イーユン・リー「千年の祈り」

イーユン・リー「千年の祈り」について
イーユン・リー
篠森ゆりこ訳「千年の祈り」
1
「あまりもの」
イーユン・リーの文体は、作品構造そのものとなっている。
「…道を行く。…入っている。…しるしてある。」
この繰り返される現在形の文末が、作品の構造そのものだ。
「この道を行く人は、自分の脚の向かう先がどこなのか、みなわかっているらしい。でも彼らの一
員でなくなってから、林ばあさんにはそれがどこかがよくわからない。」
生は、 正確にこの視野の上にある。現在形で進む文体は、生の実感を写し取り、作品のテ ー
マである生の本質を正確になぞろうとするものであることがわかる。それはどのような生なのか。
「彼ら」とは、私たちによって共有されている世界の方向を指している。中国が共産主義という計
画経済において挫折したとき、「林ばあさん」は、「私たちの世界」を失うのである。
リ ン メ イ
p6『その証明書には「これにより 、林梅同志が北京紅星縫製工場を名誉退職したことを証明す
る」とまばゆい金文字でしるして ある。/でも縫製工場は倒産したとも、名誉退職したにもかかわ
らず年金は支払われないとも書かれていない。』
「私たちの世界」からはもうどんな幸福もやってくることがないことを、「林ばあさん」は直感的に
知るのだ。幸福が、あたかも「私たちの世界」からやって くるように見えるのは、「私たちの世界」
の側の詐術がそう見せているのである。
ワ ン
タ ン
「林ばあさん」は「王おばさん」の紹介で、アルツハイマーの「唐じいさん」と結婚する。
「林ばあさん」は「アルツハイマー」という病気の意味も分からないのだが、「唐じいさん」の体を
洗ってやっている内にふしぎな幸福感に満たされる。
「裸の彼のひ弱さに触れ、守ってあげたい思いに満たされた。こんな気持ちははじめ てだ。そして
それからというものは、母親のようなやさしさで彼の体をいたわった。」
幸福はどこからもやってこない。「林ばあさん」の感じている幸福は、決して「唐じいさん」からや
ってきたので はない。それは「わたくし」の経験の内奥の、孤独な淵の奥底から汲み取られている
のである。事実「唐じいさん」は死ぬ直前に、「林ばあさん」を拒絶している。
スウジェン
「あんたは妻じゃない。妻は素 貞だ。素貞はどこだ」
一瞬正気を取り戻した「唐じいさん」は「林ばあさん」と風呂場で揉み合う内に、石けん水で足を
滑らせてあっけなく死んでしまう。この他者の異常な脆さも、作品冒頭の工場の倒産と連動してい
て、作品の根幹と関係を持っているのである。
作品が執拗に語るのは、人生の意味である幸福の在処が、決して 「私たちの世界」の中に見
つからないということだ。それは、現在形で淡々と進んで行く「わたくしの世界」の時間の狭間に、
孤独な泉のように垣間見られる。それは他者からはぐれてしまった「わたくし」の孤独な 経験とし
て、初めて生の上に立ち現れるのである。
p15「起床時間のベルまで 時間があるときは、学校を抜けだして山を散歩することもある。朝霧
-1-
が肌や髪をしっとりと濡らし、町では見かけない鳥たちがいっせいにさえずる。こんなとき、林ばあ
さんは自分の幸運に酔いしれてしまう。」
カ ン
p21「夜眠るとき、夢で寝言を言いながら、康は毛布の上に大の字になる。そんな彼を毛布でくる
んで、林ばあさんはいつまでも見つめている。そのうち、何かよくわからないぬくもりが胸の奥で
ふくらんでいく。これが世に言う、恋する、ということなのか。死ぬまでかたときもはなれたくない。
そんな激しい思いに、ときどき自分がこわくなる。」
カン
メ イ メ イ
康は六歳の少年だ。妾に正妻の座を奪われてしま った妻の子として 、父親から疎まれて美美
私立学校の寄宿舎に追い出された、帰るところのない少年である。彼には奇妙な性癖があって 、
女の子の洗い物の靴下を洗濯籠から盗んできて、夜、密かにベッドで頬ずりする奇癖を持ってい
る。「林ばあさん」はそれに気が付き、何とかごまかそそうとして、新しい女の子用の靴下を何足も
購入して、無くなると入れ替える、という煩瑣な工作を施すのだが、この奇癖は露見してしまう。傷
ついた康少年は、失踪事件を起こし、「林ばあさん」は責任を押しつけられて 解雇されてしまう。
軽い「旅行鞄」と「弁当箱」を持ってとぼとぼと歩く「林ばあさん」は、「旅行鞄」を雑踏の中でひっ
たくられてしまう。しかし、 彼女の幸福は「弁当箱」の中に残っている。 誰も見向きもしな い「弁当
箱」の中には、「三千元の解雇手当」と「カラフルな花柄の靴下の、まだ封を開けて いないいくつ
かの袋」が入っている。「林ばあさんの、はかな い恋物語の記念」である。そして、その「弁当箱」
こそが、彼女の幸福の象徴なので あり、それどころか人間の幸福というものの本質をも言い当て
ているのである。
私たちも私たちそれぞれの「弁当箱」を抱えて生きているはず だ。その目立つことのない「弁当
箱」の中にこそ、私たち一人一人にとって唯一無二の幸福が隠されている。それは確かにみすぼ
らしい、誰一人見向きもしないような「あまりもの」、ただの「弁当箱」で ある。しかし、もし私たち自
身が世の中の人々と同じ目で、自分の持つその「弁当箱」を見つめたとき、その時は私たちは私
たちにとって大切な人生の意味を見失ってしまうことになる。
それはいつも他者が決して触れえない、「わたくしの世界」に内奥に隠されているからである。
イーユン・リー
篠森ゆりこ訳「千年の祈り」
2
「黄昏」
p31「貝貝は二十八歳で、じきに二十九歳になる。体が大きいので、ひっくりかえしてふいてやる
ときは両親二人がかりだし、目が覚めると何時間でもわめいている。でもそんな欠点も、髪をちょ
っとなでるだけですべて忘れてしまう。」
ベ イベ イ
「貝貝」は、私達の生きにくさそのものだ。生きるという魅力的で、真に願わしいものであるはず
ものが、私達の苦悩の淵源そのもので もあるからだ。だから、私達は生きるということに対して 、
いつどん な時で も逡巡して いる。即座に離れることもできず 、かと言ってのめり込むこともできな
い。
ス ウ
生のこの両義性は至る所に表れる。「蘇夫人」の目に夫の姿がどう見えるか、すな わち彼が
フ ァン
「貝貝」に触れているところを見るたびに感じる嫉妬。「 方夫人」からかかってくる電話に対して「蘇
夫人」が感じる矛盾した感情。方氏が妻との結婚生活に対して感じて いる重荷と棄て がたい愛
情。同じひとつの決断、もうひとり子供を産もうという蘇夫妻の決断が、夫にもたらした希望と妻に
もたらした絶望。
-2-
これらは私たちの日常的な生活が持っている本質的な 姿なのだ。私たちは、日常性を単純に
受け止めて などいない。それは生きるということが、数々の矛盾と、相対性と、変遷とをすべて呑
みこみながら進行するからである。
そうならなければ私たちが生きていけないのは、私たちの生が、他者との複雑な関係性の上で
営まれているからである。関係性の上で、私たちは日常性のさまざまな価値を、変動させながら
生きるのだ。
私たちの世界における固定的な 価値は、多かれ少なかれ嘘を含んだり、背景の無理な力を含
意するということだ。
イーユン・リーはこの決定的な知見を、中国共産主義の失敗と変質の中から学び取ったのだろ
う。そして彼女は同じ事件の中から幸福の所在についての、ややニヒリスティックな見方をも学び
取ったのだ。このニヒリ ズムは、しかし言葉通りのもので はない。「私たちの世界」は、もともと幸
福を言葉やイメージとしてしか描くことが出来な いからだ。その実際の享受は、「私たちの世界」
の外に、私たち一人一人が、自分の手で触れた時に初めて立ち上るのである。だから、ニヒリ ズ
ムと言いながらも、本当は覚醒と言った方がよい。何か他の力によって都合の良い夢を見せられ
ていた人が、自分の力で夢見ることに気づいた時、自分の夢の在処に初めて気づくのである。幸
福とは、こうして初めて手に入る夢なのである。
p52「夫が近づいて きて、彼女の髪をなでる。もう白く薄くなった髪を。彼のやさしい、ひかえめな
触れ方は、二人が祖父の庭でいっしょにあそんでいた子供の頃、人生がはじまろうとして いたあ
の頃と変わらない。」
貝貝が死んだ日、その亡骸に寄り添う妻と、その妻を愛撫する夫は、再び出会った頃の二人
に戻っているようだ。人生がほぼ終わりに近づいた日、つまり二人の人生の中核にあった貝貝が
死んだ日、二人はもう一度幸福の在る処にやってくる。一つの場所、「祖父の庭」から、二人が同
時に同じ幸福を汲み上げたその日にやってくるのだ。
幸福とは、生の日常性の矛盾に満ちた、日々変遷する価値の狭間にはな い。それらから遠い
場所、人が一人一人孤独に向き合い、己の内奥に在る沈黙した世界に触れる時、まだ誰でもな
かった頃の経験に触れた時、幸福とはそのような瞬間に立ち上る香気のようなものなのだ。
イーユン・リー
篠森ゆりこ訳
「千年の祈り」
3
「不滅」
主人公は誰だろう。不滅なのは何だろう。
この作品は「私たち」の持ち続ける幻想の物語である。「私たち」がどうしたかということではな
く、「私たち」が何を物語り 、何を伝えてきたかということ、その物語の狭間で、町の英雄たちがど
のように翻弄されてきたかということを語るのが、この作品の骨子なのである。
「わたくしの世界」は、恣意的で利己的で、夢に満ちた幻想世界だ、と私は考えて きたけれど
も、この作品を読みながら、改めて「私たちの世界」だって同様に恣意的で利己的で 、夢に満ちた
もう一つ別の幻想世界なのだ、ということを思い知った。
一人の人間を一時英雄として祭り上げながら、ちょっとした出来事を境に徹底的に貶め蔑む私
たちの日頃の習いを、もう一度振り返ってみよう。そこで暴威を振るっているのは間違いなく身勝
-3-
手な幻想ではないか。
p56『男の子が十歳のとき、 皇帝が手ずから金塊をわが兄弟に賜ったと自慢する、近所の少年
たちと喧嘩をした。そのあと彼は牛小屋に行き、縄と鎌で自らの身を清めた。言い伝えによれば、
彼は血のしたたる男根を手に町を歩きとおし、あわれみの目を向ける人々に向かってさけんだと
いう。「いまに皇帝陛下の第一の側近になってやるから見ていろ!」彼の母親はそれを恥じ、息
子も孫もいない余生に絶望して、井戸に身を投げた。二十年後、彼は宮中で宦官の頂点に立ち、
二千八百名の宦官と三千二百名の侍女を監督した。』
もっとも偉大なるご先祖さまでさえも、世の中の視線の前に晒され、蔑まれ哀れまれていた。そ
の同じ視線が再び彼を崇め奉るようになるのだ。
p55「長いあいだどの王朝でも、彼らは誰より皇族に信頼されていた。皇女や側室の身辺の世話
をしたが、いやしくもみだらな欲望によって高貴な血をけがすことはなかった。」
ご先祖さまたちの偉大さは、「私たち」の物語なのである。
p55「皇太子が公式に側室を持てる御年になるまで、ご先祖さまが慰みものにされているという
根も葉もない噂や、ごくささいな不始末のせいで水に沈められたり、火で焼かれたり、棒で打たれ
たり、首をはねられたり したという痛ましい話も人の口にのぼった。で も私たちはみんな知ってい
る。こうした話はわが町の名誉を傷つけんがためのでっちあげだ。」
まさに「私たち」によって夢見られた幻想そのものであって、他のものではないのだ。
さて、若い大工の息子は、独裁者の顔を持って生まれる。
p59『若い大工である父親は、少し酔っぱらって飲み仲間に冗談を言う。「英雄母だって ?
うち
の牝豚はいっぺんに十匹産むぞ。 じゃ、 あいつもそう呼ばれたって いいよな」/これで一巻の終
わり。独裁者の人口増加政策に対する悪意に満ちた批判だとされ、大工は公開裁判のあと処刑
される。』
彼の父の若い大工は共産主義国家の敵として処刑される。この処刑も、「私たち」の身勝手な
幻想のためだ。その幻想を支えているのは、やはり「私たち」の中の一人一人が持つ利己的な幻
想である。
p58「この時点におけるメディアのス ーパース ターは独裁者だけだ。だからこの母親は、赤ん坊
が生まれるまでの十ヶ月間、独裁者の顔ばかり見ていたのである。」
貧しい母子は、 冷たい世の中の間で孤独に生きる。しかし、若者は独裁者の顔にそっくりであ
ったために、その後特型演員として 抜擢される。もちろん 父親のことは隠されて 、だ。 こうして彼
は、その人生をかけて「私たち」の幻想を支え始める。
p64「ときどき道ですれちがうと、まるで独裁者本人がいるようで、胸に熱い思いがこみあげる。こ
の時代、わが国で独裁者は宇宙以上の存在になっていた。」
p71「…わたしたちは考えはじめる。これまでずっと何を信じさせられてきたのかと。そうして一度
抱いたうたがいは、野火のように胸の中で燃えあがる。」
私たちがこの人生を生きにくく感じるのは、「わたくし」のものではない、もう一つの圧倒的な幻
想が、私たち一人一人を、猛威を振るう嵐のような大気の中に捉えて放さないからな のだ。人身
御供のように「私たち」の幻想を支え続けた青年は、「私たち」の幻想が不要になった途端に、「私
たち」の幻想から閉め出され、最早青年でさえもなくなっている。幸福は、彼の人生の上をすり抜
けてしまったのである。
-4-
それなのに、彼は、自分を失敗に導いた自分の男根を切り取ってしまう。自らを処罰したのだ。
なぜ新しい自分の人生を始めなかっただろうか。
p79「かつて苦しみの底で生まれた彼が、もうじき苦しみの底で死ぬのを見ることになる。」
p79「でもわたしたちが終わって欲しくないのは、彼の物語だ。そしてわたしたちの見るかぎり、そ
の物語は終わらない。」
だから本当は「終わらない」のは「彼の物語」ではない。終わらな いのは、「不滅」であるのは、
「わたしたち」が物語る「彼の物語」なのである。
さて、だとするならば、この作品は、どんな生に寄り添っているというのか。
青年の生は、彼自身の幸福を持たないように見える。彼はず っと独裁者の物真似としての生、
人形のような生を生きて いただけだ。その間、彼自身の生も彼自身の幸福もどこにもなかった。
彼は、事件に巻き込まれてその地位を失う直前になって、初めて自分の勘違いに気づいたのだ。
p75「これまでずっと自分の役目を勘ちがいしていたことに。偉大な男だということは、欲しいもの
を何でも持って いるということだ。 わかるのが遅すぎた。自らを責めながら、若者は立ちあがって
夜の闇へ出ていく。」
それなのに、彼は自分の失敗を自ら罰することになる。彼は生涯、自分の幸福を持たず、自分
の幸福が存在することを知りもしなかった、ということになる。
「私たち」の幻想は、多かれ少なかれ、個々の生に断念を強いるのだが、彼のケースではその
点は徹底している。その度合いは権力の大きさに比例すると言って良いのかもしれない。この青
年のケース は、「宦官」たちの「身を清める」という断念どころではない。どんな 見返りも期待でき
ないし、死後の安楽への配慮さえもない。
この作品が寄り添っているのは、遂に実現することの無かった生だ。徹底して 沈黙を強いられ
続けた生だ。しかも、巨大な 幻想のためにエネルギーの一切を供出してしまった生、言葉の正確
に意味で人身御供の生だ。つまり死ぬことで、「私たち」の幻想を支えた生である。
イーユン・リー
篠森ゆりこ訳
「千年の祈り」
4
「ネブラスカの姫君」
ボ ーシェン
p85「伯 深はごく平凡な 医師だったが、住んでいた中国の小都市で、同性愛者のため の初の電
話相談サービスをたちあげ、そのせいで 病院を出ていくよう丁重に申しわたされた。それで北京
に引っ越し、個人経営の医院で非常勤の仕事をしながら、ゲイの人権向上のために活動した。し
かし、何度か秘密警察に調査されたすえ気づいたのは、 天安門事件後のこの時期に、どんなた
ぐいでも人権のことを口にするのは危険だということだった。そこで、もっとひかえめで 実用的な
分野に行くことにし、エイズに対する人々の意識を高めようとしたが、それすら秘密警察の圧力と
家族の反対を受けて、あきらめざるをえなかった。それから二十歳年下の青年を愛し、彼の人生
を変えてやれると思ったが、結局女と結婚して彼のもとを去ったのは伯深のほうだった。」
ヤ ン
伯深が愛したのは陽という京劇の女役をする美しい青年だ。この陽こそ、伯深の人生の中で 、
「わたくしの世界」の幻想性を象徴する存在なのである。陽を中心にして、伯深の幻想は奔流の
ように渦巻いている。
ヤ ン
p86「陽を愛したのは伯深だけではない。でも青年の魂にまで触れたのはこの自分だけだ、と伯
深はずっと信じている。」
-5-
p87「数日にわたって陽を観察してから、ついに伯深は言い値をはらおうと彼に申し出た。そうし
て陽を連れて 家にもどった晩、自分の言葉に伯深は酔った。不正をなくしてもっと人にやさしい世
の中をつくる、そんな夢の仕事の話をえんえんとした。」
p88「まわりの住民に聞こえないよう、シャワーを浴びながら発声練習もした。ドアの外で、いつも
伯深は立ちつくして聞いて いた。流れる水、風呂のカーテン、ドア、なまくらなこの世のすべてを、
や いば
陽の声が銀の 刃 のように切り裂く。こんなとき伯深は、ありがたさに我をうしなった
―
この青
年の美しさに心をうばわれたのは自分だけで はないのに、その美しさを守り生かしているのは自
分なのだ。このことだけが、ありふれた期待はずれの人生を忘れさせてくれた。」
サ ーシ ヤ
同じことが薩沙の側でも起きている。薩沙は「な かなかつかまえられないタイ プの観客」p105
であったにも拘わらず、「結局はつかまってしまった」と自らを振り返る。その「わたくしの世界」
の幻想性から人々が決して逃れられないのは、それこそが人生にとって唯一の希望の源泉であ
るからなのだ。
p107「母親は生まれる時代をま ちがえ、 大人になってからはず っと暮らす場所をまちがえて い
る。それでも二人の娘を生んだことを一度も後悔しなかった。薩沙は息を殺して、赤ん坊がまた何
かを伝えようとするのを待った。アメリカはいい国だ。生まれてくる場所として正解だ。赤ん坊はタ
イミングをまちがえて しまったけれど。でもアメリカで は何だって可能なんだ。父親の美しさに恵ま
れ、しかも父親より幸せで運のいい赤ん坊を思い浮かべ、薩沙はほほえ んだ。ところがふたたび
赤ん坊が動くと、急に泣きくずれた。母親になるということは、きっとこの世でもっとも哀しくて、もっ
とも希望に満ちたことにちがいな い。一度愛しはじめたら、その底なしの愛にどこまでも落下して
いくのだから。」
では、その幻想の象徴である陽とは、どんな存在なのか。
サ ーシヤ
p90「はじめてパーティで陽に会ったとき、薩沙は鏡を見ているようだと思った。自分がうつるので
はなく、自分にはぜったいなれない人間がうつる鏡だ。薩沙の視線の先で、陽の長い指がテーブ
ルを舞う。陽自身は、テーブルをかこむ人たちの会話を上の空で聞いている。陽の爪半月は清ら
かだった。」
p92「陽が時間をかけて髪をな でつけたり、見ず知らず の人に少しで も意識されると冷たい顔を
するのを見て、虚栄心の塊だと思い、彼女は冷やかした。」
自分とはまるで違う存在である、ということと同時に、重要なのは薩沙が見抜いたように、陽は
薄っぺらなナルシストなのである。深みのない、浮遊するような存在、支えは必要だが、すべて自
分のため に必要なのであり、周りの人間はどんな 見返りもなく 自分を求め、労るべきなのだ。陽
は実質上そういう人間であると同時に、本質的に娼婦にしてお姫様なのである。そしてこのイメー
ジこそ、「わたくしの世界」のイメージそのものだ。
内面的な 厚みなど金輪際ない、浮遊する、世界。「わたくしの世界」とは、そもそもそのようなも
のだ。人生の最初期において、私たちが一人一人住んでいた「わたくしの世界」が、周囲の「私た
ちの世界」と摩擦を起こすことにより、私たちは私たちの一人となってゆき、そうして初めて深みあ
る内面性というものを育て始める。
先ほど引用したp107の場面で薩沙が受けとめる「母親になる」ということの意味には、私たち
が二重の世界で 生きることにより 獲得する内面的な深みそのものが包み込ま れているように思
われる。「もっとも哀しく て、もっ とも希望に満ちたこと」とは、私たちの生の真実を言い当てて い
-6-
る。 そこには、ほとんどこの世に存在して いないかのように浮遊する「わたくしの世界」に魅せら
れ、またその表層から、未来へとつながる希望を汲み上げつつ、同時に世の中の側から突きつ
けられる無数の制約や条件にまみれて いる「私たちの世界」を生きなければならない、人間の生
の錯綜した真実があるように思われる。
イーユン・リー
篠森ゆりこ訳
「千年の祈り」より
5
「市場の約束」
p115「この町から北京の最高学府に入った子は二人で、彼女はそのうちの一人だ。ただし町に
サンサン
トウ
もどってきたのは三三だけ。もう一人が土だった。人生のある時点で、土は三三の幼なじみで、同
級生で、恋人で、婚約者でもあったが、いまは三三より美しい女と結婚してアメリカにいる。/そし
て離婚した。でも、もう遅すぎる。十年だ。三三は借りている部屋にもどり、ベッドに座ってヒマワリ
の種を割る。シーツや床に種の殻がこぼれ落ち、たまっていくのをそのままにして。種をかむとき
頭蓋骨の内側にひびくコリコリという音と、口にひろがる独特の風味がむやみに恋しい。あまくて
ゴ ン
しょっぱくて 、ちょっとにがい。鞏氏の乾物屋が調理するとき入れる、何かの香辛料のせいだ。こ
のヒマワリの種と、大学のときに買ったイギリス小説
書棚にずらりとならんでいる ―
―
研究に一生かけてもいいような本が、
があるから、人生にも耐えられる。」
ミ ン
旻は三三の美しい友人だ。彼女は天安門広場のデモに加わり、自由の女神に祭り上げられる
が、デモの沈静化後は当局の取り調べを受けて「まともな職を得る権利を失った」。一方三三は、
卒業後はアメリカに留学する希望を持っていたが、親戚がいる学生のみにパスポートは発行され
る、 という「くだらない法律」が出来たためにその夢は潰え てしまう。そこで 旻の窮境を救いなが
ら、自分の幸せを掴むための計略として 、土と旻を偽装結婚させて、土の台湾に行った親戚をア
メリカにいることにしてアメリカに留学させる。旻が就職できたら、土は本国に帰り、三三と結婚す
る、という約束をしたのだ。
「約束」とは、本来「私」と「あなた」との間の共有された了解事項から成り立つものだ。「約束」
や「契約」は、「私たちの世界」のルールであり、「私たちの世界」を成立させる礎でさえある。しか
し、その言葉を介して 汲み上げられる幸福感は別だ。 それは、三三の内奥からしかやって 来な
い。事実、土も旻も「約束」を守ることの上に、三三が感じているほどの価値を置いてはいないの
である。
「約束」は三三の「わたくしの世界」を象徴する言葉なのだ。そこからすべて の快楽が生まれて
くる。しかし、三人の間に交わされた契約のような「約束」は、土と旻、二人の結婚生活の継続に
よって破棄されてしまった。傷ついた彼女は10年間、麻薬と文学によって辛うじて人生を耐えね
ばならなかった。
p129「十元で一回、わたしの体の好きなところを切ってよい。一回でわたしが死んだら、金はい
らない」
三三はある日、 市場で 不思議な男性に遭遇する。 自分の体を切らせてお金をもらうという男
だ。彼は物乞いではな い。三三の母親が十元をやろうとして も受け取らないのだ。彼は「約束」を
守ることによって報酬を得ようという男なのである。「約束」を守ることを日々の生の生業にしてい
る男、彼こそ三三と同じ生を生きる男であった。
p130「やっと会えた。何年さがしてもいなかった、約束とは何かを知っている人。気がおかしいと
-7-
世間は思うかもしれな いけれど、わたしたちはもう孤独じゃない。これからはずっとおたがいがい
る。これが人生の約束だ。これが醍醐味だ。」
「私たちの世界」を生きながら、人はなお「わたくしの世界」から、生きるためのエネルギーを得
るのだ。そこから、生きて いる意味や充実、幸福を取り出すので ある。それは一人で 生きている
人間もそうで あるし、二人で生きている人間も、集団で生きている人々でさえも、事情は同じなの
である。
小説文学は、「私たちの世界」を見渡しながら、様々な幸福の形を探す。一人一人の人間がそ
こから幸福を汲み取る「わたくしの世界」は千差万別だ。その「わたくし」にとって唯一の世界の発
見が小説文学の一つの役割なのである。
なぜなら、「わたくしの世界」こそ、一人一人の人間が本当に住んでいる世界であるからだ。小
説文学は、「私たち」の間で 共有されている「実在世界」の幻想性から離れようとする。そして、私
たちの一人一人が住んでいる、本物の実在世界、それこそ「わたくし」にとっての唯一の幻想世界
なのだが、その本物の実在世界を掴み取ろうとするのである。
「市場の約束」において、なぜ「約束」のイメージが主人公の幸福を象徴する言葉になったのだ
ろうか。
現代中国には、太平洋戦争直後の日本と同じような精神的な状況があったので はないだろう
か。
日本では、太平洋戦争の敗戦を巡り、日本人社会が戦前から戦時中にかけて維持していた社
会的な共通認識が、たった一日で覆されてしまうという歴史的事件があった。戦後長らくそれは
国家があるいは軍部が国民を騙し続け裏切り続けていたのだ、という認識を生んでいた。実際に
は、日本人社会の中で、私たちがそれぞれの仕方で加担しながら造り上げていた世界観=「私
たちの世界」が、様々な欺瞞や情調の偏りなどを含んでいたために、より大きな普遍性を持ち得
なかった、ということに尽きるのだと思われる。
中国の場合は共産党の独裁政権が、やはり中国人民を結局は正しく導かなかった、という歴
史的事実がある。世界的な思想的政治的な実験で あった共産主義が、やはり 様々な欺瞞や情
調の偏りを含んでいたために、普遍性の維持獲得に失敗した。その巨大な信仰の崩壊が、中国
人社会の世界観に大きな虚無を作り出したのではないか。
イーユン・リーが描く人々は、一様にニヒリスティックだ。このニヒリズムにはしかし根拠がある。
イーユン・リーのニヒリズムが語るのは、某かの社会的主体が私たちの精神世界に「約束」する
幸福は、必ずしも本質的な幸福には至らない、という認識であるからだ。私たちが共有する「私た
ちの世界」は、幸福を「約束」する能力を持たない、という認識であるからだ。
p128「世間の人たちは使用ずみのナプキンみたいに約束をすぐほうりだすことができるけれど、
わたしはそんな人間になりたくない。」
三三のこの決別は、単なる個人的な生活指針の域に留まるものではない。人間が自分の生に
対して「この人生も生きる値うちがある」と感じられるために必要な指針が、どこにあるかという暗
示をも含むからである。
イーユン・リー
篠森ゆりこ訳
「千年の祈り」より
「息子」
-8-
6
p135「共産主義を信ずるわれわれの心は、金のごとく純粋でかたい」
p143「その聖書は父親に発見され、母親に焼かれた。」
ハンは、信仰への道を共産主義と家族によって奪われてしまう。共産主義もまた、キリスト教と
同じく一神教なのである。
信仰は、幸福のため の回路を「私たちの世界」の中に埋め込んでくれる。共産党が主体となる
共産主義思想と同じく、キリス ト教の信仰も、教団によって 準備されたモ デル、個々の人間が「わ
たくしの世界」へと通底するための生のモデルを与えて くれるのだ。ハンは、そのような安価な処
方箋を手に入れ損なってしまった。
p148「でもハンは父親にならない
―
彼は、誰かの息子としてしか世間に知られることのない
自分を思う。」
ハンはゲイとして、自分のための新しい家族からも疎外された存在だ。共産主義に絶望し、信
仰の可能性を奪われ、父母の家族としてのみ生きて行くハンの生は、息子として母親の前に立っ
ているのだ。それは彼が純粋に関係性の上で生きる「私たちの世界」の住人で あり、同時に瑞々
しい「わたくしの世界」を奪われているということを物語る。
p135「たいていのことはおなじことのくりかえしだって 言ってるんだ。言葉もそうだし、信仰もね。
財布に入ってるお札みたいなもんさ。それで何でも買えるけど、 それ自体はどうって ことな いん
だ」
p151「ハンは冗談を言いたくなる。彼女の神は、息子を愛する口実をいくらで も見つけてくる中
国の親たちにそっくりだと。母親の顔を見て口をつぐんでしまう。彼女の目は熱を帯び、希望に満
ちている。ハンは目をそらさずにはいられない。」
このニヒリズム には救済がな い。母親と息子という関係性の上で のみ生きているハンの前に
は、幸福を見出すための道が見えていないのだ。ニヒリズムとは「私たちの世界」に固有の精神
的状況なのだ。私たちは、「私たち」で あろうとすればす るほど、言い換えれば「あなた」の前の
「私」を明確化しようとすればするほど、私たちの生はニヒリズムに傾くのだ。
では彼はなぜ母親のように次の信仰へと突き進めないのか。日本人が国家社会による幸福の
約束から見放された直後に、会社組織の中に己の幸福を託したように、何か代替物を見つける
ことは不可能ではない。「わたくしの世界」は、柔軟な浮遊性を持つはずだからだ。
「ハンは目をそらさずにはいられない。」
視線をそらし続けるハンは、幸福への道を本当は知っているのだ。彼は、「わたくしの世界」を
他者の力によって 潰されたのである。だから、自らの生の上で 、「わたくしの世界」が自然と沈黙
し、消えてゆく過程を経過することが出来なかった。もしそうであったなら、彼もまた、「私たちの世
界」に住みな がら、「わたくしの世界」とどこかで関わりながら、そこから己のためだけの幸福を汲
み取る生き方が出来たに違いない。
p150「いつだって母親はハンをゆ るすのだ。息子だから。そしてあきらめず にハンの魂を救おう
とつとめる。息子だから。でも、ぼくはゆるされたくもないし、救われたくもないんだ。」
彼の不幸は、聖書を焼かれたことにより、男友達に対して罪悪感を持ち、彼の前から遠ざかる
ように意図的に振る舞ったことだ。この経験が彼の中で、「わたくしの世界」との間の通底を難しく
してしまった。彼の生はこの時に一度死んだのだ。少なくともその生は立ち止まってしまった。「わ
たくしの世界」は凝固したようにその浮遊する本質から疎外される。そらされる視線が物語ってい
るのは、彼が、己の生の可能性から、 その幸福の可能性から、 今な お逸れ続けて いるというこ
-9-
と、そのことなのである。
一方、ハンの母親は、「わたくしの世界」との通底をたくましく維持し続ける。
p136「ハンがものごころついた頃から、ずっと母親は父親の言うことをオウムのようにくりかえし
ていた。」
p139「父親は、人間だろうと神だろうと誰にも母親の注意を向けさせはしなかった。」
p139「父親の死に、母親はほっとさせられたはずだ。そこでまた別の足かせをつけたりせずに、
自分なりの人生を楽しもうとすればよかったのだ。」
p144「いま とちがってた。それは命令を下すのが父さんだったからで、しかも父さんたちが崇拝
してたのは共産主義という神だったからさ。でもって父さんがいなくなると、今度はすすんで新しい
神の言いなりになってる。母さん、どうして自分の頭でものを考えないのさ」
p151「彼女の目は熱を帯び、希望に満ちている。」
ハンの批判的な意見にも拘わらず、己の生の上に幸福と希望を見出しているのは母親の方
だ。幸福とは深い確信なので ある。そして深い確信というものは冷徹な批評精神からすれば、多
かれ少なかれ欺瞞と情調の偏りに汚染されて見えるのである。しかしそれこそ、そこに「わたくし
の世界」が関わっていることの証である。そしてまた一方では「冷徹な批評精神」とは、関係性の
上にどこまでも留まりながら、「私たちの世界」の共有の可能性を偏執的に探り続けようとする精
神の病である、とも言えるのだ。
イーユン・リー
篠森ゆりこ訳
「千年の祈り」より
7
「縁組」
ビ ン
ルオ ラン
p154「炳おじさんが若蘭と母親をたずねてくるのは、若蘭の父親が出張で留守のときだ。」
う まず め
母親は、石女であることを隠して父親と結婚した。父親は、二十歳も年上の未亡人に恋をして
いて、両親はそれを忘れさせるために母親と見合いをさせて結婚させた。共に相手を騙しての結
ル オ ラン
ビ ン
婚だった。 娘の若蘭はだから養女だった。炳おじさんは、母親に恋をしてついに結婚しなかった
男で、ただ一人、夫婦の事実を父親から打ち明けられた人物だった。若蘭を養女にするときも手
助けをした。
p162「女だってことはね、それだけで病気ってことなのよ」
ビン
しかし、父親は未亡人を忘れられなかった。そのことを知った母親は寝床を出な くな る。炳おじ
さんは、父親が未亡人の所に行って いる間、母親の所にやってきて色々と世話をするようにな っ
たのだ。
p164『「ごめんよ。父さんより母さんのほうが、おまえを必要としているんだ。病気だから。」父親
はまだてのひらを見つめている。/「あたしは母さんの薬じゃないよ」父親に失望して、若蘭は胸
をつまらせた。』
今、未亡人は病気になって、 看病する人が必要になった。父親は、母親と離婚して、そのひと
の所へ行く決心をした。
ビ ン
一人ぼっちになったと感じた若蘭は、炳おじさんの元へ走る。自分を炳おじさんの元に置い
てもらおうとするのだ。
p173「若蘭は大きくなったけど、炳おじさんは年をとってきた。もう遅いよ。
」「いま
- 10 -
じゃ若蘭と母さんだけがおれの唯一の家族なんだ。どっちもうしなうわけにはいかないよ」
ビ ン
これが炳おじさんの答え だった。若蘭は、「どうして愛のため にみじめにならなければいけない
のだろう」と思う。だから、母親の元に止まり、おじさんを愛し続けるという選択をしないのだ。彼女
の結論は、二人の前から姿を消すことだった。
男たちには幸福の契機がある。父親には未亡人の存在がある。おじさんには母親の存在があ
る。しかし、女性たちにはそれが見当たらない。
母親は、夫の心を失った。子供を産み育てる歓びは始めから無い。 母親の「女だってことは
ね、それだけで病気ってことなのよ」という言葉は、幸福から疎外されている女性の社会的な生き
様を言い当てて いるように見える。このニヒリ ズムは、イーユン・リーが現代中国社会が直面した
抜き差しのならないニヒリズムを背景としているように思う。
一方若蘭は家族を失い、新たにおじさんを失う。両親の結婚は、両親の親たちの計略によるも
のだっ た。 それは、 それぞ れの子供たちの幸福を願っ てのことだったかもしれないが、両家の
「縁」はとうとう噛み合うことがなかった。二人はそれぞれの仕方で不幸になってしまう。幸福は、
誰かが用意してくれるものではない。結局、自分がこの世界の間を尋ねな がら、どこかから汲み
上げることができなければ、それは存在しないものなのだ。
そして、若蘭の父親にはその打開策があったが、母親はそれを新たに探す気力を持たなかっ
た。
その意味では、若蘭が土地を去るという選択をするのは賢明だ。彼女は少な くとも、自分の力
で幸福を探そうとし始め たのだ。自分の内奥を尋ねて おじさん の所へ走ったことも、その意味で
は正しかった。
p162「くたびれた空色の室内履きに、血の気のない骨ばった足。母親の体に嫌悪感とあわれみ
を感じて、若蘭は息が苦しくなった。若蘭の体はここ二ヶ月で変化し、胸がふくらんで妙に痛がゆ
い。ふと自分が母親のような女になることを思った。それだけはいやだ。」
ビン
気力の充実した若々しい若蘭は幸福を探す旅に出発するのだ。それは結局は「炳おじさん」の
存在のように、彼女の内奥に見つかるはず なのだが、新しい幸福の可能性に出会うためには、
彼女は自分の内奥を新たにする必要がある。新しいものは外からやってくる。新しい自分は、今
ある自分ではないところからしか生まれない。その為に彼女は時間と空間の間を彷徨わねばなら
ない。それが人生の意味だ。これからの人生というものの本質的な意味である。
イーユン・リー
篠森ゆりこ訳
「千年の祈り」より
8
「死を正しく語るには」
パン
p176「厖夫妻の家は、娘という立場からしばし解放される場所だ。そこで過ごす夏の一週間と冬
の一週間は、教師をしている母のもとで暮らさずにすむ 唯一の時間なのだ。誰かの子供でいると
いうのは、その立場からおり ることのできない難しい仕事で ある。だから子供を幸せにしようと腰
みな し ご
が曲がるほど働いている親の脇で、孤児になりたいと子供が望んでも、天は大目にみてくれる。
親のいるわたしのような子供から見ると孤児の暮らしほど幸せな生活はないように思える。」
母親から叱られ続ける「わたし」は、その関係性に疲れている子供だ。自分の生の尊厳を日々
ル オ ラン
母親から踏みにじられ続ける存在だ。「縁組」の若蘭に似ている。自分の乳母だった厖夫人の家
は、彼女にとって自分の存在が唯一救われるように思われる場所なのだ。
- 11 -
しかし、そこにもまた苦悩が溢れていた。そこでも人生はその鋭い切っ先で、人々の生活ばか
りでなく、彼らの人生の土台までも深々と抉るのだった。
人間の生の尊厳とは何だろうか。
パン
厖さんは大地主の親の脛かじりだった。勉強もできない。大学へ入学試験は頭のよい弟にすり
替わっても らい合格た。大学時代は芸術に明け暮れ、 「自分を芸術家だと思って みたり」しなが
ら、「時間とお金を浪費」するだけだった。革命後、「平等化」の為に住居のほとんどを借家人たち
いぬ
に取られ、『憎むべき地主階級の「狗の子」』として告発されて雇用関係から疎外されて しまう。彼
は毎日よく働いているのに、給料はもらえな い。文字通り 「役立たず 」になった。そうしてある日出
勤すると自分の机が無くなっていた。
p189「黙ってティーカップと一緒にゴミ箱へ行け」
これが最後に同僚たちから投げつけられた言葉だ。その日から厖さんは部屋に鶏と閉じ籠もっ
てしま う。六十三歳の時に、「わたし」の父親から出版社の非常勤の仕事を紹介されて、毎日封
筒の封を糊で 貼る作業に勤しむようになり 、十六年後、泥棒の少年に果物ナイフで 刺されて死
ぬ。
彼がこの時に盗られたのは三十三元。人民元1元は、2007年12月現在のレートでは約15.
5円なので、そのまま換算すると512円にも満たない金額だ。
日本と中国とでは物価が全く異なるので、 それを念頭にさらに換算してみると、卵一個が2007
年10月現在の日本で20円。これを指数化して100としたとき、中国、上海、北京で は0.5であ
る。【財団法人
国際金融情報センター調べ】
http://www.jcif.or.jp/PubWorldDL.php?file=14
とすれば、512円の価値は、2007年現在の日本では25600円くらいということになろうか。小
説の中の年代は不明なのだが、時間が遡ればもう少し金額は高くなる。
p198「誰だって死ぬんだ。死なんてさ、うまく話せばそうまずいジョークでもないぜ」
ソ ン
人をからかい、「死」さえ 含めて人間のすべてをジョークに還元する宋兄弟の存在は、「私たち
の世界」が私たちの生を卑小化する力を和らげるための緩衝材だ。「わたし」は彼らのことが大好
きだ。彼らは人生の苦悩を和らげる存在だからだ。 彼らに見えて いるのは、「わたくしの世界」か
らやってくるささやかな幸福の影である。
ド ウ
p193『「みんながそうじゃない」と次男が杜氏を指さす。「この杜おじさんは例外ですよ。金のため
に蘭を育てる人もいるけど、おじさんは自分の妻子だと思って育ててるんだ」』
緩衝材の彼らの存在にも拘わらず、不幸は不幸のまま留まりながら周囲の人の心に消せない
傷を負わせる。厖さんの人生のあるがままが、厖夫人や「わたし」の心をダイヤ モンドのように確
実に傷つける。
だからだ。
p191『「愛する人が生きて苦しむのを見るぐらいなら、若くして死んでもらったほうがいい」』
と言われるのは。だけれども。
p204「でも思え ばやはり、厖夫人には生きていてほしかった。いっしょに座って 、厖氏の最後の
服をたたむことができたら。その服をしまうとき、彼女がほほえんでくれたら。そうすれば、彼女が
厖氏を誇りに思っていたのがわかったろう。彼は封筒の山に埋もれながら七十九歳で自立してい
- 12 -
たし、役立つ人間だったし、自らの身をまもって気高く死んだのだから。」
役に立たないという評価、人格の否定や告発。「私たちの世界」は人々の個々の人格を貶める
ように見え る。しかし、その貶められた部分にこそ、その人の唯一性があるのだ。「わたくしの世
界」という唯一性、人生の根源がその先に隠れているのだ。そしてそのことは、その人自身か、あ
るいはその人のすぐ傍らに生きた人だけが知り得るのである。
小説文学が目指すのは、この立ち位置だ。小説文学が現実と切り結びな がら守ろうとするも
の、圧倒的な 価値を前にして それで もなお、小説世界が敢え て世俗的な価値とは別に指さそうと
するもの、それこそ、個々の人の持つ唯一性の淵源であり、尊厳の根拠であるものだ。それはそ
の人にしか明かされることのない、「わたくしの世界」という見えないダイヤモンドのような、価値な
き存在なのである。
イーユン・リー
篠森ゆりこ訳
「千年の祈り」より
9
「柿たち」
p207「この世に数あるささいな悲劇の常として、わたしらはもう何も感じなくなっている。」
「ふぬけ柿」=「軟柿子」は意気地なしを意味する。「死を正しく語るには」の本文中でそのよう
に語られて いた。ここに登場する男たちのことだ。日照り続きで 何の実りももたらさない田畑を前
にして、なおもどんな対策も試みることなく空談に明け暮れる農夫たちのことだ。彼らは干魃の日
々に「けだるい喜び」をさえ感じている。倒錯した幸福感である。
p208「この干ばつが来る前に、老大は処刑されていた。彼は春節の前日に県城(県庁所在地)
へ行き、男十四人と女三人、計十七人の人間を十七軒の家で射殺した。十六人は即死して、最
後の一人も春節の日をなかばまでしか見なかった。」
p214「わたしらが老大といっしょに貯水池にもぐって息子をさがしているときに、あの妻は農薬の
瓶を手あたりしだいに飲んでいた。たてつづけに六本飲んで、それから寝床に横たわった。」
ラ オダ ー
彼らの前には一人の英雄がいた。彼らの仲間の一人老大という男だ。彼は、貯水池を遊び場
にした裁判官たちによって、貯水池に投げ 入れられ殺された息子の復讐を果たした。自殺した妻
のためにも復讐を果たした。殺した。そうして自首し、凶悪犯として断罪され、処刑された。裁判で
は、殺された人たちは大切に扱われたが、老大の息子のことは一言も触れられなかった。老大は
「一足先に行く。向こうで待ってるぞ」「すぐに来てくれよ。あんまり待たせるな」と裁判官たちに言
い残して連れ去られてゆく。
貯水池は、 天候に左右されな い生活のため に、村人たちを動員して造られた、言わば村の生
命線である。老大は熱心に貯水池造営に取り組んだのだ。そういう場所を裁判官たちは自分た
ちの遊び 場に変え 、その場所で老大の息子を殺したのである。老大は、提案された幸福への目
標を目指して 努力した結果、自分の本当の幸福の源を失ったのだ。彼の人生は象徴的である。
「ふぬけ柿」たちは、自らの本当の幸福の源を自分のものとしていない。それに対して老大とそ
の妻は、始めから幸福がどういうものであるかということに気づいていた。「子供は一家に一人」
という一人っ子政策を前にして、娘三人と息子一人を作った。自分たちの幸福への生きた感覚を
持っていたからである。
息子と妻を失ったとき、彼の英雄的な行動力が、自分の人生の核心を奪われたという認識か
ら湧き出る。彼は自分の人生が息子を失ったとき、既に終わったと感じた。だからあの大量殺人
- 13 -
も実行できたし、堂々と死地に赴くことができたのだ。お仕着せの幸福ではなく、自分の本当の幸
福がどこにあるかということ、そのことに気が付くことが、その人間の人生をいつも輝かせるので
ある。
そして 本当の幸福はいつも、私たちの目からは隠されているのだ。本当の幸福はいつでも必
ず孤独な在り方しかしないのだ。
な ぜなら、 男たちの空談を見ていて分かるように、言葉が私たちの間で共有されるものとして
ある限り、私たちは「私たちの世界」にぼんやりと佇み続けねばならず、そこに用意された輪郭の
明瞭な、しかし「わたくし」のものではない幸福の幻影を、あたかも自分のものであるかのように受
けとめ続けるねばならないからである。深い静かな直感だけが、これを打ち崩す。老大が息子の
死を目の当たりにしたとき、どんな言葉も介することなく彼を襲ったであろう深い静かな洞察だけ
いざな
が、私たちの決して知ることのない、「私」が「わたくし」となる深い孤独な 世界へと人を 誘 うので
ある。
共産主義社会は、 幸福を社会的に作り上げることを目標とする。この時造り 上げ られる幸福
は、お仕着せのイメージ群の域を出ることはない。人々の欲望は、欲望の本質を失うことにより、
言ってみれば必然的にフェティシズム に堕するのである。結局全体主義社会は倒錯を構造的に
再生産する権力機構なのだ。 資本主義社会でも、権力やコマーシ ャリズム、メディアなどが社会
を誘導しようとするたびに、私たちは倒錯した幸福を追い求め始めるだろう。私たちはいつでも容
易に「ふぬけ柿」になることができる。何かを失う前にその何かに気が付くための哲学が私たちに
も必要なのだ。
イーユン・リー
篠森ゆりこ訳
「千年の祈り」より
10
「千年の祈り」
p225「彼としては、ものごころついてからこれまでの人生で、いまこの瞬間がいちばん幸せであ
る。 そして目の前にいる女性も幸せそうだ。理由があろうとなかろうと、彼女はすべて を愛する。
/英語で会話が進まないときがある。そういうとき彼女はペルシャ語にきりかえ、そこに少し英語
シー
をまぜて話す。石氏のほうは、彼女に向かって中国語で は話しにくい。だから十分でも二十分で
も彼女が一人で話を続け、彼はおおいにうなず いたりほほえんだりする。何を言って いるのかほ
とんどわからないが、彼女は自分と話すのがうれしいのだということは感じるし、彼のほうも彼女
の話を聞くのが、うれしい。」
「石氏」が見出している幸福とはなんだろうか。それは、人と話すことの中から汲み取られたも
のではないように見える。
かつて彼は不倫の疑いを受けたために「ロケット工学者」として の地位と希望を失った。その疑
イー ラン
いは「宜藍」という若い女性と、秘密主義の組織の中で夢中になっておしゃべりをしてしまった、と
いうことから生じたのだった。
p244「話すという何の変哲もないことに、人がどれだけとりつかれてしまうことか!」
p244「何でも話せる愛、心が触れあう愛はあった」
二人が話し合っていたのは、「自分たちが参加している歴史に希望がわき胸躍るということや、
われらが若い共産主義の母国のため に、 第一号ロケットを建造すること」だった。それらは当時
の人々が共有していた夢、幻なのだった。そしてこの夢、幻は朽ちた。共産主義が二人の夢を砕
いたのであり、次いで共産主義そのものが朽ち果ててしまった。
- 14 -
もはや話すことの中からは幸福を見出すことはできない時代になった。中国の歴史的な変質
が、中国語による世界の共有ということの意味や限界を露わにして見せたのだ。中国語しか知ら
ない父親にとって、幸福は共有ということの中にはな くなってしまった。むしろ人と共有できない領
域から汲み取るしかないのである。
「石氏」は、そのことを明白に意識することはできない。だから、イラン人の女性と公園で通じな
い対話をしている時に、その対話故に幸福を感じ取っているのだと錯覚している。事実はそうで
はなく、彼は言葉を介さない孤独の中に、幸福を見出しているのだ。言葉の共有が成り立たない
異国で、言葉を共有できない異国の女性と向き合っているからこそ、彼は幸福なのだ。
p229「アメリカは彼を新しい人間にしてくれる。ロケット工学者で、いい話し相手で 、愛情ある父
親で、幸せな男に。」
p235「もしマダムとちがう言語で話していると言ったら、頭のおかしな老人と思われはしないだろ
うか。ごく自然だと思えたことが、ちがった角度から見るととたんにばかげたことに思える。そして
同じ言語を話しながら、もはや心かよわすときをともに過ごせなくなっている娘に失望する。」
この幸福は馬鹿げ ているように見える。しかし、馬鹿げていて も、 本当に起こっていることだと
言って良い。幸福とはそのようなものなのだ。幸福の本質は馬鹿げている。それは共有された言
語の側から、私たちの側から見る限り、一文の値打ちもないとさえ見えることがある。幸福とは本
質的に〈値打ち〉からは疎外されているのだ。その価値は、至上のものだが、「わたくし」とっての
みそうなのだ。
p241「ちがうのよ。英語で話すと話しやすいの。わたし、中国語だとうまく話せないのよ。」
p241「父さん。自分の気持ちを言葉にせずに育ったら、ちがう言語を習って新しい言葉で話すほ
うが楽なの。そうすれば新しい人間になれるの」
一方、娘はその若々しいバイタリティによって中国語と中国人の夫を棄てる。
p238「娘が英語を話すのに耳をそばだてる。これほどきつい声に聞こえるのは初めてだ。早口
でしゃべり、何度も笑っている。言葉はわからないが、その話しぶりはもっと理解に苦しむ。やたら
とけたたましくふてぶてしく、きんきんひびく声。ひどく耳ざわりで、ふとはずみで娘の裸を見てしま
ったような気分だ。いつもの娘ではなく、どこかの知らない人みたいだ。」
娘と父親の関係は、中国の歴史的な捻れを介して、遠く隔たってしまった。娘は、英語を話すこ
とにより 、この異国で対話の領域へ、つまり英語圏の「I」=「私」となり、アメリカ文化の共有の領
域へと退いてしまった。父親は、そのような転身をすることはできず、中国社会の崩壊を引きずり
ながら、「わたく しの世界」へと後退し、あり得ない対話の上で、孤独な幸福を汲み上げはじめた
のである。二人のすれ違いや傷つけあいがもたらす不幸を、すべて 父親が己の魂のせいにして
しまうのは哀しいことだ。
シウ バ イ シー ク ウトンジヨ ウ
p232【「ちゅうごくで、『修百世可同舟』といいます」誰かと同じ舟で川をわたるためには、三百年
祈らなくてはならない。それを英語で説明しようとして、ふと思う。言語のちがいなどどうでもいい。
訳そうが訳すまいが、マダムならわかってくれるだろう。】
p233「〈どんな関係にも理由がある、それがことわざの意味です。夫と妻、親と子、友達、敵、道
で出会う知らない人、どんな関係だってそうです。愛する人と枕をともにするには、そうしたいと祈
って三千年かかる。父と娘なら、おそらく千年でしょう。〉」
p234「もちろん、よくない関係にも理由があるんです
- 15 -
―
私は娘のために、いいかげんな祈り
を千年やったにちがいない」
「千年の祈り」は、「わたくしの世界」の内奥へと溶けて行く言葉だ。それは他者との共有を拒む
「わたくし」にだけ関わりのある信仰なのだ。この信仰は関係性を解体し、「私たちの世界」を「わ
たくし」の領域に引き摺り込む力を持つ。
父親は、「わたくし」の領域に閉じ籠もろうとしている。そうして遠く隔たっている娘のいる世界を
「アメリカ」=異国としてのみ認識し、早晩中国へ帰って行くだろう。「アメリカ」と「中国」の地理的・
文化的な隔たりは、そのまま父と娘の生の隔たりと重なるだろう。
作品は、父と娘の二つの生の驚くべき食い違いが、どのようにして生まれているかについて証
言し、その哀しみに触れて いる。この哀しみはしかし、全ての人の人生上で 起こる普遍的な 哀し
みだ。私たちは、このような分裂を内在することなく生きて行くことは出来ないからである。
「千年の祈り」に象徴される信仰一般はあらゆる価値判断を免れて、現代人の世界でも今なお
至上性を保ち続けている。そのような信仰や確信の中でのみ、人は幸福を見出す。この作品は、
父と娘の生を写しながら、実は人間の生の二重性を捕捉しているのである。
2008/08/11
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