『セクシュアリティ利用の手引き』

『セクシュアリティ利用の手引き』
-進化するセクシュアルマイノリティ-
岡村優生
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-目次-
○ はじめに
○ 第1章
・・・03
「GID」という罠
・・・05
第1節
「GID依存症」
・・・05
第2節
「GID」の自己矛盾
・・・06
○ 第2章
「ゲイ」と「GID」
第1節
「ゲイ」を追いかける「GID」
第2節
「ゲイ」から<ゲイの「経験」>へ
第3節
<キャンピィ感覚>
○ 第3章
・・・08
・・・08
-伏見憲明の生き方- ・・・10
進化するセクシュアルマイノリティ
・・・12
・・・16
第1節
<進化性>というセクシュアリティ
・・・16
第2節
<利害の交換>から<自由の相互承認へ>
・・・18
○ おわりに
・・・21
○ 参考文献
・・・23
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はじめに
僕は、性同一性障害(GID=Gender Identity Disorder)と診断を受けている。一般的な解釈では単
純に「心は男、身体は女」である。
僕の性別は日々変化する。楽しむために利用できれば、わざとGIDだと言い、便宜的に男と言うこと
も何も言わないこともある。僕にとっての性別やセクシュアリティは自分の条件であり、制度であり、人
を判断する記号としての役割もつものであり、楽しむものだ。ところが多くの人々(マジョリティ1)は
疑うことなく自分の男/女という区別や特徴を確信し、それに縛られて生きている。
人は誰でも名前、出身地、血液型等の様々な条件をもち、性別や性愛の対象等、セクシュアリティの要
素となるものもそのような条件の1つである。しかし性別を男/女に限定した社会や異性愛至上主義2 社
会は、全てそれが正常であるという価値観に基づき作られ機能し、性別や性愛の対象に絶対的な優劣は存
在しないにも関わらず、それによって人が判断される。だからGIDや同性愛等のセクシュアルマイノリ
ティ3は様々な場面で差別や抑圧を受ける。そして正常が善、異常は悪というもう1つの常識によって、
さらに苦しむ。
他のセクシュアルマイノリティと同様に僕自身も様々な抑圧を受けてきた。しかし上述の通り、性別は
利用し、記号としての役割をもつものだと認識するようになってから、差別や抑圧を感じることはほとん
どなくなった。だから社会に対するセクシュアルマイノリティとしての反差別意識はない。むしろ最近で
はセクシュアルマイノリティ(GID)で良かったのかもしれないとさえ思っている。だから論文のテー
マにセクシュアルマイノリティを選んだのは、そのような自分の状態を論理的に考えたいと思ったからで
ある。
しかし、GID当事者の多くが自分のことだけを考えざるを得ない状況に置かれ、今後のセクシュアリ
ティやマイノリティに関する方向性が見出せていないことは懸念される。そこでこの論文では、僕自身が
GIDの診断を受けていながらも楽しく生きている事実をセクシュアリティの在り方の1つとして捉え
ることで、他の当事者自らが思いや考えを見つめ直すきっかけとなるようにしたい。同時にGIDや同性
愛等のセクシュアルマイノリティに限らず、マイノリティ全般が抱える問題やセクシュアリティの1つの
在り方として提示できるように考えていきたい。
具体的にはまず、現在のセクシュアルマイノリティの状況を考察するために「GID」と「ゲイ」4の
セクシュアリティの構造の比較を行う。そして、人の再生産を行うために必要な「生殖可能なセクシュア
リティをもつ人間=正常」という価値基準、
「セクシュアリティ=性別(男/女)」、
「恋愛=異性愛」等の
常識が、差別意識を生み出す原因となっていることや、それによってセクシュアルマイノリティに分類さ
れ得る人々が抑圧を受けている事実を示す。さらに、多くのセクシュアルマイノリティが、その抑圧によっ
て、自らも差別や抑圧を再生産し、自己矛盾の状態であることを明らかにする。そこで「既存の正常とさ
れるセクシュアリティに囚われるのではなく、自らのセクシュアリティを肯定できるような、新しいセク
シュアリティの概念」である<進化性>を1つの可能性として提案することで、セクシュアルマイノリ
1
2
3
4
マジョリティ:多数者のこと。ここでは、自分の性(別)に違和感を持たない人々。
異性愛至上主義:性愛は男と女の組み合わせが一般的(もしくは理想的)とされる社会のこと。
セクシュアルマイノリティ:性的少数者。同性愛、性同一性障害、インターセックス、一般的ではな
い性的嗜好(指向)が含まれるとされている。
ゲイ:便宜上、この論文では男性同性愛者とする。ホモ(セクシャル)、オカマなどとも呼ばれる。
3
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ティに分類され得る人々が、よりよく生きていける社会像を提示したい。
第1章ではGIDを障害(病気)とし、それを医学と制度の変更によって解決しようとしている現状が、
実はGIDによる<GIDの再生産>、<性別の再生産>を行っていること、また当事者がその<自己矛
盾のループ>に陥っている事実が、差別や抑圧を再生産し、自分で自分を苦しめていることを明らかにす
る。
第2章ではGIDと同様にセクシュアルマイノリティとされる「ゲイ」も<ゲイの再生産>、<異性愛
の再生産>、<性別の再生産>という<自己矛盾のループ>に陥っていることを示す。そして、それによ
りセクシュアルマイノリティと分類され得る人も自らが抑圧を行っている状態であり、その自己矛盾に気
付く必要があることを指摘したい。さらに、自己矛盾に気付くための方法を考えるために、伏見憲明が「ゲ
イ」を<ゲイという「経験」>と表現している理由の考察を行う。その際、伏見が「自分とは何か」と<
問いかけ>続けたことに注目し、その<問いかけ>にも通じる、自己矛盾に気付く方法であり、自己肯定
的に楽しく生きるための手段でもある<キャンピィ感覚>をマイノリティに適用する可能性を合わせて
模索する。さらにこれらの考え方を用いて「既存の正常とされるセクシュアリティに囚われるのではなく、
自らのセクシュアリティを肯定できるような、新しいセクシュアリティの概念」である<進化性>を提案
したい。
第3章では、第1・2章を受けて<進化性>という概念を具体的に提示し、またそれは伏見の提出した
「クィア」と同じ考え方であることを示す。しかし、それらの考え方ではマイノリティによるマジョリティ
への抑圧が行われる可能性があることを指摘する。そこで、マジョリティとされる人々も主にマイノリ
ティとの関係における<利害の交換>によって<進化する>可能性があること、またこの考え方は様々な
マイノリティの問題にも適用できることを説明する。そして最終的には、それぞれが互いに肯定し、認め
合いながら生きていける理想の社会像を提示する。
尚、性に関する用語は解釈の仕方で意味が大きく変わるので、本論文では以下のように統一する。
s
e
x :社会的に男/女の身体やその機能の特徴とされる生物学的・身体的な性のこと。
g e n d e r ・ 制 :社会・文化的な性のこと。いわゆる、男らしさや女らしさ。
性
別 :常識として社会で用いられている性(制)の区別のこと。
セ ク シ ュ ア リ テ ィ :性に関するアイデンティティの総称。
「性対象を方向付ける性的指向、生殖器の区別によって言語的に確認される性自
認(自分が「男」である「女」であるというアイデンティティ)、ジェンダーと
も言われる<制>別表現様式、これらが複雑にからみ合って構成されたもの。人
の性的思考・行動型」5。
セクシュアルマイノリティ:自分のセクシュアリティによって差別や抑圧を受けていると感じる人の総称。
5
伏見憲明,
『
「ゲイ」という経験』
,ポット出版,2004
4
619頁
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第1章 「GID」という罠
第1節
「GID依存症」
「GID依存症」の傾向が見られるのは、セクシュアルマイノリティの中でも特にTS6と分類される
人々である。具体的には医者にGIDと診断され、治療をして戸籍を変更することが、自分がより良く生
きていく唯一の方法だと信じている状態のことを指す7。しかし治療に必要な多大な時間・お金・リスク
と引き換えに得られるのは、既存の性別に基づく、つぎはぎだらけ且つ、生殖機能も持たない、限りなく
形が性自認に似せて作られた身体と戸籍の訂正必要条件でしかない。
では、なぜそれらの人々は、このような明らかに非合理的と思われる方法を望むのだろうか。性自認と
男女の身体的性別8の一致はそこまで重要なものだろうか。さらに、なぜマイノリティであるGIDとい
うセクシュアリティを自ら獲得しようとするのだろうか。以下からその考察を行いたい。
TSとして有名な虎井まさ衛は当事者としての心境を以下のように表現している。
「障害として捉えた方がやりやすいんじゃないかと思う。治療も要求できるし、転換した後も、こうい
う障害を克服してこうなったんだから認めてくれとか、言いやすいんじゃないかと」9。
「ただ自分としては、それが精神的な障害というふうに認められたら、ちょっとイヤだなと。身体的な
障害っていうことだと。ヘンな話だけど、自分に責任がないという感じがするじゃないですか」10。
さらに、治療する側である医師の埼玉医科大学・山内教授もGIDに関して以下のような意見を述べて
いる。
「もっともそれ(心の性)が変更されてしまうと性同一性障害ではなかったということになってしまい
かねない、という大問題がある」11。
「変更不能な「心の性」には手をつけず、
「手っ取り早く、効果的な治療として外性器を変えるのです」
」
12
。
そして、高石浩一は『男性論』の中でGIDの現状を分かりやすくまとめている。
「生物学的根拠が今もって判然としないという事態を顧みれば、「心の性」がすでにホルモンによって
胎児期に「脳」のなかで決定されており、それは生涯変更不可能であるという仮説も、
「脳神話」や「ホ
ルモン神話」の一つと言えるかもしれない。しかし翻ってこの神話を性同一性障害の人々の側から見直
す時、これはまさにユング心理学的な意味での「神話的知」としての癒しの力を持つようにも思う。未
知の何か、己の計らいを越えた何かによって起こったとしか説明のつかないような事態に直面した時、
それを「腑に落ちる」形で語ってくれる神話は、単にその存在を保証してくれるだけでなく、さらに事
6
7
8
9
10
11
12
TS:トランスセクシュアル。sex、gender、性別、戸籍等の社会的性等、セクシュアリティ
の要素を限りなくいわゆる「普通」の男/女に基づく性自認に合わせようとする人々の総称。一般的
にはGIDの中でも特にGIDの確定診断、ホルモン療法、手術によって身体的性の変更を望む場合
の分類。
現段階では明らかになっていないが、GIDが医学的にしか解決できないものであった場合、若しく
は、GIDの中でも特に治療によるしか方法がない人の場合、ホルモン療法や手術等の医学的な解決
手段の適用は否定されるものではない。
一般的に男/女それぞれの身体的特徴とされるものの区別。
伏見憲明,
『変態(クィア)入門』
,ちくま文庫,2003 72頁
同上 112頁
高石浩一他,
『男性論』
,人文書院,1999 151-152頁
同上 153頁
5
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態に対する新たな態度を創るエネルギー源にもなりうる」13。
これらの言葉から、実際はGIDの原因が明らかになっていないにも関わらず14、医者が対処療法的に
「手っ取り早く」治療を行うためにGIDを障害(病気)としたこと、GID当事者が正常ではないとさ
れるセクシュアリティをもつことによって受ける差別や抑圧から逃れるための手段として、GIDという
診断を望んでいること、が分かる。これは、そもそもGIDが存在しない可能性があるにも関わらず、敢
えてGIDというカテゴリーを作り上げ、自らが納得できるセクシュアリティを獲得することに成功した
と言い換えることができる。しかし、セクシュアリティを得たものの、それが社会的に想定されず、正常
ではないセクシュアリティとされたため、GIDというカテゴリーそのものが新たな問題を作り上げるこ
とになる。そしてこのことがGIDの抱える自己矛盾を生み出す要因になっている。
第2節
「GID」の自己矛盾
一般的に社会は弱者と位置づけられる人に対して、便宜を図ろうとする。GIDは、それを利用し、被
差別・抑圧を受けている事象を理由に自己主張を行い、社会的扱いを異常者から弱者へランクアップさせ
ている。前述の虎井の言葉からも「自分たちは先天性の障害(病気)であるGIDと診断されている。だ
から自分には非が無いかわいそうな人たちだ。
」と主張することによって、その仕組みを利用し意図的に
社会的弱者(マイノリティ)になることを望んでいることが読み取れる。ところがこのような<傷ついた
者勝ち:マイノリティ=善>という価値観をもつと、弱者として治療を受け続ける理由が必要となり、異
常者ではない理由を排除するようになるという悪循環に陥ってしまう。そしてこれは<マイノリティ=悪
>と思っていながら<マイノリティ=善>という状況を利用する矛盾した状態である。つまり「GID」
に苦しみながらも「GIDであろうとすること」で<GIDを再生産>していることになる。
次に自らが性自認とsexの不一致で苦しんでいるにも関わらず、社会で正常とされる男/女のどちら
かに分類されようとして、性自認とsexの一致を望んだり、それを限りなく実現するために身体の整形
手術を行ったりする<性別(男/女)の再生産>という自己矛盾である。そして、そのことがセクシュア
ルマイノリティへの差別や抑圧に加担し、結果的に自らを苦しめているという事実に多くの当事者は気付
いていない。
このように考えるとGID依存症の人々は、
・
「GID」というセクシュアリティを獲得することで、マイノリティとして差別・抑圧を受けてい
るにも関わらず(<マイノリティ=悪>)、弱者に便宜を図るという社会的価値観(<マイノリティ
=善>)を利用して、それにより<GIDを再生産>してしまう<自己矛盾のループ>に陥ってい
る。
・
性別があることで被差別・抑圧の対象になっているにも関わらず、男/女の枠に収まろうとするこ
とで<性別(男/女)の再生産>を行う<自己矛盾のループ>に陥っている。
とまとめられる。
これまでのように差別・抑圧問題の解決をGIDの成因の究明や治療の方法、制度によって行おうとす
13
14
高石他,1999 151頁
GIDの成因として、形態因説、ホルモン因説、染色体異常、遺伝素因、心理・社会的原因等が挙げ
られるが、明確にはなっていない。
(山内俊夫編著,
『改訂版 性同一性障害の基礎と臨床』,株式会社
新興医学出版社,2004 22頁)
6
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ると、いつまでも<自己矛盾のループ>の中をグルグル回るだけで、その矛盾に気付くことができない。
もちろん当事者が苦しんでいるのも事実なので、その手段としての(心理学を含む)医療や制度の変更、
GIDというセクシュアリティを獲得すること自体を否定するつもりはない。そしてそれらはGIDが差
別や抑圧に対処するための有効な手段の1つであることは認める。しかし当事者自身が<自己矛盾のルー
プ>に気付き、それをきっかけにして自己のセクシュアリティを見つめ直さないと、GIDに対する社会
的な価値観は、<GID=異常>から<GID=かわいそうな障害(病気)>にランクアップされるだけ
で、いつまでも自分の力ではどうしようもできない理不尽なことであり続ける。これでは「手っ取り早く」
GIDの差別や抑圧を解決するための医学的手段は差別や抑圧の解決という、そもそもの目的を果たして
いないことになる。
もちろん当事者がそれで納得できるのならば、このままマイノリティとして治療を受け、限りなく理想
の身体を要求し続けることだけを解決方法としても良い。しかしそれではあまりに選択肢が少なすぎる。
ではどのような方法が、GID当事者がより良く生きるための選択肢として望ましいか。「GIDという
カテゴリーをなくす」という方法は、そもそも「GIDというカテゴリー」が抑圧から逃れようとして作
られたものであるから、マジョリティによって一方的に抑圧された過去の状態に戻ってしまう可能性があ
る。そしてそれでは新たな抑圧のループを生み出すことになってしまう。さらに、せっかく手に入れた「G
IDというセクシュアリティ」を当事者が手放すとは思えないので適当ではない。また「性別(男/女)
をなくす」と、個人を分ける性(別)の記号としての機能もなくなってしまい、様々な場面で支障をきた
すことになるので非現実的である。そこで社会や当事者、医者によって作られた「GIDという障害(病
気)に依存していること」
、つまり「GIDの<自己矛盾のループ>」に焦点を当てて、GIDの差別・
抑圧問題や当事者のより良い生き方について考えていきたい。そのためにまず「GID」と同じセクシュ
アルマイノリティである「ゲイ」のセクシュアリティの在り方にヒントを得て、その方法を検討していく。
7
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第2章 「ゲイ」と「GID」
第1節
「ゲイ」を追いかける「GID」
「GID」が性別(男/女)の枠に収まらない異常者として差別や抑圧の対象であるのに対して、同性
愛者である「ゲイ」は性愛の対象が同性(制)である異常者ということで差別や抑圧の対象となっている。
自身もゲイである河口和也は「同性愛者は過去に「犯罪化」され「病理化」され抑圧を受けてきた。そ
してその社会的抑圧とたたかっていけるように(男性)同性愛者の団体15によって「(男性)同性愛者のあ
いだの集団的アイデンティティ」である「ゲイのアイデンティティ」は作られた。その後「同性愛は先天
的な状態であるために、迫害ではなく憐れみをもって処遇されるべきであると主張することで(略)同性
愛を「異常」として表象することもあった」」16と著書でまとめている。
上記から、異常とされるセクシュアリティをもつ者(セクシュアルマイノリティ)として差別や抑圧を
受けた(男性)同性愛者によって、自らのセクシュアリティを獲得するための「ゲイというカテゴリー」
が作られたこと、しかし一方で、社会の価値観を利用して「同性愛者のゲイである自分たちは先天的な状
態でかわいそうな人だ。
」と主張していたことが分かる。これは「ゲイであること」に苦しみながら(<
マイノリティ=悪>)
、社会の価値観を利用して「ゲイであろうとすること」で(<マイノリティ=善>)
、
<ゲイを再生産>している自己矛盾の状態であり、それはGIDによる<GIDの再生産>と同じ仕組み
でもある。
また「ゲイ」は一般的に性愛の対象は生殖が可能である異性に求めるものという前提から逸脱し、性愛
を同(性)制に求める異常なセクシュアリティをもつ者であるという理由で被差別・抑圧の対象となって
いる。しかし実は、異性愛者でも同性愛者でも性愛の対象が男/女であることにこだわれば、<性別(男
/女)の再生産>を行っている17。つまり性別があるから性愛の対象が同性/異性と区別され、
「ゲイ」は
その区別により差別や抑圧の対象となっているにも関わらず、GIDと同様に<性別(男/女)の再生産
>という<自己矛盾のループ>に陥り自らを苦しめているのである。
そして特に「オネエ」と呼ばれる「女(性)制的なゲイ」の場合、同性愛者であることに加えて「女の
ような男」という理由で差別を受ける。
「オネエのゲイ」である伏見は次のように述べている。
「ゲイに対する差別は二つの側面があります。一つは再生産主義からくる断罪。生殖に結びつかない
セックスは変質行為である、というやつです。そしてもう一つは、女性蔑視からくるオネエ差別。こち
らの方はゲイがかならずしも<女制>的であるとは言えないので、すべてのゲイにかかわってはいませ
ん(しかし実際にこの二つは、複合されたイメージとしてゲイ差別を規定しています)」18。
さらに伏見は「同性愛者として性愛を自己実現しようとすると、既存の男らしさゲームを肯定すること
になって、自分のオネエ性を抑圧してしまう」という「自己矛盾にぶつかった」19と言っている。
「ゲイ」
として性愛の対象を「男」と限定し「男らしさ」を求めることは、自己の「男らしくない女っぽい男」=
15
16
17
18
19
「マタシン協会」というホモファイル(同性愛者)の団体。
(河口和也,
『クイア・スタディーズ』
,岩
波書店,2003 8~9頁)
同上 8~15頁
性愛を求めない(性的欲求)をもたない「Aセクシュアル」と呼ばれる人もいる。
(G‐FRONT関西 http://www5e.biglobe.ne.jp/~gfront/resource/terms.html)
伏見,2004 611~612頁
同上 15頁
8
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「オネエ」というセクシュアリティを否定することにつながる。そして(主にオネエ)の「ゲイ」が性愛
の相手に「男らしさ」を求め、その相手と自らの「女のイメージ」との組み合わせで性愛を楽しむことで
<異性愛の再生産>を行うことになる。つまり「(男性)同性愛者が性愛に男と女の組み合わせを正常と
する異性愛の形を持ち込むこと」によって、ゲイ自身が<異性愛を再生産>し、同性愛者への差別に加担
する自己矛盾の状態であると言える。
以上のことからGIDとゲイは
・
異常とされるセクシュアリティによる差別や抑圧に苦しみながら(<マイノリティ=悪>)、マイノ
リティである「GID」や「ゲイ」であることにこだわり(<マイノリティ=善>)、<異常とされ
るそれぞれのセクシュアリティを再生産>する<自己矛盾のループ>に陥っている。
・
<GIDが性別>、<ゲイが性愛の対象>にこだわることで、<性別(男/女)を再生産>すると
いう<自己矛盾のループ>に陥っている。
という共通点をもつことが分かる。
またゲイは同性愛者であることで差別や抑圧を受けているにも関わらず、性愛に「男と女の組み合わ
せを正常とする異性愛の形を持ち込むこと」で<異性愛の再生産>を行い<自己矛盾のループ>に陥っ
ている、とまとめられる20。
このように「GID」も「ゲイ」もセクシュアルマイノリティとして差別や抑圧を受け、同じように<
自己矛盾のループ>に陥っているが、現在両者の社会的状況やそこから分かる生き方は非常に対照的であ
る。多くのゲイが「ゲイであること」を隠さず、むしろそのセクシュアリティを前面に押し出して生活し
ているのに対して、GID当事者は「GIDであること」や自分のsexや戸籍に記載された性別が他人
にばれないようにひっそり生活している。これは社会の両者に対する見方とも一致する。例えば最近、多
くの特に「オネエのゲイ」がテレビに出演するようになった。これはゲイであることが差別や抑圧の対象
ではなく、セクシュアリティの在り方の1つであると肯定的に捉えられ、徐々に認められてきたからだろ
う21。一方でGIDに対する社会の容認も広がってきた。ところがそれは障害(病気)なら仕方ないとい
う理由によるもので、その証拠にGID当事者に対する「かわいそう」や「大変そう」という意見をよく
耳にする。
ゲイは「ゲイであること」を隠さずに生きている。しかしGIDは「GIDであること」を隠さずには
生きられない。当然、この違いには歴史的背景やそもそもの違いも関係するが、そうであるにしても「ゲ
イというセクシュアリティ」の在り方やその生き方から「GID」が学び得るものも多いのではないだろ
うか。そこで自身も<ゲイ>である伏見憲明の著書やその考え方を参考にGID当事者のより良い生き方
を具体的に考察していきたい。
20
21
同性愛者に限らず、一部のGIDにも該当する。GIDの場合は性自認では異性愛であっても、se
x(もしくは戸籍の性別)で区別すると同性愛とも言える場合がある。
もちろん全ての人が認めているわけではない。影で行われる差別や抑圧は存在する。ただ様々な文献
によると、昔に比べて同性愛に対する社会の容認は確実に広がっている。
9
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第2節
「ゲイ」から<ゲイの「経験」>へ
-伏見憲明の生き方-
伏見は自分の過去を振り返って以下のように述べている。
「自分のことを「ゲイ」という言葉でカテゴライズできるようになったのは遅くて、大学に入った頃な
んですけれど、男性を性的対象として認識するようになったのは思春期です。それまでも<女制>的と
いうことで、
「オカマ」
「オトコオンナ」「中性」などというレッテルを投げつけられていました」22。
上記の「ゲイ」という言葉でカテゴライズできるようになったという部分から、伏見が自分で「ゲイ」
であると認識し、その状態に囚われていることが分かる。そして「ゲイ」として差別や抑圧を受け苦しん
できた過去も想像できる。では、なぜ伏見はそのように自分を苦しめた「ゲイというセクシュアリティ」
を敢えて<ゲイという「経験」>と表現しているのだろうか。伏見の著書にそのヒントとなるような言葉
がある。
「ぼくの思春期の一番大きなキズは主語の問題だったんです。
(略)主語を失くしたことで精神的には
ずいぶん複雑になりました。
(略)ぼくの場合、自分っていうのはずっと、そういう一言(「ぼく」と
か「あたし」とか)で言い切れない「何か」でしたから、いつも自分という不確定なものに対する問
いかけをしていました。
(略)だからいまでもぼくにとって、ぼくは他者って感じが強いんです。
(略)
主体感覚に乏しいんです。いつも自分に実感がない。だからこそ人様に自分をさらして、自分を確か
めたいという欲求が強いのかもしれません」23。
ここで注目すべきは伏見が「自分というのは不確定なものであり、他者のようでもある」と思い、そ
れに対して「自分とは何か」と<問いかけ>を行ってきたことである。
以下からもそれが読み取れる。
「僕は自分のことを「被差別者」という揺るぎない位置から語るのは嫌だし、そうした自己規定の罠に
陥ってしまった人たちを見るのは、どうも胸が痛い。ゲイリブ24をずっと見守ってきた中で、差別と被
差別だけが支配する貧しい世界観でしか周囲を見られなくなってしまった人たちを、少なからず見知っ
ている。けれどもそうした関係式の中から、導かれる言葉では、異なる場所に立つ人たちに思いが届か
ないのではないかと思うのだ。だから、差別構造を批判するのであっても、複雑で、矛盾を抱えた自分
という存在を通してメッセージにしたいと思ったし、理論的なものにさえ、自分の血肉を埋め込んだつ
もりだ」25。
伏見は「ゲイ」でありながら一歩引いた視点から「ゲイ」を見てきた。冷静に自分の「被差別者」と規
定される「ゲイというセクシュアリティ」を見つめ、自分自身で<問いかけ>続けてきた。だからこそ「自
己規定の罠」でもある<自己矛盾のループ>に気付き、自分で自分を見つめ直すことができたのだろう。
そして現在、伏見は自身を「商業主義ゲイ・リブ」と表現し、それを私利私欲のためにやっていると言う。
私利とは「ゲイ」をネタにして本を書き、それを仕事としていること、私欲とは「ゲイというセクシュア
リティ」を新宿2丁目のゲイ・バーやハッテン場と呼ばれる所に代表されるような「ゲイ」文化を楽しん
だり、快楽を得るために利用したりしていることを指すのだろう。
「私利私欲と言い切ることで誤解されてもいいんです。理想とか真実って言葉でくくっちゃうのってす
22
23
24
25
伏見,2004 567頁
同上 568~569頁
ゲイ(・)リブ:Gay Liberation の略。「ゲイの解放(運動)」の意味。
同上 664~665頁
10
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ごく権力的だと思います。
(略)人はそんなに論理的にできているわけではありませんから、自由や平等
の枠から出ちゃう人がいるのも、また多様なありようなんです。だから、自分の論理の枠組みから出ちゃ
う人を、理想とか真実の立場からバッサリ切ってしまうのもまた抑圧ですよね」26。
マイノリティの「ゲイ」でありながら、それを商業主義や私利私欲に利用していると言える、この自己
肯定的でありながらも冷静な態度から「ゲイであること」に対する悲観は全く感じられない。むしろ「ゲ
イであること」を楽しんでいるようにも思える。そしてこの態度を身につけることができたのは、自己を
規定せず、常に<問いかけ>続けてきたからだろう。伏見は次のようにも述べている。
「「ゲイ」であることは、思春期の僕には「呪われた痛み」だった。青春期になるとそれは、
「闘うべき
現実」になり、そして中年も深まった現在では、ひとつの「大きな経験」だったと振り返ることができ
る。もちろん、これからも「ゲイ」であることは、僕にさまざまな経験を与えてくれる「生」の条件で
あり続けるだろう」27。
伏見は「ゲイ」に苦しめられ、振り回され、利用されてきた。しかし伏見は「自分というのは不確定な
ものであり、他者のようでもある」と思い、
「自分とは何か」といつも<問いかけ>て「ゲイ」と闘った。
その結果<ゲイ>は伏見にとって私利を得るために利用し、快楽という私欲を満たすものとなった。差別
された「痛み」も、それと戦った「現実」も、「私利私欲」のために利用することも、全て含めて<ゲイ
>は伏見に経験を与えてくれるものである。「自分は「ゲイ」である」と自己規定し、「ゲイ」に囚われ、
「ゲイ」を再生産し、それによってさらに「ゲイ」に縛られるのではなく、「<ゲイ>が自分の条件」で
あるから<ゲイ>を私利私欲に利用し、楽しむ。
「ゲイ」に囚われていることに気付き「闘い」、「ゲイ」
に利用されないように<問いかけ>続けたことで「ゲイ」に囚われずに、敢えて<ゲイ>であることを利
用して楽しむ生き方を手に入れた。これは伏見自身が「ゲイというセクシュアリティ」に苦しめられなが
らも<問いかけ>続け、自分で自分を苦しめている<自己矛盾のループ>に気付き、それをきっかけに自
分を見つめ返し考えて得たものである。そしてこれこそ伏見が「ゲイであること」を<ゲイという「経験」
>と表現できる所以ではないだろうか。
伏見と同じように多くの<ゲイ>が「ゲイであること」に囚われず、肯定的且つ冷静な態度で自分を見
つめながら、「ゲイであること」に悲観せず、利用しながら楽しく生きている。しかし、このような生き
方は<ゲイ>に限られることではない。例えば「ゲイ」と同様にセクシュアルマイノリティである<TG
>28の嶋田啓子は自分のことを「オーバージェンダー」と勝手に表現している。そして自身の性別を「ど
ちらでもある。
(略)男と女が二つあったとしたら、時間によって変化していく。
「今日はなんか男っぽい
なあー」「今週はちょっと男っぽいかな」と思ったら、次の週になったら「あれー女が出ちゃった」とい
うような」29とし、また「
「背広でネクタイ男」として入社した会社へも、「夏、暑いから短パン」で行く
ようになり、「だんだんスカートへ進化」して行くようになったと語っている30。さらに自身の胸もあり、
26
27
28
29
30
伏見,2004 576頁
同上 662頁
TG:トランスジェンダー。GIDとされる人の中でも、身体の整形手術を望まないとされる。もし
くは手術を行っても、自分を男/女どちらかに限定しない人の総称。
伏見,2003 55頁
同上 50頁
11
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ペニスもある身体のヌード写真までも世間に公開している31。もちろん嶋田がセクシュアルマイノリティ
として苦しんできたことは伏見との対談から十分に読み取れる。しかし、それをいつしか「この社会って
出すぎたクイは打たれないっていうか、既成事実に弱い。本人が堂々と開き直っちゃうと、周囲は何も言
えない」32と考え、今では堂々と自身のセクシュアリティを公にする。そしてそのような姿はセクシュア
リティを利用することで楽しみながら生きているように見える。
この他にも多くのセクシュアルマイノリティが、自分のセクシュアリティを否定せず、上手に利用して
楽しみ、セクシュアリティに囚われることなく生きている。そこで、そのような生き方をGID当事者の
目指すべき姿とし、その手段となる伏見の<問いかけ>にも通じる<キャンピィ感覚>について、次に考
えたい。
第3節
<キャンピィ感覚>
<キャンピィ>とはゲイシーンから一般に波及した感覚、表現、行動様式である33。語源とされている
<キャンプ>は「ある種のユーモアの表現で(略)真面目さとはほど遠く、悲劇とは対極にある、何事も
中身よりスタイルが大事という美意識」34であり、
「現実に対する批判的な態度であり、それを笑い(に似
たもの)へ転換することによって表現する」点では「ユーモア」35や「イロニー」36に非常に似ている。し
かし、ここで「ユーモア」や「イロニー」ではなく、<キャンピィ>でなければならないのは、マイノリ
ティである「ゲイ」が差別や抑圧による苦しみをどうにかしようとすることによって生まれた手段であり、
態度であり、表現方法であるからだ。
伏見は<キャンプ>について「差別に晒されたものたちが、厳しい状況の中で、少しでも自分たちの抑
圧感をやわらげようと作り上げていった表現手段なのだ。(中略)常に自己の位置を相対化し、自嘲的に
表現することで、その抑圧感を笑いの中に溶解させる。だから、そこにはどんな時にも自分を意識せざる
をえない強烈な自意識というものが不可欠」37とまとめている。
被差別・抑圧者である「ゲイ」が苦しみながらも、より良く生きようと作り上げたものであるからこそ、
それは他のセクシュアルマイノリティにとっても力となり得る。そして「キャンプは、だんだんすたれて
きているユーモアです。それは、長年の抑圧や秘密主義、自己嫌悪の所産だったのかもしれません。ゲイ
は今、もっとも自己肯定的ですし、ストレートの社会からも以前ほど弾劾されることがなくなったので、
キャンプする必要がなくなったのかもしれません。(略)キャンプは昔も今も愉快な表現ですし、そこに
はメリットもあるのです。それは、ゲイたちが自分たちの問題を話すときに、あまり大袈裟で深刻になる
31
32
33
34
35
36
37
伏見,2003 53・61頁
伏見,2003 51頁
伏見,2004 522頁
Dr.チャールズ・シルヴァースタイン&フェリス・ピカーノ,伏見憲明他訳『THE NEW J
OY OF GAY SEX』
,白夜書房,1993 47頁
ユーモア:現実に対する批判的な態度のひとつ。現実を支える捨て身の攻撃から生まれる哄笑とも、
もうひとつの高みの原理からの批判による皮肉な笑いとも異なる、微笑を生み出す。(永井均他編著,
『事典哲学の木』
,講談社,2002 960~962頁 鈴木泉)
イロニー:皮肉のこと。一種の表現法として、または人間の意図を裏切る形でものごとが起こること
でもある。(同上 80~82頁 土屋賢二)
伏見,2004 522頁
12
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のを防ぐことでしょう」38とされる<ゲイ>の生き方を見ても、被差別・抑圧者であるセクシュアルマイ
ノリティがより良く生きるための有効な手段であることは明らかである。
ここで、これらの参考文献を基にGIDや他のマイノリティにも適用できるように<キャンピィ感覚>
を再定義したい。
キャンピィ感覚:楽観的且つ自己肯定的でありながら、第3者的な存在からの語りかけやその存在との会
話によって客観的に自己否定を行うことができ、これらを意識的に切り替えることがで
きる、強い自我をもつ者の感覚。またその行動や表現方法。
まず、これを身につけるには「自己の主観を第3者的な存在が対象化し、それを通じて自己を客観化で
きる自我のコントロール能力」が必要である。この第3者的な存在は、自己の意識に語りかけることがで
きれば何でも良い。例えばペットの犬に自分の気持ちを(常識的に考えれば一方的に)話し、その犬が「ワ
ン」としか(もしくは何も)言わなかった場合でも、犬に話しかけることによって自分の考えや気持ちを
認識できたり、その犬が何か語りかけて(例えば慰めたり、励ましたりして)くれていると想像できれば、
それで良い。重要なのは、そのやりとりによって「自分が何を考えているか」「どのような気持ちか」等
に気付くことである。そして、その存在は自己の意識に語りかけることができれば良いので、その条件を
満たしていれば、上の例のようにペットでもモノでも人でも自分自身でも問題ない。だから主観をもった
人を頭の中で想像し、それと会話をしたり、その頭の中の人が語りかけてきたりするのであれば良い。も
ちろん上の定義はあくまでも定義なので<キャンピィ感覚>を常に客観的に把握しておく必要はなく、結
果として「そういえばあの時、犬に苦しさを言ったことで自分が何に苦しんでいるか分かった。」という
ように後で気付くこともある。以下に具体例を示す。
例えばGID当事者(A)がGIDであることで毎日嫌なことがたくさんあって悩んでいる時に、頭の
中で「もう1人の自分」
(B)を想像し、それが語りかけてくるとする。トイレ、制服、名前を呼ばれる
こと等、Aがいろいろ悩み考えているとBが「お前、何が嫌なんだ?」と語りかけてくる。そこでAは何
が嫌なのかを具体的に考える。
「外出した時にトイレに行けないのが嫌だ。」と(頭の中で)答える(考え
る)39と、Bは「何でトイレに行けないんだ?」とさらに言ってくる。Aは「女だと思われたくないから。
」
と答える。Bは「何で女だと思われたくないんだ?」と言う。Aは「自分は男だから」と答える。Bは客
観的であるので、具体的なアドバイスや意見は言わず、ひたすら<問いかけ>続ける。Bは「お前は女子
トイレに入ったら男じゃなくなるのか?」と少し否定的に語りかけてくる。Aは「だって女子トイレに入
るとみんなに女だと思われるから。
」と答える。Bは「人から女と思われたら男じゃなくなるのか。」と言
う。
(以下省略)このように第3者的な存在と疑似会話をすることで、まずは「自分が何に悩んでいるか」
に気付き、それを考え、この場合は「社会的に女子トイレに入らなければならないとされていても、自分
が男と思っているなら堂々と男として(男子)トイレに入れば良い。」等と思えれば理想的である(と思
う)。もちろん辿り着く結論には正解はない。ただしあくまでも「客観的に自己否定」を行うことが目的
38
39
Dr.チャールズ・シルヴァースタイン&フェリス・ピカーノ,1993 47頁
もちろん口に出したければ言葉にして答えても良い。頭の中で処理するか、口に出すかではなく、や
りとりそのものや、それによって気付くことが大切である。
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であるので、例えば「トイレが男女別なのが悪い」
「こんなことで悩む自分が弱い」
「そもそも性別がある
のがおかしい」等、主観的に何かを否定するのでは意味がない。そして「客観的な自己否定」を行い続け
ると、抑圧を受けるような自分にとって嫌な出来事が起こるたびに、その第3者的な存在を登場させるこ
とができるようになる。初めは意図的に登場させ会話(もしくは語りかけ)を行うが、それを意識的に続
ければ、第3者的な存在は必要に応じて登場する。さらに第3者的な存在との会話による「客観的な自己
否定」を無意識に行えるようになると、最終的には社会の価値基準や価値序列と自分の価値基準を把握し
「自分が社会に合わせて思い込んでいるのではないか」と常に疑問を持ち<問いかけ>続けられるように
なる。そして最終的には、その<問いかけ>によって「自分の思い込みで自分を苦しめているのではない
か」と自己矛盾のループに気付き、考え方の転換で「GIDであること」を肯定的に捉えられるようにな
れば良い。上の例なら「女に間違えられるということは、女子トイレに入っていいのか・・・もし男と思わ
れても戸籍出せばいいし・・・ラッキー!」と楽観的40に考えられるような気持ちの余裕が出てくるのが理想
的である。もちろん社会の価値基準も客観的に把握しているので、社会常識に則って行動することはでき
る。
要するにGID当事者であれば、社会のセクシュアリティに関する価値基準による抑圧に苦しんでいる
自分(主観)に、第3者的な存在が客観的に<問いかけ>続けることによって、
「なぜ苦しんでいるのか。
」
「何に苦しんでいるのか。
」等をはっきり意識することができる。そして自分が社会の価値基準に合わせ
て、そのことで自分自身を苦しめている<自己矛盾のループ>に気付ける。さらに、この第3者的な存在
の語りかけを意識的に行うことができれば、常に「客観的に自己否定」を行い、社会の価値基準に縛られ
ることがなくなるのでGIDであることを肯定的に捉え、上手に利用したり、楽しんだりしながら生きら
れる41と同時に、抑圧を抑圧と感じることがなくなる。また、この方法は考え方を変えるだけなので、こ
れらの過程に差別や抑圧の直接的な解決は必要ない。
「GIDであること」で苦しいのは「社会や個人の
価値序列による差別・抑圧のせい」でも「GIDの成因のせい」でもなく、それを当事者がどう捉え、考
え、行動するかの問題となる42。
ここで、セクシュアルマイノリティが<キャンピィ感覚>を身に付けるとどうなるかをまとめる。
「被
差別・抑圧者として苦しみながら(他者否定、自己否定)、社会の価値基準に合わせようとすることによっ
て、例えば「ゲイ:異性愛」
「GID:性別」の再生産を行っていることに気付き、さらにいくつかの<
自己矛盾のループ>を客観的に捉え(自己否定)
、自己のセクシュアリティを客観化することができる。
(自
己肯定)
」これにより、自己を社会的価値基準に基づいたセクシュアリティに縛りつけること(自己規定)
はなくなるので、セクシュアリティを利用したり、楽しんだりできるようになる。要するに社会の価値序
列における自分の位置と自己の価値基準を相対化することで、自分の状態を客観的に捉えられる。そして
40
41
42
楽観的:ここでは、いわゆる「プラス思考」。
第3者的な存在そのものが無意識であると、精神的な病気と同じような状態になることも考えられる。
<キャンピィ感覚>の場合、相手が自分でも人でもモノでも、それとの会話は自分で意識し、理解で
きる。もし理解できなくても、自分自身で考えていると解釈できていれば良い。しかしその理解や解
釈ができず、誰かが頭の中にいて勝手に話しかけてくると思えば、それは精神疾患による妄想のよう
なものの可能性がある。
第1章で述べた通り、GIDの場合、現在は「先天性の障害をもった弱者であるからかわいそうな人」
という社会の価値基準が納得してくれる理由を利用した治療42こそが差別や抑圧の解決手段であると
されている。
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「差別する方が悪い」とか「性別があるからいけない」といった無意識の自己規定を行わなくなり、例え
抑圧を感じても、第3者的な存在との会話(もしくは語りかけ)によって柔軟且つ冷静に対応し、それを
抑圧と感じないようになる。そしてこの状態こそが、セクシュアルマイノリティがよりよく生きるための
手段となる<進化性>という新しいセクシュアリティの概念である。
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第3章 進化するセクシュアルマイノリティ
第1節
<進化性>というセクシュアリティ
<進化性>とは現在の社会では一般的に異常と見なされ、被差別・抑圧の対象となっているセクシュア
ルマイノリティが、進化の過程で自然に発生した最先端のセクシュアリティをもつ者ではないか、という
考えに基づく新しい性(別)の概念である。つまり、そもそも男/女43しかいなかった、もしくは男/女
しかいないことが常識であった中で、それらの性別に収まらないセクシュアリティをもつ人々が現れ、そ
れを異常とするのではなく、より柔軟なセクシュアリティをもつ者であると肯定的に捉えた考え方である
44
。よって、この考え方に基づいた社会では異常とされるセクシュアリティをもつ者がいなくなるため、
各々が様々なセクシュアリティをもつことが当たり前となり、セクシュアリティによる区別はあっても差
別や序列はない。ただし、そのような社会になるためには、セクシュアルマイノリティ自身が自己のセク
シュアリティを客観化できるように<進化性>へ<進化する>必要がある。
ここで、これまでの考察を基にセクシュアルマイノリティが<進化する>過程をまとめたい。まず、セ
クシュアリティがあることが条件となる。このセクシュアリティの社会的価値序列によってセクシュアル
マイノリティは被差別・抑圧者となる45。そして、セクシュアルマイノリティ自身の<自己矛盾のループ
>でさらに差別や抑圧が起こる。ここでセクシュアルマイノリティが<キャンピィ感覚>による考え方の
転換により<自己矛盾のループ>に気付くと、そのことでセクシュアリティに関する自己規定がなくなり、
差別や抑圧に苦しむ要因となるセクシュアリティを自己肯定できる。セクシュアリティを楽観的に肯定し、
そのセクシュアリティをもつことの良いことも悪いことも含めて、それを「性に関する経験」や「自分の
条件」として客観化できると、社会的価値基準と自己の在り方を常に相対化できるようになり、差別や抑
圧をそのように感じない。そしてそれが<進化性>である。ただし<キャンピィ感覚>は絶対に身に付け
なければならないものではなく、そもそも抑圧を感じる前に身に付けていることも、<キャンピィ感覚>
以外の手段で<進化する>可能性もあり得る。<キャンピィ感覚>や<進化性>という考え方はあくまで
も差別や抑圧を解決するために、自己矛盾に気付き、自己のセクシュアリティを見つめ直し肯定的に捉え
ること、またセクシュアリティを利用し、楽しく生きるための1つの方法である。
そしてこの<進化性>という概念は(日本で)伏見によって提出された「クィア」と同じような考え方
である。そもそも「クィア」は「英語で「変態」あるいは「オカマ」を侮辱的に指し示す言葉で、レズビ
アンやゲイの当事者たちが「そうした侮辱語をあえて自分たちを指し示す言葉として引き受けることで、
「クィア」という言葉に歴史的に込められた否定的な意味合いやニュアンスを肯定的なものに転換してい
こうという意図をもって、自称し用いるようになった。」ものとされる46。日本では「(セクシュアルマイ
ノリティでも)各々異なる問題を抱えているわけだから、それを大事にしながら、議論や運動の土俵とし
て立てよう」47と伏見によって使われた。このような考え方は「差別や抑圧を受け苦しんでいるセクシュ
アルマイノリティ」を敢えて肯定的に<進化性>とし「セクシュアルマイノリティを異常とせず、様々な
セクシュアリティを肯定的に認め合う社会を目指すこと」と一致する。そして「誰かにとっての「クィア」
43
44
45
46
47
この場合の男/女は、セクシュアリティが男/女という意味。
この場合、それらが社会文化的な環境要因、生物学的成因であるかは関係ない。
価値序列があるからマイノリティとされる人々が存在するとも言える。
河口,2003 54頁
伏見,2004 24頁
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は、その人がそのとき「クィア」と思ったり感じたりしたもの」であるという点も、セクシュアルマイノ
リティとは「社会的に異常とされるセクシュアリティによって、差別や抑圧を感じる人」という考えに基
づく<進化性>と同じである。
........
しかし「昨今、
「クィア」は特定の性的少数者の連合という文脈だけで用いられるのが当然で、それが
定義なのだとする妙な政治力学が働いている(略)「クィア」という冠があるのならば、そこにゲイやレ
ズビアンだけでなく、トランスジェンダーやバイセクシュアルも含められなければならない、とか、ゲイ
が中心に扱われることはゲイの覇権を許すものだ、とか。こうした規制、特定の理念の強制」48。となっ
ている。もし「クィア」が、このような現在当たり前となっている用いられ方をしているのであれば、そ
れは<進化性>とは異なるものである。
野口勝三はこのような「クィア」を以下のようにまとめている。
「「クィア」とは、既存の文化体系の持つ規範や価値観に対立した関係を持ち、正常と対立する位置に
たった新しい秩序を生み出す、それ自体常にうつろい、制度のかたちで固定されない非|ゲイ化する
位置を意味している。つまりアイデンティティを拒絶し、否定することがゲイの解放された姿として
提示されることになる。このようなセクシュアリティの装置を脱出した、ゲイ・アイデンティティを
持たないことが、ゲイのあるべき姿であるという考え方は社会構築主義49にも見てとれる」50。
伏見がそもそも提出した「クィア」と同じ考え方である<進化性>は特定のセクシュアルマイノリティ
の共同体を表す記号ではなく、あくまでも多様なセクシュアリティの在り方を便宜的にまとめた言葉であ
る。「GID」や「ゲイ」等のセクシュアリティをもつことをやめるための言葉でも、反対に「GID」
や「ゲイ」だからこうでなければならないと決め付けることでもないので<進化>しても、例えば<進化
GID>や<進化ゲイ>等、セクシュアリティのカテゴリーは存在する。ただそこに社会の価値基準や序
列、それによる自己規定がないだけとなる。
このように<進化性>や伏見の言う「クィア」の考え方によって、個人が自己のセクシュアリティを肯
定し、それを互いに認め合える社会になれば、セクシュアルマイノリティの差別や抑圧の問題は解決する
ように見える。しかし、ここでセクシュアルマイノリティが<進化する>ことで、マジョリティが抑圧を
受けるのではないかという問題を考えなければならない。1つはセクシュアルマイノリティが<進化する
>ことでの抑圧、もう1つはマジョリティが<進化できない>ことでの抑圧である。
例えばGID当事者の性自認が女であるのに男として扱われた場合、多くの当事者は心の中で「違う、
自分は女だ。
」と思いながらも何も言えずに苦しむ。これが現在良く見られるGID当事者とマジョリティ
の関係である。しかしこの時、GID当事者が<進化GID>であった場合、当たり前かのように口に出
して「自分は男(もしくは女)じゃない。」と否定したり「GIDです。」と普通の顔をして言ったりする
だろう。もちろん「そうそう、今日は男でいいよ。」といった<キャンピィ>な表現も想定される。する
とGID当事者が<GID>でも楽しく自己肯定的に生きているのに対して、マジョリティは自分がセク
シュアリティに囚われているように感じ、半ば自動的に自己のセクシュアリティの価値を下げる。つまり
<進化性>の存在そのものによって抑圧される可能性がある。
48
49
50
伏見憲明,『クィア・ジャパン VOL.3』,勁草書房,2000 25頁
社会構築主義:ここではセクシュアリティを歴史的に構築されたものとして捉える立場。
(同上
9頁 野口勝三「クィア理論とポスト構造主義 -反形而上学の潮流として-」)
同上 203頁(野口勝三「クィア理論とポスト構造主義 -反形而上学の潮流として-」)
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次に<進化する>過程には「<自己矛盾のループ>に気付き、自己のセクシュアリティを見つめ直すた
めに被差別・抑圧者として苦しむ。
」という条件が必要であることが問題となる。当然、<自己矛盾のルー
プ>に気付く手段は、必ずしも被差別・抑圧体験でなくても良いが、恐らくセクシュアルマイノリティ多
くのは、その体験をきっかけにして、自分のセクシュアリティについて見つめ直し考えるようになるだろ
う。そうであれば社会的な価値序列の中で正常とされ(あまり)抑圧を感じることのないセクシュアリティ
をもつマジョリティは<進化できない(進化する可能性が極めて低い)>ことになる。
マジョリティはマイノリティが<進化する>ことで抑圧を受ける上に、自分たちは<進化できない>状
況に陥ってしまい、現在の状況と反対の形で差別・抑圧構造が作られてしまう。<進化性>という考え方
は、社会のセクシュアリティに関する価値序列によるセクシュアルマイノリティの差別・抑圧問題の解消、
つまり「セクシュアリティの区別があっても、そこに差異がない状態」を目指す。よって、セクシュアル
マイノリティの差別・抑圧問題がなくなっても、価値序列が逆転し、セクシュアルマジョリティへの抑圧
が起こると新たな<抑圧のループ>を作り上げることになり「セクシュアリティの区別があっても、そこ
に差異がない状態」は達成されない。では、そのような価値序列の逆転による<抑圧のループ>が起こら
ないためにはどうすればよいか。その方法をマジョリティがマイノリティと行っている<利害の交換>に
よって説明したい。
第2節
<利害の交換>から<自由の相互承認>へ
セクシュアルマイノリティに限らず、セクシュアリティに関する<自己矛盾のループ>に気付き、<
キャンピィ感覚>を見に付けることができれば、誰もが<進化する>ことができるはずである。しかし、
そのためには「自分のセクシュアリティを意識せざるをえない強烈な自意識を得るための何か」が必要と
なる。多くのセクシュアルマイノリティは、被差別・抑圧体験によって、自分のセクシュアリティを意識
し考えるだろう。ところが普通、マジョリティは自分のセクシュアリティによる差別や抑圧をほとんど体
験していないので、セクシュアリティを意識することが難しい51。
ところが、それはマジョリティがマイノリティと関わることによって解決される。例えばGIDとマ
ジョリティが会話をしているとする。相手がGIDと分かっている時、普通、マジョリティは性(別)に
関する表現を慎重に行うので、
「○○くん(さん)
」という呼び方1つに気を遣うだろう。性自認が女の人
に対して「○○くん」と呼んだ瞬間に「あっやばい、間違えた。」と思い、次にそのことを謝る。この時、
GID当事者は「自分は女なのに」と思い抑圧を受けるが、実はこの時、間違えたと思った側のマジョリ
ティも抑圧を受けているのである。まずマイノリティと関わること自体が抑圧となる。マイノリティと関
わると、自分がマジョリティであることを認識し、それにより「自分が抑圧していること(上の例では「間
違えた」こと)に対する「うしろめたさ」のような抑圧」を受ける。それは意識無意識に関わらず、その
人が社会的価値序列を知っていることも表す。次に自分が「マジョリティでなくなることの恐怖という抑
圧」を受ける。多くの人は自ら序列の下層に位置づけられようとはしない。社会にマイノリティがいるこ
とで、マジョリティの位置は確保されるが、同時に、いつ自分がマイノリティという異常者にされるか分
からない恐怖を持ち続けなければならない。そしてそのような抑圧は、マイノリティと関わる度にマジョ
51
ここでのセクシュアリティの意識とは、男と女の価値序列によるものではなく、男/女とセクシュア
ルマイノリティの価値序列によるものとして考える。
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リティの目の前に出される。
このように一般的には、マイノリティがマジョリティから一方的に抑圧を受けているとされるが、実は
同時にマジョリティもマイノリティによって抑圧を受けている。つまりマジョリティとマイノリティは
「互いの存在で利益を得て、抑圧を受ける」という<利害の交換>を行っていて、それは以下のようにま
とめられる。
・
マジョリティの「正常である(=マジョリティ)という安心を得る利益」と、マイノリティの「正
常であるマジョリティから逸脱し、異常とみなされる抑圧」の交換。
・
セクシュアルマイノリティではあまりみられないが、特に障害者、病気の人、高齢者等との関わり
では、マジョリティの「常にマイノリティという異常者になるかもしれない恐怖という抑圧」と、
マイノリティは「常にマイノリティという異常者になるかもしれない恐怖から解放され、マイノリ
ティとして弱者の立場を利用できるという利益」の交換。
そして、マジョリティがセクシュアルマイノリティの存在や関わることで行われる<利害の交換>に
よって抑圧を受けるならば、マジョリティも<進化>に必要な抑圧の体験をしていることになる。もちろ
んそれはセクシュアルマイノリティの受ける抑圧に比べれば、程度は小さく、頻度は少ないだろう。しか
し、セクシュアルマイノリティの存在は、必ずマジョリティがセクシュアリティについて考えるきっかけ
を与え、<進化性>が増えれば、その可能性はより広がる。
このように<利害の交換>でマジョリティへが<進化する>可能性も示された。まずセクシュアルマイ
ノリティが進化し、マジョリティ(男/女)も進化する。その順番は決まっておらず、あくまでもセクシュ
アルマイノリティの方が進化しやすいだけで、全てのセクシュアルマイノリティが進化した後でなければ、
マジョリティが進化できないわけではない。マジョリティが<進化性>と関わることで、(進化していな
い)セクシュアルマイノリティよりも先に<進化する>こともあり得る。どちらにしても<男/女、その
枠に収まりきらないセクシュアルマイノリティ>が存在し、そこに明確な社会的価値序列による差別や抑
圧がある現在の社会から、<男/女、セクシュアルマイノリティ>の差異がなくなり、全ての人が<進化
性>となる社会が訪れる。それは、セクシュアリティに関する社会的価値序列がなくなり、性の区分とし
ても、性愛の在り方としても、セクシュアリティの在り方に関して差異がないセクシュアリティの多様化
が認め合えるような社会である。
そして<進化する>ことは決してセクシュアルマイノリティに限られることではない。社会に存在する
他のマイノリティにも適用可能な概念でもある。セクシュアルマイノリティの場合のきっかけは「セク
シュアリティ」であるが、そこにマイノリティそれぞれの被差別・抑圧の要因となる事柄を入れて読み替
えることで、例えば美醜に関する価値序列によって抑圧を受けている「ブス」であれば<進化ブス>、人
種による差別を受けている「黒人」であれば<進化黒人>へと<進化する>ことができる。伏見は<進化
ゲイ>であると同時に<進化ブス>であることが以下の言葉から分かる。
「「クィア」な「ブス」とは、「ブス」であることを受け入れながら、それを肯定的に表現し、楽しむ
姿勢を持っている人を言うのだ。僕らはそういう「ブス」でありたいし、またそうでなければ人生は
生まれ持った資源や社会的条件に拘束されるだけで、つまらないものになってしまう。(略)「ブス」
を簡単に克服することはできないが、
「ブス」であることを徹底的に活用することで、人生に珍種の大
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輪を咲かせることはできるのだ、と信じたい」52。
結局は「クィア」であっても<進化する>ことであっても「社会の価値基準や序列による差別や抑圧の
問題による<自己矛盾のループ>に気付き、それをきっかけにして自分自身を見つめなおし考えることで、
自己規定することなく、自己肯定的に楽しく生き、同時に多様な価値観をそれぞれが互いに認め合えるよ
うな社会」を目指していることに変わりはない。それはマイノリティに限られる理想ではなく、マジョリ
ティも含めて誰もがそのように生きられる、新しい社会の在り方への 1 つの可能性である。そして、この
ような「クィア」や<進化する>ことによって目指す新たな社会とは<自由の相互承認>53を行える社会
とも言える。ここでの<自由>とは、
「人間はどこまでも「自由」たろうとする本性をもっている」54とい
う意味である。また「
「自由の相互承認」とは、市民社会の原則で(略)社会に存在する異なる利害や感
受性を持った人々の共生を可能にする、社会構想の基礎となる考え方。
(略)どこで利害が対立するのか、
どうすれば互いの幸せの追求を最大限尊重して、共通了解を築くことができるのか、そのために必要な社
会制度や仕組みはどのようなものかなどを考えていく上で原則となる概念」55。であり、これまで考えて
きたセクシュアリティの在り方から導かれる「多様な価値観をそれぞれが認め合える」という理想の社会
像と一致する。
互いに否定し合い、価値の序列化による差別―被差別、抑圧―被抑圧によって自己の位置を確保するの
ではなく、個々の多様な在り方を互いに肯定し、認め合いながら、それぞれが自己肯定的に楽しく生きら
れる。それこそ今目指すべき社会であり、これからの課題でもある。これらを多くのセクシュアルマイノ
リティ、そしてマジョリティや他のマイノリティにも開かれる可能性として、今後より具体的且つ現実的
に、そして普遍的な概念とできるように検討していかなければならない。さらには、限りなく多くの人が、
より良く生きられるような社会となるように、セクシュアルマイノリティの問題であれば、今解決が難し
い、例えば結婚や戸籍の制度、生殖の在り方等を具体的に提示していく必要があるだろう。加えてあらゆ
るものの価値に差異がなくなった社会が現実となった時、人は何に価値を見出すようになるのか、その点
も慎重に考えていかなければならない。
52
53
54
55
伏見,2000 27頁
自由の相互承認:ヘーゲルによって出された概念。互いが互いを「自由」な存在として承認しあうこ
と。(同上 154頁 竹田清嗣インタビュー 「美醜とは人間にとってなにか」)
同上 154頁
伏見,2004 38頁
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おわりに
全ての人が<進化性>となった社会が現実となった時、つまりセクシュアリティの価値序列がなくなっ
た(等価になった)社会では、性別や性愛等のセクシュアリティを利用したり、楽しんだりすることはで
きなくなるだろう。比較されることでの苦しさがない代わりに、楽しさも失う。男でも女でもGIDでも
ゲイでも誰もが「普通」のセクシュアリティをもつ者となり、そこに差がなくなる。そして個々のセクシュ
アリティが価値を持たなくなった時に残るのは、生まれつき与えられる身体性の機能差だけとなり、それ
はただ種(人)の再生産を行うために必要に応じて使うものとして存在する。さらにその身体差さえも反
差別化されれば、個々の身体的性差すら意味をもたなくなり、例えば子宮がない人でも子宮を移植して子
供を産むようなこともあり得る。つまり人が人の再生産を行うための機械となる可能性も否定できない。
そのように人が機械化し、個人が人としての価値を持たなくなると、人は新たな差別化を始めるのではな
いだろうか。もしそれが現実となり、現在の差別化の社会→機械化の社会→新たな差別化の社会という
ループが生み出されるとすれば、必ずしも<進化性>という考え方は正しいとは言えない。
しかし、僕は価値序列のある社会の中でGIDという条件を持ち、そのGIDの社会的価値にさんざん
苦しめられて生きてきた。だからこれからは、楽しみの影に苦しみがあることを忘れずに、今たまたま苦
しむ側という条件で生きている自分として「GIDであること」を利用し楽しく生きていくことを選択し
ようと思う。
「GIDという言葉」は自分の性別が分からない人、男/女の区別に収まらないことを意識せずにはい
られない人にとって麻薬のような力をもつ。僕も1度はそれにはまった。だから当事者が悩み苦しみ、救
いを求めて病院に行く気持ちはよく分かる。しかし病院へ行くと、医者にも「GIDという麻薬」を処方
され、どんどん「GID」に依存していく。僕は運よくその仕組みに気付き、どうにかその依存から脱出
することができた、と思っている。
知り合いに、一生治らない(とされる)病気の人がいる。常に新しい薬を祈るように使い、常に死と闘
いながら生きている。先日その人が医者に「太く短く生きることと、細く長く生きること、どちらを選ぶ
のか?」と聞かれて、その子は「太く長く生きる」と答えたらしい。僕はそれを聞いて、大学に行って、
バイトもできて、命を気にすることなく遊べて、GIDごときで悩むことができる自分を「贅沢」だと思っ
た。そして今までそんなことに、さんざん苦しめられた自分が「みみっちく」も思えた。もちろん「死」
が悪いわけではないし、GIDであることの苦しみと何か別の苦しみを比較して、どちらが苦しいかを決
めることもできない。でも僕は(たぶん)
「生」を望んでいて、手術をしなくても「普通」に生きられる。
だからGID治療の保険適用より、戸籍変更の法律より、結婚制度の変更より先に、自分の力では「本当
に」どうすることも出来ず苦しんでいながらも、生きたいと願う人のために頭やお金や時間を使ってほし
い。
最近「GIDでラッキー」と思うことが増え、人から「GIDでうらやましい」と言われるようにもなっ
た。たぶん僕が「GID」なのに「普通」で「苦しんでいない」からだろう。数年前の僕からは考えられ
ない世界だ。そしてそんな僕は今<ゲイ>が「うらやましい」
。きっとみんな「ないものねだり」だから、
マジョリティに「うらやましい」と言わせるのは簡単だと思う。でも世の多くの当事者はそんな「GID」
という「贅沢」で「みみっちく」て「うらやましい」悩みに苦しみ続けている。だから「クィア」の意味
すら知らず、ただ性別をなくせばそれで全て解決すると思い込んでいた僕でも脱出できた「GID依存症」
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の実践的な脱出方法について考え、論文のテーマにしようと思った。もちろんGID当事者にとって重要
なのは<自己矛盾>でも<キャンピィの定義>でも<利害の交換>でもないことはよく分かっている。多
くの当事者が「どっちのトイレに入るか」
「会員証を作るときに性別を聞かれないか」
「出来るだけ早く手
術をするにはどうすればよいか」…のような生活の中で使える具体的な技を必要としていることも知って
いる。でもその場しのぎの技では、すぐに行き詰ることを僕は経験してきた。だから論理的で普遍化でき
る概念が必要だ。そのためにもまずは<進化>するためのもっと具体的な方法を考え「GID依存症」の
人を「贅沢」で「みみっちく」て「うらやましい」悩みの世界へ連れて行きたいと思う。それが僕の今後
の課題だ。
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参考文献
○ 河口和也,『クイア・スタディーズ』
,岩波書店,2003
○ 高石浩一他編著,『男性論』,人文書院,1999
○ Dr.チャールズ・シルヴァースタイン&フェリス・ピカーノ,伏見憲明他訳,
『THE NEW J
OY
OF
GAY SEX』
,白夜書房,1993
○ 永井均他編著,
『事典哲学の木』
,講談社,2002
○ 伏見憲明,『クィア・ジャパン VOL.3』,勁草書房,2000
○ 伏見憲明,『「ゲイ」という経験』,ポット出版,2004
○ 伏見憲明,『変態(クィア)入門』,ちくま文庫,2003
○ 山内俊夫,『改訂版 性同一性障害の基礎と臨床』
,株式会社新興医学出版社,2004
○ G‐FRONT関西 http://www5e.biglobe.ne.jp/~gfront/resource/terms.html
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