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経済学入門
ローザ・ルクセンブルク著
佐野文夫訳
凡例
・底本における旧漢字は新漢字に、旧仮名遣いを新仮名遣いに改めている。更に、
「週期」、
「計劃」、
「顛
倒」
、
「撰」はそれぞれ、
「周期」
、
「計画」
、
「転倒」
、「選」に変えた。
・いくつかの語で送り仮名の統一をした。
「彼れ」
、
「次ぎ」
、「誰れ」はそれぞれ「彼」、「次」、「誰」と
する。また「思出」
、
「買手」
、
「売手」はそれぞれ「思い出」、
「買い手」
、「売り手」と。更に、踊
り字はすべて解消した。
「以て」はそのママだが「以って」は「もって」とした。
・いくつかのカタカナ表記を変更した、一覧を巻末に記す。
・
【】はすべて本PDF作成者による挿入である。そのうちいくつかは岡崎次郎・時永淑訳版を参照し
てのものである。伏字 ×× の注記【】も岡崎訳からの推測である。
・ルビは、いくつか底本にあるが、本作成者によるものもある、特に明記しない。
るものである。文献名で青字斜体であるものはネット上に公開されていることを示す。
・底本における頁末の脚注はすべて文節末に移した。青線で区切った頁末の脚注はすべて作成者によ
・他著からの引用文を一段下げ、あるいは一段階小文字で表示したのは、底本には無く、作成者である。
本PDFは、 Rosa Luxemburg(1871-1919)
著 "Einführung in die Nationalökonomie"
を佐野文夫が訳
し、当初叢文閣から出版された。のちに岩波文庫に 収録されたものである。
目次
訳者序
第一章 国民経済学とは何ぞや
一 経済学の対象
経済学の対象についてのブルジョア学者の解釈の曖昧 ロッシャーの解釈 シュモラーの解釈
経済学発生の時期についての見解の相違 ブランキイおよびデューリングの解釈 ラサールの解
釈 マルクスの解釈 シュモラーの解釈
二 「国民経済」の本質
国民経済の本質についてのブルジョア学者の解釈の相違 ビュヒャーの解釈 これに対する批評
三 国民経済か世界経済か
一国民の自立的経済が存立しているか ドイツ国民の経済生活 国際的経済の存立 ブルジョア
学者は世界経済の存立を否認する これに対する批評 国際貿易は工業国と農業国との対立より
生ずるという説に対して ドイツの輸出入 国民の経済は自立していない 世界の経済的聯結の
基礎は単純商品交換に非ず 政治的支配関係による聯結 資本輸出による聯結
四 国民経済か世界経済か(続)
イギリス木綿工業の発達とその世界的影響 資本主義経済は世界を経済的全一体たらしむ ブル
ジョア学者の世界経済否認の階級的根拠
五 資本主義生産様式の法則の発見
自然経済時代における農民経済 カロロ大帝の経済 自然経済の特徴 資本主義経済の特徴――
商業恐慌を例として 失業を例として 価格変動を例として 経済学の任務は資本主義生産様式
の法則の発見にある 古代経済および封建経済の計画性 資本主義経済の無秩序性 資本階級の
経済学と労働偕級の経済学
六 経済学と労働階級
経済学の存立は資本主義の存立に伴う ブルジョア革命の武器としての古典経済学 社会主義の
実現とともに経済学は終焉する プロレタリア解放運動の武器としての経済学 フランス革命と
社会主義 ユトピア社会主義 科学的社会主義の発生 経済学とプロレタリア運動との特殊関係
第二章 経 済 史 (一)
一 原始共産社会の歴史的地位
マウラーの発見 ゲルマン民族共産体の発生過程 ハックスタウゼンの発見 スラヴ民族共産体
インド共産体 アラビア民族共産体は 古代ペルー共産体 原始共産主義は文化発展の一定段
階における普遍的形態である モルガンの原始共産主義学説 階級搾取社会は文化発展における
一時的段階にすぎぬ モルガンの業績とマルクス主義
二 原始共産主義学説と資本家的階級利害
原始共産主義学説にブルジョア学者が反対する階級的根拠 リッペルトの反対論 ビュヒャーの
反対論 グローセの反対論 これに対する反駁
三 原始的種族における共産主義
農業に至らざる最原始的種族の生活 オーストラリア黒人 南カリフォルニア・インディアン族
南アメリカ・ポロラ族 フォイエルランド族 ミンコピー族 農業に至らざる種族の間には共
産主義経済が行われている 農業共産主義は原始共産主義の最高且つ最終の形態
四 経済史に対する資本階級の見地と労働階級の見地
経済史的発展の要因として何を選ぶべきか 決定的要因――生産手段に対する労働力の関係 ブ
ルジョア学者の経済史的段階の分類 ビュヒヤーの分類 これに対する批評 ブルジョア学者が
経済史の尺度として交換分配消費な選ぶ階級的根拠 経済史に対する階級的立場の相反
第三章 経 済 史 (二)
一 原始共産社会の内部的組織と各種崩壊様式
ゲルマン共同体の内部的組織 古代ペルー共同体の内部的組織 古代ギリシャ共同体の内部的組
織 原始的社会組織の崩壊の経路 資本主義との衝突 スペイン植民地におけるインディアン共
同体の崩壊様式 インド共同体の内部的組織とその崩壊様式 ロシア共同体の内部的組織とその
崩壊様式
二 原始共産社会の崩壊過程総説
土地共産体の順応性と耐久性 労働生産力と生産関係との衡突 集約的耕作の必要と土地私有の
発生 公共的仕事の増大と身分的分化 アフリカ黒人社会における専制政治 外来民族の支配
資本主義の侵入
第四章 商品生産
一 商品交換の成立
共産体に共有および共同労働計画が突然廃止されたと仮定する 交換によって社会的聯結が再建
される 商品生産の発生 交換社会において私的労働が如何にして社会的労働となるか 商品交
換が社会関係に及ぼす変化
二 商品交換の成立
如何にして社会的交換が成立し得るか 一般的商品の発生 貨幣の出現と貨幣の諸機能
三 商品経済の歴史的発展
共有の崩壊と私有の発生 分業の発達 偶発的交換より規則的交換へ 一般的商品 金属貨幣の
出現と商品経済の支配
四 単純商品生産より資本家的生産へ
商品交換の基礎――スミス、リカルドの労働価値学説 マルクスの功績 貨幣廃止による社会主
義実現の企図 価値通りの交換が行われるのに如何にして富の不平等が現れるか
第五章 賃銀法則
一 商品としての労働力
労働力商品の出現 労働力の価値 労働力商品の特殊性 労働力が商品となる諸条件 労働生産
性の発達 労働者の人身的自由 生産手段よりの分離 商品経済の存立
二 労働日
支払労働時間と剰余労働時間 奴隷労働の搾取と賃銀労働の搾取 剰余価値増大のための二方針
――労働日のの延長と賃銀の引下 労働日の長さは資本家対労働者の実力によって決せられる
最短労働日制定の時代 最長労働日制定の時代
労働日を中心とする闘争史
三 賃銀形成の基準
名目賃銀と実質賃銀 労働力売買における資本家の立場と労働者の立場 労働組合組織によって
のみ労働力は価値通りに売られ得る 労働者生活標準が生理的最低限度に引下げられる傾向
四 産業予備軍の発生
産業予備軍の存在は資本主義経済の存立条件 産業予備軍の諸層 産業予備軍の形成は資本主義
特有の現象 ブルジョア学者は失業者層の存在を自然律と見る
五 相対賃銀と社会主義運動
絶対賃銀と相対賃銀 相対賃銀の低下は資本主義発展の必要条件である 相対賃銀低下に対する
抗争は資本主義そのものに対する闘争となる 組合運動と社会主義運動
六 賃銀形成に及ぼす労働組合の作用
労働者生活標準は労働組合組織によってのみ高められる 生活標準向上に及ぼす労働組合の作用
には限界がある 「賃銀鉄則」理論とそれに対する批評
七 賃銀労働者の発生
何処から最初のプロレタリアが発生したか
第六章 資本主義経済の諸傾向
一 資本主義生産様式の矛盾
無秩序を原則とする資本主義経済を可能ならしむる諸条件 資本主義を可能ならしむる法則が不
可 能 な ら し む る 法 則 に 転 化 す る 資 本 の 世 界 的 司 令 ―― 世 界 貿 易 と 植 民 地 侵 略 資 本 主 義 の 矛 盾
は世界経済の成立に至って赤裸々に現れる 資本主義生産の拡張慾と市場限界との衝突
訳者序
かつ
てドイツ社会民主党学校において試みた経済学講義の内容
一 本書はローザ・ルクセンブルグが曾
を、ローザ自身の手によってまとめたものである。ローザはこれを完成して公けにする機会を得ずに、
スパルタクス叛乱において反革命暴徒のために虐殺されてしまった。曾てはローザと同じ党に属して
いたパウル・レヴィが、右の遺稿を編纂して、一九二五年ベルリンで公けにしたものが本書である。
本書に収められた部分は、ローザの企図の一部にすぎず、それも所々は未完結のままに、或は単なる
覚書のままに残されている。レヴィはこの事情を説明して、
「著者の突如たる死が、著者の企図を完
成することを妨げたためか、それとも彼女の住居に侵入せる兇漢が、ここに欠けている原稿を盗み去
ったためか」と推測している。本書にまとめられた部分の原稿は、同じく編纂者の推測によれば、一
部は多分世界戦争前に、一部は戦争の前半期に執筆されたものである。
二 ローザ・ルクセンブルグは二十世紀のドイツ無産階級運動が生んだ最高の革命的マルクス主義
者であった。彼女の理論的著作には、つねに能動的変革的立場が一貫している。そしてこの態度は労
働者に向って語られたこの講義の進め方にも鮮やかに現れている。この態度こそは本統のマルクス主
義的態度であって、理論の大衆化はかかる見地に立ってのみ初めて行われ得るものである。「如何に
訳者序
9
ばっすい
すべきか」という視点を離れて純粋に静学的に、資本論の骨抜き的「祖述」を事とするカウツキイと、
マルクスの方法を無視して機械的「抜萃」と寄木細工式解説とを事とするボルハルトの態度と、本書
におけるローザの態度とを比較すれば、両者の態度が本質的に異なることが判明するであろう。
せんめい
て、ショモラー、ロッシャ
三 この講義は最初にブルジョア学者の「国民経済学」の本質を検討かし
んぷ
ー、ビュヒャー等のブルジョア経済学代表者の思想の矛盾と曖昧とを完膚なく曝露し、経済学におけ
ここ
る階級的立場を闡明し、次いで経済の歴史的考察に移って、原始共産社会の歴史的地位を、詳細なる
材料によって解明し、茲にも経済史に対する資本家的見地と無産者的見地とを説明し、次に商品生産、
賃銀法則の題目の下にマルクス主義経済学の基本法則を解明し、最後に資本主義経済の諸傾向を説明
せんとしてこの講義の原稿が中絶している。本書に資本の機能および運動についての重要な項目が欠
けているのは、恐らくその部分の原稿が失われたのであろう。最後の章は資本主義崩壊の法則の説明
に宛てられたものであるが、そこまで発展することなしに、その戸口に至って原稿が中絶しているの
は惜しむべきである。しかしながら本書を一貫せる著者の全体的見地は、右の構造上の欠陥にも拘わ
らず、本書を従来の経済学解説者と質を異にするところの卓越せる『入門書』たらしむるを妨げない
であろ う 。
四 本書中の脚注のうち、著者の心覚え風のもの、読者に直接不必要と思われるものは省略した。
原本には巻頭に編纂者パウル・レヴィの序文が附せられているが、つまらない内容のものであるから、
10
佐野文夫
これも省略することにした。訳者は読者の便宜のために、仮りに目次の各節に標題を附し、それに細
目を加 え て お い た 。
一九二六年二月
訳者序
11
第一章 国民経済学とは何ぞや
一
国民経済学は奇妙な学問である。この領域に第一歩を踏み入れるに当って、即ち、この学問の特有
の対象は何ぞやという最も初歩的な問題に当って、早くも難点と意見の相違とが初まる。国民経済学
とは何を教えるものであるかという点について、全然漠然たる観念しかもっていない単純な労働者は、
自己の不明を自分自身の教養の不足に帰するだろう。しかしながらこの労働者は、この場合は、国民
経済学について大冊の著作を書いたり、大学で青年学生のために講義を行ったりしている幾多の博学
な学士や大学教授と、或る意味においてその不幸を共にしているのである。信じられないような話で
はあるが、国民経済学の専門学者の大多数が、自分の学識の本統の対象が何であるかについて、極め
こさ
て曖昧な概念をもっているのは事実である。
専門学者諸君の間では、定義を拵えるのが、言いかえれば複雑極まる事物の本質を二三の整然たる
命題の中に言い尽すのが、慣わしになっているのだから、吾々は試みに国民経済学の公式代表者の口
きしゅく
から、この学問が根本的に如何なるものであるかを聞くことにしよう。まず最初に、ドイツ大学教
授仲間の耆宿 【老大家】であり、国民経済学に関する無数の驚くべき厖大な教科書の著者であり、謂
12
わゆる「歴史派」の創始者であるウィルヘルム・ロッシャー 【 Wilhelm Georg Friedrich Roscher, 1817-94
】が、
これについてどんなことを言っているかを見よう。彼の最初の大著、
『国民経済学の基礎。実業家お
よび研究者用参考書並びに教科書』――これは一八五四年に発行され、爾来二十三版を重ねてきてい
る――において、吾々はその第二章第十六節に次の如き章句を読む。
国民経済即ち経済的国民生活の発展法則の学と解する(フォン・マンゴルト【 Hans
「吾人は国民経済学を、
】の言をかりれば、国民経済史の哲学)
。これは国民生活のすべての学と同
Karl Emil von Mangoldt, 1824-68
じく、一面には個々の人間の観察と関聯し、他面には全人類の研究にまで伸長する。」
あらかじ
さて「実業家および研究者諸君」は、国民経済学とは如何なるものであるかを理解したか?それは
つのめがね
つのぶち
ロ バ
取りも直さず――国民経済の学なのだ。角眼鏡とは何か? 角縁の眼鏡だ。荷驢馬とは何か? 荷を
運ぶ驢馬だ。小さな児どもに熟語の用法を説いて聞かせるのは、実に造作もない方法である。ただこ
の場合困ったことには、予め問題の言葉の意味を理解していない人間は、その言葉が如何に置き代え
られても、それによって一向利口にはならないのである。
「国を超え大洋まで」名声
次にもう一人のドイツの学者、現にベルリン大学の経済学教授であり、
】に転じよう。ドイツの大
を馳せている官学の一光明、シュモラー教授 【 Gustav von Schmoller, 1838-1917
学教授連の大きな合著、『国家諸科学中辞典』(コンラッド教授 【 Johannes Conrad, 1839-1915
】およびレキ
】編纂)の中に、シュモラーは、国民経済学に関
シス教授 【 Wilhelm Hector Richard Albrecht Lexis, 1837-1914
第1章 国民経済学は何ぞや
13
する一論文において、国民経済学とは何ぞやという問題に対して次の如き解答を与えている、
「それは国民経済的現象を記載し、定義し、原因によって説明し、並びに一個の聯結せる全体として理解
せんとする学であると言いたい。もっともこの場合、国民経済なるものが予め正当に定義されてあるこ
とを前提されているのは勿論である。この学の中心になっているものは、今日の文化的国民の間に反復
い
い
されつつある典型的諸現象、即ち分業および労働編制、交通、所得分配、社会的経済文物であって、後
者は私法および公法の一定形態に依倚し、等一の又は類似の心理的力によって統御されて、類似の又は
等一の規定または勢力を生み出し、その総体的記載はそのまま現在の経済的文化世界の静態、この文化
世界の一種の平均的組織を説明するものである。この学は右のものから出発して、次に個々の国民経済
相互間の偏差や、諸所における異なれる組織形態を観察せんと試み、これらの異なれる種々の形態が如
何なる結合を行い、如何なる結果において現れるかを探究してきた。そして此くの如くにして諸形態相
互の因果的発展、並びに経済状態の歴史的継起という観念に到達している。即ちそれは静態的観察に動
態的観察を添加してきたのである。そしてこの学は、その最初の出現からすべての人倫的歴史的価値判
断に因って、理想を打ち立てるにいたったように、それと並んでこういう実践的機能をつねに或る程度
まで維持してきた。それは理論の外に、生活のための実際的教説をつねに組み立ててきたのである。
」
やれやれ! ひと息つこう。つまりどうなったのだ? 社会的経済文物――私法および公法――心
理的力――類似と等一――等一と類似――統計――静態――動態――平均的組織――因果的発展――
人倫的歴史的価値判断……何しろ凡人にとっては、頭の中に水車が廻っているようで、何が何やら分
14
らなくなる。不撓不屈の知識慾と大学教授的智慧の泉に対する盲目的信頼とを以て、凡人はその中に
何等かの理解し得る意味を発見するために、この訳の分らぬ文句を二度も三度も一生懸命に熟読する
ことに骨折るだろう。だがおそらくはそれは無駄な骨折りとなるであろう。そこに示されているもの
しるし
は、取りも直さず音響だけの文句、飾り立てられた言葉の音響以外の何ものでもない。そしてそれを
示す間違いのない一つの徴号がある。即ち明瞭に考え、自分が話している事柄を本統に掴んでいる人
間は、同時にまた明瞭に、分るように言い現すという事実である。哲学の純粋心象や宗教的神秘論の
幻想を主としているのでない場合に、曖昧に且つ業々しく言い現す人間は、その事柄そのものが分っ
ていないのか、それとも明瞭に語ることを避ける原因を何かもっていることを立証するものに外なら
ぬ。経済学の本質に関するブルジョア学者の曖昧な訳の分らぬ言葉は決して偶然ではないこと、その
言葉の中にはむしろ二つのものが現れていること――即ちこれらの学者諸君自身の不明瞭も現れてお
れば、問題の真の闡明を厭がる彼等の偏頗な、意地悪い根性も現れていることを、後に吾々は見るで
あろう 。
経済学の本質の不明瞭な定義が、事実において一個の論争的問0題0であるということは、或る外部の
事情によって明瞭にすることができる。それは国民経済科学の年齢について、極めて矛盾した幾多の
見解が現れてきているという事実である。たとえば知名な老史家であり、かってパリ大学の経済学教
】――有名な社会主義指導者であった
授だったアドルフ・ブランキー 【 Jérôme-Adolphe Blanqui, 1798-1854
第1章 国民経済学は何ぞや
15
コンミュン戦士オーギュスト・ブランキー 【 Louis Auguste Blanqui, 1805-1881
】の兄弟――は、一八三七年
に著した『経済発達史』の第一章を、次の題言を以て始めている、「政治的経済学(国民経済学をフ
ランス語で言い現せるもの)は、人々が考えているよりも古い時代のものである。ギリシャ人および
ローマ人はすでに彼等の経済学を有していた」と。他の経済史家、たとえば以前のベルリン大学講師
】の如きは、その反対に、国民経済学は普通に考
オイゲン・デューリング 【 Karl Eugen Dühring, 1833-1821
えられているよりも、甚しく年代の若いものであって、この学問はもと十八世紀後半に初めて生じた
ものであることを力説する必要があると考えている。そしてまた、この点に関する社会主義者の判断
】は一八六四年にシュルツェ・デーリッ
を挙げれば、ラサール 【 Ferdinand Johann Gottlieb Lassalle, 1825-1864
】に対する彼の古典的論争書、
チ 【 Hermann Schulze-Delitzsch, 1808-83
『資本と労働』【 "Herr Bastiat-Schulze von
「国民経済学は、その端緒が漸く存在しているだけの、そして尚これから作らるべきところの科学である。」
】の序文の中に、次の如く言い現している。
Delitzsch, der ökonomische Julian, oder: Capital und Arbeit"
これに反してカール・マルクスは、彼の経済学的主著『資本論』――その第一巻は謂わばラサール
によって示された期待の履行として、それ( ラサールの『資本と労働』
)から三年おくれて現れたもの
である――に対して、『経済学批判』という副標題を与えた。このようにマルクスは彼自身の著作を
従来の経済学の圏外に置き、後者を完成したもの、出来上ったものと観て、彼自身の方からはこれに
批判を加えているわけである。こういう風に、或る人々は、この学問は人類の記録歴史と殆んど同じ
16
位に古いと主張し、他の人々は、一世紀になるかならざるものだと主張し、第三の人々は、漸くまだ
幼児になったばかりのものだと主張し、今度はまた別の人々が、この学問はすでに死亡してしまった、
今はそれを批判的に埋葬する時だと主張している――およそこういう学問は、可なり独特な且つ錯綜
した問題を形成していることが明らかである。
る
る
だが同じくまた、今日支配している意い見かのように、経済学が百五十年以前というような晩い時期に
発生したという不思議な事実は、一体如何に説明さるべきであるかを、この学問の公式代表者の一人
ぜいげん
に質問するならば、吾々は飛んでもない忠言を与えられるだろう。たとえばデューリング教授は縷々
贅言を費やして次の如く説明するだろう。古代ギリシャ人およびローマ人は、経済学的書物について
まだ何等学問的概念を有せず、単に日常の経験からの「責任の負えぬ」
、「表面的」な、「至極ありふれた」
観念を有していただけであり、中世は一般に極めて「非科学的」だったと。この博学な説明は特に中
世をこんな風に概括した点においても全然誤っているが、その点を度外視しても、こんな説明の仕方
は吾々を一歩も前進させるものではないことは明白である。
もう一つ一種独特な説明をシュモラー教授は製造している。右に『国家諸科学中辞典』から引用し
た同じ論文の中で、氏は次のことを吾々に御馳走してくれている。
「数百年の間個々の私経済的および社会経済的事実が注意され、記載され、個々の国民経済的真理が認識
され、道徳および法律体系の中で経済上の問題が論究されていた。これまでの個々の部分が初めて一個
第1章 国民経済学は何ぞや
17
の特殊科学に綜合され得たのは、国民経済的諸問題が、十七世紀―十九世紀において、国家の統制およ
び行政にとって従来予想されなかった重大なる意義を獲得し、多数の著述家がこの国民経済的問題に携
わり、青年学生に対してこの問題を教示することが必要となり、同時に一般に科学的思惟の勃興の結果、
集成された国民経済的命題および真理を、十八世紀の顕著なる著述家が試みたように、或る種の根本思
じらい
想――貨幣および交換、国家的経済政策、労働および分業の如き――によって結合された一個の独立的
」
体系に結成するに至った時であった。爾来国民経済学は独立の科学として成立している。
この長々しい説明を短い意味に包括するときは、次の如き教訓を得る。曰く、長い時期の間散り散
りばらばらになっていた個々の国民経済的観察が、一個の特殊科学に結成するに至ったのは、
「国家
の統制および行政」の必要、即ち政府の必要に迫られたとき、そしてこの目的のために大学で国民経
済学を教えることが必要となるに至ったときであると。こういう説明は、ドイツの大学教授にとって
は如何に讃嘆すべきものであり、如何に模範的なものであろう! 尊敬極まりなき政府の「必要」
から、
かっきん
初めて一個の講座が設けられて、一人の精励恪勤なる大学教授が座を占める。然らばまた言うまでも
なく、それに相応した科学が創設されていなければならぬ、でなければ教授は教えるものが無いでは
ないか? こういう理窟を聞いて、王国は永久に持続しなければならぬ、何故なら王国が存在してい
ないとしたら、自分にはこの世に何の仕事もなくなるからだと主張した宮廷儀典長の言葉を思い出さ
ないものがあるだろうか? しかも問題の核心たる国民経済学は、近代国家の政府がこの科学を必要
18
としたから生じたというのだ。お上の注文が国民経済学の本来の出生認知なのだ。この場合々々の帝
ハイエナ
てきがい
国政府の学問的侍僕として、その政府の命令を受けて艦隊拡張案や関税、租税案のために、お好み次
きょうさ
ないど
第に「学問的」な煽動を行うか、でなければ戦場の鬣狗として、戦争中排外主義的な民族的敵愾と精
神的食人主義とを教唆しつつある今日の大学教授の考え方にとっては、君侯の貨幣的欲望「内帑」【君
主の財貨】の利益、政府の一言の命令が、全然新規な一個の学問を呪文で以て出現させるに充分だと
なかんずく
いうようなことを考えるのは、たしかに至極相応わしいことである。にも拘わらず国庫から俸給を受
けているのでない普通一般人にとっては、こういう思想は幾多の難点をもっている。就中こういう説
明は、吾々に新しい謎を課するものに外ならない。何故ならそうなると吾々は次の如き質問を出さな
ければならなくなるからだ。曰く、シュモラー教授が主張しているように、十七世紀頃に近代国家の
政府が、その親愛なる臣僕どもを学問的原理によって欺く必要を、突然感じ出したというのはどうし
たわけか? それまでは政府は幾世紀に亙って、そういう学問的原理なんかなしに、家長的に家来を
世話することに立派に成功していたではないか? おそらくこの場合事柄が転倒しているのではない
か、即ち「内帑」の新規な欲望は、大きな歴史的激変の一個の微細な結果にすぎないのであって、そ
の歴史的激変そのものから国民経済学という新しい学問が十九世紀中葉に発生したのではないか?
要約して言えば、国民経済学とは何を取扱うものであるかを、初めに学士会員から聞けなかった以
上は、この学問が何時、何のために発生したかもまだ分らぬわけである。
第1章 国民経済学は何ぞや
19
二
とにかく一つのことは確かである。即ち、すべて右に引用したブルジョア学者の定義の中には、つ
)というのも、
ねに「国民経済」のことが言ってある。「ナチォナールエコノミー」( Nationalökonomie
国民経済学( Volkswirtschaftslehre
)の外来語にすぎない。国民経済の概念は、この学問のすべての公
式代表者の場合に論究の中心点を成している。然らば国民経済とは一体何であるか?「国民経済の発
生」に関する著作を以て、ドイツにおいても外国においても非常な名声を馳せているビュヒャー教授
しょい
「一国民全体の欲望の充足が惹起するところの、設備、文物、所為の総体が国民経済を形成する。国民経
じゃっき
【 Karl Bücher, 1847-1930
】は、これについて次の如き教えを垂れている。
済はまた幾多の個別経済に分れ、後者は交通によっ て 互いに 結 合され て いる、 そして 個 別経済 が 各自、
い
い
0
0
他のすべてのために或る任務を負い、他のすべてからかかる任務を負わされていることによって、相互
に対して千種万様に依倚し合っている。
」
矢張りこういう博学な「定義」を、普通一般人の言葉に飜訳して見よう。
まず第一に、一国民全体の欲望を充たすべく定められている「文物および所為の総体」という言葉
を聞くときは、吾々はありとあらゆるもの――工場や職場、耕作や牧畜、鉄道や倉庫、それと同じく、
牧師や警官、舞踏会や登録官や天文台、議会選挙や国君や軍人協会、将棋倶楽部、畜犬展覧会、決闘
20
などを思い出さなければならなくなる――何故ならすべてこういうものと、
なおこれ以外の幾多の
「文
物および所為」の無限の連鎖は、今日「一国民全体の欲望を充たす」役をつとめているからである。
そうなれば国民経済なるものは、天地の間に起こる一切のものの綜合となり、国民経済学なるものは、
ラテンの諺にあるように「すべての事物となおその上にいくらか」を取扱う一個の普遍科学となるわ
けであ る 。
このライ0プ0チ0ヒの大学教授の太っ腹な定義は、明らかに一の制限を受けなければならぬ。多分彼は
一国民の物質的欲望の充足、もっと正確にいえば物質的事物を以てする欲望の充足に役立つ「文物お
よび所為」のみを言おうと欲したのだ。だがそうしたとしても、「総体」というのが余りに広汎な意
しの
味に捉えられ、再びわけなく雲霧の中で消失することになろう。とはいえ吾々はできるだけこの中に
手がかりを見出すことに努めよう。
ぐ屋根を必要とし、寒い地帯では衣
すべての人間は生き得るためには飲食物を必要とし、雨露を凌
服を必要とし、更らに家内における日常用途のための種々の器具を必要とする。これらの物は簡単な
あぶ
ると、精巧なると、つつましやかなると、豊富なるとを問わず、いずれにしてもあらゆる人類社会の
存立のために欠くべからざるものであり、従って――炙った鳩はひとりでに口の中に飛び込むもので
はないから――人間によって絶えず調達されなければならぬ。それにすべての文化状態において、な
お生活の美化と精神的社会的欲望の充足とに役立つ種々の対象――敵に対する防衛のための武器とい
第1章 国民経済学は何ぞや
21
うような――がこれに加わる。即ち謂わゆる野蛮人の場合には、舞踏の面や、弓矢、偶像がそれであ
り、今日吾々の場合は、贅沢品、寺院、機関銃、潜航艇がそれである。今度はこれらのすべての対象
物の製出には、それをつくるに役立つ各種の自然材料や道具が矢張り必要である。しかるに石、木材、
金属、植物等の如き材料も、人間の労働によって地殻から採取されるのであり、その際に使用される
道具も、矢張り人間労働の産物なのである。
そこで暫くこういう粗削りの観念で満足しようとするなら、吾々は国民経済なるものを略々次の如
く考えることができよう。各国民は絶えず自己の労働によって、生活に必要な事物――食物、衣服、
建物、家具、装飾品、武器、文化品等、同じくまたこれらのものの製出に欠くべからざる材料および
道具――の或る一定量をつくり出している。さて一国民がすべてこういう労働を遂行し、製出された
財を個々の成員の間に分配し、これを消費して生活の永久の循環中に再び新たに製出する――すべて
そういうやり方全体が、その場合の国民の経済、即ち一個の「国民経済」を形成するのである。これ
が大略ビュヒャー教授の定義の中の第一の命題の意味なのだろう。だが更らに解釈を進めて行こう。
「国民経済はまた幾多の個別経済に分れ、後者は交通によって互いに結合されている、そして個別
経済が各自、他のすべてのために或る任務を負い、他のすべてからかかる任務を負わされていること
ようや
によって、相互に対して千種万様に依倚し合っている。」ここに吾々は或る新たなる問題に当面する。
曰く、吾々が漸く腐心して考え当てたところの「国民経済」が個別経済に分れるという、その「個別
22
経済」とは一体如何なるものであるか? 最も手近かなところでは、おそらくその中に個々の家政、
家族経済を数えるべきであろう。事実において、謂わゆる文化国では各国民はいずれも無数の家族か
ら成り立っている、そして各家族はまた常則として一個の「経済」を自分のために行っている。この
私経済の本質は次の点に存する。即ち家族はその中の成人の仕事からにせよ、その他の源泉からにせ
ほうちゅう
よ、或る何等かの貨幣収入を得て、それで以て衣食住等の欲望の充足に宛てる。そしてこの場合一個
、洗濯物戸棚、保育室などが
の家族経済を考えるなら、普通にこの観念の中心には主婦、庖厨 【台所】
0
0
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0
浮んでくる。「国民経済」がこういう「個別経済」に分れるというのか? 吾々は一種の当惑に陥る。
吾々
がいま解き明してきた国民経済の場合は、主眼となっているものは何よりもまず、衣食住、什器、道具、
0
0
材料として生活および労働に要するすべての財の製出である。即ち国民経済の中心点には生産が位し
ている。これに反して家族経済の場合に主眼となっているのは、種々の物品の消費なのであって、そ
の物品は家族がその所得を以て出来合いのままを買っているのである。近代国家における大多数の家
族は、今日殆んどすべての生活資料、衣食、什器等を店や市場で出来合いのまま買っているのを吾々
こしら
は知っている。家庭経済においては、買入れた生活資料からのみ食物が調製され、また少なくとも買
った材料で衣服を拵えている。農家がまだ生活に必要な大多数のものを一家内の労働によって調達し
しょくしょう
ているのは、全然進歩におくれている田舎だけである。なるほど近代国家においても、種々の工業生
産物を多量に家内で製出する数多の家族が存在してはいる。たとえば家内 織 匠 や出来合洋服工がそ
第1章 国民経済学は何ぞや
23
うである。また吾々の知っているように、村を挙げて玩具や何かを家内工業で拵えているところもあ
いえど
る。しかしながらそういう場合であっても、家族によって拵えられた生産物は、専らそれを注文しそ
れを買取るところの企業家に属するのであって、その中の一個と雖もその家族自身の消費へは移らず、
家内で働いている家族の経済の中には入り込まない。自家の経済のためには家内労働者は、自分の乏
しい賃銀から、他の一般家族と同じようにすべて出来合いを買うのである。そこで吾々は、国民経済
0 0
0
0
は幾多の個別経済に分れるというビュヒャーの命題を以て、別な言葉で大体次の結果に到達したこと
」
になる。曰く、国民全体の生存手段の製出は、個別的家族による生活資料の単なる消費に「分れる。
――何と飛んでもない馬鹿げたことのように見える命題ではないか。
「交通によって互いに結
なおもう一つの疑問が生ずる。「個別経済」は、ビュヒャー教授によると、
合し」、なお「各自他のすべてのために或る任務を負う」のだから、すべて相互に対して依倚し合っ
ているという。ここにいう交通や依倚とは、如何なるものを意味しているだろうか? 種々の私家族
の間に現れる友隣的な種類の交通のことだろうか? だが一体そういう交通は、国民経済と、並びに
一般に経済と何の関係があるというのか? それは勤勉な主婦のすべてが主張しているように、隣人
との家々の交通が少なければ少ないほど、経済や家庭内の平和にとって有益なのだ。そして「依倚」
という点で言えば、金利生活者のマイヤーの家経済が、
中学校教頭のシュルツェやその他すべての人々
の経済のために、どんな「任務」を負ってきたのか、
、一向想像することができない。吾々は明らか
24
に道を外れた。それで問題を別の一端から捉えなければならぬ。
故にこういう個別的家族経済に、ビュヒャー教授の「国民経済」が分れるということはあり得ない
のは一見して明らかである。それなら、個々の工場、職場、農場や何かに分れるのではないだろうか?
ボタン
らのすべての経営に
今度は吾々は正道に辿り着いたことを主張し得る根拠があり相に見える。こほれ
んとう
おいて、国民全体の維持に役立つものが種々製出され、生産されているのも本統であり、また他方に
こきゃく
おいてもそれらの経営の間には如何にも交通と相互的依倚とが存している。たとえばズボン釦を製造
する工場は全く裁縫職場に依倚しており、そこで彼等は自己の商品に対する賈客を見出すのであるが、
一方裁縫工はまたズボン釦がなければズボンをよく仕立て上げることができぬ。他方において裁縫職
場は材料を使用する、それで羊毛および木綿織匠に依倚しており、後者はまた後者で牧羊業や木綿取
引業に依倚しているといった風である。ここに吾々は事実上多岐に亙っての生産の相互関聯を認める
ことができる。尤もこの場合、こういう経営がいずれも
「他のすべてのために任務を負う」
というのは、
如何にも誇張である。というのは、この場合行われているのは、裁縫工にズボン釦を売り、紡績場に
羊毛を売るというような、極めて普通ありふれた販売だからである。しかしながら吾々は今暫くの間
どうは
もう
じんりん
はこういう飾り立てを、避けがたき大学教授式寝言と見て勘弁しなければならぬ。大学教授というも
ここ
のは、シュモラー教授が道破しているように、企業家世界の一寸した儲け仕事にも、何か彼か「人倫
的評価」をくっ付けたがるものである。しかしながら茲になお深い疑問が生ずる。個々の工場、農場、
第1章 国民経済学は何ぞや
25
炭坑、製鉄所は、国民経済が「分れる」ところのそれぞれの「個別経済」だということになる。だが
少なくとも吾々が国民経済を思い浮べる場合の「経済」という概念の中には、明らかに或る範囲内に
おいて、生活資料の製出も消耗も、即ち生産も消費も含まれなければならぬ。ところが工場、職場、
炭坑、製鉄所では只生産されるだけであり、それも他のために生産されるのである。そこでは道具を
いわ
運用するために原料だけが消費されるのであって、仕上った生産物は工場内においては決して消費に
移らない。一個のズボン釦と雖も、工場主およびその家族によって消費されることなく、況んやその
しかのみならず
工場の労働者によって消費されるものではなく、一個の鉄筒と雖も製鉄所の所有主によって家庭内で
消費されはしない。 加 之 、いかに「経済」なるものを精密に規定しようとする場合でも、吾々はつ
ねにこれを全体的な或るもの、幾分首尾の完成した或るものと解し、人間の生存に要する最も重要な
生活資料の製出および消費という風に解しなければならぬ。ところが今日の各農工業経営が供給して
いる生産物は、どんな子供でも知っているように、一種類の生産物、または高々二三種類の生産物で
あって、それ一つでは人間の生計を充たすに足りぬばかりか、大多数の場合それだけでは全く消費さ
れ得ないものである。即ち或る経営は生活資料の一部を、或る経営はその材料を、或る経営は道具を
供給すると言った風である。即ち今日の生産経営は取りも直さず一個の経済の断片なのであって、こ
の断片はそれだけとしては、経済的見地からは何等意味も目的も有していないのである。まさにそう
いうことだけからしても、吾々の如き無学者の眼から見れば、これらの断片はそれ自身としては何等
26
経済ではなく、一個の「経済」の無細工な小破片にすぎぬものと映ずるのである。そこで、国民経済、
言いかえれば一国民の欲望の充足に役立つ文物および所為の総体が、工場、職場、炭坑等の如き個別
経済に分れるというなら、それと同じく次の如く言うことができよう。人間という有機体のすべての
機能の運用に役立つ生物学的設備の総体が人間そのものであって、この人間は、鼻、耳、脚、腕等の
幾多の個別的器官に分れると。事実において今日の一工場は、鼻が一個の個別的器官であると略々同
じ程度で、一個の「個別経済」なのである。
かくて吾々はこういう正道を辿っても、矢張り一個の馬鹿げた事柄に到達した。即ち、単なる外面
的な特徴と言葉の分割とに基づくブルジョア学者の人工的定義は、こういう場合に事柄の真の核心を
避け廻らねばならぬ或る理由を有していることが、これによっても立証されるのである。
そこで吾々自身で、国民経済の概念を一層精密に吟味して見よう。
三
彼等は吾々に語って曰く、一国民の欲望、曰く、一個の相関的経済を以てするこの欲望の充足、そ
して曰く、一国民の経済と。即ち国民経済学とは、かかる国民経済の本質を説明する学、言いかえれ
ば一国民が労働によってその富をつくり出し、増大し、個々の人々に分配し、消費し、そして再びこ
れをつくり出すところの法則を説明する学であるという。従って研究の対象を成すものは、私経済ま
第1章 国民経済学は何ぞや
27
たは個別経済――どんなものを意味しようとも――ではなく、一国民全体の経済生活だというのであ
る。かくてこういう見解を一見確証するものの如く、国民経済学の父と呼ばれるイギリス人、アダム・
スミス【 Adam Smith ,1723-90
】の一七七六年出版の劃期的著作も、『国民の富』
【 "The wealth of nations"
『国富論』】
という標題を帯びている。
しかし吾々はまず第一に質問しなければならぬ、実際において一国民の経済というようなものが存
在しているだろうか? 諸国民は各自特別の家計、一個の仕切られた経済生活を営んでいるだろう
か? 国 民 経 済( Volkswirtschaft, Nationalökonomie
)と い う言い 現 しは、 特にド イツ において偏 愛を
以て使われているのだから、視線をドイツに向けよう。
ドイツの男女労働者の手によって、毎年農工業において巨量の各種消費財が生産されている。だが
一体このすべてがドイツ帝国住民の自己消費のために製出されているだろうか? 吾々はドイツの生
産物の莫大な部分が他の諸国並びに他の諸大陸に向って、他の諸国民のために輸出され、しかもその
額は毎年増大しつつあるのを知っている。ドイツの製鉄品はヨーロッパにおける近接諸国、更らに遠
く南アフリカやオーストラリアまでも行っている。革および製革品はドイツからすべてのヨーロッパ
こうさい
諸国家に行き、硝子製品、砂糖、手袋はイギリスに赴き、毛皮はフランス、イギリス、オーストリア・
ハンガリーに、アリザリン染料はイギリスや合衆国やインドに、肥料として用いられるトーマス鉱滓
【リン酸肥料になる】はオランダやオーストリア・ハンガリーに、コークスはフランスに、石炭はオース
28
トラリア、ベルギー、オランダ、スイスに、電線はイギリス、スウェーデン、ベルギーに、玩具は合
ガ
ス
きじょう
衆国に、そしてドイツの麦酒、インディゴー並びにアニリンその他のタール染料、薬品、セルロイド、
金製品、瓦斯マントル、木綿製および羊毛製材料並びに衣服、ドイツ製軌条 【レール】は、殆んど世
界のすべての商業を営んでいる国々に送られている。
しかしまた逆にドイツ国民は、労働においても日常の消費においても、一歩毎に外国並びに他国民
の産物に頼っている。吾々はロシアの穀物で拵えたパンや、ハンガリー、デンマルク、ロシアの家畜
ラード
の肉を食している。吾々が消費しつつある米は東インドや北アメリカから、煙草はオランダ領インド
やブラジルから渡ってくる。吾々はココア豆を西アフリカから手に入れ、胡椒をインドから、豚脂を
合衆国から、茶を支那から、果実をイタリー、スペイン、合衆国から、コーヒーをブラジル、中央ア
メリカ、オテンダ傾インドから手に入れる。肉エキスをウルガイから、鶏卵をロシア、ハンガリー、
ブルガリアから、葉巻をキューバ島から、懐中時計をスイスから、シャンペン酒をフランスから、牛
皮をアルゼンチンから、布団用羽毛を支那から、絹をイタリーおよびフランスから、亜麻をロシアか
あ ま に
ら、木綿を合衆国、インド、エジプトから、精製羊毛をイギリスから、黄麻をインドから、麦芽をオ
なめしがわ
ーストリア・ハンガリーから、亜麻仁をアルゼンチンから、或る種類の石炭をイギリスから、褐炭を
オーストラリアから、硝石をチリーから、鞣皮用ケブラホ材をアルゼンチンから、建築用木材をロシ
アから、製籃材 【コルク材】をポルトガルから、銅を合衆国から、錫をオランダ領インドから、亜鉛
第1章 国民経済学は何ぞや
29
しきいし
をオーストラリアから、アルミニウムをオーストリア・ハンガリーとカナダから、アスベストをカナ
ヨード
ダから、アスファルトと大理石とをイタリーから、鋪石をスウェーデンから、鉛をベルギー、合衆国、
オーストラリアから、石鉛をセイロンから、硫酸石灰をアメリカおよびアルジェリアから、沃度をチ
リーか ら … …
最も簡単な日用食料品から最も貴重な贅沢品や、最も必要な材料および道具にいたるまで、大多数
は直接または間接に、全部または何等かの部分が他国から渡ってくるものであり、他国民の生産物で
ある。かくて吾々はドイツにおいて生活し、労働し得るために、殆んどすべての国、民族、大陸をし
て吾々のために働かせ、吾々はまた吾々で、すべての国々のために働いている。
こういう交換の規模が如何に巨大なものであるかを一目瞭然たらしむるために、政府の輸出入統計
を一瞥しよう。『ドイツ帝国統計年報』一九一四年度によれば、総貿易(但しドイツを単に通過する
だけの外国商品を除く)は次の如き形を取っている。
ドイツが一九一三年に輸入したものは、
原料 ………………………………五二六二百万マルク
半製品………………………………一二四六 〃
完成品………………………………一七七六 〃
食料および嗜好品…………………三〇六三 〃
30
生畜……………………………………二八九 〃
計 一一六三六 〃
即ち約百二十億マルクである。
同年ドイツが輸出したものは、
【年表の数値とは異なるらしい(端数省略の所為で)。】
原料…………………………………一七二〇百万マルク
半製品………………………………一一五九 〃
完成品………………………………六六四二 〃
食料および嗜好品…………………一三六二 〃
生畜………………………………… 七 〃
計 一〇八九〇 〃
即ち約百十億マルクである。そこでドイツの一年間の外国貿易は総体で二百二十億以上に上って
いる。
ところがドイツにおけると同じことが、多いか少ないかの程度はあるが他の近代的諸国においても
行われているのであって、即ち国民経済学は専らこれらの国々の経済生活を取扱うものである。すべ
てこれらの国々は相互のために生産し、部分的にはまた最も遠隔な大陸のためにも生産しているのだ
が、それらの国はまたそれらの国で、消費の場合にも生産の場合にも、すべての大陸の産物を事毎に
第1章 国民経済学は何ぞや
31
使用し て い る 。
こんなに交換が厖大に発達しているのに、何故に人々は一国民の「経済」と、他国民のそれとの間
に限界を設け、「国民経済」などと言って、各自がそれ自体として観察され得る独立的領域であるか
のように語る必要があるのか?
ところで国際的商品交換が増大しつつあるということは、ブルジョア学者がまだ耳にしていないよ
うな発見では勿論ない。毎年報告の発表を以てする政府の統計の内容は、永い間すべての教養ある人
士の共同財産となっている。それに実業家や工業労働者は、この事実を日常生活から熟知している。
世界貿易が急激に増大しつつあるという事実は、もはや今日争ったり疑ったりできぬ程一般に承認さ
れている。ところがこの事実を、国民経済学の専攻学者は如何に解しているだろうか? 純外部的な
ゆる
弛い聯絡と解し、一国の産物中自国の需要を超過した謂わゆる「余分」を輸出し、自国の経済に「不
足なもの」を輸入することと解している、――そして彼等にとっては、こういう聯絡があっても、依
然として「国民経済」や「国民経済学」を説く妨げにはならないのである。
「国際的交通が容易になった(それは自由主義時代 に 起った 事 柄であ る )とい う ことか ら、 国民 経済
たとえばビュヒャー教授は、今日の「国民経済」は歴史的経済形態の一系列中における最高にして
最後の発展段階であるということを長々と説いてから、次の如く述べている。
の時期は終りを告げ世界経済の時期に席を譲ったという結論を引き出し得るように考えるならば、それ
32
は誤りである。――今日ヨーロッパにおいて、その国の食料および嗜好品の著しい量を外国から手に入
れる必要に迫られ、一方その国の産業的生産活動が国民的需要をはるかに越えて増大し、絶えず余分を
たし
供給して、外国の消費地域において販路を見出さなければならなくなっている限りにおいて、財の供給
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における国民的自立を欠いている幾多の国家があることは慥かである。だが相互的に頼り合っていると
よ
ころの、こういう工業国と原料国との並存、こういう「国際的分業」は、人類が世界経済という名称の
み
な
下に従来の諸々の段階に対立させなければならぬような、新たな発展段階に攀じ上らんとしている一つ
くうげき
の徴候だと見做すべきではない。何故なら一方においては如何なる経済段階と雖も、需要の充足につい
ての十分な自立性を持続的に保持してきたものはなく、各段階はいずれも或る空隙を蔵していて、何等
かの方法によって補充されねばならなかったからであり、他方においては、かの謂わゆる世界経済なる
ものは、少なくとも今日にいたるまでは国民経済のそれと本質的特徴において異なるところの何等の現
*
象をも現していないし、またそういうような現象が近き将来に出現することは極めて疑うべきことであ
る。」
*『国民経済の発生』【 "Die Entstehung der Volkswirtschaft",
権田訳『国民経済の成立』】第五版、第一四七頁。
】は一層大胆であって、彼は
ビュヒャー教授の年若かの同僚のゾンバルト 【 Werner Sombart ,1863-1941
頭から、吾々は世界経済に入ったのでなく、それどころか反対にそれから遠ざかっていると説いて
こう言っている、「吾々はむしろ次の如く主張する、文化民族は今日(その総経済との関係において)
第1章 国民経済学は何ぞや
33
そう大して商業関係によって相互に聯結されてはいない。個々の国民経済は今日百年乃至五十年以前
に比して、世界市場にヨリ多く引き入れられるどころか、却って引き入れられ方が減少している。し
ほんとう
かし少なくとも……国際的商業関係が近代国民経済に対して有する重要性が比較的増大しつつあると
」ゾンバルト教授は、
「個々の国民経済が絶えず完
見做すのは間違っている。その反対が本統である。
しの
* *
全化するミクロコスムス(即ち他から仕切られた小宇宙)となりつつあること、そして国内市場が一
切の実業にとって、その重要性において益々世界市場を凌ぎつつある」と信じている。
* * ゾ ン バ ル ト 著『 十 九 世 紀 に お け る ド イ ツ 国 民 経 済 』【 "Die deutsche Volkswirtschaft im neunzehnten
】第二版、一九〇九年、第三九九―四二〇頁。
Jahrhundert"
経済生活の日々の観察を盲滅法に無視するこういう珍しい馬鹿話は、世界経済を人類社会の新たな
発展相と認めることを、学者先生が底意地悪く忌避していることを見事に曝露している。――この忌
避は吾々のよく覚えておくべきことであり、その隠れたる根元を究むべきである。
このように、すでに「旧時の諸経済段階」、たとえばネブカドネザル王時代の経済段階にあっても、
0 0 0
人類の経済生活に、おける「或る空隙」がすでに交換によって補充されていたのだから、今日の世界
経済などは全然意味をなさぬものであって、依然として「国民経済」のままである。これがビュヒャ
そほん
一見慧敏にして深刻なる経済史的眼光を以て名声を馳せている学者の歴史的把握の粗笨さを如何に
けいびん
ー教授 の 意 見 だ 。
34
たし
も鮮やかに示しているではないか! 数千年の年月によって分離されている種々様々な文化階段およ
いやおう
こ
び経済階段の国際的交易を、彼は悪趣味な図式を作り上げるために否応なしに一つのものに捏ね上げ
ている。慥かに交換なしに如何なる社会形態も存在していないし、また存在しなかった。最古の先史
的発見物、「ノア洪水以前」の人類の住居となっていた粗末極まる洞窟や、太古の時代の最も原始的
な墳墓や、すべてこれらのものは、それだけでも既に遠隔にある地方間に生産物の或る程度の交換が
行われていたことの証拠である。交換は人類の文化史と同じ古さのものであって、古くから絶えず
文化史の同伴者であり、その最も有力な促進者であった。そこでわが学者等は、こういう一般的な極
しょうじょう
めて漠然たる認識の中に、諸々の経済形態の時期および文化段階の一切の特殊性を没せしめている。
夜はすべての猫が鼠色であるように、こういう大学教授式理論の薄ぼんやりの中では、霄壌 【天と地】
の相違ある種々の形相の交換が同一のものとなるのである。一種独特に編んだ舞踏用仮面を折々他の
しゃし
うず
あ
ま
部落の精巧な弓矢と交換するところの、ブラジルにおけるボトクーデン種族の原始的交換、東洋式宮
ひさ
廷の奢侈品が堆高く積んであるバビロンの美々しい雑貨店、東洋の亜麻布、ギリシャの陶器、チロス
からの紙類、シリヤおよび、アナトリアの奴隷などが、新月毎に、富める奴隷使用者に対して売り鬻
がれていたコリントの古代市場、ヨーロッパの封建宮廷や貴族邸のために贅沢品を供給したヴェニス
の中世海上貿易、――そして東洋と西洋、南と北、すべての大洋と世界の隅々とを一つの網に織り込
んで、乞食の日々のパンやマッチから富裕な好事家の貴重なる美術品にいたるまで、最も単純な田畑
第1章 国民経済学は何ぞや
35
あっち
こっち
の産物から最も複雑な道具にいたるまで、すべての富の源なる労働者の手から戦争の殺人器にいたる
まで、すべてのものを年から年中彼方へやったり此方へやったりしているところの、今日の資本家的
世界商業、――すべてこれらのものはわが国民経済学教授にとっては同一のものであって、独立的な
経済有機体における「或る空隙」の単なる「補充」なのだ!……
五十年以前にシュルツェ・フォン・デーリッチは、ドイツの労働者に向ってこう説いて聞かせた、
今日何人でもまず第一に自分自身のために入用な生産物を作っているのだが、そのうち「自分自身の
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ために使用しないもの」を「他人の生産物と交換するために」引渡していると。こういう馬鹿げ切っ
た話に対するラサールの答えは今以て記憶されている――
「シュルツェ君! 世襲判事君! 君は一体今日の社会的労働の本統の有様について、全く何等の概念
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をももっていないのか? 君に一体ビターフェルドとデーリッチの出身ではないのか? 君は一体そん
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な見解を抱いて、中世にでも生きているつもりなのか?……君は今日の社会的労働は、各人が自分自身
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のためには不要であるものを生産しているという、まさにこの点を特徴としていることに気がつかない
のか? 大工業の発生以来そうでなければならぬことに気がつかないのか、この点に今日の労働の形式
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および本質があること、この点をしっかり掴むことなしには、今日の経済状態の只の一側面も、今日の
経済現象の只の一つと雖も理解できないということに気がつかないのか?
それで君の説によるとウィステギールスドルフのレオノール・ライヘンハイム氏は、まず最初に氏自
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身に入用な綿糸を生産する。次いで氏の妹が氏のために靴下や夜着用ジャケツを編み切れない余分の綿
0
糸を交換するという順序である。
ボルジヒ氏はまず最初に氏の家族用のために機械を製造する。次いで余った機械を売りに出す。
たびたび
葬具屋は最初に用心深く、自分の家族の死亡の場合を慮って仕事をする。その上で、家族がそう度々
死ぬものではないのだから、葬儀用品で余分ができたのを交換する。
この町の電信局の所有主ウォルフ氏は、まず第一に氏自身の通信用、娯楽用の電報を受け付ける。そ
の上で、氏がそういう電報に充分に堪能した後に尚余ったものを、取引所の狼連や新聞社の編輯局の人々
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に提供し、これに対して後者は同じく余った新聞種を贈る!……
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要するに、人々はまず最初に自己の需要のために生産し、その次に剰余物を引渡していたということ、
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言いかえれば主として自然経済を営んでいたという点が、以前の時代の社会における労働の、差別的な
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注意すべき性質である。そして今度は、各人は自分が全然必要としないものばかりを生産する、言いか
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えれば、以前は主として利用価値だったのが今日は各人が交換価値を生産している点が、まさに近代社
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あまね
会における労働の差別的性質であり、特殊的性質である。
そしてシュルツェ君、これが近代社会のように分業が普く発達してきている社会における、労働制度
0 0 0
の必然的の、そして益々増大しつつあるところの形式および様式であることが、君には分らないのか?」
ここでラサールがシュルツェに対して資本家的私経営を解明じしよようとしたことは、著しく発達せる
資本主義国、たとえばイギリス、ドイツ、ベルギー、合衆国――爾余の諸国はこれらの国々の足跡を次々
第1章 国民経済学は何ぞや
37
に辿りつつある――というような国々の経済様式に、ヨリ一層日に日に適用されることである。そし
てビターフェルド出身の進歩的世襲判事が労働者を迷わしたのは、今日ビュヒャーやゾルバルトとい
うような人間が、世界経済の概念に対して意怙地 【意固地】な攻撃を行っているのに比して、はるか
に素朴であって、これほど剥き出しではなかった。
【几帳面】な御役人として秩序を愛
ドイツの大学教授というものは、その受持区域における規帳面
好する。秩序を欲するために彼は、世界を学問的図式という抽出しの中にキチンと詰め込むのを常と
する。そして自分の書物を書架の上に置くのと全く同じ調子に、各国を二つの書架の上に分けるのだ。
即ち一方は工業品を製出し、その「余分」を擁している国々、他方は農耕および牧畜を営み、右の諸
国に欠けている原料品を産出する国々という風に。国際賢易はそこから生じ、そういう事情に立脚し
ている と い う の だ 。
ドイツは世界の最高工業国の一つである。そこで右の図式に従えば、ドイツはロシアの如き大農業
国と最も旺んに交易を行っていなければなるまい。そうすると、貿易におけるドイツの最も重要な相
手国が、他の両工業国たる北米合衆国とイギリスであるという事実をどうしたらよいのか? 合衆国
とドイツとの交易は一九一三年に二十四億マルクに上り、イギリスとは二十三億マルクに上った。ロ
こきゃく
シアは漸く第三番目にくるにすぎぬ。そして特に輸出の方を考えれば、取りも直さず世界の第一の工
業国がドイツの工業にとって最大の賈客なのであって、即ちドイツよりの年輸入額十四億マルクを以
38
てイギリスが先頭を占め、他のすべての国をはるかに抜いている。ところが植民地を含めての大英帝
国となると、全体でドイツ総輪出額の五分の一を占めているにすぎぬ。こういう不思議な現象に対し
て大学教授流の図式は何と答えるだろうか?
一方に工業国家――他方に農業国家、これがビュヒャー教授やその大多数の同僚が振り廻している
世界経済関係の骨組である。さてドイツは六〇年代には農業国家であった。その頃は農業製産品の余
分を輸出し、そして緊要な工業品はイギリスの供給を受けざるを得なかった。爾来そのドイツが工業
国家となり、イギリスの当面の競争者となるに至った。合衆国はドイツが六〇年代および八〇年代に
経過してきたと同じことを、一層短期間に経過しつつある。即ちこの国は今が恰度変化の最中にある。
合衆国は現在なおロシア、カナダ、オーストラリア、ルーマニアと並んで世界最大の小麦国であって、
最近の統計(尤も一九〇〇年度)によれば、その国の総人口の三六%というものは、依然として農業
に従事していた。だがそれと同時に合衆国の工業は無比の迅速さを以て進歩して、今やイギリスおよ
びドイツの工業と並んで、危険な競争者と見られている。そこで吾々は高貴なる経済学教授諸君に対
して、合衆国はビュヒャー教授の図式の中で農業国家の項目の下に置くべきか、それとも工業国家の
しっこく
項目の下に置くべきかを決定することを、懸賞問題として提出する。ロシアは徐々に右と同一の軌道
を辿っている、そして――時代おくれの国家形態の桎梏を除き去った瞬間から――巨大なる人口と無
尽蔵の天然資源とを以て――今まで後れていたものを一足飛びに取り返し、おそらく今日吾々の眼前
第1章 国民経済学は何ぞや
39
において、有力な工業国家としてドイツ、イギリス、合衆国を押しのけてその追従を許さぬようにな
るだろう。このように、世界は大学教授の智慧のような、硬直的な骨組ではなく、運動し、生活し、
変化しつつあるのだ。国際的交易がそこからのみ発生するという工業と農業との両極的対立は、従っ
てそれ自身一個の流動的な要素なのであって、近代文化世界の圏内から絶えず外周の方に広く押し遣
られているのだ。ところが、それはそうとしてこの文化圏内の交易はどうなるのか? ビュヒャーの
理論に従えば、それは益々萎縮してゆかなければなるまい。ところが、そうはならずに――何と不思
議ではないか!――取りも直さず工業国の間に益々旺んになりつつあるのだ。
わが近代経済領域が過去二十五年間に吾々に示している光景ほど教訓的なものはない。八○年代以
来ヨーロッパ並びにアメリカのすべての工業国および大国家において、保護関税、即ち各「国民経済」
の相互的な人為的隔離が大騒ぎで行われているにも拘わらず、その同じ期間における世界貿易の発達
は停止しないばかりか、狂奔的に進んでいる。この場合工業化の増進と世界貿易とが提携して進みつ
つあることは、盲者と雖も、イギリス、ドイツ、合衆国の三主要国について一々指摘することができる。
石炭および鉄は近代工業の魂である。いま一八八五年から一九一○年まで、採炭量は次の如く増大
した。
イギリス……………………一六二百万より二六九百万噸
ドイツ……………………… 七四 〃
二二二 〃
40
合衆国………………………一〇一 〃 四五五 〃
銑鉄採取量は同じ期間に次の如く増大した。
イギリス……………………七・五百万より一〇・二百万噸
ドイツ………………………三・七 〃 一四・八 〃
合衆国………………………四・一 〃 二七・七 〃
これと同時に外国貿易年額(輸出入)は一八八五年から一九一二年までに次の如く増進した。
イギリス……………………一三〇億より二七四億マルク
ドイツ……………………… 六二 〃 二一三 〃
合衆国……………………… 五五 〃 一六二 〃
0 0 0 0
重要国の外国貿易(輸出入)総額を見れば、一九〇四年にお
しかるに最近における世界のすべての
ける一〇五〇億マルクから、一九一二年における一六五〇億マルクに増進した。即ち八年間において
五七%の増大である! 実にこれまでの全世界史にそれと似通った例を見ないような、息もつかさな
いほどの速度の経済的発達である!「死者が奔流に乗る。
」資本主義「国民経済」は、その存立能力
ちどん
かんかく
の限度を減らし、その存在が許される猶予期間を短縮しようと焦慮しているように見える。しかるに
工業国家と農業国家との間の「或る空隙」、両者の間の遅鈍な杆格 【長さの違う=相容れぬこと】を主眼
とする、かの大学教授の図式は、これについて何と言っているか?
第1章 国民経済学は何ぞや
41
しかも近代経済生活には、こういう謎はなおいくらも存在している。
輸出
小麦………………………四一七
綿花………………………六〇七
紙および製紙品………………二六三
羊毛品…………………………二七一
製綿品…………………………四四六
石炭……………………………五一六
製鉄品…………………………六五二
各種機械類……………………六〇八
百万マルク
交換された商品価値の総量、乃至はそのうちの大きな一般的種目を見るだけにとどめず、ドイツの
輸出入表をもっと綿密に観察して、右の証明としてドイツ貿易の最重要商品種目を検査して見よう。
一九一三年におけるドイツの輸出入は次の如くであった。
羊毛………………………四一三
毛皮および毛皮製品…………二二五
輸入 大麦………………………三九〇
棒鉄……………………………二〇五
銅材………………………三三五
絹物……………………………二〇二
牛皮………………………三二二
コークス………………………一四七
鉄鉱………………………二二七
百万マルク
石炭………………………二〇四
鶏卵………………………一九四
毛皮および毛皮製品……一八八
42
針葉樹生材……………… 九七
毛糸………………………一〇八
綿糸………………………一一六
針葉樹製材………………一三五
生糸………………………一五八 がんりゅうゴム
含硫護謨…………………一四七 鉄管…………………………… 八四
牛皮…………………………… 八一
毛糸…………………………… 九一
葉鉄……………………………一〇二
玩具……………………………一〇三
製革品…………………………一一四
靴革……………………………一一四
製銅品…………………………一三〇
衣類……………………………一三二
アニリンその他タール製品…一四二
チリー硝石………………一七二
犢皮……………………… 九五
おうま
黄麻……………………… 九四
各種機械類……………… 八〇
かったん
こうしかわ
仔羊皮、羊皮、山羊皮… 七三
製綿品…………………… 七二
銑鉄…………………………… 六五
綿糸…………………………… 六一
ゴ ム
鉄線…………………………… 七六
軌条類………………………… 七三
褐炭……………………… 六九
羊毛(梳れるもの)…… 六一
護謨製品……………………… 五七
羊毛品…………………… 四三 この場合二つの事実が表面的な観察者の眼にも否応なしに入り込む。第一は、同一の商品種目が額
第1章 国民経済学は何ぞや
43
0 0
こそ異なれ、幾様にも両方の項目の中に現れているという事実である。ドイツは巨額の機械を外国に
販売しているが、同時に年に八千万マルクという著しい額の機械を外国から仕入れている。同様に石
炭もドイツから輸出されていると同時に、外国の石炭もドイツに輸入されている。同様のことが、木
綿製品、毛糸、羊毛品や、同じく牛皮、毛皮や、なおその他右の表中に掲げられてるない幾多の商品
せんめい
についても言える。わが経済学教授連にとって、近代世界貿易の一切の秘密を、アラディンの魔燈の
ように闡明するはたらきをするところの、工業と農業との赤裸々な対抗という見地からは、こういう
不思議な二重性は全く理解すべからざるものであり、それどころか完く意味をなさぬことのように見
える。どういうわけでこうなるのか? ドイツは機械について「自国の需要以上の余分」を有してい
るのか、それとも逆に「或る空隙」を有しているのか? そして石炭や木綿品についてもそうなのか?
「国民経済」
そして牛皮についても? そしてその他幾百の事物についても! 若しくは如何にして
が、同時に、且つ同一の生産物について、つねに不時の「余分」と「或る空隙」とを示し得るのであ
ろうか? これではアラディンの魔燈の光りも心もとない。右に挙げた事実は、次の如く解して初め
て説明され得る。即ちドイツと他の諸国との間に、複雑な、根柢的な経済的聯絡が存立しており、多
岐に亙っての、細目に亙っての分業が成り立っていて、この分業の結果、同一生産物中の或る品種の
ものがドイツにおいて他国のために造られ、他の品種のものが他国においてドイツのために造られる
ようになり、毎日品物の往復が生じ、個々の国はヨリ大きな全一体の有機的一部分として現れると解
44
すべき で あ る 。
更らに各人は右の表を一見しただけで、次の事実を知って奇異の感に打たれるに相違ない。即ちこ
の場合輸出入は、自国経済の「空隙」を以て説明されたり、その「余分」を以て説明されたりするよ
うな、分離せる二つの現象として現れるのでなく、むしろ相互に因果的連鎖を以て縛られているとい
う事実である。ドイツの巨額の木綿輸入は、言うまでもなくドイツ国民の自家需要によって測られる
のでなく、むしろそれはドイツから木綿材料および衣類を大輪出することを予め可能ならしむるべき
ものである。羊毛の輸入と羊毛製品の輸出との相互関係、同じく外国鉄の巨額の輸入と、あらゆる形
における製鉄品の巨額の輸出との相互関係も右と同様であり、以下またこれと一々同じ関係を有して
いる。このようにドイツは輸出し得んがために輸入するのである。ドイツは人為的な「或る空隙」を
つくり出して、然る後にその空隙をそれと同じだけの「余分」に化するわけである。さればドイツと
いう「小宇宙」はすでに当初から、すべての標準において、一個のヨリ大きな全一体の一断片、世界
における一職場たる姿を取っているのである。
つある自主性」の方面から、茲にもう少し細密に
とはいえこの小宇宙を、その「絶えず完全化しカつ
タストロフ
観 察 し て 見 よ う。 何 等 か の 社 会 的 ま た は 政 治 的 破 局 に よ っ て ド イ ツ の 「 国 民 経 済 」 が 現 実 に 爾 余 の
世界から切断され、自立したと考えよう。然らばその場合如何なる光景が現れるだろうか?
手始めに日常のパンから考えて見よう。ドイツの農業は合衆国に比して二倍の収穫能力を示してい
第1章 国民経済学は何ぞや
45
る。農業の品質に関しては世界の農業国のうちでは第一位を占め、ベルギー、アイルランド、オラン
ダの、ヨリ集約的な農業の次に来るだけである。五十年以前にはドイツは、当時はるかに進歩がおく
れていた農業を以てして、なおヨーロッパの穀倉を成していて、自国のパンの余剰を以て他の諸国を
養っていた。今日はドイツの農耕は収穫能力が大であるにも拘わらず、自国の国民と自国の家畜とを
養うに足るどころか、食糧の六分の一を外国から仕入れなければならぬ始末である。これを別な言葉
でいえば、ドイツの「国民経済」を世界から切り離してしまえば、人口の六分の一、即ち千百万人の
ドイツ人が生活資料を奪われるということになるのだ!
ドイツ国民は年々二億二千万マルクのコーヒー、六千七百万マルクのココア、八百万マルクの茶、
六千一百万マルクの米を消尽し、約千二百万マルクの種々の香料と、一億三千四百万マルクの外国煙
草とを消費している。これらの産物は、それがなければ今日どんな貧乏人でも生活をつづけてゆくこ
たばこ
とができないものであって、日常の習慣、吾々の生計の中に入り込んでいるものであるが、右のすべ
ての産物はドイツの風土がそれに適しないために、ドイツにおいて全然産出されていない(乃至は莨
栽培の場合の如く、極く少量しか製出されていない)
。そこでドイツを持続的に世界から脱退させれば、
今日の文化に相応しているドイツ国民の生計は崩れてしまう。
食糧の次は被服である。今日民衆の大部分のシャツも、衣服全体も、専ら木綿で作られ、富裕な紳
士階級の下着はリンネル、衣服は精製羊毛と絹で出来ている。木綿と絹とはドイツでは全然製出され
46
おうま
ず、極めて重要な織物材料である黄麻もそうであれば、最も精製された羊毛もそうであって、後者は
全世界においてイギリスが独占権を握っている。大麻と亜麻とはドイツでは非常に欠乏している。そ
こでドイツを永く世界から切り離し、外国における原料および市場からドイツを引き離すときは、ド
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イツ国民のすべての層は最も必要な衣服を奪われ、今日被服工業と共に百四十万の成人、少年、婦人
労働者を養っているところのドイツ繊維工業は破滅してしまう。
謂わゆる重工業――機械工業と金属工業とである。
更らに観察を進めよう。今日の大工業の脊椎は、
ところが重工業の背椎はまた金属鉱である。ドイツは年に(一九一三年)約千七百万トンの銑鉄を消
費する。然るに自国における銑鉄製出費は同じく千七百万トンである。そこで一寸見ればドイツの
「国
民経済」は、鉄に対する自国の需要をまず自国で充足していると考え得られるかも知れぬ。ところが
銑鉄の製出に必要なのは鉄鉱であって、この点からすると、ドイツ自国の採掘高は一億一千万マルク
強の価値を有する約二千七百万トンに上るだけであって、二億万マルク以上に上る千二百万トンの高
価な鉄鉱――これがなければドイツの金属工業は全然やって行けない――は、スウェーデン、フラン
ス、スペインから仕入れられているのを見る。
他 の 金 属 に つ い て 殆 ん ど 同 一 の 事 情 を 認 め る こ と が で き る。 ド イ ツ に お け る 亜 鉛 の 年 消 費 量 は
二十二万トンであるが、ドイツ自国の採掘量は二十七寓トンであって、そのうち十万トンは輸出され
ているのだが、他方五万トン以上の外国の亜鉛がドイツの需要を充たさなければならぬ状態にある。
第1章 国民経済学は何ぞや
47
ところが必要な亜鉛鉱は矢張り一部分だけドイツで採掘されているにすぎぬ。即ち五千万マルクの価
値を有する約五十万トンであって、四億マルクの価値を有する三十万トンの高価な亜鉛鉱は外国から
仕入れなければならぬ。鉛は九万四千トンの製成品と、十二万三千トンの鉱石とを輸入している。最
後に銅はどうかといえば、ドイツの生産は年消費量二十四万一千トンのところ二十万六千トンという
ものを外国からの輸入に頼っている。なお錫は全然外国から仕入れている。――そこでドイツを永く
外国から切り離すならば、最も重要な金属のこういう輸入の状態と、並びに外国におけるドイツ製鉄
品と、ドイツ機械類との巨額の販売とに鑑みて、六十六万二千の労働者を従業させているドイツの金
属工業と、百十三万の男女労働者を養っているドイツの機械工業との存立の基礎が消滅してしまう。
ところが金属工業と機械工業とがそうだとすると、それにつれて、そういう原料や道具に関聯を有す
る他の工業部門、並びにこの両工業に原料や助成材料を供給している部門、たとえば採炭業、それか
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ら最後にまたこれらの工業部門の莫大な労働者軍のために生活資料を生産している部門、そういう幾
多の産業部門の全体が破滅しなければなるまい。
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を考えて見よ。また製
0十0六0万八千の労働者を擁し、全世界のために生産しているところの化学工業
材工業を考えて見よ。今日四十五万の労働者を従業せしめているのだが、外国の材木および建築用材
がなければ、大部分その経営を閉鎖しなければなるまい。製革工業を考えて見よ。外国の皮革がなく、
外国における大きな販路がなければ、十一万七千の労働者を推してのたれ死にするに相違ない。貴金
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属の金銀を考えて見よ。これは貨幣材料を成し、その点において今日の全経済生活の欠くべからざる
うか
土台を成すものであるが、ドイツには全然と言ってよい位生産されていない。こういう有様をありあ
りと眼の前に泛べて、さて、ドイツの「国民経済」とは如何なるものであるかと問え。言いかえれば、
ドイツが実際に且つ永続的に他の世界から切り離されて、自国の経済を全然孤独で営まなければなら
ぬと仮定すれば、ドイツの今日の経済生活は、そしてそれと共にまた今日のドイツの全文化はどうな
るだろうか? 生産部門が次々に破滅し、一は他を亡ぼし、業を失った巨大なるプロレタリア大衆、
全人口は必要欠くべからざる食料、嗜好品、衣服を奪われ、商業はその貴金属貨幣という土台を奪わ
れる、そして全「国民経済」は――廃物の山、破砕せる廃朽物!
隙」とはこういうものなのだ、そして大学教授式理論の薄青いエ
ドイツ経済生活における「或るふ空
はん
ーテルの中に、いゝ気になって浮泛している「絶えず完全化しつつある小宇宙」なるものも、畢竟こ
ういう 代 物 な の だ 。
しかし待て! 一九一四年の世界戦争は、「国民経済」という例題の実他の吟味ではなかったか?
を見事に証明しなかったのか? こ
この戦争はビュヒャーやゾンバルトなんかの主張の正しいこくと
っきょう
の戦争は猜疑的世界に対して、ドイツという「小宇宙」が、倔強な 【強情な】国家的組織とドイツ技
術の能率のおかげで、世界交通から遮断されていながらも能く生存に耐え、強壮であり健全であるこ
とを見事に示したではないか? 国民の給養は外国の農業なしにも充分に間に合ったではないか、そ
第1章 国民経済学は何ぞや
49
して工業の歯車は外国からの供給がなくとも、外国での販売がなくとも依然として活溌に動いている
ではな い か ?
では事実をしらべて見よう。
第一に給養の点である。食糧はドイツの農業のみによって供給されたのでは決してなかった。幾
百万という成人男子人口は軍隊に属していて、殆んど戦争の全期間中を通じて外国から養われていた。
即ちベルギー、北フランス、並びに部分的にはポーランドおよびリタウエン 【リトアニア】の諸国がそ
れである。このように、ドイツ国民の給養のためには、ドイツ自身の「国民経済」の範囲が、ベルギ
とぜつ
ーおよび北フランスの占領地帯の全面積に拡張され、戦争第二年にはロシア帝国の西部に拡張された
のであって、これらの地帯はそれぞれの農産物を以て、ドイツの輸入杜絶を著しく補充していたに相
違ない。これに対する補充的対照を成すものは、右の諸外国の占領地帯における土着人口の怖るべき
欠乏を見たことであって、これらの人口は――たとえばベルギーにおける如く――アメリカ農業の生
えいよう
産物の御慈悲によって養われていたのである。第二の補充を成したものは、ドイツにおいて、生活資
料のすべてが一〇〇乃至二〇〇%騰起したこと、並びに国内人口の広汎なる諸層の怖るべき営養不足
であっ た 。
更らに工業の歯車の点である。外国の原料やその他の生産手段の輸入が、ドイツの工業によって莫
大な意義を有していることは吾々の学んだところであるが、そういうものなしに如何にして工業の歯
50
車が運転され得ただろうか? どうしてそんな奇蹟が起り得ただろうか? この謎は極めて簡単に、
且つ何の不思議もなく解かれる。ドイツ工業が活動をつづけることができたのは、必要欠くべからざ
る外国の原料を絶えず供給され得たという、ただ一つの理由からであって、しかもこの原料を次の三
様の方法によって仕入れていたのである。第一には、国内の貯蔵から引き出したのであって、ドイツ
は木綿、羊毛、銅等を種々の形で国内に貯蔵していて、これを隠匿所から引き出して流通させさえす
ればよいようにしていた。第二には、これも矢張りベルギー、北フランス、部分的にはポーランドお
よびリタウエンの諸外国において、軍事占領によって貯蔵物を押収して、自国の工業に利用したので
ある。第三には、外国からの間断なき輸入であって、これは中立国の仲介を通じて(並びにルクセン
ブルグ国から)戦争中にも中絶しなかったものである。それにこういう全「戦時経済」並びにその円
滑なる進行にとって、欠くべからざる前提だったものは、ドイツの銀行に保管されていた外国の貴金
属の貯蔵物だったという事実を附け加えるなら、ドイツの商工業が世界から完全に遮断されていたと
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いうことも、ドイツの民衆の給養が国内の農業によって充分に行われていたということも、等しく一
0
個の空談であって、かくて世界戦争中におけるドイツの「小宇宙」の外見的自主はこの二つのこじつ
け話に基礎をおいたものであることが立証される。
最後にドイツ工業の販路である。これはドイツが世界のあらゆる地域において著しく確立してきた
のであったが、戦争の継続中ドイツ国家自身の軍需がこれに代ったのである。別な言葉でいえば、最
第1章 国民経済学は何ぞや
51
も重要な工業部門――金属工業、皮革工業、化学工業が改造を蒙って、専ら軍隊のための供給工業と
化したのである。戦争の費用はドイツの納税者によって支払われるのだから、このように工業が軍事
工業に化したことは、ドイツの「国民経済」がその生産物の大部分を外国に販売する代わりに、これ
を戦争における間断なき絶滅の犠牲に捧げ、その結果生ずる損失は、公債制度を介して今後数十年間
を通じてドイツ経済の成果に負わせたことを意味するものであった。
右のすべての事柄を要約すれば、次の点が明白である。即ち戦争中における「小宇宙」の驚くべき
繁栄は、あらゆる点において一個の試験だったことを示すものであって、ただこの人為的建物がカー
いちべつ
ドの家のように崩壊することなしに、果してこの「小宇宙」がどれだけの間維持され得るかが問題だ
っただ け で あ る 。
瞥しよう。ドイツの外国貿易を総額において観察するときは、
今 度 は も う 一 つ、 不 思 議 な 現 象 を 一
その輸入額が輸出額に比して著しく大きいことに気がつく。即ち前者は一九一三年に百十六億マル
ク、後者は百九億マルクであった。そしてこういう関係はまず右の年だけの例外のものではなく、ず
っと永らくの年数以来、これを見ることができる。この事情は大ブリテンにあっても同一であって、
一九一三年には総貿易額において百三十億マルクを輸入し、百億マルクを輸出した。フランスにおい
ても、ベルギーにおいても、オランダにおいてもこれと事情を同じうしている。どうしてこんな現象
が可能なのであるか? ビュヒャー教授は、お得意の「自国の需要の余分」
「或る空隙」の学説を以て、
52
吾々にこの現象を説明してくれないだろうか?
種々の「国民経済」相互間の経済的関係が次の一点に尽されるとすれば、――即ち教授が吾々に教
そうきゅう
えてくれるように、個々の「国民経済」が、遠くすでにネブカドネザル時代にi行われていたように互
いに時々の「余分」を投げ出し合うだけのことであるとすれば、――言いかえれば、単純なる商品交
換が、これらの「小宇宙」同志を引き離しているところの蒼穹に懸かっている唯一の架橋であるとす
れば、――一国は自国の商品を輸出すると丁度同じ分量だけ、外国の商品を輸入し得るものであるこ
とは明らかである。しかも単純なる商品交換の場合には、貨幣は単なる媒介物なのだから、外国の商
品は結局において自国の商品で支払われることになる。従って一の「国民経済」は、自国の「余分」
を輸出する以上に多くのものを、永続的に外国から輸入するというような手品を如何にして行うこと
ができるのか? こういえばおそらく教授は、嘲笑的な態度で吾々に大声で言って聞かせるだろう―
―その解決は世界で最も造作もない解決だ、輸入国は輸出に対する輸入の余分を正貨で清算しさえす
ればよいのだと。だが失礼ながら、外国貿易の深淵の中に、年から年中著しい額の正貨を、それも二
度と御目にかかれないのを投げ込むというような贅沢な真似は、高々自国に豊富な金銀鉱を有する国
のみが能くすることであって、ドイツにしろフランスにしろ、ベルギーにしろオランダにしろ、そう
いう真似はできるものではない。その上に吾々は――不思議なことではないか!――次の驚くべき事
第1章 国民経済学は何ぞや
53
i
紀元前六世紀頃のバビロニアの王ネブカドネザル二世の時代。ユダヤ王国を滅ぼしたことで、旧約聖書に出てくる。
i
実を見る。即ちドイツは輸出する以上の額の商品を絶えず輸入しているだけでなく、輸出する以上の
貨幣も輪入しているのだ! たとえば一九一三年にはドイツの金銀輸入額は四億四千百三十万マルク
に上り、輸出額は一億二百八十万マルクであった。そして永年の間殆んど同一の関係を示してきてい
る。この謎に対してビュヒャー教授は、その「余分」論と「空隙」論とを以て何と言うだろうか? 教授の魔燈の光りでは心もとない。全くその通りだ。かくて吾々は世界貿易のこういう謎めいた徴候
の背後には、おそらく個々の「国民経済」の間に、単純な商品交換とは全然別種の経済的関係が存立
していなければならぬということに気が付き始めるのである。自国の生産物を他国に与えるよりも以
上に、絶えず他国から生産物を取るというようなことは、そういう他国に対して何か経済上の要求権
利を有している国のみが能くすることであろう。即ち等一のものの間の交換とは全然異った権利であ
る。そしてこういう要求権利と国々の間の隷属関係とは、たとえ大学教授式理論はそれについて何等
知るところがないとしても、一歩一歩事実の上に成立しているのだ。こういう隷属関係は、その最も
単純な形においては、謂わゆる母国とその植民地との関係である。大ブリテンはその最大の植民地―
―英領インドから年々十億マルク以上の貢物を種々の形で取り立てている。それに対して吾々はイン
ドの商品輸出額は年に大ブリテンの輸出額を十二億マルクだけ超過しているのを見る。この「余分」
こそは、インドに対するイギリス資本主義の植民地的搾取の経済的表現に外ならぬものであって――
この場合商品が直接に大ブリテンのために向けられていると考えても、乃至はインドが毎年あらゆる
54
*
こうもつ
国家に対して十二億マルクの商品を、イギリスの搾取者に貢物を納めるという特別の目的のために販
売しなければならぬとしても、一向構わない。
黙のうちに明瞭にこれを語っている。【原稿では「工業……」で終っているらしい。】
*インドにおける背景。――農民共同体の「国民経済」は破滅しつつある。工業。…輸出入の数字が暗
だがこのほかに、政治的な権力支配によって樹立されているのでない経済的隷属関係がある。ロシ
アは年に輸入するよりも十億マルクだけ多くの商品を輸出している。こういう旺んな商品の潮流が毎
年ロシア帝国から流れ出ているのは、自国の国民経済の需要以上に土地生産物が大「氾濫」を起して
いるためだろうか? ところが肝心の穀物をこういう具合に輸出させられているロシア農夫は、周知
の如く営養不良の壊血病にかかっていて、且つ屡々樹皮を沢山取り交ぜたパンを喰っているのだ。農
夫のパン粉をこのように大量に輸出することは、取りも直さず国内における一定目的に応じた財政租
税制度の媒介の下に、ロシア国家が外債に対する義務を履行するために必要欠くべからざることなの
である。ロシアの国家機関の費用は、クリミヤ戦争にiおける大敗退以来、そして農村改革によってロ
シアが近代化されて以来、西ヨーロッパ――しかも主としてフランスからの借入資本によって大部分
を支弁されている。そこでフランスよりの借入金に利子を支払い得るがためには、ロシアは毎年大量
の小麦、木材、亜麻、大麻、牛、鳥類を、イギリス、ドイツ、オランダに売らなければならぬ。かく
第1章 国民経済学は何ぞや
55
i
のロシア対オスマントルコ・イギリス・フランスの戦争。広範囲に戦闘が在ったクリミアの戦闘で決着。
1853-56
i
てロシアの輸出大超過は、債権者に対する債務者の年貢を現しているのである。この事情はフランス
側における輸入の大超過に合致するものであって、それは借入資本が蓄蔵するところの利子を現して
いるに外ならぬものである。だがこの経済的聯結の連鎖は、ロシア国内に一層はびこっている。フラ
ンスよりの借入資本は数十年以来主として二つの目的に使われている。国家担保による鉄道建設と軍
備とがそれである。この両目的に応ずるために、ロシアでは七〇年代以来――高率保護関税制度の援
護の下に――有力な大工業が発生している。老資本主義国フランスからの借入資本は、ロシアに若き
資本主義を成長させたのであるが、このロシアの資本主義の方ではまた、技術の優秀な工業国イギリ
スおよびドイツから機械類その他生産手段を著しく輸入することによって保護され、補充されること
ちゅうたい
が必要だったのである。このようにしてロシア、フランス、ドイツ、イギリスの間には経済的聯絡の
紐帯が結ばれているのであって、そのうちで商品交換なんかは最後の発言権を有するだけのものにす
ぎぬ。
しかし経済的聯絡の多種多様なることは、右の事柄だけで尽されるものではない。トルコや支那の
ような国は、大学教授的図式の上に新たな謎を課するものである。これらの国はロシアとは反対に、
そしてドイツやフランスと似通って、非常な大輪入額を有していて、多くの年において輸出額の殆ん
ど二倍に上っている。どうしてトルコや支那が、自国の「国民経済」の「空隙」をこんなに豊富に充
填するような贅沢な真似ができるのだろうか、これらの国の国民経済はそれに応じた「余分」を交附
56
する能力はないのだ。多分この半月の国 【三日月を紋章に入れているトルコ】や弁髪の国 【中国】は西ヨー
ロッパ諸強国から、キリスト教的隣人の愛を以て一億マルクという巨額の贈物を、年から年中幾多の
有用な商品の形で受けているのだろうか? だがトルコにしろ、支那にしろ、首が廻らぬほどヨーロ
そうが
ッパの高利貸の爪牙にかかって、イギリス、ドイツ、フランスの銀行に巨額の貢物を利子として支払
わなければならぬことは、小児と雖も知っている。そこでロシアの例に従えば、トルコにしろ、支那
にしろ、西ヨーロッパの慈善家に利子を支払い得るがためには、事実とは逆に、自国の生産物の輸出
超過を示していなければならぬ筈である。しかしながらトルコにしろ、支那にしろ、謂わゆる「国民
経済」はロシアのそれとは根本的に異なっている。なるほど外国からの借入金は、矢張り主として鉄
こううん
道敷設や築港や軍備に使用されてはいる。だがトルコは今日まで皆無といって差支えない位何等自国
の工業を所有していない。また原始的耕耘と十分一税とを伴った中世的農民的自然経済の中から、工
業を突然妖術を以て現出させることはできぬ。こういう事情は形式は異っても支那においても大体同
一である。そのために単に工業製造品に対する国民の総体的需要のみならず、交通敷設や陸海軍の軍
備に必要な一切の助成材料をも、既成品のまま西ヨーロッパから仕入れて、ヨーロッパの企業家、技
術家、専門家によって諸々方々において建設されなければならぬ。それどころか借入金は屡々こうい
う材料の供給と予め結びつけられているのだ。たとえば支那はスコーダ製作所や、クルップ工場に一
定額の軍需品を注文するという条件の下にのみ、ドイツやオーストリアの銀行資本から借入金を獲て
第1章 国民経済学は何ぞや
57
いるのである。また外の借入金は当初から鉄道敷設のための租借と結びつけられている。かくして大
多数の場合ヨーロッパ資本は、初めから商品(軍需品)として、または機械、鉄等の現物形態を取っ
た工業資本として、トルコや支那に移動するのである。この後者の方の商品は、交換のために流れ込
むのでなく、利潤を生み出すために流れ込むのである。そしてこの資本に対する利子は、爾余の諸々
の利潤と同じくヨーロッパの財政的統制の下にある租税制度の力をかりて、トルコや支那の農民から
強奪するのである。このようにトルコや支那の優勢なる輸入と、それに応ずるヨーロッパの輸出との
簡単な数字の背後には、富める大資本主義西ヨーロッパとこの西ヨーロッパによって吸い取られると
ころの貧しく且つ遅れたる東洋との、一種独特の関係が潜んでいるのであって、後者は前者によって、
最も近代的な、最も大規模な交通機関や軍事機関を供給され――同時に旧来の農民的国民経済の急激
なる破滅を齎らせられるのである。
別な事情を合衆国が示している。合衆国においても矢張りロシアと同じく、輸出が著しく
もう一りつ
ょうが
前者が百二億マルクに上った――が、
輸入を凌駕している――後者は一九一三年には七十四億マルク、
こういう現象が生ずる原因はロシアの場合とは根本的に異なっている。合衆国もまた巨額のヨーロッ
パ資本を呑み込んでいるには違いない。夙に十九世紀初め以来、ロンドン取引所はアメリカの巨額の
公債証書や株券を吸収しており、アメリカの企業並びに証券に対する投機は、六○年代にいたるまで
は、つねにイギリスの大規模な工業恐慌および商業恐慌の勃発が近付きつつあることを体温計のよう
58
に示していた。爾来合衆国に対してイギリス資本の流入は停止してきてはいない。この資本は部分的
には都市および私社会への貸付資本として合衆国に移動するが、大多数の場合は工業資本として移動
するのであって、ロンドン取引所にアメリカの鉄道株や工業株が買われる場合たると、イギリスの工
業カルテルが合衆国において、高い関税壁を避けるために自己の子会社を設立する場合たると、乃至
は株券の買上げによって、世界市場における競争を無くするために、合衆国の企業をわがものにする
場合たるとを問わない。しかもなお合衆国は今日著しく発達せる、益々急激に進歩しつつある大工業
を有していて、ヨーロッパから絶えず貨幣資本がこれに流入しつつある一方には、この大工業自身が
すでに工業資本――機械、石炭――を、カナダ、メキシコ、その他中央アメリカおよび南アメリカ諸
国に向けて輸出していて、その程度は次第に高まりつつある。こういう具合にして合衆国は老資本主
義諸国に対する木綿、銅、小麦、木材、石油等の天産物の巨額の輸出を、工業化が始まりつつある若
き諸国に対する工業生産物の輸出と結合しているのである。かくて合衆国の輸出大超過には、資本を
受入れる農業国から資本を輸出する工業国へ移りゆく独特の過渡的階段が反映し、老資本主義ヨーロ
ッパと、後れたる若きアメリカ大陸との橋渡したる役割が反映しているのである。
旧来の工業国から若き工業国への資本のこの大移出と、それに応じてこの資本から引き出される所
得――それは若き国から貢物として年々老いたる国に逆流してゆく――の逆移入とを、全体として概
観するときは、茲に主として三つの有力な流れが現れる。イギリスは一九〇六年の見積りによれば、
第1章 国民経済学は何ぞや
59
当時までに自国植民地および外国に四百五十億マルクを放下していて、そのうちから二十八億マルク
の年所得を利子として引き出していた。フランスの対外資本は同じ年に、少くとも十三億マルクの年
収を伴う三百二十億マルクに上っていた。最後にドイツは十年以前にすでに二百六十億マルクを外国
に投資していて、これは毎年約十二億四千万マルクをドイツにもたらしていた。爾来この投資も所得
も急速に増大している。ところがこれらの大きな主要潮流は末流において、ヨリ細い支流に分れてい
る。合衆国が資本主義をアメリカ大陸の上に拡張しているように、矢張りロシアも――まだ全然フラ
ンスの資本、イギリスおよびドイツの工業によって養われてはいるが――すでに借入資本や工業品を、
そのアジア的奥地たる支那、ペルシャ、中央アジアに移転している。また支那その他における鉄道敷
設に参 与 し て い る 。
単に大学教授の智慧にとってのみ存在して
かくて吾々は国際貿易の無味乾燥な象形文字の背後にも、
つ
いるにすぎぬ単純なる商品交換とは無関係な、経済的縺れ合いの一個の網を発見するのである。
工業生産国と原料生産国とに区別して、その木製の桟橋の上に立って国際的交易を鼓舞する博学な
ビュヒャー先生のやり方は、それ自身大学教授的図式のお粗末な産物に外ならぬことを吾々は発見す
る。香料や木綿材料や機械は一様に工業品である。だがフランスから香料が輸出されることは、フラ
ンスが、全世界における富めるブルジョアジーの微小なる一団のための贅沢品生産国たることを示す
ものに外ならぬ。日本から木綿材料が輸出されることは、日本が全極東における西ヨーロッパ諸国と
60
の競争のために伝来の農民的並びに手工業的生産を覆えして、商品貿易を以てこれに代えていること
を証明するものである。しかるにイギリス、ドイツ、合衆国から機械が輸出されることは、この三国
が大工業そのものを世界の各地方に向って移植していることを示すものである。
0 0
それ故に吾々は、今日、ネブカドネザル王時代や、古代および中世の如何なる歴史的時期にも知ら
れていなかったところの或る「商品」が輸出され、輸入されていることを発見する。その商品とは即
ち資本である。そしてこの商品は外国の「国民経済」の「或る空隙」を充たす役をつとめるのではな
く、反対に空隙をつくり出し、昔ながらの「国民経済」の壁の中に割れ目をつくり、その中に侵入し、
爆裂火薬が作用するように早晩そういう「国民経済」を廃墟に化する役をつとめるのである。
「商品」
そうめつ
たる資本と共に、なお一層奇妙な「商品」が、二三の旧国から全世界に向って、益々大量に運び出さ
革 命
れている。即ち近代的交通機関と全土着民族の剿滅、貨幣経済と農民の負債、富と貧、プロレタリア
ートと搾取、生存の不安と恐慌、無秩序と××とがそれである。ヨーロッパの諸々の「国民経済」は、
地球上のすべての国と民族とを、諸々の資本家的搾取の巨網の中に絞め殺すために魔手をひろげてい
るのだ 。
四
それにも拘わらずビュヒャー教授は世界経済というものを信ずることができないだろうか? でき
第1章 国民経済学は何ぞや
61
ないのだ。何故ならこの学者は世界のあらゆる地方を注意深く見渡して、何物をも発見せずして次の
如く声明している。曰く、予は国民経済と「本質的特徴において異なっている」ところの「特殊の現
いってき
象」を何等認めないと言わざるを得ない。そして「かかるものが近き将来において現れることは極め
て疑わ し い 」 と 。
擲して、直接に生活に、近代的経済関係の歴史に、眼を転じよう。
さて今度は貿易と貿易統計とを一
色々と込み入った一大光景の中から只一つ小さな断片を取り上げて見る。
一七六八年にはイギリスのノッチンガムにおいて、アークライトによって機械装置を有する最初の
紡績場が設立され、一七八五年にはカートライトが力織機を説明している。イギリスにおいてその直
接の結果は、手織業の絶滅と機械織の急速な普及である。十九世紀初にはイギリスには、或る見積り
に従えば、約百万の手織工が存在していた。それが今や御払い箱になって、一八六〇年には聯合王国
内に僅か数千の手織工があるだけであって、これに対して木綿業に五十万以上の工場労働者が存在し
みなぎ
ていた。一八六三年には、首相グラッドストンは議会において、「富と力との狂熱的増進」について
あずか
語り、この富と力とはイギリスのブルジョアジーの間に漲っているのだが、労働階級はその分け前に
何等 与 っていないと述べている。
シャー地方における工場の増加
イギリスの木綿工業は原料を北アメリカから仕入れている。ランカ
たばこ
は、合衆国南部における綿花の巨大な栽培を結果した。砂糖、米、莨栽培の場合と全く同じく、綿花
62
ていれん
栽培における殺人的労働のための低廉な労働力として、アフリカから黒人が輸入された。アフリカで
は奴隷貿易が異常に活気づき、「黒い大陸」の奥地において全黒人族が狩り立てられ、酋長によって
物品と交換され、アメリカに売られるためにはるばる水陸を越えて輸送された。堂々たる黒色の民族
移動が起った。十八世紀末の一七九〇年には或る統計によればアメリカに六十九万七千の黒人しかな
かったが、一八六一年には四百万に上った。
合衆国南部における奴隷売買と奴隷労働との途方もない蔓延は、こういう非キリスト教的暴行に対
する北部諸州の十字軍を喚び起した。一八二五―一八六〇年におけるイギリス資本の大量的輸入は、
合衆国北部に、活溌な鉄道敷設、土着工業の端緒を喚び起し、それに伴って、搾取の近代的改良たる
資本家的賃銀奴隷制度のために有頂天になっているブルジョアジーを産んだ。自己の奴隷を七年間以
内に死なすように酷使することのできた南部栽培地所有者の、作り話のような商売繁昌は、北部の敬
虔なる清教徒にとっては、気候の関係でそういう天国を北部諸州に建設することができなかったため
に、一層許すべからざる暴行として映じた。かくして北部諸州の催促に基づいて、一八六一年に奴隷
制度が合衆国全域に亙って、あらゆる形において法律を以て廃止された。感情の底の底まで傷けられ
た南部の栽培者は、この打撃に対して公然たる叛乱を以て答えた。南部諸州は合衆国よりの分離を宣
し、かくて大内乱が勃発した。
この内乱の直接の結果は、南部諸州の荒廃と経済的破滅とであった。生産と商業とが衰え、綿花の
第1章 国民経済学は何ぞや
63
輸出は杜絶した。かくてイギリスの工業はその原料を奪われてしまい、一八六三年にはイギリスに怖
るべき恐慌、謂わゆる「綿花飢饉」が勃発した。ランカシャー地方では二十五万の労働者が全然仕事
を失い、十六万六千は部分的に従業しているだけであって、十二万の労働者のみが完全に就業してい
たが、それでもその賃銀は、一割乃至二割引下げられたのである。この地方の住民の間に無限の窮迫
いんか
がはびこり、五万の労働者は請願書を以て、イギリス議会に対して、家族を携えてイギリスから移住
するために国家機関からの允可を要求した。始まりつつある資本主義的飛躍に必要な労働力に不足し
ているオーストラリア諸州は――土着の住民はヨーロッパよりの移民のために、僅かを残して滅ぼさ
れてしまった後なので――イギリスから失業プロレタリアを受け容れることを既に声明していたので
ある。ところがイギリスの工場主は、やがて期待されている産業の飛躍に際して再び使用し得るとこ
ろの、彼等の「生ける機械」の移出に対して猛烈に反対した。かくて労働者は移住の手段を拒否され、
恐慌の怖しさは彼等によって剰すところなく味い尽されたのである。
イギリスの工業はアメリカの資源が駄目になったので、別のところで原料を調達しようと試み、東
インドに視線を向けた。綿花栽培場がここに熱病のように設立され、数千年以来住民の日々の食糧を
供給し、住民の生存の土台を成している農業は、広汎な範囲に亙って投機者の儲け仕事に屈しなけれ
ばならなかった。こういう風に稲作が押しのけられるに伴って、数年後に異常な物価騰貴と飢饉とが
起り、一八六六年にはベンガールの北、オリッサという一地方だけでも百万以上の人間が餓死に襲わ
64
れた。
ようえき
第二の実験はエジプトにおいて行われた。南北戦争の景気を利用して、エジプト副王イスメル・パ
シヤは大急ぎで綿花栽培場を設けた。この国の農業の所有関係の上にすばらしい革命が起った。農民
ほ
地は広い範囲に亙って強奪され、王領と宣せられ、大規模の栽培地に変ぜられた。数千の徭役農は副
すき
王のために堤防を築き、運河を鑿り、開墾するために、鞭打たれながら栽培地に騒り立てられた。だ
こうわ
が副王は借金で最新式の蒸気鋤と繰綿設備をイギリスから仕入れるために、ますますイギリスおよび
フランスの銀行家に負債をつくった。しかしこの大規模な投機も、南北戦争媾和後合衆国において綿
花の価格が数日のうちに再び四分の一に下落したので、早くも一年後に破産を以て終りを告ぐるに至
った。エジプトに対してこの綿花時代がもたらした成果は、農業経済の零落の促進、財政の破滅の促
進、そして結局にはイギリス軍隊によるエジプト占領の促進であった。
そうする間に木綿工業は新たな占領を行った。一八五五年のクリミヤ戦争はロシアからの大麻およ
び亜麻の輸出をとどめ、これが西ヨーロッパにおいてリンネル製造業における猛烈な恐慌を誘致した。
その際木綿が多くリンネルの地位を奪い、リンネル生産を犠牲にして木綿工業が益々ひろがった。同
時にロシアではクリミヤ戦争における旧制度の崩壊以来、政治的変革が行われ、農奴制度の廃止、幾
多の自由主義的改革、自由貿易、急速なる鉄道敷設が行われた。それに件って工業製品のために新た
な大販路がこの大帝国の内部に開かれ、イギリスの木綿工業が第一にロシアの市場に乗り込んだ。同
第1章 国民経済学は何ぞや
65
なまぐさ
じく六〇年代には幾多の血 腥 き戦争の後、支那がイギリスの貿易のために門戸を開かされた。イギ
リスは世界市場を支配し、木綿工業はその輸出中の半分を占めた。六〇年代および七〇年代の時期は、
イギリス資本家の最も目ざましい商売の時代であり、同時にこのイギリス資本家が、労働者に対する
小譲歩によって「人手」と「工業平和」とを確保するために最も骨折った時代である。この時期にイ
ギリスの労働組合は、木綿紡績工と木綿織工とを先頭にして、最も著しい成功をかち得たのであるが、
同時にそれはチャーチスト運動の革命的伝統と、イギリス・プロレタリアの中におけるオーエン思想
とが究極的に死滅して、プロレタリアが保守的トレード・ユニオニズムに麻痺してしまった時代であ
る。
だが間もなく場面が一変する。イギリスが木綿製造品を輸出していたヨーロッパ大陸に、いたると
ころに土着の木綿工業が次第に発生してきた。すでに一八四四年において、シュレジアおよびボヘミ
ヤにおける手工業の飢餓暴動は、三月革命の最初の前兆たる役割をつとめた。イギリス自身の植民地
あずか
にも土着の工業が発生した。ボンベイの木綿工場は間もなくイギリスの工場と競争を行うようになり、
八〇年代には世界市場におけるイギリスの独占を打破するに与って力があった。
大工業と保護関税との紀元を開いた。
最後にロシアでは六〇年代における自国木綿製造業の飛躍が、
高い関税壁を避けるために、サクソニー 【ザクセン】やフォークトランドから全i工場が工場員諸共に
サクソニー、フォークトランド共にドイツの一地方。
i
i
66
ロシア領ポーランドに移され、そこでは新工場中心地たるロッヅ【 Lodz
、ウッチ】
、ツギールツ【 Zgierz
、
ズギェシ】がカリフォルニア式の急速度を以て発達した。八〇年代には木綿工業地域たるモスコー・
ウラヂミールにおける労働不安が、ツァール帝国の最初の労働者保護法を強要した。一八九六年には
ペテルスブルグの木綿工場の六万の労働者が、ロシアにおける最初の大衆罷業を起した。そして九年
バリケード
後の一九〇五年には、木綿工業の第三番目の中心地たるロッヅにおいて、十万の労働者がその中のド
イツ人労働者を先頭にして、ロシア大革命の最初の堡砦を打ち樹てた。
吾々は以上の簡単な記述の中に近代的一産業部門の百四十年の歴史を見る。それは世界の五
ここに
ことごと
ほう
大州を悉く席巻し、数百万の人間の生命を抛り投げ、或は恐慌となり、或は飢饉となって勃発し、或
いは戦争となり、或は革命となって炎上し、途上いたるところに富の黄金山と貧窮の深淵とを残して
けいれん
ゆく――それは血に染まった人間労働の大規模な汗の潮流である。
攣であり、諸民族の内臓まで達するところの伝播作用であるが、国際貿易統計の無
それ は 生 命 の 痙
味乾燥な数字の中には、その後光だも認めることのできぬものである。近代工業がイギリスに入り込
んで以来一世紀半のうちに、全人類の苦痛と震動との下に資本主義世界経済が初めて形成されるまで
に至った。それは生産部門を次々に捉え、一国から他国へ次々にわが物としてしまった。この世界経
カタストロフ
済は蒸気と電気とを以て、火と剣とを以て、地球の如何なる遠隔の隅々にも侵入し、あらゆる万里の
長城を打ち破り、世界的恐慌の紀元によって、共通の周期的 破 局 によって、今日の人類の経済的相
第1章 国民経済学は何ぞや
67
互依存を祝福してきた。イタリアのプロレタリアが、国内の窮迫から祖国の資本のために逐い出され
きはん
て、アルゼンチンやカナダに向って移住すれば、そこにはすでに合衆国やイギリスから輸入された資
本の完全な新たな羈絆を見る。そしてドイツのプロレタリアが国内に留まって、実直に暮らそうとす
かんか
れば、その安危は一から十まで世界全体における生産および貿易の進み具合如何に係っている。仕事
が見付かるかどうか、その賃銀が家族を満足させるに足るかどうか、一週間の数日は否応なしの閑暇
を強制されるか、それとも昼夜時間外労働の地獄を強制されるか――それはすべて合衆国における綿
花の収穫、ロシアにおける小麦の収穫アフリカにおける新金鉱またはダイヤモンド鉱の発見、ブラジ
ルにおける革命騒ぎ、五大州における関税戦、外交的紛争、戦争等に依存して、間断なく、あっちに
なったり、こっちになったりしている。すべての民族を合して一個の大きな全一体たらしめていると
ころの、日に日に緊密に密着しつつあるこの経済的基礎と、諸民族を境界標や関税壁や軍国主義によ
って人為的にそれぞれ他人行儀の敵対的な部分に分裂させようと努めているところの、国家という政
治的上部構造との間に、段々大きくなってゆく矛盾ほど、今日驚くべきものはなく、これ以上に今日
の社会的および経済的生活の総体的成態にとって重大な意義を有するものはない。
しかもビュヒャーやゾンバルトやその同僚なんかにとっては、すべてこういうものは存在しないの
だ! 彼等にとっては「絶えず完全化しつつある小宇宙」だけが存在しているのだ! 彼等は国民経
済と「本質的特徴において異なっている」ところの「特殊の現象」を何処にも認めないのだ! これ
68
こうこう
は解し難き謎ではないか? 電光の如く煌々たる光力を以て如何なる観察者の感官にも突入するとこ
ろの現象に対して、学問の公式代表者がこのように盲目であるということは、国民経済学の領域以外
の何等かの知識の領域においては考え得らるることだろうか? 自然科学においては、ここに名声あ
る一人の学者があって、地球が太陽の周囲を廻るのでなく、太陽がすべての遊星を伴って、地球を中
心として廻転するという意見を今日公然と主張せんと欲し、この自分の意見と「本質的特徴において」
こうしょう
矛盾する「現象を何等知らない」と主張するとすれば、こういう学者は如何なる場合でも教養ある全
社会の哄笑を買い、結局近親の憂慮から無理やりにその精神状態を検査されるに至るのは必定である。
たしかに四百年以前にはこういう意見は何等罰せられずに普及したばかりか、こういう意見の間違っ
ていることを公然証明しようと企てる者があれば、誰でも火刑に処せられる危険があった。当時は、
地球が星辰の運行における宇宙の中心だなどという間違った見解を維持することは、カトリック教会
の最も緊急の利益であって、地球の宇宙君臨説に対する攻撃は、すべて精神上における教会の強制支
ぎまん
配と、俗世界における教会の十分一税とに対する攻撃を意味していたのである。このように当時は自
然科学が支配的社会制度中の触れてはならぬ神経点であり、自然科学的欺瞞が奴隷化に欠くべからざ
る道具であった。資本の支配下にある今日は、社会制度中の触れてはならぬ点は、蒼穹における地球
ほんとう
の使命に対する信仰ではなく、地上におけるブルジョア国家の使命に対する信仰である。そして今や
世界的経済の巨浪に乗じて、すでに怖るべき禍が奔騰し、膨脹しつつあるために、そしてまた大暴風
第1章 国民経済学は何ぞや
69
そうとう
がブルジョア国家の「小宇宙」を木葉のように大地から掃蕩せんとして迫りつつあるために、資本支
配の学問的「門衛」は、「国民国家」という彼等の牙城の門前に馳せ参じて、これを死守しようとし
ているのだ。今日の国民経済学の最初の言葉、その基本概念は、ブルジョアジーの利益を図る学問的
欺瞞で あ る 。
五
国民経済学は屡々吾々に対して「人間の経済関係に関する学」であるという風に、簡単に定義さうれ
んい
ている。こういう方式を与える人間は、問題を不明確なものに一般化し、「人間」の経済一般を云為
ぼ
することによって、世界経済における「国民経済」という暗礁を廻航したものと信じているのだ。し
かしながらこういう具合に薄青いろに暈かすことによって、事柄は明瞭にならないばかりか、おそら
0
0
0
くは一層こぐらかるばかりである。けだしそうなれば次の如き疑問が生ずるからである。
「人間」の
経済的関係、従ってあらゆる時代とあらゆる事情とを問わず、すべての人間の経済関係に関する特殊
科学は、果して必要であるか否か、そして何のために必要なのであるか?
任意の経済関係の何等かの例、できるだけ簡単にして見易い例を選び出そう。まず吾々は今日の世
界経済がまだ成立せず、商品交易は漸く都市に栄えているだけで、田舎には自然経済が、即ち自家の
需要のための生産が、大荘園にも小農民地にも支配していた時代に身を置くとしよう。たとえば前世
70
紀の五〇年代にデューガルト・スチュワートの記しているスコットランド事情を例に取ろう。「統計
なめ
うが
によれば高スコットランドの若干部分においては、多くの牧夫および小屋棲み農夫は、その妻子と共
に、 自 分 で 鞣 し た 革 で 自 ら 造 っ た 靴 を 穿 ち 【 は い て 】
、材料を自分で羊から剪ったり、自分で栽培した
亜麻で作ったりして、自分以外には誰の手にもかからない衣服を着ていた。衣服の任立て上げには、
*
章
13
大針、縫針、指抜および機織りに使用される鉄製品の極少部分を除いては、殆んどこれという品は購
、潅木および草類から採取されていた。」
われなかった。染料は婦人自身の手で、蕎木 【喬木】
*カール・マルクス著『資本論』第一巻、第四版、第四五一頁に引用するところによる。【第四篇第
「機械類と大工業」第9節の注】
または比較的短かい時代前、即ち七〇年代末のロシアを例に取ろう。そこでは農民経済が多く次の
如くにして行われていた。
「彼等(スモレンスク県のウヤズマ地方の農民)が耕やしている土地は、彼等に衣食を供給し、彼
等の生存に必要な殆んどすべてのものを供給する――パン、馬鈴薯、牛乳、肉、卵、リンネル、布、
ハンケチ
羊皮、それから軽い着物のための羊毛……銭を出して買うのは長靴に、それから若干の細々した装身
*
具――革帯、頭巾、手帛というようなもの、それから若干の必要家具類――陶器、木器、火耙 【火かき棒】
、
釜というようなものだけである。」
*ニコライ・ジーベル教授 【 Nikolai Sieber(Nikolaĭ Ivanovich Ziber), 1844-88
】著『ダビッド・リカードとカー
第1章 国民経済学は何ぞや
71
】モスコー、一八七九年刊、
ル・マルクス』【 "David Rikardo i Karl Marks v ikh obshchestvenno-ėkonomicheskikh"
第四八〇頁。
今日でもこういう農家はボスニヤおよびヘルツェゴビナ、セルビア、ダルマチアに存在している。
そこで高地スコットランドやロシア、ボスニヤやセルビアのこういう自家経済を行っている農民に対
きっきょう
わし
わし
して、「経済目的」、「富の発生と分配」というような、国民経済学の大学教授式常套質問を提起しよ
わし
うとするなら、この農民は喫驚仰天するに相違ない。何のために、何の目的で俺と俺の家族とが働くか、
それを学者らしく言い現すなら、如何なる「動機」が俺を「経済」に向わせるかというのか? 農民
あぶ
は叫ぶであろう、吾々はとにかく生きなければならないのだ、そして炙った鳩が吾々の口の中に飛び
込むものではない。働かなければ餓死するだろう。だから吾々はどうにか暮してゆくために、腹一杯
食べて、サッパリしたものを着て、家らしいものに住むために働くのだ。何を吾々が生産するか、
「如
あひる
何なる方向」を吾々の労働に与えるかというのか? これもまた分り切った質問だ。吾々が使うもの、
それぞれ百姓の一家が生活に必要なものを生産するのだ。吾々は小麦や裸麦、燕麦や大麦を作り、馬
鈴薯を植え、それからまた牛や羊、鶏や家鴨を飼う。冬には紡ぐのだが、これは女の仕事で、吾々男
は斧や鋸や槌で家事に必要なものを細工するのだ。お前さんが吾々のためにそういうものを「農業」
と呼ぼうが「工業」と呼ぼうが、とにかく吾々は家でも畑でも色々のものが必要なのだから、あらゆ
るものを少しづつ営んでいるのだ。こういう労働をどういう具合に「分割」しているかというのか?
72
これもまた不思議な質問だ! 言うまでもなく男は男の力が入用な仕事をやっているし、女は家の
ことや、牛のことや、鶏小屋を世話し、子供はあれやこれやと手伝いをするのだ。それともお前さん
は女を木樵りにやって、自分は牛の乳を搾れとでも言うのかね。
(ここに附け加えて言うが、この善
良なる農夫は、多くの原始的民族、たとえばブラジル種インディアンの場合は、林で材木を集めたり、
根果 【芋類であろう】を掘ったり果実を採りに行ったりするのは女の仕事であり、一方アフリカやアジ
ら
ば
アの牧羊民族の場合は、今度は男が家畜の番をするばかりでなく、乳搾りもしていることを知らない
くわ
のである。また今ダルマチアでは女が重い荷物を背負って行く傍らに、倔強な男が気楽相に騾馬に乗
って銜え煙管をしているのを目撃することができる。即ちこういう「分業」は、わが農夫に取って男
わし
が木を伐り、妻が牛の乳を搾るのが当然のことに見えると全く同様に、当然のことと思われているの
だ。)更らに続けて言う、どんなものを俺の富と呼ぶかというのか? こんなことは村のどんな子供
だって知っている! 充分な穀物小屋や、設備の整った牛小屋や、沢山な羊の群や、大きな鶏小屋を
持っている百姓は富んでいるのだ。復活祭の時分にはもう粉が足りなくなったり、雨降りの日には部
室に雨漏りがする、そういうような百姓は大体貧しいのだ。「わが富の増進」は何に基づくかという
のか? 一体どういうことが問題になるのか? もっと大きな良い土地をもっているとしたら、言う
ひょう
までもなく一層富んでいるだろうし、夏になって、禁物のひどい雹が降れば、二十四時間のうちに村
中の誰も彼も貧乏になるのだ。
第1章 国民経済学は何ぞや
73
吾々は茲に農民をして経済学の博学なる質問に長々と答えさせたが、それにも拘わらず学問的研究
のために手帳と万年筆とを携えて、高スコットランドやボスニヤの農家にやってきた大学教授は、そ
の質問の半分も済まないうちに、早くも再び門外に踵を回えすに相違ないと確信する。事実において
こういう性質の農民経済のすべての事情は、言うまでもなく簡単明瞭なものであって、経済学的解剖
刀を以てこれを解剖することは無駄な遊戯のように思われる。
おそらく不幸な例を選んだ
これに対しては或いはこう言って吾々に反対することができる。吾々は
いずく
のだろう、即ち吾々は自給自足の微小な農民経済を捉えたのであって、焉んぞ知らんこの極度の単純
性は、貧弱な要具と容積とによって条件づけられているのだと。それなら別な一例を挙げよう。即ち
世の中から忘れられた隅々に何処でもつつましやかな生活を営んでいる小農家を去って、一大帝国の
最高頂に視線を向けよう。即ちカロロ大帝のi経済を観察することにしよう。この皇帝は九世紀初にド
きょうこ
イツ帝国をヨーロッパにおける最強国たらしめ、帝国を拡張し、鞏固にするために五十三度も出征を
て細心であった。彼は荘園の経済原則に関し七十条項より成る特別の法典を自ら編纂した。これが有
を皇威の下に置いたのであるが、しかも彼は、その料地および荘園における経済事情に対しては極め
企て、今日のドイツの外に、なおフランス、イタリア、スイス、スペイン北部、オランダ、ベルギー
i
742-814, Karl der grosse, Charlemaneと
, か呼ばれる。日本ではカール大帝とも。
】
、 即 ち 荘 園 法 典 で あ っ て、 こ の 法 典 は 歴 史 的
名な『カピツラーレ・デ・ウィリス』【 Capitulare de villis
生没
i
74
ちりほこり
伝統の無上の宝物として、幸いにも記録所の塵埃に埋もれて吾々に保存されてきた。この法典は二つ
の理由から全く特別の注意を要するものである。第一にはカロロ大帝の荘園の大多数は後に有力な都
市となったことであって、たとえばアーヘン、ケルン、ミュンヘン、バーゼル、シュトラスブルグ、
その他多くの大都市は以前にはカロロ大帝の荘園であった。第二にはカロロ大帝の経済制度は、早期
中世のすべての貴族領および寺領の巨大地所経済にとって手本となったことである。
カロロの荘園は、
そさい
後進ゲルマン人の武士貴族の粗野な環境の中に移植するために、古代ローマの伝統とその貴族荘園の
洗練された生活様式とを採用したものであって、葡萄栽培、園芸、果樹栽培、蔬菜栽培、養蚕等に関
する彼の規定は一個の文化史的業蹟であった。
さて法典を仔細に調べて見よう。大帝は何よりもまず人々が彼に実直に仕えることを要求し、料地
における家臣が充分な心づかいを受け、貧困に陥らぬように保護される道を講じている。彼等に力以
上の仕事を課してはならぬ、夜に入っても働かされる場合には相当の賠償を与えられることになって
いる。家臣の方では誠実に葡萄栽培に気を配り、何等過失なしに搾った葡萄汁を壜に詰めなければな
がちょう
らぬ。義務を怠った場合には「仰向けにして」懲罰される。更らに大帝は次の如く規定している。料
はいたか
たか
地においては蜜蜂と鵞鳥とを飼養し、家禽はよく飼養して殖やさなければならぬ。牝牛、種牝馬、羊
等家畜の増殖に最大の配慮を与えなければならぬ。
や鷹を棲まわせて置かな
大帝は更らに記して曰く、山林は理解を以て経営し、伐木することなく鷂
第1章 国民経済学は何ぞや
75
がじょく
ければならぬ。肥えた鵞鳥と仔鶏とをいつでも役立て得るようにし、農場で消費されない鶏卵は市場
かぎ
きり
、掛物、銅製、鉛物、鉄製、木製の家具、鎖、
に売ること、どの荘園にも良い羽根蒲団、臥褥 【敷布団】
鍋鉤、手斧、錐の用意があるべきで、他人から借りられているようなことがあってはならぬ。大帝は
更らに規定して曰く、荘園の収益は精密に計算して報告しなければならぬ、しかも各個の事物に亙っ
ぎゅうらく
てんさい
てそれぞれ幾許産出されたかを報告しなければならぬ。そして大帝は次の如く列挙している、蔬菜、
、チーズ、蜂蜜、油、酢、甜菜、それから法典の条文の文句でいえば「その他こまごま
牛酪 【バター】
したもの。」なお、どの料地にも各技芸を専攻した各種の手芸者の充分な数が存在していなければな
らぬと言って、矢張り各個に亙ってその種類を挙げている。更らに大帝は降誕祭を以て彼が毎年富の
総勘定を徴収する期日と定めており、どんな小っぽけな農夫と雖も、農場における牛や卵の数をカロ
いくばく
ロ大帝ほど細心に一々に亙って調べはしない。法典の第六十二条に曰く、「吾々があらゆる物に亙っ
て、如何なるものを、幾何、所有しているかを知っていることが大切である」と。そして矢張り、牡牛、
水車、材木、船、葡萄樹、蔬菜、羊毛、リンネル、大麻、果実、蜜蜂、魚、皮類、蜜蝋、蜂蜜、古酒
および新酒、その他彼に交附されるすべてのもの、という風に列挙している。そして大帝はすべてこ
ういうものを交附しなければならぬ愛すべき家臣を慰めて、こういう優しい言葉を附け加えている、
「お前がたに取って、こういうことがそんなに辛い仕事とは見えないように望む。各人はそれぞれ料
地の主人なのだから、それぞれ言い付けて収集することができようから」と。更らに吾々は葡萄酒の
76
ふくろ
包装や運送の仕方についての綿密な規定を見る。思うにこれは、大帝の特別の政務の一つだったので
ある。「葡萄酒は丈夫な鉄張りのしてある樽に詰めるのであって、決して嚢に詰めてはならぬ。麦粉
は二輪車に積み、革で包んで運送して、何等損害なしに河を渡すことができるようにしなければなら
ぬ。また羯羊 【去勢した羊】や山羊の角や、毎年殺される狼の皮について精密な計算を報告して貰いた
か
き
ローズマリー
い。五月には仔狼に対して容赦なき戦いを仕掛けることを怠ってはならぬ。
」最後に大帝は法典の最
ういきょう
後の条文において、一料地に栽培されているあらゆる花卉草木、即ち薔薇、百合、迷迭香、胡瓜、玉
葱、大根、茴香等、一々報告すべきものとして挙げている。そしてこの有名な法典は種々の林檎の種
類の列挙を以て終っている。
これが九世紀における皇室経済の光景である。
そして右は中世の最も有力にして最も富裕なる君主の一人を挙げたものであるが、この君主の経済
にしろ、この農場経営の原則にしろ、最初に観察した矮小農家を卒然として聯想せしむるものがある
ことは、何人と雖も同意するに相違ない。この場合もこの皇室の主に向って、前述のような富の本質、
生産の目的、分業等の国民経済学の根本問題を課そうとするときは、このあるじは皇帝らしい手裁き
を以て、山のような穀物、羊毛、大麻や葡萄酒、油、酢の樽や、牛小屋や羊小屋を指さして見せるに
相違ない。そして吾々は矢張りこの場合も、実際こういう経済においては、国民経済科学は一体如何
なるものについて秘密な「法則」を研究し、解明すべきであるかを知らないであろう。けだしこの場
第1章 国民経済学は何ぞや
77
合一切の相互関係、即ち原因と結果、労働とその成果は掌を指すように明白だからである。
おおや
おそらくこの場合もまた読者は、吾々が矢張り今度も間違った例の選び方をしたのだということを
注意したがるかも知れぬ。何といってもカロロ大帝の法典を見れば、そこに主眼となっているものは
ドイツ帝国の公けの経済関係ではなく、大帝の料地における私経済であることが分かると。だが誰で
もこの二つの概念を相互に対立させようと欲する人は、中世というものについて歴史的誤謬を冒すこ
とは必定である。如何にもこの律令はカロロ皇帝の荘園および料地における経済に関するものではあ
るが、この経済を彼は支配者として行ったので、私人として行ったのではなかった。もっと正確にい
えば、皇帝は彼の荘園地所における地主だったが、中世においては、即ちカロロ大帝以後の時代にお
いては、貴族大地主はいずれも大体そういう小規模の皇帝だった。言いかえれば、彼等はすでに自由
な貴族的土地所有の力によって、その領地の住民に対して立法者であり、徴税者であり、裁判者だっ
たのである。右に見てきたカロロの諸々の経済規定が事実上政府条令であったことは、その規定の形
式そのものが説明している。即ちそれはカロロの六十五法律、即ち謂わゆる『律令』の一つを成すも
たが
は
のであって、この『律令』は皇帝によって編纂され、皇帝の年々の帝国会議において発布されたもの
である。そして大根や鉄箍を嵌めた葡萄酒樽に関する規定は、たとえばカピツラ・エピスコポルム即
しも
ち『僧正令』における僧侶に対する戒告と同一の絶対権力によって且つそれと同一の文体において作
成されたものであって、『僧正令』においてカロロは主の僕べをしっかりと掴まえて、逃亡しないよ
78
うに、酩酊しないように、悪い場所を訪れないように、婦人室をもたないように、聖典をあまり高価
に売らないように強く戒めている。中世における何処の田舎でも探して見るがよい、貴族の大土地所
有に関する限り、カロロ大帝の経済が模範であり典型でない農業経営は、何処にだって見出せないし、
独立に経済している個々の農家にせよ、共同的に経済しているマルク組合にせよ、そうでない農民経
営は只の一つだってありはしない。
右にあげた二つの例において最も顕著な点は次の事実である。即ちこの場合いずれも人間生活の欲
望が直接にはたらき且つ規定し、且つその成果が極めて精密に志向および欲望に合致しているのであ
って、そのために経済関係が、その規模の大小如何に拘わらず、このような驚くべき簡単明瞭さを示
しているのである。小地面を耕やす小百姓でも、荘園における大君侯でも、自分が生産によって如何
なるものに到達せんと欲しているかを極く精密に心得ている。それにまたそういうことを心得ている
わら
に何等不思議はない。両者とも衣食住に対する人間の自然的欲望を充たそうと欲しているのだから。
ただ両者の区別は、農民の方は多分藁蒲団の上に、領主の方は桑かい羽根蒲団の上に眠り、一方はビ
ールや蜜糖水、それにまた冷水を飲んでいるに反し、他方は宴をはって上等の葡萄酒を飲むというだ
けのことである。即ち区別は拵えられる財の量および種目に存するだけであって、経済の基礎とその
任務――人間の欲望を直接に充たすためという――は依然として同一である。こういう自然的任務か
ら発する労働にその結果が合致するのは、同じく自明の理である。この労働過程にも矢張り区別は存
第1章 国民経済学は何ぞや
79
ようえき
する。即ち農夫は家族と一緒に自分で労働する、そして彼は自分の労働の成果のうち、自分の地面と
ぐぜい
共同地の持分とが産出し得るだけの分量しか取らない。もっと精確にいえば――ここでは中世の徭役
農のことを言っているのだから――地主と教会とに対する貢税と庸役との後に残ったものしか手に入
らない。ところが皇帝または他の貴族地主はいずれも自分で労働せずに自分のために家来や小作人を
むらおさ
しょうじ
労働させている。だが農夫が各自家族と一緒に自分のために労働していようと、またはすべての農夫
が村長や荘司の指揮の下に地主のために労働していようと、その労働の成果は、広い意味での生活資
ひね
料の一定量に外ならぬ。即ち必要とされているもの、そして大体必要とされているだけの量である。
せんめい
ろどん
こういう性質の経済をどんなに捻り廻して見ても、深遠な研究によって、特殊の科学によって初めて
闡明されるような謎を、何等そこに見出すことはできぬ。中世においてはどんな魯鈍な農民と雖も、
地主の地所をも農民の地所をも折々見舞う自然現象は別として、自分の富というよりも貧が、何に基
づいているかを仔細に心得ていた。農民の逼迫は極く簡単明瞭な原因に基づいていることを仔細に心
ちゅうとう
得ていた。原因というのは、第一に徭役および貢納に対する地主の際限なき搾り取りであり、第二に
共同地、即ち林地、牧地、河水に対するこの同じ地主の偸盗である。そしてその心得ていることを農
民は農民戦争によって世界に声高に叫び、吸血者の家に放火することによってこれを示した。この場
合依然として学問的に研究さるべきものは、そういう経済関係の歴史的起源および発達だけであり、
如何にして全ヨーロッパにおいて以前の自由な農民地が、借地料および貢税義務のある貴族地主地と
80
化し、以前の自由な農民の身分が、徭役義務のある、そして後にはまた在村義務のある臣属の一団と
化したかという問題であった。
しかるにひとたび今日の経済生活の中から何等かの現象を選び出すとなると、事情は全然一変して
0 0 0 0
しまう。例として最も顕著な現象の一つ――商業恐慌を選び出そう。吾々はいずれもすでに幾多の大
きな商業恐慌や産業恐慌を経験してきているので、フリードリヒ・エンゲルスによって典型的に描き
出された次の如き出来事は、吾々自身の見聞によって熟知しているところである。曰く、「交通は停
止し、市場は供給過多となり、生産物は大量に且つ販売され得ずに積まれてあり、正貨は見ることが
できなくなり、信用は消え、工場は休止し、労働大衆はあまりに多く生活資科が生産さるるが故に生
活資料に不足し、破産は破産につづき、押売りが押売りにつづく。幾年間も不景気が継続し、生産力
も生産物も大量的に浪費され破壊され、最後に至って堆積されている商品の山が多少とも減価の下に
流れ出し、生産と交換とが漸次に再び動き出すようになる。今度は次第々々にその足並みが早くなり、
駈け足になり、この産業的駈け足は疾駆に移り、この疾駆が進んで産業上、商業上、信用上、投機上
の競馬の篏制なiき競走となり、最後に危険極まる跳躍の後、早くも再び――倒産の墓穴の中に落ち込
むのだ。」【『反デューリング論』から】こういう商業恐慌はあらゆる近代生活の恐怖であり、恐慌の切迫
が告げられる方法は極めて特色のあるものであることは、吾々のすべてが知っている通りである。好
第1章 国民経済学は何ぞや
81
i
束縛するという意味の「箝制」ではないか。手綱無き競争。
i
景気と順調な営業経過とが数年つづいた後、初めに新聞紙上にチラホラ不明瞭なコソコソ話が始まり、
取引所では破産に関する不安な噂が伝えられ、次いで新聞紙上における暗示は段々明瞭なものになり、
しゅうう
取引所はますます不安となり、国立銀行は割引率を引上げ、即ち信用の附与を控え目にし、とうとう
破産、休業の報道が驟雨のようにやってくる。そして恐慌が全く進行し出せば、何人がそれに責任が
あるかということで争いが起こる。事業家は銀行の苛酷な信用拒否や株式業者の投機熱に罪を着せ、
かいふく
株式業者は工業家に、工業家は国内における貨幣の不足に罪を着せる。そして最後に事業が再び運行
し始めれば、取引所や新聞が、重荷をおろしたように矢張り真さきに恢復への徴候を示し、
やがてまた、
希望、安心、確信が暫くの間甦ってくる。以上すべての場合に注目すべきことは次の事情である。即
ち恐慌はすべての関係者、社会全体によって、人間の意志と人間の予測の領域以外にあるものと見做
され、見ることのできぬ力によって吾々の頭上に下された運命の打撃であり、大暴風雨、地震、洪水
と大体同じ種類の天の試練であるという風に見做されているという点である。商業新聞が恐慌を報道
するに使用する言葉からして、「これまでの事業界の好天気は暗雲を見せ出した」という語法が好ん
で用いられ、銀行の割引率の急激な引上げを報道する場合には、定りきって「嵐の兆あり」という標
題が附せられ、またその後に暴風雨が一過して地平線が晴れたというような記事を読むのである。こ
ういう表現の仕方は、実業界の文筆奴隷の没趣味を現している以上の何等かのものを言い現している
のであって、取りも直さずこういう言い現しこそ、恐慌の不思議な、謂わば自然律的な作用を表現す
82
ひょう
しょうふく
るに典型的なものである。近代社会は恐慌の切迫を恐怖を以て語り、その雹雨の如き打撃の下に慴伏
し、試練が終るのを待ち、初はおっかなびっくり、それからやっと安心して首を上げる。これは中世
において民衆が大飢饉や疫病の勃発の前に処したやり方と全く同じである。今日と同じように農夫は
雹交りの大暴風雨を忍んだのであって、苛酷な試練に対して今日と同じように途方に暮れ、同じよう
に無力だったのである。とはいえ飢饉でも疫病でも、結局は社会的現象であるとはいえ、第一にそし
て直接には、凶作、病菌の伝播というような自然現象の結果である。暴風雨は物理的自然の元素的現
象であって、少なくとも今日の自然科学や技術の状態の下には、如何なる人間も暴風雨を起したり、
避けたりする能力はない。ところが近代的恐慌はどうか? 吾々の知っている如く恐慌は、商品が過
剰に生産され、販路を見出し得ず、その結果商業と、それに伴って産業とが停止するところから起こ
るのである。ところが、商品の製出、商品の販売、商業、産業――こういうものは純粋の人間的関係
である。商品を生産するのは人間自身であり、それを買うのも人間自身であり、商業は人間から人間
へと行われるのであって、吾々は近代的恐慌を形成する事情の中に、人間の行為以外に存する要素を
かしゃく
一つだに見出すことはできない。されば恐慌を周期的に惹き起すものは、人間社会自身を外にして他
の何物でもない。しかも同時に吾々は、恐慌は人間社会にとって真の苛責 【呵責】であり、恐怖を以
て期待され、絶望を以て忍ばれているのであって、何人によっても希望されてはいないことを知る。
けだし恐慌の際に他人の犠牲によって、一挙に儲けようと努める個々の株屋の狼共――尤もその場合
第1章 国民経済学は何ぞや
83
屡々自分自身が没落の憂き目を見るのだが――そういう連中を外にすれば、恐慌はすべての人にとっ
て少なくとも一個の危険または破壊である。何人も恐慌を欲していないのだが、しかも恐慌はやって
くる。人間がそれを自分自身の手でつくり上げながら、しかも世の中にそういうものが無ければよい
と思っているのだ。ここに吾々は事実において、関係者からは何等説明され得ないところの経済生活
の一つの謎を目のあたりに見る。中世の農夫は小さな田地でもって、一部分は彼自身が欲し且つ要す
やかた
るもの――穀物と家畜、自分と家族のための生活資料――を生産していた。中世の大地主は彼が欲し
且つ要するもの――穀物と家畜、良き葡萄酒と手のかかった衣物、自分と館のための生活資料と贅沢
品――を生産させていた。ところが今日の社会は欲しもしなければ必要ともしないもの――恐慌をつ
くり出している。即ち社会は消費することを得ない生活資料を時々生産し、売れない生産物の巨大な
る倉庫を傍らにして、周期的に飢饉に悩まされている。需要と供給、労働の支出と成果とがもはや合
致せず、その両者の間には何か不明瞭なもの、謎のようなものが潜んでいるのだ。
もう一つ別の例0、0一般に熟知されており、すべての国の労働者に分かり過ぎるほど知られている例
を取ろう。即ち失業である。
失業はもはや恐慌とは違って、時々社会を見舞うところの異変ではない。それは今日程度の大小こ
そあれ経済生活の不断の、日常の附随現象となっている。失業者名簿を記しているところの、最も良
く組織され最も良い支払を受けている範疇の労働者は、毎年、毎月、毎週、間断なき失業者数の連鎖
84
を記帳しつつある。この数はひどく動揺してはいるが、全然涸れ切ってしまうことは決してない。今
日の社会が労働階級のこの怖るべき苛責たる失業に対して、如何に無力であるかということは、この
災禍の範囲が大きくなって、立法部がそれに干渉することを余儀なくされる場合にいつも判明する。
こういう商議のお定り通りの成り行きは、長い議論の後に結局失業者の現存数に関する調査を始めよ
うという決議となる。但し洪水の場合に水深を測るように、主としてその場合の災禍の状態を測るだ
けに止まり、最上の場合でも失業保護――それも多くは従業労働者自身の費用によっての――という
【
Thomas Robert Malthus,
姿を取った微弱な姑息手段によって、災禍の影響を幾分緩和するだけのことであって、災禍そのもの
を除去しようという試みは一つも行われない。
十 九 世 紀 初 に イ ギ リ ス・ ブ ル ジ ョ ア ジ ー の 偉 大 な る 予 言 者、 僧 正 マ ル サ ス
】は、彼特有の小気味のよい露骨さを以て、次の原則を宣言している。曰く、
「すでに人々の
1766-1834
所有に帰している世界に生まれた人間は、要求権利があるにも拘わらず近親から何等生活資料を得る
ことができない場合、そして社会が彼の労働を必要としない場合は、如何に小量の食糧に対しても何
等要求権を有していない。そして彼は事実において、
この世界に何等つくり出すものがないのである。
自然の大饗宴も彼のためには何等食卓を用意してくれない。自然は彼にとっては彼を排斥することを
意味するのであって、自然は自分自身の命令を迅速に断行する。」特有の「社会改良家的」虚偽を有
する今日の役人社会は、こういう明らさまな正直を禁じている。しかし事実上はこの社会は、
「その
第1章 国民経済学は何ぞや
85
労働を社会が必要としない」ところの失業プロレタリアをして、結局何等かの方法において、急速に
か徐々にか、この世界から「排斥」されるようにさせ、それによってすべての大恐慌中における疾病
や乳児の死亡や、財産に対する犯罪数の増加が帳消しにされる。
さきに吾人は失業を洪水に比したが、取りも直さずこの比較こそは、次の如き驚くべき事実を示す
ものである。即ち吾々は物理的自然の元素的出来事に対する方が、吾々自身の純社会的、純人間的な
事柄に対するよりも、無力である度合が少ないという事実である! ドイツ東部において春季に非常
な損害をもたらしている周期的洪水は、結局は吾々が今日行っているところの全然予防なしの河水経
済の一結果にすぎぬ。技術はすでにその現在の状態においてすら、水の威力に対して農業を保護する
すいこう
に充分な手段、それどころかこの水の威力を自由に利用する手段すらも供しているのだが、只これら
の手段は、水害に見舞われる全地域を囲ったり、田地や牧地を適当に移したり、堤防や水閘を築いた
り、河流を調節したりしなければならぬ綜合的合理的な河水経済の最高階段以外には適用され得ない
のである。かかる大改良事業が着手されないのは、一部分は私人資本家も国家もそういう企てに対し
て資金を出したがらないからであるし、一部分の理由は、そういうことを企てればその大きな地域に
おいて、種々な私的土地所有権の障壁にぶつかるからである。しかしながら水害を予防し、狂暴な水
力を統制する手段を、今の社会はたとえ使用する能力はないにしても、とにかくすでに現在にもって
いるのだ。ところが失業に対する手段は、今日の社会においてまだ発見されていない。しかもそれは
86
何等水力風力といったものではなく、即ち物理的自然現象でも超人間的な力でもなく、経済関係の純
人間的産物なのである。このように吾々は茲でも矢張り一個の経済的謎に当面する――即ち何人も企
てず、何人も意識的に望みもしないのに、自然現象のように規則正しく起り、謂わば人間の頭から離
れて生ずるところの現象を見るのである。
しかし恐慌や失業などという、現代生活の顕著な現象を選び出す必要はない。即ち在り来たりの観
念からすれば、事物の尋常普通の成り行きにおける例外を成しているところの、災害や異変を選び出
0 0 0 0 0 0 0
すを要しない。日常生活から最も尋常普通な一例、すべての国において幾千回となく繰返えされてい
るもの――商品の価格変動を例に取ろう。すべての商品の価格は確固不変のものではなく、反対に殆
んど毎日、それどころか往々毎時間に上下するものであることは、どんな小児でも知っている。任意
の新聞を手に取って、物産取引所の報道を調べれば、前日の物価変動に関し次の如き記事を読むだろ
う。小麦――午前、弱調子、正午、稍々活気あり、閉場近くに騰貴した、云々。銅や鉄、砂糖や種油
の場合も同一である。そして種々の企業の株式や、
証券交換所での公私有価証券の場合も同一である。
価格変動は現代経済生活の間断なき、日常普通の、極く「常態的」な現象である。ところがこういう
価格の変動によって、すべてこれらの生産物や有価証券の所有者の財産状態に変動が時々刻々に行わ
れる。羊毛の価格が騰貴すれば、羊毛現品を倉庫に貯蔵しているすべての商人および工場主の財産が、
一時の間増大し、価格が下ればそれに応じてその財産が消失する。銅の価格が上れば銅山株の所有者
第1章 国民経済学は何ぞや
87
きんきん
は富み、価格が下れば貧しくなる。このように人々は株式取引所の電報一本に基づく単なる物価変動
によって、僅々数時間のうちに百万長者にも乞食にもなることができる。そして実際のところ詐欺を
伴った取引所投機は、本質上そういうものを土台としているのである。中世の地主は収穫の良否によ
って富んだり貧しくなったりすることができた。もしくは通り過ぎる商人を待ち伏せする野武士とし
て、大きな獲物があった場合には金持ちになり、或はまた――そしてこれは最も引き合う最も愛好さ
れる手段なのだが――徭役や貢物の要求を高めることによって、これまでよりも農奴から余計に搾り
取ることができた場合には、自分の富を増加したのである。ところが今日では、自分がちっとも助力
せず、指一本動かさずとも、何等自然の出来事が起らずとも、また誰も自分に何か呉れたり、暴力的
に自分から奪ったりしたわけでもないのに、突然富んだり貧しくなったりすることができる。価格の
変動は謂わば人間の背後において、見ることのできぬ力に左右されて、社会的富の分配に間断なき移
動と動揺とを惹き起すところの一個の秘密な運動である。人々は寒暖計で温度を判断し、バロメータ
ーで気圧を判断すると同じ具合に、単にこの運動に注意を払うだけである。しかも商品の価格とその
変動とは、明らかに純粋に人間的な事柄であって決して魔法ではない。外の誰でもない人間自身が自
分の手で商品を拵え、その価格を決めるのであって、ただ矢張りこの場合も彼の行為から、誰も企て
かんかく
たり望んだりしなかったものが現れてくるだけである。矢張りこの場合も人間の欲望、人間の経済的
行為の目的と結果とが、互いに杆格のある不一致に陥っているのである。
88
どういう訳でこんなことになるのか、そして今日人間自身の経済生活を、人間の背後において、か
くも奇異な結果に接合させるところの、得体の知れぬ法則は一体如何なるものであるか? これを闡
明することは科学的研究によってのみ可能である。ここに精密な探究、深い反省、分析、比較の方法
によって、すべてこういう謎を解くことが必要となった。即ち人間の経済的行為の結果がその人間の
企図、その人間の意志、約言すればその人間の意識と最早や合致しないようにするところの、隠れた
る聯絡を発見することが必要となった。かくて社会的経済内における意識の欠如として示されている
ものが、科学的研究の課題として現れるのであって、ここに吾々は直接に経済学の根柢に到達したの
である 。
ダーウィンは世界一週中フォイエルランドにiついて次の如く述べている。あざらし
「この国は屡々飢饉に悩んでいる。予は、この国の土人をよく知っている海豹猟者の首長ロウ氏が、
極めて貧粗で非常に窮迫している西岸地方の百五十人ばかりの土人の社会状態について、珍らしい
話をしてくれたのを聞いた。ひと続きの暴風のため女は岩から貝を採ることを妨げられ、また海豹
を捕えにカヌー舟で乗り出すこともできなかった。そこで人々の一小隊は或る朝旅に出た。そして
別のインディアンが氏に向って、彼等は食料を持ち帰るために四日間の旅に上ったのだと説明して
89
i
くれた。この一隊が帰ってきたとき、ロウ氏は彼等に会いに行った、そしてこの一隊が疲弊し切っ
第1章 国民経済学は何ぞや
岡崎訳では南アメリカ南端の「フェゴ島」。
i
ポンチオ
ているのを認めた。各人がめいめい腐った鯨の脂肉を四角に切った切れの真中に孔をあけて、そこ
き
から自分の頭をのぞけて運んでいる。丁度スペインの道化者が外套を着ている様子と同じである。
この脂肉が小屋の中に運ばれると、一人の老いた男がそれを薄片れに截って、それに向って二言三
言口の中で呟やいて、一分間ばかりこれを火に炙って、それから餓え切った仲間のものに分けてや
った。彼等はその間中深い沈黙を守っていた。」
左
これが世界中最も程度の低い民族の一つの生活である。この場合、意志と経済の意識的秩序とが
いっぴん
右し得る限界は極度に狭いものである。この場合人間はまだ外界の自然に全然頼っていて、その一顰
一笑に左右されている。しかしこの狭い限界内では、この僅か百五十人ばかりの小社会に社会の全体
的組織が行われているのである。将来のための用意は、腐った鯨の脂肉の貯蔵というみじめな形をと
って辛うじて現れている。だがこのみじめな貯えは、一定の儀式の下にすべての人に分配され、また
食糧探しの仕事には、すべての人が一様に計画的指揮の下に携っているのである。
(戸経済)を例に取ろう。この家内
今度は奴隷使用の古代家内経済、即ちギリシャの「オイコス」
経済は大体において、「小宇宙」、即ち小さな独立世界を形づくっていたものである。ここにはすでに
極度の社会的不平等が行われている。原始的な物資欠乏が去って、人間労働の成果の豊富なる過剰が
現れている。その代わり肉体的労働が或る者の禍となり、閑暇が他の者の特権となり、労働する者自
身が労働しない者の財産となった。しかもこういう支配関係から、経済、労働過程、分配の極めて厳
90
密な計画性と組織化とが生ずる。主人の一定の意志がそういうものの基礎であり、奴隷監視人の鞭が
その制 裁 で あ る 。
中世の封建的荘園においては、経済の専制的編成が、夙に細密な、予め作成されている律令の姿を
取っていて、この律令の中には労働計画、分業、各人の権利義務が明瞭にその輪廓を示されている。
こういう歴史的時期の戸口に立っているのが、前記の立派な文書、カロロ大帝の『カピツラーレ・デ・
ヴィリス』である。この法典はまだ嬉々として充分な肉体的享楽を専ら主眼としていたものであって、
いんうつ
ほしいまま
経済は専ら肉体的享楽を目宛てにしていた。そしてこの歴史的時期の終りに立っているのが、徭役お
よび納貢 【貢納】の陰欝な律令である。この律令は封建諸侯の 恣 な貨幣慾の意のままになり、十五世
しろもの
紀 【正しくは十六世紀】にドイツ農民戦争となって現れ、それから二世紀後にフランスの農民を、悲惨な、
ほうき
半分獣物のような代物となすに至ったものであって、このフランスの農民は大革命の鋭き警鐘によっ
て、人権および市民権のための戦いに目覚めるに至った。しかしながら革命の箒が封建的荘園を一掃
しなかった間は、こういう悲惨な状態にあって、封建的経済関係を避くべからざる運命の如く明確に
規定したものは、直接的な支配関係だったのである。
今日吾々の社会には、如何なる主人と奴隷も、如何なる封建豪族と農奴も存在していない。自由と
法律上の平等とは、形式上は一切の専制的関係を除き去った。少なくとも古くからのブルジョア国家
においてはそうである。ところが植民地においては――周知の如く――屡々そういう国家自身によっ
第1章 国民経済学は何ぞや
91
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て、奴隷制度と農奴制度とが初めて移入されている。とはいえブルジョアジーが主人であるところに
は、とにかく経済関係に関する唯一の法則として自由競争が支配している。だがそれにつれて、あら
ゆる計画、あらゆる組織が経済から消滅している。個々の私的経営、一個の近代的工場、乃至はクル
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ップのi場合のような工場と製鉄所との一大合成体、または北アメリカにおける機械経営農場を一見す
れば、成程そこには、極めて厳格な組織、極めて広汎な分業、科学的知識を基礎とせる極めて精練さ
である 。
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現今でも労働人類を統治してはいる。即ち資本である。しかしその統治形態は専制でなくして無秩序
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盲目的支配が、人間の経済的運命を気ままに弄んでいるにすぎぬ。なるほど一個の優勢なる支配者が、
もてあそ
る計画も、如何なる意織も、如何なる規定も通用しない。知るべからざる、統御すべからざる勢力の
体は完全に無組織である。幾多の大洋および大陸の上にひろがっているこの全一体の中では、如何な
極めて厳格に組織化されているに引きかえ、謂わゆる「国民経済」即ち資本主義世界経済という全一
も、全地域に亙っている大きな経済的紐帯の一小部分にすぎぬからである――そういう個々の部分は
ちゅうたい
て迎えられるのである。無数の個々の部分――というのは、今日の私的経営はどんなに巨大なもので
合よく行っている。しかしながら一歩工場または農場の門外に出るや、早くも吾々は混沌状態によっ
れた計画性が見出される。そこでは一個の意志、一個の意識によって指揮されて、万事が驚くほど都
i
、ドイツの代表的重工業会社、十九世紀から在る。
Krupp
i
92
そして取りも直さずこの無秩序が社会的経済をして、関係している人間自身にとって思いがけない
謎のような結果を生ぜしむるようにさせ、この無秩序が社会的経済を、吾々とは縁のない、吾々から
引離された、吾々とは無関係な現象たらしむるのであって、吾々はこの現象の法則を、外部的自然の
諸現象を研究すると同じように、即ち動植物界を支配し、地殻の変化や天体の運動を支配している法
則を闡明せんとする場合と同じように闡明しなければならぬ。以後科学的認識は、意識的計画が当初
から口授してくれなかったところの、かかる社会的経済の意義と規則とを発見しなければならぬ。
今やブルジョア経済学者にとっては、彼等の学問の本質を解明し、彼らの社会秩序の傷口に指を突
込んで、その内部的衰弱を摘発することが、何のために不可能であるかが明白である。無秩序は資本
支配の生活要素であるということを承認することは、同時に死刑宣告を下すことを意味し、資本支配
の存立に刑の執行猶予が与えられているということを意味する。
何故に資本支配の学問的弁護人等が、
あらゆる詭弁を弄して事物の真相を陰蔽し、核心から外殻へ、世界経済から「国民経済」に視線を向
けようと努めているかが今や明白である。経済学的認識の敷居に第一歩を踏み入れんとするに当って、
即ち経済学とは何ぞや、その根本的任務は何ぞやという最初の根本問題に当面するに当って、すでに
現在ではブルジョア的認識の道とプロレタリア的認識の道とが分れるのである。この最初の根本問題
革 命
は、一見抽象的なものであって、現在の社会的闘争にとってどうでもよいもののように見えるかも知
れぬ。だが科学としての経済学と、××的階級としての近代プロレタリアートとの間に存する特別の
第1章 国民経済学は何ぞや
93
紐帯が、すでにこの根本問題と結びついているのである。
六
右に獲得した立場に立つときは、最初疑問に見えた種々の事柄が吾々にとって明瞭になる。
何よりもまず経済学の年齢が明白になる。無秩序的資本主義生産様式の法則を発見することを任務
とする科学は、この生産様式そのものよりも以前に発生し得なかったことは明白であり、近代ブルジ
ョアジーの階級支配のための歴史的条件が、数世紀の歳月のうちに政治的および経済的変動によって
漸次に合成される以前に発生し得なかったことは明白である。
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ビュヒャー教授によれば、今日の社会制度の発生は、先行の経済的発展とはまちずえ何等関係のない極
めて単純な事柄であった。即ちそれは単に専制主義諸侯の貴き意志と、優れた智慧との成果にすぎな
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いので あ る 。
「国民経済の形成――ブルジョア大学教授にとっては「国民経済」なる概念は、その実、資本主義生産
の胡魔化し 【誤魔化し】的言い現しに外ならぬことは、吾々のすでに知っている通りである――は本質に
おいて、政治的集中の一成果であって、この政治的集中は中世の終りに当って地域的国家形成と共に始
まり、現代において国民的単一国家の創成と共に終っているものである。経済的勢力が綜合されるのは、
政治上の分立的利益を総体のヨリ高い目的の下に従属させることと並行して進んでいる。ドイツにおい
94
ては、土地貴族および都市との闘争において近代的国家理念を発揚せんと試みたものは、地域的大諸侯
である。
」
ところがドイツ以外のヨーロッパにおいても、即ちスペイン、ポルトガル、イギリス、フランスに
おいても、オランダにおいても諸侯の権力がそういう偉業を行ってきた。
「程度の強弱の差はあれ、これらのすべての国において、中世の分立的権力との闘争が現れている。―
―大貴族、都市、地方諸州、僧俗の諸結社との闘争である。最初はたしかに政治的綜合の邪魔になる独
立区域を絶滅することが主眼だった。しかしながら諸侯専制主義の形成を誘致したこの運動の奥底には、
世界史的思想が仮睡していて、人類の新たな、ヨリ大きな文化的任務が、諸民族全体の統一的組織を要
あ
ゆ
求し、活溌な一大利益共同社会を要求した。そしてこれは共同経済を土台にして初めて実現することを
得たのである。
」
ここに吾々はドイツの経済学教授において見てきたところの、思想的阿諛の最も見事な花盛りを認
める。シュモラー教授によれば、国民経済科学は開化的専制主義の司令の下に発生したものである。
ビュヒャー教授によれば、全資本主義生産様式は、専制主義諸侯の崇高なる意志と偉大なる計画との
なまぐさ
成果に外ならぬ。そこでスペインおよびフランスの大専制君主やドイツの小専制君主等が、中世紀末
における傲慢なる封建領主との闘争の場合や、オランダの都市に対する血 腥 き十字軍の場合に、何
等かの「世界史的思想」や「人類の文化的任務」に貢献しなかったという風に侮蔑するのは、これら
第1章 国民経済学は何ぞや
95
の専制君主に対して申訳ない過ちを犯したことを意味する。それどころか、歴史上の事柄を転倒する
ことを意味することになろう。
集中的な官僚主義的大国家の樹立は、たしかに資本主義生産様式の必要欠くべからざる前提だった
には違いないが、一方そういう大国家の方から言えば、それと同じ程度において新しい経済的要求の
一個の結果にすぎないものであって、ビュヒャーの文句を逆にして、はるかに正当に次の如く説くこ
とができよう。曰く、政治的集中の形成は、「本質において」
、成熟しつつある「国民経済」即ち――
資本主義生産――の一成界 【成果】であると。
しかし専制主義がこの歴史的準備過程に与ったことは疑いを容れぬにしても、しかも専制主義は、
歴史的発展傾向の盲目的道具にふさわしい愚かな無分別を以てこの役割をつとめたのであって、即ち
専制主義は都合のよい機会がある毎にこの歴史的傾向に抵抗することを心得ていたのである。中世の
専制君主が神意を体して、封建領主に反対して彼等と結んだ都市を、単なる強奪対象物と見做し、そ
ないど
のため都市を機会ある毎に再び封建領主の手に渡したのがそうであった。彼等が新たに発見された大
りゃくだつ
陸を、その大陸の人類および文化諸共に、専らできるだけ短い期間に「内帑」を金塊でいっぱいにし
ようという「高尚な文化的目的」を果たすため、極めて野蛮な、極めて悪性な、極めて乱暴な掠奪の
ための恰好の分野とのみ見做したのもそうであった。同様に後に神権君主と彼の忠実なる人民との間
に、ブルジョア議会主義憲法と呼ばれる一枚の紙片を奪取するための頑強な抗争が起きたのもそうで
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あった。実にこの紙片こそは政治的統一や集中的大国家そのものと同じく、阻止すべからざる資本支
配の発展にとって必要欠くべからざるものである。
事実は全然別個の力が、即ち中世紀末におけるヨーロッパ諸民族の経済的生活における大変動が、
新経済様式の入場式を行うためにはたらいていたのだ。
アメリカ発見とアフリカ周航――即ちインドへの海路の発見とが、予想だもしなかった商業の飛躍
と移動とをもたらしてから、封建制度並びに都市におけるギルド制度の撤廃が力強く始まった。発見
された国々における大侵略、土地の獲得、掠奪遠征、新大陸からの貴金属の急激な旺んな流入、イン
ドとの香料大貿易、アフリカ黒人をアメリカの栽培地に供給したところの奴隷貿易の拡大――すべて
ブ レ ー キ
のものは短時間のうちに西ヨーロッパに新たな富と新たな需要とをつくり出した。幾千となき鎖に縛
られているギルド手工業者の小職場は、生産の必要なる拡張とその急速なる進歩に対して制動機であ
ることを示した。大豪商等は手工業者を都市の境界外の大製作場に集め、彼等をしてここで偏狭なギ
ルド規則に煩わされずに、豪商自身の司令の下に一層迅速に一層良く生産させるようにして、これが
解決の道をつくり出した。
イギリスでは新生産様式が農業における変革によって移入された。フランドルにおける羊毛製造業
の勃興は、羊毛に対する大需要と共に、イギリスの封建貴族をして、広汎な範囲に亙って農地を牧草
地に変ぜしむる機因となり、その際イギリスの農民は非常なる大規模に亙って住宅と農場とから駆逐
第1章 国民経済学は何ぞや
97
された。これによって集団的に無財産の労働者、プロレタリアがつくり出され、出現しつつある資本
家的マニュファクチャーの意のままにならなければならなかった。宗教改革もこれと同一の方向には
たらき、寺領地の没収を誘致して、荘園貴族や投機業者に一部は贈与され、一部は投げ売りされ、寺
領地の農民人口はその大部分が矢張り土地から駆逐された。かくしてマニュファクチャー業者も資本
家的借地者も、封建的およびギルド的鉄鎖の外にある貧しきプロレタリア人口を集団的に見出すこと
ができたのであって、後者は浮浪生活や、公共救貧院における長い受難の後、そして法律および警官
の惨酷な迫害の下に、搾取者の新階級による賃銀奴隷の中に救いの港を認めたのである。それに引き
つづいてまたマニュファクチャーに技術上の大変革が起り、次第に熟練手工業者の代わりに、そして
熟練手工業者の外に、不熟練賃銀プロレタリアの大規模なる使用を益々可能ならしめた。
【圧迫】とは、いたるところに封建的障壁と腐朽せる状態の悲
すべてこういう新事情の努力と迫進
惨とに遭遇した。封建制度によって制約され、封建制度の本質となって存する自然経済と、並びに農
奴制度の無際限なる圧迫による民衆の貧困化とは、当然マニュファクチャー製品のための国内市場を
狭め、それと同時に他方においては、ギルドが、最も重要な生産条件――都市における労働力――を
絶えず拘束していた。国家装置はその無限の政治的分散、その公的確実性の欠如――その不合理な関
税政策および商業政策の混乱を以て、新たな交通と新たな生産とを一歩毎に阻害していた。
人階級 【 Bürgertum
】が、自由世界貿易とマニュファクチャーとの代表
ビュルゲルツーム
西ヨーロッパにおける新興町
98
い か よ う
者として、自己の世界史的使命を全然抛棄せんと欲するのでなかったなら、すべてこういう妨害物を
如何様にか一掃しなければならなかったのは明白である。彼等はフランス大革命において封建制度を
粉砕する以前に、まず封建制度を批判的に解剖した、かくして経済学という新科学が、中世的封建国
家に対する戦いと、近代的資本主義階級国家のための戦いとにおける、ブルジョアジーの最も重要な
えんえん
る思想的武器の一つとして発生する。崩壊しつつある経済秩序がまず第一に、急激に発生しつつある
新しい富の下に屈服した。この富は西ヨーロッパにおける社会に注ぎ込み、すでに気息奄々たる家長
的な農民虐使の方法とは全然別な、一層生産的な、見たところ無尽蔵な源泉から流れ出たものである。
新しい致富の最も顕著な源泉は、最初は出現しつつある新生産様式ではなく、その誘導者――商業の
大飛躍――であった。そしてまた経済学の最初の問題と、それに対する解答の最初の企てとが現れた
ところは、中世末における世界貿易の最も重要な場所――地中海上の諸々の富裕なイタリア商業共和
国やスペインであった。
きん
きん
富とは何か? 何によって国家が富み、何によって貧しくなるのか? これが、封建社会の旧概念
が新しい事情の渦巻の中に伝統的な妥当性を失った以後における新問題であった。富とはそれを以て
すべてのものを買い得るところの金である。故に商業は富をつくる。故に多くの金を輸入して少しも
きん
国外に出さないようにできる国家が富む。故に世界貿易、新大陸における植民地占領、輸出品を製出
する製造業は国家から奨励さるべきであり、金を国外に運び出すところの、外国生産物の輸入は禁止
第1章 国民経済学は何ぞや
99
されなければならぬ。こういうのが、すでに十六世紀末にイタリアに現れた最初の経済学説であって、
十七世紀にイギリスやフランスに大きな権威をもっていたものである。そしてこの学説は如何にもお
粗末なものだったにしろ、しかも封建的自然経済との最初のハッキリした断絶を示すものであり、封
かな
建的自然経済に対する最初の鋭い批評であり、商業、商品生産、そしてそういう形を取った資本の最
初の理想化であり、最後に新興ブルジョアジーの心に叶った国家政策の最初のプログラムたるもので
ある。
だ要心深く、見すぼらしい
間もなく商人の代わりに商品生産資本家が中心となってくる。しかしきま
ん
きん
従僕の仮面の下に、封建領主邸の控室に姿を現すのだ。富とは決して金のことではなく、金は商業に
おける商品との仲介者たるにすぎぬ――と、十八世紀におけるフランス啓蒙学者が説いている。ピカ
かわき
ピカした金属を民族や国家の幸福の担保と認めるとは、何という幼堆な眩惑だろう! この金属は餓
ふる
えを感じたときに餓えを充たし、裸で顫えているときに寒さを防いでくれることができるだろうか?
の苦しみを味わなかったろうか、そし
ペルシャ王ダリウスは黄金を抱いて、野外に地獄のような渇
て彼は一杯の水のためなら喜んでそれを渡そうとしなかったか? いな、
富とはそれによって吾々が、
国王と言わず、乞食と言わず、すべてその欲望を充たすところの、食料その他の物資の、自然界から
の贈物のことである。人口がその欲望を旺んに充たせば充たすほど、国家もそれだけ富んでくる。け
だしそれだけ多く租税が国家の手に落ちてくるからである。だがパンにするための穀物や、吾々が衣
100
服を紡ぐところの糸や、吾々が家や家具をつくるところの材木や金属を、誰が自然界から手に入れる
わし
わし
のか? 農業だ! 富の真の泉を成すものは商業でなく農業である。故にその手がすべての富をつく
り出すところの農業人口、農民大衆は、その際限なき貧窮から救われ、封建的搾取の前に保護され、
安楽の境遇に高められなければならぬ! (それだから俺は俺の商品のための販売市場を見出してい
る の だ、 と マ ニ ュ フ ァ ク チ ャ ー 資 本 家 が 小 声 に 附 け 加 え た 。
)故にまた農業から富の全体がその手に
流れ込むところの大地主、封建豪族は、租税を収め国家を養って行く唯一のものでなければならぬ!
しっか
(それだから俺は見たところ何等富をつくり出さないのだから、何等租税を納める必要はないのだ、
しっこく
と矢張り資本家が作り笑いをしながら口の中で呟やいた。)故に農業を、即ち自然の膝下における労
こんこん
働を、封建制度のあらゆる桎梏から解放さえすれば、国民および国家のための富の源泉が自然のまま
に滾々として流れ、すべての人間の最高の幸福が、ひとりでに、自然の調和を以て必然的に全一体と
融和す る 。
こういう啓蒙学者の教えの中に、早くもバスチーユに向っての嵐の遠鳴りを明瞭に聞くことを得た
とき、資本家ブルジョアジーは、漸く自分に力がつき出したことを感ずるに至って、
隷従の仮面を脱ぎ、
敢然と正面に現れて、国家全体を自分等の原型通りに造りかえることを短刀直入に要求するようにな
った。農業は決して富の唯一の泉ではない、と十八世紀末にイギリスでアダム・スミスが説いている。
農地においてであると、マニュファクチャーにおいてであるとを問わず、商品生産に用いられるあら
第1章 国民経済学は何ぞや
101
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ゆる賃銀労働が、富をつくり出すのだ! (あらゆる労働とアダム・スミスは言った。けだしスミス
にとってもスミスの後継者にとっても――彼等は既に新興ブルジョアジーの代弁者だった――労働す
る人間は天性的に資本主義的賃銀労働者だったのだ!)何故ならあらゆる賃銀労働は、労働者自身の
生計のために最も必要な賃銀をつくり出す外に、なお、地主の生計のために必要な地代と、資本所有
主即ち企業家の富としての利潤とをつくり出すからである。そして一職場において、資本の司令の下
に労働に差し向けられる労働者の集団が多ければ多いほど、分業が労働者の間に精確に注意深く実施
されればされるほど、富はそれだけ大きなものとなる。故にこれが本統の自然的調和であり、国民の
富である。――即ちあらゆる労働から、労働者のためにはその生活を支え、且つ否応なしに賃銀労働
を継続させる程度に支えるところの賃銀と、地主の何不自由ない生活を充たすところの地代と、そし
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て企業家を贅沢させながら引続き事業を営ませるように支えるところの利潤とが出てくる。かくして
封建制度の古くさい不器用な手段を用いずして、すべての者が養われるのだ。故に資本家的企業家の
富を増進することは、即ち「国民の富」を増進することを意味するのであって、資本家的企業家は社
会全体をその経営によって養い、富の大動脈たる賃金労働に刺胳を行
i うのである。故に旧時代の一切
しょうがい
の桎梏も障碍も、新工夫の老婆心的な国家の幸福増進方法も消えてしまえ。自由競争、私人資本の自
由活動、資本家的企業家に役立つ全徴税装置および国家装置――これだけあればこの最善の世界にお
i
「しらく」、漢方でも用いられるが、西洋でも悪い血を取り出すという治療が古い時代は行われた。瀉血とも言う。
i
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む
いて、万人が饗応されるのだ!
かわぶくろ
き出したところのブルジョアジーの経済学的福音書であった。そしてこれと共に経
これ が 皮 か ら 剥
済学が、その核心とその真の姿とにおいて、究極的に洗礼を受けたのであった。いかにも封建国家に
対するブルジョアジーの実際的改革案と要求とは、新しき酒を旧き皮嚢に盛らんとする歴史上の企
ほてい
てがいつでも失敗するように、企てのまま無残に挫折した。革命のハンマーは、半世紀間の改良的な
補綴的試みが能くしなかったことを二十四時間のうちに仕上げた。ブルジョアジーの手に支配の条件
を与えたものは、政治的権力奪取の行為であった。しかしながら経済学は、啓蒙期の哲学学説、天権説、
社会学説と並んで、且つその学説の先頭に位して、自覚の手段であり、ブルジョアジーの階級意識の
方式であり、且つその意味において革命的行為のための準備であり、拍車だったのである。ヨーロッ
パにおけるブルジョア的世界革新の仕事は、その末端にいたるまで古典経済学の思想内容によって養
われていた。イギリスにおいてブルジョアジーは、世界市場に対する支配を彼等に齎らしたところの
自由貿易のための戦いの迫進期において、スミス・リカードの兵器廠から武器をもち出した。そして
プロシャの封建的廃物を、イェーナで採用された提案 【イェーナでナポレオンに敗れた】によって、幾分
近代風に修理して、これに生活能力を与えようと欲したシュタイン・ハルデンベルヒ・シャルンホル
スト時代のi幾多の改革も、その観念をイギリス古典経済学者の学説からつくり上げたのであって、新
〜の改革、シュタインとハルデンベルクが政治・経済の改革、シャルンホルストは軍事。
1808
第1章 国民経済学は何ぞや
103
i
プロシャの
i
興ドイツの国民経済学者マールウィッツは一八一〇年に、ナポレオンと並んでアダム・スミスが、ヨ
ーロッパにおける最も有力な支配者であると書いたほどであった。
そこで吾々は、何故に経済学が約一世紀半以前に初めて発生したかということを理解するときはそ
れと同じ立場から、この経済学の爾後の運命も明白になるだろう――即ち経済学が資本家的生産様式
の特殊法則に関する一科学であるとすれば、その存立と職能とは、明かに資本家的生産様式の存在と
結びついているものであって、この生産様式が存立を止めるや否やその土台を失うものである。言い
かえれば、科学としての経済学は、資本主義の無秩序的経済が、労働する社会総体によって意識的に
編成され、指揮されるところの計画的な経済制度に座を譲るや否や、その役割を演了するものである。
かくて近代的労働階級の勝利と社会主義の実現とは、科学としての経済学の終焉を意味する。この点
に経済学と、近代プロレタリアートの階級闘争との、特殊の相互関聯が存するのである。
経済学の任務と対象とが、資本家的生産様式の発生、発展、拡張の法則を説明するにあるとすれば、
その避くべからざる結論は、経済学は結局において資本主義の没落の法則をも発見しなければならぬ
ということである。資本主義は従来の諸々の経済形態と同じく、永遠に存続するものでなく推移的な
歴史的局面にすぎず、社会的発展の無限の階梯上の一階段にすぎぬものである。かくて資本主義の出
現の学説は、論理的に資本主義の没落の学説に変じ、資本の生産様式に関する科学は、社会主義の科
学的基礎づけに変じ、ブルジョアジーの理論的支配要具は、プロレテリアート解放のための革命的階
104
級闘争の武器に変ずる。
経済学の一般的課題のこの第二の部分は、ブルジョア階級のフランスの学者も、イギリスの学者も、
況んやドイツの学者も解決しなかったのは確かである。資本主義生産様式の理論から最後の結論を引
き出したのは、当初から革命的プロレタリアートの立場に立っていた一人の人間――カール・マルク
スその人であった。それによって社会主義と近代労働者運動とが、初めて科学的認識の動かすべから
ざる基礎の上に据えられたのである。
人間の平等および友愛を基礎とする社会秩序の理想としては、共産主義共同社会の理想としては、
社会主義は数千年来のものである。キリスト教の最初の使徒の間においても、中世の種々の宗徒の間
においても、農民戦争においても、社会主義理念はつねに現行社会に対する反抗の最も急進的な表現
こがね
として輝いてきた。しかしながら如何なる時代にも、如何なる歴史的環境においても推挙され得る理
想としては、社会主義は個々の狂信者の美しい夢、雲層に映ずる彩虹のように到達すべからざる黄金
いろの 空 想 に す ぎ ぬ 。
十八世紀末と十九世紀初とに、初めて社会主義理念は、宗教的宗徒的狂信から脱して、むしろ出現
しつつある資本主義が社会に惹き起した恐怖と荒廃との反映として、初めて力と重みとを以て現れた。
たいとう
しかもその時にもなお社会主義は、根本から見れば一個の夢であり、個々の勇敢な頭脳の案出に外な
らぬものであった。プロレタリアートの革命的擡頭の最初の先頭戦士、即ちフランス大革命中におい
第1章 国民経済学は何ぞや
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て社会平等の強力的実施のために突撃した、グラックス・バブーフ 【 Gracchus Babeuf, 1760-97
】の語ると
ころを聞けば、彼の共産主義的努力の基礎をなしていた唯一の事実は、現行社会秩序の極度の不公平
あんたん
という事実である。これを彼は熱情的な論文や、パンフレットや、彼に死刑を宣告した法廷の前での
弁護演説において、極度の暗澹たる色彩を以て飽かず描き出した。彼の社会主義の福音は、現行秩序
の不公平、極少数の怠け者を富ませ、支配させるため犠牲となっている労働大衆の悩みと苦しみ、貧
困と屈従とに対する訴えの単調なる繰返しである。バブーフによれば現行社会秩序は没落するに値い
するということで充分なのであって、たとえばジャコバン党が一七九三年に政治的権力を握って共和
制に導き入れたように、国家権力を占領して平等の制度を導き入れる断乎たる人々の一群がありさえ
したら、現行社会秩序はすでに百年前に実際上に倒壊することができたというのである。
フランスのサン・シモンおよびフーリエ、イギリスのオーエンの三大思想家によって、前世紀の
二〇年代および三〇年代に、一層多くの天才と光彩とを以て主張された社会主義理念は、これと全然
別個の方法に基づいてはいるが、しかも本質的には同一の基礎の上に立つものである。たしかに右の
てんぷく
三人のうちの誰も、社会主義の実現のための革命的な権力奪取というようなことを決して考えなかっ
た。反対に彼等は大革命の後を承けた全ゼネレーション 【世代】と同じく、あらゆる社会的顛覆とあ
らゆる政治とに幻滅を感じて、純平和的な宣伝手段の公然たる信奉者であった。にも拘わらず社会主
義理念の基礎は、彼等三人の場合にいずれも同一であった。即ち彼等の社会主義理念は、その本質に
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おいて一個の天才的頭脳の計画、案出にすぎぬものであって、彼等は、悩める人類をブルジョア社会
制度の地獄から救い出すために、人類に対してその計画を実現することを奨めたのであった。
そういうわけで右の社会主義理念は、その批評と、その未来の理想の魅力とにも拘わらず、時代史
の現実上の運動と闘争との上に、これという影響を与えることなしに終ったのである。バブーフは革
命史のページの上に光輝ある数行を残した外は、何等の痕跡をも後に残すことなしに、小国の友人と
共に、揺り動く小舟のように反革命の荒浪の中に没してしまった。サン・シモンとフーリエとは、熱
心な信奉者の宗徒をものにしただけであって、これらの信奉者は社会的理念の鼓舞や、幾多の批評や
企てを盛んに播き散らかした後に、間もなく分散するか新たな方向に向うかしてしまった。オーエン
はプロレタリア大衆の上に一番多く働きかけたのだが、しかもなお彼の影響は、三〇年代と四〇年代
とに、イギリス労働者の精鋭分子の一群を感奮させた後に、跡方もなく消えてしまった。
社会主義指導者の新時代の一国が四〇年代に現れた。――ドイツのワイトリング、フランスのプル
ドーン、ルイ・ブラン、ブランキーがそれである。労働階級はすでに自ら資本支配に対する闘争を始
めていたのであって、彼等はフランスにおけるリヨン絹織工の突発的暴動や、イギリスにおけるチャ
ーチスト運動において、階級闘争への信号を与えてきた。だがこの被搾取大衆の自然発生的衝動と、
各種の社会主義理論との間には、何等直接の聯絡が存在していなかった。革命化しつつあるプロレタ
リア大衆が、一定の社会主義的目標を認めていたわけでもなければ、社会主義理論家が自分等の理念
第1章 国民経済学は何ぞや
107
を、労働階級の政治的闘争の上に打ち樹てようと試みもしなかった。彼等の社会主義はプルードンの
公平な商品交換のための庶民銀行や、ルイ・ブランの生産組合の如く、抜け目なく考案された或る制
度物を通じて実現されるものだったのである。社会革命の実現のための手段として、政治的闘争に頼
った唯一の社会主義者は、ブランキーだった。それによってまた彼は、その時代におけるプロレタリ
アートと、その革命的階級利益との唯一の真の代表者だった。それにも拘わらず彼の社会主義は、そ
の根本においては、依然としていつの時代にも実現され得るところの一個の計画案であって、それは
革命的少数者の決然たる意志と、この少数者によって実施されるところの突如たる変革との成果とし
て実行され得るものだったのである。
一八四八年はあらゆる種類における旧社会主義の頂点であり、同時にまたその危機だったと言わな
ければならぬ。パリのプロレタリアートは、従来の革命的闘争の伝統に感化され、種々の社会主義体
系に煽動されて、公平なる社会制度という漠然たる理念に熱情的に傾倒した。ルイ・フィリップのブ
ルジョア王制が倒されるや、パリの労働者は直ちにその権力的地位を利用して、畏怖せるブルジョア
ジーから今度は「社会的共和制」と新しい「労働者の組織」との実現を要求した。このプログラムの
実施のため、臨時政府はプロレタリアートから有名な三箇月の期限を与えられ、その間を労働者は餓
えながら待っていたのに、ブルジョアジーと小ブルジョア団とは陰密に武装をこらして、労働者の打
破を準備していたのである。この期限は記憶すべき六月虐殺を以て終了し、ここにいつの時代にも実
108
現され得る「社会的共和制」なる理想は、パリのプロレタリアートの血潮で以て息の根をとめられて
しまった。一八四八年の革命は社会的平等の領国をもたらさずに、却ってブルジョアジーの政治的支
バリケード
配と、第二次帝国下における資本家的搾取の思いもかけぬ飛躍とをもたらしたのである。
砦の下に、永久に葬られてしまったように見え
しかも旧派の社会主義が、六月一揆の粉砕された堡
た。この同じ時代に当って、マルクスおよびエンゲルスの社会主義理念が、全然新たな土台の上に打
ち樹てられたのである。両人は社会主義のための基点を、現行社会制度の道徳的非難にも求めなけれ
0
0
0
ば、社会的平等が今日の国家の中に密輸入され得るというような、極めて人の気に入り相な、誘惑的
な計画案の発明にも求めなかった。彼等は今日の社会の経済的関係の研究に向った。ここに、資本主
義的無秩序の法則そのものの中に、マルクスは社会主義的努力のための現実の手がかりを発見したの
である。フランスおよびイギリスの古典経済学者は、資本主義経済が生活し発展するところの法則を
発見したとすれば、マルクスはその半世紀後に、彼等が仕事を中止した、丁度その箇所から仕事を開
始したのである。マルクスは今日の経済制度の法則が、無秩序の生育によって絶えず社会の存立を脅
やかし、破滅的な経済的政治的破局の連続となることによって、経済制度それ自身の破滅を目指して
いるものであることを発見した。故にマルクスが立証したように、社会総体と人類文化とが制御すべ
からざる無秩序の激動の中に没落するのでない場合は、資本支配の成熟の或る段階において、労働す
る社会総体によって意識的に編成された計画的な経済様式への推移を必然ならしむるものは、実に資
第1章 国民経済学は何ぞや
109
本支配のそれ自身の発展傾向そのものなのである。そして支配的資本は自己の未来の墓掘者たるプロ
レタリアを絶えず益々大きな集団に糾合することによって、またこの資本が地上のあらゆる国々に拡
がって、一個の無秩序的世界経済を樹立し、それと同時に万国のプロレタリアが資本主義的階級社会
の排除のために一個の革命的世界権力に結合するための土台をつくり出すことによって、この支配的
資本そのものが、右の臨終の時を絶えず益々力強く促進しているのである。これによって社会主義は、
設計案でも、美しい空想でも、各国の個々の労働者群の独力を以てする実験でもなくなる。国際的プ
0 0 0 0 0
ロレタリアートの共同の政治的行動綱領として、社会主義は、資本主義の経済的発展傾向の一成果で
あるが故に一の歴史的必然である。
そこでマルクスが何のために彼自身の経済学説を公式の経済学の圏外に置いて、これを『経済学の
一批判』と名づけたかは明白である。マルクスによって説明された資本主義的無秩序とその将来の没
落との法則は、たしかにブルジョア学者によって創始された経済学の継続ではあるが、しかしその終
局の結果においてはブルジョア経済学の出発点とは隔然たる相反を成すところの継続である。マルク
スの学説はブルジョア経済学の児であるが、それを生むのに母親が命がけだったところの児である。
マルクスの理論の中に経済学は完成したが、同時にまた科学としての経済学の終了をも見たのである。
今後これに引続くべきものは何かといえば――マルクス学説を個々に亙って仕上げることの外には―
―ただ一つ、この学説を行為に移すこと、言いかえれば社会主義経済秩序の実現のための国際的プロ
110
レタリアートの闘争あるのみである。かくて科学としての経済学の終結は、一個の世界史的事蹟たる
ことを意味する――即ちこれを、計画的に編成された世界経済の実行に移すことを意味する。経済学
説の最後の章は、世界プロレタリアートの社会革命である。
経済学と近代的労働階級との特殊の聯絡は、かくて一個の相互関係であることを証する。一方にお
いてはマルクスによって完成された如き経済学は、他のあらゆる学問以上にプロレタリア啓発の欠く
べからざる基礎であるとすれば、他方においては、階級意識あるプロレタリアートは今日経済学の学
説に対する、唯一の理解能力あり感受能力ある傾聴者たるものである。初めまだ旧封建社会の崩壊し
】は、
David Ricardo, 1772-1823
】とボアギュベル 【 Pierre
つつある衰亡を眼前にして、曾てフランスのケネー 【 François Quesnay, 1694-1774
】や、イギリスのアダム・スミスとリカード 【
Le Pesant de Boisguilbert, 1646-1714
きょうじ
けいがん
はばか
衿恃 【矜恃】と感激とを以て新興ブルジョア社会を眺めて、ブルジョアジーの一千年王国の擡頭とそ
の「自然的」社会的調和とに対する固き信念を以て、慧眼を憚るところなく資本主義法則の奥底に向
けたの で あ っ た 。
このみ
爾来絶えず有力に膨大しつつあるプロレタリア階級闘争と、殊にパリ・プロレタリアートの六月一
揆とは、自分は神の如きものであるというブルジョア社会の信念を早くより打ち破ってきた。現代的
階級対立という智慧の果実を食って以来、ブルジョア社会は、彼等の経済学の創始者等が曾て世界に
この事実を剥き出しに示したような、そういう露骨さを忌み嫌っている。しかもなお近代プロレタリ
第1章 国民経済学は何ぞや
111
アートの代弁者が、その致命的武器を、外ならぬブルジョア経済学者のそういう学問的発見から取り
出したことは、今日明白な事実である。
そういうわけで数十年このかた、ひとり社会主義経済学ばかりでなく、曾て現実の科学だった限り
のブルジョア経済学も、今日有産階級の間には説いても一向聴かれないのである。ブルジョア経済学
の偉大なる父祖を理解する能力もなく、況んやそこから現れてブルジョア社会に吊鐘を鳴らしている
ところの、マルクス学説を受け容れる能力もなく、今日のブルジョア学者は経済学の名の下に、雑多
な学問上の思想と、手当り次第の滅茶苦茶なものとの屑物を講義しているのであって、もはや彼等は
資本主義の現実の傾向を研究するという目的には従わず、反対に資本主義を最上の、唯一に可能な、
永久の経済制度として擁護するために右の傾向を隠蔽するという、逆の目的を追っているにすぎぬ。
ブルジョア社会から忘却され、裏切られて、今や経済科学は階級意識あるプロレタリアの間にのみ
聴き手を求めて、彼等の間に理論的理解のみならず力強い実行を見出そうとしている。経済学こそは
有名なラサールの言葉が第一番にあてはまるところのものである――「科学と労働者、社会のこの両
極が抱き合うときは、すべての文化的障碍をその腕に絞め殺してしまうであろう。
」
112
第二章 経 済 史 (一)
一
極 く 古 い 極 く 原 始 的 な 経 済 状 態 に 関 す る 吾 々 の 知 識 は、 極 く 近 頃 に な っ て の こ と で あ る。 ま だ
一八四七年にはマルクスおよびエンゲルスは、科学的社会主義の最初の古典的文書『共産党宣言』に、
「従来のすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」と書いていた。科学的社会主義の創始者たる
彼等は、こういう見解を発表した同じ時代において、すでにあらゆる方面から、新しい発見によって
揺り動かされ出した。人類社会の古い経済状態に関して、従来知られていなかった洞察が殆んど毎年
現れ、そしてこれらの研究は、過去の歴史の中には非常に長期に亙って、まだ何等階級闘争が存在し
ていなかった時代があったに相違ないという結論に導いた。けだしその時代には、一般に種々の社会
階級への分裂や貧富の差別がなく、何等私有財産が存在していなかったという理由からである。
一 八 五 一 ― 一 八 五 三 年 に は、 ゲ オ ル ヒ・ ル ー ト ウ ィ ヒ・ フ ォ ン・ マ ウ ラ ー 【 Georg Ludwig Ritter von
】の劃期的著作の最初の分、
『マルク、農場、村落および都市制度、並びに公権力史緒論』
Maurer, 1790-1872
【 "Einleitung zur Geschichte der Mark-, Hof-, Dorf- und Stadt- Verfassung und der Öffentlichen Gewalt"
】が遂に発行された。
この著作はゲルマン民族の過去と、中世の社会的および経済的構造との上に新しい光明を投げたもの
第2章 経 済 史 (一)
113
である。すでに人々は数十年このかた、或はドイツ、或は北方諸国、或はアイスランド等の諸々方々
において、土地共有が以前にその場所に行われていたこと、即ち農業共産制度が以前に存在していた
ことを示唆する幾多の原始的土地制度の注目すべき遺物に出会っていたのだが、最初のうちはそうい
ホーフ
】およびキンドリンガ
う遣物を解釈する術を知らなかった。従来、特にメーゼル【 Justus Möser, 1720-94
ー以i来、一般に普及している見解によれば、ヨーロッパにおける土地の耕作は、個々の農場から出発
ホーフ
フェルド・マルク
いにょう
したものであって、各農場は分離せる一個の 耕 地 を以て囲繞され、そしてこの耕地は農場主の私有
(岡崎訳版では
i Nikolaus Kindlinger, 1749-1819
ホーフ・フェルド・マルク
ドルフ・フェルド・マルク
となっているが、ネット情報による)。
1769-1828
の中葉に至るまでは、依然として最も有力だったのである。フォン・マウラーが初めてすべてこれら
事柄を仮定しなければならぬ。――こういう理論は如何に本統らしくなくとも、しかもそれは前世紀
落員に完全に依倚する不自由な耕作を伴わせて、再びこれを受取ったということ、そういう信じ難い
い い
あったのを各自抛棄して、その耕地をわざわざ細長い条地に分割して、幾多の分圃に分散させて、村
フルール
ということ、今まで耕地が自分の農場の周囲にあって、折角完全に自由に耕作ができる便利な地位に
ホーフ
づけるためには、部分的に遠く隔立っていた住居が、単に別の場所に再び建てるために打ち壊された
だと信ぜられていた。この見解は精密に考察すれば本統らしくは思えない――けだしこの見解を基礎
していた住居が寄合って村落となり、従来分離していた 農 場 耕 地 が合体して 村 落 耕 地 となったの
ドルフ
財産だったというのである。そして後に中世期になって始めて、安全の度が増したために、従来分散
i
114
の個々の発見を、大胆な大規模な、一個の理論に綜合し、夥しい事実の材料と、古代の記録、文書、
法制における徹底的探究とに基づいて、土地の共有は後代の中世期に初めて生じたものでなく、一般
に最初からヨーロッパにおけるゲルマン民族新開土着の典型的且つ一般的な最古の形態だったこと
を、究極的に証明したのであった。故に二千年以前には、そしてなお古く、記録歴史が今以て窺い得
ざるゲルマン民族の太古時代には、ゲルマン民族の間に今日の状態とは根本的に異った状態が行われ
ていたのである。成文強制法律を伴った国家も、貧者と富者との分裂、支配する者と労働する者との
分裂も、当時ゲルマン民族の間には何等知られていなかった。彼等は自由な種族および民族を形づく
っていた。これは早くよりヨーロッパをあちこち移動し、最初は一時的に、後には永続的に定住する
に至ったのである。即ち土地の最初の耕作は、ドイツにおいてはフォン・マウラーの立証によれば、
個人からでなく民族および種族全体から発したのであって、それは恰もアイスランドにおいては、
「フ
レンダリッドおよびスクルダリッド」――略々友人団体と従臣団体いう意味――と名付けられていた
比較的大きな社会から発した如くであった。ローマ人によって伝えられている古代ゲルマン民族に関
する最古の報道にしろ、種々の伝来的文物の調査にしろ、いずれもこの見解が真理であることを保証
している。ドイツに最初に住まったものは牧畜民族であった。他の遊牧民族の場合と同じく、矢張り
彼等の場合も、牧畜、従って豊富な牧地の所有が主眼を成していた。それにも拘わらず彼等がいつま
でも農業なしには存在し得なかったことは、時代の近いと古いとを問わず、すべて他の遊牧民族の場
第2章 経 済 史 (一)
115
合と同じであった。そしてユリウス・ケーザル 【カエサル シ
即ち今から約千年以前 【ロ
= ーザー】の時代、
ーザから見たら約二千年前】には、当時漸くローマに知られ始めたゲルマン諸民族の中で、スエーヴェン
またはシュワーベン族は、まさにこういうような、農業と牧畜とを一緒にした状態にあったのである。
但しこの場合は牧畜が主で、農業は幾分従属的なものであった。しかしこれと似寄った状態、それと
似寄った風俗文物が、フランク、アレマンネ、ヴァンダーレその他のゲルマン種族の間にも確立して
いた。すべてゲルマン人は、種族および民族に綜合されてから、初めは諸所に短期間定住して土地を
耕やし、さて一層力強い種族が前からか後からか迫ってきた場合、若しくは牧地が最早や充分でなく
なった場合に、すぐさま再び引き移って行った。流浪的種族が静穏になって、如何なる種族も他の種
族を攻め立てないようになったとき、初めて彼等は比較的長期間そういう移住地にとどまるようにな
り、かくして次第次第に定まった居所を維持するようになった。然るにかかる定住は、時代の早いと
遅いとを問わず、自由地であると、旧ローマまたはスラヴの領地であるとを問わず、すべての種族お
よび氏族の間に行われていたのである。その場合種族毎に、そして各種族にあっては氏族毎に、一定
の地域を占領し、その地域は関係者のすべてに共通に属していた。古代ゲルマン人は、土地に関して
こううん
俺のものだの、お前のものだのということを知らなかった。各民族は定住した場合には、謂わゆるマ
ちゅうせん
ルク組合を形づくり、マルク組合は所属地域全体を共同に経営し、分割し、耕耘したのである。個人
は抽籤によって割地を贈与され、一定の期間だけ利用を委ねられ、この場合土地割当の厳密な平等が
116
フンデルトシャフト
格守されていた。マルク組合は同時に多くの場合武装能力ある男子の 百 人 組 を形成していたのだが、
マルク組合の経済的、法律的および一般的事務は、すべてマルク組合員自身の集会で規定され、マル
ク組合員はまたマルク首長およびその他の公共役員を選出した。
ホーフ
地や耕作し得べき土地が欠けているために、比較的大規模に定住することが不可能な山地、森林、
し空
ょうたく
沼 沢 地域、たとえばオーデンワルト、ウェストファーレン、アルプス地方においては、ゲルマン民
族は個々に農場を作って定住したが、しかもその間に一の組合団体を構成していた。但しこの場合は
】を成し、ま
耕地でなく、草地、林地、牧地が村落全体の共有物、謂わゆる「アルメンド」【 Allmende
た一切の公共的事務はマルク組合によって処理されていた。
数多の――多くの場合数百の――こういうマルク組合の統合たる種族は、主として最高の司法的お
よび軍事的単位体たる働きをなすのみであった。かかるマルク組合の組織は、マウラーがその大著の
第十二巻において証明しているように、中世の早くからずっと後に近代に入るまでの、全社会的組織
の基礎、謂わばその最小の細胞を成していたものであり、封建時代の荘園や、村落や、都市は種々の
改修を加えられた上で右のマルク組合から形成されたものであって、このマルク組合の遺物は今日に
至るまで、中央および北ヨーロッパの個々の地方において発見されている。
ドイツおよび北方諸国における原始的土地共有制度の最初の発見が世に現れた時は、これは或る特
別の、ゲルマン民族特殊の制度が見付かったのであって、この制度はゲルマン民族性の特殊性からの
第2章 経 済 史 (一)
117
み説明されるものだという理論が現れた。マウラーその人は、ゲルマン民族の農業共産主義に対する
かかる民族的解釈には全然囚われることなく、且つ他の諸民族の間にも類似の実例が存することを指
摘したに拘わらず、依然として古代の土地マルク組合はゲルマン民族の公共的および法制的事情の一
特性であり、「ゲルマン精神」の一発露であるという断定的命題が、主としてドイツに行われていた
のである。然るにゲルマン民族の原始的村落共産主義に関するマウラーの最初の著作が現れたと殆ん
ど同一の時に、ヨーロッパ大陸の全然別な一部分における新発見が世に現れた。即ち初めロシア皇
帝ニコラス一世の希望に基づき、四〇年代にロシアを旅行したウェストファーレンの男爵フォン・ハ
】は、一八四七―一八五二年にベルリンにおいて、
『ロ
ックスタウゼン 【 August von Haxthausen, 1792-1866
シアの国内状態、民族生活、特に土地制度に関する研究』【 "Studien über die innern Zustände, das Volksleben und
】を公けにした。世界はこの著作から、ヨーロッパの東部
insbesondere die ländlichen Einrichtungen Russlands"
には現在もなお類似の制度が存立しているのを知って驚いた。原始村落共産主義は、ドイツでは後代
の幾百年、幾千年の成層から、骨折ってその遺物を探し出さなければならなかったのに、本物の原始
村落共産主義が東隣大帝国において、その農奴制度の中に突如として復活したのである。上記の著作
や一八六六年にライプチヒで刊行された著作、『ロシアの土地制度』【 "Die ländliche Verfassung Russlands"
】
の中でハックスタウゼンは、ロシアの農民は耕地、草地、林地については少しも私有なるものを知ら
ず、村落全体がそういうものの所有者と見做されているのであって、個々の農家は一時的使用のため
118
ちゅうせん
に割地を受けとるにすぎず、この割地はまた――古代ゲルマン民族の場合と全然同じく――抽籤によ
って分配されているということを証明した。
ハックスタウゼンがロシアを旅行して研究した時代には、この国には農奴制度が全力を以て支配し
ていたことを思えば、苛酷な農奴制度と専制的国家機構との鋼鉄の被蓋の下に、ロシアの村落が、土
地共産制度と村落会議即ちミールを以てする一切の公共事務の協同処理とを伴って、一個の独立の小
世界たる光景を呈していたという事実は、一見すれば極めて驚くべきことであった。こういう特質の
発見者たるハックスタウゼンは、ロシアの土地共同体は太古のスラヴ家族団体の一産物であって、か
かる家族団体は今日なおバルカン諸国において南スラヴ民族の間に発見され、そしてまた十二世紀お
よびその後になっても、ロシア法典の中に完全に効力を発揮していたと説いた。ハックスタウゼンの
発見はロシアにおけるスラヴ国粋主義の精神的および政治的の全潮流によって、歓喜を以て捉えられ
た。スラヴ世界とその特殊性とを讃美し、ゲルマン文化を伴う「腐った西欧」
に対するスラヴ世界の「消
費されざる力」を讃美するこの潮流は、爾来二十年乃至三十年の間、ロシアの農民共同体の共産制度
に最も有力なる基点を見出した。スラヴ国粋主義が反動主義分派と革命主義分派とに分裂したにつれ
て、その土地共同体は、それぞれこれらの分派に従って、或はロシア民族の三つの生粋なるスラヴ的
文物――ギリシャ正教、ツァール専制主義、農民的家長的村落共産主義――の一つとして称揚される
かと思えば、或はこれと反対に、最近の将来においてロシアの中に社会主義革命を導き入れ、かくし
第2章 経 済 史 (一)
119
て資本主義的発展を通過することを避けて、西欧よりも遥かに早く社会主義の天国の中に直接に飛躍
するための適当な基点として称揚された。それにも拘わらずスラヴ国粋主義のこの両極は、ロシアの
土地共同体はスラヴ特殊の現象、スラヴ種族の特殊の民族性から説明さるべき現象であるという見解
を持している点において、完全に一致していたのである。
そうする間にヨーロッパ民族の歴史に、もう一つの要因が加わった。この原因はヨーロッパ民族を
新大陸と接続させ、特殊の公共的制度、原始的文化形態が、ゲルマン民族の圏内にもスラヴ民族の国
内にも属しない民族の間にも存していることを、極めてハッキリと悟らせたのである。今度は科学的
探究や学問的発見でなく、ヨーロッパの資本主義諸国の狡猾なる利害と、実際的植民政策におけるこ
れらの諸国の経験であった。資本主義の時代たる十九世紀には、ヨーロッパの植民政策は新しい軌道
りゃくだつ
に入り込んだ。今度は新世界に対して最初の大騒ぎが行われた十六世紀におけるように、貴金属、香
料、貴重なる装飾品、奴隷等、新たに発見された熱帯諸国の財宝および天富の極めて急激な掠奪――
スペインおよびポルトガルが大仕掛けに行ったような――が最早や主眼ではなくなった。そしてまた
十七世紀にオランダがそれを始めて、イギリスに手本を示したような、単に有力な商機を利用して海
外諸国の種々の原料をヨーロッパの互市場に輸
i 入し、これらの国の土人に対しては値打ちのない雑多
な屑物を押しつけるようなことも、最早や主眼ではなくなった。今度は主眼とされたものは、植民と
i
「互市場」は岡崎訳では「貨物集散地」としている。
i
120
いう旧来の方法――因みにこの方法は今日に至るまで繁昌しているものであって、未だ曾て実行の圏
さくしゅ
外に置かれたことのないものである――の外に、「母国」を富ますために植民地の人口を一層持久的、
組織的に搾取するという新しい方法であった。これには二様の方法が役立った――一は各国の富の最
も重要な物質的源泉たる土地を事実上に占領することであり、第二は住民の広汎なる大衆に絶えず課
税することである。ところがヨーロッパ植民強国は、こういう両様の企てを実施するに際して、あら
ゆる異国において、不思議な頑固な障碍物に出会った。即ちそれは土人の一種独特の財産組織であっ
て、これがヨーロッパ人による掠奪に対して最も頑強な抵抗を続けたのである。従来の所有者の手か
ら土地を奪うためには、まず始めに誰が土地の所有者であるかを確かめて置かねばならなかった。ま
た単に課税するだけでなく、納税を強要し得るためには、納税される人間の負担能力を確かめて置か
ねばならなかった。茲においてヨーロッパ人はその植民地において、彼等にとって全く縁のない事情、
即ち所有財産の神聖というヨーロッパの概念を逆立ちさせるような事情に遭遇した。こういう事柄を
イギリス人も南アジアにおいて、フランス人も北アフリカにおいて、一様に経験したのである。
十七世紀が始まると同時に始まったイギリス人のインド占領は、全沿岸およびベンガールを一歩一
歩占領した後、十九世紀において始めて北部における重要な五河地方 【パンジャブ地方】の征服と共に
終りを告げた。だが政治的征服の後に、初めてインドの組織的搾取という困難な仕事が始まったので
ある。この場合イギリス人は一歩毎に非常に驚くべき事柄を経験した――即ち彼等はそこにありとあ
第2章 経 済 史 (一)
121
らゆる大小の農民共同体を見出したのであるが、それらの共同体は数千年以来その土地に根をおろし、
稲を植え、静穏な秩序立った関係の下に生活していたのだが――恐るべきことには! この静穏な村
落の中には、土地の私有者というものを一人も見出すことができなかった。誰も自分が小作している
土地や、自分が耕作している耕地を、自分のものと呼ぶことを得ない。従ってまたそれを売ったり、
賃貸したり、負債の抵当に入れたり、滞税のため入質したりすることも許されない。この共同体は或
は大氏族全体を包含する場合もあり、或は氏族から分れた数個の家族しか含まない場合もあるが、こ
ういう共同体の所属員は密接に且つ忠実に綜合 【団結】しており、彼等にとっては相互間の血縁が一
きっきょう
切のものであって、個人の所有は何にも値いしないのである。然り、イギリス人はヒンドスおよびガ
ンヂスの沿岸に、こういう土地共産主義を発見して喫驚したのであって、この共産主義の前には、古
代ゲルマン民族のマルク組合の共産主義的慣行も、スラヴ民族の村落共同体のそれも、殆んど私有制
ちゅうさつ
度に堕落していると言っても差支えないほどである。
剳イギリス税務庁の報告に曰く、「吾人は何等永続的持地を見ない。各人は耕
一八四五年インド駐
作持地を、耕作の仕事が続く間所有するだけである。持地が耕作されずに置かれるときは、共同地に
戻り、他の者は耕作するという条件の下に誰でもこれを引取ることができる。
」
同じ時代に、パンヂャブ(五河地方)における一八四九―一八五一年間の行政に関する政府の報告
に曰く、「この共同体において血縁の感情と、共通の祖先から出たという意識とが、如何に力強いか
122
よろん
を観察するのは極めて興味あることである。――輿論はこの制度を維持することを主張しているので
の著書『共同体的土地利用、その崩壊
Kovalevsky
あって、祖先が一代または二代の間共有地に何等持分を有しなかった場合でも、その子孫がこの共有
地に持分を認められる場合が稀れではない。」【先の引用共に
の原因、過程、結果』 (1879)
からの引用】
「かかる形の土地所有の場合は、如何な
イ ン ド 氏 族 共 同 体 に 関 す る イ ギ リ ス 枢 密 院 の 報 告 に 曰 く、
る氏族の一員と雖も、共同体所属地のかくかくの部分が、自分の所有に属するということは愚か、一
時的使用のためにのみ自己に属するということすらも証明することはできぬ。共同経済の獲物は共同
金庫に納められ、一切の需要に対してそこから支弁される。
」故にここには一般に、農業季節の間だ
けの田地の分配すらも認めることはできぬ。共同体農民は耕地を共同に所有し、耕作し、収穫も共同
の村落穀倉――イギリス人の資本家的な眼には「金庫」と映ずるのは無理もない――に運び共同の勤
勉の成果を以て、彼等のつつましい欲望を仲よく充たすのである。五河地方の西北隅、アフガニスタ
ンの国境に接している地方には、もう一つ別に、私有財産という概念を嘲笑するような極めて奇異な
風習が行われていた。この場合は田地が分配され、定期的に交換されもするが――不思議なことには
――個々の農家がそれぞれ自分の割地を交換するのでなく、
諸々の村落全体が五年毎に土地を交換し、
その際に全村落を挙げて移住するのである。インド駐剳イギリス税務官ジェームスは、一八五二年に
主務庁に報告した中に、次の如く記している。「予は今日まで或る地方に維持されてきている極めて
第2章 経 済 史 (一)
123
かんもく
特殊な風習について緘黙するわけに行かぬ。即ちそれは個々の村落やその分村の間における土地の定
期的交換である。若干の地区では田地だけが交換され、他の地区では住家すらも交換されている。」
故に明らかにここでも矢張り一定民族の特殊性に出会ったわけであって、今度は「インド的」特殊
性なのである。だがインド村落共同体の共産主義制度は、その地理的位置によっても、また血統と親
族関係との力によっても、等しくこの制度が伝統的な原始的性質のものであることを示唆したのであ
る。取りも直さずインド人の最古の居処たる西北地方において、共産主義の最古の形態が確認された
ということは、共有制度は力強い親族団体と共に、数千年昔の風習に遡るべきものであるという結論
を明瞭に引き出すものであって、この風習は、インド人がその新しい郷土たる今日のインドに移住し
た時の最初の新開土着と結びついていたものである。オックスフォード大学の比較法学教授にして、
曾てインドにおけるイギリス政府の一員たりしサー・ヘンリー・メーンは、インドの農業共同体を講
義の題目となし、これをマウラーがドイツに対して確証し、ナッセがイギリスに対して確証したマル
ク組合と比較して、ゲルマン農業共同体と同一性質の最古の制度であるとした。
この共産主義制度が古稀の歴史的年齢を有しているものであることは、イギリス人にとっては、も
う一つ別な方面からも、即ちこの農業共同体がイギリス人の徴税術および行政術に対して、驚くべき
かしゃく
頑強さを以て抵抗したということからも、窺い知られた筈である。イギリス人は十年間に亙る闘争に
おいて、あらゆる暴行、奸計、インド民族の古来の権利と支配的な権利概念とに対する仮借なき干
124
渉の下に、あらゆる所有関係の恢復すべからざる混乱と、全般的不安と、農民大衆の零落とをもたら
こうそう
すことに初めて成功した。旧来の紐帯は切断され、共産主義の静穏な別世界的状態が粉砕され、争訌
【訌争】
、不和、不平等、搾取がこれに代った。一方には巨大な大地所、他方には無資産の農民小作人
の数百万の大集団がその結果として現れた。私有制度は揚々とインドに乗り込み、それに伴って飢餓
チブスと壊血病とが永久の賓客としてガンヂスの平原に乗り込んだ。
インドにおけるイギリス植民者の発見によれば、古代農業共産主義はすべてインド・ゲルマン大民
族の三大分派――ゲルマン民族、スラヴ民族、インド民族――の間にすでに発見されたのだから、イ
ンド・ゲルマン民族圏内の古い特殊性と見做されるかも知れぬが、こういう土俗学的概念が如何に確
定なものであるかは、これと時を同じうして、アフリカにおけるフランス人の発見がすでにこの民族
圏をはるかに突破したことによっても知られる。即ち茲にフランス人の発見は、アフリカ北部におけ
るアラビア人およびベルベライ人の間に、ヨーロッパの中心とアジア大陸とに発見されたと同一の制
度が存立していることを確かめたのである。
アラビア遊牧民族の間では、土地は氏族の財産であった。フランスの探究者ダレストは一八五二年
に記して曰く、この氏族財産は代々伝っていて、如何なるアラビア人と雖も、一片の土地を指してこ
カビル】の間には、氏族団体がすでに著しく個々の分枝に別
全然アラビア化したカビーレ族 【 Kabyle
れは我がものであると言うことはできぬと。
第2章 経 済 史 (一)
125
れているが、しかもなお氏族の力が依然として大きく、彼等は租税を連帯で負い、個々の家族の間に
食料として分配されるようになっている家畜を共同で買入れ、すべての紛争事件や土地所有について
は、氏族相談会が最高の仲裁機関であり、カビーレ族の中に移住するためには、各人にとって氏族の
同意が必要であり、また氏族相談会は不耕地を左右していたのである。しかし家族の不分割財産が常
則と見做されていた。家族と言ってもそれは今日のヨーロッパの意味におけるように、個々の一夫婦
生活を包含しているのでなく、聖書の中に古イスラエル人について描かれているような一個の典型的
な父権制的家族、即ち父、母、子、その妻、その子供、孫、叔父、叔母、甥、従兄弟から成る一大親
戚圏を包含していたのである。もう一人のフランスの探究者ルトゥルヌが、一八七三年に語っている
ところによれば、この大家族の中で、不分割財産を普通に家族のうちの最年長の一員が左右している
のだが、この家族員は家族全員からこういう役員に選ばれるのであって、すべて重要な事件、殊に土
地の売買については全家族相談会に相談しなければならぬのである。
フランス人がアルジェリアを植民地とした時のアルジェリア住民は、そういう性質のものであった。
イギリスがインドでやった通りのことを、フランスが北アフリカでやった。いたるところにヨーロッ
パの植民政策は、原始的氏族団体とその共産主義制度とにぶつかり、後者はヨーロッパ資本の搾取計
こういう新しい経験と同時に、昔日のヨーロッパの植民政策と新世界への掠奪遠征との、忘れか
画とヨーロッパの財政政策とに対して、個々の人間を保護したのであった。
126
けられていた古い記憶が新たに喚び起された。スペインの国家記録保存所や僧院の古びた記録の中に
は、永く数百年以来南アメリカの或る神秘国に関する奇異な伝説が保存されていて、それによればス
ペイン人征服者は、すでに大発見時代において、極めて奇異な制度を発見していたのである。この南
0
0
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アメリカ神秘国に関する漠然たる知識は、すでに十七世紀および十八世紀においてヨーロッパの文献
の中に入り込んでいた。スペイン人が今日のペルーに発見したインカ帝国に関する知識がそれであっ
て、この国においては寛大なる専制君主の父の如き神権政治の下に、人民が完全な共同財産を以て生
活していた。ペルーにおける共産主義の伝説国に関する空想的観念は、爾来根強く維持されてきて、
一八七五年にはドイツの或る著述家は、インカ帝国のことを「人類史において殆んど唯一の」位置を
占めているところの、神権政治を土台とせる社会的帝国でiあって、
「社会民主主義者が――理想的に
見れば――現在努力しており、しかも如何なる時代にも達成しなかった事柄の大部分」がここでは実
際上に実行されていたとさえ述べている。しかしながら、やがてこの不思議な国とその風習とに関す
る一層精確な資料が公表されるに至った。
【 Alonso de Zurita, 1512-85
】の手
一八四〇年には曾てメキシコの元老院議員たりしアロンゾ・ツーリタ
に成る、新世界の旧スペイン植民地における行政および農村事情に関する重要なる報告書が、フラン
ス語に訳されて発表された。そしてまた十九世紀の半ばには、スペイン政府は、アメリカのスペイン
第2章 経 済 史 (一)
127
i
以下に記述されるように、ペルーにおけるインカを「帝国」と呼ぶのは西洋における偏見にすぎない。
i
領土の占領および行政に関する古文書を、記録保存所から世の中に出す気になった。それによって、
大西洋彼岸の諸国における資本主義以前の古い文化階段の社会的状態に関する資料に、新たに重要な
或る一つの記録が附加されたのである。すでにツーリタの報告書を基礎として、六〇年代にiロシアの
】は次の如き結論を下した。曰く、伝説
学者コヴァレフスキー【 Maksim Maksimovich Kovalevsky, 1851-1916
しかのみならず
一の所有者であり、ここでもまた耕地が割地に分割されて、年毎に村落の所属員によって籤分けされ、
くじ
していたのであった。親族団体、即ち氏族がここでもまた、各村落毎にまたは二三村落毎に土地の唯
ここにこの原始的農業共産主義組織は――想像もできぬ太古の時代以来ペルー種族の間に行われて
いたものであって――十六世紀即ちスペイン人侵略の時代にも、なお完全なる生気と力とを以て存立
場合とは全然別の人種、全然別の文化階段、そして全然別の時代においての――が明らかにされた。
能となり、原始的土地共産主義の新たなる図景――しかも新大陸において、且つ従来の幾多の発見の
配的形態だったものであると。その後種々の発表によって旧時のペルー農業事情の精細なる研究が可
ーのみならずメキシコにおいても、その他一般にスペインによって占領された新大陸全体において支
業共産主義関係が支配していた国に外ならぬものであって、この原始的農業共産主義は、ひとりペル
的インカ帝国は、すでにマウラーが古代ゲルマン民族に対して各方面から闡明したと同一の原始的農
i
ここでもまた公共事務は村落会議によって処理され、村落会議はまた首長を選挙する。 加 之 、取り
岡崎訳では七〇年代、コヴァレフスキーの歳から見てもミスであろう。
i
128
も直さずこの遠い南アメリカの国において、インディアンの間に、ヨーロッパに全然知られなかった
ような広大な共産主義の生々とした痕跡が発見されたのである。即ちこれは大集団家屋であって、そ
こには全民族が共同墓地をもった幾多の共同集団住区に住居していたのであって、そういう一住区に
は四千人以上の男女が住んでいたと言われる。謂わゆるインカ族の主要住所だった都市クスコはそう
いう幾多の集団住区から成っていて、この集団住区の各々がその氏族の特別の名称を附せられていた。
年に入るまでの間に幾多の資料が残らず世の中に現れたのであ
このように十九世紀の半ばから六〇
かいびゃく
って、これらの資料は、私有制度は開闢以来存在しているものであって、永遠なものだという古来の
観念を無惨にも小口から崩して行って、やがてこれを後塵に粉砕してしまった。即ち農業共産主義は
最初にはゲルマン民族の特殊性として発見され、次いでスラヴ民族の、次いでインドの、アラビア・
カビーレ族の、古代メキシコの、それから今度はペルー・インカ奇蹟国家やその他あらゆる大陸にお
ける幾多の「特殊」民族型の特殊性として発見されてきた後に、茲にこの村落共産主義とは一般に何
等かの人種または大陸の「民族特殊性」ではなく、文化発展の一定高度における人類社会の一般的典
型的な形態であるという結論がひとりでに生まれたのである。最初は公けのブルジョア学問、即ち国
民経済学は、こういう認識に対して頑強なる抵抗を以て反対した。十九世紀前半において全ヨーロッ
パを支配していたスミス=リカードのイギリス学派は、土地共有制の可能を露骨に否定した。曾てス
ペイン、ポルトガル、フランス、オランダの最初の侵略者の無知および魯鈍が、新たに発見されたア
第2章 経 済 史 (一)
129
メリカにおいて、土人の農業事情に対して完く無理解な態度を取って、私有者がいないということを
以て、国全体を無雑作に「皇帝の所有」、国庫所属地と宣したと全く同じことを、ブルジョア的「啓
蒙」時代においても、国民経済学の最大の明星が繰返したのである。たとえば十七世紀に、フランス
の宣教師デュボアはインドについて記して曰く、「インド人は何等土地財産を所有していない。彼等
によって耕作されている田地は、モンゴル政府の財産である」と。そしてモンペリエー大学の医学者
フランソア・ベルニュー氏は、アジアにおける大モグールの諸国を旅行し、一六九九年アムステル
ダムにおいてこの国に関する有名な記述を公けにして、その中に憤怒を以て叫んで曰く、
「この三国
家――トルコ、ペルシャ、前方インド――は、土地所有に対して用いられた吾がもの、汝のものと
いう概念そのものを滅ぼしてしまった。この概念こそは世界における一切の善および美の基本概念な
のだ」と。資本主義文化らしく見えない一切のものに対する、これと全く同一の大ざっぱな無知およ
】に次の如く記している。
"The history of British India"
び無理解を、十九世紀において有名なるジョン・スチュアート・ミルの父のジェームス・ミル 【 James
】という学者が曝露して、
英領インド史 【
Mill, 1773-1836
「吾人の観察してきた一切の事実に基づいて、吾人はインドにおける土地財産は支配者に属するとい
う結論にのみ到達し得る。けだし支配者を土地の所有者と認めないとすれば、一体誰が所有者である
か、答えることが不可能であろう。」土地の所有権は単に数千年来これを耕作しているインド農民共
同体に帰するものであること、また土地が他人の労働を搾取する手段でなく、単に労働している者自
130
身の生存の基礎に外ならぬ国、そういう一大文化共同社会が存在し得るものであることは、イギリス・
ブルジョアジーの大学者の頭脳の中には絶対に入り込まなかったのである。このように精神的眼界が
情けなくも殆んど資本家的経済の支柱にのみ局限されているということは、ただ次の事実を立証する
のみであった。即ち約二千年以前にローマ人、たとえばケーザルの如き将帥やタキツス 【タキトゥス
頃】の如き史家が、彼等にとって全くあかの他人であるゲルマン民族の経済的お
Cornelius Tacitus, 55-120
よび社会的事情について、極めて価値のある観察と記述とを吾々に残してくれたのに較べて、ブルジ
ョア的啓蒙期の公式学問は、お話にならぬほどちっぽけな眼界と文化史的理解としかもっていないと
いう事 実 で あ る 。
今日と限らず、徒来あらゆる学問のうちで、支配的な搾取形態の護衛兵たるブルジョア経済学は、
異った種類の文化形態および経済形態に対して、一番理解を示していなかった。そして資本対労働の
直接の利害の対抗と闘争場とから、幾分離れて立っている種々の学科には、昔の時代の共産制度を、
一定階段における経済的および文化的発展の一般的な支配的形態と認めることを禁ぜられていたので
ある。最初に農業共産主義を、国際的な、一切の大陸および人種にあてはまる原始的発展形態と認め
るに至ったのは、マウラーやコヴァレフスキーのような法律家、またイギリスの法学教授にしてイン
】のような矢張り法律家だ
ド枢密院議員たるサー・ヘンリー・メーン 【 Henry James Sumner Maine, 1822-88
った。そして原始社会に必須な社会的構造を、発展のこの経済的形態の土台として発見することは法
第2章 経 済 史 (一)
131
律的に教育された社会学者、アメリカ人モルガン 【 Lewis Henry Morgan, 1818-81
】に残された仕事であった。
太古共産主義村落共同体の間に親族関係が大きな役割をつとめたことは、インドにおいても、アルジ
ェリアにおいても、乃至はスラヴ民族の場合にも等しく研究者が気付いていた。ゲルマン民族につい
て言えば、マウラーの研究によって、ヨーロッパに移住を行ったのは氏族、即ち親族群だったことが
だんらん
確証された。古代民族、即ちギリシャ人およびローマ人の歴史は、彼等の間に古くから氏族が、社会
的集団として、経済的単位体として、法制体として、宗教的礼拝の団欒として、最大の役割をつとめ
ていたことを一歩毎に示した。最後に、謂わゆる野蛮国における旅行者の殆んどすべての報道は、不
思議にも異口同音に、民族が原始的であればあるほど、その民族の生活における親族関係の役割はそ
れだけ大であって、その民族の経済的および社会的な関係および観念を、それだけ支配しているとい
う事実 を も た ら し た 。
これによって学問的研究は一つの新しい、最も重大な問題を提起したのである。即ち太古の時代に
かくも重大な意義をもっていた氏族団体とは一体如何なるものであったか? 如何にして形成された
か? 経済的共産主義および一般に経済的発展と如何なる聯絡をもっていたか! こういうすべての
問題について一八七七年に公けにした『古代社会』【 "Ancient society"
邦訳は各種あり】において、モルガ
ンが初めて劃期的な説明を下したのである。ニューヨーク州におけるインディアンのイロクォイ族の
間に一生の大部分を送り、この原始的狩猟民族の事情を徹底的に研究したモルガンは、この研究の成
132
果を他の原始的民族から獲た諸々の事実と比較することによって、あらゆる歴史的知識に先行する非
常に広大な期間に亙る人類社会の発展形態に関する大規模な新理論を編み出した。モルガンの破天荒
なる観念は、その後夥しい新資料が附加せられ、彼の説明の幾多の細部が修正されたにも拘わらず、
今日にいたるまで完全な效力を保持しているのであって、このモルガンの業蹟は次の諸点に綜括する
ことが で き る 。
一、モルガンは有史以前の文化史の中に科学的秩序をもたらした最初の人間であって、即ち彼は
その文化史に一定の発展段階を設計したと同じく、この発展の根柢的原動力を摘出したのである。そ
れまでは、成史以前の広大なる期間に亙る社会生活と、同時にまた種々雑多な形態と階段とを伴って
今なお生存している原始民族の社会生活とは、多かれ少かれ滅茶苦茶な混沌状態を成していたのであ
って、その中から只時々個々の断片が学問的研究の光の中に照らされていたにすぎなかった。即ちそ
ういう状態を一括して、「野蛮」および「未開」という名称が附せられるのを常としていたのだが、
この名称は単に消極的概念と見做されていた。言いかえれば、「文明」――当時の見解によるところ
の――の徴候、即ち人類の文雅なる生活の徴候と見做されていた一切のものの欠如に対する名称だっ
たのである。当時のそういう見地からすれば、社会の本来の文雅なる生活、人間らしい生活は、成史
いや
に表示されている状態を以て始まるとせられていた。「野蛮」および「未開」に属する一切のものは、
謂わば文明の劣等にして賎しむべき前段、半獣的存在に過ぎなくて、今日の文化的人類が高いところ
第2章 経 済 史 (一)
133
から軽蔑の眼を以てのみ見下し得るものにすぎなかった。キリスト教教会の公式代表者にとっては、
一切の原始的な、キリスト教以前の宗教は、唯一の真の宗教に対する人類の追求における一系列の迷
誤たることを示しているにすぎぬ如く、経済学者にとっては一切の原始的経済形態は、唯一の真の経
済形態――私有および搾取の発見以前の不手際な企てたるにすぎなかったのであって、この私有およ
び搾取と共に、成史と文明とが始まると考えられていたのである。モルガンはこういう見解に対して
決定的な打撃を加えたのであって、即ち彼は原始的文化史全体を、人類の連続的発展系列中における
同じ値打ちの部分、否、それよりも無限に重要な部分と見たのである。何故に無限に重要であるかと
言えば、原始的文化史はホンの小さな一節たるにすぎぬ成史に比して、無限に長い期間を占めている
からでもあり、人類の社会的存在のこの長期の薄明期において、文化上幾多の重要なる成果を見たか
らでもある。モルガンは、野蛮、未開、文明という「称呼」に初めて積極的内容を盛ったことによっ
て、これを正確な科学的概念たらしめ、且つこれを科学的研究の道具として使用した。野蛮、未開、
および文明はモルガンにおいては、一定の物質的特徴を以て相互に区別されるところの、文化発展の
げんがく
三つの区切りであって、この区切りは各々また、下級、中級、上級に分かれ、その間を区別するもの
ぎょろう
は矢張り文化の具体的な一定の成果および進歩なのである。これに対して今日衒学的物知りは躍起と
なって主張するかも知れぬ。野蛮状態の中級がモルガンの主張するように漁撈を以て始まり、上級が
弓矢の発明を以て始まるというようなことは有り得なかった。けだし多くの場合順序がその逆である
134
か、乃至は階段全体が自然的事情次第で色々になって現れたからと。――然しながらこういう非難は、
歴史的分類を融通のきく生きた手引きと見ずに、絶対的妥当性を有する固定的図式、或は認識の奴隷
的鉄鎖と見れば、あらゆる歴史的分類に対して加え得るものである。何と言っても最初の科学的分類
によって原始的歴史の研究のための先要条件 【最初の応急手段】をつくりあげたのは、依然としてモル
ガンの劃期的功績であることは、植物に最初の科学的分類を与えたのがリンネの功績であるのと同じ
ことである。リンネは周知の如く植物を系統づけるための基礎として、極めて有用な、しかしながら
純粋に外面的な特徴――植物の生殖器官という――を選んだが、後にこの間に合せの方法は、リンネ
自身も認めているように、植物界の発達史から見て一層生々とした自然的分類に席を譲らなければな
らなかった。ところがモルガンの場合はこれと反対に、彼が系統づけの基準としたところの根本原則
の選択そのものが、研究を最も效果あらしめた。即ちモルガンは、文化の最初の発端以来歴史のあら
ゆる時期において、人間の社会的関係を第一番に規定するものは、その場合場合における社会的労働
の様式であり、生産であって、生産の重大なる進歩はそれぞれこの歴史的発展の標界をなすものであ
るという命題を以て、彼の分類の出発点としたのである。
二、モルガンの第二の大功績は、原始的社会の家族関係に関するものである。この場合も彼は国
際的な全般的調査によって蒐集したところの大規模な資料を基礎として、原始的社会の最低度の家族
形態から、今日一般に行われている一夫一婦制度、即ち国家によって認許されているところの、夫の
第2章 経 済 史 (一)
135
きょうこ
支配的地位を伴う鞏固なる単婚にいたるまでの、家族の発達形態の順列を、初めて科学的に基礎づけ
てこれを確立したのである。矢張りこの場合も、それ以来幾多の資料が発表されて、モルガンの家族
発達の図式の個々に亙って幾多の修正が加えられはした。それにも拘わらずモルガンの体系の根本的
特徴は、太古から現代にいたる人類の家族形態を、厳密に発展思想の指針によって階梯づけた最初の
ものとして、依然として社会科学の宝庫への不朽の貢献たるを失わぬ。それにまたモルガンはこの方
面においても、単に系統を与えたという点だけの功績ではなく、社会のその場合場合の家族関係と、
その社会の中に通用している親族制度との関係についての、天才的な根本的思想を寄与したのである。
モルガンは多くの原始的民族において、現実の性関係および血統関係、即ち現実の家族は、人々が相
互に対して附与しているところの親族名や、この称号から生ずる相互的義務とは全く合致していない
という、驚くべき事実に対して注意を喚起した最初の人間であった。彼はこの謎のような現象に対し
て、純粋に唯物弁証的説明を見出した最初の人間であった。曰く、
「家族は能動的要素である。それ
は決して静止的なものではなく、社会が低い段階から高い段階に発展すると同じ度合に、低度の形態
から高度の形態へと進んでゆくものである。これに反して親族制度は受動的なものであって、家族が
時代の経過と共に行った進歩は長い期間のうちに漸く親族制度の上に現れてくるにすぎず、親族制度
は 家 族 が 急 激 に 変 化 し た 場 合 に の み 急 激 な 変 化 を 蒙 る の で あ る。
」何故こういう現象が起こるかと言
えば、原始的民族の場合には、以前の家族形態はすでに止揚されているのに、それに相応する親族制
136
度が依然として通用しているからであって、けだしこれは一般に、社会の事実上の物質的発展がずっ
ようん
と先きに進んでいるのに、人間の観念や理念が多くの場合依然としてもとの状態に固着していると同
じであ る 。
三、モルガンは家族関係の発達史を基礎として、古い氏族団体について最初の余蘊なき研究を示
した。即ちそれはすべての文化的民族、即ちギリシャ人やローマ人、ケルト人やゲルマン人、古イス
ラエル人の場合に、歴史的伝統の発端を占めているものであり、そして今日なお生存している大多数
の原始的民族の間に確立しているものである。モルガンは血族関係と、共通の血統とを基礎とせるこ
の氏族団体は、一面においては家族の発達における或る高級段階に外ならぬものであり、他面におい
ては――近代的意味での国家、即ち鞏固な地域的基礎の上に立てる政治的強制組織が、まだ何等存在
していなかった長い期間に亙って――民族のすべての社会的生活の基礎であることを立証した。各種
】から成り、種族自
族は一定数の氏族団体――または古代ローマ人の称呼に従えば――ゲンス 【 gens
身の地域を有し、この地域は総体的に種族のものとなっていた。そして各種族内では氏族団体が単位
であって、そこでは共同の家政が共産的に営まれ、富者もなければ貧者もなく、怠け者もなければ労
働者もなく、主人もなければ従僕もなく、かくてすべての公共事務は自由選挙と全員の決定とによっ
て処理されていた。こういう事情は今日の文明時代のあらゆる民族が曾て通過してきたものであるが、
モルガンはその生ける実例として、ヨーロッパ人のアメリカ侵略時代に繁栄していたアメリカ・イン
第2章 経 済 史 (一)
137
ディアンの氏族組織を審らかに述べている。
この氏族のすべての成員は自由人であって、互いに他人のために自由を擁護することを義務づけら
れている。各人は人身的権利を等しうし、治安の首長も戦争の隊長も何等上位を要求せず、彼等は血
縁によって結ばれている一個の友愛団体を成している。自由、平等、友愛は――そういう言葉には要
約されはしなかったが――民族の基本原則であった。そして氏族は矢張り全社会的体制の単位であり、
ふ き
い ぎ
組織されたインディアン社会の基礎であった。このことは何人もインディアンの間に認め得るところ
の毅然たる独立不羈の念と、人身的威儀とを説明するものである。
四、氏族組織は社会的発展において文明期の戸口まで続いているものであって、モルガンは文明
期を以て、文化史の最も若い短期間の時期であると説き、共産主義と古代民主主義との廃趾 【廃址】
の上に私有制度が発生し、それに伴って搾取が生じ、公的強制組織たる国家と、政治、所有権、家族
における婦人に対する男子の専占的支配とが生じた時期であると説明している。この比較的短かい歴
史的時期の中に、生産、科学、芸術の最大の且つ最も急速なる進歩が含まれていると同時に、階級対
かか
抗による社会の徹底的分裂、民衆の極度の困窮とその極度の奴隷化とが、矢張り同じくこの時期の中
に含まれているのである。左に掲ぐるは現代文明に対するモルガン自身の評価であって、モルガンが
その古典的研究の成果の締めくくりとしたものである。
「文明期の開始以来、富の増大は非常なものとなり、その形態は種々様々のものとなり、その利
138
用は極めて広大無辺となり、その管理は所有者の利益に適合され、かくして富は人民に対して一
個の左右すべからざる権力となっている。人類の精神は自分のつくり出したものに対して手も足
も出ないのである。それにも拘わらず、人類の理性が強くなって、富を支配するようになり、国
家と、国家が保護しているところの財産との関係をも、財産所有者の権利の限界をも確定する時
代がくるであろう。社会の利益は個人の利益に絶対に先だち、この両者は公正にして調和的な関
係 の 下 に 置 か れ な け れ ば な ら ぬ。 過 去 に お け る が 如 く 依 然 と し て 進 歩 が 未 来 の 法 則 だ と す れ ば、
単なる富の追求は人類の究極的運命ではない。文明の出現以来経過した時代は、人類のこれまで
経過せる生涯の一小分数にすぎず、これから先きの生涯の一小部分にすぎぬ。富を唯一の究極目
標としている或る歴史的道程の完結として、吾々の前に社会の臨終が迫っている。けだしかかる
歴 史 的 道 程 は そ れ 自 身 を 滅 ぼ す と こ ろ の 要 素 を 含 ん で い る か ら で あ る。 行 政 に お け る 民 主 主 義、
社会における友愛、権利の平等、一般的教育は、経験と理性と科学とが絶えずそれを目指してい
る と こ ろ の、 社 会 の 次 後 の 高 級 段 階 を 立 派 な も の と す る だ ろ う。 そ れ は 古 代 氏 族 の 自 由、 平 等、
友愛の復活――しかしながら一層高級の形態における――であるだろう。
」
モルガンの業蹟は経済史の認識にとって広大なる意義のあるものだった。その時まで原始共産主義
経済は単に個々の場合において発見されていたのみで、説明されていなかったのを、モルガンは一般
的定則として、これを至当なる文化発展の土台に据え、特に氏族組織の土台に据えたのである。それ
第2章 経 済 史 (一)
139
に適応せる民主主義と社会的平等とを伴える原始共産主義は、かくして社会的発展の揺籃たることが
示されたのである。モルガンはこのように成史以前の過去の水平線を拡大したことによって、私有制
度、階級支配、男子専制、強制国家、強制結婚等を伴える今日の全文明を、短い期間の一時的段階と
見做し、この段階は太古共産社会の消滅を受けて初めて発生したと同じく、未来においては一層高級
の社会的形態に席をゆずらなければならぬものであると見たのである。かくてモルガンは科学的社会
主義に対して新たに有力な援助を与えた。マルクスおよびエンゲルスは資本主義の経済学的解剖によ
って、社会が次の将来において共産主義的世界経済に必然的に歴史的に推移することを立証し、かく
して社会主義的努力に対して鞏固な科学的土台を与えたのであったが、他方においてモルガンは、共
産主義的民主主義的社会は、――それとは別な、一層原始的な形態においてではあるが――今日の文
革
命
明期以前に人類文化史の長期の全過去を包括しているものであることを立証し、それによってマルク
ス=エンゲルスの業蹟に対して、謂わば広壮なる玄関口を与えたのであった。かくして未来の××的
努力と、太古の伝統とが手を握り、認識の圏が調和的に連結され、今まで文化の全体であるかのよう
に思われ、世界歴史の最高目標であるかのように説かれていた今日の階級支配と搾取との世界は、右
の見地からすれば単に人類が偉大なる文化的前進における極小の一時的段階の形をとるに至ったので
ある。
140
二
モルガンの『古代社会』は、謂わばマルクスおよびエンゲルスの共産党宣言に対する追加的手引き
を成した。しかしそれと共にこの著書はブルジョア学問の中に反動を生じさせる羽目となった。十九
世紀半ば以来二十年から三十年までのうちに、原始共産主義の概念があらゆる方面から科学の中に入
り込んだ。しかしながらまだ、尊敬すべき「ゲルマン法制遺物」や、
「スラヴ種族の特徴」や、ペル
ーのインカ国家の歴史的発掘というような事柄が眼目となっていた間は、それらの発見は現実的意義
がなく、ブルジョア社会の日常利益や日常闘争と直接に結びつくことがなく、無害な学問的骨董物の
範囲を超え得なかったのであって、そのためにルードウィヒ・フォン・マウラーやサー・ヘンリー・
か
メーンのような頑固な保守的な、または穏和な自由主義的な為政家が、それらの発見に対する功績を
贏ち得ることができたのであった。しかしながら間もなくこれらのものはブルジョア社会の日常利害
と直接に結合するようになり、しかも二様の方面で結びつくに至った。植民政策はブルジョア世界と
原始共産状態との間に明白な物質的利害の衝突をもたらしたことは、すでに吾々の見てきた通りであ
つ
る。一八四八年の二月革命の嵐の後、十九世紀半ば以来西ヨーロッパにおいて、資本主義制度が全能
の位に即き始めてから、この利害の衝突は一層ハッキリしたものとなった。それと同時に丁度この二
月革命以来、ブルジョア社会自身の陣営の中に、もう一つ別の敵――革命的労働運動が――益々大き
な役割を演じた。一八四八年六月暴動以来パリにおいて、
「赤い幽霊」は公けの舞台から消え去るこ
第2章 経 済 史 (一)
141
しんがい
となく、一八七一年にコンミュン戦の灼熱的火映となって再び現れて、フランスおよび国際ブルジョ
アジーを震駭させた。こういう血腥い階級闘争の光りに照らされて、今や学問的研究の最新の発見―
―原始共産主義――がその危険なる面貌を現したのである。自己の階級制益に敏感となったブルジョ
アジーは、植民地において土人に対する利慾的「ヨーロッパ」化の前進に当って、ブルジョアジーに
極めて頑強な抵抗を行った原始共産主義の伝統と、先進資本主義国におけるプロレタリア大衆の革命
的激動の新福音との間に、朧げな聯絡があることを嗅ぎつけた。一八七三年にフランス国民議会にお
いて、アルジェリアの不幸なるアラビア人の運命が、私有制度の強制的実施に関する法律によって決
せられねばならぬ羽目に陥った時に、パリ・コンミュンに対する勝利者の卑劣なる精神と殺人慾とが
未だ跡を引いていたこの国民議会において、アラビア人の原始的共有制度は、
「精神において共産主
そうせい
義的傾向を蔵している形態として」如何なる代価を払っても絶滅しなければならぬという言葉が繰返
し発せ ら れ た 。
生時代と七〇年代の最初の資本
その間にドイツにおいては新ドイツ帝国の栄光たる、泡沫会社簇
主義的恐慌、ビスマルクの鉄血政策とその社会主義鎮圧法とは、階級闘争を極度に激成し、併せて
学問的研究からも一切の気楽な心もちを駆逐してしまった。マルクスおよびエンゲルスの理論の化
身たるドイツ社会民主党の未曾有の増大は、ドイツにおけるブルジョア学問の階級本能を異常に激
成し、そしてまたこの場合も原始共産主義の学説に対する反動が最も手強く始まった。リッペルト
142
【
】や シ ュ ル ツ 【
Julius Lippert, 1839-1909
】の 如 き 文 化 史 家、 ビ ュ ヒ ャ ー の 如 き 経
Heinrich Schurtz, 1863-1903
】
、ウェスターマルク 【 Edward Alexander Westermarck, 1862済学者、シュタルケ 【 Carl Nicolai Starcke, 1858-1926
】
、グローセ 【 Ernst Grosse, 1862-1927
】の如き社会学者は、今日一致して原始共産主義の学説に熱心に
1939
反対し、殊にモルガンの家族進化説、同じく男女の平等と一般的民主主義とを伴える氏族組織が曾て
一般に行われていたとするモルガンの学説に対して極力戦っている。たとえばシュタルケ氏の如きは、
*
】の中で、親族制度に関するモ
一八八八年刊『原始的家族』【 "The primitive family in its origin and development"
ルガンの仮説を「精神錯乱と言えなければ荒唐無稽の夢想」だと呼んでいる。
* シ ュ タ ル ケ お よ び ウ ェ ス タ ー マ ル ク の 批 評 お よ び 理 論 は、 ク ノ ウ 【 Heinrich Wilhelm Carl Cunow, 1862-
】によって『オーストラリア黒人のi親族組織』
(一八九四年刊)【 "Die Verwandtschafts-Organisationen der
1936
】の中で徹底的吟味な受けて覆えされているが、これに対してわが博学なる両氏は今日にい
Australneger"
う
たるまで一言も答えていない。それにも拘わらず両者は最近の社会学者、たとえばグローセの如き人か
ら、モルガン廃棄者として、並びに第一流の権威者として倦まず賞讃されている。モルガン廃棄者にお
ける場合は、マルクス廃棄者におけると略々同じである――ブルジョア学問にとっては、憎むべき革命
家に反対する傾向だけで沢山なのであって、この場合好意がすべての学問的功績を補うのである。
また、比較的真面目な学者、たとえば吾人の有する最良の文化史の著者リッペルトの如きもモルガ
ンに敵対している。リッペルトは十八世紀における経済学上にも人類学上にも何等教養のない宣教師
第2章 経 済 史 (一)
143
i
「オーストラリア黒人」と以下においても訳されているが、先住民のことであるので、以下では書き換える。
i
の、時代おくれの皮相な報告に基づき、モルガンの大規模なる研究を全然無視して、北米インディア
ンの経済状態を描き、これを以て、狩猟民族の間には一般に生産の共同規定も、全体のためや将来
のための「配慮」も何等行われておらず、無規律と無思慮以外の何ものも支配していないことを示す
つうぎょう
一つの証拠として挙げている。この北米インディアンこそは、モルガンがその整然たる社会組織を
有する生活に、他の何人よりも通暁しているところの民族なのである。インディアンの間に事実の上
に現存している共産主義制度を、偏狭なるヨーロッパ眼によって下らなく歪められたのを、リッペ
ルトは無批判に取り入れている。たとえば北米インディアンの間における福音教徒の伝道の歴史を、
一七八九年にロスキエルが書いたものから、次の如き引用を試みているが如きはその一証である。曰
く、「道を踏んで誤らざるわが宣教師の記すところによれば、彼等(アメリカ・インディアン)の多
くは極めて怠惰であって、自分で何物も栽培せずに、他人が食料の貯えを分けることを拒めないよう
にばかり仕向けている。こういう具合で、勤勉な者も、自分の労働の成果を怠け者以上に味えないの
だから、勢い次第々々に栽培を少なくするようになる。また厳しい冬がくれば彼等は深雪のために猟
かしわ
に行くことができず、かくして造作もなく一般的飢饉が起り、往々沢山の人が斃れる。そこで彼等は
」リッペル
困窮に教えられて、草根や木の内皮、殊に若檞の内皮を食料に宛てることを覚えてくる。
トはこの証人の言葉に附け加えて曰く、即ちこのように自然の成行きを以て、往時の無配慮状態への
復帰が、同じく往時の生計への復帰を伴ったのであると。そしてこのインディアンの社会において、
144
即ち何人も自分の食料の貯えを他人に分けることを「拒めない」社会、
一人の「福音教徒」が明々白々
な気まぐれを以て、ヨーロッパ流の型に似せて否応なしに「勤勉な者」と「怠け者」とに分けている
このインディアンの社会の中に、リッペルトは原始共産主義に反対する最上の証拠を見出そうと欲し
て曰く 、
「こういう段階においては、老いたる時代人が若き時代人の生活の支度のために、まだ心を労すること
が少ないのは当然である。インディアンはすでに原始人からは遥かに遠ざかっている。人類は道具を有
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するようになると同時に、所有の概念を有するが、但しこの概念は道具の上にのみ限られている。そう
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いう概念をすでにインディアンは最低の段階において有している。但しこの原始的所有には一切の共産
主義的特徴が欠けている。発展はその反対の方向に始まっているのである。
」
「測るべ
ビュヒャー教授は原始共産主義経済に対して、原始民族の「個人的食物探求の理論」と、
からざる長い期間」において「人類は労働することなしに存在してきた」という理論とを以て対向し
てきた。ところが文化史家シュルツにとっては、カール・ビュヒャー教授はその「天才的眼光」を以
てする一個の予言者なのであって、シュルツは原始的経済関係に関する事柄については、盲目的にそ
の言に追従している。だが危険なる原始共産主義学説に対する反対派の最も典型的な、有力な主張者、
「ドイツ社会民主党の教父」モルガンに反対する氏族組織の最も典型的な、最も手強き主張者はエル
ンスト・グローセである。一見したところではグローセ自身が唯物史観の信奉者であって、即ち彼は
第2章 経 済 史 (一)
145
社会的生活の種々の法制的、性的、精神的形態を、それらの形態を決定する要因たるその場合場合の
きんしょう
】の中
生産関係に帰せしめている。彼は一八九四年に公けにした『芸術の発端』【 "The beginnings of art"
でこう言っている、「極く僅少の文化史家のみが生産の全意義を理解していたように見える。しかし
ながら生産の意義を低く評価するのは、それを高く評価しすぎるよりも遥かに容易である。経済動機
は謂わばあらゆる文化形態の生命の中心であって、文化の爾余のすべての要因に対して、最も深い否
応なしの影響を与えるものであるが、この経済動機そのものは、文化的要因によっても、自然的要因
によっても――地理的関係や気象的関係によっても決定されない。生産形態を本原的文化現象と呼ん
で差支えないのであって、その外の文化の各部門は、派生的な、副次的な現象としてのみ現れるもの
である――但しこの意味は、これらの他の部門が生産という根幹から発生するという意味ではなく、
独立的に発生するものではあるが、支配的な経済的要因の優勢なる圧力の下に絶えず形成され発達し
てきたという意味である。」一見したところではグローセ自身が「ドイツ社会民主党の教父」マルク
ふとこ
スおよびエンゲルスから、彼の主要思想を学び取ったように見える。但し賢明にも彼自身は「大多数
カソリック
の文化史家」に対する自己の卓越を、そういう出来合いのままで誰の学問的懐ろから持ってきたかを、
一言も洩らさないように用心してはいるが。加之、彼は唯物史観については「法皇よりも正統」であ
る。マルクスと並んで唯物史観の共同創始者たるエンゲルスは、原始時代における家族関係から、今
日の国家的に承認されている強制結婚の完成にいたるまでの発達は、経済関係とは係わりのない諸形
146
態の進展であって、それには人類の維持の利益とその増殖とだけが根柢となっているにすぎぬと見做
していたのに、グローセはこの点において遥かに徹底している。彼はすべての時代において、その場
合の家族形態は、その時代に支配している経済関係の直接の産物に外ならなかったという理論を樹て
おくせつ
ているのである。即ち彼は次の如く言っている、「生産の文化的意義が、家族の歴史におけるほど明
瞭に現れる場合はない。この家族という不思議な具象は、社会学者を駆って更らに一層不思議な臆説
"Die Formen Der Familie und Die
を立てさせてきたものであるが、ひとたびこれを生産の諸形態と関聯させて観察する時は、立ちどこ
ろに理解できるものとなって現れる。」
【
一八九六年に公けにされた彼の著書、『家族の諸形態と経済の諸形態』
】は、全然こういう思想の証明に宛てられている。だがそれと同時にグローセは原
Formen Der Wirtschaft"
始共産主義説の断乎たる反対者である。矢張り彼も、人類の社会的発達は断じて共有を以て始まった
のでなく、私有を以て始まったことを証明しようとつとめ、矢張りリッペルトやビュヒャーと同じく、
この見地から出発して、原始史に遡れば遡るほど「個人的所有」を伴える「個人」が、専ら全能的に
支配しているということを証明しようとつとめている。なるほどすべての大陸における共産主義村落
(
】 同じく氏族の意)
団体の発見や、それに伴って氏族団体、またはグローセの称呼に従えばジッペ【 Sippe
に関する発見は、無造作に否認することはできない。しかしグローセは取りも直さず――この点に彼
特有の理論が成立するのだが――共産主議経済の枠としてのこの氏族組織を、一定の発達段階におい
第2章 経 済 史 (一)
147
てのみ、即ち低級の農耕と共に出現するものとなし、一層高級の農耕の段階に来るや否や崩壊してし
まって、再び「個人的財産」と代わるものと見做している。このようにしてグローセは、モルガン=
ようらん
マルクスによって樹立された歴史的遠近法を、意気揚々として転倒せしめたのである。モルガン=マ
ルクスによれば、共産主義が人類の文化的発展の揺籃であり、この発展が測るべからざる長期間に亙
って伴ったところの経済関係の形態であって、文明期の開始と共に初めて崩壊して私有制度と代わる
ものであり、そして文明期はまた文明期で、急速な崩壊過程に面し、社会主義的社会秩序という一層
高級な形において共産主義への復帰に面するものである。ところがグローセによれば、文化の発生と
進歩とを誘致したものは私有制度であって、この私有制度は一定の段階、即ち低級農耕の段階におい
てのみ、一時の間共産主義に坐を譲るものである。マルクス=エンゲルスおよびモルガンによれば、
共有制度、社会的連帯が文化史の始点および終点であり、グローセおよびブルジョア学問における彼
ただ
の同僚によれば、私有財産を有する「個人」がそうなのである。だがそれだけではない。グローセは
啻にモルガンや共産主義に対してのみならず、社会生活の領域における進化理論全体に対しての公然
たる反対者であって、社会生活のすべての現象を一個の発展系列の中におし込めて、これを一個の単
一の過程、即ち低き生活形態から高き生活形態へと向う人類の進展と見做すところの幼稚な思想家に
対して嘲笑を浴びせかけている。一般に近代社会科学全体、特に歴史観並びに科学的社会主義の学説
の基礎となっているこの根本思想を、グローセは典型的ブルジョア学者として全力を挙げて攻撃して
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いる。彼は公言し力説して曰く「人類は唯一つの線上を唯一つの方向に向って動いているのでは決し
てなく、民族の生活条件が種々様々なるが如く、その道程や目標もまた種々様々である。
」かくして
グローセという人間の姿をとって、ブルジョア社会科学は、ブルジョア社会科学自身の発見の革命的
結論に対する反動となって、ブルジョア俗流経済学が矢張り古典経済学に対する反動となって到達し
しさい
たと同じ点に到達した。即ち社会的発展の法則性そのものの否定に到達したのである。このマルクス、
エンゲルスおよびモルガンの最近の克服者の、不思議な史的
「唯物論」をもっと仔細に観察して見よう。
グローセは実に屡々「生産」を口にし、終始一貫して「生産」の性質を以て、文化総体に影響を与
えるところの決定的要因なりと述べている。だが彼は生産とその性質とを何と解しているだろうか?
「一つの社会群の中に行われ、もしくは優勢を占めている経済形態、即ちその社会群の成員が生計を
獲得する方法は、直接に目撃される事実であり、その主要特徴をいつの場合も充分に確実に確定し得
る事実である。吾々はオーストラリア人の宗教的観念や社会的観念についても、まだ仲々疑問をもっ
ているかも知れぬ。だが彼等の生産の性質については疑いを挟むことは不可能である。即ちオースト
ラリア人は狩猟者であり植物採集者である。古代ペルー人の精神的文化を見究めることはおそらく不
*
可能であろう。だがインカ帝国の市民は農耕民族だったという事実は、あらゆる観察者にとって明瞭
」
である 。
*グローセ著『芸術の発端』第三四頁。
第2章 経 済 史 (一)
149
故に「生産」およびその「性質」を、グローセは単に民族の食糧のその場合場合の主要源泉のこと
と解している。狩猟、漁撈、牧畜、農耕――これが一民族のその外の一切の文化事情に、決定的な影
響を与えるところの「生産関係」なのである。ここにまず第一に注意しなければならぬことは、結局
帰着するところはこういう貧弱な発見だとすれば、少なくとも「大多数の文化史家」に対するグロー
セ氏の卓越は、全く根拠のないことだったということである。或る一定の民族にとって食糧に役立つ
主要源泉の種類が、その民族の文化発達にとって殊の外重要なものであるという認識は、別段グロー
セ氏の嶄新 【斬新】なる発見ではなく、むしろ文化史のすべての学者の古くからの備付品たるもので
ある。取りも直さずこの認識こそは、民族を、狩猟民族、牧畜民族、農耕民族に分ける在来の習慣を
誘致してきたものであり、この分け方は、すべての文化史においてつねに行われていることであって、
これをグローセ氏自身が、幾度もああでもない、こうでもないと考えながら、しかも結局採用してい
るにすぎぬ。しかしこの認識は単に全然旧式であるのみならず、なお――グローセがそれを採用して
いる場合のような単純な理論においては――全然誤りである。単に一民族が狩猟か牧畜か農耕かで生
活していることを知ったとしても、その民族の生産関係やその他の文化については、まだ全然何物を
も知ったことにならぬ。南アフリカの現在のホッテントットは、ドイツ人がその畜群を奪い、従って
彼等の従来の生存の源を奪って、その代わりに近代的小銃を供給したので、そのために否応なしに再
び狩猟者となっている。ところがこの「狩猟民族」の生産関係は、今日なお原始的な別世界状態のう
150
ちに生活しているカリフォルニアのインディアン狩猟民族とは、微塵も共通な点を有せず、後者はま
リャマ
た、欧米の資本家に対して、毛皮品商業のための獣皮を職業的に供給しているカナダの狩猟者組合と
は殆んど類似の点がない。スペイン人侵略以前にインカ治世の下にコルディレル山中に駱馬を共産的
に飼養していたペルーの牧畜民、家長制牧畜群を有するアフリカやアラビアの遊牧アラビア民族、資
本主義世界の真中で昔ながらの『アルプス簿記』をつけている、スイスやバイエルンやチロールのア
ルプス山中における今日の農民、荒涼たるアプーリエン地方 【南イタリアの一地方】で主人の巨大な畜
群を見張っていた半野蛮的なローマの奴隷、今日アルゼンチンでオハイオ州の屠殺場や缶詰製造所の
ために無数の畜群を肥らせている農業企業家――すべてこれらのものは、それぞれ生産および文化の
全然異った型を代表するところの「牧畜」の見本である。最後に「農耕」は、太古のインド民族マル
ク組合から近代の巨大地所経済にいたるまで、自作農的矮小経済から東エルベの諸侯領地経済にいた
じょくこう
るまで、イギリスの小作制度からルーマニアの特別徭役制度にいたるまで、支那の農民園芸からブラ
ジルの栽培場や奴隷労働にいたるまでタヒチ島における婦人の耨耕 【鍬による耕作】から蒸気および電
気経営を以てする北アメリカの大農場にいたるまで、――ありとあらゆる種々様々な経済様式を包括
しているのであって、生産の意義に関するグローセ氏の高慢ちきな御託宣の中には、本統の「生産」
とは何を意味するかについて、見事な無理解が示されているにすぎぬ。この種の「唯物論」は、生産
および文化の外部的な自然条件のみを考慮に入れているにすぎず、
イギリスの社会学者バックル【 Henry
第2章 経 済 史 (一)
151
】を以て、その最上の且つ余蘊なき代表者としているものであって、外ならぬこ
Thomas Buckle, 1821-62
ういう大ざっぱな「唯物論」に、マルクスおよびエンゲルスは反対したのであった。食糧の外部的な
自然的源泉が、人間の経済上および文化上の関係を決定するのでなく、人間が労働において相互に対
して結んでいる関係が、これを決定するのである。生産の社会的関係は、或る一定の民族の間に如何
なる生産形態が支配しているかという問題を決定する。生産のこの方面を根本的に理解した場合にの
み、一民族の生産が、その家族関係や、法律概念や、宗教的観念や、芸術的発達などに対して決定的
影響を与えることを理解することができる。だが謂わゆる野蛮民族の場合の生産における社会的関係
を見届けることは、大多数のヨーロッパ人観察者にとって極めて困難な事柄である。インカ・ペルー
人は農耕民族だったということ以外に何事も知らぬ場合に、すでに一個の世界を知りつくしていると
信じているグローセ氏の如きとは正反対に、サー・ヘンリー・メーンの如き真面目な学者は次の如く
言って い る 。
「外国の社会的または法制的事情の直接目撃者に特有の誤謬は、それらの事情を、外見上同一種
類のものに見える既知の事情と、余りに早卒に比較することである。
」
「最低の段階においては人類は、狩猟――最も広い意味における――と、植物の採取とによって食って
そこで家族形態と、右の如く解された「生産形態」との相互関係は、グローセ氏の場合にあっては
次の如 く 見 え る 。
152
ゆく。こういう原始的形態の生産の場合には、それと同時に、両性の間における最も原始的な形態の分
業が現れる。男子は動物性食物の調達を受持ち、一方で植物や果実の採取が女子の役目となる。こうい
う事情の下では、経済上の重点は殆んどつねに男の側にあり、その結果、原始的な家族形態は如何なる
場合も、明白な父権的性質を帯びている。血族に関する見解がどんな種類のものであろうと、原始時代
の男子は、――子孫の血族と見做されていない場合ですらも――事実上妻子の間に主人並びに財産所有
者の位置を占めている。こういう最低の段階から、生産は二つの方向に進展し得る。それにつれて女子
の経済経営か、男子の経済経営かが一層発達してくるのである。だがこの両種の経営のうち何れが根幹
になるかは、第一番に原始的集団が生活している自然的条件の如何によって決定される。その土地の植
物の分布と気候とがまず最初に有用植物の保護、ついでその培養に適し、且つ引き合う場合は、女の受
持ちの経済部門、即ち植物の採取が漸次に植物栽培に発達してくる。事実において原始的農耕民族の場
よ
合は、この仕事はつねに女の手にあるのである。然るにそれと共に経済上の重点が女の側に置かれ、そ
いうものの痕跡を認めることができる。今や婦人は主要扶養者および地主として家族の中心に位するの
の結果吾々は、主として農耕に倚っているすべての原始社会の場合に、母権的家族形態、もしくはそう
である。とはいえ本来の意味での母権的支配が形成され、本統の女性支配が形づくられる場合は極めて
稀れにしかない――即ちその社会群が外敵の攻撃から免れた場合に限られている。その外のすべての場
合には男子が優位を獲得していた。即ち男子は扶養者として失った優位を、保護者として取戻したので
ある。こういう具合にして、
かかる農耕民族の大多数の間に行われている家族形態が発生するのであって、
第2章 経 済 史 (一)
153
け
それは母権的傾向と父権的傾向との中和を成すものである。――それにも拘わらず人類の大部分は全然
域に棲んでいた狩猟民族は、前の民族のように植物培養の方に発達せず、牧畜の方に発達したのである。
別個の発達を閲みしてきた。農耕には困難だが、飼養に差支えなく且つ引き合う動物が存在している地
ところが狩猟から漸次に発達する牧畜は、狩猟と全然同様に、本来如何なる場合も男子の特権となって
現れる。こういう具合にして、男子側に既に存在している経済上の優勢が更らに一層強められ、そして
この事情は、特に牧畜によって食っているすべての民族は父権的家族形態の支配下にあるという事実と
な っ て、 徹 底的 な 形 を と っ て 現れ る の で あ る。 な お そ の 外 に、 牧 畜 社 会 に お け る 男 子 の 支 配的 地 位 は、
矢張りその社会の生産の形態と直接に関聯するところの、もう一つ別の事情によって高められる。即ち
牧畜民族はつねに戦争的葛藤をひき起し勝ちであり、その結果集中的な戦争組織体を形成する傾向があ
る。その結果は勢い妻が権利のない奴隷として、専制的権力を贈与された夫の下にかしづくという、極
端な形の父権制度の出現となる。
」しかるに妻が家族の扶養者たる地位を占め、もしくは少なくとも部分
的に自由な地位を享有している平和的な農耕民族は、大多数の場合戦闘的牧畜民族に征服され、その結
果この牧畜民族から種々の風習と共に、家族内における男子の専制的支配をも移入する。「かくして吾々
*
い
い
は今日なお、すべての文化的国民が、多少とも鮮明な父権的家族形態の徴候を帯びているのを認めるの
である。
」
*グローセ著『芸術の発端』第三六―三八頁。
倚する人類家族の奇妙な歴史的運命は、要するに
されば右に描き出されたところの、生産形態に依
154
次の如き図式に帰着する。狩猟の時期――男子支配を伴う個別家族。牧畜の時期――一層悪辣な男子
かなめいし
支配を伴う個別家族。低級農耕の時期――折々の女子支配を伴う個別家族、だが後に牧畜民族による
農耕民族の征服、従って矢張りこの場合も男子支配を伴う個別家族。そして建物の要石として、高級
農耕の時期――男子支配を伴う個別家族。グローセ氏は御覧の如く近代進化論の否認に熱心である。
氏にあってはおよそ家族形態の進化というものは存在しないのだ。歴史は個別家族と男子支配とを以
て終始するのだ。この場合グローセは、最初に家族形態の発生を生産形態から説明することを、大得
0 0 0 0
意で約束しながら、一般に家族形態を、或る既存のもの、出来上ったもの、即ち個別家族、即ち一個
の近代的世帯として前提して、これをすべての生産形態の下に全然不変のものと見做していることに
気がつかない。グローセが時代の変遷に伴う種々の「家族形態」として追及しているものは、
その実、
単に両性相互間の関係というただ一つの問題である。男子支配か女子支配か――これがグローセによ
れば「家族形態」なのであって、かくして彼は「生産形態」を、狩猟か牧畜か農耕かという問題に約
元して骨抜きにしたと同じ大ざっぱなやり方で、家族形態を全然骨抜きにして外部的特徴に約元して
いる。「男子支配」か「女子支配」かということは、何ダースという種々の家族形態を包含し得るも
のだということ、「狩猟民族」という同一の文化段階内にも、何ダースという種々の親族制度が存在
し得るということ――すべてこういうことは、一種類の生産内部における社会関係の問題と同じく、
グローセ氏にとっては全然問題にならないのである。家族形態と生産形態との相互関係は、要するに
第2章 経 済 史 (一)
155
この場合次の如き才気に富んだ「唯物論」に帰着する。――即ち両性は当初から業務の競争者と見做
されている。家族を養うものは矢張り家族内を支配すると俗人は考えており、ブルジョア民法もそう
考えている。だが女性の不運は、歴史上ただ例外的にのみ――即ち低級な耨耕の場合に――家族扶養
の当事者だったのだが、それも矢張り戦闘的男性のために敗を取らなければならなかった。かくして
家族形態の歴史は、これを根本的に見れば、どんな「生産形態」の場合たるとを問わず、単に婦人の
奴隷状態の歴史たるにすぎぬ。この場合家族形態と経済形態との唯一の関聯は、専ら男子支配が比較
的穏和な形のものであるか、比較的苛酷な形態のものであるかという、わけもない区別に存するだけ
である。そしてこの最後に当って、奴隷化された婦人のための、人類文化史における最初の救いの使
として――キリスト教が現れた。これは地上においてではないが、少なくとも天上においては両性の
間に何等区別をつけないものである。グローセ氏は経済史の大洋の中を長いこと漂泊した後に、漸く
*
仕合せにもキリスト教という港に錨を下すことを得て、「この教えによってキリスト教は婦人に卓越
した地位を与え、男子の我侭もそれには屈しなければならぬ」と結んでいる。このように社会学者を
駆って「不思議な臆説」を立てさせてきたところの家族形態は、これを「生産形態と関聯させて」観
察するときは、なるほど「立ちどころに理解できるもの」となって現れるではないか!
* グローセ著『家族の諸形態』第二三八頁。
しかしこの「家族形態」の歴史の中に最も際立っているものは、氏族団体、もしくはグローセの称
156
呼によればジッペの取扱い方である。氏族団体が昔の文化段階において、社会的生活にとって如何に
巨大な役割をつとめていたかを吾々はすでに見てきた。氏族団体は――殊にモルガンの劃期的研究に
よれば――地域的国家の形成以前における人類特有の社会形態であって、その以後にも、久しく経済
的単位体並びに宗教的共同体であったことは、吾々のすでに見てきたところである。この事実はグロ
ーセの「家族形態」の不思議な歴史とどんな関係があるだろうか? グローセはすべての原始民族の
間に氏族組織が成立していたことを、流石に無造作に否認することはできない。しかしこの氏族組織
ジッペ
は個別家族および私有制度の支配というグローセ自身の図式と矛盾するのだから、彼は氏族組織の重
ジッペ
要性を――低級農耕という一時期を除いて――できるだけ無いものにしようと努めている。
「氏族権
*
力は低級農業と共に発生し、低級農業と共に消滅し、すべての高級農業民の間には氏族制度がすでに
」このようにグローセは、共産主義経済を伴える「氏族権力」を、
瓦解しているか、乃至は瓦解する。
経済史および家族史の中に、恰もピストルから発射されたもののように突然出現させ、それからすぐ
さま再び元の方へ消え失せさせている。グローセによれば氏族制度は低級農耕期以前には、個別家族
に対して経済的機能も社会的重要性ももっていないのだから、それなら一体低級農耕以前における文
化発展の数千年間に亙っての氏族制度の発生、成立、機能は如何に説明すべきであるか、そして狩猟
民族や牧畜民族の間では、私経済を伴う単独家族の背後に影の如くひそんで存在しているという、そ
ういう氏族とは一体如何なるものであるか、――そういう問題は何処までもグローセ氏の個人的秘密
第2章 経 済 史 (一)
157
にとどまる。同様にまたグローセ氏は、氏の小歴史が、一般に認められている若干の事実と矛盾相容
れないものであることに気がつかないでいる。氏族は低級農耕の場合に初めて重要性を発揮するとい
う。ところが氏族は大多数の場合、近族復讐の制度や、宗教上の儀式や、また極めて屡々動物称名の
習俗と結びついている。然るにすべてこれらの事柄は、農耕よりも遥かに古いものであるから、従っ
てグローセ自身の理論からするも、氏族権力は農耕期よりもずっと原始的な文化時期の生産関係から
派生しなければならぬわけである。グローセはゲルマン、ケルト、インド人の如き高級農耕民族の氏
じょくこう
族制度は、低級農耕期の遺産であって、この時期には氏族制度が婦人の農業に根元を置いていると説
いている。然るに文化民族の高級農耕は婦人の耨耕からでなく、牧畜から発生したのであって、この
牧畜はすでに男子によって営まれていたのだから、従って高級農耕の場合には、グローセによれは氏
族は父権的家族経済に対して何等意義を有していなかったわけである。グローセによれば放浪的牧畜
民族の間には氏族制度は無意義であって、定住と農耕とが始まると共に初めて暫時の間権力を獲得す
るのである。然るに最も秀でたる農業制度研究者によれば、事実上の発達は丁度それと正反対の方向
に行われてきた。即ち牧畜民が放浪的生活様式をつづけていた間は、氏族団体はあらゆる点において
最大の権力を有していたのであって、定住および農耕と共に民族的連結は弛み初め、農耕民の地域的
団体に代って影をひそめ始める。即ちこの地域的団体の共同利益は血縁の伝統よりも力強いのであっ
て、かくて氏族共同体は謂わゆる近隣共同体に化する。これがルートウィヒ・フォン・マウラー、コ
158
ヴァレフスキー、ヘンリー・メーン、ラヴレーの見解であって、現在ではカウフマンが、中央アジア
のキルギース人およびヤクート人の間に同一の現象が行われていることを立証している。
*グローセ著『家族の諸形態』第二〇七、
二一五頁。
そび
結びとしてなお次の点を選ぶべきであろう。グローセは原始的家族関係の領域における最も重要な
現象、たとえば母権制度の如きものに対して、彼の立場からは如何なる説明をも断じて与えることが
できないで、単に肩を聳やかして母権制度を「社会学の最も奇異なる事物」
と説いているだけにすぎぬ。
また彼は、オーストラリア人の間には血族に関する観念はその家族制度の上に何等影響を与えていな
いというような、信ずべからざることを臆面もなく主張し、古代ペルー人の間には氏族の痕跡だにな
しんぴょう
かったというような、これに輪をかけた荒唐無稽なことを主張しているし、またゲルマン人の農業制
度を、旧式な、信憑すべからざるラヴレーの資料によって判断している。そして最後に彼はこの同じ
ラヴレーの口真似をして、たとえば「今日もなお」ロシアの村落共同体は、三千五百万の大ロシア人
の間に、血縁を出て成る氏族団体、即ち「家族共同社会」を形づくっているというようなお伽話めい
た主張をしているのであって、そういう主張は、ベルリンの総住民は「今日もなお」一大家族共同社
会を形づくっているというのと略々違いがない。グローセはすべてこういう主張によって、「ドイツ
社会民主党の教父」モルガンを、死んだ犬ころのように取扱う資格を与えられているのである。以上
の吟味によってグローセの家族形態および氏族の取扱い方から判断すれば、彼が「経済の形態」なる
第2章 経 済 史 (一)
159
ものを如何に取扱っているかは自ずから明白となる。原始共産主義の認容に反対する彼の立証全体は、
「なるほど云々だが」「併しながら云々」という二つの言葉の上に基礎をおいている、即ち反対すべか
らざる事実はなるほど承認するが、併しながらそれに他の事実を対立せしめ、かくて望ましからぬも
のは縮小し、望ましいものは誇張し、結果をそれに応じて整理するというやり方をしている。
「すべての低位の社会にあって
な る ほ ど グ ロ ー セ 自 身 は 低 級 狩 猟 民 に つ い て 次 の 如 く 説 い て い る、
は個人的所有は、主として、または専ら動産より成るものであるが、そういう個人的所有は低級狩猟
民の間には殆んど無意義であって、財産中の最も貴重な部分、即ち猟地は種族の男子全体の共有であ
る。その結果往々獲物も群団中の全員の間に分配されなけれはならぬ。このことはたとえばボトクー
)。またオーストラリア人の若干の
デン族についても報告されている( エーレンライヒ、『人類学時報』
部分の間にも、これと似た風習が存している。それだから原始的群団の成員総体が、殆んど一様にい
つも貧しいのである。また大した財産上の差別がないのだから、身分上の区別が生ずる主要な根拠が
。同様に「氏族
欠 け て い る。 一 般 に 一 種 族 内 の 成 年 男 子 は 総 て 同 権 で あ る 」
( 前掲書第五五―五六頁)
員たる資格は若干の(!)点において、低級狩猟民の生活の上に重大な影響を与えている。氏族員た
る資格は狩猟者に一定の猟地を利用する権利を贈与し、防衛および復讐の権利義務を贈与する」( 第
。同様にグローセは、カリフォリニアの低級狩猟民の間に氏族共産主義の可能性を認めている。
六四頁)
併しながらそれにも拘わらず、氏族は緩慢且つ薄弱なものであって、この場合経済共同社会が存在
160
していないのである。「しかし北極狩猟民の生産様式は全然個人主義的であって、氏族的連結は遠心
的な欲望に対して殆んど抵抗する力がない。」同様にオーストラリア人の間には「狩猟および採集に
よる共有猟場の利用は、常則として何等共同には行われることなく、個別家族が各自分立的な経済を
営んでいる。」そして一般には「食物の欠乏は、比較的大きな群団を持続的に結合してゆくに耐えず、
この群団の分散を余儀なからしむるものである。」
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次に高級狩猟民の方に移ろう。
「土地は高級狩猟民の間にも、常則として種族または氏族の共有である」
(第六九頁)
。なるほ
なるほど
ど吾々はこの段階において、集団家屋がそのまま氏族のための共同営舎となっているのを目撃し(第八四
頁)
、なるほど吾々は更らに進んで次のような事柄を聞きはする、「マッケンジーがハイダ河の流域に見た
長大なる堤防は、彼の判断によれば種族全体の労働を必要としたに相違ないが、この堤防は酋長の監督の
下に置かれて、その許可がなければ何人と雖も漁をすることを得なかった。故にこれはおそらく村落共同
体全体の財産と見做されていたのであって、おまけに漁池も猟場も分配されずに共有となっていたのであ
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る」
(第八七頁)
。
併しながら「この場合動産は相当の拡張を見、且つ重要さを増しているので、土地所有が平等であるに
拘わらず財産の一大不平等が展開し得る」
(第六九頁)
、そして「常則として食物は、吾々の認め得る限り
においては、他の動産と同じく共有と見做されていない。故にこの家内氏族は極く局限された意味でのみ
第2章 経 済 史 (一)
161
経済共同社会と呼ばれるだけである。
」
(第八八頁)
。
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その次に位する文化段階、即ち流浪的牧畜民に転じよう。これについてもグローセは次の如く説い
ている 。
「どんなに不安定な遊牧民と雖も、無制限に遠方に流浪するわけのものでなく、一般に可なり
なるほど
ハッキリ限られた地域内を移動しているのであって、この地域は彼等の種族の財産と見做され、往々更ら
たし
に個々の単独家族や氏族の間に分配されている。
」そして更らに、
「 土 地 は 殆 ん ど 牧 畜 の 全 域 に 亙 っ て「 種
族または氏族の共有」である」
(第九一頁)
。
「土地は慥かに氏族全員の共有財産であって、共有財産とし
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て氏族または酋長から各家族の間の使用のために分配されている」
(第一二八頁)。
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併しながら「土地は遊牧民の最も貴重な財産ではない。最上の財産はその畜群であって、家畜はつねに
(!)個々の家族の単独財産である。牧畜氏族は決して(!)経済共同社会や財産共同社会とは成ってい
ない。
」
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氏族が、初めて完全に共産主義的な経済共同社
最後に低級農耕民を究めよう。この場合はなるほど
会と認められてはいる。
――ここでも矢張り「併しながら」が尻にくっ付く――この場合も「産業が社会的平等を覆
併しながら
えす」
(グローセは産業といっているが、勿論商品生産のことを指しているのであって、彼はこれと産業
とを区別することを知らないのである)
。そして土地の共有に対して優位を持する動産の単独所有をつく
162
あいきょうげん
り出し、
やがてこれが共有を破壊してしまう(第一三六―三七頁)。そして土地共同社会であるに拘わらず、
「この場合にもすでに貧富の分離が存している。
」かくして共産主儀は経済史中の短い間狂言に短縮され、
経済史はやはり私有を以て始まり、私有を以て終るものとされている。果してそうであるか。
三
グローセの図式の値打ちを吟味するために、最初に事実の上に眼を転じよう。まず低級民族の経済
様式を――瞥見的にではあるが――しらべて見よう。それは如何なるものであるか?
「低級狩猟民は今日人類中の極く小部分をなしているにすぎぬ。彼等はその不完全な、且つ不生産的な生
グローセはこの低級民族を「低級狩猟民」と名づけ、それについて次の如く語っている。
産形態のために、数的微力と文化的貧弱との運命を負わされて、いたるところにおいて強大民族の前に畏
縮する羽目に陥り、かくて現在は近づき難き原始林や、荒涼たる曠野の中に僅かに余命を保っているにす
ぎぬ。こういう隣れむべき種族の大部分は矮小人種に属している。それは取りも直さず生存競争において、
強者のために最も文化に適しない地域に駆逐され、それと共に文化的停滞を運命づけられてしまった最弱
者なのである。それにも拘わらず今日もなお、ヨーロッパを除いてすべての大陸に、この最古の経済形態
の代表者を見出すことができる。アフリカは多数の矮小化せる狩猟民族を蔵している。が惜しいかな吾々
は今までのところ、この種の民族のうち只一つ、カラハリ曠野(独領南アフリカ)のブッシュマン族のこ
第2章 経 済 史 (一)
163
とをいくらか伝えられているだけであって、その他の矮小種族の生活は今なお奥地の原始林の暗闇の中に
かくされている。アフリカから東部に眼を転ずれば、まず初めにセイロン(東インド半島の南端)の内地
にウェッダという矮小狩猟民族に出会う。更らにアンダマン群島にミンコピー族、スマトラの内地にクブ
こうぼう
ー族、フィリッピンの山地にエータ族を見る。この三種族は矢張り矮小人種に属するものである。オース
トラリア大陸は、ヨーロッパ人の移住以前にはその全広袤に亙って低級狩猟種族が住んでいた。そして土
人は十九世紀後半に、移民のために沿岸地域の最大部分から駆逐されてしまったのだが、それでも今日な
お彼等は奥地の荒野にとどまっている。最後にアメリカでは、南の端から北の瑞まで、最も文化の低い幾
多の群団が散在している跡を追うことができる。ケープ・ホルン(南アメリカの南端)における風雨に曝
れている荒山には一人ならずの目撃者によって、人類中最も悲惨にして粗野な種族と説かれてきたフォイ
エルランド族が棲んでいる。ブラジルの森林一帯には不評判なボトクーデン族の外に、多分なお狩猟民族
の幾多の群団が散在しているのであるが、そのうちフォン・デン・シュタイネンの研究のおかげで、少な
*
くともボロラー族は吾々に知られるに至った。中央カリフォルニア(北アメリカの西岸)は、最も悲惨な
オーストラリア人と殆んど劣らない種々の種族を蔵している。」
* グローセ著、
『家族の諸形態』第三〇頁。
なおグローセは奇妙にもエスキモーをも最低級民族に数えているのだが、これ以上に、そういうグロ
ーセの後についてゆくわけに行かぬから、今度は右に数え上げた中の若干の種族について、社会的計
画的な労働編成の跡を探索して見たいと思う。
164
しんすい
まず最初にオーストラリア食人種族に眼を向けよう。これは幾多の学者の説によれば、人類がこの
地上に示し得る最低の文化状態にあるものである。オーストラリア先住民の間には、まず第一に、す
でに述べた男女間の原始的分業を認めることができる。即ち女は主として植物性食物や薪水のことを
受持ち、男は猟に出て獣肉の食物を受持っている。
更らに吾々はここに、「個人的食物探究」とは正反対な社会的労働の一図景を見るのであって、そ
れは同時に、最も原始的な社会において、如何に各人が心要な労働力を発揮するように留意されてい
るかということの、一つの証拠を吾々に示すものである。たとえば、
「ヘバラ種族の間では、病気で
ない限りすべての男子が食物のために骨折るものと期待されている。或る一人の男子が怠けて営舎に
あ
とどまっている時は、他の者から罵られ、辱かしめられる。男も女も子供も朝早く営舎を出て食物を
探しにゆく。充分に狩りをしたら男も女も獲物を最寄りの池に運び、そこで火をおこして獣肉を炙ぶ
る。年寄りが食物をすべてに平等に分配してから、男も女も子供も皆仲よく一緒に食事をする。食事
が終ると女が残りを営舎に運び、男は狩りをつづける。」
今度はオーストラリア先住民の間における、生産の計画をもっと仔細にしらべて見よう。この計画
は殊の外複雑であって、微細な点に亙って作られている。各オーストラリア種族は多数の群団に分れ、
この群団はそれぞれ彼等が尊崇している動物または植物に従って命名され、種族地域内の一定の限ら
れた地域をそれぞれ所有している。だから或る地域はたとえばカンガルー族に属し、第二の地域はエ
第2章 経 済 史 (一)
165
ミウ族(エミウは駝鳥に似た巨鳥である)に、第三の地域は蛇族(オーストラリア先住民は蛇類をも
食用にしている)に属するという風である。この「トーテム」は最近の科学的研究によれば、殆んど
純粋にオーストラリア先住民が食用にしている動植物だけである。こういう群団はそれぞれ酋長を有
し、酋長は狩猟を指揮命令する。さて動植物の名とそれに応ずる崇拝とは決して空虚な形式ではなく、
ぞくせい
オーストラリア先住民の各個の群団は、事実においてその群団の名となっている動植物の食い物の世
話をして、この食料の源泉の維持と続生とに心を配る義務がある。しかも各群団は自分のためにそう
めいれい
するのでなく、何よりもまず種族中の他の群団のためにそうするのである。たとえばカンガルー族は、
カンガルーの肉を自分以外の種族仲間のために供し、蛇族は蛇を供給し、螟蛉族は御馳走と見做され
ている螟蛉 【青虫】を保護するという風に。特に注意すべきは、すべてこういうことは厳格な宗教上
の風習や、壮大な儀式と結びついているということである。たとえば各群団の人間は、その群団自身
のトーテム動植物を、全然、または極く制限的にしか食ってはならぬのであって、それを他の群団の
人間のために調えなければならぬというのが、殆んど一般的常則である。たとえば蛇族の人間が蛇を
狩り取った場合には、――非常に飢えているときの外は――自分で食わずに残して、他人のために営
舎に持って帰らなければならぬ。同じくエミウ族の人間は、エミウ鳥の肉は自分では極く僅かしか食
わず、その卵と、それから薬として用いられるその脂肪とは、全然自分のものとせずに種族仲間に渡
すであろう。また他方では他の群団は、それに応じたトーテム族の許しがなければ、動物や蛇を狩っ
166
うた
たり、採取したり、食用にしたりしてはならぬ。毎年それぞれの群団によって、トーテム動植物の続
生を(唱や吹奏や種々の儀礼によって)保証するための壮厳 【荘厳】な儀式が催され、その後に初め
て他の群団がその動物なり植物なりを食うことを許される。儀式をいつ行うかという時期は酋長が取
り定め、酋長が矢張り儀式を指揮する。そしてその時期は直接に生産条件と関聯しているのである。
中央オーストラリアでは長い旱魃季があって、その季節には動植物がひどく悩むのであるが、また短
い雨季があって、それにつづいて動物の増殖が行われ、植物が繁茂する。そこでトーテム群団の大多
】はオー
数の儀式は、この好季節を前にして行われるのである。ラッツェル 【 Friedrich Ratzel, 1844-1904
ストラリア人がその最も重要な食料に応じて自分の名をつけると言われたとき、まだそれを「喜劇的
】
誤解」と見做していた 【 Ratzel"Völkerkunde" Bd.2 S.64
。しかしながら右に概説したトーテム群団の体系の
中に、何人と雖も一見して完全な社会的生産の組織を認めるに相違ない。個々のトーテム群団は明ら
かに一個の広大な体系の各要素に外ならぬ。すべての群団が一個の秩序立った計画的な全一体を成し、
各群団はまた一個の統一的指揮の下に、全く組織的且つ計画的にふるまっている。ところがこの生産
制度が宗教上の形を取って、即ち禁忌、儀式その他種々の形を取って現れるという事実は、この生産
計画が太古の時代のものであること、この生産組織は数百年、いな数千年以前にすでにオーストラリ
ア先住民の間に存していたことを証するに外ならぬものであって、そのためにこの生産組織は動かす
べからざる法式に固定する時間があったのであり、かくて本来は単に生産と食物の調達という点から
第2章 経 済 史 (一)
167
Francis
James George
】とギレン 【
Walter Baldwin Spencer, 1860-1929
i
168
れんけい
【
のみ目的に適っていたのが、やがて神秘な聯繋に対する信条と化したのである。
こういう相互関聯は、初めイギリスのスペンサー
】と に よ っ て 発 見 さ れ た の で あ る が、 も う 一 人 の 学 者 フ レ ー ザ ー 【
James Gillen, 1855-1912
】によっても確証されている。フレーザーはたとえば明白に次の如く述べている、「吾々
Frazer, 1854-1941
はトーテム的社会における種々のトーテム群団が、互いに孤立せずに生活していることを記憶しなけ
ればならぬ。トーテム群団は混交していて、その魔術的勢力を公安のために用いている。最初の制度
から言えば、カンガルー族は――吾々にして誤らなければ――外のすべてのトーテム群団の用に役立
てるためと、自分自身の用に供するためとに、カンガルーを飼ったり殺したりしていた。そして螟蛉
トーテムの場合も、鷹トーテムやその他の場合もそうだったと思う。ところが宗教上の形を取った新
制度の下においては、トーテム群団は、それぞれ自分のトーテム動物を殺したり喰ったりすることを
禁ぜられるに至り、カンガルー族はカンガルーを生産することを依然として続けはしたが、もはやそ
れは自家用のためではなくなった。エミウ族は依然としてエミウ鳥の増殖に携ったが、彼等自身はも
はやエミウ鳥の肉を味わうことを許されず、螟蛉族は引きつづき螟蛉の繁殖のために魔術を行ったが、
この御馳走は爾来他人の胃袋のために宛てられていたのである。
」一言
i でいえば、今日吾々に対して礼
拝の制度となって現れているのは、すでに太古の時代においては、組織化された社会的生産と広汎な
からの孫引きらしい。
Bódog Somló, "Der güterverkehr in der urgesellschaft"
i
る分業との単なる制度だったのである。――次にオーストラリア先住民間の生産物の分配に眼を転ず
るなら、吾々は何処よりも精細にして複雑な制度を認める。猟で獲た獣、発見された鳥類、採取され
た一掴みの果実は、ひとつ残らず堅固な規定に従って、計画的に社会のあれやこれやの成員の消費に
向けられる。たとえば女が採取した植物性の食物は、母とその子供とに属する。男の猟の獲物はそれ
ぞれ規定に従って分配される。この規定は各種族によって異なるが、すべての種族の間に極く詳細に
定められている。たとえば主としてヴィクトリア地方において、オーストラリア西南部の民族を観察
】は、次の如き分配方法を観察している
したイギリスの学者ホウィット 【 Alfred William Howitt, 1830-1908
――
「一人の男が営舎から或る程度の離れたところで、一匹のカンガルーを殺す。他の二人の男が彼の
あぶ
連れとなっているが、その場合にカンガルーを殺す手伝いをするようなことはしない。営舎から可な
り離れているので、カンガルーは持ち帰る前に炙られる。最初の男が火を焚きつけ、他の二人が獣肉
すね
しり
もも
を切り、三人が臓腑を焼いて食う。その分配は次のように行われる、即ち第二および第三の男は、そ
の場に居合わせ、且つ解剖に手伝ったために、一本の脛と尻尾と、それから臀肉の一部の附いた片腿
とを受取る。第一の男はその残りを受取って営舎に持って帰る。頭と背肉とはその男の妻が妻の両親
オーボスム
に運び、その残りがその男の両親の分となる。彼がちっとも肉をもっていない場合は自分の分として
少しばかりを受取るのだが、たとえば一疋の袋鼠をもっている場合は、すっかり譲ってやる。彼の母
第2章 経 済 史 (一)
169
が魚を捕った場合は、彼にそのうちの一部分を与えるだろうし、でなければ舅姑が自分の分から幾分
を分けてやる。また舅姑は彼にその翌朝も幾分を与える。子供はすべての場合に祖父母によって充分
あてがわれる。」【以上も孫引き。】或る種族では次のような規定が行われている、即ちカンガルーなら
カンガルーのうち、殺した当人が臀股の肉を父は背肉と肋肉と肩と頭とを受取り、母は右の腿を、弟
は左の前脚を、姉は背中に添った一切れを、妹は右の前脚を受取る。父は尻尾と背中の一切れとを更
らに自分の親に与え、母は腿の一部と脛とを自分の親に与える。熊は猟者自身が左の肋肉を受取り、
父は右の後脚を、母は左の後脚を、兄は右の前脚を、弟は左の前脚を受取り、姉は背肉を、妹は肝臓
を受取る。右の肋肉は父の兄弟のものとなり、側肉は母方の叔父に、そして頭は若い男たちに与えら
れる。
これに反して他の種族では、手に入れた食料は、つねにすべてその場に居合わせた者の間に平等に
分配される。たとえば一匹のワラビー獣が殺され、その場合にたとえば十人か十二人の人間がいると
すれば、各人がその獣の一部分を受け取る。猟者から自分の分を与えられないうちは、そのうちの何
人と雖も、その獣にも、その肉片にも手を触れない。その肉が炙られてしまった時にも、獣を取った
人間が偶々その場にいない場合は、何人と雖もその人間が戻ってきて、それを分配しないうちは手を
しんげん
触れない。女は男と等しい部分を受取り、子供は両方の側から注意深くあてがわれる。
言の形で考え
分配方法は各種族によって種々異なってはいるが、矢張り儀式の形を取って現れ、箴
170
られているという点に、その古代的性質を現している。即ち数千年も昔の伝統がそういうものの形を
取って現れているのであって、それは各時代の人々によって、先祖代々伝わってきたもの、犯すべか
らざる戒律と見做されて、厳格に守られているのである。ところがこの制度は最も明瞭に二つのこと
を示している。これは第一に、おそらく最もおくれている人種たるこのオーストラリア先住民の間に
は、生産ばかりでなく消費も、共同の社会的な事柄として計画的に編成されているということ、第二
は、この計画は明らかに社会の全員に対する配慮と保護とを眼中においていることを示しているので
あって、しかもそれは各人の食物の欲望と給付力とに応ずるように行われている。即ちあらゆる場合
に第一に老人が配慮を受け、そしてまた老人は、たとえば母なら母は幼児のために世話をするという
ようになっている。このようにオーストラリア先住民の全経済生活――生産、分業、食料の分配―
―は、極めて厳格に計画的に――太古の時代以来堅固な規定となって――編成されているのである。
【 Ratzel"Völkerkunde" Bd.1, S. 333
】
今度はオーストラリアから北アメリカに転じよう。ここでは西部にインディアン族が極く僅かばか
り残っていて、カリフォルニア湾のチブロン島と近接大陸の狭小な地帯とに住んでいるが、この種族
は世界から全然遮断されているのと、外人に対して敵意を有しているのとで、その太古からの風俗を
大部分純粋のままに保存してきている点で、特別の興味を呈するものである。一八九五年に合衆国
の学者が、この種族の研究のため探険を企て、その成果はアメリカ人マックジー 【 William John McGee,
第2章 経 済 史 (一)
171
】によって誌されている。それによると、セリ・インディアン種族――目下極めて稀少な此
1853-1912
の小民族はかく呼ばれている――は四群に分れ、その各々がそれぞれ一動物の名称を帯びている。そ
のうちの最も重要な二群は、ペリカン群団と海亀群団とである。各自のトーテム動物に関する群団の
風俗、習慣、戒律は極秘に附せられ、殆んど何も確かめることができぬ。しかし同時に吾々が、この
インディアン種族の食物は、主としてペリカン鳥の肉、海亀、魚類、その他海棲動物から成ることを
知り、そして右に述べたオーストラリア先住民の場合のトーテム群団の制度を想い起すなら、矢張り
このカリフォルニアのインディアン種族の場合にも、トーテム動物に対する秘密の礼拝が行われ、且
つ種族がそれぞれトーテム群団に分かれているのは、分業をもって厳密に編成された太古の生産制度
が、宗教的象徴に化石して残っていることを現しているのに外ならぬと断言して差支えあるまい。こ
の説を確かめるものは、たとえばセリ・インディアンの最高の守護神がペリカン鳥だという事情であ
る。この鳥こそは同時にまた、この種族の経済的存在の基礎を成すものに外ならぬのである。ペリカ
ンの肉は主要食物であり、ペリカンの皮は衣服や寝具に用いられ、盾に作られ、また外人に対する最
も重要な交易品となっている。いまセリ種族の最も重要な労働形態、即ち狩猟は、今日にいたるまで
厳格に規定されている。たとえばペリカン狩りは、立派に編成された共同事業であって、
「少なくと
も半儀式的な性質のもの」である。ペリカン狩りは一定の時期に行うことを許され、しかも孵化期に
は、この鳥は後継ぎが絶えないように保護されている。「屠殺がすむと(この鈍重な鳥を大群的に打
172
ち殺すことは決して難事ではない)今度は一同の牛飲馬食が始まり、餓え切った家族は肉の柔かい部
分を無我夢中で貪り、大騒ぎで酒を飲みつづけ、そのままそこへ寝込んでしまう。翌日になると女は
鳥の死骸を探し廻る、尤も鳥は少なくとも羽毛が傷付いているのだが、
女は細心にその皮を剥ぎとる。
」
しるし
この饗宴は幾日もつづき、それに伴って色々の儀式が行われる。こういう「牛飲馬食」
、こういう「無
我夢中の貪食」――おまけに大騒ぎ、――ビュヒャー教授ならこれを純動物的ふるまいの徴候だと極
めるだろうが、実際上には――取りも直さずその儀式的性質がこれを充分に証明しているように――
実に整然と編成されているのである。即ち狩猟の計画性に伴って、分配および消費の厳格な規定が行
われている。共同飲食は一定の順序を伴って行われる。即ち第一番に酋長、同じく狩りの指揮者、次
に残りの戦士が年齢順に並び、その次に最年長の婦人、それからその妹たちが年齢順に並び、最後に
子供がこれも年齢順に並ぶ。乙女は、殊に年頃になったものは、
婦人連の好意によって優待される。
「家
族または氏族の各員は、必要な衣食を要求することができる、そしてこの場合そういう必要を充たす
ように配慮することが、他の各人の仕事である。この義務の程度は、一部は近隣の度合いに合致し、
最も近い人間が一番多く義務を負うのだが、主として群団における地位と責任(普通に年齢と一致す
る)が規準となる。食事の場合には下座の人々に充分に食物が残るように配慮するのが、上座の人々
の義務であり、そして順々にこの義務は、無力の小児の利益も配慮されるような具合に行われてゆく。」
【以上も前掲の孫引きらしい。】
第2章 経 済 史 (一)
173
【
南アメリカについては、ブラジルの野蛮種族、ボロラ族に関するフォン・デル・シュタイネン教授
しゅろ
Karl
】の証言がある。ここでも第一にまず典型的分業が行われている。即ち婦人は
von den Steinen, 1855-1929
かめ
植物性食物を給し、尖った捧で根果を求めたり、敏捷に棕櫚の樹に攀じ登ったり、胡桃を拾い集めた
り、稍で椰子菜を摘んだり、果実を探したり何かする。それからまた植物性食物を調理したり、甕を
拵えたりもする。家に帰った時は男に果実や何かを与え、獣肉の残ったのを受取る。分配と消費は厳
密に規 定 さ れ て い る 。
シュタイネンは言う、「礼儀作法はボロラ族が共同で食事をすることを妨げなかったので、その代
わりに彼等は別に不思議な習慣を有していた。この習慣は、乏しい獲物に頼っている種族は、何等か
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の方法によって分配の際の喧嘩を予防する手段を探し出さなければならぬことを、明瞭に物語るもの
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である。そこでまず第一に実に奇妙な規定が生じた。即ち、射殺した当人が決して獲物を焼かずに、
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おうむ
他人に遣ってそれを焼かせるのだ! 貴重な毛皮や牙に対しても、そういう予防策が講ぜられた。ジ
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ャグアル豹が射止められると、一大盛宴が催され、肉は食われる。だが毛皮と牙は猟者が受取らずに、
最近に物故した人間の最も近い親族に与えられる。猟者は尊敬される、そして各人からアララ鸚鵡の
羽根(ボロラ族の第一等の装飾品)と、オアス紐で飾った弓を贈物として受ける。しかし不和を防止
する最も重要な策は、医者(またはヨーロッパ人がこういう場合に用いるのを常とする言葉で言えば、
魔術者または祭司)の役目の一部となっている。」これはどんな動物でも殺す場合に立会わなければ
174
ならぬ、そして屠獣でも植物性の食料でも、一定の儀式を行って後に初めて分配に委される掟である。
狩猟は酋長の懸け声と指揮との下に行われる。青年並びに未婚の男子は共同に「男部屋」に住み、そ
こで共同に働き、武器や道具や飾りを拵えたり、紡いだり、相撲を取ったり、また極く厳格な規律と
ことごと
秩序とを以て、前に述べたような風に共同に食事もする。また曰く、
「成員の一人が死ぬと家族は大
した損害を受ける。けだし死者が使っていたものは、悉く焼き捨てられるか、河に投げ込まれるか、
骨籠に填められるかして、死者が戻ってくる機因を無くするようにされるからである。それから小舎
が残る隅なく掃除される。ただ後に残った者は色々進物を贈られ、弓矢も作って貰える。そういうわ
けでジャグアル豹が殺された場合には、毛皮は最近に死んだ婦人の兄弟や、最近に死んだ男子の叔父
【 Steinen"Unter den Naturvölkern zentral-brasiliens" S.502
】
などに与えられる風習となったのである。
」
このように、
生産の場合にも分配の場合にも、一定の計画と社会的編成とが行われている。
【フエゴ
アメリカ大陸の最南端までくると、そこには低級な自然民族の一つ、フォイエルランド族
島の先住民ヤーガン族】を 見 出 す。 こ れ は 南 ア メ リ カ 南 端 に あ る 不 毛 の 群 島 に 住 ん で い る の で あ っ て、
この民族のことが最近に伝えられたのは十七世紀のことであった。当時フランス人の海賊が永年南洋
で仕事をしていたのに刺激されて、一六九八年にフランス政府は遠征隊を南海に派遣した。それに加
った技術家の一人が当時の日記を残しているが、それにはフォイエルランド族について次の如き貧弱
な報道 が あ る 。
第2章 経 済 史 (一)
175
「各家族、即ち父と母と、未婚の子供とは、二艘の独木舟せもっていて、必要なものを悉くそれで運ん
でいる。夜になった場合はそこで寝る。有合せの小屋というものはないので、家族がそれを建てる。――
彼等は真中に一寸した火を焚きつけ、それを囲んで草の上に入り乱れて寝ころぶのだ。腹がへってくると
貝類を焼き、その中の最年長者がこれを均等に分配する。男の主要な仕事と義務は、小屋を建てること、
やじり
猟をすること、魚を捕ることで、女は独木舟の世話と貝類の調理とを受持つ。……彼等は鯨獲りを次の順
で器用に尖らしてある大きな箭を打ち込む。…‥獣か鳥を殺したり、普通彼等の食物となっている魚貝を
や
序で行う。まず五六艘の独木舟で一緒になって海に出て、鯨を見付けたら、これを追跡して、鏃を骨か石
*
捕ったりした場合は、すべての各家族に分配するのであって、彼等が生活資料を殆んど悉く共有している
という点は、吾々に優っている点である。
」
* エ ム・ ジ・ マ ル セ ル 述、 一 八 九 〇 年 パ リ に お け る ア メ リ カ 関 係 者 国 際 大 会 第 八 回 会 期 報 告、 パ リ、
一八九二年刊、第四九一頁。
今度はアメリカからアジアに転じよう。ここではアンダマン群島(ベンガル湾上)のミンコピーと
いう矮小種族のことを、イギリスの探検家、イー・エッチ・マンが次の如く伝えている。氏はこの種
族の間に十一年を過ごし、この種族のことについてはヨーロッパ人中最も精密な知識を有している。
――
「ミンコピー族は九つの種族に分れ、各種族は、十人乃至五十人より成る幾多の小群団に分れているが、
176
群団は往々三百人位の場合もある。各群団はそれぞれ首長を有し、各種族全体にも一人ずつ酋長がいて、
各群団の首長の上に位している。だがその権力は極く局限されていて、自分の種族に属する全群団の会議
を催すことが、その主な仕事になっている。それに酋長は狩猟、漁撈の場合や移住の時に引率者となり、
また争いの仲裁者となる。各群団内には共同労働が行われ、しかも男女間の分業を伴っている。即ち男は
狩り、魚捕り、蜂蜜の調達、独木舟、弓矢、その他の器物の製造を受持ち、女は薪水を運んだり、食用の
植物を取ってきたり、装飾品を拵えたり、料理したりする。子供や病人や老人を世話したり、小屋に火を
絶やさないようにするのは、男女を問わず家に残っている者の義務である。労働能力のある人間は、いず
れも自分と群団とのため働く義務があり、また常に食糧が貯えられてあるように注意して、友人が泊った
場合にそれで饗応するのが普通である。幼児や病人や老人は特別に一般の世話を受け、その日常の欲望を、
他の一般人よりも良く充たしてやるようになっている。
食事については一定の規則ができている。既婚の男は、同じく既婚の男か男の独身者とだけ、食事を共
にすることが許され、余程年を取っている場合は別として、自分の一家の婦人以外には、如何なる婦人と
も一緒に食事をすることを許されない。未婚者は別々に――青年は青年、娘は娘という風に――食事をす
ることになっている。
ろ
食事の調理は普通に女の義務で、男の留守の間に用意するのを常とする。だがお祭りの当時や、特別に
沢山の収獲のあった狩猟の後などのように、女が普通以上に薪水を調達することが必要な場合は、男の一
人が代って料理を受持ち、食事が半分出来上ると、これを出席者に分けて調理を託し、各自が自分の爐で
第2章 経 済 史 (一)
177
料理をつづける。酋長が出席している場合は、最初の分を、しかも一番良いところを受取り、その次に男、
それから女と子供という順になる。あまったものは分配者のものとなる。
武器や器物やその他の品物を製造する場合には、ミンコピーは著しき忍耐と非常な勤勉とを現し、一片
の鉄を石斧でコツコツ加工して、槍の穂先きや箭の根を拵えたり、一挺の弓の形を直したりすることに、
そし
何時間もかかり切りになっていることができる。そんなに一生懸命になる必要は差当り少しもない場合に
も、こういう仕事に専心している。彼等を我利々々だなどと決して詆るわけには行かぬ――というのは、
彼等は自分の持っている中で一番よいものを屡々人に呉れる(勿論「分配する」というべきを、ヨーロッ
パ式に誤解して、
「呉れる」という言葉がここに使ってあるのだ)
、そして上出来の品物を自分の用に取っ
からの孫引きらしい。】
Somló, "Der güterverkehr in der urgesellschaft"
て置くようなこともしなければ、自分用のものだからとて特に念入りに拵えるようなこともしないからで
ある。
」【前掲の
以上の幾多の例に、もう一つ、アフリカの野蛮民族の生活を調べて、おしまいにしよう。ここでは
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普通にカラハリ荒原のブッシュマン矮小種族が、人類文化の最低の状態の例を示している。ブッシュ
マン族については、ドイツ、イギリス、フランスの研究者は、この種族が群団を成して生活し、各群
団が一個の共同の経済生活を営んでいることを異口同音に伝えている。これらの小団体の中には、生
ふくろ
活資料や武器や何かについても完全な平等が行われている。彼等があちこち歩き廻って見付けた食料
は、
嚢に容れて、営舎に持って帰ってあける。「そこで一日の収穫がころがり出す――根類、
球茎、
果実、
178
さいちょう
とかげ
螟蛉、犀鳥、大蛙、亀、蟋蟀 【コオロギ・キリギリス・バッタの類】
、これに蛇や蜥蜴などさえも出てくる」と、
ドイツ人パッサルゲは語っている。ついで獲物は全員の間に分配される。「果実、根類、球茎などの
植物や小動物を、定った仕事として採集するのは女の役目である。女はそういうもので群団を養うこ
とになっており、子供がその手伝いをする。男も偶然そういうものが見付かった時は持って帰るが、
しかし採集は男にあっては全く余事である。男子の役目は第一に狩猟である。
」狩りの獲物は群団が
共同で食う。他の仲間の群団の者で旅に来ているブッシュマンも、共同に爐に坐って食物を与えられ
る。加えるにパッサルゲは、ブルジョア社会の精神的眼鏡をかけた立派なヨーロッパ人として、ブッ
シュマンが何でも彼でも、どんな残り物に至るまでも他人と分けている、その「過度の徳性」に、彼
等の文化的無力の原因を認めている!
かくて最も原始的な民族、しかも定住および農耕にはまだまだ至らないで、謂わば経済的発展の連
鎖の始点に立っているような民族は、直接の観察によって吾々に知られている限りにおいては、グロ
ーセ氏の図式におけるとは全然別個の事情を示していることを知る。「分散」や「分立経済」ではなく、
共産主義的組織の典型的特徴を伴える、厳格に規定された経済的共同社会を、吾々はいたるところに
見るのである。これは「低級狩猟民」に関するものである。「高級狩猟民」に関しては、モルガンが
詳細に描いているイロクォイ族の場合の氏族経済の図景がすべてを語っている。
それに牧畜民もまた、
グローセの大胆な主張の嘘っぱちであることを示す充分な材料を供している。
第2章 経 済 史 (一)
179
故に農業マルク組合は、吾々が経済史において出会う唯一の原始共産主義組織体ではなく、単にそ
の最高度に発達したものであり、最初の原始共産主義組織体ではなく、最後のものなのである。この
マルク組合そのものは農耕の産物でなく、測るべからざる大昔の共産主義の伝統の産物なのであって、
この共産主義は氏族組織の胎内で生れ、最後になって農業の上に適用され、この農業において発達を
遂げて、共産主義自身の没落の期が熟したのである。このように、事実はグローセの図式を徹頑徹尾
確証していない。いま共産主義は経済史の中に一寸現れて、すぐさま引込んでしまうという奇妙な現
象に対する説明を求めるなら、グローセ氏は機智に富んだ「唯物論的」説明を与えてくれる。曰く、「氏
族が他の文化形態の民族におけるよりも、低級農耕民の間にはるかに多くの確実性と権力とを獲得し
たのは、氏族はこの場合に初めて住居、財産、経済の共同社会として現れるものだからである。この
ことは吾々が事実において認めてきたところである。併しながら氏族がこの場合にそういう形を取っ
たということは、矢張りまた人間を糾合する農業経済の本質から説明されるものであって、これに反
)これで見れば、
して狩猟および牧畜は人間を分散させるものである」
( 前掲書 【グローセ】第一五八頁。
労働の場合に人間が「糾合」されているか、「分散」しているかということが、共産主義が支配して
いるか、私有制度が支配しているかを決定する。ただ惜しむらくはグローセ氏は、
人々が一番よく「分
散」されるところの林地や草地が、一番長く――所によっては今日にいたるまで――共有財産となっ
ていたのに、何故に人々が「糾合」されるところの耕地が一番早く私有に移ったか、その理由を吾々
180
に説いて聞かせることを忘れた。そして更らに全経済史のうちで一番多く人間を「糾合」するところ
の生産形態、即ち近代的大工業が、何故に全然共有財産を喚び起さずに、私有財産の最も赤裸々な形
態たる資本家的財産を喚び起したかを、吾々に説明することを氏は忘れたのである。
かくて知る、グローセの「唯物論」なるものは、矢張りまた次の真理を証明する一つの証拠に外な
らぬ。即ち、歴史を唯物論的に理解するためには、単に「生産」と社会の全生活に対するその重要性
とを云々するだけでは足りないこと、即ち史的唯物論は、そのもう一つ別の方面たる革命的発展思想
から切り離してしまえば、――マルクスの場合には探究的精神の天才的羽ばたきだったとは反対に、
――不細工な松葉杖となるということである。
しかしながら何よりもまず、グローセ氏は生産だの、その形態だのと頻りに口にしながら、その実
生産関係という最も根本的な概念について、一向ハッキリしていないことが示されている。氏が第一
に生産形態を、狩猟、牧畜、農耕というような純外部的な範疇と解していることは、すでに吾々の見
た通りである。そこでこういう各「生産形態」内において、所有形態の問題――即ち共有財産か家族
有財産か私有財産か、そして誰に財産が属しているかの問題――を決定するために、グローセは、一
方に「土地財産」、他方に「動産」という範疇を分けている。そして氏はこれらの財産が種々の所有
者に属しているのを見て、「動産」と不動産の土地財産と、いずれが「重要」であるかを問題として
いる。そこでグローセ氏は氏にとって「重要」に見える方が、社会の所有形態を決定するものと見做
第2章 経 済 史 (一)
181
している。たとえば氏は高級狩猟民の場合には「動産はすでに重要性を獲ていて」土地財産よりも重
要であると断定し、そしてその場合動産は私有財産たる食料なのだから、氏は明白に土地の共有が行
われているにも拘わらず、この場合何等共産主義経済を認めないのである。
しろもの
さてこういうような純外部的特徴に基づく区別――動産および不動産というような――は、生産に
とって毫も意義を有するものでなく、その外のグローセ式区別、即ち男性支配と女性支配とを以てす
る家族形態の区別や、分散作用と糾合作用とを以てする生産形態の区別と略々同じ程度の代物である。
「動産」というものは、たとえば食料から成る場合もあり――もしくは原料、或は装飾品と儀礼用品、
乃至は道具から成る場合もある。それは社会自身の使用のために拵えられることもあり、交換のため
に拵えられる場合もある。それぞれの場合によって、「動産」は生産関係に対してそれぞれ異った意
義を有するだろう。然るに一般にグローセ氏は、民族の生産関係、所有関係を――この点において彼
は今日のブルジョア学問の典型的代表者なのである――食料その他最も広い意味での消費品によって
判断している。氏は消費品が個人によって所有され、使用されているのを見出したとすると、氏にと
っては、その民族の間に個人所有が支配していることが証明されたことになる。こういうのが、即ち
今日原始的共産主義が「科学的」に反駁される典型的方法なのである。こういう考え深い立場からす
れば、東洋に屡々見るところの、一緒に托鉢をして一緒に施し物を食う乞食の共同社会も、盗んだも
のを仲よく味う盗賊の一団も、いずれも「共産主義経済組合」の胚芽となって現れる。これに引きか
182
え、土地を共有し、共同で耕作はするがその成果は家族別に消費するマルク組合は「極く局限された
意味においてのみ経済共同社会」と名づけ得られるというのだ。約言すれば、生産の性質にとって決
定的なものは、この見解に従えば消費資料の所有権であって、生産手段のそれではなく、即ち分配の
条件であって生産のそれではない。ここに吾々は全経済史の理解にとって根本的に重要な、経済学的
理解の基点に到達したのである。これからはグローセ氏のことは運命のままに委ねて、一般的にこの
問題に注意を向けよう。
四
誰でも経済史の研究に入った人、社会の経済関係が歴史的発展のうちに取ってきた種々の形態を学
び知ろうと欲する人は、この歴史的発展の試金石および尺度として、経済関係の如何なる特徴を選ぶ
べきかを、何よりもまずハッキリ知っていなければならぬ。或る一定の領域における夥しい現象の中
に針路を見出し、特にその歴史的順序を見付け出すためには、謂わばそれらの現象の運動の中心であ
り、その内部的枢軸となっているところの契機を、充分明瞭に知っていなければならぬ。たとえばモ
ルガンは、文化史の尺度として、並びにその場合場合の文化史の高さの試金石として、一定の契機―
―生産技術の発達――を選んだ。それによって彼は事実において、人類の文化的存在全体の、謂わば
根を握ったのである。吾々の目的たる経済史のためには、モルガンの尺度だけでは充分でない。社会
第2章 経 済 史 (一)
183
的労働の技術は、外界的自然に対する人間の支配の、その場合における段階を精確に示すものである。
生産技術の完成が一歩進んだのは、同時にまた物理的自然に対する人類精神の征服が一歩進んだこと
であり、従ってまた一般的人類文化の発達が一歩進んだことである。しかしながら特に一社会におけ
る生産の形態を研究せんと欲するなら、自然に対する人間の関係だけでは充分でなく、その場合吾々
の関心するところは、第一番に人間労働のもう一つの方面――即ち、労働の場合における、人間相互
の関係――である。謂いかえれば、吾々の関心するところは、生産の技術ではなく、生産の社会的編
成である。或る原始的民族が陶工旋盤を使用し、製陶を営んでいるのを吾々が知っているとすれば、
これはその民族の文化的階段を知る上に、極めて大事な点である。モルガンは技術上におけるこうい
う重大な進歩を以て、彼が野蛮期から未開期への過渡と名づけている一文化期全体の境界石としてい
つうぎょう
る。しかしこの民族の生産形態については、右に挙げただけの事実を基礎としてはホンの僅かしか判
断を下すことができぬ。それには吾々はまず幾多の事情に通暁していなければならぬ。たとえば、そ
の社会においてどんな人々が製陶に従事しているか、社会に陶器をあてがうのは社会の全員か、それ
ともその一部分、たとえば婦人という一つの性だけに限られているか、製造された陶器は共同体、た
とえば村落自身の用に供せられるか、それとも他との交換に供せられるか、製陶に従事している各人
の生産物は、単に当人によってのみ使用されるか、それとも造り出された物全体が、共同に社会の全
員の用に供せられるか、というような事情である。
184
一社会における生産形態の性質を決定し得るものは、分業、消費者間における生産物の分配、交換
というような種々様々な社会的関係であることを知る。ところが経済的生活のこういう方面それ自身
は、すべて生産という決定的要因によって規定されているのである。生産物の分配も、交換も、それ
自身は結果的現象に外ならぬことは一見して判明する。生産物が消費者の間に分配され、交換され得
るためには、まず初めに生産物がつくり出されていなければならぬ。故に生産そのものが、社会の経
済的生活の、第一の且つ最も重要な契機である。しかるに生産の過程においては何が決定的な事柄か
といえば、労働する者がその生産手段に対して如何なる関係に立っているかという点である。各労働
は一定の原料、一定の仕事場、それから――一定の道具を要する。人間社会の生活において、労働の
道具とその製造とが如何に大きな意義を有しているかということは、
すでに吾々の知れる通りである。
ところが、こういう道具とその他の物的生産手段とを以て労働を行い、社会の生活に必要な、極く広
い意味での消費資料をつくり出すためには、右に加えるに人間の労働力が必要である。そこで、労働
する人間がその生産手段に対して有する関係が、生産の第一問題であり、その決定的要因なのである。
但し茲に労働する人間とその生産手段との関係という意味は、技術上の関係をいうのでもなければ、
人間がそれを以て労働するところの生産手段の完成の程度が高いか低いかということでもなく、人間
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が労働する場合の順序方法のことでもない。吾々の意味するところは、人間労働力と物的生産手段と
の社会的関係である。即ち生産手段が何人に属しているかという問題である。時代の変遷につれてこ
第2章 経 済 史 (一)
185
の関係は種々様々に変ってきた。だがそれにつれて生産の全性質が変化し、
生産物の分配、
分業の成態、
交換の方向と範囲、最後に社会の物質的および精神的生活全体がその都度変化したのである。労働す
る者がその生産手段を共有しているか、それとも個人が各自に所有しているか、それとも個人がそれ
を所有していないか、それとも労働する人間が生産手段と一緒に、それ自身生産手段として、労働し
ない人間の所有物となっているか、不自由民として生産手段に縛りつけられているか、それとも生産
手段を所有せざる自由人として、自分の労働力を生産手段として売ることを余儀なくされているか―
―その各々の場合によって、或は共産主義的生産形態が生じ、或は小農的および手工業的生産形態が
生じ、或は奴隷経済、或は隷民制度の上に立つ荘園経済、或はまた賃銀制度を伴える資本主義経済が
生ずる。そしてこれらの経済状態の各々は、それぞれ独特の様式の分業、生産物の分配、交換、社会
的、法制的、精神的生活を伴っているのである。
人類の経済史においては、労働する者と生産手段との関係が根本的に変化するにつれて、その都度、
他のすべての方面、即ち経済的、政治的、精神的生活もまた根本的に変化し、それに伴って全然新た
な社会が発生するということで充分である。社会の経済的生活のすべてこれらの方面の間には、慥か
に間断なき相互作用が成り立ってはいる。生産手段に対する労働力の関係が、分業、生産物の分配、
交換に影響を与えるだけでなく、後者もまた前者の生産関係に反作用するものである。しかしながら
作用の仕方が異なっている。各経済段階に主として行われている分業の様式や、富の分配、就中交換
186
は、労働力と生産手段との関係から生じたものでありながら、この関係を漸次に覆えす場合もある。
しかしながらこれらのものの形態は、労働力と生産手段との関係が廃れてきて、この関係に或る根本
的変革、明白な革命が起った場合に初めて変化するのである。このように、労働力と生産手段との関
係におけるその場合場合の変革は、経済史の途上に誰にも分る大きな里程標を形づくっているのであ
って、この変革は人類社会の経済的道程における自然的時代を劃するものである。経済史を理解する
ためには、その歴史の本質的なものを明らかにして、それを非本質的なものと区別することが如何に
重要であるかは、今日ドイツのブルジョア経済学において最も汎く行われ、最も賞讃されているとこ
ろの、経済史の分け方を吟味すれば分かる。というのはビュヒャー教授の分け方を指すのである。ビ
ュヒャー教授はその著『国民経済の発生』の中で、経済史を各時期に正しく分けることが、経済史を
理解する上に如何に重要であるかを論じている。しかるに彼はいつもの癖として、直ちに問題に入っ
て自分の合理的研究の業蹟を吾々に示すことをせずに、まず最初に自分のすべての先行者の不足の点
を満足気に並べ立てて、彼自身の業蹟を正当に評価させる準備を与える。
「ずっと遡った時期における一民族の経済を理解せんと欲する場合に、経済学者が提出すべき第
曰 く、
一の問題は次の如きものであろう。その経済は国民経済であるか? その経済の諸現象は今日のわが流通
経済のそれと同じ性質のものであるか、それとも両者は互いに本質を異にしているか? しかるにこの問
ないがしろ
題は、概念的分析、心理的分離的演繹の手段を以て、過去の経済的現象を研究することを 蔑 にしない場
第2章 経 済 史 (一)
187
合にのみ、解決され得るものであって、これらの手段は昔の「抽象」経済学の巨匠の手にあって、現代の
経済に対しても見事に保証されてきたものである。
こ
近来の「歴史」学派には次の非難を惜しむわけには行かないだろう、即ち彼等はこの種の研究によって
過去の経済時期の本質に徹することをせずに、近代国民経済の諸現象を捨象せる在り来たりの範疇を、殆
んどお構いなしにそのまま過去の時代に移している点、乃至は流通経済上の概念を捏ね廻して、とうとう
無理やりにすべての経済時期に適応させる点である。……こういう点は、現代の文化民族の経済様式と、
過去の時期または文化的に貧弱な民族の経済との区別を特徴づけている方法に、一番明瞭に認められる。
謂わゆる発展段階なるものを組立て、経済史の発展道程を場当り的に総括しているために、そんな風にな
*
るのである。……すべて従来のこの種の試みは、事物の本質に侵入することなく、皮相に固執していると
」
いう不都合を犯している。
* ビュヒヤー著『国民経済の発生』【『国民経済の成立』】第五四頁。
「この全発展を或る一つの視点から把握せんとするなら、そういう視点は、吾々を国民経済の本質的現象
そこでビュヒャー教授は如何なる経済史の分け方を提出しているか? それを聴いて見よう。
の中に導き入れると同時に、過去の経済時期の組織上の契機を闡明してくれるものでなければならぬ。そ
れは財の生産が財の消費に対して有する関係、もっと精確にいえば、財が生産者から消費者の手に届くま
でに通過するところの道程の長さに外ならぬ。この視点からすれば、すべての経済的発達を――少なくと
も充分な精密さを以て歴史的に辿り得るところの中欧および西欧の諸民族に対して――次の三つの段階に
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一、自足的家内経済の段階(純自己生産、無変換経済)
。この場合は財は、それがつくり出された場合
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分つことができる。
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と同一の経済内で消費される。
二、都市経済の段階(注文生産、または直接交換の段階)。この場合は財は、生産する経済から消費す
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る経済に直接に移ってゆく。
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*
三、国民経済の段階(商品生産、財の流通の段階)
。この場合は財は、消費されるに至るまでに常則と
」
して幾多の経済を通過しなければならぬ。
0
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* ビュヒャー著『国民経済の発生』【『国民経済の成立』】第五八頁。
この経済史の図式はまず第一に、それに包含されていないものがある点で興味がある。ビュヒャー
教授にとっては、経済史はヨーロッパ文化民族のマルク組合を以て始まる。即ちすでに高級農耕が行
われている時代から始まるのである。高級農耕に先立つ数千年間に亙る原始的生産関係、今日なお数
多的民族がそういう状態にあるところの生産関係を、ビュヒャー教授は周知の如く「非経済」
、即ち
彼の有名な「個人的食物揉究」および「非労働」の時代と名づけている。かくしてビュヒャー教授は
経済史を、原始共産主義の最も晩期の形態から始めている。即ち定住と高級農耕とのために、不可避
的に原始共産主義が瓦解して、不平等、搾取および階級社会へ移り行く兆が現れていた時期から始め
ているのである。グローセは農業マルク組合以前の全発展時期における共産主義の存在を反駁したが、
第2章 経 済 史 (一)
189
ビュヒャーはそういう共産主義の時期そのものを経済史から抹殺しているのである。
自足的「都市経済」という第二段階も、シュルツの口吻でいえば、矢張り吾々がライプチヒ大学教
授 【=ビュヒャー】の「天才的眼光」に負うところの劃期的発見である。たとえばマルク組合の「自足
的家内経済」は、すべて自己の経済的欲望をこの家内経済内で充たしている人々の一団を包含してい
るという点に特徴があるとすれば、中欧および西欧の中世都市――というのは、ビュヒャーの「都市
経済」はそれを指すだけなのだから――の場合はこれと正反対である。中世都市には何等共同経済が
存せず、――ビュヒャー教授自身の口吻でいえば――ギルド手工業者の職場および世帯と同じ数の「経
済」があるのであって、このギルド手工業者はそれぞれ――ギルドおよび都市の全般的規定の下にで
はあるが――自己のために生産し、販売し、消費していた。だが一般としてはドイツでもフランスで
も、中世ギルド都市は決して「自足的」な経済領域を成してはいなかった。けだしこれらのギルド都
市の存立は、取りも直さず田舎との相互的交換を基礎としていたからであって、田舎から食料と原料
を仕入れ、田舎のために手工業品を製造していたのである。ビュヒャーは各都市の周囲に一定の範囲
の田舎の圏を劃し、これを「都市経済」の中に加えて、都市とこの田舎との交換を、単に都市近郊の
農民との交換という風に、自分に都合のよいように変えている。都市商業の最上の顧客だった富裕な
封建領主――彼等は一部分は都市を遠く離れた田舎に散在していたが、一部分は都市に――殊に帝領
都市および寺領都市に――本邸を構え、しかもそこで一個の独特の経済領域を形づくっていた、そう
190
いう封建領主の荘園をビュヒャーは全然考慮の外に置き、同様にまた中世の経済関係、殊に都市の運
命にとって最大の意義を有していた外国貿易を度外視している。だが中世都市の実際の特徴は何かと
いえば、中世都市が商品生産の中心点だったことであって、ここに初めて商品生産が――限られた地
域上ではあるが――支配的な生産形態となったのであった。この事実にビュヒャー教授は気がついて
いない。反対にビュヒャーにあっては商品生産は、漸く「国民経済」において始まるのである――周
知の如くブルジョア経済学は、現在の資本家的経済制度をそういう作り話で以て特徴づけるのが習わ
しであって、商品生産でなく資本家的生産であるという点をこそ特徴としているところの、経済的生
活の或る一つの「段階」を、ブルジョア経済学はそういう風に胡魔化しているのである。グローセは
商品生産を単に「産業」と呼んでいるが、それに対してビュヒャー教授は産業を単に「商品生産」に
変ぜしめて、単純な社会学者よりも経済学教授のえらさのほどを証明している。
「自
だがこういう余事から本題に移ろう。ビュヒャー教授はその経済史の第一の「段階」として、
足的家内経済」をあげている。これを彼は如何なるものに解しているか? ビュヒャーにあってはこ
の段階が農耕的村落組合を以て始まることは、すでに述べた通りである。しかるにビュヒャー教授は
この原始的マルク組合の外に、他の諸々の歴史的形態をこの「自足的家内経済」の段階に数えている。
即ちギリシャ人およびローマ人の古代奴隷経済と、中世の封建的荘園経済とがそれである。ずっと大
昔の時代からギリシャの古代と中世全体とを経て、近代の人口にいたるまでの文化人類の経済史全体
第2章 経 済 史 (一)
191
が、生産の一つの「段階」に総括され、それに対して中世ヨーロッパのギルド都市が第二段階として、
今日の資本家的経済が第三段階として対置されている。このようにビュヒャー教授の経済史では、イ
ンドの五河地方の山峡の中か何処かに点々として余命を保っている共産主義村落共同体と、アテネ文
いやし
化興隆の絶頂期におけるペリクレスの家政と、中世におけるバームベルクの僧正の封建的の館邸とが
同一の「経済段階」として同列に並んでいる。しかしどんな小児でも、苟くも学校の歴史教科書から
いくらかでも皮相的知識を学んでいるなら、この場合根本的に異なっている種々の事情が一括されて
いるということが判るに違いない。一方農業共産体においては、農民大衆の間に財産および権利に対
する一般的平等が行われ、何等身分の区別がないか、あっても胚芽状態にあるにすぎないのに――他
方、古代ギリシャおよびローマ、並びに封建的中世ヨーロッパには社会に身分の区別がハッキリと形
づくられ、自由民と奴隷、特権ある者と権利なき者、地主と農奴、富と貧困との対立がある。彼方に
は一般的労働義務、此方には働く者の奴隷大衆と、働かざる者の支配的少数との対立。それにまたギ
リシャ人やローマ人の古代奴隷経済と、中世の封建経済との間には、古代奴隷制度は結局ギリシャ、
ローマ文化の没落をもたらしたに反して、中世封建制度は都市商業を伴える都市ギルド手工業を喚び
起こし、かくて結局は今日の資本主義をその胎内から生み出したという、非常に大きな相違が存して
いた。故にこのように天地の相違ある色々の経済的および社会的形態や歴史的時期を一つの概念、一
つの図式の下に置く人間は、経済時期に対して全く独特の尺度を用いているに相違ない。しかるにビ
192
ュヒャー教授は、万物を一様のものに化する「自足的家内経済」の魔力をつくり出すために、如何な
る尺度を用いたかを、教授自身が吾々に論じてくれて、噛んで含めるように吾々の理解の当惑を救っ
てくれている。「無交換経済」とは記録歴史の初めから近代に亙っている第一の「段階」の謂いであ
って、その中には中世都市が「直接交換の段階」として編入され、今日の経済制度が「財の流通」と
して編入されている。故に、無交換か、単純交換か、複雑交換か――もっと普通の言葉でいえば、無
商業か、単純なる商業か、発達せる世界商業か――これがビュヒャー教授が経済時期に対して用いて
いる尺度なのである。即ち商人がすでに現れているかいないか、生産者と同一の人間であるかないか
――これが経済史の主要且つ根本問題なのである。吾々にこの機会に「無交換経済」なるものをビュ
ヒャー教授に贈り返したい。それはこの地上の何処にもまだ発見されていない大学教授式妄想に外な
らぬものであって、この妄想は古代ギリシャおよびローマ、並びに十世紀以来の封建的中世に応用さ
れて、途方もない向う見ずの歴史的幻想となっているものである。だが生産関係でなく交換関係を一
般的生産発展の尺度として認め、商人を経済制度の中心点、あらゆる事物の標準と認め、まだ商人な
どというものが全然存在していない場合にも、これを判断の規準と認めるとは――何というすばらし
い「概念的分析、心理的遊離的演繹」の成果、とりわけあらゆる「皮相に固執すること」を斥けると
ころの、何という見事な「事物の本質への侵入」だろう! 最初にすべての「旧来のこの種の試み」
を鼻であしらい、然るのちにさきに非難した交換の「皮相に固執すること」をそのまま根本思想とし
第2章 経 済 史 (一)
193
て取りあげ、ただそれを衒学的なやりくりによって間違いだらけの図式に分解しているにすぎぬビュ
ヒャー教授の専売特許の特製品よりも、まだしも経済史を「自然経済、貨幣経済、信用経済」の三期
に分ける「歴史」学派の身分相応な図式の方が、はるかに上出来であり、はるかに真理に近いではな
いか。
経済史の「皮相に固執すること」は、ブルジョア学問にあっては何等偶然なことではない。ブルジ
】の如く食物の最も重要な出所とい
ョア学者の一部は、フリードリヒ・リスト 【 Friedrich List, 1789-1846
う外部的性質で分けて、狩猟、牧畜、農業、工業の各時期をあげている――これは外面的文化史に対
してすらも少しも充分でない分け方である。別のブルジョア学者は、ヒルデブランド教授の如く、交
換という外面的形式によって経済史を自然経済、貨幣経済、信用経済に分けており、乃至はまたビュ
ヒャーの如く、無交換の経済、直接交換を伴う経済、商品流通を伴う経済という風に分けている。も
う一つ別のブルジョア学者は、グローセの如く、財の分配を経済形態の判断の出発点としている。一
言でいえばブルジョアジーの学者は、歴史的考察の正面に、交換、分配、消費――即ち生産の社会的
形態だけを除いたすべてのもの――を持ってくる。言いかえれば、取りも直さずあらゆる歴史的時期
において決定的なものだけを除外している。即ち交換およびその諸形態、分配および消費が特殊の形
を取って、その都度そこから論理的結果として生ずる、そういう大事な根元を除外しているのである。
何故だろうか? その根拠は、彼等ブルジョア学者が「国民経済」即ち資本主義経済を人類歴史の最
194
高最終の段階と説き、その資本主義経済が革命的傾向を伴って更らに世界経済的に発展することを否
認していると同じ根拠である。生産の社会的成態、言いかえれば労働する人間が生産手段に対して有
する関係如何の問題は、各経済的時期の核心ではあるが、同時にまた各階級社会の痛点である。生産
手段を何等かの形において、労働している人間の手から絶縁させておくことは、すべての階級社会の
共通基礎である。何故ならそれはあらゆる搾取および階級支配の根本条件だからである。そこでこう
いう痛い個所から注意を転じて、すべての外面的な副次的なものに注意を集中することは、ブルジョ
ア学者の意識的努力であると言うよりも、むしろ智慧の樹から危険な果実を味うことに対するブルジ
ョア階級の本能的嫌悪なのであって、これらの学者はこれを精神的に代表しているのである。そして
やすやす
ビュヒャーの如き近代の有名な大学教授が、生産手段に対する労働力の関係が根本的に型式を異にし
こまごま
せんさく
ているところの、原始共産主義、奴隷制度、徭役経済というような種々の大きな時期を、易々と彼の
「家内仕事」
図式の小ポケットの中に押し込みながら、実業の歴史については 細々と穿鑿を始めて、
だの「手仕事」だの、「顧客仕事」だのと、下手な小間物店のように、衒学的な勿体ぶった態度で並
べ立てているが如きは、即ち右の階級本能を「天才的眼光」を以て証拠立てているものである。被搾
取的民衆の観念代表者、即ち初期の共産主義者、往時の社会主義主張者も、その訴えと戦いとを、主
として不公平な分配や、乃至は――十九世紀における二三の社会主義者の如く――交換の近代的形態
に向けていた間は、人間間の平等の説教を以て闇に迷い、笛に浮いていたのであった。分配および交
第2章 経 済 史 (一)
195
換は、その形態において生産の編成に左右されるものであり、生産の中にあっては、労働する人間と
かっこ
生産手段との関係が決定的なものであるということを、労働階級の最良の指導者等が会得するに至っ
て、初めて社会主義連動が確乎たる科学的土台の上に置かれたのである。そして専らこういう見解か
らのみ、プロレタリアートの科学的態度が、経済史の入口のところでブルジョアジーのそれと分れる
のであって、これはさきに経済学の戸口のところで両者の学問的立場が分れたのと同じである。経済
史の核心――生産手段に対する労働力の関係の成態――の歴史的変遷を胡魔化すのがブルジョアジー
の階級利益であるとすれば、プロレタリアートの利益は、それと逆に、この関係を正面にもってきて、
社会の経済的構造の尺度とすることを命ずるのである。しかも太古の共産主義社会と後代の階級社会
とを区切るところの歴史のこの大里程標に注意するのが、労働者にとって必要であるばかりでなく、
階級社会そのものの種々の歴史的形態の間の区別に注意することが同様に必要である。原始共産主義
社会の特殊の経済的特徴を明瞭に考慮に入れ、それと劣らず古代奴隷経済と中世徭役経済との特殊性
とって
を明瞭に考慮に入れる人間のみが、何故に今日の資本主義階級社会が、初めて社会主義実現のための
歴史的把手を提供するか、また未来の社会主義的世界経済と、太古の原始的共産主義群団との根本的
区別が奈辺に存するかを、完全に徹底的に理解することができるのである。
196
第三章 経 済 史 (二)
一
最もよく研究されているゲルマン人のマルク組合の内部的制度を調べて見よう。
ゲルマン人は周知の如く種族および氏族を以て定住していた。各氏族において、家父は農場用の土
地、建物用の場所とを宛てがわれ、そこに家と農場とを設けた。ついで地域の一部が耕作に使用され、
各家族がそれぞれその割地を受けていた。尤もまだ――ケーザルの証言によれば――キリスト紀元の
初め頃にiはドイツ人の一種族(スエーヴェンまたはシュワーベン族)は耕地を各家族の間に分配せず
に、共同で耕作していたのだが、しかもローマの史家タキツスの時代、即ち二世紀頃には毎年の割地
替がすでに一般普通に行われていたのである。地方によっては、たとえばナッサウ地方のフリックホ
ーフェン村では十七世紀および十八世紀になっても、年々の割地替がなお普通に行われていた。また
さいりょう
十九世紀に至っても、バイエルン釆領 【采領】の二三の地方やライン地方では地割が普通一般であった。
尤もその期間はずっと長く、三年毎、四年毎、九年毎、十二年毎、十八年毎という風ではあった。故
にこれらの耕地は十九世紀の半ばに至って、初めてハッキリと私有財産となったのである。スコット
ランドの若干の地方においても、割地替は最近の時代まで行われていた。すべて割地は本来は全く平
第3章 経 済 史 (二)
197
i
「ケーザル」つまりシーザーの伝えるのだったらキリスト紀元の五〇年ほど前。
i
等であって、その大きさは一家族の平均的需要、並びに土地とその時の労働との収益力に応じたもの
であった。割地は種々の地方における地所によって異なり、それぞれ十五モルゲン、
、三十モルゲン、
四十モルゲン、乃至はそれ以上のモルゲン( 一モルゲン=約四段、但し時代と地方とにより異なる 【 0.2
ヘクタールほど】
)に上った。ヨーロッパの大部分では割地替が段々稀れになってきて遂に廃止されて
しまったために、割地はすでに五六世紀において単独家族の世襲財産に移ってしまった。だがそれは
耕地に関してのみのことであった。その他のすべての地域――林地、草地、水流、並びに使用されな
い場所は、依然として不分割のままにマルクの共有となっていた。たとえば山林の収益はまず共同に
アルメンド
必要なものと公課とに宛て、あとに残ったものが分配されていたのである。
牧地は共同に利用されていた。この不分割マルク即ち共同地は、極く長い間維持されていたもので
あって、今日もなおバイエルン、チロール、スイス等のアルプス地域や、フランスや(ヴァンデー地
方)、ノルウェーおよびスウェーデンに存在している。
耕地の分配に当って完全な平等を期するために、まず最初にマルクは地味や位置に従って若干のフ
】
(圃)(エッシュ 【 Esch
】ともゲヴァン 【 Gewannen
】とも呼ばれた)に分たれ、それから今
ルール 【 Flur
度は各フルールが正式のマルク組合員の数だけの細い条地に切られた。もしマルク組合員の誰でも他
と平等な割地を分けられたかどうかについて疑念がある時は、いつでもマルク耕地全体の測量の仕直
しを要求することができるのであって、その人間にそれを拒んだものは罰せられたのである。
198
くじ
しかるに定期的な割地替と籤分けとが全く廃れてしまった時にも、すべてのマルク組合員の労働は
――耕地においても――依然として徹頭徹尾共同で行われ、団体総体の厳格な規律の下に置かれてい
た。そこからして最初にまず割地の各持主にとって、一般に労働義務が生じたのである。実際上のマ
ルク組合員たるためには、マルクの中に定住しているだけではまだ足りなかった。この目的のために
は各人はマルクの中に自分が住んでいる外に、なお自分の地所を自分で耕やさなければならなかった。
自分の割地を幾年の間も耕やさない者は、以後その割地を失い、組合はそれを他に与えて耕やさせる
ことができたのである。ところが今度は労働そのものが組合の指揮の下に置かれるに至った。ゲルマ
ン人定住後の当座は、経済生活の中心に立っていたものは牧畜であって、それは共同の草牧地で、共
はしゅ
同の村属牧人の間で営まれていたのであった。牧場としては休耕も収穫後の耕地も、二つながら使用
されていた。そういうわけから、播種や収穫の時期、各圃に対する耕作年度と休耕年度との代替、播
フルール
種の順位などが共同に規定されることになったのであって、各人は一般の制定に従わねばならなかっ
頭 の下に置かれていた。
フルール・シュッツェ
た。圃は各々落し戸のある柵で囲われて、播種から収穫までの間閉じられ、圃の開閉の時期は村落全
フルール・ウムガング
体に一定していた。圃はそれぞれ公吏として掟を司る一人の監督、
即ち 圃
よ
そして全村民の謂わゆる田地廻りは儀式の形を取って行われ、その際には子供も伴われて、後日の証
拠として能く境界を覚えておくように耳打ちが行われた。
牧畜は共同で行われ、畜群の番をマルク組合員がてんでにすることは禁ぜられていた。村のすべて
第3章 経 済 史 (二)
199
の家畜はその種類に応じて種々の共有群に分たれ、その各々に一人の村属牧人と一頭の先導獣とが附
せられ、なお畜群は鈴をつけるということになっていた。マルク地域全体に亙っての漁猟権も、矢
くわ
張りすべてのマルク組合員に共同であった。仲間に知らせずに自分の持地に係蹄 【ワナ】をかけたり、
穴を掘ったりすることも許されなかった。鉱物や何かも、鍬先きよりも深く地中にある場合は、マル
クの全地域に亙って組合に属するものであって、個々の発見者のものではなかった。各マルクには必
要な事業者が定住していなければならなかった。各農家は日常生活の使用品の大部分を自分で拵え、
めいめい自家でパンを焼いたり、肉を炙ったり、紡いだり、織ったりしていたのではあったが、しか
もなおすでに早くから二三の手業が専門化されていた。殊に農具を拵える手業はそうであった。たと
えば低地サクソニー 【ニーダーザクセン(ドイツ北西部にある)】のウェルペにある山林マルク組合では、組合
員は「林地に各手業の人間を一人ずつ有していて、木材を加工させている。
」森林を保護して、組合
*
員にとってのみ必要なものを供するために、手業者 【手工業者】に対して、如何なる種類のものをど
れだけ使用してよいかが規定されていた。手業者はマルク組合から生活に必要なものを受取り、一般
としては他の大勢の農民と全然同じ位置にあったが、但しマルクの中で完全な権利を認められていな
かった――その理由の一部は、手業者が渡り者で、土着の人間でなかったためであり、一部はこれも
結局は同じことに帰するが、彼等が主として農業にいそしまなかったためであって、農業は当時経済
生活の中心になっていて、公生活、マルク組合員の権利義務は、それを中心としていたからである。
200
そういうわけで誰でもマルク組合の中に入り込むことができなかった。外部のものを定住させるため
には、全組合員の一人残らずの承認を得なければならなかった。そして各人は自分の割地を、同じマ
ルク組合員にのみ譲ることが許され、外部のものに譲ることは許されなかった。そして組合員にそう
するにもマルクの法廷で許された場合だけであった。
* これと全然同じ地位を、手業者はホーマー時代のギリシャの村で占めていた。――「すべてこれらの
人々(金属工、
大工、
楽人、
医師)は「デミウルゴイ」
(デモス=民衆のためのもの)である。言いかえれば、
彼等は自分自身のためでなく、自治体員のために働いている。彼等は人身的に自由ではあるが、完全に
自由だとは見做されず、本来の自治体員たる小農の下位に立っている。往々彼等は定住せずに諸所方々
つか
を渡り歩き、
また有名である場合には遠方から呼び寄せられる。
(マイヤー【 Eduard Meyer, 1855-1930
】著『古
】第一七頁。
)
代の経済的発達』【 "Die wirtschaftliche Entwicklung des Altertums"
ハイス」
(何れも村の 司さ)が位してい
マルク組合の先頭に「ドルフグラーフ」または「シュルおト
さ
(百人長)とも呼
た。これは所によっては「マルクマイステル」(マルクの長)または「セントネル」
ばれ、上司としてマルク組合員から選挙されたものである。この選挙は選挙人にとって単に名誉であ
るばかりでなく、義務でもあって、選挙を拒んだものは罰せられた。尤も時が経つにつれて、マルク
ほうしょう
首長たる職は一定家族の世襲となった。そしてこれがもう一歩進めば、今度はこの職が――その権力
と所得とを目宛てに――買うことができるようになり、褒賞に与えることができるようになって、一
第3章 経 済 史 (二)
201
般に公選の純民主的職位から、その団体に対する支配の道具と化するに至るのである。それはとにか
く、マルク組合の全盛時代には、マルク首長はマルク全体の意志の執行者に外ならなかった。すべて
の共同の事柄は組合員全体の会議で規定され、またそこで争いも裁決されれば罰も課せられた。農業
上の仕事、道路および建築、農圃警察、村落警察等の全規定が総会の多数決で決議され、なおまたマ
ルク経済を記帳する定めであった『マルク員出納簿』を検査するのも総会の役目であった。マルク内
の仲裁と裁判とはマルク首長の議長の下に、判決発見者として立会いの組合員(「裁判立会い」
)によ
って、口頭で且つ公衆の前で行われる。組合員のみが法廷に臨むことを許され、外部の者は入ること
たす
を禁ぜられていた。組合員はお互いのために証人となり宣誓後見人となる義務があり、同じくまた一
あわ
般に火災の場合や敵の襲撃の場合、その他すべて危急の場合には、忠実に且つ親しく互いに扶け合う
義務がある。戦争の場合は組合員は各々部隊を形づくって、各部隊力を協せて戦った。何人と雖も自
分の仲間を敵の槍先に委ねてはならぬ。マルクに犯罪や災害が起った場合や、組合員の一人が外部に
対して犯罪を行った場合は、マルク全体が連帯の責任を負う。組合員は旅人を宿泊させ、困っている
人間を保護する義務がある。各マルクは本来一個の宗教共同社会を成していて、キリスト教の移入―
―これはサクソニー人の場合の如く、ゲルマン民族の一部の間に極く後になって、即ち九世紀になっ
て初めて起ったものである――以来は一個の教会団体を成していた。最後にマルクは常則として村の
すべての少年のため一人の教師をかかえていた。
202
この古代ゲルマンのマルクの経済制度ほど、単純で同時に調和的なものを思い浮べることはできぬ。
てのひら
この場合における社会生活の全機構は掌を指す如く明瞭である。ここでは一個の厳密な計画、一個な
強固な組織が、各個人の一挙一動を左右し、各個人を一小部分として全体に適合させている。日常生
活の直接欲望と、各人に対するこの欲望の平等なる充足、これが全組織の出発点であり、終点である。
万人が万人のために働き、万事を共同で決定する。だが、こういう組織とこういう個人に対する全一
体の権力とは、何処から生じ何に基づいているのか? この根拠は土地に対する共産主義、言いかえ
れば、労働する人間による最重要生産手段の共有に外ならぬ。しかしながら農業共産主義経済組織の
典型的特徴が最もよく正面に現れるのは、この経済組織を国際的土台の上で比較研究して、これを生
産の世界的形態として、その歴史的多様性と弾力性とにおいて見る場合である。
次に南アメリカにおける古代インカ帝国に移ろう。この帝国の地域は現在のペルー、ボリビア、チ
リーの三共和国、即ち現在千二百万の居住人口を伴える三、三六四、六〇〇平方キロメートルの地域を
包含するものであって、ピザロが行ったスペイン人侵略の時代には、なおその幾世紀以前におけると
同じ具合に経済が営まれていた。まず第一に吾々はここに古代ゲルマン民族の場合と全然同一の制度
を見出す。各民族団体は同時に武装し得る男子の百人組であって、一定の地域を占めており、その地
域はマルク(共有地)としてこれに属し、且つ不思議なことには「マルカ」という名に至るまでゲル
マン民族の場合と似ている。マルク地域から耕地を切り離し、地割を行って、毎年播種の前に各家族
第3章 経 済 史 (二)
203
の間に籤分けされる。耕地の大きさは家族の大きさに応じ、
従って各家族の欲望に応じて定められる。
村の首長――その職はインカ帝国が形成された時代、即ち十世紀十一世紀頃にはすでに選挙から世襲
に移っていたのだが、これは一番大きな割地を受ける。北ペルーでは各家族が自分の割地を別々に耕
作するのでなく、一人の指導者の指揮の下に十人組を作って耕作していた――これもまた古代ゲルマ
ン民族の場合と同じ事実を思わせる制度である。十人組は順々に全員の割地を耕やし、インカ族のた
め戦争に従事したり、徭役に従事したりして不在の者の分もそうしてやる。各家族は自分の割地に出
来た成果を受取る。マルクの中に住み氏族に属していた人間だけが、割地を得る権利があった。とは
いえ各人は矢張り自分の割地を自分で耕作する義務があり、幾年もの間(メキシコでは三年間)それ
を耕作しないままで置けば、割地に対する権利を失う。割地は売ったり贈与したりすることは許され
なかった。自分のマルクを去って外のマルクに移住することは厳禁されていたのであって、これは村
落氏族の血縁の力強さと一致するものであった。周期的にしか雨が降らない沿岸地方における農耕は、
古くから運河を以てする人工的潅漑を必要としていた。そしてこの運河はマルク全体の共同労働によ
って築かれたものであった。各自村民の間や村民内部における水の使用と分配とに関しては、厳格な
規定が設けられていた。
また各村落は「貧者の田地」を有していて、マルクの全員が総がかりでこれを耕作し、その収穫を
村の首長が、老衰者や、寡婦や、その他困っている者の間に分配した。耕地以外の残りの地域はすべ
204
リャマ
て「マルカパハ」=共同地である。農耕が物にならぬ山岳地方では、駱馬を殆んど唯一の対象とせる
とうもろこし
手頃な牧畜が住民の生存の基礎であって、住民は時々その主要生産物――羊毛――を低地に持って行
って、農耕者の玉蜀黍、胡椒、大豆と交換していた。この山岳地方には、インカ人侵略の時代にすで
に畜群の私有と著しい財産の差別とが存していた。普通のマルク組合員はまず三―一○頭の駱馬を所
有し、一人の酋長は五〇―一〇〇頑ぐらい持っていたらしい。それにも拘わらず、土地や山林、草地
は矢張りここでも共有物であり、なお私有畜群の外に、分配するを許さざる共有畜群があった。特別
の手業者はなく、各家族は必要なものをすべて自家で拵えていたが、しかもなお村民の中には、織工、
ていねん
陶工、或は金属工として特に何等かの手業に秀でている者があった。各村落の首端には最初は選挙さ
ラッパ
れた、終には世襲の首長が任して、農耕の監督を行っていたが、重大な事柄は丁年者 【成人】相談会
が会議を開いて処理し、この会議は貝喇叭で以て招集された。
右の限り古代ペルーのマルク組合は、すべての重大な点においてゲルマン民族のマルク組合の忠実
なる模型を示している。しかしながらこの古代ペルーのマルク組合は、吾々の知っているゲルマン民
つうぎょう
族の原型と、どの点が合致しているかということよりも、むしろどの点が乖離しているかということ
し
を調べた方が、この社会的体制の本質に通暁する早道である。古代インカ帝国の特徴は、外人の支配
が布かれていた被征服国であったという点である。この国に入り込んだ征服者インカ人は、なるほど
同じインディアン種族に属してはいたが、平和な土着のヴェキュア種族を征服したのであって、この
第3章 経 済 史 (二)
205
征服が易々と行われたのは、後者が村落の中に世界から切断されて生活していたためであった。即ち
この種族の各マルクは、大きな地域に亙って結合することなく、マルクの境界の外にあるものや、外
で起った一切のものに利害関係を有せずに、マルクの囲いの中で自分だけのことをしていたのである。
こういう極度に各個独立主義の社会的組織が、インカ人の征服を極めて容易ならしめたのであるが、
この組織はインカ人の侵略後も一般にそのままにして置かれた。しかし彼等は経済的搾取と政治的支
配との精妙な制度を、この組織の中に詰め込んだのである。征服されたマルクはそれぞれ若干の地所
を、「インカ田」および「太陽田」として別にして置かにければならなかった、そしてこれは依然と
してマルクの所有地ではあったが、その収益は現物でインカ人の治者種族や祭司族にささげたのであ
る。同様に牧畜を営んでいる山地マルクも、畜群の一部分を「領主の畜群」として分けて、治者のた
めに供しなければならなかった。この畜群の番も、インカ田および祭司田の耕作も、徭役としてマル
ク組合員全体の上に課せられた。その上になお鉱山労働や、道路および橋梁の工築の如き公共労働の
徭役――その指揮は支配者が握っていた――があり、厳格な規律を伴って兵役があり、その外になお
若い娘の進貢があり、これは一部は礼拝上の目的のため犠牲に供され、一部はインカ人の妾に供され
た。しかしながらこういう厳密な搾取制度にも拘わらず、マルク生活の内部も、その共産民主的制度
も依然として元のままと変りがなく、徭役公課そのものが、マルクの共同負担として共産的に果され
ていた。茲に不思議なことは、共産主義村落組織は歴史に屡々見るように、幾世紀に亙る搾取および
206
奴隷化の制度のための鞏固にして持久的な地盤たることを証したばかりでなく、こういう搾取および
奴隷化の制度そのものがまた、共産主義的に組織されていたということである。即ちペルーの被征服
種族の背上に安楽に暮していたインカ人が、自ら氏族団体やマルク組合を作って生活していた。イン
カ人の主要住所たるクスコ市は、一ダース半の集団営舎の合成に外ならず、各営舎は内部に共同墓地、
従って共同の礼拝所を有する全氏族の一個の共産主義的世帯の場所に外ならなかった。そしてこれら
の大きな氏族住家の周りには、不分割の林地および草地と、分割耕地――同じく共同で耕作されてい
た――とを伴えるインカ氏族のマルク領城が存していた。即ち原始的民族として、この搾取者および
支配者は、労働をまだ抛棄することなく、ただ被支配者よりも良い生活をするために、そして礼拝の
ために犠牲をヨリ豊富に供えるためにのみ、自己の支配的地位を利用するにすぎなかった。専ら他人
の労働で養われて、自分で労働しないことを以て支配の属性たらしむる近代的技術は、共有と一般労
働義務とが根柢の深い民俗となっていた社会的組織の本質には、まだ縁の無いものだったのである。
政治的支配の運用も、インカ氏族の共同の職分として編成されていた。ペルーの地方諸州に任命され
たインカ行政者は、その役目がマレー群島におけるオランダ駐剳官に類似していて、クスコ市ではイ
ンカ氏族の代表派遣者と見做され、集団営舎の中に住居を有し、且つ自分自身のマルクを分けて持っ
ていた。これらの代表派遣者は毎年夏祭にクスコに帰ってきて、行政の審査を受け、自分の種族仲間
と一緒に宗教的大祭典を祝った。
第3章 経 済 史 (二)
207
故に吾々は茲に重なり合っている二つの社会層を見るのであって、両者はそれぞれ内部では共産主
義的に組織されていながら、相互に対して搾取および隷従の関係に立っているのである。この現象は
一寸見れば理解し難く思われるかも知れぬ。けだしマルク組合の組織の土台となっていた平等、
友愛、
民主主義の原則と、非常に矛盾しているように見えるからである。しかしながらまさにこの点に、原
始共産主義の制度は実際においては、人類の一般的平等および自由というような原則とは何等係りの
ないものだったという、一つの生ける証拠を見る。これらの「原則」――少なくとも「文明」国、即
ち資本主義文化国の範囲では一般妥当性を有しているところの、抽象的「人間」従って一切の人間に
関するこの「原則」は、漸く近来になってのブルジョア社会の産物にすぎないのであって、ブルジョ
ア社会の革命――アメリカ並びにフランスにおける――がこれを初めて宣言したのであった。原始共
産社会は一切の人間に対する一般的原則というものは知っていなかった。この原始共産社会の平等お
よび連帯は、共通血縁の伝統からと、生産手段の共有からと生じたものである。この血縁とこの共有
とが及んでいた範囲は、権利の平等と利害の連帯も及んでいた。この利害関係の圏外にあるものは―
―そしてその利害関係は一村落の境界を出でず、最も広い意味でも一種族の地域範囲を出でなかった
――彼等にとって縁のないものであり、従ってまた場合によっては敵対的なものであった。それどこ
ろか、内部が経済的連帯を基礎としていたこの共産体は、生産発達の階段が低かったために、それに
人口の増加に拘わらず食料の源泉が豊富でないか乃至は疲弊していたために、周期的に他の同種の共
208
産体と死活的な利害の衝突に陥ることを余儀なくされ、その場合には動物的な闘争や戦争が裁断しな
ければならなかったのであって、その終局は交戦者の一方側の掃蕩か、乃至は――この方がずっと多
かったのだが――搾取関係の樹立であった。原始共産主義の根柢となっていたものは、平等自由とい
う抽象的原則の遵奉ではなく、人類文化の発達の低位、外部的自然に対する人類の無援という金剛不
壊の必然なのであって、これが人類に対して、比較的大きな団体に固く結合することと、労働の場合、
即ち生存闘争の場合に計画的統一的な動作をとることとを、
絶対的存立条件として強要したのである。
ところが他方においては、自然に対する征服の度合が低いという、この同一の事情が、同時にまた、
労働における共同計画や共同動作を、自然草地または開墾された村落植民地という比較的狭い地域に
のみ局限して、ヨリ大きな範囲における共同動作には全く不適当ならしめたのであった。当時の原始
的農業状態は、村落マルクの文化以上に大きな文化の発生を許さず、かくてこの文化は利害の連帯の
作用範囲を極く狭く局限したのである。そして最後に、労働生産力の発達の不足という、この同一の
事情が、同時にまた個々の社会的団体間の周期的な利害の対立を惹起し、それに伴って、粗野な強力
を生み、この対立を解決する唯一の手段たらしめた。かくて戦争が社会的共同体間の利害の衝突を解
せいあつ
決する常住的方法として生まれたのであって、この方法は労働生産力の最高の発達、言いかえれば人
類による自然の完全なる征服が、人類の物質的利害の対立を将来制遏するにいたるまでは、引続き優
勢を占める筈である。しかしながら各原始共産体間の衝突が常住的現象として存在していたとすれば、
第3章 経 済 史 (二)
209
この衝突の結果如何を決定したものも、矢張りその時の労働生産力の発達の程度であった。牧場のた
そうとう
めに闘争を始めた二つの流浪的牧畜民族の衝突の場合だったら、何方が主人としてその場所にとどま
り、何方が荒涼たる廃地に駆逐され、乃至は掃蕩されてしまうかを、専ら粗野な強力が裁断すること
が出来た。ところが農耕がすでに発達していて、総体の人間の労働力とその生活時間の全部とを費や
すことなしに、人々を安固に養い得る程度になった場合は、この農耕民族を外部の征服者が組織的に
搾取するための基礎も、同じくそこに存在していた。かくて吾々はペルーにおけるが如く、一つの共
産体が他の共産体に対して搾取者として臨むというような事情が生ずるのを見る。
あるのは、古代、殊にギリシャ歴史の発端
インカ帝国のこういう特有の構造が吾々にとって重要けで
んやく
における、これと類似の幾多の現象を理解するための鍵鑰を吾々に与えるからである。たとえば書史
の中に、ドリアン人によって統治されていたクレート島では、隷民は自分の一家に必要な食料だけを
除いて、田地の全収益を共同体全体に交附する掟であって、
それを以て自由民
(即ち支配的ドリアン人)
の共同食事に充てられていたとか、或は矢張り同じドリアン人共同体たるスパルタでは、「国有奴隷」
即ちヘローテンが存在していて、自由民の持地を耕作するために「国家から」各個人に交附されてい
た、というような簡単な報道が残されているとすれば、こういう事情は最初には解くべからざる謎で
ある。そこでハイデルベルヒの大学教授マックス・ウェーバーの如きブルジョア学者は、歴史が伝え
たこういう奇妙な伝説を説明するために、今日の事情および概念の上に立って珍無類な臆説を掲げて
210
いる。「被統治人口はここ(スパルタ)では国有奴隷または国有隷民の状態にあるものとして取扱われ、
彼等の現物寄進を以て武人の暮しに宛てられている。但し一部は上述の方法によって共同的に行われ
せんよう
るが、一部は各個人がそれぞれ一定の田地を奴隷に耕作させ、その収益に頼っているのであって、そ
の田地は各人が色々の程度に擅用 【横領】し、段々後に世襲となるに至ったものである。割地の割替
0
0
や分配は有史時代においても実行し得べきものと見做され、また実地に行われていたらしい。それは
0 0
勿論決して田地の割替ではなく(「勿論」ブルジョア大学教授というものは、そういうものはどんな
0
0
0
0
0
場合でも認めるわけには行かぬ)謂わば地代基礎の割替であった。軍事的見地、殊に軍事的人口政策
がすべての細目を決定する。……この政策の都市封建主義的性質は、隷民附きの自由民の地面がゴル
チーの軍事特別法の下に置かれているという、特色ある形を取って現れた。即ちこれらの地面は「ク
レ ロ ス 」 を 構 成 し、 武 人 家 族 の 扶 養 と 密 接 な 関 係 を も っ て い た の で あ る 。
(大学教授式ドイツ語から
普通一般のドイツ語に直せば――割地は共同体全体の所有であって、従って譲与したり、割地所持者
の死後分配したりすることは許されなかった、という意味であって、これはウェーバー教授も別の箇
ごさん
所で、「財産の分散を防止するため」並びに「身分相応な武家持地を保護するため」の賢明な方策だ
と説いている。)この組織は武人の将校集会所式共同午餐、即ち「シシチエン」の場合、並びに武人
*
養成のため国家によって行われる児童の士官候補生式共同教育の場合にその效力を最もよく発揮して
」かくて英雄時代のギリシャ人、ヘクトルおよびアキレス時代のギリシャ人は、仕合せにもプ
い る。
第3章 経 済 史 (二)
211
ロシャ式の世襲財産制度や地代制度や、「身分相応」のシャンペン酒宴会をやる将校集会所の概念の
中に入れられ、そして共同国民教育を受けていた天真爛漫な少年少女は、ベルリン郊外グロース・リ
ヒターフェルデの監獄式幼年学校の中に拉し去られたのである。
*『ハンドウェルターブーフ・ヂア・シュターツウィッセンシャフテン』
、第一巻、古代における農業事
】 第二版 第六九頁。
情 【 "Agrarverhältnisse im Altertum"
上述の事情は何等困難を呈するものではない。
インカ帝国の内部的構造を知っている者にとっては、
これらの事情は、疑いもなく、或る一つの農業マルク組合が他の共産体によって征服されたところか
ら生じた寄生的二重具象の産物にすぎぬ。この場合に共産主義的基礎が、如何なる範囲まで支配民の
風習の中に維持され、如何にして被征服民の状態の中に維持されたかは、この二重具象の発達段階、
存続期間、環境によって左右されるものであって、これらの事情には一から十までいろいろの度合が
あり得る。支配民がまだ自分で労働しており、被征服民の土地所有が全体としてなおそっくり推持さ
れていて、各社会層がそれぞれ閉鎖的に組織されているインカ帝国は、おそらくそういう搾取関係の
最も本源的な形態と見做され得るものであって、この形態が数百年の間保存され得たのは、専ら文化
発達が比較的に原始的だったのと、この国が世界から切り離されていたおかげに外ならなかった。ク
レート 【クレタ】島の伝統は、これより進んだ段階にあることを思わせる。この島では征服された農
民共同体は、暮しに必要な分だけを控除して、労働の全収益を差出さなければならぬ掟であって、従
212
って支配民共同体は自ら耕耘することなく、被搾取マルク組合の貢物で暮していたのであるが、それ
0
0
0
でも彼等自身の間ではまだ共産主義的に消費が行われていた。スパルタでは――発達が更らに一歩進
んで――土地はもはや被征服民共同の所有ではなく、支配民の所有と見做され、そして支配民の間に
マルク組合式に地割と割替とが行われていた。被征服民の社会的組織は、その土台たる土地所有権の
喪失によって破壊され、土地そのものが支配民共同体の所有となり、彼等はこれを「国家のために」、
共産主義的に、労働力としての個々のマルク組合員に委ねていた。また支配民スパルタ人自身も、当
時なお厳密なマルク組合的関係の中に生活していた。そしてこれと同じ様な事情は、その程度はいろ
いろであっても、テッサリア 【ギリシャの肥沃な一地方】――そこでは従来の住民、ペネステ人即ち「貧
】のために征服されていた――にも、ビシニア 【 Bithynia
小アジア北西部】
しき民」がエオリア人 【 Aioleis
――そこではマリアンディア人がトラキア種族のために矢張り同じ状態の下に置かれていた――に
も、行われていたと言って差支えない。
しかもこういう寄生的存在は、必然の勢いを以て支配民共同体の中にも瓦解の萌芽をもたらすよう
になる。征服を維持してゆく必要と、搾取を常住的制度として固める必要とが、強大な軍事組織の形
成を誘致することは、インカ帝国の場合にもスパルタ国家の場合にも見る通りである。そしてこれと
共に、本来平等にして自由な農民大衆の間に不平等を惹起し、特権的身分の形成を誘致する第一の基
礎が据えられたのである。そうなれば、あとは文化の高い民族と出合って、洗練された生活欲望と活
第3章 経 済 史 (二)
213
溌な交換とを喚び起す都合のよい地理的文化史的事情さえあれば、それに伴って支配民の内部にも不
平等が急速の進歩を遂げ、共産主義的聯結を弱め、貧富の分裂を伴う私有制度に道を開くようになる。
こういう成行きの典型的実例は、東洋の古代文化民族と遭遇した以後のギリシャ世界の早期の歴史で
ある。かくて或る一つの原始共産社会が他のそれによって征服された結果は、その時期の早いと遅い
とを問わず、つねに同一なものであった――即ち共産主義的伝統的な社会の紐帯が、支配民の場合に
も被支配民の場合にも等しく切断され、全然新しい社会成態が生まれ、同時に不平等と搾取とを伴え
る私有制度が世の中に現れてくる。かくてギリシャ古代における旧マルク組合の歴史は、一面におい
0
ては、負債を負える小農の大衆と、軍務、公職、貿易を握り、不分割共有地を大土地所有としてわが
0
ものとしていた貴族との対立となり、他面においては、この自由民の社会全体と、搾取されている奴
隷との対立となる。戦争で征服した民族に対して、一共同体が行う自然経済的搾取の種々様々の形態
とうしょ
から、各個人が奴隷を購買する制度にいたるのは、実に只の一歩である。そしてこの一歩を急速に進
めたものは、ギリシャにおいては、沿岸国家および島嶼国家における海上交通と、国際貿易およびそ
どえき
】も奴隷制度の二つの型を区別している、
の諸々の結果とであった。チコッチ 【 Ettore Ciccotti, 1863-1939
ヴァッサレンツーム
「吾々がギリシャ史の劈頭に認める経済的奴役の、最古の、最も重要にして最も流布していた形態は、
紀元前四世紀頃の歴史家】は誌して曰く、
「テッサリア
Theopompos
奴隷制度ではなく、隷民制度の一形式であって、これを家士制度と呼んで殆んど差支えないものであ
る。」さればテオポンブス 【テオポンポス
214
人やラケデモニア人の以後に、ギリシャ人の間で最初に奴隷を使用したのはキオス人(小アジアのキ
オス島の住民)であったが、彼等は奴隷を獲るのに、テッサリア人やラケデモニア人と同じ仕方を以
てはしなかった。……後の両者は、現在自分等が所有している土地に以前に居住していたギリシャ人
を、奴隷階級たらしめたのであって、即ちアケヤ人、テッサリア人、ペレーベン人、マグネシア人を
強制によって奉仕させ、この被征服民をヘローテンまたはベネステ(何れも隷民の意)と呼んでいた。
これに反してキオス人は奴隷として異邦人(非ギリシャ人)を手に入れ、これに対して或る価格を支
払っていた。」これにチコッチは正当に附言して曰く、「そしてこういう差別の生ずる根拠は、一方に
内地民族と、他方に島嶼民族との発達程度の相違に存していた。蓄積されたる富が全然無かったこと、
或は極く貧弱だったこと、並びに商業の発達が不足だったことは、その一国内において所有者が直接
に生産を行い、且つそれを増大することをも、奴隷を直接に使用することをも不可能ならしめ、その
*
代わりとしてもっと初歩的な貢物という形式を誘致し、分業と階級形成とに導き、支配階級からは、
」
軍隊が生まれ、被征服階級からは農民という身分が生まれた。
* チコッチ著『古代における奴隷制度の没落』【 "Il tramonto della schiavitù nel mondo antico"
】第三七頁参照。
ペルーのインカ国家の内部的組織は、原始的社会形態の本質の重大なる一面と、同時にまた原始的
社会形態の没落の或る一定の歴史的方法とを吾々に示してくれた。然るにペルー・インディアンその
他アメリカにおけるスペイン植民地の歴史のその後の章は、原始的社会形態の運命における、もう一
第3章 経 済 史 (二)
215
つ別の方向を吾々に示してくれるであろう。そこでは何よりもまず全然別個の搾取方法、たとえば
かしゃく
そうめつ
インカ人支配の場合とは似もつかぬ方法が吾々の前に現れる。新世界における最初のヨーロッパ人た
るスペイン人の支配は、征服されたる住民の 仮借なき剿滅を以て始まった。スペイン人自身の証言
によれば、アメリカ発見後数年のうちに彼等によって剿滅されたインディアンの数は、千二百万乃
至千五百万であった。ラス・カサスは言う、「スペイン人はその怖るべき且つ非人間的取扱いによっ
て千二百万の人間――その中には婦人も子供もいた――を剿滅したと主張して差支えない。予自身
の意見によればこの時代に殺された土人の数は実に千五百万を越えている。
」ハンデルマン 【 Heinrich
】は言う、
「ハイチ島では、一四七二年にスペイン人が発見した土人の数は百万に上
Handelmann, 1827-91
っていたが、一五〇八年にはこの百万の人口のうち生存していたものは僅かに六十万、そして九年後
には更らに十四万にすぎなかった。かくてスペイン人は必要数の働き手を得るために、附近の島から
インディアンの輸入をしなければならなかった。一五〇八年だけでも、バハマ島から四万の土人がハ
イチ島に輸入され、奴隷にされた。」スペイン人は堂々と銅色人種狩りを行った。このことは、その
時の目撃者にして参加人だったイタリア人ギロラモ・ベンツォニが吾々に書き残している。即ちベン
わか
ツォニは、クマーグナ島でそういう土人狩りが行われて、四千のインディアンが捕われた後で、こう
書いている、「食物の欠乏のためと、親や児と訣れた悲嘆のためとで、囚われた土人の大部分はクマ
ニ港への途中で、死んでしまった。奴隷の中で疲労のため仲間と同じ速さで進めない者があれは、ス
216
ペイン人は、その人間が後に止まって背撃を加えはしないかという心配から、背後から匕首で刺して
むごたらしく虐殺した。これらの不幸な生物が、まる裸で、疲れ切って傷だらけになって、飢のため
にヘトヘトになって、立っていることもできないばかりになっているのを見るのは、胸の張り裂ける
ような光景であった。鉄の鎖がその頸や手足を縛りつけた。娘のうちでこの強盗(スペイン人)のた
めに暴行を加えられなかったものは一人もなく、忌まわしい荒淫の犠牲にされて、娘の多くは永久に
梅毒の犯すところとなった。……奴隷にされた土人はすべて灼熱した鉄で記号をつけられる。ついで
奴隷の一部を隊長が取り、あとは兵卒の間に分配してやる。兵卒はそれを賭博に賭けるか、スペイン
人の移民に売ってしまう。商人はこの商品を、葡萄酒、麦粉、砂糖、その他日用品と換えて、スペイ
ン植民地のうちで最も奴隷の需要がある部分に輸送する。この不運者の一部は輸送中に、水の欠乏と
船室の空気の悪いのとで落命してしまう、というのは、商人はすべての奴隷を船底に幽閉して、坐る
場所も新しい空気もなくしているからである。」しかしそれでもスペイン人は、銅色人狩りの手数と、
奴隷を購求する費用とを免れるために、西インド領とアメリカ大陸とに、謂わゆるレパルチミエント
むらおさ
ス制度、即ち国土分割制度を布いた。即ち占領地域全体が総督によって幾つかの囲いに分割され、囲
いの村長「カチーケン」は、要求された人数だけの土人を奴隷としてスペイン人に差出す義務を負わ
された。そして各スペイン移民は、総督から定期的に或る人数だけの奴隷を給与された、但し「奴隷
をキリスト教に政宗させるように骨を折る」という条件付きで。奴隷に対する移民の虐待は想像に絶
第3章 経 済 史 (二)
217
した。自殺でさえもインディアンにとっては救いとなった。その時代の或る一人(アコスタ 【 José de
】
)は言う、「スペイン人に捕われたすべての土人は、遠く家郷を離れた銀山にやられて、
Acosta, 1540-1600
不断の体罰の威嚇の下に、非常に骨の折れる仕事を強要される。されば幾千という奴隷が、外にこの
恐ろしい運命から遁れる見込みがないので、首を縊るか、身を投げるか何かして、われと我が命を断
つだけでなく、自分達に普通な、どうにもこうにもならない不幸な境遇を一度に片附けるために、前
の著書からの孫引き】
Kovalevsky
もって自分の妻子を殺すに不思議はない。また他方では女は胎児を堕ろすか、奴隷を生みたくないた
ざんげ
めに男との交りを避けるかしている。」【ハイチの件以外は
悔聴聞僧、聖父ガルチア・デ・ロヨラの斡旋で、ハップスブルグ家
最後にスペイン移民は、皇帝懺
のカール五世からインディアンを総括してスペイン移民の世襲奴隷と宣した勅令を得るに至った。ベ
ンツォニはこの勅令はカライビ食人種族だけに関するものと考えてはいるが、事実は一般インディア
ンの上に拡張され、適用されていたのである。スペイン移民は自己の暴虐を弁護するために、人食い
その他インディアンの悪徳に関する途方もない幽霊話を計画的に流布したために、たとえば同時代の
の翻
フランスの史家マリー・ド・シャテルは、その著『西インド総史』(パリ、一五六九年刊 【 Gómara
訳】
) の 中 に、 イ ン デ ィ ア ン に つ い て こ ん な こ と を 記 し て い る 、
「神はその悪業に対して彼等を奴隷で
罰し給うた。けだしその父ノアに対して罪を犯したハムと雖も、インディアンが上帝を冒涜している
ほどには至らない。」それにも拘わらず、これと略々同時代にスペイン人のアコスタは、その著『イ
218
ンドの自然および道徳誌』【 "The natural & moral history of the Indies"
】
(バルセロナ、一五九一年刊)の中に、
この同じインディアンについて次の如く書いてある。彼等はいつでもヨーロッパ人に親切を示そうと
している「気立ての善い」民族であって、その態度は気もちのよい無邪気さと正直さを表しているの
で、人間の本心を全然失っていない人間なら、誰でも情愛を以て彼等を遇しないわけには行かないだ
ろうと 。
一五三一年に法皇パウロ三世は諭令を発して、
スペイン人の暴虐に反対する企てもあるにはあった。
インディアンは人類に属するものだから奴隷を免かるべきであると説いた。スペイン西インド枢密院
カソリック
も後に奴隷制度に反対を声明したが、これらの努力は勅令の再発によって、その公明よりもその無効
を証明 し た の で あ る 。
特力僧侶の敬虔なる行動でもなければ、スペイン
インディアンを奴隷状態から解放したものは、加
国王の反対でもなく、インディアンは生理的および精神的構造から見て、苛重な奴隷労働には絶対に
役立たなかったという簡単な事実であった。こういう有りのままの不可能に対しては、スペイン人の
極度の暴虐も永くは如何ともできなかった。この銅色人種は蝿のように奴隷世界の中に落ち込んで、
逃げ出すか命を落すかしてしまう――一言でいえば、この仕事は極めて引き合わぬものとなった。そ
してインディアンのための倦むことなき慈悲深い擁護者、ラス・カサス僧正が、役に立たぬインディ
アンの代わりに逞しい黒人をアフリカから奴隷として輸入するという考えを案出した時に、初めてイ
第3章 経 済 史 (二)
219
ンディアンを以てする無益な実験が廃止されたのであった。この実際的な案出は、スペイン人の暴虐
のことを書いたラス・カサスのパンフレットよりも、急速に且つ徹底的に效果を奏した。インディア
ンは二三十年後に奴隷から解放され、黒人の奴隷制度が始まり、爾後四世紀の間も続く運命となった。
十八世紀に一人の善良なドイツ人、コルベルヒの「大胆な老ネッテルベック」が、ギネアから南アフ
リカのグアヤナ――矢張りここでも別の「大胆な東プロシヤ人」が植民地を搾取していた――に向う
船の船長として、数百の黒人奴隷を輸送したことがあるが、これは他の商品の外にアフリカで仕入れ
ゆううつ
たものであって、彼は十六世紀のスペインの隊長が行ったと同様に船の下層に押し込んで運んだので
あった。だが啓蒙時代の人智の進歩はここにも現れて、ネッテルベックは奴隷の間に幽鬱病と死亡と
を防ぐために、毎晩奴隷を甲板にあげて、音楽と鞭打ちの響きの下に踊らせたのだが、昔の粗野なス
ペイン奴隷貿易商はそういうところまでは気が付かなかったのである。そして十九世紀末の一八七一
年には、ナイル河源を発見するためにアフリカに三十年間を送った貴きダビッド・リビングストンは、
アメリカ人のゴルドン・ベネットへの有名な手紙に次の如く書いた、
「私がウディディイにおける事
情の真相を明らかにしたことが、東アフリカにおける怖るべき奴隷貿易を打切らせることになるなら、
私はこの成功をどんなにナイル河源の発見よりも高く考えるだろう。貴下の国では奴隷制度は何処で
かび
じゅそ
も廃止されている、願わくはこれをなお達成するために、貴下の力強き助力の手を吾々に貸されんこ
とを。この美しき国土は黴症か、いと高きものの呪咀かを負わされているようである。
」
220
しかしとにかくスペイン植民地におけるインディアンの運命は、こういう激変によって毫も改善さ
れなかった。従来の植民制度に代って、別な植民制度が現れただけである。住民の直接的奴隷制度を
基礎とせる従来の「レパルチミエントス」の代わりに、
謂わゆる「エンコミエンダス」が実施された。
コンキスタドール
この場合形式上は住民に対して、人身的自由と、土地の完全なる所有とが認められた。ただその地域
がスペイン移民、就中最初の征服者の後裔の行政的指揮の下に置かれていただけあって、彼等はイン
ディアンを未丁年者と見做して、「エンコメンデロス」として後見を行い、併せてまた土人の間にキ
リスト教を弘布する役目をもっていたのである。土人のための教会建築の費用を充てたり、後見役と
しての自分等の辛労に酬いたりするために、「エンコメンデロス」は、「相当の金納税および現物税」
を住民から要求する権利を法律によって享有していた。この規定はやがてインディアンにとって、「エ
すき
ンコミエンダス」を地獄のように思わせるに充分だったのである。なるほど土地は彼等の手に委ねら
れ、しかも種族の不分割財産として渡されてはいた。しかしながらスペイン人は、これを直接犂に触
れている耕地のみと解したか、または解しようと欲した。不分割共同地も、使用されていない地所も、
それどころか往々休耕の農圃すらも、「荒地」としてスペイン人のために横領されたのである。しか
もそれは極めて徹底的に且つ厚顔無恥に行われたのであって、ツーリタが記しているところを見ても
分る、「土人の利益や所有権を侵害することなどには頓着なく、ヨーロッパ人の所有と宣せられなか
った農地は一つもなく、かくて土人は太古の時代以来住んできた地域を手離すことを余儀なくされた。
第3章 経 済 史 (二)
221
彼等が現に耕作している地所さえも、ヨーロッパ人の収用を防止する目的のために播種したにすぎぬ
という口実の下に、彼等から取り上げられることも稀れではない。こういう制度のおかげでスペイン
人は二三の地方では、自分等の所有を非常に拡張して、土人には耕やすべき土地が少しもあとに残ら
ないほどである。」それと同時に「相当な税」はスペイン人の「エンコメンデロス」のために厚顔無
恥に高められ、インディアンはその苛税の重荷で圧死するほどであった。同じくツーリタはこう言っ
ている、「インディアンの動産および不動産の全体を以てしても、課税を払うには足りない。インデ
ィアンの間には、財産が只の一ペソ(約二円)にもならないで、日々の賃労働で生活している人間が
いくらでもいる。こういう具合にしてこの不幸なる人々には、家族を養ってゆくに充分な物資は決し
て残らない。若人が往々にして正直な稼業よりも破廉恥な稼業を択ぶのは、こういう理由からであっ
て、殊に両親が四レアールか五レアール(一レアール=約二十五銭)以上の銭を自由にすることがで
きない場合はそうである。インディアンは衣服の贅沢を殆んど許されない。衣服を買う金がない多く
の人々は神事に列する資格がないのである。彼等の多数が、自分等の家族に対して必要な食物をとと
のえる資力を見出し得ないで、絶望に陥っているのは不思議ではない。……最近の旅行中に、予は幾
多のインディアンが、課税を払える見込がないからと妻子に説き聞かせてから、絶望のうちに縊死し
最後に、土地の強奪と課税とを補うものとして強制労働がくる。
十七世紀初にはスペイン人は、
往々、
たのを見聞した。」
222
十六世紀には形式上廃棄されていた制度に逆戻りをしている。なるほどインディアンに対して奴隷制
度は廃止されはしたが、その代わりに、その本質はこれと殆んど区別のない強制賃労働という一種独
特の制度が現れてくる。すでに十六世紀の半ばにツーリタは、スペイン人の下におけるインディアン
賃労働者の状態を次の如く書いている、「インディアンはこの全期間に亙って、玉蜀黍パン以外には
何の食料も得ない。……エンコメンデロスは彼等を朝から夜中まで働かせ、その間彼等に半分腐った
パンしか食物を与えないで、朝霜夜霜の中に、暴風雷雨の下に裸のままで放っている。……インディ
アンは野天の下で夜を明かす。賃銀は強制労働の期間の終りに初めて払われるので、入用の暖い着物
を買う金がないのである。エンコミエンダスにおけるかかる状態の下では、労働が彼等の上に極度に
疲弊困憊を来たすものであって、インディアンの急速な死亡の原因の一と見做すことができるのに不
思議はない。」この強制賃労働の制度は、今や十七世紀の初めにスペイン王室から、公式に且つ一般
に法律を以て実施された。インディアンは自由意志では働きたがらない、しかしインディアンなくし
ては、黒人の現在数を以てしても鉱業を営むことは極めて困難だという原則が、その根拠となってい
る。インディアンの村落は今や必要な人数だけの労働者をととのえて(ペルーでは人口の七分の一、
)、エンコメンデロスに否応なしに差し出す義務がある。
新イスパニアでは人口の四プロセント 【%】
この制度の致命的結果は間もなく明らかになる。『俗界および宗教界におけるチリー王国の危険なる
状態についての報告』と題するフィリップ四世への匿名建白書には、次の如く書かれている、
「土人
第3章 経 済 史 (二)
223
の数の激減についての周知の原因は、鉱山並びにエンコメンデロス農園における強制労働の制度であ
る。スペイン人は非常な数の黒人を自由に使用し得ながら、そしてインディアンに対しては、征服以
前に彼等が酋長に支払っていたよりも比較にならぬほど高い租税を課していながら、しかも強制労働
の制度を放棄することはでき得ないと考えている。
」
その外にも強制労働の結果として、インディアンが屡々自分の田地を耕やすことができなくなり、
これがまたスペイン人に、その田地を「不毛地」として捲き上げる口実を与えた。インディアン農業
の衰滅は、豊饒な土地を自然に高利貸の手に渡した。
「インディアンは土着の支配者の下では何等高
利貸というものを知らなかった」とツーリタは言っている。スペイン人はそういうインディアンに、
この貨幣経済と苛税との開化を徹底的に知らしめたのである。負債に併呑されてインディアンの地所
こま
は、単にスペイン人に強奪されたばかりでなく、スペイン資本家の手に集団的に移って行った。そし
ちゅうとう
てこの場合の不動産の地価の見積りは、それ自身ヨーロッパ人の卑劣を示す特別の一齣を成すもので
ある。かくして土地の偸盗、租税、強制労働、高利貸が一箇の鋼鉄の如き環を結んで、インディアン
のマルク組合の存在はその環の中で滅茶々々に崩れてしまった。インデイアンの伝統的な公共的秩序、
祖先伝来の社会的紐帯は、すでにその経済的土台――マルク組合的農業――の崩壊によって消滅して
むらおさ
しまう。そしてこの経済的土台はまた土台で、すべての伝統的権威の粉砕によって、スペイン人のた
めに計画的に滅ぼされたのであった。村長と種族酋長とは「エンコメンデロス」の裁可を必要とした
224
のであるが、これは只彼等の生き物――極度に衰頽せるインディアン臣民――の単なる上置きにされ
ていたにすぎなかった。それにスペイン人の御得意の手段の一つは、酋長に対してインディアンを煽
動することであった。土人を酋長から搾取されないように保護してやるという、キリスト教的目論見
を口実にして、スペイン人はインディアンに対して祖先代々古くから酋長に納貢してきているのを、
する必要がないと説いて聞かせた。ツーリタは言う、
「スペイン人は現代スペインに行われているこ
とを根拠として、酋長は部下の種族を掠奪すると主張しているが、スペイン人自身がそういう圧制に
責任がある。何故なら旧来の酋長から地位と収入とを取って、一般インディアンの中から新しく任命
むらおさ
したものを以てこれに代えているのは、外ならぬスペイン人自身の仕事だからである。
」また個々の
マルク組合員がスペイン人に違法に土地を売ったのに対して、村長や種族酋長が抗議した場合も、ス
ペイン人は同じような陰謀をめぐらした。慢性的叛乱と、個々の土人間の不法土地売却に対する無限
の連続的訴訟とがその成果であった。零落、飢餓、奴隷に、もう一つ無政府状態が加わって、インデ
ィアンの生活を完全に阿鼻地獄たらしめた。こういうスペイン人のキリスト教的後見の総勘定は、二
つの言葉に尽きた。土地がスペイン人の手に移ったこと、
インディアンが死滅したことがそれである。
ツーリタは言う、「インドにおけるすべてのスペイン領域では、土人の種族が――二三の人はその反
対のことを主張してはいるが――全然消滅するか、乃至は数を減少するかしている。土人は住居と地
所とを捨ててゆく。土人にとっては住居も地所も、無際限の現物税や金納税のために価値が無くなっ
第3章 経 済 史 (二)
225
てしまったのだ。彼等は他国に出て、一つの地方から他の地方へと放浪するか、危険を冒して森林の
中にかくれて、晩かれ早かれ野獣の餌食となる。自殺で自分の生涯を断ってしまう土人が沢山あるこ
とは、予自らが目撃したり土地の住民に聴いたりして、これを確証する機会にいくらも出会った。
」
そしてその半世紀後には、同じくペルー駐在のスペイン政府の高官、エアン・オルテル・デ・セルヴ
ァンテスは次の如く報じている、「スペイン植民地における土着人口は、段々稀薄になりつつある。
土人は従来の住所を棄て、土地を耕やさずに放っておくので、スペイン人は必要な人数だけの耕作者
と牧畜者とを見出すのに骨が折れる。謂わゆるミタヨス人――この種族がなければ金銀鉱の仕事は不
の著書からのものとのこと】
Kovalevsky
可能となるのだが、彼等はスペイン人の住んでいる都市を去ってしまうか、留まっていても恐るべき
速度を以て死滅するかしている。」【ここまでの引用はもっぱら
そういう経済が行われていたにも拘わらず、インディアン民族とマルク組合制度とが十九世紀にい
たるまで残骸を保ってきたのを見て、人々は実際この両者の奇蹟的な粘ばり強さに驚嘆するに相違な
い。
別な方面から古代マルク組合の運命を吾々に語るものは、イギリスの大植民地たるインドである。
世界の何処の一角よりも、ここに吾々は土地所有のありとあらゆる形態の一箇の見本図を研究するこ
とができる。そして同時にこの見本図は、ヘルシェルの星辰図のように、平面図に投影された数千年
の歴史を現しているのである。村落共同体と並んで氏族共同体があり、平等な割地の定期割替と並ん
226
で不平等な割地の終身的所有があり、共同土地耕作と並んで私的単独経営があり、共有地に対する全
村落居住民の権利の平等と並んで或る種の群団の特権があり、そして最後に、すべてこれらの共有の
形態と並んで土地の私有があり、そしてこの私有はまた自作農矮小地の形もあれば、短期小作地、巨
大地所の形もある――すべてこれらのものは、インドでは二三十年前には実物大のまま研究すること
ができた。インドにおけるマルク組合が太古の時代のものであることは、インドの幾多の法制的典拠
が確証しているところである。たとえば法典に編纂された最古の習慣法たる、紀元前九世紀頃のマヌ
法典がiそうであって、その中にはマルク間の境界争いに関する規定や、不分割共同地に関する規定や、
親マルクの不分割地に分村が移住する場合の規定などが無数に含まれている。この法典は自己の労働
に基づく財産だけしか認めず、なお手工業を農家の副業として述べ、またブラーマ即ち僧侶の経済的
権力に制限を課して、それに動産を贈与することだけを許している。後代の土着的諸侯たるラーヂャ
は、この時代にはまだ選挙された種族酋長たる役目をつとめている。その後の紀元前五世紀にできた
ヤヂナワルキヤ 【ヤージュニャヴァルキヤ】およびナラーダ 【ナーラダ】の両法典もi、社会組織としての
氏族団体を認めており、公権力も裁判権も、ここではマルク組合員の総会の手におかれている。マル
ク組合員は個人の犯罪に対して連帯責任を負う。村落の首端には選挙されたマルク酋長が位している。
ii
に成立したと推測されている。
マヌ法典を紀元前九世紀とするのは過ちで、紀元前後二世紀、 B.C.200~A.D.200
両法典を紀元前としているが、マヌ法典の後、三,四世紀ごろの法典である。
第3章 経 済 史 (二)
227
i
i i
i
両法典とも、最も平和で公平な最良の組合員をこの職に選挙して、それに対して無条件的に服従すべ
きことをすすめている。ナラーダ法典はすでに二種のマルク組合を分けている――「親族」即ち氏族
組合と、「共同居住者」即ち非血族の地域的団体たる近隣者共同体とがそれである。しかしながら両
法典とも、矢張り自己の労働を基礎とせる財産のみを認め、遺棄された土地は、それを耕作するため
に占領せる者に属し、違法所有地は、所有者自身の労働が伴わない場合には三代後に至っても承認さ
れない。故に吾々はこの時代までは、まだインド民族が原始的な社会的紐帯と経済関係との下に生活
していたのを見る。即ちインド民族はインドス地域においても、またその後ガンヂス地方征服の英雄
時代となって、ラーマヤナ 【ラーマーヤナ(全訳あり東洋文庫)】およびマハーバーラタ 【紀元前後四世紀の作】
という偉大なる民族叙事詩が生まれた時にも、数千年に亙ってそういう原始的事情の下に生活してい
たのである。旧法典に対する注解――これはつねに深甚なる社会的変動に特有な徴候であって、旧来
の法律的見解を新たなる利益関係に応ずるように変化させ、解釈せんとする努力の表徴であるが、こ
け
ういう詳解がやがて現れたことは、注解者の活動時期たる十四世紀までに、インドの社会がその社会
的構成に徹底的変動を閲みしてきたことを示す一つの明瞭な証拠である。注解者は旧法典の明瞭な文
句に――封建的西洋における同じ仲間のキリスト教注解学者の場合と全然同じく――「解説」を試み
て、僧侶の土地所有を是認し、ブラーマ 【バラモン(司祭階級)】に対する土地の贈与を奨励し、かくし
て農民大衆を犠牲にしてマルク所有地の分配と、寺領大土地所有の形成とを促進するにつとめている。
228
こういう成行きはすべての東洋社会の運命に典型的なものであった。
東洋の大多数の地方において、比較的進歩せる農業の生命問題は、人口的潅漑である。故に吾々は
インドにおいても、エジプトにおいても、すでに夙に農業の堅実なる基礎として、大規模な潅漑工事、
運河、貯水池、または農業を周期的氾濫に順応させるための計画的予防設備を見るのである。すべて
これらの大規模な企図は、当初から個々のマルク組合の力に余るものであって、その発起や経済計画
を以てしてはできなかった。これらの計画を指揮し実行するには、個々の村落団体の上に位しその労
働力をヨリ高級な単位に総合することのできる一個の権威が必要であった。それに加えるに、村落の
境界内に閉じ込められていた農民大衆の観察および経験の分野におけるよりも、もっと高い程度に自
然律を統御することが必要だった。こういう必要から、東洋における僧侶の重要な職分が生じたので
あって、僧侶はどの自然宗教にも必ず伴っている自然観察によって、並びにこれは一定の発達段階に
当然起こることであるが、農業労働への直接の参与から解放されていることによって、潅漑という大
公共企業を行うに最もよく適していたのであった。ところがこういう純経済的職分から、時を経るに
カースト
つれて、自然に僧侶の或る特殊の社会的権力が生じた。即ち分業から生じた一つの社会部分の専門化
が、農民大衆に対する特権および搾取利益を伴える一個の世襲的鎖封的身分と化したのである。こう
いう過程があれやこれやの民族の間にどんな速度で、どんな範囲で運ばれたか、ペルーのインカ人の
場合におけるように萌芽的な形でとどまっていたか、それともエジプトまたは古代ヘブライ人の場合
第3章 経 済 史 (二)
229
のように、僧侶階級の正式の国家支配、即ち祭司政治にまで発達したかということは、つねに特殊の
ないし
地理的および歴史的事情によって決せられたのであって、殊に隣接民族との度々の戦争的衝突の結果、
僧侶階級の外に、有力な武人階級が出現して、この階級が軍人貴族として僧侶階級と覇を争い、乃至
は僧侶階級の上に立っていたかどうかによって決せられたのであった。しかしながらどの道、古来の
共産主義マルクが特殊的に各個独立主義的に局限されていたために、その組織は経済的性質の任務に
しろ、政治的性質の任務にしろ、比較的大きな任務には適せず、随ってマルク以外の、そしてマルク
の上に位する権力の支配に帰し、この権力が右の職分を取り上げたのである。たしかにこういう職分
の中に、農民大衆を政治的に支配し、経済的に搾取するための鍵鑰が存していたのであって、東洋の
野蛮的征服者は――モンゴル人たると、ペルシャ人たると、アラビア人たるとを問わず――すべてい
つの場合でも、征服した国において軍事的権力の外に、農業の死活条件たる大公共企業の指揮および
実施を掌握したのである。ペルーにおいてインカ人が人工的潅漑工事や道路および橋梁の建設に対す
カースト
る監督を、自己の特権とも義務とも見做していたように、インドでは幾世紀のうちに互いに交代して
きた種々のアジア的専制王朝は、これと同じ仕事を引受けていた。そういうわけで世襲的身分が形成
されたにも拘わらず、専制的外人支配がその国の上にかぶさっていたにも拘わらず、幾多の政治的政
革があったにも拘わらず、インド人社会の居住地の中に村落が静かにつつましやかな存在を保ってい
たのである。そして各村落の内部にはマルク制度の太古からの伝統的律令が行われていて、これらの
230
け
律令は騒々しい政治史のかげで、静寂な、人目につかぬ自分自身の内部的歴史を閲みし、古き形態を
脱ぎ棄て、新しい形態を取りあげ、繁栄、衰退、分解、改造を閲みしてきたのであった。如何なる記
なまぐ
録者もこういう成行きを記録して来なかった。そして世界歴史はマセドニアのアレキサンダーの大胆
なるインドス河源の遠征を記載し、血腥きタメルラン 【=「びっこのティムール」】およびそのモンゴル
人の戦争騒ぎや何かでいっぱいになっていながら、インド民族の内部的経済史については全然口を噤
んでいる。吾々はこの内部的歴史の古い断層の残片からのみ、インド民族の共同団体の臆測的な発展
図型を組立て得るだけであって、こういう重要な学問的任務を果したのは、実にコヴァレフスキーの
功績なのである。コヴァレフスキーに従えば、なお十九世紀半ばに至ってもインドにおいて目撃され
たる土地共同体の各種型式は、次の如き歴史的順序に排列することができる。
一、最古の形態と目さるるものは、一氏族の血族者総体を包含し、土地を共有し、またそれを共同
に耕作しているところの純氏族共同体である。従ってここでは共同体耕地も不分割共同地であって、
共同村落穀倉に保管される収穫物だけが分配されるにすぎぬ。こういう村落共同体の最も原始的な形
態は、北インドの僅々二三の地方において維持されていたにすぎぬが、しかもその村落共同体の住民
)に限られていた。コヴァレフスキ
は、大多数の場合古代氏族の若干分枝( 【キューピッドたち】
putti
父系家族制】
」と比論した結果、これを原
ーはボスニアおよびヘルツェゴビナの「ツァドルガ 【 Zadruga
始的血族の解体の産物と認め、この血族が時を経るにつれて人口増加の結果若干の大家族に分裂し、
第3章 経 済 史 (二)
231
それがまたそれぞれ所有地と共に分かれたのであると認めている。前世紀の半ばにはまだこういう型
の顕著なる村落共同体が存在していて、そのうちの或物はたとえば百五十人以上の成員を有し、或物
は四百人からの成員を有していた。しかし主として存在していたのは小村落共同体の型であって、こ
れは特別な場合にのみ、即ちたとえば所有地を譲渡した場合などに、昔の氏族の範囲内で、もっと大
きな親族団体に合成したが、普通の場合は厳格に規律された隔離的生活を営んでいたのであって、マ
ルクスはイギリスの資料によって、『資本論』の中にこの生活の荒筋を叙べている。 ——
「たとえば一部分はなお存続しているところの、太古の小さなインド共同体は、土地の共有と、農業お
よび手工業の直接の結合と、並びに新共同体を建設する場合に既存の雛形および筋書として役立つところ
の、一の固定した分業とに立脚している。これらのインド共同体はそれぞれ自足的な生産的全一体を成し
0
0
ていて、その生産範囲は一百エーカーから約一千エーカーにいたるまで色々ある。生産物の主たる大量は
0
共同体の直接の自己必要のために生産されるのであって、商品として生産されるのでなく、従ってインド
0
の社会全体として、生産そのものは商品交換がもたらす分業には係わりない。ただ生産物の過剰のみが商
品に転化するのであって、それも一部分は国家の手によって初めて行われる。生産物の一定量は、想像す
べからざる古い時代から、国家の手に現物地代として流れ込んでいるのである。インドの種々の部分は、
それぞれ種々の形の共同体を有している。その最も単純な形のものとしては、共同体が土地を共同に耕作
し、土地生産物をその成員の間に分配すると共に、一方では各家族が紡績、機織等を家内副業として営ん
232
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でいる。これらの同一種類の仕事に従っている大衆の外に、なお次の人々が存在しているのを見る。即ち
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裁判官、警察官、収税吏を一身に兼ねている「首脳住民」、農業上の計算を行い、農業に関する万事を評
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価し入帳する薄記係、犯罪者を起訴し、外来の旅人を保護し隣村に案内する今一人の吏員、隣村との境界
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を見張る境界係、農業上の目的のために共同貯水池から水を分配する給水監督者、宗教上の礼拝を司る婆
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羅門僧、村童に砂で読み書きを教える教師、占星者として播種期、収穫期を知らせ、あらゆる特殊農業労
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働に対してそれぞれ吉凶の時間を知らせる暦憎、すべての農具を製作し修理する鍛冶工および大工各一名、
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村で必要なすべての容器をつくる陶工、理髪師、衣類を洗い浄める洗濯工、銀細工師、また所によっては
詩人――これは或る村では銀細工師に代わり、他の村では教師に代わる。これらの十数の人々は村全体の
費用で養われる。人口が増加すると、従来の村を手本にして新しい村が未耕地に設立される。……村の分
業を調節する法則は、ここでは一個の自然律たる犯すべからざる権威を以てはたらく。……絶えず同じ形
で再生産され、そして偶々破壊される時は同じ場所に同じ名で再興されるところの、これらの自足的共同
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体の単純なる生産機構は、アジアの社会が一貫して変化しなかった秘密を闡明する鍵鑰を与えるものであ
る。実にこのアジアの社会の不変性は、アジアの国家の不断の興亡と絶え間なき王朝の交代とに対して著
*
しい対照を成している。社会の経済的基本要素の構造は、政治的雲界の狂乱に係わりなく、いつまでもそ
」【圏点は底本では省かれている。ローザの引用文、マルクスの文(最初の「商品」以外)にはある。】
のままでいるのである。
* マルクス著 資本論 第一巻、第四版、第三二二頁。第四篇第二章第四節。【第四篇第十二章「分業と
〕
マニファクチャー」第四節「マニファクチャー内部における分業及び社会内部における分業」】
第3章 経 済 史 (二)
233
二、イギリス人侵略時代には不分割耕地を伴える原始的氏族団体は、大部分すでに瓦解していた。
しかしその瓦解から或る一つの新たな形のものが発生した。即ち分割耕地を伴える親族共同体である
が、平等でなく不平等なる家族割地を伴っているのであって、その割地の大きさは曾祖から見た等親
の度合に精密に依存していたのである。こういう形のものは西北インドにもガンヂス地方にも非常に
ひろがっていた。この場合割地は終身でも世襲でもなく、人口の増加のためや、一時不在だった親族
に耕地の分け前を与えるために、割替が必要になってくるまで、家族の所有となっているのである。
しかしながら往々こういう新たな要求は、一般的な割替によってでなく、新たな割地を未耕共同地に
あまつさ
振り当てることによって充たされた。こういう具合にして家族割地は往々――法律上でなくとも事実
上に――終身となり、剰え世襲とさえなるのである。しかしこういう不平等に分配された耕地は別と
して、林地、沼地、草地、未耕地は依然としてすべての家族の共有であって、共同に利用されている。
ところがこの不平等の上に立脚している奇妙な共産主義的組織は、時を経るにつれて新しい利害と矛
盾するにいたる。代が後になる毎に、各個人の等親の度合を確定することがますます困難になり、血
縁の伝統が薄くなり、そして地割で損をしている者は家族割地の不平等なことを、段々不公平と感
ずるようになる。他方では多くの地方において、親族の一部が移住したり、戦争で住民の一部が剿滅
されたり、外来者が入り込んで来たりするために、勢い人口の混合が生じてくる。そういう具合で、
外見上は事情が不動不変であるように見えるに反して、共同体の住民は地味に応じていくつかの圃
234
( wund
)に分たれ、そして各家族は潅漑の良い圃( sholgura
)の中にも、潅漑の悪い圃( culmee
)
の中にもそれぞれ条田を受けるようになる。割替は最初のうちは、少なくともイギリス人侵略以前に
は定期的でなく、人口の自然的増加の結果、家族の経済的地位に事実上の不平等が生じた度毎に行わ
れていた。特にこれは利用し得べき圃の貯えを有する、土地の豊富な共同体において行われていた。
もっと小さな共同体では、割替は、十年毎、八年毎、五年毎、往々一年毎に行われていた。そして一
年毎の割替は、優良な圃が欠乏しているために、これをすべての組合員に毎年平等に分配することが
不可能な場合、従って種々の圃を交代的に利用することによってのみ、均等に公平の実を挙げ得る場
合に、特に行われていた。かくてインドの氏族共同体は瓦解して、史上にゲルマン民族マルク組合の
起源と認められているところの形態を以て終っているのである。
において、古代共産主義経済組織がヨーロッパ資本主義と衝突せ
吾々は英領インドおよびアメリカ i
る場合の絶望的闘争と、その悲劇的終結との二つの典型的実例を学んだ。しかしマルク組合の変遷極
まりなき運命の図景は、結びとして或る一国の不思議な実例を顧みないなら完全だとはいえまい。そ
の一国では、一見歴史が全然別個の経済を取ってきたのであって、即ちそこでは国家が、農民的共有
制度を強力的に破壊せずに、正反対にこれをあらゆる手段を以て保護し保存せんとつとめた。この国
とは即ちツァール国ロシアである。
第3章 経 済 史 (二)
235
i
底本では「アメリカ」であるが、岡崎訳によると「アルジェリア」であり、その件は『資本蓄積論』で触れていると。
i
吾々はここでは、ロシア農民の共同耕作制度の起源について、数十年に亙って行われてきた理論
上の大論争には触れるわけに行かぬ。ロシアにおける共同耕作制度は原始的な歴史的産物ではなく、
ツァール政治の財政政策の人為的産物だったという、ロシアの大学教授チチェリン 【 Boris Nikolaevich
】の一八五八年の「発見」が、
ドイツの学者の間に熱心な採用と同意とを獲たことは、
Chicherin ,1828-1904
只々当然のことであったし、また原始共産主義に反対な、今日のブルジョア学問の一般的気もちと一
致するものである。矢張りチチェリンの説も、自由主義学者というものは、歴史家としては反動派学
者よりも多くの場合はるかに役立たずであることを示す一つの証拠なのであるが、チチェリンはマウ
ラー以来西ヨーロッパに対しては明確に無効になっている散居説、即ち十六世紀および十七世紀に初
めてこの散居から群居村落が発生したという学説を、なおロシアに対して採用している。この場合チ
チェリンは、共同耕作と強制耕作とを農場交叉から派生せしめ、共同土地所有を境界争いから、そし
てミール組合の公権力を、十六世紀に実施された人頭税のための納税連帯責任から派生せしめている。
即ちすべての歴史的相互関聯、原因と結果とを極度に自由主義的に逆立ちさせているのである。
しかしロシアにおける農民共同耕作制度の年代および起源が如何に考えられていようとも、とにか
くこの共同耕作制度は農奴制度の永い歴史を過し、農奴の廃止を経て、最近時に至るまで生き残って
ロシア皇帝アレキサンドル二世 【 1818-81
】が謂わゆる「農民解放」を実施したとき 【 1861
年】
、農
きた。だがここでは吾々は、十九世紀における共同耕作制度の運命にだけ注意を向ける。
236
民は――全然プロシヤの手本に倣って――自分の土地を地主から売付けられ、この際地主は自称地主
他の最も劣悪な部分に対して、国庫から有価証券でたんまりと賠償され、農民に「貸与」された土地
に は 負 債 を 課 さ れ、 こ の 負 債 は 年 六 分 の 償 却 率 で 四 十 九 年 以 内 に 国 庫 に 皆 済 す る こ と に 取 定 め ら れ
た。しかしこの土地はプロシャにおけるように私有財産として各個の家族に分与されることなく、譲
渡も入質もしてならぬ共有財産として村全体にあてがわれたのである。土地買戻負債に対しても、す
べての租税公課に対しても、村全体が連帯責任を負い、村の各員の間の算定は自由であった。大ロシ
ア農民地の厖大な全地域はこういう具合に処分されたのである。九〇年代の初めには、ヨーロッパ・
ロシア(ポーランド、フィンランドおよびドン・コサック地方を除く)における総土地所有の分類は
次の如くであった――国有地、これは大部分北部の広大な森林地域と荒地とより成り、一五〇百万
【一億五千万】デシャチン(一デシャチン=一町一段四歩 【約一ヘクタール】
)を包含し、御料地が七百万
デシャチン、寺領地および市有地が九百万デシャチンを下らず、私有地が九三百万デシャチン、その
うち五%だけが農民に属し、残りは貴族に属していた。そして一三一百万デジャチンが農民の共有と
なっていた。一九〇〇年にはなおロシアにおいて一二二百万ヘクタール(一ヘクタール=一町二十歩)
が農民の共有となっていて、二二百万ヘクターだけが農民の私有となっていた。
こういう厖大な地域におけるロシア農民の経済が、最近の時代にいたるまで――部分的には今日に
おいてもなお――如何に営まれているかを見るならば、ドイツにもアフリカにも、ガンヂスにもペル
第3章 経 済 史 (二)
237
ーにも、あらゆる時代に普通一般に行われていたマルク組合の典型的制度を容易にここにも認めるこ
とができる。即ち一方に分割耕地があり、他方に林地、草地、河水が不分割の共用地をなしていた。
そして原始的三圃農業が一般に行われていた場合は、夏穀作地も多穀作地も地味に従って幾つかの圃
(カルテン)に分たれ、各圃はまたそれぞれ条田に分たれていた。夏穀作地は四月に、冬穀作地は六
月に分配される慣わしであった。土地の均分を精密に遵守したために、ひどい農場交叉が現れて、た
とえばモスクワ県では、夏穀作地と冬穀作地とに平均各々十一の圃が宛てがわれ、各農民は少なくと
も二十二の分散的割地を耕耘しなければならなかったほどである。村は普通に一定地面を別に取って
置いて、危急の場合のため共同用に耕耘され、乃至は同じ目的のために穀倉を設けて、各成員はこれ
に穀物を提供しなければならなかった。経済の技術的進歩は次の如くにして配慮されていた。即ち各
農家は自分の割地を、施肥するという条件の下に十年間保持することを許され、乃至は各々の圃に幾
フェルドシステム
つかの分地が仕切られて施肥され、十年毎にのみ割替された。同じ規則が大多数の場合、亜麻油、果
樹園および野菜園にも行われていた。
種式の決定、
種々の草牧地に対する共有畜群の分配、専属牧人の発見、牧場の囲込み、農圃の監視、耕
並びに個々の耕作上の仕事の時刻、割替の期間および方法の決定――すべてこれは共同体の仕事、即
ち村会の仕事であった。割替の度数はといえば非常に種々様々であった。たとえばサラトフ一県だけ
について見ても、一八七七年には、調査された二百七十八の村落のうちで、約半数が毎年割替を行い、
238
残りは二年、三年、五年、六年、八年、十一年毎にこれを行い、一般に施肥を実行していた三十八の
村は割替を全然廃止していた。
ロシアのミール組合に最も奇異なるは土地分配の方法である。この場合行われていた原則は、古代
ドイツ人の場合におけるような均等割当の原則でも、ペルー人の場合におけるような家族の欲望の大
きさによる原則でもなく、専ら納税力の原則であった。納税上の利害関係が農民解放以来村落共同体
の全生活を支配し、村落のすべての制度文物は租税を中心としていた。ツァール政府にとっては課税
の基礎として存在していたものは、謂わゆる「検閲人頭」だけであった。即ちピョートル大帝の下に
おける最初の農民人口調査以来、約二十年毎に有名な「検閲」によって確定されたところの、年齢の
*
区別を問わざる村落のすべての男子住民の謂いである。この「検閲」はロシア国民の恐怖であり、そ
の前にはすべての村が離散したのであった。
* ビョートルの勅諭によって一七一九年に行われた第一回の「検閲」は、敵国における一種の懲罰征討
のように編成された。軍隊は愚図ついている知事を捕縛し、これを官庁に監禁して、「改悛するにいたる
まで」そこに留めておく権利を与えられた。農民名簿の調製を委任されている僧正がその際に人頭の隠
匿を見遁した場合には、職を免ぜられ、
「高齢の者と雖も容赦なき体刑を加えられた後懲役に処せられる」
定めであった。
「人頭」隠匿の嫌疑ある人間は拷問にかけられた。後代の「検閲」はこれよりは緩やかで
はあったが、なお久しい間矢張り残酷に行われた。
第3章 経 済 史 (二)
239
政府は村に対して検閲された「人頭」数に応じて課税した。しかるに村は割宛てられた租税総額を
労働力に応じて農家に割宛て、このようにして算定された納税能力に応じて、各農家の土地の割当が
定められた。かくてロシアにおいては一八六一年以来、土地の割当は当初から農民の給養の基礎でな
く、納税の基礎たる形をとり、各農家が要求権を有する恩恵ではなく、各村民に国家に対する奉公と
して強要された義務だったのである。だから土地の分配が行われる場合の、ロシアの村会ほど奇妙不
可思議なものはない。土地の割当が多過ぎたという苦情を、いたるところに耳にすることができ、正
当な労働力を有しない貧しい農家、主として女や子供の家族を有する農家は、「無力」の故を以てお
慈悲で割当を免除され、これに反して富める農家は、貧農の大衆から否応なしに最大の割当を押し
つけられた。かくロシアの村落生活の中心となっている租税負担はまた莫大なものである。土地買戻
金額に加えるに、まず人頭税、村税、寺院税、塩税等があった。八○年代には人頭税と塩税とが廃
止されたが、それにも拘わらず租税負担は依然として巨額であって、農民のすべての経済要具を併呑
したのである。九〇年代の或る統計によれば、農民中の七〇%はその持地から最低生活費をも引き出
すに足らず、二〇%は食ってはゆけるが家畜を養うことができず、約九%だけが自家の需要以上の余
分を売りに出すことができたにすぎぬ。されば「農民解放」後も矢張り租税の滞納が、ロシア農村の
不断の現象となった。すでに六〇年において、一年に平均五千万ルーブルの人頭税の支払に比して、
一千一百万ルーブルの滞納があることを示していた。人頭税の廃止後も、八〇年以来ますます高額に
240
捲き上げられた間接税のおかげで、ロシア農村の貧困はますます増大した。一九〇四年には租税の滞
税は一億二千七百万ルーブルに上ったが、これは徴集が完全に不可能だったのと、革命的醗酵を顧慮
したのとで、殆んど全額を免除された。租税はやがて農民経済の全収入を併呑したのみでなく、農民
をして否応なしに副業を求めしめた。一面においては農業季節労働が、今以て収穫期になるとロシア
国内に全民族移動を誘致し、村民のうちの有力な男子は、自分等の持地を老人、婦人、未成年者の力
弱い労働力に委託して、地主領地に赴き、そこで日傭賃を稼ぎ出す。他面においては都市が、工場工
業が手招きする。かくて中部ロシアの工業区域には、冬の間だけ都市、しかも大多数は繊維工場に移
り、春になれば儲けを携えて村に帰って耕作に従事する一時的労働者の一つの層が形づくられた。最
後になおそれに加えるに、多くの地方には工業家内労働または農業上の偶然的副業、たとえば運搬仕
事や伐木の如きものがある。しかもそういうものがあっても農民の大多数の衆団は、それでもなお着
のみ着のままの生活を支えることが難かしかったのである。農業の成果ばかりでなく、すべての工業
的副業の成果も、悉く租税のために併呑されたのであった。租税に対して連帯責任を有するミール組
合は、組合員に対して峻厳な権力機関を国家から賦与されていた。ミール組合は租税滞納者を外部に
賃労働に貸してやって、その稼いだ金を没収することができ、また組合員に旅券を与えたり拒んだり
する権利があり、そして農民はこの旅券がなければ村から出ることができなかった。最後に、ミール
組合は、組合員が頑強に租税を滞納する場合は、体刑を加える法律上の権利を有していた。そこでロ
第3章 経 済 史 (二)
241
シアの農村はロシア内地の広大なる範囲に亙って、周期的に全く一種特別の光景を呈した。村に租税
取立ての期日が来れば、ツァール・ロシアが、「滞納の叩き出し」という専門的名称を案出した或る
一つの処置が始まる。村会は全員を以て開かれ、滞納者はズボンを脱いでベンチの上に横たわり、同
ト
ロ
イ
カ
じミールの仲間から一人一人笞で惨たらしく打たれねばならなかった。笞打たれる者――その多くは
髴の生えた家父や、往々白髪の老人――の呻吟と号泣とを後にして、御役人は仕事が済むと三頭馬車
かたい
に乗り、鈴の音を鳴らして別の村へと向って同じことをする。農民がこの公けの処刑を、自殺によっ
て脱れることも稀れではなかった。こういう状態のもう一つの奇妙な産物は
「租税乞丐【或は「きっかい」、
物ごい】
」であって、貧しい老農夫が乞丐杖に縋って、期限の来た納税額をあちらこちらで掻き集めて、
村に持って帰るために放浪に出る。
このように一個の租税搾出機械と化したミール組織を、国家は厳重に且つ不断に監視していた。た
とえば一八八一年の法律は、農民地は農民の三分の二の決議によってのみ村全体が手離すことを許さ
れ、但しこの場合内務大臣、大蔵大臣、国有地大臣の承認を要すという規定であった。個々の農民は
自分が獲得した世襲地産を、自分が属しているミール組合の仲間にのみ譲渡することを許され、また
農民地を抵当に取ることは禁ぜられた。アレキサンドル三世 【 1845-94
】の治下には村はあらゆる自然
権を剥奪され、「地方首長会議」――プロシャの「ランドレーテ」(地区行政最高機関―地区評議会)
に似た機関――の意のままに委ねられた。村会の決議はこの機関の承認を要し、土地の割替はその監
242
督の下に行われ、租税の賦課および徴収も矢張りそうであった。一九〇三年 【岡崎訳では
】の法
1893
律は時勢に迫られて部分的譲歩を行い、割替を十二年毎にのみ許容することを宣した。しかし同時に
ミール組合からの脱退は、村の同意を必要とし、且つその当事者が自分に割宛てられている土地買戻
かすがい
負債を皆済するという条件が課せられた。
こういう法律の人為的 鎹 で村を締めつけていたにも拘わらず、三人の大臣とチノフニキイ軍勢と
の後見にも拘わらず、もはや村の崩壊を停止させることはできなかった。圧死的な租税負担、農工業
的副業の結果による農業の衰微、土地の欠乏、特に土地買戻の際に大多数貴族のために強奪された結
果の草牧地の欠乏、それに加えて人口増加による使用耕地の欠乏――このすべては村落共同体の生活
の中に二様の重大なる現象を惹起した。都市への逃避と、村落内部における高利貸の出現とがそれで
ある。割地と工業的その他の副業とを一緒にしても、ただ徒らに租税を支払う役目をするだけで、極
度に窮乏な生活すらも支えることができなくなるにつれて、ミール組合に属していることはそれだけ
ぎょうぼう
農民にとって鉄の足枷となり、頸をしめる飢餓の鎖となった。そしてこの鎖から脱れることが、貧し
い村民の全大衆にとって当然翹望の的となった。幾百となき逃亡者は旅券なき浮浪人として、警察の
ためにそれぞれ村につれ戻され、そこでミール組合員によって見せしめのために笞打たれた。しかし
ながら夜陰に乗じて「村落共産主義の地獄」から都市に逃れ、工業プロレタリアートの大海の中に決
定的に身を沈めようとする農民の集団的逃亡に対しては、
笞も旅券の強制も無力であることを示した。
第3章 経 済 史 (二)
243
家族の足枷やその他の事情のために逃亡が思わしくできない人々は、合法的な方法でミール組合から
の脱退を実行しようと計った。ところがそれには土地買戻負債の皆済が必要だった、そしてその難儀
を救ってくれたものは――高利貸であった。租税の重荷のためにも、納税のために否応なしに穀物を
最悪の条件で売却しなければならぬためにも、ロシア農民は非常に早くから高利貸の手に引渡されて
いた。逼迫する毎に、凶作の度毎に、矢張りまた勢い高利貸に走ることを余儀なくされた。そして最
後に村の束縛から脱却するというそのことも、大多数の農民にとっては、高利貸の束縛の中に身を委
せて、これから先き目宛てのつかぬ期間を高利貸のために服役し、貢物の奴隷となるという方法によ
る外には、実現することができなかったのである。このように、貧農が困窮から脱するために、ミー
ル組合から離れようとつとめたと同時に、他面においては、富農は貧農の納税に対する厄介な連帯責
任を避けるために、屡々彼等に背を向けて脱退して行った。しかし富農の正式の脱退が起らぬ場合で
も、富農は大部分同時に村の高利貸を構成していた――またミール集会においては貧農大衆に対して
支配的権力を構成していて、負債を負い隷属している多数が決議を可決しても、これを暴圧すること
ができたのである。かくて形式上は平等と共有とに立脚している村落共同体の胎内に、小数ではある
が勢力のある農村ブルジョアジーと、隷属的な、そして事実上プロレタリア化しているところの農民
租税の重荷に息の根をとめられ、高利貸に併呑され、内部的に分裂せる村落共同体の内部的衰亡
大衆との、明瞭な階級区分が形づくられた。
244
うっき
は、最後に外部に向って欝気を散ずるに至った。飢餓と農民一揆とは、八〇年代のロシアに周期的現
象となり、ロシア内地諸県を容赦なく見舞ったが、同時に租税執行官と軍隊も矢張りこれと劣らず容
せいそう
へいし
赦なく、農村の「鎮定」のために一揆を追求した。ロシアの農圃は広大な地域に亙って、飢餓と血腥
き暴動との前に悽愴極まる斃死の舞台となった。ロシアの百姓はインドの農民の運動を閲みし、ここ
でのオリッサに当るもの 【オリッサの飢饉の件】は、サラトフ、サマラ、それから遠くヴォルガの下流
にも及んだ。最後に一九〇四年と一九〇五年とに、都市プロレタアートの革命がロシアに勃発したと
きには、それまでは混沌状態だった農民暴動が、今や初めて政治的要因として、その全体の重力を以
て革命の秤盤に乗り、農村問題が革命の中心点となった。かくて農民は抵抗すべからざる奔流の如く
貴族領地に流れ込み、土地を返せという叫びを以て「貴族の巣」を火焔の中に焼きつくしたとき、そ
して労働者党が国有地と大地主所有地とを無償で収奪して農民に引渡せという革命的要求の中に農民
の窮迫を約示したとき、ツァール政府は遂に幾百年の間鉄の如き操守を以て行ってきた農村政策から
ふえつ
手を引くに至った。ミール組合はもはや没落を喰い止めることができず、廃棄されなければならなく
なった。すでに一九〇二年に、ロシア特殊の姿を取った村落共同体の根幹そのものに 斧鉞が加えら
れていた。即ち租税に対する連帯責任が廃止されていた。しかしながらこの処置は、ツァール政府自
身の財政政策に確実な用意があって行われたのである。国庫が直接税における連帯責任を容易に断
念することができたのは、間接税が非常な高度に達したのを見たからであって、たとえば一九〇六
第3章 経 済 史 (二)
245
年の予算において二○三○百万 【二十億三千万】ルーブルの普通歳入総額のうち、直接税からの収入は
僅か一四八百万ルーブルだったのに、間接税からの収入は一一〇〇百万ルーブルであって、そのうち
五五八百万ルーブルは、飲酒癖打破のために「自由主義」大臣ウィッテによって実施された火酒専売
からだけの収入であった。この税を几帳面に納付するためには、農民大衆の貧窮と、絶望状態と無知
とが、最も信憑すべき連帯責任を負ったのである。一九〇五年および一九〇六年には土地買戻負債の
残額が半減され、一九〇七年には全部帳消しされた。そして今や一九〇七年に実施された「農村改革」
は、小農的私有財産の創設を公然と目標にかかげるに至った。そのための手段としては、国有地、御
料地、および部分的には大地主所有地の分割を以てするというにあった。かくて二十世紀のプロレタ
リア革命そのものが、その未完成な最初の階段において、すでに農奴制度と、ツァール政府によって
人為的に保存されていたミール組合との最後の遺物を、同時的に一掃してしまったのである。
二 【原著では3となっているとのこと】
ロシアの村落共同体と共に、原始的農業共産主義の変遷極まりなき運命は終りを告げ、大団円を告
げた。社会発展の自然発生的産物として、経済的進歩、社会の物質的および精神的発達の最上の保証
物として始まり、今やここに土地共同組合は政治的および経済的時代おくれの濫用的道具として終焉
を告げる。ツァール専制主義に奉仕するために、同じ仲間の組合員によって笞で折檻されるロシアの
246
農民、これこそは実に原始共産主義の限界の狭隘さに対する最も冷酷なる歴史的批判であり、またこ
なかんずく
ういう社会形態も矢張り理性が不条理となり、幸が災となるという弁証的定則に支配されるという事
実の、最も明瞭な現れである。
中二つの事実が眼前に
種々の国および大陸におけるマルク組合の運命を仔細に観察するときは、就
現れてくる。原始共産主義経済制度のこの最高にして最後の形態は、動きのつかぬ千遍一律の型物で
ないばかりか、何よりもまず無限の多様性、弾力性、順応性を示すものであって、歴史的環境に応じ
てありとあらゆる形態をとって現れる。この場合それはあらゆる環境とあらゆる事情の下において、
或る一つの黙々たる転化過程を閲みするものであって、この過程は緩漫 【緩慢】に行われる結果、最
初は外部に向っては姿を現さなくとも、しかも社会の内部においては絶えず古びた形態に代えるに新
しい形態を以てし、かくて本国または外国の国家制度のあらゆる政治的上部構造の下に、経済的およ
び社会的生活において、不断に発生と消滅、発展または衰亡を閲みするのである。
同時にこの社会形態は、その伸縮性と順応性とのおかげで、異常な粘り強さと耐久性とを示してい
る。それは政治的歴史のあらゆる暴風に抵抗する。否むしろこれを受け身で持ち耐え、自分の頭上を
0 0 0 0
通過させ、あらゆる侵略、外人支配、専制、搾取の圧迫を幾世紀の長きに亙ってじっと耐えてきたの
である。しかしただ一つの接触だけは持ち耐えない。即ちそれはヨーロッパ文明、即ち資本主義との
接触である。古い社会にとってはこの資本主義との衝突は、いずれの場合も例外なしに致命的なもの
第3章 経 済 史 (二)
247
であって、それは幾世紀の星霜も、最も兇猛なる東洋の侵略者も能くしなかったものを成就する。即
いかん
ち全社会的構造を内部的に解体させ、すべての伝統的紐帯を切り離し、社会を最も短い期間に一つの
滅茶々々な廃虚と化するという仕事である。
何ともでき
しかしながらヨーロッパ資本主義の死の息吹きは、原始的社会の没落を遅かれ早かれ奈
ぬようにする唯一の要因ではなく、単に最後の要因たるにすぎぬ。その没落の萌芽はこの社会そのも
のの内部に存しているのである。いろいろの実例によって学んだような、原始的社会の没落の種々の
方法を綜括すれば、或る歴史的順序が出てくる。生産手段の共産主義的所有は、厳格に編成された経
済方法の基礎として、長い時期に亙って社会の最も生産的な労働過程を保護し、社会の存続と発達と
の最上の物質的保証となっていた。しかし取りも直さずそれによって保証されたところの労働生産性
の緩漫ながらの進歩が、時を経るにつれて共産主義組織と或る種の衝突を起さなければならぬ羽目と
なった。この共産主義組織の胎内において、高級農業――犁嘴 【すきの刃】の使用――への重大な進歩
0 0 0
0
0
が行われて、マルク組合がこの基礎の上にその鞏固な形態を維持するに至った以後、生産技術の発展
における一層の進歩が、或る期間後において一層集約的な耕作を必要たらしめねばならなかった。そ
してこの集約的耕作はといえば、その当時の農業技術の段階においては、一層集約的な小経営によっ
てのみ、即ち人身的労働力を土地と一層鞏固に、一層徹底的に結合することによってのみ到達され得
たのである。同じ一つの割地を個々の農家によって一層長く利用することが、それを細心に取扱うた
248
めの前提条件となった。特に土地の施肥は、ドイツにおいてもロシアにおいても、符節を合したよう
に土地の割替が稀れになった原因である。一般には何処でも一様に、マルク組合の生活の中に割替の
期間が段々長くなる特徴を認め得るのであって、これはいたるところに割地所有から世襲所有への推
移を遅かれ早かれ結果するものである。共有から私有への移動が労働の集約と歩調を揃えると同じく、
吾々は次の事実を究めることができる。即ち森林および牧場経済はどの場合でも一番長く共用地を附
帯するに反して、集約的に営まれる農業はまず最初に共有地分割に道を開き、ついで世襲所有に道を
開くという事実である。なるほど割地の私有が確立したからといって、共同経済組織はまだ除去され
るものでなく、農場交叉によってなお久しく維持され、林地および牧地の共有によって強要される。
それにまた経済的および社会的均衡も、それと共に旧社会の胎内においてまだ除去されはしない。ま
ず最初には生活条件を等しうする小農の集団が形成されるだけである。そしてこの小農は一般には数
百年の間に亙って、古い伝統に従って労働し生活することができるものである。それにも拘わらず既
に土地財産の世襲と、それに伴う相続分または長子相続権とによって、次いで特に農民所有地が売買
され、一般に譲渡され得るようになったことによって、将来の不平等に対して既に門戸が開かれてい
るので あ る 。
とはいえ右の如き過程を以てする伝統的社会組織の顛覆は、極めて遅々として進むものである。然
るに茲になお別の歴史的要因がはたらいていて、遥かに急速に且つ徹底的に右の仕事を行っている。
第3章 経 済 史 (二)
249
即ちそれは、狭隘な限界内におけるマルク組合ではその性質上果たせないところの、一層総括的な公
的任務である。吾々は東洋において人工的潅漑が農業に対して、如何なる決定的意義を有しているか
をすでに見た。こういう労働の集約とその生産性の力強い向上とは、たとえば西洋において施肥に移
って行ったとは全然別個の遠大な結果を誘致した。人工潅漑の実施は当初から大規模なる集団的労働
を、大経営を、計算に入れている。まさにそういう性質のものであるから、人口潅漑はマルク組合組
織の胎内に何等それに適応する機関を見出すことはできず、マルク組合の上に位する特殊の機関をつ
くり出さなければならぬ。吾々は公的給水の管理が、僧侶支配とあらゆる東洋的君主支配との最深の
根帯 【根源】であったことを知る。しかしながら西洋にもその他何処にも種々の公的仕事が存在して
いて、今日の国家組織と比較すれば簡単なものではあるが、如何なる原始的社会においても処理され
なければならぬものがある。そしてこの仕事はその社会の進歩発達と共に増大し、従ってまた時が経
つにつれて特殊の機関を必要としてくる。かくて吾々はいたるところに――ドイツにおいてもペルー
においても、インドにおいてもアルジェリアにおいても――原始的社会における公職が選挙から世襲
に移る傾向を有することを以て、発達の特徴と定めることができた。
まず最初は、徐々に且つ目に見えぬように行われるこの変遷は、矢張りそれだけではまだ共産主義
社会の基礎との断絶ではない。むしろ公職の世襲は自然の道を辿って生れるのであって、矢張りこの
場合も原始的社会の本質におけると同じく、伝統と人身的経験の蒐集とが、職務の遂行を最もよく保
250
証するという事情から生ずるものである。それにも拘わらず、一定の家族が公職を世襲するというこ
しも
とは、時が経つにつれて必然的に小さな土着的貴族の形成を誘致するようになり、この貴族は共産
体の僕べからその支配者となる。殊に不分割マルク共有地やローマの「アーゲル・プブリクス 【 Ager
とうしゅ
】
」(貴族共有地)――それには自然に公権力が直接に附随する――は、この貴族という身分の
publicus
擡頭の経済的基礎たるはたらきをした。分割されざる、または使用されざるマルク共有地の偸取は「農
民大衆の上に成り上ってこれを政治的に束縛するすべての国内および外国の支配者の常則的方法であ
る。これが文化の大道から離れた民族の場合なら、原始的貴族はその全生活様式において大衆と殆ん
ど差別がないのであって、生産過程にまだ直接に参加しており、風俗慣行の或る程度の民主的単純さ
が、財産の差別を胡魔化しているかも知れぬ。たとえばヤクート人の氏族的貴族は、一般大衆に比し
て家畜の頭数をヨリ多く所有し、公的仕事にヨリ多く勢力があるにすぎぬ。ところが高級な文明民族
と接触して、活溌に交易するようになると、忽ち精練されたる生活欲望と労働習慣の抛棄とが、貴族
の従来の特権に加わり、現実上の身分的分化が社会に行われるようになる。その典型的な図景はホー
マー以後の時代のギリシャである。
かくて原始的社会の胎内における分業は、早晩必然的に政治的および経済的平等を内部から破壊す
るようになる。しかるに公的性質の或る一つの仕事は、この過程の中に極めて著しい役割をつとめ、
平和的性質の公職に比して、はるかに精力的に右の仕事を成就する。即ちそれは戦役である。最初に
第3章 経 済 史 (二)
251
は社会の一般大衆自身の仕事だったのが、生産の進歩の結果、時を経るにつれて、原始的社会の或る
一定範囲の専門となる。社会の労働過程が発達し、規則的に且つ計画的になればなるほど、戦争生活
の不規則性と、時間および勢力の浪費とに耐えられなくなる。狩猟や移動的牧畜の場合には、戦争が
折々経済制度の直接の成果となっているのに引きかえ、農業は社会の大衆の平和性および受動性を伴
っているものであるが、しかも取りも直さずその故に往々防衛のため武人という特別の身分を必要と
するのである。いずれにもせよ戦争生活――それ自身は労働生産性が狭く局限されている事実の現れ
に外ならぬもの――は、すべての原始的民族の間に大きな役割をつとめ、時が経つにつれて何処にも
或る一つの新たな種類の分業を誘致する。武人貴族または戦争酋長の分離は、いたるところにおいて
原始的社会の社会的平等に対して加えられる最も力強い衝撃である。そういうわけで、吾々が今まで
ぎょうこう
知っている歴史的に伝わった原始的社会、または現存している原始的社会のどれを見ても、モルガン
がイロクォイ族という僥倖なる実例を以て描き出すことのできたような、民族の自由平等なる諸関係
は、もはや殆んど何処にも見出すことができないのである。反対に、いたるところに不平等と搾取、
――これが長い崩壊史の産物として吾々の前に現れるところの、すべての原始的社会の特徴なのであ
って、東洋の支配的世襲的身分の場合であろうと、ヤクート族の民族的貴族の場合であろうと、スコ
ットランド・ケルト族の「大氏族民」であろうと、ギリシャ人、ローマ人、民族移動時代のゲルマン
人の武人貴族であろうと、または最後にアフリカ黒人間の小専制君主の場合であろうと、この事情に
252
変りは な い の で あ る 。
たとえばルンダ国の東部、中央アフリカにおける有名なムアタ・カゼンベの邦国――十九世紀初に
ポルトガル人が侵入したところの――を観るときは、吾々はこのアフリカの心臓、殆んどヨーロッパ
人と接触しない一地域においてすら、各員の自由と平等との跡をあまり見出し得ない社会関係が、原
始的黒人の間に成立っているのを見る。たとえば一八三一年にザンベジから奥地の方へ、通商および
じょくこう
探険の目的で企てられたモンテイロ少佐とガミットー大尉との遠征は、次の事情を吾々に叙べている。
まず最初に遠征隊はマラヴィ国に入った。マラヴィ族は原始的な耨耕を営み、円錐形小屋に住み、腰
部に一つの布を巻いているだけであった。モンティロとガミットーとがマラヴィ国を旅行した時代に
は、この国は「ネーデ」という称号をもった一人の専制的酋長の下にあった。すべての争い事はこの
酋長によって、その首都ムチエンダにおいて決定され、この決定に対しては何人と雖も抗議すること
を許されなかった。形式上は酋長は長老の相談会を招集するのだが、長老はいつでも酋長と同じ見解
を持していなければならぬ。国は州に分れ、州は「マンボー」によって統治され、これがまた区に分
れ、区は「フノー」の支配下におかれている。すべてこれらの職は世襲である。――八月八日、チェ
ワ族の最も有力な酋長ムカンダの住まいに到着した。種々の木綿製品、紅巾、種々の真珠、塩、宝貝
より成る贈物をしたら、翌日黒馬に乗って天幕にやってきた。ムカンダは六十から七十位の、気もち
のよい、凛々しい風采の男であった。彼の唯一の衣服は汚ないぼろ布で、それを腰に巻きつけていた。
第3章 経 済 史 (二)
253
約二時間の間そこにいて、別れ際になって親し気に、否とは言えぬように各人に贈物をせびった。―
―チェワ族における酋長の葬式は極度に野蛮な儀式を伴う。死んだ酋長のすべての妻女は死骸と一緒
ちょうさい
に同じ柩の中に入れられ、埋葬の用意が万事整う。それから葬列が墳墓を指して進み、そこに着くと
死者の寵妻と他の七人の妻女とは墓穴の中に下りて、手脚をひろげて伏す。そこでこの生ける礎を布
で包み、その上に屍を置き、それから今度は、前もって咽喉を切られているもう六人の妻女を墓穴の
中に落す。そこで墓に蓋をして、次に二人の少年を人柱に立て、一人は太鼓をもって墓の絶頂に据え
られ、一人は弓矢をかかえて墓の脚下に据えられ、それでこの恐るべき儀式が済む。モンティロ少佐
はチェワ国に滞留中にこういう葬式を目撃したのである。――ここから山上へマラヴィ国の中心に入
り込んだ。ポルトガル人一行は、生活資料が殆んど完全に無い荒涼たる高原の一地方に入った。どこ
を見ても以前の戦役によって荒らされた跡が見え、飢餓が一刻も猶予できぬまでに一行を脅やかした。
案内者を得るため一番近くの「マンボー」に向けて、若干の贈物を持たせて使いを遣ったが、使いの
者は「マンボー」が家族と一緒に、餓死せんばかりになって、全村にたった一人だけ残っているのに
ささい
会ったという絶望的な報道をもって帰ってきた。――マラヴィ国の心臓に近付く前に、まずその地で
は日常の事となっていた野蛮な司法の取調べを受けた。幾多の若者が何か瑣細な過失のために、刑罰
として耳や手や鼻やその他四肢を切られたのに出会うことが珍らしくはなかった。
――十一月十九日、
遂に首都への乗込みに成功し、その際ガミットー大尉が乗っていた騾馬は少からず人々をびっくりさ
254
かきね
せた。間もなく約四分の三時間行程の街路に到達した。この街路の両側は二―三メートルの高さの墻
で仕切られ、この墻は枝を編み込んだものであって、規則正しく編まれているために壁のように見え
た。両側には或る間隔を置いて、この藁壁の中に小さな開き戸が見えた。街路の終端には小さな四角
のバラックがあり、それは西方にだけ開いていて、その中の木造の床の上には無細工な木彫の七〇セ
ンチメートルの高さの人像が置かれてある。開いている側の前には三百以上の頭蓋骨のひと山が積ん
であった。ここで街路は大きな方形の場所となり、その端に大きな森林があって、広場とただ一つの
墻で仕切られているだけであった。この墻の外面や門の両側には、三十ばかりの頭蓋骨が一列に並べ
られて、装飾とされている。――さて今度は国主ムアタへの謁見となり、国主はあらゆる野蛮な装飾
物によって囲われ、五六千人より成る全軍隊を四囲に従えてポルトガル人一行を引見した。彼は豹や
さんらん
獅子の皮を山と積んだ上に、緑の布で包んだ椅子を据えたのに腰かけた。彼の頭被は〇・五メートル
の長さの羽毛を集めてつくった、猩々緋の円錐形の帽子でできていた。額には燦爛たる石を以て成る
飾帯を巻き、頸と肩のまわりには、螺旋や四角の鏡様のものや贋造宝石などから成る一種の肩掛を帯
び、両方の腕には毛皮で縁取りした鳶色の布でできた幅の広い腕章を巻きつけ、その外に上腕は鳶色
の石で作った環で飾り、下腰部は赤青で縁取った黄いろの布を纏い、これに一本の帯を巻きつけてい
る。七つの様々な日覆いで太陽をよけて、傲然として国王は坐についた。王は笏として角馬の尾を手
に振り、箒をもった十二人の黒人は国王の神聖なる身辺から、あらゆる塵、あらゆる不浄物を取りの
第3章 経 済 史 (二)
255
けるためにいそしんでいた。支配者のまわりには非常に複雑な宮廷儀式が展開された。まず第一に獣
つ
角を以て飾った黒人の上半身を象った四〇センチメートルの高さの二列の像が玉座を守護し、その像
の間に二人の黒人が坐して炭盤に香葉を焚く。名誉の座には二人の首妻が即き、そのうちの一人はム
アタと同様な服装をしている。背後には四百人の婦人を以て成る宮妾が列し、しかもこれらの貴婦人
は腰巻を除けば全身裸体である。その外になお二百人の黒色の婦人が命を待って立ち列んでいる。婦
人によって形づくられた方形の内部には、王国の最高の位官たる
「キロロ」が獅子と豹の皮の上に坐し、
その各々が日覆いを上にしてムアタと同様な服装をしている。
その外に一種独特の恰好をした楽器で、
耳を聾するばかりの騒音を発する種々の音楽隊があり、毛皮と獣角で身を装って、あちこち走り廻っ
ている若干の宮廷戯化師があって、王の周囲が一切ととのい、王はこういう風に威儀をととのえてポ
ルトガル人一行の進行を待った。ムアタはこの国民に対する絶対の支配者であって、ムアタという称
号は単に主君を意味するだけである。ムアタの次に位するものは第一に「キロロ」即ち貴族であって、
これがまた二つの階級に分れる。貴族の首班に列するものは、皇太子、ムアタの最近親者、並びに軍
事機関の最高司令官である。しかしこういう貴族の生命および財産すらも、ムアタは無制限に左右し
ているのである。この暴君が不機嫌な場合には、たとえば一つの命令をよく分からずに聞きかえす者
があれば、「よく聞くことを教えてやるため」即座にその人間の耳を切り落させてしまう。王の財産
を一寸でも盗めば、耳と手とを切り落され、王の妻女のうちの何人とでも会ったり話したりする者は、
256
殺されるか、手足を切り落されるかする。王は迷信的な人民の間に極度の尊崇を受け、人民は王に触
れた者は王の魔術で死ぬと信じている。ところがこういう接触は必ずしもつねに避けるわけに行かぬ
ので、人民は魔術にかかって死ぬことを防ぐ手段を案出した。即ち主君に触れた者はその前にひれ伏
*
すと、王は自分の掌を神秘的な身振りで、平伏せる人間の掌の上に置き、それで以て死の魔術を解い
てやる。」
*『 ス タ ン レ イ お よ び キ ャ メ ロ ン、 ア フ リ カ 横 断 紀 行 』、 ラ イ プ チ ヒ、 オ ッ ト ー・ シ ュ パ ー メ ル 出 版、
一八七九年刊、第六八頁。
これがあらゆる原始共同体の本源的な基礎から、即ち平等と民主主義とから、著しく外れている一
社会の図景である。この場合この政治的専制主義の形態の下に、マルク組合的関係、土地の共有、労
働の共同組織が存続していなかったとは、もちろん断定さるべきではない。このポルトガル人は服装
や謁見の外面的光景には極めて精密に注意を払ったにも拘わらず、すべてのヨーロッパ人と同じく、
経済関係、殊にヨーロッパ流の私有制度に反するものには、何等視線を向けず、何等の興味も、何等
の判断の標準をも有していなかったのである。しかしいずれにもせよ原始的社会の社会的不平等の専
制は、文明社会に行われているところの、そして文明社会から初めて原始的社会に移植されたものと
は本質的に異なっている。原始的貴族なる等級の擡頭、原始的酋長の専制的権力は、爾余のすべての
生活条件と同じく社会の自然発生的産物である。これらのものは、周囲の自然界や自己の社会的関係
第3章 経 済 史 (二)
257
に対する、社会の無援無力の状態が、別な形を取って現れたものに外ならぬ。そしてこの無援無力の
状態は、矢張り同じく宗教的礼拝の魔術となっても現れ、周期的に起こる飢饉となっても現れるもの
であって、後者の場合には、専制的酋長はその臣下の大衆と一緒に半ば餓死し、乃至は全然餓死する
のである。従ってこの貴族支配または酋長支配は、社会の爾余の物質的および精神的生活形態と完全
に調和しているものであって、この事情は、原始的支配者の政治的権力がつねに原始的自然宗教と、
死者に対する礼拝と密接に縺れ合っており、そういう自然宗教によって支えられているという、特色
ある事実の中にも窺うことができる。こういう見地からすれば、十四人の妻女を生きながらに墓穴に
伴ってゆくチェワ族の酋長も、自分で万能の魔術者であることを信じ、且つその人民からも固く信ぜ
られているが故に、その計るべからざる機嫌次第で臣下の生死を左右している国王ムアタ・カゼンベ
も、或はまたそれから四十年後に、婦人服を着て猿の皮を身にまとい、汚ないハンケチを頑に巻きつ
け、二人の裸の娘と一緒に、貴族や人民の中に交って、イギリス人キャメロンの歓迎のために威風堂々
として跳ねダンスを踊って見せたところの、ロマミ河辺の専制的「カゾンゴー侯」も――義理にも魔
術者であるとは言えない一人の人間が、カント、ヘルムホルツ、ゲーテを生んだ一民族の六千七百万
の人間に対して行っている「神権政治」と較べれば、――馬鹿々々しい気狂じみた程度の遥かに少な
原始共産社会はそれ自身の内的発展によって、不平等と専制との形成を誘致する。しかしながら原
い現象だと言わねばならぬ。
258
始共産社会はそこで滅びるものでなく、むしろ数千年に亙ってこういう原生的関係の下に存続するこ
とを得るのである。しかし普通にはこういう社会は、早晩外人からの侵略の餌食となり、そこで多か
れ少かれ手広い社会的改造を蒙むる。特にこの場合回教徒外人支配は歴史的に重大なものである。と
いうのはこの支配は、アジアおよびアフリカの広大なる地域に亙って、ヨーロッパ外人支配に先立っ
て行われていたからである。回教徒遊牧民族――モンゴリア民族でもアラビア民族でも――が、征服
0 0 0
国にその外人支配を樹立し且つ固めた場合は、ヘンリー・メーンおよびマキシム・コヴァレフスキー
が国土の封建化と呼んでいるところの、或る社会的過程がいたるところに始まる。征服者は土地を自
分の所有にすることはせずに、二つの目標に注意を向けた。即ち公課を徴収することと、その国の支
配を軍事的に固めることである。そしてこの両目的のためには、或る一定の行政的軍事的組織が役立
った。即ち国を幾多の管劃 【管轄】区に分け、収税者にして同時に軍事行政者たる回教徒官史をこれ
に封ずる組織である。それにまた未耕共同地の大部分が、軍隊屯営地の創立に宛てられた。これらの
制度は回教の弘布と共に、たしかに原始的社会の一般的存立条件に深甚なる変革を行った。しかしそ
の社会の経済的条件は、それによって僅かしか変化されなかった。生産の基礎および組織は、依然と
して元のままであって、――搾取と軍事的圧迫とにも拘わらず――幾世紀の長きに亙って存続したの
である。尤も回教徒の支配は、土人の生活条件に対して、どこでもそう思慮深かったわけではない。
たとえばアラビア人はアフリカ東岸で、ザンジバル領から一世紀に亙って大規模な黒人奴隷貿易を営
第3章 経 済 史 (二)
259
み、その結果アフリカ内地における正式の奴隷狩りを誘致し、黒人村落全体の人口絶滅と破壊とを誘
致し、土人酋長の専制的権力の増大を誘致し、そして酋長は自分の臣下や征服せる近隣の種族をアラ
ビア人に売ることに、誘惑的な仕事を見出した。しかもアフリカ人社会の運命にとって、こういう根
本的な事情の変化も、矢張りヨーロッパ的影響の結果として初めて行われたのであって、黒人奴隷貿
易は、十六世紀におけるヨーロッパ人の諸大陸の発見および侵略後、ヨーロッパ人によって搾取され
たアメリカおよびアジアの栽培地や鉱山に役立てるために、初めて隆盛となったものである。
このようにあらゆる点において、ヨーロッパ文明の侵入が初めて原始的社会関係にとって呪わしい
運命をもたらすのである。ヨーロッパ人征服者こそは土人を圧迫し、経済的に搾取するだけにとどま
らず、生産手段そのもの、土地を土人の手から強奪する最初の征服者である。これによってヨーロッ
パ資本主義は、原始的社会秩序からその土台を取り去るのである。あらゆる圧迫および搾取よりも、
もっと悪いもの、完全な無秩序と、ヨーロッパの特殊現象たる社会的存在の不安定とが発生する。生
産手段から引離された被征服人口は、ヨーロッパ資本主義からは只労働力と見做され、そして労働力
として資本の目的のために役立つ場合は奴隷にされ、役立たぬ場合は剿滅される。吾々はこういう方
法をスペインや、イギリスや、フランスの植民地に見てきたのであって、資本主義の前進の前には、
これまで幾多の歴史的段階を通過して存続してきた原始的社会秩序も屈服する。そしてこの社会の最
後の遺物は大地に併呑され、この社会の要素――労働力と生産手段――は資本主義のために吸収され
260
終る。かくて原始共産社会はいたるところにおいて――結局は経済的進歩に追越されたために――崩
壊して、新しい発展の展望に座をゆずるのである。この発展とこの進歩とは、久しい期間に亙って、
ゲバルト
階級社会の賎しむべき方法によって代表されねばならぬ運命にあるが、これもやがては追越されて、
ヨリ一層の進歩によって排除されてしまうであろう。強力は矢張りここでも経済的発展の単なるに従
僕にす ぎ ぬ 。
第3章 経 済 史 (二)
261
第四章 商 品 生 産
吾々に課せられた任務は、社会というものは共同労働なくしては、言いかえれば計画と組織とを有
する労働なくしては存立し得ないということを証明することである。吾々はまたすべての時代にかか
る共同労働の種々様々な形式があることを発見した。しかるに今日の社会においては実に何等かかる
形式を見出し得ない。支配もなければ法則も、民主主義もなく、計画と組織の痕跡だになく、そこに
あるものは――無秩序である。しからば如何にして資本主義社会の存立が可能だろうか?
一
資本主義のバベルの塔の構造を調べるために、まず暫らくの間、労働の計画的組織を有する一つの
社会をここに再び思い浮べて見よう。この社会は高度に発達した分業を伴った社会であって、ここで
は農業と工業とが分れているばかりでなく、両部門の内部においても各々特殊の分科が、労働する人々
の特殊群の専門となっているとしよう。だからこの社会には、農夫も木樵も、漁夫も植木師も、靴工
も仕立工も、錠前工も、鍛冶工も、紡工も織工も、その他いろいろ存在している。故にこの社会は全
体として見て、あらゆる種類の労働、あらゆる種類の生産物を供給せられている。そしてこれらの生
262
産物は、その量の多いと少ないとを問わず社会の全成員の手に入る。けだしこの場合労働は共同的の
ものであって、何等かの権力――政府の専制的法律であると、農奴制度であると、或いはまた何等か
の他の形態の組織であるとを問わず――によって、前もって計画的に分たれ、且つ組織されているか
らである。だが簡単を期して、この社会は吾々がすでにインドの例に見てきたような、共有財産を伴
った共産体であると想像しよう。そして暫らくこの共産体内部の分業は、歴史上の実際に照応するよ
りもずっと盛んであると仮定し、そしてその成員の一部は農業にばかり従事し、他の各種類の労働は
特殊の手工業者によって行われると見做そう。この共同体の経済は吾々にとって全く明瞭である。即
ち共同体の成員全体が、すべての土地、すべての生産手段を共有しているのであって、何を、何時、
どれだけ生産すべきかは矢張り成員全体の共同意志によって決定されるのである。ところでまた出来
上った生産物の集団も、矢張り悉く全員に属するのであるから、従って必要の割合に応じて全員の間
に分配される。ところが今度は、こういう性質の共同体に、ある朝突然共有制度の存立が止み、それ
と共に共同労働も、生産を規定する共同意志も無くなったと想像しよう。一旦その発展が高度の域に
かまど
達した分業が、この場合依然として残っていることは言うまでもない。靴工は依然として自分の靴型
の前に坐し、パン焼職人は自分の焼竃より外何も持っていないし、それ以外のことは分らず、また鍛
冶工は金床を持っているだけで、ハンマーを振ることしか知らないという風である。ところがこれま
ですべてこれらの特殊労働を結合して、一つの共同労働たらしめ、社会的経済たらしめてきたところ
第4章 商 品 生 産
263
の鎖が絶ち切れてしまった。今や農夫も靴工も、パン焼職人も錠前工も織工も、その他の者も皆それ
ぞれ独り立ちとなった。各人は完全に自由独立の人間となったのである。共同体はもはや彼に向って
言うべきことがなくなったし、何人も彼に向って全体のために労働せよと命ずることはできないし、
それかといって何人も彼の欲望についてかれこれ言わない。全一体をなしていた共同体は、恰も一つ
ほこり
の鏡がこわれて無数の破片になったように個々の分子に、個々の小片に破砕した。各人は今や謂わば
空中に飛散せる埃のように浮動し、その結果はどうなるかは知るべきのみである。さて一夜のうちに
こんな激発の行われた共同体は、どうなるであろうか? 一人立ちにされた人々は、その翌朝どうい
うことを始めるだろうか? 先ず第一に次の一事は確かである。即ち彼らはその翌朝何よりも先ず―
―労働するだろう、これまでしてきたと同じように。何故なら労働なくしては人類の欲望が充たされ
得ない限りは、どんな人間社会でも労働しなければならぬのだから。社会にどんな変革、どんな変化
が行われようとも、労働は一瞬間も休止することはできぬ。だから共産体の旧成員は、彼等の間をつ
なぐ紐帯を断たれて、全く一人立ちにされてしまった後にも、何よりもまず労働を続けてゆくに相違
ない。しかも吾々は各労働がすでに専門化されているものと仮定したのだから、各人は、すでに自分
の専門となっているところの、そしてその生産手段を自分が所有しているところの労働のみを続けて
ゆくに相違ない――靴工は靴をつくるだろうし、パン焼職人はパンを焼き、織工は織物を仕上げ、農
夫は穀物をつくるだろうし、その他各自の労働を続けるだろう。ところがすぐさま次の如き難点が生
264
ずる。これらの生産者各自はいかにも極めて重要欠くべからざる消費資料を拵らえているのであって、
靴工でも、パン焼職人でも、鍛冶工でも、織工でも、専門家はいずれも昨日までは皆ひとしく尊重され、
共同体の有用な成員だったのであって、彼等がなければ共同体はやって行けなかった。各々は全一体
の中に重要な地位を占めていたのであった。しかるに今は全一体はもはや存立せず、各人は一人立ち
になって存在しているのである。しかしながら誰も自己の労働の生産物だけによって、自分だけで生
活して行けるものではない。靴工は靴を食ってゆけないし、パン焼職人はパンだけで自分の欲望をす
べて充たすことはできないし、農夫だって穀物より外何も持って居ないとしたら、穀倉がどんなにい
っぱいになっていても飢や寒さを避けることはできない。各人はさまざまな欲望を有し、自分だけで
はそのうちの唯一つの欲望を充たし得るだけにすぎぬ。だから各人はすべて他人の生産物の一定量を
ちゅうたい
必要とする。彼等は皆互に頼り合っているのである。ところが吾々は各生産者の間にもはや何等の関
係も紐帯もないことを知っている。それなら如何にして右の事柄が運ばれるだろうか。靴工はパン焼
職人からパンが欲しくて堪らない。しかし自分でそのパンを作る手段も持っていないし、それにまた
靴工もパン焼職人も共に等しく自由独立の人間なのだから、パンを供給せよとパン焼職人に強要する
こともできない。彼がパン焼職人の労働の成果を手に入れたいと思うなら、それは交互関係に立って
のみ、即ち彼の方からもパン焼職人に有用な生産物を供給する場合にのみ行われ得ることは明らかで
ある。ところがパン焼職人も矢張り靴工の生産物を必要とし、そして靴工と丁度同じ状態にある。こ
第4章 商 品 生 産
265
れで交互関係の根拠が与えられたのである。靴工はパン焼職人からパンを得るために彼に靴を与える。
靴工とパン焼職人とはその生産物を交換する。そして今や両者の欲望が充たされ得るのである。かく
0
0
て分業が高度に発展をとげ、各生産者が互いに全く独立しており、そして彼等の間に何等の組織も存
しない場合、各種労働の生産物をすべての人々に行き渡らせる唯一の道は――交換であるということ
になる。靴工も、パン焼職人も、農夫も、紡工も、織工も、鍛冶工も――皆互いにその生産物を交換
し、かくして彼等のあらゆる方面の欲望を充たすのである。交換はこうして、分散し、孤立し、互い
に離れ離れになっている私的生産者の間に新しい紐帯を作り出したのであって、労働と消費、崩壊し
た共同体の生活は再びやって行けるようになる。何故なら交換が、皆互いのために労働し得る可能性
を共同体に再び与えたからである。言いかえれば交換は社会的協力労働、社会的生産を、分散せる私
的生産の形式の下においても可能ならしめたのである。
しかしこれこそ社会的協力労働の全然新らしい一種独特の方法であって、吾々はこれを一層仔細に
観察しなければならぬ。各個人は今は独力で労働し、自分自身の費用で、自分自由身の意志、見積り
に従って生産する。彼は今や生きるためには、自分が必要なのでなく他人が必要な生産物を生産しな
ければならぬ。各人はこうして他人のために労働するのである。このことはそれ自身何等特別なこと
でも、新らしいことでもない。共産体にあっても皆は互いのために労働した。しかし異なる点は、今
は各人が自分の生産物を交換によってのみ他人に渡し、そして他人の生産物を交換によってのみ手に
266
入れることができるという点である。故に今や各人は、自分の必要とする生産物を得んがためには、
交換しようと決めた生産物を、自分の労働によって生産しなければならぬ。靴工は絶えず靴を生産し
なければならぬ。その靴は彼自身は全く必要としないものであって、彼にとっては全く無用であり無
駄な労働である。彼にとって靴は、自分の必要とする他人の生産物と交換し得るという効用と目的を
持っているだけである。そこで彼は前以って靴を交換のために生産する。言いかえれば彼はそれを商
品として生産するのである。今や各人は他人が必要とするところの、そしてこの目的のために自分自
身の労働でこしらえたところの、生産物をもって臨む場合にのみ、自分の欲望を充たすことができる。
即ち他人が拵えた生産物を得ることができる。言いかえれば各人は自分の商品を携えて臨む場合に、
すべての他人の生産物即ち社会的生産物に対する分け前に与かるのである。彼自身によって交換のた
めに仕上げられた生産物は、今や社会的総生産物の一部に対する請求権なのである。今では社会的生
かさ
産物はもはや共産体の場合におけるような、旧来の形態を取っては存しない。共産体では社会的総生
産物は、直接にそれだけの嵩、その全体のままで共産体の富となり、それからやがて初めて分配され
た。言いかえれば共産体の費用で、共産体の指揮の下に、全員によって共同に労働を加えられたので
あって、従って生産された物は初めから社会的生産物としてこの世に現れた。その次に初めて各個人
に対して共同生産物の分配が行われ、それから初めて生産物が個々の団体員の私的消費に入り込んだ。
ところがそれが今は逆に行われている。即ち各人は個々の私人として独力で生産し、そして仕上った
第4章 商 品 生 産
267
生産物が交換によって初めて合体して、社会的富と見做され得る総額を形成するのである。社会的労
働に対する各人の分け前にしろ、社会的富に対する各人の分け前にしろ、今では各人が自分の労働で
つくり上げて他人と交換するために差出した特殊の商品によって代表されている。故に今では社会的
協力労働に対する各人の参与は、もはや前もって各人に割当てられた労働の一定量をもって表される
のでなく、各人が自分の自由な見積りに従って供給した既製生産物、商品で表される。そこで若し彼
が労働しようとも思わないし、全然そうする必要もないときは、散歩に行ったって、共産体の不従順
な成員の場合のように誰も彼を叱りもしなければ罰しもしないであろう。共産体では怠け者はおそら
く「首脳住民」即ち共産体の頭首によってきびしく戒告せられるか、或はまた集会で公けの侮蔑に供
せられた。しかるに今では、共同体が権威として存在しているのでなく、各人は何人にも拘束されぬ
自分の自由な主人である。だが、彼が労働しないなら、交換によって他人の労働の生産物を少しでも
手に入れることもできぬ。ところが他方においては、各個人がいくら懸命に働いても、必要な生活資
料を手に入れるに至るがどうかは今日では全然不確かである。けだし何人と雖も、そういう生活資料
を――靴工の生産物と引きかえにすらも――靴工に与えることを強いられてはいないからである。交
換は相互的欲望が存する時にのみ生じてくる。共同体の内で一時靴が不用であるとしても、靴工は懸
命に労働し、立派な商品を仕上げて差支えないのだが、しかし何人も彼から靴を求めてその代わりに
パンや肉等を与えることはしないだろうから、従って彼は依然として生活に最も必要なもの無しでい
268
ることは元通りである。この点にもまた共同体における従前の共産的関係に比較して確然たる区別が
現れている。共同体が靴工を持っていたのは、共同体において一般に靴を必要としたからである。靴
をどれだけ拵えたらよいかということは、共同体の役場が靴工に言ってくれたのであって、靴工は謂
わば単に共同体の召使として、共同体の役員として労働した。そして靴工と限らず各人いずれもこれ
と同じ状態にあった。ところで共同体が一人の靴工をかかえているとしたら、同時にまた共同体はこ
の靴工を養わなければならなかったのは自明のことである。彼は自分の分け前を他の各人と同じく共
同の富から貰うのであって、彼のこの分け前は労働に対する彼の持分とは何等直接の関係がなかった。
勿論彼は労働しなければならなかったのだし、また彼が養われていたのは、労働したから、そして彼
が共同体の有用な成員だったからには相違なかった。しかしながら彼は今月靴を多く作ったと少なく
作ったとに拘わらず、時には全然作らなかったにせよ、それでも自分の生活資料を、即ち共同体の資
料の分け前を同じだけ得ていたのである。しかるに今は彼の労働が必要とされた分量だけ、即ち彼の
生産物が交換によって他人の手に入った分量だけ、一々引き換えに入手するのみである。故に各人は
一途に自分の欲する方法により、自分の欲するだけの分量で、自分の欲するものを作るのである。彼
0
0
が適当なもの、即ち社会が必要とするものを生産したということ、実際上に社会的に必要な労働を行
ったということを確証する唯一のものは、彼の生産物が他人に受取られるという事実だけである。従
って如何に勤勉にして立派な労働と雖も、必ずしもその悉くが前もって社会的立場から見た目的およ
第4章 商 品 生 産
269
び価値をもっているのでなく、交換され得る生産物のみが価値をもっているのであって、何人によっ
ても交換されない生産物は、たとえそれが立派なものにせよ価値の無いものであり、浪費された労働
である 。
0故0に今は各人は社会的生産の成果に参与するためには、従ってまた社会的労働に参与するためには
商品を生産しなければならぬ。しかし彼の労働が実際上に社会的に必要な労働と認められているとい
うことを誰も言って聞かせるのでなく、彼は自分の商品が交換されているということ、その商品が交
換性を有しているということから、右の事実を経験するのである。故に社会全体の労働および生産物
に対する彼の分け前は、彼の生産物に社会的必要労働の刻印、交換価値の刻印が捺されることによっ
てのみ保証される。若し彼の生産物が交換され得ないで残っているならば、その時は彼は価値の無い
生産物をつくったのであり、彼の労働は社会的に余計なものだったのである。そしてまたその時は彼
は、自分の暇つぶしのために革を切り、靴をでっち上げた私的靴工、謂わば社会の外に立っている一
個の私的靴工にすぎない。けだし社会は彼の生産物について何等知ろうともしないし、従ってまたそ
のために社会の生産物が彼の手に渡らないからである。そこでこの靴工が今日幸運にもその靴を交換
して、その代わりとして生活資料を手に入れたとしたら、彼は腹を充たし着物を着ることができるば
かりでなく、意気揚々と家に帰ることができる。即ち彼は社会の有用な一員と認められ、彼の労働が
必要労働と認められたからである。ところが誰も彼から靴を買おうとしなかったために靴を携えて戻
270
って来たとしたら、その時は彼は憂欝になる理由がある。けだし彼はスープなしでいなければならず、
同時にまたこのことによって、冷やかな沈黙を以てではあるが、謂わば次の如き宣告を受けたわけだ
からである。社会は君なんかいらないのだ、君の労働はちっとも必要ではなかったのだ、だから君は
余計な人間だ、安心して首をくくって死んで差支えないと。故にこの靴工が社会へくっついていられ
るのは、ただ一足の交換され得る靴、一般的に言えば交換価値をもった商品のおかげに外ならぬ。と
ころがパン焼職人も織工も農夫も――誰でも皆この靴工と全然同じ状態にあるのだ。
靴工を認めたり、
軽蔑して冷酷に突放したりするこの社会は、その実、相互に交換のために労働するこれらの個々の商
品生産者の全部を合せたものにすぎない。従って今こういう風にして成立せる社会的労働および社会
的生産物の総和は、以前の共産主義共同経済の場合とは違って、個々の成員のすべての労働および生
産物の総和と少しも一致しない。何故なら今では誰も彼も熱心に労働したって差支えないが、しかも
交換するための買い手が見つからなければ、その人間の生産物は無駄なものであり、一文にもならな
いからである。どんな労働とどんな生産物とが必要だったか、従ってまた社会的に支払われるかとい
うことは、ただ交換だけが決定するのである。謂わば各人すべてが初めにまず自分の家で盲滅法に労
働し、それから今度は仕上った生産物が或る一つの場所に寄せ集められて、ここで選り分けられるよ
うなものであって、そこで初めて、これとこれは社会的必要労働だった、だから交換に供される、あ
れとあれは必要労働ではなかった、だから一文にもならぬという刻印が捺される。そしてこの刻印は
第4章 商 品 生 産
271
こう告げるのである――これとこれは価値がある、あれとあれは価値がない、従ってそれは当事者の
個人的な満足或は災難に止まるものであると。
0
0
0
0
そこで色々な個々の事柄を総括するならば、他からの干渉または統制がない場合は、商品交換とい
う単なる事実に依って、次の三つの重要な関係が規定されるという結果が生ずる。
一、社会的労働に対する社会の各員の持分。この持分は、その種類も分量も、最早前もって共同
体から各人に割当てられるのではなくて、仕上った生産物が受け入れられるか受け入れられないかで
後から定まるのである。以前には、靴工がこしらえた一足の靴は、直接に且つ前もって、製造中にす
でに社会的労働であった。今は靴工のこしらえた靴は、最初は何人にも交渉のない私的労働である。
それから今度は交換市場で初めて選り分けられ、そして交換に供せられた場合だけ、靴に費やされた
0
0
0
靴工の労働が社会的労働と認められる。そうでない場合は、
どこまでも私的労働であり無価値である。
二、社会的富に対する各員の持分。以前には靴工は、共同体の中で仕上げられた生産物の分け前
を分配の際に受けた。この分け前は次の標準によって計られる。第一に、一般的富裕状態、その場合
の共同体の能力状態によって。第二に、各員の欲望によって。多人数の家族は少人数のものよりも多
くを受けたのは当然である。ゲルマン種族が民族移動時代にヨーロッパへやって来て、ローマ帝国の
廃墟の上に居を定めた時に、この種族の間に占領した地所が分配された際には、矢張り家族の大きさ
が或る役割を演じた。八○年代になっても所々で共有地の割替を行っていたロシアの共同体は、その
272
際に人頭数、即ち各家族の「口」の数を考慮に入れていた。しかるに交換が一般に行われている場合
は、社会の各員の欲望と、富に対するその人間の持ち分との間の関係も、この持分と社会の総体的富
の大きさとの間の関係も、いずれも消え失せてしまう。今は各員によって商品市場に持出された生産
0
0
物だけが、それも社会的に必要なものとして交換される様になった時だけ、社会的富に対する彼の持
分に対して標準となる。
三、最後に矢張り交換の機構そのものによって社会的分業が規制される。以前にはいくらいくら
の作男が必要だとか、又いくらいくらの靴工、パン焼職人、錠前工、鍛冶工が要るとかいうことは共
同体が決めた。個々の職業の間の正しい割合を定めたり、すべて必要な労働部門が運用されるかどう
かを注意したりすることは、共同体とその選出された役員との役目となっていた。昔、或る村落の代
表者が、死刑を宣告された錠前工は放免して、それよりも村に二人いる鍛冶工のうち一人を代わりに
絞殺せよと命じた有名な場合を、この共同体の役員もよく心得ている。これは共同体の内部に分業が
正しく行われるよう公けの配慮が行われる顕著な例である。(其他、中世においてカロロ大帝がその
料地のため手工業者の種類および数を規定したことはすでに述べた通りである。また中世の都市にお
いて、ギルドの規約は個々の職業が正しい割合で営まれるように配慮して作られ、欠けている手工業
あつら
者を他からその都市に連れて来た例もあった。)しかるに自由且つ無制限の交換が行われている場合
は、そういう事柄は交換そのものによって調節されるのである。いま靴工に誰も靴を誂えないとする。
第4章 商 品 生 産
273
そこで靴工は自分がやろうと思えば石鹸玉や紙凧を製造しても差支えないし、また気に入れば靴を造
る代わりに、織ったり、紡いだり、或いはまた金細工に従事したりしても差支えない。社会が一般に
彼というものを必要としているとか、特に靴工としての彼を必要としているとか、彼に向って告げる
者は誰もないのである。もちろん社会は一般的には製靴業を必要とする。しかし靴工が幾人あればこ
の欲望が充され得るかということを定めるものは誰もないのである。故に特定の靴工が必要とされて
いるかどうか、或いはかえって織工や鍛冶工が不足してはいるかどうかということを、靴工に向って
話して聞かせる者はない。だが誰も彼にそのことを話して聞かせなくても、彼は矢張りこれを商品市
場において自分一人で経験から知る。彼の靴が交換されれば、社会が彼を靴工として必要としている
のだということを知る。そして逆にも言える。極上等の商品を拵えることができても、他の靴工によ
って需要が充たされてしまえば、彼の商品は無駄なのである。こんなことが繰り返えされれば、彼は
自分の職業を止めてしまわねばならぬ。必要数以上の靴工は、恰も余計な物が動物の体内から排出さ
れると同じ機械的方法によって社会から排除される。彼の労働は社会的労働として受け入れられない
のだから、そのために彼は瀕死の状態におかれる。靴工をして、交換され得る生産物を、自己の生存
条件として他人のために生産せしめるところの強制力は、結局落伍したこの靴工を駆って、ヨリ強い
需要が存在していてしかも充分に充たされていない職業、たとえば織物業とか荷車製造業とかに赴か
せるだろう。そしてこの職業において労働力の不足額が充たされるのである。こういう具合にして職
274
業間の正しい比例が維持されるのみならず、職業そのものが廃止されたり、新たに創立されたりする。
社会における或る一つの欲望が止むとしても、或は他の生産物でこれ迄通りに充たされるとしても、
以前の共産体の場合と違って社会の成員によって確立されるのではなく、またそれに応じて労働者が
かつら
或る職業から引きぬかれて他の職業へ向けられるのではない。これは単に時代おくれとなった生産物
が交換され得なくなるという事実となって表面に現れるだけである。十七世紀には未だ鬘師はいかな
る都市においても無くてはならぬ手工業を成していた。しかし風習が変って鬘をつけないようになっ
た後には、この職業は単に鬘が売れなくなったということのために自然と滅びてしまった。近代都市
における運河開設と、各戸に機械的に給水する水道の設備の拡張と共に、水運びの職業、ウインでは
水屋と言われている職業は段々消滅した。今度は逆の場合を見よう。ここに一人の靴工があって、自
分の商品が組織的に社会から排斥されるために、自分は社会的に必要とされていないということを明
瞭に感ずるに至ったとする。しかし彼は教育があるので、それにも拘わらず自分は人類の必要欠くべ
からざる一人であると信じ、そして是非とも生きて行こうと思っている。生きるためには吾々も知り、
彼も知っているように商品を生産しなければならぬ。そこで今度彼は全然新らしい生産物、たとえば
靴紐とか驚くべき靴墨とかを発明する。これによって彼は社会的に必要な新労働部門を創設したのだ
ろうか? それとも多くの偉大なる発明の天才がそうであったように、依然として認められずにいる
のだろうか? 言ってくれる人間は矢張り誰もないのであって、彼は商品市場においてのみこれを体
第4章 商 品 生 産
275
験するのである。彼の新らしい生産物が引き続いて交換されるなら、その時は新生産部門が社会的に
必要なりと認められたのであり、社会的分業が新たに拡張を見たのである。(木綿は十九世紀に麻を
追いのけた。)
かくてわが共同体に共産主義的統制、共有制度が崩壊し、経済生活におけるあらゆる公権力、労働
におけるあらゆる組織および計画、個々の成員間におけるあらゆる紐帯が消滅したとき、この大激変
の翌朝には全く望みを失ったように見えたのが、次第々々に或る聯絡、或る秩序が、しかも全く機械
的な方法で再び成立するに至ったのを諸君は見るであろう。個々の成員間に何等の了解もなく、何等
高級の権力の干渉もなくして、今やバラバラな破片がどうにかこうにかくっついて全一体となった。
今は交換というものが、謂わば一種のポンプ仕掛のように機械的な方法で全経済を規制している。即
ち交換は個々の生産者間に紐帯をつくり、彼等を強制して労働せしめ、彼等の間の分業を規制し、彼
等の富とその富の分配とを規定する。交換が社会を統治しているのである。いま吾々の眼の前に生じ
ているものは、いかにも奇妙な秩序である。今や社会は以前に共産体の制度の下にあった時とは完全
に異なって見える。当時は社会は堅固な全一体であり、その成員のすべてが互いに混交し、しっかり
と結び付いていたところの一種の大家族であり、また鞏固な有機体であった。それどころか、骨ばっ
た、動きのない、硬化した有機体であった。しかるに今は非常に弛い構造であって、個々の成員がそ
の中で瞬間毎に分離したり結合したりしている。実際さきにも述べたように、靴工に向って労働しな
276
くてはいけないとか、何をつくれとか、どれだけの分量を作れとか話してくれるものは誰もない。そ
れかといって靴工に向って、生活資料が要るかどうか、どんなものが要るか、いくら要るかと問う者
もいない。誰も靴工のために心配しないし、靴工も社会のために存在しているのではない。彼は自分
の労働の生産物をもって商品市場に姿を現すことに依って、社会に自分の存在を告げるのである。彼
の存在は彼の商品が受け容れられた場合に認められる。彼の靴が交換される場合にのみ、彼の労働は
社会にとって必要になり、従って彼も労働する一員として認められる。靴が商品として受取られる場
合にのみ、彼は社会の富の内から自分の生活資料を受けとる。だから一私人としては彼は社会の成員
ではなく、同様に私的労働としての彼の労働は、それだけではまだ社会的労働ではないのである。彼
が社会の一員となるのは、交換され得る生産物、商品をこしらえる場合だけ、そしてその商品を所有
していて手放すことができる場合だけである。靴が一足交換される毎に、それだけ彼は社会の一員と
なり、売れなければその都度社会から再び追い出される。故に靴工は、靴工として、人間としては社
会と何等連絡を有するのでなく、彼の靴が初めて彼を社会に加盟せしめるのであって、これとても靴
が交換価値を有し、商品として売られる場合のみである。故にこれは常時の加入ではなく、絶えず更
新され、絶えず交代されるものである。しかしこれはこの靴工に限らず、あらゆる他の生産者もこれ
と同じ状態にある。そして社会には商品生産者以外には誰もいないのである。何故なら交換によって
のみ人々は生活資料を手に入れ、そしてこれを手に入れるためには、誰でも商品をもって臨まなけれ
第4章 商 品 生 産
277
ばならぬからである。商品生産が生活条件である。かくてすべての人間が全く分離せる個人として単
独生活を営んでいるところの或る社会状態が生ずる。これらの分離せる個人はお互いのために存在し
ているのでなく、単に各自の商品によって絶えず社会全体に連絡したり、この連絡から排除されたり
しているのである。これは非常に弛やかで可動的な、且つ個々の分子の間断なき渦巻の中にあるとこ
ろの社 会 で あ る 。
かくて吾々は計画的経済の廃止と交換の実施とが、人間の社会的関係に全体的変化をもたらし、社
会を頭の先から足の先まで変えてしまったのを見る。
二
しかしながら社会の成員の間の唯一の経済的連鎖としての交換は、大きな難点をもっているのであ
って、吾々がこれまで仮定してきたように、直ちにそう円滑に行われるものではない。そこでこの事
柄をもっと仔細に観察しよう。
ただ二人だけの生産者間の交換、即ち靴工とパン焼職人との間の交換を観察している間は事柄は全
く簡単であった。靴工は靴だけでは生きて行けないのでパンを必要とする。パン焼職人はすでに聖書
に言われているように、パンのみにて生きることはできないのだが、但し必要なのは神様のお言葉で
はなくて、この場合は靴が必要なのである。この場合は相い互いがあるから交換はすらすらと成立す
278
る。即ちパンはそれを必要としないパン屋の手から靴屋の手へ舞い込み、靴は靴店からパン屋の店へ
移って行く。両人ともその欲望は満たされ、そして両人の私的労働は社会的に必要なものと確認され
るのである。だがこれと同じことが靴屋とパン屋の間だけでなく、社会のすべての成員の間に、即ち
すべての商品生産者の間に一度に起きるものと仮定しよう。そしてこう仮定するのは正しいことであ
り、また実際こう仮定する必要がある。何故なら社会の成員はすべて生きて行かなければならず、い
ろいろな欲望を満たさなければならぬからである。社会の生産は、消費が寸時も停止しないのである
から、寸時も停止することはできぬ――と吾々は前に言った。今はこうつけ加えなければならぬ。生
産は今の場合は個々の独立した私的労働に分裂していて、その内の一つだけでは一人の人間を満足せ
しめることができないのだから、――社会の消費が停止しないとすれば――交換は寸時たりとも停止
することはできぬと。故に万人が絶えず万人とその生産物を交換する。どうしてそういうことになる
のか? また先きの例に戻ろう。靴屋はパン屋の生産物ばかりを必要とするのではなく、その外の商
とぎゅう
品もそれぞれいくらかずつ得たいと思っている。彼はパンの外に、屠牛者から肉を、仕立屋から服を、
リンネル織匠からシャツにする布地を、帽子屋からシルクハットなどを欲しいのである。彼はすべて
これ等の商品を手に入れるには交換という方法によらなければならぬ。だが、彼の方から提供し得る
ものはいつでも靴だけである。従って靴屋にとっては、彼が自分の生活のために必要とするすべての
生産品が、まず最初には靴の形態をとるのである。若しパンが入用なら彼はまず靴を一足造り、シャ
第4章 商 品 生 産
279
ツが入用でも靴を造り、帽子か煙草が欲しい場合にもつねにまず靴を造るだけである。靴屋という専
門的労働においては、その手元に来るすべての社会的富は、彼個人に対しては靴の形をとる。商品市
場における交換によって、初めて彼の労働は靴という狭い形態から、彼の必要とする生活資料の種々
の形態に変ぜられ得るのである。しかしこの変化が実際上に起きるためには、即ち靴屋がいろいろと
生の悦びをもたらしてくれることを期待している、彼の勤勉な労働が、靴の形態の侭に止っていない
がためには、或る一つの重要な条件が必要なのである。その条件というのはすでに吾々の知っている
ものであって、即ち靴屋の必要とする労働生産物をつくるところの、他のすべての生産者が、同じく
また靴を必要として交換したがっているということである。靴屋はその生産物即ち靴が、すべて他の
生産者によって欲しがられている場合だけ、すべて他の生産物を受取り得るのである。靴屋の作る靴
が何時でも誰からも欲しがられている商品、即ち無制限に欲しがられている商品であるならば、靴屋
は自分の労働によって交換し得る分量だけ、いつでも他の商品をすべて手に入れることができる。し
かしながら靴という特殊商品が、人類にとって絶対無制限に必要欠くべからざるものであるなどと考
えるのは、可なり妄想であり、根拠のない楽観であることは、すでに靴屋の例だけでも明らかであろ
う。ところが他の個々の生産者、即ち錠前屋、織匠、肉屋、帽子屋、百姓等がみな各々靴屋と全く同
じ状態にあるのだから事柄がこみ入って来る。彼等はいずれも色々な生産物を欲しがっているのだが、
自分の方からはそれに対してただ一種類の生産物を提供し得るだけである。各自の特殊生産物が何時
280
でも社会のすべての人々から欲せられ、交換されるとした場合にのみ、各人が完全にその欲望を満た
すことができよう。だが一寸考えればこんなことは全然不可能だということが分る。各人はいつでも
同様にすべての生産物を欲しがるわけではない、だから誰でも靴だのパンだの煮物だの錠前だの穀物
だの、シャツ、帽子、靴紐だのを、いつでも無制限に買い得るものではない。ところがそうでないと
すれば、すべての生産物が、いつでもすべての生産物と交換されることはできない。しかるに常住的
にすべての方面に関係を与えるものとしての交換が不可能であるとすれば、その時は社会のすべての
欲望を充たすことが不可能となり、社会におけるすべての方面の労働が不可能となり、社会の存立が
不可能となってしまう。そうすれば吾々は再び進退両難に陥って、さきに吾々に課せられた問題を解
くことができなくなろう。即ちその問題とは、何等の共同労働計画、何等の組織、何等の紐帯等に依
っても結合されていない、個々のばらばらになった私的生産者から、如何にして社会的協力労働と経
済とが出て来るかを説明することである。ところが交換はすべてこれ等のものを、奇妙な方法に依っ
てではあるが規整し得る手段たることを吾々に示した。しかしながら交換が規則正しい機械としては
たらき得るためには、まず初めに交換が一般に成立していなければならぬ。ところが吾々はいま第一
歩を踏み入れたばかりだのに、すでに交換そのものの中に難点を発見したのであって、すべての方面
ところがこの困難に打ち勝って社会的交換も可能ならしめるところの手段がすでに見出されている
に亙る不断の営みとして、交換を一体どう扱ってよいのか、吾々には全く判断がつかないのである。
第4章 商 品 生 産
281
のである。それを発見したのはコロンブスでもなんでもない、社会的経験と習慣とが知らず知らずの
間に交換そのものの中に手段を見出したのである。即ちよく言われている文句でいえば、
「生活」そ
のものが問題を解決したのである。それなら一体どうして社会的生活が、こういう難点を持ちながら
同時に難題を解決する手段をつくり出したか。勿論すべての商品が、
いつでもあらゆる人々によって、
即ち無制限の量において欲しがられるということはあり得ない。
しかし、
どの時代にも、どの社会にも、
0
0
0
各人にとっては生存の根幹として重要であり、必要であり、有用であったところの、そしてそれがた
めに各人がいつでも欲しがっていたところの、或る一つの商品があった。しかしこういう商品はたし
かに靴ではなかったに違いない。人間はそれほど見え坊ではないのだから。しかしそういう生産物は、
たとえば家畜であったかも知れない。人間は靴だけではやって行けないし、また着物や帽子や穀物だ
けではやって行けない。ところが家畜は経済の基礎として、如何なる場合でも社会の生存を保証する。
それは肉、乳、労働力等を供給する。実に多数の遊牧民族にあっては、富全体が家畜群より成るので
ある。またアフリカの黒人種族は、殆んど家畜の飼養だけで今もなお生活している。或は少なくとも
ごく最近まではそれで生活していた。さて家畜はわが共同体において最も欲しがられている富の部分
であると仮定しよう。家畜は社会において生産される唯一のものとまでは行かずとも、その中の一つ
であるとして差支えない。ここでは家畜飼養者は、靴屋が靴に、織匠が布に対する如く、彼の私的労
働を家畜の生産に向ける。我々の仮定に従えば、家畜飼養者の生産物のみが、すべて外の人々によっ
282
て一般に無制限に好まれる。何故ならそれはすべての人々に最も必要欠くべからざる重要なものと思
われているからである。故に家畜は誰にとっても喜ばれる富である。吾々の社会においては交換の方
法によらずしては何物をも且つ何人からも得られないということになっているから、多くの人から欲
しがられている家畜を家畜飼養者の手から得るには、言うまでもなく他の労働生産物と交換する外は
ない。しかしさきに仮定したように、誰でも喜んで家畜を欲しがっているのだから、従って誰でも常
に喜んで家畜に対して自分の生産物を与えるに相違ないということになる。そこで逆に、人は家畜を
以てすれば何時でもどんな種類の生産物でも得ることができる。故に家畜を有するものは何んでも皆
自分の意のままになるのだから、ただ好きなものを選択すればよい。だから今度は逆に、取りも直さ
ずそういうわけで、各人は自分の特殊労働生産物を家畜より外のものに対してはもはや交換したがら
なくなる。けだし家畜を持っていれば、家畜と引きかえに何時でもすべてのものが手に入るのだから、
すべての物を持っていることになるのである。時を経るにつれてそういうことが一般に明らかになり、
そして習慣になってきて、次第に家畜は一般的商品となった。即ち無制限に且つ一般的に欲しがられ
る唯一の交換商品となった。そこでこういう一般的商品として、家畜がすべて他の特殊商品の交換を
媒介する。今は靴屋は靴と引きかえにパン屋からすぐさまパンを受取らずに家畜を受取る。何故なら
家畜があれば、自分の思いの侭の時にパンでも何んでも買うことができるからである。今は矢張りパ
ン屋も靴の代を家畜で支払うことができる。けだし彼は彼自身の生産物、即ちパンと引きかえに他の
第4章 商 品 生 産
283
人間から、錠前屋からも家畜飼養者からも肉屋からも、矢張り家畜を受取るからである。各人は自分
自身の生産物と引きかえに他人から家畜を受取り、また他人の生産物が欲しい時にはその家畜をもっ
て支払う。このように家畜は一人の手より他の人の手に渡り、あらゆる交換を媒介する。それは個々
の商品生産者を結ぶ精神的紐帯である。(そして家畜が交換の媒介者として一人の手より他人の手に
移ることが頻繋であればある程、家畜の一般的、無制限な愛好性が益々強固なものとなり、益々それ
はいつでも欲しがられている唯一の交換商品、即ち一般的商品となるのである。)
共同的労働計画を伴わぬ分散的な私的生産者の社会においては、労働生産物はいずれも最初は私的
労働であることは、さきに吾々の見た通りである。この労働が社会的に必要であるかどうか、従って
この労働の生産物は価値を有していて、労働した人間に社会全体の生産物に対する分け前を保証する
かどうか、それともそれは浪費された労働であったかどうかということは、この生産物が交換される
という事実によってのみ専ら示されるのである。しかるに今やすべての生産物は家畜とだけ交換され
る。故に今では生産物が家畜と交換される場合にのみ、その生産物は社会的に必要なものと見做され
るのである。生産物が家畜と交換され得ること、家畜とその価値が等しいということが、初めて各私
的生産物に社会的必要労働の刻印を与える。吾々は更らに、商品交換によって初めて、且つ商品交換
に依ってのみ、個々に分立せる私人が社会の一員という刻印を捺されるのだということを見てきた。
今はもっと正確に、家畜との交換によってそうなるのだ、と言わなければならぬ。今より家畜は社会
284
的労働の体現と見做され、かくて家畜は今や人間間の唯一の社会的紐帯となっているのである。
ここで諸君は、吾々は今筋道を誤ったのではないかという感情を内心いだくであろう。これまでの
ことは皆幾分合点のゆくことであり、耳を傾けるに足りた。ところが結論はといえば、一般的商品と
しての家畜、社会的労働の体現としての家畜、それどころか人間社会の唯一の紐帯としての家畜――
これはすでに馬鹿げ切った妄想であり、おまけに人類を侮辱する妄想である! しかも諸君はこんな
ことを考えるさえ、故なくして侮辱されたと感ずるであろう。諸君は軽蔑の眼を以て家畜を見下すか
も知れないが、しかも家畜は人間に近く、しかもかなり似ていて、しかも土中から発掘された石灰石
の塊りや、硅石や、ひとかけらの鉄に比すれば、くらべものにならない程人間に似ていることは何と
いっても明白である。家畜の方が生なき金属のかけらより、はるかに人間間の社会的紐帯を表現する
に相応しいものであることを諸君は認めなければならぬ。しかも人間はこの場合に、外ならぬ金属の
方を択んできたのである。思うにさきに述べたような交換における家畜の意義および役割から見れば、
家畜はまさしく――貨幣以外の何ものでもない。諸君は鋳造された金片や銀片、或は紙で出来た銀行
券の形以外には貨幣というものを考えることができないとすれば、そしてこれらの金属または紙で出
来た貨幣が、人間間の交易の一般的媒介物として社会的権力を有するのは当然であると考え、これに
反して家畜がこれと同じ役割をするという私の説明を以て狂気の沙汰であると考えるなら、それは諸
君の頭が如何に甚しく今日の資本主義世界の観念に捕われているかを示すものに外ならぬ。それだか
第4章 商 品 生 産
285
ら幾分なりとも合理的に見える社会関係の図景が、諸君の眼には全然狂気の沙汰に見え、完全に狂気
の沙汰になっているので自明の理のように見えるのである。事実上は家畜の形態を取った貨幣は金属
貨幣と丁度同じ職能を有しているのであって、吾々が金属を以て貨幣を造るようになったのは便宜の
点を慮った結果に外ならぬのである。なるほど家畜は同質の金属板のようにはうまく取りかえること
もできなければ、正確に価値を測ることもできないし、それにまた家畜貨幣を保管するには、家畜小
屋に似た、とても大きな財布を持たなければならぬ。しかしながら人類が貨幣を金属で造ることを考
えつくに至った以前も、貨幣は交換の必要欠くべからざる媒介者として早くから出来上っていたので
ある。けだし貨幣即ち一般的商品は実に必要欠くべからざる要具であって、それがなければ一般的交
換がちっとも取り運ばれず、またそれがなければ個々の生産者から成立している無計画な社会的経済
は存在し得るものではないからである。
現に交換における家畜の多方面的な役割を観察してみよう。家畜は何によって今まで研究してきた
社会において貨幣となったか? あらゆる方面からあらゆる時に欲しがられている労働生産物だった
という事実によってである。しからば何故に家畜はあらゆる時にあらゆる方面から欲しがられたの
か? 多方面に亙る生活資料として、人間の生存を安全ならしめる極めて有用な生産物だったからだ
ということは、すでに言った通りである。初めはまことにその通りである。しかしその後、家畜が媒
介物として一般的交換に用いられれば用いられる程、家畜を生活資料として直接に消費することは影
286
をひそめて行った。いまは家畜を自分の生産物と交換して手に入れた者は、殺して食ったり、耕作に
使用したりすることを避けるであろう。家畜は今や彼に取っては、何時でもどんな他の商品でも買う
ことのできる要具として、一層価値の多いものとなったのである。故に家畜を受取った者は、いまそ
れを生活資料として消費しないで、交換要具として今後の交換用として保管しておくだろう。この社
会に仮定したように分業が高度に発達している場合には、家畜の直接消費はうまく行くものではない
ということは諸君も認めるであろう。たとえば靴屋はこうした家畜で何を初めたらよいのか? また
農業をやらない錠前屋や織匠や帽子屋はどうしたらよいのか? こういうわけで生活資料として家畜
を直接に使うことはますます度外視されるようになり、そうすればもはや家畜は屠殺、搾乳、耕作に
有用だからという理由でいつでも万人から欲しがられるのではなく、いつでも任意の商品と交換し得
る可能性を与えてくれるから欲しがられるのだ。交換を可能ならしめること、即ち任意の時に私的生
産物を社会的生産物に、私的労働を社会的労働に変化せしめるに役立つことが益々家畜の特殊な効用
または使命になる。かくて家畜は人間に生産手段として役立つというその私的な用途を益々棄てて、
遂に社会の個々の成員間の不断の媒介という職能に向けられるから、漸次にそれはまた他の各生産物
の如く私的生産物であることを止めて、前もって、奥底から、謂わば納屋の奥から、社会的生産物と
なる。そして家畜飼養者の労働は、今やすべて他の労働と区別され唯一の直接社会的労働となる。そ
こでまた家畜は最早や生活手段として消費するためにのみ生産されるのでなく、それと並んで直接に
第4章 商 品 生 産
287
社会的生産物として、一般的商品として、貨幣としてはたらく目的のために飼養される。もちろん家
畜はそのごく僅かな部分はなお屠殺されたり、耕作に使われたりする。しかしこの謂わば家畜の私的
用途、私的性質は、その貨幣としての公的性質に対してだんだん消えて無くなる。かくて家畜はかか
0
0
0
0
る性質のものとして、社会の生活の中に顕著な多方向的な役割を演ずるのである。
一、家畜は結局において一般的な、公けに認められた交換手段となる。最早や今は何人といえど
も靴とパンとを交換したり、シャツと蹄鉄とを交換したりしない。そうしようと思ってもはねつけら
れるであろう。家畜と引きかえにだけ物を手に入れることができるのである。ところがこれによって
以前に二重的性質を持っていた交換は、二つの分離した取引、即ち売ることと買うこととに分れる。
以前に錠前屋とパン屋がその生産物を交換していた時には、各々は持手を替えることによって各自の
商品を売ると同時に相手の商品を買ったのであった。買うことと売ることとは同一の仕事であった。
ところが今は靴屋が自分の靴を売る場合は、彼はそれに対して家畜だけを受取る。彼はまず初めに自
分自身の生産物を売ったのであった。同じく彼が何かを買う場合は、何を買おうとも、或は買っても
買わなくとも、どこまでもそれは別の事柄である。とにかくここでは靴屋は自分の生産物を手放した
のであって、これで彼は自分の労働を靴の形態から家畜形態に変えたのだ。しかるに家畜形態はとい
えば、さきに述べたように労働の公けの社会的形態であって、この形態においてのみ靴屋は自分の欲
するだけの間この労働を保存することができる。何故なら彼はいつでも自分の労働生産物を再び家畜
288
0
0
形態から別種の任意の形態のものに取換える、即ちものを購買することができる位置にあるというこ
とを知っているからである。
二、ところが取りも直さずこれによってまた家畜は今や富を蓄え、集める手段となる。即ち蓄蔵
0 0
手段となる。靴屋が彼の生産物を直接に生活手段と交換している間は、彼は、彼の日々の欲望を満た
すに必要なだけしか労働しなかった。一体靴を溜め込むために労働したり、パンや肉やシャツ、帽子
なんかをウンと沢山溜め込んだりすることが、彼にとって何の役に立つだろうか? 日々の使用の対
象物は、多くは長く保存したりしまって置いたりすると、損害を蒙るか、全く使用することができな
くなってしまう。しかるに今や靴屋は自分の労働生産物と引きかえに手に入れた家畜を、将来のため
の手段として保存しておくことができる。そこでまたこの親方の胸の中に貯蓄の考えが起ってくる。
彼はできるだけ多くを売ろうと試みるが、すべて手に入れた家畜は再び支出しないように心がける。
それどころか彼はそれを集めようと試みる。けだし家畜はいつでもすべての人にためになるものであ
0
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0
るから、彼はそれを将来のために蓄積し、そして自分の労働の結果を子供等に遺産として残すのであ
る。
三、家畜は同時にまたすべての価値および労働の尺度となる。靴屋は一足の靴が交換の場合にい
くらのものを齎らすか、自分の生産物の価値はいくらであるかを知ろうとする場合は、たとえば次の
ように言う。私は一足につき牛半分を得る。故に私の靴一足は、牛半分に値いすると。
第4章 商 品 生 産
289
0
四、最後に家畜はこういう風にして富の総和となる。誰それは沢山の穀物、畜群、衣類、嗜好品、
従者を持っているから富んでいるとは言わずに、家畜を沢山持っているから富んでいると言われる。
あの人にお辞儀をなさい、あの人は牛一万匹の財産を持っているよと言われたり、或は貧乏人め、あ
いつは一匹も持っていないと、いう風に言われる。
御覧の通り一般的交換手段として家畜が拡まるにつれて、社会は家畜形態においてのみ考え得るよ
うになる。人はいつでも家畜のことを語ったり、夢みたりする。儀式ばった家畜崇拝や家畜讃美が行
われてくる。乙女の魅力が持参金としての家畜の大群で増すときは、求婚者が豚飼いでなくて教授や
うた
坊さんや詩人であったにしても、その乙女は最も気に入られて嫁に貰われる。家畜が人間の幸福の総
計である。家畜とその驚くべき力とが詩に謳われ、家畜のために犯罪や殺人が行われる。そして人間
0
0
は首を振り振り「家畜が世界を統治する」と繰り返して言う。若しもこの格言が諸君に御存じないも
のに思われるなら、これをラテン語に訳して御覧なさい。古代ローマのペクニア=貨幣という言葉は、
0 0 0 0
ペクスー「家畜」から来ているのである。
)【上記は欄外注】
(使用価値の脱皮は金属貨幣となるに至って完了する。
三
共同財産と共同労働計画との急激な崩壊後、共産体内部の関係が如何に変って行くかということに
290
関するこれ迄の研究は、諸君には純理論的な妄想と見え、また雲を掴むような話に見えたろう。だが
実際においては、これは商品経済の歴史的発展を要約し簡単に叙述したものに外ならない。そしてこ
の叙述はその根本的特徴において厳密に歴史的真実と照応しているのである。
しかしながら右の叙述には二三の訂正を加えなければならぬ。
一、 共 産 体 を 一 夜 の 内 に 崩 壊 せ し め て 自 由 な 私 的 生 産 者 の 社 会 に 変 え た 突 発 的 大 事 変 と し て 描 い
たこの出来事は、現実においては数千年を要した。もちろん突発的な激しい大事変としてかかる変化
を想像する事も決して空想ばかりとは言えない。この想像は、原始的共産主義に拠っている民族が、
すでに高度の資本主義発展段階にある他民族と接触するようになった場合、至るところで現実と一致
する。ヨーロッパ人による謂わゆる野蛮、半開の国々の発見、征服は大ていこういう場合である。ス
ペイン人によるアメリカ発見、オランダ人によるインドの征服、イギリス人による東インドの征服の
際にも、また、イギリス人、オランダ人、ドイツ人等のアフリカ占領の際にもこうであった。これら
の大多数の場合には、ヨーロッパ人が急にこれ等の国々に侵入したために、そこの原始民族の生活に
大激変が引きおこされた。吾々が二十四時間の出来事として仮定したものは、実際においては往々
たちま
二三十年を要したのみであった。ヨーロッパの一国家による国土の征服、或はまた単にこれらの地方
にヨーロッパ人の二三の商業植民地ができただけでも、忽ちその結果として土地共有の暴力的廃止、
土地を細分寸断して私有財産にすること、家畜群の没収、社会の全伝統的関係の粉砕等が現れる。た
第4章 商 品 生 産
291
だその結果がこの場合大抵、吾々が仮定したように共産体が商品交換を伴える自由な私的生産者の社
会に変じないだけのことである。何故なら解体した共有財産は土人の私有にはならないで、ヨーロッ
パ人の侵入者によって盗まれ強奪されてその財産となってしまい、そして旧来の生存形態と生存手段
とを奪われた土人自身は、賃銀奴隷になるか、それとも単にヨーロッパ商人の奴隷にされるか、乃至
はどちらにもならない場合は直接に絶滅されるからである。このように植民地におけるすべての原始
的民族にとっては、原始共産主義状態から近代的資本主義状態への移り行きは、事実上急激な破局と
して、極めて恐ろしい苦悩に充ちた、言語に絶した不幸として行われたのである。ところがヨーロッ
パ住民の場合には、この移り行きは破局ではなく、ゆるやかな、漸進的な、目に見えない過程として
数百年に亙って続いたのである。ギリシャ人やローマ人が史上に姿を現した時はまだ共有財産をもっ
ていた。キリストの生後間もなく北から南へ殺到した古代ゲルマン人は、ローマ帝国を崩壊せしめ、
そしてヨーロッパに定住したが、まだ共産的原始団体をともない、それをかなりの間維持していた。
しかしヨーロッパ民族に初めて商品経済が形成されたのは、すでに述べたように漸く中世の末期、即
ち十五、十六世紀のことである。
二、 吾 々 の 叙 述 に 加 え な け れ ば な ら ぬ 第 二 の 訂 正 は、 第 一 の も の か ら 出 て 来 る。 吾 々 は さ き に、
共産体の胎内に、すでにありとあらゆる生産部門が専門化されていたと仮定した。即ち分業が社会の
内部に非常に高い程度まで発達していたので、共産制度を廃して交換を伴う私的生産を生ぜしめるよ
292
せいこく
うな大事変が起きた際には、分業は交換の基礎としてすでに出来上っていたと見做した。この仮定は
歴史的には正鵠を得ていない。原始的社会状態の内にあっては共有財産が存立している限り、分業は
ごく僅かしか発達していないで、漸く萌芽状態にあったにすぎなかった。吾々はこれをインドの村落
体の例に見た。僅かに十二人の人間が共同体の住民から区別されて、特別な職業を授けられていたが、
その中で本統の手工業者といえるものは僅か六人、即ち鍛冶屋、大工、製陶工、床屋、洗濯屋、銀細
工師だけであった。紡ぐこと、織ること、衣類をつくること、パンを焼くこと、屠殺、腸詰の製造等、
大抵の手工労働は、すべて各家族によって本業の農業労働と並んで副業として家で行われた。ロシア
の多くの村々においても、人民がすでに交換、商業に引き入れられているのでない限り、今でもなお
こういう風である。分業、即ち各個の労働部門を独立的専門職業として分離させることは、私有財産
と交換とがすでに存在している場合に初めて正当に発展し得る。私有財産と交換とが初めて特殊専門
職業の構成を可能ならしめるのである。けだし一生産者が自分の生産物を規則正しく他人の生産物と
交換する意向を持つ場合に、初めて一般に特殊的生産に従事するということが彼の目的となるからで
ある。そして貨幣が初めて各生産者に対して、自分の勤労の成果を保存し、累積する可能性を与え、
それによってまた市場のためにできるだけ手びろく規則正しい生産をする衝動を与える。しかるに他
方においては、市場のために生産すること、貨幣を貯えることは、彼の生産物とその生産物の収益と
が私有財産である場合にのみ、生産者にとって一つの目的となるであろう。ところが原始共産体にお
第4章 商 品 生 産
293
いては取りも直さずこういう私有財産は拒否されていた。そして歴史は私有財産は交換および労働の
専門化の結果初めて成立したということを示している。そうすると、特殊職業の構成、即ち高度に発
展した分業は、私有財産と発達した交換とが存する場合にのみ可能であるということが推論される。
しかるに他方においては、交換そのものは分業がすでに存在している場合にのみ可能であるというこ
とが明らかになっている。けだし万人がすべて同一のものを生産している場合には、生産者間の交換
にはどんな目的があるのか。たとえば甲が靴だけを生産し、乙はパンだけを焼いている場合にこそ、
初めて両者がその生産物を交換するということに意義があり、目的がある。かくて吾々は奇妙な矛盾
にぶつかる。――交換は私有財産と発達せる分業とが存在する場合にのみ可能である。しかるにまた
分業は交換の結果として初めて私有財産の基礎の上に成立することができる。ところが私有財産はと
言えば、これは交換によって初めて成立し得るのである。加之、これを一層仔細に見るときは、この
矛盾は更らに二重の矛盾である。即ち分業は交換の以前に存在していなければならぬ、そして交換は
分業と同時に既に存在していなければならぬ。更らに、私有財産は分業および交換に対する前提であ
るが、それ自体は、初め分業および交換からより以外には発達しようがない。どうしてこんな縺れが
出てくるのか? 吾々は明らかに一つの環をぐるぐる廻っているのだ。それで原始共産体から一歩踏
み出すことすらが不可能のように見えるのである。そのとき人間社会は明らかに一つの矛盾の中に陥
っていたのであって、これが解決は、一に進化の一層の発展に俟たねばならなかったのである。今や
294
この出口のないのは見かけだけのものである。いかにも矛盾というものは個人個人にとって、普通の
生活においては打ち勝つことのできぬものではあるが、全体としての社会の生活においては、人間は
それを一層仔細に観察することによって、こういう矛盾の真相を一歩一歩見出して行く。今日一つの
他の現象の原因として現れたものは、明日はそれの結果となり、或は結果が原因となるのであって、
社会生活の関係の中にこういう不断の変遷は止むことがない。しかるにこれと反対に、個人が私的生
活において矛盾に当面する場合は一歩も進むことができない。おまけに日常生活のことでは、矛盾と
はあり得べからざるものであるとさえ見做されているのであって、裁判官の前で矛盾に陥った被告は、
そのことによって虚偽を証明したことになる。そして矛盾のために場合によっては彼は監獄に送られ
るか或は実に絞首台にまでも送られる。しかるに人類社会は全体としては絶えず矛盾に陥るが、社会
はそのために滅亡してしまうことはなく、反対に矛盾に陥るとき初めて運動し始める。即ち社会の生
活における矛盾は絶えず発展となって消え失せ、文化の新らたなる進歩となる。大哲学者ヘーゲルは
言う、「矛盾は進歩を導くものである」と。そして明らかに矛盾においての運動が取りも直さず人類
史の発展の現実の様式である。吾々がここに論じている場合、即ち共産社会から分業および交換を伴
う私有財産へ移り行く場合においても、吾々が見出した矛盾は、特別な発展と長い歴史的出来事とな
って消え失せてしまう。しかもこの出来事は、吾々の加えた訂正を除けば、本質においてさきに吾々
の述べてきたことに一致していた。
第4章 商 品 生 産
295
まず第一に交換はすでに事実上において、共有財産を伴う原始状態の中に始まっている。しかもこ
れもまたさきに仮定したように、交易の形式、即ち生産物と生産物を直接に交易する形式をもって始
まっているのである。吾々は人類のごく初期の文化段階においてすでに交易を見る。しかし上述の如
く交換者双方の私有財産が交換されるものであり、しかもこういうものは原始共産体の内部には知ら
れていないのであるから、最初の交易も共同体または種族の内部でなく、外部で行われ、同一種族ま
たは同一共同体の成員の間においてではなく、互いに接触するに至った色々の種族や共同体の間に行
われた。しかもこの場合他の種族の者と交易するのは、種族の個々の成員ではなくして、種族の共同
体が全体として互いに交易を行うのであって、その場合それらは首長を通じて行うのである。故に、
人類文化の曙光時代において、アメリカの原始林の中で互いにその魚と野獣とを交換する原始的狩猟
者と原始的漁夫という、経済学者の間に行われている想像は、二重の歴史的妄想である。既に述べた
ように太古の時代には、自分一人で生活し労働する孤立した個人は存在していないばかりか、個人と
個人との交易もそれから数千年経って初めて現れてきたのである。最初のうちは歴史は、相互に交易
する種族と民族とを知っていただけである。アメリカの野蛮人に関する著書の中にラフィトー【 Joseph
】は言う、
「野蛮民族は絶えずお互い同志交換を行っている。彼らの商業は生産
François Lafitau, 1681-1740
物と生産物との直接交換を表している点で、古代の商業と共通の点をもっている。これらの民族の各々
は、他民族の持っていない物を所持していて、商業がこれらの物を一民族から他民族に移転せしめる。
296
まるき
*
穀物、陶器、毛皮、煙草、独木舟、野牛、家具、護符、木綿等、一言で言えば人間生活の維持に必要
」
な物はすべて商業の中に入る。……彼等の商業は民族全体を代表する種族首長に依って行われる。
*『 古 代 の 風 俗 と 比 較 せ る ア メ リ カ 野 蛮 人 の 風 俗 』【 "Mœurs des sauvages Amériquains,comparées aux mœurs des
】一七二四年刊、第二巻、第三二二―三頁(ジーベル、第二四五頁 【前掲からの孫引き】
)。
premiers temps"
加えるに吾々が前の叙述のときに、交換を始めるに当って一つの単独の場合――即ち靴屋とパン屋
との交換――をもってして、これを偶然的なものとして取扱ったとすれば、これもまた厳密に歴史的
真実に照応するものである。初めは個々の野蛮種族または民族間の交換は、純粋に偶然的な、独立的
なものであって、それも彼等が極めて偶然に出会ったり接触したりする場合である。従って規則的な
交易が遊牧民族に最も早く現れるのは、彼等が屡々場所を変えることに依って最も頻繁に他の民族と
接触するようになったからである。交換が偶然である限り、矢張り生産物の剰余だけが、即ち種族ま
たは共同体にあって自家需要を満たした後に残ったもののみが、他のものと交換に供せられる。しか
し時を経るにつれて、偶然の交換が屡々繰返されれば繰返される程、これがいよいよ習慣となり、つ
いで常則となり、そして段々と生産物を交換のために直接に生産し始める。かくして種族や民族は、
交換のために或る若干の労働部門を専門化するようになる。種族や共同体の間に分業が発達する。し
かしこの場合は商業は未だ長いこと純然たる交易、
即ち生産物と生産物との直接交換に止まっている。
合衆国の多くの地方においては、十七世紀の終りになってもなお交易が拡まっていた。メリーランド
第4章 商 品 生 産
297
においては立法議会が、煙草、油、豚肉、パン等が互いに交換さるべき比例を制定した。コリエンテ
スではまだ一八一五年にも行商の小僧が「塩を脂と交換! 煙草をパンと交換!」と叫んで街上を走
り廻っていた。ロシアの村々では九〇年代に至るまでも、そして一部分は今でもなお、廻って歩く行
】によって農民と単純交易が行われている。針、指ぬき、リボン、
商人、謂わゆるプラソルス 【 Prasol
釦、パイプ、石鹸等いろいろの小間物を彼等は豚毛、羽毛、兎皮というようなものと交換している。
ロシアでは外にこれと同じような商売が、車を引いて歩き廻っている陶器商や鋳掛屋などによって行
われている。彼等は自己の生産物を、穀物、亜麻、大麻、麻などと交換するのである。(ジーベル、第
最も容易に生産され得る商品、
二四六頁。
)しかるに交換の機会が度び重なって規則的になるにつれて、
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従って最も頻繁に交換に供せられ得る商品か、或は反対に最も欠乏している商品、従って一般に欲し
なつめ
がられている商品かが、既に極めて早くから、あらゆる地方において、あらゆる種族の場合に、おの
ずから分け出されるようになる。たとえばサハラ沙漠では塩や大棗、英領西インドでは砂糖、ヴァー
ジニアやメリーランドでは煙草、シベリアでは謂わゆる瓦茶(茶の葉に脂を混じて煉瓦状に固めたも
の)、アフリカ黒人の間では象牙、古メキシコではココアの実等がかかる役目を演ずる。かくていろ
いろな地方の気候風土の特殊性によってだけでも、全商業の基礎、並びにあらゆる交換業務の媒介者
たるはたらきをするに適当な、或る一つの「一般的商品」が分け出されるに至る。その後時代の発展
につれて、各種族の特殊な仕事からもこれと同じことが生ずる。狩猟民族の場合は野獣が、あらゆる
298
ビーバー
生産物に対して提供される「一般的商品」となることは言うまでもない。ハドソン・ベー 【湾】会社
の商売においては海狸の皮がこの役割を務めた。漁撈民族の場合は魚がすべての交換業務の当然の媒
介者である。フランスの旅行家の話によれば、シェットランド島では、芝居の切符を買う際にもおつ
りは魚でくれる。こういう一般に好まれる商品を一般的交換媒介物とする必要は、屡々目に見えて感
】は、アフ
じられる。たとえば有名なアメリカ旅行家サミュエル・ベーカー 【 Samuel White Baker, 1821-93
リカ内地の黒人種族と交易した具合を記して曰く、「自分で食料を調達することはますます困難とな
る。土人は穀粉を肉と交換するのでなければ売らない。だから吾々は次のようにしてこれを調達する。
まずトルコ商人のところで、著 【着】物や靴と交換して鉄の「槌」(鋤)を買い、次にこれで牛を買う。
それから牛を遠方の村に連れて行って屠殺し、その肉を約百切れに分ける。この肉と三つの大籠を持
って、私の従者が地上に坐っていると、土人がやって来て、肉一切れに対して小籠一杯の穀粉を右の
大籠へあけて行く。これが面倒なアフリカの穀粉取引の一例である。
」(『ナイル河源紀行』第二二一
】
)
―二頁。【 "The Albert N'yanza", New ed. p239-
家畜飼養に移り行くにつれて、家畜が交易において一般的商品となり、一般的な価値尺度となる。
ホーマーが吾々に書き残しているように、古代ギリシャの場合はまさしくそうであった。たとえばホ
ーマーは英雄の武装を精密に描写し評価して曰く、グラウクスの鎧は牛百匹に値いし、ディオメデス
のそれは牛九匹に値いすると。しかしまた当時ギリシャにおいては家畜の外になお二三の生産物が貨
第4章 商 品 生 産
299
幣の役目をつとめていた。同じホーマーが言う、トロヤの包囲の際にはレムノスから来た酒に対して
或は毛皮、或は牛、或は銅、或は鉄が支払われたと。古代ローマにおいては、さきに述べたように「貨
幣」という概念は家畜と同一であった。同じく古代ゲルマン人の場合も、家畜が一般的商品と見做さ
れていた。それが農業へ移ってゆくにつれて、今度は鉄とか銅とかの金属が、経済において優越した
地位を占めてきた。一部分は武器を造る材料としてだが、大部分は農業上の労働手段をつくる材料と
してである。金属はその生産額が増加し、その使用が拡まるにつれて一般的商品となって、家畜の地
位を奪ってしまう。金属が一般的商品となるのは、最初はその自然的用途のため――いろいろの道具
の材料として――一般に有用であり、欲しがられるからである。この段階においては金属は原料とし
て、塊りのままで、そしてその重さに従ってのみ商業に用いられる。ギリシャ人の場合は鉄、ローマ
人の像合は銅、支那人の場合は銅と鉛の合金が一般的に使用された。謂わゆる貴金属、即ち金銀が使
用されたり、商取引の中に入り込んできたのは、ずっと後になってのことである。しかしこれとても、
ずっと永らくの間生地のままで、鋳造されずに重さによって商業に用いられたのである。故にその点
にも矢張り一般的商品即ち貨幣商品が、何等かの用途に役立つ或る生産物から由来していることを認
め得る。今日取引に当って穀物と引きかえに与えられた一片の銀は、明日は直接に騎士のぴかぴか光
る楯を拵えるために使用されるかも知れない。貴金属を専ら貨幣として使用すること、即ち貨幣の鋳
造は古代インド人の間にも、エジプト人の間にも、また支那人の間にも知られていなかったのである。
300
古代ユダヤ人も初めは重量を以てする金属片の用途を漸く知っていただけであった。たとえばアブラ
ハムは、旧約聖書に言ってあるように、エフロンでスラのために墓地を買った時に、たっぷり秤にか
けて四百シルクの貿易銀を支払った。貨幣鋳造は紀元前十世紀乃至八世紀頃に初めて起ったものと見
做されており、しかも最初にギリシャ人によって採用されたものである。ローマ人はこれから学んで、
紀元前三世紀に初めて銀や金の鋳貨を造り上げた。数千年に亙る交換発達史は、主に金銀を以てする
貨幣の鋳造を以て、その最も完成せる究極的形態に達したのである。
貨幣即ち一般的商品は、一般に金属が貨幣製造に用いられない以前に、すでに全然形づくられてい
たことはすでに述べた通りである。たとえば貨幣は家畜の形態を取っている場合ですら、今日金貨が
有していると全然同一の機能を事実上に有している。交換の媒介物、価値の尺度、蓄蔵手段、富の体
現たる機能が即ちそれである。ただ金属貨幣の形態においてのみ、貨幣の使命が初めて外面に現れて
くるのである。交換は二つの任意な生産物の単純な取換えを以て始まるということを吾々は知った。
交換が生ずるのは、一方の生産者――共同体または種族――が、他のものの労働生産物無しではうま
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くやって行けないからである。彼等は各自労働生産物を交換することによって互いにそれを融通し合
ぬ
う。かかる交換が重なり規則的になってゆくにつれて、或る一つの生産物が、一般に欲しがられてい
るために特に擢きん出たものと考えられ、これがすべての交換の媒介物となり、一般的商品となる。
どんな労働生産物でも、それ自体としてはこういう商品即ち貨幣になることができよう。靴でも帽子
第4章 商 品 生 産
301
0 0 0 0
でも、麻でも羊毛でも、家畜でも穀物でも。そしてまた種々様々の商品が一時はこういう役目を演じ
たのである。如何なる商品が択び出されるかは、単に民族の特殊の欲望または特殊の仕事によって定
まるだけである。家畜は最初のうちは有用な生産物として、生活資料として一般に好まれる。しかし
時を経るにつれて主として貨幣として欲しがられ、授受されるようになる。何故なら貨幣として見た
家畜は、各人にとって労働の成果を、いつでも社会の任意の生産物に交換することのできる形で保存
しておくに役立つからである。家畜はいつでも故障なしに交換され得る生産物であるから、他のすべ
ての生産物と違って唯一の直接の社会的生産物となるとさきに述べた。とはいえ家畜には貨幣商品の
二重性がまた強く現れている。――家畜を一目見れば、それは一般的商品であり社会的生産物である
にも拘わらず、同時にまた屠殺して消費することのできる単なる生活資料であり、人間労働の、即ち
遊牧民族の労働の、普通の生産物であることが分かる。これに反して金貨においては、既に貨幣が単
なる生産物より由来したことを思い出させるようなものは消えてしまっている。刻印打った金の小さ
い円形物はそれ自身としては、交換手段として、一般的商品として役立つ外は何にも役に立たないし、
それ以外に何の用途をももたぬ。それは他の如何なる商品とも同じように、
人間労働の生産物であり、
採金者や金細工師の労働である限りにおいて一般になお商品ではあるが、生活資料としての私的用途
をすべて失ってしまったのであって、まさしく私的生活にとって有益にして必要な形態を伴わないと
ころの人間労働の一片にすぎない。それはもはや私的生活資料として、食物、衣服、装飾品としてで
302
も、或はその他如何なるものとしてでも何等用途を有せず、単に他の商品との交換における媒介物と
して役立つという、純社会的用途を目的としているにすぎぬ。そして取りも直さずこの故にこそ、金
貨というそれ自身無意味、無目的のものの中に、貨幣即ち一般的商品の純社会的性質が、最も純粋に
最も完全に表れるのである。
貨幣が金属形態で究極的に完成された結果は、商業の非常な拡張となり、これまで商業を目指さず
に自己消費を目指していたすべての社会関係の没落となった。旧来の共産体は商業によって破壊され
た。何故なら商業は共産体の成員間の所有の不平等を促進し、共有財産の崩壊を促進し、ついに共同
体そのものの没落を促進するからである。最初小自由農は自分のためにのみすべての物を生産して、
余ったものだけを売って貨幣を靴下の中に貯めこんでいたのが、次第次第に、そして特に貨幣租税が
実施されるにつれて、終には生産物を全部売り払うようになり、その後で食物、衣類、家具、おまけ
に播種用の穀物までも買うことを余儀なくされる。こういう風にして農民経済が自己のための生産か
ら、市場のための生産に転化し、そのために全く亡んでしまう実例を、吾々は最近十年ばかりのうち
にロシアにおいて目撃した。商業は古代奴隷制に根本的な変革をもたらした。奴隷が家内経済のため
にのみ使用され、主人やその家族の欲望のために農業労働や手工労働に使用されていた間は、奴隷制
もなお家長的な穏和な性質を帯びていた。ギリシャ人や後にはローマ人が貨幣を愛好して、商業のた
めに生産せしむるに至って初めて奴隷の非人間的虐使が始まり、終にこれが奴隷の大衆的反乱を誘致
第4章 商 品 生 産
303
するに至った。この反乱はそれ自身は全く盲目的なものではあったが、奴隷制が余命を終って維持し
難き制度となったことの前兆であり明瞭な徴候だったのである。丁度同じようなことが中世の徭役制
度にも繰返された。この制度は最初は一の保護関係だったのであって、この保護に対して農民は貴族
領主に、現物を以てする一定の貢納または労役を課せられ、その貢物は領主自身の需要を充たす。後
になって貴族が貨幣の便宜をさとるに至ると、労役や貢納は商業の目的のために段々増加されるよ
うになって、徭役制度は農奴制度となり、農民は極度まで虐使された。(『資本論』第一巻、第一九八―
ちょうしょう
)そして終には同じく商業の拡張、貨幣の支配が農奴の現物貢納を貨幣
二〇〇頁。【第8章労働日第2節】
貢納に変ぜしめるに至った。だがこれと共に余命を終った徭役制度の弔鐘が鳴ったのである。最後に、
中世における商業は自由都市をして権力と富を得せしめ、旧ギルド手工業の没落をもたらした。金属
貨幣の出現によって、特に世界商業は非常に早くから行われていたのであって、既に古代においてフ
ェニキア人の如き特殊な民族が、諸民族の間に商人の役目をつとめ、この方法で貨幣を沢山自分の所
へ持ってきて、富を貨幣形態で集めていた。中世においてはこの役目は都市、多くはイタリアの都市
の手に落ちた。十五世紀の終りにおけるアメリカの発見および東インドへの航路の発見後、世界商業
は急に大拡張をした。新らしい国々は商業に新らしい生産物を供給したのみならず、新らしい金坑即
ち貨幣材料を提供した。十六世紀にアメリカから巨額の金が輸入されてからは、北ドイツ都市、主と
してハンザ同盟の都市は、世界商業によって巨富を得た。それからオランダとイギリスがその跡を追
304
そうこ
った。これと共にヨーロッパの諸都市において、また田舎においても大部分、商品経済即ち交換のた
めの生産が経済生活の支配形態となった。かくて交換は蒼古に既に共産的種族の境目のところに、静
かに誰も気附かぬように端を発し、段々頭をあげて、自由単純な農民経済、東洋の専制君主制、古代
の奴隷制、中世の徭役制、都市のギルド制という風に相次いで起った計画的経済組織と相並んで生長
し、順々にそれらのものを悉く喰いつくして破滅するに至らしめ、終には孤立した私的生産者の全く
無秩序的、無計画的な経済を、唯一の一般的経済形態として支配せしめるに至らしめたのである。
四
商品経済が少なくとも都市においてヨーロッパにおける生産の支配的形態となって以来、十八世紀
において学者連はこの経済即ち一般的交換が何を基礎としているかの問題を研究し始めた。ところで
交換は貨幣によって媒介され、そして交換におけるすべての商品の価値は一個の貨幣表章を有してい
る。そこでこの貨幣表章とは何を意味し、また取引における各商品の価値は何を基礎としているか?
これが経済学の研究した最初の問題であった。十八世紀の後半および十九世紀の初めにおいて、イ
ギリス人アダム・スミスおよびダビッド・リカードによって偉大なる発見が行われた。即ち商品の価
値はいずれもそれに含まれる人間労働に外ならぬものであり、従って商品が交換される場合には種々
なる労働の等量が交換されるということである。そこでこの場合は貨幣は媒介物であって、各商品の
第4章 商 品 生 産
305
中に含まれている相当量の労働を価格で表現しているに外ならぬ。こんなことを大発見と言えるのは
きん
不思議なことに見えるかも知れない。けだし商品の交換はその中に含まれる労働に基づいて行われる
ということより明白な分り切ったことはないと考えられるからである。ところがしかし商品価値を金
で表現することが専ら一般的習慣となっていることが、そういう当り前の事実を覆いかくしている。
靴屋とパン屋とがその生産物を互いに交換すると私が言えば、その場合は、用途が異なっているにも
拘わらず一方が他方と同じ量の労働を費やされたから、即ち両者が同時に要求される限り一方は他方
と価値が同じだから、そういう交換が成り立つのだということは、いかにも一目瞭然である。ところ
が靴一足は十マルクかかると私が言ったとすれば、まずこの言い現しをよく考えて見ると、それは何
だか全く謎のようなものである。一体一足の靴は十マルクと何が共通なのか? この二つのものは何
処に等しいところがあるので互いに交換されるのか? 一体こんなに違った物が、どうして互いに比
較され得るのか? そしてどうして靴のような有用な生産物が、何の効用も意味もない刻印打った金
銀の一小片と交換されるのか? 最後に一体どうしてこんな効用のない金属片が、世の中のあらゆる
0 0 0 0
ものを交換によって獲得するという魔力をもつようになったのか? いまこれらのすべての問題に答
えることは、経済学の偉大なる創始者、スミスおよびリカードにはできなかった。各商品の交換価値
の中に、同じくまた貨幣の中に、単なる人間労働が潜んでいるということ、そしてそのために各商品
の価値は、その商品の生産に多くの労働が要せられれば要せられる程大であり、反対の時には小であ
306
るということ――即ちそういう発見は漸く半面の真理を語るものにすぎない。真理の他の半面は、一
体如何にして、また何故に、人間労働が交換価値という奇妙な形をとり、しかも貨幣という謎の如き
形態をとるかという問題を説明することに存する。経済学の創始者たる、かのイギリス人は、一度も
後の方の問題を提出したことはなかった。何故なら彼等は、人間労働が交換のための商品をつくり、
貨幣をつくるということは、人間労働の生来の、自然に具わった性質であると見ていたからである。
というのは、これを別の言葉でいえば、人間は食ったり飲んだりしなければならぬと同様に、また頭
に毛があり顔に鼻があると同様に、生来自分の手で取引のための商品を生産しなければならぬものだ
と、彼等は見做していたからである。彼等はこのことを余程固く信じていたのであって、たとえばア
ダム・スミスの如きは、大真面目で、動物がすでにお互いに取引をやっていないかどうかという問題
を提出し、未だ動物間にはこういう例は認められないという理由だけでこのことを否定している程で
ある。彼は言う 「それ(分業)は非常に緩慢に且つ漸次に現れたものではあるが、人間の天性に具わってい
る或る性癖‥…即ち、交換し、融通しあい、一物を他物と取りかえる性癖の必然の結果である。この性癖が
人間の天性――それについてはこれ以上述べないが――の根本的原則の一つであるかどうか、或いは――こ
の方が一層真実らしく思われるが――理性や言葉の能力の必然的結果であるかどうかということは、ここで
*
研究する事柄ではない。それはあらゆる人間に共通なものであり、動物の他の種類には見出し得ないもので
」
ある。同じく動物はどんな種類の契約をも知らないように見える。
第4章 商 品 生 産
307
* アダム・スミス著『国富論』第二章より。
(原稿にはこの引用の箇所が空けられてある。この引用は
編者が推定してここに入れたのである。
)
しかしこの無邪気な仮定は次のことを意味するに外ならぬ。即ち経済学の偉大なる創始者たちは、
すべてのものが商品であり、すべてのものが取引のためにのみ生産されているところの今日の資本主
義社会制度は、人類がこの地上に生存する限り存続するところの唯一の社会制度であるという、岩の
ような堅固な観念をいだいていたということを意味するだけのものである。社会主義者として、資本
主義制度を永遠且つ唯一の可能な制度でなく、推移的歴史的社会形態であると見たカール・マルクス
が、初めて今日の関係と以前の他の時代における関係との比較を試みたのであった。茲において、人
類は数千年の間、貨幣や交換について多く知るところなしに生活し、労働していたことが明らかにな
った。社会に共同的計画的労働が止み、社会が私有財産を伴える独立自由の生産者の弛い無秩序的な
塊りとなるにつれて、初めて交換は、分散せる個人とその労働とを一個の聯絡的な社会的経済に糾合
する唯一の手段となった。生産から出発した共同的経済計画の代わりに、今や貨幣が現れて唯一直接
の社会的結合手段となった。しかもそれは何等特別の効用をもたぬ人間労働の一片として、幾多の異
った私的労働間の唯一の共通物を代表しているということによって、従って人間の私的生活における
如何なる用途にも役立たぬ全く無意義な生産物だというそのことによって、貨幣が唯一の社会的結合
手段となったのである。それだからこの無意味な発明が一の必然なのであって、これがなかったなら
308
交換が一般に不可能であり、原始共産主義の解体以来今日までの全文化史が不可能となったであろう。
なるほどブルジョア経済学者も、貨幣を極めて重要にして欠くべからざるものと見做してはいるが、
それは単に商品交換の外見上の便宜という見地からだけである。実際貨幣のことをそう言えるのは、
人類はたとえば宗教を便宜のために発明したと言えるほどの意味においてのみである。事実上貨幣と
宗教とは人類の二大文化産物であるが、それは全く一定の推移的関係に根ざしているものであって、
それが成立したときと同じように、矢張り時が経つにつれて無用のものになってしまう。金生産のた
めの年々の莫大な支出も、宗教儀式のための支出も、監獄、軍国主義、公共慈善事業のための支出も
――そういうものは今日社会的経済の重荷となっているが、こういう経済形態が存立している場合に
は必要なものである――すべてこれらの支出は、商品経済の廃止と共におのずからなくなってしまう
であろ う 。
吾々は商品経済の内的機構を学んできたが、今や商品経済は不思議なほど調和的な、そして道徳の
最高原則の上に立った経済制度のように見える。何故なら第一に、実に完全な個人的自由が行われて
いて、各人は自分の好みによって、どういう風にでも、何に向ってでも、またどれだけでも好きなだ
け自由に労働する。各人は自分自身の主人であって、自己の利益を目指して行きさえすればよいので
ある。第二に、各人が自分の商品即ち自分の労働生産物を他人の労働生産物と交換し、労働が労働と
交換される。しかも平均においては等量の労働が等量の労働と交換されている。故にまた利益の完全
第4章 商 品 生 産
309
なる平等と相互主義とが行われている。第三に、商品経済の場合には商品は商品とのみ、労働生産物
は労働生産物とのみ交換される。故に提供すべき労働生産物を何も持っていない人間、労働しない人
間は、食うものを何も手に入れることができないであろう。故に矢張りこれも最高の公平なのである。
事実において、営業目的の完全な勝利のために戦い、ギルド制度や封建的農奴制度という旧支配関係
の最後の遺物の廃止を主張した十八世紀の哲学者や政治家、かのフランス大革命の人士は、自由、平
等、友愛が行わるべき地上の楽園を人類に約束したのである。
十九世紀前半における多くの顕著な社会主義者も、まだ矢張り同じような意見であった。科学的経
済学が樹立され、すべての商品価値は人間労働に基礎を置くという、スミス、リカードの偉大なる発
見が行われた時、たちどころに労働階級の二三の友は、商品交換が正当に行われれば、社会には完全
な平等と公平とが行われるに相違ないという考えになった。労働は常に等量の労働とのみ交換される
のだから、富の不平等が起きることは不可能であって、高々よく働く者と怠け者との間の報酬上の不
平等があるにすぎない。そして社会の富は悉く労働する人間、即ち労働階級に属しなければならぬ。
従ってそれにも拘わらず、今日の社会において人々の状態に大きな差異があり、富と並んで貧困があ
り、しかも働かない人間が富を擁し、すべての価値を労働に依って創造する人間に貧困があるのを見
るならば、これは明らかに交換の際の不正から生ずるものであり、しかも労働生産物の交換の際に貨
幣が媒介者として介在しているという状態のおかげで生じたのに違いない。貨幣はすべての富がまこ
310
とは労働に由来するということを掩いかくし、絶えず価格の変動を引き起し、従って勝手な価格の生
ずる可能性を与え、他人を犠牲にして富をかき集める可能性を与える。だから貨幣をどうにかしてし
まえ! こういう貨幣の廃止を主張する社会主義は、最初イギリスに現れたのであって、十九世紀の
】
、ブレイ 【 John Francis Bray, 1809-97
】等の
二〇年代および三〇年代にトムソン 【 William Thompson, 1775-1833
Johann Karl
非常に才能ある著述家によって主張されていた。ついでこの同じ種類の社会主義は、プロシャにおい
て、ポメルンの保守的土地貴族にして異彩ある経済学著述家ロドベルツス 【ロードベルトゥス
】によってもう一度発見され、更らに三度びフランスにおいて一八四九年にプルード
Rodbertus, 1805-75
ンによって発見された。この主張に向って実際上の試みさえ行われた。上述のブレイの影響によって、
ロンドンやその他のイギリスの多くの都市に、謂わゆる「公平な労働交換のための物品市場」が設立
され、そこへ商品が持ち込まれて、貨幣の媒介によらずして厳密に商品の中に含まれた労働時間によ
って交換された。プルードンもまたこの目的のために謂わゆる「庶民銀行」の設立を提案した。だが
そういう試みも、理論そのものも、間もなく破産するに至った。貨幣によらない商品交換は事実考え
られない。そして彼等が廃止しようと欲した価格変動こそは、一商品の製出が少なすぎたか多すぎた
か、その商品の製出に費やした労働が必要よりも多かったか少なかったか、或は果して適当な商品を
造ったかどうかを、商品生産者に示す唯一の手段である。無秩序経済における孤立的商品生産者間の
この唯一の了解手段がもしも撒廃されるときは、彼等は途方にくれてしまって、聾どころか盲目にも
第4章 商 品 生 産
311
なってしまう。そうしたら生産は停止し、資本主義のバベルの塔は崩壊して廃墟となってしまう。故
ユトピア
に単に貨幣を廃止することによって、資本家的商品生産から社会主義的商品生産をつくりだそうとす
る社会主義者の計画は全くの空想である。
しかしながら実際上において、商品生産の場合における自由、平等、友愛とは何ぞや。一般的商品
生産の場合においては、各人が労働生産物と引きかえにのみ他のものを手に入れることができ、等し
い価格が等しい価格とのみ交換される、そういう場合に如何にして富の不平等が現れ得るのだろう
か? しかるに今日の資本主義経済こそは、誰でも知っている通り、人間の物質的地位に甚だしい不
平等のあること、一方には少数者の手に巨富が集積され、他方には大衆の貧困が増大して行くという
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ことをその最も著しい特徴としているのである。今までのことから論理的に生ずる今後の問題は、従
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って次の如き形をとる。曰く、商品経済と価値通りの商品交換とが行われる場合に如何にして資本主
義が可能であるか?
312
第五章 賃 銀 法 則
一
商品はすべてその価値に従って、即ち商品に含まれている社会的に必要な労働に従って、相互に交
換される。貨幣が媒介者の役をつとめても、商品交換のこの基礎は少しも変らない。貨幣そのものが
社会的労働の赤裸々な表現にすぎないのであって、各商品に含まれている価値の量は、その商品を売
って得た貨幣の量によって表現される。この価値法則に基づいて、市場における商品の間には完全な
平等が支配する。そしてまた市場において至るところで交換に供せられる幾百万という商品の種類の
中で、全く特殊の性質をもった或る一つの商品――労働力という商品さえなかったなら、商品の売り
手の間には完全な平等が行われたに相違ない。労働力という商品は、他の商品を生産するための生産
手段を自分では所有していない人々に依って、市場に持ち出される。何人も知っているように、専ら
商品交換を基礎としている社会においては、交換という方法によらずしては何物をも手に入れられな
い。市場に何等商品を提供しない人間は、何等生活資料を手に入れることはできないのである。商品
は、その人間が社会的生産物に対して分け前を要求し得る唯一の証券であり、同時にこの分け前の尺
度であることを吾々は知った。各人は自分が社会的に必要な労働を、或る何等かの商品の形で供給し
第5章 賃 銀 法 則
313
たと丁度同じ量だけ、社会に給付された労働を選り取り任意の商品で受取る。されば生活し得るが為
めには、何人も商品を提供し、それを売らなければならぬ。商品を生産してそれを売ることは、人間
にとって生存条件となった。しかるに或る商品を生産するためには、労働手段、即ち道具その他を要
し、更らに原料や助成材料等、それから工場や職場、それに伴ってたとえば燈火設備というような労
働の必要条件を要し、最後に生産の継続中並びに商品の売却まで持ち耐えて行くための、一定量の生
活資料を要する。生産手段のための出費なくして生産されるのは、二三の微々たる商品だけである。
たとえば森の中で採った茸や果物、海浜の住人が磯辺で採った貝殻等。しかしなおそれにも笊という
ような一定の生産手段が必要だし、またどんな場合でも、そういう労働の間生存を可能ならしめる生
活資料が必要である。然しながらいずれも商品生産の発達した社会においては、大多数の種類の商品
は、生産手段のために著しい出費を必要とし、或るものにあっては巨額の出費を必要とする。従って
こういう生産手段をもたない人間は、何等商品を生産することはできず、ただ剰すところは自分自身
を、即ち自分の労働力を、商品として市場に持ち出すことだけである。
他のすべての商品と同じく、労働力なる商品も矢張り一定の価値を有する。吾々の知っているよう
にすべての商品の価値は、その生産に要する労働量に依って決定される。労働力なる商品を拵えるた
めには、矢張り同様に一定量の労働、即ち労働者のために生計即ち衣食等をつくり出す労働が必要で
ある。従ってまた人間を働けるようにするために必要な、即ちその労働力を維持するために必要な労
314
働の量が、彼の労働力の価値に当るのである。故に労働力なる商品の価値は、労働者の生活資料の生
産に必要な労働量によって代表される。更らにまた、他のあらゆる商品の場合と同じく、労働力の価
値は、市場において価格で、即ち貨幣で計量される。労働力なる商品の貨幣表現即ち価格を賃銀という。
他のあらゆる商品の場合には、需要が供給よりも急速に増大した時にその価格は騰貴し、これに反し
て商品の給供が需要よりも大なる時は下落する。労働力なる商品に関してもまた同様である。即ち賃
おういつ
銀は、労働者に対する需要が増大した時に一般に騰貴する傾向を有し、需要が減退するか、労働市場
が新ら手の商品を以て横溢するかした時は下落する傾向を示す。最後に、他のあらゆる商品の場合と
同様に、労働力の価値、従って結局はその価格は、労働力の生産に要する労働量が増大した時に騰貴
する――即ちこの場合は、労働者の生活資料が、その生産にヨリ多くの労働を必要とする時である。
そして逆に、労働者の生活資料の生産に必要なる労働の節約は、いずれも労働力の価値の下落を誘致
し、従ってその価格即ち賃銀の下落に導く。一八一七年にダビッド・リカードは記して曰く、
「帽子
の生産費が減少すれば、たとえ需要が二倍三倍または四倍するとも、帽子の価格は結局は新たな自然
価格まで低下するであろう。人間の生活費が、その生活に必要な衣食の自然価格の下落によって減少
315
すれば、たとえ労働者に対する需要が著しく増大した場合でも、賃銀が下落するのを見るであろう。」 i
されば労働力なる商品が、市場において他の商品と区別される点は、差し当ってまず次の点以外に
、『経済学および課税の原理』(三二章中七章までの訳)
i Ricardo "On the Principles of Political Economy and Taxation"
第5章 賃 銀 法 則
i
はない。即ち労働力はその売り手即ち労働者と不可分のものであるという点、他の大多数の商品は、
多かれ少かれ、売れるまでの期間を仲々よく持ち耐えて待っていることができるのに反して、労働力
はそうしていては、生活資料の欠如のために、その持ち手である労働者と一緒に滅亡してしまうか
ら、従って長い間買い手を待っていることはできないという点である。されば労働力なる商品の特殊
性は、交換価値のみが役割を演ずるところの市場では、まだ現れるものではない。その特殊性は別な
ところに、即ち労働力の使用価値の中に存している。商品はすべて使用される時に効用をもたらし得
るから買われる。靴は足に穿くために買われ、茶碗は茶を飲むために買われる。買われた労働力は何
に役立ち得るか。言うまでもなく労働のためである。然しそれだけではまだ一向何もわからない。人
間社会が存在する限り、人間はすべての時代に働くことができたし、また働かねばならなかった。し
かもなお売買される商品としての労働力が全然知られずして数千年も経過している。また他方におい
て、人々がその全労働力を以てして、漸く自分だけの生計を維持し得るものと仮定するなら、そうい
う労働力を買うこと、即ち商品としての労働力は意味をなさないであろう。何故なら或る人が労働力
を買い、それに金を払い、彼自身の所有する生産手段を用いて働かせ、最後にその結果、彼の買った
商品の持ち手即ち労働者のための生計だけしか得られないとすれば、労働者はその労働力を売ること
によって、他人の生産手段を借りて自分のために働くということになるからである。商品交換の見地
からすれば、それは恰も靴を買って、後に改めてそれを靴屋に贈物として返却するのと同じ無意味な
316
取引である。人間の労働力が他人の使用を許さないなら、それは買い手にとって何の効用をも有しな
いだろうし、従って商品として市場に現れ得ないだろう。何故なら一定の効用を有する生産物のみが、
商品としての役目を演ずることができるからである。故に労働力が一般に商品として現れるためには、
人間が生産手段を与えられた場合に労働し得るというだけでは充分ではなく、彼自身の生活資料の生
産に要するよりも余計に働き得るということが必要である。その人間は単に自己の生計のためばかり
でなく、その労働力の買い主のためにも労働し得るのでなければならぬ。故に労働力なる商品は、そ
の使用即ち労働の際に、単に労働力自身の価格即ち賃銀を補償し得るばかりでなく、それ以上になお
剰余労働を買い手に供給しなければならぬ。そして労働力なる商品は、事実上にまたこういう結構な
性質をもっているのである。しかしそれはどういうことを意味するのか? 労働者が剰余労働を給付
し得るというのは、人間の、または労働者の生来の性質なのだろうか? いま人間が数年かかって石
で斧を造ったり、たった一つの弓を送り上げるのに数ヶ月も要したり、また二つの木片を何時間も擦
り合せて火をおこしたりするような時代には、如何に狡猾な向う見ずの企業家と雖も、一個の人間か
ら剰余労働を搾り出すことはできまい。故に人間が一般に剰余労働を給付することができるためには、
人間の労働生産性が一定の高さに達していることが必要である。言いかえれば、人間の力が自己のた
めの生活資料だけでなく、それ以上のものをつくり出すことができるためには、従ってまた必要とあ
らば他人のためにも生産することができるためには、人間の道具、熟練、知識、自然力に対する支配
第5章 賃 銀 法 則
317
が、すでに充分な程度に達していなければならぬ。そしてそういう道具の完成、知識、自然に対する
或る程度の支配は、数千年に亙る人類社会の苦しい経験によって初めて得られる。最初の粗末な石器
や火の発見から、今日の蒸気機械等にいたる距離は、人類の全社会的発展道程を意味するものであっ
て、この発展こそは社会の内部においてのみ、即ち人類の社会的共存と協働とによってのみ可能であ
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った。故に今日の賃銀労働者の労働力に、剰余労働を給付するという結構な性質を賦与するところの
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労働生産性なるものは、自然から賦与された人間の生理的特性ではなくて、社会的現象であり、長い
発展史の成果である。労働力という商品の剰余労働なるものは、一人の人間の労働によって多数の人
間を養うことのできる社会的労働の生産性の、別個の現れにすぎぬ。
しかしながら労働の生産性は、必ずしも常に、且つあらゆる場合に、労働力の売却や労働力の資本
家的搾取を誘致するわけではない。特に都合のよい自然条件によって、労働の生産性が既に原始的な
文化段階において可能になっている場合でもそうである。しばらく天恵豊かな中央アメリカや南アメ
リカの熱帯地方に身を置いて見よう。そこはアメリカ発見後、十九世紀の初めまでスペイン領であっ
て、どの地方も熱い気候と豊饒な土地とをもっていて、住民はバナナを主要食物としている。フンボ
】は記して曰く、
「地球上に、こんな狭い地
ルト 【 Friedrich Wilhelm Heinrich Alexander von Humboldt, 1769-1859
面でこんなに多量に食糧を産出する植物が、バナナ以外にあるだろうか」と。なお彼は計算して曰く、
「大きな種属のバナナを植えた半ヘクターの地面は、五十人以上の人に食糧を供給する。然るにヨー
318
ロッパにおいては、同じ半ヘクターの地面が、大豊作の時でも一年に漸く五七六キログラムの麦粉を
供給するにすぎぬ。それは二人分の生計にも不充分な量である」
。それにバナナは極く世話が要らず、
ただ根の周りを簡単に一二度掘り返えせばよいのである。フンボルトはなお続けて言う、
「コルディ
レル山の麓ヴェラクルツ、ヴァラドリッド、ガダラクタラ等の潤沢な谷地では、一人が一週三日の無
造作な労働で、全家族の生活資料をととのえている」と。ここでは労働の生産性が、それ自体として
i
】のように生
は搾取を可能ならしむることは明らかであって、マルサス 【 Thomas Robert Malthus, 1766-1834
粋の資本家的根性をもった学者は、この地上の楽園を記述するに当って、眼に涙さえ浮べて、
「無限
の富を生産するための何とすばらしい手段だろう!」とi叫ぶのである。即ちこれを別な言葉でいえば、
こういう怠け者を真面目に働かせることができたら、これらのバナナ大食家の労働から、抜目のない
企業家のために如何に見事に沢山の金が打ち出されることだろうという意味である。しかし実際上に
吾々が目撃するところは如何。この恵まれた地方の住民は、金を積むために辛労しようなどとは考え
ず、一寸そこいらの木を探して、バナナを食って、長い自由な時間を日向に寝ころんで生を楽しんで
いた。フンボルトはまた極めて注意すべきことを述べている、「スペインの植民地では往々こういう
ことを耳にする。熱帯の住民はバナナの木が国王の命令によって根絶されるまでは、何百年経っても
319
i
ii
からの引用らしい。英訳・仏訳も公開。
"Versuch über den politischen Zustand des königreichs Neu-Spanien" 3Bd.
からの引用らしい。
"Principles of Political Economy Considered with a View to Their Practical Application"
第5章 賃 銀 法 則
i i
i
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こういう無関心の状態を脱するものではない」と。このヨーロッパ人的な資本家的見地から見た「無
関心」なるものこそは、取りも直さず、人間の自然的欲望の満足のみが人間労働の目的であって、富
の集積がその目的としてまだ現れていない原始共産主義の事情の下に生活しているすべての民族の精
神状態である。ところでこういう事情が行われている限りは、労働の生産性が如何に大きくあっても、
一人の人間を他人が搾取するということ、人間の労働力を、剰余労働の生産に利用するということは
考えら れ な い 。
事実吾々
とはいえ近世の企業家が、人間労働力のこの結構な性質を最初に発見したのではなかった。
はすでに古代において、労働しない人間が剰余労働の搾取を行っているのを見る。古代の奴隷も、中
世における徭役制度や農奴制度も、いずれも既に或る程度に発達した生産性に立脚している。即ち人
間労働の能力が一人の人間以上を養い得るということがその基礎となっている。またこの両者は、社
会の一階級がこの労働の生産性を利用して、他の階級から養われていたという点では同じであって、
ただその形態を異にしているだけである。この意味において古代の奴隷も、中世の農奴も、等しく現
今の賃銀労働者の直接の先駆である。しかしながら古代においても、中世においても、そういう生産
があったにも拘わらず、また搾取されていたにも拘わらず、労働力が商品にはならなかった。今日に
おける賃銀労働者の企業家に対する関係が、奴隷制度や農奴制度と異なっている点は、何よりもまず
労働者が人身的に自由であるという点である。商品を売るということは、言うまでもなく人間の完全
320
なる人身的自由に基づいた任意的な私的取引である。自由でない人間はその労働力を売ることはでき
ぬ。だがそれには更らにもう一つ条件として、労働者が何等生産手段を所有していないということが
ま
必要である。生産手段を所有していたら自ら商品を生産し、自分の労働力を商品として売り渡しはし
ない。従って労働力が生産手段から引き離されているということは、人身的自由と相俟って、今日労
働力を商品たらしめるものである。奴隷経済にあっては、労働力は生産手段から引き離されていない
ばかりか、却って労働力そのものが一個の生産手段を成していて、道具や原料などと並んで私有財産
としてその主人に属している。即ち奴隷はそれ自身奴隷所有者の沢山の生産手段の一部をなしていて、
他の生産手段と何等区別がない。また徭役制度においては、労働力は法律で直接に生産手段即ち土地
に繋がれ、全然それに隷属していて、農奴自身が生産手段の一部にすぎぬ。徭役や納貢は実に人間が
行うのでなく、土地が行うのである。土地が遺産や何かとして他の労働する人間の手に移る時は、納
貢もその際一緒に移る。然るに現今では労働者は人身的に自由であって、何人の財産でもなければ、
生産手段に繋がれてもいない。反対に生産手段は一方の手に、労働力は他方の手にあり、しかもこの
所有者二人は、独立な自由な人として、売り手および買い手――資本家が労働力の買い手、労働者が
その売り手――として対立している。
しかし人身的自由があっても、労働力が生産手段より分離していても、また労働の生産性が高度に
進んでいても、必ずしも常に賃銀労働、労働力の売却を誘致するわけではない。奴隷経済を伴った大
第5章 賃 銀 法 則
321
貴族所有地が形成されたために、自由小農の集団が自分の土地から駆逐された時の古代ローマにこの
例を見る。彼等は依然人身的には自由であったが、土地即ち生産手段をもたなかったので、田舎から
ローマへ、自由なプロレタリアとして群をなして入って来た。それにも拘わらず、彼等はその時に自
分の労働力を売ることはできなかった。何故なら買い手を発見することができなかったからである。
富裕な地主や資本家は、奴隷に養わせていたので、自由な労働力を買う必要がなかった。奴隷労働は
当時完全に地主の生活欲望を充たしていた。地主はできることは何でも奴隷の手でやらせていたので
しゃし
ある。しかし奴隷に生産させる目的は、自分自身の消費だけで、商品を売ることではなかったので、
彼自身の生活と奢侈のため以上には奴隷の労働力を使用することはできなかった。そこでローマのプ
ロレタリアは、自分自身の労働に対してあらゆる生活の源泉を塞がれ、乞食となって路傍で食を乞い、
時々の生活資料の分配によって生きる外はなかった。かくして古代ローマにおいては、賃銀労働が生
まれずに、国家の費用を以てする無産自由民の大仕掛の救済が行われるに至ったのである。それ故に
フランスの経済学者シスモンヂ 【 Jean Charles Léonard Simonde de Sismondi, 1773-1842
】は曰く、古代ローマに
おいては、社会がそのプロレタリアを養っていた、今日ではプロレタリアが社会を養っていると。し
かし今日プロレタリアが、自己および他人を維持するために労働することができ、その労働力を売る
ことが可能であるのは、今日自由労働が生産の唯一の形態だからであり、商品生産としての労働が直
接の消費に向けられているのでなく、売るための生産物の生産に向けられているからである。奴隷所
322
有者は奴隷を自分の安逸および奢侈のために買い、封建領主はそれと同じ目的のために、即ちその一
族と共に驕奢な生活をするために、徭役農民から労役や租税を搾った。然るに近世の企業家は、労働
者をして、食糧、衣服、奢侈品等を彼自身の使用のために生産させるのでなく、売って貨幣を得るた
めに商品を生産させるのである。そしてまさしくこの仕事こそ、労働者を賃銀労働者たらしめると同
様に、彼を資本家たらしめるのである。
されば労働力を売るという単なる事実は、或る一定の社会的および歴史的関係のひとつながりを示
唆していることを知る。即ち労働力が商品として市場に現れるという単なる事実が、次の諸点を示し
ている。一、労働者が人身的に自由であること、二、労働者が生産手段から離れていること、並びに
労働しない者の手中に生産手段が集まっていること、三、労働の生産性が高度であること、即ち剰余
労働を行う可能性があること、四、商品経済が一般的に行われていること、即ち売るための商品形態
において剰余労働をつくり出す目的で、労働力の購買が行われていること。
市場から外部的に見れば、労働力なる商品の売買は、靴や懐中時計を買うと同じく、毎瞬間幾千と
なく行われているところの、全くありふれた取引である。商品の価値とその変化、商品の価格とその
変動、市場における買い手と売り手との平等と独立、取引の自由――すべてがあらゆる他の商品の場
合と全く同じである。しかしながらこの労働力という商品の特殊な使用価値によって、またこの使用
価値を初めてつくり出すところの特殊な事情によって、商品世界のこの日常の市場取引が、全く特殊
第5章 賃 銀 法 則
323
な新しい社会的関係となる。吾々は次にこの市場取引から如何なるものが発展するかを見よう。
二
企業家は労働力を買い、すべての買い手と同じく労働力の価値、即ち労働力をつくり出す費用を支
払う。即ち労働者の生計を充たす或る価値を賃銀として支払うのである。しかしながら買われた労働
力は、社会において平均的に使用される生産手段を以て、単なる自己の生計費以上のものをつくり出
すことができる。このことは既に吾々の知る如く、すべて労働力の取引の前提となっているのであっ
て、そうでなかったらこの取引は無意味である。この点に労働力なる商品の使用価値がある。然るに
労働力の生計の価値は、他のすべての商品の価値と同じく、それをつくり出すに必要な労働の量によ
って決定されるのであるから、吾々は労働者を日々労働し得る状態に維持してゆくに必要な食物、衣
服等が、その生産に、たとえば六時問の労働を要すると仮定することができる。そうすると労働力な
る商品の価格、即ち賃銀は、普通に六時間の労働を貨幣の形にしたものでなければならぬ。然るに労
働者は企業家のために、六時間働くのでなく、もっと長く、たとえば十一時間働くものである。そう
すると彼はこの十一時間のうち、まず初めに六時間で以て受取っただけの賃銀を企業家に償却し、そ
の上になお五時間分だけ無料で働いて企業家に捧げたことになる。故にすべて労働者の労働日は、必
然的に且つ普通に二つの部分から成る。一つは支払われた部分であって、即ち労働者が自分自身の生
324
計の価値を償うだけのもの、謂わば自分のために働く部分と、もう一つは支払われざる部分、即ち資
本家のために贈物の労働、即ち剰余労働を行う部分とである。
往時の社会的搾取の形態にあっても、これと同様な事情にあった。農奴時代には農奴の労働は、自
分のための労働と領主のための労働とに、しかも時間的にも空間的にも分れていた。何時、どれだけ
自分のために働き、何時、どれだけ慈悲深い領主の貴族や僧侶を養うために働くのかを、農民は極く
精密に知っていた。即ち農民は最初に数日自分の畑で働き、次に二三日領主の畑で働くか、または
午前中自分の畑で働き、午後領主の畑で働くか、それとも数週間続けて自分の畑でのみ働き、それか
ら数週間を領主の畑で働くかしていた。たとえばエルザス洲マウルスミュンスター寺領の一村では、
十二世紀中頃の徭役労働は次のように定められていた。即ち四月半ばより五月半ばまでは、各農家が
一人ずつの男子を一週に三日間差出し、五月より夏至までは一週午後半日、夏至より七月までは一週
三日、収穫時には一週午後半日ずつ三日、聖マルチン祭(十一月十一日)よりクリスマスまでは一週
三日。尤も中世の後期になると、奴隷制度の発達と共に領主のための労働が漸次増大してきて、間も
なく一週間のうち殆んど毎日、また一年のうち殆んど毎週徭役に宛てられるようになり、農民は自分
だま
の畑を耕やす時間が殆んどなかった。しかしその時でも農民は、自分のために働いているのでなく、
他人のために働いているのだということをハッキリと意識していた。これはどんな愚昧な農民でも瞞
され得 な か っ た 。
第5章 賃 銀 法 則
325
バ
ネ
ゴ
ム
然るに近世の賃銀労働の場合は様子がまるで違う。労働者はまず労働日の初めの部分で、自分が使
う物、即ち自分の食糧衣服等をつくって、それから後に企業家のために別のものを生産するのではな
い。反対に工場や仕事場における労働者は、終日ただ一つのもの、たとえば鋼鉄発条だとか護謨帯だ
とか、絹布だとか鉄管だとか、自分の個人的消費に極く僅かしか使用しないか、或は全然使用しない
ものばかりを生産している。終日かかって造り出したひと山の鋼鉄発条だとか護謨帯だとか織物だと
かは、どの一片を取って見てもどれも寸分違わないものに見えて、どの部分が支払われた分で、どの
部分が支払われない労働だか、どの部分が労働者のためのもので、どの部分が企業家のためのものだ
か、それを見ただけでは少しも区別がつかない。同様に、労働者が労働を加えた生産物は、彼にとっ
ては全然効用のないものであるばかりか、その中の一片でも労働者のものではなく、労働者が生産す
るものはすべて企業家のものである。この点において、賃銀労働と徭役との間には大きな外面上の差
異がある。農奴は普通の事情の下では、自分の畑で働くため無条件に幾らかの時間をもっていなけれ
ばならなかったし、そして自分のために働いた分は矢張り自分のものであった。ところが近世の賃銀
労働者の場合は、その全生産物は企業家に属し、従って工場でした労働は、自分の生計とは少しも関
係がないかのように見える。労働者は賃銀を受取ったのだから、それを何にでも使える。その代わり
企業家の言い付け通りに労働しなければならぬし、従って生産したものはすべて企業家のものだとい
う風に考えられる。しかしこの差異は労働者にとって認めにくくとも、後になって企業家が労働者の
326
生産から収益を勘定するときに、その勘定の上に明らかに現れてくる。これは資本家にとっては、生
産物の売却後に受取る貨幣額と、生産手段並びに労働者の賃銀に対する支出との差額である。そこで
企業家に利潤として残るものは、まさに不払労働でつくられた価値、即ち労働者がつくった剰余価値
である。故にすべて労働者は、護謨帯だとか絹布だとか鉄管だとかばかりを生産している場合にも、
最初に自分の賃銀を生産し、それから資本家のために捧げる価値を生産するのである。たとえば彼が
十一時間で絹布十一メートルを織るとすれば、そのうち六メートルは彼の賃銀の価値を含み、そして
五メートルは企業家のための剰余価値である。
しかし賃銀労働と奴隷労働または徭役労働との差別は、もっと重大な結果を有している。奴隷も徭
役農民も、主として主人自身の個人的欲求のため、主人の消費のために労働を提供した。即ち主人の
ために食糧、衣服、什器、奢侈品等をつくった。とにかくこれが、商業の影響で奴隷制度と徭役制度
うまや
とが頽廃して滅亡するに至る以前の常態だったのである。しかし人間の消費能力も私的生活における
やかた
奢侈も、いかなる時代にも或る一定の限界をもっている。幾棟かの穀倉、厩、豊富な衣服、自分自身
並びに館全体のための豪奢な生活、立派に飾った部屋――古代の奴隷所有者や中世の貴族はこれ以上
わら
のものを必要とし得なかった。然るにそういう日用品は、悪くなってしまうから一時に沢山蓄えて置
くわけには行かぬ。穀物はじきに腐朽したり、鼠に食われたり、乾草や藁はじきに腐蝕し、衣服は破
損したりしてしまう。乳や果物や野菜は一般に貯蔵に耐えない。故に奴隷経済や徭役経済における消
第5章 賃 銀 法 則
327
費には、どんな豪奢な生活でもなお自然的限界があり、従って普通は奴隷や農民を搾取するにも制限
があった。然るに商品生産のために労働力を買う近世の企業家にあってはそうではない。労働者が工
場または仕事場で生産するものは、たいてい彼自身にとって全く無用のものであるが、同じく企業家
にとっても矢張りそうである。企業家は買った労働力に自分の衣食を拵えさせないで、何か自分には
少しも用のない商品を生産させる。絹布や鉄管や棺桶を生産させるのは、できるだけ早くそれを手離
すため、売るためである。それを売って貨幣を得んために生産させるのである。そして企業家は自分
の支出を取り戻すばかりでなく、労働者の捧げた剰余労働をも貨幣の形で受取る。労働者の不払労働
を貨幣に代えるというただその目的のために企業家は取引を行い、労働力を買うのである。然るに貨
幣は吾々の知るように、富を無制限に堆積する手段である。貨幣の形を取れば、富はどんなに長く貯
蔵していても価値を少しも減じないのみか、却って後に説くように、単に貯蔵するだけで増大するよ
うにさえ見える。それに貨幣の形を取れば、富はその限界を知らず、無限に増大し得る。それに応じ
てまた剰余労働に対する近世資本家の貪慾もその限界を知らぬ。労働者から不払労働が引き出せれば
引き出せる程よい。剰余労働を搾り出すこと、しかも無制限に搾り出すこと――これが労働力を買う
本来の目的であり、任務である。
この労働者から搾り出す剰余価値を増大させようとする資本家の性来の動機は、何よりもまず二つ
の簡単な方法を見付け出しているのであって、これは労働日の組立てを見ると謂わば自然と姿を出し
328
てくるものである。各賃銀労働者の労働日は、普通二つの部分から成り立っていること、即ち労働者
が自分の賃銀を償う部分 【賃銀分を返済する部分】と、不払労働即ち剰余労働を提供する部分とから成
り立っていることを吾々は知った。故にこの第二の部分をできるだけ大きくするには、企業家は二つ
の方面から取りかかることができる。即ち労働日全体を延長するか、それとも労働日の第一の支払部
分を短縮するか、つまり労働者の賃銀を引下げるかである。事実上資本家はこの二つの方法を同時に
行っている。従って賃金労働制度には不断に二様の傾向、即ち労働時間を延長する傾向と、賃銀を切
詰める傾向とが生じている。
資本家が労働力なる商品を買うのは、すべての商品におけると同じく、そこから或る効用を引出す
ためである。たとえば吾々が靴を買う場合には、できるだけ永くそれを用いようとする。その商品の
充分な使用、すべての効用は商品の買い手のものである。故に労働力を買った資本家が、その商品が
自分にとってできるだけ永く、またできるだけ多く役立つことを欲するのは、商品交換という見地か
ら見て全く正当なことである。資本家が労働力に対して一週間だけ支払ったとすれば、一週間分の
使用は資本家の勝手次第であって、買い手としての立場から、一週間の間は労働者を、できれば毎日
二十四時間の倍も働かせる権利をもっている。然るに他方においては労働者は、商品の売り手として
全く反対の立場にある。労働力の使用は如何にも資本家の勝手次第ではあるが、資本家は労働者の肉
体的並びに精神的給付力に使用の限度を見出すのである。馬は毎日毎日八時間以上働かされれば倒れ
第5章 賃 銀 法 則
329
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330
かいふく
てしまう。人間も矢張り労働に費やした力を恢復するためには、衣食や休養等に或る一定の時間を必
要とする。労働者にそれがなければ、労働力は用に立たぬばかりでなく滅却してしまう。過度の労働
のために労働力は弱り、労働者の生命が短かくなる。故に資本家が労働力を無制限に使用して、一週
間毎に七週間分ずiつ労働者の生命を短縮するならば、それは恰も資本家が一週間の賃銀で三週間分を
わが物としているのと同じことである。故に商品取引という同じ立場から見て、これは資本家が労働
0
日の休息は極めて愉快に且つ几帳面に行われていた。だが労働方法の緩漫な旧手工業にはそれでよか
時代には、普通習慣になっていた労働時間はまず十時間で、食事、睡眠、休養等の時間や、日曜、祭
この闘争には二つの重要な区切りを見る。その第一は、すでに中世の終り、即ち資本主義が漸くそ
の最初の一歩を踏み出し、ギルド支配の堅城がゆるぎ初めた頃の十四世紀から始まる。手工業の隆盛
年に亙 る 闘 争 で あ る 。
十六時間、十八時間等の労働日がある。そして全体として見れば、これは労働日の長さに関する幾百
は何等一定の制限を伴うものではなく、時と処とによって、八時間、十時間、十二時間、十四時間、
資本階級と労働階級との闘争を通じて、 力の問題として決せられる。故に労働日はそれ自体として
0
働日の長さに関して二つの全く相反した立場を代表しているのであって、労働日の実際上の長さは、
者から掠奪したことを意味する。されば資本家と労働者とは、共に商品市場という土台に立って、労
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七週間では、続けての「三週間分をわが物」と勘定が合わない。岡崎訳では「二週間分」。
i
か
ったが、漸く始まりつつあった工場企業には、それではいけなかった。そこで最初に資本家が政府か
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ら贏ち得たものは、労働時間延長の強制法律だったのである。十四世紀から十七世紀末までは、イギ
リスでもフランスでもドイツでも、専ら最短労働日に関する法律しかなかった。即ち労働者や職人に
対して、一定の労働時間――しかも多くは日に十二時間――より少なく働くことを禁じた法律を見る
だけである。労働者の怠惰に対する闘争――これが中世以来十八世紀に入るまでの大きな叫び声であ
った。ところが旧来のギルド手工業の力が破れ、全く労働手段をもたぬプロレタリア大衆が、唯だそ
の労働力を売る外に頼るところがなくなり、他方には熱病的な大量生産を以てする大マニュファク
たお
チャーが発生して以来、即ち十八世紀以後は局面が一転した。ここに年齢、性別を問わざる労働者の
急激な、無制限の併呑が始まり、全労働人口が僅々数年のうちに恰も疫病に罹ったように斃された。
*
一八六三年イギリス下院の一代議士が述べた言葉に、
「木綿工業が始まって九十年になる。……イギ
リス人種三代の間に、木綿労働者九代を食い尽してしまった。」またイギリスのブルジョア著述家ジ
ョン・ウェードは、その著『中産階級および労働階級史』の中にこう述べている、
「工場主の貪慾と、
**
利潤を追求する場合のその暴行とは、金をあさっていた場合のスペイン人のアメリカ銅色人に対する
暴行に劣らなかった。
」イギリスではなお十九世紀の六〇年代においても、或る工業部門、たとえば
レース工場では、九歳から十歳の小さな児どもが朝の二時、三時、四時から夜の十時、十一時、十二
時までも働かされていた。ドイツにおいては、鏡裏箔業やパン焼業には最近まで、また出来合洋服業
第5章 賃 銀 法 則
331
や家内工業には現在でも、上述のような状態が一貫して行われていることは周知の通りである。近世
の資本主義工業が、初めて従来知られなかった夜業の発見をしたのである。従来のあらゆる社会状態
を通じて、夜というものは、天然自然から人間に休息のために与えられた時間と見做されていた。然
るに資本家的経営は、夜間に労働者から搾取した剰余価値も、昼間搾取したものと別に変りがないこ
とを発見して、昼夜業を実施したのである。同様に、中世にはギルド手工業が厳格に守っていた日曜
日も、資本家の剰余価値慾の犠牲にされて、他の一般の労働日の中に繰込まれてしまった。なおそれ
に加えて、労働時間延長のための十数の小発見が行われた――休みなしに労働中に食事をとることや、
機械の掃除を規定の労働時間中でなく、労働時間が終ってから、即ち労働者の休憩時間中にすること
などで あ る 。
*『資本論』第一巻、第二二九頁。
〔第三篇第八章第五節 【標準労働日をめぐる闘争。…労働日延長…】
。〕
** 同上第二〇四頁。
〔第三篇第八章第三節 【搾取に対する法的制限を欠くイギリス…】
、注六四。〕
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最初の数十年間全く自由に無制限に行われていた資本家のこういう遣り方は、やがて労働日に関
する一連の法律を新たに必要とした。こんどは労働時間の強制的延長のためではなくて、その短縮の
ほうし
ためであった。しかも最長労働日に関する最初の法規は、労働者の圧迫によって強制されたよりも、
むしろ資本家社会の単なる自己保存の動機によるものであった。放肆無制限な大工業経済の最初の
二三十年は、労働大衆の健康と生活状態とに破滅的な影響をおよぼし、驚くべき死亡、疾病、肉体的
332
*
不具、精神的頽廃、流行病、軍隊の素質低下を惹起し、社会の存立そのものが徹底的に脅やかされた
ように見えた。剰余価値に対する資本の自生的迫進が国家から制御されなかったら、遅かれ早かれ全
国を労働者の骨だけで埋った大墓地と化するに至ることは明白であった。だが労働者がいなければ労
働者の搾取はない。そこで資本は自分の利益から見て、将来も搾取を可能ならしむるためには、現在
において搾取に幾らかの制限を設けなければならなかった。民力は将来の搾取を保証するために、少
しはいたわる必要があった。不経済的な掠奪経済から合理的な搾取に移る必要があった。最長労働日
に関する最初の法律が、その他すべての社会改良と同じく発生するに至ったのは、そういうわけから
である。これに匹敵する例を狩猟法に見る。鹿類を合理的に増殖させ、規則正しく狩猟の対象として
役立たせ得るようにするために、これに一定の禁猟期を法律によって保証していると同様に、社会改
良は資本の合理的な搾取を可能ならしめるために、ブロレタリアートの労働力に或る種の禁猟期を保
証するのである。またはマルクスの言葉で言えば、工場労働の制限は農夫が畑に肥料を与えると同様
な必要から強要されたものである。工場法は個々の資本家の抵抗に対する数十年間の悪戦苦闘を通じ
て、初めて婦人および小児のために、それから個々の産業に対して一つ一つ行われてきた。それに続
いてフランスでは、一八四八年の二月革命が、勝利を得たパリのプロレタリアートの最初の圧迫の下
に、初めて十二時間労働を宣言し、これはあらゆる労働部門のあらゆる労働者――成人労働者も含む
――の労働時間に関する最初の一般的法律であった。合衆国では奴隷を廃止せる一八六一年の内乱直
第5章 賃 銀 法 則
333
後に、八時間労働に対する労働者の一般的運動が起り、そしてこの運動はヨーロッパ大陸に波及して
そうじょう
行った。ロシアでは婦人および少年に対する最初の保護法が、一八八二年モスコー工場地域の大工場
騒擾から生まれ、成人労働者に対する十一時間半労働が、一八九六年と九七年とにおけるペテルスブ
ルグの六万の繊維工業労働者の最初の総同盟罷業から生まれた。ドイツは今日婦人と小児だけに対す
る保護法を以て、他のすべての近代的大国家のあとを、覚束ない足どりで追っている。
* 国民皆兵制が布かれて以来、成人の平均的身長が次第に低くなり、それに伴って徴兵法定身長も段々
低くなって行った。フランスでは大革命以前は歩兵の最低身長は一六五センチメートルであった。それ
が一八一八年の法律では一五七センチメートル、一八五二年以後は一五六センチメートルとなった。フ
ランスでは平均過半数は大きさが足りないのと虚弱のためにはねられている。サクソニーでは軍隊の標
準身長は、一七八〇年には一七八センチメートル、一八六〇年代には僅か一五五センチメートル、また
プロシャでは一五七センチメートルであった。ベルリンでは一八五八年には一五六人の兵士が不足だっ
たが補充兵の割当をすることができなかった。
吾々は今まで賃銀労働のただ一つの方面だけ、即ち労働時間の点だけを述べてきたのだが、すでに
これだけの範囲においても、労働力の売買という単純な商品取引が如何に一種独時の現象を伴ってい
るかが分かる。だがここでマルクスの言葉を以て語る必要がある、「吾々は労働者が生産過程に入り
込んだ時とは、別なものになってそこから出て来るということを認めなければならぬ。市場において
334
は、労働者は『労働力』なる商品の所有者として他の商品所有者と対立した、即ち商品所有者が商品
所有者と対立したのである。彼が契約によって資本家に労働力を売ったということは、彼が自分自身
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のことを好きにできるものであることを、謂わば白地に黒く書いたようにハッキリと証明したもので
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ある。然るに取引が結ばれた後になって、彼は決して『自由な契約当事者』でなかったこと、彼が一
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定期間その労働力を売ることを自由にすることができたのは、その実その期間だけこれを売ることを
強制されたのであること、彼の吸血者は『搾り取るべき一片の筋肉、一筋の腱、一滴の血のある間は』
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事実上離れないものであることが発見される。労働者は苦悩の蛇から身を『保護』するためには、互
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いに結束して、階級として国家の法律を強取し、資本との自由契約によって自分とその一族とを死と
*
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奴隷に売り込むことを、今後しないでも済むようにさせる一つの強大な社会的防壁を贏ち取らなけれ
」【圏点(ゴマ)は底本のもの、圏点(丸)はローザが付けたと岡崎訳にあるもの。白丸を除いて『資本論』
ばなら ぬ 。
でも強調されている。】
*『資本論』第一巻、
第二六五頁、
第三篇第八章第七節【標準労働日をめぐる闘争。イギリス工場法の…】
。
(訳者)
労働者保護法なるものは、事実上、商品生産と商品交換との基礎となっている形式的平等および自
由は、労働力が商品として市場に現れて以来すでに滅びてしまって、不平等および不自由に化してい
るという事実に対する、現代社会の最初の公認である。
第5章 賃 銀 法 則
335
三
剰余価値を増大するための資本家の第二の方法は、賃銀の引下げである。矢張り賃銀も労働日と同
じく、それ自身としては何等一定の限界を伴っているものではない。賃銀を論ずる場合は、何よりも
まず労働者が企業家から受取る貨幣と、彼がその貨幣で以て手に入れる生活資料の量とを区別すべき
である。労働者の賃銀について、たとえば一日二マルクだということだけ知っていても、それは何も
知らないのと同じことである。けだし同じ二マルクでも、物価騰貴の時代には、物価の安い時代に比
して極く少しの生活資料しか買えないからである。また或る一国ではこの同じ二マルク貨幣一個が、
他の国におけるとは別の生活標準を意味する。否、一国の中でも殆んど各地方で異なっている。また
労働者は以前よりも多額の貨幣を賃銀として受けながら、以前よりもよくないばかりか相変らずひど
い生活をしている。或は以前よりも一層ひどい生活をしている場合もあり得る。故に貨幣賃銀は単な
る名目上の賃銀であり、これに反して現実上の実質賃銀は、労働者が受取る生活資料の総量である。
されば賃銀なるものは、労働力の価値の貨幣表現に外ならぬとすれば、この労働力の価値は、実際に
おいては労働者に必要な生活資料に費やされた労働量によって代表される。だが「必要な生活資料」
とは何か? 一人の労働者と他の労働者との個人的区別は、この場合何の役にも立たないのだから、
そういうものは度外に置くとして、国を異にし時代を異にするに従って労働階級の暮らしが異なって
いるという、そのことがすでに、「必要な生活資料」という概念は極めて可変的な、伸縮的なもので
336
クーリー
あることを立証している。よい境遇の下にある今日のイギリス労働者は、ビフテキを毎日食うことを
生活に必要だと思っているし、支那の苦力は一握の米で生活している。
このように「必要な生活資料」という概念が伸縮性をもっているので、賃銀の大きさについて、労
働日の長さについての闘争と同じ闘争が、資本家と労働者との間に発展している。資本家は商品の買
い手としての彼の立場に立って言う、――労働力という商品に対して、すべての正直な買い手と同じ
くその価値通りに支払わなければならぬというのは、如何にも正当なことだが、しかし労働力の価値
わし
とは何か? 必要な生活資料とは何か? よろしい、労働者に対して正確にその生活に必要なだけを
与えよう。だが、人間一人の生命を保つために、どんなものが絶対に必要かということは、
第一に科学、
わし
即ち生理学が教え、次に一般の経験が教えてくれる。そして俺が寸分違わずその最低限だけを労働者
に与えるのは言うまでもないことだ。何故なら一文でも余計に与えるとすれば、俺は正直な買い手で
わし
はなく馬鹿者だということになり、買った商品の売り手に向って、自分の財布から祝儀をくれてやる
わし
博愛者になるからだ。俺は、靴屋や煙草屋に対しても一文でも余計に出さずに、その商品をできるだ
わし
け安く買おうとするのだ。矢張りそれと同様に俺は労働力をできるだけ安く買おうとするのだ。そし
て労働者に生きて行けるだけの最低限をカッキリ与えれば、それで俺も労働者も完全に五分五分なの
だ。――資本家がこう言うのは、商品生産の立場からすれば全く正当である。しかし労働者が商品の
売り手として、これに答えて次のように言うのも、それに劣らず正当である、――如何にも吾々は労
第5章 賃 銀 法 則
337
働力という商品の事実上の価値以上に何も要求しはしない。ただ吾々は君がこの価値を充分に実際上
にも吾々に支払ってくれることを要求する。故に吾々は必要な生活資料以上のものは欲しないのだ。
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だが必要な生活資料とは何か? 君は言う、それに対する答は、生理学という科学と経験とが与えて
くれる、そして人間一人の生命を維持するに最低限どれだけのものが必要かを教えてくれると。それ
もと
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で君は「必要な生活資料」という概念に、絶対的な、生理的な必要を置き換えているのだ。これはし
かし商品交換の原則に悖る。何故なら市場におけるすべての商品の価値は、その生産のために社会的
に必要な労働を規準とするものであることは、吾々と同様に君も知っていることなのだから。靴屋が
一足の靴を君に持って来て、その製造に四日間労働したからという理由で二十マルクを要求したとす
れば、君は靴屋に向ってこう言うであろう、「こんな靴は工場から僅か十二マルクで買える。工場で
は機械で以て一足を一日で造るからだ。だからお前の四日の労働は、機械を使用しないのだからお前
わし
わし
には必要だろうが、――靴を機械で造ることはもう普通になっているのだから――社会的に考えると
必要ではないのだ。だがそれは俺の知ったことぢゃないのだから、俺は社会的に必要な労働だけに対
して、即ち十二マルクだけをお前に支払おう」と。君は靴を買う場合にそう振舞うに違いないのだか
ら、労働力という吾々の商品を買う場合にも、この労働力を維持するために社会的に必要な費用を吾々
に支払わなければならぬ。ところで吾々の生活にとって社会的に必要なものは何かと言えば、この国
でそして現在の時期で、吾々の階級の人間一人の普通の暮らしと見做されているすべてのものがそう
338
なのだ。一言でいえば、君は、吾々の生命をやっと維持するだけの生理的に必要な最低限を、動物に
呉れてやるように吾々に与えるべきでなく、吾々の普通の暮らしを保証するだけの、社会的に普通な
最低限を与えなけれはならないのだ。それでこそ初めて君は正直な買い手として、商品の価値を支払
ったのであって、さもなければ商品の価値以下で買うことなのだ。
かくて吾々は労働者が、純粋な商品の立場からして、少なくとも資本家と同じ権利をもっているこ
とを知る。しかし労働者はこの立場を、時が経つにつれて初めて主張し得るのである。けだし労働者
がこの立場を主張し得るのは――社会的階級として、即ち全一体として、組織体としてのみだからで
ある。労働組合と労働者党との発生と共に、初めて労働者は自己の労働力をその価値で売り始める。
言いかえれば社会的および文化的必要としての自己の生活標準を貫徹し始めるのである。しかしその
国に労働組合が発生して、各個の産業部門には及ばないうちは、賃銀の形成にとって規準となってい
るものは、資本家が労働者の生活資料を、生理的な、謂わば動物的な最低限度に引下げんとする傾向、
即ち絶えず労働力の価値以下に支払わんとする傾向である。労働者の団結と組織とによる抵抗にまだ
出合わなかった資本の無拘束なる支配の時代は、工場法の実施以前の労働時間の場合と同じように、
賃銀に関する労働階級の野蛮的な退化を誘致した。それは労働者の生活から奢侈、安逸、快楽のあら
ゆる痕跡も無くしようとする資本の十字軍である。しかも往時の手工業や農業の時代から引続き習慣
となっていたものに対してもそうであった。即ちそれは家畜に飼草をやり、機械に油を注ぐと同じく、
第5章 賃 銀 法 則
339
労働者の消費を、肉体に最少限度の飼料を注ぎ込むだけの、無味乾燥な行為に低下させようとする努
力である。かくて最も程度の低い、最も欲望のない労働者を以て、増長せる労働者に対して模範とし
て、実例として説かれる。労働者の人間らしい生活に反対するこの十字軍は――資本家的工業と同じ
かた
く――最初イギリスに始まった。十八世紀に或るイギリスの著作家は歎いて曰く、
「わが国の工場労
働者が消費するあの沢山の無駄遣い。ブランデー・ジン酒、茶、砂糖、外国の果物、強いビール、形
付きリンネル、嗅煙草の驚くべき大量を見よ」と。当時イギリスの労働者には、フランス、オランダ、
ドイツの労働者も倹約の模範として説かれていた。だから或るイギリスの工場主は次の如く書いてい
る、「フランスでは労働がイギリスよりも三分の一安い。何故ならフランスの貧民(労働者はそう呼
ばれていた)は、恐ろしく働き、ひどい衣食で我慢する。けだしその主なる消費は、パン、果物、野菜、
やす
根果、乾魚であり、肉は極く稀れにしか食わず、それに小麦が高い時はパンを極く少量しか食わない
0 0 0 0 0 0 0
から」と。十八世紀の初めに当って、アメリカのグラフ・ラムフォードは、労働者の食物を廉くする
ための調理法を書いた労働者用料理書を著した。この有名な書物は諸国のブルジョアジーに非常な感
にしん
激を以て歓迎されたものだが、その中の調理法の一つにこういうのがあった、「大麦五ポンド、玉蜀
黍五ポンド、鯡三〇ペンニヒ、塩一〇ペンニヒ、酢一〇ペンニヒ、胡椒と野菜二○ペンニヒ――皆で二・
〇八マルクで六十四人分のスープができる。それでも穀物の平均価格からして、一人当りの費用がな
お三ペンニヒ以下にはならない」と。南アメリカの鉱山労働者の日々の労働は、おそらく世界で一番
340
骨の折れるもので、一八〇ポンドから二〇〇ポンドの鉱石を担いで、四五〇メートルの底から運び出
】の語るところによれば、
すのがその仕事なのだが、ユスツス・リービヒ 【 Justus Freiherr von Liebig ,1803-73
彼等はパンと豆だけで生活している。彼等は食糧としてまだしもパンだけを食っていたかったのだろ
うが、パンを食っていては激しく働けないと知った雇主は、豆の方がパンよりも骨ごしらえにききめ
があるというので、馬並みに無理やりに豆を食わせたのである。――フランスではすでに一八三一年
に、労働者の最初の飢餓暴動があった――リオンの絹織工の暴動である。しかし六〇年代の第二帝国
はし
の治世になって、本統の機械工業がフランスに入り込んできた時には、資本は有頂天になって賃銀を
引下げた。企業家は簾い働き手を見出すために、都市から田舎へ趨った。そして彼等はそこに日給一
スウ(約二銭)、即ち約四ペンニヒで働く婦人のいることを発見するに至った。とはいえ、そういう
甘い汁は永くは続かなかった。けだしそんな賃銀では、動物のような生活を営むにさえ足りなかった
からである。ドイツでは資本はそれに類似の状態を、まず繊維工業の中に移し入れた。そして生理的
最低限度以下にさえ引下げられた賃銀は、一八四〇年代にシレジアやボヘミアにおける織工の飢餓暴
動を惹起した。今日ドイツでは――農業労働者の間や出来合洋服業その他家内工業の種々の部門にお
いて――労働組合がその力を生活標準に及ぼしていないところでは、いたるところ動物的最低限度の
生活資料が賃銀の標準となっている。
第5章 賃 銀 法 則
341
四
産業予備軍の発生
労働の負担をいやが上にも高め、労働者の生活標準をできる限りの動物的な程度に引下げ、部分的
にはずっとそれ以下に引下げるという点において、近世の資本家的搾取は、奴隷経済と農奴制度とが
極度に退化して崩壊に近づきつつあった場合の搾取に似ている。だが資本家的商品生産だけが専らも
たらしたもので、以前の時代にはすべて全然知られていなかったものは、労働者の部分的不就業、従
って労働者の不使用が不断の現象となっていること、即ち謂わゆる労働者の産業予備軍の発生である。
資本家的生産は市場に依存するものであり、市場の需要に従わねばならぬ。然るに需要は絶えず変動
し、謂わゆる好景気、不景気の年、季節、月を代わる代わる惹起する。資本は絶えずこの景気の変動
に順応しなければならぬ結果、時には多数の、時には少数の労働者を使用しなければならなくなる。
従って資本は、あらゆる瞬間において――市場で一番需要の多い時にも間に合うように――必要な数
だけの労働力を用意しておくためには、就業労働者の外に常に多数の不就業労働者を予備としてもっ
ていなければならぬ。不就業労働者はその限りでは何等賃銀を受けることなく、その労働力は買われ
ないで貯えられているだけである。故に労働階級の一部が使用されずにあることは、資本家的生産の
賃銀法則を構成する本質的要素の一つである。そういう失業者がどうして命を永らえて行くかという
ことは、資本の関するところではないが、しかも資本はこの予備軍を少しでも廃止せんとする企てが
342
あれば、資本自身の生存の利益を脅やかすものとして排斥するのである。
この種の顕著な例を、一八六三年のイギリスの木綿恐慌に見る。アメリカの綿花の不足によって、
イギリスの紡績業と機業とが突然生産を中止しなければならなくなり、百万人に近い失業者がパンに
窮し、その一部は餓死の脅威を免れるためにオーストラリアに移住しようと決心した。そこで彼等は
五万の失業労働者の移住を可能ならしめるため、議会に向って二百万ポンドの協賛を要求した。とこ
ろが労働者のこの要求に対して、木綿工場主等は憤激の叫びを揚げて言った、産業は機械なしにはや
って行けない、労働者は機械のようなものだ、だから労働者を貯えて置かなければならぬ。これらの
餓えた失業者に突然去られては、「国」は四百万ポンドの損害を蒙るのだと。そこで議会は移住基金
を否決した。そして失業者は資本のための必要な予備軍となるために、とどまって餓死を待った。―
―もう一つの際立った例を、一八七一年にフランスの資本家が示している。コンミュンの失敗後パリ
の労働者が、或は裁判の形式を伴って、或は伴わずに途方もなく虐殺され、そのために一万のプロレ
タリアが、しかも労働者中の最も有為な精鋭が殺された時、起業家連は一方に復讐を遂げた快感に浸
りながら、一方に不安の念を起し、「人手」の貯えが不足になったので、やがて資本が困るようにな
るだろうと心配し始めた。丁度その時は戦争が終った後なので、産業が活気ある好景気に面している
時であった。そこで幾多のパリの企業家は、法廷を動かしてコンミュン戦士の告発を和らげ、労働の
人手をサーベルの虐殺より救って資本の腕たらしめようと奔走した。
第5章 賃 銀 法 則
343
産業予備軍は、資本のために二つの機能をもっている。第一に、事業が急激に活況を呈する毎にこ
れに労働力を供給すること、第二に、失業者の競争によって就業者に絶えず圧迫を加えて、その賃銀
を最低限度に引下げることである。
マルクスは予備軍を、資本に対する機能と生活条件とをそれぞれ異にする四つの層に分けている。
最上層。これは周期的に失業する工業労働者で、すべての職業に存在し、従って最も条件のよい職
業にも常に存在している。各労働者は或る時には失業したり、或る時には就業したりしているから、
この層の成員は絶えず変化している。その人数も事業の成行きと共に著しく動揺し、恐慌の時には極
めて多数で好景気の時には少数だが、しかし決してなくなってしまうことはなく、一般に産業の発達
が進むにつれて増大するものである。
第二層。これは田舎から都市へ流れ込む不熟練工プロレタリアで、最も程度の低い要求を以て市場
に現れ、且つ単純労働者として、或る一定の労働部門に固着することなく、すべての労働部門のため
の貯水池として仕事を待ち受けているものである。
第三層。これは最も程度の低いプロレタリアで、何等正規の仕事を有せず、常にあれやこれやの臨
時的仕事を捜しているものである。この層に見るものは最長の労働時間と最低の賃銀とである。依っ
てこの層は前記の諸層と同じく、資本のために有用であるばかりでなく、矢張り直接に欠くべからざ
るものである。この層は絶えず工業と農業との過剰人口で補充され、特に亡びゆく小手工業や死滅し
344
つつある従属的職業の中から補充される。この層は家内工業のための広汎な基礎をなすものであって、
一般に謂わば産業の楽屋裏で働いている。しかしこれは少しも消滅する傾向をもたないのみか、反対
に都市や田舎で工業の活動が増してゆくためと、出産率の強大なためとで益々増大するものである。
最後に第四層。これはどんづまりの窮民であって、この中に入るものは、労働能力のある者――即
ち工業や商業の好況の時にはその一部は就業し、恐慌の時には第一番に外に突き出されるもの、次に
労働能力のない者――産業に最早や使用され得ない老衰せる労働者、プロレタリア寡婦、孤児、細民
児童、並びに工鉱業等の犠牲になった不具者、最後に、労働の習慣を失った者――即ち浮浪人の類で
きゅうじゅつ
ある。この層は直接にルンペン・プロレタリア――即ち犯罪者、淫売婦等に流れ込むものである。マ
ルクスは言う、被 救 恤 窮民は労働階級の癈兵院たり、その予備軍の死の重みたるものである。窮民
の存在が予備軍から必然的に生ずるのは、予備軍が産業の発達から生ずると同じである。貧民とルン
ペン・プロレタリアとは資本主義の存立条件の一つであり、資本主義の発達に伴って増大する。即ち
社会の富、活動している資本およびそれに使われている労働大衆が増大すればするほど、失業者の貯
蔵的層、即ち予備軍もまた増大する。予備軍が現役労働大衆に比較して増大すればするほど、その最
下層の貧困、窮乏、犯罪の層が増大する。故に資本および富と共に、不可避的に不就業者および解雇
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
0
0
者も増大し、それに伴って労働階級の苦悩者の層――官認の被救恤民も増大してくる。かくてマルク
スは言う、これは資本主義発展の絶対的普遍法則であると。
第5章 賃 銀 法 則
345
絶えず増大してゆくこの失業者の常備的層の形成は、前にも述べたように、すべて往時の社会形態
には知られていなかった。原始共産体においては、言うまでもなく生計に必要な範囲内で――一部は
0 0 0 0
直接の欲求から、一部は種族や共同体の道徳的または法律的権力の圧迫の下に――各人が労働してい
た。しかしまた社会のすべての成員に手近かな生活資料が備わっていた。もちろん原始共産群の生活
標準はかなり低級な単純なものであり、生活上の楽しみ事も原始的なものである。しかし生活資料が
存在している限りは、すべてに対して平等に行き亙っていて、今日の意味における貧困や、社会に存
在する生活資料を奪われていることなどは、その時代には知られていなかった。原始的種族は不利な
自然関係が起った時には屡々飢えた。しかしこの窮乏は社会全体の窮乏なのであって、社会の一部に
余分がありながら他の一部に窮乏があるということは考え得られぬことであった。けだし社会の生活
資料が全体として保証されている限り、個々の成員の生存も保証されていたからである。
東洋および古代の奴隷制度にも同一の事情を見る。エジプトの国有奴隷やギリシャの私有奴隷は如
何にもひどく搾取され虐使されてはいるが、そして彼等の乏しい暮らしと主人の贅沢との間の距離は
如何にも大きなものではあるが、しかもなお奴隷の生活標準は奴隷関係そのものによって保証されて
いた。奴隷を窮乏のために死なせなかったのは、今日自分の馬や牛を餓死させないのと同じである。
中世の徭役関係においても事情は同一であった。そこでは農民が土地に縛りつけられ、封建的隷属制
度が樹立されていて、社会のどんな人間でも、他の人間の主人となっているか、主人の奴僕となって
346
いるか、それともこの両者を兼ねているかしていて、この制度は各人に一定の位地を指定していた。
こうひょう
そして農奴の搾取はどんなに苛酷だったにしろ、地主は農奴を土地から追払う権利はなかった、言い
かえれば農奴から生活資料を奪う権利はなく、反対に、徭役関係は地主に対して、火事や洪水や降雹
などの災厄の場合には、困窮に陥った農民を救済する義務を負わせていたのである。謂わゆる農民追
放が始まったのは、漸く中世の終りになって、封建制度が崩壊し資本主義が入り込んだときであった。
しかも中世においては、労働する大衆の生存が一貫して保証されていた。なるほど当時と雖も度び重
なる戦争や個人の財産喪失の結果、すでに一部には貧民や乞食の群が幾分形成されていたが、そうい
う貧民を養うことは社会の義務と見做されていたのである。すでにカロロ大帝もその
『カピツラーレ』
(律令)の中に明白に規定している、「国内を徘徊する乞食については、すべて予の家臣は、地面を呉
れてやるなり家に置いてやるなりして彼等を養い、他所へ乞食に行かないように取計うことを望む」
と。後になっては、貧民に宿を貸すなり、働く能力がある者には仕事を世話してやるなりすることが、
寺院の特別な務めの一つとなった。故に中世においては窮乏者はどの家にも間違なしに接待され、食
うことのできぬ人間を養うことは単に義務と見做されていたのであって、今日乞食に対する如き侮辱
の念は誰ももっていなかった。
過去の歴史の中で、人口のかなりの部分が仕事もなく食物もなくされた場合がただ一回だけある。
即ちそれはすでに述べたように、古代ローマの農民が土地を逐われてプロレタリアにされ、しかも
第5章 賃 銀 法 則
347
ラ チ フ ン ヂ ウ ム
何一つ仕事が与えられていなかった場合ある。この農民のプロレタリア化は、如何にも巨大土地所有
ラ チ フ ン ヂ ウ ム
【 latifundium
】の成立と奴隷経済の拡張との論理的必然的な結果であった。しかも彼等は奴隷経済およ
び巨大土地所有の成立に何等必要ではなく、却って仕事のないローマのプロレタリアは、社会にとっ
やす
て単なる不幸、新らしき負担にすぎなかった。それにも拘わらず社会は彼等に周期的に土地を分配し
たり、生活資料を分けてやりたり、穀物の大量を輸入して穀価を人質的に廉くしたりして、でき得る
限りの手段を尽してプロレタリアとその貧困とを防止するにつとめたのである。要するに古代ローマ
のこのプロレタリア大衆は、とにもかくにも国家から直接に養われていたのである。
的な一大層の失業および無一物状態と、同じく
然るに資本家的商品生産においては、人口中の増た大
だ
増大的な他の層のどんづまりの絶望的貧困とが、啻に資本家的経済の結果たるのみならず、その経済
の必要事であり存立条件である。故に資本家的商品生産は、人類歴史においてかかる性質の最初の経
済形態である。労働大衆全体の生存不安と慢性的窮乏、並びに部分的には一定の広汎なる諸層のどん
づまりの貧困が、ここに初めて社会の常態的現象となったのである。しかも今日の社会的形態以外の
おぼしめ
ものを想像し得ないブルジョア学者は、かかる無一物の失業者の層の必然的存在を見飽きているため
に、これを神の思召す自然律だと説いている。十九世紀初めにイギリス人マルサスは、これに基づい
て有名な人口論を組み立て、人類が生活資料の増加よりも急速に子供を殖やすという悪習慣をもって
いるから貧困が発生するという説を立てた。
348
しかしながらかかる現象を惹起するものは、前述の如く商品生産および商品交換の単なる作用に
外ならぬものである。この商品法則は形式的には完全なる平等と自由とに立脚しながら、何等法律や
強権の力をかりることなく全然機械的に、金剛不壊の必然性をもって、かかる赤裸々な社会的不平
等――他人に対する一人の人間の直接支配に立脚せる従来のすべての社会には、全く知られなかった
ような――を惹起している。ここに初めて直接の飢餓が、事実上労働大衆の生活を鞭打つ刑杖となっ
た。そしてこれをしも人は自然律と説いているのだ。アングリカン教会僧侶タウンセンドも、すでに
一七八六年に次の如く書いている、「貧民が或る程度まで気軽るであってそのために勢い、社会の最
も奴隷的な、最も汚い、最も卑しい仕事を受持つために存在しているということは、自然律らしい。
これによって人類の幸福の基金が非常に増大し、優秀なる人士は卑賎な仕事から解放されて、安んじ
て高等な職業に赴くことができる。然るに救貧法は、神と自然とが折角この世に建設したこういう制
度の調和と美、均整と秩序を乱す傾向をもっている。」【『資本論』第七篇第二三章第四節「資本制的蓄積の一
般法則」からの引用。編輯者注による】
然るに他人の犠牲で生活する「優秀なる人士」は、従来とても搾取生活の悦びを自分に保証してく
れるあらゆる経済形態の中に、いつでも神の御手と自然律とを認めてきたのである。如何なる偉大な
思想家と雖もこの歴史的錯覚を免れない。だからイギリスの僧侶よりも幾千年も前に、ギリシャの大
思想家アリストテレースは次の如く書いている、「奴隷制度を創造したものは自然そのものである。
第5章 賃 銀 法 則
349
動物は雌雄に分れている。牡は牝に比して完全な動物なので支配し、牝は不完全なので服従する。同
様に人類の中にも、肉体が精神の下に位し動物が人類の下位に立つ如く、他に比して低級な個人があ
る。これはただ肉体的労働にのみ役立ち、何等高級な事柄を成就する能力のない人間である。この種
の個人は、他人に服従する以上に何等長所をもたないから、自然によって奴隷の運命を負わされてい
る。……最後に、一体奴隷と動物との間にそんなに大きな差異があるだろうか? 両者の仕事は似た
ものであって、いずれもその肉体によってのみ吾々に役立ち得る。故にこれらの原則から次の結論を
引き出すことができる。即ち自然は或る人間を自由のために、他の人間を奴隷のために創造したので
あって、従って奴隷が服従することは必要且つ正当なことである」【アリストテレス『政治学』第一巻五章から】
おと
と。このようにあらゆる形式の搾取に責任を負わされている「自然」は、どの道、時代と共にその趣
味が甚しく堕落してきたに相違ない。何故なら「自然」が民衆の大多数を侮辱的な奴隷の地位に貶し
へんちゅつ
て、哲学的自由民とアリストテレースの如き天才とをその肩の上に載せることは、まだしも遣り甲斐
があったにしても、今日俗悪な工場主や肥った坊主を飼養するために、幾百万のプロレタリアを貶黜
吾々は今まで資本主義経済が、労働階級とその種々なる層とに対して如何なる生活標準を保証して
五
【地位を下げる】することなどはあまり気のきいた仕事ではないのだから。
350
いるかを見た。しかし吾々は労働者のこの生活標準と、全体としての社会的富との関係については、
まだ少しも精密なところを知っていない。けだし労働者が、たとえば或る場合に以前よりも多くの生
活資料、即ち一層豊富な食糧や一層上等な衣服を得ているとしても、その場合に他の階級の富がもっ
と迅速に増加していれば、社会的生産物に対するこの労働者の分け前は以前よりも少なくなっている
からである。故に労働者の生活標準がそれ自体として、
絶対的に見れば高上【向上】している場合でも、
他の階級と比較して相対的に見ればその分け前が低下している場合がある。されば各人および各階級
の生活標準は、その時代の事情並びに同一社会内の他の諸層と比較して評価した場合に、初めて正当
に判断し得る。アフリカの原始的な、半野蛮的な、または未開の黒人種族の王様は、ドイツにおける
普通の工場労働者よりも生活標準が低い。即ちそれよりも簡単な住居、劣った衣服、粗末な食物で生
活している。しかもドイツの工場労働者は、富めるブルジョアの奢侈や現代の一般的欲求に比すれば、
まことに憐れむべき生活をしているのに反して、この異人種族の王様は、その種族の資料と要求とに
比すれば「王様のような」生活をしているのである。故に今日の社会における労働者の地位を正しく
判断するためには、絶対賃銀、即ち労賃そのものの大きさを研究するにとどめず、相対賃銀――即ち
労働者の賃銀がその労働の生産物全体に対して有する分け前――を研究する必要がある。吾々は前の
例で、労働者は十一時間労働において、最初の六時間で、自分の賃銀即ち生活資料を稼ぎ出し、次に
あとの五時間で資本家のために剰余価値をつくるものと見做した。故にこの例では、労働者のための
第5章 賃 銀 法 則
351
生活資料の生産は六時間の労働を要するものと前提したのである。吾々はまた資本家が不払労働、剰
余価値をでき得る限り大きくするために、あらゆる手段を講じて労働者の生活標準を引下げようとつ
とめていることを知った。しかしここでは労働者の生活標準が変化しないものと仮定する。即ち労働
者は常に同一量の食物、衣服、下着、家具等を手に入れる位置にあるものと見做そう。故に賃銀が絶
対的に見て低下しないものと仮定するのである。然るにこれ等のすべての生活資料の製出が、生産上
の進歩によって廉価になり、そして今は以前よりも僅かな時間しか要しないとすれば、労働者はその
賃銀を稼ぎ出すのに以前よりも短い時間で足りるようになるだろう。そこで労働者の日々に要する食
物や衣服や家具等の分量が、もはや六時問の労働を要することなく、五時間だけで足りるようになっ
たと仮定しよう。そうすれば労働者は十一時間労働のうち、賃銀を稼ぎ出すために今まで六時間働い
ていたのが五時間働けばよいことになり、従ってまる六時間というものが不払労働として、資本家の
ための剰余価値の生産のために残ることになる。即ち労働者の生産物に対する分け前が六分の一だけ
減って、資本家の分け前が五分の一だけ増したのである。しかしその際絶対賃銀は何等低下していな
いのである。それどころかこの場合に労働者の生活標準が高まることもあり得る。即ち絶対賃銀がた
とえば一割だけ上り、しかも貨幣賃銀のみでなく労働者の実際上の生活資料が多くなる場合があり得
る。しかし労働の生産性がそれと同時に、またはその後まもなく、一割五分だけ増したとすれば、生
産物に対する労働者の分け前、即ち労働者の相対賃銀は――絶対賃銀が騰貴しているにも拘わらず―
352
―低落 し た の で あ る 。
このように生産物に対する労働者の分け前は、労働の生産性に依存している。労働者の生活資料が
僅かな労働で生産されれば、相対賃銀はそれだけ少なくなってくる。労働者が着るシャツや靴や帽子
が、製造業の進歩によって以前よりも僅かな労働で製造されるなら、――労働者は賃銀で以前と同一
分量のシャツや靴や帽子を手に入れることができるにしても――この場合労働者が受取る社会的富、
社会的労働生産物の分け前は以前よりも少なくなっているのである。ところがあらゆる生産物と、原
やす
料とが、何等かの分量において労働者の日々の消費の中に入っている。それで単にシャツ製造業だけ
が労働者の暮らしを廉くするのでなく、シャツの原料を供給する木綿製造業も、ミシンを供給する機
械製造業も、毛糸を供給する毛糸製造業も、いずれも労働者の暮らしを廉くするものである。同様に
パン焼業の進歩だけが労働者の生活資料を廉くするのでなく穀物を大量的に供給するアメリカの農業
も、穀物をアメリカからヨーロッパに運ぶ鉄道運輸、汽船運輸の進歩なども、同じはたらきをするの
である。このように産業上の如何なる進歩も、労働生産性の如何なる高上も、すべて労働者の生活維
持を絶えず少ない労働で事足りるようにする。かくして労働者が賃銀の補償のために費やす労働日の
部分が絶えず減少するようになり、不払労働即ち資本家のための剰余価値をつくりだす労働日の部分
技術のこの常住不断の進歩は、資本家にとって必要事であり、生存条件である。個々の企業家間の
が絶えず増大するようになる。
第5章 賃 銀 法 則
353
競争は、各企業家を駆って内心から生産物をできるだけ廉く、言いかえれば人間労働をできるだけ節
約して生産するようにさせる。そして或る資本家が自分の工場に改良された新方法を取り入れたとす
れば、矢張り競争のために、同一部門の他のすべての企業家も、商品市場から駆逐されないために技
術を改良せざるを得なくなる。毛工業経営の代わりに機械経営が一般に実施され、古い機械の代わり
に改良された新機械が絶えず急速に採用されつつあるのは、かかる事情の明日な現れである。かくて
あらゆる生産領域における技術上の発明が日常のこととなった。されば本来の生産の方面たると交通
機関におけるとを問わず、全産業の技術的変革は、資本家的商品生産の不断の現象であり、その生活
法則である。そして労働生産性におけるあらゆる進歩は、労働者の生活維持に必要な労働量の減少と
なって現れる。言いかえれば、資本家的生産は、社会的生産物に対する労働者の分け前を減少するこ
となしには進歩することはできないのである。技術に新発明が行われる毎に、機械に改良が行われる
毎に、生産および交通に蒸気や電気が新たに応用される毎に、生産物に対する労働者の分け前が益々
小さくなり、資本家の分け前が益々大きくなる。かくて相対賃銀は常住不断に低下してゆき、剰余価
値、即ち資本家が支払わないで労働者から搾取した富は、同じく常住不断に増大してゆく。
吾々は矢張りここにも資本家的商品生産と、以前のすべての経済形態との著しい差異を見る。原始
共産主義社会においては、吾々の知る如く生産物は生産後にすべての労働民、即ち社会の全成員――
というのは、当時労働しない人間は存在していなかったと言って差支えないのだから――の間に均等
354
に分配されていた。農奴制度の下においては、基準となっているものは平等ではなく、労働民に対す
る非労働民の搾取であった。しかしそこでは、労働の成果に対する労働民即ち徭役農民の分け前が一
定しているのでなく、逆に搾取者即ち徭役地主の分け前が、農民から受取るべき一定の徭役および貢
税として、始めから確定しているのである。その後に残った労働時間や生産物は農民の持分なのだか
ら、農奴制が極度に悪化しない以前の普通の事情の下にあっては、農民は労働力を緊張することによ
って或る範囲までは自分の持分を増大し得る可能性があった。尤も中世の進むにつれて貴族と僧侶が
ちゅうきゅう
貢税や徭役に対する要求を次第に増したので、農民のこの分け前は段々少なくなっては行ったが、そ
れにしても生産物に対する徭役農民の分け前と、その封建的 誅 求 者の分け前とを決定するものは、
たとえ勝手に定められたにもせよ、つねに一定せる規範であり、人非人にもせよとにかく人間によっ
さんしょく
て規定された明白な規範である。それ故に中世の徭役農民や奴隷は、以前よりも大きな負担を課せら
れて自分等の分け前を蚕食される場合は、それを正確に手にとるように感じたのである。従ってこの
分け前の縮少に対する闘争の可能性があり、そしてまた事実上、この闘争は少しでも可能の場合には、
自己の労働生産物に対する分け前の縮少に対する、被搾取農民の公然の闘争となって現れる。そして
またこの闘争は或る一定の条件の下においては成功の栄冠を以て飾られもする。――都市の町人階級
が自由を獲得したのは、初め隷属的だった手工業者が、種々様々な徭役、納貢、借地権、その他幾千
となき封建時代の吸血手段を次第に一つずつ払いのけて、最後に残ったもの――政治的権利――を公
第5章 賃 銀 法 則
355
然の闘争によって奪い取ったからに外ならぬ。
然るに賃金制度にあっては、自己の生産物に対する労働者の分け前に関して、何等法律の規定もな
ければ習慣法による規定もなく、専断的な勝手気ままな規定すらも存在していない。この分け前はそ
の時々の労働生産性の程度によって、技術の状態によって決定されるのであって、搾取者の専断によ
ってでなく技術の進歩によって、労働者の分け前が絶えず容赦なく引下げられているのである。故に
労働者からその生産物に対する分け前を益々多く奪って、残る部分を益々少なくするものは、全く眼
に見えない力、自由競争および商品生産の単なる機械的な作用であって、この力は静かに気附かれず
に労働者の背後で作用を行うものであるから、従ってそれに対して闘争することは全く不可能である。
これが絶対賃銀即ち実質的生活標準の場合なら、搾取者の個人的役割をまだ明瞭に見ることができる。
労働者の実質的生活標準の低下を誘致する賃銀引下げは、労働者に対する資本家の明白な謀殺であっ
て、労働組合が勢力を張っているところでは、労働者は常則として直ちにこれに応戦し、有利な場合
にはそれを防止することもできる。これに反して相対賃銀の低落は、明らかに資本家が少しも個人的
に参与することなしに起り、これに対しては労働者は賃銀制度の圏内においては、即ち商品生産の基
礎の上においては闘争や防禦の可能性がないのである。生産の技術的進歩に対しては、即ち発明や機
械の採用や、蒸気および電力や、交通機関の改良などに対しては、労働者は何等闘争することができ
ない。労働者の相対賃金に影響するすべてこれらの技術的進歩の作用は、全く機械的に商品生産と労
356
働力の商品性とから生ずるものである。従って如何なる有力な労働組合も、この相対賃銀の急激な低
落の傾向に対しては全然無力である。従ってまたこの相対賃銀の低落に対する闘争は労働力の商品性
に対する闘争、言いかえれば資本家的生産全体に対する闘争をも意味する。故に相対賃銀の低落に対
する闘争は、もはや商品経済を基礎としての闘争ではなく、商品経済の存立に対する ×××攻i撃で
あって、即ちそれはプロレタリアートの社会主義運動である。
資本階級が今まで労働組合に対してあれほど猛烈に戦って来ながら、ひとたび社会主義的闘争が始
まった後は、そして労働組合が社会主義に対立している間は、この同じ労働組合に対して好意を持ち
出すのはこの故である。フランスでは労働者の団結権獲得のための闘争は、一八七〇年代に至るまで
はすべて無駄であった。そして労働組合は苛酷な刑罰を以て迫害されていた。然るにコンミュン暴動
が全ブルジョアジーを赤き怪物の前に戦慄せしめて以来、間もなく輿論に急激な大変化が始まった。
】大統領の機関紙『レピュブリク・フランセーズ』や、
「飽満
ガンベッタ 【 Léon Michel Gambetta, 1838-82
せる共和主義者」の支配党は、労働組合運動を庇護し始めたばかりでなく、熱心にこれを宣伝さえも
するようになった。十九世紀の初めには倹約なドイツ労働者が、イギリス労働者に対して模範として
示されていたのに、今日では反対にイギリス労働者が、しかも検約どころか「貪欲な」ビフテキ喰ら
357
i
いの組合主義者が、模範児童として推奨され、これに見習うように説かれている。ブルジョアジーに
第5章 賃 銀 法 則
「革命的で、それを転覆させる」という意の語が入るようだ。
i
とっては、労働者の絶対賃銀の引上げのための如何なる激烈な闘争と雖も、神聖犯すべからざるもの
に対する攻撃――相対賃銀を間断なく低下させる資本主義の機械的法則に対する攻撃に比しては、無
害な瑣事と見えたのは如何にも尤もなことであった。
六
賃銀関係に関する上述のすべての結果を総括するときに初めて吾々は、労働者の物質的生活状態を
決定するところの資本主義賃銀法則を如実に観念することができる。故にその場合は何よりもまず絶
対賃銀と相対賃銀とを区別すべきである。そしてまた絶対賃銀は二重の姿をとって現れる。第一に、
或る貨幣額として、即ち名目賃銀として現れ、第二に、労働者がこの貨幣を以て獲得し得る生活資料
の総量として、即ち実質賃銀として現れる。労働者の貨幣賃銀がもとのままであり、或は高上して
も、生活標準即ち実質賃銀が低下することがあり得る。さて実質賃銀は絶えず絶対的最低限度、生理
的な生活最低限度に低下する傾向をもっている。言いかえれば、資本が労働力に対して絶えずその価
値以下に支払おうとする傾向が存在している。資本のこの傾向に対しては、労働者の組織によって初
めて均勢がつくられる。労働組合の主要職分は、労働者の欲求を高めることによって、生理的生活最
低限の代わりにこれを人倫的に向上させることによって、初めて労働者の一定の文化的生活標準をつ
くり出し、そしてそれ以下に賃銀が低下すれば直ちに団結の闘争を起こし、これを防衛することにあ
358
る。同じく社会主義党の大なる経済的意義も、広汎なる労働大衆を精神的および政治的に覚醒させる
ことによってその文化的水準を高め、またそれに依って労働大衆の経済的欲求を高めることにある。
たとえば新聞の予約、小冊子の購読等が労働者の生活慣習となることによって、精密にそれに応じて
労働者の経済的生活標準が向上し、その結果賃銀も高まるのである。この点における社会主義党の作
用は――或る一国の労働組合が社会主義党と公然の同盟をつづけている限りは――二重の効果を有し
ている。けだし社会主義党に対する敵対はブルジョア諸層を駆って競争的組合を創立せしめ、この組
合はまた組合で、プロレタリアートの更らに広い範囲に対して組織の教育的作用を及ぼし、その文化
水準を高めるものだからである。かくてドイツにおいては社会民主党と提携している自由労働組合の
外に、無数のキリスト教的、カトリック教的、自由主義的労働団体が活動しているのを見る。同じく
革 命 的
フランスでは社会主義組合を征服するために謂わゆる黄色労働組合が設立され、またロシアでは、現
今の×××大衆罷業の勃発は「黄色」御用労働組合から始まったのである。これに反して労働組合が
社会主義と遠ざかっているイギリスでは、ブルジョアジーはプロレタリア諸層の中に団結思想を入れ
ようと は し て い な い 。
故に労働組合は近世賃銀制度の下に欠くべからざる有機的役割をつとめている。即ち商品としての
労働力は、労働組合の力によってその価値で売られるようになる。資本家的商品法則は労働力に関し
ては、ラサールが誤って考えていたように労働組合によって廃止されるものではなく、却って労働組
第5章 賃 銀 法 則
359
合によってこの法則が実現されるものである。資本家は組織的に投売価格で労働力を買おうと努めて
いるが、この価格は組合活動のおかげで多かれ少なかれ実質価格に高められる。
とはいえ労働組合はこういう職分を、資本家的生産の機械的法則の圧迫の下に行っているのである。
即ち第一に失業労働者の常設予備軍の圧迫の下に、第二に好景気不景気の不断の変動の圧迫の下に。
この二つの法則が労働組合の作用を、越ゆべからざる限界内に押し込めている。産業景気の間断なき
変動は、労働組合をして景気の沈退する毎に資本の新たなる攻撃に対して既得権を防衛させ、景気の
よくなる毎に闘争によって初めて、低下せる賃銀状態を有利な状勢に相応する水準まで再び高上させ
る。かくて労働組合は常に守勢をとらざるを得なくなる。然るにまた失業者の産業予備軍は、労働組
合の作用を謂わば空間的に制限している。即ち組織とその影響とが及ぶ範囲は、失業が周期的にのみ、
マルクスの表現でいえば「流れ去るように」【流動的】のみ起こるところの、比較的よい地位にある工
業労働者の上層に限られている。これに反して、絶えず田舎から都市へ流れ込んでくる無知の農業プ
ロレタリア、並びに煉瓦製造や土木労働の如きすべての半田舎的な不規則的職業にある下層のものは、
そういう種類の仕事の空間的および時間的条件や社会的環境から考えただけでも、すでに組合組織に
は著しく不適当である。最後に、予備軍中の更らに下層の広汎なる部分――即ち不規則な仕事や家内
工業を職とする失業者や、更らに臨時にしか雇われない貧民などは、全然組織から引き離されている。
概説すれば、プロレタリアの一つの層における困窮と圧迫が大きければ大きいほど、労働組合の影響
360
の可能性は少なくなる。故に労働組合の活動はプロレタリアートの深さに対しては極めて力弱いが、
か
これに反して広さに対しては力強い。即ち労働組合はプロレタリアートの最上層の一部を包含するに
すぎないにしても、労働組合の贏ち得た条件は、それに該当する職業に従事している労働者の全大衆
に利益を与えるのだから、組合の影響はこの最上層の全体に及ぶのである。従って労働組合の活動は、
工業労働者中の組織能力ある上層前衛を貧困から引上げ、糾合し、結成することによって、プロレタ
リア大衆の内部にますます著しい分化をひき起すのである。これによって労働階級の上層と下層との
懸隔がますます大きくなる。そしてこの懸隔は如何なる国もイギリスにおけるほど大きくはない。け
だしイギリスでは社会主義の補充的な文化作用は、組織能力の少ない下層の方には及んでいないので
あって、たとえばドイツでこの作用がこの方面に力強く行われているのとは事情を異にしているので
ある。
資本主義賃銀関係を述べる場合には、就業している工業労働者の事実上に支払われている賃銀だけ
を考慮するのは全然間違っている。尤もそういう考え方は、大多数の場合に労働者自身の間において
も、ブルジョアジーやその御用学者から、考えなしに受けついで習慣となっているものではあるが。
一時的に職を離れている熟練労働者から、どん底の貧民や官認被救恤民にいたるまで、失業者の予備
軍全体が賃銀関係の決定に、同じ権利を有する要因として参与している。極く僅かしか、或は全然、
就業していない窮民および落伍者の最下層群は、ブルジョアジーが独り合点で考えているように「公
第5章 賃 銀 法 則
361
けの社会」の中に算入されない廃物ではなく、予備軍中のすべての成員の媒介を通じて、最もよい境
遇にある工業労働者の最上層と内部的な生ける紐帯で結ばれているのである。こういう内部的聯絡が
存在していることは、事業不振の時には予備軍の下層がその都度急激に増大し、好景気の時には縮少
すること、更らに階級闘争の発展につれて、またそれに伴うプロレタリア大衆の間における自覚の向
上につれて、公けの救恤を求める者の数が相対的に減少しつつあることによって、数字的に示されて
いる。そして最後に、工業労働者のうちで労働中に不具になったり、或は不運にも六十歳の老人とな
ってしまった者は、百の場合五十までは極貧の下層に、即ちプロレタリア中の「苦悩者の層」に沈ん
でゆく。このようにプロレタリアートの最下層の生活状態は、資本主義生産の同じ法則によって動か
され、自由自在にされているのである。かくてプロレタリアートは農村労働者の広汎なる層と、並び
にプロレタリア失業者軍や最高より最低に至るすべての層とを併せて初めて、有機的な全一体、一つ
の社会的階級を形成するのであって、全体としての資本主義賃銀法則は実にこの社会的階級の貧困お
よび窮迫の種々様々の度合いに鑑みて初めて正しく理解され得るのである。最後にしかしながら、絶
対賃銀の変動のみを知っているのは、単に賃銀法則の半分だけを掴んだことを意味するにすぎぬ。労
働生産性の進歩に伴う相対賃銀の機械的低落の法則を理解した時に、初めて資本主義賃銀法則の本統
平均的に労働者の賃銀は、必要な生活資料の最低限に落付く傾向を有しているという観察は、すで
の効力範囲を完全に知ったことになるのである。
362
に十八世紀において、フランスおよびイギリスのブルジョア経済学創始者によって行われていた。し
かし彼等は賃銀最低限度を決定するところの機構に、一種独特な説明を与えた。即ちこれを説明する
に求職労働力の供給の変動を以てしたのである。曰く、労働者が生存に絶対必要以上の賃銀を得ると
きは、労働者の結婚数が多くなり、沢山の子供が生まれてくる。その結果はまた労働市場が溢れて、
資本家の需要を遥かに超えるようになる。そうなれば資本は労働者間の激しい競争を利用して、賃銀
を著しく引下げる。これに反して賃銀が必要な生活維持に足りないときは、労働者は無数に斃れ、そ
の隊伍は段々減って、資本が使用し得るだけの人数が残るだけになり、その結果は賃銀は再び騰貴し
てくる。このように、労働階級における過度の増殖と過度の死亡との間を往来しているこの振子運動
によって、賃銀は絶えず生活資料の最低限度に引き戻されると。この学説は一八五〇年代に入るまで
経済学を風靡していたものであって、ラサールもこの説を採用してこれを「無慈悲な鉄則」と呼んだ
……
この学説の弱点は、資本主義生産が充分に発達している今日にあっては、掌を指すが如く明白であ
る。大産業は事業の熱病的発展があり競争がある今日、まず労働者が生活の余裕を得て結婚数が多く
なり、多くの子供を生み、それからこの子供が大きくなって労働市場に現れてくるようになり、そこ
で資本家の希望しているように市場の過剰を惹起して賃銀が低下するようになるまで、悠長に待って
いるわけには行かぬ。賃銀の変動は産業の脈膊 【脈搏】に応ずるもので、一と振りに一代即ち二十五
第5章 賃 銀 法 則
363
年もかかるような、悠々たる振子運動をしているのでなく、賃銀は間断なく活溌な運動をつづけてい
るのであって、労働階級がその増殖で以て賃銀の高さを定めることもできなければ、産業がその需要
で以て労働者の繁殖を待つこともできないのである。第二に、産業労働市場は一般に労働者の自然的
増殖によってその大きさを決定されるのでなく、新しいプロレタリア諸層が田舎から、手工業や小工
業から、並びに労働者自身の妻子の中から絶えず流れ出てくることによって決定される。労働市場の
横溢こそは予備軍の形をとって現れるところの、近代産業の不断の現象であり生活条件である。それ
0 0
故に賃銀の高さを決定するものは、労働力の供給の変化、即ち労働階級の運動ではなく、資本の需要
の変化、即ち資本の運動である。労働力は過剰に存する商品として絶えず棚晒しになっているのであ
って、資本が好景気の際に労働力を多量に吸収するか、或は恐慌の二日酔で多量に吐き出すかに従っ
て、売れ方がよくなったり悪くなったりするのである。
されば賃銀法則の機構は、ブルジョア経済学やラサールが考えているのとは全然別なものである。
ところがその結果は、即ち実際上にそこから生ずる成態は、この旧来の学説による場合よりも一層困
ったものである。資本主義賃銀法則は「鉄則」ではなく「伸縮的」法則であるために一層無慈悲な、
もが
一層怖るべきものである。けだしこの法則は、失業者の広汎なる層全体に、脆弱な伸び縮みのする苦
悩の縄を捲きつけて、彼等を生死の間に踠かせることによって、同時に就業労働者の賃銀を生活資料
の最低限度に引き下げるからである。
364
煽情的な革命的性質をもった「賃銀鉄則」を樹立することは、ブルジョア経済学の初期、少年期に
アヂテーション
おいてのみ可能であった。ラサールがこの法則をドイツにおいて 煽 動 の枢軸たらしめた瞬間から、
ば り ざんぼう
ブルジョアジーのお雇い経済学者どもは賃銀鉄則を否認し、それを間違ったもの、誤った学説と説い
て罵詈讒謗するにつとめた。ファウヒェル 【 Julius Faucher, 1820-78
】
、シュルツェ・デーリッチ、マックス・
】のような、工場主から金を貰っている凡俗代理人の犬どもは、ラサー
ウィルト 【 Max Wirth, 1822-1900
ルと賃銀鉄則とに対して十字軍を起し、かくて無分別にも自分等の祖先のアダム・スミスやリカード
その他のブルジョア経済学の偉大な創始者を辱めた。だが一八六七年にマルクスが、産業常備軍に影
響せられる資本主義の伸縮的賃銀法則を闡明し立証して以来、遂にブルジョア経済学者は鳴りを鎮め
るに至った。今日ではブルジョアジーの官認大学教授式学問は、一般に賃銀法則というものを有せず、
両倒な題目を回避して失業の不幸や穏健なる労働組合の効用について、まとまりのつかぬ空談を講義
してい る の で あ る 。
経済学の他の根本問題、即ち資本家の利潤は如何にして形成され、どこから来るかという問題に関
しても、これと同一の光景を呈する。社会の富に対する労働者の分け前の場合と同じく、資本家の分
け前についても、最初の科学的解答を、すでに十八世紀に経済学の創始者が与えている。この学説に
最も明白な形態を与えたのはダビッド・リカードであって、彼は鋭く且つ論理的に、資本家の利潤を
プロレタリアートの不払労働であると説明したのである。
第5章 賃 銀 法 則
365
七
吾々は賃銀法則を観察するに当って、労働力なる商品の売買より始めた。しかしそれには生産手段
を有せざる賃銀労働者と、生産手段を有し、しかも近代的企業を始めるに充分な嵩だけ所有している
資本家とが必要である。彼等は何所から商品市場へ来たのだろうか? 吾々は今までの説明では、商
品生産者のみを眼界に置いてきた。言いかえれば、自分で生産手段を有し、自分で商品を生産してそ
れを交換する人々のみを考慮に入れていた。同じ価値の商品が交換される場合に、如何にして一方に
資本、他方に完全な無資産が発生し得るのであろうか? 吾々はいま労働力なる商品をたとえ充分に
価値通りに買っても、この商品を使用する場合に、不払労働または剰余価値の形成、即ち資本の形成
を誘致するものであることを知った。資本の形成と不平等の形成とは、なるほど賃銀労働とその作用
とを観察すれば明白にはなる。しかしながらそれには予め資本とプロレタリアとがすでに存在してい
なければならぬ! 故に問題は次の如くになる――何処から、また如何にして最初のプロレタリアと
資本家とが発生したか、如何にして単純商品生産から資本家的生産への最初の飛躍が行われたか? 別な言葉で言えば、如何にして中世小手工業から近代資本主義への推移が行われたか?
最初の近代プロレタリアートの発生に関しては、封建制度の瓦解の歴史が解答を与えてくれる。労
働する人間が賃銀労働者として市場に現れ得るには、その人間がすでに人身的自由を獲ていなければ
366
ならぬ。故に第一の条件は奴隷制度とギルドの強制とからの解放であった。しかしその人間はまたす
べての生産手段をも失ってしまっていることが必要であった。そしてこれは集団的「農民追放」によ
って遂行されたのである。即ちこれによって大地主貴族が、近世の初めに当って今日の土地財産をつ
くりあげたのであって、農民は数百年以来自分に属していた土地から幾千人となく無造作に追払われ、
共同農民地は地主地の中にぶち込まれた。たとえばイギリスの貴族は、中世における商業の拡張とフ
ランダースの羊毛製造業の隆盛とによって、羊毛工業のために羊を飼うことが儲かる商売だというこ
とが分った時にそうしたのであった。即ち耕地を牧羊場に変ずるために、農民は無造作に住家と農場
とから駆逐されたのである。この「農民追放」はイギリスでは十五世紀から十九世紀に入るまで続いた。
たとえば一八一四―二〇年にもサザーランド伯欝夫人の所有地では一万五千人の住民が追い出され、
その村は焼払われ、その耕地は牧地にされて、農民の代わりに十三万一千頭の羊が飼われた。ドイツ
では殊にプロシャの貴族が、野放しにされた農民から「自由」なプロレタリアを強力的に製造するに
当って、どんなことを行ったかということは、ウォルフの小冊子『シュレジアの十億万長者』【 Wilhelm
】を見ればその概略が分かる。生存するに道なく野放しにされた農
Wolff, 1809-64, "Die schlesische Milliarde"
民には、残るところは餓死する自由か、さもなければ、如何に自由な身とは言いながら、飢餓賃銀で
身を売る自由か、二つのうちの一つであった。
第5章 賃 銀 法 則
367
第六章 資本主義経済の諸傾向
一
一定の計画的な生産組織を伴ったすべての社会形態――原始共産社会、奴隷経済、中世徭役経済―
―が段々に崩壊して行った後に、如何にして商品生産が生じたかを吾々は知った。更らに吾々は、中
0
0
0
世期末に単純商品経済から、即ち都市手工業的生産から、如何にして今日の資本主義経済が全然機械
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
的に、即ち人間の意志および意識から離れて発生したかということを知った。当初に吾々は、如何に
して資本主義経済が可能であるかという問題を提出したのであった。これこそはまた科学としての経
済学の根本問題である。今やこの科学はこれに対して充分な解答を与えている。即ちこの科学は吾々
に次のことを立証する。資本主義経済は完全なる無計画性のために、またあらゆる意識的組織の欠如
のために、一見したところでは存立不可能の事物であり、解き難き謎のように見えるが、それにも拘
わらず全一体に結成していて存立し得るものである。しかもそれは次の方法によって存立し得るので
ある。 ― ―
商品交換と貨幣経済とによって。――資本主義経済はこれによって、すべでの個別的生産者並
びに地上の最も隔った地域を経済的に結びつけ、かくして全世界に分業を実行しているのである。
368
自由競争によって。――これは技術的進歩を保証し、同時に小生産者を絶えずプロレタリアに
変ずるものであり、これによって、売買される労働力が資本のところに集められるのである。
資本主義賃銀法則によって。――これは一面においては賃銀労働者がプロレタリアの身分から
決して向上しないように、そして資本の司令下にある労働から身を引かないように、機械的に配
慮するものであり、他面においては不払労働を益々多く資本に累積せしめ、それに伴って生産手
段の益々大なる集積と拡張とを可能ならしむるものである。
産業予備軍によって。――これは社会の欲求に応ずるように拡張し順応する能力を、資本主義
生産に賦与するものである。
利潤率の平均化によって。――これは一つの産業部門から他の産業部門へと移ってゆく資本の
間断なき運動を制約するものであり、かくして分業の平衡を調節するものである。そして最後に、
価格の変動と恐慌とによって。――これは一部分は日々に、一部分は周期的に、盲目的混沌的
生産と社会の欲求との間に或る均衡をもたらすものである。
資本主義経済はこういう具合にして、社会の意識的干与なしに全然自発的に発生した右の経済的諸
法則の機械的作用によって、存立しているのである。言いかえれば、個々の生産者間にあらゆる組織
的な経済的聯絡が欠けているにも拘わらず、また人々の経済的努力に全然計画が欠けているにも拘わ
らず、以上の如き方法によって、社会的生産と、並びにそれと消費との循環とが行われ、社会の大集
第6章 資本主義経済の諸傾向
369
団が労働に縛りつけられ、社会の欲求がどうにかこうにか充たされ、そしてすべての文化的進歩の基
礎たる経済的進歩、即ち人類労働の生産性の発展が保証されるようになり得るのである。
然るにこれらの事柄はあらゆる人間社会の存立の根本条件である。そして歴史的に成立せる経済形
態は、これらの条件を充分に果たす限りは存立し得るものであって、その限りはその経済形態は一個
の歴史的必然なのである。
しかしながら社会関係は決して固定不動の形態ではない。社会関係は時代の経過につれて幾多の変
化を示してきた、そして永久に変遷すべきものであって、取りも直さずこの変遷のうちにこそ人類文
化の進歩、発展が道をひらくものであることを吾々は知った。原始共産主義経済は幾千年の久しきに
亙って、人類社会を、半獣的な存在の発端から文化発展の高級段階に導き、言語および宗教の形成に
導き、牧畜と農耕とに導き、定住的生活様式と村落の形成とに導いたのだが、やがて原始共産主義も
次第に瓦解し、それに続いて古代奴隷制度の形成となり、これはまたこれで社会的生活に新たに大進
歩をもたらしたのだが、やがてまた古代世界の没落とともに終焉した。そして中欧におけるゲルマン
人の共産社会から、古代世界の遺跡の上に或る一つの新しい形態――徭役経済が生じ、その基礎の上
に中世封建制度が建てられた。
進化は再びその間断なき歩みをつづける。――中世の封建社会の胎内において、都市の中に全然新
たな経済形態、社会形態の萌芽が生じ、ギルド手工業、商品生産並びに規則正しい商業が発生して、
370
結局封建的徭役社会を瓦解させてしまった。かくて徭役社会は資本主義生産に席を誤り、資本主義生
産は世界貿易やアメリカ発見やインド航路の発見のおかげで、手工業的商品生産から生長した。
それでは資本主義生産様式はどうかといえば、これも当初から歴史的進歩の展望から見て、決して
不変永久のものではなく、矢張り従来のあらゆる社会的形態と同じく単なる過渡的段階であり、人類
文化発展の巨大なる階梯中の一段にすぎぬ。そして仔細に見れば事実上資本主義そのものの発展が、
0 0
資本主義自身を没落に導き、それを越えて進むものである。
0今0ま0では吾々は資本主義経済を可能ならしめる諸々の事情を研究したのだが、今や資本主義経済を
不可能ならしめる事情を知るべき時期に達した。それには資本支配そのものの内的法則の爾後の作用
を更らに引続いて研究すればよい。この内的法則こそは、進化の或る一定の高さに達すると、人類社
会の存立に欠くべからざる一切の根本条件に反抗するようになるものである。資本主義生産様式が従
来のすべての生産様式に比して、特に際立っている点は、機械的に全地球上にひろがろうとする、そ
して他のすべての旧来の社会秩序を駆逐しようとする内的努力を有しているという点である。原始共
産主義の時代には、歴史的研究がとどいている限りの全世界は、一様に共産主義経済に包まれていた。
しかしながら個々の共産体や種族の間には、全然関係が存していなかったか、またはただ近隣の共同
体の間にだけ微弱な関係が成り立っていたにすぎなかった。こういう共同体や種族は、各自独力に封
鎖的生活を営んでいたのであって、たとえば中世ゲルマンの共産体と南アメリカの古代ペルーの共産
第6章 資本主義経済の諸傾向
371
体とが殆んど同名で、前者は「マルク」、後者は「マルカ」と呼ばれていたというような驚くべき事
実を発見したとしても、この事情は単なる暗合でないとすれば、吾々にとって今日まではまだ解き明
0 0
されない謎である。また古代奴隷制度の普及時代にも、古代の個々の奴隷経済や奴隷国家の組織およ
び事情に多少の類似を見出すだけで、それらの間に経済生活の共通を発見することはできぬ。同様に
ギルド手工業およびその解放の歴史も、中世のイタリア、ドイツ、フランス、オランダ、イギリス等
の大多数の都市において、多少の一致を以て繰り返されたが、それも大抵はその都市の自分だけの歴
史であった。然るに資本主義生産はすべての国にひろがっていて、それらの国を経済的に同種類のも
のに形づくるばかりでなく、それらの国を結びつけてただ一つだけの大資本主義世界経済たらしめて
いるの で あ る 。
ヨーロッパの各産業国の内部において、資本主義生産は間断なく小工業的生産や手工業的生産や小
農的生産を駆逐している。そして同時にヨーロッパのすべての後進国や、アメリカ、アジア、アフリ
カ、オーストラリアのすべての国々を世界経済の中に引き入れている。これは二つの方法によって行
われる。即ち世界貿易によるものと植民地侵略によるものとである。この両者はすでに十五世紀初め
のアメリカ発見以来相伴って始まり、その後の数世紀中に拡がったのだが、殊に十九世紀に目ざまし
い飛躍を遂げてますます拡がりつつあるものである。両者――世界貿易と植民地侵略――は相伴って
次のような作用をしている。即ちこの両者が初めてヨーロッパの資本主義産業国を、旧文化形態、経
372
済形態の上に立っている他の諸大陸の幾多の社会形態と接触させる。――即ち農民的奴隷経済、封建
的徭役経済、そして特に原始共産主義経済と接触させる。そしてこれらの経済は商業の中に引き込ま
れて急激に破壊され撹乱される。植民地貿易会社を他国の土地に設立することによって、または直接
に他国を占領することによって、生産の最も重要なる基礎たる土地と、それからそういうものがあれ
そうめつ
ば家畜群とが、ヨーロッパの国家または貿易会社の手に帰してしまう。かくして土着民の自生的社会
関係と経済様式とがいたるところに絶滅され、全民族が一部は剿滅され、残りの部分はプロレタリア
化されて、或は奴隷の形で、或は賃銀労働者の形で商工業資本の司令の下に置かれる。十九世紀全体
を貫いている数十年間の植民戦争の歴史――アフリカにおけるフランスやイタリアやイギリスやドイ
ツに対する暴動、アジアにおけるフランスやイギリスやオランダや合衆国に対する暴動、アメリカに
おけるスペインやフランスに対する暴動――これこそは土着の社会が近代資本によって剿滅されプロ
レタリア化されることに対する、長期の且つ頑強なる抵抗であって、この闘争において資本は結局い
たるところに勝利者となって現れたのである。
このことは第一番に、資本の支配圏の大拡張、世界市場および世界経済の形成を意味するものであ
って、この世界経済内においては、地球上の人の住む国はすべて互いに生産者であり、互いに生産物
の購買者であって、互いに手を携えて働き、地球を周る同じ一つの経済に参加するようになる。
しかしこれは他面においては、地球上に人類の貧困化の範囲が益々大きくなり、人類の生存の不安
第6章 資本主義経済の諸傾向
373
定が益々増すことである。生産力は局限され福利は貧弱だったが、万人に対して保証された鞏固な生
存条件を伴っていた往時の共産主義関係や農民経済関係、徭役関係の代わりに、資本主義的植民地関
係、プロレタリア化と賃銀奴隷制度とが入り込んできたために、アメリカ、アジア、アフリカ、オー
ストラリアのすべての植民地民族の間に、赤貧、不慣れの且つ堪え難き労働負担おまけに絶望的な生
存の不安が現れた。豊饒なるブラジルは、ヨーロッパおよび北アメリカの資本主義の欲求のために、
巨大な荒地と単調なコーヒー栽培地とに変化され、土人の全大衆がプロレタリア化してこの栽培地に
賃銀奴隷とされ、その後更らにこれらの賃銀奴隷は、或る純粋な資本主義的現象――謂わゆる「コー
ヒー恐慌」のために、突如として久しい期間に亙って失業とどん底の飢餓との餌食にされた。天富豊
かなる大国インドは、資本の支配に対する数十年に亙る絶望的抵抗の後、イギリス植民政策によって
征服され、爾来一度に数百万人を斃す飢餓と飢餓チブスとがガンヂス流域を周期的に見舞っている。
アフリカ内地ではイギリスおよびドイツの植民政策によって、過去二十年間にあらゆる民族全体が、
一部は賃銀奴隷に化せられ、一部は餓死せしめられてその骨をあらゆる地方に散らかされた。巨国支
那における絶望的暴動と飢餓疫病とはヨーロッパ資本の侵入によってこの国の旧来の農民的および手
工業的経済が粉砕された結果である。合衆国に対するヨーロッパ資本の侵入は、まずイギリス移民に
よる土着アメリカ・インディアンの剿滅と、その所有地の掠奪とを伴い、次いで十九世紀初頭イギリ
ス産業のための資本主義的原料生産の確立を、次いで数百万のアフリカ黒人の奴隷化を伴った。この
374
黒人は労働力として、綿花、甘蔗、煙草栽培地において資本の司令下に置くために、ヨーロッパの奴
隷貿易商によって、アメリカに売られたものである。
このように各大陸が次々に、また一大陸内では各地方が次々に、また各種族が次々に間断なく資本
の支配下に陥り、それに伴って絶えず新たに幾百万となき無数の人々がプロレタリアに、奴隷に、生
存の不安に、一言でいえば貧困に陥ってゆく。他方では資本主義世界経済の建設が、絶えず増大する
貧困と、堪え難き労働負担と、次第に増大する生存不安とを地球上に波及させ、それに伴って資本を
少数の手に累積させてゆく。かくて資本主義世界経済は、資本累積の目的のために全人類をして、無
数の窮乏と苦痛との下に、生理的および精神的退化の下に、苛酷なる労働に一生懸命にさせることを
意味することとなる。既に明らかにしたように資本主義生産様式は次の特徴を有している。即ち旧来
の各経済形態においては人間の消費が目的だったのが、資本主義経済様式にとっては、その本来の目
的――資本家利潤の累積――に役立つ単なる一手段にすぎないという事実である。資本の自己増大が
全生産の首尾であり、自己目的であり、意義であるように見える。しかしながらこういう事情が如何
に気狂じみたことであるかということは、資本主義生産が生長して世界的生産になるに至って初めて
明らかになる。ここに世界経済の土台の上に立って初めて資本主義経済の馬鹿々々しさは、人類が自
分で無意識に創造した盲目的な社会的権力、即ち資本に束縛されて、怖るべき苦悩の下に呻吟してい
る光景となって鮮やかに現れるのである。人間のための生産でなく利潤のための生産が地球全体の上
第6章 資本主義経済の諸傾向
375
に法則となり、人類の大多数の消費不足、消費の持続的不安定、一時的の直接無消費が常則となって、
ここに、労働を以てする社会の維持、社会の欲求の充足という、あらゆる社会的生産形態の根本目的
が、世界経済に至って初めて完全に転倒した姿を取るものである。
同時に世界経済の発展は、なお別の重大なる現象――しかも資本主義生産そのものにとって重大な
る現象を伴うものである。ヨーロッパ以外の諸国に対するヨーロッパの資本専制の侵入は、右に述べ
たように二つの階梯を通過する。即ち第一に商業が侵入して土着民を商品交換の中に引き入れ、なお
部分的には土着民の従来の生産形態を商品生産に転化させる。次いで土着民から何等かの形で土地を
収奪し、従ってまた生産手段を収奪する。この生産手段はヨーロッパ人の手中にあって資本に化し、
同時に土着民はプロレタリアに変化するのである。しかしながら常則として前の階梯につづいて、早
晩第三の階梯が現れてくる。即ち移住したヨーロッパ人によって行われるか、富を積んだ土着民によ
って行われるか、いずれにもせよ植民国に土着の資本主義生産が創立されるようになる。北アメリカ
合衆国は初め土着の銅色人種が長期に亙る戦争で剿滅されて、イギリス人その他のヨーロッパ移民が
定住したのだが、最初のうちは資本主義ヨーロッパの農業後援国をなしていて、綿花や穀物等の原料
をイギリス産業に供給し、それと引きかえにヨーロッパから種々の工業品を買っていた。然るに十九
世紀後半になって合衆国に土着工業が起り、ヨーロッパからの輸入を駆逐したのみならず、間もなく
当のヨーロッパやその他の大陸で、ヨーロッパ資本主義に対して激烈な競争を向けるようになった。
376
同じくインドでは土着繊維工業その他の工業において、イギリス資本主義に対して危険な競争が起っ
た。オーストラリアも同じく植民国から資本主義工業国への転化の道を辿っている。日本ではすでに
第一階梯において――世界商業の刺戟を受けて――自国工業が発達し、そのために日本はヨーロッパ
植民地として分割される危険を防止したのであった。支那ではヨーロッパ資本主義によって国を分割
され掠奪される過程は、この国が日本の助力により、ヨーロッパ資本主義を防禦するために自国の資
本主義生産を創設せんと努めているために複雑なものとなり、それによって国民もまた二重に複雑し
た苦痛 を 蒙 っ て い る 。
こういう具合に、世界市場の創立によって資本の専制と司令とが全世界に拡がっているばかりでな
く、次第に資本主義生産様式も全地球上に普及しつつある。しかしながらそれに伴って、生産の拡張
要求とその拡張範囲即ち販売可能性とが、互いにますます込み入った関係を取ってくる。すでに説い
たように、資本主義生産は安定をつづけることが不可能であって、次第に広く、しかも次第に急激に
自己を拡張することを余儀なくされている。言いかえれば、益々勝れた技術的手段を以て、益々大き
な経営において、益々巨量の商品を益々急速に生産することを余儀なくされる。これが資本主義生産
の最深の欲求であり生存法則である。資本主義生産のこの拡張可能性はそれ自体としては何等限界を
知らぬ。けだし技術的進歩と従ってまた世界の生産力とに、何等限界がないからである。しかしなが
らこの拡張要求は或る明確な障壁に突き当る。即ち資本の利潤関係にぶつかるのである。生産および
第6章 資本主義経済の諸傾向
377
その拡張は、その際に少なくとも「普通」の平均利潤が現れてくる間だけ意味がある。しかしその場
合がこれに相当する場合であるか否かは、市場次第である。言いかえれば、消費者側の支払能力ある
需要と、生産された商品の量並びにその価格との関係によって定まるものである。然るに資本の利潤
関係は、一面において生産を益々急激に益々増大することを要求するものであるから、従ってこの利
潤関係そのものが、生産の狂暴なる拡張慾を抑止するところの市場限界を、一歩毎に自らつくり出し
てゆくわけである。そこからすでに説いたように商工業恐慌が不可避的に生ずるのであって、即ちこ
の恐慌はそれ自身無拘束無制限の資本主義的生産慾と、資本主義的消費限界との関係を周期的に平衡
ならしめて、資本の存続とヨリ一層の発展とを可能ならしめるのである。
しかしながら諸国にその国自身の資本主義工業が発達すればするほど、一方では生産の拡張要求と
拡張可能性とが益々大きくなり、他方ではそれに比較して市場限界的拡張可能性がそれだけ少なくな
ってくる。イギリスがまだ世界市場における支配的資本主義国だった時代、即ち六〇年代と七〇年代
とにイギリス工業が行った飛躍と、ドイツおよび合衆国が世界市場においてイギリスを著しく圧迫し
出して以来、即ち最近二十年間における、イギリス工業の膨脹とを比較すれば、この膨脹は前者に比
して遥かに緩慢だったことが分かる。ところがイギリス工業自身の運命だったものに、ドイツの工業
も、合衆国の工業も、そして結局は世界の工業全体も、絶えず不可避的に当面しているのである。資
本主義生産は発展する毎に、その拡張と発展とが益々緩慢と益々困難となる時代に、否応なしに一歩
378
一歩近 付 い て ゆ く 。
なるほど資本主義発展そのものはまだ大きな前途を有していて、資本主産生産様式はそれ自身とし
てはまだ地球上の総生産中のホンの僅かな一小部分を占めているだけには違いない。それにまたヨー
ロッパの最も古い工業国にさえも、まだまだ大工業経営と並んで旧式の小手工業的経営が夥しく存続
しており、とりわけ農業生産の最大部分は即ち小農民的経営であって、資本主義的に経営されてはい
ない。それに加えてヨーロッパには、大工業が殆んど発達していないで、その国の生産が主として農
民的および手工業的性質を帯びている幾多の国々がある。そして最後に、その他の大陸ではアメリカ
の北部を除いて、資本主義生産の場所は小さな地点に散在しているにすぎず、国土の広漠なる大部分
はまだ単純商品生産にも移っていないのである。それにも拘わらずヨーロッパにおいて自ら資本主義
的に生産していないこれらの社会層や国土の経済生活も、ヨーロッパ以外の国々の経済生活も、確か
に資本主義によって支配されている。たとえばヨーロッパの農民は、自分ではまだ最も原始的な矮小
土地経済を営んではいても、頭の先きから爪先きまで大資本主義経済に、世界市場に左右されている
のであって、資本主義大国家の商業や関税政策が農民をそういうものと接触させている。同じくどん
なに原始的なヨーロッパ外の国も、世界貿易並びに植民政策によって、ヨーロッパおよび北アメリカ
資本主義の支配下に置かれているのである。しかしそれにも拘わらず資本主義生産様式はそれ自身と
しては、すべての旧式の生産形態をどこからも駆逐するものとすれば、なおすばらしい拡張を遂げる
第6章 資本主義経済の諸傾向
379
ことができる筈である。また一般的には、すでに述べたように発展がそういう方向に進んでもいる。
しかしながら資本主義は、取りも直さずこういう発展に際して根本的矛盾に陥るのである。――即ち
資本主義生産が旧式の生産に取って代われば代わるほど、既存の資本主義経営の拡張要求に対して、
利潤関係がつくり出すところの市場限界はますます狭くなってゆくのである。資本主義の発展が非常
に進んだとして、地球上において人類の生産するものは、全部資本主義的にのみ生産されるようにな
った場合、言いかえれば近代的賃銀労働者を伴う大経営において、資本主義私的企業家によってのみ
生産されるようになったとした場合を、一寸でも想像して見るなら、右の事情は全く明白になる。即
ちその時に資本主義の存立不可能が明瞭に曝露されるのである。
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カタカナ表記変更一覧:
「アルゼリア」→「アルジェリア」、
「イェナ」→「イェーナ」、
「エヂプト」→「エ
ジプト」
、
「オウエン」→「オーエン」
、
「ブランキイ」→「ブランキー」
、
「テーリッチ」→「デーリッチ」、
「マ
ヌファクチュア」→「マニュファクチャー」
、
「フリエー」→「フーリエ」
、
「プルドーン」→「プルードン」、
日第1刷
10
(昭和
1952
年)第9刷
27
「プロシヤ」→「プロシャ」
、
「リカルド」→「リカード」、
「ヂレン」→「ギレン」、
「スヰス」→「スイス」、
「ケースト」→「カースト」
(昭和8)年2月
底本:
『経済学入門』岩波文庫、 1933
2015.5.12
作成者 : 石 井 彰 文
作成日 :
381