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視点
●デジタルな楽譜の風景
デジタルな楽 譜 の風 景
ゼノン・リミテッド・パートナーズ 神 崎 正 英
情報管理. 2016, vol. 59, no. 3, p. 189-192. doi: http://doi.org/10.1241/johokanri.59.189
ントの「>」であることを確認したそうだ。
シューベルトの場合
故岩城宏之氏の音楽エッセー『楽譜の風景』は,
実 は 同 書 で 取 り 上 げ ら れ た 楽 譜 は19世 紀 末 の
シューベルトの楽譜についての疑問で幕が開く1)。典
シューベルト全集を元にしたもの(旧全集版)で,
型的な例として挙げられているのは「未完成」交響曲
20世紀末に出た新しい楽譜(新全集版)では,問題
第1楽章の最後の部分。力強い結尾の和音を反復した
の箇所がアクセントに改められた。岩城氏の指摘通
あとで「フォルティシモをディミヌエンドして,寂し
りらしい。ではこの
「正しい」
楽譜に従って,
今後は
「未
く終わるようになっている。前々から不思議に思って
完成」の末尾をアクセントとして演奏するべきなの
いた」注1)のだという。
「未完成」の場合は次に静かな
だろうか。シューベルトが書いた図形がどのような
第2楽章に続くのでまだわかるにしても,他の曲,た
姿なのか,私たちは直接確認したわけではないのに。
とえば「ザ・グレート」交響曲の楽譜も,フォルティ
資料のデジタル化とウェブの普及,そして公共資
シモを20小節以上も続けて盛り上がるのに最後にディ
料の公開という流れのおかげで,自筆譜や作家の自
ミヌエンドが印刷されている。
筆原稿など(の画像)を,専門家でなくても見るこ
シューベルトはアクセント記号(>)を長く書く
とができるようになってきた。シューベルトの場合,
癖があったため,同じ「ヘアピン」型の記号である
ウィーン市立図書館,ベルリン国立図書館他が所蔵
ディミヌエンドとの区別が難しいといわれ注2),演奏
資料のデジタル画像をSCHUBERT onlineとして公開
家の間では比較的よく知られた問題だった。岩城氏
してくれている注4)。残念ながら「未完成」の自筆譜
はウィーン・フィルとの練習時にちょうど「『未完成』
は含まれていないが,楽譜の書き方の「癖」ならば,
のシューベルト自身の手書きのスコアの虫干しを,
他の曲であっても参考になるに違いない。
今日やっている」ということで自筆譜の実物を見る
機会に恵まれ注3),ヘアピン記号のほとんどはアクセ
同じシューベルトの「ミサ曲第5番」の冒頭部分に
ついて,自筆譜と出版譜を比べてみよう(図1)
。
上が自筆のオルガンパート譜, そして旧全集版スコア (中), 新全集版スコア (下) それぞれ
のバス/オルガンパート (位置をそろえるため少し切り貼りしている)
図1 シューベルト作曲 「ミサ曲第5番」 の冒頭
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JOHO KANRI
2016
vol.59 no.3
Journal of Information Processing and Management
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なるほど,自筆譜の「>」はアクセントと言うに
像とにらめっこしなくても個別のアクセントを吟味
はかなり長いものであることがわかる。新全集版は
できるようになる。作曲家ごとにヘアピン記号の用
これをことごとくアクセントとみなしたのだが,自
い方を比較分析するような,一種の計量音楽学も可
筆譜の姿にどちらが近いかというと,旧全集版の方
能になるだろう。
に軍配を上げる人がいても不思議ではない。さらに
あらかじめ定義された要素/属性によるマーク
最近出た別の版では,1つ目はアクセント,2つ目
アップだけでは扱いが難しい場合もある。たとえば
はディミヌエンドと読み分けが行われている。理論
スタカートを表す記号は,多くの作曲家が点と縦長
的な細部はさておき,同じ材料を扱ってもこのよう
のくさび形を使い分けているとされるが,長さや傾
に「読み」によって出版譜は違ったものとなる。ど
き具合はさまざまで必ずしも2種類というわけでは
れが「正しい」というよりも,それぞれの知見にも
なく注6),それをどう解釈するかは校訂者次第であっ
とづく「解釈」が提示されているのだ。
た。デジタル画像を用いた書誌学では,高解像度ス
キャン画像から切り出した活字画像をクラスタリン
資料のマークアップ
さて,楽譜は一つの解釈の提示なのだとすると,
グして,同じ文字の活字を何通りにも分類・分析す
るといった試みが行われているそうだ2)。手稿譜の演
誠実な奏者としてはシューベルトの考えを自分でも
奏記号についても,同様な分析には大きな可能性が
吟味したくなる。とはいえ「未完成」の自筆譜はデ
あるように思う。
ジタル画像が公開されていないし,公開されていた
デジタルな楽譜といえば,タブレット端末を譜面
としても全部を照らし合わせるのは大変な作業だ。
台に置き,PDF楽譜を使ってオーケストラが演奏する
新しい楽譜には校訂報告があるが,すべての記号に
デモンストレーションを見たことがある。譜めくり
ついて細かな説明が与えられるわけではない。
や書き込みなどの重要な点で紙の楽譜にはまだ遠く
テキスト批判においては,手稿のデジタル画像化だ
及ばないが,いずれマークアップ楽譜を利用したもっ
けでなく,テキストを巡るさまざまな情報を機械可読
と高度な電子楽譜ツールが登場するだろう。「今回の
な形で記録するマークアップが進んでいる。TEI(Text
d u rパラメータは4で」といえば一定範囲の記号がア
Encoding Initiative)が代表的なマークアップ標準だ
クセントからディミヌエンドに変更される,そんな
が,T E Iの流れをくんで楽譜のマークアップ用に提唱
可変楽譜だって出てくるに違いない。
されているのがMEI
(Music Encoding Initiative)
だ注5)。
これを用いると,たとえば図1の3小節目の「>」を
写譜屋の勘違い
『楽譜の風景』は続けてベートーベンの第九交響曲
<hairpin form="dim" tstamp="1" dur="4"/>
を取り上げ,第4楽章で合唱が「vor Gott」と歌うフォ
そ じょう
ルティシモのフェルマータ注7)を俎上にのせる。ベー
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として,《1拍目から(tstamp属性)4分音符分の長さ
トーベンの場合もやはり19世紀の全集版に由来する
(d u r属性)を持つディミヌエンド型(f o r m属性)ヘ
楽譜が長く使われてきた。そこでは,第九の件 の箇
アピン記号(hairpin要素)である》と記述できる(ア
所はティンパニだけが小さな音にディミヌエンドす
クセントとは呼ばないことになるが,1拍で減衰する
るように書かれている。
くだん
速いディミヌエンドは,演奏上はアクセントに近い
元ティンパニ奏者だった岩城氏は,「ぼくはディミ
ともいえる)。もちろん属性値はマークアップ時の判
ヌエンドをやりながらいつも欲求不満だった」と語
断によって変動し得るし,記号の微妙な形まで含め
る。合唱も他の楽器もみな力の限りのフォルティシ
た完全な記述ができるわけでもない。それでも自筆
モを延ばしている中,1人だけ音を絞っていかねばな
譜の要素が符号化され定量化されれば,デジタル画
らないのだから,それは大層もどかしいだろう。
視点
●デジタルな楽譜の風景
疑問を解決すべく,岩城氏はベルリンの国立図書
筆譜とは違ってディミヌエンドが記入されていた。
館に行って作曲者の手書きスコアの写真版を見る。
校訂者がこれらの資料をどう評価するかで,出版さ
そこにはディミヌエンドのヘアピンが「ない。どう
れる楽譜はやはり異なったものとなる。
見ても,ない」。どうしたことだろうと考えた氏は,
このように作品の原点にさかのぼるための資料は
作曲者の手書き譜が汚いので,写譜屋が「勘違いし
複数あり得るわけだが,それらが1か所にまとまって
たのだろうとしか思えない」という結論に達する。
いるとは限らないし,すべてが公開されているわけ
第九の自筆譜はデジタル画像がウェブで公開され
でもない。公開されていてもアクセス方法やフォー
ているから,私たちもこの箇所を確認することがで
マットがそれぞれ異なったりする。また適切な理解
きる
(図2)。確かに,ディミヌエンドは見当たらない。
のためには資料についての情報(メタデータ)が欠
では最新の校訂楽譜はどうなっているだろう。あ
かせないけれども,その内容や形式もさまざまだ。
る出版社から1996年に出た版では,ディミヌエン
研究熱心な,しかし資料批判の専門家ではない演奏
ドがなくなった。一方,別の社から2005年に出た楽
者は,自筆譜画像だけを見て「作曲家が本来考えて
譜では,合唱はフォルティシモのままだが管弦楽は
いた姿」だと思うかもしれない。
(ティンパニだけでなく)すべての楽器がディミヌエ
シリングスバーグは,デジタル画像,転写テキス
ンドなのだ。自筆譜にはヘアピン記号が「どう見ても,
ト(マークアップ),文脈や間テキスト的な情報など
ない」にもかかわらず。
を網羅し,利用者による拡張もできるツールを備え
た「電子ナリッジサイト」の構想を描いている4)。現
メタデータ,そしてナリッジサイト
実には,それぞれの博物館や図書館が保有する資料
楽譜の校訂にあたっては,「作者は,実際に演奏さ
やデジタル画像そのものを1つのサイトに集めるのは
れた際の響きを聴いたうえで作品に手を入れること
難しいから,それらのメタデータおよび資料間の関
が多いので,オリジナルの自筆譜なるものを,本文
係情報を集約した「メタサイト」がナリッジサイト
確定の根拠として過大評価すべきではない」3)という
に近いものとして機能することになるだろう。ヨー
留意点がある。書物においても,作家がゲラ刷に手
ロピアナ注8)は欧州の150余りの博物館,図書館から
を加えて手稿とは異なったテキストが出版されるこ
5,000万点を超す資料のメタデータを収集して検索可
とは少なくないが,それと同様だ。第九の初演時に
能とする仕組みを構築しており,この方向の代表的
はベートーベンは耳が聞こえなくなっていたから「響
な先行事例といえる。
きを聴いたうえ」ではないものの,初演時のパート
今後の課題としては,
同じ「作品」に関する資料(の
譜や製版の元にするための筆写譜には,いずれも自
メタデータ)の連携=リンクが重要だ。一連の資料
の派生系列のような関係を示す必要もある。また各
館の所蔵資料を自ら「過大評価すべきではない」と
は言えないだろうから,集めたものについての第三
者による評価や説明(注釈)も大切になってくる。
校訂報告は一つの作品の出版楽譜に関する注釈集
だ。これをうまくマークアップして,資料ごとの記
述を抽出し,複数の校訂報告からのものを組み合わ
せれば,優れた資料注釈サイトができる。さらに原
資料の画像やメタデータにリンクして……という具
第 4 楽章の 329 ~ 330 小節目の部分で, ティンパニは下から 2 段目
図2 ベートーベン作曲 「交響曲第9番」 の自筆譜
合に育ってくれるといいのだが,そのためにはやは
り課金システムが必須だろうか。
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電子楽譜ツールがナリッジサイトにつながって,
演奏上の疑問があるとき各種資料の画像や注釈を即
座に呼び出せるようになるのは,そう遠い未来では
ないかもしれない。楽譜の風景もずいぶん変わるこ
とだろう。もっともそういう情報にアクセスしたか
神崎 正英(かんざき まさひで)
サントリー広報部時代に同社ウェブサイトの提案・構築を行ったこ
となどをきっかけに,文書構造表現/データモデルの設計や標準化の
れいめい き
方向に進み,黎明期セマンティック・ウェブのプロジェクトにかかわっ
てきた。慶應義塾大学文学部講師を兼務。休日コントラバス奏者とし
ての芸歴は三十数年。
らといって,それだけで良い演奏ができるわけでは
ないのだけれど。
本文の注
注1)
フォルティシモは「非常に強く」
,ディミヌエンドは「だんだん弱く」を意味する。楽譜には音符の他に,テンポ
や強弱,表情などの指示が言葉や記号で書き込まれており,言葉での指示には一般にイタリア語が用いられた。
フォルティシモは通常「f f」と記号で書かれ,ディミヌエンドも「>」を長く伸ばしたような「ヘアピン」型で
示されることがある。
デクレシェンドと言っても同じだが,
ここでは岩城氏に合わせてディミヌエンドで統一した。
注2)
アクセントは下図のように短い「>」を音符の上または下に書くもので,1つの音に強勢を置く。ディミヌエン
ドは長い「>」で,その記号の長さの時間をかけてだんだん弱くする。ということになっているのだが,当時の
演奏記号はまだ作曲家たちが試行錯誤していた状態。実はアクセントは音を急速に弱めることでもあり,シュー
ベルトは両者を同類と考えていた可能性もある。
アクセント
ディミヌエンド
注3)
ウィーン・フィルの本拠地であるウィーン楽友協会の資料室は,ゆかりの作曲家の自筆譜や演奏に使用した楽譜
などを所蔵しており,シューベルトの「未完成」自筆譜もその一つ。
注4)
SCHUBERT onlineの自筆譜のセクションは http://www.schubert-online.at/activpage/index.php?top=1&sub=1
注5)
Music Encoding Initiative (MEI) Guidelines:http://music-encoding.org/support/guidelines/
注6)
スタカートは分離するという意味のイタリア語で,音を一つひとつはっきり発音すること(短いという意味では
ない)。音楽の教科書などでは,点のスタカートとくさび形のスタカーティシモがあるとされる。しかし実際に
スタカート
スタカーティシモ
作曲家が楽譜を書くときには,急いで点をたくさん打っていくうちに少し長さのある点になったり斜め棒のよう
に見えたりすることは少なくない。その違いを見極めようと熱心に研究する学者もいれば,作曲家はそもそも点
とくさび形の使い分けすらしていないという意見もある。
スタカート スタカート
スタカーティシモ
スタカーティシモ
スタカート
スタカーティシモ
●
●
注7)
フェルマータは動きを止めるという意味のイタリア語で,音楽では(拍の刻みを止めて)その音を長く延ばすこ
と。ここはフォルティシモ(非常に強く)でGottを「ゴ―――――ット」と長――く保って歌う場面。指揮者に
よっては10秒近く延ばしていたりする。
フェルマータ
フェルマータ
注8)
Europeana Collections:http://www.europeana.eu/
参考文献
192
●
フェルマータ
フェルマータ
1)
岩城宏之. 楽譜の風景. 岩波書店, 1983, 209p.
2)
安形麻理. デジタル書物学事始め:グーテンベルク聖書とその周辺. 勉誠出版, 2010, 211p.
3)
松原良輔著; 明星聖子, 納富信留編. “歌劇の「正しい」姿?:ワーグナー《タンホイザー》”. テクストとは何か:編集
文献学入門. 慶應義塾大学出版会, 2015, p.157-177.
4)
シリングスバーグ, ピーター著; 明星聖子, 大久保譲, 神崎正英訳. “書記行為を再現するための電子的インフラストラ
クチャー”. グーテンベルクからグーグルへ:文学テキストのデジタル化と編集文献学. 慶應義塾大学出版会, 2009,
p.105-170.