諷誦文の二

諷誦文の二
岩田殿 寒気ようように来りて白雪霊峰を覆うの時、暗雲心にかかりて悲しみの色を示し、無情一陣の風起こりて
病葉散らす。
今更に現身のはかなさ浮世の当相、幻に似たるを嘆ぜしむ。道を求め教えに依らずんば何によりてか心を慰せん。
仏の曰く人生の苦難に抗して楽を願うもの只親子、今生の因みにしかず。
慈恩限りなく悲恩何れの日にか窮むべけん。念をいたせば恩愛の情綿々として尽る事なく陰に伏して
涙浪野湧くに迷う。
慈に新寂○○○○居士こと故岩田真殿、大正十五年三月山梨県は当地当処に岩田家の長子として生を受く。 幼き日を大川の流れ清く、田園の緑美しきこの地にすごしけり。
幼きよりすでにその頭角一きわ衆をぬきんでて、学業常に首席争うが如く
極めて優れ、また通して級長をつとむる事などあり。
卒業にあたりて、教師より中学進学を強くすすめらる事あれども、
時の流れ我にあらずして、また業を愛しその後継に練達の和菓子職人を望む父に従いてこれを断念す。
長ずるに従いて当時盛なりし青年団に於て活躍、正に青春を謳歌せんとする時、
暗雲重くして、世は太平洋戦争へとなだれうつ如くなりて開戦。
若き者等皆かくあるが如く出征、昭和十八年故人二十一才なりき。
直ちに中国大陸東北部へ渡り参戦、激戦の地に常に最前線にありて死戦くぐる事幾度なるか。
幸にして武運尽きる事なく終戦を迎え、一年程抑留さる事ありといえども、無事復員する事を得たり。
終戦直后の混乱の中、突然にして何の前ぶれもなき帰還、家に一歩踏み入れし時、
その父のすでにこの世になき事を知る。号泣千里をつらぬく事あり。
すこしの時が、すこし心の傷をつやすの時、昭和二十四年故人二十六才、
縁ありて稀なる佳人吉子殿と出逢いて結婚、これを生涯の伴侶となし、面して家に一男、二女を挙ぐ。
夫婦共に力あわせて働くといえども、当時のこととてその原料調達に困難を窮め、
例ふれば芋のあんなどと代用品にて細々と営業、三年、五年の労苦のうちにやうやくに盛業を見るに至る。
その傍に人望の致しむる故ならん、好むと好まざるにかかわらず、
推されて第一小学校ΡΤΑ会長とつとめ、中でも当地町会長にいたりてはその任期二十有余年に亘り
地域社会に貢献す。
かくの如くに世に貢献せし誉職、数うる事能わずといえども、ぞの身名を求むる事なく、財を追う事もなく、
淡々としてその生涯を送り、その心強靱にして自らの節曲げる事非ざれどもこれを表にする事なく、
人に接するに温かさをもってなし、これに心いやされし人数知れずあり。
市井の中に埋もれて生きるを望み、あたかもいぶし銀の如き光放ちてありき。これを敬愛する者極めて多く、
共にその寿の百年を願いしが、平成三年も末、やや四大を乱す事のあり、
さはあれどしばし病舎に伏せしのち快癒を見、即ち生業にはげみ、また唯一の楽しみなりき鮎の友釣りにと、
その身を休むる事なく偽してあり。
心はやれども、その身漸々に老境にかかりて思うが如くならざりしか、また三たび四たびと急を
告ぐる事あれども、常に不死鳥の如くよみがえる事あり。
されど徐々に宿痾身に重くこもりたるか、ある朝一陣の魔風に風音数を乱す。
ああ定命の至れるをや、命算改むる能わず。ここに奄然として泉路の客となる。
思えば七十五年の生涯すぎ去れば即ち邯鄲の夢枕、現身のはかなさなり。再び慈顔みるすべなく、
遺音を寂寞のうちに聞かんとは、ああ悲しいかな。
本日茲に人皆集いて葬送の壇を厳にし、故人をなむ送らんとす。思えばその身陰徳の積もりて佛縁の深く、
即ち幽境に走せなばかの浄土に倒りて美しき蓮の池に遊ばん。誰そ疑いのあらんや。
乃至法界平等利益
かくの如き高徳の士にしてあれば、あたかも我が慈父を失うが如くに悲しみて想うは、豈我一人のみならんや。
ここに故人の遺徳を偲び敬って白す。
平成十年三月十八日