ワルシャワ - 出版文化国際交流会

第 53 回ワルシャワ国際ブックフェア
名 称
53rd Warsaw International Book Fair
会 期
2008 年 5 月 15 日 ( 木 ) ~ 18 日 ( 日 )
会 場
Palace of Culture and Science( 文化科学宮殿 )
展示面積
3,300㎡
主 催
ARS POLONA S.A.
出 展 数
600 社以上 ( 約 240 ブース )
参 加 国
30 カ国 / 地域
参 加 国
アメリカ、イギリス、インド、ウクライナ、チェコ、台湾、ドイツ、
フランス、ルーマニア、ロシア、日本など
ゲスト国
イスラエル
入 場 者
約 45,000 人
報告 : 落合 祥堯 [ 大阪大学出版会 編集部 ]
5 月 13 日 ( 火 ) ワルシャワ到着
ドイツのフランクフルト空港から 1 時間
半の飛行、ポーランドはどこまでも平野が
広がっていた。左前方にワルシャワの町が
見え、開会 2 日前の夕方、ワルシャワ・オ
ケンチェ国際空港着 ( 時差 8 時間 )、日本大
使館の田島晃さんが迎えにきてくれていた。
車で 20 分、会場になる文化科学宮殿を下
見する。スターリン時代にソ連がワルシャ
ワ市民への贈り物として建てた巨大建築物
で、37 階 建 て、 総 部 屋 数 3,200 と い う。
( 会場の文化科学宮殿 )
市内のどこからでも目につき、威風堂々と聳え立っている。回廊式に連なる展示室は、天井が高
く広い。この両側にブースが並ぶのだ。いまは閑散として薄暗い。
ホテル (Hotel Campanile) に荷物を置いたあと、近くのレストランで田島さんの説明を聞き、
明日からの仕事の打ち合わせを行う。
ワルシャワ・ブックフェアに日本が国際交流基金 (The Japan Foundation) と出版文化国際交流
会 (PACE) の共催を得て参加するのは 4 年ぶりだという。実は去年も参加したのだが、それは大
使館が独自に、ポーランドで出版されている日本関連書籍を出版社の好意で貸してもらって出展
ポーランド 25
したブースで、出品点数は 100 冊ほどだった。今年は両団体の協力で、日本から 400 冊の本と
たくさんの資料を送ってもらい、人 ( つまり私 ) も呼んだ。去年の手ごたえをみて本格的に参加
することにしたという。日本・ポーランドのさまざまな分野の交流に日本大使館は熱心で、今度
のブックフェアはその一環として位置づけされているとのことである。
400 冊の本は日本で集めたものだが、日本から直接送られたのではなく、4 月にチェコで開か
れた 14 回プラハ国際図書展に展示された本がこちらに送られてきた。会期が終わったあと、何
冊かは日本大使館の広報文化センターで利用し、残りはしかるべきところに寄贈される。
雑談のなかで田島さんは、去年 2007 年に両国の国交回復 50 周年を祝い、ポーランド国民の
対日感情は大変良好であると言われた。大国に翻弄された歴史をもつポーランド人は、極東の小
国日本が日露戦争でロシアに勝ち、近代化を成し遂げたことで日本びいきが多いらしい。また、
ロシアの帝政時代に独立運動でシベリアに送られてそこに住みついたポーランド人政治犯の子弟
を、1920 年代初頭に日本赤十字が援助救済したことは今でも市民から感謝されており、そのお
返しに、阪神・淡路大震災の被災児童約 60 人をポーランドに招いて歓待したという ( 私はこの
事実を知らなかった )。 打ち合わせがすんだあと田島さんは、
「お疲れのところすみませんがもう一カ所付き合ってく
ださい」と言って、すぐ近くにある日本・ポーランド情報工科大学に案内してくれた。この大学
は日本の技術協力で建てられ、優秀な情報専門家が巣立っているという。日本の援助が実をあげ
ているのはうれしいことだ。
お別れしたのは 9 時近く、そろそろ夜が迫っていた ( これが白夜なのだ )。ホテルはワルシャ
ワ中央駅のひとつ西側の駅 (Warzawa Dchota) のすぐそばにあるのだが、この時間でまばらな人
通りは日本では考えられないことだ。
5 月 14 日 ( 水 ) ブースを作る。開会式出席
会場までゆっくり歩いて 20 分。トラムやバスを利用することもできる。文化宮殿とワルシャ
ワ中央駅は広場をはさんで隣接しているが、宮殿近辺は公園の緑に囲まれ、市民の憩いの場所に
なっている。
正面玄関や 1 階受け付けはフェアを知らせる大きな看板や案内板の設置中で、各ブースもたく
さんの男女が棚を作ったり本を運んだりしている。まだ人影の見えないブースもある。会場は 1
階と 4 階を占め、日本ブースは 4 階のセクター D・406 番、18㎡の広さ。午後 1 時に大使館の
浅野優さんはじめポーランド人職員とアテンダントが、本の入ったダンボールや備品を持って集
合。ここで 10 枚の出席者パスがそれぞれに配られる。各階に詰めている警備員がパスの提示を
求めるのだ。
いよいよ設営である。指揮は浅野さんと先輩職員のヤチェクさんがとる。去年の経験があるか
ら段取りが早い。正面に富士山や京都のポスターを配置し、写真集や美術書、伝統文化 ( 着物、
仏像、料理、生け花、武道など )、コミック類は目立つ場所に置く。あまり厳格に分野別に並べ
ることはない。コの字の壁面に仮設の本棚が設置され、真ん中の棚の正面と裏面にも本が置かれ、
26 ポーランド
来訪者は一巡できる。PACE と Japan Foundation、日本大使館の文字も目につき、見栄えのする
会場になった。
本は日本から送られた分と大使館が運んだのを合わせると 400 冊を越え、英文図書と日本語
図書は半々くらいだろうか。冊数で一番多いジャンルはコミック、伝統文化と写真集である。日
本語教材や広辞苑、ブリタニカもある。山本義隆氏の『一六世紀文化革命』上下が入っていた。
こ れ と 別 に、 折 り 紙 セ ッ ト や 各 種 カ タ ロ グ (Practical Guide to Publishing in Japan 2008、
Japanese Book News No.52, 54、An Introduction to Publishing in Japan、講談社インターナショ
ナル、タトル出版のリストなど ) が相当な分量で、ダンボールで十数個になる。
正面にテレビが据え付けられ、ビジット・ジャパン・キャンペーン広報用に作成された「Yokoso!
Japan」のビデオが、音量をしぼって放映されることになる。全国の風光明媚な観光地、四季の
祭りや日本料理、大都市の光景などを紹介し、日本という国の魅力を十分に PR した、工夫を凝
らした構成である ( このテレビは、翌日訪れた大使のサジェッションで、もっと大型のテレビと
入れ替わる )。
準備はおよそ 3 時間で終えた。ほかのブースでは、これから夜にかけて設営、というところも
あるようだ。私たちはこれで解散し、夜 7 時から 6 階のコンサートホールで開かれる開会式を
待つことにした。
開会式は正装の男女約 200 人が集まり、主催者 ARS POLONA S. A.(Foreign Trade Enterprise
とあるから書籍の輸出入販売会社なのだろう ) の社長、クゾフスキさんが開会のあいさつ、続い
て今年のゲスト国イスラエルの大使、ポーランド文化省次官、ポーランド出版協会会長のあいさ
つがあった。私には誰ひとりわからないが、この会場にはきっと、ポーランドと周辺の国々の名
だたる詩人や作家、絵本画家、有力な出版関係者が集まっているのだろう。ちなみに去年のゲス
ト国はウクライナであり、イスラエルは今年、建国 60 周年だそうである。
そのあと、ポップな感じのイスラエル民族舞踊のアトラクションがあり、レセプションになっ
た。これはイスラエル料理だろうと、一緒に参加した田島さんと浅野さんは言う。この豪華な宴
会はどこが負担しているのかなどわからないままに、珍しい料理とお酒を味わった。
ホテルまで送ってもらい、長い一日が終わった。夜もふけ、窓から見える人影もまばらである。
北の異国へ来た思いが強まる。
5 月 15 日 ( 木 ) 大使館公邸に出向く
朝 10 時からフェアが開かれた。今日は出版関係者を対象とし、一般市民の参加は明日からな
のだが、ブースを訪ねてくるお客は一般の方も多い。次々に人がやってくる。通りかかったから
ついでに覗くというよりも、
「日本」を訪ねてくる人のほうがだんぜん多かったと思う。以下、
4 日間の日本ブースでの出来事と感想。
・日本への関心が高いこと
予想していた以上に訪問客が多いのに本当に驚いた。一人もお客がいない時間はあまりなかっ
たのではないだろうか。どれくらいの人が訪れたか、見当がつかない。
ポーランド 27
・さまざまな動機と目的
印象的なシーンを見た。老夫婦が懐かし
そうに写真集を眺めていた。これまで日本
に 5 回行ったと言う。機会があればまた行
きたいと言う。日本と深い関係を持ってき
た方なのだろう。また、若い男女が高橋陽
一の「キャプテン翼」を飽きずに見ていた
こと。彼らはこのマンガから人生の意味を
吸収しているのかもしれない。
・ビジネスの話
( 写真集に見入る来場者 )
初日だからか、仕事にまつわる話もあった。日本の本を買いたいという相談には、講談社イン
ターナショナルのパンフや備え付けの資料類を渡した。本の輸入業者 (ARS POLONA S. A. もその
ひとつだろう ) に注文する方法もある。パリでは「ブックオフ」が日本の本をいい値段で売って
いたが、ワルシャワにこういう店はあるのだろうか。
困ったのは、自分の本 ( 分厚い化学書や写真集 ) を日本で翻訳して本にしてくれないか、とい
う相談だった。私はフランス語や英語の本の翻訳権を日本のエージェントを通して得た経験はあ
るが、これはその逆のケースである。ポーランドにも翻訳権契約のエージェントはあるだろう。
だが、日本のふさわしい出版社を探して合意を得るのは非常に難しい。こういう質問には的確な
答えは出せない。
日本大使から昼食会に招待されているので、昼過ぎにブースを抜け出し、大使館の車でワジェ
ンキ公園近くの公邸に出向く。途中、運転手のマチェイさんと英語で話した。彼は私が空港に
着いたときも出発するときも送り迎えしてくれ、展示の設営でもよく体を動かして働いていた。
30 台半ば、結婚している。ポーランドの男性は家庭を大事にし、仕事が終わるとまっすぐ家に
帰るという。1989 年の民主化のときの高揚はよく覚えているという。ワルシャワ女性は美しい
ので男性は幸せだと私が言うと苦笑いしていた。 大使は田邊隆一さん (61 歳 )、着任して 1 年 6 カ月だそうだが、ポーランド各地の日本企業の
工場や大学、文化行事を精力的に回ってこの国の理解に努め、また日本の技術協力や文化交流に
熱心である。
余暇には音楽や読書を楽しみ、
数カ国語を学び、マスコミのインタビューに応じ、ポー
ランド語でスピーチするなど、たいへんな文化人とお見受けした。今回のブックフェアには、田
邊大使のご尽力が大きかったのだ。本の話やポーランドの魅力など話題になり、おいしい日本料
理をご馳走になった。
再び文化宮殿に戻り、夜 7 時まで勤め、帰途、近くの empik 書店に立ち寄った。この書店は
地下 1 階から 3 階まであり、床面積はそんなに広くないが、全体にゆったりしていて開放され
た気分になる。1 階は CD や雑誌、
地図類、
2 階が人文書コーナーである。新書や文庫の棚がなかっ
たようなのだが、私の記憶違いだろうか。
ここで村上春樹の大きな棚を見つけた。ほとんどの彼の小説は訳されていて、ハードカバーと
ソフトカバーの 2 種類が並んでいる。日本以上の人気ではなかろうか。定価はレート換算では
28 ポーランド
日本と同じくらいなのだが、食料などほか
の物価は日本より安いところから考えると、
翻訳の本は相対的に高いと思う。ポーラン
ドの人口は 400 万人弱だから、初版部数も
少ないからなのか。座って読める椅子が置
かれ、店内にコーヒーショップがあり、児
童書コーナーには簡単な遊具が据えられて
いて、日本の書店に入ったときのあの本の
威圧感がない。現代史に関する本が比較的
多いと思った ( 後日出かけた traffic club 書
(empik 書店 )
店でも同じような印象を受けた )。
5 月 16 日 ( 金 ) 大使を迎えてリボン・カット
今日から一般の訪問客が訪れる。実質的な初日だ。
日本ブースでは朝 10 時半から、田邊大使が出席してオープニングのリボン・カットの式典が
行われた。大使と、
開会式であいさつしたクゾフスキ氏と私の 3 人が立ち会うことになっている。
アテンダントの人たちが、会場を歩く参会者に、式典に集まるように呼びかけている。
大使のあいさつはポーランド語で読み上
げられた。ついでグゾフスキ氏のあいさつ
が あ り、 ポ ー ラ ン ド 国 旗 を 表 す 赤 と 白 の
縦縞のリボンが鋏でカットされた ( 私はこ
んな晴れがましい場面は初めてで、なんと
も面はゆかった )。このイベントは、ブッ
クフェア事務局発行の翌日の 「Informator
TARGOWY」 2 号に、写真入りで大きく報
道された。
このとき、ワルシャワ大学日本学科で教
えているフシチャ先生が立ち寄ってくれた。
( 右からクゾフスキ氏、田邊大使、筆者 )
先生は日本へ何度も行ったことがあり、きれいな日本語で話される。PACE の横手さんから紹介
してもらい、ワルシャワについてから挨拶の電話をしておいたのだ。先生は私のスピーチも聞き
に来てくださった。フシチャ先生については後ほど記す。
この日も昨日にましてたくさんの訪問者があった。今日はブースに出入りする大使館職員とア
テンダントの諸君について記したい。ブースには館員 1 名とアテンダント 2 名、それに私の 4
人が常時詰めて対応の体制をとることになっている。3 日間一緒にいると、それぞれの意向や持
ち味が少しずつわかってくる。
到着のその日にいろいろと説明していただいた田島晃さんは二等書記官かつ広報文化センター
ポーランド 29
所長、私は田島さんに一番お世話になった。浅野優さんは専門調査員という肩書きで、中東欧の
国際政治を研究している。奥さんはポーランド女性で、かわいい男の子と奥さんのお母さんと一
緒にブースを訪れた。
ヤチェクさんは何年か大使館に勤める若手のリーダー格、冷静で一番日本語が上手だ。あと、
センターに勤務するハンナさん、田原聡子さん、運転手のマチェイさん。
アルバイトのアテンダント 4 人は全員がワルシャワ大学日本学科の学生か卒業生だ。日本学科
は近年競争率が非常に高く、去年は 25 倍だったという。日本語が上手で仕事熱心の優秀な若者
たちだ。私は英語力ももどかしく、
訪問客の対応は大部分彼らがしてくれた。この 10 人がローテー
ションを組んだ。
アテンダントのバシアさんは女子学生で、日本に留学の経験がある。何を勉強しているのか聞
いたら、北村透谷だと言い、町田市の自由民権資料館にも行ったことがあるという。こういう学
生がいてくれてうれしくなった。彼女とは合間をぬって、明治の思想家・小説家のことをいろい
ろ話した。マチェクさん ( 彼も日本に行ったことがある ) は織田信長を中心とする戦国期の日本
歴史を論文に書き、ボベルさんは日本のマンガやアニメを研究している。講演の資料用に日本か
ら持ってきた『アエラ』の「手塚治虫文化賞特集」を彼に上げることができてよかった。女子学
生のアニアさんは 2 年生で、まだ日本語がたどたどしい。
このような実力のある親日家の若者が次々に生まれているのだ。文化の伝播力や、教育の偉大
な力について考えずにいられない。
今日は終わってから文化宮殿前のマーケットを覗く。パンや肉製品が盛りだくさんに売られて
いて、中身が実質的で安い。70 年代にポーランドを訪れた友人が、「ポーランドはドル買いが横
行して暗くて物不足でサービスが悪くて・・・」と欠点を並べていたが、そのころと比べて経済
と暮らしは確実によくなっているのだ。民主化後の市場経済への復帰と 2004 年の EU 加盟が今
日の繁栄をもたらしたのだろうか。
明日は私のスピーチがある日。大使館の方々もこのイベントを重視していることが伝わってく
る。私は日本を発つ前にペイパーを用意していたのだが、この 3 日間の見聞を話のなかに織り
込もうと思いつき、夜遅くまでかけて書き直した。
5 月 17 日(土) 折り紙ワークショップと私のスピーチ
ウイークエンドの今日と明日は、子連れの家族や先生に引率された生徒たちや、若い男女で終
日賑わった
(入場料は、
大人 5 ズロチ、
子供 2 ズロチ、回数券 9 ズロチである (1 ズロチは約 40 円 ))。
朝 10 時半から折り紙の実演が始まる。講師はポーランド折り紙協会の青年、ピョートル・ク
リホフスキさん。ブースの前にテーブルと数脚の椅子を置き、目の前で作品が作られる。次々に
折られる鶴をはじめ何十もの精巧な作品を見ると、日本の発想や技能の独創性に改めてうたれる。
異国の人をひきつけるに十分だ。たちまちテーブルに人だかりができ、講師をまねて折り始める。
このワークショップは休憩をはさんで 3 時まで続いた。
午後 2 時から 1 階のゲーテホールで私の講演が始まる。開催を知らせるチラシが先ほどから
30 ポーランド
参観者に配られている。通訳は岡崎アンナ
さんという若い女性が引き受けてくれる。
彼女のお父さんは日本学科の岡崎恒夫先生、
お母さんはポーランド女性で、完全なバイ
リンガルだ。事前に簡単な打ち合わせをし
たが、逐語訳をするので文章を短く切って
ほしい、というのが唯一の注文だった。
出席者は約 30 人、田邊大使夫妻、ワル
シャワ大学で日本文学を教えているメラノ
ヴィッチ先生 ( 元日本学科長 )、フシチャ先
( 折り紙ワークショップ )
生、岡崎先生、日本大使館公使参事官の白石和子さん、日・ポの関係者や学生たち、参観者らし
き人も見える。業界関係者はいなかったと思える。
司会は田島晃さんがポーランド語で行った。田邊大使のポーランド語の挨拶はつぎのとおり。
「本日は、図書見本市に日本より来訪された大阪大学出版会・落合祥堯氏による講演会にご参
加いただき、心よりお礼申し上げます。落合氏は長年日本の出版社で勤務をされており、日本の
出版事情をポーランドの皆様に知っていただけることと思います。
昨年は日本・ポーランド国交回復 50 周年を盛大に祝いました。そして明年は、1919 年の日・
ポ国交樹立から数えて 90 周年を迎えます。この 90 年間は、日・ポ両国民の間の善意と友好の
歴史であったといえます。また近年、日・ポ関係は経済分野でもますます緊密化しております。
とくに日系企業のポーランド進出は著しく、現在、ポーランドには日系企業約 200 社(うち 60
社は製造工場)が展開しております。ポーランドは欧州の製造拠点になりつつあるといえましょ
う。日本とポーランドの関係が更に緊密化してゆくと確信しております。
昨年も参加しましたが、今回の図書見本市では、当館、国際交流基金、出版文化国際交流会共
催で日本ブースを出展しております。同ブースでは折り紙、書道のワークショップを開催いたし
ます。また本年は、日本文学の最高傑作であり、世界最古の長編小説とされている『源氏物語』
千年紀です。源氏物語を含めた日本ブースの各種展示とワークショップを通じて、ポーランドの
皆様にとって日本がより身近になることを願っております。ポーランドで出版されている日本関
係の図書がふえつつあることをうれしく思います。これら日本関連書籍リストもございますので、
ご覧になっていただきたいと思います。
最後に、本年の図書見本市の成功と、日本とポーランドの一層の友好関係の発展を期待しまし
て私の挨拶とさせていただきます。
」
私の話のほとんどは、用意したペイパーを読み上げるだけだった。アンナさんは、私が区切る
と間髪を入れず通訳してくれた。これまで何度も重要な会議に立ち会った、経験を積んだ通訳者
なのだ。定められた 1 時間のうち、
30 分は私の話、20 分はアンナさん、10 分は挨拶と質問といっ
たところ。
質問は 3 つあったが、そのうちのひとつ、
「あなたはどれだけポーランド文学を知っているか」
という意表をついた質問には当惑し赤面した。じつは『クオ・ヴァディス』くらいしか知らず、
ポーランド 31
現代文学はほとんど読んでないのだ ( 私は日本で工藤幸雄訳の短編を一冊読んだのだが、作者名
を思い出せなかった )。
簡単に私のペイパーの要約を記します。
「若いころ、アンジェイ・ワイダ監督の映画『地下水道』『灰とダイヤモンド』『大理石の男』
を見て深い印象をもちました。
「連帯」の運動もありました。ポーランドが百年に及ぶ外国支配
や戦争の惨禍から立ち直って今日の繁栄を築いたことに感動します。
私は前に勤めた京都の人文書院で、ポーランドに関する本を 2 冊出しました。キュリー夫人と
娘イレーヌの往復書簡集と、
『ヨーロッパ統合のゆくえ』です。京都はクラクフと同じ、古い伝
統のある町です。EU は人類が目ざすべきお手本になるのではないかと私は思っています。
日本では娯楽が溢れ、ビデオやパソコン、ケータイが出回り、本を読む時間が減って、読書離
れが進んでいます。IT の機能は驚異的かつ便利そのものですが、あくまで事実の情報を教えて
くれる道具です。その情報が人間にとって何を意味するかは自分で考えねばなりません。そして
読書ほど私たちに考える力を与えてくれるものはありません。
私たち出版人は、よい本を作るために努力し、「本を読む喜び」を若者に伝えていくことが使
命だと思っています。
私はこの 3 日間日本ブースに詰めていて、たくさんのポーランド市民が日本に関心を持ってい
ること、日本の伝統文化や文学、マンガやアニメがたくさんこの国に紹介されていることを知り
ました ( 手塚治虫と宮崎駿の活躍に触れる )。しかし日本ではポーランドについてこれほどの関
心の高さはないと言わざるをえません。
このギャップは、長い間ポーランドの情報が私たちに入っ
てこなかったことが原因ではないかと思われます。
今後、この国の魅力がもっと日本に知られるようになれば、たくさんの観光客やビジネスマン、
研究者が訪れ、この国を紹介する本も日本で増えていくことでしょう。私たち出版人も、出版文
化を通じて両国の交流に貢献したいと願います。
」
スピーチのあと、2,3 の人が、
「よかった、勉強になった」と言ってくれた。「日本の出版事情」
についてはあまり触れられなかったが、
国際交流基金と出版文化国際交流会が発行した「Practical
Guide to Publishing in Japan 2008」を配布してもらい、それを読んでくれるようにお願いした。
もうひとつ特筆したいことがある。このブックフェアに間に合わせるべく,大使館の皆さんが
苦労して作った冊子 (「Biuletyn Informacyjny」) が会場で配られたのだ。この冊子には、2000
年から 2008 年の 8 年間にポーランドで出版された日本関係の書物のリスト 167 冊がポーラン
ド語で記載されている。
その内訳を記すと、
文学 35、
日本語関係 18、
日本論・日本文化全般 98、武道 16 となっており ( コ
ミックは除いたようだ )、原著者名 ( 日本の著者とポーランドの著者 )、翻訳者名、出版社名、刊
行年と刊行都市、定価が記されている。作家ではやはり村上春樹が筆頭で、三島由紀夫、大江健
三郎、島田雅彦の名前も見える。
私の発言はこの冊子の記述がひとつの根拠になっているのだが、ポーランドにおける日本への
関心の高さや、日本語の翻訳者、日本研究者の層の厚さが理解できる。日本で同様の調査はある
のだろうか。日本大使館には引き続き、続編として、戦前からの日本関係の書物のリスト作成を
32 ポーランド
お願いしたい。ポーランド研究者への貴重な資料になるだろう。
「大役」を果たした開放感も手伝い、夕方、文化宮殿 30 階にある展望台に上った (20 ズロチ )。
吹きさらしの回廊になっていて、ワルシャワの町が三百六十度見渡せる。ヴィスワ川が大きく蛇
行し、復興なった旧市街が見える。薄日が射し、微風が顔に当たって気持ちいい。これがポーラ
ンドなのだ。破壊されたワルシャワは過去のものだ。
実はこの日の昼前、私は一人の中年の男
性と囲碁をプレイした。前日ふらっとブー
スを訪れ、碁石と碁盤を持ってくるのでぜ
ひ一局やろうと言う。彼はワルシャワの囲
碁協会の会員で、実力は 8 級だという。多
少の躊躇はあったがこれも交流の一環だと
思い、今日ブースに来てもらったのだ。私
は 3 級くらいなので 4 目置いてもらって
打ったが、無理をしたので白の大石が死ん
でしまい完敗だった。彼は私のスピーチを
聞きにきてくれた。
( 囲碁で一局、ブースでの一コマ )
5 月 18 日(日) 最終日、書道のワークショップ
フェア最終の日、日本ブースでは書道の
実演が催された。講師はこの国に暮らす中
安善実さんで、書道センター「むらさき」
を主催している。和服姿がよく似合う。ブー
スの前に敷物を敷き机が置かれ、善実さん
は正座して端整な字を半紙に根気よく書き
続け、希望者にプレゼントした。たちまち
人だかりの行列ができる。
折り紙と同様、書道も外国人を引きつけ
る。紙、筆、墨、そして書体。書道は東ア
( 書道のワークショップ )
ジアのすぐれたアートだ。
こういうイベントのもつ力は大きい。このとき日本ブースはクライマッ
クスに達したようだ。
これまでフェア全体の模様には触れなかったが、最後にまとめておきたい。私は、4 日間ブー
スに詰めて対応することが自分の務めだと思い ( 事実そうなのだが )、なるべく留まっていたの
だが、ときどき抜け出してほかのブースを見て回った。PUF( フランス大学出版 ) はフロアの片
側全体を占めるような大きな規模で、力の入れ方が違っていた。日本ブースの目の前の MUZA
社は文学系の出版社なのだろうか、村上春樹の大きなパネルを掲げていた。クロアチアのブース
はついに開かれなかった。ほとんどのブースが本を販売しているようだ。グッズやアクセサリー
ポーランド 33
を売っている場所もあった。児童書や写真
集は概して堅牢で美しい。ポーランドのデ
ザインや印刷・製本の技術水準は高いと思っ
た。会場は複雑に入り組んでいて、出口が
なかなか見つからず、迷路を歩いているよ
うな気分にとらわれた。最後まで会場の全
体像がつかめなかった。
先 に ふ れ た 「Informator TARGOWY」 は
4 日間毎日発行されていて、事務局体制は
しっかりしている。この速報は A4 判 8 ペー
(MUZA 社、右上に "Murakami" のパネル )
ジのポーランド語だが、最後の 1 ページは英語で要約が書かれている。この速報と、帰国後メー
ルで問い合わせた最終結果を読むと、会期中に数百人の有名な作家が出席し ( アンジェイ・ワイ
ダも出席したらしい )、数十のパネルディスカッションや会議が開かれ、各種の賞の授賞式が行
われ、数十万冊が並べられたとある。私もサイン会の光景を何カ所も見かけた。とくに興味深く
実際的価値をもつのは「本とインターネットの共生」という標語で、これを掲げたイベントがい
くつも開かれたらしい。この国でも IT 化がすごい勢いで進んでいるのだろう。
本の売買も活発だった。民間の書店や出版社は、高い経費を払って参加したからには ( 参加費、
運送費、交通費、宿泊費・・・)、それに見合うだけの収入が期待されるのだろう (25%割引もあっ
たらしい )。去年の売上高は過去最高で、25 億ズロチ ( 約 1 千億円 ) とのこと。
最終日の会場は 5 時で終わり、すぐ後片付けになった。書籍はダンボール 17,8 個に納められ、
一旦日本大使館に運ばれる。5 日間の行事が終わり、宴のあとの虚脱感が残る。大使館に帰るみ
んなと握手してお別れした。
400 冊の日本を紹介する書籍、各種のパンフレット、親切な対応、リボン・カットの儀式、ビ
デオの放映、ふたつのワークショップ、私の講演・・・さまざまな工夫がこらされ、訪れた人た
ちも満足したに違いない。日本大使館の取り組みは相当のものだった。その場で訳してもらった
アンケートの書き込みでも、来場者の満足しているさまがうかがわれた ( アンケートは 66 枚が
集まった。書いてくれたお礼にボールペンやファイルを進呈した )。
日本ブースについての感想を言えば、今回の展示会の主たる目的は、日本の図書の紹介を通し
て、ポーランドの人びとに日本を理解し関心を持ってもらうこと、そして両国の友好を深めるこ
とにある。その目的はかなりの程度かなえられたのではないだろうか。展示の本を販売しないの
はやむをえないことだと思う。欲を言えば、もっと人文系の本を並べてほしかった。
5 月 19 日 ( 月 ) フシチャ先生と
私はワルシャワにくる前、PACE の石川晴彦さんと横手多仁男さんに、会期が終わったあと 2
日間この地に止まりたいとお願いしていた。会期中はほとんどどこも見ていなかったので、ゆっ
くりワルシャワの町を歩きたかった。以下、フシチャ先生とのいきさつについて記します。
34 ポーランド
19 日 ( 月 ) 朝、フシチャ先生がホテルに迎えにきてくれ、バスでまっすぐワルシャワ大学に
向かい、構内を案内していただいた。大学は旧市街のはずれ、コペルニクス像と並び、聖十字架
教会の向かいにある。このへん一帯は、ドイツ軍の占領下、ワルシャワ市民の一斉蜂起のさいの
猛攻撃で完全に破壊された。戦後、古い写真をもとに、ひび割れひとつまで昔のままに再建され
たことはワルシャワ市民の誇りだ。
先生の専門は東アジアとバルト諸国の言語学で、ポーランド語―日本語の辞書を編纂中とい
う。日本学科の教室や先生の研究室を見せていただき、大学図書館を見て回った。最近建てられ
た、3 階建ての採光のよい大きな部屋で、開架式になっている。私たちは学生が勉強しているわ
きを通って各階を歩いた。ポーランド語のほかにドイツ語、ロシア語、英語、チェコ語、バルト
3 国の言語など、多種の蔵書が備わっているという。屋上には草花が植えられ、散歩道がつくら
れている。ヴィスワ川がすぐ近くを流れている。
聖アンナ教会ではパイプオルガンによる教会音楽のライブを聴くことができた。キュリー夫人
博物館は改築中で閉館、蜂起記念碑からサスキ公園に回った。旧市街の道路は舗装中だった。歩
きながら、戦争中から戦後にいたるポーランドの複雑な歴史をお聞きした。1970 年前後に、日
本学科で工藤幸雄先生に習ったのはしあわせでした、と言われたのが印象に残る。工藤さんは今
も日本でご健在だそうだ。
昼過ぎ、フシチャ先生とお別れした。私は最高の案内人に恵まれたことになる。
最後になりましたが、私を推薦してくださった大学出版部協会 (AJUP) の山口雅己理事長と国
際部会の皆様にお礼申し上げます。
ポーランド 35