サンクト・ペテルブルク紀行① バルト海のほとりの美しい街

バルト海のほとりの美しい街
サンクト・ペテルブルク紀行 ①
長谷川 了一
歴史の謳う街 サンクト・ペテルブルク
ロシアの草原は丸い。小高い所で周りを眺め
ると、目が届く限り草原が続いている。右を見
ても、左を見ても、ともかく自分の周りがすべ
て見渡す限り草原だ。草原が丸く見える。この
限りなく広大なロシアのなかで、最も訪ねてみ
たかった街がサンクト・ペテルブルクだった。
サンクト・ペテルブルクは 1712 年にロシア
帝国の首都となった。1825 年にはデカブリス
トたちが帝政ロシアの暴政とたたかった。ま
ペテロパブロフスク要塞、手前はネヴァ川
た、プーシキンやドストエフスキーなどの優れ
静かでとても美しい水の都
た文豪がこの街からロシアと世界の人々の知
ピョートルの思いによって、サンクト・ペテ
性を鼓舞した。そしてこの街は、ロシア第 1 革
ルブルクは西欧の街を模倣し、街並みは伝統的
命やロシア十月革命をたたかった。サンクト・
な玉葱型ドームをもつモスクア様式の建築で
ペテルブルクは歴史の謳う街であった。
はなく、古典的な均整の美を体現するように計
ピョートル1世が築いたペテルブルク
画された。たしかに現在のサンクト・ペテルブ
ピョートル 1 世(在位 1682−1725 年)は西
ルクの街には、我が物顔をして人々を威圧的に
欧への突破口の獲得をめざして、当時バルト海
睥睨するような建物がほとんどない。また、一
を支配していたスウェーデンと 1700 年から北
つひとつの建物にハーフトーンの優しい色が
方戦争を始めた。この戦争の勝利によって、ロ
施されていて、街全体がとても楚々としてい
シアはリガまでのバルト海沿岸全域を領有し
る。ヨーロッパでもっとも美しい街の一つだと
た。同年、元老院からピョートルに TSAR(ツ
いえる。
ァーリ・皇帝)の称号が贈られ、以後、ロシア
帝国と名乗るようになった。
サンクト・ペテルブルクはネヴァ川が蛇行
し、バルト海のフィンランド湾にそそぐ河口に
ピョートルは、スウェーデンから奪ったバル
造られた街だ。「北のベネチア」と呼ばれる水
ト海のほとりに新しい都市を建設しはじめた。
の都だ。ネヴァ川が都の大通りだとすると、フ
最初に完成させたのはペトロパブロフスク要
ォンタンカ川、モイカ川、運河や小流はさしず
塞と海軍省の建物であったという。サンクト・
め街路や小路といえよう。市内には 65 の運河
ペテルブルクの建設では凍てついた湿地とい
が流れ、365 の橋が架かっている。これらの橋
う劣悪な環境で、駆り出された多くの農奴が命
は、それぞれが建築的・彫刻的な特徴をもち、
を落とした。サンクト・ペテルブルクを訪れた
その形態や構造も様々だ。それらの川と運河を
のは 8 月初旬だったが、最低気温 7℃、最高気
巡る遊覧船がたくさん運行している。遊覧船の
温 13℃という日もあった。専制君主ピョート
料金は 150P∼200P ほど(P はルーブル。現在、
ルは、農奴の境遇に一顧することもなく、鉄の
1 ルーブルは 5 円弱)。遊覧船に乗って、水面
意志を貫いてサンクト・ペテルブルクを建設し
から眺める石造りの町並みはさらに一段と美
た。かのスターリンが、ピョートルに傾倒し賛
しい。サンクト・ペテルブルクの人口は 470 万
美していたということが納得できる。
人だが、とても静かな街だった。
(つづく)