暁 部隊の殉難―ナゾの上陸部隊のゆくえ

暁 部隊の殉難―ナゾの上陸部隊のゆくえ
浦河では、名前が有名な割にその実態がよく判らないのが、この「暁 部隊」である。兵はす べて
本州出身者の上陸用舟艇(しゅうてい)部隊で、兵員もおそらく百数十名はいたのであろう。しかし、
いつからいつまで駐留し、どこへ転進しようとしていたかは明らかではない。同隊が蒙った惨害だけ
が、その遺族と浦河町民のあいだで語り伝えられている。
旭川師団の船舶工兵隊が昭和十二年から十八年六月まで駐留していたことは別項で書くが(「浦河
駐屯軍略史」の項参照)、暁部隊の駐留はそれ以後と考えられる。しかし旭川第七師団熊部隊の衛生
隊に所属した喜多建一は、十八年夏から十九年八月まで浦河に駐留したが、暁部隊のことは知らない。
また十九年七月から二十年五月まで駐留した旭川第七十七師団の騎兵連隊にいた松浦 勝は、かれら
の部隊が来る前に、総勢百名前後の暁部隊という部隊がいたことを聞いている。さらに、先年亡くなっ
た入舟町の辻 精一が暁部隊の一員だったことは、生前から本人も家族に語っているが、彼自身が書
き残した履歴書のなかには、浦河という文字も、暁部隊という文字もない。
辻 精一の妻みよによれば、精一は東京、隊長の加藤光矢中尉は神奈川の出身だったこと、数人の
兵隊が生家神山家に出入りしていたことなどを覚えているが、残念なことにそれがいつだったか覚え
ていない。高城秀顕は、十八年の夏から十九年の夏までと推測している。それは十九年五月十三日、
暁部隊が米軍の攻撃に遭い厚賀沖(?)で壊滅した事件の調査に、たまたま彼が立会ったことによる。
この事件は、作戦のため浦河を出発することになった暁部隊が、隊を二群に分けて進発。先発隊の
舟艇部隊が厚賀沖で米軍に捕促され、空襲を受けて全滅した事件である。浦河には、暁部隊玉砕!!
と伝えられた。このとき辻 精一は第二群に属して命拾いしたが、兵員の犠牲は五十名ともいわれて
いる。これが 暁部隊の殉難 と呼ばれるものである。しかし犠牲はこれだけに留まらなかった。
この事件の調査を命じられた第二群は、舟艇数隻をもって現場海域に赴き、被害状況を調査した。
この帰途、天候の状況が悪い夜間に浦河港に入港しようとして二隻が沈没した。地元の漁船ならまぬ
がれた事故だったといわれるが、港口で波待ちをせず、いきなり港内に入ろうとして波を被りこの事
故に遭った。犠牲者は十四名ほどいたと思われるが、収容された遺体は十体だった。これが暁部隊の
第二の殉難で、浦河ではこの事件のほうが人びとの記憶に残っている。 大発 と呼ばれた上陸用舟
艇は、船底が箱型になった七トンほどの船で、上陸したときこそ安定しているが、安全性を極端に無
視して速度と容量を追及した設計になっているため、水上では非常に不安定な船だった。
翌朝、事故船の引き揚げを命じられたのが、浦河の潜水夫杉田弥作と畑山政雄である。最初は弥作
一人がこの仕事を引き受けたのだが、内心気色が悪くて、畑山を仲間に引き入れたのだという。指揮
は長いサーベルを下げた佐官級の軍人が取った。岩礁の間にはさまった船を何とか平らな所へ曳き出
し、これにフックをかけて吊り上げた。すぐに遺体の捜索が行われたが、舵輪にしがみついたまま死
んだ者、ハッチの中で寝ていて溺死した者など五、 六名の遺体が発見された。
また井寒台の 国防婦人会 は、行方不明者の収容を願って迎え火を焚いた。数日後に四体の遺体
が磯に寄り上ったという。
また先述の松浦 勝は、室蘭の底曳船が航行中に拾い上げた遺体と漂着した遺体約二十体を、旧浦
河第一中学校の前浜で焼いた覚えがある。それは暁部隊のものであるといわれ、救命胴衣を着けたま
だ新しい死体だったという。これはその数から考えて、厚賀沖で沈められた舟艇の兵員であったろう。
ただこのときに遺体を焼いたことは町の人びとも知っていて、その煙が立ち昇って町のほうまでたな
びき、異臭が町中を覆ったという。
当時、昌平町や浜町の住民は近くに舟艇庫があったこともあって、大方は何らかの形で兵員たちと
接触があった。多くは兵隊が民家に立ち寄って食を乞うものであった。それも新兵や教育兵(現役
経験のない補充兵)で、昼飯用に炊いたジャガイモやカボチャを彼らに食わせた。しかし、上官に見
つかると、路上でもしたたかに殴られるのを何度も目撃している。また朝になると、国道を班ごとに
隊列を組んで軍歌を歌いながら行進してくる部隊の姿は、多くの人びとが見ているが、顔をダルマの
ようにはらした兵隊が必ず何人か混じっていて、 昨晩(ゆうべ)は随分殴られたんだべね などと、
女たちは密かに目尻を抑えて噂しあったりしたという。こんな状態であったため、染谷徳次郎という
家庭持ちの補充兵の一人が自殺する事件などもあった。以後、 隊では 新兵はたたいて育てろ、教育
兵は撫でて育てろ というのが鉄則になったのだという。
小学生や婦女子などの慰問も行われ、おはぎや握り飯をもって兵営を訪れた経験を持つ者も沢山い
る。女子青年部の若い女性なども駆り出されて、陸上に引き揚げられた舟艇の水垢や、付着した藻や
貝殻とりをした者もいる。こうしたなかで密かに恋心も芽生えて、胸を痛めた女性が幾人もいたよう
で、辻 みよの場合のように戦後結婚した者もいる。
しかし厚賀沖の襲撃により壊滅させられた暁部隊は、辻 精一の履歴書から考えれば十九年八月、
残留の兵員は各地へバラバラに配属されて、浦河における暁部隊の歴史は幕を閉じる。
[文責 高田]
【話者】
辻 みよ 浦河町入船町 大正十五年生まれ
高城 秀顕 浦河町堺町西 大正五年生まれ
喜多 建一 芽室町東 明治四十ニ年生まれ
松浦 勝 札幌市豊平区 大正八年生まれ
大石 ミエ 浦河町築地 大正十三年生まれ
杉田 弥作 浦河町大通二丁目 明治三十八年生まれ