ライプニッツ的オプティミズムの現代的可能性について On the Possibility

奈良教育大学紀要 第62巻 第1号(人文・社会)平成25年
Bull. Nara Univ. Educ., Vol. 62, No.1 (Cult. & Soc.), 2013
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ライプニッツ的オプティミズムの現代的可能性について
―未来の「弁神論」に向けて―
伊豆藏 好美 奈良教育大学社会科教育講座(哲学・倫理学)
(平成25年 5 月 7 日受理)
On the Possibility of Leibnizian Optimism in Our Time :
Toward the Theodicy in the Future
IZUKURA Yoshimi
(Department of Philosophy and Ethics, Nara University of Education)
(Received May 7, 2013)
Abstract
In the era Voltaire criticized Leibnizian optimism and Rousseau defended it on the occasion of the
disaster of Lisbon, the theological thought that God chose and created the best of all the possible worlds
certainly deserved criticizing or defending. However, after Auschwitz had made the idea of theodicy
completely futile, as Levinas put it, could it be of any use to discuss the significance of Leibnizian
optimism in our time?
In reality the question that should be raised is rather why catastrophic disasters never fail to
recall some kind of theodicies even among people who don’t seem to believe in God any longer. Like
other theodicies in general, Leibnizian theodicy had the theoretical functions to relieve people of their
intolerable evils and pains, so its substitutes must have been indispensable ever since theodicy in a strict
sense lost its validity. As a result, various forms of theodicies in a broader sense that appeared through
their modern history, which can be characterized by the “humanization of theodicy” and then by the
“naturalization of evils”, have now transformed into handy tools of justification and remission largely
accompanied by Panglossian optimism.
Today, living after Fukushima, we need new theodicy and another optimism, whether we still
believe in God or not. My point is that the metaphysical system of Leibniz can offer an effective model
of ontology and ethics we are forced to adopt under our current predicaments. In particular, the
idea of “re-moralization of evils” by sharing them in common with our monadological relations would
be essential for us to realize Leibnizian optimism in its original sense, which will never forget our
obligations to others and toward the future.
キーワード:ライプニッツ,オプティミズム,弁神論
1 .はじめに―「オプティミズム」と「弁神論」
Key Words:Leibniz, optimism, theodicy
会聖職者たちが揶揄嘲笑するために用いた造語であっ
たという( 1 )。よく知られているようにライプニッツは、
ときに「楽天主義」とか「楽観論」とも置き換えられ
人間にとってさまざまな悪が存在する現実を前にして、
ている「オプティミズム」(optimism)という言葉は、
それでもこの世界の創造者たる神の叡智や正義ないしは
元来はライプニッツが『弁神論』において展開した、こ
善意を弁証するための神学的議論として、自らの最善世
の現実世界が神の創造し得た無数の可能的世界の中で最
界説、あるいは「最善観」
(optimism)を展開したのだっ
善の世界であると主張する思想を、フランスのイエズス
た。たとえ私たち人間にとってどれほどの苦痛や罪過や
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伊豆藏 好 美
災厄がもたらされていようと、全知全能の神が「充分な
焼却炉で焼かれた人々のいかなる仕方でも正当化不能な
理由」をもって選択し、創造したからには、この世界は
「無用の苦しみ」は、神の正義の名のもとであれ何であれ、
およそ考えられうる限り最善の世界であるはずだ、と言
とにかくそれに何らかの意味を付与しようとする弁神論
(2)
うのである
的な試みの一切を不可能にしてしまった、というのであ
。
なるほど、当座は不運や不幸としか思えなかった出来
る( 4 )。
事が、後から見ればそれらを補って余りある喜びや幸福
とすれば、ヒロシマ、ナガサキをすでに経験し、2011
をもたらしてくれる原因となっていたと考えられる場合
年 3 月11日の東日本大震災以降を生きる現代の私たちに
も決して少なくはないし、未来のより大きな善によって
とって、「弁神論」あるいは「最善観」といった思想が
必ずや報われると信じればこそ現在の苦痛や不遇も耐え
今さら何の意味ももたないことはもはや自明であり、こ
られるものになるのだとすれば、「弁神論」といういさ
の期に及んでライプニッツ的オプティミズムの現代的意
さか大仰な道具立てを伴ったライプニッツの「最善観」
義といったものを論じようとすること自体がすでに噴飯
も、場合によっては確かに未来を信じてこの人生と世界
ものと言うべきであろうか。
を肯定する態度としての「オプティミズム」をもたらし
だが、そもそも、この世界の創造者である神の存在を
得る思想であるかもしれない。とりわけ、すべてを見通
前提とし、神の正義や善意との関係で悪の原因を問題と
し、決して過つことなく最善世界を選ぶはずのライプ
する狭義の「弁神論」は、ニーチェによる「神の死」の
ニッツの神が信じられるならば。
宣言を待つまでもなく、すでに失効して久しかったはず
とはいえ、「弁神論」の形で展開された「最善観」は、
である。にもかかわらず20世紀も終わろうとする時に
どのような悪にも何らかの理由があり、しかもそれがよ
なって、なぜレヴィナスは改めて「弁神論の終焉」につ
り大きな善で必ずや埋め合わされるはずであると人々が
いて語る必要があったのだろうか。実はレヴィナスは、
確信できてこそ、態度としての「オプティミズム」をも
少なくとも20世紀における数々の試練が生じるまでは
たらす思想たり得るのではないだろうか。そうした確信
「弁神論」が確かに生き延びていたということを認めて
自体を失わせるような、すなわち、何らかの合理的な理
いる。すなわち、さまざまな不正や戦争、災厄から生じ
由があるようには到底思えず、いかなる未来の善によっ
る人々の苦しみに未来の善を目的としてあてがうことで
ても埋め合わせがつくとはとても考えられないような、
それらを合理化し、有意味化しようとする弁神論的思考
そんな法外な苦しみや災厄が現実の出来事によりもたら
は、たとえば「無神論的進歩主義」の中にも姿を変えて
されたとき、それでもこの現実世界が神の創造し得た可
生き続けていたのであり、ただそこでは「神の摂理」が「自
能な限り最善の世界であると説く思想は、どこか馬鹿げ
然や歴史の諸法則」へと置き換えられていたにすぎない、
た、あるいはむしろたちの悪い冗談と化してしまうので
というのである( 5 )。
はないか。
しかし、もしもそうであるなら、レヴィナスの言う意
たとえばヴォルテールにとって、リスボンの大震災は
味での「広義の弁神論」は、21世紀の現在でもなおさま
まさにそのような出来事であった。1755年にポルトガル
ざまな形で生き続けている、ともみなせるのではないだ
の首都リスボンを襲い、直後の津波と火災による被害を
ろうか。実際、東日本大震災の直後にも、指導的立場に
併せ 5 万人とも10万人とも言われる犠牲者を出した大地
ある少なくない人々があろうことか「天罰」や「神の仕
震の報に接して、ヴォルテールは『リスボンの災厄につ
業」といった言葉を口にして物議を醸したのは記憶に新
いての詩、または《すべては善である》という公理の検
しいことであるし( 6 )、近年の一連の大災害や無差別テ
討』を発表し、ライプニッツ的オプティミズムを痛烈に
ロに対する知識人たちの反応は、「悪に関する彼らの考
批判した。『カンディード』では、ライプニッツの説を
察が『弁神論』の段階から何ひとつ変わっていないこと
信奉するパングロス博士が地震と津波で崩壊したリスボ
を証明している」との指摘もあるほどなのである( 7 )。
ンの街で、相も変わらず「こうしたことはどれも最善だ」
すると問われるべきはむしろ、恐るべき災厄や破局は
との持説を説いた挙げ句に縛り首になるのを目撃した主
なぜ、必ずやある種の「弁神論」を、もはやいかなる神
人公に、「これがありとあらゆる世界の中で最善の世界
も信じているようには思えない人々の間にさえ呼び起こ
であるなら、ほかの世界はいったいどんなところだろう」
すのか、という問いではないだろうか。そして、こう考
(3)
と言わしめている
。
えられないだろうか。私たちは通常深く自覚することな
あるいはレヴィナスは、二つの世界大戦、左右の全体
く「弁神論的思考」によりさまざまな不安や苦痛に対処
主義、ソ連の強制収容所、カンボジアの大量虐殺といっ
しているのだが、それが不可能なほどに法外な災厄や試
た20世紀が経験した数々の野蛮によって、そしてとりわ
練に直面したときにとりわけ、当の思考の有効性が改め
けアウシュヴィッツという「法外な試練」により、「弁
て問われ、あるいはその失効が繰り返し主題化されてき
神論の終焉」は不可避的なものになった、と断じていた。
たのだと。
ライプニッツ的オプティミズムの現代的可能性について
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では、リスボンからアウシュヴィッツ、さらにはヒロ
悲しんでいる地震の被害の大部分は、実は私たち人間自
シマ、ナガサキ、そしてフクシマへと時間軸に沿って辿
身にその原因がある。たとえば、リスボンに「 6 階建て
り直すとき、弁神論的思考はその都度いったいどのよう
や 7 階建ての家を 2 万軒も集合させる」ようなことがな
な変容を被り、また遂げようとしていることになるのだ
かったならば、あるいはもっと散らばって身軽な暮らし
ろうか。この辺りの経緯をスーザン・ニーマンやジャン・
をしていたならば、被害ははるかに少なかったか皆無で
ピエール・デュピュイによる考察を参照しつつ考えてみ
あったろう。実際、「人里離れた場所に分散して住んで
たい。その上で現代における弁神論的思考のありようを
いて、屋根が落ちるのも家が燃えるのも心配することは
ライプニッツその人のもとへと差し戻したとき、改めて
ない動物や未開人たち」には、地震はほとんど損害を与
どのような「オプティミズム」の可能性が見えてくるの
えないはずである。要するに、地震があれば大きな被害
かが以下の論考の主要な関心事である。
が出てもおかしくない場所に、わざわざ被害が大きくな
るような仕方で生活している私たち自身の欲望の中にこ
2 .近代における弁神論の人間化
そ不幸の原因はある(11)。ルソーはこのように論じて、
「自
然の善性」と文明批判という自らの根本テーゼへと立ち
さて、ヴォルテールがリスボン大地震を機縁にライプ
ニッツ的オプティミズムを批判したとき、それに反論を
戻るのである。
さて、よく知られているようにライプニッツは悪を、
試み、オプティミズムを擁護したのがルソーであった。
「形而上学的悪」、
「物理的〔自然的〕悪」、
「精神的〔道徳的〕
つまり、当時のヨーロッパの思想界では、神が創造し得
悪」の三種類に分類していた(12)。このうち、すべての
た無数の可能的世界のなかでこの現実世界こそが最善の
被造物に本質的に伴う不完全性・制限性に他ならないと
世界であると主張する思想は、当代一流の哲学者や知識
された「形而上学的悪」は、神が悪の直接的原因とみな
人にとって確かに批判や擁護に値するとみなされていた
されることを防ぐいわば理論的バッファーであり、本来
わけである。では、その際ヴォルテールとルソーはいっ
的な意味での「悪」の性格は取り除かれていたと言える
たい何をめぐって対立し、その対立にはどのような意味
だろう(13)。他方、「物理的悪」は「苦痛」であり、「精
があったのだろうか。まずはこの点の確認から始めてみ
神的悪」は「罪」であるとされたが、これらはその存在
たい。
理由を問う人間の観点からすれば、両者を含んだ世界を
ヴォルテールは『リスボンの災厄についての詩、また
は《すべては善である》という公理の検討』の中で「母
の乳房の上で押し潰され血にまみれた幼な子たちが、ど
創造した神の意図との関係ではいずれもが「道徳的悪」
と捉えられていたことになる(14)。
それが今ヴォルテールの詩の中で、リスボン大地震が
んな罪を、どんな過ちを犯したというのか」と問いかけ、
もたらした圧倒的な「自然的悪」は、人間には推し測り
多数の犠牲者を目の当たりにしながら、それを「自由に
得ない神の摂理からは切り離され、その理由や責任を追
して善なる神の永遠の掟の結果」とする「迷妄の哲学者
求することが意味をなさない不条理な偶然とみなされ
(8)
たち」を糾弾した
。「ライプニッツは教えてくれない。
た。これを受けてルソーは、「自然的悪」は「人間がそ
可能的な宇宙の中でもっともよく秩序づけられた宇宙の
の部分をなしているいかなる体系においても避け得な
中で、いかなる機縁によって、〔…〕なぜ無垢なる者も
い」が、「道徳的な悪の源泉は、自由で完成された、そ
(9)
罪人も、等しくこの避けがたい悪を被るのかを」
。ヴォ
れゆえに腐敗した人間の他には求められない」し、実は
ルテールはここで、なにも神の存在や善性を否定してい
大部分の「自然的悪」の原因もやはり私たち自身である、
るわけではない。ただ、神の摂理はわれわれ有限な人間
という点を強調した。彼にとっての課題はひとえに「人
には推し量りがたいことを認め、この途方もない不条理
間がいかにして自分たちの不幸を自ら引き起こしたの
と思える偶然を前にしてはただ泣くことだけが「人間的」
か、したがって、いかにしてその不幸を避けることがで
(10)
であり
、同胞たちの不幸を「天罰」とか「神の摂理」
を持ちだして合理化しようとする態度や言説を、おぞま
しく忌まわしいものとして斥けたのである。
きるか」に尽きるのである(15)。
根底においてはともにライプニッツの神を引き継ぐ理
神論の立場に立っていた二人のこの対立に、とりわけル
これに対してルソーは、ヴォルテールが非情で残酷と
ソーの思想の中に、スーザン・ニーマンは悪の人間化に
考えているオプティミズムこそが、あたかも耐えがたい
よる狭義の弁神論の終焉と近代化された弁神論(「神義
ものであるかのように描き出されている諸々の苦しみの
(16)
論」ならぬ「人義論」
)への決定的な転換点を見て取っ
中で自分を慰めてくれる当のものである、と応じてオプ
ている(17)。自由を欠いた自然法則の世界の中に道徳的
ティミズムを擁護した。現に訪れる不幸や苦しみは、神
秩序を求めることは断念され、合理化や正当化が必要な
とその神が創造した自然の善性を信じることによってこ
のも責任が追及されるのも、ただ人間の自由意志が引き
そ耐えられるものとなる。しかも、ヴォルテールが嘆き
起こした「道徳的悪」のみとなる(18)。つまり、ルソー
92
伊豆藏 好 美
とともに、おそらくはかれ自身の意図に反して、弁神論
示したからだった(20)。デュピュイは、類似の不均衡が
の舞台から神が姿を消し、人間がそれに取って代わった
実は広島や長崎への原爆投下についても同じように見出
(19)
のである
。かつては神への信仰によりもたらされて
されることを、ギュンター・アンダースの「プロメテウ
いた救済も、これ以降は人間自身の力によって約束され
ス的落差」をめぐる議論を引き合いに出しつつ指摘して
るものとなるであろう。実際、やがては科学技術の進歩
いる(21)。私たちは今、そこに福島の原発事故を類似の
や市場経済の進展や革命が、現在の悪を補って余りある
参照事例として新たに付け加えることもできるであろ
未来のよりよき善を保証してくれるはずであった。20世
う。
紀における数々の試練が到来するまでは。
いずれにせよ、人為的な原因によってもたらされたは
ずの災厄の甚大さが個々人の意図や意志との間に比較不
3 .人間化された弁神論の崩壊と悪の自然化
能な不均衡を生み出してしまったとき、それらの惨事は
あたかも地震や津波のような自然の大災害に対するのと
さて、弁神論は元来、悪の起源と神の正義あるいは善
類似の反応を人々の間に引き起こすだろう。
「世界の自然
性とを調停するための議論であったが、その構造の中に
的秩序に対する無限責任」など誰も担うことはできない
は、( 1 )現に存在する悪の合理化あるいは正当化を行
し、誰に対しても追求することはできないからである(22)。
い(正当化論)、( 2 )当の悪の原因となっているものの
しかるに、今やそれらと同等の惨事が、いや実際にはど
責任を明らかにし(帰責論)、( 3 )当の悪によってもた
んな自然災害よりもはるかに甚大な被害が、ほんの些細
らされた結果の心理的、社会的受容を可能にする(救済
な不注意や軽率さから、場合によっては社会生活での徳
論)という三つの契機が含まれていたと考えられる。「充
性である忠誠心や義務感からでさえ生じ得るのである。
足理由」に基づいて「最善世界」を選択するライプニッ
かくしてリスボンに際してのヴォルテール的態度が回帰
ツの神は、当然これらの三契機の要求を一挙に解決して
することになるだろう。「自然化」された悪の前で弁神
くれるはずの存在であった。
論は無意味化するのだ(23)。
その神が退場した後の「広義の弁神論」にもレヴィナ
とはいえ、他方で私たちは誰でも、身の回りにありふ
スの断言した終焉がなぜ訪れざるを得なかったのかは、
れた不幸や苦しみに直面すれば相変わらず、たとえ何ら
20世紀が経験した「法外な試練」のいずれかについて、
かの信仰をもっていようがいまいが、やはり身に降りか
上述の正当化論、帰責論、救済論がそれぞれどのように
かる悪を合理化し、その原因となったものの責任を追及
成り立ち得るかを考えてみれば直ちに明らかとなるだろ
し、そのことを通して悪を受容しようとする。だからこ
う。たとえばアウシュヴィッツやヒロシマ、ナガサキで
そ弁神論は「不幸に直面した人間精神の普遍的形式」な
起こったこと、あるいは革命や聖戦の名のもとに行われ
のである(24)。実際、崩壊したはずの弁神論の廃墟の中で、
た幾多の大量殺戮を、いかに合理化し、いかに正当化で
人々は一方では他者たちの意図をあばき責任を追及する
きるであろうか。また、その責任を、誰がどう担えるで
ことで自らが被った苦しみや不幸の「道徳化」を図りな
あろうか。さらには甚大な犠牲や被害をどのように受容
がら、他方では、担いきれない責任を回避するために、
し、いかなる救済を語れるであろうか。全知全能の神で
過失や軽率さを考慮に入れたリスク計算の中で自らの意
あればあるいは担い得たかもしれない重荷を、近代的個
図や行為を「自然化」しようとし続けているのではない
人や近代的国家が肩代わりできるはずもないであろう。
だろうか。
言うまでもなく問題の根底にあるのは近代産業文明の
こうした状況のなかにも、ある種のオプティミズムと
技術力が可能にしてしまった組織的破壊力の甚大さであ
思えるような態度を見出すことは可能である。現在たし
る。「自然的悪」は、技術的な力により克服、解消する
かに存在する犠牲を未来の不確実な善によって正当化
ことが可能になった限りでは、人間の意志や意図に従属
し、やがて必ずや到来するであろう危機や害悪のリスク
する「道徳的悪」となる。それが弁神論の人間化、すな
には目をつぶり、ひたすら現状肯定を目指すイデオロ
わち「神義論」ならぬ「人義論」の誕生であった。とこ
ギー的言説の数々は、その背後に邪悪な意図を認めない
ろが他方で、科学技術と社会組織・制度の近代化は、時
限りは確かに底抜けの楽観論にも見えよう。たとえばナ
としてもはやそれを「道徳的悪」として理解することを
オミ・クラインが糾弾する「惨事便乗型資本主義」の唱
不可能にするほどの、個々の人間の意図とその結果との
道者や実践者の中に、その典型を見出すことができるだ
間の比較不能な不均衡を生み出してしまう。たとえば
ろうし(25)、あるいは、きわめて深刻な事故を引き起こし、
アーレントの『エルサレムのアイヒマン』が大きな論議
今後もどれほど甚大な被害をもたらすか予測不可能な原
を巻き起こしたのは、恐るべき大量虐殺がその結果に見
子力発電所が、まるで「原子力という神」への信仰に突
合うような邪悪で悪魔的な意志によるのではまったくな
き動かされてでもいるかのように(26)再稼働され、さら
く、小心な官吏的義務感によって遂行されていたことを
には相も変わらぬ経済成長戦略の名のもとで原発の海外
ライプニッツ的オプティミズムの現代的可能性について
93
輸出が推進されようとしている現状は、かのパングロス
ぜい、過去とその中の「悪」を取り消せないものとして
博士さながらの楽天主義者でもなければとても追認でき
受容した上で、にもかかわらずこの現実世界が未来にお
そうにないほどである。
いて「最善」となり得る唯一の世界であることを肯定し、
しかし、ヴォルテールの造型によるパングロス博士
できるならばその「最善」化に少しでも寄与すべく努力
の「楽天主義」はもちろんライプニッツのオプティミズ
することだけではないだろうか。思い切って細部を切り
ムではないし、実際のライプニッツによる「最善観」の
詰めてしまうならば、ライプニッツが最善世界説に込め
帰結は、そうした楽観論や楽天主義とはむしろ明らかに
ようとした倫理的含意の核心はここにあったように思わ
対立するように思える。では、「弁神論の終焉」以降の、
れてくる(29)。
まともに考えるならばどう見ても悲観的なこの状況をラ
では、以上のように理解された最善観との連関のもと
イプニッツその人の思想圏域に差し戻したときに、私た
で、弁神論的思考はどのような性格をもつことになるの
ちはそこに希望のオプティミズムを再発見することがで
だろうか。神はより大きな善のために悪を許容した、と
きるだろうか。
する弁神論の論理から、現代の私たちはどうしても、よ
り多くの幸福のための必要条件としてなら少数の幸福を
4 .未来の弁神論、あるいは希望のオプティミズム
犠牲にすることは正当化できる、とする功利主義的推論
を連想してしまう。たとえば広島や長崎への原爆投下を、
ここではごく大まかな見取り図を粗描することしかで
より多数の人命が犠牲になることを未然に防ぐためには
きないが、ライプニッツの形而上学すなわちモナドの体
やむを得なかった(あるいはむしろ当然であった)かの
系と最善観は、現在の苦境から私たちが採用することを
ように論じる、あの論法である。
迫られている世界観や倫理観の、ひとつの有力なモデル
しかし、実を言えば、ある悪が行われた場合と行われ
なかった場合の功利計算は、究極的には一つの可能的世
になり得るように思われる。
そのためにまず確認しておかなければならないのは、
界と別の可能的世界を比較しなければ不可能であって、
ライプニッツがこの現実世界を神が創造し得た最善の世
私たち人間がその論法により当の悪を正当化することは
界であると主張したとき、その「最善」は決して個々の
本当はできないはずなのである(30)。もちろん現実に起
人間にとっての「最善」でも、ある特定の人々にとって
こってしまったことに関しては、神はそれを許容したと
の「最善」でもなく、さらには人類全体にとっての「最善」
言うしかない。ただし、それがなぜ許容されたかの理由
ですらなかった、という点である。ライプニッツは、宇
は、私たちの誰にも明かされてはいないのである。それ
宙はわれわれのためだけに作られているわけではないか
ゆえ、ライプニッツが「なぜ神が悪を容認せずにはおか
ら、神は一頭のライオンよりは一人の人間の方を重視す
ず、むしろ容認するのかということの理由がなければな
るかもしれないが、ライオンという種族全体よりも一人
らないが、神の意志の理由は善からしか得られない」と
(27)
の人間を選ぶかどうかは分からない、と述べている
。
語るとき(31)、その理由は実質的には私たちが未来にお
要するに、人間中心主義も現在(現世代)中心主義もはっ
いて発見しなければならないものになっている。つまり、
きりと斥けられていたのである。したがって、「われわ
すでに起こってしまった悪を必要条件とするような「善」
れは、われわれ自身のために生まれてきたのではなく、
は、これから作り出されなければならないのである。
部分が全体のためにあるように、社会のために生まれて
(28)
きた」とライプニッツが言うとき
だが、たとえどのような形であれ、途方もない悪を正
、そこで想定され
当化しようとする試みには、どこかで必ずあのヴォル
ていた「社会」は、狭い「ムラ」社会でも近代市民社会
テールが糾弾したおぞましさがつきまとうのではないだ
でもグローバル化した国際社会ですらなく、たとえどれ
ろうか。ここでもう一度ヴォルテールとルソーの対立を
ほど途方のないことと思われようと、神が考慮するはず
思い出してみよう。彼らのオプティミズムに対する評価
のすべての存在者から構成される宇宙の時空的全体なの
の違いは、実は二人がいったい誰の被る悪を念頭におい
である。
ていたのかに起因していたように思われる。ヴォルテー
しかしそうすると、たとえばある可能的世界とこの現
ルは他者たちの被る苦しみが正当化されることに憤って
実世界とを見比べて、確かにこの世界の方が「より善
いたが、ルソーは自分たちの不幸が何によって慰められ
い」と判断できるような人間はそもそも存在しない、と
るかを考えていた。つまり、弁神論的思考は、他者の苦
いうことになりそうである。だとすれば、それでもこの
しみを正当化するときに陰惨なものとなるが、自己の苦
現実世界こそ神が創造し得た最善の世界であると示そう
しみを合理化する仕方としては、確かに救いをもたらす
としたライプニッツの議論には、いったいどのような実
ものにもなり得るのである。
質的意義を見いだせるのだろうか。時間の中にあってす
では、それが「われわれ」の苦しみを直視するものに
べてを見通すことが不可能な私たちにできることはせい
なった場合にはどうだろうか。ライプニッツは明らかに、
94
伊豆藏 好 美
モナドロジーが描き出す普遍的連関の中に生きる「われ
人間は無関心を決め込み、世界を無用の苦しみの
われ」についての弁神論を考えていたはずである。そこ
中に放置しようとするのだろうか。弱者や敗者に不
では悪もまた「われわれ」によって共有されるものにな
幸を科す一方で、悪意ある者たちの結集に腐心した
るであろう。ライプニッツの「保険論」がその具体的な
勝者に対しては不幸を免じるような、そうした盲目
イメージを与えてくれている。ある人々が被った理不尽
的な力の奔流にほかならない政治的宿命のなすがま
な偶然としか思えない悪が、保険制度の存在によって共
まに世界を委ねて。
有化され、軽減され、そして幾分かは「道徳化」され
るのである(32)。このモデルを時空的に拡張し、深化さ
レヴィナスはこれに対して、私たちはもう一方の選択
せていくならば、未来の弁神論の姿もおぼろげながら見
肢、すなわち「これまで以上に困難となった信仰、弁神
えてくるのではないだろうか。その目的は、「われわれ」
論なき信仰」の中での「聖なる歴史」の継続を選ぶよう
をモナド論的に再組織化し、近代的個人の道徳意識が担
強いられているのではないか、と問いかけたのである。
いきれなくなった「自然化された悪」を再び「道徳化」
彼によれば、その歴史はこれまで以上に「各人における
することに置かれるであろう。そのようなオプティミズ
「私」の能力」、「他の人間の苦しみに触発された「私」
ムは、私たちの現在の苦境からすればあまりに楽天的と
の苦しみ」に訴えることになるはずであった(38)。けれ
見えるだろうか。
ども、私たちとしてはあえてこの選択肢に代えて、新た
な弁神論を目指すオプティミズムを、もう一つの(ある
5 .結びに代えて―もう一つの(あるいはむしろ
唯一の)選択肢へ
いはむしろ唯一の)選択肢と考えてみたい(39)。その細
部がさらにどの程度までライプニッツ的であり得るかに
ついては、なお今後の議論や研究の進展に委ねられると
第一次世界大戦に志願兵として従軍し、20世紀の苛酷
しても、少なくともそのオプティミズムが、「各人にお
な試練の一端をすでに自ら経験していた哲学者アラン
ける「われわれ」の能力」、「他の人間の苦しみに触発さ
は、「オプティミズム」を「それによって自然的なペシ
れた「われわれ」の苦しみ」に訴えるものになることだ
ミズムを退けるような意志的判断」と定義していた。つ
けは確かなように思われる。
まり、私たちは何もしないでいれば自然と悲観的で厭世
的になるので、それを克服するためにはあえて「意志的
判断」としてのオプティミズムを採用する必要がある、
というのである。彼は「オプティミズムはしばしば、苦
しみ、病気、死によって打ち負かされる」が、「しかし、
ペシミズムが人間についての判断において勝っていると
信じようとするその瞬間に、オプティミズムは勝利を収
める」とも述べている。なぜなら、「人はつねにその同
胞を、自分がそれを欲するならば、少なくともわれわれ
に依存することがらにおいて理解し救うことができる
から」と(33)。確かに私たちはこれまで、何とかそのよ
うな経験を見失わずにすんできたように思われるし(34)、
アランが強調しているように意志することこそがペシミ
ズムを遠ざけるとするならば、他者たちに対する義務と
して「最善」を目指そうとする意志だけが、結局は私た
ちをペシミズムから救ってくれるであろう(35)。ライプ
ニッツが宿命論や決定論に依拠して未来への努力の放棄
を正当化しようとする「怠惰な論理」を繰り返し批判し、
キリスト教的な慈愛の義務を幸福への不可欠の条件とし
て説いていた点を想起するならば、そこにも同じ精神が
息づいていたと言えるように思われる(36)。
ところで、レヴィナスは「弁神論の終焉」以降に私た
ちが否応なしに直面させられることになった二つの選択
肢のうちの一方を次のように表現していた(37)。
注
( 1 )酒井潔「オプティミズムとペシミズムの彼岸―ライプ
ニッツの場合―」実存思想協会編『悪』(実存思想論集
XIV)理想社, 1999, p. 32.
( 2 )「 オプティミズム」(optimism)はラテン語の「最善」
(optimum)から作られた造語であるが、その「最善観」
とでも訳すべき言葉が、ライプニッツの本来の思想内容
を離れて「楽観論」や「楽天主義」といった意味で用い
られるようになった歴史的経緯については、上記酒井論
文以外に以下を参照。佐々木能章「解説」『弁神論(下
巻)』, 工作舎著作集, 第7巻, pp. 303- 308. 他方、
「弁神論」
(Théodicée)という語はライプニッツによって新たに作
られたものだとされているが、この世界におけるさまざ
まな悪の存在を神の全能や善性や正義と矛盾なく説明し
ようとする「弁神論」的議論そのものの起源は、当然さ
らに古くまで遡ることができる(たとえば『旧約聖書』
の「ヨブ記」など)
。そうした議論一般を指す場合、日
本語ではむしろ「神義論」が多く用いられてきたようで
ある。もちろん「神義論」一般が必ずしもライプニッツ
の展開したような最善世界説に結びつくわけではない。
言い換えれば、古来の「神義論」を形而上学的な「最善観」
へと変換したところにライプニッツの「弁神論」の独自
性があったことになる。その思想が後にライプニッツ本
人の与り知らぬところで「オプティミズム」
(optimism)
という造語で呼ばれるようになり、さらにその語が、や
がてはライプニッツの形而上学の精確な内容とはほとん
ど無関係に「楽天主義」あるいは「楽観論」といった意
味合いで用いられるようになったわけである。
( 3 )ヴォルテール(植田祐次訳)『カンディード』岩波文庫,
2005, pp. 290- 291.
ライプニッツ的オプティミズムの現代的可能性について
(4)Emmanuel Lévinas,“La souffrance inutile”,Entre nous:
Essais sur le penser-à-l'autre , Grasset, 1991, pp. 107109.(邦訳)エマニュエル・レヴィナス(合田正人/谷
口博史訳)「無用の苦しみ」『われわれのあいだで―《他
者に向けて思考すること》をめぐる試論』法政大学出版
局, 1993, pp. 136- 138.
(5)Ibid ., p. 106,(邦訳)pp. 135- 136.
(6)Cf. 高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』集英社新書,
2012, pp. 106- 114.
(7)Jean- Pierre Dupuy, Petite métaphysique des tsunamis ,
Seuil, 2005, p. 40.(邦訳)ジャン・ピエール・デュピュイ(嶋
崎正樹訳)『ツナミの小形而上学』岩波書店, 2011, p. 42.
(8)Voltaire, “Poème sur le désastre de Lisbonne”,
Mélanges , Gallimard, 1961, p. 304.
(9)Ibid ., p. 308.
(10)Ibid ., p. 304.
(11)J. J. Rousseau, “Lettre de J. J. Rousseau à M. de
Voltaire”, Œuvres complètes , t. IV, Gallimard, 1969, pp.
1060- 1062.(邦訳)ルソー(浜名優美訳)「ヴォルテー
ル氏への手紙」『ルソー全集』第 5 巻, 白水社, 1979, pp.
12- 15.
(12)『弁神論』第21節, 工作舎著作集, 第 6 巻, p. 138.
(13)いわゆる「欠如」としての「悪」である。Cf. 山本信『ラ
イプニッツ哲学研究』東京大学出版会, 1953, pp. 70- 71.
(14)実際、ライプニッツは「物理的悪」を、神が罪過に対す
る罰として欲したり、より大きな悪を避けたりより大き
な善を得るための手段として欲することがある、とみな
すことで、明らかにそれに「道徳」的性格を付与してい
た。『弁神論』第23節, 工作舎著作集, 第 6 巻, p. 140.
(15)Rousseau, op . cit ., p. 1061,(邦訳)pp. 13- 14.
(16)Cf. Dupuy, op . cit ., p. 57,(邦訳)p. 63.
(17)Susan Neiman, Evil in Modern Thought: An Alternative History of Philosophy , Princeton University
Press, 2002, pp. 3- 4, 39- 40, 47, 267- 268. ただし、ニー
マン自身が弁神論の近代的な形態の典型と見なしている
のはヘーゲルの歴史哲学であり、ルソーはむしろ狭義の
弁神論に終止符を打った思想家と捉えられている。
(18)ここでは詳しく論じることができないが、カントの倫理
学をこの転換の最も雄弁な表現と見ることも可能であろ
う。Cf. Ibid ., p. 268.
(19)Cf. Ibid ., pp. 55- 57.
(20)ニーマンは「悪」をめぐる哲学的考察に際して「アウシュ
ヴィッツ」が提起する問題をアーレントに言及しつつ分
析し、「リスボン」が「自然的悪」と「道徳的悪」を峻
別する思想的機縁となり「伝統的弁神論の終焉」をもた
らしたのに対して、「アウシュヴィッツ」はその当の区
別を可能にした「悪が悪しき意図を前提にしている」と
する考え方自体を挫き、それに伴って「苦しみに対する
責任を担おうとする企て」を「どうとでもなるように
見える」ものにしてしまった、と論じている。Ibid ., p.
281.
(21)Dupuy, op . cit ., pp. 86- 87,(邦訳)pp. 96- 97.
(22)Ibid ., p. 74,(邦訳)p. 83. また、同書p. 90(邦訳, p. 101)
では、ヒロシマ、ナガサキの生存者についてのギュン
ター・アンダースによる次のような印象記が引用されて
いる。「その惨事について、かれらは一様に、まるで地
震や津波あるいは隕石についてのように語っている」。
(23)ただし、もはや誰もヴォルテールのように災厄について
の「詩を書く」ことで自らの人間愛を表明することはな
いだろう。アドルノが述べたように、それは今や「野蛮」
95
なことだからである。
(24)Ibid . , p. 40,(邦訳)p. 41.
(25)Cf. ナオミ・クライン(幾島幸子・村上由見子訳)『ショッ
ク・ドクトリン―惨事便乗型資本主義の正体を暴く』
(上・
下)岩波書店, 2011. もっとも、そこで俎上に載せられて
いる「惨事便乗型資本主義者」たちは、文字通りの「現
状肯定」を目指しているわけではない。「復興」という
名のもとでの大規模な「リセット」による市場原理主義
的な開発と発展を志向している点では、むしろ大胆な
「改革」派であるようにも見える。しかし、
「新自由主義」
と呼ばれようが「新保守主義」と呼ばれようが、その「新
しさ」の内実は、総じて民主主義の敵視と人権理念の無
視にあるように思われる。もちろん根底にある経済発展
至上主義と自由市場イデオロギー自体はきわめて古典的
かつ保守的であり、完全に自由な市場経済がやがてはも
たらすとされる均衡や秩序への全面的な信頼(あるいは
むしろ盲目的な信仰)は、不気味なほどに楽観的である。
(26)Cf. 大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ 3 .11後の哲学』岩
波新書, 2012, pp. 61- 102.
(27)『弁神論』第118節, 工作舎著作集, 第 6 巻, p. 213.
(28)GP, VII, p. 107.
(29)『弁神論』の末尾にライプニッツが挿入した、すべての
可能的世界におけるセクストス・タルクィニウスの生涯
を通覧したテオドロスが自らの生きるこの世界の最善性
を得心するエピソードも、結局は同じことを訴えようと
しているように思える。
『弁神論』第413- 417節, 工作舎
著作集, 第 7 巻, pp. 154- 160.
(30)その意味では、むしろ功利主義の方を人間化された弁神
論の一類型とみなすこともできよう。
(31)『神の大義』第36節, 工作舎著作集, 第 7 巻, pp. 262- 263.
(32)Cf. 佐々木能章『ライプニッツ術』工作舎, 2002年, pp.
183- 194. 同「共有された悪―ライプニッツの保険論―」
『横浜市立大学論叢』第46巻人文科学系列 1 / 2 / 3 号,
1995.
(33)Alain, Définitions , Gallimard, 1953, p. 153.(邦訳)アラ
ン(神谷幹夫訳)『定義集』岩波文庫, 2003, p. 119.
(34)私たちが直接に経験、見聞してきた事例以外に、たとえ
ばレベッカ・ソルニットによる印象深い報告を参照。(高
月園子訳)『災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同
体が立ち上がるのか』亜紀書房, 2010. 彼女によれば「地
震、爆撃、大嵐などの直後には緊迫した状況の中でも誰
もが利他的になり、自身や身内のみならず隣人や見も知
らぬ人々に対してさえ、まず思いやりを示す。大惨事に
直面すると、人間は利己的になり、パニックに陥り、退
行現象が起きて野蛮になるという一般的なイメージがあ
るが、それは真実とはほど遠い。二次大戦の爆撃から、
洪水、竜巻、地震、大嵐にいたるまで、惨事が起きたと
きの世界中の人々の行動についての何十年もの綿密な
社会学的調査の結果が、これを裏づけている。」pp. 1011. なお、同書の原題は、A Paradise Built in Hell: The
Extraordinary Communities That Arise in Disaster で
あるが、逆説的にも災害時の「地獄」にしばしば現出す
る「パラダイス」は、文字通り「共有された悪」をいわ
ば「必要条件」として立ち上げられている点に注目して
おきたい。
(35)アランは、『幸福論』においても、オプティミズムが意
志によるものであり「どんな幸福も意志と自己統御によ
る」ことを強調した上で、次のように述べている。「こ
こから非常によくわかることは、オプティミズムは誓約
を求めている、ということである。最初はどんなに奇妙
96
伊豆藏 好 美
な考えに見えようと、幸福であることを誓わなければな
らない」。Alain, Propos sur le bonheur , Gallimard, 1928,
pp. 211- 213.(邦訳)アラン(神谷幹夫訳)
『幸福論』岩
波文庫, 1998, pp. 314- 316. さらに、アランによれば「幸
福であること」は「他者に対する義務」でもある。Ibid .,
pp. 209- 210,(邦訳)pp. 311- 312. この「幸福であること」
を他者に対する義務として捉える視点は、オプティミズ
ムの倫理的可能性を考える上で重要と思われる。
(36)Cf.『弁神論』「序文」第 5 節, 第 8 - 11節, 工作舎著作集,
第 6 巻, pp. 15- 16, pp. 18- 20,『弁神論』第54- 55節, 同巻,
pp. 161- 162, etc. なお、ライプニッツにおけるキリスト
教的な「愛」のすぐれて実践的な性格については、長綱
啓典『ライプニッツにおける弁神論的思惟の根本動機』
晃洋書房, 2011, のとりわけ第 6 章を参照。
(37)Lévinas, op. cit. , p. 110,(邦訳)p. 140.
(38)レヴィナスによれば、その苦しみはもはや「無用ではな
い苦しみ(すなわち愛)」(ibid .)である。
(39)それはあるいは「神のいない弁神論」になるのかもしれ
ないが。Cf. 佐々木能章「神のいない弁神論」『横浜市立
大学紀要 人文学系列』第 2 号, 1995.
参考文献
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谷幹夫訳)『幸福論』岩波文庫, 1998.
Alain, Définitions , Gallimard, 1953.(邦訳)アラン(神谷幹夫訳)
『定義集』岩波文庫, 2003.
Jean- Pierre Dupuy, Petite métaphysique des tsunamis , Seuil,
2005.(邦訳)ジャン・ピエール・デュピュイ(嶋崎正樹訳)
『ツナミの小形而上学』岩波書店, 2011.
井上尭裕『ルソーとヴォルテール』世界書院, 1995.
ナオミ・クライン(幾島幸子・村上由見子訳)
『ショック・ド
クトリン―惨事便乗型資本主義の正体を暴く』(上・下)
岩波書店, 2011.
G. W. Leibniz, Die philosophischen Schriften , hrsg. von C. I.
Gerhardt, 7 Bde., Olms, 1978【略記:GP】
.
『ライプニッツ著作集』全10巻, 下村寅太郎・山本信・中村幸四
郎・原亨吉監修, 工作舎, 1988- 1999【略記:工作舎著作集】.
Emmanuel Lévinas, Entre nous: Essais sur le penser-à-l'autre ,
Grasset, 1991.(邦訳)エマニュエル・レヴィナス(合田正
人/谷口博史訳)『われわれのあいだで―《他者に向けて
思考すること》をめぐる試論』法政大学出版局, 1993.
松田毅「「最善」の認識可能性―ライプニッツ「弁神論」の方
法論あるいは「パングロス主義」?―」『神戸大学文学部
紀要』第30号, 2003, pp. 51- 85.
永田英一「リスボンの震災について―ルソーとヴォルテール
―」九州大学文学部『創立四十周年記念論文集』1966, pp.
1011- 1063.
長綱啓典『ライプニッツにおける弁神論的思惟の根本動機』晃
洋書房, 2011.
Susan Neiman, Evil in Modern Thought: An Alternative
History of Philosophy , Princeton University Press, 2002.
大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ 3 .11後の哲学』岩波新書,
2012.
J. J. Rousseau, Œuvres complètes , t. IV, Gallimard, 1969.(邦訳)
『ルソー全集』第 5 巻, 白水社, 1979.
酒井潔「オプティミズムとペシミズムの彼岸―ライプニッツの
場合―」実存思想協会編『悪』
(実存思想論集 XIV)理想社,
1999, pp. 27- 59.
佐々木能章「共有された悪―ライプニッツの保険論―」
『横浜
市立大学論叢』第46巻人文科学系列 1 / 2 / 3 号, 1995, pp.
197- 229.
佐々木能章「神のいない弁神論」『横浜市立大学紀要 人文学
系列』第 2 号, 1995, pp. 177- 196.
佐々木能章『ライプニッツ術』工作舎, 2002.
レベッカ・ソルニット(高月園子訳)『災害ユートピア―なぜ
そのとき特別な共同体が立ち上がるのか』亜紀書房, 2010.
高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』集英社新書, 2012.
Voltaire, Mélanges , Gallimard, 1961.
ヴォルテール(植田祐次訳)
『カンディード 他五篇』岩波文庫,
2005.
山本信『ライプニッツ哲学研究』東京大学出版会, 1953.
付記
本稿は、2012年10月13日に日本女子大学で開催された
日本倫理学会第63回大会の主題別討議「ライプニッツと
現代」において、「現代に可能なオプティミズムはライ
プニッツ的たり得るか」と題して行った報告に若干の加
筆修正を施したものである。発表の機会を提供して頂く
とともに、有益な質問やコメントを寄せて下さった関係
各位、とりわけ同主題別討議の実施責任者であった佐々
木能章氏、提題者の加藤泰史氏、長綱啓典氏に、この場
を借りて厚くお礼申し上げる。