ドストエフスキー 「罪と罰」

ドストエフスキー
上巻
「罪と罰」
1
ドストエフスキーは、小説家の使命として人間の典型を描こうとする。その描き方には、次のよ
うなパターンが見られる。
まず一つは、その人物が何らかの事態に直面したときに、そこからその人物が何を受け止め
たか、その受け止めたものを描く、あるいは、その事態を前にして、どんな反応を示すかを描くと
いうものだ。続いて二つめは、何らかの事態に対して、その人物がどのように行動を起こすか、と
いうところを描く。それから三つめは、これが一番重要だと思われるが、何らかの事態について、
その人物がどのような言表を行うか、というところを描くのである。
ドストエフスキーにおいては、人間の人物像がもっとも分かり易く現れるのが、その人物が長
々と演説をぶち上げたときである。思考の表明、彼が持っている思想だけでを意味するのではな
くて、その思考の揺れ動きまでも含めての思考の表明において、彼の人間的な特徴は、隅々ま
で照らし出される。
「罪と罰」という作品は、ミステリーのスタイルを借りて、この人間の典型を描こうとしているよう
だ。犯罪が、人間性のどのような局面から生み出されてくるものか、どのような社会的背景を持
っているのか、その辺りを描きあげようというのではないか。
p63「しかし、ラスコーリニコフの今の気持としては、このほうがかえって居心地よかった。彼は、
こ う ら
それこそ亀が甲羅にもぐるように、いっさいの人間ときっぱり縁を切っていたし、彼の世話をする
む し ず
きまりになっていてときたま部屋をのぞいていく女中の顔を見てさえ、癇癪が破裂し虫酸が走る
ほどだったからだ。何かひとつことを思いつめた偏執狂に、よくこういう症状が見られるものであ
る。」
ラスコーリニコフは、社会的に未熟な青年である。この人間関係を構築するという点での未熟
さは、「私」の主体性の未成熟と「あなた」という他者存在との関係性の希薄さが具体的な内容で
ある。これらは社会的成熟を疎外する社会的背景によっても生み出されている。彼の狂気に似
た孤立癖は、地域社会から隔てられた都会の若者が、地域社会を成立させていた思想的情緒
的な背景から切り離されることによって、「罪と罰」の場合には、宗教的環境と倫理的規範から切
り離されることによって、ある程度の必然性を帯びて陥って行く性質ではなかったろうか。その点
で、ラスコーリニコフは、当時の青年像の典型を描いているのと言える。
p128「だめだ、おれにはもちこたえられない! 耐えられない! たとえあの計算に一点の狂
いがないとしても、この一ヵ月に決めたことが全部、真昼のように明らかで、算術のように正確だ
としても。ああ!
おれはどうせ決行しっこないんだ!」
p133「ただ自分の全存在で、自分にはもはや考える自由も意志もないということ、すべては突
然、最後的に決定されてしまったのだということを、ふいに感じたばかりだった。」
彼は、自分の内面に巣食った犯罪のイメージの前で幾度も躊躇し、その可能性を否定してい
る。彼の中には宗教的環境や倫理的規範が、まだすっかり消え去らずに生きているからである。
その彼を決定的な犯行に導いたのは、ほとんど偶然の力なのである。彼は、主体的な思想によ
って冷徹に犯行に及んだわけではない。彼の決定的な行動には、ほとんど能動性がない。
p99「そしていま母の手紙が、ふいに雷のように彼を打ったのである。明らかにいまは、問題解
は ん もん
決の困難さばかりをあげつらい、受身にまわって悩んだり、煩悶したりしているときではなく、是
が非でも何かをしなければならないときだった。それも、いまただちに、一刻も早く。」
-1-
ラスコーリニコフの犯行は、何かを決起することのできない人間が、熱病のような若々しい情
熱だけで、妄想に突き動かされて実行した犯罪である。
p149「犯罪者自身が、それもほとんどすべての犯罪者が、犯行の瞬間に、意志と判断力の一
種の喪失状態におちいり、そればかりか、判断力と慎重さがもっとも必要になるまさしくその瞬間
に、めったにない子どものような軽率さにとりつかれる。彼の確信によれば、この判断力のくもり
と意志粗相は、いわば病気のように人間を襲うもので、しだいに昂進しながら、犯罪を実行する
直前にその頂点に達し、犯行時とその後しばらくの間、もちろん個人差はあるが、そのままの形
でつづく、そしてその後で、ちょうど病気と同じ経過をとって、きえていく、というのである。」
上巻
2
ラスコーリニコフの犯行は、ほとんどこの彼が考えたまずい犯罪者のイメージを辿りながら進
行する。彼の場合は、本物の熱病だったが、それでも曲がりなりにも遂行できたのは、無数の偶
然が重なったからに過ぎない。彼は、もっとも価値あるものを手にすることすらなかった。更に彼
は奪った金目の物は、みんな捨ててしまった。彼の犯罪は、どんな利益も生まない行為だった。
目的ある行為としては最悪の例である。
この彼の未熟さは、彼の内奥の発露である。
p15「それに青年の心は、敵意にも似た軽蔑にこりかたまっていたから、根が潔癖なほうで、とき
には少年くさいくらいの彼…」
こうある通りだ。彼の心を支えているのは、周囲の人びとから自分を引き剝がそうとする「軽
蔑」であり「自尊心」だけなのだが、そこにはどんな根拠もない。彼はただ単に世の中で失敗して
いるだけなのだ。その負債を、彼は「敵意」によって返済しようとする。この世の中から離脱してゆ
こうとする動きは、彼の「世界」が「わたくし」の内奥に、落ち窪むようにして形成されつつあること
を物語っている。
P209「彼の心はだしぬけに、それほどまでうつろなものになってしまったのである。せつない、
無限の孤独と疎外の暗い感覚が、不意にまざまざと意識にのぼってきた。…いま彼の身に起こ
りつつあったのは、彼にとってまったく未知の、新しい、思いがけぬ、ついぞこれまでに例のない
ことであった。頭で理解したというのではなかったが、彼は明確に、全感覚をつらぬくほどの力で
感じとったのだった
― 。……いや、たとえ相手が警察署の警部ふぜいではなく、彼と血を分
けあった兄弟姉妹であっても、今後、生涯のいかなるときにも、彼らに話しかける理由はまったく
失われてしまった、ということをである。いま、この瞬間まで、彼は一度としてこんな奇怪な、恐ろ
しい感覚を経験したことはなかった。そして、何よりもやりきれなかったのは、これが意識とか、観
念とかいうよりも、むしろ感覚であったこと、直接的な感覚、これまでの生涯に彼が体験した感覚
のうちでも、もっとも苦しい感覚であったことである。」
この「無限の孤独と疎外の暗い感覚」こそが、「わたくしの世界」の存在の実感ではないだろう
か。この「世界」は言葉によっては決して表明されることがない。この「世界」は飽くまでも「感覚」
としてだけ、「全感覚をつらぬくほどの力で感じ」とることができるものなのである。その理由は、
この「世界」が、言葉によって共有される「世界」ではないからである。この「世界」は利己的であ
る。未成熟さの印象から決して逃れることのない「世界」である。そうであるのは、この「世界」に
は「他者」が入り込むことが不可能だからだ。
p324「もしどこか高い岩壁の上で、それも、やっと二本の足で立てるくらいの狭い場所で、絶壁
と、大洋と、永遠の闇と、永遠の孤独と、永遠の嵐に囲まれて生きなければならないとしても、そ
-2-
して、一アルシン(約七十センチ)四方の場所に一生涯、千年も万年も、永久に立ちつづけなけ
ればならないとしても、それでも、いま死んでしまうよりは、そうやって生きたほうがいい、というん
だった。…なんという真実だろう!
ああ、なんという真実の声だろう!
人間は卑劣な存在
だ! だが、だからといって、人間を卑劣と呼ぶやつも、やはり卑劣なんだ」
し ん き ろ う
p388「『もうたくさんだ!』彼は勝ちほこったようにきっぱりと言いきった。『蜃気楼なんか消えて
失せろ、まぼろしの恐怖も、幻影も失せやがれ……人生がある! だっておれはいま、たしかに
生きていたじゃないか?
おれの人生は、あの老いぼれ婆アといっしょに死んじまったわけじゃ
ないんだ!』」
p384「にわかに押しよせてきたあふれるような力強い生命感が、彼の体をその隅々までも、あ
る新しい、おおらかな感覚で満たしていたのである。この感覚は、死刑を宣告されたものが、ふ
いに思いがけなく特赦を言いわたされたときの感覚に似ていたかもしれない。」
マルメラードフの家族と関わることにより、ラスコーリニコフは「生」の可能性に気づく。この発見
は、彼の治癒の可能性そのものだ。
何からの治癒か?
それは、「私たちの世界」からこぼれ落ちた状態に甘んじて、そのような
生を正当化し、そのような生のみを唯一の可能性である、と信じなければならない状況からの治
癒だ。再び「私たちの世界」の中へと戻ってくる可能性が生まれたのである。生きていたい、とい
う心の叫びが、「私たちの世界」を呼ぶのだ。
しかし、この後も、彼はその道筋をまっしぐらに突き進もうとはしない。彼はなおも、「私たちの
世界」の出口そのものを生きているからだ。
中巻
3
p49「ぼくはロジオンと知りあって一年半になりますが、陰気で、気むずかしくて、傲慢で、気位の
高い男ですね。最近は(ことによると、ずっと前からかもしれませんが)、疑り深くなって、ヒポコン
デリー気味です。心の大きい、親切な男なんだが、自分の感情を人に話すのはきらいで、言葉で
心を語るくらいなら、むしろ冷酷な仕打ちをしかねませんよ。と言っても、ときにはまるでヒポコン
デリーじゃなくなって、ただ冷淡で、人間らしさが感じられないほど無感動になることもある。まる
で相反したふたつの性格が交替に現われてくるみたいなんですね。ときには恐ろしく無口になり
ます!
いつも暇がない、邪魔するな、と言うのが口癖のくせに、その実は、ごろごろしてばかり
いて何もしない。皮肉は言わないけれど、それも機知が欠けているからじゃなくて、そんなくだら
んことにつぶす時間の持ちあわせはないといったふうなんですよ。人の言うことは半分までしか
聞かない。何にせよ、その時点でみなが関心を持つことには背を向けてしまう。自分を恐ろしく買
いかぶっていますがね、まんざら根拠がないわけでもないんです。」(ラズミーヒン→ラスコーリニ
コフ)
このラズミーヒンのラスコーリニコフ評は大変に的確だ。何処にも隠されたところがないほど
だ。本来、人間の持つ性質の大半は隠されている。人間の性質は、もともと言語化されない領域
に、茫漠と広がっているというのが事実であると思われる。ドストエフスキーは、人間の典型を描
くという目的の下に、個々の人間の性質を、その全体を覆うような型に納めて描いているのであ
る。ラズミーヒンの観察眼は、だからこの作者の超越者の視線によって可能になっていると言え
る。
さて、この言語化されたラスコーリニコフの人物像は、明らかに「私たちの世界」からこぼれ落
ちてゆこうとする人間の後ろ姿を描ききっている。気位の高さ、自分の感情を話したがらないとこ
-3-
ろ、無感動、人の言葉を軽んじて熱心に聞かない、共感の拒絶、これらの兆候はすべて、ラスコ
ーリニコフが、己の孤立した世界の至上性に魅了されてしまい、己を相対化する共有世界から、
周囲の様々な関係性を切断することによって離脱しようと藻掻いていることを物語る。
ひ
p83「もっとも、どうしてぼくはあのとき、彼女に惹かれたのかなたぶん病気ばかりしていたから
なんだろう……彼女がそのうえ、びっこかせむしだったら、ぼくはもっと彼女が好きになっていた
な……」
ラスコーリニコフが共有世界から離脱してゆく契機として、過去の恋愛も微かながら目印とな
る。彼女は世の中から数歩遅れがちな女性だ。「びっこでせむしだったら」もっとその遊離は強調
されていただろう。ラスコーリニコフは、劣ることによって離れることを意図しているわけではな
い。だから、この昔の恋愛は、ほんの僅かな暗示を与えるに過ぎない。彼自身、その恋愛を今や
冷淡に眺めることしかできないのだ。ただ、既にそのころから、彼は世の中から離脱することへの
欲望を育てていた、ということは間違いないだろう。
p144「リキュルゴス、ソロン、マホメット、ナポレオンといった人たちにいたる人類の法の制定者
たちはですね、みながみな、ひとりの例外もなく犯罪者であった。というのは、彼らは新しい法を
与えることによって、社会において神聖なものとされてきた父祖伝来の古い法を破ったわけで、
そのことだけからもそう言えるわけなんです。それに彼らは、言うまでもないことだけれど、流血も
辞さなかった。」(ラスコーリニコフの思想)
ヽ
ヽ
ヽ
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p145「つまり、その根本思想というのは、人間は自然の法則によって、大別して二つの部類に
分けられる、ひとつは低級な(凡人の)部類で、自分の同類を生殖する以外なんの役にもたたな
ヽ
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ヽ
ヽ
ヽ
い、いわば材料にしかすぎない部類と、もうひとつは、自分の環境の中で新しい言葉を発する天
賦の才というか能力を持っている人間です。」(ラスコーリニコフの思想)
p145「第一の部類、つまり材料となる部類は、だいたいにおいて、その本性から言って保守的
で、行儀正しい人たちで、服従を旨として生き、また服従するのが好きな人たちです。…第二の
部類は、常に法の枠をふみ越える人たちで、それぞれの能力に応じて、破壊者ないしはその傾
きを持っています。…彼らの大多数は、さまざまな声明を発して、よりよき未来のために現在を破
壊することを要求します。」(ラスコーリニコフの思想)
このラスコーリニコフの思想は、彼が己の利己的な「わたくしの世界」を言語化しようとした成
果である。
この思想に於いては、まず「わたくし」の前にある「世界」の至上性が直感的に存在する。この
直感は、歴史の中から汲み取られているように見えるが、実際には歴史的事実は、単に己の直
感を補佐するために都合良く諸々の事実を捨象されて、入念に形骸化された上で掴み取られて
いるにすぎない。
歴史上の人物たちは立法者として活躍しつつ、私たちの世界の間で他者と渡り合ったのだ。
成功と苦悩との間で揺れながら、他者から大きな支えを俟って、かろうじて世界に足跡を遺すこ
とが出来たのだと言ってよい。この陰翳の部分は捨象されて、ラスコーリニコフの思想は、輝かし
い至上性のみが取り上げられ、前面に打ち出されている。
この単純化が、人類の2分割にも直接的に波及している。この思想は、見たくない領域に眼を
閉ざしているから、極めて脆弱な思想だと言って良い。この弱さもまた、「わたくしの世界」の特徴
である。
中巻
4
それではなぜ、そのような思想に囚われてしまったのか。一つには、共有世界の困難さに太刀
-4-
打ちが出来なかったラスコーリニコフの精神的な弱さを考えなければならないだろう。しかし、そ
れ以上に、「わたくしの世界」の至上性の誘惑が執拗かつ充分に強いということも、念頭に置い
ておく必要があるように思う。あの過去の恋愛の対象である女性に対して、病弱である以上に
「びっこでせむしだったら」という条件が加算されるのは暗示的である。このネガティヴなイメージ
が付加してくるのは、ラスコーリニコフの世界が、現実の共有世界に対して引け目の感覚を持っ
ているからではないだろうか。
この共有世界によって圧倒されたような感じ、己の至上性が、失墜し、何の役にも立たなくなる
有様に愕然とする感じが、次の暴力の肯定という荒々しい復讐劇を用意するのではないだろう
か。
ヽ
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ヽ
p152「いまの話のなかで、本当に独創的なこと、本当にきみひとりに属していることと言えば、
ヽ
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恐ろしいことだが、それはきみが究極において、良心に照らして流血を許している点なんだな。
」(ラズミーヒン→ラスコーリニコフの思想)
この荒々しい逆襲に対して、共有世界は二通りの対応をしてみせる。一つはポルフィーリイの
それだ。
p348「ポルフィーリイは一目で彼の弱点をにぎり、確実に見抜いてしまった。そしていくぶん強
引すぎたきらいはあるにせよ、ほとんどあやまたず行動してのけたのだ。」
諧謔によってラスコーリニコフのささくれだった攻撃的な神経を受け流して、その上で畳みかけ
るように罠を張り巡りし、ラスコーリニコフの行為を露わにし、これを目に見える形にしてみせよう
とする。取り分け、ラスコーリニコフ自身の眼に明らかにしようとする。この点がポルフィーリイの
意図の重要な点だろう。ポルフィーリイは、ラスコーリニコフと敢えて敵対しようとしない。飽くまで
もラスコーリニコフ自身の行為を本人の眼にみせて、彼の内面に人々と共有出来る倫理的意識
を目覚めさせたいと願う。これが、共有世界の穏健で執拗な、異物の取り込み方なのだろう。罰
することではなくて、共有すること、その一点に戦略的な目標を置く。
ところがまさにこの点が、ラスコーリニコフの気に入らない点なのだ。他者と価値観を共有する
ためには、価値の序列の間に自分を位置づけなければならない。しかし、それを拒絶したところ
に初めて、彼が信奉する世界の至上性は感取出来るのである。この感覚は、全能感とも言い換
えることが出来るだろう。おそらくかなりの数の犯罪者に共通する感覚ではないだろうか。この利
己的な至上性の感覚は、麻薬のように人を魅了する。絶対的な幸福感を瞬時に味わうことを可
能にしてくれる。ジョルジュ・バタイユが、信仰者のエクスタシーとして分類した感覚と同じではな
いか。
p175「おれは早いとこふみ越えたかった……おれは人間を殺したんじゃなくて、主義を殺したん
だ!
ところが主義は殺したが、ふみ越えることはけっきょくできなくて、こちら側にとり残された
……できたのは、殺すことだけだった。いや、それさえちゃんとはできなかったらしい…………お
れは〈〈全人類の幸福〉〉まで待っていたりはできない。おれ自身が生の充実を味わいたいんだ、
でなけりゃ、生きていないほうがましなくらいだ。」(ラスコーリニコフの感覚)
己の行為は目に見えるものとなってきた。けれどもまだ、彼は他者の前に立つことが出来な
い。まだ自分の生を相対化することが出来ない。彼の前にはまだ誰もいないかのようである。
共有世界の二つめの試みがソーニャの実践だ。
p99「とても美人とはいえない顔だった。そのかわり彼女の空色の目は実に美しく澄んでいて、
それが生気をおびると、顔の表情が実にやさしく無邪気になって、思わず見とれずにいられない
ほどだった。…十八歳だというのに、彼女は年よりもずっと若く、まだほんの少女のように、いや、
ほとんど子供のように見え、それが何かの動作のはしばしに滑稽なくらい顔を出すのである。」
-5-
(ソーニャ)
ソーニャは子どものイメージで登場する。子どもであると同時に汚れた存在、つまり共有世界
の最底辺に価値付けられた人物だ。
p276「どうしてきみのなかには、それほどの汚辱といやしさが、まるで正反対の、神聖な感情と
同居していられるんだ?」
ソーニャの人物像の重要な点は、彼女が最底辺の人間でありながらも、同時に崇高な価値を
実践しうる存在であるということではないだろうか。彼女の存在は、共有世界の価値の序列が転
覆する可能性を暗示する。事実、共有世界の価値秩序は固定的ではない。それはいつでも変動
し得る。少なくとも、それを見る個々の眼によって、価値の序列は変動可能だ。ソーニャが創り出
している空気の流動性は、ラスコーリニコフにとって、あるいは彼の治癒にとって、必要不可欠な
要素ではないかと思われる。この変質可能性が、ラスコーリニコフの異質な世界を撥ね付けるこ
となく、少なくともラスコーリニコフ本人に拒絶を感じさせないままに、彼の世界に接近することを
可能にしているのだ。
p281「『ユロージヴァヤ(聖痴愚)だ!
ユロージヴァヤなんだ!』」(ラスコーリニコフ→ソーニ
ャ)
当初、ラスコーリニコフはソーニャを、もう一人の孤立した人間である、と勘違いした。この錯覚
は、ソーニャの持つ流動性が、彼の共有世界に対する先入観の中で、共有世界とは異質な世界
を生きる者、と感じさせたのである。
本文の注より ユロージヴァヤ(聖痴愚) 本来は苦行僧の一種で、信仰のために肉親や世間
とのつながりを絶ち、常識や礼儀をさえわきまえぬ狂人、痴愚をよそおって、真実の神の言葉を
説いた者を言うが、ロシアでは、このユロージヴィへの信仰が他のどの国にもまして民間に広く
普及していた。いくぶん神がかった狂人や白痴をこの名で呼んで、神のお使いとして大切にした
風習もあった。
下巻
5
p130「頭と精神が強固で力のあるものが、やつらの支配者になるんだとね! 多くのことを思
いきってやる人間が、やつらの間では正しいということになる。より多くのものに唾を吐きかけら
れるものが、やつらの間では立法者になる。だれよりも思いきってやれるものが、だれよりも正し
いんだ!」(ラスコーリニコフ)
ラスコーリニコフのこの世界に対する印象は、「わたくしの世界」の脆弱さから生み出された幻
想である。私たちの世界では、関係性の中であらゆるルールが決定されて行く。決して孤独者の
暴力が、世界を牛耳るわけではない。そう見えるのは、ある特定の人物が、立法を象徴するから
に過ぎない。その視野は、あくまで遠くから、細部を知らないままに判断されたものに過ぎない。
とりわけ、私たちの世界が、孤独でか弱い「わたくし」に与えた圧倒的な存在感が背景にあるよう
に思われる。
この怖ろしい世界は、彼にとっては、己を至上のものとして君臨させること無しに拘わることの
不可能な世界である。彼は、その中に入って行く事は出来なかったのだ。だから、「わたくしの世
界」の視野が必要だった。彼は観念的に生きようとしたのである。彼の中では、人間もまた観念
になった。
中巻p146「第一の部類はつねに現在の主人であり、第二の部類は ―
-6-
未来の主人です。前
者は世界を維持し、それを数的にふやして行く。後者は世界を動かし、それを目的へ導いて行
く。そのどちらも完全に平等な存在権を持っている。」(ラスコーリニコフの思想)
この観念性をソーニャは打ち破るのである。
p228「彼にはソーニャが恐ろしかった。ソーニャは彼にとって、仮借ない判決であり、動かせな
い決定であった。」
ソーニャが与える恐怖は、人間を彼の世界の中の観念から救い出し、他者として彼の前に存
在させることから生まれる。それはそのまま、ラスコーリニコフ自身に、「わたくし」から「私」へと変
身することを要請するだろう。ラスコーリニコフの生を沈黙へと押しやり、関係性の中で新しい存
在を獲得することを要請するだろう。
p178「だが問題は、ここ何日か、ほとんどいつもひとりでいるくせに、どうしても彼には、自分が
ひとりだという実感がわかない点だった。…さびしい場所へ行けば行くほど、かえって強くだれか
が身近にいるような不安な意識をそそられる。」
p349「おれにそれだけの値打ちがないのだとしたら、どうして彼らはおれをこんなに愛するんだ
ろう!
ああ、もしおれがひとりぼっちで、だれからも愛されることがなかったら、おれだってけっ
ヽ
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してだれも愛しはしなかったろうに! こんなことは何もなかったろうに! それにしてもおもしろ
いな、いったいこれからの十五年か二十年のうちにおれの魂がそんなにも従順になって、何かひ
とこと言うたびに自分を強盗呼ばわりして、みなの前で神妙に泣いて見せたりするようになるの
かな?
そうだ、そのとおり、そのとおり!
そのためにこそ、やつらはおれを流刑にしようと言
うんじゃないか、それがやつらに必要なんじゃないか…」
彼の逡巡は、彼がそこに留まろうと努めてきた世界の崩壊を物語る。
彼は至上性を獲得し得るはずだったのに、それに失敗した。その点で、彼は既に彼自身の孤
独な世界の中から踏み外しているのである。
しかしまた一方で、妹や母親、ラズミーヒンそしてソーニャたちは、彼を放っては置かなかった。
彼らは皆、ラスコーリニコフの言動に、明らかな人間性の影を見出しているからである。彼自身
気付かぬうちに、既に関係性の世界を生きているのである。それほど関係性を生きるという面
は、人間にとって本質的な生き方なのだということだ。結局人は、観念的にしか、「わたくしの世
界」を生きようとすることは出来ないのだろう。それは本当に文学的な生だ、と言って良いのかも
しれない。
下巻
6
いずれにせよ、ラスコーリニコフは、愛という温かい関係性に囚われて、既に生きている。
そうして、己の罪を認めて罰を受けるということは、関係性の世界の最底辺に、己の居場所を
定められるということだ。それは、至上性に固執してきた彼の生き方からすれば、最低の没落を
意味する。まるでマルメラードフの家族と同じか、それ以下の場所に身を沈めることを意味する。
この没落は、この時まだ彼にとっては屈辱なのだ。
確かに私たちの世界には、価値の序列が存在する。至上性にこだわる孤独な魂にとって、こ
の序列はどんな場合でも屈辱にしかならないだろう。その序列の頂点に居ない限り、いや、頂点
を超え続けるのでない限り、屈辱以外の意味を持たないだろう。
けれども、関係性の世界には、価値の序列以外に幸福の姿が有り得る。そのことをラスコーリ
ニコフはまだ知らない。
p357「ああ、おれもなんて堕落したものだ! ちがう、おれには彼女の涙が必要だったんだ、彼
-7-
女のおびえるさまを見ることが必要だったんだ、彼女の心が痛み、さいなまれるのを見ること
が!
のだ!
何にでもいいからすがりついて、あの時をおくらせることが、人間を見ることが必要だった
そんなおれが、ああまで思いあがり、うぬぼれたり、よくもできたものだ。おれは乞食
さ、くだらない人間さ、卑劣漢だ、卑劣漢だ!」
p359「ふいにソーニャの言葉が思いだされた。『十字路へ行って、みなにお辞儀をして、大地に
接吻なさい。あなたは大地にたいしても罪を犯したのです。それから世界じゅうに聞こえるように
言いなさい、私は人殺しです!
と』この言葉を思いだしたとたん、彼の全身はがたがたとふる
えだした。」
ソーニャの前で、あるいは人々の前で、ラスコーリニコフは己の失墜を受け止めなければなら
ない。天空の高みから地上に堕ちること、その痛みに耐えなければならない。そして、それが堕
落ではないという事に気づく必要がある。観念から、他者による「私」の発見、他者が「私」を見つ
めてくれる、その目差しにより生が、唯一無二の存在感を獲得するという、その感覚に目覚める
必要がある。
この痛みに耐える日々は、獄中の生活の中で続く。
p388「彼はソーニャにたいしてさえ自分を恥じ、そのためにかえって粗暴な、軽蔑的な態度をと
って彼女を苦しめた。」
ヽ
ヽ
p389「彼はきびしく自分を裁きはしたが、彼の激した良心は、だれにでもありがちなただの失敗
以外、自身の過去にとりたてて恐ろしい罪をひとつとして見出すことができなかった。」
ひどい熱病の後、ようやくその日が訪れる。
P398「目がさめて、なんの気もなく窓辺に行ってみると、ふと、遠い病院の門のあたりにソーニ
ャの姿を見かけた。彼女はそこにたたずんで、何かを待っているふうだった。その瞬間、何かが
彼の心を刺しつらぬいたように思えた。彼はびくりとふるえて、いそいで窓辺をはなれた。」
この後、ソーニャも病気になる。そのことの不安が一層ラスコーリニコフの治癒を促しただろう。
p401「ふたりを復活させたのは愛だった。おたがいの心に、もうひとつの心にとっての尽きること
のない生の泉が秘められていたのだ。」
p402「いまの彼には、何ひとつ意識的に解決することだってできなかっただろう。彼はただ感じ
ただけだった。思弁の代わりに生活が登場したのだ。意識のなかでも、まったく別の何かが作り
あげられなければならないはずだった。」
ドストエフスキーは、このラストでは、共有世界の上でラスコーリニコフが生きてゆくであろうこ
とを暗示したかったのだろう。それは飽くまでもそれだけのことであって、彼がその後「幸福」にな
れるかどうかは、別問題だ。勿論、関係性=他者の目差しが、幸福の淵源となることもあり得る。
共有世界を生きているという実感は、私たちに多くの安心を与えてくれるからだ。
ただ「罪と罰」は、ロマンティックな小説ではない。そういう甘さが、この作品のラストでは最小
限に削り落とされているようだ。
それにしても、「愛」とは、ずいぶんと重い課題を課したものだ。
というのも「愛」は成らぬ努力を為す中で積み上げられ、育てられて行くものだからだ。それは
寧ろ「幸福」には直結しない営みではないだろうか。「愛」が「幸福」と結びつくのは、「愛」を成立さ
せている全ての細部、全ての奮闘、全ての戦いの記録が削り落とされ、許され、忘却された後で
はないかという気がしてならない。
騎士道における「Love」が、既にそのような禁欲的な営みであったはずだ。それはいつも手前
に留まり、決して「幸福」そのものと結びつこうとはしないものだ、と思えるのである。
この発想は、人間生活に対するペシミズムに犯されているだろうか?
-8-
書きながら少々居心
地が悪い。
いずれにせよ、ドストエフスキーが、ラスコーリニコフとソーニャの関係を恋愛関係として描か
なかったこと、それを「愛」にまで進ませている点は、この作品の厳しさの表現なのである
ところで村上春樹の「1973年のピンボール」の中にはこんな一節がある。
p40『「でもね、世の中には百二十万くらいの対立する考え方があるんだ。いや、もっと沢山かも
しれない」/「殆んど誰とも友だちになんかなれないってこと?」と209。/「多分ね」と僕。「殆ん
ど誰とも友だちになんかなれない」/それが僕の一九七〇年代におけるライフ・スタイルであっ
た。ドストエフスキーが予言し、僕が固めた。』(僕と双子)
これは全然間違った認識ではないだろうか。
-9-