アンティークレースの歴史 - アンティークレース Antique Lace 市川

OIDFA2010 世界大会に合わせてアンティークレースの小さな展示をご覧いただけることは大変
光栄です。レースメーカーもコレクターもレースの美しさにまず魅せられ、次に種類と技法の奥深さに
惹きいれられてしまうのではないでしょうか?精魂こめて作られたレース、夥しい時間と労力、そして
智恵と工夫によって一本の糸が素晴らしいレースになっていくのはまるで魔法のようで、一つ一つのア
ンティークレースとの出会いにときめきを感じながらコレクションをしてきました。
アンティークレースの歴史には大きな2つのピークがあります。ひとつは18世紀、様々な産地が競
い合い、技巧の極致とも言える緻密で繊細な王侯貴族のためのレース、ふたつ目は19世紀の産業の発
展により花開いた、華やかでロマンティックな女性のためのレースです。
1. 18 世紀、技巧の極致
レースの起源は皆様ご存知のように諸説あります(ちなみに日本に「世界最古」と推定される奈良時
代のニードル・レースが唐招提寺に所蔵されています)。布を繕ったり、刺繍をしたり、多くの人々の
長い年月の様々な工夫の積み重ねを経て、16 世紀リネン糸を材料にレースが生まれ、ベネチアそしてフ
ランス、ベルギー、スペインその他、ヨーロッパ諸国に広まっていきました。17 世紀から 18 世紀には
王侯貴族の富と権勢を示すために宝石よりも高価なレースが用いられ、一国の経済をも脅かすため、何
度も禁止令が出され、密輸、自国のレース産業の奨励など、ヨーロッパの国際関係や産業の盛衰とも大
きく関わっていました。そして 18 世紀のレースは、より緻密に繊細に、技巧の極致を迎えます。
ボビンレース 2 種類、ニードルレース 2 種類を拡大図でご覧下さい。
バンシュ BINCHE
Snowball(snowflake) ground
メヘレン MECHLIN(メクリン、マリーン)
fond neige
armure
ground
fond d’armure
(Partridge eye and armure)
アルジャンテラ
ARGENTELLA
ポアンドセダン POINT DE SEDAN
2. 19 世紀
甘美な夢
その後、シンプルな衣装(モスリンに刺繍したものなど)が流行し、フランス革命をはじめとする宮廷
文化の失墜、産業革命による中産階級の台頭、機械編みレースの普及により手編みレース産業は衰退し
ました。しかし 1830 年ごろから新たな流行のクリノリンスタイルと共に、女性のための華やかでロマ
ンティックなレースという新たなピークを迎えます。フランスのユージェニー皇后やイギリスのヴィク
トリア女王(ホニトンのウェディング・ドレスとヴェールは 36 人の職人が1年半かけて完成)の庇護
や、ルフェビュール(バイユーの工房で機械では真似できないシャンティーリやアランソンレースを復
活)のような事業家の活躍もありました。ベルギーでもポアン・ド・ガーズ(1852年~)やデュセ
ス(ブラバン公爵夫人とレオポルド2世の結婚式に使われた)など素晴らしいレースが制作されました。
19 世紀のレースの扇の一部、ボビンレース2種とニードルレース2種をご覧ください。
シャンティーリ CHANTILLY
ポアンドガーズ
POINT DE GAZE
ホニトン
ブラノ
HONITON
Needle lace probably BURANO
3.18 世紀?19 世紀?
レースをコレクションしていると、美術館でもフランスのニードルレースをベネチアンと言ったり、
レースの専門家でもエルゲピルゲ Erzgebirge をポアンドガーズとして売っているのは仕方ないとして
も、19 世紀にコピーしたものを 18 世紀のポアンドネージュと言ったり、よくできたマシーンネットに
古いボビンレースがアップリケされているのを、すべてハンドメードとして売っているのもよく見ます。
このレースはアルジャンタンとして売られていたものですが、18 世紀のアルジャンタンを模して
1880 年代イタリアのブラノレーススクールでつくられたもの、中央部のネットはブラノ独特のはしご
状の四角いものです CLARE BROWNE”LACE FROM THE VICTORIA AND ALBERT MUSEUM”の
Plate83 と同じパターンです。
アイルランドやブラノではレースが飢饉時に多くの人の苦境を救ったのは有名です。1872 年の極寒の
冬、漁師が多いブラーノ島付近のラグ-ナが氷結し、漁ができなくなり、飢饉に瀕しました。のちにマ
ルゲリータ女王 Queen Marguerita が学長となったブラノレーススクール La Scuola dei Merletti di
Burano は、アドリアーナ・マルチェッロ伯爵夫人 Countess Adriana Marcello が、70 歳を過ぎていた
が、ブラノ Burano point の技術を維持していたたった一人の老女、チェンチア・スカルパニーレ Cencia
Scarpanile を見い出し、教師であったアンナ
ベレリオ
デステ Anna
Bellorio
d’Este がまず技
術を習得し、8 人に教えたところから始まりました。人数は1878年には250人に、1906年に
は770人になり、1972 年に閉校となるまで、ブラノレースの復刻だけでなく、アランソンやアルジャ
ンタン、ベネチアンやブリュッセルのニードルレースやプントインアリアなど、多種類のレースを作り、
1972 年に閉校となりました。
どうやって素晴らしいレースを作ってきたのでしょう。G.M.URBANI DE GHELTOF 著 A TECHNICAL
HISTORY OF THE MANUFACTURE OF VENETIAN LACE にスクールの構成が詳しく書かれていました。1888 年
当時 320 人が7部門に分かれ、分業制で大きなピースも様々な種類も作られていたそうです。
1.15 人
デザインのアウトラインを準備
2.60 人
針で小さな四角い地をかがる
Burano point と Point d’Alencon,Ancien point de Bruxelles の部分
3.25 人
小さな丸い地を作る
Point d’Alencon, Point d’Argentan
4.100 人
縁取りと花を埋めるステッチをする。
5.80 人
レースをつなぎあわせ、花を立体的にする、仕上げの部門。各部門の習熟が前提。
6.10 人
パターンから外し、きれいにし、商品にする準備
7.結婚するなどで、家のことで独身の人のように働けない人の部門
ただ一人の技術がこうして多くの人に受けつがれ、生活を潤したことはとても感動的ですが、あまり
にも上手に作られているので、後世の私たちがアンティークレースの年代や製作地を推測していく上で
の悩みの種の一つです。
レースが一国の経済も左右するような時代、技術は門外不出、こうして OIDFA 世界大会で集えるこ
とは想像もできなかったでしょう。レースが大輪の花を咲かせた19世紀から 100 年以上たち、苦難の
時代を経て、各国でレースが受け継がれているのを目の当たりにできることはとても幸せです。
共に展示されているルシアンの素晴らしいアンティークレースコレクションは、機械レースのメーカ
ーが製品を作る資料として保有している代表的なコレクションの一つです。
個人のコレクターである私は、今回のような展示やインターネットを通じて、レースを手作りする方
たちのインスピレーションの源の一つとなるようなコレクションを、作っていきたいと思っています。
市川圭子