Page 1 八郎太郎伝説からみた十和田aテフラの噴火とその災 災 害

八郎太郎伝説 か らみた十和田 aテ フラの噴火 とその災害
矢
口 裕 之
(公 財)群 馬県埋蔵文化財調査事業団
5.八
は じめに
郎太郎 の伝説 と伝播
6.伝
7.十
1.十 和田 aテ フラの噴火 と年代
2.シ ラス洪水 と八郎太郎の伝説
3.十 和田 aテ フラ とラハー ル
4.八 郎太郎 の伝説 と湖水形成謂
説 の背景
和田 aテ フラの噴火 と災害
おわ りに
―
要
旨
平安時代 に十和 田火山か ら噴出 した十和田 aテ フラは、毛馬 内火砕流堆積物 やラハー ルが秋田県米代川沿 いに大規模
な土砂災害をもた らした。その降下火山灰 は東北地方南部 まで分布 し、各地の古代遺跡で発見 される。 この噴火 は十和
田火山噴火 エ ピソー ドAと 呼ばれ、 日本列島 における有史以降 で最大規模の噴火であ る。
江戸時代 に米代川沿 いのラハールか ら埋没家屋が発見 され、 これ らは記録 に残 された。最近 になって発 見 された埋没
家屋 は、胡桃館遺跡や道 目木遺跡 で発掘調査が行われた。
この地域に残 された八郎太郎 の伝説 は、 この土 砂災害 が地域に語 りつがれた災害伝承ではないか と考 えられた。
秋田県 と周辺地域 に広がる八郎太郎 の伝説 は、十和 田 aテ フラの噴出源や土砂災害 が起 きた河川の狭窄部が主な舞台
であ り、伝説 の一部 は噴火に伴 う各地 の災害を語 り継いだ可能性 が高い。伝説が残された地域 の水系には、十和田 aテ
フラ起源のラハー ルが存在 した ことが想定される。
十和 田 aテ フラの噴火 と北東北の広域にわたる土砂災害 について、八郎太郎 の伝説を通 して検討 し、新たな噴火 と災
害像を構築 した。
キー ワー ド
対象時代
平安時代
対象地域
北東北
十和 田 aテ フラ 八郎太郎
研究対象
火山灰考古学
85
研究紀要34
は全て筆者が調査中 に撮影 したものであ り、空中写真 は
は じめに
平安時代 の十和田火山 の噴火は、大湯火砕堆積物-1
ドロー ンや 航空機か ら撮影 した。
(大 湯第 1軽 石
大湯火砕堆積物-2(大 湯第 2火 山灰
大湯火砕堆積物-3(大 湯第 3軽 石 )が 噴出 し、大規模な
1.十 和田 aテ フラの噴火 と年代
爆発を伴 って大湯火砕堆積物 -4、 大湯火砕堆積物―S
と毛馬 内火砕流堆積物が噴出 した。毛馬 内火砕流堆積物
十和田火山は青森県 と秋田県の県境に位置する活火山
である。後期更新世 の5.5万 年前以降 に大規模 な噴火で
)、
)、
か ら上昇 した火山灰は南南西方向に降 ドし、 これ らは十
十和 田カルデラが形成 され、 1.5万 年前には十和 円八戸
和田 aテ フラ と総称 される。降 下火山灰 は東北地方南部
まで分布 してお り、各地 の遺 跡か ら発見 されている。
毛馬内火砕流 と火砕流か ら発生 したラハールは秋田県
火砕流堆積物が噴出 した (Hayakawa1985)。
十和田火山の後カルデラ期は、噴火 エ ピソー ドL∼
米代川沿 いに及び、流域 の花輪 (鹿 角)ク 主地か ら大館盆地
にかけて土 砂災害をもたらした。
この 噴火 は十和 円火山の噴火 エ ピソー ドAと 呼 ばれ、
日本列島における過去2000年 間の 中でも大規模な噴火で
ある (町 田 1995,早 川 ・小山 1998)。
米代川流域では、江戸時代 と現代にラハールか ら埋没
A
と二の倉 スコリアの噴出があ り、 卜和 ll aテ フラの噴火
は最新の噴火 エ ピソー ドAに あたる。 これは古文書 の記
録 に残 され たイ ベ ン トに比定 され、噴火の年代 は西暦
915年 と考えられた (町 田ほか 1981)。
十和田 aテ フラは降下軽石 と火山灰及び火砕流堆積物
と降下火山灰か ら構成 されるが、毛馬 内火砕流 と降下火
山灰は同時期 の噴出物 と考えられた (大 池 1972)。 その後、
家屋が発見 された。江戸時代の発見は古文書に記録が残
され、現代の発見例は北秋田市の胡桃館遺跡や大館 市の
降下火山灰は東北地方 の各地 に分布する ことが 明 らか と
なった (山 田・ 井上 1990)。
道 目木遺跡な どで発掘調査が行われた。 このよ うな平安
時代 の埋 没家屋に関連 して、近年ではこの地域に残 され
十和田 aテ フラの噴出源である火 日は、噴火 の最後 に
御倉山溶岩 ドームが火 11を 埋めて形成された と考 えられ
た八郎太郎の伝説は、平安時代 の十和国火山の噴火災害
が後 陛に伝えられた と紹介する書籍や広報物、Webの コ
噴出火 回は、│´ 和 国湖 の 中湖火 日 とも考え られた (町 Ш
ンテ ンツな ども多い。
他 1981,町 田 1995)。
た (大 池 1976,Hayakawa1985)。
また、 十不
Πtt aテ フラの
最近 の 研究 で御倉 山溶岩 ドー ムは、噴火 エ ピソー ド
和国 aテ フラ と毛馬内火砕流、シラス洪水 と
呼ばれる毛馬内火砕流のラハールについて現地で野外調
D´
査を行 い (第 1図 )、 米代川流域 と秋田県周辺地域 に伝 え
は中湖火 国か ら噴出 した と考えることが妥当であると考
られた八郎太郎や自髭水 の伝説が十和 円 aテ フラの噴火
に伴 う災害伝承である可能性について検討 した。また八
えられた (上 藤 2010)。 また、噴出源周辺の噴出物層序を
筆者は
│・
郎太郎 の伝説で湖水 の形成 に関係 した地域について過去
に災害が起 きた可能性を検討 した。なお、使用 した写真
で形成 された ことが 明 らか とな り、十和 田 aテ フラ
再検討 した最新 の研究では、十和田火 山平安噴火 (噴 火
エ ピソー ドA)の 噴出物 はプ リニー 式噴火 とマ グマ水蒸
気噴火による 6ユ ニ ッ トか らな り、その噴火は中湖火口
│′
,ヽ (│
κl
第 1図
θδ
毛馬 内火砕流・ ラハー ル の分布 と調査地 点
地形面区分 は内藤 (1963,1966,1970,1977)を 参考 に した。
でマ グマ噴火 とマ グマ水蒸気噴火 のサイクルを 2度 繰 り
た。基壇を覆 う焼土層 は
『 日本紀略』の承平 4(934)年 の
返 し、火砕流を噴出 して終息 した と考 え られた (広 井他
火災に比定 された。また基壇下位 の整地 層に含 まれる宝
相花文や連珠文 の軒瓦 は貞観 12(870)年 以降 の製造年代
2015)。
としたこと。 この とこか ら、白土の年代は 10世 紀前半 と
推定 した (白 鳥 1980)。
胡桃館遺跡 か ら出土 した木材 は、毛馬 内火砕流 の ラ
卜和田 aテ フラの噴火によ りもた らされた米代川流域
のラハールは、上流 の大湯川流域 で大湯軽石や軽石流堆
。
積物 か ら転化 したシラス洪水 と考 え られた (平 山 市川
1966、 町田 1996)。 またラハー ル は、毛馬 内火砕流 の二
ハールで埋没 した家屋の一 部であ り、部材 の年輪年代は
次堆積物 ではな く、湖水を起源 とする水分量が多い低温
の火砕流堆積物 との見解 も提示 された (町 田 1995)。
複数時 に渡 って公開された。机板 (ス ギ)の 最外年輪形成
年 は902年 (奈 良国立 文化財研 究所 1990)、 スギ 材 は672
十和田 aテ フラに関わる文献 リス トは2002年 までのも
のが集成されている (小 日2002)。 考古資料や文献史料 か
∼ 900年 の年輪形成年 を示 した (大 河 内2008)。 この こと
ら十和田 aテ フラの年代を論 じたのは陸奥国分寺の発掘
調査 が最初である。七重塔基壇周辺 に敷きつめ られた厚
さ 9∼ 18cmの 自土 は十和 田 aテ フラに対比 され、テフ
ラの年代 は これを 挟む上下 の文化層 によって推定 され
か らラハールの年代は 10世 紀初頭以降 と考 えられた。道
目木遺跡 か らは 1棟 の埋 没家屋 が検 出 され (赤 石 1999)、
家屋 の部材 (ス ギ)か らは912年 の伐採年 が推定 された (赤
石他2000)。
十和 田 aテ フラの噴火年代は、 これ らの考古資料や文
脚□ 囲 □ □ □
沖積地
毛馬内火llt流 ・ ラハール
浜堤
河成段 丘・ 火砕流台地
山地
1∼ 9(地 点)
C占 場 D集 官
A御 倉山 B五 色岩
G乳 牛
E卓 木
F猿 賀神社
H茂 谷山 Iり 」神
J 女神 K大 館市
L北 秋田市
M天 神 N L座 天神・ 八郎石
務
減
SI,`こ
ヽイ、4ゝ
花輪 (鹿
―角)盆 地
議難
==鐘
│
θ/
研究紀要34
献史料、年輪年代 か ら延喜 15(915)年 に「出羽国 に二寸の
降灰 があ り桑が枯れた」との記述がある『扶桑略記』の 噴
湖を渡 った火砕流 には、直径 3 cm大 の灰色軽石 が
多 く含まれ、基質 は細粒火山灰か らなる。毛馬内火砕流
火記録 に比定す るのが有力で (町 田他 1981,町 田 1995,早
川 。小山 1998)、 この年代は十和田aの 噴火年代 としてほ
は、峠を越 えて青森県倶1の 浅瀬石川水系 に達 したもの と
1)。
考えられる。
ぼ定説化 している。
2.シ
ラス洪水 と八郎太郎の伝説
八郎太郎 の伝説 は、秋田県を中心 に北東北 の各地 に伝
えられた物語で、話 し言葉を媒体にする点 で文字を媒体
として伝わる文学 とは異な り、伝承文学 と呼ばれる文芸
である。八郎太郎の話は、別名 「三湖伝説 Jと も称 され
る壮大な物語群か ら構成される。
八郎太郎 の伝説 と十和田火山 の噴火 によるシラス洪水
には何 らかの関連があるのでは と考 えられた (平 山・ 市
これは物語 に登場す る八郎太郎 と南祖坊が争
う場面が火山噴火 を思わせ ることや八郎が八郎潟 へ と移
│11966)。
り
動す る際に河川を堰 き止め る話 (以 下、湖水形成謂 と呼
ぶ)が シラス洪水 に重複す ることが理 由である。八郎太
郎 の伝説 とシラス洪水は地質学的 な解釈によ って結 びつ
け られた。
平山 らの考 えはその後、積極的に評価 され、八郎太郎
の伝説は災害 を受けた当時の人々が驚 きの日で 自然 の猛
威を観察 し、言い伝 えたためだ とされた (町 田 1995,町 田
1996)。 また、文献 史学か ら地震 と十和 LE火 山の火山活
写真 1 滝ノ沢峠の毛馬内火砕流
地点 2:鹿 角市十和田大湯 白沢 (大 湯川 )の 大湯火砕堆積
物-1と ラハール
十和田 カルデラ南縁か ら流れる大湯川沿 いの 自沢 では
黒色 土の上に厚さ10cm軽 石 と紫灰色火山灰が成層 し、上
位 には厚 さ40cmの ラハー ルが露出 している(写 真 2)。 地
表面を覆 うラハールは直径 10cm大 の亜 円礫 が多 く含 まれ
る。
動を結びつけた論考 もなされた (伊 藤 1996)。
最近 になって八郎太郎伝説 と埋没家屋 について詳細な
検討 が行われた (荒 谷2009)。 荒谷 は近世以降に米代川流
域か ら発見された埋没家屋 と平山 らの論考を詳 しく検討
し、近 阻以降の八郎太郎の伝説について文献史学 の立場
か ら整理 と検討を行 った。 また八郎太郎 の伝説は国文学
や宗教学の立場か らは「宗教上 の 出来事」を物語風に作 り
上げた と解釈 される ことを 明 らかに した。
なお、八郎太郎の伝説に関する文献は多岐にわたるの
で、県別 に主 要 な ものを挙 げる (り ‖合 1970,戸 川 1975,小
舘 1976,小 形 1976,森 山 1976,木 崎 1976)。
写真 2
鹿角市十和国大湯 自沢 の大湯軽石
3.十 和田 aテ フラとラハ ール
(2)花 輪盆地
秋 田県花輪盆地か ら能代平野 に至 る米代川の流域は、
1960∼ 70年 代 に段丘地形 の研究が精力的 に行われた地
域である (内 藤 1963,藤 原 1966,内 藤 1966,自 井 1966,平 山 。
地点 3:鹿 角市大河原 (大 湯川 )の 毛馬 内火砕流
市川 1966,内 藤 1970,内 藤 1977)。 現地で の地 形や露頭 の
観察か ら毛馬内火砕流 に伴 うラハー ルが形成 した地形や
馬内火砕流が露出 している (写 真 3)。 火砕流 には、直径
2 cm大 の軽石が多 く含まれる。
遺跡 と伝説が生 まれた場所を検討 した。
花輪盆地北部の大湯川沿いは、十和田カルデラに近 く
十和田八戸火砕流堆積物やそのラハー ルが形成 した高位
(1)十 和田カルデラ周辺
地点
1:十 和田湖滝ノ沢峠 の毛馬 内火砕流
十和 田湖の中湖火 国の北西対岸 にあたる滝 ノ沢峠は、
カルデラ壁 に相 当 し、 国道 454号 沿 いに厚 さ 7mの 毛馬
内火砕流 が露 出 してい る (早 川 (1993)の 14地 点 )(写 真
θθ
大湯川右岸の大河原で堆積面を形成する厚さ 2mの 毛
段丘 と低位段 丘を構成する毛馬内面が見られる。地点 3
付近 の毛馬内面は、毛馬 内火砕流が形成 している。
毛馬内火砕流のラハー ルは花輪盆地内で火砕流堆積物
か らラハー ルに変化するもの と考 えられるが、 この付近
が火砕 流堆積物 の 末端 部 と考 え られ る。花輪盆地 のラ
ハー ルは、米代川 に小坂川や大湯川が合流する末広付近
まれたもの と想定 される。
(4)大 館盆地
を頂点に して掌状 に分布 し、盆地の低位 rrlで ある毛15内
面を形成 している。
米代川 は この付近 で県境 の水系 が北・ 束 。南か ら合流
写真 4
写真 3
鹿角 市大河原 の毛J馬 内火砕流
し、流 1量 を1曽 して山地の河川狭窄部を通過 しているЭ こ
の ことか ら、毛馬内火砕流の堆積によ り大湯川は急激な
上砂 の供給を受け、土石流河川 となって末広付近で急激
な河床の上昇を もたらした可能性が高 い。
道 目木遺跡
大館盆地の中央を流れる米代川 には、大森川や長木川
が合流 し、十和田八戸火砕流堆積物やそのラハールか ら
なる高位段丘が分布する。米代川 のた岸には広 い範囲に
毛馬内火砕流のラハールが堆積 し、毛馬 内面を形成 して
いる。毛馬内面 の各所か らは江戸時代にIIl没 家屋 の検出
が相次 ぎ、記録に残された。
花輪 4ど 地は盆地の出「 │に あたる米代川狭窄部の閉塞に
よって氾濫原が形成され、一 帯を滞水させてラハー ルが
「 和 田火 山 の 噴火 か ら1100年 が経過 した今 (2015)年
は、秋 HI県 埋蔵文化財 セ ンターの確認調査によ り大館 ││
でラハー ルに埋没 した竪穴建物が検出された。新聞等で
堆積 したもの と考えられ る。
(3)花 輪∼大館盆地、米代川 の+1所 狭窄部
報道 されたことで大 きな関心を呼び、 11月 に行われた現
地説明会には、雨天 の中で大勢の市民が訪れた (写 真 5)。
花輪総地か ら大館盆地に至 る米代川は、山地内の渓谷
地点 5:大 館 市片貝家 ノ下遺跡
を蛇行 している。 この地域は高位段丘 が認め られず、現
河床 に近い低位面の毛 馬内面 が両岸に分布する。
河川 の狭窄部 に毛馬内面が形成されたのは、米代川が
最近 まで山地を削って形成 した浸食山iを 急激 にラハール
が覆 ったためであろう。 これはラハー ルによって下流側
の大館盆地の河床勾配が L昇 し、 この地域の米代川の土
砂運搬 1量 に対 して堆積 量が卓越 したためか もしれない。
地点 4:大 釘1市 道 []木 遺跡
大館 盆地 に近 い 米代川左岸 に位「Jす る道 目木遺跡 で
は、平成 H(1999)年 にぼ1場 整備の工 事でラハー ルか ら埋
没家屋 1棟 が発見 された (赤 石 1999)。 検出された建物 は
平地式建物で、地 面にスギを製材 した床板材を敷 いてい
写真 5
片貝家 ノ 下遺跡 の現 1也 説明会
る (高 橋 2006)。 建物か らは士器や木製品が出上 した (板
橋 2000)c
道 目木遺跡が立地する毛馬内面は、標高75mの 米代川
沿 いの 低位面か らなる。周辺 には標高80m前 後 の 中位段
丘が段 丘崖を伴 つて接 し、南側か ら山地の北縁を開析 し
た小河川が谷を形成 している (写 真 4)cこ の ことか ら道
目木遺跡の集落は、水田可耕地 と想定 される米 代川沿 い
の低地 の縁 に存在 し、背景に畠作地が想定 される台地 と
接 し、水田経営 に必要な小河川の水系浴 いを選択 して営
遺跡は、米代川か ら 2 kmほ ど離れた引欠川 と犀川に挟
まれた毛馬 内面に位置する。調査 では平安時代の堅穴建
物 12棟 が検 出 され、その うち 3棟 が ラ ハ ール よ り埋没
した堅穴建物である (秋 田県埋蔵文化財 セ ンター 2015)。
S13堅 穴建物 は、ラハール中に屋根が残 された状態で埋
没 してお り、屋根材が変化 したと考えられる晴灰色シル
トが「 ハ の字」状 に断面で観察 され る。屋根の上位には、
細粒 の黄褐色軽■i質 火山灰か らなる降下火砕物が認め ら
研究紀要34
田 aテ フラ降下後にラハールによって埋
没 したことが明 らかである。遺構は 3ヘ クタールに及ぶ
れ、建物が
│^和
引欠川 沿 い に比 高差 の あ る段 丘崖 が認 め られ る。
\
事業地か ら遺跡の確認調査で発見されたもので、今後 の
発掘調査 の行方が注 目される。
片貝道 ノ下遺跡は調査途中であ り、集落 の全貌は明 ら
かでないが、さらに低い場所で引欠川が形成 した谷が検
出された とい う。遺跡は周辺 に中位段丘が接 し、段丘 L
は縄文時代の狩猟地や平安時代 の集落遺跡 である片貝遺
跡が 立地する。
このよ うな遺跡 の立地条件 は、前述の道 日木遺跡 と共
通 してお り、背後に高台を ひかえて、河川が形成 した低
地の水 田可耕地 の近 くに集落が形成され たもの と想定 さ
写真 7
れる。
これ らの集落の在 り様は、 この地域におけ る古代 の農
大館市大披 の毛馬内面
耕開発 の途上にある開拓集落 の姿を現 しているもの と想
(5)鷹 巣盆地
定 される。
鷹巣盆地 の南寄 りを流れる米代川 には、南 か ら小猿部
川や阿仁川が合流 し、阿仁川右岸の大野台には 4面 の段
地点 6:大 館市岩瀬赤岩神社 のラハール
米城川右岸 の岩瀬では川沿 いに毛馬内面を形成する厚
さ 2mの ラハー ルが露出 している (写 真 6)の ラハー ルは
成層 し、直径 2∼ l cm大 の軽石が多 く含 まれる。周辺か
らは江戸時代 に埋 没家屋 6棟 が発見 された とい う(高 橋
丘面が分布する。
米代川の両岸に広がる毛馬内面 の微高地 にはラハール
が堆 積 しているが、中央部の広範囲は開析を受けて谷底
となっている (写 真 8)。
2006)。
写真 8
写真 6
北秋 田市岩瀬
上空か ら鷹巣盆地を望む
赤岩神社の ラハー ル
米代川は鷹 ノ巣盆地の西側で再び山地 の狭窄部を通過
地点 7:大 館市大披
米代川沿 いの埋没家屋は現在 まで 9遺 跡か ら発見 され
ている (田 口1987,高 橋 2006)が 、大館市引欠川沿いの大
披 (写 真 7)で は、
安永 4(1775)年 に家屋 4棟 が発見され 、
家具や農具が出上 した。周辺を踏査すると畑の表土にラ
ハール起源の灰色軽石が 多 く散布 してお り、地形面が軽
石を多 く含む堆積物で形成 されたことを示唆する。 また
大被付近の毛馬内面は、引欠川の浸食によ り数 mの 比高
差をもつ段丘産が形成 されている。江戸時代に発見 され
する。 ニツ丼町の七座山北方は渓谷 となってお り阿仁川
と合流 した米代川は幅300mほ どの河道 とな り、粕毛川
の合流部か ら再び川沿 いの低位面を形成 しなが ら日本海
側 の能代平野に至 っている。
大館 ∼鷹巣盆地周辺に堆積 したラハールは、花輪盆地
の末広 と同様に七座山付近の河川狭窄部 の開案によ り盆
地内の広範 囲 に分布 している可能性が高 い。
地点 8:北 秋田市小勝田 1/Jヽ ケ田)
た家屋 は段丘崖 の 何れかか ら掘 り出 され た ものであろ
文化 14(1817)年 に埋 没家屋 3棟 が発見 された といい、
有名な菅江真澄の埋 没家屋図が残 されている。小勝田付
う。
近 の毛馬内面は、小猿部川が形成 した谷底平野を埋める
大披集落に近い場所か ら慶応年 間 に埋没家屋が検出さ
れ、曲げ物な どの遺物が出土 したとい う。向田崖付近は
ように低位面が広が り、河川 沿 いには開析 された崖地 形
,θ
が存在する。現在では植生に覆われ、詳細な地 形観察が
年 の「 出羽秋 田七座 山天神宮縁起』や天明 8(1788)年 の
『 いわてのや ま』な どがあげ られ る (荒 谷
菅江真澄 による
困難である (写 真 9)。
2009)。
また寛政年間(1789∼ 1800)の F封 内郷村誌 Jに も記述
があるとい う(坂 本 1996)。 荒谷も坂本 も八郎太郎伝説 の
「三 国伝記 ││に あるとし、 16世 紀前半、天文年間の
起源 は
『津軽郡中名字』にも記述があるので、 これ らは 15世 紀前
半 に近江の善勝寺 の僧玄棟 によるF三 国伝記』に遡 るとさ
れた (佐 々木 1990)。
文字 で伝えられた八郎太郎 の伝説 に対 して民話 として
各地 に伝 えられた伝承文学 は、話の内容や表現 も多岐に
写真 9
わたる。最近 になって編集 された伝説は、現代的 に話 が
解釈され ている nl能 性 もあるので資料 の扱 いには注意が
上空か ら小勝田を望む
必要である。
地点 9:北 秋田市胡桃館遺跡
胡桃館遺跡 は、昭和36(1961)年 に鷹巣中学校 に隣接す
る野球 グラウ ン ドの整備で土器 が出土 し、昭和38(1963)
年 に建物 の一部が発見 された。昭和 42∼ 44年 度 (1967
70)に 行われ た発掘調査ではラハー ルか ら 4棟 の建物 と
(2)八 郎太郎 の伝説
本文では多岐 にわたる八郎太郎 の伝説 か ら湖水形成謂
に関 して詳 しく伝えて いるものを抜粋 し、概要を紹介す
る。 ここで引用 したのは秋田県大潟村総務企画課 (2008)
が作成 した「八郎太郎伝説」をもとに再構成 したものであ
柵 が発見され、土器や木製品、墨書土器や墨書 された扉
板 が出上 した (秋 田県教育委員会 1968,1969,1970.北 秋田
る。
市教育委員会2008)。
遺跡 は市街地 の北西部 にあ り、現状 も市立鷹巣中学校
卜和田湖 に近い鹿角市草木で生 まれた八郎太郎 は、山
のイト事で仲間 と 卜和国の 山奥 に行 きま した。八郎太郎が
炊事 の際 に仲間 の分まで焼いたイワナを食べ て しまうと
Jと
に隣接するグラウ ン ドで、現地には秋田県指定文化員
なった出上物や家屋の部材が保存 されている (写 真 10)。
1111111::111111■
‐
■■
││■
││1111
の どが渇 き、沢 の水 を飲みほ した。すると八郎太郎は龍
に変わ つて しまったのです。仲間 と別れた八郎太郎 は山
の 中に逃げ込んで沢を堰 きlLめ 十和田湖 をつ くり、その
主 となったのです。
ある とき南部 の 出身 で熊野 の修業僧 であ つた南祖坊
は、十和田湖を訪れ、 ここがお告げにあった永住 の地 と
悟 りました。 こ うして龍 になった八郎太郎 と南祖坊は十
和田湖 を争 って壮絶な戦 い とな りました。
八郎太郎は八つの頭を もつ龍にかわ り、南祖坊 と戦い
ま した。静かな湖は急 に荒れ狂 い、雷鳴が響 き、山々が
鳴動 しました。戦 いは七 日七晩続き ましたが、最後は南
写真 10 胡桃館遺跡
4.八 郎太郎の伝説 と湖水形成謂
(1)文 字 に残された八郎太郎
秋田県 を中心に青森県や岩手県 に伝わる八郎太郎の伝
説 は、様々な物語の型式を有するが、一般 には秋田県米
代川 を舞台に した話に代表 されている。 これは八郎が十
和田湖 か ら八郎潟へ 移 り、やが て田沢湖に至 った とする
三大湖沼の物語が後世 になって誕生 したか らであろう。
主人公の八郎太郎や南利1坊 が登場する記録は、古 いも
「津軽 一
のでも江戸時代中期 に遡 り、享保 16(1731)年 の
統志 Jや 延亨元 (1744)年 の「杵山峯 之嵐」、明和 3(1766)
祖坊 の力が勝 りました。八郎太郎 は力尽 き、十和田湖を
血で赤 くに染 め、湖を去 ったのです。
勝者 の南利1坊 は、「 和田湖 へ沈み、湖 の新 たな主 とな
りました。湖 を追われた八郎太郎 は故郷の鹿角に戻 りま
した。米代川 の雄神 と雌神の間を堰 き止めて湖をつ くり、
ここに安住 したい と思いま した。
八郎太郎は毛馬内の茂谷山 に縄をかけて背負 い川を堰
き止めようとしま した。
鹿角 の神様達 は大湯のお宮 に集 ま り八郎太郎を追 い 出
すため の相談 を しま した。そ して鍛冶屋に金槌な どをつ
くらせ 、八郎太郎 がせ き止めた場所を壊 しました。
鹿角 の神様達 に妨害 された八郎太郎は、さらに米代川
沿 いに下 って行 きま した。
yノ
,F究 紀要34
鹿角を追われた八郎太郎は、 きみ まち坂付近で蛇行 し
人舞 下って言 うとお り、南祖坊は湖底に飛び込めば朽 の
ている米代川を堰き止めて湖に しようと思いました。 七
座山 の神様達は相談 し、天神様が八郎太郎 と大きな石 の
投げ くらべ をすることにな りました。八郎太郎が投げた
大木生えて いた所を己が住家 と定めたcJ(あ らす じ)
石は米代川に落ちました。天神様は、大きな石を軽 々 と
投げ、それは米代川を越えていきました。八郎太郎が驚
細 に記述 されてお り、興味深 い。
いている と天神様は、川を堰 き止めた堤防を、た くさん
また、鹿 角市史では八郎太郎 と南祖坊の争いが実に詳
「南祖坊は津々浦々をめ ぐり歩き、1和 田湖 へ来た時、
の 自ネズ ミによって穴を開けさせ ま した。八郎太郎は、
ここでも神様達 に邪魔をされ、さらに下流へ と行 きま し
洞窟 の 中に鉄 のわ らじを見つ けた。 ここがお告げの場所
た。
去れ との大 音声が響 いた。神 のお 告げで 自分が湖 の主に
八郎太郎は天瀬川で老夫婦か ら一夜の宿の世話を受け
か と、岩頭で経を読み始める と、湖底か らさっさと立ち
なると告げると、八つの頭 と 卜六本の角を持つ巨大な龍
ま した。八郎太郎はお礼 として、明 日の朝、鶏が鳴 くと
があ らわれ、
火をふ く舌を捲 きあげて飛びかかってきた。
同時に大地が裂け、 この地が大 きな湖になると秘密を打
南祖坊 が静かに経 文を読む と、 その 一 字 一 字が剣 と
なって八郎太郎の蛇体につ き刺 さった。そ して経を衣の
ち明けます。老夫婦は八郎太郎の好意を受け、鶏が鳴 く
襟 にさす と南祖坊 も九頭の龍 となって戦 う。八郎太郎は
前 に逃げることに しま した。
か し、お婆は裁縫道具を家 に取 りに戻 っていま した。八
着 ていたケラの毛一本ずつを小さい龍に してかみつかせ
る。激 しい 聞いは七 日七晩におよんだが、ついに八郎太
郎太郎はお婆を助けようとして、お婆を対岸 の声崎に飛
郎が真 っ赤な血を流 しなが ら御倉半島をはい上が り、逃
翌朝、鶏が鳴 くと大地は大きな湖 となったのです。 し
げ去 った。五色岩、千丈幕、赤根岩が赤 いのはその血の
ば して しまいました。
老夫婦は助か りま したが、川を挟んで離ればなれにな
跡である。 南祖坊は最 も深い中の湖にひそみ、湖の主 と
り、お爺は天瀬川の南の夫殿権現に、お婆は芦崎の姥御
前神社にな りま した。そ して、 この地域では鶏をタブー
なった。 (『 単木 の八 郎太郎』要約 )」 (鹿 角市1996)。
とし、鶏を飼 うことを禁 じられま した。 こ うして、現在
鹿角市史の 出典 は F草 木 の八郎太郎Jの 要約 とされて
いるが 、解説で十和田山の噴火や軽石流、川 に沿 って流
の場所に八郎潟が誕生 し、八郎太郎はここを永住の地 と
したのです。
(3)伝 説 の風景を読み解 く
れたシラス洪水の有様 が伝説 となった可能性を触れてお
り、逆 に噴火を念頭 に置いて編集 され、一 部 の表現が誇
十和国湖
張されている IJ能 性は捨てきれない。
八郎太郎 と南祖坊が 卜和田湖 の覇権を巡 って争 う場
は、 原典 である『三 国伝記 Jで「食合事七 日七夜 ナ リ。動
揺 スル事雷轟如 力耀電光 二似 タリ。遂 二八頭ノ龍食イ
れ方や表現が様々であるが、湖水形成諄に登場する場所
負テ、曳大海 二 入ン トス。Jと ある (荒 谷 2009)。
す指標なのではないだろうか。
この場面は火山噴火を表現 したもの と解釈 され 、八郎
太郎の伝説 とシラス洪水を結 びつけた原点 である (平 山・
八郎太郎が血を流 した場所 は、御倉半島周辺 の五色岩
な どである (写 真 11)。 南祖坊は勝者 として青龍権現にな
市川 1966)。 しか し天変地異を表す表現 に雷鳴や電光な
り │^和 田神社に千
ビられるが、神格化の象徴である入水地
fll
│、
しか し、八郎太郎 の伝説 に描写された舞台は、伝 えら
の特定は明 らかである。 これは伝説の舞台背景を指 し示
どを用いることは多 くの伝説や民話に共通するので、 こ
は 占場 (写 真 12)と 伝承されている (小 舘 1976)。
れをもって噴火の状 況 と断定することは憚 られる。
「秋田の昔話・ 伝説 。世間話 回承文芸検索 システム」
西 と東岸に位置 してお り、広大な
に収録 された
『伝説乃鹿角』は、鹿角郡教育会が 1931年 に
風景が中湖に限定 されることは明白である (写 真 13)。
発行 し、宮川村大 日堂由来記に書かれたものが掲載され
花輪盆地
たもので以下に抜粋する。
そ して これ らの場所は明 らかに十和田火山中湖火 国の
│^和
田湖の中で伝説の
十和国湖を追われた八郎太郎は、花輪盆地北部で湖水
形成暉展開する。 ここでも盆地周辺の地名が記 されてお
「八頭の龍蛇かけ来た りて曰 く
「ここは我 が凄居 な り。
とくとく立ち去 らぬにおいては、唯一 回の餌食ぞ。」怒号
終わるや否や荒れたる湖上に 16の 角をさらけ、八 つの頭
を持 つ大蛇現れ、南祖坊に飛びかかろうとした。南祖坊
は動ず る色な く、法華経八巻を誦 え大蛇め がけて投げ、
互いに しのぎを削 りて合い戦 う。八龍 もたま りかね大 血
を引いて御倉 │11か ら何処 ともな く逃げた。天 よ り童 子一
θ′
り、容易に伝説の場所が特定できる。前出の鹿角市史 に
は以下 の続 きがある。
り出すために花輪福 士の日向屋敷にいた十二 人 の鍛冶 に
カナヅチ、ツル ハ シ、タガネな どを沢山作 らせ、牛につ
けて集宮 まで運ばせた。あま り重たいので血を吐いて死
ぬ牛がお り、そ こは血 牛 ― 乳牛 と呼ばれている。 これ
に気づいた八郎太郎は、あきらめて茂谷山の中腹にかけ
」 (鹿
た綱をほ どいたが、そ の跡は今 でも残 って見 える。
角市 1996)
伝説 の場面 に登場する男神 と女神の谷は、米代川 の末
広 の狭窄部 (写 真 14)に 比定 される。谷の北にある茂谷山
(茂 谷山か ら石を)を 運んで盆地 の 出口を堰き止める計画
写真 11 御倉山 と五色岩
は、現代のダム建設 にも通ずるものがあるだろう。
伝説 の 中身 は漠然 とした絵空事を展開す るものだが、
部分的 に狭 い範囲を示 した地名や象徴的な地形を示唆 し
て、何かを伝えていることに どのような意味があるのだ
ろうか。
物語 の 冒頭 で語 られる八郎太郎 の生誕地は鹿角の草木
とされる。 この場所 は大湯 に近い山麓の小集落で、十和
田や鹿角を一 望する高台 である。 これ こそはこの伝説 の
舞台 を見渡 した大 きな風景の視座を示唆するものかもし
れない。
写真 12
+和 田湖 の 占場
写真 14 上空 か ら末広 を望 む
大湯 の集宮 は鹿角の神様が集 まった場所 とされ、現在
も大湯川沿いの小丘 にお宮がある。 ここは毛馬内火砕流
写真 13 871湖 台 か ら中湖火 口を望 む
が堆積 した低位面に浮 き出た孤立丘である (写 真 15)。 大
湯川沿 いに達 した毛馬内火砕流は、わず かな標高差で集
宮を埋 めきれなかった。火山島のハ ワイではこのような
「さて敗れた八郎太郎 が生れ故郷 へ 帰 り、
高 い 山へ登 っ
てあた りを眺めると、西 の方で米代川、小坂川、大湯川
の三つの川が合流する、男神、女神 のせ まい谷あいが 目
場所をキプカ と呼び、溶岩に取 り残されたオアシスのよ
についた。そ してあの谷間を埋めて三つの川 の水をため
れば、大きな湖 もできると考え、毛馬 内の茂谷山を運 ぼ
れたものだが、伝説 に埋め こまれた位置情報 は現代の科
学的観察 のポイ ン トに十分に符合する。 こ うした ことか
ら伝説の中に埋め込 まれたメッセージは、過去の 自然現
象を伝 えるために残 されたキー ワー ドではないか と類推
うとブ ドウのツルを集めて長 い綱をない始めた。
鹿角 の四十二人の神々は これを知 って驚 き、大湯の下
の方 に集 まって評定 した。集宮 の地 名は この ことによる。
うな意味がある。
これ らの知見は現代 の 自然科学的な視点 か ら導 き出さ
させる。
そ して八郎太郎へ石 の礫をぶつけることに決め、石を切
93
研究紀要34
七座 山
花 輪盆地 を追 われ て米代 川 を下 った八1`太 郎 は、比 内
しか し、巨石 も神社な どの痕跡は、ほ とん どが八郎太
の
郎 伝説に導かれ、後 l■ になってか ら比定 され、誕生 し
地方 に湖水 を形 成 しよ うと して、 こ こで も地 元 の 神 に追
たものであろ うcそ れ らは十和田湖の 占場や南祖坊 の縁
われ る。
写真 16 八劇
郎 の投 げたイfと 七 17i7山
`太
写真 15 集宮神社
起を持 つ 十和田神社、花輪盆地の集宮や草木 も同 じこと
「秋田の音話・ 伝説 。世間話 日承文芸検索 システムJ
に収録 された
『ニ ツ丼町史』か ら引用 した物語は、以下が
だと思われる。
それでは これ らの伝説地はまった く荒唐無稽なものな
要約である (ニ ッ丼町町史編 さん委員会 1977)。
のだろ うか。逆説的に考えれば、それぞれ の場所が人々
「比 内は一 大湖 とな り八郎太郎 の安住 の所 とな った。
によって 占代か ら言い伝えられた場所であるか ら、後世
になって痕跡が生 まれ、保存されたのではないだ ろうか。
八座の神様は太 郎を他 に移 したい と相談 したがまとまら
やは り火のない ところに煙は立たないのである。やは り
ず、七座の神様に任せ ることに した。
これ らの場所 は、伝説 の指 し示す ところに他な らないの
天神様が八郎太郎に力比べ を持ちかけ、八郎の投げた
石よ り大 きな石を投げ、八 郎はび っ くりした。
ではないか と思われる。
この よ うに米代川流域 に伝わる八郎太郎 の伝説 に見 ら
すると天神様は男鹿半 島の方 にひろびろ した所がある
れる湖沼形 成諄は、十和田湖の中湖火口を起点に毛馬内
のでお 前の住家にすれば と言い、米代川の浅 い水で進む
火砕流 の末端である大湯川を介 して、ラハー ルが堆積 面
こ とができない八郎 のため、神々に話 し、湖水を作 って
を形成 した花輪盆地や鷹巣盆地の河川狭窄部に話の主要
い る自ネズ ミに山 に穴をあけるよう命 じた。ネズ ミは水
ポイン トが存在する。そ して伝説が示 した地名や地形の
キー ワー ドは、過去に起 こった何かを伝えるための伝承
を通 し、八郎太郎は波に乗 って濁流を 下った。
」
大館や鷹巣盆地でも湖水形 成諄が継続 し、伝説の舞台
は七座山のきみまち阪 に移動する。 この付近で阿仁川が
合流 した米 代川は、大平山地や白神山地を刻んで蛇行 し
である可能性が極めて高い。
そ してこれ らの伝説の舞台が十和田火山平安噴火の災
害地域に重複 していることは、紛れ もない事実 と考 えて
よいだろう。
なが ら大 きな谷を形成する。 この山間を通過 した米代川
は上流の 内陸盆地か ら F流 の能代平野か らなる海岸平野
5.八 郎太郎の伝説 と伝播
に至 って 11本 海に達 している。
(1)各 地の湖水形成諄
花輪盆地か ら流れたラハー ルは、大館盆地や鷹巣盆地
八郎太 郎 の伝説は、米代川流域や八郎潟、田沢湖を舞
で氾濫 し、広範 囲を滞水 させた。急激に埋め立て られた
台 に して多 くの物語が残 されているが、隣接する青森県
や岩手県の 一部 にも八郎太郎の伝説が伝えられている。
集落 の一 部が埋没家屋 として保 存された。 こ うした洪水
の元になる十砂 ダムが推定 される場所は、七座山の麓に
ある米代川の狭窄部にほかな らない。
この地 には米代川の右岸に七座神社が鎮座 し、七座神
社は別名が天神七座 神社や七座山天満官 と呼ばれ ること
特 に地 元の神 々に妨害 されて湖水 形成 を断念す る話
は、米 代川 のそれ と類 似 した り、重複 した りしている。
このよ うな湖水形成語は青森県岩木川 の相馬、平川の大
か ら物語 の天神様に比定 される。 また川の中には八郎太
鰐、浅瀬石川の黒石、南部地方の五戸川 の倉石、馬渕川、
新井田川の島守、岩手県紫波 町の北 11川 犬吠森な どで認
郎 の投げた と伝わる巨石 も存在 してお り(写 真 16)、 両岸
に伝説 の痕跡が残 されている。
する(小 舘 1976)c
θイ
め られ、各地に八郎太郎が河川を堰 き止める場所が存在
(2)浅 瀬石川 の黒石
青森県黒石市 に伝わる八郎 の伝説は、八郎 の 出身地が
黒石 となっている。
現在 の黒石温泉周辺 の浅瀬石川を堰 き止めようとした
の渓谷を通過 し、盆地内で蛇行 しなが ら段丘面を形成す
る。いわば この周囲は、山地 と台地の境界 に位置する河
川流域 に属 している。
八郎は、中野不動に咎め られ上流の一 ノ渡村で再挑戦す
る。 ここで も十和田様に叱 られたので十和田湖に逃げ込
む (坂 本 1996)。 これ以降 の話は南祖坊 との争いか ら八郎
潟へ と発展 し、米代川流域 の物語を共有 している。
同 じ黒石でも八郎 の展開が異なる話 もある。十和田湖
での南祖坊 との争いか ら逃れた八郎は、浅瀬石川に合流
す る中野川を堰 き止めよ うとするが、中野不動に追い払
われる。再度にわた り八 甲円山の合子沢川 上流の コツメ
でも挑戦するが、 ここでも八 甲田の神様 に怒 られて追い
出されて しまう(森 山 1976)。
写真 18 岩木川 の八郎岩
また、八郎は平川流域の大鰐、古懸、碇 ケ関 に湖水を
つ くろうとしたが、古懸の不動に妨害 され、大鰐 の大 日
様 に導かれて八郎潟 へ と辿 り着 く(森 山 1976)。 この展開
では、話に南祖坊や十和田湖が登場 しない。
(4)新 井田川の十 日市・ 島守
黒石油II泉 には、八郎の堰 き止めの舞台 となった場所が
伝わる。中野不動の周辺には八郎が宗 (エ ビ)で 土を盛 ろ
太郎の伝説が残 されてお り、八郎の出身地は八戸の十 日
うとした跡 の小山が、蛾虫 の一エ ビと呼ばれて いる (写
真 17)。 この場所 は八 甲田山を上流域 とす る中野川 と浅
瀬石川 の合流点 に相当 し、中野不動が鎮座する。 また浅
瀬石川上流 の一ノ渡には、蛾虫坂か ら運んだ上が こぼれ
た小山があ り、川には八郎石があつた とも伝 えられる。
青森県八戸周辺や新井 田川 の島守盆地 には八郎や八ノ
市や島守 とされている。
島守 の八ノ太郎は是川を堰き止めようとして夜に土を
運ぶが、島森の神様が相談 して虚空 蔵様が真似た鶏 の声
に頓挫す る。八 ノ太郎は十 日市 に逃げたが犬に吠えられ、
さらに烏屋部岳 に逃げた (森 山 1976)。
八 ノ太郎が八戸の蟹沢川 を堰 き止め よ うとして、土
を運んでモ リを作 った。明神様の 別 当の 飼 い犬が八 ノ
太郎を吠えて追 い払 った。 モ リは犬森 と呼ばれた (森 山
1976)。
島守 で生 まれた八郎太郎 は、銭 で掘 うた上をモ ッ コ
で運び、巻 に山を盛 って新井 田川 を堰 き止 めよ うとし
た。島守四十七社 の神様は島守 とい う森に集 まって相談
し、八郎太郎を十和 田湖 に追い 出 した (南 郷村中央公民
館 1982)。
これ らの伝説に残 された地名はそれぞれ現存 し、新井
田川 と蟹沢川が合流する地点が十 日市である。十 日市を
流れる蟹沢川右岸には犬森が望める (写 真 19)。
写真 17 黒石温泉 の 蛾虫 の一エ ビ
(3)岩 木川 の lll目 屋
岩木川 の上 流 にある青森県西 日屋村 に伝わる八郎 の伝
島守盆地を流れる新井田川は、南郷村巻か ら新井田川
渓谷を通過 し、 丘陵を穿入蛇行 している (写 真 20)。
島守 の巻は、新井田川が盆地を通過 して渓谷 に入る河
川狭窄部にあた り、それは米代川流域の花輪盆地末広 と
説は、八郎の出身地が西 日屋村になっている。 目屋の谷
同 じ地 形的な環境 にある。
川 を堰 き止め よ うとした八郎 は、岩木 山の神 に追 われ
(5)相 坂川 (奥 人瀬川 )の 十和田市大和田
る。再び大鰐で平川を堰き止めようとした八郎は、阿閣
十和田市大和田の沼は、八ノ太郎が休んで腰を下 ろ し
た場所が沼 になった とい う。相坂川の水を飲んだ時につ
羅権現 に叱 られて十和田湖に逃げ込んだ (森 山 1976)。 こ
れ以降は南祖坊 との争いか ら八郎潟へ と移動する展開 と
いた手形や歩いた足跡が才 ノ神や東 山 に残 された (森 山
なる。
1976)。
西 日屋村西部の見返 り坂は岩木川が渓谷を刻み、河床
には八 郎岩が残 されている (写 真 18)。 岩木川は饉1神 山地
十和田市大和田の沼は、現地の踏査で特定できなか っ
た。 しか し、相坂川左岸 に鎮座 す る大和 国神社 の 南側
研究紀要34
は 、相 坂川 の段 丘 が河川 に よ って 浸 食 され て 束 西 270∼
のか もしれないc
南北 340mの 馬 蹄形 の 凹地 を形 成 してい る。 この
特 異 な谷 が八 ノ太 郎 の 伝説 の 沼 で は ない だ ろ うか。
::│:‡ ill::::11
:::│:1::::i::│::::::11:││‐
tt1111111111
一
一
一
一一
一一一一一一一一一一一一
一一
一一
340m、
6.伝 説の背景
(1)伝 説の背景にあるもの
昔話 とよばれる地域に伝えられた伝説は、様々な民衆
の想いが言葉を介 して人づてに伝わ り、今 日に至 ったも
の と思われる。 これには地域 に伝わる地名 の 由来や地域
に起 きた特異な出来事を伝えたものがあるだろう。
八郎太郎 の伝説は、話が伝わ り残された範囲が極めて
広 く、
物語の内容 も多岐にわた り様々な展開が存在する。
この ことは、それぞれの地域 に伝えられた伝説が主人
公を介 して結 合 し、逆に伝播 した伝説が、それぞれの地
域で生 まれた話 と結びついて展開 しなが ら残 された可能
性を窺 うことがで きる。
写真 19
L空 か ら十 日市 と犬森 を望 む
こ うしてみ る と15世 紀 前半に成立 した といわれ るF三
国伝記』や 14世 紀後半 の
「ネ
中道集』な どには、法華経 の功
徳によって大蛇や龍を調伏する説話が見 られ、 これ らが
八郎太郎伝説の共通 の基盤を構成 しているもの と考えら
れる。
しか し、今回検討 した八郎太 郎 の伝説は、南祖坊 との
争 いや湖水形成調 に地 名や地形が登場する場 1函 が多々あ
り、漠然 とした表現で物語が展開する ことが多 い伝説 の
中 にあ って極 めて特 徴 的な ものではないか と考 え られ
る。
また堰 き止めに関わる伝説 の場所 には、河川沿 いの小
丘が登 場 し、八郎太郎の盛土 と伝わるものは「ダイダラ
ボッチJ伝 説 との共通性が沼められる。 さらに、八郎太
写真 20 上空か ら島守爺地巻 の渓谷を望 む
(6)自 髭水 と猿 賀神
青森県津軽地方に伝わる自髭水 伝説は、八郎太郎 の伝
説 と直接の関係はな く、いわば花輪 (鹿 角 )と 津軽を舞台
とした洪水伝説の一つ として 関連するかもしれないc
郎が八郎潟に至 る天 瀬川 の場面で登場する老夫婦は、
「足
名椎Jと 「手名椎Jで あ り、芦崎の姥御『神社
の
自
周囲に
は娘の「櫛名田比売」を祀 った神社 も鎮座する。 この こ
とは、八郎潟に至って八郎太 郎は、八龍 として八 岐大蛇
の民間信仰に習合 していることになる。
蝦夷を攻めた上毛野田道は陸奥で戦死 し、その墓を暴
いた蝦夷は大蛇 と化 した田道の霊に襲われた。田道の霊
このよ うに八郎太郎の伝説の背景 には、詳細な場所を
伝 えるエ ピソー ドと巨人信仰や 日本神話の姿が複合 して
いるよ うに見受けられる。 こ うした複雑な背景を有する
は大 湯 に近い鹿角 の猿賀野 にllEら れたが、欽明28(567)
物語の中か ら地域 の伝承だけを抽出 し、共通する意味を
年に津軽や南部地方に自髭水 と呼ばれる大洪水がおきて
田道の霊は津軽に流れ着 いた。
想像す る と、そ こには どのよ うな伝説の「失われた輪 J
それは現在 の平川市尾 たの権現平で、自馬 に乗 り春の
流木を舟 として大 石 の_Lに 神が現れた とい う。 これを近
「八郎 Jに 関わる伝説を見通す鍵 となるもの と考 え られ
くに千
Eっ たものが猿賀神社である
(り
│1合
1970,坂 本 1996)。
猿賀神社が鎮座する平川市尾 Lは 、浅瀬石川 と平川に
挟 まれた扇状地 に位置 し、両河川 の氾濫源 とは距離があ
が見えるのだろ うか。 これは今後の研究で大きな意味の
る。
(2)平 川や浅瀬石川のラハー ル
近年、青森県津軽地方で埋蔵文化財の発掘調査か ら十
和田 aテ フラ起 源 のラハー ルが検出されている。
これ らは浅 瀬石川扇状地の前川遺跡 (笹 森他 2009)や 岩
る。 また、秋 1県 鹿角 と両水系 の 間 には山地があ り、山
「
を越 えて くる洪水は常識的には考えに くい。 しか し、火
山噴火で生 じたシラスを 自髭水や 白髪水 と表現す ること
木川が形成 した津軽平野に位置する五所川原市の十 三盛
遺跡 (鈴 木・ 佐藤 2013)で ある。
があ り、十和 田湖 の20∼ 30kmの 範囲にある水系での事
例である こ とか ら、火山災害を別 の視点で表 した伝説な
前川遺跡 では 平安時代の水 田を覆 う層厚20∼ 50cmの
十和円 a起 源 のラハー ル (柴 2009)が 検出された。 また、
θδ
十三盛遺跡では層厚 60cmの ラハー ルが検出され、十和田
aテ フラの噴火後にラハールが低湿地 に流入 したことで
発生 した可能性 があるだろうか。第 2図 に湖水形成諄を
低地 が埋 まり、微 高地が形成された (小 野他2012)。
火砕流 の分布を示す。
毛馬内火砕流は、火国か ら 卜和田湖を越 えてカルデラ
`
縁で の堆積が認め られることか ら
「 川や浅瀬石川の上流
に達 した可能性は極めて高い。 しか し、 これ らの水系 の
十和田火山か ら遠 く離れた津軽平野の十三 盛遺跡 に達
したラハー ルには十和田 aテ フラ以外に微量なテフラが
上流部は十和田八戸テフラな どのカルデラか ら噴出 した
生んだ地域 と十和田 aテ フラの分布や 十和田カルデラの
含 まれ、 ラハー ル 以前 の堆 積物 には 卜和 田火 山 の複数
火砕流が急斜面や渓谷を形成 してお り、毛馬 内火砕流 の
のテ フラ起 源 とされ る火 山ガラ スが 認め られた (小 野他
2013)。 前川遺跡で も同様 にラハー ル以 前 の堆積物か ら
堆積面は認められない。毛馬内火砕流は急峻な地形のた
は
め、ほ とん どが浸食によって下流域 に運搬 された と考 え
起源の火山ガラスも認め られた (柴 2009)。
この よ うなテフラの再堆積は、 卜和円火山の周辺で平
られる。
十和田湖 の北西 に位置する青森県 の津軽地方は、浅瀬
石川上流や浅瀬石川 と中野川の合流点、平川水系の大鰐
│^和
田八戸テフラ起源の火山ガラスや八甲田カルデラ
安時代 の噴火以前か ら周辺の山地、丘陵や火砕流台地か
ら恒常的にテフラが運搬 。供給 されていたことを示唆す
盆地 な どで八郎太郎 の伝説 による湖沼形成諄が残 され
た。 これ らの地域には河川の狭窄部に類似する地形が存
る。
在す るが、li流 か らのラハールによって河床が上昇 し、
米代川流域 のよ うに大規模な滞水域を形成 した 可能性は
低 い。氾濫 の証拠 となる地形面やラハールは未発見であ
火山灰 によって火山麓 の植生破壊を進行 させ、周辺の水
系 にラハー ル を生み出す トリガー とな った HI能 性があ
る。各地で生 じたラハー ルは、過去の 十和田カルデラか
るが、限定的に浅瀬石川の合流部な どでラハ ールに よる
氾濫が起 こった IJ能 性を否定 しない。
また浅瀬石川扇状地の前川遺跡でラハールが水田を埋
出 した二次的なテフラではないだろ うか。
こ うして十和田 aテ フラが降 ドした地域では、渓谷や
めてい る事実 は、上流部 の 浅瀬石川 をラハー ルが 流れ
河川 の狭窄部や合流部で氾濫が多発 し、米代川の八郎太
下 ったことを示す決定的な証拠である。
このよ うに米代川流域以外に津軽地方の河川で八郎太
郎 の伝説 と 和田 aテ フラ起源のラハー ルが重複 して存
郎 の伝説が伝播 した各地で、さらに新たな伝説を生みだ
在す ることが認め られる。
(3)ラ ハールを生み出 した地形
フ.十 和田 aテ フラの噴火 と災害
そ して平安時代 の大規模噴火は、毛馬 内火砕流や降下
ら噴出 した火 砕流 が斜面崩壊や t石 流 の発生によ り生み
したもの と想定 される。
│‐
考古学的手法を用 いて火山災害を研究 した丸 山は、十
和田 aテ フラの噴火 に伴 う平安時代 の 占森県及び岩 手・
秋田両県北部 の集落遺跡を集成 し、災害 に伴 う `
14安 時代
八郎太郎の伝説か ら解釈 した知見 と最近の火山地質学
の成果は、 どのような噴火 と災害の姿を読み解 くことが
できるのだろ うか。以下は、伝説を軸 に再構築 した十和
田火山の噴火 エ ピソー ドAで ある。
集落 の推移を分析 した (丸 山2011)。 これによれば、岩手
平安時代 の延 喜 15(915)年 夏 に十和田火山で噴火が開
7月 5日 (ユ リウス暦の 8月
県馬淵川中流域や青森県奥入瀬川流域で噴火後に集落が
始 された。「扶桑略記
急減 し、青森平野 も減少に転 じたことが明 らかで、 これ
らの周辺では逆に集落遺跡が急増する。 この ことは火山
`にでは朝
日。以下同 じ)に 平安京
日に輝 きがな く月のよ う
だ と記 されたので、 この 日まで に噴火 の クライマ ックス
災害 によ り集落の移動を伴 った人々の避難行動であると
による降灰が近畿地方 にまで達 していた。
した (丸 山2015)。
南祖坊 と八郎太郎の戦いは 7日 7夜 とされたが、物語
の表現か ら噴火の経過を推定する こ とは憚 られる。仮に
噴火を示す ものが 7日 だ と仮定 しても、それは 1日 では
古代社会 において 当時の生活基盤をなす水 田や 畠な
ど、生産域が壊滅的な被害を受けることは、集落を維持
する原動力を失 うことになるだろう。
丸山の研究か ら米代川や浅瀬石川以外の地域でも噴火
による災害が生 じていたことは明 らかで、 十和田火山の
周辺 にある主要な大河川でラハー ルによる土砂 災害が起
18
な く、また 1ケ 月にわたらないイメージとしたい。
噴火が起 こった火回は、争 いの場面 か ら中湖火国に比
定 される。最初に噴出 した大湯軽石 は、プリニー式噴火
によってもた らされ、火口か ら北西20kmに 層厚 10cm程 度
きた可育旨性は極めて高 い ことが読み取れる。
が降 Fし た。
しか し、毛馬 内火砕流が及ん だ地域 は、火 国か ら約
20kmの 範囲 と考え られ、毛馬 内火砕流のラハー ルが岩木
大湯軽石や大湯火山灰の噴火は、マ グマに湖水が積極
的 に関与 した噴火 と考 えられた (広 井他 2015)。 おそ らく
川上流 の西 日屋や青森県南部地方、岩手県北上川な どに
直接 の影響を及ぼす とは考えに くい。
最初の噴火は中湖にかつて存在 した五色岩火山 と御倉山
溶岩 ドームの端 に形成された火日で生 じたのだろう。
噴火 の クライマ ックスは 7月 5日 (8月 18日 )以 前で毛
それでは、 どのような要因によって各地で土砂 災害 が
θ/
研究紀要34
0
10
20
30km
2
十和田八戸テフラ (火 山灰)
1
□国塚¨
十和田 aテ フラ
十三盛遺跡
八郎太郎の湖沼伝説
前川遺跡
自髪水伝説
十和田八戸テフラ (火 砕流)
第 2図
八郎太郎の伝説地 と十和田火山のテフラ テフラの分布はHayakawa(1985)、
馬 内火砕流 と十和田 aテ フラの主体をなす細粒火山灰が
町田 。新井 (2003)に よる。
爆発的な噴火によって噴出 した と考 えられる。 この噴火
たものだが、人々の心には争いに敗れた八郎太 郎 の流血
を街彿させ るものが あったに違いない。
で五色 岩火山の山体の一 部は破壊 され、水深300mを 越
噴火は終息 したが花輪盆地に達 した毛馬 内火砕流は大
える現在の中湖火国が形成 された。 また御倉山溶岩 ドー
ムの 中湖側の崩 落壁は、 この時 に形成されたのだろう。
湯川や米代川を氾濫 させ 、盆地の出口にあたる末広を埋
め立てた。 こ うして河川の狭窄部を塞がれて、盆地の広
毛馬 内火砕流の基質には軽石に混 じって黒曜石片が多
く含 まれる。これは大 規模噴火でマ グマ と湖水が接触 し、
マ グマ の急冷相が大量 に生産 されたためかもしれない。
噴火が終息すると再び十和田湖は静寂が戻 りつつ あっ
た。湖に到達 した人 々は新たな中湖火回の景色を 目撃 し
たか もしれない。そ して火口壁 にはかつて五 色岩火 山を
構成 していた溶岩が大 きな崖 となって現れた。
鮮やかな真赤色の溶岩は、マグマの鉄分が高温酸化 し
98
││が 氾濫 した。
範囲で河り
低地を水 田に して微高地に集落を営んだ人々は、大湯
川か らもた らされ る白砂 と水没 してい く集落 を眺めて
は、茫 然 と立ち尽 くす他はなかった。 これが十和田湖か
ら追われた八 郎太郎の姿である。大湯川を埋めた火砕流
に取 り残 された集宮の小山は、シラスに出現 した聖なる
場所である。人々は特別に護 られた場所 として感 じたの
ではないか。
やがて米代川は、狭窄部のJl砂 ダムを決壊 させ、下流
に洪水 となって押 し寄せた。七座山の麓 の渓谷 には、阿
模な土砂災害 は、各地で八郎太郎 の伝説を共有す る素地
を生み出 し、米代川流域を祖形 とした八郎太郎の伝説が
仁川 か らの流れ も合流する。 この場所 でも再び土砂 ダム
を形成 して、11流 の盆地を滞水 させたのだろ う。やがて
各地 の被災体験 とともに共有 されて、伝承が生みだされ
ラハールは 日本海倶1の 能代平野 まで到達するが、そ の頃
には米代川を ドる八郎太郎の噂が、北東北 の各地 に伝 え
られた ことだろう。
桑略記Iの 7月 13日 (8月 26日 )に は出羽の国で灰が
'扶
2寸 積 も り、桑 の葉 が枯れて しまった との報告が北陸道
を経山 して `
14安 京 にも伝えられた。
t畔 や LEl面
前川遺跡 でラハー ルに埋 まった水円か ら、日
に残 る足跡、丈が60∼ 70cmの 根元 か ら任1れ たイネが検
出され てお り、埋没 した季節は出穂期 の 8月 ll旬 と推定
されたc
915年 8り ]に 起 きた噴火は、秋季 の 降水 によって各地
で同時多発的にラハー ルを発生 させ、噴火後 の数年か ら
数十年 は周辺地域の斜面が崩落 し、大量の上砂が供給さ
れて、洪水が多発する環境 が継続 したもの と思われる。
低地 を開発 し経営 した水 FIや 畠を失 い、集落を捨 てて
移動 した人々は、別の場所で新たな集落 を形成 した。
水流 で洗われた火山灰だか ら、
米代川 を埋めた向砂は、
やがて河原にはた くさん の砂鉄 が濃集する。米代川を望
む高台に移転 した人々によって、鉄づ くりの集落が営ま
たのではないだろうか。
おわ りに
筆者 は 1993年 3月 にフ ィ リ ピンの ピナ トウボ火 山を
調査 したc火 口か ら25kmほ どのサ ンマルセ リー ノ [San
Marcelino]の ド流 では、自砂が眩 い火砕流 の末端 と河川
を埋め尽 くしたラハー ルの荒涼 とした風景が広がってい
た (写 真 21)。
1991年 6月 15日 に噴火 の クライマ ックスを迎 えた ピナ
トウボ火山は、火山灰 を高度34kmま で噴き上げ、火砕流
は山頂の火 │]か ら16kmを 流れ くだった。 この噴火 で直径
2.5kmの カルデラが山頂 に形成 され、噴火後 には台 lllに
よって大量 のラハー ルが発生 した。 この噴火は20世 紀 に
おける 1畦 界最大 の噴火 とな り、噴出 したマ グマの規模は
も及んだ。
一方、平安時代 の 卜和田 aテ フラの噴火は6.5km3と さ
れ、大湯川を火砕流 が流れ くだった。 20年 前 にフィリピ
10k.3に
ンで見たシラスは、今か ら1100年 前 に大湯川で見 られた
風景 に良 く似た景色 だったのかもしれない。
れるのに、さほ ど年月は掛 らなかった。
このよ うに十和田火山の周辺 1也 域 にもた らされた大規
写真21 San Marcelinoの 下流か らビナ トウボ火山1991年 噴火のラハールを望む
「
藤原健蔵 1966「 米(UI流 域 の河岸段 │■ と十和 Π火山噴出物の関係JF東 北
文耐
t
赤イT和 +1999「 十和口火 ││,毛 馬内火砕流に伴う火山泥流ナ積ll」 中か ら平
安時代の埋没家Llの 発見 :‐ 地質tt‖1誌 105 12 pp13 14
赤石和 11・ 光谷拓簿 板橋範芳2000「 「 和 ││]火 山最新噴火 に伴う泥流災
│「
ヽ学関ill合 同大会
害 ―埋没家屋の発見とその樹木年輪年代」 Fl也 球惑星千
予稿集 Qa P009
秋│]県 教育委員会(1968)胡 桃館埋没建物発1屈 調 1/1概 報二秋 LI県 文化財
調査報告 占第 14集 pp1 46
秋│1県 教育 委員会 (1969)胡
理没建物第2次 発ll l調 査1既 報J秋 田県文
化財調査報告書第 19集 pp1 58'L館
秋田県教育委員会 (1970)胡 ツL館 埋没建物第3次 発lll調 査報li書 J秋 田県
文千
ヒロ
」調査報告書第22集 pp1 46 61
イセ ンター (2015)り 1只 家 ノ下遺跡見学会 現l也 説明会
:t埋 蔵文化甲
秋田り
市資十
」A3片 反
jホ
秋 ││1県 大潟村総務企 画課 (2008)「 八郎 太郎 伝説 _ 大ジ 」百 FI事 典
Teb:http://11、 、 ogata oi jI)│′ enc、 cl ol)edia/1listory/
荒谷由季 子2009「 llliQ家 屋 と八郎太郎伝説 についてJ 火内二人館郷上11
lFビ
:
物館IIttlL要 9 pp1 29
地理_12 2 pp33 40
1ツ 丼町 ‖
]史 _pp 1 682
I史 編纂委員会 1977‐ ニツ丼 旧
Hayakalla
Yukio
1985
Pvroclast ic
geology
of
Towada
volcano Bull Larthq lnst ,Univ Tokyo,60,507-592
早川山紀 人1993「 火山の地質巡検案内21+和 Fl湖 J「 群馬大学教育学部
紀要 自然利学編 41 pp53 78
早川由紀夫・ 小山真人1998「 日本海をはさんで 10世 紀に相次 いで起 こっ
た二つの大噴火の年月日―十和国湖 と白頭 │IJ:火 山.435,pp403 407
4[│1次
郎・ 市川賢 -1966「 1000年 前の シラス洪水Jj地 質ニュース「 140
pp10 28
`
2015「 十和国火山 F安 貞火 (噴 火 エ ビソー ド
広井良美 。宮本毅・F]中 倫ク、
60 2 pp187 209
火山二
び噴火推移の再検討」
A)の 噴出物層序及
板橋範方2000 道 L」 木遺跡埋没家屋調査概報JF火 内J大 館郷t博 物館
'│
究紀要 l pp28 53
・■同地 大振動=と 十和 Fl火 山についての
伊東一充1996「 貞観寸一年「 睦
ノー トJ「 」
ム前大学国史0「 究J100 pp89 104
鹿角市1996「 八郎太郎J 鹿 角市史_第 4巻 .pp694 697
研 究紀要 34
川合勇太郎 1970『 ふるさとの伝説』津軽書房 pp1 330
木崎和廣 1976『 羽後 の伝説』第一法規出版 .ppl 176
小口雅史2002「 北 日本 の指標テフラ「十和田 aJ。 「白頭山J火 山灰をめ ぐ
る諸研究」『弘前大学國史研究J H3.pp54 66
小舘哀三 1976『 水神竜神 十和田信仰』北方新社 .pp1 208
工藤崇2010「 十和田火山 ,御 倉山溶岩 ドームの形成時期 と噴火推移」 F火
口
J』 2 pp89-107
曲田慶吉 1975『 伝説乃鹿角』明治文献pp l 168
町田洋・ 新井房夫・ 森脇広 1981「 日本海を渡 ってきたテフラ」 F科 学 J
51 pp562-569
町田洋 1995「 古代 の大災害が語る八郎太郎伝説」『講座 [文 明 と環境]7
人口・ 疫病・ 災害』朝倉書店ppH4 118
町田洋 1996「 秋田県大湯 における毛馬内火砕流 と十和田 aテ フラー八郎
太郎伝説 が示唆する十和田湖噴火災害J『 第四紀露頭集 一日本のテフラ』
日本第四紀学会P151
東京
町田洋 。新井房夫2003『 新編火山灰 ア トラスー 日本列島 とその周辺』
大学出版会 pp1 336
丸山浩治2011「 テフラを指標 とした古代集落研究の方法―青森県の平安
時代集落を例 に」『弘前大学大学院地域社会研究科年報』8.pp7 27
丸山浩治2015「 考古学手法 を用いた火山災害研究 -10世 紀 の巨大噴火 と
東北地方北部 における人間活動J『 考古学研究』62 2 pp43 55
第一法規出版 .ppl 183
森山泰太郎 1976『 陸奥の伝説』
内藤博夫 1963「 秋 田県鷹巣盆地 の地形発達史 J『 地理学評論』3611.
pp655-668
内藤博夫 1966「 秋田県米代川流域の第四紀火山砕屑物 と段丘地形」『地理
学評論』39 7 pp463 484
内藤博夫 1970「 秋田県花輪盆地 および大館盆地の地形発達史」『地理学評
論』48 10 pp594 606
内藤博夫 1977「 秋田県能代平野 の段丘地形」『第四紀研究』 16 2 pp57 70
南郷村 中央公民館郷 土の音 を語 る会 1982「 八郎太郎 」『むか しっ こJ
l pp13-14
奈良国立文化財研究所 1990「 暦年標準 パ ター ンを応用 した研究J『 年輪
に歴史を読む 一 日本 における古年輪学 の成立』奈良文化財研究所学報
48 pp100-101
小形信夫 1976『 陸中の伝説』第一法規出版 ppl 187
大池昭二 1972「 十和田火山東麓 における完新世テフラの編年J『 第四紀研
多
:』 11-4.pp228-235
大池昭二 1976「 十和田湖の湖底谷」『十和田科学博物館』2.pp65 73
小野映介・片岡香子・ 海津正倫・里口保文2012「 十和国火山AD915噴 火後
のラハールが及ぼ した津軽平野中部の堆積環境への影響」『第四紀研究』
51-6 pp317-330
小野映介・ 片岡香子・ 海津正倫・ 里口保文・ 宮本真 二2013「 十三盛遺跡
の地形・ 地質」『十三盛遺跡』青森県教育委員会 .pp18 22
大河内孝之2008「 年輪年代調査」
『 胡桃館遺跡埋没建物部材調査報告書』
北秋田市教育委員会 pp66 68
坂本吉加 1996『 津軽 の伝説3』 北方新社 .pp1 229
佐々木孝二 1990「 北奥 の民間信仰 と伝承J『 伝承文学論 と北奥羽の伝承文
学』北方新社 pp216 244
笹森一朗・ 工藤忍・ 斉藤慶吏2009『 前川遺跡』青森県教育委員会394p
柴正敏 2009「 田舎館村前川遺跡に産出する火山ガラスについてJ『 前川遺
跡』第二分冊 青森県教育委員会 pp19 24
白井哲之 1966「 米代川流域における含浮石質段丘砂礫層に関する地形学
的研究J『 地理学評論J3912802819
白鳥良-1980「 多賀城跡出土土器の変遷」『研究紀要』VH宮 城県多賀城
跡研究所 pp1 38
鈴木和子・ 佐藤智生2013『 十三盛遺跡』青森県教育委員会 269p
田口勝一郎 1987『 図説秋田県の歴史』pp63 67
高橋学2006「 十和田火山 とシラス洪水がもたらしたものJ『 十和田湖が語
る古代北奥の謎』校倉書房 .ppH 27
戸川安章 1975『 羽前の伝説』第一法規出版 .ppl 178
山田一郎・ 井上克弘 1990「 東北地方を覆 う古代の珪長質テフラ“十和田―
大湯浮石 "の 同定」『第四紀研究』29 2 pp121 130
′θθ