ニュースレター No.10

浪江町の新しい水産業デザイン実現化事業
ニュースレター No.10
平成 27 年 9 月
(1)請戸漁港復旧状況
2015 年 9 月 14 日、上架施設及び漁具倉庫の設計のため、施設設計の担当者と請
戸漁港を視察しました。港湾工事は請戸川沿いの防潮堤が前回 8 月 24 日より進みほ
ぼ完成しそうな進捗状況でした。
請戸川沿いの堤防(8 月 24 日)
(9 月 14 日)
設計担当による視察
レールの間隔等を測る設計担当
(2)小グループ会議
9 月 14 日かしま交流センターにて放射性
物質検査体制の小グループ会議を行いまし
た。請戸漁港再建のためには風評被害払拭
に向けた様々な取り組みが必要です。その
一つとして放射性物質の検査は安全性を担
保するために不可欠であり、荷捌施設でス
クリーニング検査体制を整えなくては水揚
げ漁港として迅速な流通機能を果たせませ
ん。漁業者、漁協だけでなく流通加工業者
も含めた協議が肝要です。福島県の沿岸漁
業を未来に残すべく議論し、より使いやすくランニングコストを最小限に抑えた水産業
デザインを作るため粛々と進めています。
(3)最新の試験操業海域
8 月 31 日付けで、対象海域が更新されました。
(底曳網操業海域を水深 120m→90m
へ拡大)
。今回試験操業対象海域が拡大されたことにより小型機船底びき網漁業も試
験操業に参加できるようになりました。しかし 20km 圏内の自主規制は変化なく。こ
こを操業海域とする請戸漁業者にとっては死活問題のままです。
(4)国際協力機構(JICA)研修生受け入れ
9 月 1 日~4 日、福島県、相馬双葉漁業協同組合及び請戸支所青壮年部協力の元、JICA
の委託より、モーリタニア、セネガル、モロッコ、アルジェリア、チュニジア 5 か国の
水産行政官6名の研修を受け入れていただきました。研修内容は、福島県庁で、福島県
の漁業の現状、震災復興への取り組み、資源管理について学び、原釜の施設で放射線検
査体制を視察しました。その後、青壮年部の方々に船を出していただき、2 日間の乗船
研修を受けました。セネガルの研修員は「福島は廃墟になったと思っていたが、これほ
ど人が住んでいるとは思わなかった。聞くことと見ることは全く違った。国に帰ったら
このことを報告する」、アルジェリアの研修員は「日本の情報公開の取り組み、漁協の
責任感に感銘を受けた」、モロッコの研修員は「漁業者、漁協、県が真剣に漁業に取り
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組んでいることを実感した。今回の研修で一番勉強になった。」との感想を言っていま
した。
県庁にて福島県の漁業概要を学ぶ
モニタリング検査過程を視察
原釜の漁業施設を視察
タコ籠に興味を持つモロッコ研修生
刺し網実習
懇親会 言葉ではなくハートで会話
コラム「交易の
コラム「交易の発展
交易の発展―請戸
発展―請戸港
―請戸港から請戸
から請戸漁港
請戸漁港へ
漁港へ―」
請戸漁港は江戸時代には物流の要所となっていたようである。
浪江町史によると「
「相馬中村藩には、藩用の大船「
相馬中村藩には、藩用の大船「明神丸
には、藩用の大船「明神丸」
明神丸」が
あったといわれ、米の積
あったといわれ、米の積出し
米の積出しや
出しや物資の運入の
物資の運入のため
入のため、
ため、しばしば
請戸に
請戸に入港した。
そのため、
そのため、藩の年貢米を入れる倉庫がおかれ、一つには北標
藩の年貢米を入れる倉庫がおかれ、一つには北標
葉郷の年貢米が、他
年貢米が、他の一つには南標葉
の一つには南標葉郷
南標葉郷の年貢米が収められ
の年貢米が収められ
ていた。地元請戸にも
ていた。地元請戸にも、
にも、鈴木氏(
鈴木氏(延命丸・
延命丸・得運丸)
得運丸)や
丸)や熊川氏
(慈眼丸・慈昭丸)
慈眼丸・慈昭丸)などのように
丸・慈昭丸)などのように運送用の大船を持つ者もい
などのように運送用の大船を持つ者もい
た。大堀相馬焼は請戸
た。大堀相馬焼は請戸港から積み出され、様々な日
は請戸港から積み出され、様々な日用
港から積み出され、様々な日用雑貨類
が各地から請戸港に運ばれてきた。」と書かれている。
鰹船(大正 12 年 請戸)
」
このような交易の役割は明治維新後も衰えることはなかったが、明治三十一年(1898 年)現常
磐線が開通すると物流は鉄道に取って代わった。しかし、交易が船から鉄道に変わった後、請戸
港は漁業と海産物の新たな交易の拠点として発展し始めた。
再び、浪江町史では「請戸に
「請戸に係留岸壁のない時代には
「請戸に係留岸壁のない時代には船の引揚げ
係留岸壁のない時代には船の引揚げには船方の家族で協力し合っ
船の引揚げには船方の家族で協力し合っ
たが、その外手伝ってくれた人たちにも獲れた
が、その外手伝ってくれた人たちにも獲れた魚
獲れた魚を少しずつ分けてやった
少しずつ分けてやったという。これを
ずつ分けてやったという。これを「分け
という。これを「分け
魚」と言っている。船曳き仲間という協力グループもあってもらった魚は
魚」と言っている。船曳き仲間という協力グループもあってもらった魚は人数分に
。船曳き仲間という協力グループもあってもらった魚は人数分に分けクジ引き
人数分に分けクジ引き
で配分しあった。鍛冶職人と
で配分しあった。鍛冶職人と船大工には
船大工には、手伝いをしなくても魚を届けた。船の
には、手伝いをしなくても魚を届けた。船の修理は急場
、手伝いをしなくても魚を届けた。船の修理は急場の
修理は急場のこ
とが多いので、日ごろから義理を欠かさないのが大事だとされた。
とが多いので、日ごろから義理を欠かさないのが大事だとされた。獲った魚
多いので、日ごろから義理を欠かさないのが大事だとされた。獲った魚を
獲った魚をセリでさばく
セリでさばく人
でさばく人を
カギブチと称した。値
カギブチと称した。値の安い魚
。値の安い魚などは
の安い魚などは、
などは、ボデ(
ボデ(籠)一杯ごとにせりを打つ。請戸では
一杯ごとにせりを打つ。請戸ではセリに参加
ごとにせりを打つ。請戸ではセリに参加
する仲買人
する仲買人を
仲買人をオオイ
オオイサバと呼び、
サバと呼び、オオイサバから魚を買い、行商に回る人をコイサバと呼んでい
る。また
る。また、
また、明治末から
明治末から大正
末から大正にかけて
大正にかけて請戸
にかけて請戸は
請戸はカツオ漁も盛んとなり
カツオ漁も盛んとなり、
盛んとなり、十四、五隻があった
十四、五隻があった。
があった。大漁と
大漁と
なったカツオは
」と記載され請戸の漁業の発展をうかがうことが
ったカツオは馬で
カツオは馬で常
馬で常葉、郡山本面まで運んだ。
できる。
震災前も請戸は声ゼリで非常に活気があった港である。職員の網谷さんは上記でいう「カギブ
チ」
(セリ人)をやっていたと聞く。請戸再開後には威勢の良い市場を再び蘇らせるようお手伝い
したい。
以上
発行:一般社団法人マリノフォーラム21 阿高麦穂
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