「地域主権戦略」による福祉国家の解体

【学習資料5】
「地域主権戦略」による福祉国家の解体
は じ めに
「地域主権戦略」は民主党政権発足以来の表看板で、同党マニフェストでいうと「一丁
目 一 番 地 」に 位 置 す る政 策と なっ て いま す。 菅政 権 は当 初、 2010年 7月 の参 院 選に 向け
て消費税増税路線を正面に掲げたために、地域主権戦略に関しては、鳩山政権時よりもや
や ト ー ン ダ ウ ン さ せ た 感 が 否 め な か っ た の で す が 、 こ の 10月 の 所 信 表 明 演 説 で は 、 地 域
主権改革の進行について「これまで実感のある変化は生じていません。壁を打ち破るため、
ま ず 、『 ひも つ き 補 助金 』 の 一 括 交付 金 化 に 着手 し ま す 。来 年 度 予 算 では 、 各 府 省の 枠を
超えて投資的資金を集め、自由度の高い交付金に再編します」と述べて、兜の緒を締め直
しました。首相自らの決意表明で、菅政権は当面、消費税増税による増収策の道を絶たれ
て、内政面での足場をより強く地域主権戦略に置かざるをえない状況にあります。という
のは、民主党代表選時に、小沢一郎が菅首相の消費税増税策に対抗して、今後の財源対策
の第一として補助金の一括交付金化を主張してきたことにもあらわれているように、もと
もと民主党政権の主たる財政再建策は、消費税増税の道か、それとも地域主権戦略による
補助金の一括交付金化か、のいずれかの選択肢しかないからです。国民による消費税増税
のノーの声が冷めないうちは、民主党政権は、誰がトップに立とうと、地域主権戦略に深
入りせざるをえない運命にあります。そこで今回は、いま再び民主党政権の「一丁目一番
地」に返り咲こうとしている「地域主権戦略」を検討してみました。
●結論から言 うと、民主党政権の地域主権戦略は、小泉政権以降の自公政治が掲げた
「分権国家構 想」と同様の、福祉国家の解体路線としての新自由主義的分権化路線に
向かいつつある、というのが本資料のポイントです。
1意味不明の「地域主権戦略」とその正体は?
地域主権戦略を検討するためにあたり、しからば「地域主権」とは、いったい何を意味
す る 言 葉 なの か 。 と い うの は 、 多 くの 国 民 は これ ま で 、 高 校ま で の 教 育課 程 で 、「地 域主
権」という言葉は聞いたことがないはずです。国民主権や国家主権、また人民主権、住民
主権といった術語であれば、普通の教科書に見ることができますし、一般の人々にも理解
可 能 で す が、「 地 域 主権 」 な ど と いう 言 葉 は 、専 門 的 な 社会 科 学 の 本 や辞 書 を 開 いて も、
どこにも出てきません。
「地域主権」の言葉に意味を持たせようとしてはじめて使用したのは、江口克彦『地域
主権論』(PHP研究所1996年)です。同氏は、その後も『地域主権型道州制』(PHP新書、
2007年 )を 著 し 、 麻 生 政 権 時 に は 道 州 制 ビ ジ ョ ン 懇 談 会 座 長 を 務 め て 、 こ の 言 葉 を は や
ら せ た 立 役者 で あ る 、 とい っ て い いで し ょ う 。し か し 、「 地域 主 権 」 の意 味 は 、 明確 では
ありません。
ただし、この言葉が意味不明であるのは当然で、そもそも「地域主権」という術語は、
社会科学上では成立しない言葉、意味をなさない言葉なのです。
「 地域 主権 」は、 これを そのま
ま 受 け と め れ ば 、「 地 域 に 主 権 が
あ る 」と か「 地域を 主権と する」
と で もし か読 み取り ようが ない代
物 で す が 、「 地 域 に 主 権 が あ る 」
と い う状 態は 、世界 のどこ をとっ
江口克彦
・愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。
・松下電器産業株式会社入社後、1967年に民間シンクタンクPHP総合研究所に異
動、松下幸之助の秘書となる。同研究所で、04年社長に就任。
・道州制ビジョン懇談会座長(内閣官房)。
・2009年2月、渡辺喜美などの呼びかけに応じ、「脱官僚」「地域主権」「国民生活重
視」の推進のための国民運動体に参加。2010年7月、第22回参議院議員通常選挙
においてみんなの党の比例代表候補として立候補し当選。最高顧問に就任。
ても、過去・現在・未来にわたって、地球上から人類が滅び去ってあとに茫漠たる「地域」
だけが残った場合以外には、恐らくは永遠に存在しません。
これを言いかえると、地域主権とは、もともといい加減な思いつき半分で生まれた意味
不明、正体不在の言葉です。そこで問題なのは、いまなぜ民主党政権がこのような意味を
なさない言葉を使って「地方分権化」に取り組もうとしているのか、ことさらに「地域主
権」の看板を前面に掲げるか、という点にあります。この点にこだわってみたいとおもい
ます。
まず、日本は「国民主権の国」で、憲法にもとづいて国家を語るときの主権概念は「国
民主権」の表現で使用されます。もし日本を「地域主権の国」だといえば、それは少なく
と も 憲 法 がさ し し め す 国家 で は な く、 子 ど も から も 笑 わ れ るの が オ チ 、お ま け に、「 地域
主権戦略」の名で国・自治体を再編成しようとすることは、のっけから憲法に反する国家
改 造 戦 略 だと 言 わ な け れば な り ま せん 。 言 い かえ る と 、「 地域 主 権 戦 略」 は 国 民 主権 を定
めた憲法体制を変えること、すなわち改憲戦略だということになります。実際に、先述の
江口氏が「地域主権」で語っていることは、国民主権の統一国家である日本を、いったん
主権を「地域」に戻して再構成した連邦制に切りかえること、したがって憲法を変えるこ
とです。この場合の「地域」とは、要するに地方公共団体のこと、同氏の構想では「道州」
のことです。
だ か ら 、 江 口 氏 の 構 想 は 、 簡 単 に い う と 、「 道 州 」 を 導 入 し て 国 家 主 権 の 所 在 を 州 単 位
にあらため、統一国家としての日本を連邦国家に転換する点にあります。彼のいう「地域
主 権 型 道 州制 」 と は 憲 法改 正 の 道 をさ す も の にほ か な り ま せん 。 同 氏 が、 い ま で は、「 地
域主権型道州制」を媒介にして、露骨な改憲政党「みんなの党」と手を組むようになった
のは、このような改憲の意図が背後にあってのことです。
ただし、民主党政権の主張する「地域主権戦略」は、江口氏と共通する面をもちあわせ
てはいるものの、江口説と同一のものとはいえません。というのは、民主党の地域主権戦
略はさしあたり、連邦制への移行を正面に掲げたものではなく、また菅政権が手がけよう
とする当面の地域主権改革も、いきなり道州制の導入に向かうというものではないからで
す。江口説の尾をひきながら、民主党政権が「地域主権」の名でうちだそうとしている点
は、次の2点です。
●第1に、「国民主権」と「地域主権」との対比に潜むニュアンスを利用して、「国民
国家」よりも「地方自治体」の役割を強化しようとしていること、
●第2に、これまでの分権化を「主権」概念に含まれる立法権に踏み込んで進めよう
としていること、つまり国から地方への立法権の移譲をはかろうとしている(その
限りで連邦制に接近する)こと、
この2点にまとめられます。
こ の こ と は 、 菅 内 閣 の 「 地 域 主 権 戦 略 大 綱 」( 2010年 6月 閣 議 決 定 ) の 説 明 か ら 明 ら
か に な り ます 。「 大 綱」 は 、 も と もと 「 地 域 主権 戦 略 」 の用 語 は 定 義 づけ た り 、 説明 した
り す る の が不 可 能 な 代 物だ か ら 、 それ に 代 え て「 地 域 主 権 改革 」 に 定 義を 与 え て、「 日本
国憲法の理念の下に、住民に身近な行政は、地方公共団体が自主的かつ総合的に広く担う
ようにするとともに、地域住民が自らの判断と責任において、地域の諸問題に取り組むこ
とができるようにするための改革」である、と説明しています。
従 来 の 地方 自 治 法 等 に照 ら す と 、こ の 説 明 で目 新 し い 箇 所は た だ 一 点、「 地 域 住民 が自
らの判断と責任において」という挿入句につきるといっていいです。端折っていえば、
「地
域 住 民 の 判断 と 責 任 の 強化 」 に 地 域主 権 の 主 眼が あ る こ と、「国 民 の 判断 」 よ り も「 地域
の判断」、「国民国家」よりも「住民の責任」を重視する、ということです。
この地域主権戦略が実際には何を意味するか、以下にみていくことにしましょう。
2『補完性の原理』を引き金にした国家改造
菅政権が鳩山政権から受け継いで、その制定を急いでいる地域主権関連3法案の内容は、
①地域主権戦略にもとづく国・地方関係の見直しのための方向の明確化と機関の設置、
②国による自治体の義務付け・枠付けの廃止・緩和、
③国・地方間の協議の場の設置、
と い う 3点 で す 。 こ れ ら 3法 案 を 貫 く 地 域 主 権 戦 略 の ア ウ ト ラ イ ン を 、 論 理 を 区 切 っ て
見ていくことにします。
ま ず 、 地 域 主 権 改 革 の 第 1は 、 そ の 定 義 に よ れ ば 、「 住 民 に 身 近 な 行 政 は 、 地 方 公 共 団
体が自主的かつ総合的に広く担うようにする」という点にありました。この説明は、現行
の 地 方 自 治 法 第 1条 の 2の 文 言 か ら 切 り 貼 り し た も の で 、 格 別 に 目 新 し い も の で は あ り ま
せん。つまり、民主党は自民党政権時代の分権化路線をそのまま受け継いだことを示しま
す 。 こ こ で「 住 民 に 身 近な 行 政 」 とは 「 住 民 福祉 行 政 」、 それ を 「 総 合的 に 担 う 自治 体」
と は 「 基 礎 自 治 体 」、「 自 主 的 に 担 う 」 と は 「 判 断 ・ 決 定 ・ 責 任 ・ 負 担 の 自 主 性 」 を そ れ
ぞれ意味すると考えられますから、語弊を恐れずにいえば、地域主権改革のポイントは要
するに「福祉国家の課題を基礎自治体に転嫁する」点にあります。これを根拠づけるため
に使われてきたのがヨーロッパ渡来の「補完性の原理(principle ofsubsidiarity)です。
自民党も民主党も、ともにこの原理を用いて地方分権化を進めてきたのです。
「補完性の原理」とは、もともとカトリックの個人主義に由来する考え方で、個人でで
きることは個人で、個人でできないことは地域で、地域でできないことは基礎自治体で、
基礎自治体でできないことは広域自治体で、それでもできないことは国家が担う、という
個人から国家までの単線型の補完関係を述べたものです。民主党の地域主権戦略はこの「補
完性の原理」を現代日本に適用し、それを「国と地方の役割分担論」に置き換えています。
ただ、このすり替えは自民党政権時代からの「分権化論」に一貫した日本に支配的な傾向
です。
「国・地方の役割分担論」は、①地方は住民に身近な行政課題を一手に引き受ける、②
国は国防・外交・司法・通貨管理等の国家本来の役割に集中する、という二極的構図を基
本にしたものです。基礎自治体は福祉国家、中央政府は軍事国家、両者の間にある広域行
政 は開発 国家、 この3つ の役割 に特 化して いけば よい、 という 荒っぼ い議論 になり ます。
実 際 に 、「 地 域 主 権 戦 略 大 綱 」 は 国 ・ 地 方 の 役 割 分 担 を 論 じ て 、「 地 方 公 共 団 体 は 住 民
に身近な行政を自主的かつ総合的に広く担い、国は国際社会における国家としての存立に
かかわる事務を始めとする本来果たすべき役割を重点的に担えるようにし」ていく、と述
べています。この役割分担論の狙いは、大きく3点にまとめられます。
● 第 1は 、 国 ( 中 央 政府 ) の 役 割 を 「 国 家本 来 の 役 割 」 の 名 でも っ ば ら 軍 事 的・ 権 力的 行 政
に 重点化 して いくことで す。この役 割分担のもと では、地方 の側は軍事的 ・権力的行 政に
口 をはさ むこ とはできま せん。した がって、たと えば沖縄の 米軍基地をど うするかは 、国
家 が決め るこ とであって 、沖縄県民 の意向はこの 「国固有の 役割」を左右 することは でき
ず、沖縄は「地域主権」どころか、いわば「基地主権」の島に転化します。
● 第 2は 、「 住 民 に 身 近 な 行 政 」 の 名 で 国 民 ・ 地 域 福 祉 の 課 題 を あ げ て 基 礎 自 治 体 に 割 り 当
て る こ と で す 。 だ か ら 、 基 礎 自 治 体 は 「 総 合 行 政 体 」 で な け れ ば な ら ず 、「 総 合 行 政 体 」
と しての 任務 を果たすた めの市町村 合併を進めて 、行財政面 からその力を パワー・ア ップ
していかなければなりません。
● 第 3は 、 都 道 府 県 の道 州 制 化 を 導 き 出 すこ と で す 。 広 域 行 政体 の 役 割 は 、 基礎 自 治体 で は
や れない こと 、また国に 頼らずとも やれることに あり、それ は主として大 規模開発行 政に
求 められ ます が、多国籍 企業が支配 的な今日では 、この課題 を担うには都 道府県では 力不
足 で、よ り広 域的で集権 的な道州が 新たな開発行 政を担って いかなければ なりません 。こ
こから「地域主権型道州制」が導き出されることになるわけです。
しかし、このような「補完性の原理」を引き金にした国家改造の目論見は、ほんの初歩
的なところで重大な過ちをおかしたものです。このことは憲法の描く国家像を考えてみれ
ば、たちどころに明らかになります。
- 1 -
日本の憲法がさし示す「国家本来の役割」ないし「国固有の役割」とは何か。それは、
中 学 生 で も知 っ て い る とお り 、「 国権 の 発 動 たる 戦 争 」 の放 棄 、 武 力 によ る 威 嚇 ・行 使の
放棄、戦力の不保持であり、逆に、社会保障・福祉の向上・増進の努力義務です。憲法は
「国・地方の役割分担論」とは正反対に、前文の言葉でいえば「平和のうちに生存する権
利」の保障を「国本来の役割」の第一に求めているのです。国は軍事・外交に特化し、地
方は福祉を分担するなどという粗雑な役割分担論は、憲法のどこを見ても出てきません。
ついでにいえば、もともとヨーロッパの「補完性の原理」と現代日本の「国・地方の役
割分担論」とは、似ているようで、重要な点で違いがあります。前者の内容は、いまヨー
ロ ッ パ 地 方 自 治 憲 章 ( 第 4条 ) の 規 定 を 引 い て お く と 、「 公 的 な 責 務 は 、 一 般 に 、 市 民 に
最も身近な地方自治体が優先的に履行する。他の地方自治体への権限配分は、仕事の範囲
と性質および能率と経済の要求を考慮して行われる」というものです。読めばすぐわかる
ように、ここでの「補完性」とは、「公的責務の配分」にかかわる補完関係をさしており、
公的機関のあいだの「役割の分担」を意味しているわけではありません。
住民サイドからこの違いに注目してみると、
たとえば保育・福祉・教育等の「住民に身近な行政」において、住民は、「補完性の原
理」に従うときには自治体のみならず国の公的責務を問うことができますが、「国・地方
の役割分担論」に従うときにはもっばら自治体の責任を問えるだけ、その任務・役割を持
たない国の公的責任は問えない、という違いになってあらわれます。住民からみたこの違
いはきわめて重要です。なぜなら、憲法上の生存権保障の課題について、本来の「補完性
の原理」に依拠した場合には、住民は自治体を通してまだ国の責任を追求できますが、
「国
・地方の役割分担論」のもとでは、生存権は自治体の公的責務の枠内に封じこめられてし
まうからです。
●ここまでの話のポイント:民主党の地域主権戦略が自民党の「分権国家構想」からその
まま継承した「国・地方の役割分担論」は、ヨーロッパ渡来の「補完性の原理」をすり替
えたものにほかならなかった、ということです。次にみておかなければならない点は、同
戦略の「地域住民の判断・責任強化論」です。
3
ナショナル・ミニマムの解体に向かう地域主権戦略
「国・ 地方の 役割分 担論」 に次ぐ 地域主 権戦略 の第 2のポイ ントは 、先述 の定義にした
が え ば 、「 地域 住 民 が自 ら の 判 断 と責 任 に お いて 、 地 域 の諸 問 題 に 取 り組 む 」 と いう 点に
ありました。これは、一見すると、憲法にいう「地方自治の本旨」にそった方向であるか
のように読めます。しかし、ここには見逃せない罠がしかけられている点に注意しなけれ
ばなりません。
「地域住民の判断・責任の強化」とは、同じ地域主権戦略大綱の言葉を使っていえば、
「地方公共団体の自由度を拡大し、自主性および自律性を高めていく」ことにほかなりま
せん。つまり、自治体の国からの自由の拡大、自主性・自律性の強化のことです。民主党
政権は、この「自治体の自由度の拡大」という視点から、具体的には「国の義務付け・枠
付けの廃止」とその裏返しとしての条例制定権の拡大、そして「国庫負担・補助金の一括
交付金化」を打ち出し、当面の施策を地域主権一括法案に盛り込みました。
いまここで重要な点は、自治体に割り当てられた「住民に身近な行政」にかかわる「国
の義務付け・枠付け」とは、その大半が「住民に身近な行政」におけるナショナル・ミニ
マム(国民的最低基準)保障のための措置、またはナショナル・スタンダード(全国的標
準)を示す基準だということです。たとえば小中学校の学級定数、教職員の配置基準、保
育所施設の最低基準、年齢別クラス保育土定数、生活扶助基準、保健所の必置規制等は、
「住民に身近な行政」の義務付け・枠付けの典型例ですが、これらは教育・福祉のナショ
ナル・ミニマム保障のための公的規制にほかなりません。ナショナル・ミニマム保障のた
- 2 -
めの行政には国の第一義的責任が問われるから、当然そこには国庫負担・補助金が投入さ
れます。国庫負担・補助金は、通常「使途限定のひも付き補助金」と悪しざまに呼ばれま
すが、ナショナル・ミニマム保障のひもがつくのは当然のことで、国にも自治体にも生存
権や教育権を保障する目的にそって使途限定のひもがつけられます。
ちなみに、教育・福祉等の国庫負担金は、自治体にたいして流用を禁止する、その意味
で使途を特定したひもつき補助金ではありますが、実は、国にたいしても負担を義務づけ
た財源にほかなりません。たとえば、国の義務教育国庫負担金や保育所運営負担金は憲法
や法律によって国家に義務づけられた財政にほかなりません。国民からみれば、教育権や
生存権のためのナショナル・ミニマム保障の財源なのです。
したがって、地域主権戦略が意図する「国の義務付け・枠付けの廃止」と「国庫負担・
補助金の一括交付金化」とは、これを一体のものとして「住民に身近な行政」に適用すれ
ば、そこに進行することはナショナル・ミニマム保障の行財政両面からの解体にいきつく、
といわざるをえません。
実際に、従来から「義務付け・枠付け廃止と補助金の一括交付金化」を主張してきた論
者は、その措置が憲法のナショナル・ミニマム保障理念に抵触するものであることを自覚
して、分権化推進に向けてナショナル・ミニマムを邪魔者扱いしたり、毛嫌いする発言を
繰り返してきました(ここでは詳しく立ち入らないで、その例として地方分権推進委員会
中間報告「分権型社会の創造」1996年、西尾勝『地方分権改革』東大出版会、2007年、
宮脇淳『創造的政策としての地方分権』岩波書店、2010年をあげておきます)。
地 域 主 権戦 略 に よ る 「義 務 付 け ・枠 付 け 廃 止と 補 助 金 の 一括 交 付 金 化」 が 、「 住民 に身
近な行政」のナショナル・ミニマム保障に抵触する疑いがあること、実はこのことは、は
からずも民主党代表選のさなかに明らかになりました。というのは、国庫負担・補助金の
約 8割は憲 法や法 律で定 められ た義 務的経 費であ り、そ の大半 が教育 ・社会 保障分 野のナ
シ ョナル ・ミニ マム保 障の ための 財政に 属する ことが 明らか になっ たから です( 図表1参
照 )。 小 沢 一 郎 が 代 表 選 に お い て 「 一 括 交 付 金 化 に よ っ て 補 助 金 は 3割 が た 減 ら す こ と が
できる」と主張したのにたいして、各種メディアは図表1のような補助金の実態を根拠に、
小沢案に重大な疑問に呈しました。
話を一歩前に進めて、いまここで
考えてみなければならないことは、
「義務付け・枠付けの廃止」や「補
助金の一括交付金化」によってナシ
ョナル・ミニマム保障が後景に退い
てしまったあとに、いったいどうい
う自治体が残るのか、ということで
す。いわば「ナショナル・ミニマム
不 在 の自 治体 」、こ れはい ったい どの
ような自治体を意味するのか、とい
うことです。
4現代的自治から古典的自治への回帰
地域主権戦略が自治体に対する義務付けを廃止し、その裏付けとして「ひも付き補助金」
の一括交付金化を進めることは、民主党政権の戦略大綱がいうとおり、自治体を全国的規
制から自由にすることです。その意味で、この戦略は自治体の団体自治権を強化する意味
をもちます。ただし、この場合の団体自治とは、ナショナル・ミニマムからの自由を意味
するにすぎません。というのは、地域主権戦略が割り当てる自治体の役割はもっばら「住
- 3 -
民に身近な行政」だから、その代表としての国民の生存権や教育権、また労働権等にもと
づくナショナル・ミニマムから自由になった自治体は、憲法にもとづく福祉国家から解き
放たれる、というにすぎないからです。
い ま や ナシ ョ ナ ル ・ ミニ マ ム か ら自 由 に な った 自 治 体 は 、全 国 的 規 制に 代 わ っ て、「 住
民に身近な行政」の水準やルール、その進め方等を条例で定めなければなりません。地域
主権戦略が、立法権の移譲による自治体の条例制定権の拡大を主張したのは、このためで
す。ここに生まれる自治体像は、自己決定・自己責任・自己負担にもとづく「完全自治体」
に 接 近 し ます 。「 完 全自 治 体 」 と は地 域 ・ 住 民生 活 に か かわ る 一 切 の 公的 業 務 を すべ て引
き受ける自己完結型の自治体のことです。歴史上、このような自治体が近代社会であらわ
れたのは、西部劇に登場するアメリカのタウンシップくらいなものですから、アメリカ型
タウンシップの自治を世界に紹介したアレクシス・ド・トクヴィルの名前を付してトクヴ
ィル的自治、または古典的地方自治と呼ばれます。
ここで注意しなければならないことは、古典的地方自治とは生存権や教育権等の現代的
社会権が憲法上この世に存在しなかったときの産物だった、ということです。アメリカ型
地方自治は、現在でもその名残りを示して、いまでも生存権保障条項をもたない憲法のも
とでの自治にとどまります。しかし、現代日本の地方自治とは、憲法のもとでのそれであ
り、生存権や教育権等の人権保障は地方自治に優先します。すなわち、憲法上の生存権や
教育権は、他の基本的人権と同様に、地方自治といえども、これを侵害することはできず、
生存権保障のナショナル・ミニマムは自治体を拘束します。
生存権やナショナル・ミニマム保障を織りこんだ憲法のもとでの地方自治は、古典的地
方自治との対比において、現代的地方自治と呼ばれます。生存権にもとづくナショナル・
ミニマム保障を基軸にした国家を福祉国家と呼ぶとすれば、この現代的地方自治は福祉国
家型自治と言いかえることができます。そうすると、民主党政権の地域主権戦略が意図す
ることは、要するに、福祉国家型の現代的地方自治を過去の古典的地方自治に押し戻すこ
とにある、といわなければなりません。
● この戦略は、ナショナル・ミニマム保障の福祉国家を亡きものにしようとする点では、
福祉国家解体戦略としての新自由主義の系譜に属し、ナショナル・ミニマム不在の地方自
治 に回帰 しよう とする 点で は、古 典的地 方自治 論に属 すると いって よく、 これら 2つのレ
ール上で進行している、とみなすことができます。
おわりに…実験場としての保育
菅政権が当面、地域主権戦略の実験台にしようとしているのが保育行政です。民主党政
権の掲げる「子ども・子育て新システム案」は、①現物給付の保育行政を現金給付に切り
かえる、②保育所と幼稚園を「子ども園」に統合して希望者利用の施設にあらためる、③
新設の子ども家庭省のもとで、子ども園や子ども手当の国庫負担・補助金を一括交付金に
切りかえる、という3点を中心にしたものです。
この「新システム案」のもとでは、従来の保育所施設・運営にかかわる最低基準はなく
なるか、切り下げられるかして、事実上、保育のナショナル・ミニマムは形骸化します。
また、現物給付の現金給付化によって、保育そのものにたいする公的実施責任は解除され、
一括交付金の積算根拠がなくなるために、交付金のナショナル・ミニマム保障機能はほと
んどなくなります。それとひき換えに、子育て施策にかかわる自治体の条例制定権は拡大
し、一括交付金の使途等にたいする自由度は高まり、形式上、団体自治の機能は拡充され
ます。
問題なのは、これが憲法や児童福祉法の定める子どもの保育権を保障するシステムにな
る か ど う か で す 。「 答 え は 、 言 う ま で も な く 、 ノ ー で す 。」 な ぜ な ら 、 こ の 新 シ ス テ ム 案
の も と で は、「 子 ど も園 」 の 施 設 ・運 営 基 準 から 一 括 交 付金 の 使 途 、 保育 の 進 め 方ま で、
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そのほとんどが自治体の裁量に委ねられ、保育・子育て全般にたいするナショナル・ミニ
マムや、その保障のための国の責任は、全くといってよいほどになくなってしまうからで
す。
保 育 所 は児 童 福 祉 法 上の 保 育 施 設で は な く なり ま す 。「 幼保 一 元 化 」の 名 に よ る「 子ど
も園」の創設は、保育所が「子ども園」を所管する予定の「子ども家庭省」に厚労省所管
から移されると同時に、児童福祉法上の制度ではなくなることを意味します。そこで子ど
もたちは「憲法にもとづく保育」から「地域格差のなかの保育」へと移し変えられます。
子育て新システム案は、一言でいって、
戦後保育制度の解体に帰結するものにほかならず、
つら
保 育 制 度 解体 に よ っ て もっ と も 辛 きめ を 食 ら うの は 、「 保育 に 欠 け る 」子 ど も た ちに ほか
なりません。
この保育の事例は、地域主権戦略の「義務付け廃止と補助金の一括交付金化」策が、戦
後福祉国家の分権的解体にいきつくことを示す先例である、といっていいでしょう。
民主党のためにいっておくと、同党はその当初、教育・社会保障の分野に「義務付け廃
止と補助金の一括交付金化」を持ち込むと、国民世論の反発が起こること必至を予想して、
教 育・社 会保障 分野に つい ては一 括交付 金化の 対象から除外していま した(たとえば、2
009年版 民主党 マニフ ェスト)。こ れに横 やりを 入れた のが、 地域主 権戦略 会議メ ンバー
の 神 野 直 彦氏 で す 。 彼 は、 教 育 ・ 社会 保 障 に つい て も 、「 全国 画 一 的 な保 険 ・ 現 金給 付」
以 外 の も の に つ い て は 一 括 交 付 金 化 の 対 象 に す べ き だ と 主 張 し ( 第 5回 地 域 主 権 戦 略 会
議 )、 結 局、 同 会 議 は「 一 括 交 付 金の 対 象 に なる 『 ひ も 付き 補 助 金 』 の対 象 範 囲 は最 大限
広くとる」という結論に落ち着く、という経緯をたどりました。
いまここで保育所をめぐる戦略会議内部の事情にふれたのは、ほかでもない、民主党政
権の地主権戦略が「新自由主義と古典的市民自治派の連合」のもとに進められていること
を確かめておきたいからです。子育て新システム案は、保育の市場化を露骨に目ざす新自
由主義的な福祉国家解体派と、保育の分権化を意図した市民自治的福祉社会派との奇妙な
連合を示す「保育版」にほかなりません。
地域主権戦 略に対抗する国民運動 に問われる課題は、さ しあたり2点です。
①小泉構造改革以来の日本の新自由主義路線、今日の民主党政権に継承された新自
由主義による福祉国家の解体路線に対抗して、憲法にもとづく福祉国家を再構築
していく課題です。
②古典的地方自治観に依拠した分権論にたいして、憲法にもとづく現代的地方自治
を追求していくことです。
現代日本では、古典的市民自治観の影響力が強く、また古典的地方自治には住民自治の
点から現代でも継承すべき面があることから、古典的自治とは区別された現代的自治の将
来展望は十分に明らかにされているとはいえない状況にあります。民主党の地域主権戦略
にたいする世論のとまどいが生まれているのはこのためです。そこでこの小論は、古典的
自治を超える現代的自治の優位性を強調することにしました。ナショナル・ミニマム保障
を前提にした現代的地方自治とは、理念的にいえば、かつて市民自治派が想定したシビル
・ミニマムではなく、ローカル・オプティマムまたはリージョナル・オプティマム保障(地
域的最適保障)を追求するものとなります。オプティマム保障(最適保障)とは、自治体
がナショナル・ミニマムの上に各地域に最も適切な行政水準を築きあげることです。民主
党の地域主権戦略を克服する道は憲法に依拠したこの福祉国家型の現代的地方自治の構築
にあります。
本資料は、Gekkan
2010.12 神戸 大
ZENROUREN
二 宮 厚 美 教授 の
報告を一部変更してまとめていま
す。
にのみや あつみ
1947年生まれ。神戸大学発達科学部教授。専攻:経済学、社会環境
論。近年の主な著書:『新自由主義の破局と決着』(新日本出版社、2
009年)、『格差社会の克服』(山吹書店、2007年)、『憲法25条プラス9
条の新福祉国家』(かもがわ出版、2005年)など多数。
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