音楽とアイ デンティティ

〔東京家政大学博物館紀要 第10集 p.75∼88,2005〕
音楽とアイデンティティ
ーD・H・HwangのM.Butterflyにみる文化のポリティクスー
原 恵理子
Music and Identity:Cultural Politics in David Henry Hwang’sハ4. Butterfly
Eriko HARA
はじめに
中国系アメリカ人劇作家David Henry HwangのM.−Butterflyは、1988年2月10日のワシ
ントンDCのナショナル・シアターで初演ののち、3月20日、ニューヨークのブロードウェイ
にあるユージン・オニール劇場で開幕し、アジア系アメリカ演劇では初めて、いわゆるメイン
ストリームで成功を収めた作品となる。そして、わずか31歳という若さでHwangは、アメリ
カ演劇界において、M. Butterflyが最優秀戯曲として1988年度のトニー賞を受賞したほか、
ドラマ・デスク賞、外部批評家サークル賞など主要な賞を総なめにした。
さらにM.Butterflyは、アメリカのみならず、ロンドンでも成功しただけでなく、日本を
含めて、アジアやヨーロッパの十数力国で翻訳され、上演された。1)また、1993年には、カナ
ダ人映画監督のDavid Cronenburgがこの戯曲を映画化し、 Warner Brothersの配給により
全米で公開された際には、Hwang自ら脚本を手がけている。そして、 M. Butterflyは、アジ
ア系アメリカ人による劇団のパイオニア的存在であるEast West Playersの2004年度の年間
公演にも含まれているように、現在もリージョナル・シアターが上演し続けている。
M.Butterflyのテーマは、戯曲のタイトルに端的に現れているように、オペラ「マダム・
バタフライ」(Mαdαme Butterfly)と密接な関係がある。このオペラは、いうまでもなく、
イタリア・オペラを代表する作曲家Giacomo Puccini(1858−1924)が作曲しており、2004年
は、ミラノのスカラ座の初演(1904年2月17日)から100年を迎えるにあたり、イタリアはも
ちろんのこと世界各地で初演100周年記念公演が開催されている。2)また、各オペラ・カンパ
ニーのレパートリーには、「マダム・バタフライ」は必ずといっていいほど含まれるほど、世
界中のオペラファンに愛されてきたことは、周知の事実であろう。
しかし、Hwangは、「作者あとがき」で述べているように、このオペラのプロットさえ知
らずに、西欧文化が表象してきたくバタフライ〉の「ステレオタイプ」を解体することを思い
立った。Hwangが見聞きしたある事実は、彼を.M. Butterflyの劇作へと駆り立てたのであ
る。それは、1986年の5月、食事中の何気ない友人の会話に始まった あるフランスの外交
国際コミュニケーション科 英語第二研究室
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官は京劇のスターと恋愛関係にあったが、その女優を男でしかも中国のスパイだと知らないま
ま愛し続けたのだ。
その後Hwangは、 The NeωYo漉Timesでこの話に関する記事をみっける。元外交官の
Bernard Bouriscotは、“girlfriend”の裸体を一度も見たことがなかった事実にたいして、
「彼女がとても慎み深く、それが中国の習慣だと思った」と説明している。「あとがき」で
Hwangは、中国には、女性が異性の前で裸体さえ見せないといった習慣はなく、それはあく
までも「Bouriscotの思いこみ」にほかならないし、まさにアジアの女性=「お辞儀をしては
頬をあからめるかよわい花」という文化のステレオタイプ化と一致し、外交官はこうした「幻
想のステレオタイプ」に恋をしたのだと結論を下している。しかし同時に、京劇の女優として、
パ フ オ − ム
こうした文化のステレオタイプを行為遂行した男性も、スパイという政治行為に利用すべく
オリエンタル
「東洋の女」を演じ続けたのだろうと、Hwangは推測する。3)
Hwangの結論と推測から、オペラ「マダム・バタフライ」が生みだす文化のステレオタイ
プをとらえ直す2っの観点 音楽とアイデンティティをめぐる〈文化のポリティクス〉が浮
かびあがる。音楽にフェミニズム批評の視点を取り入れて、新しい音楽学の地平を拓いたスー
ザン・マクレアリは、『フェミニン・エンディングー音楽・ジェンダー・セクシュアリティ』
のなかで、オペラにおいて男性/女性が文化として表現されてきた社会的現実を吟味し、「音
楽でもジェンダーとセクシュアリティが構成される」と読み解いている。また、カルチュアル・
スタディーズの論客Stuart Hal1が編纂したQuestions(ゾ(フulturαl ldentityのなかで、
Simon Frithは、「音楽とアイデンティティ」にっいて考察している。本稿では、こうした指
摘を手がかりに、「マダム・バタフライ」の文化的言説としての音楽そのものに重要な鍵があ
ると考え、M. Butterflyにひそむく文化のポリティクス〉を検証したい。
1.David Henry Hwangと音楽
Hwangは、 M. Butterflyの執筆後、1958年版のブロードウェイ・ミュージカルFloωer
Dram Songの改定版に挑戦している。 M..Butterflyにおいて、「プッチー二のオペラと実在
の人物の事件を密接に結合させた」あとのHwangは、「自分の版」として、 Flower Drum
Songをあらたに創造する可能性を探り始めた。 Miss SαigonやPαcific Overturesのような
アジア人を取り上げた作品はあるものの、海外を舞台にしており、Floωer Drurn Songだけ
が、アジア系アメリカ人にっいてこれまで創作された唯一のブロードウェイ・ミュージカルだ
という理由である♂)
Hwangは、1958年版ミュージカルの音楽や作詞を担当したRichard RodgersやOscar
Hammerstein IIに敬意を払い、ミュージカルの基となったC.Y.Leeによる同名の小説(1957
年に出版)の魅力を認めっっも、アジアの表象がより「本物」(“authenticity”)であること
にこだわり続けていたのである。2001年10月4日にロサンゼルスのMark Taper Forum劇場
で幕を開けたHwangのFloωer Drunz Songは、絶賛され、2002年には10月17日にブロード
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ウェイにも進出した。舞台は、サンフランシスコのチャイナタウン。アメリカに同化した息子
とのギャップに悩む中国系移民Wongのもとに、中国を離れたばかりのMei−1iが登場して、
物語は展開する。
「異なるドラムを聴く」と題して、こうした改定版のミュージカルに関する記事の冒頭には、
音楽とHwangにっいて次のような指摘がある。
Music is nothing new to David Henry Hwang. It has, in fact, been a dominant
theme in his life since childhood. However, when he began achieving national promi−
nence, even the greatest Hwang admirers weren’t aware of his musical flair and back−
ground.(Hirschhorn 4)
音楽は、Hwangと演劇をどのように結びっけたのだろうか。実は劇作家自らが音楽家であっ
たことのほかに、音楽そのものが彼の人生の主要なテーマであり続けてきた。それについても
十分に認識されていないので、まず、音楽とHwangの関係について見ておこう。
興味深いことにDavid Henry Hwangの人生そのものは、音楽を抜きにして語れない。中
国系アメリカ人二世として、Hwangは、上海生まれの中国人の父とフィリピン育ちの中国人
の母のもとに、1957年8月11日カリフォルニアのロサンゼルスに誕生した。父は、1948年に台
湾経由でカリフォルニアに移住し、アメリカでビジネスの勉学をした一方で、母は、両親の希
望で、南カリフォルニア大学でクラシック音楽のピアニストになるために留学をした。ふたり
は、キャンパスで出会い、結婚した。父は銀行家になり、母はプロのピアニストになる。そし
て母の導きで、息子は早い時期から音楽に親しむことになる。
Hwangは、7歳からヴァイオリンを弾き始めた。プロのピアニストで教授の母、プロの音
楽家になった姉妹に囲まれた音楽一家出身の彼は、自然の成り行きで音楽を勉強し、大学では
即興の演奏の仕方を学び、ジャズ・ヴァイオリニストにもなった。Hwangは「ヴァイオリニ
ストだった」というが、銀行家の父もピアニストの母も彼を音楽の道へ無理やり進むようにし
たわけではない。彼は「ヴァイオリンを習うことは自然の成り行きだったが、キャリアにする
ことではなかった」と、語っている(Hirschhorn 4)。また、 Hwangは高校生のとき、ミュー
ジカルためにオーケストラ・ピットでヴァイオリンを弾き、「リハーサルのあと残り、監督の
話や意見交換を聞くのが好きだった」とも回想している(Savran 119)。
音楽こそが、Hwangを演劇に結びっけることになったといっても過言ではない。その後、
Hwangは、法学部の学生になるつもりで入学したスタンフォード大学で、演劇の魅力がもは
や無視できないほど心をとらえはじめ、「劇作は自分にできること」(Savran 119)だと確信
した。処女作となるFOB(1979)は、23歳のときの作品であり、オフ・ブロードウェイで有
色人種による演劇の発掘や発信に力を注いでいたパブリック・シアターのプロデューサー
Joseph Pappに取り上げられ、劇作家として幸運なスタートを切った。
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FOBは、移民と同化というきわめてアメリカ的なテーマを扱うなかで、中国系アメリカと
いう人種民族のアイデンティティとアメリカのナショナルなアイデンティティの葛藤をコミカ
ルに描く。中国料理のレストランを舞台にして、最近アメリカに来たばかりの移民、すなわち
戯曲のタイトルにもなった“FOB”(fresh off the boat)のSteveと、同化した中国系アメリカ
人、すなわち“ABC”(American born Chinese)のDaleとが出会う。ふたりは、あらゆること
に正反対であり、とくに中国の神話に登場する人物にたいする理解はまったく異なる。
Hwangは、アメリカと中国の文化間の差異や緊張を探求したこの処女作から一貫して、異文
化を並列したテーマを描くようになる。そして、彼の関心は「エスニシティ、アイデンティティ・
ポリティクス、文化の多様性やアジア系アメリカ人という論点、そして西洋/東洋の関係といっ
た問題」に注がれている(Kim 130−31)。
2・「マダム・バタフライ」とジェンダー・アイデンティティ
スーザン・マクレアリは、『フェミニン・エンディング:音楽・ジェンダー・セクシュアリ
ティ』において、オペラが誕生した17世紀から、音楽では作曲家が「男性性」と「女性性」を
構築させるための一連の約束事を発展させてきたことを論証している。音楽でジェンダーの相
違を示す規範は、時代が形作ると同時に、社会形成にも参画しており、その理由は「個々人は、
音楽のような文化的言説とかかわりあうなかで、いかにしてジェンダーを有するものとしての
存在になりうるかを学んでいくからである。さらにいえば、音楽は単に受動的に社会を反映し
ているのではない。それは、その内部でジェンダー構成のさまざまなモデルが(社会生活上の
他の側面とならんで)主張され、採用され、確認され、協議される公の場としても機能してい
るのである」(28)。
Hwangが取り上げたオペラ「マダム・バタフライ」の場合も例外ではなく、こうした音楽
によるジェンダー規範を内包していると推察できる。M. Butterflyで試みられたアジア女性
のステレオタイプの解体は、いわゆる西洋における〈マダム・バタフライ〉といぢ黄犀麦性の
ステレオタイプが音楽という文化的言説の実践のなかで、いかに構成されてきたのかにっいて
分析し、その見直しを迫るものではないだろうか。この点に関して、文化人類学者のDorinne
Kondoは、 M Butterflyを「オリエンタリズム、ジェンダーとアイデンティティの本質主義
にたいする批判」の視点から吟味している(Kondo 31−99)。
まずKondoは、オペラ「マダム・バタフライ」 において、エドワード・サイードによっ
て問題提起された「オリエンタリズム」の言説がテクストと音楽とのコラボレーションをとお
して、どのように再生産されるのかを読み解く。Kondoによれば、とりわけオペラにおける
「女性の死」という物語は避けられない枠組みであり、予想されたこととして起こるわけだが、
西洋と東洋、男と女、白人とアジア人という二項対立のなかで、非対称的に権力が配分されて、
っねに支配者、抑圧者、勝者になるのは、西洋・男性・白人である。オペラで「高らかにうた
われるアリアと誇大なオーケストラの間奏曲とともに、音楽がその点を敷街して説明し、観客
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をそうした申し合わせへと、さらなる共犯にと招き入れるのである」(Kondo 35)。
しかも「マダム・バタフライ」におけるテクストと音楽の相乗効果は、〈バタフライ〉とい
う小さなアジア(日本)の女性の自己犠牲、いいかえれば、短刀による儀式的ともいえる自害
を運命づけられる悲劇的な死、しかし、その一方で観客を満足させるこうした“The perfect
closure”(35)を避けられないものにするというのだ。 Kondoが分析するように、“The per−
fect closure”のエンディングは、実は、 M. Butterflyでいみじくも外交官のRene Gallimard
が強調するところの、西洋社会に浸透してきた理想の“the Perfect Woman”としてのくマダ
ム・バタフライ〉の文化的表象の受容と一致している。サイードによれば、「オリエンタリズ
ウエスト ウエスタン
ムのなかに現れるオリエントは、西洋の学問、西洋人の意識、さらに時代が下がってからは西
洋の帝国支配領域、これらのなかにオリエントを引きずり込んだ一連の力の組み合わせの総体
によって枠付けられた表象の体系なのである」(14)。
M.−Butterflyの第一幕第三場、 Gallimardは、パリの独房から、「私の好きなオペラ」とし
て「マダム・バタフライ」を紹介し、自らを“the Perfect Woman”に愛された男だと観客に
誇り、ヒロインのくバタフライ〉を次のように表象する一“lts heroine, Cio−Cio−San, known
as Butterfly, is a feminine ideal, beautiful and brave”(5)。だが、日本人の「蝶々さん(Cio−
Cio−San)」が“the Perfect Woman”として、「美しく、けなげで、まさに理想の女性」になる
のは、ひとりの外見も中身も理想的とはいえないアメリカ人男性のために、自分の命を投げ出
す「死の場面」なのだ。
Gallimardは、ヒロインの「蝶々さん」を紹介したあとすぐ次のように付け加えている一
“And its hero, the man for whom she gives up everything, is... not very good−looking, not
too bright, and pretty much wimp:Benjamin Franklin Pinkerton of the U.S. Navy”(5)。
M.Butterflyのなかで、 Gallimardは、京劇のスターSong Lilingの「蝶々さん」を相手に
典型的なアメリカ海軍士官のピンカートンを演じながら、「マダム・バタフライ」の音楽に魅
惑され、自らのアイデンティティに困惑するゆらぎを徐々に強めていく。だからこそ、
Gallimardは、 Songが演じる〈バタフライ〉を相手に「実験」と称した恋の駆け引きをする。
Gallimardは音楽をとおして、ジェンダー・アイデンティティの問題へと奥深く分け入り、や
がて「絶対的な男の権力」や「美女に対する力」をもてたと幻想化していく。そして、その
「積極的で、自信にあふれた…」Gallimardは、副領事の地位までも獲得し、39歳にして「こ
の世の現実」を見たという。だが、彼がいうように、神は男であり、絶対的支配をもっという
権力の現実を見たにすぎないのだ。そしてそれは同時に、〈バタフライ〉を手に入れたという
危うい幻想に取って代わる。M. Butterfl yの音楽は、現実と幻想の境界の魅惑とともに、西
洋と東洋の境界の困惑をも注意深く観客に促すのである。
オペラの「マダム・バタフライ」は舞台を長崎にして、アメリカ海軍士官のピンカートンと
日本の芸者「蝶々さん」とのあいだのロマンスと悲劇を描いている。「蝶々さん」、いいかえれ
ば幻想のくバタフライ〉は、ひとりでは「マダム・バタフライ」にはなれない。サイードのこ
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とばをかりるならば、「西洋と東洋の厳格な二項対立」を構築してきた文化イデオロギーに満
ちた音楽は、日本の女性をヒロインに、アメリカ男性をヒーローに仕立てただけでなく、二項
のうち、前者の優位性を正当化するために、当然の帰結として、〈バタフライ〉の死を求め、
オリヱンタル
「東洋の女」も「完全無欠」になる効果を高めなければならない。「西洋の歴史を通じて、音
楽はジェンダー・アイデンティティをめぐる激しい論争を繰り返してきた活動であった」と、
マクレアリは力説している(40)。
3.「愛の二重奏」とセクシュアリティ
さらにマクレアリは、ほかの音楽のジャンルと同じように、オペラも男性中心の領域であり、
内容、形式、演出、解釈すべて、「男性の利益に添って構成された表現論理によって決あられ
ていく。すなわち、枠組み全体は乱れないという保証つきで女性を見ものとして提供するので
ある。…作品が『自然な』(『父権的』と解釈できる)性的ヒエラルキーに従って展開するよう
にみえるのである」(233)。「マダム・バタフライ」の場合、性的ヒエラルキーはもちろんのこ
と、「自然な」人種的ヒエラルキーにも従って展開するようにみえることを指摘しなければな
らないだろう。
こうしたヒエラルキーにおける所有、支配、搾取は、オペラ「マダム・バタフライ」では、
長崎の「喜びと愛の花咲く家」のなかで、〈愛〉という名のもとに実践されていく。アメリカ
海軍士官のピンカートンが表象する帝国主義の欲望を満たすロマンスに運命づけられた物語の
悲劇的結末は、「蝶々さん」の植民地化された身体の存在を許さなくなる。したがって、
Kondoが指摘したように、「マダム・バタフライ」の文化的言説としての音楽は、テクストと、
あるときはコラボレーションし、あるときは共犯となり、〈バタフライ〉、すなわち西洋・白
人・男性のために、自らの家庭、宗教、民族、息子、究極には命を犠牲にしてまで従属し、愛
オリエンタル
を貫く「東洋の女」の物語をっくりだしている。
いいかえれば「マダム・バタフライ」になるためには、「名誉ある死」が求められるのだ。
M.Butterfly(第一幕第六場)のなかで、 Gallimardがはじめてドイッ大使の家の客間で
Songをみるときに、 Songが「マダム・バタフライ」の「死の場面」を歌うように舞台化さ
れているのは、Hwangが周到に用意したふたりの出合いではないだろうか。そのうえM.
Butterflyの劇中、〈バタフライ〉にっいて言及する場面では、必ずといっていいほど、「愛
の二重奏」をはじめとするオペラが音響効果を変化させっっ、舞台に響く。それというのも
「音楽はまた、多くの場合、音響という手段によってセクシュアリティのパターンと似たパター
ンをくっきりと図示しっっ、性的欲望を呼び覚まし、誘導していこうとする」からだ(マクレ
アリ 28)。
たとえば「愛の二重奏」は、オペラの第一幕の最終場で歌われている。「蝶々さん」は、父
が死に家が没落して芸者になった15歳であり、アメリカ海軍士官ピンカートンとの結婚のため
に改宗したのだが、結婚式に来た僧侶の伯父にそのことを詰られる。「蝶々さん」は悲嘆し、
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それを見たピンカートンは、みんなを引き上げさせて、悲しみにくれる彼女を慰めっっ、名前
のく蝶々〉のごとく「私は君を捕まえた…打ち震えている君を抱きしめるのだ。君は私のもの」
と語り、「蝶々さん」も「生涯をかけて」(戸口 54)と応えて、二重奏の愛を歌い上げている。
一方戯曲でもこうしたオペラの音響効果を用いながら、Gallimardのくバタフライ〉にたい
する愛と欲望を照射していく。M..Butterflyの第一幕の最終場(第十三場)のなかで、先に
述べたように、副領事に昇進したGarllimardは、その夜、八週間もの時間を置き、距離を置
いてきたにもかかわらず、北京のアパートにSongをたずねる。 Songは、「蝶々さん」という
究極のくバタフライ〉をGallimardに演じてみせる。これは、 Judith Butlerのことばをかり
パ フ オ − ム
れば、「異装のパフォーマンス」を行為遂行することになる一「異装のパフォーマンスは演じ
る人の解剖学的セックスと、演じられているジェンダーの区分をまたいでなされるものである。
だが実際私たちは、身体性という意味を持っ偶発的な三っの次元一っまり解剖学的なセックス
と、ジェンダー・アイデンティティと、ジェンダー・パフォーマンスーのなかに存在している」
(137)のである。
このことは、まさに次の場面で展開されるGallimardとSongの対話から読み取れるであ
ろう。
Gallimard:Are you my Butterfly?(Silence;he crosses the room and
begins to touch her hair)Iwant from your honesty. There should
be nothing false between us. No false pride.
Pause.
Song:Yes, I am. I am your Butterfly.
Gallimarad:Then let me be honest with you. It is because of you
that I promoted tonight. You have changed rny life forever. My
little Butterfly, there should be no more secrets:Ilove you.(40)
ここで引用したGallimardによる“Are you my Butterfly?”というせりふは、この最終場
では、三回繰り返されている。最初、答えを躊躇っていたSongは、 Gallimardが偽りではな
い「真心」を示すので、三回目に応答する。しばらくして、Songは、少し抵抗を示ししっっ、
“No_1et me_keep my clothes_”(40)といい、ガウンを着たままで身をまかす中国人女性
パ フ t − ム
のくバタフライ〉として「異装のパフォーマンス」を行為遂行する。
Song:Please_it all frightens me.1’m a modest Chinese gir1.
Gallimard:My poor little treasure.
Song:Iam your treasure. Though inexperienced, I am not_ignorant.
They teach us things, our mothers, about pleasing a man.(40)
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このあとのふたりのせりふには、「愛の二重奏」の歌詞が引用され、オペラの模倣とともに
セクシュアリティの「二重奏」が歌い上げられる。Hwangは、文化的言説としての音楽をと
おして、アジアの女性のステレオタイプが喚起する身体性の問題に介入している。さらに、
Butlerはくジェンダーの模倣〉についてこう強調している。
ジェンダーを模倣することによって、異装は、ジェンダーの偶発性だけでなく、ジェンダー
それ自体が模倣の構造をもっことを、明らかにするのである。…異性愛の首尾一貫性とい
う法の代わりに、セックスとジェンダーの区別を受け入れ、かっその統一性を捏造する文
化のメカニズムを芝居がかって演じるパフォーマンスによって、セックスとジェンダーは
脱自然化されていくのである(138)。
また、これは、単なる模倣ではなく、批判的な模倣(“critical mimesis”)なのである。ア
ジア系アメリカ研究者のKaren Shimakawaは、7Vationα1.A bjection’The・A8ian Arrzericαn
Body Onstαgeにおいて、フランスの思想家で精神分析家のJulia KristevaがThe 1)oωers of
Horror: A n Essαy on A bjectionの提起した概念の“abj ection”、すなわち「嫌悪を誘うおぞま
しきものと考えられている条件/位置、および評価をくだすプロセスという双方のありさまと
状態」の理論を援用して、アジア系アメリカ性はアメリカ性との関係において、“abject”とし
て機能すると考察している。M. Butterflyにおいても、 Velina Hasu Houston, Jeannie
Barroga, Philip Kan Gotandaといったほかのアジア系劇作家の作品と共通して、“critical
mimesis”が機能しているとこう分析する。
Hwang’s aim in referencing the opera was to suggest that image/text’s formative role
in structuring the French diplomat’s ways of seeing−−and perhaps the Chinese spy’s
ways of performing−(abject)orientalness:it is this deliberα亡e and criticα1 invocation of
that formative moment of abjection that enables M..Butterfly to function as critically
mimetic.(121)
Hwangは、オペラ「マダム・バタフライ」において、いかに男性性/女性性のみならず、
オリエンタルネス
白人性/東洋性、異性愛/同性愛もまた、「統一性を捏造する文化」として表現され、ジェン
ダー、人種民族、セクシュアリティを構成しているかを示唆している。その一方で、
Shimakawaが指摘するように、 M. Butterflyが「批判的な模倣」として機能するように、
Hwangは、男性/女性、西洋/東洋をはじめとするあらゆる二項対立の撹乱を目論見、この非
対称的権力の制度化の可視化と脱自然化を試みるのだ。
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音楽とアイデンティティ
4.音楽の越境とアイデンティティ
Helen GilbertとJoanne Tompkinsは、 Post−coloniα1 Drαnzαのなかで、音楽が演劇のな
かで一般的に果たす貢献以上に、ポストコロニアルの劇作家にとって、交渉を強いられてきた
支配的な言語に取って代わる「抵抗の言語」になりうると、興味深いことを述べている
(Gilbert&Tompkins 164−202)。 Gallimardは、公式通りのオペラのエンディングー“The
ending is pitiful, Pinkerton, in an act of great courage, stays home and sends his American
wife to pick up Butterfly’s child. The truth, long deferred, has come up to her door”(15)
を説明する。Songはオペラの一節をイタリア語で歌い、 Gallimardは英語で同時に「名誉あ
る死/のほうがいい/不名誉に生きるより」と繰り返す。
Song:“Con onor muore/chi non puo serbar/vita con onore.”
Gallimard:(Simultaneously):“Death with honor/Is better than life/Life with dis−
honor. (15)
母語の異なるふたりの対話は、まさに言語の翻訳をとおして、音楽の越境を可能にしていく。
さらに、第二幕第九場では、舞台が北京に移り、文化革命を背景とする中国の変化にっいて、
Gallimardが説明するときには、もはや西洋の音楽ではなく、「中国打楽器の追い立てるよう
な音が舞台を満たしている。」しかし、音楽は共通の言語になりえても、普遍的な言語にはな
りえない。
したがって、M. Butterftyは、コロニアルの文化的言説としての音楽を反復するだけでは
なく、ポストコロニアルな自己を語りだす新たな手段をっくりだすたあに、音楽の越境を試み
ているのではないだろうか。M. Butterflyのなかで、音楽は「抵抗の言語」としても機能す
ることに注目しなければならない。Gallimardは、 Songのくマダム・バタフライ〉を「本物」
だと褒める。しかし、Songは、 Gallimardのいうところの「本物」の〈バタフライ〉という
概念にたいして、東洋を均質化することに異を唱えて、日本と中国の歴史の相違点を語るのだ。
そして京劇こそが「本物の演劇」であると、中国の文化的伝統を誇る一“Iwill never do
Butterfly again, Monsieur Gallimard. If you wish to see some real theatre, come to the
Peking Opera sometime. Expand your mind”(17)。こうした文化の同一性と差異の問題は、
「個人的なものはカルチュラルであり、…われわれは、そうしたカルチュラルな想像力に関し
て、かならずしも社会的な環境の制約を受けているわけではない」のだ(Frith 122)。
さらに「アイデンティティがいっも何らかの形で想像上の形式にからめとられているとすれ
ば、アイデンティティはまたその想像上の形式によって自由にもなる」(122)。しかも、表現
する文化によって、自由にアイデンティティを選択できると、示唆したうえで、Frithは「音
楽とアイデンティティ」の関係について、こう結論づけている。
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…音楽が特別であるのは、 音楽がアイデンティティに関して特別であるのは一音楽は
境界線のない空間(果てしのないゲーム)を特徴づけるということである。音楽はしたがっ
て越境し一サウンドはフェンスや壁、海を越え、階級や人種、民族を越える一また場所を
特徴づけるのに最高のカルチャー形式である(125)。
「マダム・バタフライ」の音楽という文化的言説によって、かたちつくられ、経験され、語
オリエンタル
り継がれてきた「東洋の女」というステレオタイプは、音楽の越境/越境する音楽をとおし
て、新たなカルチュラル・アイデンティティの選択が可能になると示唆されている。
したがって、Butlerが、 Gender Troubleで関心を払ってきたように、「他者のなかで、他
者をっうじて、各人が言説によってさまざまに自己を構築していくということである」(142)。
こうした「想像的な自己」こそ、「アイデンティティ固定化の回避」であり、「音楽は、アイデ
ンティティと同様に、パフォーマンスであると同時に物語であり、個人における社会的なもの、
社会における個人的なもの、身体のなかの精神、精神のなかの身体を記述する」のである
(Frith 109)。
M.Butterfl yの第一幕第一場から、音楽の越境の試みが披露されている。65歳に年老いた
Gallimardはパリの独房にいる。舞台奥では、彼と20年関係のあった京劇のスターSongが中
国の衣装を身にっけて、美しい姿で京劇の伝統的踊りを「打楽器が甲高く響く音楽にあわせて」
踊る。Songは、 Gallimardの演劇的想像のなかで、踊りっづける。京劇の音楽はオペラの
「マダム・バタフライ」の「愛の二重奏」へとかわり、西洋楽器の伴奏に変わると、Songの
踊りには、「バレエ的要素が見えてくる」というわけである。オペラと京劇における音楽と身
体の往還は、M. Butterflyを「境界のない空間の物語」へとっくりかえている。
5.「境界のない空間の物語」(=音楽)とアイデンティティ
M.Butterfl yの劇作家ノートには、 Hwangが読んだ1986年5月11日のThe IVeωYorh
Timesの記事が引用されている一「元フランス外交官と京劇のスターは、2日間の裁判で、
ふたりの人目を忍ぶ恋と、性的アイデンティティ誤認のストーリーが明らかにされたのちに、
中国にスパイ行為をはたらいたとして、6年の刑を宣告された。Bouriscotは、 Mr. Shiと恋
に落ちた後、中国に情報を流していたと告発されたが、20年間、かれを女だと信じていたのだ。」
M.Butterfl yの第三幕はこの裁判からはじまる。京劇のスターSong Lilingが演じたくバ
タフライ〉の「芝居の裏」と、「文化交流」と称したスパイ活動の全貌が明かされると同時に、
Songと元外交官Rene Gallimardの関係の「真実」が暴かれたのち、パリの独房で
Gallimardが自ら命を絶っ衝撃的なシーンで戯曲を終える。最後にGallimardはくバタフラ
イ〉を見っけたといい、それはまさに自分自身にほかならないと告白するのだ。
Gallimardは、 Songが「真実の自分」を見せてしまったことに嘆くが、その一方で最終場
のGallimardのせりふは、彼自身もまた、〈真実の自分〉=〈バタフライ〉を見てしまったこ
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音楽とアイデンティティ
とを示唆している一“And I have found her at last. In a prison on the outskirts of Paris. My
name is Rene Gallimard−also known as Madame Butterfly”(93)。 GallimardとSong双
方のまなざしに映ったく真実の自分〉=〈マダム・バタフライ〉とは、西洋・白人・男性の異
性愛と欲望が創りだした幻想にほかならず、GallimardとSong双方の「想像的自己」ともい
えるのではないだろうか。このことを明らかにしているのは、M. Butterfl yの最初と最後の
せりふであろう。第一幕では、舞台奥で踊りっづけるSongにGallimardが“Butterfly, But−
terfly_”(1)と独白するが、その一方終幕では、男の姿のSongが自害したGallimardを凝
視して、煙草を吸い、その煙が照明のなか、たちのぼるなかで口にするのも“Butterfly?But−
terfly?”(93)である。劇のなかで、最初と最後のくバタフライ〉が呼応している。
だからこそ、最終場でGallimardは、「彼女とはじめて出合った幻想の世界へもどることで」
「愛が無駄ではなかったと証明して」みせなければならなくなる。なぜならば、「個人のアイデ
ンティティとはしたがって、『ひとっの人格の属性というよりむしろ一人のストーリーテラー
の成熟』」(Frith 122)なのだから。 M. Butterflyは、西洋・白人・男性のなかにある固定化
された「東洋のひとっのイメージ」と彼個人のアイデンティティ双方を語り直していくプロセ
スを描いた壮大な演劇的スペクタクルにほかならない一「アイデンティティは事象ではなく、
プロセス、音楽としてもっとも生き生きと把握される経験的なプロセスである。音楽はアイデ
ンティティを解く鍵であるように思われる。なぜなら、音楽は自己と他者双方の感覚、集団内
での個人の感覚をひじょうに強くもたらしてくれるからである」(Frith 110)。
M.ButterfZ yは、先に述べたように、 Hwangが「ある奇妙な歴史の短い事件を、東洋と
西洋、男と女、帝国の権力とコロニアルな主体とのあいだの葛藤にたいする洞察力あふれた観
点へと変容させた」劇である(Simpson 50)。これまで検証してきたように、ジェンダー化さ
れた西洋音楽を「批判的に模倣」する一方で、中国の音楽と舞踊の要素を導入して、「東洋と
西洋、男と女、帝国の権力とコロニアルな主体」の越境の可能性にたいして、演劇的装置と想
像力で提示している。
この点において、音楽は、劇作家が問題提起するジェンダー、セクシュアリティ、人種民族
や帝国主義の相互作用(“interplay”)と同時に、あわせて文化のダイナミズムの魅惑とポリ
ティクスの困惑へと観客を導く。だからこそ、Hwangは、とくに問題を孕む二項対立の正当
化を脱構築するために、既存の境界が固定化されたものではなく、流動的なものであると観客
に提示し、両者の越境を可能にする新しいく境界のない空間〉(=音楽)の物語にっくりかえ
たとはいえないだろうか。Hwangにとって、西洋の演劇と京劇のスタイルを混交させること
は、政治的な表明にほかならない(Savran 121)。いいかえれば、 M..Butterfl yは、〈アメ
リカ〉それ自体の表象空間とく文化のポリティクス〉への批判的介入の劇でもあるのだ。
おわりに
Hwangは、ミュージカル1710ωer Drurn Songの序文で、 M. Butterfl yを書き始めたころ
85
原 恵理子
は、プッチー二のオペラにっいてほとんど知らなかったことや、オペラのヒロイン「蝶々さん」
(Cio−Cio−San)を「従順なアジア女性のステレオタイプ」の典型と考えていたことを正直に
告白している。しかし、彼は、舞台の上演が始まるころまでには、プッチー二の作品や意図に
たいして新たな観点をもっようになる。作曲家がオペラを書いた時代、すなわち19世紀のはじ
めには、「日本人のヒロインを貞淑な人物にし、恋人のアメリカ人を悪者にすることによって、
大胆で進歩的なことをしたのだ」と。
そして、Hwangは、「ある時代の文化の画期的な成功が固定化し、時代を通じてステレオ
タイプになるのである」(FIOωer Drunz Song xi)と確信して、文化について次のような見解
を示している。
Culture is a living thing, constantly changing and evolving;intercultural work has a1−
ways existed, as artists have incorporated new influences through migration, con−
quest and commerce.(Floωer Drum Song xi)
たしかに「文化は生き物であり、っねに変化し、進化していく」という解釈は、近年のアイデ
ンティティ・ポリティクスのなかで、文化の本質主義を問う議論とも関わり、また、マルチカ
ルチュラルズム(多文化主義)の理念と実践の中で、浮上してきたインターカルチュラルズム
の議論など、グローバル化・デジタル化により激変する文化状況をめぐり、多角的に論じられ
る必要があるのではないだろうか。Hwangは、 M. Butterflyにおいて、マルチカルチュラル
ズムとインターカルチュラルズム双方の問題を演劇的に提起したといっても過言ではないだろ
う。
文化はある意味、「っねに変化し、進化していく」プロセスのなかに存在するものだとする
ならば、まさにブリスが強調したように、カルチュラル・アイデンティティも日々っくられ、
語られ、経験されていく「変化と進化」のプロセスにほかならないだろう。しかし、Hwang
は同時に、こうした文化の(行為自体を遂行するという)パーフォマティヴな事象は、「越境
や、征服(占有)、交渉」をとおして、芸術家が新しい影響を織り込んでいることにも言及し
ている。M. Butterflyは、 Hwangによれば、〈マダム・バタフライ〉という文化のステレオ
タイプの解体である一方で、決して「反アメリカ」または「反西洋」の劇ではないと断言して
いる(Kim 133)。
たしかに、M. Butterflyは、ジェンダーの転覆だけでなく、登場人物のキャリアの観点か
らみると、フランス外交官のGallimardと京劇のスターSongの双方が演じることで、人種
民族、セクシュアリティ、階級の問題から、さらに独房で元外交官Gallimardが回想する北
京での10年間(1960年から1970年まで)には、ベトナム戦争のみならず、西欧列国のアジア支
配や侵略が烈しくなった時期とも重なり、歴史やイデオロギーにまでおよぶグローバルなポリ
ティクスに介入を試みているといえよう。この戯曲でHwangがアジア女性の文化のステレオ
86
音楽とアイデンティティ
オリエンタル
タイプー「従順な東洋の女」を解体することへの期待と展望とは、そうしたポリティクスへ
の批判的介入にほかならないであろう。そして同時に、M. Butterflyは、むしろ社会的歴史
的現実とは、文化をめぐるイメージやヴィジョンの交渉、葛藤、緊張関係をとおして、構築さ
れていくことを明らかにするのである。
本稿で考察されたように、「人間が自分の身体や感情に対して持つ知覚認識は、音楽によっ
て構成される度合いがかなり高い。その限りでいえば、音楽は、歴史にっいて他のメディアで
は知り得ないことを教えてくれる」(マクレアリ 59)。M. ButterfZyは、 Hwangのことば通
り、“a deconstuructivist Mαdαme Butterfly”の劇としてはもちろんのこと、インターカルチュ
ラルな演劇としても、「マダム・バタフライ」の音楽が喚起する身体性と歴史性にあらためて
迫り、〈文化のポリティクス〉を鋭くみすえる作品なのである。
註
本文中の引用文で邦訳のあるものに関しては、引用文献リストに挙げている邦訳を使わせて
いただいた。なお、引用文後の括弧内に示されている引用頁数は、すべて原著の頁数である。
1)日本公演は、1989年、劇団四季が上演。
2)Pucciniは、1900年6月にロンドンでアメリカの劇作家David Belasco(1859−1931)によ
るMαdαme Butterflyを観劇し、オペラ化を構想している。この劇は、アメリカの弁護
士で小説家John Luther Long(1861−1931)の同名の短編小説に基づくものである。
3)Hwangは、「あとがき」で、「オリエンタル」と「エイジアン(アジアの)」とのことば
の用いかたの違いにっいては、“Iuse the term‘Orientar specifically to denote an exotic
or imperialistic view of the East”(95)と述べている。
4)Miss Sαigonについては、拙論「アジア系アメリカ女性演劇とエンパワメントー記憶と歴
史の戦略的表象」『ジェンダーとアメリカ文学』(勤草書房、2002)161−210を参照のこと。
Pαcific Overturesは、 John Weidmanの台本、 Stephen Sondheimの作詞、作曲による
ミュージカルである。1976年にブロードウェイで初演。舞台は江戸時代末期の日本、黒船
が浦賀に来て、日本は開国と鎖国政策のあいだで揺らぎ、ジョン万次郎と浦賀奉行所の与
力香山が繰り広げる物語である。
引用文献
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ミニズムとアイデンティティの撹乱』青土社、1999]
3)Frith, Simon.“Music and Identity.”Questions()f Culturα1 ldentity. Eds. Stuart Hall
and Paul du Gay. London:SAGA Publishers,1996.108−127.[サイモン・ブリス 柿沼
敏江訳 「音楽とアイデンティティ」『カルチュラル・アイデンティティの諸問題』大村
書店、2001]
4)Gilbert, Helen, and Joanne Tompkins, eds. Post−coloniαl Drαmα:Theory, Prαctice,
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原 恵理子
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平凡社、1986
15)スーザン・マクレアリ 女性と音楽研究フォーラム訳『フェミニン・エンディングー音楽・
ジェンダー・セクシュアリティ』新水社 1997
16)戸口幸策訳 『オペラ対訳ライブラリー プッチー二 蝶々夫人』音楽之友社 2003
Summary
David Henry Hwang, a US. born son of Chinese immigrants, who was ollce a musician
and now a Chinese American playwright, won the Tony Award for best play of 1988 with
MButterflッ. Since then it has been produced around the world and is considered one of the
most important American dramas in the twentieth century. The play’s“idea of a
deconstructivist Mαdαme Butterfly,”an Italian opera by Giacomo Puccini, came up to him
after hearing and reading“a strange historical vignette”:“a French diplomat carries on a
19−year love affair with a Chinese opera star, never realizing that his paramour is a spy−
and a man.”For Hwang music and identity issues have been a lifelong theme. M. Butterflッ
creates a site for critical perspectives of gender, race and sexuality as well as Orientalism
and imperialism by blending the Western theater and Chinese opera which Hwang consid−
ers as a highly theatrical representation. This paper explores M But亡erfly as not only
Hwang’s attempt to deconstruct an Asian woman’s stereotype of“Butterfly”but also a
political statement by questioning the issues between current global politics and inter−
cultural representation through music as a cultural discourse.
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