08月03日 愛と戒め

08月03日 愛と戒め
「ヨハネの福音書 14章21節~24節」
14:21
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわた
しの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」
14:22
イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わ
そうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」
14:23
イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。
そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人と
ともに住みます。
14:24
わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、
わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。
私たちが神様を心から愛し、また、いつも神様の熱い愛を胸に感じ、確信しながら暮ら
す事ができるとすれば、その人は幸福な人です。聖書には、『愛には恐れがありません。
全き愛は、恐れを締め出します。』と記されています。人生行路に何等の恐れもなく、安
らかに、落ち着いて暮らして行く事ができるとすれば、これよりもっと大きな幸福がある
でしょうか?
私たちはどのようにしたら、神様とこのような『愛』の関係を維持しながら、暮らして
行く事ができるでしょうか?
第一、 愛と戒めの関係
神様が、人を造られてエデンの園に置かれ、素晴らしい環境を備えられ、熱い愛を施し
て下さいました。神様は、アダムとエバを造られる前に天地を先に造られて、アダムとエ
バが何一つ不足する事なく暮らして行けるように、すべてのものを備えて置かれました。
また神様は、人を動物とは違うように造られました。神様は、人を土地のちりで神様に
似るように形造られ、その鼻に命の息を吹き込んで生き物に造られました。それで、人だ
けが神様と交わりを持つことができます。人は、目に見えない神様を「アバ、父」と呼び、
心から神様を切に探し求めます。それは、神様を慕う心が人間の中にあるからです。それ
で神様は、人間と霊的に交わろうと望んでおられます。そして、万物を支配する権利を人
間に与えられて、神様が造られたすべてのものを支配し、治めるようになさいました。
それだけではありません。神様がエデンの園に来られて、アダムとエバと深い対話を持
たれました。私たちが今、神様の御声を一度聞いただけでも胸が躍り、私たちの生涯が変
ります。ところが、神様と直接交際したアダムとエバは、どんなに幸福であり、喜びの極
致に達していた事でしょうか? しかし、このすべての神様との「愛」と「交わり」は、
神様が与えられた「戒め」の土台の上でなされるものです。
『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木から
は取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』(創世紀
2章16節~17節)と神様は仰せられました。この神様の「戒め」が守られる時、アダムと
エバは継続して神様と愛の関係を保つことができるのです。
ところがアダムは、神様との愛の関係を余りにも軽く考えました。彼は、「戒め」を踏
み躙っても依然として、自分が神様を愛することができ、神様から愛して頂くことができ
ると思いました。それで悪魔の誘惑を受け容れて、神様が「取って食べてはならない。」
と仰せられた善悪の知識の木の実を取って食べました。そうするや、瞬く間に栄光が離れ
去りました。
神様の栄光が離れ去るや、彼らは自分たちが裸であることを知るようになり、神様が恐
くなって、木の間に隠れました。その時から、「愛」の代わりに「恐れ」が入って来まし
た。その結果、神様との愛は断ち切られました。そして、彼らはエデンの園から追い出さ
れました。また、土地は呪われていばらとあざみを生えさせ、彼らの肉体も病(やまい)に
かかって死ぬようになりました。
アダムとエバが、神様との愛と祝福の関係を保つ事ができるのは、「戒め」を守ること
にありました。その条件を無視する時、愛の関係は去ってしまいます。すべての神様の祝
福には、必ず条件がつきます。その条件を私たちが守る時に祝福され、その条件を守らな
ければ祝福は去ってしまいます。
第二、イエス・キリストと愛に対する教訓
イエス様が、『もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛
にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中に
とどまっているのと同じです。』(ヨハネの福音書 15章10節)と仰せられました。
父なる神様が、イエス様に与えられた戒めは、『私たちが神を愛したのではなく、神が
私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。こ
こに愛があるのです。』(ヨハネの手紙 第一 4章10節) 『わたしが天から下って来たの
は、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためで
す。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたし
がひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。』(ヨ
ハネの福音書 6章38節~39節)でありました。
神様が、イエス様に与えられた戒めは、「絶対服従」と「十字架の死」、即ち、神様の
仰せに絶対服従し、十字架で死ななければならない、と言うことでありました。イエス様
は、私たち人類の代わりに十字架の上で身体を裂き、血を流して死なれました。戒めは、
愛の条件です。
「ピリピ人への手紙 2章 5節~11節」は、『あなたがたの間では、そのような心構えで
いなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿
であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無に
して、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性
質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたの
です。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりま
した。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの
のすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白し
て、父なる神がほめたたえられるためです。』と記録しています。
これがまさに、神様がイエス様に与えられた戒めです。
「ヨハネの福音書 14章23節~24節」は、『イエスは彼に答えられた。「だれでもわた
しを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、
わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、
わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、
わたしを遣わした父のことばなのです。』と記しています。
私たちは、イエス様を信じる事によって救いを受けたのですから、条件なく信じる事に
よってキリストと交わり、愛を交わす事ができるのですが、持続的にこのような関係を維
持する為には、主の戒めを守らなければなりません。昔は、戒めは恐い主人でありました。
しかし今、戒めは私たちを助けてくれる僕(しもべ)に変化されています。神様と愛を続
けて交わり合い、神様との交わりを維持する為の「明るい光」を照らしてくれる僕に変化
されたのです。旧約の戒めは、人を殺すものでありますが、新約の戒めは、私たちを助け、
生かし、導いてくれる僕になってしまったのです。
救いは、無条件に信じる事によって受けますが、神様との愛の交わりには、戒めと言う
条件が介在します。イエス様が、それに対しては少しも妥協することなく言われました。
『わたしを愛するなら、わたしの戒めを守りなさい。』 聖書には、はっきりと『神を愛
するとは、神の戒めを守ることです。』と記されています。ですから、私たちの重大な信
仰の過ちを今日、直さなければなりません。
戒めは守らずに、口でだけ「主よ。主よ。」と呼ばわりながら、祝福して下さいと身悶
えし、叫ぶのは、神様を愚弄する行為です。神様のお恵みを「二束三文の安物」に変化さ
せることです。文句無しに、私たちが神様の戒めを守って行く時、この世で神様を愛する
証拠になるのです。私たちが戒めを胸板に刻み込み、戒めを守って行く時、神様も私たち
を見下ろされて、「まことに、貴方はわたしを愛する人です。わたしも貴方を愛します。
私の子イエスと一緒に、わたしは貴方と共に住みましょう。恐れてはいけません。驚いて
はいけません。わたしが貴方と共にいますから。」と仰せられます。
第三、私たちが守らなければならない「戒め」
人と戒めは、深い関係があります。神様の御言葉は、神様が与えられた霊感によって先
見者や王や祭司が記録しましたが、「十戒」は、神様がシナイ山で直接御手で書かれまし
た。神様が直接御手で書かれた戒めは、「十戒」しかありません。それで、「十戒」を神
様がどんなに重要視されたかを知ることができるのです。神様の御手で書かれた「十戒」
が、無視されてはなりません。
先ず第1に、『わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。』と言われました。
私たちが神様を愛するのであったら、神様だけを愛さなければなりません。神様以外のほ
かの神にも仕えながら神様を愛すると言うのでは、その愛は真実な愛ではありません。一
人の男が、自分の妻に向かって「私は、貴方を愛します。」と言いながら、ほかの女性を
愛しているとすれば、妻に対する愛は真実な愛ではなく、嘘であるのと全く同じです。で
すからほかの神に仕える事は、神様に対する愛を偽りのものとし、無視してしまう行為で
す。
2番目に、『偶像を造って、拝んではならない。』と言われました。神様は、偶像を憎
まれます。イスラエルの民が見捨てられたのは、バアルとアシェラ像を拝み、偶像に仕え
たのでそのような目に会いました。そして、北イスラエルも南ユダも偶像のゆえに見捨て
られました。ソロモンが晩年に偶像崇拝したので、国が分断されました。神様がそんなに
も憎まれる偶像崇拝を私たちがしたら、神様に正面から逆らうことになります。
3番目に、『主の御名を、みだりに唱えてはならない。』と命じられました。私たちが
神様を愛するのであれば、神様の御名を辱(はずかし)めたり、軽率に呼ばわるとか、悪戯
(いたずら)に呼んだりしてはいけません。私たちも、誰であろうと愛する相手の名前は
貴重に扱います。ところが、愛する相手の名を勝手に呼び、遊び半分に呼び、無意味に呼
ぶとすれば、それは相手を侮辱する行為です。
4番目に、『安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。』と神様は言われました。私た
ちは土曜日を安息日とせず、主の日(日曜日)を聖日として守ります。何故かと言えば、私
たちの主イエス様が安息の主人であられ、安息の主人が主の日(聖日)に蘇(よみがえ)ら
れて、当時の聖徒たちに会いに来られ、その主の日に、聖霊を注いで下さったからです。
そしてイエス様は、いつも主日に弟子たちを会いにお出でになりました。ですから、私た
ちは6日の間働き、7日目には教会に出席して主に会い、主に礼拝を捧げなければなりま
せん。
そして5番目に、『あなたの父と母を敬え。』と言われました。父母はまさに、地上に
ある神様の表象です。目に見える父母を敬わない人が、目に見えない神様を敬うことはで
きないと、聖書にも記されています。ほかの戒めには「ご褒美」がありません。しかし父
母を敬えば「ご褒美」があります。『あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えよう
としておられる地で、あなたの齢(よわい)が長くなる為である。』と言われました。こ
の世で幸いを得、長生きすると言う「ご褒美」まで添え加えて「父母を敬え。」と言われ
ました。父母を敬わなければ、それは神様を無視することであり、神様を愛することでは
ありません。
6番目に、『殺してはならない。』と戒められました。神様に似るように、神様ご自身
の形に造られた人を殺しておいて、神様を愛すると言うことができるでしょうか? 人の
いのちは神様のものです。神様に属したいのちを自分勝手に殺すとすれば、神様への愛が
その中にあるとは言えません。また聖書には、『兄弟を憎む者はみな、人殺しです。』
(ヨハネの手紙 第一 3章15節)と 記されています。憎む罪も神様との愛を奪って行く道
具になるのです。私たちが誰かを憎んでいるなら、はやく悔い改めて、憎しみを心の中か
ら追い出さなければなりません。そうしてこそ、神様を愛することができるようになるの
です。
それから7番目に、『姦淫してはならない。』と言われました。「コリント人への手紙
第一 3章16節」には、『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿ってお
られることを知らないのですか。』と記されています。姦淫は、自分の体を汚す行為です。
誰でも神の神殿を汚せば、神様がその人を滅ぼされます。私たちが姦淫すれば、聖霊さま
を連れ込んで共に姦淫することになります。それは聖霊さまに対する大変な冒涜です。こ
ういう人が、神様を愛するとは言えません。
そして8番目に、『盗んではならない。』と命じておられます。盗むのは、神様を愛す
ることになりません。神様は、いつも正義の神様です。盗むことは、神様の正義を踏み躙
ってしまう行いです。のみならず、「十分の一」を差し上げないのは、神様のものを盗む
行為です。「第七日」は神様の日であるのに、その日を自分の日として勝手に過ごすのも
盗む行為です。こんにち、全世界が神様のものを盗んでおります。それで呪いを受けて、
血と汗と涙を流して働いているのにも残るものがありません。私たちの韓国の企業連をご
覧ください。血と涙と汗で働いたのに、残ったものが何ですか? 全部負債だらけです。
これは神様のものを盗んだ結果なのです。
結局、神様を愛し、神様に仕えるアメリカが、政治・経済・教育・文化・軍事・産業...
において世界最大強国になったではありませんか。それは、神様が彼らを愛して下さった
からであります。
9番目に、『あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。』と教えておられま
す。お隣の境遇が悪くなるようにするために、色々と嘘をついて陥(おとしい)れたり、
中傷したりする事は、神様を冒涜する行為です。私たちがお隣に対する偽りの証言をして、
隣人をしきりに貶(けな)し、意地悪をする、このような事を神様は喜ばれません。隣人
のために祈って上げ、隣人を激励して上げ、勇気を与える私たちとならなければなりませ
ん。そうすれば、神様が私たちを祝福して下さるのです。
10番目に、『あなたの隣人の家を欲しがってはならない。』と命じられました。隣人の
ものを欲しがって、どのようにしてでも悪くなるようにするとか、奪い取ろうとしてはい
けません。聖書は、『隣人の妻、或いは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなた
の隣人のものを、欲しがってはならない。』と記しています。自分が汗を流し、努力して、
神様から頂いたもの、いま自分が所有しているもので満足すれば、神様は、持っている人
にはさらに与えられ、もっと愛して下さるのです。しかし多くの人たちが、自分は努力せ
ずに、隣人のものを欲しがったり、奪おうとしたりする、そのような間違った貪欲を持っ
ています。
貪欲は、偶像崇拝です。神様は貪欲を審かれます。アダムとエバが結局は貪欲のゆえに、
神様が与えて下さらなかった、「神様のようになろう」との、その欲望を達成しようとし
て、神様の戒めを破ったので捨てられました。
ですから、私たちはこのような神様の戒めを心に刻み込み、この戒めを守る時、神様か
ら頂いたそのお恵みが二束三文の安物にならず、この戒めを守る時、神様を愛する証拠に
なり、また神様の愛が私たちの心の中に注がれたことになるのです。現在、私たちの心の
状態や、教会の状況を見たら、信仰と希望はありますが、神様や隣人に対する愛は大いに
不足しています。
それから、神様の愛が聖霊さまにより、私たちの心に注がれていなければならないので
すが、その愛の体験がとても乏しいです。その絶対的理由は、私たちが暮らしの中で神様
の戒めを捨てたからなのです。私たちが神様の戒めを守りながら暮らせば、私たちが神様
を愛していると言う確信を持つようになり、神様から愛されるようになるのです。
救いは、イエス様を信じる事によって代価なく受けますが、神様との愛と交わりは、戒
めを守ることによって維持することができます。神様の愛は、神様の戒めを守ると言う条
件を満足させる事によって、私たちに満ち溢れるようになるのです。
祈
祷
愛であられ、聖なる、我が父なる神様。神様がこの世をそれ程までに愛して下さいまし
たが、この愛を私たちが享受するには、神様の戒めを守らなければなりません。
我が父なる神様、愛だけ頂いて戒めは守ろうとしない、そのような間違った信仰をすべ
て私たちから根こそぎにして下さい。イエス・キリストのお恵みを二束三文の安物に変質
させる、そのような行動をしないように助けて下さい。
神様の熱い愛が胸に燃え上がる信仰生活をする事ができるように助けて下さい。私たち
が皆、イエス様を信じて救われたのですから、戒めを守って、神様の愛の中に留まるよう
にして下さい。戒めを守らず、神様の愛を自分の外に追い出す事がないように、主が助け
て下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。 アーメン!