいものです。というのも、例えば、有名なルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』で、最初にウ
サギ穴に入っていくのはピンクの目(英語原典ではpink eyesですが日本文化では赤い目が一般的でし
ょう)をしたrabbit(穴ウサギ;飼いウサギ;家ウサギ)であり、後半の「狂ったお茶会(mad tea-party)」
に出てくる、穴を棲み処とせず、ウサギのような形をした家に住んでいるという三月ウサギはhare(穴
を掘る習性のない野生の野ウサギ)ですから、目は赤(ピンク)ではなく黒かったはずです。日本文化
では、穴ウサギも野ウサギも一括して「兎」ですから、日本の大人は種類の違うウサギの特徴や習性を
混同して誤った知識を子どもたちに伝達してしまわないように注意しなければなりません。また、日本
語の文化では「兎」を「鵜(ウ)と鷺(サギ)」に分節し、表向き食用が禁忌とされた「四足獣」では
ひき
わ
なく、食べても良い「鳥」と見做し、獣のように「匹」という助数詞では数えずに鳥のように「羽」と
いう助数詞で数えてきたという歴史・文化がありました。文化に馴染みにくい(自閉症などの)子ども
まい
ほん
たちには、本来、文化に馴染むといつのまにか自然に身についてしまう感覚である「枚」「本」などの
助数詞の使用に困難さがみられることもあるのです。
7.ネニネンゴロニナル
〔図7〕宮城県女川町江島地域におけるアワビカケ[大江,1987]
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社会的・歴史的・文化的な状況の文脈における子どもの心(精神)と発達
大江篤志22)は「伝統漁撈をめぐる社会化」という論考で、宮城県江島(えのしま)地域におけるアワ
ビ鉤漁について記述しました(図7)。戦中戦後の頃、江島の子供達は、家ではおじいさんからイロリば
たでアワビのカケかた方(とり方)を習い、泳ぎにいくときは水中眼鏡やアワビやウニをとる道具と獲
物を入れる桶をかならずもっていのだそうです。冬にはデエコンカケ(大根カケ)という陸上でのアワ
ビカケの真似(適当な高さの石垣を見つけ、その下に大根をおき、石垣のうえに腹ばいになってそれを
タグリあげる)をして遊び、やがて海底をのぞくガラスを押さえる役目などで舟に乗り組みます。地先
の海や海底の様子、こまごました島周辺の地名を覚え23)、漁場の海底地形(ネ)に知悉し(海底認知図
の形成は「ネニ、ネンゴロニナル」といわれる)、海底にアワビらしいものを見つけても、それが本当
にアワビなのか、カイメンなのか、石なのかの「いまみえているところには石はなかったはずだ、従っ
てこれはアワビである可能性が高い」)の判断ができるようになるというわけです24)。
かつての江島の子どもたちの心(精神)の発達を、歴史的(時代史的)にみると、文化的営為の中で、
こんな社会的な発達を遂げていたということです。
8.子どもは誤解されている?
〔図8〕樹村みのりの漫画からはM.シーガルの主張が思い起こされる[樹村,1976]
樹村みのりは、ある漫画作品25)の中で就学時知能検査のようすを描いています。新入学齢に達した女
児が、ツノのある小鳥の絵を見せられて、年輩の女性教諭から「さあこの小鳥さんを見てどこかおかし
なところがあったら教えてちょうだいね」と質問されます。ところが女児は「その女の人はとてもやさ
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しい顔をしていて、よもや小鳥につのが書いてあるなんてことがわからない人とは思えませんでした」
と大人に配慮し、(
「 おかしなところは)ありません」と答えてしまうのです26)。
M.シーガルが『子どもは誤解されている:「発達」の神話に隠された能力』(新曜社)で話題にしたの
は、そのようなことでした。M.シーガルの主張を波多野誼余夫は次のように纏めています。
日常生活においては、質問とは、知識をもっていない人が知識をもっている人に尋ねるものであろう。ところが、心理学者
が行なう実験や調査は、学校でのテストと同様、もともと質問するほうが正しい答えを知っている。こういった事態に幼児が
慣れていないのは当然であろう。こうした事態にうまく対処できるためには、学校でそうした経験を長く積む必要があると考
えられる。
もう1つ彼(シーガル)の研究でおもしろいのは、病気の原因としての汚染や感染の理解を扱った質問である。以前の研究
によると、オレンジジュースのコップにゴキブリが入ったのを見せ、“このオレンジジュースを飲む?”と聞くと、たいていの
幼児は“いや、飲まない”という。しかし、子どもの見ている前でこのゴキブリを取り除き、再びオレンジジュースを飲むか
と聞くと、こんどは、飲むと答える子どものほうが多いのである。この結果は、やはりピアジェ派の心理学者たちによって、
幼児の判断がその場面での目につきやすい事物や属性によって影響されることを示すものと解釈されてきた。しかし、シーガ
ルによると、これはおとなに対する子どもの配慮からきているのではないかというのである27)。
(図8)
大人に対して子どもが配慮する文化では、時々こういうことが起こります。それは、筆者が児童相児
所の判定員時代にも感じたことであり、今の児童家庭支援センター こども心理士(非常勤) としても、
そう感じる発達相談場面に出会ってきました。子どもの答が間違えていたからではなく、たんに検査者
(筆者)が被検者(子ども)の答を聞き取れなかったがゆえに答を聞き返しただけでも、子どもは黙り
込んでしまったり、わざわざ違う答(むしろ間違った答)を言ってしまったりするのです。子どもに安
易な聞き返しは禁物といえます。
9.新型文化の浸透と旧型文化の抵抗
安倍淳吉(1956)は、宮城県某村で、新型文化(科学的医療)の浸透と旧型文化(ミコまたは祈祷師
といった呪医)の抵抗のメカニズムを研究しました。そこでの新旧文化の拮抗は、フォーマルには二重
構造をもちながら家族単位に次第にインフォーマルに新型文化へ移動しつつありました。新型文化の二
重体制による浸透の原因には、次のような主な理由があげられます。(1)ペニシリン等の使用による治
療効果の差の増大、(2)世帯主の世代の更新(学歴の上昇)、(3)国民健康保健制度の採用による医療
費の軽減、(4)発病の原因と旧型文化からみなされていた農作タブーの減少(たとえば耕作タブー)な
どです。しかし医療文化規準への新型文化の浸透または旧型文化の抵抗をもっとも決定的にしているも
のは、治療効果による自我の不安定の支えへの力であるということができるでしょう。すなわち旧型慣
行から離れて新型文化に傾いた場合でも、現代医学によってなかなか治療効果があがらなかったり、ま
たは生活慣行上のタブーが侵された後の発病であったりした場合、旧型医療の拮抗力が増大します。祈
祷師の大部分は長い療養者であって、祈祷による治療体験の所有者です。そして、この二重構造を通し
て新旧文化による自家安定の支えあいが行われるのですが、両型水路の受手または主導者も、この二重
構造に適応することによって、はじめて、積極的に力を獲得することができるのです。祈祷師も決して
「医師に行くな」とはいいません。「クロマイをのめ」とか、「どの方向の医師にかかれ」とかいうわけ
です。そして「いくら名医でも、まちがった方角の医師の薬を飲めば、たたった神(たとえば姫こんじ
ん)が血のめぐりをとめて、薬をきかなくする」とかというように述べるのです。医師の治療効果が逆
に予言力を支え、二重体制に沿うことによって抵抗力が増大します。また医師も旧型の医療慣習に直接
抵抗しないでそれに直接ふれないことにより、はじめて浸透力をもつことになるわけです。このように
二重体制の強力に支配している場所では、新興宗教による呪的医療一本のいき方は浸透できません。同
− 50 −
社会的・歴史的・文化的な状況の文脈における子どもの心(精神)と発達
村では、引揚者の層、旧疎開者の零細層にその勢力が限定されており、また呪的医療に真っ向から対立
し、祈祷師にもかかっていると激しく叱責する某医師はリストの上でも年年同村内の患者層を失ってい
ます。この二重構造に適応し、さらに上述のように、治療効果および経済上の支えを獲得する限り、新
型文化は浸透力を獲得し、慣行としての呪医の水路を圧縮し減少させる力となることができるのです28)。
大橋英寿は沖縄の精神障害分類について、久場政博の研究29)をもとに、次のように述べました。
沖縄の人びとが精神科医療を受けられるようになってから日が浅い。戦前には一つの精神病院もなく一人の精神科医もいなか
った。精神科医療は戦後も遅く始まり、本格化したのは本土復帰(1972年)後のことである。それも離島まではなかなか及ん
でいかない。沖縄本島から南西へ520km、台湾に近い与那国島へ巡回治療に数年出向いた若い精神科医の久場政博は、島びとが
精神異常を表現する方言とその意味を丹念に聞き取っていった。それを検討して久場は驚いた。“与那国島には、すぐれて本質
的な狂気に対する伝統的な分類ならびに観念が存在している”ことを見いだしたからである。精神異常を表す方言を整理して
いくと、それが精神医学でいう状態像と見事に対応することを見いだしたからである。島人は精神障害を傍観していたのでは
なく、微妙な違いまで方言で豊かに表現していたのである。久場は「与那国島における精神障害分類」の対照表(表1)を提出
している。
なお、表の右側にある〔
〕の部分は、与那国方言に対応させて大橋英寿が沖縄本島で聞き取った方
言であり、沖縄本島でも確認できたものだそうです。
表1 与那国島における精神障害分類[大橋,2002]
(精神医学的状態像)
<与那国島の精神障害分類>
〔名護地方の表現〕
精神病様状態
1.フリドゥブル
フリムン
無為自閉
ダークマイ
ヤーグマイ
不完全寛解
イビタラヌム
マシナラン
突発性・反復性
ナマダフリトゥ
(未確認)
憑依状態
2.カンブリ
カミダーリィ
抑うつ状態
3.モノムイ
ムヌウムイ
酒精中毒傾向
4.サゲヌマフリムヌ
サケヌミプリムン
痴呆(老人痴呆)状態
5.ウグリドウブル
カニパンダー
精神遅滞(知的障害)
6.ウムグトダサ
ウスーグヮー
けいれん発作
7.ウチダマ
ピカイン
この対照表をもとに久場は次のように重要な指摘をしています。
この7つの状態像ないし疾患のうち、一般に、3.から7.までは正常範囲の若干の偏倚であって、狂気としては扱われない。
いわゆる正常範囲を越えて病的な異常状態(気が狂う)とみられるのは、1.のフリドゥブル(フリムン=気の触れた者、精神
病様状態)であるが、2.のカンブリ(カミダーリー=憑依状態)は、多々フリドゥブルが合併するので、ときには正常範囲を
越えたものとみなされる。医療の診断体系からは精神病様状態とされる「フリドゥブル」(フリムン)は、与那国の住民にとっ
ても明らかに異常とみなされるが、抑うつ状態、酒精中毒傾向、痴呆状態などは狂気とみなされないというのである。正常で
はないが、しかし排除されることもなく、家族・地域に受容されてしまうのである。だが、医療の浸透や近代化の波及にとも
なって、それらもいずれ問題視され、
“医者ゴト”だとして認知され、地域から医療施設へ移される。
すなわち、与那国の狂気観が精神医学体系の狂気観に近づいていくことになろうと久場は予想したの
でした30)31)。
現代においても、小児神経科や児童精神科領域で、ときに旧型文化と新型文化との葛藤や拮抗が起こ
ります。現在の日本における子どもの心(精神)については、かつての「オッチョコチョイ」「片づか
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年報 第26号(2008)
ない、見つからない、間に合わない」32)などが「注意欠陥多動性障害」というように“医者ゴト”とな
っていく傾向が窺われます。
10.時代にそぐわなければ奇人変人
早早暁は1971年に放映されたNHKテレビによる人気番組『天下御免』(図9)のシナリオ集の「あと
がき」で次のように書いています。
たとえばあなたが江戸時代に投げこまれて生きていくことになったら、あなたはそれを喜劇と思うか、それとも悲劇と感じ
るだろうか。江戸時代の中にあっては、あなたは断然目ざめた人である。断然自由な人である。だから当然、自由に目ざめた
暮らしをはじめようとするのだが、どっこい士農工商、切り捨て御免、女は三界に家なくて、男女は7歳で同席せず、主君の
ためならニコニコ死んで、親のためなら身売りもしましょ―これではとっても生きてはいけない。つまり大悲劇。さて、われ
らが平賀源内は、早く生れすぎた人である。ずいぶん奇人変人といわれたけれど、本人は至極当然、当たりまえなので、時代
のほうが遅れていたにすぎない。つまり源内は、江戸時代に生きる、あなたや私たちなのである33)。
〔図9〕1971∼72年にNHKで放映(連続46回)された痛快時代劇『天下御免』[早坂,1985]
S.スビルバーグ製作総指揮で、R.ゼメキス監督・脚本による、M.J.フォックス主演のSFコ
メディ映画に『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(図10)という作品がありました。時代は1985
年。現代の高校生である主人公のマーティ(M.J.フォックス)は、車型のタイム・マシンで、自分
の両親が高校生だった1955年に行ってしまいます。同じアメリカの同じ地域なのに、時代が僅か30
年遡っただけで、数々のカルチャー・ショックに見舞われ、しまい
には「変わった子ね」「イカレてる。あんな子を産んだら勘当だ」
などと、やがて本当にこのマーティを産むことになる高校生の娘(将
来マーティの母親となる女性)は、その両親(将来マーティの祖父
母となる人々)から言われてしまいます。
文化のシステムは時代とともに変容します。ですから、子どもた
ちは心(精神)を柔軟にその文化システムに適合させていくことが、
ことに現代の社会・文化では速いスピードで求められてしまいま
す。被養育環境上の問題(環境剥脱・文化不利益)や発達障害など何
らかの事情により柔軟に社会や文化に自己を合わせていくことがう
まくできない子どもたちにとって、現代は精神的に結構つらい時代
かもしれません。
〔図10〕同一地域でも文化は歴史的に変化し
ていくようすが理解できる秀逸な映画
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社会的・歴史的・文化的な状況の文脈における子どもの心(精神)と発達
11.エスノメソドロジー
子どもが母親に対して「いまなんじっ?」を何度も繰り返した事例を、南博文34)は、社会学者H.ガ
ーフィンケルが創始したエスノメソドロジーという文脈から報告しています。
子:「いまなんじっ?」
、母:「7時15分」
、子:「いまなんじっ?」
、母:「7時15分」
、子:「いまなんじっ?」
、母:「し・
ち・じ・じゅう・ご・ふ・ん」、子:
「いまなんじっ?」、母:
「さっき言ったでしょ」、子:
「いまなんじっ?」、母:
「7時16分」。
H.ガーフィンケル35)は、学生たちに自分の知人もしくは友人と日常的な会話をし、その相手(被験
者)が用いた平凡な言葉の意味を明確にしてくれと、その相手に言い張るように命令してみました。
事例1 被験者は車の相乗り仲間である実験者に、前日、仕事に行こうとしたら車のタイヤがパンクしていたと話した。(被
験者)タイヤがパンクしてぺちゃんこだ。(実験者)タイヤがぺちゃんこだってどういうことだ?
被験者は、一瞬、呆然とし
たが、憎らしげに「どういうことって、どういうことなんだ。ぺちゃんこはぺちゃんこだよ。ただそれだけのことだ。何も特
別なことじゃない。なんて馬鹿なこと聞くんだ!」と言い返した。
なお、ガーフィンケルのエスノメソドロジーを日本で広く有名にしたのは、中沢新一(1983)の『チ
ベットのモーツァルト』
(せりか書房)でした(図11)
。60年代のはじめカリフォルニア大学ロスアンジ
ェルス校のキャンパスでは「ガーフィンケルする(ガーフィンケる)」のが流行になり、「ガーフィンケ
ルする(ガーフィンケる)」人類学科の学生を皮肉る小話を、リチャード・ド・ミルの「エスノメソドロ
ジーの寓意:荒野でガーフィンケリング」から引用していると、中沢は書いています。
「私、試験にしくじっちゃったみたい」
「しくじった?」
「そう、中間試験にね」
「しくじった、って言ったけど、それどうい
う意味なの?」「中間試験の出来がひどけりゃ、しくじったって言うでしょう」「それ、もっと説明してくれない?」
「あなた、
試験にしくじるってのがどういう意味か知らないとでもいうの」「いま君が言った“あなた”って、どういうことなのかよくわ
からないんだけど」「私が別にみんながそう言っているような意味で“あなた”って言っただけよ」「それ、どういうこと」「あ
なた、何か変なものでも食べたんじゃない」「いま君の言った“食べる”って、どういうこと?」「頭きちゅうわね。いったい
どういうつもりでこんなバカな質問してるの」「いま君が言った“バカ”って、どういうこと?」“
「 バカ”って言うのはねえ
“あなた”みたいな人のことを言うのよ。いいかげんにしてちょうだい」36)
南博文37)は述べています。
私は、エスノメソドロジー的な世界へのかかわり方は…社会化の途上にある子どもたちによって実践されている文化学習の
様式の一つである、と考えている。3歳前後の子どもは、大人にとっては当たり前の物や事柄について、「あれは何」「どうし
て」という問をくりかえして、大人を悩ませる。あるいは、大人には考えられない物の使い方をしたり、大人の流儀からする
とおかしなふるまいを行なって大人のひんしゅくを買う。このような子どもたちの“小さな逸脱”は、大人によって運用され
〔図11〕エスノメソドロジーという社会学を日本で有名にした宗教学者の中沢新一による文献[中沢,1983]
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る社会文化的な生活世界の内容や手続きを、子どもなりに理解するための手だてであると考えることができる。子どもたちは、
大人のしないことをすることによって、大人から禁止、制止、注意、説明といった何らかの反応を引き起こしている。こうし
て、普段は顕在化しないエスノメソッド(文化を共有する人々が日常の当たり前の世界を編成し解釈する“仕方”)が開示され
るという点で、小さな逸脱は貴重な学習の機会を提供しているのではないか。
私たちも、子どもの心(精神)の発達を、「エスノメソドロジー」の視点からも見直してみると、新
たなる発見があるかもしれません。
12.認知的な過程と社会的な過程
筆者が経験した事例もひとつ紹介しましょう。知的な障害はないのですが小児の脳梗塞で片麻痺のあ
る幼児と母親が児童相談所に来談しました。外来通院している肢体不自由児施設(第三次療育圏の中核
的施設)の小児科医からは「情緒・社会性の発達を促す発達支援センター」への通園を勧められたので
すが、同じ施設の理学療法士からは「運動の発達を促す肢体不自由児通園施設」への入所を勧められて
しまったというのです。障害の相談が得意でなかった担当児童福祉司は困ってしまい「話の成り行きで
母親がどちらかに決めてくれさえすればそれでいい」という態度でしたが、後述する波多野誼余夫の主
張に触れていた心理判定員(筆者)は、児が患側(麻痺側)を殆ど使用していない状況等から、母子通
園センターという共同体(コミュニティ)ではなく肢体不自由児通園施設における共同体(コミュニテ
ィ)の文化をこの母子が経験した上で、幼稚園・保育所の活用へと繋げていくのがよいのではないかと
考えました。そこで、心理判定員よりも肢体不自由相談に専門性を有する施設(第二次療育圏の地域療
育センター)のコーディネーターや作業療法士に相談していだくことにして、家庭訪問による指導と助
言を依頼した結果、保護者は肢体不自由児通園施設を選択し、そこでの単なる運動面の技術的なトレー
ニングだけにとどまらないさまざまな肢体不自由児療育にかかわる共同体(コミュニティ)の文化に触
れて大きく成長したのでした。結果的に保護者は発達支援センターではなく肢体不自由児通園施設のほ
うに通い、最後は「本当に良かった」との思いを抱いて、児を健常児集団の活用へと移行させることが
できたのでした。
波多野誼余夫は『文化心理学入門』の中で、次のように書いています。
熟達化は認知的な過程であるとともに社会的な過程でもあると考えなくてはならない。筆者(波多野)らが行った珠算の名
手についての研究なども反省をこめて振り返るなら、社会的側面を無視した一例ということになる。珠算の熟達化の認知的な
研究として、彼らがいかにして速くかつ正確に計算することができるようになるのか、いかにして頭の中のソロバンが形成さ
れるのか、そしてその桁数が増えていくのか、といったことを問題にしたのだが、同時にこういったひどく骨の折れる、しか
も時間のかかる練習を繰り返しているうちに、彼らが珠算競技者の共同体に深く参加していくという様相があることは明らか
である。彼らの人間関係も、協議会や競技者組織におけるさまざまな行政的・事務的な会合を通じて、しだいに共同体の内部
の人とのものが多くなっていくであろう。もちろん、彼らは自分の愛好する珠算の意義を深く信じているし、そうした道に進
もうとする人があれば、できるだけ手助けしたいと思うだろう。こういった共同体内での地位の変化や、それを反映する個人
の価値観や社会関係における変化などは、今まで熟達化の研究の中で十分に扱われてこなかった側面である38)。
子どもの心(精神)の発達は、知覚心理学よりは認知心理学的に、さらに文化心理学的にもみていき
たいものです。
13.文化的営みとしての発達
もうひとつ、今度は筆者の子育てにおける事例を紹介します。観察対象児は筆者の次女です。
◆2歳0か月:手を洗っている最中に「シッコ」と告げてきたのでトイレに連れて行き、再び手洗いをさせようとすると「コ
ノアイダ、アラッタデチョ」と怒る(「サッキ、アラッタデショ」と言いたかったらしい)。◆お雛様を見て合掌の動作をして
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社会的・歴史的・文化的な状況の文脈における子どもの心(精神)と発達
いた。◆母親の誕生ケーキのロウソクに火を点ける傍から吹き消してくれる。◆父親がお雛様を指差して「これなあに?」と
たずねると「ホトケサマ」とのこと。◆2歳11か月:絵本の読み聞かせで「少しきついが似合うかな?」と訊くと「ニアウクナ
イ」と言う。◆3歳0か月:温水プールのことを「オンセンプール」と表現する。◆3歳4か月:幼稚園の先生に教えられた通り
「アトフタツネタラ、ウンドウカイナンダヨ」と言っている。翌朝、父親が「あと、ひとつ寝たら運動会だね」と告げても、
「チ
ガウ、フタツネタラダヨ」と言い張る。◆3歳5か月:父親のノドボトケを見て「タンコブ」と命名。◆「アンタガタ、ドコサ、
キンギョサ、キンギョドコサ、クマノコサ…」と歌っていた。◆「ザブトン」を「ザブフトン」と言うようになる。◆「クマ
ノコドコサ、閻魔サ、閻魔ヤマニハ…」と歌う。◆3歳6か月:知らない人が家に来て「お母さんが病気だからおいで」と言わ
れたらその人と一緒に行ってもいいのかな?→「ダメ」。じゃあ、お父さんが病気だって言われたら?→「イイヨ」(よくわか
っていない)。◆夜間に開園する動物園のイベントに行くこととなった。長女「カイチュウ電灯、持っていかないの?」→父親
「持っていかないよ」→次女「ダッテ、カイジュウ、イナイモンネ」。◆3歳7か月:ベーキングパウダーが「ベーキングパンダ
ー」となる。◆3歳9か月:保育士から「先生のお話を聞かない子は劇には出られないんだからね。お遊戯になっちゃうんだか
らね」と言われ、「モウ、センセイノオハナシ、キカナイモン」と言い出す(お遊戯が大好きなので、お遊戯に出たかった)。
◆3歳11か月:ピンセットを見て「ハッピーセット(マクドナルドの子ども用ハンバーガーセットのこと)」
、冬祭りのヨサコイ
を見て「ドスコイ」と言う。◆4歳2か月:それまで「2コ」と言っていたのを「フタ個」と言い出す。◆4歳3か月:こめかみを
指差して「ツメカミ」と表現。◆北風小僧の寒太郎を「キタカゼ、ドジョウノ…」と歌っていた。◆4歳7か月:紙に鉛筆でマ
ークを書いて二つ折りしたクジを作ったから引けと言う。しかし、そこは幼い子どものやることなので、裏が透けて見え、大
人にはアタリか否かが本当はすぐにわかってしまう代物であった。試しに父親がわざと1度目も、2度目も、ハズレのクジを引
いては大袈裟に泣き真似をし、「今度こそ絶対にアタリを引くからね∼」と言いながらやはり3度目もハズレを引いて見せたと
ころ、一瞬とても困った表情を浮かべたが、すぐに笑顔を作り、
「アタリダヨー」と嘘をついた39)。
例えば、最後のエピソード(4歳7か月時)については、相手に配慮する子どもの心(精神)が感じら
れます。また、言語的な誤りについては、日本語文化に固有の、「文法規則の過大般化(過度の拡張)」
などの現象も見て取れます。
14.考 察
先行研究を紹介する中で例としてあげてきた中央アジアの農夫、クペレ族の長老、ユカタン半島の人
々、ケンタッキー州の辺地の子どもたち、与那国島民、スキーヤー、船乗り、裁縫婦たちそれぞれが、
もしも彼らや彼女らと同じ時代、社会、文化を生きる人々を対象とした知能テストの問題を考案したと
したらどうでしょう。そのテストを筆者が受けた場合、どのテストにおいても、精神遅滞(知的障害)
と判定される気がします。
下位検査の結果が認知処理過程(同時処理・継次処理)と習得度という尺度から構成されるカウフマ
ン法(式)のK-ABC心理・教育アセスメントバッテリーに対して、フランスのA.ビネーによるビネ
ー法(式)の影響を受けつつもWPPSI,WISC,WAISなど独自の知能検査を創案したアメリカのD.ウェク
スラーによるウェクスラー法(式)の知能検査の下位検査は、言語性検査と動作性検査に分かれていま
す(図12)
。そこでもしも、言語性検査に江島の「フナグチ」が入っていたら、動作性検査に江島の「ア
ワビカケ」や「デエコンカケ」が入っていたら、また、ITPA言語学習能力診断検査40)の下位検査『絵
さがし(Visual Closure)』
(紛らわしい絵の中から見本と同じ事物をたくさん探して見つけ出す課題)
に(図13)、江島の海底地図から隠れたアワビを探し出す課題(図7の右下のようなもの)や、
『文の構
成(Grammatical Closure)』(検査者が子どもに聞こえにくい個所のある文の録音テープを再生して聞
かせ、その中の歪んでいる部分に適した抑揚のことばを言わせる課題。例「運動会です。ヨーイ○○(ド
ン)」「先生さようなら。みなさん○○○○○(サヨウナラ)」など)に東北弁や関西弁、琉球方言によ
るものなどが入っていたら、筆者はできが悪いという結果を得るでしょう。
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〔図12〕中田英寿(サッカー選手)の言語性IQは126、動作性IQは124であったという[中田,1998]41)
〔図13〕「魚がこちらに沢山隠れています。できるだけ早くみつけて下さい」と教示する[上野ほか,1992]
あるいは、マッカーシー尺度の日本版であるマッカーシー知的能力検査(認知能力診断検査)42)には、
赤・青・黄の丸・三角・四角を分類させる「概念のグルーピング」という下位検査(図14)がありましたが、
その代わりに、ボディの子ども達が行う石片の色・模様でカテゴリーに分類していく課題が入っていた
ら(図3)、あるいはさまざまな雪を見せられてイヌイット(エスキモー)のように一つ一つに違う名前
をつけていかなければならない課題が入っていたら(図6)、筆者は発達に障害があるという結果を得る
ものと思われます。
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社会的・歴史的・文化的な状況の文脈における子どもの心(精神)と発達
〔図14〕概念のグルーピング課題(大きさ・色・形・違う・似ているなどの概念を問う)[マッカーシー,1977]
現在の私たちは近代の「学校」という一つの文化的な装置としてのインスティテューションズ(施設
・制度)におけるやりかたに慣れ親しんでいるため、「質問者がもともと正しい答えを知っている」と
いうことにも、「実際に見てもいないのに三段論法から結論が出せる」ことにも、「かえってわかりにく
い卑近な応用問題に喩えて質問されても惑わされずに100−50や10−6の答を出す」ことにも、違和感が
なくなってしまっています。そんな私たちが、もしかつての時代の中央アジアの僻村やリベリアのクペ
レ族の地域・文化の中に投げ込まれて生きていくことになったとしたら、平賀源内(山口崇)やマーテ
ィ(M.J.フォックス)のように、私たちもそこでは奇人変人となるに違いありません。
「西洋医療」という文化に人々が慣れ親しむと、実は昔から伝統的にあったかもしれない「落ち着き
のなさ」や「不器用さ」や「発達のアンバランス」といった症状を、“医者ゴト”だと認知して地域か
ら排除し、「注意欠陥多動性障害」「発達性協調運動障害」「学習障害」などの診断をしてくれる小児神
経科学や児童精神医学の専門病院や施設へ移そうとしてしまう人43)も出てきてしまいます(医療で扱わ
れていなかったことが医療で扱われるようになっていくことは「医療化」と呼ばれています 44))
。しか
....
し、病名を増やして西洋医療の領域だけを肥大させ、行き過ぎてしまうのは、本当は好ましいことでは
ないのかもしれません。
社会化・文化化の途上にある子ども達については、かつてH.ガーフィンケルが学生達にさせたような
エスノメソドロジー的な小さな逸脱を、社会的・歴史的・文化的な状況という文脈の中でたびたび繰り
返しつつ、多くのことを学んでいるということにも留意しておきましょう。
子どものたち心(精神)は、社会的・歴史的・文化的な状況の文脈において、失敗しながらも発達し、
やがて(一般に自閉症児には難しいとされる)「心の理論」の発達状況を調べるのに有効として注目さ
れた「スマーティーズ(日本でいうならマーブルチョコ)課題(図15)」や「サリーとアンの実験(図16)
」
などに不合格となることもなくなります45)。「お塩とれる?」→「とれるよ」ではなく46)、語用論的曖
昧性(「そこに朝刊がありますか」という表現では、たんに朝刊の存在を確認しているだけなのか、朝
刊を取ってくれという依頼なのか曖昧です47))にもかかわらず、「時計をお持ちですか?」という間接
要求には「今3時20分です」
(図17)などと答えられるようになっていくのです48)。
村田孝次(1990)は『児童発達心理学』の中で、子どもの言語的コミュニケーションの発達について
次のように述べています。
たとえば、「ドアは閉まっているの?」という文は、多くの場合、単なる疑問表現の文ではなく、行為を要求するための一種
の行為であり、批判的な行為なのである。それは、〈ドアは閉まっている〉ことの確認の行為であるよりも、〈ドアを閉めなさ
い!〉という命令行為であったり、〈ドアを閉め忘れてはダメよ〉というたしなめの行為であることが少なくないのである。発
話のこの種の意図を理解する能力─発話の表面的な意味関係の裏側にある意味の理解─は、きわめて早期に獲得される(Shatz,
1978)。2歳児は、“Is the door shut?”(ドアは閉まっているの?)という母親の間接命令に対して正しく反応する。表面的
な意味に反応すれば、
“Yes.(はい)
”または“No.(いいえ)
”であるが、そうはいわないでドアを閉めにいった。49)
− 57 −
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〔図15〕スマーティーズ課題[フリス,1991]
年報 第26号(2008)
〔図16〕サリーとアンの実験[フリス,1991]
〔図17〕語用論的曖昧性があるとされる間接要求にも対応できるようになっていく[フリス,1991;波多野,1988]
J.ブルーナー(1990)は『意味の復権:フォークサイコロジーに向けて』という文化心理学について
書かれた本において、次のように述べました。
社会学や人類学において「エスノメソドロジー」のような学説としてその姿を表してきている新しい対人交渉的文脈主義や、
その他の発展、この動きは、人間の行為は内部から外へという形式では―つまり、精神内部の素質、性格特性、学習能力、動
機等によってのみでは―十分かつ、適切に説明はできないという見解であった。行為は、それを説明するにあたっては行為を
状況の中に位置づけること、つまり行為を文化的世界とつながるものとして考えることを求めている。人が構成している現実
は、社会的現実であり、それは他者と折衝し、他者との間に分散されている現実であった。…文化的心理学のプログラムは、
生物学や物質的資源のみならず、文化と歴史をどのように反映しているのかを示すべきである。文化心理学は必然的に、文化
− 58 −
社会的・歴史的・文化的な状況の文脈における子どもの心(精神)と発達
や歴史の研究者たちに役立っている解釈という道具を使うことになる。生物学的にせよ、また他のしかたによるにせよ、人間
というものを「説明し得る」ただ一つのものなどないのである。結局、人間の境遇についてのいかなる強力な因果的説明であ
っても、人間文化を構成している象徴的世界の光に照らして解釈されるのでない限り、それが納得のいく理解をもたらすこと
はできないのである50)。
子どもは、大人の社会文化的な流儀や文脈からすると状況的に可笑しな行為をよく行いますが、それ
は社会文化的学習(社会化・文化化)の貴重な機会ともなっています(図18∼21)。J.レイヴ流に言え
ば、実践における認知(cognition in practice)、日常生活における心(精神)・数学・文化(mind,
mathematics and culture in everyday life)であり51)、J.レイヴとE.ウェンガー(1991)流に言えば、
学習の流れ(context)への正統的周辺参加(legitimate peripheral participation)による状況に埋
め込まれた学習(situated learning)ということなのでしょう52)。
このように、子どもの心(精神)と発達を社会的・歴史的・文化的な状況の文脈から捉え直してみる
と、子どもにかかわることや実際の子育てはもっと面白く意味深いものになるのではないでしょうか。
〔図19〕1歳4か月時の逸話[糸田,未発表]
〔図18〕1歳2か月時の逸話[糸田,未発表]
〔図20〕1歳8か月時の逸話[糸田,未発表]
〔図21〕1歳10か月時の逸話[糸田,未発表]
− 59 −
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15.おわりに
子どもの心(精神)と発達を、西欧中心の普遍的発達観からだけでなく、文化コミュニティや文化実
践の文脈状況から理解しようとする試みは、とてもリアリティやアクチュアリティのあるアプローチで
あると思います。
こうした知見の紹介や解説を授業で増やしてみましたところ、授業の終りに受講生たちが記述してく
れる「気づき・学び・感想」の用紙から、予期しなかった副次的効果もあったことに気がつきました。
ひとつは、筆者の授業に対する学生からの評価が向上し、若干授業改善に繋がったということです。
というのも、それまでの西欧中心の普遍的発達観を教科書的に説明していくだけの授業よりも、文化的
営みとしての発達について触れる割合の高い授業のほうが、学生たちにとっては子どもの心(精神)と
発達などについてより身近に考えることができ、より知的好奇心をもって授業に臨むことができたよう
でした。
もうひとつは、児童学科以外の学生にみられることのある「私は子どもが嫌いです」53)「子どもは欲
しくありません」というような意識を少し変えることができたのではないかということです。現代の日
本社会は、子育てを大変だと感じさせ、子どもへの虐待等から子どもの反社会的行動・非社会的行動を
生みやすい、子どもを一生懸命育てても安定就労させられそうにない、そんな不安を抱かせる社会であ
るとされています。こうした社会状況下では、誕生後の子育て支援施策をいくら充実させても、まずは
子どもを生み育てたいという意識それ自体から喚起されなければ、現在の少子化問題を根本的に解消し
ていくことは困難かと思われます。もしも多くの学校において、
「子ども心(精神)の発達って面白い」
「私も我が子が発達していく姿をみてみたい」と思えるような文化心理学的な子どもの発達心理学の授
業や演習を効果的に展開していくことができれば、「将将、私も子育てがしてみたい」という若者たち
を今よりは増やしていけるのかもしれません54)。
[註]
『文化的営みとしての発達:個人、世代、コミュニティ』新曜社,pp.1-2,
1) ロゴフ,B.(當眞千賀子訳)
2006
2) 安倍淳吉「心理学研究法」北村晴朗・安倍淳吉・黒田正典
『心理学研究法』誠信書房,pp.464-486,1969
3) クラインマン,A.(大橋英寿ほか訳)『臨床人類学:文化のなかの病者と治療者』弘文堂,pp.8-26,
1992
4) ワーチ,J.V.(田島信元ほか訳)『心の声:媒介された行為への社会文化的アプローチ』福村出版,
pp.33-36,1995
5) バターワース,G.とハリス,M.『発達心理学の基本を学ぶ:人間発達の生物学的・文化的基盤』ミネ
ルヴァ書房,pp.3-295,1997
6) 例えば、エンゲストローム,Y.(山住・松下・白百草・保坂・庄井・手取・高橋訳)『拡張による学
習:活動理論からのアプローチ』新曜社,1999 など
7) コール,M.(天野清訳)
『文化心理学:発達・認知・活動への文化-歴史的アプローチ』新曜社,pp.
16-190,2002
8) バトラー,Gとマクマナス,F.(山中康裕訳)『一冊でわかる 心理学』岩波書店,p.115,2003
9) ベンソン,N.C.(清水佳苗・大前泰彦訳)『マンガ 心理学入門:現代心理学の全体像が見える』講
談社,p.169,2001
− 60 −
社会的・歴史的・文化的な状況の文脈における子どもの心(精神)と発達
10)
ブラウン,C.ほか(南博監訳・星野命訳)
『図説・現代の心理学1:パーソナリティ』講談社,pp.
118-119,1976
11)
ロゴフ,B.(上掲書)による解説が理解しやすいので引用します。
「ヴィゴツキーによると、個人
の営為は、その人がどのような活動に取り組んでいるのか、どのような機関の一員であるのかとい
うことと切り離すことはできません。ヴィゴツキーは、子どもたちは、発達の最近接領域において
より高い技能を持つ他者とかかわり合うことを通して、文化が提供する思考の道具の使い方を学ぶ
と主張しました。発達の最近接領域における他者とのかかわり合いの中では、自分ひとりでは参加
できないような活動に参加することができます」
12)
ルリヤ,A.R.(森岡修一訳)『認識の史的発達』明治図書,pp.155-156,1976
13)
コール,M.とスクリブナー,S. (若井邦夫訳)
『文化と思考:認知心理学的考察』サイエンス社,
pp.233-234,1982
14)
コール,M.(天野清訳)『文化心理学:発達・認知・活動への文化-歴史的アプローチ』新曜社,
pp.114-115,2002
15)
市川みさこ『しあわせさん②』小学館,pp.10-12,1977
16)
滝沢武久『子どもの思考力』岩波書店,pp.23-24,1984
17)
福井勝義『認識と文化:色と模様の民族誌』東京大学出版会,はしがき,1991
18)
鈴木孝夫『日本語と外国語』岩波新書,p.40,1990
19)
サピア,E.(安藤貞雄訳)『言語:ことばの研究序説』岩波書店,pp.422,1998の解説で安藤は
「サピアの思想を語るとき、いわゆる“サピア-ウォーフの仮説”についてひと言触れておく必要
があるだろう。この用語は、ひとの思考様式はその言語習慣によって規定されるというもので、サ
ピアとその弟子のJ・B・ウォーフの著作に共通に見られる仮説を指すものとして、J・B・キャロル
が用いたもので、キャロルはまた「言語相対論」という用語も使用している」と書いています。
20)
ウォーフ,B.L.(池上嘉彦訳)『言語・思考・現実』講談社,pp.159-160,1993
21)
レイコフ,G.(池上嘉彦ほか訳)『認知意味論』紀伊国屋書店,pp.375-376,1993
22)
大江篤志「伝統漁撈の再編:アワビ漁の現在」大橋英寿編『フィールド社会心理学』放送大学教
育振興会,pp.182-200,2004
23)
大江篤志「伝統漁撈をめぐる社会化(下・2)
」
『東北文化研究所紀要』第22号,pp.249-250,1990
24)
大江篤志「伝統漁撈をめぐる社会化(中)
」『東北文化研究所紀要』第19号,p.235,1987
25)
樹村みのり「菜の花」『ポケットの中の季節①』小学館,p.62.1976
26)
平成18年に朝日ソノラマコミック文庫から出版された『菜の花畑のむこうとこちら』では、何ら
かの事情により、ツノのはえた小鳥の絵が塗りつぶされてしまっています。理由が知りたいところ
です。
27)
波多野誼余夫「子どもの思考・おとなの思考」高橋恵子・波多野誼余夫『生涯発達の心理学』岩
波書店,pp.115-117,1990
28)
安倍淳吉『社会心理学』共立出版,pp.248-250,1956
29)
久場政博「フリドゥブルとカンブリ:与那国の狂気観」荻野恒一編『文化と精神病理』弘文堂,
pp.167-194,1978
30)
大橋英寿編『社会心理学特論:人格・社会・文化のクロスロード』日本放送出版協会,pp.159
-160,2002
31)
大橋英寿・細江達郎編『改訂版 社会心理学特論:発達・臨床との接点を求めて』日本放送出版
協会,pp.208-209,2005
− 61 −
名寄市立大学・市立名寄短期大学
32)
道北地域研究所
年報 第26号(2008)
ワイス,L.(ニキ・リンコ訳)『片づかない! 見つからない! 間に合わない!』WAVE出版,2001
の標題です。
33)
早坂暁『天下御免』大和書房,p.352,1985
34)
南博文「エスノメソドロジー」浜田澄美男編『別冊発達20発達の理論:明日への系譜』ミネルヴ
ァ書房,p.150,1996
35)
ガーフィンケル,H.「日常活動の基盤:当たり前を見る」サーサス,G.・ガーフィンケル,H.・サ
ックス,H.・シェグロフ,E.(北澤裕・西阪仰訳)
『日常性の解剖学:知と会話』マルジュ社,pp.41
-42,1989
36)
中沢新一『チベットのモーツァルト』せりか書房,pp.20-21,1983
37)
南博文「エスノ・環境・エコロジー:生活世界の発達科学をめざして」無藤隆編『別冊発達15.現代
発達心理学入門』ミネルヴァ書房,p.244,1993
38)
波多野誼余夫・高橋惠子『文化心理学入門』岩波書店,pp.50-51,1997
39)
一般に「嘘」は悪いこととされています。しかし、ロベルト・ベニーニ監督・主演のイタリア映
画『ライフ・イズ・ビューティフル』を観ると、過酷な状況下での父親の「嘘」が、家族や息子を
救うこともあることがわかります。
40)
旭出学園教育研究所(上野一彦ほか)『ITPA言語学習能力診断検査手引:1993年改訂版』日
本文化科学社,pp.47-65,1992
41)
中田英寿編『アッカ!!:ヒデとNAKATAの全記録(新潮45九月号別冊)』新潮社,p.127,1998
42)
小田信夫・茂木茂八・池川三郎・杉村健『マッカーシー知能発達検査手引(1981年修正版)
』日
本文化科学社,pp.137-140,1977
43)
例えば2005年の韓国映画、チョン・ユンチョル監督の『マラソン』(アミューズソフトエンタテ
イメント)の中にもそのことを扱ったシーンを見出すことが出来ます。なお、原作手記は朴美景著
・蓮池薫訳『走れ、ヒョンジン!』ランダムハウス講談社,2005
44)
それに対して、それまで医療によって病気として考えられたり、治療対象として取り扱われてき
たものが、医療の対象からはずされる現象は「脱医療化」と呼ばれる(医療人類学研究会『文化現
象としての医療:
「医と時代」を読み解くキーワード集』メディカ出版,p.70,1992)。
45)
現在、パソコンを使って容易に「心の理論」が評価できる便利なアニメーション版「心の理論」
CD−ROMが市販されています。小池敏英(監)・藤野博(著)『心の理論課題ver.2』(DIK教育
出版)では、サリーとアン課題、スマーティー課題、ストレンジ・ストーリー課題、妨害と欺き課
題、ジョンとメリー課題について簡単にアセスメントすることができるようになっています。ただ
し、森永良子・東洋監『心の理論課題検査:幼児・児童社会認知発達テスト』(文教資料協会)の
ように標準化された検査にはなっていません。
46)
フリス,U.(冨田真紀・清水康夫訳)『自閉症の謎を解き明かす』東京書籍,p.209,1991
47)
橋本良明「あいまい性」中島義明ほか編『心理学辞典』有斐閣,p.5,1999
48)
波多野誼余夫『知力をさぐる:認知科学からのアプローチ』日本放送出版協会,p.129,1988
49)
村田孝次『児童発達心理学』培風館,pp.178-179,1990
50)
ブルーナー,J.(岡本夏木ほか訳)
『意味の復権:フォークサイコロジーに向けて』ミネルヴァ書
房,p.148及びpp.195-196,1999
51)
レイヴ,J.(無藤・山下・中野・中村訳)
『日常生活の認知行動:ひとは日常生活でどう計算し、
実践するか』新曜社,1995
52)
レイヴ,J.とウェンガー,E.(佐伯胖訳)『状況に埋め込まれた学習:正統的周辺参加』産業図書,
− 62 −
社会的・歴史的・文化的な状況の文脈における子どもの心(精神)と発達
pp.1-20,1993
53)
バーナム,R.の曲に秋元康が詩をつけ、伊武雅刀が歌った『子供達を責めないで』の歌いだしの
フレーズでもあります。この歌の歌詞は「私は子供が嫌いです、子供は幼稚で、礼儀知らずで、気
分屋で、前向きな姿勢と、無いものねだり、心変わりと、出来心で生きている、甘やかすとつけあ
がり、放ったらかすと悪のりする、オジンだ、入れ歯だ、カツラだと、はっきり口に出して人をは
やしたてる無神経さ、私ははっきりいって“絶壁”です、努力のそぶりも見せない、忍耐のかけら
もない、人生の深みも、渋みも、何にも持っていない、そのくせ、下から見上げるようなあの態度、
火事の時は足でまとい、離婚の時は悩みの種、いつも一家の問題児、そんな御荷物みたいな、そん
な宅急便みたいな、そんな子供が嫌いだ、私は思うのです、この世の中から子供がひとりも、いな
くなってくれたらと、大人だけの世の中ならどんなによいことでしょう、私は子供に生まれないで
よかったと、胸をなで下ろしています、私は子供が嫌いだ、ウン! 子供が世の中のために何かし
てくれたことが、あるでしょうか、いいえ、子供は常に私達、おとなの足を引っぱる、だけです、
身勝ってで、“足が臭い” ハンバーグ、エビフライ、カニしゅうまい、コーラ、赤いウィンナー、
カレーライス、スパゲティナポリタン、好きなものしか食べたがらない、嫌いな物にはフタをする、
泣けばすむと思っている所がズルイ、何でも食う子供も嫌いだ、スクスクと背ばかり高くなり、定
職もなくブラブラしやがって、逃げ足が速く、いつも強いものにつく、あの世間体を気にする目が
いやだ、あの計算高い物欲しそうな目がいやだ、目が不愉快だ、何が天真爛漫だ、何が無邪気だ、
何が星目がちな、つぶらな瞳だ、そんな子供のために、私達おとなは、何もする必要はありません
よ、第一私達おとながそうやったところで、ひとりでもお礼を言う子供がいますか、これだけ子供
がいながら、ひとりとして、感謝する子供なんていないでしょう、だったらいいじゃないですか、
それならそれで、けっこうだ、ありがとう、ネ、私達おとなだけで、せつな的に生きましょう、ネ、
子供はきらいだ、子供は大嫌いだ、離せ、俺はおとなだぞ、誰が何といおうと私は子供が嫌いだ、
私は本当に子供が嫌いだ」というものでした。
54)
授業終了後には、「授業を受けたことによって自分の今までの考え方が変化した。特に変化した
ところは、“子供”に興味が持てたことである。いままで私の周りに子供がいなかったので、あま
り触れ合う機会など無く、子供が好き、子供を産みたい、などという願望もまったく無かった。し
かも最近は虐待や親の離婚などで悲しい思いをする子供が増加しているので、そんな思いをさせる
くらいなら子供は産まないほうが良いのではないか、とさえも思っていた。しかし、授業を受ける
うちに、だんだんと子供が可愛く思えてきた。私が抱いていたイメージがだんだんと変わり、最終
的には子供を産むのも悪くないのかなと思えるようなった(スズキマイコ)」「先生の講義の後は必
ず子供が欲しくなり、自分が親になったらこうしようなど将来の夢が膨らむばかりでした(オダカ
イクミ)」などの感想が寄せられたのでした。
− 63 −