Stella Matutina

夏季号
Stella Matutina
暁星中学高等学校
平成 27 年 7 月 19 日
Stella Matutina ラテン語で「暁星」の意味。頭文字のS.M.はセーター、鞄に記されています。
2015 初金
「ショパンと私」
ピアニスト
崔 善愛(チェ・ソンエ)さん
今年度の宗教部は「勇気」をテーマに行事を組み立てていこう
と考えています。
自分の周りにいる「弱い人」「困っている人」のそばによりそう
「勇気」です。
今年度初めての初金では、ピアニストの崔 善愛(チェ・ソンエ)さ
んに講演をお願いしました。崔さんは、演奏をまじえ、「ショパンと私」
という題で講演をしてくださいました。
講演内容を掲載いたします。
(崔さんの紹介の後に、ショパン「幻想夜想曲」の演奏)
今、演奏したのはフレデリック・ショパンの「幻想夜
想曲」です。ショパンの曲はピアノを習う人の目標です。
音楽大学を目指す人は、ショパンの 24 曲の練習曲を弾け
るようになってから、受験するのです。その中から課題
の曲が選ばれるのが音楽大学のスタイルです。そんなシ
ョパンの話をしながら、自分のことも紹介させていただ
きます。
ショパンはポーランドに生まれましたが、その時ポー
ランドという国は消滅していました。18 世紀後半からポ
ーランドはロシア、プロイセン、オーストリアによって
侵略され、植民地支配を受け、奪われていました。ショ
パンは生まれたとき、自分がポーランド人であるという
ことを自覚はしていましたが、法的にはロシアのパスポ
ートを持たされていました。彼は、そのことについてさ
して疑問を持っていなかったようです。やがて、16 歳に
なったとき、高校で歴史の授業を受けて初めて彼は、自
分の国が奪われていることに気づきます。なぜ、そうい
行
7・8月
事
うことになった
か、彼自身知れ
ば知るほど抵抗
が芽生えてきま
す。ショパン自
身は、音楽家と
しては、ポーラ
ンドのモーツア
ルトだと讃えら
れて、一身にポ
ーランドの人たちの期待を背負って 20 歳の時にワルシ
ャワ大学を卒業しました。大学を出るとき「自分は、こ
れからどうしようか」と考えました。心の中では、
「ポー
ランドを取り戻すため音楽なんかしていていいのか」と
いうところで心は揺れていました。そんな時ショパンの
親友が「武器を持って戦うことだけが国に仕えることで
はないですよ。君はコンサートで世界中にポーランドの
悲しみを紹介できる」と言いました。親友の思いだけで
はなく、当時ワルシャワに住んでいた人々は、ショパン
の音楽を聴くたびにポーランドの魂を感じ、ショパンこ
そがポーランドの響きを世界中に伝えてくれると期待し、
彼をワルシャワから世界に送り出したのです。
その期待を背負って国を離れますが、ウィーンにでは、
なかなかうまくいきませんでした。ウィーンは、ポーラ
ンドを侵略していた側ですから、彼も大変居心地の悪い
思いをして、父親の国、フランスを目指します。途中、2
週間ばかり滞在したシュツットガルトという町で、ワル
シャワで戦争があり、ロシア軍に対してワルシャワの
人々が武器を持ち戦ったが敗れたという新聞記事を見ま
した。そこで彼は絶望して「革命」というエテュードを
作曲しました。
(革命の演奏)
この曲を私が初めて弾いたとき、なぜ「革命」という
予
定
9月
10月
6
月
期末試験(~7/9)
5
土
始業式(10:00)
3
土
エトワール祭(~10/4)
10
金
自宅学習期間(~7/18)
7
月
校内実力テスト(~9/8)
5
月
代休
14
18
火
土
答案返却
終業式
18
26
金
金
高3外部テスト(~9/19)
中1防災体験
9
20
金
火
高3外部模試
中間試験(~10/23)
19
日
中1校外学習(~8/22)
24
土
自宅学習
21
火
英語ホームステイ(~8/10)
26
日
仏語ホームステイ(~8/21)
1
木
都制記念日
27
火
高1学年ミサ、高2外部模
試、中2・3学力推移調査
24
月
夏期講習(~8/29)
2
金
初金、文化祭準備
30
金
保護者会
10月
タイトルがついているのかと不思議に思いました。
「革命」
というタイトルに納得したのは、私がアメリカに留学し
た時、実は、日本にもう二度と帰れないという状況にあ
ったとき、ショパンが書き残した「ショパンの手紙」と
いう 300 通の手紙を読んだ時のことでした。彼の手紙の
中に「もう僕は二度とこの国にも戻ってこれない」とい
う一節がありました。でも、その時はまだ、昔の遠い国
の話としてしか自分に響いてきませんでした。
私は、1959 年兵庫県で生まれ、北九州に 1 歳の時に移
りました。父親が教会の牧師でした。日本で生まれ、育
ち、日本の学校に行き、日本語しか話せません。しかし、
国籍だけは韓国。このギャップに大変悩み続けました。
今も、時に、悩むというよりどうして私は韓国語を話せ
ないんだろうと思います。国籍も韓国でパスポートも緑
色で法的にも外国人です。いろいろな制約があります。
しかし、私は音楽は世界共通だという認識で、ピアノを
弾いていれば国籍のことやいろいろな壁のことを忘れら
れると信じていました。
私たちは外国人登録証というものを常日頃持ってなく
てはいけないのですが、そこに指紋押捺欄という欄があ
ります。3 年に一度、区役所で指紋を押さなければいけ
ない制度が当時ありました。20 歳になった私は、決心し
て「まるで犯罪者のような扱いを受けている気がするの
で、指紋を押したくない」と言いました。私は、法的に
は、押捺違反、犯罪者になりました。私は、教会で生ま
れ、育っていますから、罪や罪に対する許しを考える環
境で育ってきました。その中で「何故、私たちだけが指
2015
学校行事特集
応援団長インタビュー
総合優勝 黄組(A)
6A 柴田 健一
運動会が終わり、日常生活の中で興奮がだいぶ落ち着
いてきたいま、改めて考えると思うことがあるので、述
べていきたいと思う。
僕は、学校生活最後の運動会は、優勝で締めくくりた
いと思っていたものの、団長になるつもりは毛頭なかっ
た。実際、自分自身何をすればよいのかわからなかった。
今でも、団長としてはっきり何かをしたといえる自信は
ない。しかし、団長になることで、人から感謝されるこ
との喜びを味わうことができたのは快感だった。なによ
りも、全員で勝利をつかみ取ることができたのが嬉しか
った。
紋を取られるのか」と考えたとき、そのことによって幼
い子供たちが傷ついたり、悩んだりするのを見た中で、
私たちが声を上げなければ、これからも
ずっと指紋を取られ続けるのかという思いで拒否しまし
た。それが 1981 年でした。結果、「日本を出たら、旅行
で隣の国に行っても、もう 2 度と日本に入れない、再入
国が不許可になりました。」友達もいて、先生もいて、日
本で育ったのに、もう日本に戻れないなんて私には考え
られないことでした。
「指紋を押せば、許可しますよ」と
言われて 3 年間悩みました。悩んだ結果、日本に帰って
こられないかもしれないけれど、アメリカへの留学を決
意しました。それが 25 歳の時でした。アメリカで勉強し
ているとき、
「もう日本は戻れないかもしれない」と思い
ながら、ショパンの手紙に出会いました。ショパンが「も
う自分の国に帰れない気がする」という言葉で、
「私だけ
じゃなかった、世界には戦争や紛争、侵略によって自分
の国を離れなければいけない人が多くいる。
」と気づきま
した。
私は今、日本で生活しています。日本を出ることで見
えたこともたくさんありました。それは、
「私たち一人ひ
とり、何か自分だけが抱え込んでしまっている、自分だ
けがなぜこんな苦労を背負っているかと思うとき、人は、
みんな他の人には言わないけれど、心の底に悲しみを抱
えているんだ」ということです。
(ショパン ノクターンの演奏)
※講演内容を紙面の都合上一部抜粋さ
せていただきました。
運動会というものは、クラスが一つになることができ
る数少ない機会であると思う。棒倒しや騎馬戦は、まさ
にその典型だ。一人が強ければよいのではなく、全員が
強くなければ、勝つことはできない。だからこそ、勝て
ば、全員で喜び、負ければ全員で悔しがる。結果がどう
であれ、全員でその気持ちを共有することが大切である
と思う。
来年、再来年と続く運動会も、全力で競技に取り組む
ことで、よりよい運動会になることを願っている。
合戦総合優勝
6C 山本 拓郎
僕ら 6 年 C 組は今年は絶対に負けたくないと全員が思
っていた。それはなぜかというと、去年の運動会で反則
負けをしたからだ。その判定に僕らは最後まで納得でき
なかった。そして、今年の運動会の一回戦、僕らの作戦
通りに進み、味方の騎馬は一つしかやられずに、敵は大
将のみになった。勝負は決まったかのように思えたのだ
が、敵の大将が引っ張られて落とされたように見えたた
め審議になった。その時僕らは去年のこともあるので何
かしないとまずいと思ったのか、全員で正座して審判を
待った。それが良かったのかわからないが、僕たちの勝
ちになり勢いに乗って二回戦も大差をつけて勝った。今
思うと、あの正座は素晴らしく美しかったと思う。
1C 平野 圭祐
中学一年生の運動会、それは、中学で初めて運動会で
ある。ぼくたちは、特にムカデ競争という競技で一位に
なるために、体育の授業で精いっぱい頑張った。僕たち
が練習できるのは、体育の授業だけ。他のところでは、
ほとんど練習できなかったが、週 2 回の体育の授業を集
中して大切にした。毎日毎日、タイムを計って更新しよ
うと頑張りました。結果は、中学一年生の中では一位、
中学生の中では二位(ハンデなし)という皆おどろきの
記録を出すことができました。来年も、再来年もムカデ
競争はあるので、ぜひ、見に来てください。
北海道修学旅行報告
高2 6月15日(月)
~19日(金)
今回の修学旅行は自分たちにとって最後の宿泊行事であ
った。楽しみな反面、
“最後”ということに少し寂しさも
感じた。
自分自身、北海道は二度目だったのだが、今回はまた
別の表情を見ることができた。特にアイヌ民族の施設で
見た「イヨマンテ」という儀式は、一見滑稽なものに思
えるのだが、自らが頂いたクマの命を神のもとへ送り返
すという独特の意味があり、そこに民族文化の違いを感
じた。その後のアイヌの子孫の方の話がとても印象に残
っている。その方はアイヌであることを誇りに思ってい
て、未だに差別がなくならないことに悲しみを感じると
いう。確かに、日本人は民族意識が低い割には他者を排
斥する傾向がある。これからは他者を尊重し互いに認め
合うべきだと僕は思うようになった。
また、トラピスト修道院では現実世界と引き離された
空間で、本来人間があるべき姿の生活を営んでいる人々
と接した。一見辛そうな生活でも、彼らにとっては日常
であるという。キリスト教の精神を肌で感じることがで
き、とても貴重な体験を持つことができた。
今回の修学旅行を通して、ものごとを見る視野が広が
った気がする。様々な対応を求められる現代社会におい
て、大人になって、この経験が活きてくるに違いない。
それくらい貴重な5日間だったと感じている。
5A 岩瀬 東吾
北海道での5日間が一貫して晴天だったのは本当に幸
運であった。心動かされる素晴らしい景色に出会えたか
らである。
行程の3日目はニセコでのアウトドア体験で、ぼくは
川を下るラフティングをやった。緩やかな川を下ってい
く途中、川に飛び込んで泳いで、大袈裟だが童心に帰る
という言葉の意味が分かる時間であった。この川は蝦夷
富士とも称される羊蹄山の麓を流れており、川を下る途
中で見た山の様子が今こうして書いている中でも鮮明に
思い出せる。
保
護
者
・家
ム応
カ援
デで
競生
争徒
はも
見競
応技
えに
が力
あ
りが
ま入
しり
たま
。す
。
1
年
生
の
ムカデ競争総合第 2 位
族
席
を
中
央
に
設
け
ま
し
た
。
家
族
の
コースの中でもカーブを描いている箇所で、曲がって
いる最中は木々や茂みしか前方に見えない。しかし曲が
りきると視界が開けてきて川岸の茂みの上に羊蹄山の上
半分が見えるようになるのだ。六月の羊蹄山は植物は増
えていく中でも雪が残っていて、緑の中に残る白い残雪
が非常にきれいだった。
これぞ北海道という景色が見られたのが4日目バスで
移動していた時である。見渡せば野菜が植わっている畑、
畑、そして畑。ある建物と言えば農家の家とサイロくら
いという景色が道路の両側に遠く向こうの山に至るまで
続いているのだ。この広さにはさすがに茫然となった。
バスガイドが言っていた「北海道はでっかいどう」とい
うのは伊達ではなかった。
北海道で見た景色はもう一度見に行きたいと強く思わ
せるものであった。修学旅行がもうないのは本当に残念
だが、この修学旅行で得たものはこれから大事にしてい
きたいと思うものばかりとなった。
5B 森川 瞭介
熱
を
出
す
生
徒
が
多
か
っ
た
。
眠
時
間
を
削
る
ほ
ど
楽
し
か
っ
た
の
か
、
今
年
は
日
頃
運
動
で
鍛
え
て
い
る
は
ず
の
5
年
生
も
、
睡
羊
蹄
山
を
臨
み
尻
別
川
で
ラ
フ
テ
ィ
ン
グ
フランス語フェスティバル
今年度の北海道修学旅行
では、暁星の卒業生が函館
のトラピスト修道院の修道
院長を昔なさっていたとい
うご縁で、普段は入れない、
禁域での祈りの時間を持たせ
ていただいた。
静かなお祈り、修道院で
の生活の説明をしていただき
パイプオルガンの演奏も
特別に聞かせていただいた。
2015 年 6 月 7 日(日)
暁星学園講堂
今年も6月7日フランス語フェ
スティバルが開催された。今年は、
久々に暁星高等学校に雙葉、白百
合、ドミニコ、カリタスの生徒が
集まった。暁星高等学校3年生は、
田中一輝君、田中聖君がスピーチ
で参加し、高校2年生が演劇を発
表した。
6月15日から19日の5日間、私たちは北海道へ
修学旅行に行った。そんな楽しい時間は、あっという
間で、とうとう最後の日が来た。私たちはトラピスト
修道院を訪問した。僕はまず、建物を見て、予想して
いたものと違うことに驚いた。
もっと華やかで大きい
のかと思っていたが、大きくもなく、小さくもなかっ
た。どちらかというと質素で何もなかった。僕は、中
の様子をもっと知りたかったので、
わざとトイレに行
った。トイレに行く途中に部屋の中をのぞいてみる
と、とても衝撃を受けた。ベットと机以外何もないの
だ。娯楽といったものは全くなく、こんな所で暮らし
ていて楽しいのかなとさえ思った。そのあと、修道士
の方のお話を聞いた。
宮本修道士は大分の修道院とあ
わせて 20 年の修道生活をされているそうです。その
方の言った言葉に僕は耳を疑った。彼らは、自ら欲を
捨てることを望んで暮らしていると言った。
理由はお
そらくイエス・キリストの教えだろう。その瞳には迷
いがなく、とても澄んでいた。修道院の人は敷地の外
には基本的には出ないらしい。テレビもなく、外の世
界に出ることなく、ただひっそりと物静かに神に祈る
彼らからは、
虚しさをかき消すほどの強い希望という
光がにじみ出ているように感じた。
5A 京野 将也
初夏の風が吹き始める頃、暁星学園をはじめ、白百合
学園、雙葉学園、カリタス学園、ドミニコ学園のフラン
ス語選択者が集い、日々の成果を披露しました。暁星は
高校3年生がスピーチを、高校2年生が劇“Cours,Mélos”
を発表しました。衣装やメイクは自分のお母さんたち、
先輩のお母さんたちにお手伝いしていただきました。そ
のおかげで、各自の役割に合わせた衣装、メイクをする
ことができ、大変有意義なものになりました。他の学園
も素晴らしいものを見せてくれました。今回は暁星高校
がホスト校となり講堂を使いました。この建物は今年の
11月をもって閉鎖されてしまいますが、その前にフラ
ンス語フェスティバルを開催することができて光栄でし
た。
5A 井原 槙太郎
《合唱部 エトワール祭特別ステージのお知らせ》
こんにちは!合唱部です。
我が部は毎年、"Sepia Voice Orchestra"という団体名で、
文化祭講堂にて演奏しておりますが、
今年は姉妹校晃華学園中高の聖歌隊をお招きして、
聖堂で聖歌を演奏します(なお、晃華学園文化祭でも同曲
を演奏します)。
演奏曲は、モーツァルトの戴冠ミサです。
ボリュームのある曲を、響きの美しい聖堂で、ぜひお楽
しみ頂ければ幸いです。
皆様のお越しを、心よりお待ち申し上げております。
『晃華学園中高文化祭』
日時: 9/12(土),13(日)午前中(詳細未定)
場所:晃華学園中高 お御堂
*この日は、神父さまの行うミサの流れで、聖歌を歌います。
シトー会の伝統を生かした聖堂にて
『暁星中高文化祭(エトワール祭)』
日時:10/4(日) 10:15-11:15
場所:暁星学園 お御堂
*この日は、神父さまのミサはなく、聖歌演奏のみとなります