ハルゼ―著「イギリス社会学の勃興と凋落」翻訳の補足

ハルゼ―著「イギリス社会学の勃興と凋落」翻訳の補足
ハルゼ―著の「イギリス社会学の勃興と凋落」の翻訳が 2011 年4月に刊行となった。
原著名は A History of Sociology in Britain であるが、あえて「イギリス社会学の勃興と凋
落」とした。また副題は原著名では、Science, Literature, and Society だったが、それを
「科学と文学のはざまで」とした。このタイトルの意図は読んでいただければ分かると思
う。
また単なる翻訳に終わらせないために、かなり長い「訳者解説」をつけた(400 字詰め
原稿用紙で 120 枚)
。
「イギリス社会学の勃興と凋落」と題する以上、イギリスの学界内部
での出来事ばかりでなく、イギリスの政治と大学・学問の関係を説明する必要があったか
らである。
しかし出来上がったものを眺めていると、まだ説明不足の部分がある。現にすでに疑問
点を指摘した手紙が届いている。こうした指摘は大歓迎で、お気づきの方々はぜひご意見、
ご指摘をいただきたい(宛先は [email protected])。
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ここではいくつかの補足しておきたい。まずは「なぜ 1970 年代のバーンステインが混乱
に陥ったのか」というテーマである。それと彼のいう「見える教育」(visible pedagogy) と
「見えない教育」(invisible pedagogy)という分類の真意が、果たしてどれだけ日本人研究
者に理解されているのか、危惧を感じるからである。
まず 1960 年代のバーンステイ「精密コード」(elaborated code)、
「制限コード」(restricted
code)という枠組みを使って分析しようとしていたが、1970 年代半ば以降は、それに代わっ
て「分類」
(Classification)と「枠組」(Frame)という枠組みで論じるようになった。いっ
たいこの二つは何か。なぜ「精密コード」、「制限コード」から「分類」と「枠組」という
分析枠組みに変わっていったのか。この辺が日本ではどれだけ理解されているのか、疑問
なので私の知っている限りのことを補足しておく。
まず最初に説明しておかなければならならない点は、なぜ「精密コード」、
「制限コード」
という枠組みを使わなくなったのかという点である。次の話はあるイギリス人研究者から
聞いた話である。1970 年代初頭の頃、彼は大学院の授業でもっぱらこの枠組みを使って講
義をいた。ところがある日、院生の間から「それでは労働者階級の文化には欠陥があると
いうのか」という疑問が提起された。その当時、アメリカでは「ブラック・イズ・ビュテ
ィフル」というスローガンのもとに、
「ブラック文化」の独自性と優秀性が主張され始めて
いた。つまりアメリカ文化のなかで暗黙のうちに潜んでいる「劣ったブラック文化」とい
う固定観念を否定し、その独自性が主張されはじめていた。言い換えれば後に「Political
Correctness」と表現される考え方が登場しはじめていた。
こうした院生からの質問(もしくは追求)にバーステインは「欠陥文化」だと答えてい
れば、それはそれで論理的に一貫したのだろう、もともと欠陥があると思っていたから「制
約コード」と名づけたのだろうから。ところがその時バーンステインはそれを否定してし
まった、つまり自分は労働者文化に「欠陥」があるとは思っていない、決して「欠陥文化
仮説」ではないと答えたしまった。そうなると、いったいどうして「制限コード」と名づ
けたのが問われることになる。こうして彼は「制限コード」論と「欠陥文化仮説」の間に
挟まれ、論理的な破綻をきたし、混乱状態に陥ってしまったのだという。
たしかにその当時、バーンステインは「労働者文化は優れた文化である」「それは高度
な表現が可能な文化だ」といった種類の論文をいくつか書いていた。つまり自分の立場が
「労働者文化=欠陥文化」説ではないことを懸命に主張しようとしていた。しかしそう主
張すれば主張するほど、今度は逆に「精密コード」
「制約コード」という枠組みがあやしく
なる。そのイギリス人は「今の彼はどっちに行ったらよいのか、困ってしまっているので
はないですか」と語ってくれた。
そのうちにバーンステインは「精密コード」「制約コード」に代わって「分類」と「枠
組」という理論装置を使い始めた。バーンステインによれば、教育といっても「強い分類・
弱い分類」、「強い枠組み・弱い枠組み」があるという。その組み合わせによって、いくつ
かの教育のパターンができると主張するようになった。
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しかしバーンステイン自身がこの理論を固めるために実証研究をやったとは聞いたこ
とがない。私の不勉強だとしたら、教えてほしい。
日本でこの理論的な枠組みを使って実証研究をやろうとしたのが、山田哲也である(「教
室の授業場面と学業成績」
。苅谷剛彦・志水幸吉編『学力の社会学』。2004)
。山田がバーン
ステインの図式を日本に当てはめようと苦労していたことがよくわかる。しかし「分類」
・
「枠づけ」といった図式を理解するには、百聞は一見しかずで、1970 年代半ば頃の私の体
験を報告しておくことが必要であろう。
私はたまたまイギリスで「分類・枠づけの弱い教育」が実験的に行われている現場を見
たことがある。おそらくバーンステインの頭のなかには、こうしたタイプの教育実践がイ
メージされていたのではなかろうか。ただし当人に確認するいとまがないうちに、彼はこ
の世を去ってしまった。まずその教育の実態を説明しておこう。
それはロンドン郊外の低所得者層が多く住む地域の小学校であった。例のプラウデン報
告によって「教育優先地域」に指定された小学校だった。つまり特別の措置を加えないと
学力向上が達成できない小学校である。教室に案内された我々の目に飛び込んできたのは、
それぞれ勝手に自分のしたいことをしている子供達の姿だった。ある者は遊んでいるかと
思えば、ある者は本を読んでいる。ある者は計算遊びをしているかと思えば、ある者はブ
ランコで遊んでいる。
まずその学校には時間割がない。一斉授業がない(弱い枠づけ・弱い分類)。大きなホ
ールのなかに滑り台、ブランコ、ボールなどの遊具があって、子供達は思い思いの遊戯を
している(弱い枠づけ・弱い分類)
。机の上には数遊びの道具が置いてあって、それで遊ん
でいる子もいる。あるいは置いてある本を読んでいる子供もいる。子供達は時間割に従っ
てではなく、思い思いの活動をしている。
それでは教員は何をしているのか。その教室には教員一人とボランティア一人が詰めて
いたが、彼女等の仕事は一人一人生徒を呼んで、教科書のどこまで習得したかをチェック
することである。そして進度を記録簿に書き込み、次の宿題を与えている。一人の子供が
済むと次の子供を呼んで同じことをする。つまり一人一人の進度に応じて指導するのだか
ら、一斉授業がまったくない。だから朝から下校時まで遊んでいる子供もいる。
先生の説明によると、両親のほとんどが働いていて、ふだんから子供にはあまり目をか
けていない。そうした地域では、学校という場を家庭と連続した空間であるようにしてお
かないと、子供は学校に来たがらない。両親が働いて家におらず、子供は学校にいかない
となると、どういうことになるか。そこでこの小学校では意図的・計画的に、時間割、教
科といった枠に子供を合わせるのではなく、子供の興味関心に合うように学校を編成して
いるのだという。
山田は「強い分類・強い枠づけ」が組み合った教育を「パフォーマンス・モデル」とよ
び、「それははっきり目標化された諸教科とスキルと手続きとが特定化された形で現れる」
コミュニケーションとしている。またこのモデルの教育では「獲得者(=学習者)は相対
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的に、選択、順序、ペースについて、わずかな統制権しか与えられておらず、等級づけら
れ、縦の層化が彼らの横の違いに置き換わる」ともいっている。これは一斉授業、一斉進
級制を想像すれば、その光景をじゅうぶん理解できることだろう。日本の学校のほとんど
はこの「パフォーマンス・モデル」に入ることになる。
これに対して「弱い分類・弱い枠づけ」のコミュニケーションを、山田はバーンステイ
ンに従って「コンペタンス・モデル」と呼び、その特徴を次のように表現している。
(コンペタンス・モデルでは)
、
「プロジェクト、課題学習、一連の経験、集団活動など
の形であらわれる。そこでは獲得者は一見したところ、選択、順序、ペースについて大き
な統制権が与えられている」
。
たしかに筆者の目撃した教室では、教科の枠も、時間割もなく、教師の指導も個別指導
中心で、子供は自主的な遊びを通じて学習できるように空間設定がなされている。数遊び
の道具、書籍類が置いてあり、子供はそれで使って算数なり国語が学習できることになっ
ている。つまり生徒自身の統制権のもとで、経験を通じて学習ができるようにしてある。
そこでの教師の役割は、生徒の学習過程を統制するのではなく、学習結果を確認すること
である。目標とする学力が達成できていれば、それでよいのであり、それが達成されてい
ない時には、それに対応する目標を生徒に与えている。まさにこれが「コンペタンス・モ
デル」だったのだろう。
学校内部の状況もさることながら、その地域社会もまた独自な地域だった。先生の話で
は、教室内をそう設定して置かないと、児童は学校に来ない。学校を家庭の延長として置
くことが、この地域では必要なのだと説明していた。子供の話す英語も訛りが多く、先生
の通訳なしには理解できない状態だった。英語の教科書も普通の教科書とは違って、発音
記号と普通の英語の綴りとを組み合わせた特殊な教科書を使っていた。一冊欲しくて帰り
にロンドン中心地の一番大きな書店で買い求めようとしたら、
「あれは特殊な教科書だから
うちでは取り扱っていない」ということで入手できなかった。
山田はこの「パフォーマンス・モデル」と「コンペタンス・モデル」を次のような表に
取りまとめている。
パフォーマンス・モデル
コンペタンス・モデル
強い分類
弱い分類
評価の方向付け
欠落するもの
存在するもの
統制
顕在的
潜在的
<教育>のテクスト
達成
学習者(獲得者)
自律性
低い/高い
高い
経済性
低いコスト
高い
カテゴリー(空間・時間・言
説)
山田のいうように、日本でも 1990 年代以降、コンペタンス・モデルへの注目度が高ま
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り、いくつかの小学校では、同様な試みがなされた。たとえば「生きる教育」「総合学習」
などは、それを狙ったのであろう。しかし上記のイギリスの学校見学に同行した日本人の
現職教員の反応は、必ずしも積極的ではなかった。日本ではこのような無秩序な教育はい
くらなんでも無理という意見が多かった。
たしかに相互に分類され、分離した教科(数学、国語、社会、理科など)
、9 時から 10
時までは数学、10 時から 11 時までは国語といった時間割などは、
「強い分類・強い枠づけ」
の典型例であろう。それはフォード型大量生産方式の学校版といえなくもない。製造業が
衰退し、マニュアル通りに黙々と働く生産工程労働者が消滅し、生身の顧客と対面しなが
ら、言葉を武器にしながら、相互にウィン・ウィンとなる条件を探りだす労働が増えれば、
あるいは自律性、アドホックな適応能力、判断力が求められるようになる。
「教科横断型能
力」の必要度が高まり、しかも上からの統制で働くのではなく、
「自律的な労働」が重要と
なれば、<教育>もまた「パフォーマンス・モデル」から「コンペタンス・モデル」へ転
換しなければならないのかもしれない。
1980 年代の状況を振り返ってみると、「反権威主義教育」
「被抑圧者教育批判」「脱学校
論」など、さまざまな潮流が流れていた。教育工場化し、官僚制化した学校をいかにして
児童中心型に切り替えるか、さまざま模索がなされていた。教科枠、時間割、教室、教壇、
教師、生徒といった、固い「工場モデル」とは対極の、イリイッチの表現を使えば convivial
な教育を目指す指向性が高まっていた。
現にこうした「弱い分類・弱い枠づけ」の教育はアメリカでも注目され、フリー・スク
ール・ムーブメントとなっていた。しかしそこにはイギリスとは決定的な相違があった。
イギリスではそれは「教育困難地域」での実験であったが、アメリカでこのフリー・スク
ール・ムーブメントを支持したのは知識層であった。知識層が多く住む地域で、それが試
みられた。たしかに知識層からみれば「弱い分類・弱い枠づけ」の教育、反権威主義、脱
抑圧型教育は、親和性の高い教育だったのであろう。
しかしアメリカでもこのフリー・スクール・ムーブメントは、短期間の現象にとどまり、
やがって「Back to Basics」の動きのなかで姿を消していった。振り返ってみれば、アメリ
カでもイギリスでも、日本でも、学校はつねに「児童中心主義」と「秩序・規律主義」と
の間を揺れ動いてきた。これからも揺れ動くことであろう。
すでに『転換期を読み解く』
(2009)のなかの「転換点に立つ教育社会学」(『教育社会
学研究』
(2006)の同名の論文に大幅な加筆を行った論文)で書いておいたが、異なった社
会は異なった人間能力が必要となる。一人黙々とマニュアルに従って働く工場労働者に代
わって、この現代では生身の他者(=顧客)を相手に、コトバ、記号、象徴、サインを発
しながら、相互にウィン・ウィンとなる条件を発見する記号労働者・象徴労働者・感情労
働者が主流となった。人間に求められる能力が変化すれば、あるいは 19 世紀型の工場をモ
デルとする「近代学校」は、もう合わないのかも知れない。あるいは「弱い分類・弱い枠
づけ」によって特徴づけられた学校が求められているのかも知れない。こうした時代の流
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れのなかでみれば、日本の学校は「強い分類・強い枠づけ」で支配されており、その内部
での偏差は極めて低い。
山田は教師に対する質問紙で「自分で調べたり、考えたりする授業」「自分たちの考え
を発表したり意見を言い合う授業」「体験することを取り入れた授業」「教科の枠をこえた
総合的な学習の授業」
「個別学習を取り入れた授業」といった質問項目を取り入れ、そうい
う授業を取り入れているかどうかを、教師に自己判定させている。そうした教師の自己判
定に因子分析を使って、教師の行っている<教育>の特徴を抽出しようとしている。そし
て分析の結果、こういっている。
「質問紙調査の手法では<教育>は、分類においてたいへん困難な対象であり、<教育
>を把握するためには、さらなる工夫(たとえば授業場面の観察・分析)が必要である」。
こうした分析者自身の告白が示しているように、バーンステインのいう<見える教育>、
<見えない教育>は、質問紙調査法ではとうてい把握できるような対象ではない。しかし
それだからといって、観察、参与観察に切り替えれば把握できるようになるのだろうか?
しかし若い世代のエネルギーをもってすれば、可能かも知れない。大いに期待したい。た
だ日本の学校の主流はあくまでも「強い分類・強い枠づけ」で編成されており、その内部
に偏差を見出すことは困難だという点である。もしかしたら山田哲也の研究は、もともと
失敗すべく宿命づけられていたのかも知れない。
一頃イギリスのナショナル・カリキュラムは日本の学習指導要領をモデルにしたものだ
という話を聞いた。たしかにナショナル・カリキュラム、それとセットとなった学力試験
の導入は、イギリスで大きな反響を呼んだ。しかしその導入以前のイギリスの学校は、あ
まりにも基準性がなさすぎた。教師が思いのまま勝手な指導をしており、教師自身がそれ
に戸惑っていた。物事にはすべて限度があり、危険なことは極端に振れることであろう。
人はさまざまな論を立てるが、肝心なことはバランスではなかろうか。ただ上記の「転換
点に立つ教育社会学」でも書いておいたように、現代社会は近代社会とは異なった方向に
変質しつつある。それとともに教育もまた変質が必要である。しかし 80 歳近くになった老
人にはそれを見極めることはできない。若い世代の課題であろう。
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