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Studies in the
Humanities
CULTURAL SCIENCES
34
Number 34
MIYASAKA Tomo … ……… From Catacombs to Basilicas Via Latina Catacomb as
Threshold of Monumental Christian Art ��������������� 1
NAKAMURA Takeshi… …… Rethinking Radical Westminster ������������������ 19
第 号
IKEDA Noritaka… ………… The Establishment of the Navy Onohama Shipyard ���������� 39
34
Faculty of Humanities
Hirosaki University
Hirosaki, Japan
ISSN 1344-6061
2015
目 次
【論 文】
カタコンベからバシリカ聖堂装飾へ
転換期のヴィア・ラティーナ・カタコンベ�������������宮 坂 朋 1
急進的なウェストミンスタを見直す����������������中 村 武 司 19
神戸鉄工所の破綻と海軍小野浜造船所の成立
-軍艦「大和」建造の行方-�������������������池 田 憲 隆 39
カタコンベからバシリカ聖堂装飾へ
転換期のヴィア・ラティーナ・カタコンベ
宮 坂 朋
はじめに
(1)戦闘表現と武具
(2)石棺浮彫の影響
(3)地上のモニュメンタルな建築内装の影響
(4)プログラムの発生
おわりに
はじめに ヴィア・ラティーナ・カタコンベ(あるいはヴィア・ディーノ・コンパーニのヒュポゲウム)(図1)
は、発見当初から現在まで、キリスト教考古学の立場からは図像の豊富さや特殊性が取り上げられ
てきたⅰ。しかしながら、今まで特殊と思われてきた異教神話図像や稀な旧約主題の採用は、古代
末期と言う視点からは特殊ではない。むしろ、今まで指摘されてこなかったが、戦闘表現や武具の
表現の多さと言う点で特殊と言える。また、同じタイプの図像を別の文脈で繰返し使用して、新し
い図像を創造するやり方は、
モニュメンタルなキリスト教美術への萌芽状態を予感させる。ヴィア・
ラティーナ・カタコンベ(以下VLCと略称)壁画は、葬祭美術における後継者が見当たらない。
おそらくカタコンベ絵画の最末期に属し、その真の後継者はサンタ・マリア・マジョーレ聖堂モザ
イクに代表されるモニュメンタルな聖堂装飾である。あるいは同時に新しいモニュメンタル美術を
創造していったと考えられる。実際に初期キリスト教聖堂内装画像は戦記物を主体としており、
「精
神性の時代」とはほど遠い様相を示しているのである。
VLCの壁画の制作年代については、発見者フェルーアが異教主題の多さから、320-350年とい
う制作時期を考えたがⅱ、他の研究者も主に様式から比較的早い年代決定を行ってきた。しかしな
がら、最近の研究では、ツィンマーマンが墓室Aから墓室Cを4世紀の第1三半期(残りの墓室は
350-375/80年)としているのを除けば、テオドシウス時代と考える説が一般的であるⅲ。これは
石棺装飾や地上のバシリカ装飾との比較から提示された年代である。出土遺物や墓室プランから、
4世紀の後半から5世紀のはじめと年代付けられた、VLCと接続するヴィア・ラティーナ135番の
1
カタコンベとの関係からも、テオドシウス時代は可能性が高いⅳ。
発注者の問題も解決がついていない。VLCと同様に豪華な装飾がされたコモディッラのカタコ
ンベのレオの墓室が、ローマのアンノーナの官僚ⅴの墓所であることを考えると、VLCの被葬者
も帝国の官僚レベルの人物であったであろう。VLC発掘当初出土した墓碑銘は原位置を離れてお
り、明らかに墓室Aから出土したとされる墓碑銘3点も具体的な位置や層位は不明である。この3
点の墓碑銘はゲンス名が全て異なっており、墓室Aの3つのアルコソリウムに対応する可能性もあ
るが、確実ではないⅵ。教養のある富裕の貴族が埋葬された可能性が高いが、家族用墓室の可能性
は少ない。おそらく富裕の貴族によって計画され、アルコソリウムごとに分譲されたのであろう。
都市のエリートの交代と司教の台頭が進む中、ローマにおいては異教徒貴族が残存していた。し
かし、VLC成立の時期である4世紀末から5世紀初めに、元老院階級の貴族にもキリスト教化が
進んだⅶ。さらに、410年のアラリックのローマ侵入により、ローマは大規模な破壊を受けた。こ
れを機に、古典的な公共建築は補修されなくなり、壮麗な古典古代都市の景観は失われていった。
一方で、新しいバシリカ式聖堂が続々と建設されたが、外観は煉瓦積で質素であった。さらに、郊
外の墓が放棄され、城壁内に住宅に隣接して墓が作られるようになったⅷ。この十二表法の破棄に
より古典的都市が崩壊していった時期なのである。すなわち、埋葬施設としての郊外のカタコンベ
の最終段階である。一方、都市ローマの殉教聖人が帝国全体から巡礼者を集めた。殉教聖人の墓の
ある郊外のカタコンベは壮麗な宗教施設へと変貌し、巡礼者によりカタコンベ壁画の図像が拡散し
て行く。4世紀後半のミラノのサン・ロレンツォ聖堂のサンタクィリーノは、皇族の霊廟と考えら
れるが、そこにはカタコンベ壁画そのままの<キリストと十二使徒>と<エリヤの昇天>が、豪華
なモザイクという媒体に変換され、より大画面で再現されている。また5世紀初めのラヴェンナの
皇妃ガラ・プラキディアの霊廟にもローマの聖人<聖ラウレンティウスの殉教>と<善き羊飼い>
の主題がローマのカタコンベから採用されたが、貧しい殉教聖人は堂々たる勝利者として進み出、
つつましい牧歌的な羊飼いは皇帝の紫と金の衣に変化している。
4世紀末から5世紀初めには、美術様式も自然主義から抽象主義へと変化を見せる。抽象主義は
すでにアントニヌス朝から認められ、セヴェールス朝、四分統治時代と強調されるようになってい
た。古代末期の様式変化は激変と言うより、継続的変化ともいえるⅸ。抽象主義傾向を強めたのは
北アフリカのモザイクの流行である。北アフリカのモザイク美術の影響は大きく、貴族の住宅や別
荘、皇族の霊廟の床、壁面、ヴォ―ルト装飾に使用されたため、その図像や様式の影響は他のジャ
ンルにまで波及した。アフリカのモザイクはステイタス・シンボルとして機能したため、VLCの
壁画においても、皇族の霊廟を模倣したアフリカ的様式やアフリカ人の容貌、装飾モティーフ、図
像の組合せが認められる。このようなアフリカ・モザイクの影響は、ローマにとどまらず、帝国全
体に波及したⅹ。
ここで新たな特徴として指摘したいのは、戦闘場面や軍装の豊富さ、石棺浮彫の影響、バシリカ
2
内装の影響、プログラムの発生である。アフリカ・モザイクの影響とあわせて以下に分析を試みる。
(1)戦闘表現と武具
戦いの表現を取り出してみると、墓室Bのジムリとコズビを串刺しにする甲冑を身にまとったピ
ネハス(図2)は、民数記25,7に取材する珍しい図像で同時代には比較例がないⅺ。大きなスケー
ルのピネハスはやや縦長画面の中央近くに仁王立ちになって、左手に持った槍でジムリと一緒にい
た異邦人の女コズビを串刺しにして斜め上に高く掲げている。彼らの体からは血が滝のように流れ
ている。向かって左下には二人がいた寝台が斜めに置かれている。ピネハスの幅広い胸当てには剣
帯が斜めにかかっており、ベルトから下は非常に概略的なジグザグ線で描かれるが、軍装を強調し
て英雄性を表現している。墓室F奥アルコソリウム・ルネット壁にサムソンがロバの骨でぺリシテ
人を虐殺する場面が描かれるが(図3)
、これも同時代に比較例がない。士師記15.15では、サムソ
ンはぺリシテ人の復讐にあい、ユダ人により縛られて引き渡されるが、そこでロバの顎骨をとり、
それで千人を打ち殺した。サムソンはより大きなスケールで場面中央に英雄として立ち、左側のぺ
リシテ人の集団に向かってロバの骨を垂直に高く振り上げる。サムソンは軍装ではないが、ロバの
骨は凶器として表現され、血を流しながら逃げるぺリシテ人や、転がっている死体の表現は陰惨で
ある。全身が描かれるぺリシテ人は一人だけで、残りは体の一部分だけであり、背後は丸い頭部だ
けが描かれ、群衆表現となっている。
墓室Nのヘラクレス・サイクルでは、左アルコソリウム手前左右壁に<ヘラクレスとアテナの握
手(左)>、<カクスを殺すヘラクレス(右)>(図4)が選択されるが、これは12の難行からで
はなく、ローマ建国譚の「ヘルクレス」の物語である。ルネットに描かれた死にゆくアドメトゥス
が男性であるため、国家に関する主題が選択されている。右アルコソリウム手前左壁に<ヘラクレ
スの12の難行>から<ヒュドラを退治するヘラクレス(左)>が<ヘスぺリデスの林檎を取りに行
くヘラクレス>(図5)と対になって描かれる。右アルコソリウムの図像では、ルネットの<ハデ
スからアルケスティスを連れ戻すヘラクレス>と<ケルベロス>が組み合わされており、それと関
連する12の難行図像から特に蛇に関する図像が選択されている。アドメトゥスはアルケスティスと
の結婚式で犠牲式を捧げる時にアルテミスを忘れたことから、寝室を開いてみると女神の報復とし
てとぐろを巻いた蛇で満たされていたという記述に基づくⅻ。
また、戦闘に参加をしてはいないが、墓室Mでは、四分統治時代の円筒形のフェルト帽(パンノ
ニア帽)を被った二人の兵士が、キリストの衣をわけるためのくじ引きに取り掛かっているが、そ
の左右には丸い楯と脛当てなどが積み重なっており、武具がことさらに描かれている。墓室Fのバ
ラムのロバの前に立ちはだかる天使は大きな剣を垂直に振りかざしている。このようにこの地下墓
では、戦闘場面や兵士の姿、甲冑、武器などがことのほか強調されている。他にもアブラハムによ
るイサクの犠牲場面が2面あるがアブラハムはここでは通常通り剣を持っている。通常のカタコン
ベ壁画では、アブラハムによるイサクの犠牲、ペテロやパウロ、その他の数少ない聖人の殉教伝で、
3
目立たない規模の武器が登場する程度である。
ここでは、特に戦闘表現が強調された墓室Cと墓室Oに関して記述していく。
まず墓室Cの画家はこのカタコンベの全墓室の中でもっとも絵画的な魅力に溢れた壁画を描いて
いる。主題は、旧約聖書と新約聖書の両方から取材していると考えられる。本物の大理石板の再利
用が認められる一方で、
隣の墓室Bに見られた柱や破風、持ち送りなどの「負の建築」の要素はない。
<紅海渡渉>(図6)とそれに対置する場面の見る者を圧倒する群集表現は通常のカタコンベ絵画
では見られないものである。これは、
フレニズム風メガログラフィア的特徴を示すと言ってもよい。
ニッチ付近の非常に愛らしいミニチュア画面、天井周辺の花綱を持つプットーと鳥たちの点描を駆
使した華やかで非常に早いタッチの古代的な表現は、いずれもローマの葬祭絵画の伝統の中に位置
付けられる。それは装飾モティーフがカタコンベ絵画の伝統的なレパートリーにあるのと同様であ
る。
トロンツォにより墓室壁面の旧約サイクルと天井の予型論的図像プログラムが提案されているⅹⅲ。
彼に従うと、サイクルは右壁左端の靴を脱ぐ若い男性から開始する。すなわち、ここで若いモーセ
は神から召命を受け、エジプトから出発して、砂漠を彷徨い、左壁面ではモーセの死後ヨシュアに
引き継がれたイスラエルの民は約束の地に到着する。その旧約での予型が天井のキリスト座像に
よって完成されるというものである。
3面にわたって、モーセの紅海渡渉場面が展開している。第1面では、騎馬兵の大群衆が右に向
かって馬を駆りたてている。
全身が見えるのは一番手前の1名のみだが、三日月形に尖ったヘルメッ
トには水色のハイライトがきらめき、上半身が黄金で下半身部分が緑色の甲冑を身にまとい、クラ
ミスを肩にかけ、左肩には金色の丸い楯を背負って、ブーツを履き、茶色の馬にまたがって水色の
手綱を引いている。馬は後ろ足で立ち上がって飛び立つようなスピード感が表現されている。二列
目は先頭の馬の頭部と前脚と兵士達の上半身のみが、緑の楯とともに描かれ、その背景には頭部の
み、さらにその後ろにはヘルメットのみが大雑把に描かれている。多数の兵士を頭部のみで描く群
衆表現が巧みである。ヘルメットは奥に行くほど水色になり、空気遠近法も駆使している。
第2面は矩形の上に半円がのった大きな半月形壁面となっている。このパネルは中心の紅海に
よって半分に分けられ、左側は追跡するファラオの軍勢、右側はモーセに率いられたイスラエルの
民となっている。モーセはしんがりを勤め、後ろを振り返りながら杖で紅海を打とうとしている。
モーセは他の人よりも大きいスケールで描かれる。イスラエルの民は密集しており、ここでも後ろ
の方は丸い頭部が重なって描かれ、群衆表現となっている。
左半分には紅海に沈んでいくファラオの軍勢が描かれる。先頭の2頭の黒馬は、すでに頭を下に
向けて海に向かって崩れ落ちているように見える。その2頭に挟まれた茶色の馬の頭の位置も低い。
画面前方には、すでに落馬して右手を後ろにつき、足を折った甲冑の人物が見える。彼の下には馬
や兵士の死体が重なっている。彼の背後には保存状態が良くないが、馬車の車体や車輪なのか、あ
るいは楯なのかはっきりしないが、円形や矩形の茶色の破片が見える。二列目は馬の前半分と兵士
4
の体が見える。第1面よりもややコンパクトになっている。三列目は頭部のみで、その後ろはヘル
メットのみが茶色の輪郭線と水色で描かれる。
このヘルメットのタイプは、トサカと頬当てが付いたタイプだが、受難石棺やテオドシウス帝円
柱の兵士の被っているタイプ(古代末期のリッジド・ヘルメット)よりも、トサカ部分が大きいよ
うである。
“Ridged Helmet”
(トサカ付兜)は首当てと頬当てが別々の部品となったもので、簡便
に作られ、4世紀から5世紀初めには、このタイプが流布していた。しかしファラオの軍勢の被る
兜の形はやや反った三角形で、フリギア帽にも見える。紅海渡渉石棺に登場するヘルメットはむし
ろ丸い形なので、あまり似ていない。一番近い例は、サンタ・マリア・マジョーレ聖堂身廊部壁面
モザイクの<紅海渡渉>(図7)のファラオの兵士たちのヘルメットである。構図などは似ていな
いが、群衆表現とヘルメットは互いに参照し合ったように思われる。
第3面には、紅海を無事渡った後、先に進んで行く、多数のイスラエルの民が群衆表現で描かれ
ている。
この墓室Cの<紅海渡渉>場面の特徴は、ヴォリューム感、スピード感、人物の重なりが表現さ
れ、ヘレニズム流の迫力ある画面となっている点である。輪郭線で囲われ、動きもなく、肉体性も
空間表現もほとんどないカタコンベ絵画の中にあってほとんど唯一の例である。一方、画面枠の建
築再現的な要素は少なく、また重要性に応じたスケールが開始している。その点ではヘレニズムか
ら逸脱する。
墓室Oでも、3面にわたって<紅海渡渉>(図8)が展開する。ただし、墓室Oでは、枠は何重
にもなって装飾文も多い。また腰羽目には偽大理石が描かれて、建築再現意欲が目立っている。ま
た第1面の追跡するファラオの軍勢はここでは、一人の正面向きの重装歩兵で代表されている。左
手に丸い楯を持ち、右手で短剣を振りかざしている。しかし墓室Cのような迫力や動きはない。か
わりに彼を囲む四隅にパルメットの付いた枠から足や剣などをはみ出させ、ちょっとした動きを演
出しようとしている。
墓室C第3面では、逃げるイスラエルの大群衆が描かれていたが、墓室Oでは、一人だけに代表
させている。トゥニカとパリウムの一人の男性が、体を正面に向け右手をあげて顔はやや後ろを振
り返り気味にしている。
第2面では、フォーマットも構図も、登場人物の位置もほぼ墓室Cと同じであるが、その印象は
全く違ったものになっている。それは、モーセのスケールが破格に大きく、自然主義的な表現が犠
牲になっていること、輪郭線で囲まれた形態がヴォリューム感を減じていること、群衆表現は簡略
化され、後方の人物も前方と同じようにはっきりと描かれていること、ポーズのぎこちなさによる。
墓室Cでは、前方の兵士からだんだんに雪崩を打って崩れていくような時間差さえ感じられたが、
墓室Cでは、後方の兵士も真っ逆さまに落ちて行っており、混乱している。また2本の平行線とし
てセットで描かれた軍勢の槍も追跡の勢いをそいでいる。全体に緊張感のないドタバタした動きが
感じられる。
5
墓室Oの画家は、物体の平面的な扱いに慣れており、墓室Cの画家とは全く異なる背景を持つと
考えられる。特筆すべきはモーセの体の輪郭線に良く表れているが、幅広の影で立体感を表す方法
を採用する。これは、アフリカのモザイクで良くみられる。絵画面の漆喰表面も非常に粗い。左壁
面は<ラザロの復活>になっており、墓室Cの画家が既存の図像から新しい図像を考案してプログ
ラムを構成したのに、それを理解せず、また元の図像に戻してしまったようだ。
墓室Cと墓室Oの<紅海渡渉>において、ローマの写本絵画に中で生き続けたヘレニズムの絵画
伝統とアフリカ・モザイクの二次元的な新しい様式が対決していると考えられる。双方ともローマ
の地下墓で出会い、当時の全く対立する二つの様式への愛好と共通して歓迎された図像テーマを示
している。
このような戦闘場面の愛好は、なぜ「教会の平和」の時代に好んで取り上げられたのか?4世紀
末から5世紀初めの装飾写本<ウェルギリウス・ヴァティカヌス>、<クヴェドリンブルグ・イタ
ラ>、<イリアス・アンブロシアーナ>は古典文学の戦記物である。また、サンタ・マリア・マジョー
レ聖堂の身廊モザイクの旧約伝サイクルも大画面に戦闘場面が繰り広げられ、アプシス上面にかか
る凱旋門型アーチにも、ヘロデ王の兵士による嬰児虐殺場面に兵士の姿が表現される。失われたサ
ン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ聖堂身廊モザイクを写したスケッチからも同様の事実がわかる。
内容的には聖書の記述に従っていても聖堂内部に大々的に戦記物が繰り広げられていることに違い
はない。 あらためて述べるまでもなく、グラバール、カントロヴィッツ、アルフェルディらはキリスト教
美術のローマ皇帝美術起源説を展開したⅹⅳ。実際は直線的に戦勝記念美術からキリスト教美術への
転換が行われたわけではない。マシューズはキリスト教美術の多元的なモデルを提唱し、戦勝記念
美術の影響を打ち消したⅹⅴ。多元的なモデルを否定しないがここで戦争表現の重要性を再び取り上
げる必要がある。
アラ・パキス・アウグスタエ(平和の祭壇)の浮彫彫刻の工房は火葬骨壺の浮彫装飾も手掛けて
いた。記念柱などのローマの戦勝記念浮彫と2世紀の戦闘石棺浮彫は、当初より同じ工房で作られ、
図像や様式を共有する。伝統は古代末期にも続き、キリスト教石棺の石工が、コンスタンティヌス
帝凱旋門の浮彫を制作した。
このようにして、
異なる芸術ジャンルにおいて、図像の共有が行われた。
受難石棺にモニュメンタルな戦勝記念浮彫から軍装の兵士やトロフィの細部が持ち込まれ、キリス
ト教化されることとなったのも当然である。キリスト教石棺が絵画よりも早く図像レパートリーを
増やすのはこのような事情からであって、カタコンベ壁画は石棺から新しい図像を取り込んだので
ある。
戦記物や武器の表現はそれ自体ローマ人にとってどのような意味を持ったのか?共和政期から続
くローマの伝統では、甲冑は貴族のステイタスであった。共和政期の住宅には戦利品としての敵の
武器やトロフィーなどが、家のファサードやアトリウムなどに飾られたⅹⅵ。スエトニウスは「この
時(64年のローマ大火)灰燼に帰したのは、莫大な数の共同住宅に加えて、まだ敵の戦利品で飾ら
6
れていた昔の将軍たちの屋敷」
(ネロ38)と述べているⅹⅶ。どのような形ではめ込まれていたのか
は不明だが、ヘレニズム絵画や彫刻の伝統にある「武器のフリーズ(fregio d’armi)」のようなも
のであろうか。あるいは、ロストラの様に無骨にはめこまれていたのかもしれないし、屋根の上に
無造作につみ重ねられていたのかもしれない。共和政期中期には、軍事的名声を喧伝して政治的影
響力を得ることが可能であったため、戦利品で家を飾ることはキャリアアップにつながる行為だっ
たと考えられるⅹⅷ。このような伝統から、住宅を武器や戦利品で飾ることは貴族のステイタス・シ
ンボルと捉えられていた。
後4世紀末から5世紀初めはすでにキリスト教化が進展していた時期であった。戦争による殺人
場面はなぜ大々的に表現され得たのであろうか?
古代末期において、貴族が出世するには古典的な高い教育が必要とされた。それは聖職者であっ
ても同様で、神学校は整備されておらず、古典的な伝統における良い教育、パイデイアの重要性は、
宗教・地域・社会階層を横断して共有された。皇帝の官僚として出世するにも、司教の座に上り詰
めるのにも、法律と修辞学をはじめとする高い古典的教育が必要とされ、その修得には財産が必要
だった。ディオクレティアヌス帝とコンスタンティヌス帝の行政改革による行政職の増加は、以前
よりも帝国の官職につく機会を増やし、多くの人間をより高い教育へと駆り立てたⅹⅸ。このように、
貴族の教養は依然としてキリスト教化されなかった。また、身分の低いものが出世することが完全
に除外されていなかったとはいえ、金持ちや上級貴族が教会でも世俗でも出世する可能性の方が高
かったと言える。
古代末期になっても以前と価値観はさほど変わらず、むしろ古典的素養は出世のために強化され、
幅広い層に共有されたと言える。そのようなことから、司教の住宅(エピスコペイオン)までを含
む貴族の住宅や別荘は、古典的な教養の壁画やモザイクや銀器で飾られたのである。死者の家とい
う位置付けの墓も同様に、貴族のプライドを表現するために古典的主題がむしろ好んで選択された
であろう。
(2)石棺浮彫の影響
このように、VLCにおける戦闘表現や武具の強調は、当時の貴族の価値観の反映されたもので
あり、他の芸術ジャンルとも共有する特徴であった。ここには石棺を経由した戦勝記念美術の図像
の影響があきらかである。石棺浮彫の影響はこれにとどまらない。ケッチェ・ブライテンブルッフ
が指摘したように、以下のような石棺浮彫の図像の影響も、特殊な旧約図像の採用に見られるⅹⅹ。
墓室Aでは、ディオニュソス石棺で見られる泥酔するシレノスの図像タイプを借用して、<泥酔す
るノア>の図像が考案されている。墓室Bの、<アダムとエヴァの楽園追放>と<カインとアベル
の捧げもの>および、<ロトの逃避>は、サンセバスティアーノのカタコンベに置かれた、「ロト
石棺」と共通している。さらに、同じ墓室Bの<アブラハムの饗応>と<エフライムとマナセを祝
福するヤコブ>は、
「カリスト・カタコンベの石棺」と、<べテルでのヤコブの夢>は、「サンセバ
7
スティアーノ石棺」と共通する図像となっている。墓室CとOの<紅海渡渉>は一連の紅海渡渉石
棺と、墓室Fの<ロバの背のバラム>はサンセバスティアーノの「バラム石棺」と同じ図像タイプ
に属する。
旧約聖書の図像に関しては、おもにユダヤ人研究者により、ユダヤ教美術起源説が提唱されてき
た。ユダヤ教装飾写本の手本がキリスト教美術に先立って存在したという主張であるⅹⅹⅰ。しかしな
がら、ハクリリⅹⅹⅱは、いくつかの点から疑わしいとする。なによりも、そのような作例が一切残っ
ていない点が重要であろう。5世紀以前(キリスト教写本)、9世紀以前(ユダヤ教写本)の挿絵
聖書の証拠はないⅹⅹⅲ。また、広範に流布したモデルはヘレニズム様式であるはずだが、各地方様
式であること、さらに、現実に壁画の源泉として装飾写本を使用するのは複雑すぎる、と言う点を
とりあげたい。ハクリリはむしろ、2世紀から3世紀初めのローマの歴史浮彫が旧約主題の発展
に影響を与えたと言う説を提出するⅹⅹⅳ。シリア東部のローマ化に伴って、旧約のサイクルが登場
したと考えるのはおそらく一番可能性が高い。ローマに忠誠を誓うことによるローマ化は、都市生
活を快適にする公共建築物の建設とセットになったローマ的な都市生活様式の取り込みを含んでい
た。
VLCに顕著である建築背景や小建築物の描きこみ(墓室E、F、I、M、N、O)もまた、市
門型石棺に見られる建築背景の影響と考えられる。
(3)モザイクの影響
もともと床モザイクは、最初期には敷物を模し、ヘレニズム住宅のペリスティリウム舗床時には
天空を写し、ポリュクレイトゥスの彫刻や絵画を模した。高価な技法だが、堅牢性、色彩の耐久性、
耐水性を誇る。平面的装飾的なだけでなく、変幻自在な融通性を持っている。すなわち点描画法で
あることから、印象派のように鮮やかな色彩、明暗、立体感を表現することが可能である。このよ
うな美点を持つモザイクは、古代末期のガラス産業の発達とともに隆盛した。エンブレーマは工房
の熟練工に任されたテッセラによるタブロー画だった。しかしもともと建築と不可分であり、建築
現場の職人に任される天井、壁面、床面のモザイクは、モティーフや分節システムをそれぞれの間
で共有しやすかったと考えられ、この共有は2世紀には開始する。北アフリカの多色床モザイクの
デザインが大きく発展したのは、床モザイクが天井や壁のモザイクを模倣したとしたことによる。
これによって床モザイクはレパートリーを増やし、いっそう人気を得ることになったⅹⅹⅴ。北アフ
リカのモザイクはローマ化とともに発展した。すなわち、ローマ的生活がアフリカにもたらされ、
公共建築物建造と豪華な住宅がイタリア半島の白黒モザイクとともに導入されたが、材料をアフリ
カ原産の色石にすることによって成立したⅹⅹⅵ。色彩の豊かさ、幾何学システムを下敷きにした複
雑で豊かなフローラル・スタイルが北アフリカのモザイクの持ち味である。
8
北アフリカ・モザイクの建築及び壁画における影響はいくつか考えられる。精巧で色彩豊かな植
物パタンや一旦装飾モティーフとして解体され、平面化された建築モティーフ、ヘレニズム伝統と
は異なる人体プロポーション、人物のアフリカ的容貌、床面・壁面・天井のモティーフの共有、そ
して建築における多様で自由なプランの採用は、
北アフリカ・モザイク技師がモザイクとともにロー
マにもたらした可能性がある。
北アフリカのモザイク職人によると考えられる、天井と床のモティーフの融合の最良の例はサン
タ・コスタンツァのヴォールト・モザイクである。これは、337-51年、ローマにコンスタンティ
ヌス帝の娘のために建造された霊廟所である。周歩廊ヴォールト・モザイクの装飾パタンは元来天
井装飾に起源があるが、ヴォールトと相互に影響しあった床モザイクのデザインの長い歴史の中に
属するものである。サンタ・コスタンツァの周歩廊ヴォ―ルトのモティーフはVLC墓室Nでも利
用されているⅹⅹⅶ。
(図9)
(4)地上のモニュメンタルな建築内装の影響
VLCの装飾モティーフは、
聖堂や霊廟モザイクを手本としている。少なくとも、ローマのサンタ・
コスタンツァ、ミラノのサン・ロレンツォのサンタクィリーノ、ラヴェンナのガラ・プラキディア
廟など4世紀後半から5世紀に作られた皇族の霊廟建築がモデルとなっていると考えられる。しか
し、当然のことながら地上の構築物から地下の負の建築へと変換する際に、モデルからの逸脱、強
調、モティーフの選択の問題が出てくる。VLCの場合、本物の大理石の利用は少なく、三次元的
な負の建築と二次元の描かれた建築、あるいは植物モティーフの組合せである。また、描かれた建
築装飾モティーフは、①床モザイクのレパートリーから流入したもの、②長期間カタコンベ壁画の
レパートリーであったもの、の2種類が明らかに認められる。さらに、③石棺浮彫装飾のレパート
リーから取られている可能性もある。多くのモデルから自由にモティーフを選択して、組み合わせ
て壁画を描いている。モティーフの配置は、現実の建築物の拘束を受けず、画家の自由な創意が認
められるが、飛翔する鳥や人物は上部及び天井、家畜や牧歌的風景、羽を休める鳥などは、中間部
や腰羽目に置かれる。
古代末期の建築内装において、壁画が衰退し、オプス・セクティレやモザイクが隆盛していた。
皇族などは、霊廟に葬られたが、それはヴォ―ルト天井が掛った、モザイク装飾で飾られた豪華な
ものだった。そのような霊廟の再現がVLCで目指されていた。墓建築の内装においては、土葬に
より壁面が減少し、壁画を描く壁面がそもそも少なかった。VLCでは、被葬者が非常に少なく想
定されていたことから、比較的大きく壁面が取れた。そこで、流行していたモザイク装飾を再現す
ることが可能となった。カタコンベ壁画ではすでに最初期から建築再現は衰退し、建築的枠組みは
解体していた。4世紀末に建築背景が復活する時期がある。この建築再現には、同時代的な新しい
ヴォールト天井が反映すると同時に、石棺、象牙浮彫、装飾写本のモデルも駆使された。この復古
的な傾向に、お金をかけた神話主題の採用が重なり、より一層復古的で異教的な地下墓壁画となっ
9
た。
バシリカに限らず、地上のモニュメンタル建築内装からのVLCへの影響と考えられる点は、焦
点と軸線の設定、均衡のとれた画面配置への配慮、部屋ごとのプログラムの設定、スケールの大き
い人物の登場、豊富な装飾、特殊な図像である。これはカタコンベ装飾のまばらで中心のない図像
配置や、救済の範示的な緩やかな図像のつながりと大きく異なっている。
ラハブ、マムレ、イサクの晩餐、ヨセフの夢、ヨセフの兄弟、エジプト到着、水から救われるモーセ、
ライオンを殺すサムソン、フィリステの野の狐殺し、アサロン、アダムとエヴァ、カインとアベルは、
4世紀末から5世紀初めのモニュメンタル・アートの比較例が最も近いⅹⅹⅷ。しかし、VLC壁画
の制作年代を従来通り、4世紀半ばと考えると、バシリカからの影響を証明するのは難しい。そこ
で、礼拝堂装飾や石棺において聖書主題のレパートリーが一気に増大するテオドシウス朝に近づけ
ることが提案されているⅹⅹⅸ。マッツェイの年代決定は、様式時代については根拠としていないが、
それはVLCの絵画様式がカタコンベ絵画の中で比較しうる作品を見つけられないと言う点にもよ
る。そもそもフェルーアも絵画の年代決定は、様式ではなく異教神話図像の多さで決めていた。墓
室AとCの区画帯はかなり幅広で、墓室I,N,Oに使用された水色顔料、墓室NとOの粗い漆喰
塗り、サンタ・コスタンツァのモザイクからのモティーフ借用などは、遅い年代の指標ともなる。
VLCにはバシリカからの影響も明らかに認められるが、その逆も可能である。すなわち、VL
Cがモニュメンタル・アートのための試行錯誤や実験を行い、それをバシリカがさらに発展させた
と言うことである。いずれにしても、VLCは、地上のバシリカと非常に近い時期に成立し、葬祭
美術と地上の建築物が互いに影響を及ぼし合っていた時代に作られたと考えられる。
(4)プログラムの発生
墓室Aでは、奥壁<キリストと十二使徒>のへの軸線と求心性は明らかで、このために左右壁面
と奥壁の連続性は犠牲になっている。3つのアルコソリウムと上部のヨナ・サイクル、および入口
左右壁面には旧約主題を集める傾向がある。墓室Bでは、天井まで含めて全て旧約聖書から選択さ
れており、左右のアルコソリウムも、右の<エリヤの昇天>側にはヤコブとイサク、左の<エジプ
トへ下るヤコブとヨセフの兄弟>側には、エジプト関連の図像が集められる。墓室Cでは、左右壁
面は旧約の出エジプト・サイクル、天井はキリスト座像、奥のニッチには通常のカタコンベ図像が
選択される。
墓室Eの奥アルコソリウムは唯一の埋葬場所で、アプシスのような求心性があり、そこに描かれ
たテッルスを中心に、左右壁の6人の飛翔する風の乙女たち、天井のゴルゴネイオンと全て異教主
題でまとめられる。また、アラ・パキス・アウグスタエのテッルスの浮彫と同じ図像構成になって
おり、強く復古的であると同時に、女性図像サイクルであることから、被葬者が女性であることが
想定されているようだ。
墓室Fには、アルコソリウムが3つあるが、その間の壁面には半開の扉が2パネル描かれる。こ
10
の古代末期の地下墓と言う環境に、古イタリア的伝統とヘレニズム伝統、パレスティナ的伝統が合
流している。アルコソリウムのルネットは、すべて旧約伝(ロバの顎の骨でぺリシテ人を虐殺する
サムソン、バラムとロバ、イサクの嫁取り)
、でまとめられ強いプログラムへの志向が感じられる。
やはり奥壁への軸線が重要である。上部を見ると、奥アルコソリウムだけ、二羽の向かい合う孔雀
になって求心性の強い構図になっていることがわかる。他の2面はプットーの遊戯場面になってい
る(左は花かごと花輪をささげるプットー、右は鳩と戯れるプットー)。これらのプットーと自然
の表現はどれも変化が付けられて同じものはない。3つのアルコソリウムの下部の豊かで変化に富
む自然描写の牧歌的風景、様々なモティーフが組み合わされたアルコソリウムの格間天井装飾とと
もに、この墓室装飾を豊かなものにしている。
墓室Iは天井、2つのアルコソリウム、中間部パネルの全てが哲学主題でまとめられる。天井は
中心メダイヨンと周辺の6パネルに分けられ、
中に哲学者の半身像が描かれる。右アルコソリウム・
ルネットには哲学者の集う足もとに裸の死体が置かれ、議論、あるいは授業の場面が描かれる。一
方、左アルコソリウム・ルネットには、玉座のキリストの左右にペテロとパウロが描かれ、哲学主
題でまとめられている。
墓室Nは全てヘラクレスに関する神話主題で統一され、明確な図像プログラムが提示される。キ
リスト教主題が一つもない点で墓室Eと共通している。主題は左アルコソリウム奥ルネットにエウ
リピデスの『アルケスティス』に取材した<死の床のアドメトゥス>、手前アルコソリウム左右壁
に<ヘラクレスとアテナの握手(左)>、<カクスを殺すヘラクレス(右)>、右アルコソリウム
奥ルネットにやはり『アルケスティス』から<ハデスからアルケスティスを連れ戻すヘラクレス>、
手前アルコソリウム左右壁に<ヘラクレスの12の難行>から<ヒュドラを退治するヘラクレス(左)
>、<ヘスペリデスのリンゴを取るヘラクレス(右)>が描かれる。左アルコソリウムは男性中心
の場面にローマ建国譚ゆかりの図像が集められ、右アルコソリウムには、アルケスティスの図像を
中心に、
アルケスティスにかかわりのある蛇の図像が集められていると考えられる。天井の交差ヴォ
―ルトには麦の刈り取りをするプットーが5人描かれている。これは床モザイクにも、石棺蓋部分
の浮彫にも頻出する主題である。
墓室Oでは、入口に<麦の束を持ったカルタゴの擬人像><麦の束と松明を持ったケレスとアン
フォラ>、左に3面にわたり<紅海渡渉>、右に<ラザロの復活>とその左右に<バラム><獅子
の穴のダニエル>、天井にブドウの房、麦の穂をそれぞれ持った女性擬人像の座像、奥壁ニッチに
貝殻天蓋モティーフ、孔雀、プットー、ニッチ左右壁にプシュケー、天井に故人の肖像と花綱、左
右壁に<パンの増加の奇跡>、<炉の中の3人のヘブライ人>、が選択される。墓室Cで明確だっ
た救済のプログラムが無くなり、かわって食糧主題が強調される。
おわりに
このカタコンベの壁画の発注者は、古代末期の貴族か、貴族の理想を理解した人物であった。
11
被葬者の宗派に合わせて壁画が描かれたのだろうか?それならば、絵画の制作はその都度行われ
たはずだ。実際墓室Nでは、墓の蓋(死者への供養のため穴のあけられた大理石の板)の上を漆喰
が覆っているため、埋葬後に壁画が描かれている。実際の壁画は、いくつかのまとまりを持って、
しかし、ある程度一気に描かれているようだ。
とすると、
画家は墓室Nでは注文に合わせて描いたが、他の墓室では顧客の様々なヴァリエーショ
ンを前もって考慮して、何種類かの絵を描いておいた場合もあるのかもしれない。墓室DからOま
で一貫した北アフリカ・モザイク風の様式、墓室BとOにおける穀物輸入関係図像などから考える
と、この地下墓を整備した人はアンノーナの宮吏だった仮説も成り立つ。被葬者の遺族は既成の壁
画のある墓室を適当に購入していったのだろうか。マッシモ宮の3世紀の少女の石棺の主題は狩猟
と神話で幼い女の子には相応しくはないが、それでもおそらく急な死に際して、石工の在庫のある
中から適当な大きさの石棺を購入せざるを得なかったのだろう。神話を描いておくと言うことは、
顧客が貴族である場合、何の宗教に属していようと関係なく、古代末期においては最も無難な選択
であった。
初期キリスト教のバシリカ装飾が、
もっぱら戦闘主題を中心とした貴族的な内容であったことは、
VLCとの驚くべき共通点である。キリスト教美術が私的な領域かつ、モニュメンタルで公的な領
域へと格上げされていった際の事情をVLCは明らかにしているといえる。
ⅰ Ferrua, Antonio. Le pitture delle catacomb romane, Citta del Vaticano,1960.
ⅱ
ⅲ
Ibid.p.93.
Bisconti, Fabrizio. Il restauro dell’Ipogeo di Via Dino Compagni, nuove idee per la lettura del programma
decorative del cubicolo “A”, Citta del Vaticano, 2003. Andaloro,Maria. L’Orizzonte tardoanticoe le nuove
immagini 312-468 corpus vol.I, 2006. Zimmermann, Norbert. Werkstattgruppen roemischer Katakombenmalerei,
Jahrbuch fuer Antike und Christentum 35, 2002.尤も発見者フェルーアは壁画を壊して作った最新の墓を
410年頃としている。Ferrua,p.86.
ⅳ Via Latina 135: cronaca di un intervento di urgenza Un area catacombale recuperate al miglio della Via Latina ,
RAC LXXV,1999,pp.11-94.
ⅴ Carletti,Carlo. Storia e topografia della Catacomba di Commodilla , in Deckers,J.G. et al. Die Katakonbe
<<Commodilla>> Repertorium der Malerien, Textband,1994, P.25. 墓碑銘 ”Leo officialis ann(onae) si[bi] vivo
fecit cubuculum in cem(eterio) [A]aucti et Feli[c]is” カルレッティは4世紀末から5世紀初めに年代決定。
ⅵ Bisconti,2003,p.24.
ⅶ Rapp,Claudia. Holy Bishops in Late Antiquity, Univ. of California Press,2005,p.188..
ⅷ Ensolo,S.&LaRocca,E.(eds)Aurea Roma,2000.
12
ⅸ
Elsner, Jas. The Changing Nature of Roman Art and the Art-Historical Problem of Style , In Hoffman,E.R. ed.,
Late Antique and Medieval Art of the Mediterranean World, Blackwell, 2007,pp.11-18.
ⅹ
ブルガリアのトミスやシリストラにおいても同様の地下墓壁画が認められる。Dorigo, Wladimiro.
Pittura tardoromana, Feltrinelli, 1966.
Koetzsche-Breitenbruch,Lieselotte. Die Katakombe an der Via Latina in Rom, 1976,p.85ff.
ⅺ
ⅻ
エウリピデス『アルケスティス』、アポロドーロス、
(高津春繁訳)『ギリシア神話』岩波文庫、2002年、
第1巻15.
ⅹ ⅲ Tronzo, William. The Via Latina Catacombe. Imitation and Discontinuity in Fourth-Century Roman
Painting,1986.(書評は,Miyasaka, T., RAC,LXIV,1988,pp.386-389.参照。)
ⅹⅳ Grabar,A. Christian Iconography, A Study of its Origins, Princeton,1968. Kantrowicz,E. The King s Advent in
the Enigmatic Panels in the Doors of Santa Sabina , AB,26,1944, 206-31. Alfoeldi,A. Insignien und Tracht der
roemischen Kaiser , RM,49,1934,1-118.
ⅹⅴ Mathews,Th. The Clash of Gods A Interpretation of Early Christian Art,Princeton Univ.Press,1993.
ⅹⅵ Welch,Katherine E. Domi Militiaeque: Roman Domestic Aesthetics and War Booty in the Republic , Representations
of War in Ancient Rome, Cambridge,2006,pp.91-161.
ⅹⅶ
ⅹⅷ
ⅹⅸ
ⅹⅹ
スエトニウス、国原吉之助訳『ローマ皇帝伝』、岩波文庫、1986年、p.178。
Welch, p.146
Rapp,Claudia. Holy Bishops in Late Antiquity, Univ. of California Press,2005.
Koetzsche-Breitenbruch,Lieselotte. Die Katakombe an der Via Latina in Rom, 1976,pp.46-61,66-79,83-87,9192-102. Mazzei,B. 10. Storie di patriarchi del cubicolo B nell Ipogeo di Via Dino Compagni ,131-135, In
Andarolo,ed. L Orizzonte tardoantico, 2006.
ⅹⅹⅰ Weitzmann,K. The place of book illumination in byzantine art,1975, 1-60.
ⅹⅹⅱ Hachlili, Rachel, Ancient Mosaic Pavements, Themes, Issues, and Trends,Brill, 2009.
ⅹⅹⅲ Gutmann, The Illustrated Midrash in the Dura Synagogue Paintings: A New Dimension for the Study of
Judaism. The American Academy for Jewish Research Proceedings Vol..L: 1983,91-104.
ⅹⅹⅳ Hachlili,p.93. Hill, E., Roman Elements in the Setting of the Synagogue Frescoes at Dura, Marsyas,i: 1-15, esp.
pp.1-3,8,11
ⅹⅹⅴ Dunbabin, Katherin M.D.Mosaics of the Greek and Roman World, 1999p.246
ⅹⅹⅵ Dunbabin,Katherin M.D.Mosaics of the Greek and Roman World, 1999.
ⅹⅹⅶ 宮坂朋、「ヴィア・ラティーナ・カタコンベの装飾モティーフについて」『名古屋大学美学美術史研
究論集』21号、2006年2月、pp.19-38.
ⅹⅹⅷ Mazzei、131-135.
ⅹⅹⅸ Ibid.
13
図1.ヴィア・ラティーナ・カタコンベ、平面図
図2.墓室B
図3.墓室F
〈ジムリとコズビを刺し殺すピネハス〉 〈サムソンのペリシテ人虐殺〉
14
図4.墓室N
〈アテナとヘラクレス〉
〈ヘラクレスのカクス退治〉
図5.墓室N
〈ヘラクレスのヒュドラ退治〉
〈ヘスペリデスのヘラクレス〉
15
図7.〈紅海渡渉〉
サンタ・マリア・マジョーレ聖堂
図9.格間モティーフ
(1)サンタ・コスタンツァ周歩廊ヴォールト
(2)墓室N
16
図6.
〈紅海渡渉〉
墓室C
図8.
〈紅海渡渉〉
墓室O
17
18
急進的なウェストミンスタを見直す
中 村 武 司
はじめに
「1807年4月の「短期」議会の解散に引き続き、総選挙が実施された。その最も衝撃的な特色ない
し特徴とは、世論の進展が、党派や派閥の影響力に大いに取って代わったかのようにおもわれたこ
とである」。『アニュアル・レジスタ』誌の編者は、1807年の庶民院総選挙、とりわけウェストミン
スタ選挙の結果について、このような見解をしめした。同誌によれば、国政を壟断し、過去のウェ
ストミンスタ選挙をも左右してきた党派や派閥への人びとの反発や不信感こそが、急進派の勝利を
もたらしたのである。
「サー・フランシス・バーデットとコクリン卿は、あらゆる党派、派閥との
つながりを否定し、腐敗、ただ腐敗だけを撤廃するという彼らの意志を宣言することによって人び
との支持を獲得したのである。ウェストミンスタにおける彼らの選挙とは、貴族たちの連合への、
またありとあらゆる党派と派閥への完全なる勝利であった」1 。イギリスの政治的首都にして最大
の都市選挙区は、
「ジャコバン」
の手に落ちたのである。いわゆる
「急進的なウェストミンスタ
(radical
Westminster)
」のはじまりである。
急進的なウェストミンスタの成立と展開にかんしては、古くはE. P. トムスンが、
『イングランド
労働者階級の形成』のなかで、1806年と1807年の選挙がもつ重要性を論じたほか、少なからぬ歴史
家たちが考察を進めてきた2。近年ではマーク・ベーアが、18世紀末から19世紀末にかけてのウェ
ストミンスタの政治文化をめぐるモノグラフを著し、民主的な政治文化の形成における1807年の歴
史的意義をあらためて強調している3。多くの場合、急進派の活動をささえたアソシエイションの
1 Annual Register (1807), pp. 235-6
2 E.g., E. P. Thompson, The making of the English working class (London: V. Gollancz, 1963), chapter 13
[市橋秀夫・
芳賀健一訳『イングランド労働者階級の形成』(青土社、2003年)]; J. M. Main, Radical Westminster,
1807-1820 , Historical Studies: Australia and New Zealand, xii (1966), pp. 186-204; W. E. S. Thomas, The
philosophic radicals: nine studies in theory and practice, 1817-41 (Oxford: Clarendon Press, 1979), chapter 2;
Peter Spence, The birth of romantic radicalism: war, popular politics and English radical reformism, 1800-1815
(Aldershot: Scolar Press, 1996), chapter 3. 以上にたいして、1790年代後半からの連続性を重視する研究も
ある。その場合、フォックス派ホウィグと急進派との提携や、ミドルセクス選挙区からのサー・フラ
ンシス・バーデットの当選がむしろ注目される。J. Ann Hone, For the cause of truth: radicalism in London,
1796-1821 (Oxford: Clarendon Press, 1982).
3 Marc Baer, The rise and fall of radical Westminster, 1780-1890 (Basingstoke and New York: Palgrave Macmillan,
2012). ま た、idem, From first constituency of the empire to citadel of reaction : Westminster, 1800-90 , in
Matthew Cragoe and Anthony Taylor (eds), London politics, 1760-1914 (Basingstoke and New York: Palgrave
Macmillan, 2005), pp. 144-65もみよ。
19
存在──ウェストミンスタ委員会(the Westminster Committee)──に注目しているのも、先行研
究の共通点としてあげられる。
もっとも、このような研究の主張とは、1807年のウェストミンスタ選挙の結果を、現在の民主政
治にいたる歴史のなかのひとつの到達点とみなしたうえで4、19世紀初頭のイギリスのラディカリ
ズム(急進主義)を評価するという目的論的・進歩史観的な前提から導かれているのではないだろ
うか。同時に、ウェストミンスタとその有権者の特徴として、野党的で改革支持の傾向が強いとす
る、暗黙の想定があったとも考えられる。歴史家たちに求められているのは、むしろそのような前
提や想定を可能なかぎり排して、急進的なウェストミンスタがもつ歴史的な意義や射程を当時の政
治的・文化的脈絡にそくして考え直すことであろう。本稿は、そのためのささやかな試みのひとつ
である。
それにあたり、本稿は、重要であるにもかかわらず、歴史家たちがこれまで等閑視してきたウェ
ストミンスタ選挙区のある特徴に着目する。その特徴とは、18世紀末から19世紀初頭にかけて、ロ
ドニ提督やフッド提督をはじめとする著名な海軍の英雄が、ウェストミンスタから継続的に議員に
選出されていたというものである5。1807年以降も、海軍士官が議席のひとつを占めるという状況
に変化はなかった。しかし、その前後で大きな違いも認められる。1806年までであれば、海軍士
官候補はみな政府に擁立されて出馬した体制支持派(loyalist)であった。それは体制側、とりわけ
ピット政権が海軍の「国民的神話」
、あるいは海軍のパトリオティズム(愛国心・愛国主義)を横
領しようとした顕著な例とみなすことができる6。ところが、1807年に当選したトマス・コクリン
4 P. J. コーフィールドは、18世紀から19世紀前半の首都ロンドンでみられた選挙に参加する広範な政治
文化への理解を深めるために、プロト・デモクラシーの概念を創案した。しかし彼女は、それがのち
の普通選挙や民主政治につながるものではないとも注意を促している。P. J. コーフィールド(小西恵
美・山本千映訳)「プロト・デモクラシー──ロンドンの選挙人と市民的政体、1700−1850年」『英国
と近代?──3つのエッセイ』(科研リサーチ・ペーパー、2009年)、5−19頁。ほぼ同内容の論考は、
以下のウェブサイトから確認することできる。London Electoral History, 1700-1850 <URL=http://www.
londonelectoralhistory.com>.
5 これについて詳細は、以下の拙稿を参照されたい。中村武司「ウェストミンスタ選挙区における体制
支持派の提督とイギリス海軍の「神話」、1780−1806年」『西洋史学』254号(2014年)、19−37頁。
6 1980年代後半以降、長い18世紀イギリスのパトリオティズムや自由、あるいは帝国をめぐる想像力を
検討するにあたり、海軍の英雄とそれにたいする人びとの反応や認識が議論の俎上に載せられてきた。
たとえば、以下を参照。Kathleen Wilson, Empire, trade and popular politics in mid-Hanoverian Britain: the
case of Admiral Vernon , Past and Present, cxxi (1988), pp. 74-109; Gerald Jordan and Nicholas Rogers, Admirals
as heroes: patriotism and liberty in Hanoverian England , Journal of British Studies, xxviii (1989), pp. 201-24;
Steven Conway, A joy unknown for years past : the American war, Britishness and the celebration of Rodney s
victory at the Saints , History, lxxxvi (2001), pp. 180-99; Margarette Lincoln, Representing the Royal Navy: British
sea power, 1750-1815 (Aldershot: Ashgate, 2002), esp. chapter 3; Timothy Jenks, Naval engagements: patriotism,
cultural politics, and the Royal Navy, 1793-1815 (Oxford and New York: Oxford University Press, 2006); James
Davey, The naval hero and British national identity, 1707-1750 , in Duncan Redford (ed.), Maritime history and
identity: the sea and culture in the modern World (London: I. B. Taulis, 2014), pp. 13-37. イ ギ リ ス の 海 軍 史
研究の泰斗であるN. A. M. ロジャーは、当時のイギリスには、海軍力をめぐる「国民的神話」が成
20
卿(Thomas, Lord Cochrane, later 10th earl of Dundonald, 1775-1860)は7、
「旧き腐敗」を攻撃し、議
会や海軍の改革を声高に主張する急進派であり、体制支持派とは対極に位置していたことになる8。
本稿が検討するのは、この海軍出身の議員の事例にみられる連続と変化の問題である。そのさい、
従来の研究と同様に、1806年と1807年の2つの選挙を対象とするのが妥当であろう。
本稿では、2つの章にわけて、上記の問題について考察を進めることとなる。第1章では、議会改
革運動が復活する契機となった1806年のホニトンとウェストミンスタの選挙を検討する。第2章で
は、1807年の選挙におけるコクリンの出馬と当選の事例を考えることとしよう。いずれの章におい
ても、海軍の英雄の表象や「神話」にかかわる問題がとりあげられることだろう。また、有権者の
投票行動もあわせて分析して、急進的なウェストミンスタをめぐるわたしたちの理解を深める一助
としたい。
1. 1806年──議会改革運動の再興
1.1. ホニトンの補欠選挙と総選挙
ホニトンは、イングランド南西部デヴォンシアにある都市選挙区である。1801年の人口は2,377名、
戸主に選挙権が認められており、
19世紀初頭の有権者数は約450名であった9。ヤング家もしくはコー
トニ家の近親者がここから選出されることが多かったとはいえ、特定のパトロンが選挙区を支配し
ていたわけではなかった。当時ホニトンは、最も腐敗した選挙区のひとつとして悪名高かったので
ある。歴史家フランク・オゴアマンによると、ホニトンは、候補者が提供する金銭が選挙結果を左
右した「金権型」都市選挙区(venal borough)とされる 。1万人以上の有権者を抱え、世論が選挙
10
結果に影響する「開放型」都市選挙区(open borough)であるウェストミンスタとはじつに対照的
な選挙区だといえよう。しかし、1806年にここで実施された選挙とは、のちの議会改革運動の展開
立していたと論じている。N. A. M. Rodger, Queen Elizabeth and the myth of sea-power in English history ,
Transactions of the Royal Historical Society, 6th ser., xiv (2004), pp. 153-74.
7 コクリンの最新の伝記として、David Cordingly, Cochrane the dauntless: the life and adventures of Thomas
Cochrane (London: Bloomsbury, 2007)が あ る。 ま た、2011年 に ス コ ッ ト ラ ン ド 国 立 博 物 館 で 展 覧
会「コクリン提督──真のマスター・アンド・コマンダー(Admiral Cochrane: The Real Master and
Commander)」が開催されたのを機に、次の論考も刊行された。Stuart Allan, The hero with a thousand
faces : the literary legacy of Lord Cochrane , Journal for Maritime Research, xv (2013), pp. 167-82.
8 「 旧 き 腐 敗 」 に つ い て は、 以 下 を 参 照。Philip Harling, The waning of ‘old corruption’: the politics of
economical reform in Britain, 1779-1846 (Oxford: Clarendon Press, 1996). 金澤周作「旧き腐敗の諷刺と暴露
──19世紀初頭における英国国制の想像/創造」、近藤和彦編『歴史的ヨーロッパの政治社会』(山川
出版社、2008年)、444−79頁。
9 とくに断らないかぎりは、ホニトン選挙区の概要や選挙結果は、History of Parliament Online <URL=http://
www.historyofparliamentonline.org>に依拠したものである。
10 Frank O Gorman, Voters, patrons and parties: the unreformed electoral system of Hanoverian England, 17341832 (Oxford: Clarendon Press, 1989), pp. 28-31.
21
を考えるうえで無視できない出来事なのである。
1806年6月、現職のホニトン選出の議員であるオーガスタス・カヴェンディシュ=ブラッドショ
ウが、アイルランド財務府出納係(Teller of Exchequer of Ireland)に就任したため議員を辞職し、
有権者の信任を問うべく補欠選挙がおこなわれることとなった 。ただしこの官職とは、全人材内
11
閣(Ministry of All the Talents)からブラッドショウに与えられた閑職であり、急進派からすれば腐
敗の明白なあかしだった。なかでもウィリアム・コベットは、彼が編集する『ポリティカル・レジ
スタ』誌に「ホニトンの有権者への書簡」を二度にわたり掲載し、腐敗していない「独立」の精神
に則った選挙のために買収と贈賄の禁止を主張しただけでなく、候補者にも当選後、官職や公金の
受領を拒絶するよう呼びかけたのである 。さらにコベットは、対立候補が現れない場合、彼自身
12
が補欠選挙に出馬することさえ考えていたのだった 。
13
同年5月、パラス号の航海からプリマスに帰還したコクリンは、コベットの『レジスタ』誌の記
事を目にして、ホニトン補欠選挙への立候補を決意した。その決意は、彼の叔父であるアンドルー・
コクリン=ジョンストンを経て、コベットに伝えられたのである 。当初よりコクリンが、急進的
14
な議会改革運動にかかわる意志をもっていたのかは判然としない。たしかなのは、コベットが、そ
の生涯をつうじて、コクリンを支持し続けたことである。後年、コベットが著したスコットランド
旅行記の記述にも、それをうかがうことができる。
コクリン卿は、彼の父親の所領のあったここクーロス(Culross)で誕生した。彼が受けた境
遇を思い返すとき、名状しがたい憤りでわたしの心は一杯になる。……いまわたしは、コクリ
ン卿になされたあらゆる卑劣な行為は、人びとの目には軽蔑すべきものであったことを想起し
ている。コクリン卿は、わたしが知る誰よりも熱意と誠実さをもって、議会で人びとのために
尽力したのである。……武器をとっても、コクリン卿は、わたしが知る誰よりも有能で、また
11 長い18世紀イギリスにおける官職就任による議員辞職と補欠選挙については、青木康「選挙区・議会・
政府」、近藤和彦編『長い18世紀のイギリス──その政治社会』(山川出版社、2002年)、86−114頁。
なお、1806年のホニトン選挙については、John Sugden, The Honiton elections of 1806 and the genesis of
parliamentary reform , The Devon Historian, xxxi (1985), pp. 3-10もみよ。
12 コベットにかんしては数多くの伝記・研究が出ているが、近年の研究成果として、以下の論集があ
る。James Grande and John Stevenson (eds), William Cobbett, romanticism and the enlightenment (London:
Pickering & Chatto Publishers, 2015).
13 Cobbett’s Weekly Political Register (以 下、CWPRと 略 記 す る), ix, 24 May 1806, cols. 769-97; 7 June 1806,
cols. 833-5. また、
Lewis Melville, The life and letters of William Cobbett in England and America, 2 vols (London:
John Lane, 1913), i, pp. 322-7もみよ。
14 William Reitzel (ed.), The autobiography of William Cobbett: the progress of a plough-boy to a seat in parliament
(London: Faber & Faber, 1967), pp. 95-6. コクリン卿とは、スコットランド貴族であるダンドナルド伯の
長子が名乗る儀礼称号(courtesy title)であるため、グレートブリテンの議会では庶民院議員となり
うる。
22
誰よりも無私の態度でその祖国のために貢献しようとしたのだ 。
15
選挙が始まると、コクリンは、コベットとコクリン=ジョンストン両名の支持のもと、「愛国的
な原則」にもとづいて行動するという決意を表明した。この原則とは、選挙における買収行為の拒
絶にくわえて、候補者が、閑職や不当な地位、公金を受領しないというものだった。つまり、コベッ
トの主張にしたがって彼は行動しようとしたのである。またコクリンは、
演説でこう述べてもいる。
「わたしの絶え間ない努力が、一般にはわが祖国にとって、とくにこの都市にとって有益だといえ
るでしょう。そのうえ、わたし自身の観察からその存在を知る厖大な腐敗を指摘できることを心よ
り望んでいるのです」 。コベットは、結果を知ることなく選挙途中でロンドンに戻ったが、
『ポ
16
リティカル・レジスタ』誌のなかでコクリンにかける期待感をこのように記した。
「なぜなら彼は、
自己否定の精神に立っている。……寄生的な閑職保有者を取り除き、公平無私の態度を将来の候補
者にしめすべくコクリン卿がしていることのすべてが、彼自身の精神から導かれ、彼自身の熱意と
公共心により実行されるものなのだ」 。
17
補欠選挙では、少なくない有権者がコクリンに投票したものの、結局彼は、259対124という投票
結果で現職のブラッドショウに破れた。だが、1806年10月に実施された総選挙では、コクリンはブ
ラッドショウとならんでホニトンから無風で選出されたのである。
こうした選挙の結果とは、はたして彼やコベットのいう「愛国的な原則」をホニトンの有権者が
支持したことを意味するものなのだろうか。コクリンは、本当にこの原則にしたがって行動したの
だろうか。コクリンの自伝では、あくまで6月の補欠選挙後、彼に投票してくれた有権者にお礼と
して10ポンドを提供したと記されている 。別言するとコクリンは、総選挙では有権者を買収して
18
いないと主張したいわけである。しかし彼の自伝には、自己正当化のために歪曲された叙述が数多
くみられるため、この記述を鵜呑みにはできない。それどころかコクリンは、1817年の議会の審議
において、初当選したときに買収行為をおこなったことをはっきりと認めたのである 。後述する
19
が、翌1807年のウェストミンスタ選挙では、ホニトン選挙での行為から、コクリンは反対者から非
難されることとなる。
一方でコクリンは、議員に選出されたとはいえ、インペリウス号による航海のため、再開された
議会に出席することはほとんどなかった。他方でコベットは、ホニトン選挙により腐敗した現状を
15 William Cobbett, Cobbett’s tour in Scotland; and in the four northern counties of England: in the autumn of the
year, 1832 (London, 1833), p. 136.
16 CWPR, ix, 14 June 1806, col. 879.
17 CWPR, ix, 28 June 1806, col. 969.
18 Thomas Cochrane, 10th Earl of Dundonald [Lord Cochrane], The autobiography of a seaman, 2 vols (London,
1860-1, reprinted in 1995-6), i, pp. 180-1. このコクリンの自伝は、彼とその個人秘書であったウィリアム・
ジャクスンの提供した情報をもとに、ジョージ・バトラ・アープが執筆したものである。コクリンを
研究するうえで、最重要史料のひとつといえるが、上述した理由から、扱いには注意が必要である。
19 Parliamentary debates, 1st series, xxxv, col. 92: Commons, 29 January 1817; col. 221: 5 February 1817.
23
再認識し、その関心をウェストミンスタに向けようとしていた。ホニトン選挙の記事のなかでも、
彼はこう記している。
「もし、ウェストミンスタ市のどの候補者も、次回の選挙で公金受領に反論
4
4
4
4
4
4
4
4
4
しないのであれば、そう宣言ができる人物を選ぶ機会を、わたしは有権者に提供しなければならな
い」[傍点は筆者によるもの。原文ではイタリック] 。そこで次に、同年のウェストミンスタ選
20
挙に話題を変えることとしよう。
1.2. ウェストミンスタの補欠選挙と総選挙
1806年9月13日、全人材内閣の外務大臣にしてウェストミンスタ選出の議員、チャールズ・ジェ
イムズ・フォックスが死去した。それから約1 ヵ月後の10月10日に、彼の葬儀がウェストミンスタ
寺院で挙行されたのは、この日が、フォックスとウェストミンスタ選挙区にとって特別な意味を持
つゆえにほかならない。1780年のその日、
彼はウェストミンスタからの初当選を果たしたのである。
フォックスの葬儀とは、「民衆の味方(The man of the people)」に人びとが最後の別れを告げると同
時に、民衆の勝利を想起する重要な機会でもあったのだ 。しかし、1780年のフォックスの当選が
21
そうであったように、彼の死もまた、ウェストミンスタ選挙区の状況を大きく変えることとなる。
フォックスの死後、後任の議員選出のために補欠選挙がただちに実施された。全人材内閣の首班
であるグレンヴィル卿は、ウェストミンスタの大土地所有者でもある第2代ノーサンバランド公の
支持を確保するために、その長子であるパーシ伯を候補者に推薦した。フォックスの政治的後継者
を自認するリチャード・ブリンズリ・シェリダンも出馬を検討していたものの、モイラ卿に説得さ
れて辞退したので、10月7日にパーシが正式に選出されたのである 。だが、有権者の意向を無視し
22
た、かつての貴族寡頭制的な状況が復活したかのような候補者の選択と選挙のあり方は、とくに急
進派の幻滅と憤慨を招き、サー・フランシス・バーデットやジョン・カートライト少佐、コベット
らが結集することになる。コベットが、その急先鋒であったのは言をまたない。彼は、
「ウェスト
ミンスタの有権者への書簡」を『レジスタ』誌に何度も掲載して、
「選挙区売買人(borough-mongers)」
の影響力を打破し、「独立」した候補者を選ぶよう読者に強く訴えたのである 。
23
20 CWPR, ix, 28 June 1806, col. 972.
21 E.g., The Times, 11 October 1806, p. 3; Kathlyn Cave, Kenneth Garlick and Angus Macintye (eds), The diary of
Joseph Farington, 16 vols (New Haven and London: Yale University Press, 1979-84), vii, p. 2886: 15 October
1806. フォックス派の支持者たちは、10月10日とフォックスの誕生日である1月13日に記念夕食会を毎
年開催することで、彼の政治的立場や方針を参加者に伝えるとともに、党派としての結束を強めよう
とした。Marc Baer, Political dinners in Whig, radical and Tory Westminster, 1780-1880 , in Clyve Jones, Philip
Salmon and Richard W. Davis (eds), Partisan, politics and reform in parliament and the constituencies, 16891818: essays in memory of John A. Phillips (Edinburgh: Edinburgh University Press, 2005), pp. 186-206.
22 Thompson, The making, p. 460; Spence, The birth of romantic radicalism, pp. 38-9.
23 CWPR, x, 9 August 1806, cols. 193-200: Letter I; 20 September 1806, cols. 449-54: Letter II; 27 September 1806,
cols. 481-4: Letter III; 11 October 1806, cols. 545-53: Letter IV.
24
フォックスの葬儀から2週間後、議会が解散され、総選挙が実施された。このとき、ウェストミ
ンスタから立候補した3名のうち、本稿でとくに注目したいのは、全人材内閣が擁立した候補者で
ある。前職のアラン・ガードナ提督に代わり、首相グレンヴィルが推薦したのは、やはり海軍士官
であるサー・サミュエル・フッドだった 。彼がなぜ、候補者に選ばれたのだろうか。理由のひと
24
つは、首相とフッドとの関係にある。彼は、1784年と1790年の総選挙でウェストミンスタから当選
したフッド子爵とその弟ブリッドポート子爵ら著名な海軍提督の親戚であった。しかも後者の婚姻
関係をつうじて、フッド一族は、18世紀後半以降、有力政治家を輩出したチャタム家(ピット家)
やグレンヴィル家と強いつながりをもっていたのである 。
25
もっとも、政治的なコネのみでフッドが候補者となったわけではない。過去の政府側候補者と同
様に、フッドが海軍の英雄として高い名声を得ていたこともまた、重要な理由である。彼は、1798
年8月のナイルの戦いにおいて、司令官ホレイシオ・ネルソン麾下の艦長としてイギリス艦隊の勝
利に貢献したほか、これまでの功績からバス勲章を1804年9月に授けられていた。その後フッドは、
フランス艦隊との戦闘で右腕を失う重傷を負い、海軍からの退役を考えていたものの、グレンヴィ
ルからウェストミンスタ選挙の候補者に推されることとなる。
筆者もすでに論じたことだが、18世紀末のウェストミンスタ選挙は、偶然にも海軍の戦勝記念日
と重なって実施されたために、海軍の勝利や英雄を記念する場を構成することとなった 。1806年
26
選挙でも、類似した状況がみられた。選挙がはじまったのは、ネルソンが戦死したトラファルガル
の戦いの1周年記念日の直後であった 。それゆえに、
隻腕というネルソンに酷似したフッドの姿は、
27
不世出の国民的英雄の記憶を人びとに想起させたのである。11月3日の選挙初日、彼がウィリアム・
ラッセル卿や数名の海軍士官をともないコヴェント・ガーデンの選挙会場に現れたときの模様とは、
このようなものであった。
「彼は正装の軍服という身なりで、その優れた功績から所持するにふさ
わしい勲章と名誉ある記章をすべて身につけていた。隻腕と海軍の軍服という姿は、われらがその
死を深く哀惜した英雄ネルソン卿の思い出を、すぐさま会場にいたすべての人びとの心に呼び覚ま
したのである」 。体制による海軍の「国民的神話」の横領が、この選挙でもくりかえされたとい
28
えよう 。
29
24 Michael Duffy, Sir Samuel Hood , in Peter Le Fevre and Richard Harding (eds), British admirals of the
Napoleonic wars: contemporaries of Nelson (London: Chatham Publishing, 2005), pp. 323-45.
25 前掲拙稿、29頁。
26 1784年総選挙の期間は1782年のセインツの戦いの2周年記念日と、また1796年総選挙は1794年の「栄
光の6月1日」の戦いの2周年記念日と重複していたのである。前掲拙稿、28-33頁。
27 ネ ル ソ ン と ト ラ フ ァ ル ガ ル の 記 念 に つ い て は、 以 下 を 参 照 の こ と。Holger Hoock (ed.), History,
commemoration, and national preoccupation: Trafalgar, 1805-2005 (Oxford and New York: Oxford University
Press, 2007). 中村武司「ネルソンの国葬──セント・ポール大聖堂における軍人のコメモレイション」、
『史林』91巻1号(2008年)、176-97頁.
28 Anon., History of the Westminster and Middlesex elections; in the month of November, 1806 (London, 1807), pp.
18-9; The Times, 4 November 1806, p. 3.
29 History of the Westminster and Middlesex elections, pp. 35-6, 78-9, 109. ホウィグのシェリダンもまた、海軍
25
1806年の選挙戦は、フッド優位の状況のもと、シェリダンと急進派のジェイムズ・ポールが残る
議席を激しく争う展開となった。くわえて、全人材内閣とフォックス派ホウィグへの幻滅から、急
進派の攻撃は、シェリダンにおおむね集中していた。それでもやはり、フッドも批判や中傷を免れ
えなかったのである 。ここではその例として、バーデットの発言をみておこう。選挙直前の10月
30
29日、王冠と錨(Crown and Anchor)亭で開催された選挙集会において、
ポールの応援演説をおこなっ
た彼は、次のような理由から、フッドの出馬に反対したのである。
国が授ける名誉や報奨の対象として、これら勇敢な士官たちのいずれもがふさわしくないと話
すつもりはありませんし、そう感じてもいません。しかし、われわれにとってイングランドの
海軍士官が不都合となりうる唯一の状況とは、彼らが議会においてあなたがたを代表するとい
うことなのです。ジェントルマン諸君、よく考えて下さい。それこそが、イングランドの海軍
士官が自由に反対し、独立に反対し──わたしはこうも述べなければなりません──わが国の
利害に反対する手段となってしまう唯一の考えられる状況なのです 。
31
一見、このようなバーデットの批判とは、イギリスの自由や愛国心、貿易、帝国の構想と不可分
に結びついた海軍の
「国民的神話」
、
あるいは愛国的なイメージとは正反対にあるかのようにみえる。
しかしそれは、あくまで体制支持派の海軍士官に向けられたものにすぎず、海軍それ自体を対象と
するものではなかったことに注意しなければならない。体制側のみならず、急進派もまた、海軍の
「神話」を共有していたがゆえの批判ととらえるべきであろう 。
32
ところで、フッドの立候補をめぐっては、2人のジャーナリスト、ウィリアム・コベットとヘンリ・
レッドヘッド・ヨーク がそれぞれ対照的な見解を提示している。前者がかつてのピット支持者で
33
いまや急進的な議会改革派だとしたら、後者はかつてのフランス革命支持者がいわば「極右」
(ultra
loyalist)に転向した例であることから、両者の経歴と立場もまた対照的である。まずコベットは、
官職所有とホウィグゆえにシェリダンを強く批判したものの、彼の鋭い舌鋒はフッドにも向けられ
た。そのさい『レジスタ』誌に彼が記したのは、これみよがしな海軍のパトリオティズムへの反感
であった。以下のコベットの主張は、体制による海軍の「神話」の利用への批判とみなすこともで
きる。
の「神話」の利用を試みた候補者であった。演説でしばしば海軍とその将兵を称賛したほか、1797年
の海軍反乱の沈静化に貢献したことから、「海軍の救世主」を標榜したのである。Ibid., pp. 88, 170.
30 British Library (以 下、BLと 略 記 す る) , Place Papers, Add MS 27837, fos. 112, 119 ; History of the
Westminster and Middlesex elections, pp. 35-6.
31 Ibid., pp. 7-8; BL, Place Papers, Add MS 27837, fo. 110.
32 前掲拙稿「ウェストミンスタ選挙区」の34頁も参照されたい。
33 近年、レッドヘッド・ヨークの経歴や活動の再評価が進んでいる。たとえば、以下を参照。Amanda
Goodrich, Radical citizens of the world , 1790-95: the early career of Henry Redhead Yorke , Journal of British
Studies, liii (2014), pp. 611-35.
26
しかしながら、わたしはシェリダン氏がウェストミンスタの議員に選出されるのには反対だが、
それと同じくらい、
戦隊司令官
[commodore、
フッドのこと]
がそうなるのは気にいらない。いや、
彼にたいする反感にはいっそう強いものがある。わたしにすれば、
彼は内閣の手先にすぎない。
そのために最初から彼に反対なのだ。それに、彼が人びとに隻腕をみせつけつつも、勲章やけ
ばけばしい色のリボンをみせびらかそうとして、身にまとったコートを注意深くひるがえすの
をみると、わたしの反感は弱まるどころか、いっそう強まるばかりである 。
34
レッドヘッド・ヨークも、海軍士官は議会政治家に不向きな存在であると考えていた。それでも
彼が、
フッドの成功を望んでいたことは、
『ポリティカル・レヴュー』
誌から確認できる。その記事は、
海軍とその英雄への人びとの反応や認識をしめす興味深い例でもあるので、少し長くなるがここで
引用しておきたい。
サー・サミュエル・フッドは強い支持(plumper)を受けるべきである。なぜなら、わたしが
4
4
4
4
知るかぎりでは、内閣が[彼の立候補を]通告する前から、彼はすでにウェストミンスタの有
権者に立候補の意志を表明していたからである。彼はすぐれて高潔で独立した人物である。な
るほど、わが祖国で最も勇敢な英雄のひとりを説明するにあたり、余計な言辞を弄することは
無益なことかもしれない。内閣は、シェリダン氏の選挙を自分たちの権力をしめすある種の試
金石にしようとしているが、善良で忠誠心の厚いすべての人びとは、勇敢な戦隊司令官を首位
で当選させるべく行動すべきなのだ。最後に以下のことを記して、この話題を終えることとし
よう。すなわち、勅任艦長や海尉、士官候補生たちから成る陽気な一団が、われらが海軍の英
4
4
4
雄のために選挙活動を熱意と活気、切望をもって進めているのを眺めることは、愉快でも不思
議でもあるということだ。実際それは、言葉では表現できないくらい楽しいことなのである。
この世に住むありとあらゆる人びとのなかで、海軍士官たちは選挙において最悪の存在である
とわたしは考えるべきだった。しかし、そうだとしても、偉大でたぐいまれな彼らの功績にた
いする感謝の原則と称賛の意識は、すべての人びとの心を大きく動かすものがある。それゆえ
に、陰謀への無知、いいかえると彼らの見事なまでの正直さと熱烈な献身は、感嘆の的となり、
あらゆる人びとの関心を集めるわけだ。彼ら一団の心温かな努力に比類なき成功がもたらされ
んことを![傍点は筆者によるもの。原文ではイタリック]
35
結局のところ、1806年の総選挙においても、急進派はウェストミンスタの議席を獲得することは
できなかった。各候補の最終的な獲得票数は、
フッドが5,478票、シェリダンが4,758票、
ポールが4,481
34 CWPR, x, 15 November 1806, col. 760. ポールもまた、フッドのことを「グレンヴィル卿の原則の提唱者」
と批判している。History of the Westminster and Middlesex elections, p. 148.
35 Mr Redhead Yorke’s Weekly Political Review, i, 4 October 1806, p. 812.
27
表 1 1806 年のウェストミンスタ選挙における投票行動
表1 1806年のウェストミンスタ選挙における投票行動
党派
獲得票数
%
サー・サミュエル・フッド
単記投票
481
19.4
分裂投票 シェリダン
ホウィグ
1,472
59.4
ポール
急進派
526
21.2
計
2,479
100.0
リチャード・ブリンズリ・シェリダン
単記投票
459
21.8
分裂投票 フッド
政府
1,472
69.8
ポール
急進派
178
8.4
計
2,109
100.0
ジェイムズ・ポール
単記投票
1,495
68.0
分裂投票 フッド
政府
526
23.9
シェリダン
ホウィグ
178
8.1
計
2,199
100.0
典拠:C. Harvey, E. M. Green and P. J. Corfield, The Westminster historical database: voters,
social structure and electoral behaviour (Bristol: Bristol Academic Press, 1998).
票で、フッドとシェリダンが当選を果たしたのである。ポールは、「ネルソンとフォックスの友人
たちの連合」の前に敗北したわけだが 、第2位で当選したシェリダンとの票差は300票に満たず、
36
ここまでの接戦は過去にそう例をみない。しかもポールの獲得票数の大半が、単記投票(plumpers)
から構成されており、数多くの有権者が彼への強い支持を表明していたことになる 。
『ウェスト
37
ミンスタ歴史データベース』によると、ポールの獲得票数のうち、単記投票が全体に占める比率は
68%であった(表1) 。これにたいして、
選挙で事実上連合していたフッドとシェリダンの場合は、
38
彼ら両名に票を投じた分裂投票(splitters)が、それぞれ獲得票数の59.4%、69.8%を占めていた。
データベースをさらに確認してゆくと、興味深いことがわかる。製造業か流通業に分類される有権
者の多くがポールに投票する一方で、不労所得層や専門職・公的サーヴィスのような比較的富裕な
36 History of the Westminster and Middlesex elections, pp. 93-4. フッドとシェリダンの凱旋行進では、当選し
た両候補者のそばに「最も高名な愛国者フォックスと不滅の英雄ネルソン」の胸像が置かれていたと
いう。BL, Place Papers, Add MS 27837, fo. 127.
37 ウェストミンスタのように、議員定数が2名の選挙区では、競争選挙となった場合、有権者は2票を行
使することができた。2票のうち1票を政府側候補者、もう1票をホウィグもしくは急進派など、党派
や立場が異なる候補者2名に投票することを、分裂投票という。しかし、有権者が2票のうち、1票だ
けを投じてもう1票を棄権することも可能だった。これが単記投票と呼ばれるもので、特定候補への
強い支持をしめしていた。
38 データベースから得られる情報は完全とはいえないものの、こうした票構成は、当時の史料からもあ
る程度までは確認できる。選挙直後に開催された集会で、カートライト少佐が提案した決議文による
と、ポールが獲得した票のうち、全体の68.7%にあたる3,077票が単記投票であったという。History of
the Westminster and Middlesex elections, p. 291*.
28
社会層に属する有権者が、フッドとシェリダンに投票する傾向にあったのである 。ここから、職
39
業や地位、財産におうじた有権者の政治的二極化が、ウェストミンスタで生じていたと推定するこ
ともできよう。このような選挙結果と有権者の動向から、惜敗に終わったとはいえ、近い将来の選
挙では、急進派が当選するという期待感が高まったのである。
2. 1807年──急進派の勝利
2.1. コクリンの立候補と「独立」の主張
1807年4月、国王ジョージ3世は全人材内閣を更迭し、ポートランド公に組閣を命じた。その直後、
会期が半年も経ていないにもかかわらず議会が解散され、
「民意
(the sense of his People)
」
に問うべく、
総選挙が実施されたのである。ハノーヴァ朝のイギリスにおいて、クリティカルな問題であり続け
たカトリック解放問題が重要な争点として前景化したため、この選挙は「反教皇派(No Popery)」
選挙、
あるいは「国王と教会」選挙とも呼ばれる 。総選挙全体についていうと、
ホークスベリやカー
40
スルレイ、カニングら旧ピット派が再結集したポートランド政権の勝利という結果に終わった 。し
41
かし、当然ながら例外は存在する。ウェストミンスタ選挙こそが、まさしくそうであった。
1807年のウェストミンスタ選挙は、5名の候補者により議席が争われた。前年の総選挙では首位
で当選したサー・サミュエル・フッドは、軍務により本国不在であったうえに、状況が不利である
と考え出馬を辞退したため 、前職の議員で再出馬したのはシェリダンだけだった。政府支持を表
42
明した候補者は、ジョン・エリオットというピムリコのビール醸造業者で、ウェストミンスタ義勇
騎馬隊の大佐の地位にあった人物である。1780年以来初めて、政府は、海軍士官を候補者として擁
立しなかったわけだ。以上にたいして、急進派に分類される候補者は、先の選挙で善戦したジェイ
ムズ・ポール、それからバーデットとコクリンの3名である。しかしポールは、選挙をめぐる意見
の相違からバーデットと決闘し、重傷を負って早々に出馬を取り止めていた。バーデットはといえ
ば、過去のミドルセクス選挙における巨額の出費から、彼はこの選挙への関与を拒否したが、選出
されれば議席を受け入れると宣言していた。したがってコクリンは、1807年選挙において選挙会場
39 前掲拙稿、28頁。
40 全人材内閣が、陸軍の高級指揮官層へのカトリックの任命を認める法案を提案したことが、国王と
の対立を深め、世論の反発を招いたのである。Spence, The birth of romantic radicalism, pp. 37-8; Boyd
Hilton, A mad, bad, & dangerous people? England, 1783-1846 (Oxford and New York: Oxford University Press,
2006), pp. 107-9.
41 1806年と1807年の選挙を契機にして、トーリの名称が、国王とイングランド国教会を尊重する、国
制と宗教における現状維持派という新たな意味を獲得したとされる。Frank O Gorman, The emergence
of the British two-party system, 1760-1832 (London: Edward Arnold, 1982), p. 56; Michael J. Turner, The age
of unease: government and reform in Britain, 1782-1832 (Phoenix Mill: Sutton Publishing, 2000), pp. 106-37;
Hilton, A mad, bad, & dangerous people?, pp. 195-209.
42 その後フッドは、彼の友人で前海軍委員(Lord of the Admiralty)であったサー・エヴァン・ネピアン
の助力により、ブリッドポート選挙区から選出された。History of Parliament Online.
29
に姿を現した、ただひとりの急進派の候補者であった。
なぜコクリンは、ウェストミンスタから立候補したのだろうか。史料からは確認できないものの、
コベットが彼に出馬を薦めたと考えたほうが、ホニトン選挙以降の両者の関係からして自然であろ
う。もっともコクリン自身も、ウェストミンスタ選挙区がもつ重要性を意識していたと考えられる。
彼の自伝にはこうある。
「海軍やその他の腐敗にたいしてわたし個人の抗議を表明するにあたり、重
要な選挙区という重みをくわえるために、
ウェストミンスタからの立候補を決意したのである」 。
「選
43
挙の独立(electoral independence)
」 を誇るイギリス最大の都市選挙区からの当選は、広範な国民
44
からの支持を意味し、議員の主張や立場に強い説得力を与えることとなる。のちに大法官となるホ
ウィグの政治家ヘンリ・ブルームは、この選挙区のことを「人びとの宿願の頂点」であり、
「人に
無限の善をなすことを可能にする」と評したほどである 。
45
立候補の動機との関連で考えておきたいのは、コクリンが選挙で再三強調した「独立」という政
治的主張と立場である。たとえば彼は、選挙直前の5月1日にペル・メルのセント・オールバン亭で
開催された集会において、会に出席した支持者や有権者に次のように演説している。
腐敗選挙区を代表する人間は、ウェストミンスタのような都市を代表している人間と等しく重
要な存在だと自認することはできません。ウェストミンスタにおいてこそ、あらゆる党派・派
閥との関係を断ち切ることができるのです。わたしの望みとは独立するだけでなく、党派から
独立しうる場にすすんで身を置くことです。……そこでわたしは、ウェストミンスタの有権者
の票を請う自由を行使したのです 。
46
近年、マシュー・マコーマックが論じたように、
「独立」は、ハノーヴァ朝時代のイギリスにお
いて、国民や男性の資質、ひいては政治家・公人の資質として重視されていた。とりわけ、政府や
エリートの腐敗を攻撃し、改革を要求する急進派にとって、独立はその主張・行動の根幹をなすも
ので、ことさらに強調しなければなかったのである 。コクリンもまた、その例外ではなかった。
47
5月7日から開始された選挙戦でも、コクリンは、コヴェント・ガーデンの選挙会場に集った人び
とに独立の立場を伝えようとした。選挙初日の模様については、『ネイヴァル・クロニクル』誌の
43 Cochrane, Autobiography, i, p. 215.
44 選 挙 の 独 立 に つ い て は、 以 下 を 参 照。O Gorman, Voters, patrons, and parties, pp. 259-84; Matthew
McCormack, Metropolitan radicalism and electoral independence, 1760-1820 , in Cragoe and Taylor, London
Politics, pp. 18-37.
45 Thornton Leigh Hunt (ed.), The correspondence of Leigh Hunt: edited by his eldest son, 2 vols (London, 1862), i,
p.63: Henry Brougham to Leigh Hunt, (September) 1812.
46 Cochrane, Autobiography, i, pp. 215-6; Caledonian Mercury, 7 May 1807, pp. 2-3.
47 Matthew McCormack, The independent man: citizenship and gender politics in Georgian England (Manchester:
Manchester University Press, 2005), esp. chapters 6 and 7. Cf. idem (ed.), Public men: masculinity and politics in
modern Britain (Basingstoke and New York: Palgrave Macmillan, 2007).
30
記事がとくに興味深い。同誌は、海軍や海事にかんする情報と知識の普及のために、ジョン・マッ
カーサとジェイムズ・ステイニア・クラークの両名により1798年に創刊され、以後1818年まで年2
回刊行された雑誌である 。そこには、このように書かれていた。
48
コクリン卿は、1807年の総選挙ではウェストミンスタ市の代表として立候補した。引き続き、
候補指名日には予備的な手続きが進められたのだが、閣下は演説台から飛びおりて、治安官と
民衆を分かつ細長い木の柵のうえに立って、長時間にわたり熱心に演説したのである。民衆が
彼の話に耳を傾けているときに、好意をしめす様子が見受けられないなら、彼らはすぐに自分
を拒絶するだろうとコクリン卿は考えていた。彼は完璧に独立した立場にあり、いかなる人物
と結びついていなかった 。
49
こうした船乗りらしい振る舞いのみならず、コクリンの演説も、人びとに彼の独立した立場を明
確にしめすものであった。彼は党派や派閥、閣僚、他の候補者とはまったく無縁の「完全な独立」
ゆえに出馬したと宣言し、人びとの喝采を浴びたのである 。彼はまた、
「熱烈なる改革の友人」
(the
50
zealous friend of reform)であるとして、次のように発言している。「当選したあかつきには、国制
がもつ本来の純粋さを取り戻すべく尽力し、腐敗の調査と国民の利害にかなうあらゆる提案を支持
することを誓います」 。コクリンは独立だけでなく、国制をめぐる言語も用いたのである。
51
以上のようなコクリンの発言を最も好意的に評価したのは、むろんコベットであった。彼は仕事
仲間であるジョン・ライトにあてた手紙のなかで、こう記している。
「コクリン卿の演説は称賛に
値します。彼のような立場の人間にとって、こうした主張は目新しいものですし、当選したのちも、
彼はその言葉を守るでしょう」 。コベットは、
『ポリティカル・レジスタ』誌においても、
「[バー
52
デットを除く]3名の候補者のなかで、コクリン卿こそが、あなたがたにとって決定的に望ましい」
と読者に訴えたのである 。コクリンの選挙は、コベットという急進的なジャーナリズムによって
53
大きく後押しされていたといえよう。ラディカリズムの展開に多大な影響をおよぼした
『レジスタ』
誌は、その後もコクリンを擁護する一種のプロパガンダとなった。ちなみにコベットが、労働者層
48 マッカーサとクラークの両名はともに艦隊勤務の経験をもつほか、のちに次のネルソンの伝記を著し
たことでも知られる。James Stanier Clarke and John M Arthur, The life of Horatio, Viscount Nelson, through
his lordship’s papers, 2 vols (London, 1809).
49 Naval Chronicle, xxii (1809), pp. 1-21, esp. pp. 19-20.
50 Cochrane, Autobiography, i, pp. 216-7; [J. C. Jennings,] The proceedings of the late Westminster election (London,
1808), pp. 3, 23-4, 55, 65, et passim; The Times, 8 May 1807, pp. 3-4; BL, Place Papers, Add MS 27838, passim.
51 Ibid., fos. 129-30; [Jennings,] The proceedings, pp. 32-3, 91.
52 BL, Original Correspondence of William Cobbett, Add MS 22906, fo. 280: 9 May 1807, William Cobbett to John
Wright.
53 CWPR, xi, 23 May 1807, cols. 925-9.
31
表 2 1807 年のウェストミンスタ選挙における投票行動
表2 1807年のウェストミンスタ選挙における投票行動
党派
獲得票数
%
サー・フランシス・バーデット
単記投票
1,672
32.6
分裂投票 コクリン
急進派
1,423
27.7
シェリダン
ホウィグ
1,527
29.7
エリオット
政府
286
5.6
ポール
急進派
226
4.4
計
5,134
100.0
トマス・コクリン卿
単記投票
632
17.0
分裂投票 バーデット
急進派
1,423
38.4
シェリダン
ホウィグ
374
10.1
エリオット
政府
1,264
34.1
ポール
急進派
15
0.4
計
3,708
100.0
典拠:An exposition of the circumstances which gave rise to the election of Sir Francis Burdett,
Bt, for the city of Westminster (London, 1807), p.18.
まで読者を拡大するために、同誌を1816年秋に大幅に値下げしたのは、コクリンの助言によるもの
とされている 。
54
1807年5月23日の午後3時すぎ、ウェストミンスタ選挙の投票が締め切られ、バーデットとコクリ
ンの当選が宣言された。選挙が終わったのちは、共同体の行事として当選議員の凱旋行進がおこな
われるのが慣習であったが 、バーデットは、先述したように、ポールとの決闘で負った傷がいま
55
だ癒えておらず、選挙会場に姿を現していなかったので、コクリンだけが凱旋したのだった。この
模様について、『モーニング・ポスト』紙は以下のように記している。
午後4時ごろ、コクリン卿は、
青色のリボンや旗、
月桂冠で装飾された無蓋のランドー馬車に乗っ
て、コヴェント・ガーデン周辺を凱旋した。騎乗のジェントルマンが2人ずつならんで行進を
先導し、そのうしろには、正装の士官候補生と海尉たちが率いる、水兵を満載した船[の形を
した山車]が続いた。次に、コクリン卿と選挙に関係した海軍士官たちが進んだのち、閣下の
友人が乗ったジェントルマンの馬車が数多くみられたのである。行進全体はきわめて優雅で、
とても愉快なものだった。閣下は、行進を一目みようと集まった紳士淑女の集団に熱烈に歓迎
54 管見のかぎりでは、これにふれた史料はみあたらないものの、コベットの伝記作家たちは、
『ポリティ
カル・レジスタ』誌の値下げにあたりコクリンの助言があったと記してきた。E.g., anon., The life of
William Cobbett, Esq. late M. P. for Oldham: including all the memorable events of his extraordinary life ... with
an impartial critique on his public character ... embellished with portraits (London, 1835), p. 111.
55 選挙の儀礼がもつ意味については、Frank O Gorman, Campaign rituals and ceremonies: the social meaning
of elections in England, 1780-1860 , Past and Present, cxxxv (1992), pp. 79-115をみよ。
32
されていた。民衆はかなり乱暴で、リチャードスンズ・ホテルの窓を何枚も割っていた。行進
は、コヴェント・ガーデン周辺をまわったのち、サウサンプトン通りを進み、ストランド街を
経て西に向かっていった 。
56
ここで前章と同じように、有権者の投票行動を分析して、急進派の海軍士官の当選の意味を考え
たいが、1807年選挙の場合は大きな問題がある。そもそも、投票者名簿(poll book)のような史料
が残存していないため、
『ウェストミンスタ歴史データベース』を利用した統計的な分析が不可能
なのである。それでも、コベットの『ポリティカル・レジスタ』誌などに掲載された投票結果から、
各候補の獲得票数とその構成は知ることができる。
表2を一瞥して気づくのは、同じ急進派の候補とはいえ、バーデットとコクリンでは、票の構成
がずいぶんと異なることである。まず、第1位で当選したバーデットへの票の内訳をみると、彼だ
けに票を投じた単記投票が全体の32.6%を占めており、続いてコクリン、シェリダンとの分裂投票
が占める比率がそれぞれ27.7%、29.7%であったことが確認される。しかし、第2位で当選したコク
リンの場合、単記投票は全体の17.0%とそれほど多くはなく、バーデットとの分裂投票が38.4%、
政府支持者であるエリオットとの分裂投票が34.1%を占めていたのである。このように、政府と急
進派の候補の双方に多くの有権者が投票するというのは、過去のウェストミンスタ選挙では例をみ
ない 。「雄弁家」ヘンリ・ハントも、後年こう回想している。「選挙のあいだ、コクリン卿が内閣
57
の支持者から大きな支援を受けていたのはあきらかだった」 。
58
なぜ、コクリンの主張や立場にもかかわらず、こうした有権者の投票行動がみられたのか。その
理由のひとつは、彼の反カトリック感情に求められよう。1807年選挙の重要な争点が、カトリック
解放問題であったことは先述した。コクリンは、選挙戦でこの問題に直接ふれることは避けていた
けれども、選挙広告には、
「その目的において不適切であるばかりか、海軍内部に宗教的な不和を
もたらす」と記していたのである 。また、コベットとは立場がまったく異なる「極右」のヘンリ・
59
レッドヘッド・ヨークも、コクリンを支持していたが、それは、彼がコクリンを急進派ではなく、
国王とイングランド国教会を護持する体制支持派とみなしたためである。
『ポリティカル・レヴュー』
誌には、こう書かれている。
コクリン卿を支持するよう呼びかけるために、あなたがたをほんのわずかな時間でさえ引き留
めるつもりはない。なぜなら、その才能と職業への忠実さから、彼は候補者として自薦するに
56 Morning Post, 25 May 1807, p. 3. Cf. Rudolph Ackermann, Microcosm of London, 3 vols (London, 1808), i, pp.
208-9
57 1790年以降、政府側候補者である海軍士官の獲得票数のうち、急進派との分裂投票が占める比率は
20%を超えることはまずなかったのである。前掲拙稿、27頁。
58 Henry Hunt, Memoirs of Henry Hunt Esq., written by himself, in his Majesty’s jail at Ilchester, in the county of
Somerset, 3 vols (London, 1820-2), ii, p. 272.
59 [Jennings,] The proceedings, pp. 2-3; BL, Place Papers, Add MS 27838, fo. 100.
33
十分にふさわしい人物であることについて、わたしがこれ以上述べることはないからである。
とはいっても、これは述べておく必要があるかもしれない。最近、君主ばかりか、国家と教会
がひどく脅かされたが、そのさい彼は、それらを守るべく議会で票を行使したのである。現在
の投票状況からすれば、彼は当選者のひとりとなることが推測されよう 。
60
もうひとつの理由は、過去のウェストミンスタ選挙の経緯もあって、海軍の勅任艦長というコク
リンの地位が、政府との関係を連想させたことである。とくに首都の急進派は、彼を偽りの独立の
旗を掲げる「宮廷の候補者(Court Candidate)
」とみなして、
「エリオット大佐とコクリン卿はとも
に政府の支持を得ている」と非難している 。そればかりか、1806年のホニトン選挙における買収
61
行為が批判されたときに、コクリンの反論が不十分だったことも、そうした疑念を強めた 。もっ
62
とも、コクリンに投票した政府支持の有権者の存在が、結果として急進派の勝利を促したと考えて
も、あながち誤りではあるまい。
2.2. 革命化したジャック・タール
これまで本章は、1807年選挙にかんして、コクリンの発言や立場、有権者の投票行動に注目して
考察してきた。最後に、海軍の「神話」や愛国的なイメージとの関係から、急進派の海軍士官の出
馬と当選の意味を考えることとしよう。
過去のウェストミンスタ選挙において、政府側候補者であるフッドやガードナら提督たちは、議
会政治には不向きな存在であり、軍務のために議員の義務を放棄すると対立候補からしばしば批判
されてきた。「はたして同時に、ひとりの人間が海峡で敵艦隊と戦い、セント・スティーヴン礼拝
堂で法を定めることができるのか」というわけだ 。また、ウェストミンスタから出馬した海軍士
63
官の候補者が、自由や独立、国民の利害を脅かす存在として非難されたことも、前章で確認した。
しかし、彼らに投げかけられたより深刻な批判とは、国民や男性としての資質を問うものであっ
た。しかもそれは、対立候補や反対者よりはむしろ、海軍の支持者や利害関係者からもっぱら主張
されたのである。一例をあげると、1806年選挙で「海軍の救世主」とみずから標榜し、海軍への称
賛を惜しまなかったシェリダンは、フッド子爵をかつて非難したことがあった。彼は、イギリス水
兵の率直さや男らしさを賞賛しつつも、
政治にかかわるフッドを船乗りのあり方からかけ離れた
「策
60 Mr Redhead Yorke’s Weekly Political Review, ii, 16 May 1807, p. 391; 30 May 1807, p. 433. Cf. [Jennings,] The
proceedings, p. 176.
61 BL, Place Papers, Add MS 27838, fos. 159-60.
62 Morning Chronicle, 16 May 1807, p. 2; BL, Place Papers, Add MS 27838, fo. 147, et passim. 諷刺版画家トマ
ス・ローランドスンは、「コヴェント・ガーデンの選挙会場に出現した腐敗選挙区の亡霊」を出版
し、ホニトン選挙区という「亡霊」に悩まされるコクリンを描いた。British Museum, the Department of
Prints and Drawings (以下、BMと略記する), no. 1948, 0214. 708: The ghost of a rotten borough, appearing on
the hustings of Covent Garden.
63 Morning Post, 27 May 1796, p. 3.
34
士のような両棲類の提督」と呼んだのである 。1807年選挙のときにも、こうした主張はくりかえ
64
された。『ネイヴァル・クロニクル』誌の記事がその例である。その内容とは、イギリス水兵のあ
るべき姿をふまえて、船乗りである海軍士官の政界入りを憂慮するものだった。
飾り気のない正直なイギリスの船乗りたちの性格が、どこまで政治家たちの策略や狡猾さと調
和するのかを、われわれは判断するつもりはない。多くの勇敢な士官たちの高貴な性格が、政
治家になることでしばしばさいなまれてきた。海軍省とその従者たちは、政治党派や陰謀から
できるかぎり離れるべきだというのが、いつも最良にして最も有能な船乗りたちの切なる願い
(どれほど無意味であっても、それはしめされてよかった)であった 。
65
シェリダンや『ネイヴァル・クロニクル』誌が前提としていたのは、社会的現実とは切り離され
たジャック・タール(Jack Tar)の理想像である。アメリカ独立戦争のころから、ジョン・ディブディ
ンによる歌、版画や劇などをつうじて、陸上では粗野で自堕落だが、海上では誠実で男らしく、祖
国のために勇敢に戦うという愛国的なイギリス水兵への認識が広まりつつあった 。政界入りした
66
海軍士官は、そうした水兵の理想像における最も重要な要素、国民や男性の資質を喪失したとして
批判されたのである。
それでは、急進派であったコクリンの場合はどうだろうか。水兵をめぐる言説や表象においてこ
そ、じつは1806年以前の体制支持派の提督との大きな違いをみることができる。なるほど、コクリ
ンもまた、当選後、軍務のために議員の責務を果たしていないとしばしば批判されたものの、国民
や男性としての資質が疑問視されることはなかったようである。むしろ彼は、イギリス水兵の理想
像と重ねて評価されたとおもわれる。これにかんして、1枚の諷刺版画から考えることとしたい。
ジェイムズ・ギルレイは、
「選挙の候補者たち、あるいはポールの頂点にたつ共和派のガチョウ」
を出版し、1807年のウェストミンスタ選挙を諷刺した(図1) 。これは、コヴェント・ガーデン
67
の選挙会場に立てられた棒(pole)を登ろうとする各候補を獲得票数(poll)の順に描いたものだが、
「共和派のガチョウ」ことバーデット、道化姿のシェリダンといった候補者とくらべると、コクリ
ンは「コベットより貸し与えられた海軍改革の棍棒」をふりかざすヘラクレスとして、まだ好意的
に描かれている。またコクリンが、ビール樽姿のエリオットを踏み台にしているのは、彼が得た票
の少なくない部分が、エリオットとの分裂投票であったことを暗示しているのかもしれない。とも
64 The Senator, or, Clarendon’s parliamentary chronicle: containing an impartial register; recording, with the
utmost accuracy, the proceedings and debates of the Houses of Lords and Commons, x, p. 1492: Commons, 20
June 1794.
65 Naval Chronicle, xvii (1807), p. 421.
66 Isaac Land, War, nationalism, and the British sailor, 1750-1850 (Basingstoke and New York: Palgrave Macmillan,
2009), esp. pp. 88-97.
67 BM 10732: Election - Candidate; - or - the Republican - Goose at the Top of the Pol(l)e (1807).
35
図1 ジェイムズ・ギルレイ「選挙の候補者たち、あるいはポールの頂点に立つ共和派のガチョウ」
(1807年、英国博物館蔵)© The Trustees of the British Museum
36
あれ、この版画で目を引くのは、海軍士官の制服を身にまとい、縞模様の水兵のズボンをはいた彼
の姿である。ここでは、コクリンのズボンはアメリカ国旗の「抵抗のストライプ」をおもわせる赤
と白の縞模様となっているが、その後出版された版画では、フランス国旗を連想させる3色のスト
ライプで描かれることもあった 。
68
前任の海軍出身の議員とは対照的に、コクリンは、独立の主張と改革への熱意から、イギリス水
兵としての評価を維持しえたのではないだろうか。『ネイヴァル・クロニクル』誌が、コクリンの
当選について読者にとくに注意を促し、海軍の利害代表者として期待をはせたのもそのためであろ
う。だがコクリンは、コベットやバーデットとの関係から、
「革命派」や「ジャコバン」と中傷さ
れるのを避けることはできなかった。彼は、海軍の腐敗や改革をめぐる発言や行動から、海軍内部
に不和を生じさせるだけでなく、海軍への国民の信頼を揺るがすデマゴーグとして、反対者から非
難されたのである 。諷刺版画における海軍士官とジャック・タールの混合した姿とは、国民や男
69
性としてのコクリンの資質だけでなく、急進派としての立場をみる人びとに想起させるものであっ
たといえよう。
むすびにかえて
ウェストミンスタ選挙区の歴史において、
議会改革派が大きく躍進した1806年と1807年の選挙は、
重要な画期とみなされてきた。筆者もそれに異論があるわけではない。しかし従来の研究は、しば
しば目的論的・進歩史観的な想定のもとで、急進的なウェストミンスタの成立と展開を論じてきた
のではないだろうか。そのことが、ウェストミンスタ選挙区の重要な側面のひとつを、歴史家にし
て看過させたとも考えられる。海軍の英雄の存在は、ウェストミンスタの政治文化の不可欠な構成
要素をなしていた。急進派が当選を果たした1807年選挙でも、それを確認することができる。これ
までの議論から、冒頭でかかげた目的はおおむね果たせただろうが、最後に残された課題を述べて、
本稿のむすびにかえることとしたい。
最初にあげる課題とは、19世紀初頭のイギリスのラディカリズムにかかわる。たとえば、コクリ
ン自身の主張にかかわらず、彼を体制支持派とみなす人びとが少なからず存在したことは確認した
が、ラディカリズムの展開におけるナポレオン戦争時代の固有の意味を考えるうえでも、これは示
68 E.g., BM 10736: The Close of the Poll or John Bull in High Good Humour (1807); BM 12212: Representation of
y e Gull Trap - & y e Principal Actors in y e New Farce Call’d y e Hoax! Lately Perform’d with Great Eclat on y e
Stock Exchange (1814).
69 海軍委員であったジョン・マーカム提督は、アディントン政権の海軍大臣で、ときの海峡艦隊司令
長官であるセント・ヴィンセント伯をコクリンが非難したため、トマス・グレンヴィルにあてた書
簡のなかで、彼のことを厳しくこう批判している。「彼の愚かで不埒なおこないは、嫉妬、嫌悪、悪
意、ありとあらゆる無慈悲さによるものなのです」。BL, Thomas Grenville Papers, Add MS 41857, fo. 31:
Admiral Markham to Thomas Grenville, 27 May 1807. Cf. Morning Post, 16 May 1807, p. 3.
37
唆的である。ピーター・スペンスやフィリップ・ハーリングらの研究によると、当時の急進派は、
戦争の遂行と議会・行財政改革の主張を結びつける一方で、イギリスの自由や国制を擁護する愛国
者としての立場を明確にすることで、人びとの支持を獲得したという 。コベットやバーデットだ
70
けでなく、コクリンもまた、
「復古的」
、
「ロマン的」と形容される当時のラディカリズムを考察す
るうえで格好の対象となりうるはずだが、議論が尽くされているとはいえない。この研究上の空白
は、ぜひとも埋めなければならないだろう。
もうひとつの課題は、海軍の意味や機能にかかわるものである。18世紀末以降、海軍のパトリオ
ティズム、あるいは「国民的神話」は野党側から体制側に大きくシフトしていたとされる。すでに
筆者も論じたように、そのことは、ウェストミンスタ選挙区における海軍士官候補の擁立と当選の
事例にも顕著にみられる。では、コクリンの事例はどう考えるべきなのか。体制側ではなく、急進
派に有利なように海軍の「神話」が作用していたと理解してもよいのだろうか 。もしそうだとし
71
ても、その歴史的脈絡とはいかなるものなのか。このような問題についても、今後考察を深めるこ
とをめざしたい。
[付記]本稿は、日本学術振興会科学研究費補助金(若手研究(B)、課題番号:21720271)による研究成果
の一部である。
70 Harling, The waning of ‘old corruption’ ; Spence, The birth of romantic radicalism.
71 Jenks, Naval engagements, chapter 5. ジェンクスもまた、急進的なウェストミンスタにおけるコクリン
の事例を検討している。しかし、海軍のパトリオティズムや象徴をめぐる修辞上の抗争を問うという
彼のアプローチでは、ラディカリズムそれ自体を批判的に検討しえないという難点がある。
38
神戸鉄工所の破綻と海軍小野浜造船所の成立
−軍艦「大和」建造の行方−
池 田 憲 はじめに
1.「葛城」「大和」
「武蔵」の建造計画
2.「大和」の契約締結をめぐって
3.神戸鉄工所の破綻とその処理
4.海軍小野浜造船所の成立
おわりに
はじめに
日本海軍史上、国内の民間企業=神戸鉄工所(英国人キルビー 経営)に初めて発注された軍艦
1
が「大和」(初代)である。2代目の戦艦「大和」があまりにも有名なためか、初代は一般的には注
目されていないが、研究史 上において特異な存在感を示している。従来の研究では、外国人によっ
2
て経営され、多数の外国人技術者を擁していた同所が日本で初めて鉄船建造をおこなった点に着目
し、造船史上において船体構造材が木から鉄に変化する際に同所が大きな役割(技術移転)を果し
たという主張が多い。
しかしながら、それらの研究は次のような難点をもっている。①資料的制約もあって、同所にお
ける鉄船建造の過程および成果についてほとんど明らかにしていない。②「大和」は海軍横須賀造
船所で先に起工された「葛城」の同型艦(2番艦)であったことと、それに採用された2段膨張式機
関の製造についても横須賀が先行していたことを軽視ないしは無視している。③海軍の長期軍拡計
画が成立したことによって、3番艦の「武蔵」を含めて同型艦3艦が短い期間に計画・起工されるに
至ったという背景を十分考慮に入れていない。④資金繰りに苦しんだキルビーが自殺して同所は破
1 正確にはEdward Charles Kirbyであるが、通例に従って「キルビー」と表記する。以下でたんに「キルビー」
と称する場合はすべて同人のことを指す。なお、「神戸鉄工所」は<Kobe Iron Works>の日本語表記と
して研究史上で一般的であるため使用しているが、本稿で利用した海軍史料には「キルビー社」「神戸
製鉄所」「船舶製造所」等の様々な表記がみられる。同所については不明な点が多いが、鈴木[1996]、
千田[2004][2014]、中岡[2006]、および池田[2014]を参照のこと。
2 これについては池田[2014]を参照されたいが、そのなかで千田[2014]には接した時期が脱稿時に近かっ
たため、十分な吟味ができなかった。同稿は本稿の問題関心と重なる部分が多いので、やや立ち入っ
て言及することにしたい。
39
綻し、海軍がそれを買収して小野浜造船所として再建することによって、
「大和」は漸く完成をみ
たということについての意義づけも曖昧である。
そこで本稿では、まず「大和」建造の前提となった同型艦3艦の建造計画について事実関係を再
整理し、次に「大和」建造契約について前稿にあった事実誤認を訂正するとともに、新たなる論点
を加味する 。さらに、神戸鉄工所の破綻とその処理過程について検討し、最後に誕生した海軍小
3
野浜造船所の意義を考察することにしたい。
1.
「葛城」
「大和」
「武蔵」の建造計画
1882(明治15)年後半から83年にかけて横須賀造船所では「海門」と「天龍」という2艦が建造
途中であった。続いて、
初の鉄骨木皮軍艦「葛城」
( 1,480トン)が起工された。そもそも、
この「葛城」
は長期軍拡計画と無関係に予め企画されていたものであり、当然ながら通常予算による建造予定で
あったが、長期軍拡計画の成立によってそのなかに組み込まれた。それだけでなく「大和」と「武蔵」
という姉妹艦(予算額もまったく同じ 、表1を参照)建造計画へと拡張されていく。それらの点に
4
ついては池田[2002]
・
[2014]で触れているが、不十分な点があるので、もう1度その発注・建造
計画の推移について整理・補完をしておきたい。
「大和」については1882年9月からキルビー経営の神戸鉄工所への発注が海軍内で検討されて、翌
年2月にはそれが決定されている。これは、軍艦の海軍内自製でも海外発注でもない、国内の民間
造船所への発注(搭載兵器を除く)という海軍で初めての試みであり、きわめて注目される。
まず82年2月にキルビー自身による売込み工作があったが、その時点で海軍はまったく相手にし
ていなかった 。それが一転して発注まで至ったのは、明らかに長期軍拡計画の成立によるもので
5
あった。軍拡予算がなければ通常経費による軍艦建造しかありえず、その点では横須賀造船所にお
ける建造だけで足りており、外部に発注する必要性はまったくなかったのである。ところが、82年
8月壬午事変発生以降、対清軍拡戦略の必要性が政府内で急速に浮上し、それに基づいて海軍は艦
隊早期整備の構想を持ちはじめた。その際、外国に発注することも考慮されていたが、この時点で
決定済であった「ガンボート」購入もかなり難航しており 、海外発注は回航期間も含めると相当
6
な時間を必要とするし、外貨不足の問題もあった。
そうすると、すでに完成している「製造図」を基礎にしてまずは横須賀造船所で同時並行して複
3 行論上、前稿と若干重複する部分があることを予めお断りする。
4 ただし、後にみるように82年11月時点では「葛城」が57万円、「大和」が57万8250円である。
5 1882年2月4日付川村海軍卿宛キルビー書簡には「現今余ハ軍艦及ヒ水雷端舟等ニ適用ス可キ鉄船或ハ
鉄木合成ノ船舶及ヒ汽船ヲ製造ス可キ地位ニ在リ」
(史料[1]所収)とあった。なお、同書簡は史料[2]
にも収録されており、そこには海軍卿の諮問に対して赤松主船局長が「一般広告書類似ノモノニ付キ
別段回答ニ不仕」(1882年3月1日付「キルビー社ヨリ来書之義ニ付御届」)と一蹴した文書も添えられ
ている。
6 池田[2001]p.50。
40
数艦を建造することがとりあえずベターな方法であったにちがいない。
だが、
当時の横須賀は
「海門」
「天龍」が建造途中であり、
後者は未だ進水をしていなかった。同所は3つの船台をもち、
「磐城」
「海
門」
「天龍」の3艦をほぼ並行して建造していたが、初めての鉄骨艦を同時並行して建造することが
可能かどうか、海軍自身も判断しかねるところであった と考えるべきであろう。
7
そこに舞い込んだのがキルビーの2回目の「売込」状 であった。それには「当地職工数百人ヲ傭
8
使シ、聊カ其費用ヲ日本政府ニ仰カズシテ右職工等ニ余カ職業トスル諸般ノ工業ヲ教授スルノ方法
ヲ設ケリ、又余ハ鉄艦製造ノ技術ヲ日本ニ弘メントスル其先鞭ヲ着ケタル者ニシテ、目今二千噸以
上ノ鉄艦及ヒ機関等ヲ全ク製造落成センコトヲ定約セラル可キ地位ニ在リ、而シテ該工事総テ当地
ニ於テ之レヲ為シ唯鉄ノ輸入ヲ仰ク而已ナレハ船舶及ヒ機関製造ノ費用四分ノ三ハ当地ニ止リ外国
ニ出ルコト無カラヘシ」
(下線および句点は引用者)と、1回目の書簡よりも具体的なアピールが書
かれていた。
このようなキルビーの申し出は、
海軍当局の新艦整備構想にかなり適合的であった。すなわち
「葛
城」の設計図を流用して、民間の神戸鉄工所で1艦、横須賀で「海門」「天龍」の竣工目処が付い
た後にさらにもう1艦建造すれば、それが順調にいくと3つの主力艦を国内において比較的短期間に
整備することができるからである。だが、海軍がキルビーの言葉をそのまま信じたとはいえないで
あろう。神戸鉄工所の建造した船舶がよい評判であったことはほぼ確かなことのようであるが、同
所が初めて建造した鉄製船舶は琵琶湖の大津−長浜間鉄道連絡船(
「太湖丸」516トン、
「第二太湖丸」
498トン)2隻であり、この時点ではまだ竣工していなかった。この2船は当時の民間船舶としては
比較的大きいものであるが、その実績が果して2,000トン超クラスの鉄骨軍艦建造を保証するであ
ろうか。しかも、2段膨張式機関もその時が初めての製造であった 。
9
とはいえ、軍拡予算獲得が確実になりつつあったこの時期に、従来とは違って現実的かつ具体的
な艦隊整備計画を求められていた海軍の選択肢は限られていた。そのためか、同年10月にキルビー
に前向きの回答をおこない 、ついで11月には「葛城」の船体・機関の製造目録と製造予算を送付
10
し、請負価格(銀貨38万5500円)を指定して、その製造についての諾否および製造期間について照
会した 。これに対して、キルビーも指定された仕様や請負価格を了承するとともに、製造期間に
11
7
1881年に出された赤松建議の構想(池田[2001]pp.43-45)からみても、初の鉄骨艦でしかも1000ト
ンを超える排水量の2艦を同時並行して建造することについては、かなりの困難が予想されたと考え
ざるをえない。
8 1882年9月28日(翻訳10月4日)付海軍卿宛キルビー書簡(史料[1])。
9
以上については、池田[2014]pp.113-117。
10 この回答文書(写し)は史料[1]に収録されていないようであるが、同史料所収の「艦船製造書」
という文書には、10月19日に「キルビー社への回答」と記されている。その内容は判明しないが、そ
の後の経過から前向きだったことが推測できる。
11 1882年11月4日付御指令案(史料[1])。これには海軍卿の決済印が押されている。なお、その付属文
書である「新艦製造予算書」には「葛城」の予算が通貨57万円と記されているが、神戸鉄工所へ提示
された請負価格は銀貨38万5500円(通貨57万8250円)とされている。
41
ついて20 ヶ月と回答している 。その後、主船局長が「海外ヨリ輸入ヲ減シ職工ヲ養成スルノ一端
12
トモ相成ル」という点を主要な理由として、
神戸鉄工所に対する発注を上申 した。それに基づいて、
13
海軍卿は12月28日付で大蔵卿にその契約を結ぶために代価の3分の1(約20万円)の支払を要請した
模様 である。
14
表1 繰上げプランに基づく艦船整備案(1883年5月25日) (単位:千円)
艦名
費別
1883年度 1884年度1885年度 合計
造船費
120
120
兵器費
162
162
小計
282
282
葛城
造船
220
240
140
600
艤装費
34
34
兵器費
170
170
小計
220
410
174
804
武蔵
造船
130
260
210
600
艤装費
34
34
兵器費
170
170
小計
130
430
244
804
大和
造船
500
100
600
艤装費
34
34
兵器費
170
170
小計
670
134
0
804
水雷砲艦
造船費
126
255
255
636
兵器費
83
83
166
小計
126
338
338
802
筑紫
造船費
507
507
回航費
133
兵器費
205
205
小計
845
0
0
845
鋼鉄一等艦
造船費
750
750
1,500
回航費
150
150
艤装費
23
23
兵器費
426
426
852
小計
1,176
1,326
23
2,525
鋼鉄鉄甲艦
造船費
638
1,275
638
2,550
回航費
210
210
艤装費
32
32
兵器費
426
426
852
小計
638
1,701
1,306
3,644
監督者及諸雑費 造船費
26
49
49
124
海門天龍筑紫
艤装費
126
126
17サンチクルップ砲 兵器費
145
145
総計
4,384
4,388
2,134 10,906
当初予算額
3,330
3,330
3,330
9,990
予算不足額 -1,054 -1,058
1,197
-916
(出典) 1883年5月25日付三条太政大臣宛海軍卿「新艦製造費繰上
御下付ノ儀上請」添付資料(史料[3])より作成。
天龍
12 1882年11月25日付海軍卿宛キルビー書簡(史料[1])。
13 1882年12月4日付海軍卿宛赤松主船局長「艦船製造方キルビー社へ御注文之義上申」(史料[1])。
ここでは、造船費が充分に増額された場合という留保が付けられてはいるが、この時点で海軍軍拡予
算獲得は(詳細な金額はともかく)既定路線上のものであった。
14 1882年12月28日付大蔵卿宛海軍卿(史料[1])。残された文書は照会案の写しであるが、その後の経
過から実際におこなわれたものとみてよい。なお、それ以前にキルビーは船材の変更とその超過コス
ト分の上乗せ(銀貨1万3500円)を要求して承認され、請負価格は39万9000円となった。これについては、
42
その間、主船局と横須賀造船所は次に建造すべき艦について検討をおこなっていた。当初は木骨
砲艦を計画していたようであるが、海軍卿の同意を得られなかった。そのため、「既ニ製図モアリ
艦身機関部ノ木形等モ葛城ノ分ヲソノ儘相用」いることができるなどの理由から、主船局長は11月
29日に「葛城」同型艦の建造を再提案した 。海軍卿はそれを承認し、翌83年2月16日に横須賀造
15
船所に対して「武蔵」の製造命令を出した 。
16
海軍卿が木骨砲艦の建造を了承しなかったのは、軍拡予算が確定しつつあった時点では、新たな
軍拡計画に基づいた主力艦の整備を優先すべきであるという判断 があったように思われる。その
17
意を汲んだ主船局と横須賀造船所は「葛城」同型艦の追加建造を決断したのであろう。同所次長渡
辺忻三の上申 によれば、
「海門」
「天龍」の建造は順調に進捗しつつあって、他方で注文中の「葛
18
城」鉄骨材は83年6月頃にならなければ到着しない見込であり、
同所の人員は余裕がある状況になっ
ているということであった。ただし、
「葛城」同型艦の建造を当初から計画しなかったのは軍拡計
画の進展状況によるものなのか、それとも技術的な問題なのかは、現在のところ認定できない。
2.
「大和」の契約締結をめぐって
1882年夏以降の海軍長期軍拡構想に基づいて、国内建造艦3艦計画が事実上進行していった。そ
の内、
「大和」は海軍創立以来初の国内民間企業への発注という点で重要であるだけでなく、その
建造過程が結果として海軍小野浜造船所の設立に帰結したという点でも注目されるため、まず契約
締結をめぐる事実関係についてみておきたい。
83年に入って松方大蔵卿のアドバイス を受けつつ、神戸鉄工所との「大和」建造に関する契約
19
を結んだのが、2月23日であった。その契約書 は、赤松主船局長とキルビー
(保証人としてアイ・ノー
20
ス )との間で締結されている。全21条と副約5項目からなるものである。そのなかで、特に注目
21
1882年12月18日(翻訳12月19日)付海軍卿宛キルビー書簡(史料[1])を参照。
15 1882年11月29日付海軍卿宛主船局長「葛城艦同形ノ鉄骨艦一隻御製造相成度義重テ見込上申」(史料
[4])。これに関連して、81年3月時点で海軍省はすべての新造艦を鉄骨ないしは鉄製とすることに決
定していたという見解(室山[1984]p.107)について、それは史料のミス・リーディングであるこ
とを池田[2002](pp.23-24)は指摘したが、この経緯も傍証となる。つまり、すでに構造材の全面的
変更(鉄への)が決定されていたならば、横須賀でそもそも木骨艦を計画することなどありえないか
らである。
16 1883年2月16日付御指令案(史料[5])。この文書には結了印が押されている。
17 この時期よりもやや後に83年軍拡当初プランに基づく艦隊整備案が作成されており、そこで小艦と分
類される木骨砲艦よりも中艦とされる「葛城」クラスの建造にいち早く着手した方が、艦隊整備およ
び軍拡費消化の観点からいって望ましいという判断があったのであろう。その後の修正プランに対応
する整備案(表1)が小艦を外しているのもその証左となる。
18 1882年11月17日付海軍卿宛渡辺忻三横須賀造船所次長「新艦製造御達相成度上申」(史料[5])。
19 1883年1月17日付および同年1月27日付海軍卿宛大蔵卿文書(史料[1])。
20 1883年3月3日付「軍艦一艘艦製造方ニ付『キルビー』ト条約済之義御届」(史料[1])。なお、原文で
は「条約」であるが、現代的な用語では「契約」であるので、本文では「契約」で統一する。
21 同人については詳細不明である。なお、以下における外国人名については参照史料における日本語標
記に依る。
43
されるのは以下の諸点(表2を参照)であろう。①請負代価は銀貨換算で39万 9千円であり、目安
となる作業工程終了後の6回に分けてその時期の銀貨・紙幣相場に応じて紙幣 で支払われること
22
(第3条および第13条)
、②製造期限は84年9月(83年2月より20 ヵ月の製造期間) であり、1 ヵ月
23
遅延するごとに請負代価の1%を減ずること(第5条)、③請負者が「事故アリ製造中万一此製造請
負ヲ断リ度望ム」場合は、注文者に対してすでに支払われた金額に1割の利子を加えて返還すると
ともに、賠償金として銀貨3万9900円(請負金額の1割)を支払うこと(第15条)
、④製造中の軍艦
および製造所(鉄工所)設備、さらには貯蔵物品を前金の抵当とすること(第16条)
、⑤意外な損
害によって経営を維持しがたく軍艦を完成できず、かつ支払済金全額を返還することができない場
合は、「該金額ニ比較算当シテ着手半途ノ軍艦ヲ以テ之レニ換エ其儘注文者ヘ引継クベシ、而ル
モ猶幾分歟ノ不足アラバ製造所ノ諸器械器具ヲ以テ弁償スルコト」
(第17条)などが規定されてい
た 。
24
表2 「大和」建造契約の概要
項目
内容
条
請負代価 日本銀貨39万9000円
3
支払額
第1期 契約締結後14日以内 銀貨6万5000円
13
および期日 第2期 鉄骨板類到着選定後7日以内 銀貨6万5000円
第3期 艦体肋材の取付および機関の主要部分製造を検査後 銀貨6万5000円
第4期 船体および機関部組立のほぼ完成 銀貨6万5000円
第5期 進水後 銀貨7万4000円
第6期 試運転後艦体受取後 銀貨6万5000円
建造期限 1883年2月より1884年9月
5
延滞金
1ヶ月毎に請負代価の100分の1
5
違約金
建造中止の場合、前払金に利子1割を加えた額と違約金銀貨3万9900円を支払う
15
抵当
製造中は本艦、製造所および貯品を抵当物と見做す
16
17
弁償
経営不能等による建造中止で返金不能の場合、軍艦本体と製造所の機械器具で弁償す
保証人
請負者が契約履行できない場合、保証人が代行する
21
(出典)
1883年3月3日付「軍艦一艘艦製造方ニ付「キルビー」ト条約済之義御届」(史料[1])。
(注)
請負代価に搭載兵器の製造・取付費は含まれていない。支払額については、毎期日後7日
以内に横浜株式取引所前日の平均相場により換算し、日本紙幣にて支払う。
以上で紹介した契約条項からみて、海軍側はかなり慎重な姿勢で臨んだものと考えられる。とい
うのは、建造が順調にいかなかった場合に対する配慮が多くなされているからである。この点につ
いて、神戸鉄工所の経営危機を見込んだものではないかという見方 もありうるであろうが、その
25
22 池田[2002]および池田[2014]においては「銀貨による支払」と解釈していたが、史料の「六回ノ
払ハ毎期日後七日以内ニ横浜株式取引所前日ノ平均相場ニ因リ日本紙幣ヲ以テ香港支那銀行ニ於テス
ヘシ」という箇所を読み落していたためで誤りであった。それゆえ、本文のように訂正する。
23 副約では、製造期限についてキール(竜骨)の据付日を起点として20 ヶ月とすることと、それを契
約締結後5 ヶ月以内とすることが定められている。この点は厳密には第5条と相違するが、主要構造
材たる鉄材は輸入に依存せざるをえず、契約後に注文することを考慮して副約のように修正されたも
のと思われる。
24 第15 ∼ 17条の全文については、池田[2014]pp.121-122を参照。
25 中岡[2006]p.361。
44
史料的裏付けはなく、むしろ初めて国内民間企業に対して軍艦を発注したことへの配慮 と理解し
26
た方がよいであろう。
次に、上記の各項目について若干の検討をおこなう。①の銀貨39万9千円という請負金額は契約
締結時の相場で紙幣に換算すると約56万円となる 。この金額には搭載兵器を含んでおらず、
「葛城」
27
および「武蔵」の船体・機関製造予算とほぼ同額であった 。このような銀貨建てによる紙幣支払
28
という方法を取ったのは、この時期に松方の紙幣整理策が進展し、銀貨と紙幣の格差が縮小しつつ
あったとはいえ、その行方はなお予想しがたかったためであろう。キルビー側からすれば、紙幣が
減価した場合にそれをヘッジすることができ、海軍(日本政府)側からすれば、紙幣で支払うこと
ができるメリットがあった。
また、6回に分割して支払うということも、長期にわたる建造という点からみて合理的であった
といえる。政府による民間への支払は原則的に後払いであったが、英国に発注された3艦にみられ
るように、軍艦については特例として前払いが認められていた 。当該契約では契約締結後に最初
29
の支払が始まり、以後軍艦受領完了まで全6回の支払をおこなうこととされている(詳細は表2)
。
だが、こうした大型工事(製造)の場合、様々な理由から完成に至らない可能性を考慮する必要
がある。そのため、当該契約では軍艦および製造所(鉄工所)設備、さらには貯蔵物品を抵当とし
て設定したものと思われる。前払い額の全額に相当する抵当を設定する点と、返金において利子と
違約金が課せられている点等で、この契約が「かなり厳しい条件」であったといえるであろうが、
後に成文化された契約時に払う保証金という制度 に比べると、受注側からすれば資金繰りの面か
30
らみて好都合なものであったにちがいない。
以上の点から、「大和」の契約条件は海軍側と神戸鉄工所の双方にとってそれなりに納得できる
ものであったと考えられる。軍拡(艦船整備)計画の実施を急いでいた海軍はこの建造が順調に実
行されることを願っていたにちがいないが、何か問題が生じた場合に対する慎重な対策もとってい
たのである。他方で、キルビーと神戸鉄工所にとってはこの受注が起死回生策となるはずであった。
だが、現実は両者を裏切ることになった。
26 以前に英国企業に発注した3艦(
「扶桑」
「金剛」
「比叡」
)の契約は、特命全権公使上野景範と元英国海
軍造船長官エドワード・ジェームス・リードとの間で締結された。それはリードへのほぼ<丸投げ>
に近いものであり、建造の進行に従って4回に分割して代金を支払うことになっていたが、なんらか
のトラブルで建造が中途に終わるといった想定はなかったようである。この契約については、1877年
10月22日川村海軍大輔宛小森沢海軍中秘史文書「英国ヘ注文軍艦回漕ノ義ニ付条約書ノ件」
(史料[3])
を参照。
27 大蔵省[1890]p.336。
28 池田[2014](p.121)では製造予算が判明しないと述べているが、83年5月艦船整備案(表1)では3
艦とも60万円となっている。
29 池田[2014]p.122。
30 大蔵省[1926]p.846。
45
3.神戸鉄工所の破綻とその処理
「大和」の製造期間が契約において20 ヶ月とされている点からみて、建造は速やかに開始され
た とみるべきであろう。主要構造材の鉄材は契約締結後に英国に発注されて到着まで時間がかか
31
るので、それまで船体の主要工事を進めることができないが、機関やその他部品についての製造・
加工などが始まったはずである。83年9月の神戸鉄工所について、工部雀長崎造船所技師の佐立二
郎は次のような観察記録を残している 。
32
過般政府ヨリ大和艦製造ノ命ヲ受ケ昨今略々其機械部ニ着手スレトモ、船体部未ダ全ク製
図并材料聚集中ニシテ、鉄部ハ英国ヨリ購入シテ計画中ナリト云フ、機械部ハ低圧汽筒ヲ
鋳造シピストン類ノ鑿削ヲ見受ケタリ、然レトモ是等ハ職工ノ幾部分カヲ役スル而已ニシ
テ、猶全力ヲ尽スニ足ラズ
このように、契約後約半年間で機関の製造は進展しつつあったが、鉄材が未だ到着していないた
め、船体の建造には本格的に取り掛かれておらず、労働力を持て余している状態であったことがわ
かる。この遅れは英国におけるストライキが原因だったようで10月になってようやく到着した。そ
れを理由として、キルビーは2 ヶ月半製造期間の延長を海軍省に願い出ており、海軍省側もやむを
えないと了承している 。
33
ところで、前述したようにキルビーは2回目の海軍卿宛書簡で神戸鉄工所について「二千噸以上
ノ鉄艦及ヒ機関等ヲ全ク製造落成センコトヲ定約セラル可キ地位ニ在リ」と述べていたが、これが
必ずしも実績に基づくものとはいえないという点については既に指摘した。しかも、2,000トンクラ
スの軍艦を建造するうえで同所はかなり手狭であったと考えられる。前述の佐立は「工場ノ地位組
成等ハ宜シキヲ得ズ初メ築造着手ノトキハ摸形小ニシテ追々工事モ隆盛ニ趣クニ従ヒ増築スル者ナ
レバ職場狭隘ニシテ運送ノ不便最モ甚シ」 と述べている。これが事実であったことは、キルビー
34
31 海軍大臣官房[1970]
(p.13)は起工を83年2月23日としている。だが、それは「契約締結日のようである」
として、中川[1994]は同年11月23日起工を主張する。その理由は「竜骨の据付け」の日付というこ
とらしい。だが、その典拠が示されていないだけでなく、<起工>=<竜骨の据付け>という定義の
根拠も明白ではない。中川[1994]に掲げられている艦船の起工日はすべて竜骨が据えられた日なの
であろうか。そのような典拠が存在すること自体が不思議である。<起工>→<進水>→<竣工>の
日付に意味があるのは、ある艦船の建造過程にどの程度の時間が費やされたのかということの目安に
なるためではないのか。そうであれば、<起工>=<建造開始>であるはずで、竜骨を据える前に「船
殻工事一〇−二〇%が既に進捗しているのが普通で」(大前[1951]p.79)あり、機関の製造も既に
並行して始まっていてしかるべきである。
32 中西[1983]p.624。
33 1883年10月13日付「大和艦落成期延期之義ニ付伺」(史料[1])。この件についてキルビー側の落ち度
によるものではないと海軍当局は判断して、契約条項に抵触しないものとしている。
34 中西[1983]pp.624-625。
46
が海軍省を通じて同所に隣接する大蔵省税関用地の借用を申し出ている ことからも裏付けられる。
35
かくして、10月から漸く船体建造についても本格的に着手できるようになったはずであるが、わ
ずか2 ヶ月後の12月に突然キルビーは自殺してしまった 。それは、彼が多額の負債を抱えて資金
36
繰りに行き詰まったためであると伝えられているが、その事実関係はあまり明らかにされてこな
かった 。この点について、その後の経過と関連させながら述べることにしたい。
37
キルビー死去の報を受けて、主船局は急遽善後策を検討し、12月21日に海軍卿宛に上申 をおこ
38
なった。それによると、製造契約に基づいて主船局は保証人であるアイ・ノースに談判したところ、
キルビーが香港上海銀行横浜支店から約26万ドルを借入れており、その抵当として神戸鉄工所の設
備・機械類が当該契約以前に設定されていたことが判明した。これでは、アイ・ノースが建造を継
続することは困難であろう 。その場合には、前払い額を返金するとともに違約金を支払うか、そ
39
れができないなら抵当によって替えることになる。ところが、同所の諸設備・機械類のほとんどは
既に香港上海銀行の抵当に入っているのであるから、海軍にとって回収できるのは建造途中であっ
た船体・機関の一部と新たに購入した機械および材料類だけであった。
そのようにして建造途中の「大和」を引取るとしても、横須賀造船所に回送して建造完了させる
ことしかできないが、その費用は少なくないと推定されるとともに、
「海門」
「天龍」
「葛城」の3
艦を建造中であり、かつ「武蔵」の起工を予定していた同所の余力は限られているため、竣工は大
幅に遅れざるをえない。こうした状態は、軍拡予算成立による艦隊早期整備を求められていた海軍
にとって望ましくなかった。また、外国への発注を増やそうとすれば、契約や回航期間等に時間
がかかるとともに正貨問題と抵触する。もし、キルビーの債務を海軍が返済することによって神戸
鉄工所自体を買取り、技術者や熟練労働者も引継ぐことができれば、そのまま「大和」建造を続行
することができるだけでなく、海軍の目指すもうひとつの造船所建設プラン へと繋がる可能性も
40
35 1883年4月19日付海軍卿宛主船局長「神戸港税関用地ノ内御借受相成度等之義上申」(史料[6])。そ
の後、海軍卿が大蔵省に申し入れて了承を得たことについては、1883年9月25日付海軍卿宛主船局長「神
戸港小野浜大蔵省用地ノ内借受済ノ義御届」(史料[6])。
36 1883年12月17日付海軍卿宛主船局長「大和艦製造請負主キルビー死去之義ニ付御届」(史料[7])。
37 これについて具体的に言及しているのは、おそらく千田[2004]
(pp.14-15)
[2014]
(p.11)だけであろう。
だが、その把握には以下で述べるようにかなり問題がある。
38 1883年12月21日 付海軍卿宛主船局長「神戸港キルビー社所有造船所ノ義ニ付見込上申」(史料[1])。
前述のように、海軍としては契約を慎重に締結したはずであったが、キルビーの信用調査について十
分ではなかったというべきであろう。ただし、この当時にそれが可能であったかどうかは定かではな
い。
39 千田[2014]は、キルビーの死後も同所が経営拡大を続けていており、それに不安を抱いた香港上海
銀行が日本政府に同所の買収を求め、甥である「経営を引継いだA.キルビーは反対を表明したが、銀
行の意向を覆すことができなかった」(p.11)と述べている。しかしながら、キルビーは債務の返済
ができずに自殺したのであるから、経営の継続は不可能であろう。キルビー個人の債務の抵当として
同所の地所・設備・機械等すべてが設定されており、それらを売却して債務の返済に充てるというこ
とにならざるをえないのである。
40 池田[2001]p.43、および千田[2004]pp.20-21。
47
あった。それゆえ、債務返済については香港上海銀行との交渉によって5 ∼ 8年賦を求め、造船所
作業会計の益金によってそれを返済していくというのが主船局の案であった。
これについて、海軍首脳は当初否定的だったようである が、香港上海銀行や大蔵省との折衝の
41
結果、主船局案の線上でその処理は進んでいった。翌1884年1月7日に海軍卿は太政大臣に対して、
キルビーの債務を肩代わりすることによって神戸鉄工所の機械・設備等を一括して購入することに
ついての許可を求め、同1月17日付で承認された のである。そこで、海軍は1月22日に香港上海銀
42
行と次のような契約 を結ぶに至る。
43
同契約は全10条からなり、赤松主船局長と香港上海銀行取締役ジヲン・ウヲーターとの間で結ば
れ、英国領事ルツセル・ロベルツが副署したものである。その主な内容は、次の通りである。①神
戸鉄工所の諸設備・機械類を海軍省は同銀行から銀貨22万3500円換算で買取ること(第1条)
。②ま
ず契約完了後に2万3500円を、1年後2年後3年後にそれぞれ6万6666円余を、当該期の銀貨・紙幣相
場で換算して紙幣で支払う、その際利子分を年利6%で付加すること(第2条)。③大蔵卿が海軍省
による支払の保証をおこなうこと(第3条)④神戸鉄工所が雇用していた外国人については同銀行
が処遇をおこない、海軍省は関知しないこと(第5条)
。⑤製造中の船舶は海軍省が引継ぐこと(第
7条)。⑥抵当書類は一切同銀行より主船局に引渡すこと(第8条)
。⑦神戸鉄工所が外国に注文した
物品ですでに海上にあるものの内、主船局が必要と認めるものについては元値で引取ること(第9
条)
。
①∼③が支払に関する条項である。まず①についてみると、銀貨22万3500円は84年の平均為替相
場 では約19万8000ドルに換算されるので、前述のキルビーの負債額(約26万ドル)にくらべてか
44
なり割引されたものとなっている。銀行側が担保を売却しようとしてもこの時点ではかなりの困難
が予想されるため、交渉において海軍側が優位に立ったのではないかと推測される。②については、
主船局が当初考えていたよりも短い支払期間になっているが、大蔵省の保証を得ている点(③)か
ら、海軍が想定している造船所益金による返済が可能ではなかった場合にはなんらかの財政支援を
期待していたものと思われる。
④∼⑦は、海軍が神戸鉄工所の経営引継に関する条項である。④では、神戸鉄工所の外国人技術
者を必要としなかったようにみえるが、後の経過を追うと必ずしもそうではなかった。それについ
ては後述する。⑥については、キルビーの抵当設定に問題があったことを経験した海軍はより慎重
41 1883年12月「(主船局上申に対する)御指令案」(史料[1])。
42 1884年1月7日付「神戸港小野浜ニアル英国人『イー、シー、キルビー』氏旧所有製造所諸機械其他買
入方伺」(史料[8])。
43 1884年 1月23日「兵庫県下神戸港小野浜英国人イ、シー、キルビー氏旧所有現今香港上海銀行ノ所有
タル諸機械家屋物品等該銀行ヨリ海軍省エ買イ受クルニ付双方ニ於テ左ノ条約ヲ完約ス」
(史料[8])。
ここでも、「条約」は「契約」とする。
44 日本銀行統計局[1966](p.318)によると、1884年の最低と最高の中間値は100円に対して88.6ドルで
ある。
48
な処理をおこなった といえよう。
45
以上のように、キルビー死去によって明らかになった二重抵当問題について、海軍省は第一債権
者たる香港上海銀行に対してキルビーの債務を返済し、神戸鉄工所の建物・設備・機械等をすべて
買収することを決断し、新たに海軍小野浜造船所を発足させて「大和」建造を継続した。結果とし
て、国内民間造船所への初めての本格的軍艦発注は中途で挫折することになり、その竣工は海軍の
手に委ねられたのである。
4.海軍小野浜造船所の成立
長期軍拡計画に基づいた艦船整備を海軍は急がなければならなかったため、神戸鉄工所の買収は
かなりすばやく処理されたといえよう。当然ながら、
「大和」の建造もできるかぎり遅滞なくおこ
なう必要があった。そこで、1884年1月17日に主船局は海軍卿に対して小野浜海軍造船所を創業さ
せること上申し、海軍卿は同年1月25日に太政大臣宛の届を提出した模様である 。さらに、旧神
46
戸鉄工所に所属していた外国人技術者・職工等との契約を結ぼうとした 。前述した香港上海銀行
47
との契約第5条(神戸鉄工所が雇用していた外国人について海軍省は関知しない)に照らせば奇妙
ではあるが、以下で見るように雇用契約についても慎重に締結しようとした海軍当局の意思が感じ
られるところである。
この時に海軍省と雇用契約を結んだ外国人は英国人10名、清国人6名、その他1名の計17名(表3
参照)である。そのなかで技術者は英国人9名であり、熟練労働者は清国人5名であった 。ここで
48
45 同契約を締結後、海軍はさらに香港上海銀行横浜支店支配人エドワルド・モリスおよびダル・ウンカ
(キルビーの妻=相続者)との間で抵当処理に関する確認書を取り交わしている。この史料は、1984
年3月13日付海軍卿宛主船局長「小野浜造船所御買上ケニ係ル書類ノ義ニ付御届」(史料[9])に収録
されている。それは、先に完了した契約によって海軍省が地所の権利(約1600坪の借地権)および諸
建物・機械・物材を譲り受けたことを確認するものであった。そこには、キルビーが1870年12月29日
に締結した借地契約から始まり、1879年6月30日に香港有限火災保険会社から3万ドルを借用し、その
抵当として工場設備・機械類を設定したこと、1881年7月6日にはその債権が香港上海銀行に受け継が
れたことなどが記されている。だが、その3万ドルがいかにして約26ドルまで膨れ上がったのかとい
う点についてはなんら触れるところがない。この時期の神戸鉄工所について、中岡[2006]は「ごく
目安的な見積もりで、船体容積で四倍、船体構造で木製から鉄製へ、機関では単式から2段膨張へと
いう大きな跳躍を実現するために、設備と人員の強化が行われていた」(p.362)と述べている。それ
に従うと、「太湖丸」2隻と「大和」建造のための設備投資およびその運転資金が借入金を急拡大させ
た原因なのではないかという推測はほぼ間違いないものと考えられるが、その裏付けとなる資料は現
在のところ見つかっていない。
46 1884年1月17日付海軍卿宛主船局「神戸小野浜製造所之義ニ付上申」、および同1月25日付海軍卿「太
政大臣御届案」(史料[9])。
47 1884年2月23日付太政大臣宛海軍卿「小野浜海軍造船所へ外国人雇入度上請」
(史料[8])。これについて、
太政大臣は3月5日付で認可している。
48 1884年2月23日付太政大臣宛海軍卿「小野浜海軍造船所へ外国人雇入度上請」(史料[8])。
49
留意すべき点は、旧神戸鉄工所で雇用されていた外国人全員が契約されたわけではない ことであ
49
る。
まず、同所において「造船機械一切ノ事ヲ担当シ即技術長給料ハ一ヶ月洋銀」330ドルであった
というシエムス・エレルトンは「給料モ不適当ト思考為之候殊ニ技術長ハ日本人ヲ以相弁スヘキ見
込」という理由で、契約を断られている 。本人の陳述通りに同所の総括的技術責任者であったと
50
すれば、「技術長」を海軍技術者によって代替することが可能であるという判断を海軍が示したこ
とになり、極めて重要である。
また、同所の事務所長であったといわれるレチヤド・キルビーは84年2月4日付海軍卿宛書簡にて
雇用契約の締結を申し入れたが、海軍側の回答は「目下満員ニ付貴下ヲ要スル見込無」く、その代
わりに共同運輸会社を紹介するというものであった 。同人は故E.C.キルビーと縁戚関係はないと
51
される が、前述の書簡によれば1873年に神戸キルビー商社に勤務して以降、「本国エ諸品ノ注文
52
並ニ諸照会状ニ至ルマデモ私義ノ権理ニ属シ万事総理」であったという。このキルビーは技術者で
はないが、材料や機械等の注文を担当していたことから、同所の製造部門にとっても不可欠な存在
であったはずである。この人物とも海軍は契約しなかったということも留意すべき点であろう。
この2人を雇用しなかったということは、
「大和」建造を初めとする造船事業に関して、旧神戸鉄
工所の経営者キルビーの直下にいた技術部門と購買部門の最高責任者を必要としない、と海軍が判
断したといわざるをえないだろう。それゆえ、従来の研究で主張された技術移転はかなり限定され
たものとみるべきである。
次に、表3に即して契約された技術者についてみることにしたい。故キルビーの甥アルフレット・
キルビーは「係総長」という役職でしかも銀貨250円という最も高い月給であった。彼がいかなる
専門的技術を有していたのかという点は判明しないが、故キルビーの縁戚であり、外国人技術者の
統率役を期待したのであろう。その次に、高い月給を得たのは銀貨200円のチョルジ・テーロルで
ある。同人は機械係長を命ぜられている。それ以外の者たちは、製罐係長兼煉鉄係長(月給銀貨
165円)
、造船係長(月給銀貨165円)
、製鉄係長(月給銀貨140円)、鋳造係長(月給銀貨140円)
、製
図師(月給銀貨150円)等であった。
49 1883年版の『コマーシャル・レポート』によれば、神戸鉄工所の雇用者は欧州人11名、清国人30名、
日本人が500名であった(HER MAJESTY'S CONSULS[1884]p.103)。以下の表3にみられるジョージ・
ペネーだけが同所破綻以後に来日している(1884年1月3日付海軍卿宛書簡、史料[10])ので、欧州人(英
国人)については次にみる2人以外は全員が雇用されたのであろう。
50 1884年1月19日付内局長回答案(史料[10])。この「エレルトン」とは、
「鉄鋼船の建造にあたってキルビー
は、内務省駅逓寮・農務省で五年にわたって海員司験官・汽船検査官をしていたJ.エラートンを技師
とした」と鈴木[1996](p.63)が述べた人物であろう。さらに、彼が後に大阪鉄工所の鋼船建造を
指導したという点も鈴木[1996]は指摘している(p.67)が、海軍は必要としなかったことになる。
51 1884年2月14日付内局長「レチヤド、キルビーヘ回答案」(史料[11])。これに、同キルビーの書簡(原
文と日本語訳)が添付されている。
52 千田[2004]p.9。
50
表3 海軍小野浜造船所創業時雇入外国人
氏名
職務
給料(円) 当初契約期間 解雇期日
アルフレッド・キルビー
係総長
250 1年
1887.3.17
チョルジ・テーロル
機械係長
200 6ヶ月
1886.2.28
トーマス・エドワード・ビーチー 製罐係長兼煉鉄係長
165 1年
1887.3.17
ロバート・クラーク
造船係長
165 1年
1886.3.17
ウォルター・メーソン
製鉄係長
140 1年
1887.3.17
ジョセフ・デーンチー
鋳造係長
140 1年
不明
ロバート・ミッチェル
製図師
150 1年
不明
ウイリアム・テーロルハーレー
製図師補
120 6ヶ月
不明
ジョージ・ペネー
造船師補
100 6ヶ月
1887.3.17
ナザニール・エドワード・ホーガン 守時兼書記
50 6ヶ月
不明
応 詩興
倉庫番
1.3 不明
1885.3.17
陳 允史
銅工
2.5 不明
1894.3.31
方 阿慶
造船工
1.25 不明
1885.3.31
李 満
汽罐工
1.7 不明
不明
甯 嚴閏
鉄工
1.4 不明
1885.3.31
銭 栄慶
汽罐工
1.4 不明
1885.3.31
ルイス・ガエタン・フェルナンデス 倉庫番
1.2 不明
不明
(出典) 1884年2月23日付太政大臣宛海軍卿「小野浜海軍造船所へ外国人雇入度上請」
(史料[8])、1887年1月14日付「小野浜造船所雇英国人解雇ニ付慰労被下度件」
(史料[12])、1886年2月22日付「小野浜造船所雇英人テーロル饗応致度件 」
(史料[13])、1890年1月25日付海軍大臣秘書官宛外務大臣秘書官文書
(史料[14])、1885年3月24日付「小野浜造船所雇清国人ノ内四名解雇ノ件 」
(史料[15])、1893年10月31日付呉鎮守府司令長官有地品之允「清国人ヘ金円下賜
相成度義ニ付上申 」(史料[16])。
(注)
給料は銀貨とされる。ホーガンまでは月給、応詩興以下は日給である。
アルフレット・キルビーは契約期間が当初1 ヶ年であり、後に延長されて3年勤務した。契約書に
は「造船所長ノ命ニ服」することと、
毎日造船所に出仕し、
9時間勤務することなどが規定されていた。
また、品行の問題や欠勤などの不行跡がある場合には同契約を取消して、その後の給料を支払わな
いことも記されていた。このように、海軍は外国人技術者に対して高い給料を支払うとともに、そ
の勤務に問題がある時にはすぐに対処できるようにしていたのである。
他の係長等も当初契約期間が6 ヶ月の者がいること以外はほぼ同様の契約内容であったが、造船
所長の命に服するだけでなく、所長が「命スル所ノ係長ノ指揮ニ服ス」ことが記されていた点には
注意が必要である。というのは、ここでいわれている係長は日本人としか考えられないので、外国
人係長は事実上において正規の係長を補佐する役割であったことを意味するからである。
ところで、初代の海軍小野浜造船所長は石丸安世である。彼は工部省の電信頭や大蔵省の造幣局
長を歴任し 、海軍省主船局においては赤松に次ぐ副長であった。厳密な意味で技術者とはいえな
53
いかもしれないが、技術面に通じた管理者であったことは確かであろう。この石丸を所長に据え、
53 1902年5月7日付「正四位石丸安世特旨ヲ以テ位階昇叙ノ件」(史料[17])。
51
製造部門における事実上の責任者は丸田秀実であったと考えられる 。丸田は1872年に兵学寮に入
54
寮後、1875年海軍省生徒として英国に留学し、1883年12月に帰国した 。その詳細は不明であるが、
55
丸田は同期留学の宮原次郎とともに機関の専門家として嘱望されていたことは確かである。
図1 海軍小野浜造船所の組織(1885 年 5 月)
所長⑴
主計部⑴
用度掛⑵
計理掛⑵
倉庫掛⑵
庶務課
⒇
造船課⑴
製図掛⑴
船具掛⑵
施盤掛⑶
組立掛⑹
練鉄掛⑵
鋳造掛⑶
船台掛
製罐掛⑷
模型掛⑵
(出典)
『海軍省職員録』1885 年 5 月(史料[18]
)
。
(注)
( )内の数字は職員数である。
図1にみられるように、小野浜造船所の現業部門には9つの掛が置かれており、製罐係(掛)と煉
鉄係(掛)および鋳造係(掛)は存在するが、造船係および製鉄係というものは見当たらない 。
56
機械係→旋盤掛、造船係→船台掛、というような変更がおそらくあったのであろう。現業部門を造
54 1885年5月1日『海軍省職員録』(史料[18])では造船課の筆頭に位置し、課長の肩書きはないものの、
事実上の課長であったといってよい。というのも、同年11月15日『海軍省職員録』(史料[18])では、
造船課筆頭は造船課長である。ただし、その時点では丸田に代わって山口辰弥がその地位に就いてお
り、丸田の在任期間は短かった。
55 丸田の経歴については、1872年9月8日付兵学寮「新生徒入寮差許シ授業相初メ候間為念此段御届」(史
料[19])、1881年4月28日付榎本武揚海軍卿宛黒岡帯力海軍少佐「生徒事件」(史料[20])、1884年1
月11日付太政大臣宛川村海軍卿「英国留学生徒帰朝義御届」(史料[21])、等を参照。なお、後に彼
が三菱へ入社した際に提出した「履歴書」に基づいて履歴を纏めたものとして、中西[2003](pp.9293)がある。
56 横須賀造船所の現業部門はこの時期にはすでに造船課と機械課に分かれており、しかもそれぞれが9
つの掛から成っていることから、専門化がより進行していたことが窺える。なお、1884年7月2日に発
52
船と造機に分ける と、前者が船具掛と船台掛にあたり、後者は残り7掛に相当し、造機分野の専
57
門化が顕著である。だが、人員では前者が28名に対して、後者21名と、前者の方が多い。ただし、
「係
総長」を除く外国人技術者8名を同様の分類にすると、造船が2名であり、造機が6名であった。
このような人員配置からすると、同所における外国人技術者の役割は船体構造材が木から鉄に変
化することに対応する技術よりも、この時期に一般化しつつあった2段膨張式機関の製造技術を高
めることの方に重点があったと考えるべきであろう。
これらの点から、小野浜造船所発足当初においては旧神戸鉄工所の職制をとりあえず引継いだが、
横須賀にならって制度を徐々に変更していくことを想定して、契約時に前述のような外国人係長の
位置付けがなされたのではないかと考えられる。外国人技術者が実際にいかなる役割を果たしたの
かについては、史料から推測できることは少ない。ただ、表3にみるようにほぼ全員の契約が延長
されて、約3年間の雇用が継続されたことは「大和」を中心とした艦船・船舶建造事業に、これら
の外国人技術者が寄与しているという判断が造船所側にあったのであろう。
他方で、熟練労働者として契約を結んだ清国人は銅工と造船工と鉄工が各1名、汽罐工が2名の計
5名であった。彼らは日給で支給され、最高額は銅工陳允史の2円50銭であり、最低は1円40銭であっ
た。これらの清国人については、その必要性について「英語ニ通暁シ殊ニ各職業上実地必要ノ者ニ
付当分雇入候」 と海軍卿の上請の末尾にわざわざ追加されている。
58
しかしながら、これらの清国人は陳允史を除き、わずか1年後に解雇されている(表3)。という
ことは、海軍側からみると陳以外はそれほど重要な存在とは認識されなかったことを意味する。た
だひとり陳だけが約10年という異例とも思われる期間を終えて解雇され、多額の慰労金を受取って
いる 。これは陳のパーソナリティによるところもあるのだろうが、当初から最高の日給を受けて
59
いた点でその技倆に対する評価が高かったことが窺われる。さらにいえば、
「銅工」という職種と
いうことによる面も大きかったと考えられる。
この当時、「銅工」という職種は必ずしも一般的ではなかったが、
「製罐工」から分離して重要な
役割を果たしつつあった。機関が2段膨張式になり、さらには3段膨張式へと進化しようとしていた
時に、銅(青銅)や真鍮の管(パイプ)が多数使用されるようになり、それらはとくに焔管や復水
器細管などで極めて重要な機能を担っていた。その加工をおこなっていたのが「銅工」である。日
布された「小野浜海軍造船所条例」(海軍大臣官房[1971]pp.300-301)によれば、「所内ニ庶務造船
計算ノ三課ヲ置キ各事務ヲ分掌セシム」
(第2条)とあるが、1885年5月1日『海軍省職員録』
(史料[18])
<小野浜造船所が初めて掲載された>では表4のように「計算課」は「主計部」に昇格している。なお、
これらの職員に外国人はいない。
57 1885年5月1日『海軍省職員録』(史料[18]))における横須賀造船所の配置によって分類した。
58 1884年2月23日付太政大臣宛海軍卿「小野浜海軍造船所へ外国人雇入度上請」(史料[8])。なお、こ
の時期の海軍技術者には英国に留学していた者も多く、熟練労働者として英語に通じていたことがど
の程度の意味をもったのか、という点については検討課題としたい。
59 1893年10月31日付呉鎮守府司令長官有地品之允「清国人ヘ金円下賜相成度義ニ付上申 」
(史料[16])。
53
露戦争後の呉工廠造機部で初めて働いた労働者(脇田伝一)の証言 によれば、最初に習った仕事
60
は「銅や鉄のパイプをゆがめる」ことだったという。つまり、
中空の管(パイプ)を折り曲げると、
外側が穴の空いた状態になるが、
反対側を叩いて元通りにするといった技を学んだというのである。
脇田はこうした技能を小野浜出身の組長等から教わったが、彼らはそれを清国人から習ったと言っ
ていたそうである。この清国人こそは、陳允史であったにちがいない。
以上、旧神戸鉄工所から海軍小野浜造船所への移行過程について、主として外国人技術者と熟練
労働者の契約内容とその後の状況、および造船所組織との関連で検討してきた。同所の創業は「大
和」建造を最重要課題とし、その過程で旧神戸鉄工所の技術者や熟練労働者を取り込み、従来から
海軍がもっていた技術力に結合することを目的としていたものと思われる。ただし、その技術形成
の力点は木から鉄という構造材変化への対応ということよりも、機関の製造技術を高めることに重
点があったことに留意すべきであろう。
おわりに
海軍の公式的な資料 によれば、
「大和」の進水は1885年5月1日、竣工は1887年11月6日である。
61
これは、若干の遅れがあるものの、ほぼ「葛城」のそれと同様である。結果として、両艦ともに約
5年をかけて建造したことになる。初めての国産鉄骨艦であり、かつ約1,500トンの排水量と1000馬
力を超える2段膨張機関を備えていたこと、さらに3番艦「武蔵」もほぼ並行して建造していたこ
と を考慮すれば、この建造期間は必ずしも長すぎたとはいえないであろう。
62
「大和」建造の場合、キルビーの自殺により神戸鉄工所が破綻し、それを海軍が買収して小野浜
造船所を創業させるといったタイムロスがあり、また機械設備等で横須賀に劣っていたことを考慮
すれば、むしろ健闘したと評価ができるかもしれない。ただし、それを旧神戸鉄工所の技術力の高
さのみに還元することはできない。やはり横須賀造船所を中心とした海軍の技術力との結合なしに
は、不可能であったと思われる。
本稿では、横須賀との技術的・組織的・人的関連について十分に検討することができなかった。
海軍の技術者や労働者および諸制度に関する研究は長い歴史を有するが、それらは具体的な建艦計
画や建造過程を踏まえた分析にはなっていない。今後は、こうした課題を追求していくことにした
い。
60 加藤[1966]p.10。
61 海軍大臣官房[1970]p.13。
62 この3艦は同じ設計図をもとにして同一仕様で建造されたので、公式的には同一性能とされているが、
実際の機関性能にはかなりの相違があったようである。「葛城」1,368馬力、
「大和」1,071馬力、
「武蔵」
1,855馬力であり、「大和」が最も劣っていて速力も遅いというデータを、日本船舶機関史編集委員会
[1975]
(p.525)は提示している。この点はさらなる検討を要するが、これらの数値が正しいとすれば、
海軍当局による小野浜造機部門の強化策は必ずしも成功したとはいえないことになる。
54
【参考文献】
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社会論叢』(社会科学篇)第6号、2001年
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学館(大和ミュージアム)研究紀要』第8号、2014年
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(防衛省防衛研究所、所蔵)
[2]海軍省『原書類纂』明治15年巻11(防衛省防衛研究所)
[C11082287400]
[3]海軍省『川村伯爵より還納文書』5(防衛省防衛研究所、所蔵)
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[C09103604800]
[5]海軍省『公文原書』明治15年巻37(防衛省防衛研究所)
[C09103609600]
55
[6]海軍省『普号通覧』明治16年巻15(防衛省防衛研究所)
[C11018691000]
[7]海軍省『受号通覧』明治16年巻22(防衛省防衛研究所)
[C10101206600]
[8]海軍省『普号通覧』明治17年正編巻1(防衛省防衛研究所)
[C11018903700]
[C11018903800]
[9]海軍省『普号通覧』明治17年正編巻3(防衛省防衛研究所)
[C11018903900]
[10]海軍省『普号通覧』明治17年正編巻2(防衛省防衛研究所)
[C11018911000]
[C11018914200]
[11]海軍省『普号通覧』明治17年正編巻6(防衛省防衛研究所)
[C11018944400]
[12]海軍省『公文雑輯』明治20年巻13(防衛省防衛研究所)
[C10124233500]
[13]海軍省『公文雑輯』明治19年巻8(防衛省防衛研究所)
[C10123784100]
[14]海軍省『公文雑輯』明治23年巻11(防衛省防衛研究所)
[C10124835700]
[15]
『公文録』明治18年・第143巻[A01100290000]
[16]海軍省『公文雑輯』明治27年巻14[C10125619600]
[17]内閣『叙位裁可書』明治35年叙位巻6(国立公文書館)
[A10110096400]
[18]内閣官報局『海軍省職員録』明治18年5月11月(国立公文書館)
[A09054364800]
[19]海軍省『公文類纂』明治5年巻41(防衛省防衛研究所)
[C09111064700]
[20]海軍省『公文類纂』明治14年巻13(防衛省防衛研究所)
[C09115315500]
[21]海軍省『受号通覧』明治16年巻23(防衛省防衛研究所)
[C10101218500]
[22]海軍省『公文雑輯』明治27年巻14(防衛省防衛研究所)
[C10125619600]
*[ ]内の記号は、アジア歴史資料センターのレファレンスコードである。
【付記】
本稿は、2015年6月15日に脱稿し、事務当局に提出したものである。同年5月31日、社会経済史
学会第84回全国大会自由論題(於:早稲田大学)で発表された小野寺香月氏「小野浜造船所にみ
る技術移転の方法とその効率性」の内容や使用史料は本稿と重なり合う部分がある。しかしなが
ら、報告やアフターセッションを聞いた限りでは、筆者の問題関心や視角とはかなり異なる印象
を受けた。念のため、
互いに同時並行的におこなわれた研究であることを、
ここに記しておきたい。
56
研究活動報告
(2014年4月~ 2015年3月)
凡 例
⑴ 現在の研究テーマ
⑵ 著書・論文、その他
⑶ 研究発表・講演
⑷ 学外集中講義など
⑸ 海外出張・研修、そのほかの海外での活動など
⑹ 科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
⑺ 共同研究、受託研究など
⑻ 学会・研究会・講演会などの開催
57
○文化財論講座
須 藤 弘 敏
⑴現在の研究テーマ
・仏教絵画史、近世地方仏、文化政策
⑵著書、論文、その他
[著書]
・須藤弘敏・矢島新『かわいい仏像 たのしい地獄絵 素朴の造形』pp.16-101、pp.180-181、共著、2015年1月、
PIE INTERNATIONAL
[論文]
・須藤弘敏「地方仏-青森・岩手から-」矢島新編『仏教美術論集第7巻 近世の宗教美術』pp.233-250、単著、2015
年3月、竹林舎
⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など
[海外出張]
・26年12月1日∼ 5日、アイルランド The Chester Beatty Library、経絵及び近世仏像調査のため
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・基盤研究(B)「在欧日本仏教美術の基礎的調査・研究とデータベース化による日本仏教美術の情報発信」(研究
分担者)2013 ∼ 15年度
⑻学会・研究会・講演会などの開催
[それ以外のもの]
・八戸市美術館館外講座「南部のかわいい仏像」、平成26年9月4日
杉 山 祐 子
⑴現在の研究テーマ
・在来知、農民によるイノベーション過程としてのアフリカ農村の変化(FIH:Folk Innovation History, or LIH:Local
Innovation History)、グローバル化の進展と「現金の社会化」、ジェンダー、北東北地域における小規模アグリビ
ジネス
⑵著書、論文、その他
[論文]
・杉山祐子「青森県における農産物直売所と小規模アグリビジネスの可能性をめぐる研究への視角」(研究ノート)
『地域社会研究科年報』弘前大学大学院地域社会研究科、単著、2015年3月
[その他]
・日曜随想(陸奥新報)
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・「グローバル化するアフリカ農村と「現金の社会化」への視角」単独、日本アフリカ学会第51回学術大会、京都
大学
・Farmers Markets in a Dual Economy of Tsugaru, Aomori Prefecture, LONG-TERM SUSTAINABILITY THROUGH
PLACE-BASED, SMALL-SCALE ECONOMIES, JSPS Symposium 2014年9月27日UC Berkely
⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など
・タンザニアドドマ州、現地調査、2014年8月∼ 9月4日
・アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー市、日本学術振興会サンフランシスコ支部主催シンポジウム、2014
年9月25日∼ 30日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・基盤研究(B)「グローバル化するアフリカ農村と現金をめぐる人類学的研究」(研究代表者)H25 ∼ H28
・基盤研究(A)「アフリカ・モラル・エコノミーを基調とする農村発展に関する比較研究」(研究分担者)H23 ∼
H26
⑺共同研究、受託研究など
・共同研究:東京外国語大学アジアアフリカ言語文化研究所共同研究「人類社会の進化史的基盤研究⑶」
58
・受託研究:青森県集落経営活性化事業(地域社会研究科受託研究)
⑻学会・研究会・講演会などの開催
[弘前大学人文学部主催または共催のもの]
・日本アフリカ学会東北支部会2014年度例会、2015年2月
・地域未来創生センターフォーラム
[それ以外のもの]
・「グローバル化するアフリカ農村と現金をめぐる人類学的研究」課題研究会、宇都宮大学、2016年2月28日
宮 坂 朋
⑴現在の研究テーマ
・ローマ・カタコンベ、古代末期
⑶研究発表、講演
[講演]
・宮坂朋「都市の形∼弘前と古代ローマ」地域未来創生塾、弘前文化センター第3会議室、2014年11月12日 ・宮坂朋「ローマ美術の楽しみ方」弘前イタリア文化愛好会、弘前パークホテル、2014年4月18日
⑻学会・研究会・講演会などの開催
[弘前大学人文学部主催または共催のもの]
・文化財論講座主催岡田保良氏講演「さまよい始めた世界遺産−暫定リストの行方−」、弘前大学、2015年1月10日
山 田 厳 子(山 田 嚴 子)
⑴現在の研究テーマ
・潜在的な宗教者、オシラ神、民俗信仰の再文脈化、世間の認識と世間話
⑵著書、論文、その他
[著書]
・山田嚴子・柴田彩子編『亀倉加久子オシンメイサマ資料集① オシンメイサマのお年越―喜多方市編―』pp.1108、2015年3月、弘前大学人文学部
[その他]
・山田厳子編「6章 声とことば」民俗学事典編集委員会編『民俗学事典』pp.609-649、2014年12月、丸善出版
・山田厳子「声とことば」pp.609、「ことわざと新語」pp.628-629、「妖怪の声,妖怪の名前」pp.528-529 民俗学事
典編集委員会編『民俗学事典』2014年12月、丸善出版
・山田厳子「津軽の人と暮らし⑧ 温泉と湯治−農閑期の休息と社交」『陸奥新報』2014年11月14日
・山田厳子「書評 『イタコ 中村タケ』」日本口承文芸学会編『口承文芸研究』38号、pp.211-214、2015年3月
・山田嚴子編『シンポジウム資料集 津軽の年占行事『七日堂祭』を考える』pp.1-23 2015年1月25日 弘前大学
地域未来創生センター
⑶研究発表、公園など
[コメンテーター]
・山田厳子「シンポジウム 日本民俗と口承文芸」日本民俗学会 第876回談話会 於:國學院大学渋谷キャンパ
ス 2014年9月14日
[その他]
・山田嚴子「無形文化財の価値を地域とともに考える−七日堂祭をめぐって−」弘前大学地域未来創生センター
フォーラム「青森県における新たな価値に基づく生き方モデル探求の基盤構築」於:弘前市民文化交流館ホール
2015年2月27日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・基盤研究(C)「潜在的な宗教者と知識の配置をめぐる民俗学的研究」(研究代表)平成26年度∼ 28年度
⑻学会・研究会・講演会などの開催
・青森県民俗の会・弘前大学地域未来創生センター共催事業「公開シンポジウム 津軽の年占行事『七日堂祭』を
考える」コーディネーター、弘前大学人文学部多目的ホール、2015年1月25日
59
関 根 達 人
⑴現在の研究テーマ
・縄文、中近世考古学、北方史
⑵著書、論文、その他
[著書]
・関根達人『中近世の蝦夷地と北方交易』、単著、2014年11月、吉川弘文館
・関根達人「時代の論点新視点」「歴史学者による最新の時代解説(縄文時代)」「歴史ミュージアム」、関根達人編
『朝日百科週刊日本の歴史』49号(旧石器・縄文)、pp.4-6,13-15,30-32、共著、2014年6月、朝日新聞出版
・関根達人「地域における近世大名墓の成立4−東北−」、大名墓研究会編『近世大名墓の成立』、pp.163 -178、単著、
2014年10月、雄山閣
[論文]
・関根達人「青森県における縄文時代の遺跡数の変遷」、『第四紀研究』,53巻 4号、pp.193-203、単著、2014年8月
・関根達人「アイヌの宝物とツクナイ」『人文社会論叢―人文科学篇』32号、pp.1 -26、単著、2014年9月
・柴正敏・関根達人「胎土分析からみた亀ヶ岡式土器の製作地-土器胎土に含まれる火山ガラスの帰属について-」、
『考古学と自然科学』67号、pp.39 -46、共著、2015年2月
[その他]
・関根達人「アイヌ社会における日本製品の考古学的痕跡」、『近世日本国会領域境界域における物資流通の比較考
古学的研究(鹿児島大学教授渡辺芳郎科研(24520860)成果報告書)』、単著、pp.117 -125、2015年3月
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・関根達人「近世考古学研究への取り組み−北方史と近世考古学−」、日本考古学協会第80回総会セッション、単独、
日本大学文理学部、2014年5月17日
・Tatsuhito SEKINE、Population Change and Social Change in Northern Japan during the Jomon Period、 日 本 学 術 振
興 会 サ ン フ ラ ン シ ス コ 支 部 主 催LONG-TERM SUSTAINABILITY THROUGH PLACE-BASED, SMALL-SCALE
ECONOMIES、単独、University of Calfornia Berkeley、2014年9月27日
・関根達人「弘前藩津軽家墓所」「東北の大名墓研究の現状と課題」、第6回大名墓研究会、単独、弘前大学、2014
年10月19日
・関根達人「考古資料からみた蝦夷地の内国化」、平成26年度九州史学会考古学部会、単独、九州大学、2014年12
月14日
[講演]
・関根達人「大堀相馬焼の編年と流通」、平成26年度まほろん文化財講演会、福島県文化センター白河館(まほろん)、
2014年6月14日
・関根達人「青森県の縄文遺跡と世界遺産への道のり」、平成26年度弘前大学公開講座、むつ市立図書館、2014年7
月5日
⑷学外集中講義など
・平成26年度東アジア比較考古学研究Ⅱ集中講義「中近世考古学の方法」、九州大学、2014年12月9日∼ 12日
⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など
・アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー市、出張、日本学術振興会サンフランシスコ支部主催シンポジウム、
2014年9月25日∼ 30日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・基盤研究(A)「石造物研究に基づく新たな中近世史の構築」(研究代表者)平成26 ∼ 30年度
・基盤研究(C)「近世日本国会領域境界域における物資流通の比較考古学的研究」(研究分担者)平成24 ∼ 26年
度
・挑戦的萌芽研究「北海道・東北を中心とした交易圏形成に関する考古・歴史・文化人類学による総合的研究」(研
究分担者)平成25 ∼ 27年度
⑺共同研究、受託研究など
・弘前大学「冷温帯の遺跡資源の保存活用促進プロジェクト」平成23 ∼ 27年度
60
足 達 薫
⑴現在の研究テーマ
・イタリア・ルネサンス美術史
⑵著書、論文、その他
[著書]
・足達薫「パルミジャニーノの〈カメリーノ装飾〉、あるいは鏡としての愛の噴水」金山弘昌責任編集、喜多村明
里、京谷啓徳、足達薫、金山弘昌、望月典子『変身の形態学 マンテーニャからプッサンへ』pp.129-186、共著、
2014年5月30日、ありな書房
・足達薫「ティツィアーノの《聖愛と俗愛》における観者、結婚、花嫁のセクシュアリティ」金井直監修解説、金山弘昌、
足達薫、吉住摩子、金井直『女性の表象学 レオナルド・ダ・ヴィンチからカッリエーラへ』pp.74-124、共著、
2015年1月20日、ありな書房
⑶研究発表、講演
[講演]
・足達薫「出産・誕生のイメージに見るルネサンスの都市生活」弘前大学生涯学習教育研究センター事業三沢市連
続講演会「世界をちょこっとのぞいてみよう」、三沢市総合社会福祉センター、2014年10月10日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・基盤研究(C)「マニエリスムの時代の眼:ジュリオ・カミッロの美術論の再構成に基づく」平成22 ∼ 26年度
上 條 信 彦
⑴現在の研究テーマ
・先史時代の生業(農耕を含む)、技術、交易の研究、青森県の考古学研究史
⑵著書、論文、その他
[著書]
・上條信彦『亀ヶ岡文化の低湿地遺跡 秋田県戸平川遺跡、青森県亀ヶ岡遺跡・石郷遺跡群・八幡崎⑴遺跡・羽黒
平⑶遺跡ボーリング調査報告書』弘前大学人文学部北日本考古学研究センター、272頁、2014年
・田中克典・上條信彦編『日本の出土米』弘前大学人文学部北日本考古学研究センター、313頁、2014年
・片岡太郎・上條信彦編『亀ヶ岡文化の漆工芸Ⅰ 青森県板柳町土井⑴遺跡漆製品の自然科学・保存科学的研究』
弘前大学人文学部北日本考古学研究センター、75頁、2014年
[論文]
・上條信彦「縄文時代石皿・台石類、磨石・敲石類の検討」『人文社会論叢−人文科学篇』31号、pp.15-39.2014年、
弘前大学人文学部
・片岡太郎・上條信彦・鹿納晴尚「宮城県大崎市根岸遺跡出土籃胎漆器の製作技法 : X線CT分析を使った構造調査」
『東北歴史博物館研究紀要』16号、pp.53-58、2015年、東北歴史博物館
・石川隆二・宇田津徹朗・松田隆二・田淵宏明・田中克典・上條信彦「イネ種子の形態およびDNA配列からみた
東北における水稲農耕受容の検討」『考古学と自然科学』67号、pp.57-72、2015年、日本文化財科学会
・氏家良博・相澤武宏・川村啓一郎・安田創・上條信彦「石油地質学からみた遺跡出土アスファルトの原産地推定」
『考古学と自然科学』67号、pp.47-56、2015年、日本文化財科学会
・片岡太郎・上條信彦・柴正敏「青森県板柳町土井⑴遺跡出土漆器類の材質同定と製作技術の解明」『考古学と自
然科学』67号、pp.7-27、2015年、日本文化財科学会
・上條 信彦「亀ヶ岡文化研究の現在」『考古学と自然科学』67号、pp.3-6、2015年、日本文化財科学会
・亀井翼・小岩直人・上條信彦「秋田県中山遺跡(縄文時代後晩期)の自然形成過程(予報)(その2)―弘前大学
調査地点A区を対象として―」『第四紀研究』53⑸ 号pp.241-248、53⑸ 号pp.241-248、2014年、日本第四紀学会
・氏家良博・渡邊世梨華・相澤武宏・上條信彦「縄文遺跡出土アスファルトの原産地推定」『石油技術協会誌』79⑷、
p.247、2014年、石油技術協会
・氏家良博・上條信彦「弘道館記碑のダボから検出した黒色物の分析」『東日本大震災に伴う弘道館記碑等の復旧
事業報告書』pp.103-109、2014年、文化庁文化財部記念物課
[その他]
・上條信彦他「2013年縄文時代関係文献目録」『縄文時代』25号、pp199-288、2014年、縄文時代文化研究会
61
・田中克典・上條信彦「コメのDNA分析からわかること」『大おにぎり展』p.39、横浜市歴史博物館
[受賞]
・村越潔賞、青森県考古学会、2014年6月21日
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・氏家良博・上條信彦「遺跡出土アスファルトの原産地を探る」地学団体研究会総会68th、佐賀大学、2014年8月
21日
・堀内晶子・宮田佳樹・上條信彦「脂質分析から観えてきた青森県今津遺跡出土縄文土器の用途」日本文化財科学
会大会31st、奈良教育大学、2014年7月5日
・片岡太郎・上條信彦「秋田県南秋田郡五城目町中山遺跡出土漆器類の材質・技法研究」日本文化財科学会大会
31st、奈良教育大学、2014年7月5日
・宮田佳樹・堀内晶子・上條信彦「土器残存有機物を用いた縄文時代晩期亀ケ岡文化圏、内陸性杉沢遺跡の食性復
元」日本文化財科学会大会31st、奈良教育大学、2014年7月5日
・亀井翼・小岩直人・上條信彦「秋田県南秋田郡五城目町中山遺跡の自然形成過程」『第43回 日本第四紀学会』東
京大学、2014年08月22日
[講演]
・弘前大学ドリーム講座「縄文人時代の食生活」三本木高校、2014年10月9日
⑷学外集中講義など
・東北大学大学院文学研究科「文化財科学特論(先史時代の生業研究)」2014年8月
・東北大学文学部「考古学各論(先史時代の生業研究)」2014年8月
・放送大学「縄文遺産から食を探る」2014年11月
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・若手研究(B)「先史時代東日本における食料加工技術の研究」(研究代表者)2012 ∼ 15年度
・基盤研究(B)「北海道噴火湾沿岸の縄文文化の基礎的研究」(研究分担者)2014 ∼ 17年度
・文部科学省特別研究「冷温帯地域の遺跡資源の保存活用促進プロジェクト」2010 ∼ 15年度
⑺共同研究、受託研究など
・受託研究「先史時代における資源鉱物利用戦略の解明」(上條信彦)2014 ∼ 2015年度
・共同研究「佐藤コレクション出土米の分析」(上條信彦)2013 ∼ 2015年度
⑻学会・研究会・講演会などの開催
・弘前大学人文学部北日本考古学研究センター企画展「東北の弥生化 縄文時代が変わるとき」弘前大学人文学部
北日本考古学研究センター展示室、2014年10月18日∼ 11月24日
・特別公開『成田コレクション』弘前大学人文学部北日本考古学研究センター展示室、2014年10月18日∼ 11月24
日
・五城目町教育委員会・弘前大学人文学部合同研究発表会・特別展示「中山遺跡と八郎潟の亀ヶ岡文化」五城目町
町民センター、2014年9月23日
○思想文化講座
李 梁
⑴現在の研究テーマ
・漢訳西学書の研究、近世東アジアの新知識体系、イエズス会の教育思想
⑵著書、論文、その他
[論文]
・李梁「白鹿洞書院と詩跡」『人文社会論叢―人文科学篇』第32号、pp.1-15、単著、2014年8月
・李梁「新井白石の知識世界序説」『人文社会論叢―人文科学篇』第33号、pp.23-35、単著、2015年2月
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・李梁「日文研共同研究班「心身/身心」と「環境」の哲学―東アジアの伝統概念の再検討とその普遍化の試み―」、
「新
62
井白石の漢学と西学―朱子学的「合理主義」と真理概念の普遍性において―」国際日本文化研究センター、2014
年5月10 ∼ 11日
・李梁「マカオと海上のシルクロード」国際学術研討会および澳門歴史文化研究会第13回学術年会参加「イエズス
会と東アジア―新知識体系をめぐって―」、マカオ理工大学、2014年9月21 ∼ 24日
⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など
・マカオ・香港・広州出張、学会参加、研究文献調査および海外の関係研究者(香港城市大学費楽仁(Prof.Lauren
F・Pfister)教授および広州中山大学梅謙立(Prof.Thierry Meynard)教授)との研究交流、2014年9月20日∼同10
月1日
⑹科学研究費補助金
・基盤研究(C)「近世東アジアにおける新知識体系とその構築に関する思想文化史的研究」(研究代表者)平成23
∼ 26年度
⑺共同研究
・国際日本文化研究センター共同研究班「心身/身心」と「環境」の哲学―東アジアの伝統概念の再検討とその普
遍化の試み―」(共同研究員)平成23 ∼ 26年度
・人間文化研究機構 国文学資料館「日本と西洋との相互認識に関する総合書物学的研究:キリシタン文学の発展
と継承」(研究分担者)平成26 ∼ 30年度
今 井 正 浩
⑴現在の研究テーマ
・西洋古典学、ヨーロッパ古典文化論、西洋古典古代の医学と同時代の哲学との間の影響関係の解明
⑵著書、論文、その他
[論文]
・Masahiro IMAI: Erasistratus of Ceos and the Theoretical Sources for his Anatomical Physiology of a Human Being, Historia
Scientiarum: International Journal of the History of Science Society of Japan, Vol.24, No.3, pp.103-125, March 2015
・今井正浩「展望 新時代の古代ギリシア・ローマ医学史研究」『科学史研究』第53巻(No.270)pp.133-138、2014
年7月
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・今井正浩「「神経」の発見―人体の中枢器官をめぐるヘレニズム期からローマ期にかけての論争史―」日本科学
史学会第61回年会・総会、酪農学園大学、2014年5月24日∼ 25日
・Masahiro IMAI: Comments on the Paper given by Prof. Philip van der Eijk(Humboldt-Universität zu Berlin)on Galen and
early Christians on the Role of the Divine in the Causation and Treatment of Health and Disease, ICU Tokyo, September 18,
2014
[講演]
・今井正浩「古代ギリシア・ローマの医学と同時代の哲学思想」日本科学史学会 科学史学校2014年度(第27期)
日本大学理工学部、2014年8月23日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・基盤研究(C)「人体の中枢器官をめぐる論争史をとおしてみた西洋古代の人間観の展開に関する実証研究」(研
究代表者)平成25 ∼ 27年度
木 村 純 二
⑴現在の研究テーマ
・和辻哲郎の倫理思想、伊藤仁斎の倫理思想
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・基盤研究(A)
「東アジアにおける朝鮮儒教の位相に関する研究」研究分担者(研究代表者:井上厚史・島根県立大学)
63
泉 谷 安 規
山 口 徹
⑴現在の研究テーマ
・日本近現代文学、大正期ロマン主義文学についての修辞的研究、1910年代日欧文化情報伝達の調査研究
⑵著書・論文、その他
[論文]
・山口徹「作家太宰治の揺籃期−中学・高校時代のノートに見る映画との関わり」『日本近代文学館年誌』10号
pp.47-67、単著、2015年3月、公益財団法人日本近代文学館
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・山口徹「作家太宰治の揺籃期-中学・高校時代のノートから」、日本近代文学会東北支部夏季大会、弘前大学、
2014年7月5日
[講演]
・山口徹「鷗外「椋鳥通信」−第一次世界大戦前夜の国際情報伝達の様相」Mitteilungen eines Landvogels(Mukudori
tsûshin), Mori Ôgais transnationale Rundschau am Vorabend des Ersten Weltkrieges、2014年6月19日、ベルリン森鷗外
記念館
⑷学外集中講義など
・特別講義「鷗外「椋鳥通信」に関する考察」Betrachtungen zu Mori Ôgais Mukudori tsûshin、2014年6月13日、ハイ
デルベルク大学
・「夏目漱石の見た夢」札幌新川高校、2014年11月5日
⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など
・ドイツ連邦共和国(フンボルト大学ベルリン、ベルリン州立図書館、ハイデルベルク大学、ルートヴィヒ・マク
シミリアン大学ミュンヘン) 文献資料調査、講演、特別講義、研究交流 2014年6月11日∼ 25日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・基盤研究(C)「森鴎外の訳業を媒体とした1910年代日欧文化情報伝達の調査と分析」(研究代表者)、2013年∼
2015年度
横 地 徳 廣
土 井 雅 之
⑴現在の研究テーマ
・イギリス文学・文化、シェイクスピアとその時代
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・土井雅之「共和政ローマと軍人コリオレイナス」第53回シェイクスピア学会、単独、学習院大学、2014年10月11
日
・土井雅之「プルタークの『英雄伝』とシェイクスピアのローマ史劇」日本英文学会東北支部第69回大会シンポジ
ウム(第一部門)「オリジナルとアダプテーション」、単独、弘前大学、2014年11月30日
・土井雅之「エリザベス朝の古代ローマ人気とシェイクスピアの創作活動」第18回エリザベス朝研究会、単独、慶
應義塾大学、2015年1月31日
⑷学外集中講義など
・弘前大学ドリーム講座「三度はおいしいイギリス文学」八戸工業大学第二高等学校、2014年10月22日
64
〇コミュニケーション講座
山 本 秀 樹
⑴現在の研究テーマ
・地理情報システム(GIS)による世界諸言語の言語類型地理論的研究、世界諸言語の言語構造地図の作製および
分析、言語類型論と言語普遍性研究、人類と言語の系統に関する研究
⑵著書、論文、その他
[論文]
・山本秀樹「地理及親縁関係視閾下的語序類型研究」『日語学習與研究』第174号、pp.7-12、単著、2014年10月25
日
[その他、事典項目執筆]
・佐藤武義 ・前田富祺(編集代表)『日本語大事典(上・下巻)』(朝倉書店)2014年11月6日(主に言語類型論関連
の諸項目執筆)
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・基盤研究(C)「地理情報システムによる世界諸言語の格標示体系の言語類型地理論的研究」(研究代表者)、平
成25 ∼ 27年度
木 村 宣 美
⑴現在の研究テーマ
・英語学(統語論・意味論)
⑵著書、論文、その他
[論文]
・木村宣美「日本語の右枝節点繰上げと削除分析」弘前大学人文学部『人文社会論叢−人文科学篇』第33号、pp.113、単著、平成27(2015)年2月
・木村宣美「右枝節点繰上げと削除分析」深田智・西田光一・田村敏弘編『言語研究の視座(坪本篤朗教授退職記
念論文集)』pp.206-219、単著、平成27(2015)年3月、開拓社
⑷学外集中講義など
・弘前大学ドリーム講座「
『英語の情報構造』入門 -どういう時に受動態が使われるのか- 」青森県立八戸西高等学
校 平成26(2014)年10月1日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・基盤研究(C)「右方移動現象の分析に基づく併合と感覚運動体系における線形化のメカニズムの解明」(研究代
表者)平成26 ∼ 28年度
渡 辺 麻里子
⑴現在の研究テーマ
・中世文学・説話文学・仏教文学、書誌学、天台談義書、大蔵経(明版・鉄眼版)、天神信仰、津軽の宗教と文化
⑵著書、論文、その他
[論文]
・渡辺麻里子「談義書・論義書における文体と表記」、『日本文学』第63−7号、pp.58-68、単著、2014年7月、日本
文学協会
・渡辺麻里子「法華経の講会・論義・談義書」、
『法華経と日蓮』
(シリーズ日蓮 第1巻)pp.329-344、単著、2014年5月、
春秋社
・渡辺麻里子「学僧の教育―中世の天台宗における学問を中心に―」、『文学・語学』第209号、pp.14-27、単著、
2014年4月、全国大学国語国文学会
・渡辺麻里子「古典文学教材の可能性―「検非違使忠明」(『宇治拾遺物語』第九十五話)を読む―」『古典教育研
究会論集』、pp.77-94、単著、2015年3月、早稲田大学国語教育学会
[その他]
65
・渡辺麻里子「小町集」
「定家百首」
「金剛三昧院奉納和歌」
「雑々集」
「夫木和歌抄」
「職方外紀」
「熕砲用法」
「近思録」
「三国志」の項目、『東奥義塾高等学校所蔵 旧弘前藩古典籍調査集録』(弘前大学地域未来創生センター藩校資
料調査プロジェクト)、2015年3月31日、弘前藩藩校資料調査プロジェクトチーム
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・渡辺麻里子「唱導と説法」、説話文学会、専修大学神田校舎、2014年9月27日
・渡辺麻里子「『宗要直兼集』について」、天台宗教学大会、叡山学院、2014年11月7日
・「東奥義塾高校図書館蔵日本古典文学関係資料について」、「東奥義塾高校所蔵旧弘前藩校「稽古館」資料調査報
告会」、弘前大学人文学部多目的ホール、2015年2月23日
[講演]
・渡辺麻里子「了翁の事跡を追う」 了翁禅師パネルディスカッション「湯沢が生んだ名僧 了翁さん今なぜ了翁
禅師か」(第29回国民文化祭・あきた2014)、湯沢文化会館大ホール、2014年10月26日
・渡辺麻里子「津軽の仏教文化―弘前市立博物館展示『久祥院殿写経』(隣松寺蔵)をめぐって―」、弘前大学人文
学部 国際公開講座2014「日本を知り、世界を知る」「アジアの文化・歴史《再発見》―津軽・日本そして中国―」、
弘前大学50周年記念会館岩木ホール、2014年11月3日
・渡辺麻里子「高校における古典教育の意義」、平成二十六年度青森県高等学校教育研究会国語部会西地区研究大会、
五所川原第一高等学校、2014年11月14日
⑷学外集中講義など
・平成26年度高等学校国語科教育講座「生徒の学習意欲を高める古典指導―仏教文学の魅力―」、青森県総合学校
教育センター、2014年6月19日
・平成26年度弘前大学教員免許状更新講習「『竹取物語』の世界」「『平家物語』の世界」、弘前大学50周年記念会館
岩木ホール、2014年8月11日
・ドリーム講座 大学模擬授業「浦島太郎からみた日本古典文学の魅力」、千葉県立匝瑳高等学校、2014年11月20
日
・くずし字講座 弘前市立中央公民館事業 文京学区ふれあい講座・文京学区まなびぃプレ講座「昔話と物語の世
界」、文京小学校、2014年7月1日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・基盤研究(A)(一般)「宮内庁書陵部所蔵道蔵を中心とする明版道蔵の調査と研究」(研究分担者)平成26 ∼ 30
年度
⑻学会・研究会・講演会などの開催
[弘前大学人文学部主催または共催のもの]
・弘前大学人文学部 国際公開講座2014「日本を知り、世界を知る」「アジアの文化・歴史《再発見》―津軽・日
本そして中国―」、弘前大学50周年記念会館岩木ホール、2014年11月3日
・「東奥義塾高校所蔵旧弘前藩校「稽古館」資料調査報告会」、弘前大学人文学部多目的ホール、2015年2月23日
上 松 一
⑴現在の研究テーマ
・SLA、英語教育
⑵著書、論文、その他
[その他]
・Book review: Online Reading. Cambridge University Press(2014年5月8日)
・Book review: Robin Longshaw; Laurie Blass; Mari Vargo; Eunice Yeates. 21st Century Reading. 1st ed. Heinle, Cengage
Learning(2014年12月5日)
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・ Implementation of Teaching English in English at Junior and Senior High School: How Successful, How Difficult (「青森
教育のつどい2014」五所川原 2014年11月2日)
⑷学外集中講義など
・平成26年度弘前大学教員免許状更新講習(2014年7月19日)「『英語は英語で』教える授業の実践と指導」
66
⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など
・London、Research on English teaching and learning、3月15日∼ 31日
⑺共同研究、受託研究など
・研究協力者:「外国語教育」(「青森教育のつどい2014」五所川原 2013年11月1日∼ 2日)
奈 蔵 正 之
⑴現在の研究テーマ
・現代フランスの社会と政治、第二次世界大戦とフランス文学、アルベール・カミュの作家としての自己形成
⑵著書、論文、その他
[論文]
・「カミュ『カルネ』第1分冊校訂の問題点」『人文社会論叢―人文科学篇』第33号、pp.15-41、単著、2015年2月
熊 野 真規子
⑴現在の研究テーマ
・外国語教育(フランス語教育、複言語・複文化教育)
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・「2014年度『弘前×フランス』プロジェクトを振り返る」、RENCONTRES PEDAGOGIQUES DU KANSAI 2015(第
29回関西フランス語研究会)、単独、アンスティチュ・フランセ関西−大阪 2015年3月20日 ⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など
・フランス共和国、弘前大学グローカル人材育成事業学生海外PBLプログラム
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・科学研究費助成事業基盤研究(B)「異文化間能力養成のための教材と評価基準の開発およびその有効性の検証」
(連携研究者、研究代表者:大木充〔京都大学名誉教授〕)、平成25 ∼ 27年度
小野寺 進
⑴現在の研究テーマ
・British literature in oral culture and written culture、全知の語りに関する考察、英語教育に関する多読と音読
⑵著書、論文、その他
[論文]
・小野寺進「読みの表象としての『ピンチャー・マーティン』」『人文社会論叢̶人文科学篇』第33号、pp.43-53、
2015年2月
・小野寺進「英語コミュニケーションのためのスキルアップ法」『21世紀教育フォーラム』第10号、pp.49-56、2015
年3月
⑷学外集中講義など
・出前講義「英語習得」(午前・午後2回)、宮城県古川高校、2014年11月7日
⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など
・フランス/ボルドー、出張/海外PBL活動、2015年2月9日∼ 23日
⑻学会・研究会・講演会などの開催
[それ以外のもの]
・日本英文学会東北支部第69回大会(弘前大学共催)、弘前大学、2014年11月29日∼ 30日
堀 智 弘
⑴現在の研究テーマ
・十九世紀アメリカ文学、奴隷制文学
⑵著書、論文、その他
67
[その他、翻訳]
・コーネル・ウェスト『哲学を回避するアメリカ知識人――プラグマティズムの系譜』共訳、2014年9月、未來社
⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など
・ワシントンD.C.とボルチモア、文献資料調査等、2015年2月11日∼ 18日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・基盤研究(C)
「十九世紀米国社会の世俗化との関連からみる、奴隷物語の小説化過程の歴史的研究」
(研究代表者)
平成26 ∼ 28年度
・基盤研究(C)「アメリカ合衆国における貧乏白人の文学的表象の研究」(研究分担者、代表:成蹊大学・権田建二)
Janson Michel
楊 天 曦
川 瀬 卓
⑴現在の研究テーマ
・日本語史(語彙史・文法史)、副詞の歴史的研究、地方議会会議録の社会言語学的研究
⑵著書、論文、その他
[論文]
・川瀬卓「近世における副詞「どうも」の展開」青木博史・小柳智一・高山善行編『日本語文法史研究2』pp.131151、単著、2014年10月、ひつじ書房
[その他]
・川瀬卓「詞八衢」「小学読本」弘前藩藩校資料調査プロジェクトチーム『弘前大学地域未来創生センター藩校資
料調査プロジェクト 東奥義塾高等学校所蔵旧弘前藩古典籍調査集録』pp.26-33、単著、2015年3月
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・二階堂整、川瀬卓、高丸圭一、田附敏尚、松田謙次郎「地方議会会議録による方言研究の可能性」日本方言研究
会第99回研究発表会、共同、北海道大学、2014年10月17日
・川瀬卓「東奥義塾高校図書館所蔵日本語学関係資料について」東奥義塾高校所蔵旧弘前藩藩校「稽古館」資料調
査報告会、単独、弘前大学、2015年2月23日
[講演]
・川瀬卓「津軽の気づきにくい方言―ことばの受容と変容―」弘前大学人文学部国際公開講座2014「日本を知り、
世界を知る」アジアの文化・歴史《再発見》―津軽・日本そして中国―、単独、弘前大学、2014年11月3日
⑷学外集中講義など
・弘前大学ドリーム講座「東北方言の助詞「さ」の謎―方言に見ることばの変化―」青森県立青森南高等学校、
2014年11月14日
・地域未来創生塾「東北方言の助詞「さ」の謎―方言に見ることばの変化―」弘前市立中央公民館、2014年12月10
日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・基盤研究(C)一般「地方議会議事録の社会言語学的研究―バリエーション研究の事例として―」(研究分担者)
平成25 ∼ 27年度
68
〇国際社会講座
PHILIPS JOHN EDWARD
⑵著書、論文、その他
[論文]
・PHILIPS JOHN EDWARD Islamic Publications in Nigeria in Annual Review of Islam in Africa Special Issue: Islam in
Nigeria issue number 12/1 (2013-14), pp.92-101、単著
[その他]
・PHILIPS JOHN EDWARD Understanding Boko Haram The Japan Times May 28, 2014、単著、 http://www.japantimes.
co.jp/opinion/2014/05/27/commentary/world-commentary/understanding-boko-haram/
・PHILIPS JOHN EDWARD The Early Issues of the First Newspaper in Hausa Gaskiya ta fi Kwabo, 1939-1945 History in
Africa (2014)、単著、http://dx.doi.org/10.1017/hia.2014.12
齋 藤 義 彦
⑴現在の研究テーマ
・現代ドイツ、ヨーロッパ文化
⑵著書、論文、その他
[その他、翻訳]
・齋藤義彦 「ドイツ連邦議会における連邦首相アンゲラ・メルケル博士の2015年度予算法説明演説(2014年9月10
日ベルリン)」『人文社会論叢―社会科学篇』第33号、pp.105-118、単著、2015年2月
城 本 る み
荷 見 守 義
⑴現在の研究テーマ
・東アジア地域史、中国史(明代)、朝鮮王朝史
⑵著書、論文、その他
[著書]
・荷見守義『明代遼東と朝鮮』単著、2014年5月、汲古書院
[論文]
・荷見守義「陳王庭と張銓 ‐ 明代遼東監軍御史考 ‐ 」『(中央大学人文科学研究所)人文研紀要』第79号、pp.165197、単著、2014年9月
・荷見守義「明朝档案を通じて見た明末中朝辺界」『燕行録の世界』景仁文化社(韓国)、pp.87-147、単著、2015
年3月
[その他]
・荷見守義「大明律祥刑氷鑑指南旁訓」「明律巻十一国字解」「問刑條例 名例律国字解」「問刑條例 戸律国字解」
解説『東奥義塾高等学校所蔵 旧弘前藩古典籍調査集録』pp.37-46、単著、2015年3月31日
⑶研究発表、講演
[講演]
・荷見守義「雲南 ‐ 中国南辺から見る世界 ‐ 」弘前大学人文学部国際公開講座2014「日本を知り、世界を知る」
アジアの文化・歴史《再発見》‐ 津軽・日本そして中国 ‐ 、単独、弘前大学50周年記念会館岩木ホール、
2014年11月3日
⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など
・中国、雲南辺疆調査、2014年8月18日∼ 27日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・基盤研究(C)「明代中国における審判・軍功評価事例の集積による辺疆統御様態の解明」(研究代表者)2014 ∼
69
2017年度
・基盤研究(A)「近代移行期の港市と内陸後背地の関係に見る自然・世界・社会観の変容」(研究分担者)2014 ∼
2017年度
⑻学会・研究会・講演会などの開催
[弘前大学人文学部主催または共催のもの]
・弘前大学人文学部国際公開講座2014「日本を知り、世界を知る」 アジアの文化・歴史《再発見》‐ 津軽・日本
そして中国 ‐ 、弘前大学、2014年11月3日
林 明
⑴現在の研究テーマ
・ガンディーの思想及び歴史的再評価、ガンディーと日本の関係、スリランカの民族問題
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・林明「紛争終了後のスリランカの現状」「グローバル化と暴力に関する政治学的研究(科学研究費補助金 研究
課題番号:23243019 基盤研究(A)代表者:大串和雄(東京大学法学(政治学)研究科(研究院)教授))」研
究会、単独、弘前国際ホテル、2014年7月12日
⑷学外集中講義など
・平成26年度夏季集中講義「国際環境システム論特別講義」、東北大学大学院、2014年8月4日∼ 7日
⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など
・スリランカ、資料収集、2014年3月22日∼ 4月6日
・インド、資料収集、2014年9月6日∼ 21日
⑺共同研究、受託研究など
・「ガンディーと日本の関係」についてのThomas Weber氏(Honorary Associate, La Trobe University)との共同研究
澤 田 真 一
⑴現在の研究テーマ
・ニュージーランド文学、マオリ文学、ポストコロニアル文学
⑵著書、論文、その他
[論文]
・澤田真一「ニュージーランド文学におけるポストコロニアル・アイデンティティの形成−より高次の調和を求め
てのIhimaeraによる脱植民地化の過程」
『日本ニュージーランド学会誌』第21号、pp.3-13、単著、2014年6月
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・ 澤 田 真 一「Witi Ihimaera and the Literature of Mauri」New Zealand Studies Society-Japan International Symposium
2014、単独、Auckland Institutes St Helens、2014年8月30日
[講演]
・澤田真一「異文化理解−マオリ族の文化について」弘前ローターアクトクラブ10月例会、単独、SKK情報ビジネ
ス専門学校、2014年10月16日
・澤田真一「異文化理解から生まれるもの:差異と共生について考える」弘前地区安全運転管理者協会・平成26年
度事業主の集い、単独、フォルトーナ、2014年11月11日
⑷学外集中講義など
・平成26年度大学模擬講義「南半球から日本を眺める−日本の常識は世界の非常識!?」秋田県立大館国際情報学院
高等学校、2014年12月11日
⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など
・ニュージーランド/オークランド、国際シンポジウム参加、2014年8月27日∼ 9月5日
・ニュージーランド/オークランド、資料収集及び研究、2015年3月2日∼ 10日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・基盤研究(C)「ニュージーランド文学における共生を鍵とした文化的対話の弁証法」(研究代表者)平成26 ∼
70
28年度
FUHRT VOLKER MICHAEL
⑴現在の研究テーマ
・ナショナリズムと歴史認識
中 村 武 司
⑴現在の研究テーマ
・西洋史、イギリス史・イギリス帝国史、近代ヨーロッパ史
⑵著書、論文、その他
[論文]
・中村武司「ウェストミンスタ選挙区における体制支持派の提督とイギリス海軍の「神話」、1780−1806年」『西洋
史学』254号、pp.19-37、単著、2014年9月、日本西洋史学会
[その他]
・中村武司「「近世」の世界システムをどう考えるのか」『全歴研研究紀要』50巻、全国歴史教育研究協議会、
pp.116−119、単著、2014年7月
・中村武司「フランス革命・ナポレオン戦争」、イギリス文化事典編集委員会(編)『イギリス文化事典』丸善出版、
pp.512−513、単著、2014年11月
・中村武司「イギリス帝国の形成」、イギリス文化事典編集委員会(編)『イギリス文化事典』丸善出版、pp.518519、単著、2014年11月
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・中村武司(向正樹・後藤敦史・中村翼との共同報告)「歴史学界の「マルサスの罠」からの脱出をめざして:大
阪大学歴史教育研究会の活動と若手研究者のネットワーク」史学会125周年事業・リレーシンポジウム2014「高
大連携による大学歴史系専門教育・教員養成教育の刷新」、共同、大阪大学中之島センター、2014年9月14日
⑷学外集中講義など
・出張講義「ヨーロッパとは何か」秋田県立秋田北鷹高等学校、2014年6月11日
⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など
・イギリス(ロンドン)、資料調査、2014年8月9日∼ 8月28日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・若手研究(B)「19世紀イギリスの改革運動に関する政治文化史研究: 大西洋革命との関連から」(研究代表者)
平成26 ∼ 28年度
武 井 紀 子
⑴現在の研究テーマ
・古代日本地方制度研究、出土文字資料研究、日唐律令制比較研究
⑵著書、論文、その他
[著書]
・武井紀子「律令財政と貢納制」岩波講座『日本歴史』第3巻古代3、pp.110-140、共著、2014年9月、岩波書店
[論文]
・武井紀子「古代における倉庫出納業務の実態」『国立歴史民俗博物館研究報告』194、pp.101-126、単著、2015年
3月
・武井紀子「日本倉庫令復原研究の現在」『弘前大学国史研究』138、pp.1-24、単著、2015年3月
[その他・資料調査報告]
・武井紀子「慶州・雁鴨池出土銘文土器の調査報告」『国立歴史民俗博物館研究報告』194、pp.343-351、単著、
2015年3月
・平川南・武井紀子「秋田城跡 第五四次・七二次・七三次調査出土漆紙文書について―釈文の補定と追加」秋田
71
市教育委員会秋田城跡調査事務所編『秋田城跡調査事務所年報2014』、pp.113-124、共著、2015年3月
[その他・書評]
・武井紀子「十川陽一『日本古代の国家と造営事業』」『法制史研究』64、pp.263-267、単著、2015年3月
[その他・図録解説等]
・武井紀子ほか 国立歴史民俗博物館国際企画展示図録『文字がつなぐ―古代の日本列島と朝鮮半島―』展示解説、
pp.64-66、76-79、154、共著、2014年10月
・武井紀子ほか 弘前大学人文学部・弘前大学地域未来創生センター・弘前藩藩校史料調査プロジェクトチーム編
『東奥義塾高等学校所蔵 旧弘前藩古典籍調査集録』、pp.12-25、共著、2015年3月
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・武井紀子「日本古代租税制度と律令法」第59回国際東方学者会議(東方学会)シンポジウム「律令制的人民支配
の比較研究」、単独、日本教育会館、2014年5月24日
・武井紀子「東奥義塾高校図書館所蔵日本古代史関係資料について」東奥義塾高校所蔵旧弘前藩藩校「稽古館」資
料調査報告会(弘前大学人文学部・弘前大学地域未来創生センター)、単独、弘前大学人文学部、2015年2月23日
[講演]
・武井紀子「居村木簡をよむ」茅ヶ崎市シンポジウム「居村木簡が語る古代の茅ヶ崎」(茅ヶ崎市)、単独、茅ヶ崎
市役所、2014年7月5日∼ 6日
・武井紀子「律令制下の倉庫管理―監臨官の不正と官物補填」平成26年度東方学会秋季学術大会(東方学会)、単独、
奈良女子大学、2014年11月8日
・武井紀子「日本倉庫令研究の現在」平成26年度弘前大学国史研究会大会公開講演(弘前大学国史研究会)、単独、
弘前大学附属図書館ラーニングスペーススクエア、2014年10月4日
⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など
・中国山西省、資料史跡調査、2014年8月22日∼ 28日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・基盤研究(B)
「律令制的人民支配の総合的研究―日唐宋令の比較を中心に―」
(連携研究者、
研究代表者:大津透)
平成25 ∼ 28年度
⑻学会・研究会・講演会などの開催
[弘前大学人文学部主催または共催のもの]
・
「東奥義塾高校所蔵旧弘前藩藩校「稽古館」資料調査報告会」弘前大学人文学部・弘前大学地域未来創生センター、
2015年2月23日
[それ以外のもの]
・「平成26年度弘前大学国史研究会大会」弘前大学国史研究会、2014年10月4日
〇情報行動講座
奥 野 浩 子
⑴現在の研究テーマ
・英語の動詞の意味構造と構文、国語学習と英語学習を結ぶ韓国語教材の開発
⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など
・韓国、共同研究の打ち合わせ・資料収集、2014年9月24日∼ 28日
⑻学会・研究会・講演会などの開催
[それ以外のもの]
・日本英文学会東北支部第69回大会、弘前大学(弘前大学共催)、2014年11月29日∼ 30日
佐 藤 和 之
⑴現在の研究テーマ
・方言主流社会の言語変容と言語意識の相関研究、外国人への災害情報伝達研究:被災外国人に「やさしい日本語」
72
で情報を伝える、自閉症スペクトラム障害を持つ人たちのコミュニケーション能力についての研究、グローバル
社会におけるソフトパワーとしての日本語の役割研究
⑵著書、論文、その他
[論文]
・松本敏治・佐藤和之ほか「自閉症スペクトラム障害児・者に見られる方言不使用について∼その普遍性と理論的
検討」第16回『認知神経心理学研究会予稿集』pp. 7-8、2014年、認知神経心理学研究会
・佐藤和之「社会言語学がwelfare linguisticsであることの理由 ∼ 鶴岡調査の根拠と貢献」
『社会言語科学会論文集・
社会言語学の源流を追って』pp.239-240、2014年、社会言語科学会
・松本敏治・佐藤和之ほか「自閉症は方言を話さない」は普遍的現象か」『特殊教育学研究』52巻4号, pp.263-274、
2014年、日本特殊教育学会
・佐藤和之「『やさしい日本語』の活用理由を再考する」『国際文化研修』Vol.85、pp.12-17、2015年、全国市町村
国際文化研修所
作 道 信 介
曽 我 亨
⑴現在の研究テーマ
・東アフリカ牧畜社会における気候変動と紛争、東アフリカにおける難民の生存を可能にした新たな経済活動、人
類の進化史的基盤に関する研究
⑵著書、論文、その他
[論文]
・日比野愛子・曽我亨「地域に埋め込まれた/地域を創りだすローカル・イノベーション」『人文社会論叢―社会
科学篇』第33号、pp.1-16、2015年
・曽我亨「生業」松田素二編『アフリカ社会を学ぶ人のために』pp.56-69、2014年、世界思想社
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・曽我亨「人類学的視点から考える新たな他者像」第68回日本人類学会大会進化人類学分科会、アクトシティ浜松
コングレスセンター、2014年11月3日
・曽我亨「三項関係のなかで生まれる他者」第12回人類社会の進化史的基盤研究研究会、東京外国語大学アジアア
フリカ言語文化研究所、2014年10月11日
・曽我亨「生態人類学の観点から」第2会公開シンポジウム『制度̶人類社会の進化』(河合香吏編 京都大学学術
出版会、2013)をめぐって、東京外国語大学アジアアフリカ言語文化研究所、2014年12月6日
⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など
・エチオピア民主連邦共和国、現地調査、2014年8月18日∼ 9月18日
・アメリカ合衆国(ジェームズ・マディソン大学)、2015年3月26日∼ 3月31日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・基盤研究(A)「アフリカ在来知の生成と共有の場における実践的地域研究」(代表:重田眞義、京都大学)研究
分担者
・基盤研究(C)「難民の生存を支える新たな経済活動に関する人類学的研究」(研究代表者)
・基盤研究(B)「援助と投資の経済人類学:エチオピアの食料資源の市場化/脱市場化に関する実証分析」(代表:
松村圭一郎、立教大学)研究分担者
内 海 淳
大 橋 忠 宏
⑴現在の研究テーマ
73
・空港や路線の特性を考慮した国内及び国際航空市場特性の検討、弘前市を含む津軽地方における持続可能な公共
交通サービスの設計
⑵著書、論文、その他
[論文]
・大橋忠宏、工藤亮磨「弘前市の都市内公共交通サービスの現状とバスサービスの改善案:弘前市城東環状100円
バスの場合」、『日本都市学会年報』、Vol.47、pp.25-34、2014年5月
・大橋忠宏「ICAOデータを利用した国際航空旅客市場特性の検討」、『人文社会論叢―社会科学編』、第32号、
pp.67-79、2014年8月
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・大橋忠宏「ICAOデータを利用した国際航空旅客市場特性の検討と課題」、2014年度公益事業学会北海道・東北部
会、北海道電力本店、北海道、2014年9月6日
・大橋忠宏「日本発着データを利用した国際航空旅客市場特性の検討と課題」、2014年度応用地域学会那覇大会、
沖縄産業支援センター、沖縄県、2014年11月29-30日
⑷学外集中講義など
・弘前大学ドリーム講座「青森市内のバスや鉄道利便性の経済評価」青森北高校、9月2日
・平成26年度後期講義「地域と情報ネットワーク」青森公立大学、2014年9月∼ 12月
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・基盤研究(C)「空港・路線の特性を考慮した国内及び国際航空市場の政策評価に関する実証研究」平成24 ∼ 27
年度
羽 渕 一 代
⑴現在の研究テーマ
・若者の親密性と性、新しいメディア利用が社会に及ぼす影響
⑵著書、論文、その他
[論文]
・羽渕一代「メディア利用にみる恋愛・ネットワーク・家族形成」『ケータイの2000年代―成熟するモバイル社会』
pp.149-169、2014年、東京大学出版会
・Ichiyo HABUCHI, 2014, Mobile Phone Usage in Turkana, Kenya, Gerard Goggin and Larissa Hjorth (eds.), The Routledge
Companion to Mobile Media pp.475-487, Routledge.
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・Ichiyo HABUCHI, 2014, Romantic Love and Media Usage Among Japanese Youth, XVIII ISA World Congress of
Sociology, Yokohama, Japan.
⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など
・ロンドン(英国)調査 (科研費)
・トゥルカナ(ケニア)調査 (科研費)
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・挑戦的萌芽研究「周縁地域における携帯電話を利用したリテラシー獲得支援」(研究代表者)2014 ∼ 2017年度
増 山 篤
⑴現在の研究テーマ
・地理的アクセシビリティに関する理論的研究、各種地理的アクセシビリティ指標を用いた実際の都市・地域空間
の評価・分析
⑵著書、論文、その他
[論文]
・Atsushi Masuyama (2014)Total locational surplus for facility users distributed continuously along a network, International
Journal of Geographical Information Science, 28⑺, 1502-1522
74
・増山篤「青森県における自家用車による買い物行動のモデル化と商業活動の最適な空間的配分」
『都市計画論文集』
49⑵、pp.176-185、2014年
日比野 愛 子
⑴現在の研究テーマ
・科学知・テクノロジーのグループ・ダイナミックス ⑵著書・論文、その他
[著書]
・日比野愛子、渡部幹、石井敬子『つながれない社会−グループ・ダイナミックスの3つの眼』、共著、2014年4月、
ナカニシヤ出版
[論文]
・Aiko Hibino, Toshio Kobori & Takeyasu Kunio「A Short Story of AFM in biology」Takeyasu(eds.)『Atomic Force
Microscopy』、pp.1-11、共著、2014年4月、Pan Stanford Publishing
・日比野愛子、江間有沙、上田昌文、菱山玲子「生活習慣病対策ゲームの開発実践 –知の生成をうながすゲーミング・
インタラクションに注目して」『日本経営工学会論文誌』Vol.65, No.3, pp.212-218、共著、2014年11月
・日比野愛子、曽我亨「地域に埋め込まれた/地域を創りだすローカル・イノベーション」『人文社会論叢―社会
科学篇』第33号、pp.1-16、共著、2015年2月
[短報・記事]
・日比野愛子「ゲームで浮かび上がる地域の健康課題:ネゴバト津軽版(東目屋版)の実践報告」『市民研通信』
第29号通巻175号、単著、2015年3月
⑶研究発表・講演
[研究発表]
・日比野愛子、永田素彦「提示法による人工細胞イメージの変化」日本社会心理学会第55回大会、共同、北海道大
学、2014年7月27日
・日比野愛子、曽我亨「生産変動にゆれる人-機械ダイナミックス:青森地域の工場を事例として」日本グループ・
ダイナミックス学会第61回大会、共同、東洋大学、2014年9月6日
[招待講演]
・日比野愛子「生物学的想像力の共通性と多様性」、細胞を創る研究会6.0、単独、東京大学、2014年11月14日
[ワークショップ企画]
・日比野愛子「ネゴシエート・バトル(生活習慣病対策ゲーム)の開発実践」日本グループ・ダイナミックス学会
第61回大会、単独、東洋大学、2014年9月7日
⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動
・ジェームズマディソン大学(アメリカ、ワシントン)、2015年3月
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・若手研究(B)「生命観を彫刻する細胞デザインに関する研究」(研究代表者)平成25 ∼ 26年度
・基盤研究(A)「北リアスにおけるQOLを重視した災害復興政策研究−社会・経済・法的アプローチ」(研究分
担者)平成24 ∼ 26年度
・経営アカデミー生産性研究助成「ローカル機械がもたらす農業イノベーション:農機具共同体の事例分析」(研
究代表者)平成26 ∼ 27年度
⑺共同研究、受託研究など
・弘前大学と弘前市との連携調査研究委託モデル事業「土産物の選択における価値と観光客の購買行動に関する研
究」平成26年度(研究代表者)
・弘前市公民館、弘前大学との地域づくり連携事業「生活習慣病対策ゲームの実践」平成26年度
栗 原 由紀子
⑴現在の研究テーマ
・統計的マッチングに関する研究、政府統計ミクロデータ分析と推定精度に関する研究
⑵著書、論文、その他
75
[論文]
・栗原由紀子「統計的マッチングにおける推定精度とキー変数選択の効果−法人企業統計調査ミクロデータを対象
として−」『統計学』第108号、pp.1-15、単著、2015年3月
[その他、報告書]
・栗原由紀子「参加者アンケートの集計結果」平成26年度『地域未来創生センタージャーナル』、2015年2月
・栗原由紀子「平成26年度 第7回学生生活実態調査報告書」、第7章担当、2015年3月
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・栗原由紀子「企業データを用いた統計的マッチングにおける共通変数選択について」、経済統計学会関東支部月
例研究会、単独、立教大学、2014年6月7日
・Yukiko Kurihara Selection Effects of Common Variables on Statistical Matching 、The R User Conference、Single author、
UCLA、July 2nd 2014
・栗原由紀子「企業予想の異質性に関する検証−法人企業景気予測調査ミクロデータを用いて−」、第58回経済統
計学会全国研究大会、単独、京都大学、2014年9月12日
・栗原由紀子「景況パネルによる企業の予想形成の分析」、第39回弘前大学経済学会大会、単独、弘前大学、2014
年10月24日
・坂田幸繁・栗原由紀子「景気予測調査ミクロデータの数量特性とその利用可能性」、一橋大学共同利用共同研究
プロジェクト第2回研究報告会、共同、新潟市役所、2015年3月3日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・一橋大学経済研究所共同利用共同研究拠点事業プロジェクト研究「立地要因を考慮した企業・事業所活動の経時
的特性に関する研究」(研究代表者:法政大学・森博美)平成26年度、共同研究者
〇ビジネスマネジメント講座
保 田 宗 良
⑴現在の研究テーマ
・医療サービスと医療マーケティングの関連性、健康マーケティングシステム研究の方法論
⑵著書、論文、その他
[論文]
・保田宗良「ヘルスケアサービスと医薬品流通業」『人文社会論叢−社会科学篇』第32号、pp.17-26、単著、2014
年8月
・保田宗良「医療サービスの質的向上と医薬品流通体制」『消費経済研究』第3号、pp.71-81、単著、2014年9月
[その他]
・保田宗良「ヘルスケアサービスと医薬品流通業に関する小論」『融合』No.26、pp.12-14、単著、2015年2月
・保田宗良「解題 −顧客満足とまちづくり−」『2014年度弘前大学人文学部戦略的経費(地域貢献社会連携)報
告書 公共交通を活用した中弘南黒地域活性化の研究』pp.1-9、2015年3月
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・保田宗良「健康サービスの質的向上と医薬品流通」日本消費経済学会東日本大会、単独、北星学園大学、6月21
日
・保田宗良「健康サービスの質的向上と医薬品流通の総合的考察」日本消費経済学会全国大会、単独、長崎県立大
学、9月28日
・保田宗良「地域医療の質的向上と医療マーケティングの考察」日本消費経済学会北海道・東北部会研究報告会、
単独、北星学園大学、3月14日
[講演]
・「青森県の消費者問題の多角的考察」青森県消費者問題研究会、単独、県民福祉プラザ、2014年12月27日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・基盤研究(C)「医療サービスの質的向上を意図した健康マーケティングシステムの構築」(研究代表者)平成
76
26~28年度
⑻学会・研究会・講演会などの開催
[弘前大学人文学部主催または共催のもの]
・シンポジウム「公共交通を活用した中弘南黒地域の活性化」弘前商工会議所会館、2月14日
・フォーラム「消費者教育フォーラム」八戸グランドホテル、2月28日
・フォーラム「消費者教育フォーラム」弘前大学、3月29日
森 樹 男
⑴現在の研究テーマ
・日系多国籍企業の地域統括本社制、北欧の地域活性化モデルと青森県、同人マンガの電子書籍化と海外展開
⑵著書、論文、その他
[研究ノート]
・森樹男「日系多国籍企業の欧州統括本社の現状」『弘前大学経済研究』第37号、pp.54-63、単著、2014年12月
[その他]
・森樹男「新人文学部の強みを加速する地域志向教育プログラムの開発」『地域未来創生センタージャーナル』
pp.23-27、単著、2015年2月
・森樹男編『若者の感性を活かした産学官連携ビジネスモデルの構築事業 平成26年度 実施報告書』弘前大学人
文学部・教育学部、共著、2015年2月
・森樹男編『課題解決型学習と学生の主体的な学び−大学生のチャレンジ2014−報告書』弘前大学人文学部・農学
生命科学部、共著、2015年2月
・森樹男編『地域企業と実践する課題解決型学習による主体的な学びプログラムの構築 平成26年度事業実施報告
書』弘前大学、共著、2015年3月
・森樹男編『弘前大学人文学部 教育改善・教育プログラム開発プロジェクト中間報告書』弘前大学人文学部、
2015年3月
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・森樹男「地域統括本社の存続・撤退要因の研究∼欧州地域統括本社に対するアンケート調査とコマツと豊田自動
織機の事例を通して∼」多国籍企業学会西部部会、単独、大阪商業大学、2014年12月19日
⑷学外集中講義など
・青森高校スーパーグローバルハイスクール「グローバル時代の企業経営」青森高校、2014年10月22日
・大学出前講座「ヒット商品の裏側を探る∼成功企業のビジネスモデルとは∼」能代高校、2014年11月12日
⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など
・スウェーデン、European International Business Academy参加のため、2014年12月10日∼ 15日
・タイ、日系企業の地域統括本社に関する調査のため、2015年3月4日∼ 7日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・文部科学省GP「産業界のニーズに対応した教育改善・充実体制整備事業」(事業実施代表者)、2012 ∼ 2014年度
⑺共同研究、受託研究など
・青森県産業技術センター弘前地域研究所「若者の感性を活かした産学官連携ビジネスモデルの構築事業(平成26
年度)」2014年10月∼ 2015年2月
⑻学会・研究会・講演会などの開催
[弘前大学人文学部主催または共催のもの]
・人文学部FD講演会(共催 人文学部学務委員会)、弘前大学、2015年1月21日
[それ以外のもの]
・弘前大学フォーラム「課題解決型学習と学生の主体的な学びⅢ」、ホテルナクアシティ弘前、2014年12月19日
・弘前大学講演会「茨城大学根力育成プログラムについて」、弘前大学、2015年2月17日
77
加 藤 惠 吉
⑴現在の研究テーマ
・国際税務、実証会計、租税制度
⑵著書・論文、その他
[著書]
・中島茂幸、櫻田譲[編著]『[改訂版]ベーシック税務会計〈企業課税編〉』第1章・第3章・第8章の各担当節、創成社、
2014年9月
・中島茂幸、櫻田譲[編著]『[改訂版]ベーシック税務会計〈個人課税編〉』第7-9章、53-68頁、創成社、2014年10月
・加藤惠吉、許霽他『基礎簿記会計(三訂版)』第4章37-44頁、第12章117-128頁、五絃舎、2015年3月
[論文]
・Hiroshi Ohnuma and Keikichi Kato Empirical Examination of Market Reaction to Transfer Pricing Taxation Announcement
in Press : A Japanese Perspective Journal of Modern Accounting and Auditing , vol.11 , No.1, pp.10-26, David Publishing,
New York, January 2015
・加藤惠吉、大沼宏、櫻田譲「移転価格税制の適用と資本市場の評価に関する実証研究」『研究年報 経済学』第75
巻第1・2号、33-49頁、東北大学経済学会、2015年3月
[その他(書 評)]
・(書評)平井七奈著「中小企業における研究開発税制の適用とその有効性」『中小企業季報』中小企業経営研究所
2014年第1号、33-34頁、2014年4月
⑶研究発表・講演
[研究発表]
・Hiroshi Ohnuma and Keikichi Kato Empirical Examination of Market Reaction to Transfer Pricing Taxation Announcement
in Press : A Japanese Perspective 37th European Accounting Association Annual Congress, Estonian Business School,
Tallinn, Estonia, May 2014
⑷学外集中講義など
・弘前大学ドリーム講座「税務と会計」青森県立三沢高等学校、2014年7月
・出張講義「くらしの中の会計学について」秋田県立湯沢翔北高等学校、2014年9月
髙 島 克 史
⑴現在の研究テーマ
・起業家論、競争戦略論、実践としての経営戦略
⑵著書、論文、その他
[論文]
・髙島克史「戦略の形成」『弘前大学経済研究』第37号、pp.39-53、単著、2014年12月
⑷学外集中講義など
・弘前高校出前講義「経営戦略を学べば常識がかわる」弘前高校,2014年9月19日
・青森高校ドリーム講座「経営戦略の世界」青森高校、2014年11月6日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・若手研究(B)「起業家の認識・解釈プロセスをふまえたベンチャー企業事業化プロセスの体系的研究」(研究代
表者)2013 ∼ 2015年度
⑻学会・研究会・講演会などの開催
[弘前大学人文学部主催または共催のもの]
・弘前大学における課題解決型学習の取組と今後の展望∼ GPからCOCへ∼「GPによる大学改革の成果とCOC」弘
前大学、2015年2月17日
[それ以外のもの]
・青森高校スーパーグローバルハイスクール講演会「ビジネスマネジメント」青森大学、2014年10月29日
内 藤 周 子
⑴現在の研究テーマ
78
・会計学、財務会計、IFRS、公会計、六次産業化
⑵著書、論文、その他
[著書]
・内藤周子、第2章I「食料産業クラスターの事業展開」二神 恭一、高山 貢、高橋 賢 編著『地域再生のための経営
と会計∼産業クラスターの可能性∼』pp. 54-64、単著、2014年4月
・内藤周子、第2章V「食料産業クラスターの事業化の意義と課題」二神 恭一、高山 貢、高橋 賢 編著『地域再生
のための経営と会計∼産業クラスターの可能性∼』pp. 104-110、単著、2014年4月
・内藤周子、第3章VII「青森県におけるクラスター形成の意義と課題」二神 恭一、高山 貢、高橋 賢 編著『地域再
生のための経営と会計∼産業クラスターの可能性∼』pp.175-182、単著、2014年4月
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・内藤周子「六次産業化の取組みにおける会計情報の活用」日本会計研究学会第86回東北部会、単独、八戸ポータ
ルミュージアム、2014年7月12日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・挑戦的萌芽研究「六次産業化における事業の評価指標の開発とその応用可能性」(研究代表者)
大 倉 邦 夫
⑴現在の研究テーマ
・企業の社会的責任、ソーシャル・ビジネス、戦略的提携、社会的協働
⑵著書、論文、その他
[その他]
・森樹男編『若者の感性を活かした産学官連携ビジネスモデルの構築 平成26年度事業実施報告書』弘前大学人文
学部・教育学部、共著、2015年3月
⑺共同研究、受託研究など
・青森県産業技術センター弘前地域研究所「若者の感性を活かした産学官連携ビジネスモデルの構築事業(平成26
年度)」2014年10月∼ 2015年2月
⑻学会・研究会・講演会などの開催
[弘前大学人文学部主催または共催のもの]
・弘前大学における課題解決型学習の取組と今後の展望∼ GPからCOCへ∼「GPによる大学改革の成果とCOC」弘
前大学、2015年2月17日
恩 田 睦
⑴現在の研究テーマ
・経営史、日本経済史、鉄道史
⑵著書、論文、その他
[論文]
・恩田睦「弘南鉄道の経営と電化・延伸 : 終戦直後の地方私鉄」鉄道史学会編『鉄道史学』第32号、3-16頁、単著
[その他:資料]
・恩田睦・小谷田文彦「沿線住民による地方鉄道の存続・利用促進運動:和田高枝氏ヒアリングによるえちぜん鉄
道の活性化」研究推進・評価委員会編『人文社会論叢―社会科学編』第32号、125-137頁、2014年
[その他:調査報告]
・恩田睦「現地調査からみえた地方鉄道の活性化と大学の役割:教員チームの報告要旨」『弘前大学人文学部戦略
的経費(地域貢献社会連携)報告書』59-61頁、2015年
・恩田睦・小谷田文彦「地方鉄道の活性化と地域社会の役割」『弘前大学人文学部戦略的経費(地域貢献社会連携)
報告書』63-76頁、2015年
[その他]
・恩田睦「資料解説」(名古屋大学・法情報研究センター、木内信胤関係文書Web目録)
79
http://jalii.law.nagoya-u.ac.jp/project/jakiuchi
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・恩田睦「弘南鉄道の電化・延伸:戦時・終戦直後の砂利需要」戦後鉄道史研究会、立教大学、2014年6月14日
[講演]
・恩田睦・小谷田文彦・Carpenter, Victor Lee「教員チームの話題提供:国内の事例紹介」シンポジウム・「公共交
通を活用した中弘南黒地域の活性化」弘前商工会議所会館、2015年2月14日
・恩田睦・小谷田文彦・Carpenter, Victor Lee「九州の地方鉄道の調査報告:住民の「応援」による おもてなし 」
弘前市役所、2015年3月30日
⑷学外集中講義など
・弘前大学ドリーム講座「経営史ってどんな学問?」三本木高等学校、2014年10月8日
〇経済システム講座
鈴 木 和 雄
⑴現在の研究テーマ
・接客サービスの労働過程、大量生産体制下の労働形態と生活形態の変容
⑵著書、論文、その他
[論文]
・鈴木和雄「接客サービス労働過程分析の理論的視座」『日本労働社会学会年報』第25号、pp.66-95、単著、2014
年12月25日、日本労働社会学会
[その他]
・鈴木和雄「鈴木和雄著『接客サービスの労働過程論(御茶の水書房、2012年)』に対する書評へのリプライ」『季
刊・経済理論』第51巻第1号、pp.83-85、単著、2014年4月20日、経済理論学会
・鈴木和雄「経済理論学会第61回大会(専修大学、2014年10月5日/ 6日)・第4分科会「労働価値説とサービス論」
報告」『季刊・経済理論』第51巻第1号、p.103、単著、2014年4月20日、経済理論学会
⑻学会・研究会・講演会などの開催
[それ以外のもの]
・弘前大学経済学会第39回大会、2014年10月24日、弘前大学
北 島 誓 子
池 田 憲 隆
⑴現在の研究テーマ
・1880年代の外国人経営造船企業と海軍との関係
⑵著書、論文、その他
[その他、研究ノート]
・池田憲 「軍艦大和に関するノート」『人文社会論叢―社会科学篇』第32号、pp.111-124、単著、2014年8月
⑷学外集中講義など
[講演]
・弘前大学ドリーム講座「不思議なおかね」弘前中央高校、2014年8月21日
[TVインタビュー]
・中国中央テレビ局(CCTV)特別番組取材「日清戦争120周年」、2014年8月14日
80
細 矢 浩 志
⑴現在の研究テーマ
・EU統合下の欧州自動車産業の変容に関する実証研究
⑵著書、論文、その他
[論文]
・細矢浩志「EU東方拡大とスペイン自動車産業の構造再編」、『人文社会論叢―社会科学編』第32号、pp.27-44、
2014年8月
・細矢浩志「欧州自動車産業の生産ネットワークの進化とグローバル競争力の構築」池本修一・田中宏編『欧州新
興市場国への日系企業の進出:中欧・ロシアの現場から』文眞堂、pp.75-96、2014年11月
[講演]
・三沢市講演会「世界をちょこっとのぞいてみよう」、細矢浩志「EU=未確認政治物体の衝撃∼私たちはEUから何
を学ぶのか?∼」、三沢市総合社会福祉センター、2014年10月10日
⑷学外集中講義など
・2014年度前期集中講義「経済政策論(前期)」、山形大学、2014年9月
・2014年度後期集中講義「経済政策論(後期)」、山形大学、2015年1月
・2014年度前期講義「生活と経済」、弘前医療福祉大学、2014年4月∼ 9月
・2014年度後期講義「社会経済論」、弘前医療福祉大学、2014年10月∼ 12月
黄 孝 春
⑴現在の研究テーマ
・りんご産業の活性化、農産物の輸出、中国産業の高度化
⑵著書、論文、その他
[論文]
・黄孝春・田中彰・康上賢淑「資源確保と技術協力の間――日中レアアース交流会議の開催をめぐって」『人文社
会論叢―社会科学編』第32号、pp.45-65、2014年8月
[その他]
・書評、黄孝春「増田四郎『大学でいかに学ぶか』」弘前大学21世紀教育センター『21世紀教育フォーラム』第10号、
pp.77-78、2015年3月
⑶研究発表、講演
[講演]
・園芸学会東北部会公開シンポジウム「東北地方の農産物の販売・生産拡大戦略」
黄孝春「りんごの輸出・販売戦略について」弘前市教育センター、2014年8月27日
⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など
・バンコク、青森県農産物輸出促進協議会海外視察、2015年1月6 ∼ 10日
・上海、グローカル人材育成事業、2015年2月10日∼ 16日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・基盤研究(C)
「資源争奪戦時代におけるトランスナショナル企業の比較経営史研究:鉄鉱石の事例」
(研究分担者)
平成25 ∼ 27(2013 ∼ 15)年度
⑺共同研究、受託研究など
・公益財団法人トラスト未来フォーラム「アジアにおける鉄鉱石貿易の金融化に関する調査研究」(研究代表者)
平成26 ∼ 27年度
李 永 俊
⑴現在の研究テーマ
・地域に根ざした新たな生き方モデル「あおもりモデル」の提唱、地域住民のQOLを重視した復興政策研究
⑵著書、論文、その他
[著書]
81
・李永俊・渥美公秀・永田素彦・河村信治『東日本大震災からの復興⑵がんばる のだ−岩手県九戸郡野田村の地
域力−』、共著、2015年3月、弘前大学出版会
[論文]
・Young-Jun LEE and Sugiura Hiroaki, Impact of the Great East Japan Earthquake on Intentions to Relocate, Journal of
Integrated Disaster Risk Management Vol 4, No 2,pp 64-73, 共著, 2014年
・李永俊・永田素彦・渥美公秀、「生活復興感の決定要因について−東日本大震災の被災地住民アンケート調査か
ら−」、日本災害復興学会論文集、No.6、pp.1-8、共著、2014年
[その他]
・東奥日報、「あおもり経済未知しるべ」連載
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・山口恵子・李永俊「無縁からの支援・縁からの支援―岩手県九戸郡野田村を事例に―」、日本グループ・ダイナミッ
クス学会第61回大会、共同、東洋大学、2014年9月7日
・Young-Jun LEE, The Determinants of Volunteer Work at the Disaster, IDRiM (Integrated Disaster Risk management), 共
同、London, Ontario, Canada、2014年10月
・Young-Jun LEE, Who are Volunteers in Japan's Disaster Zone,Society for Applied Anthropology,75th Annual Meeting, 共同,
Pittsburgh, USA, 2015.3
[講演]
・弘前市防災マイスター育成講座「災害ボランティアと・被災地支援」2014年9月20日、弘前市消防本部大会議室
・三沢市立第二中学校ボランティア活動講演会「災害とボランティア活動」2014年9月30日、弘前大学
・第10回野田村社会福祉大会「野田村のこれまでとこれから∼我々が見た野田村∼」2014年11月22日、岩手県野田
村総合センター
飯 島 裕 胤
⑴現在の研究テーマ
・企業金融論、企業買収の経済分析
⑵著書、論文、その他
[論文]
・飯島裕胤、「企業買収価格構造の幾何的理解とその利用」、『人文社会論叢―社会科学篇』第33号、pp.31-46、2015
年2月
[その他・報告書]
・飯島裕胤、「空き家政策の可能性と課題」、飯島裕胤・曽我亨編『弘前大学 青森県西北地域県民局委託研究、住
民参加型空き家可視化方法の検討及び事例調査 成果報告書』、pp.87-106、2015年3月
⑺共同研究、受託研究など
・青森県西北地域県民局委託研究、
「住民参加型空き家可視化方法の検討及び事例調査」、2014年8月∼ 2015年3月(研
究代表者)
⑻学会・研究会・講演会などの開催
[弘前大学人文学部主催または共催のもの]
(センター、学部共催)
・飯島裕胤「住民参加による空き家利活用の可能性について」、弘前市ヒロロ4階ホール、2015年2月28日
[それ以外のもの]
・飯島裕胤「空き家政策の可能性と課題」、青森県西北地域県民局、西北地域空き家予防・利活用連絡会議、五所
川原市合同庁舎会議室、2015年3月17日
福 田 進 治
⑴現在の研究テーマ
・リカードの経済理論、青森県の経済問題
⑵著書、論文、その他
82
[論文]
・Hiroyuki Shimodaira & Shinji Fukuda「Popularization of Classical Economics: A Text-mining Analysis on David
Ricardo, James Mill, and Harriet Martineau」『Research Group of Economics and Management』(Yamagata University)
No.2014-E01、pp.1-20、共著、2014年12月
[研究ノート]
・福田進治「羽鳥卓也のリカード研究」『人文社会論叢−社会科学篇』第33号、pp.167-178、単著、2015年2月
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・福田進治「リカード∼マーティノウ関連の成果に関して」
(科研費「経済思想の受容・浸透過程に関する実証研究:
人々は経済学をどのように受け入れたのか」の最終報告書に関する議論)第48回経済思想研究会、単独、東北大
学、2014年8月3日
・福田進治「羽鳥卓也のリカード研究」第50回経済思想研究会、単独、東北大学、2015年2月7日
[講演]
・福田進治「近年の消費者政策の展開」消費者教育フォーラム(弘前大学地域未来創生センター・青森県消費者協
会共催)単独、八戸グランドホテル、2015年2月28日
・福田進治「消費者教育の課題と展望」消費者教育フォーラム(弘前大学地域未来創生センター・青森県消費者協
会共催)弘前大学、2015年3月29日
[討論]
・Shinji Fukuda「Yoshifumi Ozawa, John Stuart Mill on Public Expenditure: Focusing on the Military Expenditure of Britain
in the Nineteenth Century」第47回経済思想研究会、単独、東北大学、2014年4月20日
・Shinji Fukuda「Neri Salvadori & Rodolfo Signorino, Patterns of Growth, International Trade, and the Stationary State: A
Comparative Appraisal of the Malthusian and Ricardian Perspectives」International Ricardo Conference、単独、沖縄県男
女共同参画センター、2015年3月7日
⑷学外集中講義など
・第16回市民講座(核燃・だまっちゃおられん津軽の会)「青森県と核燃マネー−青森県経済の現状と脱・核燃料
サイクルの課題−」津軽保健生協、2014年9月4日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・基盤研究(A)「リカードウが経済学に与えた影響とその現代的意義の総合的研究」(研究分担者)平成22 ∼ 26
年度
・基盤研究(B)「経済思想の受容・浸透過程に関する実証研究:人々は経済学をどのように受け入れたか」(研究
分担者)平成22 ∼ 26年度
・基盤研究(C)「日本のリカード研究と欧米のリカード研究の比較検討」(研究代表者)平成22 ∼ 26年度
⑻学会・研究会・講演会などの開催
[それ以外のもの]
・第24回マルサス学会大会、関西大学、2014年6月27日∼ 28日
山 本 康 裕
⑴現在の研究テーマ
・金融政策、金融市場と経済成長との関係
⑵著書、論文、その他
[論文]
・山本康裕「銀行業の寡占化は金融政策に如何なる影響をもたらすか?」
『金融経済研究』Vol.37、pp.41-60、2015年、
日本金融学会
小谷田 文 彦
⑴現在の研究テーマ
・地域経済の経済分析
⑵著書、論文、その他
83
[その他]
・恩田睦、小谷田文彦「地方鉄道の活性化と地域社会の役割」『弘前大学人文学部戦略的経費(地域貢献社会連携)
報告書』、pp.63-76、共著、2014年3月
⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など
・フランス共和国、海外派遣教育プログラム、2014年9月27日∼ 2014年10月4日
・フィンランド共和国、グローカル人材育成事業、2015年1月16日∼ 2015年1月23日
金 目 哲 郎
⑴現在の研究テーマ
・地方交付税、地方財源保障、財政民主主義
⑵著書、論文、その他
[論文]
・金目哲郎「公立小学校の学校図書整備の予算に関する一考察」『人文社会論叢―社会科学篇』第32号、pp.81-93、
単著、2014年8月
・金目哲郎「学校図書等教材整備のための支出の地域間格差の検討」『弘前大学経済研究』第37号、pp.13-26、単著、
2014年12月
・金目哲郎「財政民主主義からみた住民監査請求制度の実態的側面の検討」『弘前大学大学院地域社会研究科年
報 』第11号、pp.105-119、単著、2015年3月
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・金目哲郎「財政民主主義からみた住民監査請求制度の現状と課題」、日本地方財政学会第22回大会、単独、福島大学、
2014年5月25日
〇公共政策講座
児 山 正 史
⑴現在の研究テーマ
・公共サービスの市場(準市場)としての学校選択の効果・影響、地方自治体の行政評価
⑵著書、論文、その他
[論文]
・児山正史「準市場の優劣論とイギリスの学校選択の公平性・社会的包摂への影響⑴」
『人文社会論叢―社会科学編』
第32号、pp.95-110、単著、2014年8月
・児山正史「準市場の優劣論とイギリスの学校選択の公平性・社会的包摂への影響(2・完)」『人文社会論叢―社
会科学編』第33号、pp.47-67、単著、2015年2月
平 野 潔
⑴現在の研究テーマ
・刑事過失論、裁判員制度、法教育
⑵著書、論文、その他
[論文]
・平野潔「過失犯における違法性の認識の可能性」井田良ほか編『川端博先生古稀記念論文集[上巻]』、pp.387409、単著、2014年10月
[その他]
・平野潔「ストーカー行為等の規制等に関する法律2条1項1号にいう『見張り』をする行為、『押し掛ける』行為の
意義―東京高裁平成24・1・18判時2199号142頁―」『刑事法ジャーナル』第40号、pp.140-144、単著、2014年5月
・平野潔「犯人の死亡と犯人隠避罪の成否」山口厚=佐伯仁志編『刑法判例百選Ⅱ各論[第7版]』、pp.254-255、単著、
84
2014年8月
⑶研究発表、講演
[講演]
・平野潔「裁判員の 負担 の意味」青森県の裁判員裁判―これまでの5年間を振り返る―、単独、弘前大学人文学
部校舎多目的ホール、2014年11月1日
・平野潔・河合正雄「地域の防犯を考える」地域未来創生塾、共同、弘前文化センター第3会議室、2014年10月8日
⑻学会・研究会・講演会などの開催
[弘前大学人文学部主催または共催のもの]
・「青森県の裁判員裁判―これまでの5年間を振り返る―」弘前大学、2014年11月1日
長谷河 亜希子
⑴現在の研究テーマ
・独占禁止法、フランチャイズ・システムの法規制、経済法
⑵著書、論文、その他
[論文]
・長谷河亜希子「TPP問題」『法の科学』第45号、pp.113-116、単著、2014年7月
[その他]
・長谷河亜希子「手数料受領行為強要等差止請求事件(セブン‐イレブン事件)東京高裁判決平成24年6月20日」
『公
正取引』第763号、pp.54-60、単著、2014年5月
・長谷河亜希子「事業者の意義(第1版の改訂版)」
「事業者団体の意義・禁止行為」
「取引条件等の差別的取扱い(第
1版の改訂版)」土田和博・岡田外司博編『演習ノート経済法 第2版』法学書院、pp.12-13 、pp.51-52、pp.82-84、
単著、2014年10月
・長谷河亜希子「日本もフランチャイズ法制で加盟店の保護を」週刊金曜日1018号、pp.24 ∼ 25、単著、2014年11
月
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・長谷河亜希子「フランチャイズ本部の濫用行為とその法規制」日本経済法学会、単独、富山大学、2014年10月18
日
⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など
・韓国(ソウル)、不公正な取引方法等に関するヒアリング、2014年9月10日∼ 14日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・基盤研究(C)「日米におけるフランチャイズ契約規制に関する法的規制」(研究代表者)平成25 ∼ 27年度
・基盤研究(C)「労働組合の現代的意義と労働団体法理の再構築に関する実証的理論研究」(研究分担者)平成25
∼ 27年度
・基盤研究(A)「経済法、比較・国際経済法とフェアコノミー:自由、公正、責任の競争法秩序」(研究分担者)
平成26 ∼ 28年度
吉 村 顕 真
⑴現在の研究テーマ
・日米不法行為法の研究、日米救済法の研究、日米相続法の研究
⑵著書、論文、その他
[論文]
・「遺産債務相続における相続人救済の歴史的考察――単純承認本則のもとでの相続人の責任制限」
『人文社会論叢―社会科学篇』第33号、pp.69-103、2015年
⑷学外集中講義など
・弘前大学ドリーム講座「憲法と法律の違い」八戸西高校、2014年10月1日
85
成 田 史 子
⑴現在の研究テーマ
・企業組織再編と労働法
⑵著書、論文、その他
[著書]
・成田史子「労働者の多様化と従業員代表制のあり方 国際比較も含めて」野川忍・山川隆一・荒木尚志・渡邊絹
子編著『変貌する雇用・就労モデルと労働法の課題』pp.241-261、単著、2015年、商事法務
[論文]
・成田史子「ドイツにおける企業組織再編と雇用保障」青森中央学院大学地域マネジメント研究所研究年報 10号、
pp.202-213、単著、2014年
・成田史子「ドイツ労働法古典文献研究会(第5回)事業譲渡時の労働関係自動移転ルール形成過程における議論状
況」季刊労働法 245号、pp.249-262、単著、2014年
[その他]
・成田史子「書評 藤内和公著『ドイツの雇用調整』」日本労働研究雑誌、56巻6号、PP.77-79、単著、2014年
・成田史子「障害に対する配慮の合意と会社分割による承継の有無−阪神バス事件」Jurist臨時増刊 平成26年度
重要判例解説、1479号、pp.237-238、単著、2015年
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・成田史子「会社分割と労働法上の問題」企業変動研究会、単独、明治大学、2014年9月
・成田史子「会社分割と労働契約関係の承継」リサーチセンター研究会、単独、東京大学、2015年2月
⑷学外集中講義など
・2014年度非常勤講師「労働法・政策論」弘前大学 地域社会研究科(博士課程後期)2014年4月∼ 2015年3月
・弘前大学ドリーム講座「ブラック企業に負けないための法知識」青森南高校、2014年11月14日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・若手研究(B)「企業組織再編時の労働者保護を目的とした法規範の構築方法」(研究代表者)2013 ∼ 2015年度
(研究分担者)
・基盤研究(A)
「北リアスにおけるQOLを重視した災害復興政策研究−社会・経済・法的アプローチ」
2012 ∼ 2014年度
・基盤研究(B)「ハイブリッド型労働法における実体規制・手続規制と労使関与メカニズム」(研究分担者)2014
∼ 2016年度
⑺共同研究、受託研究など
・労働問題リサーチセンター「労働法規制の実効性をめぐる現代的課題」(委託研究会委員)2014年7月∼ 2015年3
月
河 合 正 雄
⑴現在の研究テーマ
・受刑者の権利
⑵著書、論文、その他
[その他]
・河合正雄「2008年ヒト受精及び胚研究に関する法律―ヒト胚等を用いた先端研究を中心に―」『慶應法学』29号、
pp.179-183、単著、2014年4月
・河合正雄「若手研究者が読み解く〇〇法Part2 ⑬「憲法・統治」−安保法制懇報告書の検討」
『法と民主主義』489号、
pp.48-51、単著、2014年6月
・河合正雄「コメント:受刑者選挙権訴訟について―大阪高裁2013(平成25)年9月27日判決―」『国際人権』25号、
pp.67-70、単著、2014年10月
・河合正雄「国際人権法主要国内判例書誌情報⑴」『国際人権』25号、pp.149-155、単著、2014年10月
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・河合正雄「仮釈放の可能性のない無期刑―ヴィンター判決―」ヨーロッパ人権裁判所判例研究会、単独、早稲田
大学、2014年6月1日
86
[講演]
・平野潔・河合正雄「地域の防犯を考える」地域未来創生塾、共同、弘前文化センター第3会議室、2014年10月8日
⑷学外集中講義など
・2014年度夏季集中講義「教育と憲法(日本国憲法)」電気通信大学、2014年9月8 ∼ 10日、18日
・2014年度「卒業研究指導」、放送大学、2014年4月∼ 12月
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・若手研究(B)「国際人権法の視点を採り入れた受刑者の実効的な権利保障に向けて」(研究代表者)平成26 ∼
27年度
白 石 壮一郎
⑴現在の研究テーマ
・農村の社会規範の変化、移住・移動者とホーム(故郷、家郷意識形成)、場所と共同性/公共性、地 域社会の再想像、
フィールドワーク(社会調査)論など
⑵著書、論文、その他
[著書]
・椎野若菜・白石壮一郎編『フィールドに入る』(100万人のフィールドワーカーシリーズ第1巻)、共編著、2014年
6月、古今書院
・白石壮一郎「ミシャキ家の居候̶アフリカ農村調査での人づきあい」pp.12-31、単著、椎野・白石編上掲書
[その他]
・白石壮一郎「墓穴を掘る」(コラム)、FENICSメルマガVol.5、単著、2014年12月
⑶研究発表、講演
[研究発表]
・白石壮一郎「学寮における生活空間の読み替えと共同性の創出についての事例研究」、単独、F研(フィールド
研究会)、弘前大学人文学部、2014年7月
・白石壮一郎「『集落点検』記̶三沢市根井地区での調査」、単独、「応答の人類学」第15回研究会(日本文化人類
学会課題研究懇談会)、京都大学東南アジア研究所稲盛財団記念館、2014年9月27日
[コメンテーター]
・ Bodily Power at Work in Everyday Practices , A Panel in ISA RC54 The Body in the Social Sciences, XVIII
ISA (International Sociological Association)World Congress of Sociology, Pacifico Yokohama, Japan, 15th
July, 2014
⑷学外集中講義など
・弘前大学ドリーム講座「アフリカから青森まで̶コミュニティの調査からわかる地域と社会」青森北高校、2014
年9月2日
⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など
・若手研究(B)「東アフリカにおける非自発的移民のネットワークと新たな地域開発」(研究協力者、代表:内藤
直樹)、2013 ∼ 2015年度
⑺共同研究、受託研究など
・青森県「学生発・未来を変える挑戦」プロジェクト課題「小規模アグリビジネスのもたらす生業(なりわい)の
可能性」(指導教員)
・青森県受託事業(地域社会研究科受託研究)「集落地域の実態把握と住民主体の計画・目標づくりに関する研究」
(調査協力)
⑻学会・研究会・講演会などの開催
[それ以外のもの]
・津軽地域づくり研究会&地域未来創生セミナージョイント企画「中山間地域への移住と自給的農林業の可能性に
ついて」(講師:相川陽一)、弘前大学人文学部、2015年2月5日
87
弘前大学人文学部紀要『人文社会論叢』の刊行及び編集要項
平成23年1月19日教授会承認
平成26年5月21日最終改正 この要項は,弘前大学人文学部紀要『人文社会論叢』(以下「紀要」という。)の刊行及び編集に
関して定めるものである。
1 紀要は,弘前大学人文学部(以下「本学部」という。)で行われた研究の成果を公表すること
を目的に刊行する。
2 発行は原則として,各年度の8月及び2月の年2 回とする。
3 原稿の著者には,原則として,本学部の常勤教員が含まれていなければならない。
4 掲載順序など編集に関することは,すべて研究推進・評価委員会が決定する。
5 紀要本体の表紙,裏表紙,目次,奥付,別刷りの表紙,研究活動報告については,様式を研究
推進・評価委員会が決定する。また,これらの内容を研究推進・評価委員会が変更することがある。
6 投稿者は,
研究推進・評価委員会が告知する「原稿募集のお知らせ」に記された執筆要領に従っ
て原稿を作成し,投稿しなければならない。
「原稿募集のお知らせ」の細目は研究推進・評価委
員会が決定する。
7 論文等の校正は著者が行い,3校までとし,誤字及び脱字の修正に留める。
8 別刷りを希望する場合は,投稿の際に必要部数を申し出なければならない。なお,経費は著者
の負担とする。
9 紀要に掲載された論文等の著作権はその著者に帰属する。ただし,研究推進・評価委員会は,
掲載された論文等を電子データ化し,本学部ホームページ等で公開することができるものとする。
10 紀要本体及び別刷りに関して,この要項に定められていない事項については,著者が原稿を投
稿する前に研究推進・評価委員会に申し出て,協議すること。
附 記
この要項は,平成23年1月19日から実施する。
附 記
この要項は,平成23年4月20日から実施し,改正後の規定は,平成23年4月1日から適用する。
附 記
この要項は,平成24年2月22日から実施する。
附 記
この要項は,平成26年5月21日から実施する。
執筆者紹介
宮 坂 朋(文化財論講座/西洋考古学)
中 村 武 司(国際社会講座/西洋史学)
池 田 憲 隆(経済システム講座/日本経済史)
編集委員(五十音順)
◎委員長
足 達 薫
飯 島 裕 胤
池 田 憲 隆
大 倉 邦 夫
河 合 正 雄
齋 藤 義 彦
佐 藤 和 之
杉 山 祐 子
◎保 田 宗 良
山 本 秀 樹
李 梁
人文社会論叢
(人文科学篇)
第34号
2015年8月31日
編 集 研究推進・評価委員会
発 行 弘前大学人文学部
036-8560 弘前市文京町一番地
http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/
印 刷 青森コロニー印刷
030-0943 青森市幸畑字松元62-3