NHK 人間講座 おもかげの国 うつろいの国 はじめに

NHK 人間講座 おもかげの国
うつろいの国
∼「日本の編集文化」を考える
NHK 人間講座
おもかげの国
松岡正剛
うつろいの国
∼「日本の編集文化」を考える∼
はじめに
松岡正剛
十年ほど前から、日本文化についての解読を依頼されることが頓に多くなりました。いまふりかえる
と、そのきっかけはバブルの崩壊後、日本人がなんとなく自信を失っていたことにつながっていたようで
す。地方の活動のリーダーや会社の経営者や、また子供に強い自信をもたせたい父兄から、日本の良さに
ついての話をしてほしいと頼まれることがふえたのです。そこにはたいてい、新たなデザインや伝統工芸
をつくりあげたいと思うクリエイターや職人さんや、また各種の家元や政治家や企業経営者も交じってい
ました。
しかし私は、このような機会があるたびごとに、日本の良さというのは必ずしも「強さ」や「一貫性」
にあるわけではないことをお話ししてきました。歴史のなかのどこかに強いナショナル・アイデンティテ
ィの軸の確立があったわけではなく、また数人の思想家や芸術家によって日本を代表するイデオロギーが
確立されていたわけではなく、むしろ、さまざまな矛盾や相克を組み合わせて乗り切ってきたところに日
本社会や日本文化の良さや面白さがあるのではないかということを、説明するようにしていました。また
このことを『花鳥風月の科学』
『日本流』
『日本数寄』
『山水思想』などに書いてきました。考えてみれば、
日本には天皇と将軍がいて、関白と執権がいて、仏教と神道と儒教と民間信仰が共存してきたのです。ま
た江戸後期にいたるまで、東国では貫高制の金の決済で水田優位社会・西国は石高制の銀の決済で畑作優
位社会だったのですし、東は「湯」
「いろり」
「ばか・りこう」
「オトトイ」で、西は「風呂」
「かまど」
「あ
ほ・かしこ」
「オトツイ」なのです。日本はその本来が多様なのです。多神多仏なのです。
こういう多様性はそのままでは混乱を招いたり、弱体になりすぎて他国の侵略を受けたり、どこかの
属国になりかねません。しかし実際には、日本は日本であることを保ってきたのです。むしろ「強がり」
を出しすぎて戦争を仕掛けて失敗したことのほうが、記憶にのこります。
では、このような多様性や複雑性が機能していたのはなぜだったのかということです。この人間講座
では、この謎の一端を私なりの見方によってかいつまんで説明したいと思います。
これからお話しすることは、私の話を初めて聞く方々にとってはやや意外なものかもしれません。日
本にはいくつもの独創的な「編集文化」があったということを伝えてみたいからです。そのことを「おも
かげ」と「うつろい」というキーワードを挟みながら案内したいと思います。
松岡正剛
京都生まれ。二十代のときに創刊したオブジェマガジン『遊』によって、芸術・思想・メデイア・デ
ザイン界などに多大な影響を与える。その後、独自の世界観にひそむ方法を編集工学として確立し、科学
から芸術まで多方面におよぶ領域の再編集に取り組む一方、日本文化の研究に斬新な視点を導入する。お
もな著書に『自然学曼陀羅』
『空海の夢』
『遊行の博物学』
『花鳥風月の科学』
『日本流』
『日本数寄』
『フラ
ジャイル』
『知の編集術』
『知の編集工学』
『外は良寛』など多数。
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∼「日本の編集文化」を考える
第1回
松岡正剛
古代日本人の観念と感覚
「情報」と「編集」
日本には和歌や俳句などの極度に短い詩歌のスタイルや、能や文人画や日本舞踊、あるいは禅庭や数
寄屋造りなどの、省略が効きすぎるほど効いた芸術芸能のスタイルがあります。その一方で、歌舞伎の荒
事や日光東照宮の装飾やお祭りの派手な山車のような、華麗で過剰な装飾もつくられてきました。いった
いどちらの日本が本当の日本か、などということはありません。両方とも日本です。それどころか、ここ
には共通の方法がひそんでいるともいえるのです。
そこで最初に話しておきたいことは、日本人が自然や文物や生活を通して、どのような方法で独特な
イメージやメッセージを掴もうとしたかということです。私はながらく編集工学という領域で、
「編集」と
いう方法についてあれこれのことを考えてきましたので、日本社会や日本文化の特色をピックアップする
についても、この「編集」という見方を適用したいと思います。
そのばあい、日本人が歴史のなかの日々で自然や文物や生活を通して感じたさまざまな印象や言葉が
表現されたものすべてを、ここではまとめて「情報」というふうに呼びたいと思います。とくに難しい意
味ではありません。時代・社会・人物・メディァなどの如何にかかわらず、そこで取り交わされた情報す
べてのことです。
たとえば各地の地名や神様の名前も、
『枕草子』や『花伝書』や『仮名手本忠臣蔵』が語っている内容
も、大和絵や水墨画や浮世絵が描いている内容も、それぞれが「情報」です。また、西行の歌や芭蕉の俳
句も萩原朔太郎の詩や、土器や建物や衣裳の様式や文様が見せている特徴なども、色の名前や和菓子の名
前やイメージも、さらには鎌倉幕府や江戸幕府の役職名も、
「十七条の憲法」や「五箇条の御誓文」などの
法律的な文書なども、みんな「情報」として扱おうということです。
いわば日本の歴史のなかで表現されてきたイメージとメッセージを、それぞれ「情報」と呼ぼうとい
うことです。これは歴史を因果関係ばかりで見がちになることから脱出するのにも、役立つ見方をつくり
ます。
もうひとつの「編集」という用語は、一般には新聞・雑誌・書籍・テレビ・映画などでよく使われて
いる用語ですが、私はその意味と用法をかなり拡張しています。なんらかの出来事や対象から情報を得た
ときに、その情報をうけとめる方法すべてのことを「編集」というふうに呼んでいる。だから、日記を書
くことも、俳句を詠むことも、筆で山水をスケッチすることも、幕府のシステムをつくって役職名をあて
がうことも、それぞれ「編集」なのです。
しかし、
「情報」にも事件の報道内容から個人の夢の中味のようにいろいろな情報があるのと同様、
「編
集」にも、時代によって、人によって、メディアやツールによって(たとえば、漢字だけで書くか、漢字仮
名交じりで書くか。屏風に描くか、版画に刷ってたくさん配るか。連歌にするか、発句だけにするか)、そ
の編集方法の特徴が変わります。その特徴を見きわめることが大事です。
ここでは、このような「情報」と「編集」という見方をとりながら、日本文化の様相を浮き出してみ
たいと思います。
「おもかげ」と「うつろい」
私は、日本がもつ格別な文化的な特徴をとらえて、それを使って、ときおり「おもかげの国」とか「う
つろいの国」と名付けてきました。国というのは国家というようなことではなくて、生い立ちの国とか原
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郷という意味です。
「あなたのクニはどちらですか」
「信州です」という、そのクニです。江戸時代までは
「風俗」という言葉も「国風」という言葉も、
「くにぶり」と読んでいたのですが、その「国」でもありま
す。
なぜ私がそのように呼ぶかというと、
「おもかげ」と「うつろい」が日本人の情報の取り出し方の特徴
になっているのではないかと考えているからです。しかもこの二つはつながっている。何がどのようにつ
ながっているかということは、あとで説明します。
「おもかげ」は漢字では「面影」あるいは「俤」と綴ります。とても美しい綴り文字です。
「おもかげ」
はイメージとも印象とも記憶像ともいえそうですが、そこに「おも」という言葉が使われていることに意
味があります。
「おも」は「主」とも「面」とも綴ります。その「おも」が動いている。今日でも「おもむく」「おも
むき」(赴く・趣き)という言葉が使われていますが、そこにも「おも」が動こうとするニュアンスが出て
います。
一方、
「うつろい」は「移ろい」と綴るのでだいたいの見当がつくでしょうが、移行・変化・変転など
を意味しています。しかし、ここにも「うつ」という言葉(語根)が使われていることに重要な意味がある
と思います。この「うつ」は「うつる」
「うつし」とも使って、漢字で綴れば「写る」とか「映る」という
ふうになり、
「うつろい」が単なる移行ではなく、そこに写し出すものや映し出されるものがともなってい
るということを暗示するのです。
なぜ「おも」や「うつ」という言葉が重要かということは、第 4 回目でやや詳しくお話ししますが、
それでは、この「おもかげ」と「うつろい」によって日本文化を見るということは、どういうことなので
しょうか。
いくつかの歌の話から入ってみます。
まず「おもかげ」についての歌。『万葉集』巻三に、「陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆとい
ふものを」という笠女郎の歌があります。大伴家持に贈った歌です。実際の陸奥の真野の草原はここから
遠いところだから見えないけれど、それが面影として見えてくるという歌です。もう少し深読みすると、
いや、遠ければ遠いほど、その面影が見えるのだとも解釈できます。
「面影にして見ゆ」という言い方にそ
うした強い意味あいがこもっています。
逆に、大伴家持が女性に贈った歌にも面影が出てきます。
「かくばかり面影にのみ思ほえばいかにかも
せむ人目しげくて」
。家持が坂上大嬢に贈っています。人目がいろいろあってなかなか会えないけれど、面
影ではいつも会っていますよという恋歌です。
また、紀貫之には、
「こし時と恋ひつつをれば夕ぐれの面影にのみ見え渡るかな」という歌があります。
いま来るぞもう来るぞと思っていれば、恋しい人が夕暮れの中に浮かんでくるという歌意でしょう。これ
もまるで、面影で見たほうが恋しい人がよく見えるといわんばかりです。
この三つの歌は、目の前にはない風景や人物が、あたかもそこにあるかのように浮かんで見えるとい
うことをあらわしています。
しかしこれは、突然に何かが幻想として出現したとか、イリュージョンとして空中に現出したという
ことではありません。その事やその人のことを、
「思えば見える」という、そういう面影です。
吉田兼好が『徒然草』に、
「名を聞くよりやがて面影は推しはからるる心地する」と書いて、名前を聞
くだけでもその人の顔や形が浮かぶものだと言っているように、どうやら面影というのは、何かをきっか
けに、とりわけ「思い」をもつことがきっかけになって浮かぶプロフィールです。プロフィールといって
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も人とはかぎりません。
それゆえこの面影は美しいこともあれば、苦しいこともある。たとえば『更級日記』の作者は、
「おも
かげにおぼえて悲しければ、月の興もおぼえず、くんじ臥しぬ」と、面影が見えることが悲しくて眠れな
い様子を綴っています。面影が辛いのです。
ところで、
「おもかげ」には「かげ」(影)という言葉がくっついています。なぜなのでしょうか。これ
もあとでお話ししますが、この「かげ」も日本文化が神々や聖なるものの出現をめぐって表現してきたと
ても大事なイメージでした。
次に「うつろい」の歌を見てみます。
「うつろい」は古語では「うつろひ」と表記します。
『万葉集』を引きますが、
「木の間よりうつろふ月のかげを惜しみ徘徊にさ夜ふけにけり」という作者
未詳の歌があります。はやくも「月のかげ」という「かげ」が出てきました。歌の意味は、木々の間から
洩れる月影を見ているうちに、小夜が更けたということです。ここで「うつろふ」と言っているのは、月
の居所が移っているということで、その移ろいに応じて自分の気分も移ろっているわけです。
ではもうひとつ、家持の歌。
「紅はうつろふものぞつるばみのなれにし衣になほしかめやも」
。
紅色というのは移ろいやすいものだけれど、橡(つるばみ)で染め出した地味な衣裳を着た私の妻は
どうだろうかというのです。ここでは「うつろい」は色の移ろいをあらわします。また似たような大伴坂
上郎女の歌では、
「思はじと言ひてしものをはねず色のうつろひやすき我が心かも」というふうにある。は
ねず色というのは、はねずという赤い木蓮のような花の色のこと、これで古代日本人は染めたのです。
このように「うつろい」は月影や色の変化の様子を示しています。ということは、どうも「うつろい」
は日本人が「かげ」や「いろ」の本質とみなしたものと関係があるようです。すなわち、一定しないもの、
ちょっと見落としているうちに変化してしまうもの、そういうものに対して「うつろい」という言葉が使
われている。
われわれもいまでもよく使いますが、
「世のうつろい」と言います。これは「無常」という見方とつな
がっている言い方で、
「常ではない」という意味です。
「いろは歌」は「わが世たれぞ常ならむ」とうたう。
「たれぞ」とは「そりゃあ、誰だって」という意味でしょう。誰にとってもこの世は常ならないほど変転
するものだ、移ろうものだという感想です。
すなわち「うつろい」は月にも色にも世にもあてはまっていて、ということは万事万象が移ろってい
ることを表現するための言葉だろうということになります。
日本人は、この「うつろい」に独自の情報を感じ、それを歌や絵に編集してきたのです。
ひとまず、
「おもかげ」と「うつろい」という言葉が使われている場面や感覚の歌を例示してみました。
これらの言葉が、対象がその現場から離れているとき、また対象がそこにじっとしていないで動き出
しているときに、あえて使われていることに気づかれたと思います。すなわち、
「ない」という状態と「あ
る」という状態とをつなげているようなのです。このような「おもかげ」や「うつろい」が日本文化の多
くの場面、たとえば能や俳諧に、また水墨山水や近代工芸に、また神仏習合思想や江戸の儒学や国学に、
さらには明治大正の詩や童謡などにどのようにあらわれているかは、これからおいおい説明していきます。
前段がやや長くなってしまいましたが、ではここから、第1回目の「古代日本人の観念と感覚」とい
う話題に入ります。
このあと私は一回ずつ、おおまかには時代を追いながらそれなりの話題を持ち出しますが、それはあ
くまで時代の例題や"お題"として持ち出すのであって、一番お話ししたいことは、それらを通した「日本
人の情報編集の方法」とはどういうものだったかということです。そしてそこに「おもかげ」や「うつろ
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い」がどのように生きてきたかということです。
万葉仮名の誕生
古代の日本人といっても、その範囲は石器時代から縄文人・弥生人をへて古墳時代や万葉人、さらに
は平安王朝までが入ります。が、ここでは万葉時代前後だけを話題にします。歴史学的には、この時期を
「日本人」というふうに呼ぶかどうかは少しあいまいで、まだ「倭人」という捉え方が続いていたとも思
えるのですが、とりあえず日本人という言い方にしておきます。
さて、この時期の日本人の観念と感覚には、ある大きな制限がありました。それは、日本語(倭語)を表
記すべき文字がまったく確定していなかったということです。そのため、すでに漢字は中国と朝鮮半島か
ら入っていたのですが、その漢字をどのように使うかということが、大きな問題となりました。
日本人は長らく文字のない生活をしていました。もっぱら口と耳によるオラル・コミュニケーション
に頼り、そのほかは文様や図標のようなものでコミュニケーションの補助をはかっていたのです。そこへ
漢字が入ってきて、その威力や呪能に驚くのですが、最初のうちは漢字は鏡の呪力のシンボルとか刀の威
力のシンボルに使っていただけでした。
やがて漢字を扱う渡来人たちのサポートによって、日本の宮廷の周辺や豪族たちの周辺で、それをど
のように扱うか、さまざまな議論が生まれます。選択肢がいくつかありました。
第一には、漢字を中国語としてまるごと受け入れるということです。しかしそうすると、発音も中国
語をそのまま使うことになる。これは縄文期以来使ってきた日本語(倭語)の発音をすっかり捨てて、母国
語を変えることにもなりかねない。それに中国語をマスターするといったって、容易ではありません。
第二には、日本語はそのままに、漢字は漢字としてそのまま外国語扱いして、今日の日本人が英語や
フランス語やロシア語をそのつど使っているように中国語を取り入れることです。けれども、これでは日
本の文字はまったく生まれません。また、これではもし中国語使いのほうがパワーをもつと、日本がまる
で中国の属国のようになってしまうかもしれません。それでも初期は、この方法を採って、知識人や役人
はなんとか中国語と漢字を使いながら日本語もチャンポンに喋るというような、そういうバイリンガル状
態にとりくんだと思われます。しかしそれは通訳や翻訳のレベルに終わります。
第三には、きわめて大胆なことですが、漢字を日本語読みしてみようという方法です。
「天」や「人」
には中国語読みがありますが、これをアマとかヒトというふうに読んだ。これはいまでいう訓読です。ま
た渡来人から中国語を発音してもらって、それを日本語ふうに読んで、テン、ジン・ニンなどと音読した。
こういう両面作戦です。いわば音訓バイリンガルで、しかもその発音はほとんど和音(倭音)に従うという
方法です。
いくつかの試行錯誤をへて、結局のところ、選択されたのは第三の方法でした。こうしてここに、い
わゆる「万葉仮名」が使われるようになりました。音仮名です。
「比登」とあればヒトと読み、
「波奈」と
あればハナと読み、そしてミヤコは「美夜古」と綴ったのです。
ともかく、すべて漢字で表記するのです。その漢字の読み方には訓読と音読の両方を用いる。語順や
言い回しはそれまでの倭語の用法に従ったままにする。このようなルール(しくみ)をだいたい決めて、万
葉仮名表記が生まれていったのでした。
これはたいへんに難解な、かつまた、複雑きわまりない方法でしたが、太安万侶が『古事記』の記述
に関する苦労を綴っているように、なんとかこの編集方法によって歴史書すら記述できるようになったわ
けです。
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すなわち、従来の日本人がオラル・コミュニケーションのなかで語りあい、聞きあってきた神話や説
話や歴史の話、あるいは歌い継がれ、語り継がれたさまざまな詩歌を、万葉仮名だけで表記して、それを
見た者はそこからかつての日本人が語り歌い継いできた言葉の世界を蘇らせようとしたのです。
私は、このような従来の口語文化を新たな漢字表記によって定着させようとしたこと、そのこと自体
が、このあとの日本文化の根本的表現に大きな基盤を与えたと考えているのです。
どんな時代のどんな民族の言葉も、おおざっぱにいうと、母音と子音からできています。そこでこん
なことを想定してほしいのです。
われわれは日本語を喋っているのですが、まったく文字をもっていないと仮定します。そこへ英語が
入ってきたとします。そこで英語を使っている人々からアルファベット文字と英語を教えてもらい、そこ
に AOEIU などという母音があって、それがそれぞれの子音と結びついていることを知ります。
そうすると、日本語はアイウエオという五つの母音と、それにつながるカ・サ・タ・ナ・ハ・マ・ヤ
行などの組み合わせでできているらしいことがわかってきます。では、これをどのように表記したらよい
か。おそらくは明治初期に提案されたヘボン(ヘップバーン)式の「ローマ字表記」のようなことを考えつ
いたことでしょう。でもそれは、たとえば SAME と綴ったからといって「同じ」という意味の英語ではな
く、
「サメ」という魚のことなのです。
これと似たようなことを、万葉時代前後の日本人は長い時間をかけて工夫したわけです。
しかしながら、対象となった文字はすべて漢字です。アルファベットが符号を含めても三十字そこい
らだったのにくらべ、漢字は一千字、一万字をこえている。それに対して日本語の発音は濁音を入れても
五十から八十くらい。そこでどうなるかというと、アメという発音には「天・雨・飴・編め」というよう
な複数の漢字が配当されるということになります。
加えて、中国語の発音がそもそも地域と時代によって漢音と呉音と唐音に分かれていましたから、そ
の影響も入ってきて、とくに仏教の経典の読経の仕方ではいろいろの漢字の読み方が出てきました。こう
して、たとえば「生」という文字をセイ・ショウ・キ・イキル・ナマというふうにも読むことになり、た
いそう複雑な事情をもつようになったのです。
ちなみに、
「行」はコウが漢音、ギョウが呉音、
「明」はメイが漢音、ミョウが呉音です。銀行・行動、
行列・行事、明治・透明、明年・明晩を読み分けているのはこのせいです。しかし、この複雑な事情をの
りこえて、日本人はとても大事な情報編集の方法を言語的に獲得することになっていったのです。
言葉がもつイメージ
いったい漢字を万葉仮名にして綴ったり読んだりしたことは、日本人に何をもたらしたでしょうか。
いろいろのことが考えられますが、私が重要な変化だと感じていることは、次のことです。
どこの民族の古代語もそうですが、日本語(倭語あるいは大和言葉)もその発音のつながりによって、何
かの言葉が何かの言葉を連鎖させたり、連想させるようにできていました。とくに日本は文字がなかった
社会が長かったのですから、語り言葉や歌い言葉のつながり方によって、イメージやメッセージが組み立
てやすくなっていたはずです。
二つだけ例をあげます。ひとつは神の名前です。
『古事記』や『日本書紀』に出てくる日本の神名には
とても変わった名前がついています。たとえばタカミムスビノカミ(高御産巣日神)、ハヤアキツヒコノカ
ミ(速秋津日子神)、タケミカヅチノオノカミ(建御雷之男神)というふうに。
これらの神名には、それぞれタカ、ハヤ、タケという言葉が頭についています。これらはおそらくこ
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の頭の言葉を言うだけで、何かの基本的なプロフィールが浮かべられるようになっていた言葉だったので
しょう。つまり、神の「おもかげ」がこれらで浮かんだにちがいない。タカ(高い)、ハヤ(速い)、タケ(建
てる・猛る)というイメージです。
これに、次のムスビ(結びを取り仕切る)、アキツヒコ(蜻蛉のような男)、ミカヅチ(雷のような力強さ)
という言葉がつながって、さらに「おもかげ」を鮮明にしていったのでしょう。
ここでは紹介しませんが、こういう例は神の名前だけでなく地名の付け方にもたくさんあらわれます。
もうひとつの例は、枕詞のよう塗言葉です。今日では和歌の頭につくものとみなされていますが、お
そらくは重要な語りや喋りの場面でも使われていたにちがいありません。
枕詞はたくさんありましたが、その用途は、たとえば「久方の」といえば「光」や「天」をめぐるイ
メージが見えたり、
「垂乳根の」といえば「母」や「親」に関するイメージが出てきたりするということで
す。
これはコンピュータ用語でいえば、いわばパスワードのようなもので、できれば一つの枕詞はそれな
りに限定したイメージを誘い出してほしかっただろうと思われます。けれども、一対一の関連だけでは困
るのです、一つの枕詞から光なら光の、母なら母のいくつものイメージが出てほしいと考えたはずです。
いわばこの枕詞というパスワードによって、ぱっとイメージの落下傘がそこに開いて、その次の、たとえ
ば「久方の」
「光のどけき」というふうに進むにしたがって、だんだんイメージとメッセージが絞られてい
くというような言葉使いの方法が必要とされたのでした。
こういう発音言語の社会に突如として漢字が到来し、それを万葉仮名で表記しはじめたのです。これ
は、このあとの日本人の発想方法や表現方法に大きな影響を与えました。次回はその編集方法の展開につ
いてお話ししたいと思います。
第2回
和漢の様式が並ぶ
「和」文化の創出
日本の歴史をふりかえってみると、そこには何度も「情報文化」に関する改革や変革がおこっている
ことが見えてきます。
古墳の玄室の四方位に四神が出現した時期、『古事記』『日本書紀』が編纂された時期、ずっと下って
は、江戸時代に国内の産物や物産(本草)についての調査情報がまとまって日本の生産情報が一覧できるよ
うになった時期、国学と洋学(蘭学)が組み上がっていった時期、仏教と神道と儒教(儒学)が相い並んで和漢
洋が互いに影響を与えあった時期などです。
そのうちのひとつが奈良時代末期から平安時代にかけておこった大きな変化です。今回はそのことを
中心にお話ししてみよう思います。まず、何がおこったかを、ここでは三つに絞ってあげておきます。
第一に、万葉仮名から仮名文字が出現しました。二つ、あります。ひとつはいわゆる平仮名が"発明"
されたことです。もうひとつは、漢文の音訓読をしているうちに工夫された記号や符号や略号から片仮名
が生まれたことです。
とくに平仮名の出現はこの時期の一番大きな"事件"ともいうべきもので、改革とか変革というよりも
「創出」とか「文化的な発明」といったほうがいいでしょう。
第二に、漢風の様式と和風の様式がいろいろな場面で両立しました。たとえば大内裏の建築様式に、
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朝堂院のような漢風の瓦葺き石畳式の建築と、清涼殿のような桧皮葺き高床木造式の建築とが並び立った
ことです。しかも漢風の様式ではフォーマルなことを重んじ、和風の様式のなかではカジュアルなことが
楽しまれるというように、そこではみかけの様式の違いだけでなく、そこでのふるまいの仕方も異なりま
した。
紀貫之が編集にあたった勅撰集『古今和歌集』の序文に、漢字だけの「真名序」と仮名だけの「仮名
序」が並列されたこともたいへん大きな出来事です。あとで説明しますが、貫之はこのアイディアだけで
はなく、さらに大胆な改革にも着手しています。また、菅原道真編集とされる『新撰万葉集』やそれより
ややのちの藤原公任編集の『和漢朗詠集』などがその代表例なものですが、漢詩とそれに見合った和歌と
が並列されて編集されるようになりました。
ついで第三に、さまざまな表現分野で巧みな和様化が進みます。わかりやすいのは、奈良天平時代で
はあきらかに左右対称の模様や文様が重視されていたのに、平安文化が進むうちに、左右対称がくずれて
左右非対称が好まれるようになったことです。たとえば料紙のデザインにあらわれた墨流しの模様や、そ
の料紙の上に書かれた「散らし書き」や「分かち書き」などはその代表例です。書の分野に小野道風のよ
うな達人が出て「和様書」を工夫したことも特筆できます。
このような変化は、このあとの日本文化に決定的な影響を与えます。少し詳しく見ていきます。
片仮名と平仮名
仮名文字の出現は初めて日本独白の「日本文字」が出現したということを告げています。これはきわ
めて画期的なことでした。もし仮名が生まれなかったら、日本文化はまったく違った歴史を歩んだことで
しょう。
それにしては仮名が出現してきたプロセスを鮮やかに示す史料が欠けるのが残念なのですが、おそら
くは以下のようなことだったのではないかと思われます。
すでに万葉仮名が音読みと訓読みの両方を併用して、"漢字の日本読み"ともいうべき方法を模索してい
たことは前回にのべました。その万葉仮名時代のいつのころからか、いろいろな工夫が加えられます。漢
字漢文を読んだり書き写したりするときに生じた工夫です。
当時、漢文を学習し、漢文を書けることは貴族や官僚や僧侶の重要な素養でした。そのためには漢文
の読誦と書き取りは必須の作業です。僧侶は漢文の経典をつねに声をあげて読経しなければなりません。
しかしその前に、漢文の文献(漢籍)を複数の人々が使えるようにコピーをする必要があります。これは一
部ずつを写経僧や書写生が丹念に書き写した。おそらくは声を出しながら書き写していたと思います。こ
の書写をしているうちに、いくつかのアイディアが生まれます。
今日でも漢文の読み下しのために、返り点などを打って学習を促進させているように、当時もヲコト
点などの符号によって漢文を"日本読み"にする補助記号が生まれつつありました。そもそも日本語(倭語)
は漢文にはないテニヲハなどの助詞をもっています。この助詞を補うために漢字の横に打たれたのがヲコ
ト点で、これによって漢文を音訓両用の発音で、しかも日本語的な語順の読み方をしていたのです。
また、漢字を書き写すとき、偏や旁の一部だけで本字を代用させたり、略字にしたりする写経僧や書
写生が出てきます。
「村」を「寸」と略したり、
「牟」を「ム」にするとか。その一部がしだいに自立して
いって片仮名を派生させていったものと思われます。
一方、万葉仮名で和歌や文章をしるすようになると、最初のうちは楷書で綴られていた文字がしだい
に行書化し、さらに曲線をともなって草書が交じるようになり、その草書の部分がもっと柔らかくなって
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いくということがおこりました。草仮名の登場です。
これは初期は「男手」といわれる書き方でしたが、それを真似て、その柔らかさがもっと流麗になっ
ていったものが「女手」となります。ふつう平仮名といえば、この女手になったものをさします。
ここでは、ごく初期の平仮名が現れつつある仮名文書として、『讃岐国戸籍帳端書』を見てください。
「讃岐の国司の藤原有年が申文」と呼ばれる文書で、一行目の終わりのほうから二行目にかけて、
「許礼波
奈世元ホ加 官ホ末之多末波元」とあります。何と読むのでしょうか。
「これはなせむにか官にましたまは
む」と読むのですが、
「官」という文字以外は万葉仮名で、その万葉仮名がかなり柔らかく毛筆で書かれて、
「礼」は「れ」に、
「波」は「は」になりつつあります。これは男手です。
このように、漢文を筆写するうちに略字化・省字化して自立してきたのが片仮名、万葉仮名を綴るう
ちに派生してきたのが平仮名です。いずれにしても古代日本人が、縄文期以来の言葉によるイメージを「お
もかげ」として保存しようとしたことが重要です。
ここで注目しておくべきなのは、経典や漢文書のような漢文的文脈からは片仮名が、万葉仮名で書か
れた和歌や文章などの和文的文脈からは平仮名が、それぞれ別々に派生してきたこと、そのわずかな変化
や派生を、当時の日本人の一部の才能がきわめて重視して、これを発展させようと思い立ったということ
です。
すなわち、当時の日本人は、なんとかして漢字漢文を和文の文脈で書きあらわそうとして、一方では
語順などに何度も変更を加えるとともに、他方ではそうした変更を通しつつ、そこからなんとか「日本文
字」を作り出そうとしていたのです。これは、古代ギリシアがフェニキア文字などからギリシア・アルフ
ァベットを創出したことに匹敵するでしょう。
こうしたなか、新しい情報文化の旗手として登場してきたのが菅原道真と紀貫之です。ここでは貫之
を中心に説明しますが、私は紀貫之こそが、いよいよ生まれつつあった日本語や日本文字の素材を、自覚
的な日本の編集文化として確立していくための画期的な転換をはたしてみせた異才だというふうに見てい
ます。
紀貫之の「日本語計画」
紀貫之がやってのけたことは、まとめれば三つあります。私はこれを総称して「日本語計画」と名付
けているのですが、ここではそのうちの二つのことをやや詳しくとりあげます。
ひとつは、
『古今和歌集』に真名序と仮名序をつくって、これを一緒に掲載したことです。真名序の「真
名」とは漢字のことをいいます。なぜこのように名付けたかというと、当時の日本にとって中国がもたら
す文物こそが"本場もの"で、その"本場性"をあらわす言葉として、いささか敬意をもって「真」という文字
をあてがっていたからです。たとえば「真金」といえば中国かまどら来たタタラ技法などによって精錬さ
れた鉄のことをさし、
「真戸」といえば中国から伝わった開け閉めができる仕切り戸を、
「真床」というと
中国の帝王が休む床をさすというように。
「真」という文字には中国という本場の面影がこめられているの
です。
これに対して、日本(倭)で派生した文物は未だ仮りのものなので、今度はいささか謙って「仮」という
文字をあてていた。その「真」の代表に漢字があり、その漢字に比して仮名などの「仮」という呼称があ
ったということです。いわば本場のフォーマルな文物がリアルとしての「真」で、それに対してまだ未熟
なカジュアルな文物を、とりあえずヴァーチャルな「仮」としたのです。
この「真」と「仮」という比較による価値付けは、その後の日本文化史ではだんだん大きな意味とし
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てのしかかるようになります。そのため、第 6 回目でお話ししますが、もはや「真」を中国に求めるので
はなく、日本は日本で「真」を発見して、それをもっと「真事」
「真言」(まこと)というふうに考えてみよ
うじゃないかという気運が高まるのです。それこそが契沖から本居宣長に及んだ「国学」というものだっ
たのです。
それはのちのちの話としてさておき、この時期はむしろ真名に対して仮名を並列させるということそ
のこと自体が、きわめて大胆でした。
では、どのように真名序と仮名序が併載されたのか、その背景を少し考えてみたいと思います。ちょ
っと歴史の流れを覗いてみます。
紀貫之の名が最初に記録に出てくるのは、寛平五年(八九三)前後の是貞親王の歌合や寛平御時后宮歌合
のときです。だいたい三十歳そこそこか、二十代半ばのことでしょう。
このころは菅原道真の絶頂期で、道真が遣唐使の廃止を提案したころにあたります。道真は親政を敷
いた宇多天皇に抜擢されて、それにつづく少年天皇の醍醐の右大臣をつとめた官吏で、漢詩の達人でした。
それとともに、時代が漢詩主流文化から和歌主流文化にゆるやかに移行するのを積極的に支えた文人でも
ありました。このことは、道真が深く編集にかかわったとみられる『新撰万葉集』という和漢詩歌集にあ
らわれています。やはり寛平五年あたりの成立です。
この『新撰万葉集』は和歌と漢詩を交互自在に並べたもので、しかも他には見られない独特の真仮名
表記をとっていました。
和歌と漢詩を並べるとはどういうことかというと、たとえば和歌に「奥山に紅葉ふみわけなく鹿のこ
ゑきくときぞ秋はかなしき」とあれば、その歌意がもつ面影に合わせて、漢詩は「秋山寂々として葉零々
たり、麋鹿の鳴く音
数の処に? ゆ」というふうに、七言絶句にして併記するのです。この「合わせて」
ということがとても大切な日本的な編集方法で、このばあいは、和漢を合わせることを意味します。
ところが、このように漢詩と和歌をやすやすと対同的に並べることができた才能の持ち主でもあった
道真が、貫之が昇殿するようになった寛平五年前後を最後に、突然に左遷されます。このころから貫之が
ゆっくり宮廷サロン文化の中心の一人として浮かび上がってくるのです。宮廷サロン文化とは何かという
と、歴史の順でいえば、まず惟喬親王のサロンがありました。このサロンは和風文化の前駆体ともいうべ
きサロンで貫之の一族の紀有常や有常女島を妻とした在原業平がいた。業平に遍照・小野小町などを加え
て六歌仙時代といわれたことはよく知られています。
けれども有常も業平も、また惟喬親王も、ありあまる文才や詩魂がありながらも、もろもろの事情で
失意のうちに王朝文化を飾りきれなかったのです。
そうしたあとに宇多天皇が即位します。途中、阿衡の紛議などがあり、それまで自在に権力をふるっ
ていた藤原基経の横暴に懲りた宇多天皇は、関白をおかずに自ら政務をとって、前代の摂関政治に代わる
親政を敷こうとします。これがいわゆる「寛平延喜の時代」の開幕です。ここで菅原道真・紀長谷雄らの
学者文人が異例に登用され、宮廷行事のなかに「歌合」(以下「歌合せ」と表記)がとりこまれました。
歌合せは「物合せ」に付随して始まったものです。そのころ宮中では前裁の花々を愛でて比べたり、
菊合せや美しい小箱を取り合わせて遊んでいたのですが、そこに興を募らせるべく和歌が添えられたのが
最初であったと思われます。ちなみに「物合せ」のモノという言い方には、事物をあらわす「物」という
意味と、
「ものさびしい」
「ものものしい」
「ものすごい」というときのモノがあらわす心情的な「霊」の意
味とが、ふたつながらあります。したがって「霊」という文字はモノとも読みます。
さて、宇多天皇もなかなかの文藻の持ち主でしたから、この和歌の歌合せは捨てたものじゃないとい
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うことになり、それまで漢詩のずっと下にあった和歌の地位向上に強い関心をもちます。そこで開かれた
のが后宮歌合や寛平歌合です。実に百番二百首をこえる大規模な歌の宴でした。
やがて延喜元年(九〇一)のこと、貫之は御書所預に選ばれて、禁中の図書を任せられることになります。
宮廷の図書室長のような職掌についたということで、いわばライブラリアンとしての編集能力が、つまり
はエデイターシップが問われる職掌です。
宇多天皇は落飾して、帝位を十三歳の醍醐に譲ります。けれども宇多院が文化の帝王であることは変
わらず、各地への遊幸にも熱心でしたし、歌の宴も主宰します。なかでも『万葉集』以来の勅撰歌集を和
歌で編纂してみようという企画がもちあがって、延喜五年に『古今和歌集』に着手する。編集委員に選ば
れたのは紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の気鋭の四人でした。編集室は「御書所」か「承香殿の
東なるところ」
、帝から期帝された編集方針は「古質之語」に学ぼうということと、第一次編集では「詔し
て各家集ならびに古来の旧歌を献ぜしむ」ようにし、第二次編集でそれらを選抜分類して部立をつくろう
ということでした。
部立というのは、春・夏・秋・冬・恋・雑を分類し、そのあいだに賀・離別・羈旅・物名・哀傷など
を挟みこんで、全体の主題と内容の流れをきれいに組み立てること、すなわち編集構成のことをいいます。
雑体歌と大歌所御歌を張出番付のように扱ったのもアイディアでした。
ここまでのことで重要なことは、
「合せ」(以下、アワセと表記)という遊宴の方法にしだいに関心が集
まってきたこと、および、
「古質之語」すなわち大和の古い言葉づかいに注目したことです。アワセは合併
ということではなくて、二つの相対する文物や表現を、左右や東西の仕切りの両側で情報的に比べ合わせ
ることです。そして、アワセの次に競います。つまり勝負をつけるのです(以下、キソイと表記)。こうし
てアワセ、キソイをへたのちの歌などの表現物を、あとでまとめて編集構成するのです。これはソロエ(揃
え)です。このアワセ・キソイ・ソロエは、このあとの日本文化の編集方法としてしょっちゅう使われた方
法でした。私は、このアワセ・キソイ・ソロエに、さらにカサネ(重ね)という手法を加えて、これをもっ
て日本の情報編集の最重要な方法のひとつだと見ています。
『古今和歌集』の話に戻りますが、こうして編集が進んでいよいよのこと、序文が貫之に委ねられた
のです。
ここで貫之が真名序に対して仮名序を案出することを思いつきます。有名な「やまとうたは人の心を
種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふこと
を、見るもの聞くものにつけて、言ひいだせるなり」で始まる一文が、ここに生まれます。
貫之が仮名序を書いたことは(真名序は紀淑望だとされているものの、当然、貫之のディレクションが
ありました)、漢字文化に対する仮名文化の鮮烈な立ち上げの宣言であったとともに、それまでの「倭語」
から「和語」の自覚を強く促したものでした。
貫之、もうひとつの冒険
もうひとつの貫之の冒険は、
『土佐日記』を書いたことです。承平四年(九三四)、貫之は土佐守として
の四年の任期をおえて京に旅立ちます。十二月二十一日から翌二月十六日までの晩年の舟旅でした。貫之
はこの五十五日問の出来事を記録にのこします。それが『土佐日記』なのですが、記録にのこしたのか、
あとから書いたのかはわかりません。私はあとから編集したのだと考えています。当時は「具注暦」とい
うカレンダーのようなものがあって、貴族や役人はその余白に漢文で日録やその日の予定やメモをつける
習慣をもっていたので、貫之もそのような漢文的な日録をつけておいて、それをあとから仮名の文章にな
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おしたのではないかと思います。ひょっとして道中から和文備忘録を綴っていたのかもしれ,ません。
ともかくも、貫之は日記を仮名の文章にしたのです。これは二つの企てとして前代未聞のことでした。
第一には、本来は漢文日記であるべきものを和文の仮名で書いたということです。第二に「男もすなる日
記といふものを女もしてみむとてするなり」というように、男女をひっくりかえして文体的な擬装を思い
ついたことです。いまでいうならトランスジェンダーです。
それにしても大胆不敵な企てでした。すでに「亭子院歌合」などに女手の記録が残っているのですが、
きっと貫之はこれらをよく見ていたのだろうし、それを自分でも書き試みていたのだと思います。
けれども貫之が『土佐日記』で試みたことは、単に個人の表現としてこうした遊びを思いついたので
はなく、そこに日本人が日本文字をどのように好きなように表現できるのかという「計画」があったから
です。
私は思うのですが、こうした擬装は「日本という文化」をつくりだすための、
「日本」というのがおお
げさならば「くにぶり」(風俗・国風)をつくりだすための、必要不可欠とはいわないまでも、きわめて有
効な実験だったのではないかということです。貫之はそのことをあきらかに自覚しています。そして「言
霊の幸はふ国」に、いまだおこっていない和語和文和字の表象様式をつくりだしたいと考えたのでしょう。
ここでは省きますが、貫之がどのように「書」を書いていたかということにも、このような「日本語
計画」はあらわれます。
私たちはいま、伝貫之の書を『高野切』や『寸松庵色紙』で見ることができるのですが、それらは美
しく堪能な書であるとともに、当時、いったいどのように仮名文字の連鎖によって日本人のあいだにコミ
ュニケーションが成り立つのかという「日本の言の葉」の伝達の実験でもあったというふうに見ることも
できるほどの、書きっぷりでした。
また、このような和様書の登場とともに、
「散らし書き」や「分かち書き」といった、左右のバランス
をくずして、その微妙な按配を意識しながら書いていくという書き方も発達していきました。これは奈良
時代の意匠表現の多くが左右対称性を重んじたのに対して、あえて対称性をくずし、それでもなお新たな
バランスをつくりだそうとした意図のあらわれでもありました。
和漢様式のアワセ
では、先にあげたいくつかの話題を、ふたたび順を変えて説明しておきます。菅原道真が『新撰万葉
集」で漢詩と和歌を対応させて編集したということを言いました。この方法はとても重要なもので、それ
を発展させたのが関白頼忠の子の藤原公任が編集した『和漢朗詠集』でした。ただし勅選ではなく、自分
の娘が結婚するときの引出物として詞華集を贈ることを思いついて作ったものです。
どういうふうに作ったかというと、当時、貴族間に流布していた朗詠もの、つまりは王朝ヒットソン
グめいたものに自分なりに手を加え、新しいものをふやして贈ることにした。ただし、それだけでは贈り
物にならないので、これを達筆の藤原行成に清書してもらい、粘葉本に仕立てます。まことに美しいもの
です。
料紙が凝っていました。紅・藍・黄・茶の薄めの唐紙に雲母引きの唐花文を刷りこんでいます。行成
の手はさすがに華麗で、変容の極みを尽くし、漢詩は楷書・行書・草書をみごとな交ぜ書きにしています。
和歌は行成得意の草仮名です。これが交互に、息を呑むほど巧みに並んでいます。
部立は上帖を春夏秋冬の順にして、それをさらに細かく、たとえば冬ならば「初冬・冬夜・歳暮・炉
火・霜・雪・氷・霰・仏名」と並べています。すなわち時の「うつろい」を追ったのです。これに対して
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下帖は、もっと自由に組み、
「風・雲・松・猿・故京・眺望・祝……」といった四十八の主題を並べて、最
後はよくよく考えてのことでしょうが、
「無常」
「白」というふうに、すべてが真っ白になってしまうよう
に終えています。
これをアクロバティックにも、漢詩と和歌の両方を交ぜながら自由に並べたのです。漢詩が五百八十
八詩、和歌が二百十六首。漢詩一詩のあとに和歌がつづくこともあれば、部立によっては和歌がつづいて、
これを漢詩が一篇でうけるということも工夫しています。
たとえば「無常」では、次のように漢詩と和歌が記されているのです。
身を観ずれば岸の額に根を離れたる草
命を論ずれば江の頭に繋がざる舟
世の中をなににたとへむ朝ぼらけこぎゆく舟のあとの白浪
巌維の漢詩は「根を離れる草」と「岸を離れる舟」の絵画的な比較をもって、生死の哀切におよんで
います。ところが満誓の和歌は、そんな劇的な対比はしていない。ただただ「舟のあとの白浪」に、生死
も無常を託しているのです。
この漢詩と和歌を一組の屏風や一巻の歌巻のなかで"対同させる"ということには、前回お話しした「お
もかげ」の和漢による同時共有という試みが如実にあらわれています。また、アワセ・カサネ・キソイ・
ソロエという方法が活躍していることも見えたことと思います。そればかりか、そうしておいてなお、和
歌の味わいをしっかり心掛けているのです。とりわけ「無常」
「白」などを入れているのは、いかにも和風
好みです。
このような編集方法は藤原公任ひとりの手柄なのではありません。この時代の貴族に流行し、これら
に先立って試みられた日本的編集方法の、そのまた再編集でした。
というのも、すでに「漢風本文屏風」というものがあったのです。小野道風が書いた延長六年(九二八)
の内裏屏風詩や、天暦期(九四七-九五七)の内裏坤元屏風詩をはじめとした漢詩を書きつけた屏風です。ほ
かにも長恨歌屏風、王昭君屏風、新楽府屏風、月令屏風、劉白唱和集屏風、漢書屏風、後漢書屏風、文選
屏風、文集屏風などがありました。いずれも唐絵を描いた屏風に漢詩句漢詩文の色紙が貼ってあるのです
が、公任はこれらから漢詩をピックアップしたのだろうと思います。
和歌にも似たような屏風が出回っていました。大和絵を描いた屏風に和歌色紙を貼ったもので、これ
もかなりたくさんの種類があります。これを扇面和歌散らし屏風、和歌巻屏風などといいます。
もっと調べてみると『古今著聞集』の画図部に「和漢抄屏風」があったと載っています。藤原道長の
邸宅に出入りしていた藤原能通が絵師の良親に描かせた二百帖の屏風に含まれていたもので、道長の子の
教通に進呈されたようです。これは興味深いことに、唐絵と倭絵(大和絵)を対応させ、それぞれにふさわ
しい漢詩と和歌を配当してあったものです。しかもこの屏風の色紙の歌詞は公任の清書だったというので
す。
これで話がはっきりしてきます。公任はすでにこうした和漢屏風の流行を熟知していたばかりか、そ
の制作過程にもしばしば携わっていたのです。そして、すでに漢詩と和歌だけではなく、唐絵(漢画)と倭
絵(大和絵)も比較され、アワセの対象になっていたのです。
すなわち、和漢の表現がたえず対同的に比べられ、和歌集や屏風といった一緒のメディアに同居して
いたということです。このような和漢アワセの例の最大規模のものが建築物です。その代表的な和漢の建
築物の対比となったのが、さきほどもあげたように、内裏建築における大極殿・朝堂院の漢風様式と、生
活空間であった清涼殿などの和風様式です。
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前者はフォーマルな、いわば「真」の様式を見せ、後者はカジュアルな「仮」の様式を見せています。
映像や写真を見ていただいたほうがわかりやすいと思いますが、漢風は瓦葺きで、石造りを重視し、赤や
緑の色もつけています。和風はこれこそが寝殿造りのモデルとなっていくのですが、屋根は檜皮葺き、す
べて白木の木造で色はつけません。また高床式になっていて、神社建築などとの強い関連をもっています。
建築の詳細の違いはともかくとしても、ここで重視しておくべきことは、朝廷がこのような和漢の様
式を大規模に対比共存させていたということです。
それでは、こうした和漢の比較から和様のための実験が出てきたことによって、日本人の自然観や社
会観や宗教観はどのように変化していったのでしょうか。次回にとりあげたいと思います。
第3回
神仏習合という不思議
日本の神祇信仰
第 3 回目です。ここでは神と仏のことをお話ししたいと思います。短い時間で神道や仏教のことを説
明することはできませんから、神と仏の関係についての話に絞ります。
まず神についてですが、私は、日本の神祇信仰は山頂・山中の磐座や山あいの磐境に霊力を感じたり、
神体山の姿に威力を感じたりしたことから始まっていると思います。そうした何かを感じる特定の場所の
ことを「神奈備」とか「産土」といいます。なんとなく神々しい地、厳かな気分になる辺りという意味で
しょう。
こうした特定の場所に神籬や榊(境木)や注連縄(標縄)を示し、そこに「社」をつくったのが、古代的な
神社のスタートでした。これは、社という呼称がもとは「屋代」(屋根のある代)であったことからも推測
できるように、そこには「代=シロ」という考え方がはたらいていたのです。
シロとは何か重要なものの代わりを担っているもののことです。たとえば「形代」(カタシロ)とは古語
では主に人形のことをさしますが、これは人の代わりという意味です。土偶や埴輸や雛人形は形代です。
また「苗代」は、そこに稲の苗を植えるまで空けておくシロとしての場所という意味になります。シロと
は、何かの代理の力をもったものやスペースのことなのです。
日本人は神祇や神奈備や産土を感じる特定の場所に、このシロを用意しました。そして神の来臨を待
ったのです。ということは、その場所に人格的な神が常住していると思ったわけではなく、そこにときど
き神あるいは神威が訪れてくれるというふうに考えたということです。神祇信仰がイザナギやアマテラス
やコトシロヌシ(事代主神)といった人格神から始まったわけではないことはしっかり留意しておくべきこ
とです。人格ではなく、面影だけ、です。ちなみに、武家の世になって各地に「城」が築工されましたが、
この城という言葉にもシロの観念が含まれていました。
神が来るということは、人間の側からすると、神を呼ぶ、あるいは神を招くということになります。
もともと日本の神の形ははっきりしていないのですから、人間が神を呼んだり招いたりする行為が、神事
となります。
「祓い」や「祝詞」はこのために発生します。こうした神祇信仰がいつごろに確立して、いつ
ごろシロに社(屋代)がつくられていったかは確定できないのですが、私が注目するのは、日本人はごく初
期のころから「神の不在」には慣れていたということです。今日でも神無月の十月には日本中の神々が出
雲に行ってしまうというような俗信が続いていることにも、あらわれています。いいかえれば、ときどき
訪れる神こそが"有り難かった"ということです。
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このことは、いまでも各地に残る昔話に見ることができます。そこでは神さまはごく稀にしか現れず、
現れるときは村の人に何かびっくりするような霊験をもたらしました。絵本やアニメでは、このとき光り
輝く神さまが空中に出現するように描くことも多いのですが、昔話の原典を読むと、もっと正体の知れな
い感覚的なものが感知されたと書いてあります。まさに「おもかげ」
、だけが感じられていたわけです。
このような神の現れのことを「影向」といいます。いわば「かげ」で感じる。この「かげ」は何かの
実体があって、その影が落ちたという意味での「かげ」ではありません。まさに面影の「影」のことでし
た。また、神に何かを捧げて供えることを「影供」といいました。まさに影に供えるわけです。
各地にこのような影向や影供がおこったと伝えられるところでは、いまはたいてい産土神が祀られて
います。
しかし、このような神祇感覚だけが広がりつつあったところへ、まったく別の人格神が登場したので
す。仏像でした。
神と仏の接近
大王に統括された豪族社会と氏族社会が登場し、海を渡って今来の仏教が到来すると、日本人(倭人)
は初めて人格神に出会います。
欽明天皇が「端厳し」という感想をもらした百済の聖明王から贈られた仏像は、まさに人の形をした
ものでした。こんなものは一度も見たことがない。そこで、その仏像は「蕃神」とも「漢神」とも呼ばれ
ました。欽明天皇は「西蕃の献れる仏の相貌端厳し。全ら未だ曾て有ず。礼ふべきや不や」(『日本書紀』)
と言ったのです。
事態はダイナミックに変化します。とくに有力部族であった蘇我稲目の一族が飛鳥の地に仏像を安置
することになると、各地各氏族の神祇信仰を集めて勢力を伸ばそうとしていた物部尾輿の一族とのあいだ
に対立がおこり、よく知られているように蘇我が優位となって、その制圧力が広がります。つづいて聖徳
太子が仏教こそは国の「三宝」になると認めるに及んでからは、こののち日本の為政者はことごとく鎮護
仏教国家のもとの「三宝の奴」となりました。
こうして、各豪族が氏寺を建てるという氏族仏教の流行がおこります。蘇我氏の法興寺(飛鳥寺)をはじ
め、巨勢氏の巨勢寺、葛城氏の葛城寺、紀氏の紀寺、秦氏の蜂岡寺(広隆寺)、藤原氏の山階寺(興福寺)など
が次々に発願建寺されました。
寺がこのようにふえてくると、その寺院塔頭に居住勤務する僧侶や尼僧を管理するための規約が必要
になります。また、その階位には僧正・僧都・律師といったクラシフィケーションがつくられ、服装など
にも区別が生じていきました。さらにこれらの寺々の上位に大官大寺が建てられるようになり、多くの政
治的局面が鎮護仏教のシステムに組み入れられることになっていくのです。
これはまさに仏教国家のヴィジョンとシステムの出現でした。
では、それで神祇信仰が廃れたかというと、ここからが大事なところなのですが、そういうことには
なりません。仏教派は神祇派がたいした社会的な権力をもたないかぎりは、それを駆逐しようとはしなか
ったのです。
のみならずたいへん奇妙なことがおこっていったのです。
それは、各地に神宮寺や神願寺が次々につくられていったことです。宇佐神宮寺、住吉神宮寺をはじ
め、気比神宮寺、若狭比古神願寺、伊勢大神宮寺、八幡比売神宮寺、補陀洛山神宮寺(中禅寺)、三輪神宮
寺、高雄神願寺、賀茂神宮寺、熱田神宮寺、鹿島神宮寺、気多神宮寺、石上神宮寺、石清水神宮寺などで
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す。いずれも七世紀後半から九世紀のあいだに建立されました。
この神宮寺あるいは神願寺の寺名を見ると、それらがことごとく、その後の日本を代表する神社の地
に建っていたことがわかります。そうなのです。ここで神祇の力と仏教の力が接近し、奇妙に重なってい
るのです。のちに牽強付会されたものも多いのでいちがいには評価できないのですが、この神宮寺建立の
事情を書いた文書(これを縁起といいます)を読むと、神が苦悩しているので仏の力を借りたというような
ことが、たくさん書いてある。このように、神が何かを言ったと解釈することを「神託があった」といい
ます。正確な事情はわからないのですが、いずれにせよ、この神宮寺ではたいてい「神前読経」がおこな
われ、
「巫僧」が出現し、しかも神宮寺の近くに新たな社や祠を認め、これを「鎮守」と呼ぶようになって
いったことがはっきりしています。
小学唱歌に「村の鎮守の神さまの 今日はめでたいお祭り日
ドンドンヒャララ
ドンヒャララ」と
いう歌詞があります。鎮守とはこうした神宮寺の発展に絡んで登場した社だったのです。ごく初期に、日
本の神と外来の仏は大接近を遂げていたわけです。
アワセ・キソイ・カサネ・ソロエ
神宮寺の登場は、神仏習合の最初の形態だと考えられます。神前読経も巫僧も、蘇我・物部の対立の
ころにはまったく予想もつかなかったことです。おまけに、石清水神宮寺の例が有名ですが、神に菩薩号
を贈るということすらおこなわれた。これがのちに源氏が奉じた八幡大菩薩です。この菩薩には僧形八幡
神像という造像がなされました。神様だか仏様だかわからない像です。
このようなことは、前回に話したアワセという方法によるものです。外来の仏教がもたらしたものは、
わかりやすくいえば仏像と経典でした。その仏像に似せて八幡大菩薩のような神像がつくられ、神前で経
典の読経もできるようにするというのは、まさにアワセです。
これらは最初は地方におこったことです。その流れはやがて、仏教側からの解釈で、本源としての仏
や菩薩が、衆生を救うためにその迹を諸方に垂れて、それが神となって姿をあらわしたのだという考え方
として情報編集されました。このような考え方を「本地垂迹説」といいます。本地というのは本源のこと
です。
この本地垂迹説は、いろいろな場面で日本の社会観や宗教観に大きな影響を与えました。とりわけ興
味深いのは、中世になってからのことですが、仏教側の本地垂迹説に対して、神祇派の側からの果敢な逆
編集がおこったということです。これこそが度会神道(伊勢神道)・吉田神道といった呼び名でその後に定
着していった「神社神道」の成立なのです。神道とは、この神社神道の成立以降の呼び名です。
神仏習合は日本の宗教形態のなかで特異な位置を占めているのではありません。むしろそれがもとも
とのバックグラウンドでした。その神仏習合という大きな下敷きの上に、仏教も神道も成り立っていると
考えたほうが当たっています。
最近の日本には、しばしば「日本は二千年以来の神道の国だ」という言い方があるようですが、した
がって、これはちょっとおかしいのです。神もあれば仏もいて、さらには儒教的なものも道教的なものも、
みんな少しずつ交じっていたのです。これはそれらの多くが人格神ではなかったということにも関連して
います。
こういう状態をふつうは宗教学ではシンクレティズム(混淆宗教)と名付けます。が、シンクレティズム
というと各地で横に別々に発達した信仰、が融合したということになり、これも正確ではありません。
日本の場合はシンクレティズムに加えて、そこには次々に縦型に、また入れ子型に重なっていった重
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層的信仰が入りこんでいるのです。すなわち、アワセとカサネの両方がおこったのです。
そして、このアワセとカサネのうえに、全体を調整するソロエがおこったのです。このソロエは為政
者に必要なことでした。社寺に等級をつけたり、順番をつけるのです。
顕密寺社体制と神祇体制
古代中世の日本の政治は、仏教との関係をきわめて濃厚にしながら進んできました。初期は鎮護仏教
として南都六宗が栄え、そこに翳りが出てくると空海や最澄の密教がこれをカバーして朝廷に近くなり、
やがて藤原摂関文化の隆盛時には貴族のあいだに末法思想とともに浄土信仰が広がります。さらに武士の
台頭がめざましくなってくると、鎌倉期に入って栄西・道元らの禅宗、法然・親鸞らの浄土宗や浄土真宗、
また日蓮の活躍などがありました。時代によって、あたかも為政者と密接なつながりをもつ仏教の中心が
移動してきたというふうに見えます。
これを「王法」と「仏法」の関係といいます。王法とは天皇を中心にした為政者による国の守り方で
あり、仏法は仏教者による国の守り方のことです。その王法と仏法が時代ごとに多様に交差していたので
す。
このように各時代で王法と仏法が交差し、かつ神と仏が習合しあっているのです。これでは何もかも
が交じりあって、一見、混乱しそうなのですが、混乱しきらないようなしくみも動いていた。そのしくみ
は、まとめていえば、二つあります。
ひとつは、黒田俊雄さんという中世史の研究者の用語にならって、顕密寺社体制といいます。
日本仏教は浄土宗と禅宗が確立する直前までの時点では、八宗を数えます。倶舎宗・成実宗・律宗・
法相宗・三論宗・華厳宗・天台宗・真言宗の八つです。これら八宗は密教が用意した教理システムをちゃ
っかり活用していたのです。つまり名目上は八宗が併存しているのですが、実際にはいくつもの派の教義
や作法を兼学する者が多く、しかも全宗派に共通して密教が提供していた教理があって、みんなそれに乗
っかっていたのです。
もうひとつは、神祇体制です。
これは最初こそ中国のシステムを真似てつくったものですが、そこにきわめて独自な日本的方法が編
み出されていたのです。
そもそも唐の『祠令』では国の公的な祭祀として、
「祀」(天の神の祭祀)、
「祭」(土地の神の祭祀)、
「享」
(死者の霊の祭祀)、
「釈てん」(古来の聖人や祖師の祭祀)の四種を区別していました。これが東アジア社会
の中核にある「まつり」の系統というものです。
ところが日本の『神祇令』は、最初の二つについてはそのまま採り入れるのですが、かつ、そこに天
皇の即位儀礼や大祓の儀礼を加えてしまった。
また、あとの二つについてはさきほど説明した神宮寺と鎮守の関係のように、日本各地の民俗行事の
多様性に任せてしまった。
こうしてどうなったかというと、神仏習合と一口に言っている状態がそれほどの混乱もなく、王法と
仏法の関係として、および神と仏の関係として、それなりに説明がつくようになっていったのです。
これを辻棲合わせと言ってもいいのですが、しかし私はもっと肯定的に見ています。このようなアワ
セ・カサネ・キソイ・ソロエという方法を積極的に評価したい。
さて、では、このような神仏習合のしくみがあったにもかかわらず、なぜにまた「日本は神道の国だ」
とか「日本は神の国だ」とかという見方が強調されてしまうのでしょうか。私はそこには、ひとつの歴史
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の事情がかかわっていたと見ています。
神国思想の波及
日本の為政者の歴史には、彗星が接近しただけで交代してしまうようなことがしばしばおこっていま
す。執権北条貞時もそうして引退した。これはもとをただせば中国の天人相関説の影響によるもので、地
上の悪政があると、それが原因で天上の彗星や流星や客星(新星)の出現をもたらすという考えからです。
このような日本に元(モンゴル)が攻めてきました。蒙古襲来(元と高麗の連合軍)です。文永・弘安の二
度だけではなく、サハリン・琉球・江華島などの日本近域をふくめると、一二六四年から一三六〇年まで
の約百年のあいだに、十数回の蒙古襲来がくりかえしおこっている。
こうした襲来は、日本の為政者や神社仏閣では、もっぱら「地上と天上の相関」によって解釈されま
した。蒙古襲来という地上の出来事に対しては、天上の出来事が対応すべきであるという解釈です。こう
いう見方が当時はかなり流布していたので、結果として台風(暴風雨)によって異国人の襲来を撃退できた
のは、まさに天人相関説の"実証"となったのです。それはまた日蓮にとっては仏国土を守る精神によるも
のでした。危機一髪のときは"神風"は吹くものだという考え方が、こうして社寺の区別をこえて広がりま
す。
異国人襲来だけではありません。永仁元年(一二九三)に鶴岡八幡宮に一人ずつがお金を出しあって約七
百人の民衆がかけつけたことがあるのですが、このときは鎌倉を大震動が襲ったためでした。マグニチュ
ード 7 を上回る関東大震災級の地震だったようです。民衆はこのように、旱魃・地震・津波などのときは、
「神々の加護」を旗印にして動いたのです。
けれども、このような動きはあまり報いられません。蒙古襲来をきっかけに、為政者も寺社も、いわ
ば"神の戦争"を名目としたムープメントを利用したのですが、それが寺社領域の拡張と寺社造営との全国
的な権勢の広がりになったのでは、山野や河海をネットワークしながら生活の場としてきた民衆は、結局
のところは苦境に立たされるしかなかったのです。
このとき、こうした民衆ムーブメントのあいだから、一風変わった特異なリーダーたちが登場してき
ました。
このリーダーたちを「悪党」といいます。そして、この悪党とよばれた者たちの活動から、
「神国日本」
という見方(イデオロギー)が出回りはじめたのでした。
海津一朗さんなどの研究によると、そのころ、神領興行法という命令のような決め事が力をもってい
たようです。
神領興行法というのは、武士や民衆が神領の内部にもっていた諸権利を剥奪して社家に戻すという徳
政令のことです。一円神領興行法ともいいました。この決め事は、西の宇佐八幡宮と東の伊勢神宮を先頭
に、全国に適用されています。それによってとりわけ伊勢神宮の神領が関東を中心に次々に拡張していっ
たのです。
実は、伊勢の外宮を拠点とする伊勢神道すなわち度会神道が確立していったのは、この勢力拡張を背
景にしていました。ただし伊勢神道とはいえ、この時期の神道はさきほども説明したように、神仏両方の
勢力のことをさします。もう少し正確にいえば、この神領興行法が実行されていった時期に、日本の神仏
の組み替えの逆転が試みられたのです。逆転というのは、反本地垂迹のこと、
「神本仏迹説」のことです。
そうするとどうなっていったかというと、これによって既存の宗教勢力が神祇官に文句をつけにくく
なっていったのです。また勝手な文句をつけると、悪党たちがこれを制した。そして、この勢力均衡のう
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えに動き始めた悪党が神国思想を波及させる先導者になったのです。
悪党には、楠木正成のようなめざましい地域リーダーがたくさんいました。のちに後醍醐天皇の南朝
を支援します。
なおここで「悪」といっているのは、「ふつうのことばではいいあらわせないような」「これまでの型
にはまらないような」という意味です。親鸞の悪人正機説にいう「悪」も、そういう意味でした。
ではこのあと、神国思想はどうなっていったのでしょうか。
神風思想や神国思想に拍車をかけたのは後醍醐天皇だということになっています。
後醍醐の建武新政(親政)は、わかりやすくいえば、蒙古襲来以来の公武の秩序を壊して、時計を百年前
に戻して、諸国一宮国分寺の本家を廃止して、新たなしくみで荘園制を復活することにありました。けれ
ども後醍醐の親政は挫折する。そして、悪党を組みこんだ南朝と北朝をめぐる長期に及んだ南北朝の争乱
をへて、時局はふたたび足利将軍の幕府の手に戻っていったわけです。
それは蒙古襲来をきっかけにして、一大勢力と化した神本仏迹のシステムがまわりまわって幕府の管
理に移っていったこと、すなわち「神国日本」の管理が武家政権の手に移ったことを意味しています。そ
の流れはこれ以降、信長から家康にいたるまでほぼ変わらぬところとなっていきます。武家政権が天皇に
対して強い態度に出られたのには、このような事情もありました。このことは、日本史ではたいへん重要
なことです。
ともかくも神風と神国の思想は、こうして長いあいだにわたって日本人の心にのこっていくことにな
ったのです。
それはそうなのですが、しかし、何度も申し上げているように、このことは「日本が神道の国だ」と
いうことをなんら主張してはいません。むしろ、どういうグループが神威のカードを持ち出して、これを
切り札に政治や社会制覇のシンボル操作をしようとしたかということが、歴史のなかからは見えてくるだ
けなのです。
また、以上の事情は、神国と天皇とを直結する理由がどこかにあったということも、なんら主張して
いません。すでに説明したように、為政者としての天皇は、長らく仏教に帰依して王法と仏法を統括しよ
うとしていたのです。
「日本語計画」の発展
神と仏の関係について、ごくごく特徴的なことだけを説明しましたが、ところで、前回に紀貫之をフ
ィーチャーしてお話しした「日本語計画」のほうは、その後、どうなったのでしょうか。
実は、ここでは意外な仏教僧たちの活躍と研究が待っていたのです。日本の情報編集文化の歴史を語
るうえでは欠かせないことなので、以下、その話をします。日本語すなわち国語が確立したのはいつかと
いうことは、まだ研究者のあいだでも確定していません。しかし「いろは歌」や「五十音図」が成立した
ころには、ほぼ日本語が確立していたと見ていいのではないかと思います。
このような国語の確立にあたって、
「いろは歌」のようなたいへんに無常感に満ちた"歌詞"が選ばれた
ことは、このあとの日本の文化を語るにもきわめて象徴的なことでした。
「いろは歌」はしばしば空海の作
だといわれますが、おそらくそれより百年くらいくだってからの成立でしょう。無常については、次回で
お話しします。
もうひとつの「五十音図」ですが、これは、いつごろできあがったのでしょうか。私が学生にこの質
問をすると、たいてい明治以降とか、昭和に入ってからなどという答えがかえってきます。
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これはちがいます。中世にはできつつあったのです。しかも、主として密教僧たちの努力で組み立て
られていったものなのです。なぜ密教僧によって国語の基礎をかたちづくるような研究が進んだのでしょ
うか。密教には空海の研究以来の悉曇(しったん)学の伝統があったからです。
奈良時代の仏教界にはずっとボーカリゼーションの悩みがありました。漢字の読み方をどうするかと
いうことです。
倭人(先住の日本人)には古来からもってきた発音の仕方があります。次に中国・朝鮮から渡ってきた発
音法がありました。漢字にはもともと中国人の発音が備わっています。しかし日本人の発音とは、当然の
ことながらぴったり合いそうも、ありません。そこをあえて切り離したまま、万葉仮名をつくってそれを
音読訓読の両用にしてしまったことが、次の仮名の発明につながったことについては、すでにお話ししま
した。
しかし仏教の読経では、そういうわけにはいかない。なにしろ経典はできるかぎり正確に読まなけれ
ば(といっても漢訳経典のことですが)、法力も出ませんし、学習にもならない。おまけに中国人の漢字の
発音も漢音と呉音という大きな区別がありますから、その区別もマスターする必要があります。前回にも
紹介しましたが、
「正」をセイと読むのが漢音(北方系)、ショウと読むのが呉音(南方系)です。これはたい
へん紛らわしいものでした。
そこで日本人はいろいろ工夫した。まず、中国の発音(読み方)のうちの漢音を「正音」とし、呉音を「和
音」とします。そこへ空海と最澄が入唐して、新たな密教体系とともに文字と発音のしくみを持ち帰って
きました。それが空海が将来した中天音(中央インド系の発音)と円仁が将来した南天音(南インド系の発音)
です。密教僧はこれを漢音・呉音にうまく適合させたのです。
それだけではなかったのです。密教僧は、こうした工夫を試みるうちに、東アジア社会の言語のあり
かたに関心をもち、東アジア社会というのは漢字文化圏とほぼ同じことですから、漢字の読み方に精通し、
そのなかにおける日本独白の「真言」とは何か、
「真音」とは何かということに、本格的に取り組んでいっ
たのです。このときに梵語が浮上しました。
もともと仏教は釈迦(ブッダ)の覚醒ののち、インドのどこかで次々に発展したもので、そこにはサンス
クリット語やパーリ語が使われています。その経典が中国に入るつど漢訳されたわけで、日本ではその漢
訳経典をテキストにします。
けれども、そこにはインド伝来の「奥のボーカリゼーション」もあるはずなのです。実際にも稀代の
天才ともいうべき玄奘三蔵(三蔵法師)の漢訳では、
「ギャーティ・ギャーティ」などのダラニの部分は漢訳
しないで、インドの発音そのままに音写しています。
こういうことに最初に気づいたのが空海でした。空海はすぐさま梵語や梵字の研究に入っていきます。
そして、この密教的な梵字梵語研究がやがては「悉曇学」というものになるのです。
悉曇学とは文字と声の学問です。声字音義を極めるための学問です。最初はその対象はあくまで梵字
でした。しかし、その梵字と漢字の関連を考えようとするうちに、それが日本語の発音文字の確定に役立
ったのです。こうして悉曇学が充実していったころに、日本語の文字としての仮名が登場し、その文字の
選定と発音の確定が時代的なテーマになってきたわけでした。
かくして、日本文字である平仮名と片仮名と、そして発音のしくみを解明して、これらを「いろは」
や「五十音」のシステムにしようという気運が盛り上がってきたのです。
五十音図の完成にむけて
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いささか話がややこしくなったかもしれませんが、空海以降、こういうことが一斉におこったのです。
一方では仮名の登場が、他方では梵語の研究が、また別のところでは条例や官職に使用する漢字の意
味の把握が、さらに別のところでは和歌と漢詩の比較がじわじわと進んでいったのです。これで前回から
の「日本語計画」の流れがだいたいつながったと思います。
おそらく日本語という国語の将来にとって、こんなにすごい時代はほかにないでしょう。明治維新直
後にも、初代文部大臣の森有礼が日本を英語やローマ字の国にしようとしたことがあったのですが、これ
は外国語にあわせて日本語や日本をつくるようなもので、比較になりません。さいわいにも、このトンチ
ンカンな計画は潰されました。反対したのはアメリカのホイットニーという言語学者で、彼は森有礼のそ
の提案を聞いて、ほとほと呆れて次のように言ったといいます、
「とんでもない。一国の文化というものは
その国の国語でつくらなければなりません!」
。これにくらべると、三十六歌仙や菅原道真や小野道風の時
代は、まさに言葉と文字と発音(声)と書に関するすべての多様な事情を睨みつつ、新たな日本語の文字シ
ステムと発音システムを起爆させる必要が、もっともっと切実なのでした。
このとき、密教僧たちの、とりわけ真言僧たちの独特の研究が次々に芽吹いたわけなのです。あまり
知られていないものの、たいへん重要なことなので、少しだけその後の五十音図の話をしておきます。
五十音図の発生は従来から『金光明最勝王経音義』と『孔雀経音義』の二つにルーツがあると言われ
ています。これについては山田孝雄の名著『五十音図の歴史』(一九三八)があります。
けれども、その後にいろいろのことを知ってみると、醍醐寺所蔵の『孔雀経音義』の巻末図は四十字
しか並んでいない音図で、母音の順も「キコカケク」
「シソサセス」というふうになっていますし、
『金光
明最勝王経音義』は漢字に和訓をあてはめたもので、五十音図の原型ではあるけれど、五十音図ではあり
ません。もっぱら濁音借字に重心がおかれているところも、かなり不完全です。
これらを声字音義システムとしての五十音図に一挙に引き上げたのは、明覚でした。天喜四年(一〇五
六)の生まれですから、ちょうど『源氏物語』が書かれて読まれ出したころにあたります。天台僧でした。
明覚には『反音作法』
『梵字形音義』
『悉曇大底』
『悉曇要訣』
『悉曇秘』
『梵語抄』といった、たくさん
の著作があります。そうとうの大学者だったとみていいでしょう。しかし明覚には、いまひとつ五十音図
は確定しきれないままのところがありました。
明覚を発展させたのが興福寺の兼朝と高野山東禅院の心蓮です。とくに心蓮は『悉曇口伝』
『悉曇相伝』
で新たな一歩を踏み出した。私は心蓮に注目しているのですが、日本語の音の発生のしくみを「順生次第・
逆生次第.超越次第」などに分け、これをさらに「本・末」に組み合わせているところ、さらに発音には「口・
舌・唇」の三つがあると説いているところが興味深いのです(これを「三内」と名付けています)。
日本では、読むとは声を出すことです。分かるとは、声を自分の体で震わせることです。分かるは、
声を分けることなのです。
このことに気がついて、ついに五十音図を完成させていったのは心蓮を継いだ寛海、承澄、信範、浄
厳たちでした。こうした系譜が脈々と流れて、日本語の発音社会が確立していったのです。それは「もう
ひとつの日本」の自覚にあたります。
ところで、これらの系譜のなかでも高野山の密教僧だった浄厳は注目にあたいします。もはや詳しい
ことはいいませんが、この浄厳の影響をうけたのが、歌学者であって国学の端緒をひらいた真言僧の契沖
だったということを申し上げれば、何が注目にあたいするのか、察知されるかもしれません。
契沖は高野山に十年にわたって学んだ悉曇学者でした。そして浄厳に出会って和字や和音に関心をも
ちます。その最初の成果が元禄八年(一六九五)の『和字正濫鈔』でした。この契沖の心友が下河辺長流で
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す。二人は徳川光圏の依頼で『万葉集』の注釈にとりくみます。
つまり、国学は契沖から始まり本居宣長に及ぶのですが、そのきっかけは浄厳にあり、それは密教僧
たちの長年の努力の成果の賜物であり、それは空海や紀貫之が試みはじめた「日本語計画」の完成であっ
たのです。
日本語の歴史を考えることは、日本文化の根底に流れる情報編集動向を掴むのには欠かせないものだ
と、私は考えています。
第4回
無常と「はかなさ」をめぐる
ウツロイ感の広がり
アーティストの宮脇愛子さんの作品に「うつろひ」というシリーズがあります。何本もの細い鉄がい
くつも空中に撓んでループを描いていて、そこを風が通ったり体が触れるとわずかにゆらぐ作品です。大
きい野外作品もあります。
堅い鉄線なのに柔らかな曲線をもたらしているのがとても気持ちがいい作品で、私が以前から好んで
きたシリーズです。
「うつろい」ではなくて「うつろひ」と和語になっているように、ここにはウツロイの
感覚がシンプルに表現されています(本書ではウツロヒはウツロィと表記しています)。
ウツロイという言葉が、万葉の歌では主に色や匂いの移りを多く歌っていたことは第1回目でお話し
しました。万葉人はそれとともに月が移ろうという様子もすでに詠んでいました。
その後、人の心のうつろいやすさを詠むことがふえ、さらに人の世のうつろいやすさを歌うことが多
くなってくると、ウツロイはすべての有為転変をあらわす言葉になって、もはや物理上のトランスフォー
メーションではなくて、心情のトランスフォーメーションをあらわします。
百人一首にも入っている「花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに」とい
う小野小町の歌は、花の色と自分の身と世の移り変わりをつなげていますし、同じく花の色を扱った凡河
内躬恒の歌では「花見れば心さへにぞうつりける色には出でじ人もこそしれ」というふうに、心のほうに
ウツロイの焦点がシフトしています。
花鳥風月、みなウツロイの対象であり、人の心も人の世も移ろうものだということになってきたので
す。こうしてウツロイの感覚は日本の編集文化のとても広い領域に使われることになります。
一方では、ウツロイは無常感そのものです。人生のさまざまな場面に用いられる哲学や思想や、芸能
や文学のテーマになっていきます。
能には「移り舞」というものがあるのですが、これは複式夢幻能の最も重要な見せ場になりましたし、
そのプロフィールの名状しがたさをもって幽玄とも呼ぶようになります。また、和泉式部の日記や建礼門
院右京太夫の歌にひそむ「はかなさ」の訴えは、無常感をともないつつも心敬や宗祇の飛花落葉の「おも
むき」の表現となって、芭蕉の連句のウツリ(移り)の技法に至り、ついには上田秋成の『雨月物語』のよ
うな物語の構造そのもののウツロイにまで達します。それは溝口健二の映画『雨月物語』にもいかされま
した。
他方では、ウツロイは光と影の微妙な相互変化を好む気質や室内空間を生んで、多くの「あわい」の
表現をつくります。障子や簾や格子がつくる光のグラデーションは谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』などに代表
される美意識となりますし、筆と墨と紙と水が出会ってつくる水暈墨章の表現には、滲みや暈しがあらわ
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れて、長谷川等伯の山水画や大雅・蕪村の文人画に、さらにはぼかし染めや蒔絵の砂子の美にまで及んで
いきました。
しかし、どうしてまたこんなにも微妙で、寂しくも消えゆくような、感覚に日本人は価値を見いだし
たのでしょうか。あるいは、どうしてこれほどまでに広範な分野にウツロイの感覚が適用されていったの
か。
それを解くことは、能や水墨画や枯山水の感覚やワビ・サビの感覚の本質的な意味の発見にもつなが
りそうです。また、ウツロイは無常感とむすびつくのですが、ここには日本仏教との関係もありそうです。
そこで今回は、ウツロイという言葉が秘めている、ちょっとした謎解きから入ってみたいと思います。
いささか意外な言葉の謎が出てきます。
ウツがもつリバース・モードの力
第1回目にも書いておいたように、ウツロイという言葉にはウツという語根が入っています。
ウツは内部が空洞になっている状態をさしています。からっぽの状態、洞穴のようなところ、がらん
どうの器物のようなもの、それがウツがあらわしているイメージです。それゆえウツという語根からは、
ウツロ・ウツホ・ウツセミという言葉が生じます。いずれの意味もやはり内側が刳り貫かれたように空洞
になっている状態のことで、たとえばウツロ舟といえば丸太の中を刳り貫いた丸木舟のこと、ウツセミ(空
蝉)は蝉の脱け殻です。つまりは何もないこと、それがウツです。
ところが、このウツなるものは何かの情報を宿す力をもっているのです。たとえば竹取物語はかぐや
姫が空洞の竹の中に生まれる物語です。かぐやというのは輝くものということですから、何か輝くばかり
のスピリットが竹の中に宿ったということになります。
古代人が尊んだサナギ(サナキ)というものがあります。銅鐸や鉄鐸の「鐸」のことで、小さなサナギは
シャーマン(巫女)たちがいくつも腰にぶらさげました。やはり中は空洞です。しかしそれを腰や手にして
ジャラジャラと音をたてるのが、シャーマンの身に何かのスピリットをもたらす媒介となりました。ある
いは未知の情報の到来を感知する媒介になったのです。このサナギは昆虫の蛹にも通じます。蛹も中がか
らっぽのように見えて、そこからいずれ蝶のような輝くばかりに美しい生命が誕生します。
鐸に似たものに鈴があります。鈴はこれを振ると、その鈴をもった者に神威のようなものが湧き上が
ると考えられています。神社に鈴があり、巫女たちが鈴で神楽を舞うのはそのためです。
このようにウツは、内側が空洞なのに、そこに何かが生まれたり宿ったりするという生成力をもった
言葉だったのです。
そのためウツに漢字をあてると「空」とも「虚」ともなるとともに、
「全」ともなります。一見してわ
かるように、
「空」と「全」とはまったく正反対の意義をもっている漢字です。英語でいえば、ナッシング
とエブリシングですから、まさに正反対です。しかし、あてがった漢字にそのように正反対の字義がある
ということは、ウツにはもともと反対の意味を吹き出せる力があったということです。
私はこのような古代的なウツをめぐる観念には、一時的な「負」の状態こそが「正」を予兆させると
いう見方が孕んでいると思います。
「負」には「正」が宿り、
「凹」にはいつかは「凸」が生じる。たいへ
ん意外なことと思われたかもしれませんが、ウツにはそうしたリバース・モードとしての力があるのです。
リバース・モードというのは、テープレコーダーやビデオテープなどが順逆に動きうることです。私
がここでいうリバース・モードは、そのようにウツという観念が正負にも、順逆にも、凹凸にも、内外に
も、その両方を往復して何かを動かす力をもっていたということです。私はその何かこそが日本の面影だ
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と思っているのですが、そのことをもう少し確かめるために、ウツ語類がもつイメージの編集力をさらに
点検してみましよう。
ウツロイと無常
ウツ・ウツロ・ウツホという言葉は、次にウツリ・ウツシという言葉を生みました。これは歴史がく
だってそうなったというのではなく、言語が語根からこのようなボキャブラリーを派生させていったとい
うことです。
で、そのウツリ・ウツシですが、これは漢字をあてれば「写」であって「映」であり、かつまた「移」
です。
これらの言葉は、今日では「写」は何かを写し取ることを、
「映」は何かが映じたり映えることを、そ
して「移」は何かを移動させることを、それぞれ意味します。しかし以前は、ほぼ同じような意味をもっ
ていました。
すなわちウツロなるものから何かが写し出されること、またその何かが映り出てくること、いいかえ
れば、ウツロは何かに移って何かの反映をもたらすこと、それがウツリやウツシなのです。一見、何も見
えないところに何かが見えてくること、あるいは見えないものが別のところへやってきて何かを見せるこ
と、反映させること、それがウツリでウツシでした。まさに水に映る月の光と影のようなもの、障子に映
る光と影のようなものです。負から正へとプロフィールが動いているのです。ここにもリバース・モード
がはたらいていることがわかると思います。
ウツロイとは、このような多様な反映作用(ウツリ・ウツシ)をもたらすリバースなプロセスのことをさ
しているのです。ウツロイは実在するものが単に移行したり、移転することだけではなく、見えないもの
と見えてくるものをつないでいる言葉でもあるのです。いえ、言葉のうえだけではなく、そのような両極
端をつないでいる現象そのものが、ウツロイなのです。
ウツロイが根本に秘めていた作用のあらましが、ちょっとは伝わったかと思います。
さてでは、このようなウツロイの感覚が人の世や人の心にあてはめられると、日本人はそこに「無常」
を感得したものでした。
「無常」とは「常ならぬ」という意味ですから、うつろうものはすべて「常ならぬ」
ので、言葉上では、ウツロイと無常が結びつくのは当然です。けれども、現代の日本人の多くは無常とい
うと、なんだか否定的というのか、消極的というのか、どこか「あきらめ」のようなものをともなってい
ると感じるのではないでしょうか。
しかし、そうとは言いきれません。これまで、無常感というのはおうおうにして否定感や厭世観やニ
ヒリズムにつながるように思われてきましたが、必ずしもそうではないのです。
すでにのべたように、ウツロやウツリやウツロイは、そこに何もないと思えていたのに、何かが生じ
てくることです。無常を感じることによって、かえってそこから何かが移り出てくるような、また何かが
映し出されてくるような感覚が新たに生じていくこと、無常感にはそういう見方も含まれているはずなの
です。
これをいいかえれば、
「負」や「無」だと見えていたものから新たな価値が出てくる可能性があるとい
うこと、また、マイナスは別のプラスを生む可能性があるということになります。その途中のプロセスこ
そ、ウツロイです。
さらに別の例を出して、この"逆転の見方"ともいうべきものを紹介しておきます。ここにもこれまで述
べてきた情報編集の方法が面目躍如します。
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逆転の見方
女房の文化が充実してきたころ、「はかなし」という言葉がさかんに使われるようになりました。『和
泉式部日記』や『建礼門院右京太夫集』あたりから頻繁に使われるようになった言葉です。
この言葉は「はか」がもとになっています。
「はか」は、今日でも「はかどる」
「はかばかしい」「はか
がいく」と使うように、事態が進捗する単位をあらわします。漢字では「計」や「量」や「果敢」をあて
ます。積極的な単位です。その「はか」がとんとんとうまく積めなければ、ふつうなら「はかどらない」
ということになって、これは消極的で否定的な意味をもちます。少なくともあまり評価されません。
ところが、はかがないこと、つまり「はかなし」という言葉は、このころから少しずつ新しい意味を
もちはじめたのです。
「はかなし」はそれなりの美や深みや奥行きをもつようになった。
「負」は負のまま
に終わらなかったのです。マイナスは別の美に転じていったのです。
このことに気がついて、「はかなし」のもっている積極的な意味を強調したのは唐木順三さんでした。
『無常』という本に「はかなし」の用語的な変遷とともに、その重要な意味作用がいろいろ考察されてい
ます。いまはその考察のなかからひとつだけ重要な視点を紹介したいと思います。
それはまず、男が世の中で発揮している「はか」の成果に対して、女たちが「はかなし」だってそれ
なりの心や美をもてるのではないかという"発見"をしたということです。これは第 2 回目で案内した女文
字から仮名が生まれたことに似て、またしても女性文化の重要性を訴えます。
次に、そのように「はかなし」の美を"発見"してみると、よくよく考えれば、いったいこの世に「はか
なくないもの」なんてないのではないか。そうだとしたら、
「はかなし」という意味そのものではなくて、
「はか」を「なし」とみなした情報編集の方法に、もっと大事な文化的な充実があるのではないかという
ことです。
まさにこれは"逆転の見方"です。さらに別の例でこのことをもう一度考えてみます。
藤原定家に「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋のゆふぐれ」という有名な歌があります。
浜辺でまわりを見渡しても何もない寂しい秋の夕暮れだというのが表向きの意味です。
しかし、定家は「花も紅葉もなかりけり」とあえて表現しています。何もないなら、それでナッシン
グですませてもいいのに、そうではなくて、わざわざ花や紅葉がないと言っている。そうすると、ここに
は見えない花や紅葉が、頭の中に一瞬、見えてくることになります。なんだか寂莫とした光景に花や紅葉
がフラッシュしているような印象です。
むろん、花は春、紅葉は秋ですから、そんなものが同時に見えるわけはない。理屈のうえからいって
も、おかしなことです。けれども、このように歌った定家の心情というものは、どうでしょうか。そうい
う見方をもつことによって、定家の心に何かが見えているのです。強く「なかりけり」という言葉づかい
にしたのは、そのように言葉の上で否定した表現によって、かえってそこから花と紅葉が現出することを
可能にしたのでした。
定家には、似たような歌として、
「駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪のゆふぐれ」と
いう、冬の夕暮れの歌もあります。ここでも「かげもなし」という強い否定を使って、逆に「袖うちはら
ふかげ」がみごとに揺曳されていたのです。
このような例でもわかるように、これらの歌には、
「はか」に対して「はかなし」を持ち出した和泉式
部や建礼門院右京太夫と同様の、面影編集とでもいうべき手法があったということではないでしょうか。
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無常感の発生
ここで、いったん歴史をさかのぼって裾野を広げてみます。仏教が日本人にもたらした無常感という
ものがどういうものだったかを考えてみることにします。なぜなら「はかなさ」も「うつろい」も、どこ
かで仏教思想と密接につながっているからです。
最初に無常感を表明したのは聖徳太子でした。太子は『天寿国繍帳」の銘文で、
「世間虚仮・唯仏是真」
ということを書きます。
「世間はすべて虚妄のものなのだから、ひたすら仏に祈って真実を求めたい」とい
うメッセージです。日本における「世間無常」の最初の表現でした。また「世間にははかなくないものな
んて、ない」の最初の表現でもありました。
ついで私が注目するのは空海です。二つの例をあげます。一つは空海の『三教指帰』のラストに「十
韻之詩」というのがあるのですが、その後半でこう詠んでいます。私の好きな詩です。
春の花は枝の下に落つ
秋の露は葉の前に沈む
逝水とどまることよくせず 廻風いくばくか音を吐く
六塵はよく溺るる海
四徳は帰する所の琴なり
すでに三界の縛を知りぬ
何ぞ纓簪を去てざらん
落花飛葉に「はかなさ」をおぼえる感覚がすでにあらわれています。それだけでなく、水の流れも風
の流れも「常ならぬ」ことを示し、色・声・香・味・触・法の六塵さえうろいやすく、人間の徳目さえ自
分で縛りつけていても何にもならないという哲学が表明されています。
二つ目は「遊山慕仙詩」というものの一節で、ここにははっきりと「無常」が言及されています。
一身ひとり生歿す
電影これ無常なり
鴻燕かはるがはる来り去り
紅桃むかしの芳りを落とす
華容は年のぬすびとに楡まれ
古の人
今見えず
君見ずや
鶴髪は禎祥ならず
君見ずや
今の人なんぞ長きことを得む
九州八島無量の人を
古よりこのかた無常の身なり
とくに説明はいらないと思いますが、無常というものはたいへん速いということ、しかもずっと昔か
らその無常は続いているのだという認識が刻印されています。この無常が速いという見方は、のちに「無
常迅速」という言葉として多くの日本人の心を打ちました。
空海の思想の深さを味わうことは省きます。ともかく八∼九世紀にはこのような無常感がはっきりと
提示され、しかものちの花鳥風月の感覚や人生観ともみごとに関連するような表現になっていたというこ
とです。
その後もこうした見方は漢詩にも和歌にも物語にもあらわれます。そのひとつが第 2 回目にお話しし
た『和漢朗詠集』で、
「無常」
「白」をラストショットにして編集構成していたという例です。
悉皆浄土の思想
つづいて、仏教思潮で無常感が登場してくるのは浄土ブームのなかでした。どういうものかというと、
図式的にいうのなら、浄土を「常」とみて、穢土を「無常」とみたのです。
そのことを端的に表現したのが寛和元年(九八五)に恵心僧都源信によって書かれた『往生要集』でした。
この著作は「厭離穢土・欣求浄土」を主張しています。此岸の穢土を離れて彼岸の浄土を求めるとい
う思想です。
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穢土とは穢れた現世のことで、この世の人間にある変転きわまりない世間そのもののことです。これ
は此岸にあたります。一方、穢土を離れて向かう浄土は浄化されたあの世であって、すべてが永遠の時を
もつ別世界です。そこは彼岸にあたります。いわゆる"お彼岸"です。
こうして、此岸の、"here"から彼岸の、"there"に山に向けて心を致すこと、そこに往生という方法が
あるではないかと、源信は説いたのです。
当時、浄土といえば西方極楽浄土が人気が高かったので(実は本来の浄土は東西南北いずれにも想定さ
れていたのですが)、その西の極楽におはします阿弥陀信仰も一緒に強調されました。貴族たちは競って往
生を願います。観音堂を建て、常行堂とか常行三昧堂とよばれる念仏堂をこしらえ、さらに大規模には平
等院鳳風堂クラスの堂宇を構えて、阿弥陀如来像を安置しました。藤原道長などは自分の持仏の阿弥陀如
来と自分の身を五色の紐で結んで、死んだときはすぐに浄土に"直行"しようとしていたほどでした。
かれらにとって浄土に行くこと、すなわち往生することは、無常の世間から解放されるということだ
ったのです。どういう人がどのように往生したかという「往生伝」のたぐいもさかんに編集されました。
こうした考え方は、阿弥陀堂や観音堂の造営にも生かされます。東に薬師堂をおき(薬師如来は現世で
治療をする象徴)、あいだに二河白道に見立てた池や川を配して、西に阿弥陀堂をおいて如来をまつるとい
う設計です。浄瑠璃寺などにその典型的な設計がのこります。
往生思想は源信の著作だけで広まったのではありません。末法がやってくるという終末論的な恐怖も
手伝っていました。
末法とは、釈迦(ブッダ)が死んで千年で像法が、さらに千年で正法の世が過ぎ、次には最後の末法が来
るという仏教的終末思想のことで、そのころすでに永承七年(一〇五二)がその末法に入る第一年目だとい
う噂でもちきりでした。永承七年はまさに平等院鳳凰堂が造営された年です。
浄土思想が広まりつつあるあいだに、もうひとつ、天台本覚思想という考え方が浸透していきます。
本来は天台法華の考え方や密教議論や『大乗起信論』にもとづくもので、その内容はいろいろ難しいので
すが、一般には「草木国土悉皆浄土」とか「山川相僕悉皆成仏」というフレーズで知られています。
これは、一本の草木もそこかしこの国土の現象も、ことごとく浄土の対象になるというもので、穢土
と浄土のあいだに距離をおいた源信の往生思想からすると、浄土がはなはだ間近にまで引き寄せられてい
ます。そのため「己心の浄土」という思想もあらわれました。自分の手元の浄土という意味です。この本
覚思想が和様の解釈をともなって、たいそう広範囲に流行するのです。なにしろ、目の前のすべてのもの
が浄土になる対象で、そのように思えば自分も成仏できるというのですから、これは民衆にもうけいれや
すかったのです。のちの法然や親鸞にもつながる思想です。
私はこのあたりから、日本人の無常感が仏教思想の中核をしだいに離れて、ずいぶん自由に、また逸
脱した考え方で捉えられはじめたと見ています。
その証拠はいくらもあって、たとえば「来迎図」のように"there"の浄土から"here"のこの世に阿弥陀
が近寄ってきたこと、それと呼応して「迎講」のような集まりがふえてきたこと、第 2 回目にのべたよう
な神と仏の結託が躍動的に動きはじめたこと、そういったことが次々におこっていたからです。
公家社会に武家が交じってくる平安末期になると、誤解をおそれないでいえば、無常はそこらじゅう
に充満していて、むしろその無常をどのように変じていくかという苦心工夫のほうが目立ってきたほどな
のです。
こうして「山川草木悉皆成仏」や「己心の浄土」という考え方は、その後の日本の芸能を含む遊芸、
すなわち能、連歌、茶の湯、立花、作庭、陶芸など、まことに広い分野で生かされていきます。私の母は
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茶や花や俳諧などいろいろ嗜んでいた人ですが、景色のよい茶碗や見事に活けてある花を前にすると、し
ばしば「ええ浄土やなあ」と溜息をついていたものでした。
日本の浄土はかくのごとく悉皆浄土となっていったのでしょう。
生活の前提となった無常感
日本人の無常感を決定的にしたのは、さしもの権勢を誇った平家一門があっけなくも滅んでいったこ
とでした。
『平家物語』冒頭の、
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰
の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛けき者もついには滅びぬ、ひとへ
に風の前の塵に同じ」という琵琶法師の語り出しは、哀感をもってこのことをあらわしました。
祇園精舎は釈尊に寄進された学舎のことです。その釈尊の世に栄えた祇園精舎に咲いていた沙羅双樹
さえ、釈尊が入滅したときにいっせいに花の色を変えてしまったという仏教説話が、この『平家物語』の
冒頭に語られだわけでした。
やはり中世、
「いろは歌」のような有為転変の無常感もしだいに世の中に広まっていきます。そこには
『般若経』の思想が対応していました。真言密教を中興した覚? 上人は、
『密教諸秘釈』に「いろは」の仏
教的解釈をおこなっています。括弧の中が『大般若経』の偈になっています。
色は匂へど散りぬるを(諸行無常)
わが世たれぞ常ならむ(是生滅法)
有為の奥山けふ越えて(生滅滅已)
浅き夢見じ酔ひもせず(寂滅為楽)
このような表現自体には仏教思想が強く投影されています。そもそも「いろは歌」そのものが、密教
僧たちが天台・真言ともども唱和してきた声明の調べから編集された結晶だったからです。仏教思想の投
影は当然なのです。
しかし、
「いろは歌」のもつ実感としての印象は、もはや日本の文字四十七文字すべてで無常が歌われ
ているのだから、これがそのような日本語を使って日々を営む日本人の生活の前提だということではない
でしょうか。私は「いろは歌」の普及とともに、無常感は日本人の生活のなかまで滲みこんでいったのだ
ろうと思っています。
それにしても、ふたたび問いますが、このように日本人がウツロイの感覚や無常感や「はかなさ」を、
まるで呑みこむように次々に受容していったのは、なぜなのでしょうか。
私はここには、そもそも日本人が何をもって「常」と見てきたのかということがさらに見え隠れして
いたと考えます。いわば「常」にも面影、
「無常」にも面影があったのです。
「常」と「無常」の往還
古代人がすでに「常」と感じていたもの、それは「常世」というものでした。例によって『万葉集』
から拾ってみます。
やすみしし我が大君
もの行き通ひつつ
高照らす
日の御子
敷きいます
大殿の上に
ひさかたの天伝ひ来る
雪じ
いや常世まで
これは柿本人麻呂です。天武天皇の子の新田部皇子の心によせて詠んだ歌で、大君はきっと常世につ
ながる永遠性をもっているのだろうという意味です。
大伴三依には、
「我妹子は常世の国に住みけらし昔見しより変若ましに」けり」があります。私の愛し
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ている人はひょっとしたら常世にでもいたのではないだろうか。だって、若返っているようだからという
ような歌意です。
もうひとつ、大伴旅人に近い人の歌で、
「君を待つ松浦の浦の娘子らは常世の国の海人娘子かも」とい
う歌もあります。この歌はおそらくは海人、の一族についての歌で、海の中には年齢もとらないような常
世があるのだろうかという歌です。
浦島伝説にもつながる歌ですが、その浦島太郎の昔話にもあるように、日本人は海中や遠くの海上に
常世を感じたものでした。沖縄ではそうした海上の常世をニライカナイと呼びました。これは日本が海に
囲まれた列島であることと関係があります。
このように、古代から「常」というイメージはどこかの遠いところや、そこから伝わってきたり流れ
てきたりするものに、想像を逞しくして付与されていたのです。
常なるものや常世の特色は、永遠性や不変性にありました。したがって常緑樹のもつつやつやとした
エヴァグリーンの輝きにも、日本人は常なるものを感じたのです。タプやツバキやナギの木や枝が特別に
神の依代とされたり、その枝で大地を叩くことによって鎮魂や魂振りをするというのも、こうしたエヴァ
グリーンの常世の木の威力を信じていたからです。
もっと大かがりな説話・物語ものこっています。これは『古事記』にも『日本書紀」にも載っている
のですが、垂仁天皇が田道間守に命じて常世国に派遣して、常世の果実という「非時香菓」を求めさせた
という話です。
この話は垂仁天皇が不老不死の果実を求めたとも、橘や蜜柑などの南方の果樹を植樹した伝承が変形
したものとも解釈できるのですが、常世が具体的な海の彼方のエヴァグリーンの地であることを暗示して
いて、すこぶる興味深いものがあります。
さて、これで、いろいろなことがつながってきました。私たちの「常」と「無常」の感覚は、神話伝
承ルートからも仏教思想ルートからも交差していて、それがさらにウツとウツロイの語感編集ともおおい
に交わり、そこに、肯定と否定を、凸と凹を、浄土と穢土を、
「はか」と「はかなし」を、
「浦の苫屋」と
「花も紅葉も」を、それぞれすばやくまたぐイメージの編集力が高速に往還していたということなのです。
そこで、最後にもうひとつ、ウツ語類のとっておきのリバース・モードを紹介しておくことにします。
それはウツ(空)からウツツ(現)も派生、していたということです。
ウツツとは現実のことです。なんとも不思議なことですが、その現実性は非現実のウツを同根として
言葉と向かいあっているのです。ヴァーチャルなウツに対するリアルなウツツは正反対の意味をもちなが
ら、それぞれリバースに行き交っていたのでした。そのウツとウツツを、ウツロイがつないでいたのです。
第5回
「数寄」の文化と「分」の社会
数寄と趣向
茶の湯について貴重で独創的な見解をいくつものこした山上宗二は、茶人の心得を「胸の覚悟一、作
分一、手柄一」と言いました。
なかなかふるった言葉です。私は「趣向」とか「おもむき」とは何かということを考えるとき、たい
ていこの言葉を思い出します。作分とは茶事に新しい工夫をこらすこと、すなわち趣向を作ることをいい
ます。
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この作分は茶室を作り替えるとか、庭の植栽をがらりと変更するというような、おおげさなものでは
ありません。茶室全体を造営するのは、普請です。作分は「おもむき」のこと、いくつものちょっとした
ことを連動させて、
「向き」をつくるのです。
この「おも・むき」は亭主の「好み」によります。利休好みとか織部好みとか不昧好みとかいわれた、
その好みです。千利休・古田織部・松平不昧の好みの道具や作分の具合のことでした。ここには亭主が好
んで選んだ「向き」が見えます。
日本人は「おもむき」を大切にしてきました。これは微妙なものではありますが、それだけに細部に
おいて厳密な文化をつくりだしてきたともいえます。
「おも」は「主」であって面影の「面」のことです。
その「おも」の「向き」が趣向です。
しかし、ここには「主」とともに「客」がいるということを忘れてはなりません。茶の湯にかぎらず、
世阿弥も「衆人愛敬」と言ったように、日本の遊芸文化や芸能文化はつねに主客の関係をどのように大切
にするかということを前提にしてきました。それは主客の「あいだ」がちょっとしたことで変わるという
ことを知っていたからです。そのちょっとしたことを好みで支えていくのです。
好みの奥にあるキーコンセプトは「数寄」です。数寄屋造りの数寄ですが、
「何かが好きになる」とい
う本義を秘めています。またそれとともに、この数寄という変わった言葉は、
「好き」
「透き」
「鋤き」「漉
き」
「梳き」のいずれにも通じて、何かを櫛のようなもの、あるいは柵や歯のようなもので透き通らせると
いうイメージをもっています。
梳いて、漉いて、鋤いて、透いて、空いて、なお残ったもの、それが数寄というものではなかったか
と思うのです。中世では数寄という言葉はもっぱら執着をあらわしていた言葉でしたが、近世に向かうに
したがってその意味を変えてきたのです。
だから数寄には、いろいろの数寄があってよかったのです。物品を好む数寄なら「物数寄」です。歌
に徹したいのなら「歌数寄」です。すでに武士を捨てた西行は歌に徹して遁世さえしました。
「数寄の遁世」
といわれるゆえんです。
べつだん特別のことではなく、正倉院の宝物などはすでにそのような物数寄の嚆矢だったでしょうし、
その当人にとって格別に好きなものなら、なんであれ一応は数寄の対象でした。あるいは遠い国からやっ
てきた物品に好みを寄せるのも数寄のひとつで、前回に「ときじくのかくのこのみ」を求めた田道間守の
話をしましたが、日本人は銅鐸や金銅仏や漢字の渡来にはじまって、現今のエルメスやグッチやプラダに
いたるまで、変わらぬ舶来数寄者だったというふうにもいえます。
この古来の舶来趣味が、のちに「唐物数寄」と総称されて中国の文物を足利将軍が集めて、それがや
がて名物となって茶の湯に君臨したものでした。
言葉や情報も数寄の対象になります。
歌合せ、連歌、連句などはそのような数寄をたのしむ会でした。室町前期の歌論書の『正徹物語』で
は、
「歌の数奇に付きてあまた有り、茶の数奇にも品々あれ」と書いています。歌数寄、花数寄、器数寄…
…いろいろありえたのです。当時は数寄は数奇と綴りました。
しかしそこにも主客の関係は生きていて、会主や宗匠や執筆や会衆や連衆などの役割がそれなりにち
ゃんと決められていたのです。
今回は、こうした数寄の感覚や趣向の感覚の奥にひそむもの、このような数寄や趣向を通して日本人
が挑もうとした新たな編集方法に注目し、近世の日本社会でそれがどのように変化していったかを考えて
みたいと思います。話は後半で江戸にまで及びます。
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茶文化の流行
栄西が茶を持ち帰った翌年の建久三年(一一九二)に頼朝が征夷大将軍となり、武家の棟梁の時代となり
ます。まったく新しい仏教である禅宗が登場して、茶の文化がここで歴史舞台の前に出ます。その最も有
名な話が、あずまかがみ栄西が実朝に茶を献じ、将軍が御感悦したという『吾妻鏡』の記事でした。
このころ、茶というものはまだまだ高価な仙薬でした。実朝は二日酔いにでも苦しんでいたのでしょ
うから、茶が効いたのだと思われます。病いが癒えた将軍家のお墨付きをもって、茶はしだいに禅林から
武士階級へとひろまっていきます。将軍家は功績のあった忠臣や功徳のある高僧にたいする褒賞として、
御感悦の茶をふるまったのです。
この主従の習慣がのちに茶とともに茶器を愛であい、これが茶具足の流通する感覚を準備していきま
す。
けれども何事も効き目ばかりが話題になっているうちは、文化とはいえません。いまテレビでは毎日
のように効き目をめぐる食事や健康法が喧伝されているようですが、こういうものは歴史のなかでもキリ
なくあって、それらのうちわずかなものが残り、そこに主客の関係や作分が加わり、
「おもむき」をめぐる
価値観が陶冶されて、しだいに文化として育まれていくわけです。
仙薬としてのお茶も、しばらくは「道行の資」(仏道修行の助け)として意義づけられ、叡尊や忍性のよ
うに民衆に施茶をする者も出たのですが、鎌倉末期や南北朝時代になると、無礼講や破礼講とよばれた乱
遊飲食の会がそこかしこでつくられ、第 3 回目にお話しした悪党も加わった、少しく秘密結社めいた茶も
遊ばれるようになります。
そこに「闘茶」が始まり、本茶と非茶の区別、水の産地の異同を競うようになります。これはアワセ・
キソイです。この闘茶の会はどんな作分かというと、軒に幕、窓に帷をたらして点心席を設けました。そ
れから山海の珍味を出し、食後は北窓の築山や南軒の飛泉に少し遊んで、やがて月見亭を改良したような
茶席に入ります。
たとえば『喫茶往来』が綴っている例でいうと、茶席は左に張思恭の釈迦説法図、右に牧谿の墨絵観
音図が掛けられていて、金蘭の卓には胡銅の花瓶、鍮石の香匙があり、室内は花が舞い、馥郁たる香がた
ちこめたといいます。そのほか障子の飾りなどいずれも中国彩色画があしらわれ、そこへ客が揃うと亭主
の息男が茶菓をまわしたところで、梅桃の若冠が天目茶碗を会衆にわたしました。この若冠が上座から下
座にいたるまで茶をたてまつるという趣向だったようです。
梅桃の若冠とは紅顔の美少年のことです。つまりはいささかホモセクシャルな稚児のことでしょう。
そういう茶席もあったわけです。このころはバサラ大名として知られる佐々木道誉らの派手な闘茶もさか
んになっていました。
文化は批判にさらされる必要があります。
いま紹介したたぐいの茶宴の風潮は夢窓疎石のような高僧から批判されました。
『夢中問答集』に「近
頃世間でけしからず茶をもてなさるよう」としるしています。
ちなみに中国の文物を並べたてるような茶の宴が流行してくると、それを「唐物数寄」というのです
が、鴨長明や吉田兼好はつとにこの唐物数寄を批判しました。とくに兼好は「遠きもの」や「得がたき宝」
をいたずらに大事にしすぎるのをかなり嫌いました。そんなものは俗物がやることだと批判した。兼好は
「唐物の数寄」に対して、
「風雅の数寄」にこだわったのです。これは西行の面影と好みを継承したもので
した。
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結局、バサラたちによる金満の茶宴は顰蹙を買ってしだいに廃れます。もっとも夢窓門下でも虎関師
錬などは、騒ぎの茶には問題があるけれど、われわれはむしろ「古風の式」に対して「当世の体」をこそ
摂取するべきだと言ってますから、いろいろの評価があったわけです。そんな師錬の自由な茶風は中巌円
月に伝わり、さらには絶海中津や義堂周信らの五山文学僧のあいだに深まっていったようです。
五山文化というものは、あまり研究されていないし、一般にも禅宗禅林文化として以外にはほとんど
知られていないようですが、日本文化の解読にはいくつもの重要なカギを握っていて欠かせません。日本
の漢詩はこの五山において頂点を迎え、日本の水墨山水はこの五山において萌芽したのです。
同朋衆の登場
遊芸の文化や芸能の文化はサロンやクラプの文化ですから、心地よい場所が必要です。これをまとめ
て「座」といいました。神社仏閣にも宮座や道場のような「座」があり、そこがサロン会員やクラブ・メ
ンバーが趣向をたのしむところとなったわけです。その趣向を一致させて集うことを、一座建立ともいい
ました。
会所もそのひとつです。会所が室町殿に登場したのは十五世紀の最初の年、応永八年(一四〇一)のこと
です。
それにつれて「茶数寄」という呼称も、もっぱら嗜みに富んだ道具をコレクションができる分限者に
つけられた敬称となっていきます。さきほど紹介した『正徹物語』には、茶数寄にも品々や等級があって、
とくに「建盞、天目、茶釜、水差などの色々の茶具足を、心のおよぶほどに嗜み持ちたる人は茶数奇なり」
と書かれています。上等のコレクターだけが数寄者になれたのです。ふたたび舶来趣向が台頭してきたわ
けです。
そのころ唐絵や唐物はだいたいが禅僧と貿易商人によって入ってきた舶来品のことでした。そういう
禅僧はありていにいえば半分が商人です。
夢窓疎石にしてからが、天龍寺船を足利尊氏に提案して日宋貿易の指導にあたっていた。そこへ義満
の日明交易船がいっそう拍車をかけ、たとえば東福寺などが大きな輸入元のひとつとなりました。
しかし大陸半島から入ってくる唐物のすべてが出来のよいものとはかぎりません。また、何がすぐれ
ているか、かんたんにはわからない。そこで、唐物のよしあしを判定する信頼すべき"目利き"が必要にな
ります。アートディレクターであって飾り付けの心得もあるような、文化の編集ができる相談相手が必要
になります。
ここに登場してきたのが将軍まわりの同朋衆でした。五山僧によって文物の見方の下地はつくられて
いたものの、実際のコレクションにあたっては本格的な判定者が要請されたのです。同朋衆はそのための
コーディネーターでした。同朋衆の多くは能阿弥・相阿弥のように「阿弥」号をつけていたのですが、こ
れは時衆の出身が多かったからです。これも日本文化の特徴のひとつですが、コーディネーターは上から
ではなくたいてい下から登場しています。
こうして、かつては叡尊や忍性らの律僧が茶に通じたのに、ここでは時宗にまつわる時衆の僧が登場
することになりました。その後は「茶禅一味」というフレーズが示したように、もっぱら禅僧が力をもっ
ていきます。利休と大徳寺の密接な関係は、そのことを象徴しています。日本文化はたえず宗教集団の動
きにも左右されてきたのです。
のちに相阿弥は「数寄の宗匠」とよばれます。この相阿弥と趣向や作分の相談をしあっていたのが、
村田珠光です。
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私はここで、珠光が「和漢のさかいをまぎらかす」と言ったことについて、このあとの話題のために
も、新たな注意を促したいと思います。
和漢の「さかい」をこえる
村田珠光については奈良称名寺あたりの出身僧であったことをのぞいて、ほとんどはっきりしたこと
がわかっていません。
きっと古市氏の淋汗茶湯(風呂を併用する市中の茶湯)を目のあたりにする開放的な環境に育ち、そのう
えで大徳寺の一休に逸気を学び、相阿弥には「真」の遊芸を学ぶという、いうならば硬軟両派の彼我の茶
に通じていたのだろうと予想されます。ここで「真」といったのは真行草の「真」のことで、このころは、
絵や書をはじめとする遊芸のさまざまな分野に真行草のモードの違いがとりいれられていたのです。真は
フォーマル、草はカジュアル、行はその中間のテイストです。
第 2 回目に中国を「真」とみなし、日本は「仮」とみなすという真名と仮名の比較の話をしましたが、
このころ、ようやく日本の中にも「真」が見えてきたのです。しかし、ここまでの話でわかるように、そ
れはまだ中国の唐物にかたよっていました。
そうしたなか、珠光が古市氏のリーダー播磨澄胤にあたえた『心の文』に、
「和漢のさかいをまぎらか
すこと肝要」と言ってのけたのです。和漢とは文物としての唐物と和物のことですが、その「さかい」に
こだわらないで、これを融合させなさい、あるいは交ぜなさいという提案です。
この提案は、たいへんに重要なものです。これが初めてということではないのですが、また珠光が大
声をはりあげたわけでもないのですが、日本文化の編集の歴史では、特筆にあたいする提案だったと思い
ます。
和漢を並べるという方法は、すでにのべてきたように『和漢朗詠集』や和漢貼交屏風を筆頭に、これ
までも何度も試みられてきました。しかしながら、その和漢の「さかい」をこえていくという趣向は、ま
だ出ていなかったのです。
このようなことが言えるには、それなりの作分の準備も要します。たとえば陶器が「国焼き」となっ
て、その価値に評価が立つことです。また、それらを享受できる消費層が登場してくる必要もあります。
茶の湯の世界では、その準備がそろそろ整ってきたのです。珠光の時期よりすこしあとになりますが、い
よいよ志野や黄瀬戸や唐津といった国焼きによる焼きものの名品が登場し、利休の時代になると長次郎が
楽焼という、たいそう深みのあるオリジナルも作りました。
こうした"和物"の質の向上がないかぎり、和漢の「さかい」をこえようとしても無理なのです。茶の文
化では、このころちょうど好みが「草」の趣向に移っていたことも、和漢をこえるためのきっかけになり
ました。いわゆる草庵の茶、すなわち「侘茶」です。いいかえれば侘数寄です。この茶こそが今日にいた
る茶の湯ブームの原点になったのだから、これはたいしたものでした。
ふりかえってみると、なるほど、佗茶の趣向の発見は日本人がいよいよ本気で「和」に踏みこむにあ
たっての、格別の趣向を手にした最初の"事件"だったかもしれません。とくに複雑なものではなく、むし
ろシンプルな趣向になったわけなのに、それでいていつまでも飽きさせないのは、よほどに「覚悟、作分、
手柄」が小間・四畳半・二畳台目へと小さなスペースに向かって集約されたからなのでしょう。それによ
って、
「おもむき」が微妙なものへ移っていったからでしょう。また社会的には、そのような侘茶をたのし
めるだけの余裕のある町衆が、しだいに力をもってきたことも大きな下地支えとなりました。
私はそこに加えて、連歌の方法が茶の文化に流れこんでいったこともきわめて大きかったと思ってい
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ます。
この立役者は武野紹鴎でした。珠光の話につづいて、連歌と紹鴎のことを案内してみます。
連歌師の趣向
紹鴎は堺の資産家の出身です。茶を習った五、六年は京都の室町四条に住みますが、天文六年(一五三
七)には堺に戻っています。
当時の堺は一座建立を同じくする茶道具数寄の一大センターでした。この回の冒頭に紹介した『山上
宗二記』には、
「紹鴎三十まで連歌師なり。茶湯を分別し名人になられたり」とあります。なんといっても
紹鴎にあっては連歌師であったことが注目されるのです。
ここで連歌について説明する紙幅はないのですが、たいへんに重要なスタイルとモードをもっている
遊芸なので、ごく簡潔にその特徴を走り書きしておきたいと思います。
連歌は、和歌や歌合せをもとにしながらも、そこに唱和問答という片歌や旋頭歌などといった古代か
らの"編集の遊び"の流れを加えて成立していったものです。最初は一句連歌(短連歌)で、縁語や掛詞などを
たくみに駆使した付合が、貴族や僧侶の余技の遊びのように流行し、およそ王朝和歌のもつ風雅に反した
戯れがよろこばれます。
それが院政期になると、受領層から女房・遊女・地下層に広まり、東国・西国を問わぬ全国的なすさ
まじい流行となり、それに応じて鎖連歌(長連歌)が編み出され、一句連歌の競いあう戯れのおもしろみか
ら、技巧を凝らす歌の変化のおもしろみのほうに主眼が移っていきました。
ここに「物名賦物」というすばらしい趣向が登場するのです、とくに十三世紀には、その物名賦物が
「何水何木・何所何殿・唐何何色・物何何事」といったような、いわゆる複式賦物に変わっていって、か
なり複雑に、かつ、おもしろくなります。定家の『明月記』によれぱ、そのようになっていったのははっ
きり嘉禄期(一二二五∼二七)をさかいにおこったことだと言います。
このころ、わかりやすくいえば後鳥羽院失脚以降ですが、それまでの「有心無心の競詠」のスタイル
が退色していって、公卿の家などを借りて遊ぶ「一味同心する連衆」のものになっていきました。
また、春秋の仏会祭礼という場を活用した花下連歌(地下連歌)がだんだん台頭して、その宗匠に善阿や
救済が登場してきますと、連歌の座に参加することが個性を磨く手段ともなっていったのです。
こうして堂上連歌を代表する二条良基と地下連歌を代表する救済が連携すると「応安式目」と「莵玖
波集」という画期的な連歌編集がとりくまれます。ここに連歌は一躍にして和歌界を凌駕する「文化」に
なったのです。それにつれて連歌師によって一座をつくる動向がさかんになりました。それが連歌師の宗
砌・心敬・宗祇の活躍の時代です。連歌師は言葉を紡ぐプロというだけではなく、連歌の一座の趣向のい
っさいを演出してみせる文化のエディターであり、かつ各地の人々をつないでいくネットワーカーでもあ
ったのです。
連歌一巻を巻くことを「一座を張行する」といいます。一座は宗匠、書記役の執筆、連衆によって成
立します。良基の『連理秘抄』には、
「一座を張行せんと思はば、まづ時分を選び眺望を尋ぬべし。雪月の
時、花木の砌、時に随ひて変る姿を見れば、心も内に動き、言葉も外に顕はるる也」とあります。そして
「賦物」というお題が出るのです。
この張行プランはすべて連歌師が組み立てます。そこに格別の趣向がかかっていたのです。
「多様な集約」のあらわれ
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以上のことは、どこか茶の湯に似ています。いや、おそらくは茶の湯はこの連歌師の趣向と作分をま
るごととりこんだにちがいありません。二条良基も連歌の本質は「当座の興」にあると言いました。これ
もお茶と同じです。
そうした連歌師の一人に、利休の師にあたる武野紹鴎がいたわけです。さきほどもいいましたように、
紹鴎は少なくとも三十歳まではれっきとした連歌師でした。三条西実隆から定家の『詠歌大概』も伝授さ
れ、享禄五年(一五三二)には剃髪して禅門に出入りしていたこともわかっています。
その紹鴎が茶の湯に入ったのは、連歌の寄合と茶の湯の寄合が「雑談や遊芸の文化」として地つづき
に連続していたからでした。地つづきというのは、連歌の主題が茶の湯の主題になり、連歌の数寄の感覚
が茶の湯の数寄になり、連歌のパトロンが茶の湯の主人になったというような、そういう共鳴関係があっ
たということです。
紹鴎にとって二つの遊芸はことごとく隣りあい、重なりあっていました。私は、紹鴎こそが今日の茶
の湯の原型をつくった作分の張本人ではないかと推理しています。近世とは、このようにいくつもの「座
の文化」が相互につながりあったのです。
さて、ここから先、私は遊芸文化をいったん離れて、これまで話してきました神仏の問題や和漢の問
題や日本語の問題を本格的に組み合わせていった時代のこと、すなわち江戸時代の社会文化の話に入って
いきたいと思います。
これまで別々に編集されてきたものは、ここでいよいよ糾合され、その成果が試されます。
徳川社会では、まさに鎖国が試され、芝居が試され、農事が試され、染めが試され、浮世絵が試され、
思想が試され、メディアが試されています。しかもそれらをいま眺めても、そのほとんどがそれぞれ究極
の仕上がりに達していたのではないかと思えます。加えて、歌舞伎や俳句や文人画がそうであるように、
その多くが創発されて生まれてきたものでした。
編集文化という視点でいえば、徳川社会ほどに実験的な装置ができあがったことは、世界史上でも珍
しかったと思います。とくに鎖国の中で三百年にわたる実験が進んだ社会装置というものは、ほとんど類
例がありません。
江戸という都市文化だけに照準をおいてみても、私はかつて古代ローマ、中世バグダッド、近世江戸
を比較したことがあるのですが、その充実は目を見張らせます。そこではある意味ではなにもかもが大仰
に、ある意味ではなにもかもが故意に、そしてある意味ではなにもかもが極端に向かって、仕込まれ、析
出され、演出され、消費されていったのではないかと思われます。
とくにそのどちらの方向への実験においても、個性を賭けた方法の錬磨が競いあわれたということに
は、しばしば驚嘆させられます。
たとえば武芸ですが、実戦の場で役立つことなどほとんど無縁であったのに、なぜあれほどに磨きが
かけられたのでしょうか。またたとえば根付ですが、なぜあれほどまでに精巧をきわめたのでしょうか。
それは「おもかげの国」と「うつろいの国」という主題から見ても、まことに解きがたいほどの「多
様な集約」をあらわしていたと思えます。
けれども、ここではそうした社会文化のいちいちを見ていくわけにはいきません。ある視点に絞った
お話をしてみようと思います。
分・役・連の時代
日本の近世社会は天下一統のもと、楽市楽座やキリシタン文化や江戸儒学の登場などの新たな風が吹
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くとともに、鎖国や公家諸法度や武家諸法度や寺社管理や人別管理が次々に断行され、さまざまな身分社
会が強い再編成をうけた時代でした。
その特徴など一言ではいえないのですが、あえてそれ以前の社会文化史との相違を際立たせていいま
すと、次のようになるのではないでしょうか。
第一には「分」の時代だというふうに見られると思います。身分、分際、士分、本分が問われ、名分、
分限、自分を競った社会です。
文化的には歌舞伎にしても俳諧にしても、浮世絵や織りや染めの文化にしても、
「気分」が謳歌されま
した。悪所とよばれた芝居小屋や遊郭も、気分の発散が作った文化でした。とくに「名分」はこの時代を
象徴する言葉だったと思います。
第二に、
「分」とも関係があるのですが、近世社会は「役」の時代ともなっています。役割、役所、役
人、役者、立ち役、同役、その他の役がこれでもかこれでもかと揃います。
かつての貴族社会が主だった一門や一族を中心に構成されていたのに対して、また、かつての武家社
会が御恩奉公・本領安堵をもって成立していたのに対して、江戸時代にはこうした縛りとはまた別の、
「分」
や「役」がくまなくめぐらされたのでした。
第三には、これまで話してきた「好み」のもち方ともかかわってくるのですが、
「連」の文化が多様に
誕生していったことをあげることができます。これは桃山期までが「座」の文化の継続であったとすれば、
これらの会衆たちが新たに横につながりあい、自由に連中や社中や講中を組んでは離れ、集まっては別れ
るという、柔らかい連結のような動きが多くなったということです。
以上の、私が仮に絞った「分」「役」「連」の三つの出入り口が見せる徳川社会のそれぞれのプロフィ
ールは、日本の社会文化の歴史からしてもかなり新しいアソシエーションの特色だろうと思います。
とくにこの三つの単位の組み合わせで人々が横へ横へと動きまわったということは、しだいにめまぐ
るしくなってきた江戸情報社会への対応としても、すこぶる独特のものがあります。ここではお話ししま
せんが、幕末になって脱藩による横議と横行がさかんになって、これが勤皇と佐幕に分かれて大きなムー
ブメントをつくったというのも、横への動きが重視されたということでした。
このほか、多くの表現物や製作物がショートレンジになり、そのぶん組み物や揃い物が多く試みられ
たことも、情報文化の切り口として特徴的なことでした。
たとえば小袖は袖を短くしたことの、俳句は連歌連句の発句を自立させたことの、ショートレンジの
勝利というものでした。一方、
「綴りもの」の浮世絵や草紙・草子の「続きもの」の刊行は、近世社会が街
道筋ごとに文化を形成したこととあいまって、社会文化がシリーズ性を欲求していたことをあらわしてい
たでしょう。また、瀬戸物や箪笥や煙管や文具に代表される日用品が揃いを作り出したことは、江戸の文
化のセット性をあらわしていました。
これらがなぜに充実していったかといえば、
「分」
「役」
「連」それぞれに法被も手拭も提灯も必要とさ
れたからなのでした。つまり、階層や役割やグループが細分化されればされるほど、それらの活動や目的
を情報的な目印として明示する必要がふえ、それがひいては、法被や手拭や提灯にいたる物品の大量生産
や大量制作を次々に生み出したということです。
このような近世文化は、それまでの歴史文化の流れや変遷とは何が違うのでしょうか。
むろんたくさんの違いはあるのですが、私はともかくも「多様な日本」を凝視しようとしたことに、
これまでにない意図と息吹を感じます。
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自己編集のはじまり
さきほど、村田珠光が「和漢のさかいをまぎらかす」という提案をしたことを紹介しました。近世で
はもっとはっきりと「和」と「漢」が分かれていったのです。
いや、最初は徹底した和漢の同定がチェックされたのでした。けれどもチェックしてみると、どうに
も日本の風土や産物に合わないところが少なくない。そこで日本は日本独自の分類項目をもつべきだとい
うことになったのです。これは本草学という領域での"革命"です。
それまで日本の植物や薬物や鉱物や物産の特徴検索や分類は、ほとんどが中国の『本草綱目』などを
もってあてていました。それが、貝原益軒の『大和本草』や松岡玄達の『用薬須知』がその嚆矢のひとつ
なのですが、やっと日本の分類による日本の呼称のリストが出現したのです。これは国内生産物に対して
徹底した調査と分類がなされた成果として特筆すべきことで、このような産物調査がないかぎり、実は「日
本」といっても、それは中国のあてはめでしかなかったのです。
丹羽正伯、稲生若水、小野蘭山といった名は、あまり知られていない人々かもしれませんが、実はこ
のような産物・物産の分類調査のエキスパートであって、このような人々がいなければ、日本は自立の用
意などできなかったというべきです。
このあとのことはよく知られていることと思いますが、こうした物産分類の作業とその展示を通して、
一方では平賀源内などの百科百貨派が、他方ではそれらを絵にする浮世絵師が登場してきたものでした。
初めて「日本史」という視点をもったことにも、強い意図を感じます。
林羅山親子の『本朝通鑑』はまだ中国の影響下にあるとしても、山鹿素行の『中朝事実』や『武家事
紀』
、新井白石の『古史通』や『読史余論』は比較的早い時期の独自な著作ですし、中期には国学の台頭と
ともに、水戸光圀が構想した『大日本史」の執筆編集が進み、頼山陽の『日本外史』なども著されていま
す。
これは日本がいよいよ"自己編集"にとりくんだということを表明しています。最初からアイデンティテ
ィを求めて「日本探し」をしたというのではありません。むしろ『本草綱目』に対するに『大和本草』を
著したように、日本は日本なりの歴史を記述したかったのです。少々遠慮がちにいえば、徳川三百年の安
定社会のなかで、しだいに過去に目が向いていったともいえましょう。
けれどもいざ日本の歴史を著述してみると、いろいろ問題がある。たとえば南朝と北朝は、どちらを
正統的な天皇家として描けばいいかという問題にぶつかります。承久の乱や平将門の乱を、どの視点で書
けばいいものか。それらがひとつずつ歴史家たちに問うてきたのです。
これは日本が日本を鍛えるにはもってこいの問題でした。今日の歴史教科書問題もそうですが、自国
の歴史をどう著すかということは、国にとつても民にとっても、国内にとっても国外にとっても、どれひ
とつ容易な問題ではないのです。徳川社会はそのこと自身を自己編集することによって、初めて「日本」
というものに向き合った時代となりました。
こうした歴史編集の実際のきっかけは、それまで長らく尊崇の目で眺めてきた中国で明国が倒れて中
国王室が流謫、もはや「中華」というものが"本場"の中国になくなったことにもあります。
東アジア世界を統括していた華夷秩序がガタガタとくずれたのですから、これは日本にも大きな変化
をもたらしたのです。日本史に対する"自己編集"が始まったのは当然でもありました。
近松門左衛門の「国性爺合戦」は、この明国崩壊にまつわるチャイニーズ・ヒーローを日本の舞台に
移し変えたものでした。かつて『和漢朗詠集』では漢詩と和歌が対置されたのですが、ここでは物語その
ものが和漢をまたいで、その「さかい」を越境しはじめたわけでした。時代が進んで上田秋成にいたって
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は、中国の白話小説を完壁なまでに換骨奪胎して、
「和」の物語を作り上げてしまうという"快挙"に及びま
す。
そうしたなかで、儒学の和様化が伊藤仁斎や荻生徂徠によって試みられたことは、
「和漢のさかい」を
さらに際立たせるうえでの大きな役割をはたしました。このことについては、さらに次回で国学の勃興と
意味を案内しつつ、もう一度、考えたいと思います。
さて、このような江戸時代、では、
「おもかげ」と「うつろい」はどうなったのでしょうか。
私は、江戸社会ではそのスコープのサイズがいったんは藩や城下町や門前町へ、あるいは家や店やメ
ディアの中へと縮小されていったのではないかと見ています。縮小という見方が適切でないとすれば、新
たな単位の、さきほど指摘した「分」
「役」「連」の単位にふさわしい「おもかげ」や「うつろい」が話題
になっていったと考えられます。
そして、そのような単位の動向と相並んで、
「おもかげ」や「うつろい」の感覚は、芭蕉や西鶴や近松
の、また尾形光琳や宮崎友禅斎や初代市川団十郎の、それぞれの「胸中の山水」としてふくらんでいった
と思えます。
第6回
古学と国学の背景
義理と人情
高倉健に「義理と人情を秤りにかけりゃ、ギーリが重たい男の世界」と低く歌い出す『唐獅子牡丹」
という歌があります。水城一狼・矢野亮の作詞です。人情よりも義理のほうが重たいだなんて、歌謡曲に
してはずいぶんはっきりした判定をくだしたものです。
義理と人情は日本人の心情をよくあらわしていると、しばしば言われてきました。けれども、これを
はっきり定義づけようとすると、なかなか難しいものがあります。
津田左右吉は「義理とは意地である」と説明し、福場保洲は「義理は体面の哲学である」と言いまし
た。義理人情論は、案外に難問なのです。いろいろ仮説は出ています。有賀喜左衛門は「義理は公事、人
情は私事」という区別をし、姫岡勤は「好意に対する返礼としての義理」と「契約に対する忠実としての
義理」という比較をしました。
仮に、これこそ日本人の根底に流れている心情だろうといってみても、その根底がいつごろからのも
のか、はっきりしません。まさか縄文弥生ではあるまいし、王朝期でもないでしょう。
『源氏物語』や『平
家物語』には、ギリもニンジョーも出てきません。鎌倉武士の一族郎党が義理と人情を秤りにかけていた
かというと、そんなものは芽生えてはいません。そこにはたらいていたのは、道理です。
そもそも義理という言葉は考え方の筋道が正しいという意味で、朱子学から出た言葉です。人情は世
情に対しての、人の情報ということですから、これも日本的な心情とは基本的には関係ありません。
それが義理と人情がセットになって日本的な意味あいをもちはじめたのは、やっと元禄前後になって
からでした。最初は義理が話題になりました。仕掛人は井原西鶴で、
『武家義理物語』があります。また『好
色一代男』に「義理を詰める」というふうに使いました。
これでブレークです。そのころの江戸や京や大坂は情報メディア社会としてはほぼ現代に匹敵する伝
播力と波及力をもっていましたから、ある言葉がいろいろの場面で使われ、勝ち残った表現だけがその時
期の社会観を端的に象徴する"流行語大賞"になるわけです。
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そこに追い打ちをかけたのが、近松門左衛門でした。
西鶴が描いた義理は一言でいえば、
「情緒の道徳」というものです。一方、近松は義理をストレートに
描いたというよりは、一心に「情けの美」を描きこんで、そこに観客のほうが義理と人情の葛藤を読むよ
うにしています。この西鶴と近松のちがいは、当時有名だった遊女夕霧の描き方のちがいにあらわれます。
西鶴は『好色一代男』のなかで、夕霧を「命を捨る程になれば、道理を詰めて遠ざかり、名の立ちか
かるれば了簡してやめさせ、つのれば義理をつめて見ばなし」と書きました。気丈夫として描いたのです。
これに対して近松は『夕霧阿波鳴渡』のなかで、夕霧をかえって弱々しい「投げ入れの水仙清き姿」のよ
うに描きました。
このちがいを拡張すると、西鶴になくて近松にあるのは仏教的無常感だということになります。無常
感がどういうものだったかは、すでに第 4 回目でお話ししました。ウツロイがともなっているのです。
この近松の描き方は、当時の庶民の心情にぴったりでした。義理と人情が秤りにかけられたというよ
り、西鶴と近松が秤りにかけられて、ウツロイをともなう「情け」が理解されていったというわけです。
かつて亀井勝一郎が「仮名の誕生によって日本文化の草化現象がおこった」と言ったことがあるので
すが、
『義理と人情』という著作のある源了圓は、そのひそみに倣って、
「義理人情は江戸文化の草化現象」
と言いました。草化とは、真行草の草のこと、草仮名や草庵につながる「おもむき」です。
つまり漢字漢文の真名的な朱子学っぽい義理人情ではなく、女手のような仮名っぽい感覚で、義理人
情は和様化していったということです。そこに近松が日本人の心情を見抜く才能が光ります。
「からざえ」と「やまとだましい」
日本の近世で草化現象をおこした社会観や価値観は、義理や人情ばかりではありません。もっと多く
の情報が乱舞して、それらがさまざまな角度で徳川社会の特質と結びついていきました。
たとえば勧善と懲悪、たとえば浮世と悪所、たとえば粋と野暮、たとえば名分と冥利、たとえば勤皇
と佐幕……。まさにいろいろあるのですが、私はここでは、
「からざえ」と「やまとだましい」という一対
の情報的価値観を取り出したいと思います。
よく「和魂洋才」といいます。しばしばこの言葉で日本のありかたも安易に説明されてきましたが、
いうまでもないことですが、かつては「和魂漢才」と言っていたのです。和魂が「やまとだましい」、漢才
が「からざえ」です。江戸の思想は儒学も古学も国学も、この和魂と漢才を截然と分けようとしました。
「からざえ」に対するに「やまとだましい」を対置することを、強調しすぎるくらいに強調したのです。
なぜそんなふうになったのでしょうか。その背景に何があったのかを考える必要があります。なぜな
ら、その後の日本思想の多くは、この「やまとだましい」にこそ躓いたからでした。ただし、あらかじめ
二つのことを言っておきます。
ひとつは、すぐにこういうことを想定する人がいるだろうから言っておくのですが、そうした江戸思
想のなかで強調された「やまとだましい」が一部において国体思想や武断主義に結びつくのはずっとあと
のことで、後期水戸学の会沢正志斎の『新論』が出まわり、平田篤胤の門下生の大国隆正の言動が知られ
る以降だったろうということです。
もうひとつには、すでに「やまとごころ」「心だましひ」「世間だましひ」という言葉は平安中期に使
われていて、たとえば「やまとごころ」という言葉の初出が赤染衛門の歌にあって、夫の大江匡衡が「は
かなくも思ひけるかなちもなくて博士の家の乳母せむとは」と詠んだのに対し、妻の赤染衛門が「さもあ
らばあれやまと心しかしこくば細乳につけてあらすばかりぞ」と応え、そんなことは男の手を借りずとも、
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自分たちが子供に教育できるものだと自信をもって表明していたということです。
あいかわらず女性の「和」に向かう決断が目立つ話です。また、
「やまとだましひ」という言葉自体も
『源氏物語』少女の巻に早くも出ています。念のためー。
徳川幕府のレジティマシー
さて、ここからは徳川の社会というものの特質を通して、そのなかでどうして「やまとだましい」の
問題が出てきたのかという背景を説明したいと思います。
実は、端的にいうのなら、徳川幕府とは"戦後体制"のことでした。北条執権政治の凋落このかた三百年
にわたった内戦と秀吉の朝鮮出兵という無謀な計画にやっと終止符を打ったという意味での、戦後体制で
す。
このとき幕府は藤原惺窩や林羅山に頼んで中国の儒教儒学のエッセンスを政治思想に採り入れようと
します。なぜ、そのようなことをしたかというと、日本政府としてのレジティマシー(正統性)がほしかっ
たのです。
徳川幕府の体制の根幹は、家康が覇権を秀吉から継承して武家諸法度や公家諸法度を決めたというこ
とにはなくて、天皇から征夷大将軍を任ぜられたということにあります。徳川家の出自は三河岡崎の小さ
な城主にすぎませんが、この天皇からの任命を前提にして、そこに何かを積み上げればレジティマシーが
つくれるはずです。
こういう考え方は、信長や秀吉にはなくて家康にはあったものです。信長・秀吉は自分の力で頂点を
制しようとして、それを遮るものは打倒するという方針です。それが比叡山であっても、息子であっても
心友であっても、堺のような都市であっても、キリシタンであっても、です。けれどもそのような方針は
国内では通用しても海外では通用しません。また、自分の力が弱まってしまうと、それを代々継承するこ
との保証は、本人の存在以外にはなくなってしまいます。
家康はそこをもっと大きく捉えて、東アジア社会との関連から、中心としては中国上の関係から、幕
府の確立と将軍家の継承をなんとかして保証しようとしたのです。それにはどうするか。この問題をうま
くクリアすることが、初期の将軍家と幕閣の課題でした。
手っ取り早いのは、日本の歴史や特色がどうだったかなどということとほとんど関係なく、ある国に
理想のモデルを求めてそれに近づくことです。徳川幕府にとっては、それは中国でした。
そこで林家に儒教や儒学をマスターさせ、中国思想や中国体制が国家の普遍原理であることを強調す
るようなプランを提出させようとします。事情は異なりますが、これは太平洋戦争後の日本がアメリカの
モデルを受け入れたのと似ています。
しかし、中国をモデルにするには、日本の天皇を中国の皇帝と比肩できるようにするか、あるいは中
国の皇帝に準じる位置にあるようにする必要があります。それをこそ正統化しなければなりません。それ
ができれば、その天皇から征夷大将軍を任命された徳川幕府のレジティマシーがつくれます。
これもまた、今日の日本の歴代首相がアメリカの大統領府とどうつながっているかを、国民やメディ
アや諸外国に見せているやり方と変わらないかもしれません。
徳川初期においては、このことをどうすれば正統化できるかというと、たとえ強引ではあっても、
「天
皇は中国の王朝とつながりがある」というような理屈が通ればいいという発想が出てきました。
こんな理屈ははなはだ乱暴なものですが、意外にもこういう論議は以前もあったのです。たとえば五
山僧の中巌円月は「神武天皇は呉の太伯の子孫だ」という説をとなえていて、その説が入れられなかった
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のでその書を焼いています。まさに林家はかつてもそのような議論があったことを持ち出して、この「天
皇正統化」を根拠づけようとしたのです。
これはいわば、
「中国モデル→天皇→徳川幕府」というふうになるような方程式をつくることです。そ
の方程式はひどい話ですけれど、"見せかけ"でもいいのです。林家の儒学はそれをまことしやかにするた
めの武器でした。
新しい三つの思想
いったい江戸の思想をずらりと概観すると、何が日本人の自由な行動や思索を妨げているか、邪魔を
しているかという議論が、一番目立っています。なかでも、中国的儒学のもつ天人合一型の「理」につい
ての曲解が邪魔をしているという見解が多いのです。
幕府がつくろうとしたレジティマシーは、この「理」を無理にでもひっぱり出そうとしたことにあり
ました。江戸時代の思想家たちは、そんなやり方は儒学が本来もっているものを歪めていると判断したの
です。そこで、なんとかしてこの無理を変更させようとして、それまでの時代社会にはなかった新しい思
想が登場してきたのです。
その思想に、大きくいうと三つの流れがありました。
第一は、伊藤仁斎から荻生徂徠にいたる流れです。その考え方は、私がこれから話したい文脈で説明
すれば、林家によって歪められた朱子学(儒学)を元に戻し、そこからしだいに古学や古文辞学のほうに進
んでいって、そこで本来の理想国家を考えようというものでした。そしてそのことを考えるには、徂徠の
用語でいうのなら、近時に使われている「今言・今文」ではない「古言・古文」をもって当たらなければ
ならない。そういう考え方です。
そのばあい、日本人は日本語を使っているのですから、日本の理想国家のためには、日本の「古言・
古文」が必要だと主張したのです。
第二は、日本聖学主義あるいは経世済民主義ともいうべきもので、代表的には中江藤樹、熊沢蕃山・
野中兼山、山崎闇斎・山鹿素行らが次々に名前を連ねますが、ここには必ずしも系統的な流れはありませ
ん。それぞれがそれぞれの考え方と編集方法で理想を掲げました。
たとえば江戸時代に人口に膾炙したコンセプトでいえば、藤樹は「明徳」や「孝」を説き、闇斎の垂
加神道は「敬」
「忠」
「道」を説き、素行の聖学は皇統の一貫性を根拠に「士道」を説いて、それぞれ日本
の自立の根拠を上げ立てたのです。ちなみに素行はその著『聖教要録』が幕府に睨まれて赤穂に流される
のですが、そこでの訓話などが赤穂浪士の心をかきたて、それが吉良邸への討入りにつながったとも言わ
れます。
第三には、契沖から苛田春満や賀茂真淵をへて、本居宣長におよんだ国学の流れがあります。これに
ついてはのちに私なりの要約点を話しますが、とくに宣長は徂徠の影響をうけて「古言」を重視するとと
もに、徂徠のように儒学の歪みを正すだけではまったく足りないとみて、あえていっさいの「からごころ」
(漢意)を排し、一途に「いにしえこごろ」(古意)を探求することこそが最重要課題だと決断したものでした。
このほか、戸田茂睡から塙保己一に流れた和学派、合理主義を儒学から離れて西欧に学ぼうとした洋
学(蘭学)派、仏教史の読み替えをしなければ展望がないとした富永仲基などの仏教史学派、まったく独創
的に「条理」の哲学を打ち立てようとした三浦梅園のような単独派などなど、さまざまな思索者たちが出
現したのですが、ここでは省きます。
いずれにしてもこうした思想は、むろん一長一短も濃淡も相互の確執もあるものの、それなりに日本
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社会や日本文化の本質をなんとか見極めようとしたのでした。
つまりこれらは、日本の面影の本質をいよいよ追求しようとしたものでした。
「おもかげの国」の様相
は、この時点においてようやくその全貌をあらわそうとしていたのです。
明の崩壊が与えた影響
さて、いま申し上げたような新たな思想の発露は、徳川幕府という巨大なシステムが強圧的に機能し
たということがあっての、いわば曲がったバネをまっすぐにしようという方法によっての発露でした。体
制思想との対比や反発、また同調や離反から、撥ね上がるように生じたものです。
そういう意味では、幕府がレジティマシーのために強引に用意しようとした"無理な日本論"こそが、こ
れに反発する百花繚乱の日本思想を多様に立ち上がらせたというふうにいえると思います。
しかし実際には、この幕府御用の「中国をモデルとした正統性」をめぐるプランそのものが、うまく
作りきれなかったのです。肝心の幕府の計画のモデルは作れなかったのです。なぜでしょうか。このこと、
およびこのことによってどういう事態と事情が連続的に惹起されていったかということは、たいへん重要
な問題なので、かいつまんで説明しておきます。
直接の原因は"本場"であったはずの中国で、明朝の崩壊と、漢民族ではない清朝の台頭がおこったこと
にありました。しかもその時期が徳川幕藩体制の確立の時期とぴったり重なっていたのです。
明が滅びたということは、東アジア社会の最大の事件です。それは直接に日本の体制に響きます。唐
が滅びたときも、異民族の元が中国の王朝をのっとったときも、日本の社会文化でいえば、その時期に国
風文化が台頭し、その時期に神国思想が台頭していたわけです。すでに何度も説明してきたように、なに
しろ日本から見れば、中国こそは「真」であって、真名に対して仮名があるように、この「真」がなくな
ってしまっては困るのです。
ですから、明の倒壊は日本にとっての大事件でした。おそらくはあれほど用意周到な家康にして、唯
一、予想もしていなかったことでしょう。これでは本場中国のレジティマシーそのものがおかしくなった
わけで、前回の最後でも触れておいたように、大前提であったはずの「中華の秩序」の軸がなくなってし
まったのです。
これはあたかもソ連が消滅したので、突然に東欧諸国や各国の社会党・共産党の路線に変更が出てく
るようなものです。
このため幕府の御用理論はお手上げになります。なぜかというに、さきほども言ったように、中華思
想というものは儒学で支えられていて、そこには天子(皇帝)と人民とが「理」としてぴったり対応できて
いるという「天人合一型の理気哲学」というものが機能していて、それによって中華の秩序は保たれてい
るのですから、それがなくなってしまっては、どこからレジティマシーの根拠を持ち出してよいやら、わ
からないのです。
これではいくら中国皇帝と日本の天皇と徳川征夷大将軍を一本の「理」でつなげても、なんらの正統
化にもなりません。そこでここから先、幕府はむしろ内政体制を徹底するようになっていったのです。こ
れが「鎖国」に踏みきった理由です。
中華の崩壊は、いろいろな影響を日本にもたらしました。中国発信の国づくりの思想の日本化だけで
なく、中国発信の産業や物産の日本化も、これで踏ん切りがつきます。
国産の物産の奨励が進み、これに応えて丹羽正伯や稲生若水の産物調査が施行されたり、貝原益軒の
『大和本草』が著されたのはそのせいでした。こうして幕府は、中国の本草学(物産学)のデータに頼らな
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い国内生産のしくみの特徴検出やその増進の組み立てに向かうことになったのです。
これがいわゆる「実学」です。徳川吉宗の政治の推進力がここにあったことは、よく知られていると
思います。
こういうわけで、幕府の内政のほうは推進力もつき、たとえ問題がおこっても老中や大目付を交代さ
せながら幕政改革をしていけばいいことになったのです。こうして国内の「分」や「役」が充実し、それ
を横にまたぐ、
「連」も動き出したわけですが、さて、それで日本の面影の本来を追求していることになる
かといえば、そこはちょっと違ってきてしまいます。
では、ここから何がおこったのでしょうか。まつたく新しい考え方が急速に浮上してきたのでした。
日本モデルの提案
新しい考え方、それは中国にモデルがないのなら、日本自身をモデルにすればよいというものです。
いわば、
「日本こそが真の中国になればいいじゃないか」というもの、つまり「中華思想」(華夷秩序)の中
軸を日本にしてしまえばいいという考え方でした。
これなら、日本の天皇は中国皇帝から分かれたとか、古代神話をなんとか解釈しなおして中国皇帝と
日本の天皇を比肩させるといった変な理屈を持ち出さなくても、いいのです。
ここでは、多少、時期が前後しますが、二つのモデルが提案されたことだけを説明しておきます。
ひとつは、日本ではときどきこういうことがよくおこるのですが(たとえば道鏡や文覚のように)、一人
の怪僧があらわれて山王一実神道というものを言い出したのです。
家康の師の天海です。その中身は、中世以来くすぶっていた山王神道を変形させたものだったのです
が、幕閣のイデオローグの大長老が言い出したところに凄みがあります。
天海は家康を"神君"にしたのです。意表をついたプランでした。けれどもこんなことをすれば、天皇家
や公家はおもしろくないに決まっています。これが後水尾天皇の紫衣事件などがおこった理由であり、寛
永文化が一方では桂離宮や修学院離宮などの皇室型の王朝懐古趣向と、他方では大御所型の日光東照宮に
象徴される盛りだくさんな権現趣味とにスプリットした理由です。
また、幕府がこのような神君カードを切ったということは、もしも将軍家がおかしくなったり、倒れ
たりしたときには、このカードの威力が別のところで使われるリスクもあったわけです。次回にお話しし
ますが、実際にも幕末維新の結末とは、この神君カードがふたたび天皇とその側近に戻ったこと、それも
徳川以前の天皇の力よりも数十倍も数百倍も威力をまして戻ったことを、あらわしていたのです。
もうひとつは、山鹿素行の『中朝事実』がまさしくこのことを示しているのですが、中朝、すなわち
中国と日本の朝廷をくらべると、日本のほうが一貫性をもっているのだから、日本が新たな中華秩序の中
心となるのは当然だというプランでした。
素行がこのなかで皇統の一貫性を説いたことは、このあとの日本論にさまざまな修正を与えます。そ
れはいってみれば、日本の天皇が"真の皇帝"だということになるわけですから、一番大きな修正は、もと
もと中国を中心に広がっていた中華思想の範囲を、新たに日本を中心に描きなおさなければならないと気
がついた思想を派生させたことでした。
つまり『中朝事実』を拡大解釈すれば、話は日本列島にとどまらなくなってしまうのです。日本の歴
史的発展こそが、かつての中華文化圏全体の発展を促進するものだというような、まるで本末転倒した考
え方になっていくのです。これはのちのちの「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」や「五族協和」の考え方の
ルーツにあたります。最終回で、もう一度、このことに触れたいと思います。
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もっとも、幕藩体制を固めている時期には、まだそこまでの"構想"は出ていません。ともかくも中国軸
に頼らない日本軸が設定されるべきだという議論が確立されてきたというだけでした。
ところで、この「軸」という発想は、第二次世界大戦下においては日独伊の枢軸というふうに、いま
ならドルやユーロの基軸通貨やジョージ・ブッシュの「悪の枢軸」発言というふうに、つねに世界を制し
たいものたちが打ち出す切り札のようなものです。そのことから見ると、
『中朝事実」の読み賛えや修正は、
たいそう危ない思想を孕んでいたわけです。
まとめていえば、こうなります。幕府の方針からしても、予想通りではなかったものの、日本の「中
国離れ」は否応なく、おこったのです。けれども、実際の幕藩体制のなかでは、それが国際的な政治面か
ら切り離されて内政化されました。鎖国とはそのことです。その内政転換期に実学的な産業経済面が接ぎ
木され、それが結局は徳川社会の実質になっていったということなのです。
では、
「中国にモデルがないのなら、日本白身をモデルにすればよい」というプランは、まったくなく
なってしまったのでしょうか。幕府モデルはなくなりました。しかし、まったく別のところでは、このモ
デルは生きつづけていたともいえるかもしれません。
ひとつは「藩」のモデルです。これは徳川後期になるにしたがって加熱していきました。また、ひと
つは小さな動きで終わりはしましたが、海外における「日本人町」のモデルです。また別の意味では、の
ちの滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』などがそうですが、物語の中に生まれた幻想共和国のようなモデルで
す。
こうしたなか、古学や古文辞学や国学が満を持して気を吐くことになるのです。それはこれまで紹介
したような意味では、日本論にあたるものや日本モデルにあたるものではありません。しかし、日本の心
性という意味では、まさに新たな日本モデルを探究したものでした。
では、そのことをお話ししたいと思います。
いったい本居宣長に至った国学が「漢意」に対して「古意」を強調したことは、いまのべたことと関
係があるのか、それとも別の議論だったのかという、そのことです。
日本の初源を読む
いま、私の世代の人たちが日本や日本人の本来や将来のことを考えようとすると、その途中の場面で、
必ず日米安保体制というものにぶつかることになります。そして、そこで思考が止まってしまって、この
安保体制をどこかで外して考えないと、その先に進めなくなるということを実感することがあります。
おそらく多くの人が実感したり、体験していることでしょう。
本居宣長が日本や日本人の宿命や将来を考えようとしたときも、どこかでそれ以上に思考が進まない
ところがあったのです。つまり、あるところで、本来のことを考える力が失せてしまうようなものがある
と感じたのです。宣長はそれをこそ、
「からごころ」と呼んだのでした。
現状の日本人には「からごころ」にあたるものがこびりついている。それを取り除いて、自分たちが
日本人自身であることの根拠をきれいに言おうとすると、その「からごころ」が邪魔をする。そういう実
感です。
よく知られているように、本居宣長が生涯を通して迫ろうとしたものは「古意」というものでした。
それに対して、その古意を失わさせるもの、からごころそれが「漢意」です。
「漢意」といっても、必ずしも中国趣味とかシノワズリーということではありません。宣長は『玉勝
間』に、こう書いています、
「漢意とは、漢国のふりを好み、かの国をたふとぶのみをいふにあらず、大か
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た世の人の、万の事の善悪是非を論ひ、物の理をさだめいふたぐひ、すべてみな漢籍の趣なるをいふ也」
と。
多くの日本人は中国のことを引き合いに出しては、それをものごとを考える基準にしているけれど、
その日本人の中途半端な編集の仕方が「からごころ」というものだと言っているわけです。
では、どういう編集方法で日本の本来や将来を考えればいいのでしょうか。それを宣長は、
『古事記伝』
だけをとっても、全四十四巻を著述しつくして、三十五年をかけて考えたのでした。
ここで宣長の主張を、あらかじめ次のように理解しておくといいかもしれません。
宣長は、世界に通用するような原理やどこにでも適用したくなるような原則などをつかって思考した
り説得するようなことは、思想の力とは認めたくないと言っている、そう理解してみることです。宣長は、
中軸とか機軸というような考え方は採りたくない、そう、言っているのです。
では、宣長はどうしたいのか。そもそも宣長は、歌論の『排? 小船』を出発点にして『源氏物語』を
研究しながら、そこに見えてきた「もののあはれ」という心情を"発見"しました。宣長がいう「あはれ」
とは、
「見るもの聞くことなすわざにふれて、情の深く感ずる事」(『石上私淑言』)というものです。
この、
「わざ」にふれて「こころ」が感ずるというところが宣長らしい図抜けた特色で、ここでいう「わ
ざ」は歴史や文化の奥にひそんでいる情報を動かす方法のこと、またその方法を言い当てている言葉をし
だいに実感しながら、それを使うことです。
使ってどうするのか。ふつうなら、そこで文芸に向かうとか、何かを表現することに向かうにちがい
ないでしょう。私などもそう考えます。けれども宣長はそうしない。だいたい宣長は和歌を詠んでもヘタ
クソでした。では、どうするかというと、そのまま歴史の奥のほうへ、言葉のもつ意味の初源のほうへ降
りていくのです。それなら、なるほどそれは神話研究だなと思いたくなるのですが、たしかに神語研究も
しているのですが、どうもそれが目的ではないのです。
宣長は古学を媒介点にして、最初は荻生徂徠の方法と同様に、古言古文の中に分け入っていくことを
めざしていました。
ところが、このことは当時の知識人ならたいていその問題にぶつかったはずなのですが、何かが思索
の邪魔をしているのでした。途中でどうしても漢語や漢字での思索をしてしまうのです。いまでいうなら、
世界の中の日本のことを考えていると、半分くらいは英語で考えてしまっているというような、そういう
事情に似ています。
べつだん、それだっていいじゃないかという考え方もあります。たとえば私は第 3 回目のところで神
仏習合の話をして、日本の宗教的体質は宗教学ではシンクレティズムといいますと書きました。そして、
いや、そういう言葉ではいいあらわせないとも書きました。
このときシンクレティズムという外来語で規定できたほうが、すっきりする人だっているのです。け
れども、そう思えたとしても、シンクレティズムという概念はヘブライ主義や新プラトン主義やミトラ教
やバール信仰やらの研究から生まれた概念ですから、いざその概念で日本の信仰を見ていこうとすると、
いちいちそれらの宗教文化の比較をせざるをえません。そうすると、日本の信仰の細部でその特色を発見
するよりも、海外文化とのちがいだけで何かを決めたくなります。それが可能なこともありますが、そう
でないことも少なくないのです。だいたい八幡信仰とミトラ教を比べようがありません。
宣長も、いったんは、漢語や漢字のもつ古層に戻ってみようともするのですが、宣長はそこで気がつ
いたのです。こういう思考をしている以上は、つまりは借り物の言葉で日本の本来を考えようとしている
以上は、この先には踏みこめまい、というふうに。
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これはまさしく「漢意」の排除です。けれどもそれは中国や中国文化を排除しているのではなく、宣
長の思考そのものにそのような要素が入らないようにすること、そのこと自体であったのです。
この気づきを促したのは、宝暦十三年(一七六三)に賀茂真淵と「松坂の一夜」として知られる有名な出
会いをしたことでした。宣長は真淵の教えと手引きで『古事記』の注釈にとりくみはじめます。
それはたしかに神話研究でもありました。しかしそれとともに、そこで「わざ」にふれて「こころ」
が感ずるように日本の初源を読むという行為そのものでもあったのです。それを宣長はきりなく進めてい
ったのです。
かくて、宣長の国学というものがしだいに形をあらわしていくのですが、それは現実としての日本を
どのように管轄すべきだとか、どのようなシステムが日本にふさわしいかというようなことではなくて、
そもそも「本来」からどのように「将来」が生まれてきたのかというような、いわばウツ(本来)からウツ
ツ(将来)が生まれてきたプロセスだけを、ひたすら解明しようというような、そういう作業になっていっ
たのです。
では、宣長の国学の成果を、そのごくごく一部を紹介して、今回のお話を終えたいと思います。
「本来」と「将来」のあわい世界の神話にはたいてい民族の起源や国土の創成や、また神々や歴史の
発生に関する物語が語られています。そこでは、
「つくる」や「うむ」や「なる」といった基本動詞によっ
てその発生が説明されています。
このなかで、
「つくる」はユダヤ・キリスト教やギリシア自然哲学が重視した言葉でした。そこには造
物主という単体の主語があって、そこから次々に、系統的に国土や民族や習慣がつくられてきたわけです。
ここでは創造の起源に想定されていたものが、主幹から分枝に向かって次々に分割されていったというふ
うに、発生のプロセスは語られます。一神教の得意な文法です。
ところが、日本の神話や風土記では、もっぱら「うむ」や「なる」がたくさん使われていて、そこで
何がおこったかといえば、
「そう、そこで、そうなったのです」というような、説明にならないような説明
ばかりが使われているのです。これは分割や分配とは、どうもちがいます。しかし、宣長はそこに注目し
たのでした。
宣長は「なる」
「つぎ」
「いきほひ」
、そして「むすび」という古語に関心をもちます。
たとえば『古事記伝』で宣長が注目した「なる」の用法には、
「無かりしものの生り出る」という言い
方で「神の成り坐すこと」が説明されていたり、
「此のものの変はりて彼のものになる」という意味や、
「作
す事の成り終る」という意味が交じっているのです。
これはどう見ても、日本における生成の観念が「うむ=なる」という関係を秘めているように思えます。
それが、
「なる」につづいて「つぎ」という言葉にも継承されているのです。そしてそれらの継承が、その
うち「いきほひ」にまで及ぶのです。
では、このような「なる」や「つぎ」は何によってわかるのかというと、そのつどそこには「むすび」
が見えてくるのです。ムスビとは、ヒ(霊威)がムス(産出する)という意味で、その姿や形はまさに「影」の
ように見えないのですが、それを感じたらそこに人々はムスビのしるしとして、たとえば注連縄や神籬を
示していたり、そのとき詠んだ歌や句のようなものを残したので、それでわかるというのです。第 3 回目
にお話ししておきました。
ここには、まさにウツからウツロイをへてウツツが派生してくるという光景が見えるようです。
このような作業を通して、宣長は「もののあはれ」や「やまとだましひ」とは、どこか一点に求めら
れるものではなく、また、どこかに起源が特定できるものではなく、それはたえず「本来」から「将来」
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に向かう途次にしかあらわれないということを主張したのです。
触れるなかれ、なお近寄れ
以上のようなことは、おそらく多くの日本人が「もののあはれ」や「やまとだましひ」について抱い
てきた感想とは、ずいぶん異なっているのではないかと思います。また、宣長の国学を勝手に流用したナ
ショナリズムの言い分ともかなり違っていると思います。
そうなのです。実は国学も、また古学も、いま思索している対象がもっている言葉以外の概念をもっ
てきてそれを規定してみたところで、何かを考えたことにはならないと、それだけを言ったわけなのです。
そうして、どうしたかといえば、規定しようとしたり、普遍を求めようとしたりすること自体をやめ
てい日本の奥に動いているらしい動向や趣向をそのまま取り出せないだろうかと、そのことを言いつづけ
たのです。
いったい、こういう宣長をどう見ればいいでしょうか。これは神秘主義にすぎないのでしょうか。そ
れとも不可知論でしょうか。そういう面もあるでしょう。しかし、ここで思い出すべきなのは、われわれ
はこの宣長の『古事記伝』によって初めて『古事記』が読めるようになったということなのです。
万葉仮名の羅列のなかで、宣長が初めて古代日本人の頭の中にあった意向と意表というものを想定し
て、ついに『古事記』を日本語で再生したのです。想像力で解いたのではありません。本来から将来に向
かって日本語がそのようになろうとしたしくみを解明して、再生したのです。
これは「おもかげの国」に迫る、聞きしにまさる方法だとは言えないでしょうか。
紙幅をだいぶんオーバーしてしまいました。このことについては、このへんですませて、次に進みた
いと思います。しかし私たちは、江戸思想についてはさらに視野を重ね、思索を交差させたほうがいいの
かもしれません。
徳川幕府が試みようとしたこと、その直後におこった東アジア世界の秩序の変更のこと、自立をはた
そうとした徳川社会の政治社会の動向、そのなかでさらに斬新な現実的なプランを考えようとした一群の
こと、むしろ本来から将来に向かって流れてきたことでしか日本のことを語れないと考えた一群のこと、
こういうことを、できれば同時に、できれば交差させながら考えてみることです。
私は、宣長の思想には「触れるなかれ、なお近寄れ」というメッセージがあるように思っているので
す。しかし、時代はこのようなメッセージを理解する余裕を十分にもたないうちに、まったく予想もしな
かった「外からの変更」に出会うことになりました。黒船が来てしまったのです。
次回は、開国と不平等条約と明治維新をくぐり抜けた日本が、それでもなお「おもかげの国」を抱き
つづけられたのかどうか、また「うつろいの国」としての日本が、その揺動を現実として受容することに
なって、どのような編集方法を思いついたのか、そこをお話ししたいと思います。
第7回
「二つの J」に挟まれて
日本と外国の関係日本という国にとって「外国」とはどういうものなのでしょうか。かなり特別なも
のなのでしょうか。私の友人の外国人たちは、ことごとく「そうだ」と言います。日本人は外国や外国人
を特別視しすぎていると言うのです。だいたいガイジンという言葉が変だとも言います。
どうも、そのようです。そこには畏敬と恐怖、好奇と劣等、同化と排外の目が、つねにまじってきた
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ように思えます。尊大になりすぎたり、卑下しすぎたり、そのバランスがうまくとれていないようにも見
えます。
鎖国という、この、諸外国にとってまことに奇異に見える稀な体制をとった日本は、外国に対して自
信があってこういう対外政策をとったとはとうてい思えません。しかし恐れて鎖国をしたのかといえば、
それも当たっていないようにも思えます。日本は、外国に神経質になりすぎてきたというべきなのか、そ
れとも外国に対してあまりに野放図だったのか、そこが見えにくいのです。
おおかたの日本人も黒船がくるまではそのことがわからなかったのではありますまいか。
日本と外国との関係は、記録の最初の卑弥呼の時代ですでに、中国への朝貢グループのひとつになっ
ていました。それから倭の五王時代とのあいだに呼称上の従属関係があって、聖徳太子のぴりぴりしたよ
うな三国対策や、天智天皇にとっての新羅と唐の連合軍の苦い記憶というふうに続きます。
それとともに、仏教僧の交流、遣唐使の確立と廃止、清盛や義満における宋や明との交易もありまし
た。また、鎌倉期に流れこむ禅僧、渤海の外冦、蒙古襲来を前にしたときの態度(第 3 回参照)、倭寇の跋
扈とその調整など、交流と侵害の相互作用もおこっていました。
が、ここまではまだしも政府の方針がまがりなりにも決定されてのこと、で、とくに鎌倉五山や京都
五山の確立以降はしばらく、こうした対処がなんとか内政と連動していたものです。
それが秀吉の朝鮮出兵あたりから変質していきました。極端なキリシタン禁制、鎖国の断行、出島開
設とオランダ風説書の読み方など、極端から極端に走る傾向が出るようになっています。これは、そろそ
ろ日本の"外国音痴"が露呈されてきたといわれても仕方のない時期でした。
そこへもってきてロシアの南下、外国船打払令、黒船来航、日米修好通商条約の締結、横浜、長崎な
どの開港、生麦事件、薩英戦争というふうに、予想もつかないことが連打されたわけですから、これで、
かつてあったかもしれない自信も、きっとほとんど吹き飛んだのです。
その後の日本は、遣欧米使節団のように外国を窺い、明治の欧化政策のように外国を取り込み、また
日清・日露では外国に挑みかかり、白樺派のように外国を慕い、そして満州国の樹立に向かっては外国を
蹂躙したように、いったい何をもって対外政策を貫いてきたのか、すべてが右顧左眄するようになったか
のようなのです。まことに日本にとって「外国」は特別のものであるようです。
海を意識しなかった不思議
なぜこれほど外国対策に苦労するかといえば、答えははっきりしています。日本が「海国」であるか
らです。しかし、海国であるのに、海国らしからぬ歴史を歩んできたのです。
本来は、安心して海国であることを満喫するには、よほどの航海術と造船術と兵力に富んでいなけれ
ばなりません。ヴェネチアやイギリスのことを考えれば当然のことなのですが、不思議なことに日本はい
っこうに航海術も造船術も発達させなかったのです。シーレーンを守る海防政策もろくなものではなく、
海防兵力もまったくお粗末なまま、寛政四年(一七九二)ラックスマンが根室に、文化元年(一八〇四)レザノ
フが長崎に来たときもあまり大きな問題とはとらえていませんでした。
もっとも林子平のようにラックスマンが来航する前から『三国通覧図説』や『海国兵談』を著し、海
岸防備の必要性を説く人物もいましたが、子平の海防論は敵前上陸をしてくる連中を水際で次々に叩くと
いうもので、
「寛政のハリネズミ論」と揶揄されました。しかしそんなことを椰楡しても、それまでは海防
論すらなかったのです。子平はとりあえずそこには気がついていたのです。
もうひとつ子平にすらあてはまることがあります。それは、日本には「専守防衛論」ばかりが多いと
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いうことです。海上権を制するという発想がないのです。これでは「おもかげの国」は守れません。
それにしても、海国日本が海防に意識を集中できなかったのは日本史の大きな謎のひとつです。考え
てみれば、海洋小説も少ないし、海洋美術もあまりない海の神話すら海幸山幸、住吉三神伝説、宗像伝説、
因幡の白兎などを見るばかりで、全般としてはほとんど目立っていないのです。
海を詠んだ歌は少なくないのですが、海に出て詠った歌は極端に少ないのです。遠洋漁業や鯨とりは
日本の大きな産業資源であったはずなのに、それらに関する重要な思想も政策も文学もあまりありません。
小林多喜二の『蟹工船』や野上弥生子の『海神丸』などは、かなり珍しいものです。
どうも日本は海に囲まれていながらも、海を適確に生かしてこなかった国なのでしょう。そういう意
味では、網野善彦さんの「海の日本史」や川勝平太さんの「海洋国家構想」など、まさに新たに挑戦すべ
きものとして魅力があります。が、それは今後の展開に待っとして、やはりのこと、過去の日本は長期に
わたる農本主義の国だったということが大きなステータスになりすぎたということだと思います。
べつだん比べればいいというものではありませんが、海国イギリスは商本主義であり、植民地主義で
あり、三角貿易主義です。清盛や薩摩藩などのいくつかの例外をのぞいて、日本はこういうことはしてい
ません。
そのかわり日本は、国内や領地内の治水に長け、産物を育て、それを加工する工夫に熱心だったので
す。これがやがて時計やカメラやトランジスタや半導体技術の凱歌になったのだから、これはこれですば
らしいともいえます。しかし他方では、あいかわらず外交面や渉外面のダイナミズムを欠いてきたのも事
実です。
どうしてこうなったかという理由はいちがいには語れませんが、たとえば日本に「制定法」が機能し
なかったということも、その理由のひとつです。日本はつねに「判例法」や「憤習法」を重視してきた国
で、どんなことも実態を見てから法令をくみあわせて切り抜けてきました。
これに対してアメリカなどは、制定した法がひとつの現実そのものを意味するようになっていて、法
は理想であって、かつまた現実対処の方針そのものなのです。それゆえべつだん褒めるなどまったくない
のですが、アメリカで正義と義務の法が一つ通れば、大規模な空爆も可能なのです。
日本ではめったにこういうことはありません。したがって、たとえば尊王攘夷という国の外交政策に
なるかもしれない方針なども、幕末の四分五裂の動向が象徴しているように、何一つとして法的な制御力
をもったわけではないのです。それなのに、そのようななかで会沢正志斎の「国体」が浮上し、公武合体
をしているうちに、天皇を「玉」と戴く立憲君主制が選択されていくのです。
江戸後期の出来事をふりかえってみればわかりますが、天皇を戴く立憲君主制という発想は、安政の
開国を決定したときの方針にはこれっぽっちも入っていなかったのです。まず開国を余儀なくされ、つい
で尊王攘夷か公武合体かを争い、そのうち大政奉還と王政復古になだれこんだだけなのです。
近代日本の「忘れもの」
黒船来航のあと、ペリーとハリスから開国を突き付けられたというふうに、歴史の教科書は説明して
きました。
けれども、
『ペルリ提督日本遠征記」などを読むと、ペリーは日本に国家意識などを要求しているので
はなく、単にいっさいの譲歩を見せない断固たる交渉態度を示そうとしていただけだったのがわかります。
ところが、そのペリーの軍事力を背景にした強圧的態度と、その後のハリスの通貨通商政策の強烈な提示
が、結果的に日本に「国家」を要求することになったのです。
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したがって明治政府が「日本という国家」を"急造"しようとしたことは疑いえません。大日本帝国憲法
が制定された明治二十二年(一八八九)は、そういう意味では日本が初めて「国家」となった日であったの
です。
この近代国家はいろいろの大事なことをどこかに置き忘れてしまったようです。
この国家は一言でいえば、議院内閣制度をもった立憲君主制というものですが、岩倉具視や大久保利
通の幕末維新の構想が示しているように、この大日本帝国という国は「玉」を抱くことによって成立した
有司専制国家でした。もともと法制度と法意識が甘い日本において、とりわけ超法規的な存在だとみなさ
れていた天皇をもって近代国家をつくろうというのですから、これはどうみてもどこか全体的に暗示的な
のです。そもそも天皇を戴くという意味が追求されてはいません。
明治の時点で選択した立憲君主制がまちがった選択だったというわけではないのです。そういう選択
はあってもよいと思います。けれども、どのように天皇と議会の関係を機能させるかということについて
は、ほとんど明示的なことをつくれなかったのです。岩倉使節団が条約改正のためにアメリカを訪れたと
きのことですが、グラント大統領は使節団が日本という国家を代表する者だという天皇の認定書(全権委任
状)を持ってきていないことを詰りました。そこで大久保利通と伊藤博文が慌ててその文書を取りに帰った
というくらいなのですから、
「天皇制」とはいっても、まだ制度でも何でもなかったのです。
こうして明治の有司(官僚)たちがやったことは、維新の断行者の多くによる二年におよぶ遣外使節であ
り、富国強兵と欧化政策と脱亜入欧と殖産興業であって、対外的には征韓論や大陸浪漫や日清戦争だった
のです。
それでも陸奥宗光らの粘りによって、列強が次々に押しつけてきた懸案の不平等条約を撤廃させるこ
とだけは、ようやく成功しました。この成果は明治期最大のものだったといえると思います。けれども、
そうした努力をへてやっと得た成果が何だったかというと、列強に伍して戦争に乗り出し、それなのに三
国干渉に踏みにじられ、満州鉄道敷設権をめぐる競争では押しこまれ、日露戦争開戦に向かうしかなくな
ったというのでは、近代日本の「忘れもの」が何であったかという、そのことのほうが気になってくるの
です。
とくに、王政復古による明治維新とは何だったのかとふりかえると、黒船のような圧力の前で、ひょ
っとしたら別のプランもあったかもしれない天皇制というものを、あのように慌てて統帥権の最高責任者
にしてしまったのは、実は国家プランがなかったというより、やはり外交政策がほとんど機能せず、それ
はまわりまわって「外国」に弱い日本の姿の露呈だったかと言われても、仕方がないかもしれません。
しかし、私は、はたしてそれだけだろうかとも思っています。そこには「おもかげの国」の追求がや
はりなかったのかとも、思えてくるのです。
島崎藤村の『夜明け前』
島崎藤村に『夜明け前』があります。幕末維新の約三十年の時代の流れとその問題点を、ほぼ全面的
に、かつ細部にいたるまで扱っています。藤村はこの長編小説を通して、日本人のすべてに「或るおおも
と」を問い、その「或るおおもと」がはたして日本が必要とした「歴史の本質」だったのかどうか、そこ
を描きました。
それを一言でいえば、いったい「王政復古によって国家をつくる」とはどういうことだったのかとい
うことです。いま、このことに答えられる日本人はおそらく何人もいないと思われます。
藤村が『夜明け前』を書きはじめたのは昭和四年(一九二九)で、五十六歳のときです。前々年の金融恐
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慌につづいて前年に満州某重大事件(張作霖爆殺事件)がおきて、翌年には金輸出解禁に踏みきらざるをえ
なくなった年、すなわち日本が再び大混乱に突入していった年です。ニューヨークでは世界大恐慌が始ま
っていました。
そういうときに藤村は、王政復古を選んだ歴史の本質とは何なのかと問いました。その王政復古は維
新ののちに歪みきったということを、藤村は見てきたのです。ただの西欧主義だったのです。それが悪い
というのではなく、福沢諭吉が主張した「脱亜入欧」は喜んで迎えられたのです。
しかしそれを推進した有司は、その直前までは「王政復古」を唱えていたのです。いったい何が歪ん
で、大政奉還が文明開化になったのか。藤村はそこを描こうとしました。
『夜明け前』は「木曾路はすべて山の中である」という有名な冒頭に象徴されているように、物語は
木曾路の街道の木の葉がそよぐように静かに始まります。主人公は青山半蔵。馬籠の本陣・問屋・庄屋の
「役」を兼ねた地域リーダーで、藤村の実父にあたります。ですからこれは半分以上は実話です。
馬籠は本陣・問屋・年寄・伝馬役・定歩行役・水役・七里役などからなる百軒ばかりの家々と、六十
軒ばかりの民家と寺や神社とでできています。これが日本の近世を代表する村社会というものでしょう。
そういう村に、あるとき芭蕉の句碑が立ちました。
「送られつ送りつ果ては木曾の秋」
。江戸の文化の風が
さあっと吹いてきたようなもので、青山半蔵にも心地よいものです。
半蔵はそういう江戸の風を学びたいと思っていた青年だったので、隣の中津川にいる医者の宮川寛斎
に師事して平田派の国学を学びます。この国のことを馬籠の宿から遠くに想うには、せめて国学の素養や
その空気くらいは身につけたかったのです。
そんなとき、
「江戸が大変だ」という嘉永六年(一八五三)のペリー来航のニュースが届きます。馬籠に
飛脚が走り、江戸に向かう者が目立ち、物語は"黒船の噂"が少しずつ正体をあらわすにつれ、大きく変化
を見せていきます。村が江戸を震源地として激変していくのです。その激変に、半蔵は古代を思い、王政
の古の再現を追慕するようになるのです。
しかし時代はものすごい変化を見せます。安政の大獄、桜田門外の変、長州征討などを、藤村は馬籠
にいる者が伝え聞く不安のままに、国難を案ずる半蔵の心境のままに、巧みに描写していきます。
そこへさらに皇女和宮が降嫁して、徳川将軍が幕政を天皇に奉還するというニュースです。しかも和
宮は当初の東海道下りではなく、木曾路を下る模様替えとなったため、馬籠はてんやわんやの用意に追わ
れます。加えて、三河や尾張あたりから聞こえてくる「ええじゃないか」の声は、半蔵のいる街道にも騒
然と伝わってきて、半蔵は体中に新しい息吹がみなぎっていくのを実感するのです。
かくて「御一新」
。半蔵はこれこそ「草叢の中」から生じた万民の心のなせるわざだろうと感じ、王政
復古の夜明けを「一切は神の心であろうでござる」と得心します。けれども、
「御一新」の現実はそういう
ものではなく、半蔵が得心した方向とはことごとく異なった方向へ歩みはじめてしまいます。それは半蔵
にはたんなる西洋化に見える。半蔵は呆然とし、東京に行くことを決意、行動をおこしてみるつもりにな
ります。
教部省に奉職してみると、かつては国の教化活動に尽くしたはずの平田国学の成果はまったく無視さ
れていました。祭政一致などウソだったのです。半蔵は「これでも復古と言へるのか」と呟きます。
けれども半蔵はこの自分の問いに堪えられない。ついに、とんでもないことをしてしまいます。和歌
一首を扇子にしたためて、明治大帝の行幸の列に投げ入れたのです。青山半蔵が半生をかけて築き上げた
面影の思想は、この、たった一分程度の惨めな行動に結実しただけだったわけでした。
この半蔵の行動は、その後の昭和史でくりかえされることになるプロトタイプです。しかし、すべて
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はこれでおジャン。木曾路に戻った半蔵は飛騨山中の水無神社の宮司として、ただ「斎の道」に鎮んでい
くことを選びます……。
内村鑑三が苦悩した「二つの J」
いささか『夜明け前」の話が長くなりましたが、なぜこの物語を紹介したかはわかってもらえたかと
思います。これは幕末維新の日本が何をとりこぼしていったのかという物語なのです。
保田與重郎は『明治の精神」で、こんな感想を書いていました。
「鉄幹も子規も漱石も、何かに欠けて
ゐた。ただ透谷の友、島崎藤村が、一人きりで西洋に対抗しうる国民文学の完成を努めたのである」と。
篠田一士は『二十世紀の十大小説』で、プルーストの『失われた時を求めて』
、カフカの『城』
、ジョイス
の『ユリシーズ』などと並べて、
『夜明け前』をあげました。日本の小説のなかで唯一のベストテン入りで
す。
しかし藤村は保田が言うように、西洋に対抗して国民文学を樹立しようとしたのではなく、日本の「本
来と将来」を全力をあげて問うたのです。それは藤村白身の内側の問題でもあったからです。それがかえ
って世界文学ベストテン入りを果たしたのです。
藤村が九歳で上京したのは明治十四年(一八八一)のことでした。泰明小学校に入り、三田英学校から共
立学校(開成中学)、明治学院に進んで、そこで木村熊二から洗礼を受けます。二十歳のときには植村正久
の麹町一番町教会(現、富士見教会)に移って、キリスト教にめざめた青年としての日々を送っています。
ところが北村透谷の自殺に出会い、藤村は自分がキリスト者であることに責任も感じはじめるのです。
この苦悩がその後にしだいに大きくなって『夜明け前』になったともいえました。
というのは、当時の日本のキリスト教は、内村鑑三や海老名弾正や新渡戸稲造がそうであったように、
日本人の理想の生き方を問うためのものになっていたのです。新渡戸がキリスト教と武士道を結びつけた
ように、キリスト教はどこかで神道や武士道の精神性とも近いように見えたのです。このことは、青山半
蔵が水無神社の宮司になって終わっていることにもあらわれています。
しかし、明治キリスト教も苦悩していました。それについては、私はとくに内村鑑三が札幌農学校の
理想を携えてアメリカに渡り、そこで大学に通いながら現地のボランティア活動に従事したところ、アメ
リカのキリスト教徒たちの慈善主義と功利主義ともいうべきものに失望して帰ってきてからの苦悩に、大
きなものを感じています。少し、そのことをお話しします。
内村鑑三が抱えた苦悩とは、
「二つの J」ということです。
内村はよく知られているように、生涯をキリストに捧げた厚篤のキリスト者でした。したがって、一
つの J は"Jesus"(ジーザス)でした。しかし内村はそれとともに断固たる日本人であろうとし、日本の本来
を問いつづけた愛国者でもありました。すなわち、二つ目の J は"Japan"(ジャパン)でした。
しかし、この「二つの J」はまったく融合できないでいる。内村の苦悩はそこにあったのです。この苦
悩は透谷の自殺でうけた衝撃を抱いていた藤村の胸中にも膨らんでいきます。しかし、なぜ、日本人はこ
のような胸の痛みをもたざるをえないのか。
こうして内村の日本研究が始まります。内村の代表作は『羅馬書の研究』であり、そのライフワーク
は個人誌「聖書之研究」ですが、その扉には、しばしば「日本人の生活信条の中にはキリスト教に匹敵す
るものがある」という信条が述べられています。のみならず、よく知られた『代表的日本人」では、日蓮、
中江藤樹、二宮尊徳、上杉鷹山、西郷隆盛の五人を選んで、その「跋」に次のように書いたのです。
私は、宗教とはなにかをキリスト教の宣教師より学んだのではありませんでした。その前に日蓮、法
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然、蓮如など、敬虔にして尊敬すべき人々が、私の先祖と私とに、宗教の真髄を教えていてくれたのであ
ります。何人もの藤樹が私どもの教師であり、何人もの鷹山が私どもの封建領主であり、何人もの尊徳が
私どもの農業指導者であり、また何人もの西郷が私どもの政治家でありました。その人々により、召され
てナザレの神の人の足元にひれふす前の私が、形作られていたのであります。
内村鑑三にあっては「二つの J」は統一されるべきものであり、そこに、は日本の先達への敬愛がこめ
られるべきものであり、キリスト教と武士道は融合すべきものであったのです。
本気の日本が動いた時代
ところで、内村の『代表的日本人』は英語で書かれたものでした。タイトルは"Japan and the Japanese"
です。キリスト者内村は、英語で中江藤樹や西郷隆盛の精神の何たるかを「外国」に問うたのです。
同じ時期、日本人によって書かれたもう二冊の本がありました。新渡戸稲造の、"Bushido"(武士道)、
岡倉天心の"The Book of Tea"(茶の本)です。これらはちょうど明治三十三年(一九〇〇)を挟んで、約五年ご
とに世界に向けて発信された三冊です。いずれも大きなセンセーションをもたらしました。こんな時期は
その後の日本の近現代史に、まったくないものです。ここでは「日本」と「外国」は同じ問題を考えてい
たのです。
明治三十三年は日清戦争と日露戦争の真ん中にあたっています。近代日本の問題を考えたいのなら、
この時期の日本と日本人の動向を徹底して研究してみることを奨めたいと思うほどです。
ここには、今日こそ考えるべき多くの行動と思想とが、勇気と愛情とが、冒険と計画とが集中してい
るのです。
まず象徴的に明治三十三年のことを紹介しておきますが、三人の日本人が海外に発ったのです。夏目
漱石はロンドンヘ、日本画家の竹内栖鳳はパリヘ、新劇を提唱する川上音二郎は貞奴とともにニューヨー
クヘ。ついでながら長岡半太郎はパリの第一回国際物理学会議に出席し、翌年は滝廉太郎がライプツィッ
ヒへ行っています。
次に、きわめて重要な出版物が刊行されました。内村鑑三の「聖書之研究」と与謝野鉄幹の「明星」
は雑誌として、新渡戸稲造の『武士道』はフィラデルフィアで刊行の英文書籍として。このほかにも国内
では、泉鏡花(『高野聖』)と徳冨蘆花(『自然と人生』)が、このあとの幻想派と自然派を分ける岐路になる
ような作品を問いました。
では、この明治三十三年前後の簡単な年表を見てください。上欄に入れておきました。日清・日露の
あいだとは、このような時代だったのです。あえて「日本」と「外国」の同時性を告げている出来事ばか
りをあげておきました。
どうでしょうか。
本気の日本が動いているとは思いませんか。私は、この時期の年表だけで、七種類くらいを自分なり
に作成しています。そのような作業を折りにふれてすることによって、忘れていたことを蘇らせたいとい
う気持ちがおこってくるからです。
それはともかく、このように明治の真っ只中において、ある種の日本人たちは身にふりかかった衝撃
と矛盾に対して、あらゆる逆上と強調を賭けていたのです。
「和魂」の問いなおし
私は前回に「和魂漢才」の話をしました。それは、日本にとって「からざえ」とは何かという問題に
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まですすんで、その究極の姿のひとつを本居宣長の国学のなかに見いだすことになりました。
明治においては、この問題は、今度は「和魂洋才」の問題として浮上してきます。またまた和魂が問
題になりました。
そもそも和魂洋才論は、幕末に向かって洋学がさかんになってきて、青年武士や科学派たちが言い出
していたことでした。たとえば、橋本左内は「器機芸術は彼に採り、仁義忠孝は我に存す」と言っていま
したし、佐久間象山は「東洋道徳西洋芸術」とみなしていました。左内の言葉はさしずめ「儒魂洋才」と
いうもので、象山のは東西を道徳と芸術とに分けているものです。
ところがいざ維新政府がつくられて、一方では古代天皇制に近い王政復古をして太政官・神祇官を配
し、他方では洋才の導入をして富国強兵とお雇い外国人の受け入れに転じてみると、これがとうていバラ
ンスを保てなかったのです。一方的な欧化主義ばかりが驀進していったのでした。これでは青山半蔵なら
ずとも、何か一石を投じたくなります。
そこへさらに、東洋をも考慮から外してしまう「脱亜入欧」の提案が出てきたのですから、せっかく
の西洋研究という本気の趣向さえ失われて、もっぱら西洋哲学や西洋倫理や西洋技術をそのまま日本に次
から次へと植林するような風潮になったのです。
ここで、こうした風潮を食い止めようとして出てきたのが、天心・新渡戸・内村の三冊の英文書であ
り、また、鉄幹や子規の短歌運動であり、さらには、徳富蘇峰の国民主義や、三宅雪嶺、志賀重昂、陸羯
南たちによる日本主義の標榜でした。
おそらくは、ここまでは当然の"防衛"だったと思います。和魂と洋才を並び立たせるには、このような
活動も必要だったでしょう。
「二つの J」はいかに悩ましくとも、この両足を踏ん張って立ち上がっていく
しかなく、また国家と個人にまたがる両足だって、二つながらに踏んばるしかなかったのです。
夏目漱石も『私の個人主義』のなかで、
「国家が危くなれば個人の自由が狭められ、国家が泰平の時に
は個人の自由が膨張して来る、それが当然の話です」と言い、さらに「国家の平穏な時には、徳義心の高
い個人主義に矢張重きを置く方が、私にはどうしても当然のように思われます」と書いていました。
でも、いったい大日本帝国というできたてホヤホヤの国家のなかで、国家と個人の関係をちゃんと考
えるという強靱な精神をどのくらいの人々がもてるかというと、そこがまだ見えていなかったのです。日
清戦争を通過した直後の日本人は、そこで「和魂」をもう一度、問いなおそうとしたのです。
両極分解した日本人論
急先鋒を引き受けたのは日本主義の面々でした。ごく簡単に、徳富蘇峰・三宅雪嶺・志賀重昂・陸羯
南の言動にふれておきたいと思います。
一言でいえば、
「国民之友」を創刊した蘇峰は「平民主義」という言葉をつかって、武備社会から生産
社会に日本が向かうべきことを訴え、明治初期のあまりに過度でエリート的な欧風主義に待ったをかけま
した。欧風化そのものがダメなのではなく、性急で専断的な維新の欧風主義がおかしいと見たのです。の
ちに蘇峰は変化していきますが、当時の二十五歳の蘇峰の意図はそういうものでした。要するに国家進化
主義でした。
蘇峰が東西の文化の混成を意図していたのに対して、二十九歳の三宅雪嶺と二十六歳の志賀重昂は雑
誌「日本人」を創刊して、純度の高い「国粋保存」を主張します。
「日本国粋ナル胃官」や「日本ナル身体」
を固定強化しようというもので、至理至義だけではなく至利至益をすら堂々と標榜します。これは和魂に
資本主義を接ぎ木したわけです。
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政論家の陸羯南は、新聞「日本」で「国民主義」という名の日本主義を訴えて、日本人が「国民」に
なるべきだと説きました。日本における国民思想の登場はこのあたりからでした。この二つの動きはやが
て合流して雑誌「日本及日本人」になります。
これらは、今日予想されるような国粋主義やウルトラ・ナショナリズムとはそうとうに異なるもので、
どちらかといえば日本は「西洋の開化」をめざすのではなく「日本の開化」をめざすべきだというもので
す。
すなわち「外部の必要」ではなく「内部の必要」を説いたのです。国体論を書いた加藤弘之さえ「内
養」と言いました。そういう意味では、開明的保守主義です。
けれども、日清日露の戦勝ムードのなかでは、このような主張は歪められて受け取られてしまいます。
のみならず高山樗牛や木村鷹太郎のように国家膨張と天皇賛美を一緒くたにする極端な思想も躍り出て、
姉崎正治は洋行無用論さえ唱えました。姉崎はドイツに留学して、そのドイツから雑誌「太陽」にあえて
留学の無用を説いたのですから、これは洋学派にも影響を与えます。
それでどうなったかというと、こうした傾向がだんだん日本人優秀説のようなものに逆転していって
しまったのです。
あげくは日本人の民族性や国民性そのものの賛美が広まって、鈴木券太郎の「人種体質論」
、法曹家桜
井熊太郎の「ハイカラー亡国論」
、芳賀矢一の「国民性十論」などは、排外的なガイジン蔑視にまで暴走し
ていったのです。
これでは、とうてい「和魂」を分析しているとはいえません。ただ日本人の"血"を称揚するのみでした。
そうなると、それに対する反論もまた、綱島梁川・浮田和民・千葉江東・島田三郎といった論客によ
る"日本限界説・日本人ダメ説"になってしまい、そのうち自虐的な指摘ばかりに終始したのでした。
たとえば日く、仏教の「寂滅」こそ日本人の陰湿な悲観主義をつくった、たとえば日く、日本人には
およそ独立心がない、たとえば日く、日本人は海外排撃思想をもつ民族だ、たとえば日く、日本人は主我
のない没我的国民である……云々。
これらを見れば、日本人が日本人を自虐的に自己非難する言い方が、この時期に一挙に噴き出たもの
であったことがわかると思います。こういう見方は、江戸時代にも、それも幕府にも庶民にも、儒学者に
も国学者にも洋学派にも、ほとんどなかったものなのです。
ここで踏みとどまって議論を中央に据えなおそうとしたのが、森鴎外だったのではなかったかと、
『和
魂洋才の系譜』を書いた平川祐弘さんは書いています。
鴎外は「混血児に似た一種の精神上の不安定」がこれらの右往左往におこっていると見て、
『洋学の盛
衰を論ず』そのほかで、複眼的な見方が急務であることをのべ、さらに日本が「二本足で立つ」ことを冷
静に主張しました。まさに西と東の両足にしっかり立脚した思想の披瀝でした。
軍医であって海外事情にも詳しく、さらに海外文学を香り豊かな日本語におきなおす作業にも手を抜
かなかった鴎外ならではの、また、
『阿部一族』などの武士道を凝視した作品で日本人の生死の哲学を追跡
した鴎外ならではの、論陣でした。
さすがに漱石も懸念を表明して、
「さう解釈したくはないが西洋人が言ったことであるからなどといふ
のは、西洋に心酔したもので随分馬鹿気た話である」(『戦後文界の趨勢』)と警告を発しました。
しかし、議論の多くはなお核心を見いだせないまま、また両極に大きくぶれていって、明治を駆け抜
けていくのです。これは、すでに中江兆民が日本人の「恐外病」は一転すれば「侮外病」になる、と喝破
していた通りの推移となったのでした。
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内村鑑三の提案
では、ふたたび内村鑑三に戻ることにします。
「二つの J」に挟まれて、その後の内村は『キリスト伝
研究』(先駆者ヨハネの章)では、ついにキリスト教と神道と国学をも、つなごうと試みています。
こんな文章があります。
「其意味に於て純潔なる儒教と公正なる神道とはキリストの福音の善き準備で
あった。伊藤仁斎、中江藤樹、本居宣長、平田篤胤等は日本に於て幾分にてもバプテスマのヨハネの役目
を務めた者である」
。
内村にとっては、仁斎・宣長・篤胤も中江藤樹と同様のヨハネなのです。神道にも福音を聞きたいの
です。おそらくいまどきこんなことを言えば、暴論あるいは無知として笑われるに決まっているでしょう
が、内村は真剣でした。焦りもしていたようです。そして、
「私は二つの J を愛する。第三のものはない。
私はすべての友を失なうとも、イエスと日本を失なうことはない」という有名な宣言をするのです。
あきらかに内村は、日本の矛盾に直面していたのでした。それまではアメリカで体験したキリスト教
の矛盾に直面していたのです。けれども、日本を研究してみると、やはり日本にも問題がある。仁斎も藤
樹も宣長も、明治にはまったく継承されていないのです。これはキリスト教の低迷と同様の問題です。そ
れらは一緒の問題でした。
こうして内村は、日本の問題を解決することがキリスト教の低迷の解決であると覚悟したわけでした。
近代国家の勃興のなかで、日本人は「和魂」を見失っていたのです。なかにはすぐれた見解も数々見
うけられるのですが、如何せん、大勢は洋風思想と国粋主義とに両極分解していきました。
さきほど私は、日本には「制度法」がないということを言いました。それが黒船以降の幕末の動揺を
決着させられなかった原因のひとつであり、ひいては「王政復古と欧化体制」というバランスを崩させて
欧米一辺倒となり、その反発が日本主義や排外主義へと日本を駆りたてたという経緯もお話ししてみまし
た。けれども、内村から見るとキリスト教社会では最初から制度があって、その制度から抜け出せないこ
とがその精神を腐敗させていると見えたのです。
そうしたなか、内村鑑三はついに次のような提案をするに至ります。そのひとつは、西洋に育ったキ
リスト教を非制度化したかったということです。キリスト教に真の自由をもたらすには、それしかないと
いう結論に達したのです。そのうえで「日本的キリスト教」を打ち立て、非武装日本をつくりたかったの
です。
もうひとつは、「小国主義」を唱えることでした。内村は日本を「小さな政府」にしたかったのです。
そして、そういう日本を「ボーダーランド・ステイト」と呼びました。境界国です。いまでこそ「小さな
政府」というヴィジョンはよく知られるようになっているものの、この時期にこのような提案があったと
は、まさに驚くべきことです。
かくて「日本の天職は」と内村は書きました、
「日本が日本を境界国としての小国にすることなのであ
る」と。これがきっと、内村鑑三にとっての「おもかげの国」のサイズだったのです。
第8回
失われた面影を求めて
金子光晴の視点
最終回です。「霰走り」という言葉があります。バタバタと走ることです。「おもかげの国うつろいの
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国」と題してみた私の話も、まさに霰走りでした。
ごくごく荒っぽく日本の編集文化の節目だけをかいつまんできたのですが、この最終回もそれにふさ
わしく、おもいきって四人の日本人をとりあげてみたいと思います。
野口雨情と金子光晴、および九鬼周造と司馬遼太郎です。二人が詩人、二人が哲学者と作家ですが、
そういう職能はここでは問題ではありません。この四人が見た日本の面影を通しながら、これまでお話し
してきたことと昭和日本が戦争に突入していってしまったことをときおり交じえて、考えてみたいのです。
最初に金子光晴の目をとりあげますが、金子は『絶望の精神史』および『日本人の悲劇』という注目
すべき自伝的な日本論のなかで、
「日本人のもっている、つじつまの合わない言動の、その源」を考えまし
た。
金子は明治二十八年(一八九五)の生まれですから、青春期を明治末から大正前半におくるのですが、そ
のとき白樺派などが輸入するヨーロッパの「石と鉄の文明の深さ」に驚きつつも、日本人はヨーロッパ人
になることは不可能なのだから、それに拮抗するには日本の「紙と竹と土の文化の美しさ」を持ち出すべ
きだろうと思います。
しかし、そういう日本が金子を救ってくれたかというと、そこは、
「大正を生きた僕には、もう、帰ろ
うにも帰れない、滅びた世界」となっていると見えるのです。金子は、そこから自分の絶望が始まったと
いうふうに書きます。
けれども、金子はそこでなお「不遜にも西洋の模倣でない、新しい日本の芸術をこの身をもって作り
出してみることが、必ずしも不可能ではない」と思うように努力します。ただしそれには、ひとつ条件が
ありました。それは自分を「エトランゼ」と思い切ることだったのです。異邦人とみなすということです。
自分を異邦人とするのは、日本人でなくなるということを意味するわけですが、金子は日本人を愛し、
その日本人の本来を考えたくて、こういうことをしたのでした。
『絶望の精神史』で何度も書いていること
ですが、金子は、
「日本人がどうしてこんなにくだらない日本人になってしまったのか」ということを、怒
りながら観察して生きてきた詩人でした。金子が異邦人になろうとしてまで、日本および日本人を考えよ
うとしたこととは何だったのでしょうか。以下、ここにつながる問題をいくつか霰走りしてみようと思い
ます。
日本の童謡運動
金子光晴より十三歳ほど年上の野口雨情が、若いころに内村鑑三の「東京独立雑誌」を熱心に読んで
いたことはよく知られています。
内村はこの雑誌で、無教会主義や日本的キリスト教への模索を通しながら明治の青年を鼓舞し、その
魂魄に勇気を与え、
「二つの J」に股裂きにあった日本人への自覚を呼びかけていました。そのお話は前回
にしたばかりです。
この雑誌には、内村が欠かさず言っていたことがありました。それは、
「孤児」や「棄人」や「離脱者」
に象徴的に託された"悲しいものとしての存在"に対して、格別の気持ちを与えようとしていたことです。
次の言葉にはその思想が言い尽くされています。今日では誰も言いえないような、鬼気迫る方針です。
父母に棄てられたる子は、家を支ゆる柱石となり、
国人に棄てられたる民は、国を救ふの愛国者となり、
教会に棄てられたる信者は、信仰復活の動力となる。
棄てられた者が新たな原動力にはなれまいか、と言っているのです。ボーイフレンドや恋人に捨てら
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れたというのではありません。父母に棄てられ、国人に棄てられ、教会に棄てられる。その者こそをもっ
て家を支え、国を救い、信仰を蘇らせたい。内村は、そう言っているのです。金子光晴は自分をあえて異
邦人にしましたが、内村は、そのように棄却の立場をもつことには、何か本質的な意味があると言おうと
しているのです。
そしてここには、雨情がその後に「はぐれた予」の心情に何かを訴えようとした感覚の起源があらわ
れています。
もうひとつ、内村鑑三が雨情に影響を及ぼしていたことがあります。
「東京独立雑誌」に掲載されてい
た児玉花外の文章や詩と、倉橋惣三の存在です。花外は内村の「孤児を見る目」をいちはやく表現作品に
おきかえた詩人でした。倉橋は内村の高弟で、雨情とは同い歳。内村の感化のもとに若くしてフレーベル
会の活動などにかかわって、のちに"日本の幼児教育の父"とよばれた人です。倉橋は、聖書と子供をつな
げ、婦人と子供をつなげるにあたって、内村以上に日本近代の子供たちに本物の体温をもたらしました。
その花外の詩と倉橋の真剣な言動に、雨情は激しい共感をおぼえていたのです。
日本の童謡は世界で類例のない子供を対象とした表現運動として、大正期前半に始まって一挙に広が
り、戦争の足音とともにいったん消えていったものです。
最初の童謡は大正七年(一九一八)に西条八十が雑誌「赤い鳥」に発表した『金糸雀』(以下、
『カナリヤ』
と表記)でした。成田為三が曲をつけました。西条自身が『現代童謡講話』に書いているところによると、
この詞は、少年時代に番町教会の天井にひとつだけ消えていた電球を思い出して書いたということです。
よく知られていると思いますが、こういう詞です。
唄を忘れた金糸雀は
いえ
いえ
それはなりませぬ
唄を忘れた金糸雀は
いえ
いえ
いえ
背戸の小藪に埋けましょか
それはなりませぬ
唄を忘れた金糸雀は
いえ
後の山に棄てましょか
柳の鞭でぶちましょか
それはかわいそう
唄を忘れた金糸雀は
象牙の船に銀の擢
月夜の海に浮べれば
忘れた唄をおもいだす
この年は、大正デモクラシーの旗手となった吉野作造が「黎明会」を結成し、有島武郎が自分の子に
贈った『小さき者へ』を、島崎藤村は『新生』を書いた年で、年末からは竹久夢二の『宵待草』が大流行
しています。だいたいどんな時代だったか、見当がつくだろうと思います。
童謡運動をおこしたのは鈴木三重吉と三木露風でした。鈴木は漱石を慕った病弱な青年でしたが、自
分の子が生まれたのをきっかけに、子供の心に食いこむような歌が日本にないと思って、
「赤い鳥」を創刊
します。露風に相談して踏ん切りがついたのです。これが大正七年で、
『カナリヤ』はその創刊号に載りま
す。楽譜も一緒に載りました。その号には北原白秋の『雨』(雨がふります・雨がふる)なども入っていま
す。
その翌年、金子光晴が『赤土の家』を発表したまま、ヨーロッパに旅立ちました。金子はこの運動を
知らないで旅立ったのです。
カナリヤを棄てる
鈴木三重吉の呼びかけは、青年詩人たちを動かします。大正時代は十把一からげに「大正デモクラシ
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ー」と総称されてはいるものの、明治末年に石川啄木が言い残したように「時代閉塞の現状」という病気
に罹ったままのようなところがあったのです。
大逆事件の直後ということもあって、社会主義の黎明にめざめようとした青年たちも、その憤懣をど
こにぶつけていいのか、かなり鬱屈していましたし、とくに子供たちの学習現場には「教育勅語」が"縛り
"をかけていて、歌はありきたりな小学唱歌しか見当たらないという現状でした。とくに明治四十三年に制
定された尋常小学唱歌は上からの修身教育の方針が投影されていて、一部の作家や音楽家や詩人たちに不
評でした。
そこへ立ち上がったのが「赤い鳥」だったのです。これはたちまち燎原の火のごとく、「金の船」「童
話」
「小学男生」
「少女倶楽部」といった幼童雑誌に飛び火して、時ならぬ表現運動となったわけです。
私は、その童謡第一号が「唄を忘れたカナリヤ」を唄ったものだったということは、たいへんに象徴
的だったと思います。
すでに前回までにいろいろお話ししてきたように、いまや日本は日本の面影を忘れそうになっている
のです。いや、何を忘れたのか、何を思い出せばいいのか、それすらもが掴みがたくなっている。そうし
た時期に、
「唄を忘れたカナリヤは後の山に棄てましょか」と、子供に向けて唄ってみせただなんて、なん
ともものすごいことでした。それはまさに内村鑑三の、
「棄てられたる民は、国を救ふ」のかという問いで
ありました。
「捨てる」ではなく、
「棄てる」
。そこには棄却という強い「負」が作用しています。
その歌を忘れたカナリヤは、いつか歌を思い出すにちがいない。それにはどうしたらいいのだろうか、
カナリヤを船に乗せ月夜の海に浮かべてみたら、思い出すだろうかという、そういう歌です。もっとわか
りやすくいえば、カナリヤはいったん棄てられたことで、歌を思い出してくれるはずなのです。
こうした運動に内村鑑三を読んでいた野口雨情が参加してきます。最初は本居長世とのコンビで、
『七
つの子』
『十五夜お月さん』
『赤い靴』
『青い目のお人形』
『俵はごろごろ』などを発表します。
作曲家の本居長世は宣長の第六代の家系にあたります。
野口雨情が貴げたもの
雨情についてはいろいろお話ししたいことは多いのですが、それはがまんして、ここではこれらの童
謡が、いま、一般的に想定できる童謡とはあることが決定的に違っていたということだけを指摘しておき
たいと思います。歌詞をちょっと思い浮かべてください。こうなっているのです。
雨情は、カラスは「なぜ啼くの」と唄い出しています。啼いているのは可愛い七つの子をもっている
親のカラスです。けれども「なぜ啼くの」かは「山の古巣」に行ってみなければわからないのです。赤い
靴をはいてた女の子は「異人さんに連れられ」たのです。そのまま横浜の埠頭から外国に行ってしまった
ままで、それで最後の四番は、
「赤い靴
見るたび 考える
異人さんに逢うたび 考える」というふうに
なります。さらには、青い目の人形は迷子になるかもしれず、
「わたしは言葉がわからない」のです。「考
える」なんて、童謡の歌詞としては異様です。しかし雨情はそれを子供に訴えたのでしょう。
いったい、こんな童謡があっていいのかというほどの、これは何かが欠けていたり、何かが失われて
いたり、何かがうまくいっていないという子供のための歌でした。
雨情はその後は今度は中山晋平と組んで、
『雨降りお月さん』
『あの町この町』
『しゃぼん玉』などの名
曲を次々につくります。いずれもすばらしい歌です。
しかし、これらの詞もまた、お嫁にゆくときは「ひとりで傘さしてゆく」のであって、傘がないと「シ
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ャラシャラシャンシャン鈴つけた、お馬にゆられて濡れてゆく」というのですから、飾った花嫁を賑やか
に祝っているような歌詞ではありません。蕗谷虹児という画家がまったく同じころ(大正十一年)に『花嫁
人形』という歌をつくりますが、そこにも「金襴緞子の帯しめながら 花嫁御寮はなぜ泣くのだろ」
「泣け
ば鹿の子のたもとがきれる
涙で鹿の子の赤い紅にじむ」とうたっていました。
雨情はさらに告げます。あの町もこの町も、日が暮れると、
「お家がだんだん遠くなる」のです。だか
ら「今きたこの道、帰りゃんせ」
。子供にとっての町は遠くへ行けば帰れなくなるところでもあるのです。
また、あんなに楽しいしゃぼん玉も、屋根まで飛んで、そこで「こわれて消え」るのです。
これらの童謡は、異常なことばかりをうたおうとしているのでしょうか。私は、そうではないと思い
ます。
どんなことも安全ではないし、予定通りとはかぎらないし、見た目ではないこともおこるし、有為転
変があるのだということを告げているのではないでしょうか。それらはまさに子供に向かって「無常」を
つきつけているのです。そして、そこに「棄てる」
「消える」
「帰る」といった強い作用の言葉をつかって
いたのです。
とはいえ、このように徹底して「棄却」をうたい、その先に「再生」を希った歌は、しかもそれが子
供向けだなんて、きわめて特異なことだったと思います。
子供に道徳を説いているのではありません。世界も社会も家族も、町も人形もしゃぼん玉も壊れやす
いものなのだということ、すでに壊れていることもあるし、壊れたからといってそれを放っておいていい
わけではないことを、告げていたのです。私はこのような「壊れやすさ」の問題を集中的に考えたくて、
数年前に『フラジャイル』(筑摩書房)という本を書きました。
雨情はつねに「はぐれる」とか「取り返しのつかないこと」という消息を歌いつづけた詩人でした。
いまではこんなふうに「はぐれること」や「取り返しのつかないこと」などを、わざわざ童謡に書く者は
いないでしょうし、ましてそれを子供に歌わせたいと思う親もいないのではないかと思います。しかし、
雨情には確固たる決意があったようです。こんなふうに書いています。
「ほんとうの日本国民をつくりまするには、どうしても日本国民の魂、日本の国の土の匂ひに立脚し
た郷土童謡の力によらねばなりません」
。
「異質性」への憧れ
童謡の話はこのくらいにして、私はここで、失われつつあった日本の面影を求めたもう一人の人物を
紹介したいと思います。九鬼周造です。まず九鬼という変わった哲学者に"転換"がおこったときのことを
話しておきます。
大正十一年(一九二二)、関東大震災の直前、九鬼周造はハイデルベルク大学に留学して、リッケルトら
新カント派に師事する一方、フッサールの現象学にも学びます。
ところが九鬼は、その哲学があまりに「同一性」を確信しすぎていることに苛立ってフランスへ飛び、
そのころはまだ学生だったサルトルを家庭教師にしてフランス語を習います。それから「生の飛躍」で名
高い哲学者のベルグソンをたずねると、そこで直観的な純粋持続の可能性こそが思索を深めるものだとい
うことを忽然と了解して、だんだん「異質性」の重要性に向かうようになります。また、フランス人が自
分たちの文化風土にひそむ感覚、たとえば"シック"を非常に大事にしていることを知ります。
これが九鬼の"転換"のスタートでした。なぜ九鬼にこのような「同一性」から「異質性」への転換がお
こっていったのか、その背景をすこし見ておきます。
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もともと九鬼は裕福な芝の家に生まれて、江戸の花柳界や俗曲によく遊んだ青少年期をおくっていま
す。日露戦争のさなかに一高に入って天野貞祐・岩下壮一・和辻哲郎・谷崎潤一郎と知り合い、最初は植
物学をめざしていたのですが、東京帝大の哲学科に入ってキリスト教の洗礼をうけてからは、
「物心相互の
関係」ということを考えていました。これは卒業論文のタイトルにもなっています。
このような悠々自適の青春を謳歌しているように見える九鬼ですが、そこには、ある「問題」がつき
まとっていました。周造の父は九鬼水軍の流れをくむ九鬼隆一です。近代日本の最初の文部官僚であって、
最初の駐米特命全権公使です。フェノロサと岡倉天心の東京美術学校の開設を強く後押したことでも有名
です。
お母さんは祇園出身の星崎初子(はつ・波津)でした。その初子が九鬼隆一のアメリカ滞在中に身ごもり
ます。隆一は同行していた若い天心に付き添わせて、日本で出産できるようにはからうのですが、横浜ま
での船旅はあまりに長く、二人は好意を抱きあったようです。日本に戻った初子は周造を生むのですが、
これがスキャンダルとして発覚、天心はつくったばかりの東京美術学校の校長の座を追われるという事件
に発展しました。
それがため天心は孤立しながらも奮起して、若い横山大観や菱田春草たちと日本美術院をおこすので
すが、この事件によって九鬼夫婦は別居してしまいます。九鬼周造は、こういうスキャンダルの渦中で生
まれたわけでした。
さて、フランスで"シック"と出会った九鬼はふたたびドイツに戻ってハイデガーをしばしば訪れるよう
になります。そして同一性と異質性ということを探求します。
九鬼がヨーロッパでしきりに考えたことは、
「寂しさ」とか「恋しさ」とは何かというものだったよう
です。九鬼によると、この「寂しさ」とは他者との同一性が得られないという感覚で、
「恋しさ」は対象の
欠如によって生まれる根源的なものへの思慕なのです。九鬼はこれらの感情や感覚は「失って知る異質性」
への憧れを孕んでいると考えました。
ここで九鬼はハタと気が付くのです。これは東洋哲学の根底にある「無」や日本美学の底流に流れる
「無常」ということではないのか。もし、そうだとしたら、自分は東西の哲学の橘梁を求めて、何かを考
え続けるべきではないのか、ということです。
九鬼は「無」や「無常」が、何かを失ってそこに芽生えるものであって、そこに何か欠けているもの
があることによって卒然と成立することに思いいたったのでした。九鬼はパリでこんな歌を詠んで、そし
て日本に帰ってきます。歌沢(端唄の一種)の節回しを偲んだ一首です。
「うす墨」のかの節回し如何なりけん
東より来て年経るかな
統帥権干犯問題
ヨーロッパから帰ってきた九鬼は、天野貞祐や西田幾多郎の勧めで京都帝国大学で教鞭をとり、しば
らくすると一気に『
「いき」の構造』を著します。昭和五年(一九三〇)のこと、日本がまさに満州事変に突
入する寸前のときにあたります。
こんな国家危急の時期に、なぜ九鬼は「いき」(粋)など悠然とめぐった論考に没頭したのでしょうか。
そのことについてはいろいろ議論があるのですが、私は、このあとの日本をおかしくさせた統帥権干犯問
題にふれて、九鬼が立とうとした位置を対比させておきたいと思います。
統帥権干犯問題とは軍の統帥権を天皇が掌握しているはずなのに、それを犯したという問題です。実
はこの問題こそ、その後の金子光晴をして決定的に日本人を見放したくなった原因でもあったのです。
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少し、話を近現代日本の流れに戻します。
そもそも明治憲法は三権が分立しているという意味では、十分に近代憲法になりえているものでした。
軍の統帥権は形式的ながらも、三権とともに天皇がもっています。ところが大正末期から昭和初期にかけ
て、統帥権が三権を超越するという陸軍の解釈が浮上しました。
軍の解釈によると、統帥権の基本には「帷幄上奏権」というものがあって、天皇の統帥権の輔弼都で
ある軍の統帥機関(陸軍は参謀本部で、海軍は軍令部)が、内閣に関係なく統帥事項を単独で上奏できると
いうのです。帷幄とは『韓非子』にも出てくる野戦用テントのことをいいます。
この帷幄上奏権に加えて、明治憲法においても天皇は「無答責」にありましたから、これで軍部は勝
手に戦争に邁進していったのでした。
ここで四人目の司馬遼太郎に突然登場してもらいますが、司馬は『この国のかたち』で、このような
ことになってしまった時代を「異胎の時代」と呼びました。司馬遼太郎はこの時代を自分が生きていたこ
とに違和感をおぼえ、そこには「日本」がないのではないかと感じて、そういう時代を「異胎」と名付け
たのです。本来の母の母胎ではないという意味です。私は、九鬼周造も同じような感想を同時代で感じて
いたのだろうと推測して、います。
たいへん大事なところですから、もう少しこの統帥権をめぐる背景について説明しておきます。司馬
のこのときの違和感が、その後にどのような「日本の面影」を追ったかは、最後にふれます。
曖昧が曖昧を生む
明治維新というのは、一言でいうのなら、日本を植民地にするまいという攘夷運動と、まったく同じ
意図による開国運動が切り結ぶように交じったところでおこった大きな変化です。
第 7 回で説明しておいたように、それまでの日本はまるっきり丸腰のような無防備国家でした。無防
備ですんだのは、世界が遠洋航海を産業化できないでいたからにすぎず、その態勢が整ってからの列強は、
一気にその爪をアジアに到達させつつあったわけです。それがのっぴきならないところまで逼迫したのが
アヘン戦争です。
イギリスはすでにジャーディン・マジソン商会のアヘン貿易で巨額の富を得られることを知っていて、
これをうまく活用してさらに地歩を得ようとしていました。そこへ林則徐がアヘンを虎門海岸で焼き捨て
たので、イギリスが、ここぞと清国に攻めこんだのがアヘン戦争です。結局、五港の開港と賠償金が要求
されました。
これでアジアの孤高が破られました。次は日本の番です。
江戸幕府体制下の日本は、大名同盟の盟主としての将軍が統括する政治社会システムがいきわたって
いたわけですから、統帥権は将軍がもっていました。けれども幕末に外国と砲撃を交えたのは長州藩や薩
摩藩でしたから、たとえば薩英戦争には将軍は出ていません。この軍事統括権が江戸時代最後に執行され
たのは、長州征討です。けれども、幕府はこのとき、代理をおいたのです。総大将を尾張徳川の慶勝にし
ました。これははなはだ曖昧な設定でした。続く戊辰戦争のときは、すでに慶喜が早々に大政奉還をして
いたために、日本という一国の統帥権がどこにあるのかが、またまた曖昧になりました。
そして幕府は倒壊、そのまま維新への突入です。この突入は王政復古のかたちをとったのですから、
トップには幼少の天皇が立ちました。
こうしてできあがった明治政権は軍隊をもっていません。軍隊をもっていない革命政権は、世界史上、
例がありません。そこで、薩長土の三藩があわせて一万の藩兵を自主的に提供しました。この抜け目なさ
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こそは、明治政府を幕末だけでなく維新後も、三藩がリードできた理由です。
これで一部の藩兵は御親兵(翌年から近衡兵)となりましたが、次の廃藩置県の断行には、他藩がどれほ
ど反発するかわかりません。イギリス公使パークスは「きっと大変な流血を見るだろう」と予想していま
す。が、廃藩置県はあっけないほどにスムーズに済んだのです。これを見た近衛都督の山県有朋は、徴兵
制によって一気に国軍をつくる計画に着手します。しかし国民皆兵とはいえ、その実態は農民や庶民でし
た。桐野利秋は「いったい山県は、土地百姓を集めて人形の軍隊をつくるつもりなのか」と椰楡したもの
でした。
機を見るに敏な山県は、自分の不評を察知して西郷隆盛に職を譲り、とりあえず西郷が陸軍大将とし
て近衛兵を統括しました。山県のほうはこれを官僚としてコントロールする立場にたったのです。こうし
て鎮台(のちの師団)が用意され徴兵制が確立しました。
ところが、ここで意外なことがおこったのです。西郷が下野をしてしまったのです。陸軍大将のまま
でした。
軍事統帥という点からみれば、これはまことに奇妙なことです。ますます統帥権は曖昧になってきま
した。しかも、この変則事態を誰もが調整できないまま、大久保・木戸・山県たちと、西郷とが、対立し
ました。これが明治十年(一八七七)の西南戦争です。この内戦は「陸軍大将西郷の私兵」と「徴兵された
国軍」との衝突、という異様な恰好になりました。
以上のような事態の進捗のうえに、明治憲法が出来上がったわけです。そのときは西郷・大久保・木
戸は死んでいて、主役は伊藤博文たちに移っていました。憲法には、但し書きのように天皇の統帥権が書
きこまれました。けれども天皇の軍隊がどこで牛耳られるのかという点は、あいかわらずはっきりしてい
なかったのです。
加えて、ここにもうひとつ奇妙なものが登場してきたのです。西周が起草し、井上毅が検証した「軍
人勅諭」でした。フランスのお雇い外国人ボアソナードから、
「これでは法体系とまぎらわしくなるではな
いか」と注意をうけた内容でした。そこには、天皇が軍務教育方針の全体を統帥していたのです。
こうして「統帥と統帥権の混乱」が深まっていったのです。この曖昧で奇妙な問題が、昭和の統帥権
問題にまで続きます。
そこで話がふたたび昭和五年(一九三〇)に戻ってきます。
浜口雄幸が海軍の軍令部の反対を押し切り、ロンドン海軍軍縮条約に調印しました。このとき、軍部
と政友会と右翼は、これを「統帥権干犯」として激しく糾弾したのでした。
「干犯」は北一輝の造語でした。
この紛糾をうけて、浜口は東京駅頭で狙撃され、翌年死にます。
これで軍部の中にも主導権争いが激発し、三月事件や十月事件などの軍部クーデターが企まれ、発覚
し、その間には満を持していたらしい関東軍の一部参謀たち(石原莞爾のシナリオだったということがわか
っています)によって満州事変がおこります。やがていっさいの歯止めはきかなくなって、昭和史は日本を
"統帥権国家"に仕立てていったのです。
司馬遼太郎はこのような日本を、あえて「異胎」がつくった国と呼び、
「別国」とも言いました。これ
は「本来の日本ではない日本」という意味です。まさにその通りであったと思います。
九鬼周造の編集方法
さて、九鬼は満州事変の直前に『
「いき」の構造』を書いて、日本人は、武士道によって育まれた道徳
的理想主義と仏教によって育まれてきた宗教的非現実性を背景に、これらが「媚態」
「意気地」
「諦め」を
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きっかけにすると、そこに「いき」という独自の感覚が生じていくと説明しました。
ややこしい議論になるので説明は省きますが、私はこのような見方には不満があります。これはおそ
らく九鬼が焦って書いたからではないかと思います。ヨーロッパからハイデガーやベルグソンを颯爽と持
ち帰り、東洋の「無」や日本の「無常」の意味に気がついたからといって、そんなに容易に日本の面影が
とけるというのは、楽観しすぎたのではないでしょうか。
もっとも、このように九鬼が思いたくなった理由はよくわかるような気がします。九鬼は金子光晴と
はちょうど逆に、ヨーロッパ思想に不満をもって日本に戻ってきた哲学者だったのです。それゆえ日本人
が日本の可能性を早々と諦めてしまったことに、警鐘を鳴らしたかったにちがいありません。しかし、そ
の論理にはそれほど説得力がなかったのでした。
しかし九鬼は軍靴の響きが高まり、戦争が拡大するにつれ、しだいに沈思するようになります。
一方では祇園の置屋からそのまま人力車に乗って大学に通ったりするような抵抗を見せるのですが、
他方では「同一性と異質性」の問題を深めて、人間という存在はすでに何かを失ってこの世界に生をうけ
ているという本質をもっていることに深い関心を寄せ、ひょっとすると、日本人にはこの「被投性」が本
来的にあって、それが何がしかの偶然をともなって「いき」になっているのではないかと考え始めました。
私はこの後半の九鬼の、それを九鬼自身は「偶然性の哲学」というのですが、その考え方には、これ
まで私が話してきたことに共通するものをはっきり感じます。とくに九鬼が清元や端唄や小唄に見抜いた
「いき」の感覚は図抜けたもので、ずっと共感をもってきました。
九鬼は、日本あるいは日本人の本来には、何かが当初に失われて出奔したようなところがあると見た
のです。
しかし、人間の歴史というものは、そこから前へ向かって生きていかなければなりません。そのため
には、何かに出会う必要がある。出会ってどうするかといえば、恋をする。その恋は異性問の恋だけでは
なく、異質なものへの恋ということで、これまでお話ししてきたことでいえば、日本文化が恋をした相手
は、漢字や仏像や唐物などでした。
でも、その恋が持続できるとはかぎりません。そこで、その異質なものとの出会いを生かしながらも、
そこからの変換を試みます。新たな編集を試みます。本書でとりあげてきた例でいえば、仮名や神宮寺や
五山禅はそのようにして生まれてきたものだったでしょう。そうなると、今度は、その新たに生まれたス
タイルやモードを洗練させることに努めます。そこに生まれてきたのが、日本独自の能や連歌や侘茶だっ
たのです。
このような見方にはたらいている編集方法は、九鬼によれば、まずもって、日本文化にはどうしても
異質なものとの出会いが必要だったということです。これは「海国」日本の宿命だったかもしれません。
次に、その異質との出会いを新たな文化装置のなかで鍛えていくと、そこから僅かながらも(つまり偶然性
も関与しながら)独自にウツロイ出てくるものが見えてくるはずです。そこにスタイルやモードを見いだし
て、洗練させていく。私が本書でのべてきた言葉でいえば、これは「数寄に徹する」ということになるで
しょう。
こうして、そこに茶の湯や浄瑠璃や文人画として見いだされた上質の日本文化は、つねに「無」や「無
常」とは表裏一体なものとなって、われわれの前にあるということになるーざっといえば、こういうこと
でした。
可能が可能のままであったところ
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以上のような九鬼の見方は、すべての符牒がぴったりあうわけではありませんが、おおむねは、そも
そも日本文化が当初にもっていたウツとウツロイとウツツの関係を反映しているといえると思います。
なぜ、九鬼にこのような見方ができたかといえば、先にも書いたように、九鬼にとっての最大の哲学
の対象は「寂しさ」や「恋しさ」だったということが影響しているせいだと思います。すなわち、何かを
失ってわかる本来の感覚というものです。
昭和十年(一九三五)、九鬼周造は「偶然性」についての思索の結晶を少しずつ発表します。その内容を
ここで持ち出すことはしませんが、次の文章ははなはだ暗示的なものでありながら、よく九鬼の思想をあ
らわしていると思います。
「松茸の季節は来たかと思ふと過ぎてしまふ。その崩落性がまたよいのである。
(中略)人間は偶然に地球の表面の何処か一点へ投げ出されたものである。如何にして投げ出されたか、何
処に投げ出されたかは知る由もない。ただ生まれ出でて死んで行くのである。人生の味も美しさもそこに
ある」
。
ここで崩落性の先の先を見つめている目は、内村鑑三の「棄却」や、西条八十の「唄を忘れたカナリ
ヤ」や、野口雨情の「こわれて消えた」のあとにやってくるプロフィール、そのものでもありましょう。
それはまた、藤原定家の「花も紅葉もなかりけり」でした。
これが、九鬼周造のいう「偶然」であり、
「いき」なのです。それを九鬼の大好きな言葉でいえば、
「可
能が、可能の、そういうふうになるところ」ということになります。どこか本居宣長の思索がたどりつこ
うとした方法が見せていたものに似てはいないでしょうか。
そして、それをこそ「日本の面影」の残響と見てもいいのではないでしょうか。九鬼はそのことを、
こんなふうにも書いていました。
そして私は秋になつてしめやかな日に庭の木犀の匂を書斎の窓で嗅ぐのを好むやうになつた。私はた
だひとりでしみじみと嗅ぐ。さうすると私は遠い遠いところへ運ばれてしまふ。私が生れたよりももつと
遠いところへ。そこではまだ可能が可能のままであつたところへ。(『音と匂』)
「真水」のある日本
最後に、司馬遮太郎の見方について、加えておきたいと思います。
すでにのべておいたように、司馬も現代日本のスタートが「異胎」であったことに絶望していた一人
です。そしてそんな日本は「別国」ではないかと断じたわけでした。では、
「別国ではない日本」とはいっ
たいどこにあったのかということを、司馬は晩年の『この国のかたち」に綴り、それを追い求め、検証し、
その途次に亡くなりました。
けれども司馬が求めた「この国のかたち」には、答はなかったように思います。どちらかというと司
馬は、近現代の日本がどこから道を踏み外したかということを問う作業に、永年の問題意識を集約してき
た人なので、"正解"を求めようとはしなかったのかもしれません。それがきっと司馬の論法であり、生き
方だったのでしょう。
それでも『この国のかたち』を通読してみると、やはり司馬の日本についての見方が随所に吹き出し
ています。とりわけ神祇的なるものや神奈備的なるものを重視して、これを「真水」とみなしているのが、
目立っています。とくに第五巻では「神道」という項目が七回ぶん続いて、全巻のなかでも一番多くのペ
ージをさいています。司馬はなぜ神祇的なるものにこだわったのでしょうか。
司馬が感じていた「真水」とは、司馬自身の言葉によると古神道的なもの、神祇そのものであるよう
なものでした。教義などはもっていない神道のことです。ただその一角を清らかにしておけば、いつのま
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にかそこに神が影向するという、そういう動向のことです。
「おとづれ」のあるところということでしょう。
司馬はそのような「真水」の代表的な場所として、伊勢の滝原をあげています。伊勢神宮から三十キ
ロほど離れたところにある神域です。伊勢神宮をそっくり小型にしたようなところで、二十年ごとの遷宮
もおこなわれています。この滝原については、学者たちもあまり研究してこなかったし、神道関係者も議
論してこなかったところです。つまり、言挙げされたことがあまりないところです。
しかしながら、本居宣長ふうにいえば、こういう場所こそが日本の神奈備であり、真水なのだと司馬
は見ていたようです。ここでは若水の「若」という文字が象徴しているように、年が改まるごとにたえず
何かが若返っているのです。若水とは、日本中の多くのお祭りや祭礼がそうなのですが、神官やその年の
頭屋が、祭りの朝の牛前三時ころに神聖な水を汲むのですが、その水のことです。
司馬が「異胎」とまったく逆の日本を感じるところとは、このような若水を何度ものめる日本なので
しょう。そこが「おもかげの国」だつたのでしょう。けれども、司馬もまた、そのことについての言挙げ
をしませんでした。そういうものは「斎き」さえすればいいと、そう考えていたのかもしれません。
では、これで私の話は終わりです。
私は、どこかで「なる」
「つぎ」
「いきほひ」のうえに「むすび」がおこるような、
「おもかげの国」と
「うつろいの国」が今日なお息づいていることを確信しています。
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