週 報報

Since 1947.8.1. 創立67周年
〒470-0111
愛知県日進市米野木町南山983-16
(愛知牧場内)
牧 師 村山盛芳
伝道師 内山友也
TEL 0561-73-6781 FAX 0561-76-3005
教会メールアドレス [email protected]
HP
www.mb.ccnw.ne.jp/minamiyama/
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マタイ福音書20章26~27節
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南山教会
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日本キリスト教団
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編
みなみやま
先週の説教より
「もう泣かなくてもよい」
ルカによる福音書7章11~17節
イエスは息子を失った一人の女性と出会いま
す。息子は彼女の「一人息子」で、彼女は「やも
め」だったと紹介されています。ユダヤ社会は男
性中心で、女性や子どもは、夫であり父親である
成人男性に守られていなければ生きていくのが困
難でした。彼女が頼るべき相手は息子しかいない
のに死んでしまい、彼女は絶望のどん底に突き落
とされました。
「見る」「憐れに思う」「近づく」は、10章の
「善いサマリア人」や、15章の「放蕩息子」の中
にもほぼ同じ内容で登場します。「憐れに思う」
は、目の前の人の苦しみを見た時に、自分のはら
わたが揺さぶられる、ということです。ルカ福音
書の愛するとは、放蕩息子のたとえに示された父
である神の愛であり、今日の物語に示されたイエ
スの愛であり、善いサマリア人で示されているよ
うな、わたしたち一人一人に求められている愛な
のです。
イエスは、棺にすがりつかんばかりにして泣き
叫んでいる母親に向かって『もう泣かなくともよ
い。』と言われました。この言葉のニュアンス
は、「私が、泣かなくてもよい状況にしてあげよ
う。」ということです。「そして、近づいて棺に
手を触れられると」は、当時の常識では、驚くべ
き行為です。宗教的な常識として、死は汚れと結
び付いており、死体に触る者も汚れるから、触っ
てはいけないのです。しかし、イエスはわざわざ
棺に手をかけます。この青年は、汚れた所に行っ
てしまいもう触れることが許されなくなったので
はない。もしも人間の死に汚れがあるのならば、
それは全て私が引き受けて、十字架に全ての罪汚
れを処分しよう。常識もタブーもものともせず
に、イエス・キリストは介入します。
この物語は、イエスの愛に触れた人が絶望と死の
暗闇から立ち上がるという、来るべきメシアの時代
の始まりを示しています。わたしたちも今日、イエ
スによって始まったこの新しい時代を生きるよう
招かれているのです。
(村山盛芳)
聖 讃
美
書 歌
週
No.2358
後 祝 頌 献 讃 今 祈 説 信 讃 祈
仰 美
教 告 歌 祷
白
7月12日
ま高
美 週
ま齢
奏
祷
栄
金
歌 の 祷
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2015年