レジメ

ゲーテ
『ファウスト』
担当: 角谷 亀井 国枝 三木 芳野
鎌田研究室 2003『ファウスト』
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ゲーテの生きた時代
1648 年にドイツでは宗教改革の混乱から立ち直り、近世ドイツの連邦国家体制が確立す
る。連邦国家と名を冠するように中央集権的な組織はなく、それぞれの連邦国家が大きな
権利を持っていた。
しかし国家が力を持ち出す近代が幕をあけ、さらにフランス革命が起こるともはや連邦
国家体制を維持していくのが困難になっていく。それらの様々な混乱を乗り越えて近代ド
イツ帝国が成立するのは 1871 年になるのである。
ゲーテは 1749 年ドイツのフランクフルトに生まれ、1832 年に同じドイツのヴァイマル
で死んでいった。つまりゲーテはまさに近世に生まれ育ち、その崩壊と近代の始まりを生
きてきた人だったのだ。
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ゲーテ
ゲーテの生涯
Johann Wolfgang von Goethe(1749∼1832)
ドイツの詩人・劇作家・小説家・科学者。ゲーテの詩には、自然や歴史や社会と人間精
神との関わりへの革新的な観察眼があらわれており、その戯曲や小説には、人間のもつ個
性へのゆるぎない信念がうつしだされている。そして、こうしたゲーテの作品は、評論や
書簡もふくめて、同時代の作家たちや、彼が主導的な役割をつとめた文学運動にきわめて
大きな影響をあたえた。
ゲーテは、1749年8月28日、裕福な市民の息子として、フランクフルトアムマインに生
まれた。65∼68年にかけて法律学をまなんだが、そのころはじめて文学や絵画に関心をお
ぼえ、同時代の戯曲にふれた。やがて、神秘哲学(神秘主義)や占星術や錬金術もまなび、
さらに音楽や芸術学、解剖学、化学などもまなんだ。
1774年、友人の婚約者シャルロッテ・ブッフへのつらい恋の体験から、悲劇小説「若き
ウェルテルの悩み」(1774)を書いた。この作品は、ドイツ近代文学の最初の問題作であり、
それ以後、各国で発表された熱情的主観性をテーマにする作品の手本となった。
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1775年は、ゲーテにとって、またドイツの文学史にとって、重要な年であった。ザック
ス・ワイマール公国のわかい領主カール・アウグスト公が、当時のドイツの学問と文芸の
中心地でもあった公国の首都ワイマールに、ゲーテをまねいたのである。その年から没年
まで、ゲーテはワイマールに居をさだめ、そこからドイツ全国へむけて、著作活動の影響
力を発信することになる。ワイマール政府の数々の要職を体験したことで、ゲーテは実務
に関する豊かな知識をも身につけた。それにくわえて、彼は、鉱物学、地質学、骨学など
の科学研究もつづけた。
1805年から死亡する32年3月22日までは、ゲーテの生涯における多作の時代であった。
晩年期の彼の著作の中で有名なのは、「親和力」(1809)、「ウィルヘルム・マイスターの
遍歴時代」(1821∼29)、イタリアへの旅の報告記「イタリア紀行」(1816)、自伝「詩と真
実」(4巻。1811∼33)、壮大な抒情詩集「西東(せいとう)詩集」(1819)、それに劇詩「フ
ァウスト(第2部)」(死後出版1832)などである。
「ファウスト」は、ゲーテの長い生涯の最後をかざるにふさわしい大作である。また、ド
イツ文学の傑作というばかりでなく、世界文学を代表する名作ともなった。中世の学者魔
術師としてひろく知られるファウスト博士の伝説を解釈しなおして、人間生活のあらゆる
支脈をみごとに統一した壮大なアレゴリーにしたてあげた作品である。人間の営為と神の
営為とを探究しつづけ、自己の尊厳を成就しようとする一個人の正義感とすぐれた能力を
称揚してやまないこの作品は、近代個人主義の精神が生みだした最初の文芸大作として、
世界的な名声を博するに値するといえよう。(Microsoft エンカルタより抜粋)
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ファウストの構成
ゲーテの書いた悲劇『ファウスト』は2部からなっている。第一部の前身である『初稿
ファウスト』はゲーテが24歳から26歳にかけてのころ、故郷フランクフルトで執筆さ
れた。初稿にかなり手を入れて『ファウスト断片』として刊行したのは 1790 年。それから
長い中断期があったが、友人の詩人シラーに勧められて現在私たちが手にする形の『第一
部』を完成したのは 1806 年、ゲーテ 57 歳の時。1825 年、ゲーテが 76 歳の時から死の前年
1831 年夏までかけて『第二部』を完成させた。(小塩節著『ファウスト』より抜粋)
3つのプロローグ
「献げる言葉」「舞台での前狂言」「天井の序曲」
悲劇第一部
学者悲劇
グレートヘン悲劇
挿入される脇場面
「市門の外」「アウエルバハの地下酒場」「魔女の厨」「ヴァルプルギスの夜」
「ヴァルプルギスの夜の夢」
悲劇第二部
第一幕
ファウストの眠り、過去の忘却と甦り、宮廷世界、母達の国、ヘレナの幻像
第二幕
人造人間ホムンクルスの誕生、古典的ヴァルプルギスの夜
第三幕
ヘレナ悲劇(ヘレナとファウストの出会い、オイフォリオンの誕生と死、
ヘレナとの別離)
第四幕
皇帝vs偽帝の闘争、論功行賞
第五幕
ファウストの頂点と没落、メフィストフェレスと天使の戦い、ファウストの救済
(柴田翔著『ファウストを読む』より抜粋)
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【おまけ】
『ファウスト』読書案内解答
本文中から一寸法師を探して下さい。
7875 ならびに 8245
一寸法師とは第二部に登場するホムンクルスのことである。ホムンクルスはファウスト
の助手ワーグナーが苦心の末うみだした人造人間なのである。彼の知識は自然に誕生する
人間の比ではない。なぜならワーグナーが理想の人間となるように成分を配合(今の言葉
ならば遺伝子操作か?)しているからである。しかし彼はまだ肉体を持たない、言うなら
ば精神体なのである。彼は完全なる人間として肉体を得るためにファウスト達と共に冒険
をするのだ。この話は必ずしもファウストの本筋に密接に関わるものではないが、このホ
ムンクルスの話は精神と肉体という哲学の主要テーマに連なるのではなかろうか。このよ
うな本筋以外にも様々な思想が感じられるのがゲーテのファウストの魅力の一つである。
【1】主は人間という存在をどのようにみているのか?
1 部 p22∼p30「天上の序曲」を中心に答えてください。
引用
第一部
P25
280
283
P26
299
P27
304∼305
P28
324∼329
P29
336∼337
P255
礼拝像
308∼311
315∼P28
1
340∼343
解答
主は人間をどのような存在とみなしているのか。この主とはキリスト教の神のことな
ので、我らはみな父の子といえるかもしれない。しかし厳密には父、子、精霊と言われる
ように、子とはイエス=キリストのことである。また「父の他に子を知る者はなく、子と、
子の示そうと思う者の他に父を知る者はいない」
(マタイの福音書 11 章 27 節)のごとくキ
リスト教徒、または人間全てを主が「僕」として特別視するのは妥当に思われる。
鎌田研究室 2003『ファウスト』
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主はこよなく愛する自分の姿に似せて人間を創造し、理性という特別な能力を与え、
地を治める存在とした。この時点ですでに人間は特別扱いである。では実際に人間は幸福で
あろうか。メフィストーフェレスは「人間が無闇に苦しんでいる」とか「天の光の影」と
彼には映ずる「理性」を与えることが人間をさらに堕落させていると見ている。主も「人
は努力する限り迷うものである」と言っている。迷うことは幸福であろうか。さらに、「人間
の活動はとかく弛みがちなもので、得てして無制限の急速を欲する。」と述べ、悪魔の仕事
がなければ堕落してしまうような存在であると見ている。「善い人間は正直を忘れない」と
いう条件付けは、それ以外の人間もいるということを表している。これは一種のカルヴァン
の運命説を想起させる一文である。ではこの主はプロテスタント系であろうか。内容を見て
みると、十字架、懺悔、マリア、そして礼拝像というのが決定的にカトリックであると思
われる。さらにこの主はかなり寛容である。
このファウストにでてくる主にとっての人間は、手のかかる子のようなものであるよう
に思われる。「かわいい子には旅をさせろ」や「獅子は千尋の谷に我が子を落とす」のよう
に人を立派に育てるために現世という苦しみの世界、迷いの世界へ放り込んだようである。
そして来世において救いと完成をもたらすのである。
おまけ
魂はこのファウストのなかでも魂は不増不減、不生不滅に扱われているようなので、永
遠の循環が繰り返され、清い魂は天においていっそう清められ、不純な魂は地獄より輪廻
転生するであろう。しかしこの循環が何を意味しているのかは理解しがたい最大の謎の一
つであろう。
【2】1 部 p115 でに「私がある瞬間にたいして留まれお前はいかにも美しい、
といったらもう君は私を縛り上げてもよい」とありますが、なぜファウス
トはメフィストフェレスと契約を交わすのでしょう?
引用
358
376
377
382
454
614
781
1112
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1556
1566
1606
1660
1692
1749
1765
<解答>
ファウストはあらゆる学問をどん底まで研究したが、それによって知り得たこことは知識
が無力であることだけであった。そこで、彼は、精霊の力と言葉を通じて、いろいろな秘
密が啓示され、世界をその最も奥深いところで統べているものをこれぞと認識することを
強く願う。だからこそ、彼は生きてはたらく自然を傍観するだけでは満足できず、人間を
超えて霊と肩を並べようとするのだ。しかし、自分は一人の人間であるという現実をつき
つけられ打ち砕かれる。知に拠り所を求め失望し、神秘的世界から人間の運命へ突き戻さ
れた彼は憂愁することになる。この苦悩の中で死がひとつの解決として彼を誘惑する。死
といっても、活動的で創造的精神に富む彼にとっては、苦悩からの逃避を意味するもので
はなく、純粋な活動の新天地に赴くためのものなのだ。たとえそれが虚無の中に解け去る
危険があっても。が、生への可能性が彼を最後の一歩から救う。生に留まりはしたが、依
然として憂愁から解放されることはなく、絡みつく官能をもって現世に執着する衝動と崇
高な先人の霊界へ昇る衝動の葛藤に苦悩する。彼の創造と内なる力は高くとも、それが彼
の外に向かうとなると何の力にもならないことを嘆く。無意義な人間生活の絆を断ち切る
決断なき忍従のこころを呪いながらも、彼は生きることを選ぶ。生きて、「全人類に課せら
れたものを、自分の内にある自我でもって味わおう、自分の精神でもって最高最深のもの
を敢えてつかみ、人類の幸福をも悲哀をもこの胸に積み重ね、こうして自分の自我をば人
類の自我にまで拡大し、結局は人類そのものと同じく私も破滅しよう」と決心するのだ。
彼は、この大地において生を肯定したのだ。この世においてどう生きるかを問題としたの
だった。生のすべてを体験し、人生を全うすることを決意する。だからこそ、彼が享楽ふ
けり、満足することがあったなら、能動的な活動をやめることがあるならば、それが自分
の終わりを意味するということなのだ。その決意の表れがこの契約である。
ファウストは、夢見がちというか理想論者というか、自分の創造したものをこの現実世界
において勝ち得ることを目的として奮闘する。それだからこそ、迷い、憂愁するのである。
しかし、その解決は、人生の意義を個人の創造的精神によって見出す意志の強さにかかっ
ていることを、彼は示しているのではないだろうか。
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【3】1 部 p330「声(天上より):救われた」とはどういうことか?
グレートヘン(マルガレーテ)の生き様に注目して答えて下さい。
引用
第一部
P246
8∼9
P269
呵責の霊∼失神して倒れる
P329
あの人を追い出してください
P330
3∼10
第2部
P457
4
P492
11∼12
解答
本来敬虔なキリスト教徒であるグレートヘンは、ファウストと出会い親しくなるにした
がって堕落してしまう。なぜ堕落してしまうのか。愛とは本来一種の徳のようなものである
はずだ。隣人愛は崇高である。私的な愛も「生めよ、増やせよ」から堕落するものとは考え
にくい。礼を欠いた、つまり結婚という儀式を欠いたからだろうか。ここで考えられる可
能性は、ファウストが悪(悪魔との契約下)であったからということ。さらにグレートヘ
ン自身、愛に狂ってしまったということであろう(中を越え極端になった)。しかし理由は
どうあれ、現世において彼女が堕落してしまったのは間違いない。では何故救われたのか。
グレートヘンはファウストの宗教観を聞いたときにも、一途にキリスト教を信じ、神を慕
っていた。さらに兄が死に母を殺してしまったときも、その信心深さゆえに呵責に苦しんだ。
彼女の一途な信仰ゆえに、その呵責は激しくなおいっそう彼女を苦しめた。この呵責の激
しさこそ彼女の信仰の深さの証明に違いない。さらに自分の運命を呪いつつも彼女の信仰
が廃れることはなく、その一身を神に委ねている。そして彼女のその一途な信仰心と清い
魂の賜物であろうが、彼女は本性からの悪を決して受け入れない(ファウストはもともと
善人)。メフィストーフェレスについては当初より毛嫌いしていたし、悪の面が強くなって
いたファウストをも恐れている。この意味においても彼女の精神や魂は決していかなると
きにも悪に染まりきることはなかったと考えられる。グレートヘンもやはり現世において
迷い「盲」(第 2 部憂愁より)であったのである。その彼女も自分の死期を悟り、心より懺
悔し、神にすべてをささげるにいたって魂の救済にあずかるのである。この魂の救済こそ
人間の現世における最終目標であり、救われたとはまさに魂の救済にほかならないのであ
る。この魂の救済に至る道は、このファウストにおいては2通り示されているようであるが、
グレートヘンの場合その達成は一途な信仰と懺悔であったわけである。
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【4】学生とメフィストフェレスの対話(1 部 p124∼p136、2 部 p142∼p150)
を中心にゲーテの学問観について考えてください。
ゲーテの学問観【第一幕(若)】
Y氏:学者の最高の到達目標は神でしょうね。地上のこと、天上のことをすっかり理解す
......
るということは、そうあることでしょうから。
G氏:それは神への冒涜と理解してよいのかね?
Y氏:いえいえ、無闇に神たらむと欲することと、自分の位置を知った者が神の如くあら
むという意志とは、全く別次元の話でありましょう。勿論、私がどちらの語意を用
いたかは既にご理解頂いているかと思いますが。
G氏:なるほど。しかし、いくら神たらむいう意志を持ち、論理・形而上・形而下の分野
を極めようとも、人間は救われはしないものだとは思わないかね?論理は生の世界
には通用せず、在るかもわからぬ−人間には語ることすらもできない−世界に苦し
められ、何ら制度を作ってみても人を苦しめるばかりではないか。理論なぞ全て灰
色のものだよ。緑色のもの、生の黄金の樹に目を向けたまえ。例えば大衆の動かし
方を。例えば女の操縦術を。
Y氏:あなたのおっしゃりたいことは痛い程理解できます。しかし、それは学問は非意味
的ということでしょうか?それとも私たちの学問観の差に問題が?はたまた言語そ
のものに問題が存するのでしょうか?
G氏:『学ぶ』という言の葉に注目したまえ。
Y氏:あなたはこうおっしゃいましたね?『言葉からは一点一画も奪うわけにはいかない
のだよ』、と。これは、『言の葉の根源となる幹や根に目を向けたまえ』同時に『言
葉は即ち認識であることも理解したまえ』という意味でしょうか?いくら衣を何重
にも纏、複雑な構造をしていたとしても、我々は言葉なしには何も語ることはでき
ないのだから。学ぶということ、それは生の世界に直接関係するものを学ぶという
こと、つまりはロゴスの共有圏での世界認識を深めるということでしょうか?
G氏:私はそこまでは言っておらんと思うが・・・。ただ、人間的な生々しい学びにこそ
意味を感じていたという意味では近いかもしれん。
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ゲーテの学問観【第二幕(老)】
Y氏:あなたが若かりし頃と現在(G氏老後)を比べてみても、非意味的な学問は相変わ
らず存しますね。ただ、あなたの認識の根源と、現在の人々との認識の根源との間
には、少なからず差が生じているのではないのですか?
G氏:いかにも。若き人々は世のなんたるかを解っておらぬ。『私の認識の根源が、全ての
世界の始まりだ』と思っておる。
Y氏:確かにそうかもしれませんね。若き人々が経験を重視しないという傾向はそこに存
するように思います。『真実は全て我が認識の内に在り』と思い込んでいるのでしょ
うね。真理が無いということが真理である、ということを逆手に取っているつもり
なのでしょうか・・・。
G氏:若くしてそのことに気付く人間なぞ、そうそういるまいて。いや、そのような認識
を持つという点に辿り着く者自体があまりおらんのだろうな。もっとも、そうなる
ことが幸福なのかどうか、私には判断できぬが。
Y氏:では、悪魔が年寄りとは・・・。
G氏:悪魔は若き者に事実を見せる化身じゃよ。ただ、あまりにも生々しくて、悪魔を拒
絶し、殺そうとする。悪魔も自分の一部だということも忘れてな・・・。
Y氏:最後に一つお聞きしてよろしいですか?
G氏:言ってみたまえ。
Y氏:結局のところ、作中であなた自身が投影されていたのは誰なのですか?ファウスト
ですか?メフィストですか?それとも学生ですか?
G氏:
ファウストが名作と呼ばれる所以とは、そういうことであろう。
(ただ、男性的ではあるが)
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【5】2 部 p316∼p360 には美の象徴であるヘーレナとファウストのエピソード
が描かれています。それらを参考にしつつ美とはいかなるものかを述べて
ください。
グレートヘンを失ったファウストはしばらく嘆き悲しむが、自然の中に逃避することで
癒された後、メフィストフェーレスとともに神聖ローマ皇帝に取り入り気に入られる。そ
の皇帝の頼みで、ファウストは理想の男女であるパーリスとへーレナを呼び出すべく、あ
らゆる存在の原型である「母たち」のところから香炉を無事に奪い、高貴な人々の前に彼
らを煙で創り出したのである。そしてファウストはここで、香炉から現れたヘーレナの姿
をみて愕然とする。
「まだおれに眼があるのか。心の奥ふかくに、美の泉が豊かに注がれてきたのを感じるのか。∼(中略)∼
おれが一切の力の発動を、情熱の精髄を、思慕、愛情、崇拝、狂乱を、挙げて捧げるのはお前だ。」(p.127
6487-6500)
ファウストは、なんとしてもヘーレナを手に入れるべくギリシアの土地をさ迷い歩き、
かつてヘーレナをその背に乗せたというヒーロンと出会う。そして医術の神の娘マントー
の手引きによって、冥府の女王のところへ乗り込んでいくのである。雄弁を振るうことで
女王の心を揺さぶったファウストは、ついにヘーレナを冥府から地上に戻すことに成功す
る。
地上に戻ったヘーレナは、トロヤから救い出してくれた夫が自分を生贄にしようとして
いることを知り、取締り役に化けているメフィストフェーレスの提案で、山の奥ふかくに
ある城へと逃げ出す。そしてそこでようやくファウストはヘーレナを手にしたのである。
ヘーレナに会ったファウストは、ヘーレナに向かって次のように述べる。
「あなたは最高の神から生まれたことを自覚しなさい。あなたは最初の世界にのみ属しているのです。」
(p.329 9564-9565)
ここから、ヘーレナは単なる美ではなく、ほかの何者にもかえることの出来ない最高の、
そして絶対的な美であると考えられる。
やがて彼らに子どもができ、アルカディアの地で親子三人の幸せな日々を送る。美の象
徴であるヘーレナから生まれただけあって、子どもであるオイフォーリオンとても聡明で
神々しいまでの才能にあふれていた。それは次の表現から理解することができる。
鎌田研究室 2003『ファウスト』
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「少年の頭の輝きようといったら!なんで光るのか分らない。金の飾りか、並はずれた霊力の焔か。そんな
様子で、まだ子供なのに将来は、永遠の旋律が四肢五体に伝わるところの一切の美の巨匠たることを予告
しながら振舞っている。」(p.333 9623-9627)
しかし同時に彼は、現実を生きるファウストの子どもでもある。それゆえに、彼は外の
世界にあこがれる。
「お前たちは平和な日を夢みているのか、夢みたいものは、夢みるがよい。戦争!これが合言葉だ。勝利!
とつづいて響くのだ。」(p.347 9835-9638)
彼は両親の心配も、平和を願う声もそっちのけで、外への憧れを強めていく。その結果
待っていたものは、彼の死であった。
二人は子供の死を深く悲しんだ。そしてヘーレナは次の言葉を残して子供の下へ、詰ま
り冥界へと下っていったのである。
「幸福と美とは長くいっしょになっていないという古い諺が、残念ながら私の身の上に証明されました。∼
(中略)∼冥府の女王よ、子どもと私とをお引き取りください。」(p.354 9939-9944)
ヘーレナが去ったあとには、彼女の衣装とヴェールだけがファウストの手元に残るのだ
が、それを見ていたメフィストフェーレスはファウストに次のように語りかけている。
「あなたの手に残ったものをしっかり? まえなさい。その衣装をはなしてはいけません。悪霊たちがその
裾をつまんで、冥界へ奪い去りたがっています。しっかりと、? まえておいでなさい。女神はもう、あな
たが失って無くされたけれど、これだって神々しいのです。測り知れぬ貴重な気高い恵みの力をかりて、
上へおのぼりなさい。それは、あなたのからだの続くかぎり、速かに、すべての卑俗な物を超脱し、大気
の中を引き連れてゆきます。」(p.354 9945-9953)
ファウストは人目見たときからヘーレナの虜となり、これを追い求めた。そして冥府ま
で下りた努力の甲斐あってか、ようやくヘーレナに追いつき幸福な生活を送ることが出来
た。しかしその幸福は束の間で、息子の死と同時に妻まで失ってしまったのである。つま
りファウストは、美を完全に我が物にすることは出来なかった。ただ、彼女が残していっ
た衣装とヴェールだけが、感じられるものとして彼の手元に残っただけだ。そしてメフィ
ストフェーレスにしては珍しく、ファウストに対してこの衣装を手放すべきではない、と
助言している。では、メフィストフェーレスがこうまで言ったこの手元に残った衣装は何
を意味するのか?
鎌田研究室 2003『ファウスト』
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この衣装は、最高の、そして絶対的な美が落としていった美の断片である。ただし掴み
続けることのできなかった美そのものと違い、それ自身神々しいものを有していながら、
実体としてこの美の断片をつかむことができる。つまりここでヘーレナがファウストへ残
していったものは、人間が触れることができる自然美であり、また生み出すことができる
芸術美なのである。ヘーレナが地上に衣装を残してくれたために、われわれは今なお、美
の断片に触れることが出来るのである。
われわれは、美そのものを手にすることは出来ない。なぜなら美は、人間が自由に操る
ことのできない「めぐみ」なのだから。それでも美を追い求める先にあるのは身の破滅、
あるいは悲劇だけである。それをファウストは身をもってわれわれに証明したのである。
鎌田研究室 2003『ファウスト』
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【6】2 部 p462「留まれ、お前はいかにも美しいと。」とファウストに
言わしめたものは何だったのでしょう?
今までの話すべてを含めて考えてください。
広大な世界を展開した物語『ファウスト』。その終盤で主人公ファウストは言う。
ファウスト:
そうなったら、瞬間に向かってこう呼びかけてもよかろう
留まれ、お前はいかにも美しいと。
この世における俺の生涯の痕跡は
幾千代を経ても滅びはすまい(11581∼11584)
この感動的な一文に込められた意味とは何なのか?これまでの全ての話を振り返りつつ
私なりの考えを述べていきたいと思う。
まずファウストとはいかなる人間であったのかと言う事が重要である。冒頭で彼は言う。
ファウスト:
ああ、これで俺は哲学も
法学も医学も
また要らんことに神学までも
容易ならぬ苦労をしてどん底まで研究してみた。
それなのにこの通りだ、可哀想に俺という阿呆が。
昔よりちっとも利口になっていないじゃないか。
マギステルだのドクトルとさえ名乗って
もうかれこれ十年ばかりの間
学生の鼻面をひっつかまえて
上げたり下げたり斜めに横に引き回してはいるが
実は我々に何も知りうるものでないと言うことが分かっている。
それを思うと、ほとんどこの心臓が焼けてしまいそうだ。
それはおれだってやれドクトルだ、やれマギステルだ
学者だ坊主だというようなうぬぼれた連中よりはましであろう。
おれはいわゆる懐疑や疑惑になやまされはしない
その代わり俺はあらゆる歓びを奪われてしまった。
ここつ
ひとかどのことを知っているという己惚もなければ
人間を良い方に導いて改心させるため
鎌田研究室 2003『ファウスト』
xiv
これぞと言うことを教えるだけの自信もない。
そのうえ財産や金も持たなければ、世情のほまれだの華やかさなどというものも持ってはない
これ以上こんな風にして生きてゆくことは犬だっていやだろう(355∼376 )
あまりに印象的なこの始まりはファウストがこの世の学問すべてに絶望していることを
示している。なぜファウストは絶望したのか?それは世に存在するどの学問も結局の所、
世界の最深にある真理に到達するに至らないからである。ではファウストは頭でっかちな
理論学者なのだろうか?それは次の一説をみれば判明する。
ファウスト:
神聖な原文を好きなドイツ語に訳してみたくなった。
こう書いてある、「はじめに言葉ありき。」
もうここで俺はつかえる。誰か俺を助けて先へすすませてはくれぬか。
言葉というものを俺はそう高く尊重することはできぬ。
・・(中略)・・
霊の助けだ。おれはとっさに思いついて
確信を持ってこうかく、「はじめに業ありき。」(1223∼1237)
彼は聖書をドイツ語に訳しているのだがはじめにあるものを何と訳するかで迷う。まず
言葉を、つぎに意味を、そして力をそれぞれ当てはめてみるがファウストは納得いかない。
そして彼は最後に業という言葉を当てはめるのである。この業というのは別の訳では行為
と訳されていることが多い。つまり彼にとって重要なのは自らの行為なのである。
ファウストが求めるのは単なる知識ではない。そんなものは人生の重荷でしかない。生
命と結びついた最深なる知識、それがファウストの求めるものであり、なおかつそれを自
らの絶え間ない行為によって獲得しようというのである。
ファウスト:
君にいったじゃないか、快楽などは念頭にないんだと。
私は目もくらむほどの体験に身をゆだねたいのだ
悩みに満ちた享楽や、恋いにめしいた憎悪や、気も晴れるほどの服立などに。
知識欲の圧迫から逃れたこの胸は
今後どのような苦痛をも辞しはせぬ
全人類に課せられたものを
私は自分のうちにある自我でもって味わおう
自分の精神でもって最高最深のものをあえて掴み
人類の幸福をも悲哀をもこの胸に積み重ね
鎌田研究室 2003『ファウスト』
xv
こうして自分の自我をば人類の自我にまで拡大し
結局は人類そのものと同じく私も破滅しようと思うのだ。(1765∼1775)
そして真理探究の徹底ぶりはついに彼のもとに悪魔メフィストフェレスを招待してしま
う。ファウストは悪魔メフィストに魂を売ってでもなお最深なる真理が欲しかったのだ。
ファウストはメフィストに高らかに宣言する。自分の自我でもってこの世の生の全てを味
わい尽くすと。これはまさに近代西洋人の精神である。デカルトが自己の絶対性を確立し、
ショウペンハウワーは意志を重視した。ファウストはまさにその時代らしい自らに強靱な
る精神・意志を携えた超近代西洋人なのだ。彼にとって自らの精神・意志による絶え間な
い行為こそが大切なのだ。ある瞬間に対して留まると言うことはすなわち行為の停止であ
る。それは彼にとっては死同然なのである。
このようにファウストはメフィストすなわち悪と結んだとしても、最深なる真理を求め
る人間でありいわば近代西洋人である。ではそのようなファウストはメフィストとの契約
後いかに生きてきたのだろうか?
ファウストは魔女の薬で若返り純粋な少女グレートヘンと恋に落ちる。ファウストはグ
レートヘンとの愛にいきようとした。しかしその愛に満ちた行為は、結局のところグレー
トヘンに母親を殺させ、さらにファウストとの間にできた赤子をも殺させる。そしてグレ
ートヘンは天に召されていくのである。愛の行為が導いた悲劇にファウストは深く傷尽き
物語は第二部に突入する。
合唱:
いか時か早過ぎ去りて
悩みも幸も共に消えぬ
予め知れよ、汝はいえなん
・・(中略)・・
汝が望みを相次ぎ手果たすべく
いざかの朝の光を仰げ
汝はただ軽やかにとらわれしのみ
眠りは殻なり、脱ぎ捨てよ。(4650∼4665)
第二部のはじめでファウストは花咲く草野に横たわっている。愛故の行為がもたらした
悲劇に打ちのめされていたからだ。しかし、妖精達はファウストに復活の機会をもたらす。
上記の台詞にあるように悩みや苦しみもいずれは忘れて立ち上がることができる。人間の
持つ忘却という特性ゆえにファウストは再び立ち上がるのである。
鎌田研究室 2003『ファウスト』
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立ち上がったファウストは今度は皇帝につかえ美の象徴であるヘレナを求めることにな
る。しかし、別の問題で扱った様に絶対的な美をファウストは掴み続けることはできなか
ったのである。
ではファウストは絶望したのか?いやそうはならなかった。
メフィストフェレス:
そうおっしゃれば、貴方のお望みも分かるというものです。
それは確かに至極雄大なことでした。
あれほど月の間近まで飛んでいった貴方だ
同じ病気が貴方を引っ張り上げるんでしょう。
ファウスト:
大違いだ。この地球にはまだ
偉大な仕事を為すべき余地がある。
驚嘆すべき事が為されなければならぬ。(10177 ∼10184)
ファウストはあくまで行為するのである。自分の生の相にこだわり、海と戦い干拓事業
を進めることで人間の住める土地を増やすという社会貢献に身をささげるのだ。
ファウスト:
おれはひたすらに世の中を駆け抜けてきた。
あらゆる歓楽を髪の毛を掴んで引っ捕らえた。
心にみたないものは突っ放し
捕まえ損ねたものはうち捨てた
いつも何かを熱望してはそれをやり遂げ
またも望みをかけ、そういう風に元気いっぱい
生涯をやり通した。はじめは威勢良く
今は賢明に慎重にやっている
地上のことはもう知り抜いた。
天上へ上る見込みなど有りはしない。
目をパチパチさせながら空を仰いで
雲の上に自分の様なものがいると想像するのは馬鹿だ
それより地面をしっかり踏んまえて周囲を見回せ。
有為の人間にはこの世は隠し立てせぬ
なんで永遠の境へさまよう必要があろう
鎌田研究室 2003『ファウスト』
xvii
ちゃんと認識したものは捕まえることができる
こうしてこの世の日々を送ればよいのだ
幽霊が出てきても、歩みを変えること入らぬ。
先へ進むには苦しみもあれば幸いもあろう
どんな瞬間にも満足はしない男なのだ。(11432∼11452)
年老いたファウストは社会貢献をしながら上の言葉の発する。行為という一種の悪魔に
とりつかれた彼が困窮・欠乏・罪跡に取り尽くすきすら与えない精神的に充実した状態に
なっていったのだ。そして彼は憂愁に対してもひるむことは無かった。そしてこの精神的
充実はファウストの最後の台詞へと繋がっていく。
ファウスト:
そうだ、おれはこの精神に一身を捧げる。
知恵の最後の結論はこういう事になる。
自由も生活も日ごとにこれを戦いとってこそ
これを享受するに値する人間といえるのだと。
従ってここでは子供も大人も老人も
危険に取り巻かれながら有為な年月を送るのだ
おれもそのような群衆を眺め
自由な土地に自由な民と共に住みたい
そうなったら瞬間に向かってこう呼びかけても良かろう
留まれ、お前はいかにも美しいと。
この世における俺の生涯の痕跡は
幾先代を経ても滅びはしまい
このような高い幸福を予感しながら
おれは今最高の瞬間を味わうのだ(11572∼11586)
地上のあらゆる生を体験してきたファウストは盲目の中、上のような台詞を残しその生
涯を終えるのである。行為する鬼神であったファウストを満たし、その場に留まらせたも
のは共同性に他ならなかったのである。
ではファウストはこの物語を描いたことによって、近代人が共同性によって生の意義を
把握するということを言いたかったのだろうか?私はそうだったとは考えない。そのよう
なことのためだけにゲーテが 60 年もこの作品にかけたとは思えないからだ。
ファウストは確かに時を留めた。美しい瞬間をつかむことが出来た。だがそれは手放し
で賞賛・賛美できるような状態ではないことを見逃してはいけない。彼は享楽的愛の果てに
鎌田研究室 2003『ファウスト』
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グレーントヘンに罪を負わせた。また年老いて干拓事業をする際には罪のない老夫婦を殺
害している。さらに干拓事業を行うというのは一人で出来ることではない。このために必
要なものは権力であり支配権なのだ。そしてそこまでして干拓した場も結局のところ海に
再び飲み込まれてしまう。あまりに悲しく、あまりに虚しい。
ゲーテはファウストの中で行為そのものをただ一面的に賞賛したかったのではない。徹
底的に行為することそれ自体は決して善として存在し得ない。徹底的な行為は内面に悪を
伴ってしまう。それはハイデガーが克服の問題でとりあげたものと同等であろう。そして
そのような果てしない行為もまた、簡単に破壊され忘却されてしまう。行為のこのあまり
に悲劇的な一面をゲーテは嫌というほど知りぬいていたではなかろうか。
しかしそれでもなお、ゲーテはファウストに生の意義をみつけさせ、救済させなければ
ならなかった。なぜならファウストは近代人の象徴であり、彼を絶望のふちに落とすこと
は近代人そしてゲーテ自身を絶望させることになるからだ。ゲーテはさぞや苦しんだに違
いない。悪が悪を導くのではない。善意に満ちた行為が結果として悪をも引き起こす。こ
のような根本的問題の中で、ゲーテはファウストに共同性による救いとそれゆえの絶望を
課した。それは必死に行為し続けたゲーテ自身の魂の叫びだったのかもしれない。
鎌田研究室 2003『ファウスト』
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【7】2 部 p464∼p495「埋葬」を参考に「救い」について述べて下さい。
引用
文中にて引用解答
ゲーテの考える救いとは何か。これを考える為にはファウストの中に散らばっている彼
の思想、または数々の伝説が残してきた思想を拾い上げていかなければならない。特にこ
の埋葬部分にはその助けとなるキーワードが多く入っているように思われる。
P487
8∼「天上界」「徐々に最高の目的に達する」
P492
8
P494 後7
「帰って参りました」
「もっと高い空へお昇り」
これらはグノーシス主義的天上世界を彷彿とさせる思想である。天上界にも階層(最上
天界、上天界、下層天)があり、上に行くほど清められた世界となる。グノーシス主義に
おける救いとは、光への回収である。主は汚れ無く尽きること無いあふれでる光の泉であ
る。人はみなその光の断片を有している。自己の内に有するその光を、最終的に大いなる
主の光に回収することが最大の目的であり、救いである。「自己回収の中に収まることが、
具体的な個人の人間にとっての救いに他ならない。」『グノーシス陰の精神史』そのために
人は学問に励み、徳を積み、努力し続けるのである。「絶えず励む者をわれらは救うことが
できる」(第 2 部 485
3)
ファウストにおける魂の回収の方法にも、グノーシス主義的思想をうかがうことができ
る。ファウストは死後その魂を天使によって天界へと導かれている。さらに「善い人間は、
よしんば暗い衝動に動かされても、正しい道を忘れないものだと。」
(第一部P28後5)
「回
収の行動を起こす超越的主体、そのために派遣される者、回収によって救われるべき個々
の人間、この 3 項の同一性を、現在の研究は「救済されるべき救済者」という述語で表す」
『グノーシス陰の精神史』。この場合「回収の行動を起こす超越的主体」とはファウストに
おける主である。なぜなら「やがて澄明の境へ導いてやろうと思う」(第一部P28)とメ
フィストーフェレスとの会話において語っている。澄明の境とは「及び得ざるもの、ここ
には実現せられ、名状しがたきものここには成し遂げられぬ。
」
(第2部 495)の天界におけ
ることである。さらに「そのために派遣される者」は天使たちや、マリア、すでに救われ
ているグレートヘンたちである。そして「救われるべき個々の人間」はもちろんファウス
トである。そのファウストは先に見たように「救済されるべき救済者」であった。またか
つてグレートヘンといった女は「帰って参りました」と言っている。これはやはり回収と
いう言葉にぴったりとくる言葉である。
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総じて、ファウストにおける救いとは、
「地上の残り屑」
(P486)といわれる肉体などか
ら離れ、天界において自己の完成、すなわち自己回収を果たすことである。その際に必要
なのは、現世における絶えない努力と、大いなる愛、そして生まれついてより「救済され
るべき救済者」であるということである。
番外
ファウストに登場する天使自体にもグノーシス主義的な部分を見ることができる。
P469 後2「男の子とも女の子ともつかぬ変ちきりんな歌で・・・」
P475 後6「男も女も迷わせるからさ」
この文章から想起されたのは、両性具有である。「シモンとヘレナは第一原理の両性具有的
性格を証明するものであり、最初のグノーシス的カップルと言える。」さらに「第一原理か
ら生まれる実体は、ヌース(知性)と呼ばれて支配を担当する男性的次元とエンノイア(思
念)と呼ばれて生成を担当する女性的次元からなっている点で両性具有だからである。こ
の実体こそ完全なグノーシス主義者の理想である。」『グノーシス異端と近代』
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【8】なぜゲーテのファウストは世界文学としてたたえられるのか?
また、それを我々が学ぶ意味はどこにあるのか?自由に考えて下さい。
今回のファウストは鎌田ゼミで扱う初めての文学である。文学は必ずしも思想書ではな
いためこれまでは扱ってこなかった。ではそもそも文学とは一体いかなるものなのだろう
か?
文学とは言語を用いた作品である。それ故に言語に依存する。では言語とはいかな
るものであるのか?これまで勉強してきた様に言語とはロゴスであり一種の共同性である。
文学は言語を用いて現実あるいは非現実の個別的な生を作品化することによって、共同体
の地平で共有されるべく機能するのである。
ではファウストはいかなる共同性を表していたのだろうか?ゲーテはまさに近世から近
代にかけて活躍した詩人であった。その点に注目してみると彼がファウストという題材を
取り上げた理由も明らかになってくる。この時期はまさに神への忠誠がうすれ、自己の意
志によって世界を作り上げようとする近代人の台頭する時期であった。だからこそ、彼は
己の自己を頼りにする当時の人々に対して、また自分自身に対して、その人間が背負う悲
劇的な運命と救済を描いたのだ。それは見事なまでの自己精神に対する挑戦だったとも言
える。
そしてその見事なまでの描写は決してドイツ人だけに当てはまる事ではなかった。自己
の意志を頼りとする近代人によって資本主義社会が世界に拡大されていくと、ファウスト
が描く問題は世界中で共感を呼ぶ問題となったのだ。それがファウストが世界文学と称え
られる一つの理由であると考えられる。
しかし、少し考えてみたい。このファウストという作品が今現在の人々に受け入れられ
るだろうか?私はなかなか難しいと思う。彼の異常なまでの行為に対する執着は現代消費
社会にはかならずしも適用されない。なぜなら大衆が執着するのは消費であり、行為では
ないからだ。オルテガ的に言うならば大衆は自らに特別なことを課したりはしない。行為
によって自我を拡大しようとする生はむしろ高貴なる生である。しかしオルテガが賞賛し
ている高貴なる生、努力する生にしても、ファウスト的な視点から見た時にはその生の中
に悲劇が内在していると考えることができる。いずれにせよ様々な生を観て、自分自身の
生の位置を定める。ファウストならば近代西洋人的な生を観て、その上で現代に生きる私
はいかに生くべきかと言うことを考える。それこそが遙か200年昔のドイツの詩人が発
したメッセージを我々が学ぶ意味ではなかろうか。
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